【対談】上勢頭芳徳・小林文人
竹富島憲章と竹富公民館
  

【対談・出席者】
上勢頭芳徳(竹富島喜宝院蒐集館・館長)語り手
小林 文人(東京学芸大学・名誉教授) 聞き手ー 前本多美子(竹富島仲筋) 記録

【場所・日時】沖縄・八重山・竹富島西 上勢頭家 、2007年4月18日(水)20:00〜22:30 

【出典】 TOAFAEC「東アジア社会教育研究」第13号・2007年


石垣島より望む竹富島(20070704) 

▲沖縄本島よりも台湾が近い(出典:グーグルマップ)


【関連サイト】  
竹富島憲章などこちら■
竹富島訪問記録・レポートこちら■
論文「竹富の集落組織と字公民館」(小林)こちら■
妻籠公民館と町並み保存運動(2007)
   −妻籠レポート:「南の風」記事(小林)−こちら■
・2018 utugumi


【まえがき】
 日本最南端の島々・八重山群島のなかに位置する竹富島。西表国立公園に含まれ、豊かな自然と美しい集落景観にめぐまれている。周囲9.2キロ、面積5.4平方キロ、戸数わずか165戸の小さな島である。離島ながら石垣市から至近の距離、頻繁に発着する定期船に乗れば10分前後で到着する。
 竹富島の人口は、戦後直後には台湾、南洋群島へ出ていた人たちが大挙して帰島し、一時的に2千人を越す時期もあったが、その後次第に漸減、1992年には251人にまで減少した。しかし以降は人口増に転じ、2006年現在で361人、過疎・少子化の流れを食い止めている。その背景には、伝統的な祭祀芸能を継承しつつ、集落の自治的な結合と活力を土台に、さまざまの課題に取り組んできた島民たちの涙ぐましい努力の集積があった。とくに日本復帰(1972年)前後、本土資本による土地買い占めの動きに対して、これに抗する住民運動があり、土地買い戻し、とりわけ「竹富島憲章」策定、町並み保存運動、そしてその中心に「竹富公民館」(集落自治公民館)の大きな役割があった。
 その歴史的な経過と現在の活動そして課題について、竹富島喜宝院蒐集館(館長)上勢頭芳徳氏にお話を伺う機会をもつことが出来た。記録は前本多美子さん(竹富島在住)が作成していただいた。あわせて「竹富島憲章」全文をはじめとする関連資料を末尾に付すことができた。年表・文献および主要項目の「解題」等は、上勢頭芳徳氏のご配慮によるものである。お二人に深く感謝したい。
 まず、竹富島喜宝院蒐集館が来館者のために配布される資料【竹富島の概況】を紹介する。そのあとに【対談】(2007年4月18日夜)記録を掲載した。(小林文人)
 
【竹富島の概況】(2006年10月18日現在)竹富島喜宝院蒐集館・作成
 竹富島は、北緯24度、東経124度、標高24メートル、平均気温24度、平均雨量約2400ミリ、24番目の国立公園、24番目の重要伝統的建造物群保存地区
 人口361人(前年比11人増・15年連続増加中)男165人、女196人。世帯数165戸。民宿・旅館13軒/土産品店9軒/食堂・喫茶9軒/養蚕農家0軒(96年休止)/牛354頭/水牛21頭/山羊31頭/鶏10羽/犬28頭/猫61+多数/自動車167台(昨年比4台減)/船25隻(1隻増)/はた織機30台/自転車950台[レンタル776台(229台増)]/バイク70台[レンタル12台5台減)]

☆美しい島−島全体が国立公園(環境庁指定1972年)
 集落部分が“町並み”保存地区(文化庁選定1987年)
☆芸能の島−120以上の舞踊・狂言、300以上の歌謡伝承
 種子取祭には2日間で約75点もの芸能を奉納
 (重要無形民俗文化財として文化庁指定1977年)
☆民芸の島−ミンサー・芭蕉布・麻布(上布)、藍・紅露・紅花・福木・山桃
 「天然素材」を「植物染料」で「手染め」として「手織り」
 (ミンサー・上布が伝統的産業品として通産省指定1989年)
☆史跡の島−西表島に出作りしていた頃の西桟橋が国の登録有形文化財2005年、赤山公園“なごみの搭”が国の登録有形文化財2006年、中世のほぼ完全な石垣積み集落遺構である久間原村・花城村を発掘調査中、近世になって船の監視等に使われた烽火台が史跡として指定の可能性
☆長寿の島−351人中65才(昭和15年生)以上は92人、いたって健康元気
☆喜宝院 −1949年(昭和24年)に故・上勢頭亨が開設した日本最南端のお寺
☆蒐集館 −1960(昭和35)年に故・上勢頭亨が創立した民俗資料館で、竹富島で使用された約4000点の資料を展示。人頭税関係、染織、儀礼用具等が評価されているが、特にワラサン(結縄)に関して研究者の来館も多い。また“町並み”保存の資料を有していて、これまでの経過を知ることができる。
竹富島喜宝院蒐集館 〒907-1101沖縄・八重山・竹富島108  
   0980-85-2202  FAX0980-85-2424 



左・上勢頭芳徳さん、右・小林文人(竹富島・上勢頭家、20070418) 後ろに「うつぐみ」の掛け軸


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【対談】(2007年4月18日夜、上勢頭家)


 竹富島・上勢頭家に参上して
小林; 上勢頭亨さんのお生まれになったのもこのお家ですか。
上勢頭; 亨が生まれたのは明治43年です。この家を瓦葺にしたのは大正11年ですから、亨が生まれたのはまだ茅葺きのときでした。茅葺を造ったけど亨の祖父、保久利がだいぶ力をつけてきて、やっぱり瓦葺にしようと頑張って大正11年に瓦葺にしたんですね。竹富島で最初の瓦葺の家が出来たのは明治38年のことで、仲筋の東金城家と玻座間の與那國家ですね。きのう集まった前與那國家はその分家で、大正2年です。ですから上勢頭家も比較的早い時期に瓦葺きになっています。
小林; 今日は4月としてはむしろ寒い感じ、もうそろそろ“うりずん”、若夏(ばがなつ)の頃なのに。
上勢頭; もう暑くなってもいいのに、なかなかそうならないですね。
小林; そういう夜に、亨さんの生家にお伺いして芳徳さんのお話をお聞きすると言うので、楽しみに参上しました。今日の対談をお願いしようと思うきっかけは、竹富島憲章と町並み保存の運動の歴史、それから20年たちまして、竹富島が離島なのに人口も増え、いろんな意味でがんばっておられることを知ったからです。竹富島憲章を基にして集落づくりの歩みがあり、その基礎に竹富公民館があるように思います。今日は、「竹富島憲章と竹富公民館」というタイトルでお話を伺いたいと思います。
 最初に上勢頭芳徳さんの自己紹介からお願いします。私もはじめてお聞きします。
上勢頭; 改めて名乗るほどのものでもないけど、隠すほど悪いこともしていませんので(笑)。1943年長崎生まれで、あちこち転々としてきたんですが、33年前に、1974年復帰の翌々年の5月15日にこの島に移住してきました。最近、竹富も八重山も沖縄も移住ブームですが、初期の移住者ということになるかもしれませんね。後で話が出て来ると思いますが、八重山の歴史は移住の歴史なんですね。竹富もそうなんです。600年ほど前に六個の集団が相次いで北の方から渡ってきて、こんな小さな島ですが、六つの村を作って生活していた、という伝承があります。元々から住んでいる人たちはその六つの集団の子孫ということになります。平家の落人の伝説もありますし、倭寇の伝説もあります。そういった人たちが住み着いていったのが竹富島ということになります。
小林; 最初1974年に竹富にいらしたときは、ふらふらっと遊びに来たわけですか?
上勢頭; その時はもう覚悟してきました。
小林; カメラですか?もともとは…。
上勢頭; それもありましたけど、以前学生時代にこっちまで遊びに来たことがあったんですよ。石垣島に3日間過ごして、竹富島にはほんの何時間かしか居なかったんです。その後、卒業して人並みに就職もしましたが、どうも都会は性に合わないということに気づいて、ふと思い出したのが竹富島でした。あても無かったのですけど、ここに住もうという覚悟では来たんです。それがこうして今に至っています。
小林; じゃあ、復帰の年には、島にはいらっしゃらなかったんですね。
上勢頭; そうなんです。いわゆる激動の復帰の時期の土地問題は、私が来た時はもう一応落ち着いていました。

