研究史ノート (小林文人)           TOPへ戻る
   *じんぶんヒストリー(1〜7)■        
                               
<目次>

1,沖縄研究(1976〜)
  沖縄問いかけ(1993) 字公民館(2002〜)  やんばる対談
2,大都市社会教育研究と交流の集い(1977〜)大都市研究の系譜・回想(2021年〜)→■
3,杉並の公民館・原水禁運動・安井家資料研究・記録(1980〜)
4,東京三多摩の社会教育研究(1970〜)  三多摩・社会教育の歩みシリーズ(1988〜1999)

5,東京の識字実践1992・第二次識字マップ調査報告(1992)  三多摩テーゼ→■
6,社会教育法制・地域定着研究
(1995年 九州メッセージ(1993)→■
7,社会教育研究室外史・ゼミの空間(1995 学芸大学)
 教育系大学再編生涯教育(1988)
8,TOAFAEC創設(1995〜)
TOAFAEC20年 (年報 2015年)→■
9,「南の風」創刊(1998年)→■  風・発行一覧(1998〜2022終刊)
,
10、東アジア−新しい地平(年報16号、2011)、専門職と市民(年報17号、2012) 
11,東京学芸(1995)和光(2002)最終講義
  大学と地域の出会い(和光,2000)→■
12,留学生との出会いと交流(1980年代〜)、東アジア研究の展開(2011)
13,第5世代・地域創造型の公民館→■  集落・小地域(都市)・自治公民館(2002〜2005)

14、公民館60年の歩み(公民館学会) 公民館諸研究ページ
→■
15,日本公民館学会@前史、A学会創立10周年記念講演(日本公民館学会、2007、2013)
→■
16、東アジア(日中韓)出版活動(2003〜201→■、TOAFAEC年報発行(1996〜2022)→■
17, 『社会教育・生涯学習辞典』(朝倉書店、2012) @編集10年回想, A学会紀要2013本ページ
18, TOAFAEC の歩み回想・1〜10-覚書(「南の風」記事ほか、2015年)本ページ
19, 東アジア教育改革-1990年代躍動(年報22・特集「総論」)2017→■
20, 「躍動する韓国の平生学習が示唆する−平生教育立法運動」2017→■
21, 公民教育と公民館構想書評(上原直人『近代日本公民教育思想と社会教育』2018)→■
22,
東アジア的観点からみた学校と地域の連携(韓国世宗市、2018)本ページ
23, 日本社会教育学会への期待(創立70周年、2024)本ページ
24,




2007年6月・福井にて(20070614)




17−@ 『社会教育・生涯学習辞典』(朝倉書店、2012年)編集10年の回想・記録  
                              *「南の風」(2962、2966、2969、2973、2980号など)


 <辞典・2012年11月に刊行決まる>  南の風2961号(2012年9月27日)
 2012年9月の慶事。… 加えて、10年越しの難事業「辞典」づくりが最終段階を迎え、2012年11月には刊行される見通しがはっきりしました。9月24日は朝倉書店で最後の「編集幹事会」でした。…本号はすでに紙数なく、次号に書くことにしましょう。

(1) <回想(1)−モンゴルの草原から(2002年〜)> 南の風2962号(2012年9月29日)
 『社会教育・生涯学習辞典』(朝倉書店)の刊行(11月末の予定)が確定しました。編集委員30名、執筆者約320名、収録した項目は約1500、出来あがりは 600頁をこえる大著となる見込み。南の風メンバーからも多くの方が執筆に参加くださり、有り難うございました。これまで刊行が遅れたこと、まずお詫びを申しあげなければなりません。
 ある程度の覚悟はあったのですが、これほどの難事業とは思いもしませんでした。かなりの歳月を要することは予想していましたが、10年にわたる取り組みになろうとは想像していませんでした。
 この機会に簡単に辞典づくりの歩みを(南の風の歴史とも重なりますので)振り返っておくことにします。「辞典」づくりの話が具体化するのは、なんと内モンゴル草原での、とりとめない世間話からでした。
 2002年9月の内モンゴル行き。この旅では和光大学ゼミ学生など一行と、宗慶齢基金による訪中団(日中友好協会など)一行が、北京から赤峰への寝台列車で乗り合わせた偶然、そして4日間ほど草原の旅を一緒に過ごした(ゲルにも川の字で寝た)奇遇がありました。前者の引率者は小林、後者の代表は歴史学者・阿部猛氏(元東京学芸大学学長)。阿部学長の時代に小林は同大学の学生部長198083年)、当時まだ残っていた学生運動に対峙して苦楽をともにした仲(4年間)でした。
 草原の旅は、ゆっくり時間が過ぎていきます。二人で問わず語りに昔の苦労話を楽しみました。そのなかで「社会教育の辞典をつくりたい」という当時(1980年頃)の小林の宿望を憶えていてくださったのです。「その後、沖縄研究は進んでいる?」「辞典づくりはどうなったの?」など。「学会30周年事業でも辞典編纂はできなかった」「なんとか辞典づくりを実現したいものです」。そんな会話が続きました。  *→■モンゴルへの旅 記録・写真

(2) <回想(2)−朗報、張り切って・・・(2003年〜)>南の風2966号(2012年10月4日)
 2002年9月の内モンゴルの旅から帰って、阿部猛先生はすぐに朝倉書店に小林のこと、「社会教育辞典」構想のことを話してくださったようです。朝倉書店・編集の笠間敬之さん(常務・当時)から電話がかかってきて、新宿でお会いしたのが(記録によれば)10月9日、丁度10年前になります。
 「…何かいい話をお持ちとのこと、阿部先生から聞きました。」そんなご挨拶から始まりました。その前年に出版した『世界の社会教育施設と公民館』を持参していた記憶あり。「事典」ではなく「辞典」をつくりたいこと、本格的な社会教育辞典は本邦初!などとお話しました。熱心に聞いていただき、それから頻繁なメール往復。構想企画書を出したり。また末本誠さんなどに相談を始めたり…。笠間さんも2ヶ月あまり猛勉強。
 12月に入って朗報。「…弊社の企画検討会議があり、辞典の件を提出いたしました。結果は、新しい分野だが、社として正式にお願いしようということになりました」(笠間氏)と。スタート地点に立ったわけです。凸凹道が待っているとも知らず・・・、張り切って2003年からの作業が始まりました。
 ほぼ毎月、朝倉書店に集まってあれこれの議論。担当・野島薫さんの速射砲のようなメールが入るようになりました。最初は数人で、そのうちに「編集幹事」7人が確定。2004年になって、各専門分野からの30人の編集委員をお願いすることになり、9月の日本社会教育学会(同志社大学)会場で「社会教育・生涯学習辞典」編集委員会が開催されました。いろんなエピソードがありますが、省略します。
 取り上げる項目の検討・精選、執筆者の選定・調整、約1500項目について約300人の専門家に「辞典ご執筆のお願い」状を発送したのが2006年1月のことでした。すでに足かけ4年が経っていたことになります。
 この間、ぶんじんはギックリ腰 ふくらばぎの肉ばなれ=断裂など、思わぬ怪我に悩まされていました。

