妻籠公民館と町並み保存運動(2007)
  −妻籠レポート:「南の風」記事より(小林文人)−


<目次>
1,八重山・竹富と木曽谷・妻籠
2,木曽・妻籠公民館の歩み
3,木曽の檜笠−韓国へ
4,桐箱に納められた公民館史料−妻籠レポート4
5,初期公民館活動から町並み保存運動へ−妻籠レポート5
6,妻籠宿保存の取り組み−妻籠レポート6

7,「争え!但し怒るべからず」−妻籠レポート7
8,怒ったら負けだ−妻籠レポート8
9,南木曾町博物館−妻籠レポート9
10,紅葉の谷を下って−妻籠レポート10
11,「流離の人−回想の島崎藤村」(加藤千代三)
12,新しき言葉を!(「藤村詩抄」自序)
13,町並み保存運動と公民館の水脈(浅野平八)
14,<資料>妻籠宿を守る住民憲章(1971年) *八重山・竹富島住民憲章→■
15,妻籠宿保存事業・妻籠を愛する会・創立四十周年記念式典(2008年12月13日)
16,


「妻籠を愛する会」事務所、奥に「売らない、貸さない、こわさない」額、横に「御下賜金記念日」の碑






★1,八重山・竹富から木曽谷・妻籠へ(妻籠レポート1)
    (南の風1896号、2007/8/17)

 この1年、八重山・竹富島に何度も通いました。竹富島についてはいろんな研究分野(民俗学、建築学、文化財保存、祭祀芸能研究、社会学など)の調査や記録がありますが、社会教育の視点からキチンとした報告がまだありません。竹富の集落保存運動や住民自治活動の中核には公民館が大きな役割をはたしてきましたし、ここ数年は新しくNPO「たきどぅん」の興味深い展開もあります。社会教育研究の立場からみて注目すべき動きをもったシマです。
 この4月、竹富島の喜宝院蒐集館(日本最南端の博物館)館長の上勢頭芳徳さんと小林が「竹富島憲章と公民館」をテーマに対談。前本多美子さん(東京学芸大学卒、竹富在住)がテープおこしの労をとってくれました。いい記録に仕上がって、いま編集中の「東アジア社会教育研究」第12号に収録予定です。お楽しみに。(2007年秋、第12号刊行、「対談」→こちら■
 対談のなかでいくつもの新しい発見がありました。その一つは、小さな竹富島が、現代史のなかで島を超えての政治・経済の大きな波をかぶってきたこと(たとえば日本復帰前後の本土リゾート資本による土地買い占め等)、それに抗するシマ共同体としての自治・自衛の果敢な取り組みがあり、呼応して島の切実な思いをうけて支援してきた本土側の民芸協会や町並み保存運動等との出会いがあったことなど。
 竹富島の「売らない、汚さない、乱さない、壊さない、生かす」憲章づくりの源流には、木曽の妻籠宿を守る住民憲章「売らない、貸さない、壊さない」の三原則がありました。全国的な町並み保存運動の支援とともに、直接に妻籠の人たちと竹富島との熱い交流もありました。
 ご承知のように、木曽谷・妻籠宿の戦後史のなかでも公民館がいち早く登場しています。「わが国第1号の公民館」とも言われ、戦後最初の公民館全国表彰(1947年)も。竹富島との関連で、いまあらためて妻籠公民館の歩みに強い関心をもっています。貝塚への全国集会の前日(24日)、妻籠に一泊して資料を調べ当時の話を聞き取りする計画をたてています。関心をおもちの方はご一緒いたしましょう。


★2,木曽・妻籠公民館の歩み妻籠レポート2
   
 (南の風1897号、2007/8/19)
 
 長野県南木曽町(旧吾妻村)妻籠の公民館については、いくつもの興味深い記録が残されています。戦後初の全国公民館表彰(1947年11月3日・新憲法公布記念日)を受けたこともあり、寺中作雄・鈴木健次郎共著「公民館はどうあるべきか」(社会教育連合会発行、1948年、公民館シリーズ6)の中にも登場。
 しかし、妻籠の実録をたどれば、公民館設置についての文部次官通牒(1946年)の評価は大したものではなかったようです。初代の公民館主事そして館長をつとめた勝野時雄によれば、通牒は「…われわれの生活感情からすればほとんどの関心の対象にはならなかった」「…国から下りてきている公民館というのが、われわれがこれからやっていこうとする運動のカクレミノとして有効」といった程度のとらえ方。次官通牒によって公民館が創設されたというよりも、実質として住民の活動の胎動が先にあり、国の施策を利用して「公民館」の看板が掲げられたのでした。(勝野時雄「むらの改革にとりくむ公民館」、月刊社会教育1966年1月号。この論文は『戦後社会教育実践史』第1巻、1974年、民衆社、に再録されています。)
 勝野時雄さん(故人)は1950年に館長を退任。その後、船橋市に住まわれていた(当時・淑徳大学助教授、ぶんじんも近くの団地に住んでいた)頃、親しくお付き合いした一時期がありました。上記の「われわれがこれからやっていこうとする運動」とは、米林富男・関口存男等の疎開文化人の影響をうけつつ、木曽谷の御料林解放運動、地域民主化運動そして地域演劇活動等。「むらの改革にとりくむ公民館」に記述された歴史は、初期公民館としては異色の歩み、興味深い内容となっています。
 妻籠公民館の歩みについては、これに加えて、南木曾町教委・教育長の遠山高志氏による「わが国第1号の公民館とは」(月刊公民館2004年5月号)があります。創設期の詳細な資料が含まれ、その後の町並み保存運動への展開も示唆されていて貴重です。