 復帰前後、本土資本による土地買い占め
小林; 復帰前後に八重山、たとえば川平湾の周辺、そして竹富もふくめて本土資本による土地買い漁りが始まる。土地を手放す人が多かったと聞いていますが。
上勢頭; 私が来た時にはもう沈静化していましたが、そのあとの町並み保存運動の中で以前の事を聞いていきますと、それまで、島の人は、土地が売れるとか商品になるとか全然考えてもいなかったんですね。ところが復帰の前の年、1971年というのは、3月から10月まで雨が一滴も降らない大干ばつが続いて、その後台風がやっと来たと思ったらこれが雨をもたらさないで、ぴーかじ台風といってますが、火の風、まったくの潮風で、旱魃で痛めつけられていた農業が完全に息の根を止められたわけです。そういった自然災害、そして翌年には復帰が控えていて、しかも71年の9月にはドルが変動相場制に移るんですね。そしてどんどん下がっていって、ドルとしての資産価値も目減りしていく。これで復帰したらどうなるんだろう、という社会不安もある。税金も払えない、生活にも事欠くという状況の中、土地を買ってくれる人があるらしい。これはありがたい、とお土産まで持っていって、「ありがとう、お願いします。」と言ったという、そんな話しまで聞きました。島の人たちは土地が売れるとか、もっと高く売ろうとかまったく考えていなかったんですね。それをいいことにして一坪10セントとかそんな値段で、札束で顔をひっぱたくというか、ひっぱたくほどでもなかったかもしれませんね。やすやすと、ですね。それに気づいた人たちが、こんなにして土地が買われていって所有権が発生したら、所有者の権利が強くなり、そうしたら、自分たちが祖先から営々と引き継いできた文化も変質していくし、景観も変わっていくことになるだろう。生き方も変わらざるを得ないだろう。そういったことに危惧を持った人たちが、企業による土地買占めに反対運動を起こしたわけなんですね
小林; 当時は八重山群島の中で竹富はそういう土地買占めは早いんですか、遅いんですか。例えば小浜島とかありますよね。竹富に集中したところがあるんですか?
上勢頭; そうですね、大きいレベルから言ったら、石垣島が海岸線のいいところからどんどん買われていった、ということですね。その頃は竹富島は、民芸協会の人たちから民芸の島として、戦争の被害も受けていないので美しい集落景観が残っている。そして芸能の宝庫だ。民話・民謡・民俗の宝庫だということで、紹介されていたのです。八重山の中では、石垣島に次いで名前は知れ渡っていたでしょうからね。
小林; そういう動きの中で、この問題は竹富島の将来にかかわる、いい方向ではないと気づく人たちがいて、竹富島を「生かす会」などの取り組みが始まる、どういう動きだったのでしょう。
上勢頭; 島の人もこれでいいのか、と思っていたところにやっぱりそういった民芸の人たちの、これは大変なことになるよ、というアドバイスがあったわけなんですね。せっかく竹富島がこんなにしてきちんと守ってきたのに、企業なんかにむざむざ売り渡したら大変なことになるよ、とそんな例は日本中にいっぱいあるんだから、とアドバイスしてくれたんですね。

 日本民芸協会の来島
小林; 民芸協会の人というのは具体的にいうと?
上勢頭; 一番中心になってやってくれたのが、倉敷の民芸館長だった外村吉之介さんです。この方が昭和32年の12月24日に初めてこの島に来られて、まだこんなところがあったか。景観も素晴らしい。そしてなんといっても外村先生は織物の先生ですから、みんさーとか芭蕉布とかに目をつけられて、こういったことを大事にしなさいというアドバイスがあったのですね。口先だけで大事にしなさいというだけでなく、ちゃんと経済的にも自立できるような方法をやってくれたわけなんですね。これが、信用される元だったんです。おばさんたちが作っている織物や、おじさんたちが作っているかご類なんかもどんどん作りなさいと。作ってどうする、誰も買ってくれないのにというと、倉敷に送りなさいと。そして全国に販売してもらって、生業としてやっていけるようなそんなことをやってくれたんですね。そして何年かおきには、民芸協会の人たちを連れてやってきたんです。
小林; 民芸協会の人たちが島にやってきたのは、何年ですか?
上勢頭; 1964年、昭和39年です。那覇で日本民芸協会の全国大会があった時に、500人くらい集まったそうですけど、そのうちの80人を外村先生が、竹富島まで連れてこられたわけなんです。事前に連絡が来るわけですから、作りためていたものを、この家(上勢頭家)を竹富民芸館として、ここをぶちぬいて、竹ざおに織物なんかをかけていっぱい並べて、展示即売会をやってたいしたお金が落ちたそうです。濱田庄司、芹沢圭介、バーナード・リーチとかそうそうたる人たちが、外村先生に連れてこられたわけなんですよ。沖縄タイムスには数ページにわたって竹富島での様子や印象が座談会で語られています。そんな風にして全国に紹介されていったんです。そして復帰の頃の土地買占めについても、外村先生がそういった人たちや松方三郎も引きずりこんで「古・竹富島保存会」を作られました。それが、1971年のことですね。
小林; 「竹富島を生かす会」というのができたのはいつのことですか。
上勢頭; それはその後です。この「古・竹富島保存会」ができて、それと呼応する形ですね。
小林; 「竹富島を生かす会」は、復帰前後と思っていましたが。
上勢頭; 同時とみていいでしょうね。「生かす会」は地元の組織、そして「保存会」は民芸の人たちを中心とする外部の組織。
小林; この「竹富島を生かす会」の内部の方は、当時は芳徳さんはまだいないわけですが、どういう方たちが中心になっていたんでしょうか。
上勢頭; 竹富には三つの集落がありますけど、それぞれの集落に「生かす会」の顧問がいるわけですね。西には上勢頭亨、東は大山貞夫、仲筋集落は島仲長生。そしてその取りまとめ役を上勢頭亨がやっていました。その頃、亨の弟の昇が竹富町会議員をやっていましたので、実働部隊として、昇が中心となって動いていったんですね。
小林; 公民館という名称が始まるのが1963年で、そして1971年に前の公民館の施設が完成して、公民館の落成を記念して、あの例の「おきなわのふるさと・竹富島」上勢頭亨、山城善三お二人による本が刊行される。竹富公民館としての発行です。1971年というのは竹富にとってなかなか大事な年ですね。

 公民館・まちなみ館
上勢頭; そうなんです。復帰を控えて社会不安もありましたけど、その中でアメリカの高等弁務官資金の援助で公民館の建物を造ったんです。竹富の人というのは、補助をもらう時でもただ、くださいくださいと貰うんじゃなくて、相手の心をつかむような努力をするんですよ。米国民政府の人が視察に来た時も、大変な歓迎をしたのですね。小浜島とかよその島ではそんなことは無かった。だから、竹富にはよその島よりも格段の助成があったと、そんな話も聞いています。
 今のまちなみ館を造るときでも、ただ造ってくださいではなくて、1971年に造った建物が老朽化して雨漏りがひどくなって、何度も修理やってきたんですけどこれが追いつかない。どうしても造り替えなくちゃいけない。町にも県にも国にも建て替えのメニューが無いかと調べてもらっても、竹富島は農村でもないから、竹富にマッチするメニューがなかったんですね。それでもどうしても必要なので、竹富では積み立てをやっていったんですね。70歳になって老人会に入会する人たちは一人一万円拠出する。公民館建設資金という基金の口座を作って、そこに積み立てるんです。そして、生まれ年のお祝いを公民館に集まってもらって、島を挙げてやるんです。今年は亥年ですけど、48回目だったんですが、お祝いをやってあげるから公民館に寄付してください。ということで、それを積みたてるんですよ。そういうことを営々と積み重ねてやってきたんです。
 人数が少ないから、11年間積み立ててきても三百万くらいですけどね。そうこうしてるうちに、竹富は町並み保存地区になった。それでもまだ公民館建設のめどがつかない。文化庁の担当官が視察に来た時に、石垣に戻ると言うのを引きとめて、夜通し飲みながら、通帳も見せて、こんなにしてやってます、何とか考えてください、どうしても必要ですと。そういった熱意が通じたんでしょうね。夜中の3時過ぎまでやってましたけど。
小林; 高等弁務官資金による建設は1971年のこと。その後の文化庁による現公民館、「まちなみ館」の建設は?
上勢頭; 2000年のことです。要するに竹富島は、くださいくださいというだけでなく、自助努力をしていると言うことです。文化庁の担当官も、その時には分かったとは言いませんでしたが、帰ってから10月の補正予算で大蔵省と大喧嘩してまで、一億五千万円つけてくれました。文化庁というのは、古いものを修理するのが仕事なんです。新築のために、なんだこれは、と大蔵省から言われたそうですが。
小林; 公民館という名称を残そうという声はなかったんですか。まちなみ交流という言葉はとてもいい言葉だと思いますが、これは竹富の方から出したことばですか。
上勢頭;文化庁が大蔵省に計画を出す時の事業計画名称が、「町並み交流センター・町並み資料展示室」という名称で出したんです。それで最終的に名称をどうするかという時に島の人は、最近は何でもセンターセンターで、面白くない、ということで「まちなみ館」というのが地元からの発言でした。しかし、阿佐伊孫良さんは帰ってきたばっかりだったんですけど、反対しました。「何が。公民館というべきだよ。」と言って。
小林; ああ、目に浮かぶようだなあ。
上勢頭; 孫良さんだけが抵抗しました。その時の公民館長が前本隆一さんで、「孫良、そういうけどね。まちなみ館でいいじゃないの。」と言って。
小林; 前本隆一さんは、まとめ役ですね。
上勢頭; 公民館長というのは調停役ですからね。公民館長は大統領だって言いますけど、調整型の大統領ですね。