(3) <回想(3)ー原稿督促、リライトなど(2006年〜)> 南の風2969号(2012年10月9日)
 2006年からの辞典原稿執筆の過程では、いろんなドラマが待っていました。当時のこと、まず脳裏をかけめぐるのは、原稿の遅れと督促作業、校正ゲラの回収も容易ではなかったこと。もちろん一部の方のことですが…。月刊誌等の原稿だと執筆する側に期限への意識があり、督促も急をつげる迫力があるのでしょうが、辞典だとそうもいきません。加えて執筆者は320人を超える陣容、やはり、たいへんなことです。朝倉書店担当(野島薫さん)の奮闘にあらためて感謝あるのみ。(いろいろ有りすぎて・・・このことはこれ以上書かないことにします。)
 関連して、頂いた原稿のリライトのこと。学会の年報・紀要類では原稿の修正はむしろ控えるのが基本です。辞典では"てにをは"を含めて、用語・訳語の統一や調整の必要もあり、編集委員会としてリライトへの努力が求められます。書き方として概念・意義を確定する文章が期待されます。リライトをお願いして、不快な思いをされた執筆者もあったと思われます。
 また訳語をどう調整するか。たとえば「フォルクスホッホシューレ」について。国民高等学校、国民大学、民衆大学、あるいは市民大学などの訳語いろいろ。そしてデンマークやドイツの歴史事情の違いもあります。訳出の歴史的な流れも大事ですから無理な統一は避けましたが、一部リライトをお願いした経過がありました。
 この10年、何よりも忘れられないのは、執筆者のなかに病に臥された方があり、なかに亡くなられた方もあったことです。お見舞にうかがった病室にパソコンを持ちこんで原稿執筆をされていた姿。その原稿は文字通り絶筆となりました。心をこめて校正にあたった思い出も鮮烈です。

(4) <回想(4)−山と谷を越えて> 南の風2973号(2012年10月16日) 
 辞典の編集作業、当初はまず「編集幹事」(3人→7人)による論議から始まりました。2003年から2004年にかけて約1年。30人の編集委員会が発足するのはその後(2004年9月)のこと。2005年に大きな展開となりました。この時期は、ちょうど日本公民館学会が発足・始動したころ。辞典づくりと学会づくりの二つの歴史に関わることができた幸せ(そして多忙)を噛みしめていたことを想い出します。
 事(こと)典でなく辞(ことば)典なのだから、なにより第一の作業は、収録すべき「ことば」、概念・語句・用語をどう拾い出すかがポイントです。幹事集団で当初500〜700を目標に、社会教育・生涯学習に関する重要項目の拾い出しが始まりました。大事な語句をどう確定するか。関連する領域への拡がりを意識しながらの作業は、思いのほか楽しいゼミ。
 そのうち語句の羅列ではなく、領域(実践領域)を縦軸に、分野(組織過程)を横軸に設定して、いわば項目群の体系・構造表が作成されました。縦と横が交差する各欄に語句を落していく作業(そんな記憶)。この表は完璧なところまで仕上がりきれませんでしたが、その後の辞典編集を進めていく土台となったように思います。ゆっくりと時間をとって、朝倉書店には迷惑をかけました。
 30人編集委員会が動きはじめて項目(候補)数は1500となり、幹事集団の拾い出し語句を加えて2200を超える水準へ。その調整と精選、新しい追加等を含めて、最終的には約1500項目が確定。各領域ごとに執筆者への交渉がすすみ、正式の執筆依頼(2006年1月)へ、という経過でした。320人の執筆者一覧・エクセル表での作業、朝倉書店・野島さんの奮闘、それぞれの執筆依頼状の発送。そのとき「辞典」への道程がくっきりと見えてきた思い。ひと山越えた!という実感でした。たしかどこかで乾杯したような…。
 【歌の工房】古いノートにメモがわりに残していた戯れ歌から二つほど。
◇新しき本を編まんと気負いつつ 今なお断崖を登らんとするか −2004年1月6日、辞典づくり−
◇山や谷越えて便りは届きけり 花咲く丘への道あかあかと −2006年1月20日、朝倉より執筆依頼状−

(5) <回想(5)−東の空は茜に映えて>  南の風2980号 (2012年10月31日) 
 2006年の執筆依頼からすでに6年が経過しています。いろんなことがありました。一部には予定の原稿が入らず、あるいは校正ゲラの戻りがなく、催促の言葉も尽きて・・・まわりの助っ人メンバーに急ぎ対応をお願いする場合もありました。水面下の見えないサポート、あらためて縁の下の力持ち集団の皆さんに深い感謝!です。とりわけ特記したいのは、終盤のほぼ1年、辞典収録・全項目について英語表記を完成させた、末本誠さんを中心とする神戸大学研究室の皆さんの尽力!
 今年(2012年)は辞典出版の確たる見通しがつき、小さな作業も苦になりませんでした。たしか9月はじめの暑い日、朝倉書店から重い包みが届きました。辞典原稿をアイウエオ順に並べた最終・ソート校。それまでは個別の原稿を読み、あるいは執筆者別のゲラを見てきました。初めてア〜ワまでの辞典構成で綴じられた全原稿ゲラの包みを手にしたのです。あの日の感激は忘れられません。「辞典」だ!・・暑さを吹き飛ばす一瞬でした。
 9月はこの最終ゲラを通覧する毎日。600頁余、1500項目、完全ではありませんが、ほぼ全部に目を通しました。ほれぼれするような文章もあれば、なかに手を加えたくなる原稿も(ジッと我慢!)。苦しい最終作業を覚悟していましたが、項目が進むにしたがって、なんとも言いようのない幸せな気分、充実感、達成感に満たされていく日々でした。私たちが悪戦苦闘している「社会教育・生涯学習」という領域が、これほどの「ことば」の拡がりに、多彩な概念や方法のこれほどの豊かさに、充たされているのだという感動を味わうことができました。
 10年の歳月は短いものではありません。この間にある方は結婚され、ある人は就職し、あるいは定年で退職されました。前にも書いたように鬼籍に入られた長老もあります。ともに苦労した末本誠さんは、昨年秋に入院、私も付き合って今年5月に同じ病の治療をしました。二人とも経過は良好。退院すると朝倉書店・野島薫さんの連絡メール・送付ゲラが山積みになって待ち構えていたことも、今は懐かしい想い出となりました。ノートの切れ端から、例によって拙い歌を二つほど。
 【歌の工房】6月20日未明(退院・経過良好、酒はまだ控えるべしと。)
◇思いを残し逝きし人の絶筆ならん 襟をただして校正をする
◇病癒え筆とり直しゲラを読む 東(あがり)の空は茜(あかね)に映えて

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(6) <『社会教育・生涯学習辞典』刊行成る!> 南の風2994号 (2012年12月3日) 
 …さて、待望の『社会教育・生涯学習辞典』(同・編集委員会編)が予告通り11月30日に刊行されました。誕生ホヤホヤの新刊1冊、朝倉書店から急送していただき、当夜のTOAFAEC 研究会で皆さんにご披露。同じ本を翌日の日本公民館学会々場にも運んで見本展示することができました。手打明敏さん(筑波大学、学会会長)は学会総会・冒頭挨拶で、新辞典を手にかざしながら、刊行成る!の朗報を。会場には編集委員・執筆者も少なくなかったからです。
 全674 ページ(和文・欧文索引45ページを含む)の重量感あふれる1冊。いい出来映えです。値段も重量級(18000円+税)。個人で買うのはなかなかたいへんですが、もしご希望の方があれば、送付先を含めてご一報ください。小林扱い(15%の著書割引き)として朝倉書店につなぎます。編集委員・執筆者への献本・特別割引きについては、直接に朝倉書店よりご連絡があるはずです。
 辞典づくりの10年は、ちょうど日本公民館学会創立(2003年)からの歩みと重なります。言うに言われぬ達成感に酔っています。ご協力いただいた皆様にあらためて御礼申しあげます。
 本邦初の「社会教育・生涯学習辞典」、まわりの図書館、行政機関、諸公的施設、大学・研究室などで購入いただくようご喧伝いただければ幸いです。