★3,木曽の檜笠
妻籠レポート3
   
(南の風1905号、2007/8/30)


 …(略)…
 閑話休題。話は全国集会の前日、24日にさかのぼります。信州妻籠宿を訪問しました。戦後日本で最初に設立された南木曽町(なぎそ、当時は吾妻村)妻籠公民館についてお話をうかがうためです。駅頭に、南木曾町公民館長や教育委員会の皆さん、それに木曽郡公民館関係の各位も出迎えていただき、恐縮してしまいました。
 妻籠公民館の初期の活動、町並み保存運動への展開、南木曾町博物館の史料収蔵(見事!)については、いずれ書くことにして、「木曽檜笠」のエピソードを一つ。檜(ひのき)笠はもちろん手作り、暑い陽射し除けだけでなく、雨が降れば檜の目がつまって絶好の傘になる名品。妻籠宿の土産物屋にも並んでいますが、公民館長(清水醇さん)が被っていてお似合い、町並みの風景にもなじんで見えました。 
 与那国で手に入れたクバ笠との類似もあり、興味を示したところ、別れ際に「この笠を記念にどうぞ!」とおっしゃる。辞退しましたが、とうとう頂く羽目になりました。翌日の貝塚・全国集会々場まで頭に被せて移動したという次第です。
 集会の二日目。こんどの韓国向け出版(新企画)にともに編者として仕事をする梁炳贊(ヤンビョンチャン、公州大学校、韓国平生教育総連合会事務総長)さんに記念に差し上げることにしました。日本最初の妻籠公民館の「木曽檜笠」という説明つき(HPに写真)。韓国への帰路、飛行機ではさぞかしお荷物になったことでしょう。
 妻籠の皆様、お世話になりました。遠山高志・教育長のお話、清水醇・館長の檜傘、垂水吉孝さんとくに宮川護さん(いずれも教育委員会)のご配意、有り難うございました。泊まった「こおしんづか」主人の木曽節も絶品でした。李正連さん(名古屋大学)へのお願い。本欄記事を梁炳贊さんに送っていただけませんか。
左・伊藤長和さん、筆者、右・梁炳贊さん(韓国・公州大学校教授) 全国集会々場(貝塚市、2007年8月)



★4,桐箱に収められた公民館史料−妻籠レポート4
              (南の風1909号、2007/9/5)

 
ときに「風」が激しすぎると、顰蹙をかい、緩やかすぎると手応えがない。しかし、いつも誰かが読んでくれている、この一点だけに妙な確信をもって、10年ちかく風を吹いてきました。どこかで、誰かが、読んでいる・・・、有り難いことです!
 妻籠の公民館と町並み保存の歩みに関わって、建築工学者の浅野平八さん(日本大学)より刺激的なメールを頂きました。「…なにやらじっとしておれない」など、冥利につきます。こちらこそ、いくつもの示唆をいただいて、じっとしておれず、また妻籠について書き始めました。風1897号「妻籠公民館の歩み」の続き、いくつか資料紹介的なことを。

 8月24日、わずか1泊だけの妻籠訪問でしたが、木曽谷と妻籠の公民館関係者との出会いがあり、資料についてもたくさんの収穫がありました。なによりもまずは南木曽(なぎそ)町博物館(1995年開館)の収蔵資料。戦後については「公民館運動の高まり」「町並み保存への昇華」「保存事業の推進」「全国町並み保存」等の諸テーマによる独自の展示。地下収蔵庫が圧巻! 学芸員・博物館長でもある遠山高志・教育長の並々ならぬ執念を感じました。
 戦後この地に疎開してきた故米林富男氏(東洋大学、社会学)の息子さん時雄氏からの寄贈資料(36点)が桐箱に収められています。一枚ずつ見せていただきました。そのなかには、歴史的な「妻籠公民館々則」(1946年9月8日)も。初代公民館主事だった勝野時雄氏(風1897号に既報)から米林先生に渡されたもののようです。米林資料については遠山教育長の論文(「わが国第1号の公民館とは」月刊公民館、2004年4月号)があり、また初期公民館活動から町並み保存運動への展開についても貴重な労作がまとめられています。あわせて早稲田大学・大槻宏樹グループによる妻籠調査報告も再発見しました。
 南木曾町博物館・歴史資料館(妻籠、20070824)