 竹富島を生かす会
小林; 話を元に戻しますと、復帰前後に「生かす会」が出来て主にやった活動はどんなことでしょうか。
上勢頭; 主には島の活動を保存会の方に流していって、全国に支援の土壌を広げていくということですね。1971年の台風で清明御嶽の建物が倒壊しました。その時に保存会の人たちが全国から募金して、送金してくれて御嶽を建て替えることができました。現実的にはそんな面でも支援があったということですね。島内ではまだまだ保存するって事に対して疑問に思う人もいっぱいいたわけですから、そういった人たちを説得していくということですね。
小林; 民宿の泉屋さんに入ると、生かす会の「竹富島のこころ」という一文が石に刻んでありますね。これは1971年に作られた文章ですか。
上勢頭; 文章そのものは1972年になってから運動の中で作られたんです。1971年に作られた「妻籠宿憲章」というのがあるんですね。復帰前から沖縄の環境問題に関心をもって、何回も通っていたいた山村恒年さんという大阪の弁護士さんがいたんです。その人が教えてくれた「妻籠宿憲章」を、竹富島に合うような形に作ったのです。
小林;1972年あたりには案はできていたんですね。一方で土地買占めは復帰前からずーっと進んでいて、大体島の面積のどれくらいが買い占められていたんでしょうか。
上勢頭; どの段階をもって買い占められたというかですが、登記されたもの、仮登記されたもの等ランクがありますからね。そういったことで漠然とですが、島の3分の一とか4分の一とかそんな言い方をしていますね。
小林; そして生かす会の動きがあってそれを買い戻す。
上勢頭; 買い戻すのはもっと後です。もう少し72年の段階を言いますと、その買占めに対する反対運動ですね。それを「生かす会」が・・・
小林;生かす会は買占め反対をやるんですね。
上勢頭;島内ではそれが主な仕事ですね。そして企業誘致派を説得していく。竹富出身で石垣にいる人が手先になって、買占めに動いていたんですね。ブローカーみたいにですね。そんな人たちを説得して回っている内に、酒ビンで殴られたりとかそんなこともあったみたいですよ。それで島の中で土地を売っている人がいるから、“金は一代、土地は末代”という看板たてて、プラカード持って“土地を売るなと“シュプレヒコールして回ったといいます。上勢頭同子(ともこ)もそれをやったそうです。そういった反対運動の激しさもマスコミで報道されて、だから企業もびびって侵出して来ることはありませんでした。
小林;公民館としては、そういう「生かす会」の動きや、シュプレヒコールや看板にたいしては、どういう対応だったのですか。


「竹富島のこころ」竹富島を生かす会(民宿・泉屋、20070207)

 1980年代の動き
上勢頭; 公民館とタイアップしたって事は聞いてないんです。つまり、集落として意見は分かれる。売った人もあるし、買い戻そうという人もある。それでそんな反対運動の激しさに企業も断念ではないけれど、侵出は一応ストップしたわけです。それが10年くらい経過して、またぞろ企業が老人会の幹部たちに根回しを始めたわけなんです。企業から老人会との契約条件を明記したものがFAXで来ているんです。それでその時に、生かす会はもう会としての確固たる組織は沈滞してたもんですから、「竹富島を守る会」としたわけなんですね。これは便宜上のことで。それが1982年ですね。
小林; この前、東京竹富郷友会の会合に行きましたら、「創立60周年記念誌」(1985年)をいただきました。その中に1982年に竹富の公民館館長さんが、東京郷友会に対して日本習字連盟の土地買占め問題に対して意見を問うていますね。「島外資本の観光開発」をめぐる動きです。それに対して東京郷友会は「他資本の誘致を考える事は将来に禍根を残す」、土地を守るべきだ、と回答を出した文章が載っています。ちょうどその頃ですね。
上勢頭; 習字連盟がいろいろとFAXで提示したりして・・・。
小林; 私たちは知りませんでしたよ、習字連盟がそういう動きをやってたなんて。
上勢頭;福岡に日本習字連盟の観光開発部門があったんですね。
小林; 沖縄にかなりアクセスしてきたんですね。竹富だけじゃなく。
上勢頭; その中で竹富は名前もかなり知れ渡ってたから、ここがいいって事ではじめたんでしょうね。一方でそんな風にして東京郷友会にも働きかけたり、郷友会も興信所を使ってこの会社がどんな会社か調べたんですね。その時の東京の幹事長だったのが、阿佐伊孫良さんだったんです。孫良さんはずっと東京で、郷友会活動に活路を見出してそれでもう必死になって会活動やってた時期です。その会社のことも調べたりして。
小林; その当時は、芳徳さんはもうすっかり竹富島に定着されていた?
上勢頭; 私が実際活動を始めたのは、その頃からのことですね。それで生かす会ではなくて、守る会の名前で、八重山毎日新聞にアピールを出しました。習字連盟がこんなにして入ってくることに対してアピールを出したんです。これがまた劇的で、声明文作って新聞社に出したんですけど、これがまぁ、間の悪いことにその日は新聞社がストライキで、それで管理職がようやく発行したんです。そんなようにアピールしていくわけですが、そんな中で今度はマスコミが、あ、この運動は本物だな、と認めてくれたんでしょうね。そしていろいろ、ちょうちん持ちではないんでしょうけど、好意的に取り上げてくれるようになりました。
小林; 当時は外部資本は習字連盟だけですか。他のヤマハとかは無かったんですか。
上勢頭; ヤマハだって竹富でやりたかったんですよ。しかし竹富は反対運動があるからあきらめて、それで小浜に行って「はいむるぶし」を始めたんですね。しかしあれだけの豊年祭などの伝統行事を大事にする、結束の強い小浜島が、何でこうも簡単に土地を明け渡したんでしょうね。その後もいろんなのが小浜には入ってきましたから、これが私は不思議でならないですね。まあそれはともかく竹富には、名鉄が入ってきました。名鉄が入ってきたのがこれがまさに漁夫の利を占めたっていう感じですね。土地を売るなといって「生かす会」が運動しているそんな中で、竹富出身者で石垣島で成功している人たちがですね。自分たちが開発会社を作って、大和の企業にに売るくらいなら自分たちに売ってくれと、習字連盟に対抗していったんですね。
小林; 竹富島出身の方々が会社を立ち上げたんですね。
上勢頭; そうなんです。そんな人たちがやっていったけど、事業するでもなく、そうやって集めた土地を名鉄に転売してしまったんです。何のことは無い、名鉄はやすやすと手に入れることが出来たんです。名鉄は表立った動きはありませんでしたが、1982年に習字連盟の問題が起こって来ます。守る会から外部企業の侵出反対のアピールを出して呼びかけている中で、町並み保存のゼミがあるよと伝わってきたんですね。

 町並み保存運動・憲章制定
小林; 町並み保存運動はどんな経過で伝わりましたか。
上勢頭; 今も保存審議会の会長をやってもらってる京都大学の三村浩史名誉教授ですね。もう今は退官されていますけど、この先生が復帰前から竹富にずっと関わって昭和50年には日本観光資源保護財団(現・ナショナルトラスト)の調査で竹富島を調査しているんですよ。そんなことで三村先生はずっと関わってきた人ですし、竹富がこんなに混乱しているということで、その年の全国町並み保存のゼミが東京の駒場エミナースで開催されるから、そこに参加して竹富のことを訴えたらどうかと教えられました。当時の公民館長、竹盛登さんと上勢頭同子、東京郷友会の幹事長の阿佐伊孫良さんの3人が参加しました。島の実情を訴え、全体会議で竹富島の風致保存運動を支援する決議が全会一致で採択されました。その夜、同子から電話がかかってきて、「決議が採択されたよ」と。あの頃FAXは無いから、電話で読ませてそれを書き取って、それを八重山毎日新聞に出したんですよ。そんな運動をやっていく中で、侵出しようとしていた企業の幹部がピストルを密輸入して捕まっていたことなども新聞に出て、これまで誘致と言ってた人たちもみんなぴたっと口を閉じてしまいました。
 しかしいつまでも、もぐらたたきみたいなことばかりやっていても仕方がない。ちゃんとした方針を打ち出そうということで、公民館として憲章作りに取り組もうとなったんです。その時の公民館長が上勢頭昇、亨の弟です。そして憲章制定委員会というのを作って、原案をいろいろ検討して、それを公民館議会で検討してもらって、議会でも字句訂正くらいで済みました。そして3月31日の公民館総会で、満場一致で承認されました。
小林; 1986年のことですね。その案は皆さんで考えられたわけですか。
上勢頭; 案は1972年の土地闘争の時に、弁護士の山村恒年さんと生かす会で出来ていたのです。きちんとして作り上げていこうという時に、これは公民館として取り組もうとなりました。

