◆九州-地域・社会教育へ創造◆

                
*公民館・社会教育・研究史一覧→■


<目次>

1,社会教育をめぐる全国的状況と九州   「九州の社会教育実践」創刊号−(1993年8月)
2,地域の創造と社会教育の可能性

      小林文人・猪山勝利共編 『社会教育の展開と地域創造−九州からの提言』
        (東洋館出版社、1996年)第1章
→■
3,福岡市公民館史研究に関して(メモ)−九大・松田ゼミ報告書を読む
         
June 14 2003-九州大学・福岡)
4,福岡社会教育研究会への寄稿―2000年11月 「ドイツ・社会文化運動の活力に触れて」
5,日本の公民館・半世紀の歩みと大阪・関西の公民館−地域史が問いかける
                          (2002年、レジメ)

6,埼玉入間地区公民館研究集会「公民館に求められるもの」(2005、講演記録) →■
7,信州・妻籠公民館と町並み保存運動 (妻籠レポート15  南の風・2007年→■
8,







◆1、社会教育をめぐる全国的状況と九州   
    「九州の社会教育実践」創刊号−1993年8月・発行−  

                   小林文人(東京学芸大学)


1 はじめに−九州の“地域”と社会教育
 私は九州で、育ち、育てられ、いつの間にか社会教育研究を志すにいたった。
 しかし、大学院生から助手になった段階(1955〜62年)では、教育社会学、農村社会学(調査)が私の主要な研究領域であった。当時はよく九州の農村、山村、漁村を歩いた。はじめての本格的な学会報告は天草の漁村(地引網集落)と親族組織にかんする調査報告であったと記憶している。ようやく大学に職を得てはじめて担当した講義も教養課程「社会学」であった。その頃の私の研究視野のなかにはもともと「社会教育」はなかった。
 いくつかの経過があって(省略)そのうちに心は次第に社会教育の諸問題に傾斜していく。九州を追われ、東京に転じ、また九州に帰り、いまの職場を得て再び上京した頃(1967年)は、学会の付き合いは社会教育学会の方が多くなっていた。1970年代に入ると、当時の躍動的な地域の社会教育実践にふれる機会が多くなり、また社会教育推進全国協議会の活動に参加し、月刊社会教育の編集にたずさわるようにもなって、この時期に自分のライフ・ワークとしての社会教育研究をしっかりと見定めることができたように思う。
 「全国の社会教育と九州」などといったテーマを与えられると、私自身の“九州”にかかわる屈折の故か、つい回想風になってしまう。細かな自分史はまたいずれ別の機会にゆずるとして、しかしあらためてこのように振り返ってみると、社会教育を自己のテーマとしてまだ自覚的にもっていない当時から、九州の農村や山村を歩きまわる過程で、実はさまざまに地域の「社会教育」の活動や実践に、個性あふれるその担い手たちに、出会ってきたことに気付かされる。
 九州といっても私の行動範囲は北部九州、そして中部九州もせいぜい天草か豊後あたりまでである。地域調査に入っていくと、そこに必ずといってよいほど、面白い青年団の運動があり、また公民館の活動があり、あるいは集落の自治組織や祭りが生き生きと動いていた。小さな町や村が、それぞれ独自の地域史をもち、それなりの歩みで、住民の学習と文化の近現代史をもっていた。その間に、いま自治体の熟達のリーダーとなっている当時はういういしい青年団活動家との出会いや、今は亡き個性的な公民館主事のエネルギッシュな実践への参加・交流など、私にとって忘れがたい体験があり、そこから大きな刺激を与えられてきた。地域の調査や活動を通して、ごく自然に「九州の社会教育」との豊かな出会いがあったといえる。その出会いがいわば私の社会教育研究の出発点でもあったのだ。私は大きな潮の流れに導かれるようにして、いつの間にか社会教育研究の道を歩み始めていた。いまそのことを実感させられている。
 青年団や公民館だけではない。もちろん地域婦人会の活動もあったし、子育ての地域組織もあった。また公的な社会教育や関係団体とは異なる次元で、労働組合の文化・学習活動や地域のサークル運動もあった。この四半世紀、全国的なひろがりをみせてきた「子ども劇場」の運動は、私が住んでいた福岡のある団地の一角から産ぶ声をあげていた。今年七月に公刊された「花は野にあるようにー子どもの文化宣言‘93」(九州沖縄地方子ども劇場連絡会編・晩成書房)を読んで、心ゆさぶられるものがあった。「子ども劇場」という地域・文化・協同の大輪の花を咲かせた九州の土壌の豊かさ、そのエネルギーに思いを馳せた。
 九州の社会教育は、全般的に行政主導の体質が強く、草の根の保守主義につよく規定され、住民の自主的・主体的な活動において必ずしも活発ではない、といわれる。社会教育実践も決して豊かではない、という評価もある。たしかにそういう側面もあるだろう。しかし私の実感からすれば、決してそうではない。九州の社会教育は、戦後の公民館制度の地域定着過程にみられるように、全般的に公的社会教育の密度において濃く豊かであり、古い体質を内包しながらも、住民の地域活動には層の厚い蓄積がみられることは確かなことだ。そこには、さまざまの住民のエネルギーが胎動してきた。問題は、これらを豊かな土壌として見る“眼”をもつかどうかであろう。
 九州は、古代から、そして、その後の歴史展開のなかで、日本の他の地域にみられない規模で、朝鮮半島や中国を中心とするアジアとの豊かな(そして厳しい)交流史をもっている。あるいは近現代史において日本の資本主義は、九州を重要な戦略的地域として支配し、ある意味では九州を“草刈り場”として、また“穴掘り場”として、活用・収奪してきた。したがってそこには当然これに抗する労働運動や民衆運動が燃えさかってきた。たとえば北九州、三池、筑豊、水俣などの地域史をひもとけば、この点は明らかである。また第二次大戦下の戦争体験も、戦後の朝鮮戦争下の間接的な戦争体験も、強烈なものがあった。その過程で、九州には、やはり九州独自の平和への想いや文化運動が展開されてきた、といえるだろう。問題は、これらの九州の豊かな古層としての文化や民衆レベルの意識・運動が、いわゆる公的社会教育の行政や活動とどのように交錯し交流してきたか、という点であろう。
 このようにみてくると、九州の社会教育の土壌はむしろ豊かである。日本の他の地域にみられない独自の歴史ももっている。その文化的な土壌と歴史的な豊かさのなかに今日の公的な社会教育ないし生涯学習政策の展開がある。いまこの時点において、社会教育・生涯学習の九州らしい独自性とあらたな可能性をどのように画き出すことができるか、がわれわれの課題となってくる。