★5,初期公民館活動から町並み保存運動へ−妻籠レポート5
    
(南の風1911号、2007/9/8)

 戦後日本の復興期、いち早く産声をあげた初期公民館の多くは、その後の町村合併の渦にも呑み込まれて、ほとんどその名は消えてしまいます。そのなかで信州木曽谷・妻籠の公民館は、初期胎動のエネルギーが地域激動の歴史のなかで持続され、町並み保存というテーマを獲得して、今なお活発に息づいている貴重な地域事例というべきでしょう。
 いくつか他の公民館史にみられない興味深い特徴があるようです。まず、木曽谷の御料林解放運動を一つの背景にもって(勝野時雄論文・前出)公民館が誕生したこと。「木曽路はすべて山の中」(島崎藤村「夜明け前」)、しかし、その山から住民は締め出され、皇室御料林から戦後の国有林への切り替えにあたっての解放運動も成功せず、ついに山は住民の手にもどってきませんでしたが。
 二つには、いわゆる疎開文化人の役割です。戦争末期、なぜ妻籠に多くの文化人が疎開してきたのか。米林富男(社会学者)、関口存男(ドイツ語学者)、桜井庄太郎(社会教育学者)など13家族90人であったとか。その経緯については、遠山高志・教育長の興味深い証言(「わが国第1号の公民館とは」前出)があります。ここに紹介したいところですが、先を急いで・・・。
 三つには、妻籠公民館では米林の指導による社会調査と、関口の演出による青年演劇活動が二つの柱であったとされます。とくに演劇活動のなかで青年たちは自己主張や社会的表現の方法を学び、各地への公演も続けられ、1950年代の後半まで活動は持続しました。
 そして四つには、その当時の公民館活動を担った青年たちが、1960年代には妻籠小学校のPTAメンバーとなり、地域民俗資料の収集・保存運動等を通して、全国最初の町並み保存運動に展開していくという流れだったようです。このあたりの詳しい話を、遠山高志さんにじっくりとお聞きする機会を・・・と願っています。日本公民館史にとって貴重な証言となるはずです。


★6,妻籠宿保存の取り組み−妻籠レポート6
            
 (南の風1914号、2007/9/13)


 木曽谷・妻籠の地域史。初期公民館活動に出会って、とくに演劇活動を担った若者たちが、1960年代には小学校PTAとなり、地域民俗資料保存運動へ。この活動は公民館へ移管され、その後、宿場資料保存会が組織されます。さらに「妻籠を愛する会」(全戸加入、1968年)の取り組みによって、「妻籠宿を守る住民憲章」宣言(1971年)さらに重要伝統的建造物群保存地区(重伝建、1976年選定)へといたる町並み保存運動の展開があります。地域の歩みの蓄積。
 この間の経過については、遠山高志氏(南木曾町・現教育長)「コミュニテイづくりと町並保存」に余すところなく書かれています。大槻宏樹編『コミュニテイづくりと社会教育』(1986年、全日本社会教育連合会)に収録された記録です。当時の遠山さんは、同町産業観光課観光係長の肩書き。実に興味深い報告です。この論文からすでに20年が経過していることになります。こんどお会いするとき(11月中旬予定)は、その後のお話を伺いたいと思っています。
 8月下旬に参上した折には、「もう残部がありませんが・・・」と言って、南木曾町『木曽妻籠宿保存計画の再構築のために−妻籠宿見直し調査報告書』(1989年3月、A4版251頁)を頂きました。報告書の全体の取りまとめは同調査委員会委員長の太田博太郎氏。妻籠宿保存の「物的環境について」東京芸術大学グループ、観光妻籠の「課題と将来への提言」は(財)環境文化研究所、そして「妻籠住民意識の生成と課題」について早稲田大学グループ(大槻宏樹氏など10名余)、の三部構成となっています。
 先日の日本社会教育学会(東京農工大学)で久しぶりに大槻宏樹さんにお会いしましたので、当時の話しをちらりと聞きました。


★7,「争え!但し怒るべからず」妻籠レポート7
   
 (南の風1920号、2007/9/26)