 竹富公民館の議会
小林; 竹富島の公民館では全国でも珍しく「公民館議会」があります。竹富だけかもしれない。普通は運営審議会といいますが、議会というのは格調高い表現ですから、ちょっと竹富の公民館の話をお願いいたします。竹富島はもともと三つの集落から成り、それを支会とおっしゃっている。それぞれの支会の集まりがあり、そこから代表が出る。今は「公民館主事」といっておられますが、元々は公民館主事と言わずになんと言ったんですか。
上勢頭; スーダイ
小林; あ、スーダイ。つまりスーダイが三人いらっしゃる、全体に公民館の館長さんがいて、その下に三人のスーダイ、つまり総代ですね。あるいは副館長という役職も公民館規約に示されていますが。
上勢頭; 副館長は最近のことで3年前からです。今は主事2人でその中の1人が副館長です。1983年までは館長と主事3人制でやってきたのですが、上勢頭昇公民館長の時に機構改革ということで、主事1人ということになったんです。しかしこれはもう大変だってことになって、翌年から館長1人主事2人制になりました。その主事も、館長が一緒に仕事をしやすい人を選んでいました。それが公民館長が出ていない支会から責任を持って主事を出す、ということになったのは私が主事になった時だから1991年からです。そのときの前本隆一館長が仲筋ですから、東集落から内盛佳美、西集落から私が出て、それから今の体制になっていますね。竹富に限らず伝統的集落では自治意識が高いので、移住者が公民館の役員になったのは私が初めてです。三つの集落(支会)があって、それぞれ毎月15日には村ムーヤイといって、集まり、例会をもちます。
小林; 公民館の財政面ではどうでしょうか。
上勢頭; お金も出し合います。お金の出し方は支会によって違うようですが、西支会の場合は18歳から69歳までの男世帯は500円、女世帯は300円、老人世帯は200円、というふうに会費を出します。その会費を一年間の運営費に使うわけなんですね。東部落は何も集めてない、仲筋は1世帯500円集めています。そんなにして例会を持って、いろいろ問題点を論議したりします。
 例えば環状道路を作るときでも、環状線のルートをどうするかを各支会に任せて、そして接合部分を微調整しながらやっていったんです。だから直接民主主義なのですね。そこから選ばれた人が公民館の議会議員になるんです。各支会から顧問1人と議員が2人。それに老人会長、婦人会長、青年会長を加えて計12人です。そして校長、郵便局長、町会議員はオブザーバーで必ず参加しますね。
小林; 議会はいつから始まったんでしょうね。公民館館長制が始まった1963年から開いていたんですかねぇ。
上勢頭; 私が来た1974年には少なくともありました。
小林; 当時も「公民館議会」と言っていましたか。
上勢頭; これはですね。竹富は議会だよ、単なる評議員会じゃないよ、ということはもう何回も聞かされています。それでまた、調査に来られる先生方も最近は、公民館のあり方とか、そういった調査で社会学の先生方が多く来られるようになりました。竹富の公民館は規約があり、予算・決算書をちゃんとやっていて議事録がある、という要件がそろってるから議会といっていいということのようです。
小林; 一般的には、運営審議会ですよ。
上勢頭; 評議員会とかですね。
小林; 運営審議会ってのは、運営審議、下の二文字だけとると「議会」なんですね。だから上をはずしただけなのか、そうじゃなくて、こここそ基礎的な自治体だと考える、住民自治の基本単位だ、だから議会だと、基本的なことを自治的に議決していくのだという考え方なのでしょうか。
上勢頭; 自治意識が非常に強いと思います。単なる追認機関ではないのですね。それは現に、女性校長の与儀啓子校長が、那覇の教育委員会から竹富の校長として赴任して来られたんですが、議会に出られて「竹富の公民館議会はすごいね。那覇市議会よりすごいよ。」って言ってましたよ。「これくらい地域のことを真剣に考えてるんだね。」っておっしゃってましたから。それはもう大変ですよ。
 三支会の競争意識も強いのでまとめていくのは大変ですし、祭事行事も多いので、役員の任期中は自分の仕事はほとんど出来ません。

 住民憲章づくりと公民館
小林; 竹富島憲章ができるのが1986年。その憲章を公民館として確定していくために取り組んできた経過が重要ですね。公民館に憲章制定委員会が出来る、そして議論をしながら公民館議会で、さらに総会で決定するという流れだと思いますが、公民館での取り組みの説明をちょっと・・・。
上勢頭; 各支会には憲章委員がこんなにして憲章作りをしていると報告して、それについて意見を聴取してやってましたね。だから順序としては、各支会の月例会があって、月例会から制定委員会、それから公民館議会、そして総会へと。
小林; 憲章制定委員会が原案を作るわけだから、それが支会に流して、そして議会に上げて、そして総会へ、という流れですね。どのくらいの議論がありましたか?つまり反対意見もありましたか。
上勢頭; その時に私が制定委員会の準備をしてましたから、思い出してみるのですが、ピストル密輸事件とかあった後だったから、反対意見があった記憶が無いですね。
小林; 憲章の本文を拝見するとかなり長文ですよね。普通一般に伝わっている憲章のイメージは、保全優先の原則「売らない」などの5項目だけが特徴的に言われていますが、実際の憲章はかなり長文ですよね。
上勢頭; 長文ですけど、前文がいいですね。
小林; 前文がいいですね。それで一方では、妻籠の前例がありますし、また当時は川越の動きも視野にあったんですか。
上勢頭; 川越に気づいたのはもっと後のことですね。白川も後です。
小林; 妻籠が一応モデル、それを生かしながら五項目が出来て、そして竹富島らしい5番目の「生かす」というのがいい。ひとつのポイントですね。
上勢頭; それをいうために前の4項目があるんです。妻籠の憲章は「売らない、貸さない、壊さない」です。しかし竹富は「貸さない」は省きました。当時は空き家がいっぱいあったわけですから。むしろ本当に島に協力する人に貸そう。そして貸すんだけど、ずるずるずるずる住まわせることは、また出て行くときに居住権とか、移転料を請求することになるから、そんな権利を発生させないような貸し方をしよう。そしていい人ならば契約更改しながら行けばいいじゃないか、ということで「貸さない」というのは省きました。「生かす」ためには「売らない」ってことがポイントですね。
小林; 「売らない」については、ある意味では、私権の自治的な制限になるわけですね。
上勢頭; 憲法違反です。
小林; 私有財産権というものを自治的に制限しようとするわけですからね。これは具体的にそういう問題が出てきたことはありませんか。私は売りたいのに、ここでは「売らない」という原則がある。実際に売る契約を始めた場合には、法律的には売ることが出来るわけですよね。そういう問題が出てきませんでしたか。
上勢頭;「売らない」っていう憲章をつくったのは、企業による土地の買占め、また個人に対する売却等あったから、だから堅持したんです。しかし憲章というのは宣言のようなものだから、法的な拘束力はたぶん無いですね。無いけど、みんなで決めたことが一番強い。憲章に違反したら住めないんじゃないか。そんなトラブルまで起こして喧嘩しながら住んでもどんな意味があるだろう。とまあ、そういったことで「売らない」ということを入れているわけです。それでもやっぱり売られていってることもあるわけです。どうしても売らなければならないときには、先ず身内で、島内で、郷友会でと話を進めて、島外に出さないようにしています。しかしこれを打ち出していなかったら今頃、竹富はみんなもう買われてしまってます。百パーセント守られてるわけではないけど、やっぱりこれは打ち出してよかったと思います。だからこれだけ島を守って来られたんだと言えます。土地を自分のものにしたら所有権を主張するでしょう。きちんと理解してくれる人ならいいけど暴力団とか、某宗教団体とか、そういったものが入ってくるのが一番怖いわけですから。


竹富島公民館(まちなみ館、20061121)