2 社会教育をめぐる今日的状況ー混迷と転換の時代
 ここで、しばし社会教育の全国的な状況に目を移してみよう。いまわれわれはどのような地点にたっているのだろうか。そのなかで九州はどのような位置にあるのか。
 周知のように、いわゆる生涯学習振興整備法が1990年7月1日に成立してすでに実質3年が経過した。しかし、通産省も、そして文部省も、この法の目玉ともいうべき「地域生涯学習振興基本構想」(5条)の基準(6条)をいまだ制定するに至っていない。一連の政策の背景にあったバブル経済も崩壊して、今やこの新法はすでに「死に体」、あるいは「片肺飛行」の状態にあると言う人が少なくない。
 たしかにそういう側面が指摘できるだろう。ところが、この法を生み出してきた1980年代後半からのいわゆる「教育改革」、そして「生涯学習体系への移行」施策、それと連動する「行政改革」などのその後の経過をみると、これら国の政策はすでに地域・自治体に多様な形で影響を及ぼしているというのが実態である。いまや主要な自治体では、生涯学習に関して審議会を設置し、あるいは計画を策定し、関連して調査やシンポジウムを行い、あるいは宣言を採択するなど、さまざまの取組みをしているところが少なくない。さらには具体的に生涯学習のための施設・センターを設置したり、自治体として学習・情報の提供システムを構築するなど、実際に施策に着手しているところもある。生涯学習政策は、「死に体」なのではなく、あきらかに90年代において(単なる理念レベルから脱皮し)いまや現実の施策として地域に姿をあらわしている、と言った方が正確であろう。 生涯学習に関しては、公的な行政組織が新しく編成され、その施策にはすでに多額の公費が投入され始めている。なかでも「生涯学習情報システム」の導入やフェステイバルやイヴェントなどの実施にともなって、情報産業やカルチャー企業・シンクタンク等に流れ出している公費は相当なものであろう。生涯学習に関連する一連の国の政策が期待した所期の経済効果は、すでに着実に達成されつつあるとみなければなるまい。
 これらの施策は、生涯学習の主体としての住民、主権者たる住民にとってどういう意味をもっているのであろうか。そこが基本の問題である。つまり財界・関連企業にとっての経済効果だけが主要なメルクマールなのではなく、住民の主体形成、生涯にわたる学習権保障、その意味での本来の教育・学習的効果、あるいはその文化的効果がどうであるか、という点が問われる必要がある。
 この間の国の生涯学習施策は、戦後社会教育法制のもとで実践的に確かめられ蓄積されてきた諸理念・諸原則と大きく矛盾するところがある。要点のみあげれば、それは次のようなことである。すなわち、施策・計画の広域性(都道府県主義)、トップダウン方式の流れ、一般行政・通産行政としての編成、民間・アドヴェンチャー・カルチャー企業の活用(公的セクターの見直し)、受益者負担の導入、社会教育専門職制の否定などである。これらは戦後の社会教育実践のなかで営々として追求されてきた方向、すなわち上記に対応していえば、地域性・市町村主義の原則、住民の参加と自治、社会教育行政の独自性、公費保障・公的条件整備の重要性、社会教育職員・集団の専門的力量、などの諸理念と位相を異にしている。
 本来、言葉の正しい意味では、生涯学習と社会教育とは相互に矛盾する関係にあるのではなく、両者はともに調和し結合し補完しあうものであろう。地域の社会教育の拡充なくして生涯学習の発展はなく、生涯学習の新しい思想提起によって社会教育の改革と発展が前進する。しかし現実にはどうか。臨時教育審議会の答申(1987年)以降、「生涯学習」の施策化によって「社会教育」の再編が進行し、その公的条件整備の見直しが計られている。一方で社会教育法の規定に基ずき社会教育主事や社会教育委員の制度を維持しつつ、他方では生涯学習振興整備法による生涯学習審議会や生涯学習アドヴァイザー・ボランテイアなどによる「生涯学習体系への移行」が求められている。地域・自治体レベルでは、両者はいま相互に錯綜し混迷の状況のなかにある。