 戦後初期の妻籠公民館活動を指導した疎開文化人のうち、とくに社会学者・米林富男と並んで偉大なドイツ語学者・関口存男(つぎお)の役割が注目されます。妻籠で関口は、これからの時代は若者が担うのだ!とさかんにアジりながら、いくつもの演劇台本を創作しました。公民館の演劇活動によって「…若い衆たちを否応なく舞台の上につきあげて躍らせることになった」と勝野時雄は回想しています。(前出「むらの改革にとりくむ公民館」月刊社会教育1966年1月)。
 その台本原本はいま南木曾町博物館(妻籠)に大切に展示されています。たとえば「王様と予言者」「乞食の歌」「巣立ち」など。その一つに「争え!但し怒るべからず」(1947年7月)があります。
 先日、必要があって(いま最終段階をむかえた朝倉書店『辞典』原稿の校訂のため)、戦後いちはやく発刊された社会教育専門雑誌『教育と社会』(社会教育連合会、『社会教育』の前身)を調べていたら「公民館のための芝居」として関口存男作「争え!但し怒るべからず」が掲載されていました(1948年9月号)。ことの偶然に驚きました。
 その末尾には「…この脚本は妻籠公民館において数回上演したもの」とあり、長野、新潟、静岡、山梨等の公民館関係者にも送付したことが記されています。宮原誠一「教育本質論」等を最初に掲載したような理論的な専門誌が、公民館草創期の演劇脚本を大事に紹介しているところが興味深く、またその芝居そのものがなかなか面白いのです。
 昨今はむしろ“癒し”が大事にされ、スポーツは別として、“争え”などとはあまり口にしないもの。ところが当時の公民館では、若者たちが“争え”と演じたのです。しかし“怒るべからず”と。


★8,怒ったら負けだ−妻籠レポート8
  
 (南の風1922号、2007/9/30)


 前々号(1920号)の続き。関口存男の「公民館のための芝居−争え!但し怒るべからず」台本は次のような書き出しです。
 「舞台は校庭でも街頭でも、その他どこでもよい。装置は一切不要。開幕前、女生徒は7名とも舞台の左側前端の一ヵ所にかたまっている…いっせいにガヤガヤとどなりはじめる…。」 登場人物は、女生徒たちと中村先生(男)、柴田先生(女)と父兄一人(男)。
 女生徒のガヤガヤ。「…ずいぶんだこと!」「ひどいわ!」「まあ…あなたは失礼な方ね!」と言いあうところに柴田先生の登場。
 「みなさん、つまらないことで喧嘩をしてはいけません。…文化国の市民は喧嘩なんぞすべきものではないでしょう?」と。
 そこに舞台うらから、大きな声で中村先生が(時代物がかったこわいろでどなる)「意義あーり! …僕は市民たる者は大いに喧嘩をしなければだめだと思います。…」「…喧嘩というのは、ぶったり叩いたりすることではありません。怒ることではありません。争うことです! 理をもって争うことです。」
 柴田先生「でも、子どもにそんなことができるでしょうか?」
 中村先生「できますとも!(生徒一同に向かって)諸君、大いに喧嘩したまえ。喧嘩するやつは正直だ。喧嘩をしないやつは不正直だ。ただし決して怒るべからず。怒ったら負けだ。怒るのは負けた証拠だ。負けるとくやしいから怒る。勝てば人間は怒るものではない。だから喧嘩というやつは、その場ではどちらの勝ちだか分からないこともあるが、その後を見ているとよくわかる。腹を立てたり、怨んだり、蔭でブツブツいったり、ふてたり、むくれたり、仕返ししたりするやつがいたら、それが即ち負けた方だ。…諸君、大いに喧嘩したまえ! …(略)…」
 柴田先生「でも…女はそれではいけないでしょう? …」 
 中村先生「(強く反論・略)…柴田さんどうです? 怒ったんですか?」
 柴田先生「怒ると負けでしょう?…」などと。


★9,南木曾町博物館−妻籠レポート9
   
(南の風1925号、2007/10/5)