(7) <辞典・注文きわめて好調> 南の風3007号 (2012年12月26日) 
 …今年はいろんなことがありましたが、なにより『社会教育・生涯学習辞典』(朝倉書店)刊行がいい締めくくりの話題となりました。じんわりと評価が生まれてくる予感。「風」で著者割引き(15%割引き)のことを紹介したこともあって(2994号本欄)、いちいち載せていませんが、ぶんじん宛への注文もすでに10冊を超えました。
 朝倉・野島薫さんの話では、辞典・事典の類としては注文の出足はきわめて好調とのこと、ご同慶の至りです。高額な本ですから、個人購入をお願いするのは気がひけます。しかしもしご希望の場合はご遠慮なくお申し出ください(朝倉書店につなぎます)。まわりの図書館や公民館等にもぜひご推薦ください。
 辞典編集委員会(30人)とくに編集幹事会(7人)の方々に、本欄をかりてご報告ひとつ。辞典刊行に合わせて朝倉書店と私たち編集委員会(著作権者)との間に「出版契約証書」「編集料支払契約書」(相互調印)を取り交わしました。事務的に小林が代表となって一件書類は保管しています。編集料については初刷分は編集委員への献本分。しかし二刷以降は編集料として支払われる予定です。そのためにもぜひ二刷に向けて進みたいもの。ご声援ご協力のほどよろしくお願いします。2012年師走・年の瀬に。
◇ なにもせず「辞典」枕に眠りけり   ◇ 捨てきれぬ本にうめいて年の暮れ 

(8) <辞典・重版へ> 南の風3021号 (2013年1月19日)
 … 朝倉書店刊『社会教育・生涯学習辞典』が世に出てまだ2ヶ月たらずですが、重版(二刷)が決定しました。野島薫さん(朝倉・編集部)から編集委員会へ届いた朗報。
 「 … ご編集いただきました社会教育・生涯学習辞典ですが,お陰様にて注文の出足は好調で、返品の時期を待たずに在庫が不安な状態になってしまいましたため早々に重版(増刷,第2刷)になることが決まりました.嬉しい悲鳴で大変ありがたいです。」(Fri, 11 Jan 2013 18:14)
 南の風関連でも(執筆者以外に)ご注文いただいた十数人の皆様にあらためて感謝申しあげます。まわりの図書館や公民館にも推薦・リクェストなど働きかけくださっているご様子、これからの動きもまた期待されます。せっかく創った辞典、全国的に広く活用されることを願っています。
 藤岡貞彦さん(一橋大学名誉教授)からは、そのままここに書き写せないほどの祝辞・賛辞をいただきました。年賀状ではいろんな方から「よくぞ!辞典刊行!快挙というほかなし!」などお祝いを頂戴しました。それだけに、内容的にどのような評価が生まれてくるのか、これからが楽しみでもあり、いささか緊張もしています。将来の改訂のためにも、忌憚のない感想、批判、課題など(ゆっくりと)拝聴したいものです。

(9)<出版祝賀会−1月22日> 南の風3024号 (2013年1月24日)
1,報告1(伊藤長和)
 … お誘いを受け、久し振りに私は早稲田大学を訪れました。出版祝賀会の会場は、大隈記念タワー15階レストラン「西北の風」です。執筆者総勢323人、編集委員30人で,約1500項目を採り上げ、10年の歳月をかけて誕生した『社会教育・生涯学習辞典』は、昨年11月末に朝倉書店から出版されました。編集委員会代表の小林文人先生と末本誠先生の情熱、編集委員会の総力をあげての取り組みによって実現したのです。勿論、編集実務を担当された朝倉書店・野島薫さんの奮闘なしには、この本は陽の目を見ることはなかったでしょう。
 祝賀会は、新保敦子先生の呼びかけにより、東京の夜景の輝きを眼下に望む瀟洒なレストランで、野島薫さんをお招きして開催されました。大がかりな祝賀会ではなく、編集委員の皆さんによる、こぢんまりとした心温まる集いでした。小林・末本両先生のご挨拶、野島さんのご挨拶、そして伊藤の乾杯の発声で祝宴が進行しました。出席者全員のご挨拶も喜びに満ちており、この間の執筆督促、リライト、校正補筆、全項目についての英訳作業(神戸大学)などの苦労話も明るく生き生きとしていました。10年の歳月は、健康を害した方や他界された方も何人かいらっしゃるそうです。
 この辞典に向けては、多彩な執筆者が参加されています。項目が拡がり過ぎ、という批判も実際にあるそうです。しかし、社会教育・生涯学習の専門的な学問領域は、関連研究、周辺学問の広い領域と不可分の関係にあり、学会を超えた取組みが必要であって、学会だけではこの辞典を作ることは不可能であったろうとの発言もありました。同時に、これからの現代社会教育の創造のために学会の役割への大きな期待も語られました。
 異質の学問的専門領域との交流の必要性は、現代社会の探求のために重要であって、これを「学際」と言いますが、私も今回の辞典づくりは、まさに学際的辞典づくりで、歴史的画期的な快挙なのだと思うのです。皆さんがおっしゃった「5年後の改訂版」実現を期待したいですね。
 皆さま、長い間ご苦労様でした。〔出席者〕(敬称略)伊藤長和、上田幸夫、尾崎正峰、小林繁、小林文人、新保敦子、末本誠、瀧端真理子、辻浩、手打明敏、野島薫、増山均、矢口悦子。
2,報告2ー夢にみた夜(ぶんじん) 早稲田大学の正門ちかく、レストラン「西北の風」を会場として、「社会教育・生涯学習辞典」出版記念祝賀会が開かれました(1月22日夜)。当初の案では、関係機関や自治体にも呼びかけ辞典PRをかねた盛大な出版パーテイを!というイメージもありましたが、実際にはむしろ編集委員会を中心に苦労してきた仲間の慰労会、とくに編集実務にあたられた朝倉書店・野島薫さんへの感謝の会、和気あいあいの楽しい集いとなりました。刊行早々、2ヶ月も経っていないのに辞典重版が決まったなかでの、みんな笑顔のひととき。
 この夜は、まさに夢にみてきたお祝い会でした。10年の歳月のなかには何度か「これで、ひと山越えましたね」などと言いあう節目がありました。たとえば辞典収録の全項目(約1500)が決まり、予定執筆者(約320人)すべての方に「執筆依頼」を発送できたときなど。ささやかな乾杯をしたり…。しかしいつもその日から新しい作業が待っていたのでした。今回はそうではない!長い道程を歩き終えた日、“夢にみた今日”でした。
 辞典づくりのいろんな思い出話、編集作業の遅れにお叱りを頂戴したこと、この間に亡くなられた方への追憶など、宴はつきませんでした。今後に向けての改訂(10年後、いや5年後?)への意気込みも語られました。関西からご出席の編集委員もあり、寒い冬の夜、ご苦労さまでした。この祝賀会の準備・運営にあたられた新保敦子さん(早稲田大学)に感謝! 伊藤長和さんからは当夜の記録(上掲)が届きました。有り難うございました。
◇西北の風吹きわたるレストラン 良き友つどい5年後を約す

「辞典」(編集委員会)出版祝賀会、前列中央(朝倉書店)野島薫さん (早稲田大学・西北の風、2013年1月22日)