3 社会教育の蓄積と生涯学習の思想の結合ー第三の道への挑戦
 いま全国的に「生涯学習時代」における「社会教育の再編」が急速に進行している。九州の自治体(市町村)でも状況は同じであろう。
 再編という場合、第一のタイプとして、これまでの社会教育の公共的体制を見直し、あるいは解体して、生涯学習体系への移行が性急に求められていく動きがある。この場合たとえば、公的施設の民間委託、地域施設の生涯学習センターなどへの複合的吸収、職員体制の嘱託化・ボランテイア化、社会教育行政自体の拡散化、一般行政への併呑など、戦後教育改革以降の社会教育の蓄積をむしろ否定し、生涯学習の商品化と市場形成に(自治体行政として)手を貸す結果につながる。社会的不利益者をふくめて実質的な機会均等の理念にたち、あらゆる住民の生涯にわたる学習権を保障しようとする立場からすれば、多くの問題を含んでいる。
 第二は、これまでの公共的な社会教育の体制を堅持する方向で、生涯学習の新しい施策を積極的には導入しないタイプがあろう。模索や検討はあるだろうが、自治体としては防衛的あるいは消極的な姿勢にとどまることになる。固定化というかたちでの再編、とでもいえようか。
 しかし、日本の社会教育が、国際的な比較からみて、公民館制度など独自の特徴をもっているにしても、いくつもの点で体質的な“狭さ”と“堅さ”を内包していることも否定できないことだ。生涯学習(生涯教育)の国際的な潮流とそこに提起されてきた新しい思想は、日本の社会教育の体質を変革する必要性と、課題を克服しつつ生き生きとした発展と拡充への道すじを示唆している。いま、これまでの社会教育の古い体質を変革していくまたとないチャンスなのではないか。たとえば、行政主導と行政セクト主義を改革して正しい意味での民間・ボランタリズムを尊重し援助していく、フランスの成人教育にいうアニマシオン(社会文化の活性化)に学ぶ、国際的な識字実践・運動にみられるような被差別少数者のためのプログラム提供、学校・大学の開放・拡張(OECDが提唱したリカレント教育の日本的発展)、生産・労働・職業・技術等と結びついた学習・訓練、関連して有給教育休暇制度(ILO条約)の導入、学習権(ユネスコ・1985)の理念に立脚することなどなど、日本の社会教育が追求すべき重要な課題は少なくない。生涯学習の国際的動向から学びつつ、社会教育の現状を改革するという視点は忘れてはならない、と思うのだ。
 第三のタイプは、いうまでもなくこれまでの公共的な社会教育の蓄積を基磐に、当然それを改革・発展する姿勢をもちつつ、地域と住民の立場にたって生涯学習の新しい自治体施策と計画づくりに挑戦していく方向である。社会教育の力と生涯学習の思想を結合していく第三の道の追求である。
 全国的に視野をひろげて見れば、実際に自治体としてのこのような新しい挑戦が、今はっきりとした潮流となって動き始めている。それぞれの地域的な違いはもちろんあるが、たとえば川崎市、立川市、貝塚市、尼崎市、郡山市など、いずれも興味深い「生涯学習計画」が、市民の参加と要求を尊重しつつ、まさに自治的にまとめられている。これらの事例については、生涯学習時代への転換期における注目すべき自治体努力(10の視点、5の発展的側面など)として、前にも取り上げたことがある。(小林「自治体の生涯学習計画の動向」季刊教育法84・85号、1991年、日本社会教育学会・宿題研究発表、於鹿児島大学、1992年)
 九州ではどうであろうか。