 妻籠のムラの中心にある南木曾町博物館、その発行になる「南木曾の歴史−歴史資料館展示図録」(1996)は静かな記述の中に、一筋の熱い思いが貫いている名作。たとえば、「…その木曽の地で、様々な封建的な制約を受けながら、人々は精一杯生きた」(p51)の表現などに打たれるものあり。木曽の歴史とそこに暮らしてきた人々への深い愛着を感じます。一気に読み通して、博物館を一巡しただけでは分からなかった多くのことを教えられました。
 原始・古代・中世から始まって、戦後にまでたどりつくと、「公民館運動の高まり」「町並み保存への昇華」「保存事業の推進」「全国の町並み保存」等のページ。公民館運動のページには、関口存男の演劇台本と舞台写真(博物館の展示)も並んでいます。
 木曽は山深く、人々は山に生きてきましたが、同時に山とのたたかいでもあったようです。木一本は首一つ。尾張藩の厳しい規制下にあった山々は、明治になっても、「官民有区分」によって、入会の山まで囲いこまれ「江戸時代以上に苦しむことになりました。木曽はまさに『夜明け前』へ逆戻りしてしまったのです。」(p62)
 戦後初期の公民館運動も、御料林解放運動との関わりをもって開始されました。南木曽の林野面積の約7割は国有林。「終戦後の御料林から国有林への切替え時にも運動は成功せず、ついに山は戻ってきませんでした」と。(p62)
 明治期の「官民有区分」(御料林)問題とたたかって奔走したのは島崎広助(島崎藤村の次兄)。馬籠から妻籠本陣(母の実家)に養子に来た人。「島崎家系図」によれば(p.63)、広助の次女は「こま子」。藤村「新生」に登場する節子のモデルであることは周知のことでしょう。
 旅を控えた今年の夏、私の読書棚には島崎藤村がとつぜん現れて、いま暇があれば、大作「夜明け前」を読んでいます。


★10,紅葉の谷を下って妻籠レポート10
    
(南の風1942号、2007/11/13 )


 信州木曽谷の公民館大会へ出かけていました。真壁繁樹さん(立川市)がご一緒でした。さきほど帰ってきたところです。留守中にメールいろいろ拝受。上田の中村文昭さんから送っていただいた『塩尻時報とその時代』も届いていました。早速に有り難うござました。
 あれほど緑だった山も谷も、いま晩秋を迎えて、紅(黄)葉の真っ盛りです。桜とはまた違った心の彩り。妻籠の古い街道にはたくさんの人出でした。台湾語のグループも楽しそう。初日(11月11日)は木祖村、王滝村、福島町などの公民館関係の皆さん、そして今日は(8月に続いて)南木曾町の皆さんにたいへんお世話になりました。この場をかりて御礼申しあげます。
 南木曾町博物館では再び遠山高志さん(教育長)のお話を伺い、妻籠宿・町並み保存に関する貴重資料等を頂きました。あらためて、「妻籠宿を守る住民憲章」(1971年)を入手。その要点の資料だけでしたから、暇をみてHPに全文を入力したいと思います。
 帰路は塩尻で真壁さんと別れて、中央線の終点・新宿まで遠山さんから頂いた『島崎藤村研究』第33号(島崎藤村学会)に読みふけりました。「木曽南部における島崎氏の位置づけ」と題する論稿のなかで、妻籠の公民館の設立から町並み保存に至る経緯の中で「…すでに妻籠とは縁の切れていたはずの島崎氏が大きな役割を果たしていたことは、歴史の機微とはいえ驚かざるを得ない…」(遠山高志、p43)の一文。「島崎氏」のなかにはもちろん「島崎藤村」あり。実に興味深いものです。


★11,「流離の人−回想の島崎藤村」(加藤千代三)
    (南の風1945号、2007/11/19 )

 今年の後半、木曽路や妻籠・馬籠への関心から、島崎藤村についても読む機会がありました。藤村には、身内の「思い出」の記や、もちろん評論があります。いま木曽谷の公民館では、藤村にまつわるテーマを大事にして講座など組まれています。昨日も、木曽福島公民館から、墨書(木内行雄館長)を添えて「藤村を偲ぶ“高瀬藤村祭”」の資料を送っていただきました。
 古本リストで探していたら、加藤千代三という人に『流離の人−回想の島崎藤村』(1978)や『駒子−時代が生んだ愛の物語』(1985)の作品があることを知りました。藤村の生涯は「旅に生き旅に死ぬ」ことを思いつづけたような“流離の人”であった(p216)というのです。あらためて、「椰子の実」♪…われもまた渚を枕 孤身の浮き寝の旅ぞ/実をとりて胸にあつれば 新たなり流離の憂…♪(「落梅集」1900)の一節を口ずさみました。
 加藤千代三は1909年の生まれ。藤村の推挽により、岩波書店や新潮社で文庫制作や編集に携わり、戦後は故郷の島根新聞社編集局長を務めた人。その後、新生活運動に参画、新生活事業センターを創設して「生活学校」の指導にあたりました。当時『生活の探求−現代社会と生活学校』(1965)等の著作があります。加藤によれば「わたしは、若いころ島崎藤村先生のひとかたならない恩寵をうけた」(『駒子』あとがき)と。同センターで仕事をしていた故田辺信一さんから何度か同氏の話を聞いたことがあります。
 藤村に関する加藤千代三の2冊の本は、すでに70歳を過ぎての仕事。加藤は百歳近くを生き抜き、2001年に亡くなったようです。島崎藤村の「生活」観は、加藤を介して、戦後の社会教育につながる一面があったのかもしれない・・・と、その「歴史の機微」(南の風1942号・本欄)を思いました。