17−A
 <日本社会教育学会紀要・2013年度49-2 図書紹介>
 
 社会教育・生涯学習辞典編集委員会編『社会教育・生涯学習辞典』
       
(朝倉書店、2012年11月刊行)

    東京学芸大学(名誉教授) 小林 文人 


 社会教育・生涯学習に関する本格的な「辞典」の刊行は本邦初の試み、その企画から編集作業を経て出版にいたるまで、ちょうど10年の歳月を要した。編集委員会(30名)を中心に執筆陣は総勢323人、取り上げた事項は最終的に1441項目、A5版672頁(欧文・和文索引46頁を含む)の大作が2012年11月に完成した。
 本辞典刊行の意図について、編集委員会(幹事会)は次のように書いている。「…これまで社会教育の実践および研究として蓄積されてきた経験や知識を深めることを基本にしながら、生涯学習の広がりに目を向け、従来は取り上げられることがあまりなかった用語を集約し教育的な意味を確定することによって、社会に幅広く存在する「学び」の関係者が共有するツールを提供する…。」(辞典「刊行にあたって」)
 因みに編集委員会のなかで編集実務にあたった幹事会メンバーは、新保敦子、末本誠、辻浩、手打明敏、長沢成次、矢口悦子と筆者の7名であった。

 周知のように社会教育の展開は歴史的に多様多彩、ノンフォーマルな拡がりをもち、加えて国際的な動向からは、生涯学習、継続教育、成人教育、自己教育、あるいはリカレント教育、学習社会論など、関係する用語が躍動的に登場してきた。その中から重要な「ことば」を選び出し、相互に関連づけ、概念・用語・訳語としての意味内容を確定していく必要が痛感されてきた。おそらく教育学諸領域のなかでも社会教育研究に携わる者がとくに強く抱いてきた課題意識であっただろう。
 同時に社会教育・生涯学習は、自らの固有領域だけでなく、「社会」「生涯」に関わる多面的な関連・周辺の諸分野と連動し、しかもそれらが日々変化・発展する動きのなかで展開してきている。その拡がりと変動をしっかりと視野に入れて作業を進める必要がある。辞典編集委員会の構成は、せまく社会教育・スポーツ・文化だけではなく、ひろく環境問題、福祉、保健、看護、職業、労働、多文化、人権、マイノリティ、ジェンダー、協同などの諸領域を積極的にカバーしていく体制が必要であった。
 辞典づくりを振り返って、重要な概念・語句・用語の意味内容を "深める"ことと、関連諸領域の新たな地平へ"拡げる"ことの両面がいつも意識されてきたように思われる。一つの辞典へ凝縮する作業が果たして成功したかどうか。江湖の批評をお待ちしたい。
 本辞典構想の経過、委員会構成、語句の選び出し、執筆依頼、リライト、索引づくり等にいたる一連の編集経過は、その間のエピソードを含めて、別に私的回想「辞典編集10年」を書いたことがある。
(本ページ(1)〜(5))
 いまは紙数の制限あり、詳細を省略せざるを得ないが、辞典の企画段階から関わったものとして感想の一端を転載しておきたい。「… 2012年9月…、最終ゲラを通覧する毎日。…苦しい作業を覚悟していましたが、項目が進むにしたがって、なんとも言いようのない幸せな気分、充実感、達成感に満たされていく日々でした。私たちが悪戦苦闘している「社会教育・生涯学習」という領域が、これほどの「ことば」の拡がりに、多彩な概念や方法のこれほどの豊かさに、充たされているのだという感動を味わうことができました。」

 日本社会教育学会では、これまで辞典づくりのことが課題として論議されたことがあった。たとえば学会30周年記念特別年報『現代社会教育の創造』(東洋館出版社、1988年)「あとがき」には次の一文がある。「… 本書(特別年報)の編集刊行を基礎に、1988年以降、学会として『社会教育辞典』(仮称)づくりをすすめてはどうかという構想がくりかえし話題となったことを付記しておきたい。」「重要な概念・語句等の選び出しを視野に入れて作業を…」等と続いている。
 今回の辞典編集の企画が出版社(朝倉書店)との間で浮上したのは2002年末から2003年にかけてであったが、この時期、日本社会教育学会では学会創立50周年記念事業として「講座・現代社会教育の理論」全3巻(東洋館出版社)刊行企画がすでに進行していた。結果として本辞典は学会有志による編集委員会編として出版され、執筆者のうち約3割は会員以外の方にお願いすることとなった。

 辞典編纂の過程では可能なかぎりの努力を傾注したつもりである。この辞典にはすべての項目に英語表記を付している。中には英語にすることが難しい日本独特の用語もあるが、国際化の中、今後、英語で論文を書く機会が増えることを考え一つの試みとして示してある。もちろん課題も多い。用語選択の領域を拡張しようと試みたものの、正直なところ、社会教育的な説明としては不十分さが残る項目もある。これは改訂版で簡単に修正できるという類の課題ではなく研究全体の底上げが必要であろう。
 幸いにして、辞典刊行後の反響はきわめて好評である。この種の大型本としては予想以上の(出版社も驚くほどの)注文が寄せられ、日ならずして重版となった。今後、掲載項目の補充を含めて「5年後に改訂版をつくろう!」という意気込みも語られている。

17−B

 <社会教育の「ことば」に生命を吹き込む−『社会教育・生涯学習辞典』づくり−>
   
社全協通信 (249、2013年11月20日)   

  ちょうど1年前、『社会教育・生涯学習辞典』(同編集委員会編、朝倉書店)が刊行されました。社会教育の研究・実践・運動や、国際的な動向の中で、多様に紡ぎ出されてきた数々の用語、概念や方法、思想や政策などの「ことば」、その本格的な辞典づくりの試みは本邦初の大事業でした。編集委員会30人、精選された項目は約1500、執筆者320人余、10年の歳月を要しました。大作です(A5版672頁−欧文・和文索引46頁を含む)。
 社会教育の領域は、ノンフォーマルな活動を含み、関連分野が拡がり、発展的・躍動的であると同時に、流動的な側面をもっています。「ことば」が十分に確定せず、あいまいになる場合も少なくありません。編集委員会の思いは、これまでの蓄積を確かめつつ、生涯学習の拡がりにも目を向け、大事な「ことば」の意味を確定することによって「…社会に幅広く存在する"学び"の関係者が共有するツール」(辞典「刊行にあたって」)を提供すること。幸いに刊行後の評価はおおむね良好、各方面で活用され始めているようです。
 社全協の実践と研究の運動は、これら社会教育の骨格にかかわる用語・概念の創出に参画し、展望を拓く「ことば」に生命を吹きこんできたと言えるでしょう。たとえば「共同学習」「学習権」「自己教育」「教育福祉」「社会教育計画」などなど。今回の辞典づくりで、私たちは多様多彩な「ことば」に囲まれている豊かさを実感しました。そして今後さらにその論議を深め「ことば」の充実につとめていく課題を痛感しました。
 社全協結成がら10年余の蓄積を基礎に、かって『社会教育ハンドブック』(1979年)を編んだことを想い出しています。その後『社会教育・生涯学習ハンドブック』と拡充され、いま第8版(エイデル研究所)。国際的な動きを含め、実践・運動を共有しようとする『ハンドブック』1冊には驚くべき「ことば」が収録されています。これに『社会教育・生涯学習辞典』を重ねれば、さらに体系的な理解につながるのではないでしょうか。