4 “熊襲復権”と九州テーゼの提唱
 九州に想いを寄せながら、しかし九州を離れている身としては、いまどのような新しい動きが九州で始まっているのか教えていただきたいところである。九州においても、自らの“足元を掘る”立場にたてば、各地にきっと豊かな地下水脈がながれ、地域のどこかで“泉”がこんこんと湧き出ている、その“発見”が可能であることは疑いない。

 与えられた紙数は残り少ないが、最後にまた少し、個人的な回想にもどることをお許し願いたい。
 私は筑後・久留米の生れである。古い城跡をめぐって蛇行する筑紫次郎(筑後川)の風と匂いがいつも町をながれていたような思い出がある。懐かしい故郷だ。
 しかし北原白秋が故郷・柳川をうたいあげたように、私は、久留米を賛美できない。軍国主義時代、第十二師団の司令部がおかれていた軍都、戦後は企業主義に支配された隠微な企業城下町、町の辻々にまで浸み込んだ抑圧的な古い政治風土。それらに打ちのめされたつらい経験も少なからずあって、私の故郷意識は単純ではない。川の匂いだけでなく、やりきれない土砂と埃の町、というイメージも強く残っている。
 しかし、この10年来、故郷への思い、その見方が少し変わってきた。人なみに歳を重ねてきたからかも知れないが、それだけではない。一つには、私の沖縄研究からの影響がある。地域主義的な視点、地域をとらえる“発見的方法”(象グループ)から教えられたところが大きい。あと一つには、何をかくそう、吉野ガ里が発掘され、その全貌が次第に明らかになってくるにつれて、心ときめき、はるか昔の、わが故郷の“古層”のもつ歴史の豊かさに圧倒されてきた。
 地図を開いていただけば分かるが、久留米は吉野ガ里のすぐ近く、今は県境で分かれているが、もともとは地理的にも文化的にも一体的といってよいところだ。背振山地の南側の、筑紫平野がひろがる丘の一角に吉野ガ里はあり、そのすぐ東の筑後川の川すじに久留米は位置している。ともに(玄海灘でなく)有明海沿岸地域として、考古学的知見によれば(森浩一「古代史・津々浦々ー南島の地域文化と考古学」小学館、1993、など)、南の海を通して沖縄や中国に開いていただけでなく、川を遡って東の大分から瀬戸内海、そして大和に通じていた。吉野ガ里遺跡だけでなく、有明海沿岸の弥生遺跡から出土するものから分かることは、当時の弥生人たちは、はるか沖縄の深海から採取した(海岸に落ちているようなものではない)巻貝の腕輪、中国大陸からの銅鏡、朝鮮半島からの青銅製の武器などを手に入れていた。あるいは、古墳時代の歴史を経て、さらに下って平家隆盛の基礎となる日宗貿易の基地(神崎荘)もこの一帯であった、と推定されている。
 なんと国際的にも豊かな古代の歴史であろう、わが故郷一帯のこの“古層”の文化は、2000年を経過した現代、いまどのように流れついてきているのだろうか、その地下水脈はもう涸れてしまったのだろうか、などと考え続けてきた。