 重要伝統的建造物保存への道のり
小林; 1986年に憲章ができて、1987年に大きな動きが・・・
上勢頭; 重伝建の選定ですね。
小林; その経過をちょっとお話しくださいませんか。
上勢頭; そんな運動を続けていってる中で、重要伝統的建造物保存地区、いわゆる町並み保存地区、これは文化庁の管轄下になるわけなんですけど、これを目指した方がいいということになりました。
小林; それはどのあたりがヒントになったんですか。
上勢頭; ずっと応援してくれてる三村先生とのコンタクトの中でですね。重伝建というのは、伝統的な建物が良く保存されている地域を守ろうということです。文化庁からはいっぺんにどっとお金は出ない。しかしそれは永続的に続いていく。だから一挙に変わるということはないし、少しずつ変わっていったほうがいいって事で、そういったアドバイスがありました。そしてその頃まではですね、町の行政も無関心でした。だって新しいことやりたくしないでしょ。そういった運動を続けていく中で、妻籠の人たちが出てくるわけなんです。妻籠の人たちは、苦労して町並み保存地区の第一号を獲得したわけですから。妻籠の人たちは竹富に来て、「おい、おまえら、すごいぞ。こういったことは宝物になるんだよ。俺らはこんなに苦労してやってきて今はいい目にあってる。お前らにはもうこんな苦労させることは無い。ノウハウみんな教えるから。」といって、こんなこんなとみんな教えてくれました。
小林; どうして妻籠の人たちは来たんですか。
上勢頭; それはですね、沖縄県もいろんな人たちから、竹富は何とかしたほうがいいんじゃないか、と言われていたようです。文化庁も各県に一つくらいは保存地区をつくるべしということで、調査をやるんですね。文化庁も沖縄に目をつけて、そして県が候補としてあげたのが、沖縄本島の奥、安田(アダ)、首里の金城町、八重山では川平、竹富、波照間、与那国などです。こういったところを候補に挙げて、文化庁が何回も視察に来るわけですね。
 その中で、竹富は復帰の頃から守る運動が、生かす運動が続いてきてますから、そういった運動体がある。保存していこうという意欲がある。意識がある。よその地区はこれが無いんですよ。特にあの頃の波照間島なんか、私が見ても竹富島よりずっとよかった。だけど波照間の人はそういった伝統的なものとか、そういったことを残してこれを保存しようとかそんなことは全然考えない。文化庁が視察に行ってもですね、農業で飯が食えるからそんなことは知らんとほったらかしです。竹富は農業も、こんな石がんぱらのところでは埒が明かない。過疎化していく、高齢化していく中でこれしかない、ということで保存に力を入れていました。だから文化庁にも竹富って事はインプットされて・・・。
小林; 候補にあがるわけですね。
上勢頭; 有力な候補に上がりました。それにはやっぱり、三村先生や、いろんな人たちがアナウンスしてくれてるからだと思います。そんな中で沖縄県もそれじゃあって事で、竹富から先進地視察に行かせるわけですよ。それで妻籠に何回か行ってるんです。高那石吉さんも行ったし、上勢頭同子も行きました。当時、妻籠には全国町並み保存連盟の本部があって、幹部たちも竹富島に視察に来ていました。彼らがすごいすごいって言ってくれたんです。しかし町の行政も乗り気でないもんだから、それで妻籠から昭和59年12月4日に大挙して、視察という名目で34人がオルグに来てくれました。
 妻籠が竹富に交流に来るって事が県にも伝わって、那覇空港で乗り換えの時に県の教育長たち、首脳部が迎えて那覇空港の貴賓室に案内して歓談したそうです。それが竹富町の教育委員会まで電話で伝わったんですね。そしたらもう竹富町は、県がこんな対応するんなら大変だということで、妻籠の人たちが石垣空港に着いたときには町長、助役、収入役、教育長、4役そろい踏みで迎えました。前代未聞のことですね。町長、教育長はそのまま竹富まで一緒に来ました。公民館での歓迎会で、町長、県の担当者、妻籠の林文二会長、上勢頭昇公民館長がみんなの前で、がっちり握手して、「やります」っていうことを町長が宣言しました。
 友利哲男町長もそれまで乗り気でなかったのですが、後になって「自分も竹富出身だから、島のことはやりにくいのだよ」と弁解してましたけど。そんなことがあってそれから動き出します。その時点でもまだ文化庁サイドって事はなかったんです。県の観光条例に基づく保存地区、を念頭にしてやっていたんです。しかしこれは県ではとても対応できない。文化庁の「重伝建」に振った方がいいということになりました。
小林; すると憲章づくりとこの文化庁選定は平行しながら動いているわけですね。
上勢頭; そうですね。文化庁が選定するには条件があるわけなんですね。町が保存条例を作って、それが担保になる。行政がそれをやらないといけない。だからどんなに住民運動が、がんばってもですね、行政が条例を作らなかったら実に成らない。
小林; 竹富町の条例は、竹富島の地区選定の前に出来たんですか。
上勢頭; そうです。条例が出来たから文化庁がそれを担保として、そうか、ということで、それで選定ということなんですね。しかしただ行政に条例を作らせて、それで事足りるじゃなくて、やはり自分たちも憲章をつくって意気込みをみせる努力をしようと。憲章がなくても選定になったところはいくらでもあるんですよ。しかし私たちは自分たちの決意を内外に示すためにも、憲章をきちんとつくりました。だから町も至急に条例作りをやってくれと。
 面白い話がいっぱいあるのですが、今年は選定20年だから、これを機会に20年誌を書かんといかんなあと思っています。その時の教育委員会の担当者は町長とあまりうまくいかなくて、教育委員会に飛ばされたんです。島仲信良といいますが、彼もいろんなやる気のある人ですから、何かできることは無いかって思ってたんでしょうね。それで、重伝建、これをひとつやろうと。また、その島仲課長の奥さんが竹富出身なんです。だから奥さん孝行にもなるし、そこまで考えたかわからないですけど、島の運動の実績はあるから、ちゃんとした条例を作ればいける、とふんだんでしょうね。それでも町長はまだうだうだしてたから、相当やりあって実現していったんです。

 観光への結びつきと人口増
小林; さて、一晩中お話を聞くわけにもいきませんので先を急ぎましょう。それから20年たって、この憲章づくり、文化庁の選定、大きな成果がありましたが、課題もあるかと思います。総括的にみて、観光の問題がひとつありますよね。観光がずーっと増えてきた。その点ではいわゆる過疎にならないで、観光で生活を立てていく人も出てきた。またミンサー織など民芸・工芸の可能性も大事ですね。これからの展望や課題についてはどんなことがありますか。
上勢頭; その地域が活性化してるかどうかを判断する指標として、人口がどんなに推移しているかが挙げられます。竹富はこの15年ずっと増加してるので、活性化してるといえるでしょうね。
小林; ここに人口の統計表がありますが、一番低くなったときが・・・、
上勢頭; 1992年に251名まで下がりました。竹富島の歴史上最低の数字です。そしてそのあと連続増加しています。現在2007年で361名です。15年間で110名増えたことになります。
小林; それはUターンの人たちが増えたんですか。
上勢頭; Uターン、Iターンです。Iターンというのは竹富出身ではない人たちが移住してきたんですね。どうしていい結果が出てるかというと、憲章を作って、きちんと守ってきたから、これが観光と結びついたんですね。まあ、あんまり観光観光といいたくはないんですけど、やっぱり霞を食って生きてるわけにはいかないから。憲章を基にして自然環境、伝統文化を大事に守ってきたから、今では国指定を八つも持つような、そんな島になりました。
小林; 八つとは何ですか。
上勢頭; まず、年代的に言ったら復帰の年に国立公園ですね。西表国立公園という名称ですが、竹富はすっぽり入っています。二番目が、昭和52年、1977年に種子取祭が重要無形民俗文化財に指定されました。三番目が1987年に町並み保存地区。四番目が1989年に、みんさー、上布が伝統的産業品。五番目が昨年、西の桟橋が登録有形文化財。続いて、なごみの塔が同じく登録有形文化財。そして、七番目に蒐集館の資料が今年2007年の1月19日に沖縄県で第一号の登録有形民俗文化財。八番目が船の通行を監視するために烽火を上げた火番盛跡が3月に国の史跡になりました。こういったことが観光資源になるわけなんですね。そして観光客が増えてくる。360人の島に去年は42万人です。明らかに多すぎます。
 しかしそれだけ観光客が増えてきたということは、雇用の場が出来るということですから、若いのがUターンで帰って来る。自分の住む所、生きる所を捜し求めている人たちが、ここだここだと居ついてくれる。そんな人たちが結婚して、子供も生まれているんです。
小林; 子供の数も増えているんですか。
上勢頭; もちろんです。
小林; 学校ももちろん存続して・・・
上勢頭; おかげで複式学級が解消しました。今、学校が統廃合されるかどうかって日本中で問題になっています。離島・僻地だけでなく都市部でもですね。郡部、とくに離島では学校がなくなるということは地域が崩壊するということと同義語ですから、子供が今何人いるか、増えているかということにこれからも注目していきます。