18、TOAFAECの歩み・回想
(1) TOAFAEC 20年の歳月−回想
  「東アジア社会教育研究」第20号・巻頭言 (2015年):→■
  
(2) TOAFAEC の歩み−回想・覚書として@〜I (「南の風」記事ほか、2015年
1、私たちの思い(年報『東アジア社会教育研究』創刊の辞・1996)別掲→■
2、「東京・沖縄・東アジア・社会教育研究会」提唱(TOAFAEC通信1「ひろば」1995)別掲→■
3、1998年頭・南の海を飛びながら−沖縄研究再開の思い(TOAFAECニュース13号)別掲→■
4、「南の風」創刊号、50号へ(1998年2月〜7月)
5、留学生との出会い、“東アジアの発見”(日中教育研究交流会議「年報」14号、2004)→■
6、上海閘北区・業余大学との合作学院づくり、構想実らず(南の風676号,2001年5月)
7、「小林国際交流閲覧室」(中日文人図書室)黄丹青「公民館の風」228号2001年11月)
8、東アジア社会教育・生涯学習の躍動−この10年(年報第10号・巻頭言、2005年)
9、「南の風」2000号のご挨拶(2008年3月8日)
10,、小さな集いの"大きな志"−東アジアに研究交流の新しい地平(年報16号、2011年)
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4、TOAFAEC・20年の回想−その4
 <「南の風」創刊号、そして50号へ(1998年2月〜7月)> 
○第1号【1998年2月 6日】沖縄研究再開について、台湾訪問
 みなさまへ。ここ1両日、相次いで神戸と佐賀からメールがとどきました。いずれも沖縄研究あるいは東アジア研究に関連するところあり、実験的にパソコン通信として配信してみたくなりました。小生は、とりあえず「南の風」通信と名のることにします。これはその記念すべき第1号です。
 ただし情報過多になるのはよくないので(小生の旧友のパソコン通信ネットは、1日に2〜3通来ますので、その弊害あり。読むのにたいへん!)、意見ください。迷惑であれば、ただちにネット配信は停止しますので。まず若干の小生のメールを記します。
1,神戸へのご返事。TOAFAEC 通信13の小生の拙文に早速反応していただいて有り難うございます。
 研究会は、「再開」なのではなく、実は東京では、この20年余り営々として「継続」してきました。(略)
2,関連して、鹿児島では韓国・黄宗建さんを5月に招く計画をもって…これに合わせて「沖縄研究」合宿
 を計画するのも一案か。(略)
3、佐賀へのご返事。台湾への旅、ぜひ動いてください。台中には、TOAFAEC 編集委員の陳東園がいま
 すので、連絡してぜひ。(略)
4,国分寺へ。2月20日、島袋正敏、中村誠司両氏の歓迎会の会場は決定しましたか。折り返しご連絡
 乞う。(以下、略) *bP〜50主要目次→http://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/kazeitiran2.htm
○第50号【1998年7月 3日】第50号記念、勝手に風は吹く
 [南の風]が50回となりました。吹きはじめが2月6日、それからちょうど五ヶ月、一月平均10回です。少し役にたったところもある?しかし他面まさに情報押売りの実態もあり、なかには辟易、顰蹙、困惑など感じられた向きも少なからず、この機会にお詫びしておきます。
 しかし、発行元としてはこの五ヶ月、かなり楽しんだことも事実。パーソナルに勝手に吹きたいという心情、だから、[南の風]同人のネットが多少拡がるにつれて、後半はかなり冷静?になって、逆にあまり面白くない? ときにふざけて、あけすけに心も開いてやっていきたい、など思って、あろうことか、拙劣きわまる戯れ歌などご披露する始末、正直なところ、誰か「恥ずかしいからやめろ」と言ってくれるのを待つ心境。はい。(以下・略)

5、TOAFAEC・20年の回想−その5
 <留学生との出会い、“東アジアの発見”>→■
     *日中教育研究交流会議「研究年報」第14号(2004年)
 … 留学生との交流の中で痛切に反省させられたことは、一衣帯水の東アジア諸国の社会教育・成人教育に関して、私たちがほとんど確たる知見をもっていないこと、また対話していく言葉・知識が不十分であることであった。彼らと出会って、私たちは歴史的・文化的に深い関係をもつ“東アジア”についての研究視点をもつ必要を自覚させられたといえる。
 1993年・小林ゼミ(東京学芸大学大学院「社会教育施設研究」)では、公民館研究から法制研究へと関心が拡がり、研究室共同の取り組みとして『東アジアの社会教育・成人教育法制』に関する報告(B5版、138頁)をまとめた。その「まえがき」には、「ヨーロッパに関する知見に比べて、なんとアジアのことに無知であるかを反省させられた」こと、「社会教育における“東アジアの発見”」について記している。この報告書は、わが国最初の東アジア諸国の社会教育・成人教育法制に関する体系的な報告ではないかと自負している。留学生と日本人院生・研究生が協同して取り組んだ作業であった。(中略)
 歳月の経過とともに研究室を巣立った留学生の輪が東アジア各地に拡がっている。20年の歳月は、社会教育・成人教育を共通のテーマとして、海を越える交流を蓄積してくれた。もちろん音信不通もあり、そのまま在日している人たちもいるが、大半は東アジアの故郷・各都市に帰っていった。北京、上海、広州、あるいはソウル、釜山、台北などにおいて、それぞれの立場で活躍している人が少なくない。この拡がりを「桃杏四海」と形容する人もある。嬉しいことである。もちろん在学中の出会いが主な契機となるが、むしろその後の研究室との付き合いが大きな意味をもっている。この間に研究室出身以外の人々との新しい出会いもあり、研究室は歳月を重ねての交流・結節の継続的拠点となってきた。
 私たちのささやかなネットワークから、いろんな企画や挑戦の試みが生まれ波紋を広げてきた。研究交流、国際シンポジウム、講演会、出版物企画、学校づくり、文庫構想などなど。企画倒れもあるが、いくつか結実したものもある。
 とくにこの10年来、激動渦巻く現代都市・上海市の成人教育関係者や華東師範大学との研究交流が一つの潮流となってきた。なかでも上海市閘北区「業余大学」の合作による中日学院づくりへの挑戦は興味深い展開であった。いつまでも忘れないだろう。両者をつなぐ媒介役を担ったのは、かっての東京学芸大学留学生の二人(羅李争と袁允偉)であった。…以下、略…