★12,新しき言葉を!(「藤村詩抄」自序)
    (南の風1946号、2007年11月21日)

 前号に島崎藤村「回想」を書きましたので、ことのついでに、「藤村詩抄」(岩波文庫)も開いてみます。前世紀が始まろうとするとき(つまり百年余りも前に)、藤村は「若菜集」など4巻を世に出しましたが、それらを合本の詩集にまとめ(明治37年)、「自序」を記しています。
 「遂に、新しき詩歌の時は来りぬ。そはうつくしき曙のごとくなりき。あるものは古の預言者の如く叫び、あるものは西の詩人のごとくに…」と。戦後直後の高校教科書にも載って、いつまでも忘れられない一文。
 南の風メンバーには、中国や韓国の皆さんもいて、やはり文語体は苦手な場合があるようです。かって拙劣なぶんじんの歌を風に載せていた頃、わずかの文語調にも違和感あり、「よく読みとれません」などの感想が寄せられました。最近の風にほとんど歌をご披露しないのは・・・と言い訳になってしまいますが、本号はしばしお許しを願って、藤村の思いあふれる文語文をすこし。「自序」の終わり近くの一節です。
 「誰か旧き生涯に安んぜむとするものぞ。おのがじし新しきを開かんと思へるぞ、若き人々のつとめなる。生命は力なり。力は声なり。声は言葉なり。新しき言葉はすなはち新しき生命なり。」
 「若き人々」よ、新しい世界を開いていこう、という熱き呼びかけです。しかしいま、若い人々はあまり語らなくなりました。むしろ年寄りだけがしゃべり過ぎる悲しい場面少なからず。ぶんじんも顰蹙をかった苦い経験があります。それにしても、社会教育のこれからのために、あるいは公民館の未来のために、もっと「新しき言葉」をもって語りあう必要があるのではないでしょうか。若き藤村の「ギラリとしたまなざし」(加藤千代三)を想像しながら、そう思うのです。
 本日は小生の誕生日。毎年こうして年をとりますが、「若き人々」の一人でありつづけたいと願っています。

島崎藤村ゆかりの中山道・馬籠宿(080106)



★13,町並み保存運動と公民館の水脈−竹富・妻籠・湯布院など
    
浅野平八(日本大学建築工学科)(「南の風」第1909号、2007年9月5日)

 妻籠への関心の展開を楽しみに、「風」を心待ちにしております。
 私どもの建築学会が福岡であり昨日帰宅しました。肥大化した学会では道筋を間違えているような細部研究の発表が相次ぎ、将来指針を考えるシンポジュウムでも、このグローバル化で日本文化が埋没していく勢いは止められない、という諦めが支配的で、公民館を掲げるわれらはシーラカンス状態です。
 そんな中、竹富の住民による地域管理の動向から妻籠に向かって吹く南の風の風向きに、なにやらじっとしておれない私がいます。
 私たち建築世界の人間にとって、妻籠は街並保存の聖地です。今年1月94歳で他界された建築史家、太田博太郎博士の関わりから、妻籠の町並み復元保存運動がはじまり、現在全国に81ヵ所ある「重要伝統的建築物群保存地区」の先駆け(1976)と成ったことで知られているからです。(このような建築物を保存修復できる大工の育成を目的としているのが私のかかわっている大工育成塾です)
 この保存運動「妻籠を愛する会」(s46)に公民館活動がどのように関わっているかネット検索してみますと、岡山商科大学社会総合研究所報24号(2003)に「町並み型観光地の発展構造に関する研究」(捧富雄)があり、第2章「妻籠の観光地づくりの歩み」で、終戦後東京から疎開してきた文化人十数家族(ドイツ語学者関口存男、社会学者米林富雄ほか)による公民館活動の指導が町並み復元運動の文化的背景にある、とされています。(添付pdf−略)
 同じように開発か在来かということで揺れ動いた町に湯布院があります。全国に先駆け1971年に自然環境保護条例を制定し、リゾート観光開発を拒否しつづけた町です。在来系維持派のブレーンに地元出身の国際的建築家がいます。その町民啓蒙広報誌に「風の計画」があります。公民館を巻き込んで映画祭や音楽祭が毎年開催されています。毎年行う祭りで地域力が鍛えられているわけです。「由布院_湯布院_ゆふいん」記述の仕方でその人のこの問題に対する立ち位置がわかります。琉球と沖縄のようなもので。
 このような事象に出会うと、まちづくりの文化的背景に公民館活動がある、ということを実証し、広義の公民館の文脈で関連施設を包括して、公民館の存在意義と価値を提唱することが今必要なのではないかと考えてしまいます。公民館で育った人たちが今、まちづくりに関わり次代を切り開いている現実に出会うことがあるからです。それを当人は自覚していないことの方が多のですが、記憶のなかに公民館を宿す人がたくさんいることを前提に、公民館の歴史を検証し、今ある居住環境整備計画に、それは公民館60年の歴史が歩んできた道筋だよ、と示唆を与える仕事が待たれているのではないかと感じています。