 “うつぐみ”の島 
小林; だけどそういうIターンの人や、いろんな方が来ると、また観光で連日いろんな人たちが来ると、新しい問題も出てくる。これまでの自治・協同の伝統を生かして、これからも地域がお互いにうまくやっていけるかどうかですね。
 ここで竹富島の“うつぐみ”の話をしていただきたいんですが・・・。20年来の歩みとこれからの方向について、この共同の思想というか互助の精神というか、どうみておられますか。
上勢頭; うつぐみ、という言葉は一致協力するということですね。これが竹富島のキーワードです。こんな珊瑚礁の、生産性の低い小さい島では、協力しないと生きていけないよということです。これを支えにしてみんながんばってきたんだと思います。だから今、よそからの移住者も増えてくると、この島のことをどれくらい理解して住んでいるかですね。そんな人たちに、どうやってこの島の生き方・あり方を伝えていくか。どうせ住んでくれるなら、きちんとした形で住んでもらうということですね。教える人にしても個人差があるでしょうし、住み方のマニュアルを作らなければいけないということを一昨年くらいから言い出しています。
 朝は道路を掃除して箒の目を立てること。ちゃんと挨拶をすること。生活費以外に一ヶ月に費用はいくらかかりますよ。竹富島憲章というのがあります。守ってもらわなければいけません。そんなことをちゃんと伝えていく。そういったマニュアルを作らなくてはいけない。これがきちんとできないと苦労するのは、公民館執行部だよ、調整委員会だよといっています。マニュアルに違反する人には、もういいです、出て行ってくださいと言えるようなそんなマニュアルを作らなければいけません。しかし協力する人は本当にかわいがって、ますます協力してもらえるような、そんなマニュアルを作るべきです。
 今度の新館長はもう必ずこれはやる、と明言しましたので、実現すると思います。そういうことで、課題は移住してくる人たちにもきちんとした島でのの住み方を理解してもらう、ということで解決できると思います。現にそうして住んでいる人たちが特訓を受けて、あの種子取祭の舞台で芸能を奉納する人もいるのですから。
観光の問題では、観光客がこれだけ増えてくると、自分のところへの囲い込みが始まったらますます格差が広がっていきます。妻籠の人たちが、ノウハウを提供してくれたのは実はそういったことなんです。自分たちは理想の理を追求していい町づくりをやってきた。これが軌道に乗ってうまくいくようになると、今度は利益の利を追求する人たちが出てくる。だんだんなし崩しになってくるから、お前たちも注意しろよと言われました。と言うことで、竹富島では、観光業者は公民館に協力費を拠出する、といったことを21年前からやっているんです。憲章ができた時からですね。

 集落協同の取り組み
小林; 公民館の予算書を拝見しましたが、大体予算の半分くらいは観光関係の方々が「公民館協力費」として負担していますね。
上勢頭; 査定をして、ランクをつけるのです。ランクをつけるのも公民館の議会がやるんです。別に納税証明書とかそういうのでなくてですね。
 公民館の重要な仕事は祭事行事をきちんと行うことです。1949年に祭事執行部を選出して、一時期は祭政分離しましたが、やはりそれでは島は立ち行かないと、祭主は公民館長が勤めています。神司、長老たちと協力して、如何に滞りなく進めていくかに心血を注ぎます。なにせ雨が降っても、責任者の日頃の行いが云々されますから。
 島を経営していくためには費用がかかりますから、それを各家庭に賦課します。基本的には年齢で各家庭をAからGまでランク付けして、賦課金を徴収します。人頭税時代の名残のような形態です。一般賦課、祭事賦課、塵芥処理賦課です。塵芥処理は1975年から戸別収集していました。その費用を戸数割り、人数割り、業種割りで徴収していました。ゴミ問題には非常に先駆的でした。今年から竹富町が業者に委託してゴミ処理を行うようになりましたから、賦課金は廃止しても良かったのですが、環境美化費として積み立てています。そして祭壇を一式用意しています。死んだらみんな平等ですから。お葬式には誰でもこれを使用します。使用料は五万円で、その荘厳と撤収は公民館執行部が行います。お墓掃除、テントの設営、炊き出し、司会などは、その人が属していた支会が責任を持って行います。お互いさまですから。
小林; 町並み保存に関連して、集落景観保存調整委員会が設けられていますが、これはどんな役割ですか。公民館の組織ですか。
上勢頭; 以前は、公民館の組織と言うより、住民と教育委員会の間に立つ組織だったんですが、今は公民館の一組織として位置づけています。まあ位置づけはともかく、島での住み方に対しては公民館が対応する。調整委員会は家を新築・増改築するときの図面審査とか、国の整備事業で保存物件の家を建て替えるときの順位をつけるとか、伝統と景観に合わせた家の造り方をしていこうということです。
小林; 先ほど観光に関連して、360人の集落に42万人の観光客は、すでに限度が来てるとおっしゃいましたが、具体的にはどういうことですか。観光というのは営利で動きますからね。だけど島や村はお互いの共同のためにある。そこの矛盾がきっとある?
上勢頭; 今すでにオーバーフローしてると思います。いい観光のあり方からしたらですね。バスのガイドも言ってるんですが、一日に6回も7回も回ったら、最初のお客さんに接した応対と最後のお客さんでは疲れが出て、ちゃんとやっているかどうか自分でも自信がないといっています。そうなったらサービスの低下につながるわけなんですよね。ほんとうにいい観光といえるかどうか。今の観光のほとんどが、ベルトコンベアーに乗せられてぐるぐる回っている。3つも4つもの島を回って、いま自分がなんていう島にいるかもわからないような、そんな観光です。
 竹富島は8つも国の指定を持っているんですよ。そんなすごいものを持っているところを、車に載せられていくだけでゴミを落とす暇も無い。だから当然お金を落とす暇も無い。お年よりはトイレの心配だけしている。そういう人たちを相手に朝から夕方までくたくたになって、サービスも低下していく。そんな観光地は捨てられていきます。旅行業者は資本の論理で動きますから、そんな魅力の無いところはお客も来なくなる。だからそんな観光ばかりやっていたんではだめになる。ということでNPOを作った大きな目的のひとつは、きちんとした情報を島から発信する旅行の形態を作っていこうということなんです。

 NPO「たきどぅん」と公民館
小林; かなり時間が経過しましたが、ここでNPO「たきどぅん」のことを伺いたいと思います。NPOができたのは・・・
上勢頭; 今年で5年目になります。
小林; そこには皆さんの思いがあって、新しくNPOに出資をされるわけですね。その思い、NPOのミッションと、公民館の関係をお話しくださいませんか。
上勢頭; 本来だったら公民館がそっくりそのままNPOになるのが理想だったんですが、どうもそれがうまくいかない。なかば見切り発車的に、ことばは悪いけど、とにかく動いて行ってるうちに疑問を持ってる人たちも理解をしていってくれるだろう、ということでNPOを設立したわけなんです。八重山で第一号です。何が目的かというと、公民館が今のスタッフでは対応できない部分がある。それをNPOが補完していこうということです。設立の理念を、遺産管理型NPOとしました。先祖から伝えられてきた自然とか、伝統文化とか、そういったものをきちんと引き継いで次の世代に伝えていこう、ということが目的なわけですね。
小林; NPOのホームページなど拝見しましたが、外部から見るものにとっては非常に活発で、しかも「ゆがふ館」という環境省の施設の委託を受けているわけですね。そこで10人くらいの人が働いていて、低賃金でしょうけど。しかし地域で仕事をして、しかも遺産管理型、面白いCDを作ったり、グッズを売ったり、施設としてビジターセンターの役割を果たしたり。外から見ますと、今までの竹富公民館に無い新しい仕事が始まっているというイメージで、私はすごいなあと、興味深く見てるんですけど。課題もあるんでしょうね、どんなことが課題ですか。
上勢頭; 元々公民館の事業部として発足したほうがいいという論議もあったんですよ。それがどうも人材とかの面で難しいということになって、じゃあNPOを発足させようとなったわけなんですね。NPOのメンバーを、本当は島民から参加してくれる方がいいんですけど、まだそこまで行ってない。それはお年寄りや移住者が多いと言うこともあります。それでも島の生え抜きの人もいますし、よそから来ても島の人と結婚した人もいます。そういった意欲のある人は入ってもらうのもやぶさかではないんですけど、まだおおっぴらに誰でもどうぞとはいってないんです。
小林; しかし広く呼びかけられてる感じしますよ。それと郷友会という組織がありますし、また全国竹富島文化協会を作っておられて、ウイングが広いですよ。
上勢頭; それはですね。こんな小さい島だから、島出身者はそりゃあ応援してくれる。しかし島出身者の、向こうで生まれた二世三世が果たしてどれだけ島のことを思ってくれるか。だから郷友会とのコンタクト、これは重要なことなんです。小さい島が生き残っていくためには、そういった親身になって応援してくれる人が大事です。そして地域だけでなく、全国組織として公募したのが全国竹富島文化協会です。もう10年になります。毎年講演会やったりして活動してます。それを日々活動していく組織として、NPOとして発展させていったわけです。それで、竹富の事だったらほうっておけないという応援団を広げていこうということですね。これをきちんとした形で次の世代に伝えていこうとしているんです。