6、 TOAFAEC・20年の回想−その6
 <上海・閘北区業余大学との合作学院づくり、構想実らず>
          *南の風676号(2001年5月10日)
 … ながく教育の仕事にたずさわってきたものとして、いい学校を創りたいという思いは誰しも一度はもつものだろう。しかし日本では(土地問題もあって個人では)とうてい実現の見込みはない。ところが中国では、改革開放政策の進展があり、また1990年代「社会力量弁学」の動きもあって、可能性があるのではないかというのが、この間の「合作学院づくり」の夢を抱く背景であった。事実、広州市の関係者と学校づくりについて具体的な協議をしたこともあった。1993年から94年にかけてのことである。
 1994年11月、上海第二教育学院(当時)で「日中大都市社会教育研究集会」が開かれ、招聘されて上海に渡り、その夜の語らいの席で羅李争(東京学芸大学大学院卒)や上海市閘北区「業余大学」関係者との間で合作学院づくりの話が始まった。小林は東京学芸大学の退職金を一部拠出する、日本・中国の社会教育関係者相互の自由な研究交流の場をつくる、TOAFAEC 活動のネットワーク拠点とする、そんな夢がその後にも次第に膨らんでいった。1995年12月27日、合作学院の構想として、上海に次の構想を書き送った記録が残っている。
1,活発な精神と、学習・研究の自由を尊重する。(自由の精神)
2,社会的不利益者を含めすべての民衆に開かれた学校。(万人の学習権保障)
3,緑あふれ、花咲きほこる美しい学校。(恵まれた環境)
4,利潤を求めず、しかし経営的に持続する。(非営利の経営)
5,社会教育・成人教育に関して中国と日本の研究交流と親善に寄与する。
  (日中友好、東アジア社会教育研究ネットワークの形成)
 初期の学院名称案は「上海市中日文人学院」。その後、紆余曲折を経て、意向書、契約書、定款案などが作成され、その都度の調印も行われてきた経過は、「南の風」で折りにふれて報告し、またTOAFAEC ホームページに収録している通り。合作学院の名称は個人的ニュアンスを脱する方向で、「宏文」学院と修正された。
https://secure02.red.shared-server.net/www.bunjin-k.net/tyuugokuhyousi.htm
 この6年間の経過をここに詳述する必要もないだろう。最終的に「すべて問題はない」として、正式文書の調印と交換(2000年11月)が行われたことも「南の風」で報告してきた(第579・580号)。
 「やれやれ、やっとこれで一段落か、といった感じです。中国とのお付き合いは少々時間がかかりますね。」(同・579号)と書いたことも想い出される。
 しかし今回五月の上海訪問のなかで、この合作学院の構想は、今後進展が見込めないことが分かった。上海市閘北区業余大学関係者による私たちの歓迎会の席で、王鴻業学長より「まことに申しわけない、合作学院の成立は見送らざるを得ない」という判断が報告された。
 これまで学院づくりにかけてきた双方のエネルギー、とくにその間にあって連絡・調整・翻訳などの労をとってきた羅李争や袁允偉のことを考えても、まことに残念至極!(以下、略)

7、TOAFAEC・20年の回想−その7
 <「小林国際交流閲覧室」(通称・中日文人図書室)開幕−黄丹青>→■
         *小林「公民館の風」228号(2001年11月8日)
 … 上海閘北区の新社区大学・行健職業学院に実現した「小林国際交流閲覧室」のいきさつを簡単に紹介しましょう。
 ご存知のように、小林先生と閘北区業余大学(9月から上海行健職業学院に変身)との5年越しの合作学院の話が流れてしまい(南の風 第676号「合作学院の構想実らず」参照)、その後、9月には中国側から図書室をつくりましょうといった内容のメールが送られてきた(南の風 750号)のはご承知のことと思います。
 これについても話し合おうというつもりで今回訪中した小林先生ですが、到着した10月9日夜の歓迎会で、翌日に図書室の除幕式があると聞かされ、さすがに驚いた様子(「もう何が起こっても驚かない」と言っていましたが…)。
 どうも学院側は、小林先生の好意がなかなか実らないことに心を痛めて今回の訪中で長年の懸案を解決しようと前の晩に急遽決めたとのこと。前日9日に看板を注文、それをかけ、図書室・室内を整え、大忙しの一日だったようです。
 10月10日に閘北区教育局の「社区教育」報告を聞いた後、院長や党書記、関係者の立会いのもと、会議室で「小林国際交流閲覧室」除幕式が行われました。また小林先生が新社区大学・行健職業学院客員教授と図書館名誉館長として迎えられ、その招聘状の授与式も同時にありました。
 同行の先生方から「よかった、よかった」と言われながらも、あまりにも急なことで、小林先生はまだ少し腑に落ちない様子。…「生米作成熟飯」(生米のままご飯になってしまった)。話は徐々にどのような閲覧室にするかへ移り、先生からは、社会教育、法制関連の本を送るとか、羅さんからはノートパソコンを購入し、そこで学生が世界とくに日本の最新情報を手に入れられるようにするとか、さまざまな案が面白く出されました。その中で、日本の音楽をバックに、川崎や東京・大阪、沖縄など自治体の社会教育関連の資料を置いてはどうか、という話も出ました。
 蘇州から上海へ帰る途中、行健学院は社区の学校として会議室や図書館を地域に開放するのだから、この「国際交流閲覧室」も地域社会に開放し、そこへいけば日本の地域・社会教育情報が閲覧し交流できるようなところにしようと、構想はさらにふくらんでいきました。…
 さらに、図書館長から来年はぜひ社区教育祭りの一環として、図書館で講演をしてほしいと言われました。どうも10日の先生の学生たちへのスピーチが大変好評で、学生記者による報道により教師たちからも「知っていれば聴きに行きたかった」と言われたそうです。(以下、略)

8、TOAFAEC・20年の回想−その8
 <東アジア社会教育・生涯学習の躍動−この10年(小林)>
   *『東アジア社会教育研究』第10号巻頭言(2005年)
 … 毎年、九一八の日を期して発行が重ねられ、いまここに待望の第10号を完成させることができた。
 沖縄社会教育研究から30年、東アジア社会教育研究から10年。これまでの歩みを振り返り、ようやくここまでたどりつくことができたか、という感慨ひとしおである。この間ご支援をいただき、ご協力をたまわった皆様に、まずは心からの御礼を申しあげたい。この場をかりて、苦労をともにしてきた研究会同人、とりわけ本年報編集委員会、同事務局の皆さんに深く感謝したい。
 本『研究』創刊当初は、何号まで継続できるか、まったく自信がなく、「いわゆる3号雑誌におわらないように」などと話しあった経過もある(第3号・巻頭言)。10号までの刊行を持続できたことの背景には、“東アジア”という新しい舞台と、そこにおける社会教育・成人教育・生涯教育の現代的な潮流、その新しい展開があったからである。私たちのこの10年は、おそらく後々までも記憶されるであろう“東アジア”社会教育の“激動の10年”と重なっている。…(中略)…
 さて、本号は10号記念号として、やや長めの <巻頭言>となることをお許しいただきたい。東アジア・社会教育における“10年の激動”とはどういうことであろうか。10号の歩みを総括的に振り返りながら、いくつか歴史的な特徴を取りあげておこう。
 第一は、言うまでもなく旧来の社会教育の流れに加えて、新しく生涯教育(生涯学習)に関わる具体的な施策が胎動し始めたことであろう。…(略)
 第二は、この10年は、生涯教育・学習についての積極的な法制化への挑戦がみられた。…(略)
 第三は、1990年代の、とくにその後半における東アジア各国・地域における地方自治・分権の新しい躍動がみられた。…(略)
 第四は、自治・分権の潮流とも関連して、「社区」(コミュニティ)の視点にたった活動・学習が展開されてきたことである。いわば地域主義的な社会教育・生涯学習の実践は、これまでにない住民活動、市民運動、地域づくり、ボランテイア活動、NPO運動等と連動する側面をもたらしている。…(略)
 私たちの研究会活動と年報刊行は、このような東アジア社会教育・生涯学習をめぐる“10年の激動”を背景とし、その動向を追いかけ、歴史的な意義を確かめる作業をしてきた思いでる。重要な研究テーマと出会うことが出来、私たちのこの10年は、たいへん幸せであった。
 この間には、関連して『おきなわの社会教育−自治・文化・地域おこし』(小林・島袋正敏編、エイデル研究所、2002年)、『現代社区教育の展望』(小林・末本誠・呉遵民編、中国語版、上海教育出版社、2003年)を上梓する機会に恵まれ、いままた『韓国の社会教育・生涯学習』(黄宗建・小林・伊藤長和編、近刊予定)の企画が進行中である。これらも10号にいたる編集・刊行とそこで育くまれてきた研究ネットワーク(定例研究会110 回を含む)に支えられてきたところが大であった。いまだ充分な結実には至らないが、幾つかの成果を生み出してきたと考えている。…(以下、略)…