 発想・着目をかえて、地域に新しい光をあててみる、そこに必ず“発見”があり、それが創造の契機になる、ということを私はこの間大切に考えてきた。お互いそれぞれに関わっている地域や故郷に「新しい光をあてる」運動を提唱したいところだ。
 たとえば、熊襲の地といわれる熊本県球磨郡免田町は「地域に勇気を与える」考古学の力を借りて、「熊襲復権」の町おこしに乗り出しているという(毎日新聞「余録」欄、5月3日)。「記紀」が画く熊襲の人々は、隼人、あるいは蝦夷などともに、概して粗野で野蛮で大酒飲み、文化的にはおくれたイメージ、大和朝廷に服従しない「反(ソム)きて朝貢(ミツキタテマツ)らず」という者どもだ。しかし見る視点をかえてみると、自らの地域に誇りをもつ勇猛なレジスタンスの人たちに見えてくる。未開の蛮族どころか、むしろ大和にも対抗できるだけの地域の文化を高度にもっていた。事実、免田町の遺跡からは金メッキの銅鏡、弥生時代の気品ある免田式土器など、高い技術の遺物が出土した。中国の影響が強いことから、中国と独自の交流をもち、むしろ高い文化をもつ豪族がいたのではないか。「地下からでてくるものはウソをいわない」という考古学の知見が力となって、「熊襲復権」の町おこしのストーリーが始まったというわけである。ここでは、事実に立脚する学問が「地域に勇気を与えた」(森浩一)。

 熊襲復権の思想は、まさに地域再発見の試みに他ならない。これを社会教育に活用すればどうなるか。以下まとめとして、地域からの社会教育・生涯学習の計画づくりに関する“九州テーゼ”(九州からの学習権・宣言)の提唱を試みたい。
 冒頭にも述べたように、九州は、それぞれの地域の格差を含みながらも、戦後社会教育の公共的な蓄積は相対的に厚いものがあり、またその土壌である地域の歴史と文化も独自の豊かなエネルギーを胚胎してきた。
 古代史のみではなく、それ以降の歴史展開も、日本のなかで琉球・東南アジア・中国・韓国あるいはひろくヨーロッパ・世界との直接的な交流・結節点に位置してきた。とくに近現代においては、アジアとの関わりを背景としつつ、日本の近代化、資本主義化の過程で、日本の他の地域にみられない濃密かつ典型としての歩みをたどってきた地域である。そこには当然のことながら市民・住民・労働者など民衆レベルの独自の意識形成と運動の展開も、ある意味では豊かに動いてきたといえよう。
 このような九州独自の歴史と文化の土壌を背景として、地域の社会教育・生涯学習の在り方を考える場合、国からトップ・ダウンで降ろされてくる計画や施策が、そのまま地域の計画として単純に適合する筈がない。九州の土壌に根ざして、九州のこれまでの社会教育実践の蓄積にも依拠しつつ、九州の地域からの“発信”を積極かつ大胆に試みる必要があるのではないか。生涯学習に関する“九州テーゼ”を創り出そうではないか。
 その場合に留意すべきこととして、いくつか思いつくままに付記しておこう。第一に戦後教育改革以降の公民館制度の地域定着にみられるような公共的な体制を、新しい生涯学習計画づくりにどのように活用・発展させていくか、第二に地域史・民衆史の視点にたって、民衆レベルの「参加と自治」「創意と協同」を基本に据えることができるかどうか、第三に民衆の教育・学習あるいは文化の領域にせまく限定されることなく、生産・労働・職業・福祉・環境・平和などにかかわる広範な生活諸領域に挑戦すること、第四に被差別少数者・不利益者の学習権保障、第五に民衆エネルギーを援助しそれと協同する公的社会教育職員の専門的役割を位置づけること、第六に単位自治体としての市町村の自治性・独自性の尊重とその連合体としての都道府県の在り方の追求、第七にアジアの一角に位置する九州として、アジアと連帯し交流していく計画の視点、などである。与えられた紙数もこえた。残された課題も少なくないが、次の機会を期したい。 