★14,<資料>妻籠宿を守る住民憲章  *八重山・竹富島住民憲章→■
     (昭和46年7月25日・宣言)


1,目的
 貴重な文化財の保存と自然環境の保護について、その必要性が今日ほど強く叫ばれているときはない。
 このことは、文化財とその自然環境が危険な状態におかれているか、または破壊の一途をたどっているのが現状である。
 妻籠宿は、早くからこの点に着目し、さびれゆく郷土を昔の姿に復し、これを後の世に継ぐために、地域住民が一丸となって宿場保存の運動をおこし力強くおし進めてきた。
 幸いにわが町と県が計画した昭和百年記念妻籠宿復元工事及び信濃路自然歩道中山道ルート新設工事が実施され、併せて「観光資源保護財団」からの援助も得て、一応妻籠宿とその周辺の美しい自然環境を破壊から守る画期的な基礎を築くことができた。
 われわれは、更に心を新たにして保存に最善の力を尽すとともに、わが宿場の文化的価値と観光資源を地域の産業振興と結びつけ、これをよりよく活用するため、妻籠住民の総意に基づきこの憲章を制定する。
2,保存優先の原則
 保存をすべてに優先させるために、妻籠宿と旧中山道沿いの観光資源(建物・屋敷・農耕地・山林等)について、「売らない」「貸さない」「こわさない」の三原則を貫く。
3,保存区域
 妻籠宿から展望できる周辺と旧中山道沿いを保存区域とする。
4,外部資本から妻籠宿を守るために
(1)妻籠宿と旧中山道沿いは、特異な存在であるとともに、地域住民の大切な財産である。
(2)外部資本が侵入すれば、自然環境や文化財の観光的利用による収益も、地元に還元さ 
 れることなく、外部へ流出してしまうだろう。
5,地域住民が自らを守るために
 妻籠宿の復原が進み、自然が保護され観光的に脚光を浴びるようになった現在、苦しく、かつ寂しかった過去の妻籠宿を忘れてはならない。
 妻籠宿座右銘「初心忘るべからず」
 次に掲げる事項に該当する場合は、別に定める統制委員会へ事前に申し出なければならない。
(1)所有者を変更する場合。
(2)所有者が氏名、名称または住所を変更しようとする場合。
(3)指定物件に滅失、き損等があった場合。
(4)土地の所在、地番、地目または地積に異動を生ずるとき。
(5)指定物件の現状変更または保存に影響を及ぼす行為をしようとするとき。
(6)復旧しようとするとき。
6,風致を保存するために
(1)宿場内を旧中山道沿いの景観をそこなうような行為をしてはならない。
(2)広告・看板並びに一般ポスター、政治活動用ポスター(選挙運動期間中を除く)等は 
 掲示してはならない。
(3)物の修繕並びに新、改築等に用いる色彩は、黒又は黒かっ色を使用すること。
7,環境整備をするために
(1)宿場内の静寂を保つため、物売り、宣伝、車両等による騒音を発してはならない。
(2)旅館、民宿、土産品店等は、午後10時までに閉店する。
(3)衛生思想の高揚を図るため、宿場内と沿線の清掃ならびに関係機関による食品衛生指 
 導などを定期的に実施する。
8,防火態勢を確立するために
(1)各家庭で使用する石油、ガス類は必要最小限に留めること。
(2)危険物取扱店は、法による安全性と防火措置を完全に履行すること。
(3)歩行中の喫煙はつつしむこと。
9,防犯態勢を確立するために
(1)旅館、民宿においては、法による所定の宿帳を備付け、正確に記載すること。
(2)盗難、さぎ等の犯罪に関しては、あらかじめ自主的にその方途を講じておくこと。
(3)不測の事故が予測され、又は発生したときは、速やかに警察当局に連絡しその措置に 
 協力すること。
10、交通安全を図るために
(1)宿場内における路上駐車を禁止する。
(2)風致保全と事故防止のために、車両は車庫に格納すること。
(3)宿場内における車両の時速は、20kmとする。
11、町・県・国に対して
 自然環境、風致保全並びに災害防止のため必要な措置を要請する。
 この憲章を履行するため「妻籠を愛する会」に別に定める要綱により統制委員会を設けて推進る。
出典:「妻籠宿−わが国の町並み保存の先駆け」南木曾町教育委員会・財団法人 妻籠を愛す会、2004年