9、TOAFAEC・20年の回想−その9
 <南の風2000号のご挨拶(2008年3月8日)>
 この一文を書く日を夢見てきました。1998年2月に吹き始めた風、十年と一ヶ月で到達した2000号。いろんなことを思い出します。
 五年目の1000号のとき、あのころ併行して出していた「公民館の風」を休刊し、「南」だけにしぼって沖縄・東アジアの交流空間づくりの新たな一歩を踏み出すか、などと相談した夜。横にいた誰かが「2000号まで頑張れ!」と挑発したことを思い出しています。とてもそこまでは無理だ、というのが正直な気持ちでしたが、なんとか体も頭?も持ち堪えて、ここまで吹き続けることができました。
 最初から参加していただいた方々は、なんと十年の、しかも1日おきのお付き合い。よくぞ辛抱してくださった。迷惑メールの氾濫が始まって以来、何度も「風」を止めようと思いました。しかし皆さんの期待と激励、いや寛容と忍耐、に助けられて今日を迎えました。これまでのご愛顧に心から感謝しています。有り難うございました。
 これから「風」をどう吹くか。いまだに、考えが定まりませんが、まずは休刊にすることをお許し下さい。とくに、最近新しく参加された方々、この間、「風」を継続するよう激励していただいた方々(そのたくさんのメールを「風」に載せる号数がなく、残念!)、皆様のご期待に直ちに応えることができず、申しわけありません。
 しかし、1997号「これからの風をどうする?」にも書いたように、いくつも課題があることは確か。新しくやりたいこともないわけではない。ここで書くと、妙な決意表明みたいになってしまいますから、控えておきます。ちょっと立ちどまって、ひと休み。ゆっくりと次のステップを考えてみます。風として継続していくか、別のかたちか、1週間後か半年後か、まだ分かりません。
 好きな歌の一節、♪… 結婚は白い雲、これから〜どんな空を飛んでいくのか、それは成り行き風まかせ〜♪の気分。
 継続して、多少なりとも期待していただける方は、その旨のメールをお寄せいただければ幸いです。ゆっくりと、新しい配信アドレス・リストをつくることにします。
 いつもの調子、最後のご挨拶もまた長くなってしまいました。ここでお別れする皆様には、あらためて感謝申し上げ、ご健勝をお祈りします。

10、TOAAFAEC・20年の回想−その10
 <小さな研究活動の"大きな志">
 
*「東アジアにおける社会教育・生涯学習研究交流の新しい地平」
    −TOAFAECの活動を通して−(小林)
   『東アジア社会教育研究』第16号(2011)所収(抄録)
 … 研究通信「南の風」は、…もともとは小林の沖縄(南)研究の活性化を呼びかけたメイル通信から始まったものであるが、創刊時からTOAFAECの広報機能を積極的に担ってきた。毎年平均200号を配信、この13年余の歳月に2700号を数えている。当初は沖縄研究の同人誌的な通信に止まっていたが、数年の間に留学生を窓口に次第に東アジアへネットを拡げ、台湾、上海、北京、広州、烟台など、さらに韓国、最近は福建省へも拡がっていった。日中韓・三国フォーラム(2010年11月)や東日本大震災(2011年3月・別稿)など関連情報が集中するときは、ほとんど連日の「風」が(日本国内だけでなく)東アジア各地に配信された。ただし日本語版のみ、いまだ東アジア各都市の"点"を結ぶ段階であって、線や面の拡がりにはなっていない。国境を越えて社会教育・生涯学習の関連情報を共有していく速報的な役割は果たしているといえようか。発行リストは目次一覧のかたちで「東アジア社会教育研究」第3号(1998年)以降の各号末尾に記載されている。
 あらためてTOAFAECとしての東アジア・研究交流活動を振り返ってみると、次の五つの柱をあげることができる。この五つは特に規約や綱領の類に明記されたものではなく、15年余の実際の活動軌跡、その曲折の歩み・実録を整理したものである。あえて実現に至らなかった学校経営への挑戦も含めている。小さな団体の"大きな志"、ささやかな取り組みと歳月による思わぬ蓄積と言えようか。詳細資料は、すべてTOAFAEC ホームページに掲載している。https://secure02.red.shared-server.net/www.bunjin-k.net/toafaec.htm
(1) 日常活動としての定例研究会(原則として毎月開催−2011年8月まで175回を数える)、
 各種の集い(沖縄を語る会、対談・シンポジウム、歓迎・送別会など)
(2) フィールド調査(韓国、上海、沖縄など)、訪問活動、訪日団受け入れ等の親善活動
(3) 研究通信「南の風」発行 *ただし小林・個人通信の側面を併せもつ。
(4) 出版活動−A,年報「東アジア社会教育研究」、B,書籍出版(略)
(5) 学校経営の模索(上海・閘北区<旧>業余大学との合作学院の構想) 
  https://secure02.red.shared-server.net/www.bunjin-k.net/gassaku1997.htm *注(略)

19, 東アジア教育改革20年-1990年代の躍動
  (2017年・TOAFAEC年報『東アジア社会教育研究』22号・特集「総論」)→■

20, 「躍動する韓国の平生学習が示唆するもの−平生教育立法運動に関連して」→■

21、公民教育と公民館構想
   書評:上原直人『近代日本公民教育思想と社会教育―戦後公民館構想の思想構造』

  (大学教育出版社、2017年)、日本社会教育学会紀要・第54号(2018年)所収,小林→■

22,東アジア的観点からみた学校と地域の連携に対する展望  小林文人
 (第4回東アジア生涯学習国際フオーラム「学校と地域におけるマウル
  教育共同体の創造」所収、韓国世宗市・2018年11月2日)
  
 学校と地域の原風景
 東アジアの一角(日本・九州)に生きた個人的回想(1930年代〜)から物語を始めたい。農耕社会の暮らしのなかで形成されてきた地域・集落は、近代公教育機関として設置された学校を支える基盤となってきた。その歴史のなかで学校は地域の象徴となり、実質的な地域活動拠点として機能してきた。集落共同体だけでなく「学校区」が「地域」そのものとして重なってきた。たとえば学校行事(運動会など)はそのまま地域の行事であり、地域の活動・運営には学校教師が指導的な役割を果たす場合も見られた。教師は子どもたちの先生であると同時に、地域のリーダーと目されてきた。学校を核として地域が形成されてきた側面を見ておく必要があろう。もちろん都市・農村によってさまざまな状況がみられたが、学校と地域の、このような一体的な風景は、都市部においても同種の展開がみられたと言える。
 しかし1940年代の太平洋戦争下では、地域も学校もすべて戦時体制に統制され、戦争遂行に動員された。異常な国家主義的体制のなかに地域も学校も吸収され、都市部では多くが空襲被害によって焼失させられた。