2,地域の創造と社会教育の可能性
   小林文人・猪山勝利共編 『社会教育の展開と地域創造−九州からの提言』
                         (東洋館出版社、1996年)第1章
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3、福岡市公民館史研究に関して(メモ) -June 14 2003- 九州大学・福岡
        −九大・松田ゼミ報告書を読む−
                              小林文人
                                                                                *福岡・公民館との関わり
             1964/4〜67/3 九産大 →67/4東京
              66/10      市社教委員
              64/8〜66    福(県)社研(川崎資料)
             1975〜      合理化問題(北九、福岡)
               77        17回社会教育全国集会
               78〜      大都市研 

1,福岡市公民館の史的展開−その独自な特徴
 
   ・いわゆる「福岡型」公民館、その定着過程
   ・各地の(初期)都市型公民館構想(八幡、豊中、杉並等)の流れとの対比
   ・公民館主事制度の変転、嘱託→正職員化→嘱託化
   ・公民館の改革と抵抗の運動、職員・労働組合、そして市民?

2,福岡市公民館の源流(前史)をどうみるか

   ・小学校区単位の社会教育協議会
   ・新生活県民運動との関連    *1955・新生活運動(福岡県「まちの政治」学級)
   ・「はじめに住民の学習ありき」(松本市公民館<50年>活動史)
   ・戦後初期(福岡独自の)民間学習文化運動、地域民主化運動、サークル運動等と?
   ・分館(部落・町内の住民組織=公民館)の経過、1959年以降は?

3,新しい仲間の会(1964/8/8) → 福岡県社会教育研究会(〜1966、1967?)  

   ・<発起人>川崎隆夫、小林文人、田岡鎮男  *社全協(1963)、「職協」(64)
   ・福岡県ほぼ全域からの参加(とくに北九州)  *川崎資料
   ・下伊那テーゼ「公民館主事の性格と役割」論議 *福岡「労働者的性格の認識」

4,田岡鎮男論

   ・想念と実践(虚像と実像) *小川利夫「ある公民館主事の実践」『論集』6
   ・労働者性と専門職性の問題
   ・公民館主事集団の群像と実践(林貞樹「地域の教育力」「文庫」「生活用具展」等)

5,公民館をめぐる地域と住民・市民の認識に関わって

   ・地域埋没型公民館への反発と抵抗(田岡「したり顔」「地域の連中」)の歴史
   ・地域の(生活的、文化的、自治的)活動と住民の“再発見”の視点
   ・新しい市民活動、“地下水脈”としての地域文化・民間運動との出会い
   ・その接点としての公民館(嘱託)主事像  *岡山市・公民館主事