 交流のメッセージ
小林; かなり長時間話していただきましたので、声もかれて、のども渇いてきました。
もっと詳しくお聞きしたいのですが、このあたりが限度、また次の機会に・・・楽しみはとっておこうと思います。最後にひとつ、交流ということについて。芳徳さんは交流と言う言葉を大事にされている。小さな島で、古い文化や伝統を維持するだけじゃなくて、それを通して外部と交流する。外から人が来るということの意味、しかしそれがオーバーフローしては元も壊れるわけですから。いったい交流とは何だろう、何をめざしていくか。交流にかかわるメッセージを出してこられましたね。
上勢頭; いま竹富があるのは、民芸協会の人たちが、この島の良さを再発見して広めてくれた。そして町並み保存のときでも妻籠をはじめ、いろんなところが応援してくれた。そして憲章を作るにしても、文化協会を作るにしてもいろんな形でよそからの人が来て、いま小林先生がヒヤリングして、いろんなところに発信してくださる。そういったことが交流だと思いますね。って乗り出したりして(笑)
 竹富はこんな石がんぱらの何もないとこだから、竹富の人はこれからどうやって生きるべきかって、常々アンテナを張り巡らしていたわけなんですよ。明治37年と39年の琉球新報にそのことが書いてありますね。よそから来る人を歓待する、声をかけてお茶飲んでいけって呼んで、時には、歌も歌ってあげて、踊りも見せてあげて、心を開かせて口を開かせて、それで情報を仕入れていく。実に竹富島は進取の気性と伝統を守るという、両面性を持っているのです。  
 そんな中でこれからは教育だと気づいたわけなんですね。明治37年といったら学校が出来てから12年目ですよ。あの頃は子供といっても労働力ですよ。竹富の人は、学校が出来て12年目に「学校の出席歩合、日々97を下らず」と。すごいですねえ。畑に行くより学校行って勉強してこいという。学校補佐(学校ぶさ)というのがいて、学校に来てないのを畑を見回って行かせたわけなんです。そんなにして教育に力を入れたわけです。 だから校長先生の数は島別、地域別、字別に見たら、人口比率でいったら竹富はダントツです。最近ちょっと怪しくなってきましたけどね。だからこれからの観光はどうあるべきかって言うことも、アンテナ張り巡らしている。やって来る人の中にも、思わぬ人が引っ掛るかもしれない。だからこれも単なる観光客ではなくて、交流人口と呼びたいですね。
小林; 貴重な話をいろいろ有り難うございました。このあたりで終わりにしたいと思います。最後に、私の感想を少し付け加えさせていただきます。今日の話でたいへん面白かったのは、竹富の内側でどう発展するかという内発的発展論ってあるでしょう。しかしそれだけでなく、外からの刺激とか、まわりからの智恵とかを活用していく、今おっしゃった交流ですね。内と外との交流っていう視点。それが単なる考え方としてでなく、戦後の竹富の歩みの中に事実として織りなされてきた。例えば、民芸協会の外村先生とか、町並み保存の妻籠宿とか、また行政の役割たとえば文化庁からの選定や援助をうまく引き出されてきた、そのあたりが非常に面白いですね。
 さらに加えれば、伝統や文化など、古さを大事に保存することと新しい課題への取り組み、この二つはときに矛盾しあうのでしょうが、その両者が結びついて、集落のいろんな活動がありますね。文化財保存というと古いものを守れってことなんだけど、実は新しいものを創ることと切り離せない。たとえば公民館の組織や祭祀行事や芸能があり、他方でNPO「たきどぅん」の活動が始まっていること、とかく古くなりがちな共同体と「うつぐみ」の思想が現代的に面白く展開していることなど。その意味でも、公民館のかけがえのない役割とともに、動きはじめたNPOの活動に強く期待したいと思います。
 竹富島の挑戦は、そういう意味で、全国各地の小さな集落の地域づくりの取り組みにとって、重要な問題提起と大きな励ましを与えているのではないでしょうか。課題はいろいろ多いと思われますが、各地の小さな集落の未来のためにも、これからさらに頑張っていただきたい思っています。

 あとがき
前本多美子; 今回は縁あって、この対談のテープ起こしをさせていただき、とても感謝しています。長年、竹富に住んでいながら知らないことだらけでした。
 “うつぐみの島”竹富、というように「うつぐみ」は竹富の枕詞として使われています。まさにこの「うつぐみ」ということばの持つ力が、竹富の進む道を決めてきたかのようです。ことばの持つ力、というのは凄いものだとつくづく思います
 ここ20〜30年の間に島をとりまく環境は大きく変わり、「うつぐみ」の重みも変わってきているのかも知れません。観光という産業が主流の島では、当然起こるべき問題がいろいろ表面化してきています。
 竹富には三つの集落があり、それぞれかなり個性的です。集落に伝わる芸能も、かなりあるいは微妙に違っています。そしてそれらを継承していくことを皆とても大切に思っています。それ故、集落間における問題も少なくないように私には思われます。
 そして今、集落を超える立場のNPO「たきどぅん」が軌道にのってきました。竹富島の今後の方向性はNPO活動が握っているのかもしれません。NPOが「うつぐみ」の精神を一番体現しやすい立場にあるのでは、と感じています。(おわり)


記録・前本多美子さん(左)―上勢頭家、20070418―


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【関連資料】(上勢頭芳徳氏・作成)

1,入手可能な文献等
『竹富町史』第10巻近代T 喜宝院文書 2600円
『竹富町史』第11巻新聞集成T 竹富町 2100円
『琉球文化圏とは何か』 藤原書店 5600円
『芸能の原風景』 竹富島文化協会 4800円
『西塘伝復刻版』 竹富島文化協会  500円
『人頭税廃止100年記念誌あさぱな』 南山舎 1500円
『種子取祭』 竹富島文庫 1000円
『うつぐみの竹富島写真集』大塚勝久 琉球新報社 5800円
『ふるさとへの想い写真集』 前原基男 3500円
『竹富島の豊年祭と御嶽』DVD 東京藝大 2940円
『竹富の風』CD NPOたきどぅん 2500円

2,竹富島・公民館沿革史
1879(明治12)年 沖縄県となる
1880(明治13)年 戸数133戸、人口783人
1892(明治25)年 竹富分教場開校、入学生14人
1897(明治30)年 蔵元・村番所が廃止され、村頭・雇が置かれる
1903(明治36)年 土地整理事業が終了し人頭税廃止。新税法実施
1905(明治38)年 最初の瓦葺き家が出来た
1908(明治41)年 八重山は一村となる
1914(大正 3)年 八重山は分村して竹富村が誕生。竹富島に役場
1917(大正 6)年 「竹富同志会」が発会
1919(大正 8)年 高等科設置され竹富尋常高等小学校となる
1920(大正 9)年 普通町村制適用され初の民選村長に上間広起
1925(大正13)年 初の敬老会開催
1929(昭和 4)年 戸数259戸、人口1811人。歴史上最多
1938(昭和13)年 村役場を石垣島に移転
1940(昭和15)年 「竹富同志会」を「竹富部落会」に移行
1945(昭和20)年 敗戦。米国占領となる。青年団の“団報”発刊さる
1948(昭和23)年 竹富村は竹富町に昇格
1961(昭和36)年 上勢頭亨、蒐集館を開設
1963(昭和38)年 「竹富部落会」を「竹富公民館」に改める
1971(昭和46)年 米国民政府(高等弁務官資金)援助で公民館建設
1972(昭和47)年 本土復帰。竹富島を生かす会
1976(昭和51)年 種子取祭の芸能を国立劇場で公演
1977(昭和52)年 種子取祭が重要無形民俗文化財に指定
1986(昭和61)年 竹富島憲章制定
1987(昭和62)年 町並み保存(重要伝統的建造物群保存)地区に選定
1988(昭和63)年 第11回全国町並み保存ゼミ竹富島大会
1993(平成 5)年 竹富小学校創立100周年
1996(平成 8)年 全国竹富島文化協会設立。第9回岩切章太郎賞受賞
1999(平成11)年 環状線建設始まる
2000(平成12)年 まちなみ館竣工。旅のペンクラブ賞受賞
2001(平成13)年 公民館は地縁団体法人として登録
2003(平成15)年 NPOたきどぅん認証
2004(平成16)年 国際交流基金による無形の世界遺産交流会
2005(平成17)年 河合隼雄文化庁長官講演