 戦後の教育改革とPTA活動
 1945年以降、戦後の教育改革によって、徐々に学校は復旧し、また地域も復興していく。戦後初期は、戦争に疲弊し財政的困窮のため、公教育費は低水準に推移し、とくに六三三制(義務教育3年延長)を実現するため、教育財政の不足を補う地域からの寄付援助、父母による教育費の私費負担は常態化した。もちろん地域によって違いがあるが、1960年代後まで2030年にわたって父母負担は定着してきた。学校運営を財政的に補完する地域の役割は大きく、学校と地域の関係は財政的援助・公費の私費負担を媒介として深まるという事情であった。「公費で負担すべき教育費の私費負担解消」施策が登場(公教育予算増額)するのは、東京都の場合1967年のことであった。
 戦後の学校と地域の関係において新しく重要な役割を果たしたのはPTA(父母と教師の会)の活動である。PTAもまた行政主導で地域に下ろされてきた経過があり、ほとんどすべての義務教育諸学校に組織され、自治体ごとに、また全国的な連絡協議の組織も活発に動いてきた。主要には教育費地域負担の通路の役割を果たすPTAが少なくなかったが、他方でPTAの新しい活動風景が展開する。学校行事への父母参加だけでなく、教師との実践的な語り合い、親たちの学習・文化活動、子どもにとっての地域づくり、地域教育民主化運動など、学校と地域をつなぐ活動が各地で取り組まれてきた。教師にとっては父母・家庭・地域とつなぐ組織となり、父母側にとっては学校・教師との関係にとどまらず、子育てを軸とする初めての社会参加(たとえば子ども会活動)、市民としての地域参加、社会的な学びや多様な文化活動・機関誌編集など、さまざまな社会参加・社会教育・社会運動との出会いを経験する場となってきた。学校と地域そして社会を結ぶ組織として、PTAが果たしてきた役割は大きなものがあった。戦後の代表的な「社会教育関係団体」としての歩みを刻んできた。

 学校と地域をめぐる最近の状況
 1990年代から今世紀初頭にかけて、東アジアは(中国、韓国、台湾も)画期的な教育改革への躍動期であった。市民運動としての動きもあり、生涯学習時代へ向けての新しい立法運動が取り組まれてきた時代と言える。この間、日本はバブル経済崩壊後の「失われた20年」、財政緊縮と行政合理化(縮小)の施策のなかで、社会教育・生涯学習は停滞状況に低迷してきた(もちろん地域によって展開は異なる)。
 歴史的に地域の核となり、同時に地域に支えられてきた学校は、社会教育施設として機能する歩みがみられた。しかし戦後教育改革期の社会教育法制や施設(公民館等)の整備により、社会教育は相対的に独立・分離する傾向があり、いわゆる行政縦割りの弊害も生まれてくる。都市部では、学校の近くに公民館や図書館等の社会教育施設が設置されても、学校と有機的に連携し共同ネットワークを組むという状況を創り出すことができなかった実態もある。
 加えて地域それ自体の少子高齢化があり、地域行事や共同体的結合の衰退など活力の鈍化がみられる。活発なPTAのみずみずしい活動が後退し、組織の硬直化・形骸化が指摘されてきた。行政・機関・施設の縦割り分断の状況を克服し、地域的に横につなぎ、子ども・住民の立場から地域活動を活性化させていく必要がある。「地域を元気に」「地域力を再発見」する課題を追及していくべきであろう。行政・条件整備の充実を求めるだけでなく、地域それ自体の共同体的な再生と活性化をはかっていくこと、学校支援の視点だけでなく、地域支援の取り組みを考えていくことが社会教育・生涯学習の課題となってくる。

 いま何を求めていくか
 学校がいま管理と安全を求めて、かえって閉鎖的になっているのではないか。地域がいま世代継承の努力を忘れ、地域の活力を喪失しているのではないか。社会教育・生涯学習が「地域づくり」の視点を失い、独自の役割を果たしていないのではないか。私たちは子どもの多面的で豊かな発達とともに、大人・市民の暮らしを持続的に発展させていくために何をなすべきか。五つの視点から考えてみる。
1、社会教育・生涯学習における地域づくり・地域活性化の取り組み。市民・個人をげんきに
  するだけでなく「地域を元気に!」のテーマを追求する必要がある。

2、学校を地域活動の拠点に、社会教育・生涯学習の機能をもたせる。学校施設に住民の集い、
  多目的スペース、機関誌編集、ギャラリー・表現活動等の場を積極的に提供。
  (新潟県・聖籠町立聖籠中学校の事例)

3、学校の森づくり(学校の敷地の一角に「森づくり」。子どもの参加はもちろん地域住民も
  積極的に取り組む。故郷づくり。事例:山之内義一郎「森をつくった校長」
  (新潟県長岡市、2001年)、仙台市の事例

4、地域の文化の発掘・再発見(民話・昔話の収集、地域芸能、祭りと行事など)
   沖縄「名護民話の会」(各学年、朝15分の民話の時間、博物館が紙芝居を用意)
5、「実験学校」の試み

23,日本社会教育学会への期待―政策・実践の理論集団として
 学会が19549月・創立から70周年を迎えるとのこと。私は学会初代副会長・駒田錦一(九州大学)に紹介されて第7回大会(1960年)より関わったので、60年余の歳月を学会とともに歩んできたことになる。学会では、報告・発表だけでなく、資料集の作成、年報・紀要の編集等を通じて、論議をかわしつつ、文字通り学会に育てられ鍛えられてきた実感がある。いまなお学会の端っこに席をおいて、多くの刺激を得ている。
 その間に沖縄研究の流れから東アジア(中国・韓国もちろん台湾も含め)の生涯学習・社区教育等の研究にも携わってきた。振り返ればこれらも社会教育学会の活動に胚胎し、海をこえて拡がってきた歩みであった。1995年にスタートした私たちの「東京・沖縄・東アジア社会教育研究会」(TOAFAEC)も学会の活力なしには胎動しなかったことは確かだ。

学会が社会教育・生涯学習研究を通して、法制・行政・実践上の改革において果たすべき役割は大きなものがあろう。何よりも社会教育・生涯学習法制の充実・改革に理論的にどう寄与しうるか。社会教育法制の研究の意義は大きいと考えてきた。
 戦後改革期、社会教育法の成立(1949年)は画期的であったが、この時点ではまだ社会教育学会は誕生していない。寺中作雄は社会教育法について、こう言っている。「腺病質の」「難産の幼児」にたとえて、「適当な時期に手術を加え養護を尽く」すべきことを期待している(同『社会教育法解説』序、昭和24年 )。
 学会成立後に社会教育法「大改正」等の動き(1959年等)に学会側の積極的理論提起が行われた経過があるが、多くは具体化されず、公民館の条件整備等の法制改革は実現されないまま経過してきている。国の審議会等において学会の提起・研究成果等が論議され活用された例があっただろうか。生涯教育論の国際的普及のなかで、日本でも「生涯学習」振興整備の法制化(1990年)が注目されたが、国際的水準からみても、果たして評価に耐える法制になっているかどうか。韓国「平生教育法」の構成・活発な改正動向と比較して、その落差は一目瞭然である。
 社会教育法は、戦後日本に画期的な社会教育の計画・行政・実践を実現してきたが、同時に大都市部など膨大な空白地帯を生み出してきた歴史も忘れてはならない。社会教育法制「非定着」の定着が経過した中で、日本各自治体間の社会教育「格差」は大きな問題である。これら非定着・格差を実証的に可視化する課題は重大な研究課題であり、他方、作業の中で、先進的自治体社会教育計画の躍動も明らかになり、先進的自治体を拡大普及する課題もまた、学会が
社会教育学は政策科学であり実践科学のとしての側面をもっている。政策と実践の拡充に向けて理論的かつ具体的な提言が期待されている。社会教育学会は基礎的理論の探求とともに、政策と実践に向けての理論集団としての役割を果たすべきであろう。
退院して半年、じんぶんヒストリー1(20180727)




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