◆4、福岡社会教育研究会への寄稿
―2000年11月   *2000〜01ドイツ短信に集録
 ドイツ・社会文化運動の活力に触れて
 

 二〇世紀最後の夏、大学の「学外研究」制度の援助を得て、ヨーロッパ(とくにドイツを中心)に遊びました。毎日、美味しいビールを楽しんでいたのですから、文字通りの“遊学”(二ヶ月半)です。
 とくにドイツは今年で東西統一から十年。かっての鉄の体制を誇った社会主義を併呑した西の資本主義、どんな状況がいま動いているのか、その歴史的な実験の経過(と矛盾)をこの眼で見たいという思い。同時にそんなドイツで、どんな社会教育(成人教育あるいは継続教育という)が展開しているのか、興味しんしん、というわけ。
 とりわけ旧東ドイツの都市では、この十年どのような変化があったのでしょう。米英などと比べて、紹介されることが少ないドイツの社会教育や、公民館的な施設についても調べてみたいと思ったのです。歩いた都市は、フランクフルト、ハンブルグ、ポツダム、ベルリン、ワイマール、トリヤ、など。 
 期待にたがわず、実に刺激的な毎日でした。私の向こう見ずな旅を危ぶんでか、ドイツ研究者の谷和明さん(東京外国語大学)が心配?して同行してくれるという、願ってもない案内人を得たこともありましょう。たくさんの人と出会い、市民大学や社会文化運動や福祉協同的な施設の訪問など、多くの体験、知見を得ることができました。
 その特徴的なことをいくつか・・。まず、19世紀からの民衆教育普及運動の歴史、上からの国家装置としてつくらてきた日本・社会教育との違い。州や都市の分権的な自治の実像。教育機関的な市民大学だけでなく市民活動による社会文化センターや地域福祉施設等の多元的な展開。誇らしげな社会教育専門職員と活気ある市民活動家の表情。夏の休暇(三週間?)をしっかり確保している施設、職員、事業のゆとり、などなど。
 なかでも1960年代後半の学生運動のエネルギーも継承しつつ、さまざまの市民活動(NPO活動)の活溌な取り組みが印象的でした。特にハンブルグ市では、市(州)政府が社会民主党や緑の党の影響が強い都市ということもあるのでしょうが、市行政の姿勢はこれら市民活動の支援、地域の社会文化施設への援助、という姿勢に徹しているように感じました。政党も行政(あまり会わなかった)も市民活動も社会教育の専門スタッフも、それぞれの役割を分担しつつ、いきいきと、楽しみながら、ドイツ的社会教育の活動に取り組んでいる様子。
 行政の単純な条件整備論だけでなく、なんのための行政か、基本は市民みずからの主体的な活動の活性化こそ重要であって、そのための行政のあり方が問われる必要があること、を痛感しました。
 ドイツ社会教育・市民活動関係者との新しい交流も始まりました。来年は、六月にハンブルクへ行こう、という計画も動いています。関心ある方々の参加、大歓迎!





5、日本の公民館・半世紀の歩みと大阪・関西の公民館(レジメ)-2002年3月29日-
    −その地域史が問いかけるもの−   於大阪教育大学      (小林文人)
                                        
                                            
1,はじめに:関西の公民館・社会教育への関心
  都市型公民館、近畿公民館主事会、枚方テーゼ、「ろばこん」など

2,公民館制度創設50年: 
  −日本社会教育学会特別年報『現代公民館の創造』(1999年、東洋館出版社)
    小林文人・佐藤一子編『世界の社会教育施設と公民館』(2001年、エイデル研究所)
  −地域史からの発見、公民館の地域史から何がみえるか(関西・貝塚公民館)

3,公民館史の一般的理解への挑戦
           ・地域史の多様性、歳月のなかでの定着
           ・公民館「構想」の地域的な展開
                     *杉並公民館「安井構想」(〜1955〜)
                    *東京「新しい公民館像をめざして」1973
            ・農村型公民館と都市型公民館、多元的な流れ
           ・公民館をめぐる社会的運動
           ・公民館を担う職員体制、専門職化と集団化
           ・発展の内発的な可能性、独自性

4,公民館地域史研究を通しての課題提起:
  (1)松本「はじめに住民の学習ありき」の意味
          *『松本市公民館活動史−住民とともに歩んで50年』(2000)
     関西・都市の文化と市民の学習文化運動、公民館がどうかかわってきたか?

  (2)農村型公民館から都市型公民館への脱皮と近代化過程の歩み(東京)でなく…
    都市型公民館(関西、旧八幡、杉並など)としての独自の展開と蓄積?
    京都、大阪区部、横浜、東京23区等の大都市「公民館」問題

  (3)集落、町内、自治会など地域住民組織と「自治公民館」をどう評価するか?
    沖縄「集落公民館」、松本「町内公民館」、飯田「公民館分館」など
    京都「ろばたこんだんかい」と「枚方テーゼ」の関連性(津高)

  (4)公民館に関する地域「構想」、自治体「計画」、その挑戦と蓄積(格差)
    指導者「構想」から、職員集団による論議、住民参画の策定へ

  (5)公民館を支える人的な体制、職員集団の重層的構成、市民の参画、その歩み
    地域・自治体内のネットワーク、地域をこえる組織化と運動   
           *三多摩





◆6、埼玉入間地区公民館研究集会「公民館に求められるもの」(2005)→■



◆7、信州・妻籠公民館と町並み保存運動 (妻籠レポート15  南の風・2007年→■














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