3,関連人名・語句の解題
○上勢頭亨−1910年〜1984年 喜宝院(浄土真宗・最南端のお寺)の開設者。蒐集館(民俗資料館)の創設者。竹富島の民俗芸能伝承者。豊富な知識で研究者に対応し、竹富島を発信し続けて観光の基盤作りにも貢献した。著書『竹富島誌』(民話・民俗篇、1976年)、
(歌謡・芸能篇、1979年)法政大学出版会
○うつぐみ−打つ組む・協力すること。「かしくさや うつぐみどぅ まさる」(うつぐみより賢いことはない)と竹富島民の金科玉条となっている。
○たきどぅん−竹富島の古称。あらたまった呼び方で、話し言葉では“てぇーどぅん”と呼ぶことが多い。遺産管理型NPOの名称にも使用。
○公民館−沖縄では本来の意味での住民自治組織・自治会と、集会所の両方の意味を持つ。竹富公民館は1917年に発会した「同志会」を嚆矢として、1940年に「部落会」に移行。1963年に「公民館」と改めた。島民は全員が会員で、執行部と公民館議会の強固な自治能力は高く評価されている。2001年には“地縁団体法人”として登録した。
○集落・字(あざ)−竹富(字)には東、西、仲筋と三つの集落があり、その総体として公民館がある。それぞれが毎月15日に例会を持ち、報告・協議を行う。誰でも意見を述べることができ、集落の代表が公民館議員として議会で決定する。各集落の対抗(対立でなく)意識は強烈で、それが島の活力源となっている。
○郷友会−島出身者で組織する親睦団体。竹富島は首都圏に東京郷友会(創立して81年)。沖縄本島に沖縄郷友会(創立35年)。石垣島に石垣郷友会(創立50年)がある。会員の融和と親島との連携をモットーとする。親島としても必要不可欠で強力な支援組織である。一世は濃密なふるさと意識を持つ人が多いが、二世三世にどう継承していくかが課題となっている。
○種子取祭−粟、米の種蒔き儀礼の祭り。竹富では600年の歴史を持つといわれ、毎年秋の戊子(つちのえね)の日を正日として、前後9日間にわたって行われる。7日目の早朝から8日目の夕方にかけて神事・芸能奉納・ユークイと間断なく36時間続く。両日の日中に奉納される芸能は約80点にも及び、1982年に国指定重要無形民俗文化財に指定された。
○重伝建(重要伝統的建造物群保存地区)−いわゆる町並み保存のことで、地域の風土に根ざした建築は文化として、その状態と規模、住民の継承の意識と自治体の覚悟(条例)により、文化庁が選定し保護する。竹富島は赤瓦の家並みとサンゴ石灰岩の石垣、白い砂の道。それらを継承していく姿勢が評価されて1987年に24番目の選定となった。文化が町づくりに有効な手段として見直され、現在全国に80ヶ所が選定されている。
まちなみ保存調整委員会−伝統的な集落景観を保存継承していくための住民組織として、1986年に設置された。3集落から4人ずつ、計12人の委員で構成され、毎月24日に例会を持ち、保存整備事業や住宅の新築・改築・増築、現状変更等を図面と現場で審査し、教育委員会へ申達していく。竹富島では住民の真摯な保存運動から始まったので有力者に左右されず、住民と行政の間にたって景観保護に大きな権限を持つ。
○全国竹富島文化協会−竹富島の文化を受け継ぎ、子孫へ伝え、全国に広めていこうと、1997年に創立された。島民はもとより、郷友会員、研究者、観光で来て竹富ファンになってくれた人など、現在約1000人の会員がいる。毎年竹富島に関する文化講演会・シンポジュームを開催したり、竹富小中学校児童生徒の活動を支援している。「NPOたきどぅん」とは別組織だが協調関係にある。
○ミンサー・上布など民芸品−竹富島の真価を再発見したのは民藝関係者だった。ミンサー帯(木綿)や上布(苧麻布)・芭蕉布などの染織品、身近な素材で作る生活用品が評価され、民藝の島として全国に紹介されていった。戦後、復帰前に県外からの量産品が入ってくるにつれて、廃れようとしていたこれら手作りのモノの価値を見出して、復活することが出来た。

【竹富島憲章】(竹富公民館、1986年)全文
 われわれが、祖先から受け継いだ、まれにみるすぐれた伝統文化と美しい自然環境は、国の重要無形民俗文化財として、また国立公園として、島民のみならずわが国にとってもかけがえのない貴重な財産となっている。
 全国各地ですぐれた文化財の保存と、自然環境の保護について、その必要性が叫ばれながらも発展のための開発という名目に、ともすれば押されそうなこともまた事実である。
 われわれ竹富人は、無節操な開発、破壊が人の心までをも蹂躙することを憂い、これを防止してきたが、美しい島、誇るべきふるさとを活力あるものとして後世へと引き継いで
いくためにも、あらためて「かしくさや うつぐみどぅ まさる」の心で島を生かす方策を講じなければならない。
 われわれは今後とも竹富島の文化と自然を守り、住民のために生かすべく、ここに竹富島住民の総意に基づきこの憲章を制定する。
一、保全優先の基本理念
 竹富島を生かす島づくりは、すぐれた文化と美しさの保全がすべてに優先されることを基本理念として、次の原則を守る。
一、『売らない』 島の土地や家などを島外者に売ったり無秩序に貸したりしない。
二、『汚さない』 海や浜辺、集落等島全体を汚さない。また汚させない。
三、『乱さない』 集落内、道路、海岸等の美観を、広告、看板、その他のもので乱さない。また、島の風紀を乱させない。
四、『壊さない』 由緒ある家や集落景観、美しい自然を壊さない。また壊させない。
五、『生かす』 伝統的祭事行事を、島民の精神的支柱として、民俗芸能、地場産業を生かし、島の振興を図る。
二、美しい島を守る
 竹富島が美しいといわれるのは、古い沖縄の集落景観を最も良くのこし、美しい海に囲まれているからである。これを保つために次のことを守り、守らせる。
1,建物の新・改・増築、修繕は、伝統的な様式を踏襲し、屋根は赤瓦を使用する。
2,屋敷囲いは、サンゴ石灰岩による従来の野面積みとする。
3,道路、各家庭には、年二回海砂を散布する。
4,看板、広告、ポスター等は、所定の場所に掲示する。
5,ゴミ処理を区分けして利用と回収を図る。金属粗大ゴミは業者回収を行う。
6,家庭下水は、処理して排水する。
7,樹木は、伐採せず植栽に努める。
8,交通安全、道路維持のために、車両制限を設ける。
9,海岸、道路などゴミ、空きカン、吸殻などを捨てさせない。
10,空き家、空き屋敷の所有者は、地元で管理人を指定し、清掃及び活用を図る。
11,観光客のキャンプ、野宿は禁止する。
12,草花、蝶、魚貝、その他の生物をむやみに採取することを禁止する。
三、秩序ある島を守る
 竹富島が、本土や本島にない魅力があるのは、その静けさ、秩序のとれた落ち着き、善良な風俗が保たれているためである。これを保つために次のことを守り、守らせる。
1,島内の静けさを保つために、物売り、宣伝、車両等の騒音を禁止する。
2,集落内で水着、裸身は禁止する。
3,標識、案内板等は必要に応じて設ける。
4,集落内において車輌は、常に安全を確認しながら徐行する。
5,島内の清掃に努め、関係機関による保健衛生、防火訓練を受ける。
6,水、電気資源等の消費は最小限に留める。
7,映画、テレビ、その他マスコミの取材は調整委員会へ届け出る。
8,自主的な防犯態勢を確立する。
四、観光関連業者の心得
 竹富島のすぐれた美しさ、人情の豊かさをより良く印象づけるのに旅館、民宿、飲食店等、また施設、土産品店、運送業など観光関連業従事者の規律ある接遇は大きな影響がある。観光業もまた島の振興に大きく寄与するので、従事者は次のことを心得る。
1,島の歴史、文化を理解し接遇することで、来島者の印象を高める。
2,客引き、リベート等の商行為は行わない。
3,運送は、安全第一、時間厳守する。
4,民宿の宿泊は、良好なサービスが行える範囲とする。
5,屋号は、規格のものを使い、指定場所に表示する。
6,マージャン等賭け事はさせない。
7,飲食物は、できるだけ島産物を使用し、心づくしの工夫をする。
8,消灯は、23時とする。
9,土産品等は、島産品を優先する。
10,来島者に本憲章を理解してもらい、協力を徹底させる。
五、島を生かすために
 竹富島のすぐれた良さを生かしながら、住民の生活を豊かにするために、牧畜、養殖漁業、養蚕、薬草、染織原材料など一次産業の振興に力を入れ、祖先から受け継いだ伝統工芸を生かし、祭事行事、芸能を守っていく。
1,伝統的祭事、行事には、積極的に参加する。
2,工芸に必要な諸原料の栽培育成を促進し、原則として島内産物で製作する。
3,創意工夫をこらし、技術後継者の養成に努める。
4,製作、遊び、行事などを通して子ども達に島の心を伝えていく。
六、外部資本から守るために
 竹富島観光は、もともと島民が、こつこつと積み上げてきた手づくりの良さが評価されたからである。外部の観光資本が入れば島の本質は破壊され、民芸や観光による収益も住民に還元されることはない。集落景観保存も島外資本の利益のために行うのではないことを認識し、次に掲げる事項は、事前に調整委員会に届け出なければならない。
1,不動産を売買しようとするとき。
2,所有者が、氏名、住所を変更しようとするとき。
3,土地の地番、地目、地積に異動を生ずるとき。
4,賃貸借をしようとするとき。
5,建造物の新・増・改築、取り壊しをしようとするとき。
6,島外所有者の土地に建物等が造られようとするとき。
7,その他風致に影響を及ぼす行為がなされようとしているとき。
 この憲章を円滑に履行するために、公民館内に集落景観保存調整委員会を設け、町、県、国に対しても必要な措置を要請する。  昭和61年3月31日
*参考 竹富町民憲章、昭和47年「竹富島を生かす憲章案」、昭和46年「妻籠宿を守る住民憲章」、上記の精神を引き継ぎ、修正、追加を行い、案を作成した。


竹富島・星砂の浜(カイジ浜)20070419



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