竹富島(左・上勢頭芳徳さん=喜宝院蒐集館長)と妻籠(右・清水醇さん=南木曽町公民館長)の交流
   (20081122、信州木曽谷・妻籠)


★15,妻籠宿保存事業・妻籠を愛する会・創立四十周年記念式典
   ー信州木曽谷・南木曽町公民館(館長)清水 醇(Mon, 15 Dec 2008)ー
    *「南の風」2141号

 おはようございます。一昨日、行われた行事について報告いたします。私(清水)は、南木曽町博物館協議会委員として臨席する機会を得ましたので、式典の一部をご報告したいと思います。
 12月13日(土)、午後1時より、上記「妻籠宿保存事業・妻籠を愛する会創立四十周年記念式典」が、南木曽町「南木曽会館」で開かれました。町長はじめ、町会議員、国や県の議員、近隣の町村長、町の関係者や妻籠宿を支えてこられた方等100名を越える人が参加して盛大な会になりました。町長の挨拶の後、財団法人「妻籠を愛する会」理事長「小林俊彦」氏が話された挨拶文(長文になりますが)をご紹介いたします。
 
 挨拶文
 昭和43年に「長野県明治百年記念事業妻籠宿保存事業」が始まり、この事業を支援し協力する住民団体「妻籠を愛する会」が発足してから40周年を迎えました。
 その年に展開された「明治百周年記念事業」は、全国では相当数数えることができるでしょうが、40年経った今日、胸を張り、声を大にして世にその効果を問うことのできる事業はどれほどあるでしょうか。
 住民にその地域に住んで頂きながら、幕政時代の妻籠村の大部分の、1,245町歩余の広大な地域の自然環境・街道・在郷・宿場等を文化財として認め、それをひっくるめた景観・歴史的風土を守りながら、それらを観光的に利用していくという、壮大な構想のもとに、この事業が始められたのです。
 かつて木曽谷の中の小さな僻村であった妻籠が、今では日本国内はいうに及ばず、国際的にもその名を知られる観光地となりました。
 ここに至るまで、国・県・町の行政からの手厚いご指導とご支援がありました。また、諸々の分野からの学者・先生方のご指導とご鞭撻がありました。また、妻籠宿と地域的な関連のある多くの企業のご支援も頂きました。十分に筆舌に言い表すことができないご恩にたいして、改めて深く感謝申しあげる次第であります。
 このような、妻籠宿の外部からのご支援やご指導に応えて、住民は住民憲章を心の支えとし、妻籠を愛する会を中心にしてこの40年間を活動して参りました。
 妻籠を愛する会は、今年の3月に、景観育成団体として「長野県知事表彰」を、7月に、景観育成団体として「信毎賞」の表彰の栄に輝きました。また、本日「自然歩道の維持管理・普及啓発・適正利用の功績」として、環境省自然保護局長から表彰の栄誉を頂きました。一年間に3回も表彰されるということは、この40年間、黙々と1,245町歩余の面積とその空間の景観保護に努めてきた、住民全体の頭上に輝く栄誉であります。
 言葉を尽くしきれませんが、妻籠宿保存事業の推進は、単に妻籠を愛する会や南木曽町だけの問題ではなく、全国各地で「重要伝統的建造物群保存地区」や町並み保存・村の景観保全に取りくんでいる人たちの旗頭としての立場もあるということを、よく理解しておく必要があります。
 終りに、妻籠が現在あるのは、住民・学者・行政の3者が協調して推進してきた結果であります。今後も、過ぎた40年が辿った線の延長線を外すことがないよう住民各位の心を引き締めての活動を期待します。
 学者・行政の諸先生のご指導・ご支援を今まで以上にお願いして参りたいと存じます。有難うございました。  ---挨拶文ここまで---

 この「挨拶」の後、「妻籠を愛する会」40年のあゆみの経過報告があり、来賓の祝辞、祝電の披露と続き、10名の方に感謝状が贈呈されました。ここで記念式典が終了し、記念講演に入りました。
○記念講演の講師は、宮澤智士先生(長岡造形大学名誉教授・元文化庁保護部建造物課課長・奈良国立文化財研究所遺跡調査室長)、演題『中山道妻籠宿と世界遺産』でした。私(清水)は所用で、講演会は欠席したので内容は把握できていません。
 その後、祝賀会となり、その中のアトラクションで、南木曽町の無形文化財の踊り「さいとろさし」と「琴演奏」が披露されたそうです。


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