【「月刊社会教育」1993年1月号 所収】          沖縄研究・総ぺージ■
 沖縄の社会教育が問いかけるもの  トップページ
     −復帰20年に考える−

                      小林 文人(東京学芸大学)



 祭りのひろばへ

 旧暦の七月から九月にかけて、今年も沖縄・山原(やんばる)の各集落では豊年祭り、村踊りがにぎやかに開かれていた。旧八月十五日の夜、ようやく時間をつくって、私は東京からまっすぐ名護の町にかけつけた。月おくれの夏休みだ! 名護市教育委員会から送られてきた「村踊り日程表」によると、この夜、東江(あがりえ)区は豊年祭のソ−ニチ(正日)。奉納の芸能が区公民館の広場で始まっている。広場の真ん中に名護市教育委員会・社会教育課の面々が車座になっていて、すぐ隣りのオリオンビ−ル工場から直送とおぼしきビ−ルを前にならべて、私を迎えてくれた。
 課長の島袋正敏(名護博物館創設時の館長、すでに酔っている感じ)−以下敬称略−はもちろんのこと、今年の全国集会に参加した中村誠司(図書館準備室長)や照屋秀裕もいれば、リュウキュウアユを「やんばる」の河川に呼び戻す運動に取り組んでいる島福善弘も一緒で、「あゆ」と命名した可愛い娘さんを抱いて座っている。隣りには文化財担当の比嘉久がいて、出身の屋部区(名護市)の村踊り(八月踊り)との違いや、所作や振り付けの見どころを教えてくれる。
 東江区は戸数にして九四〇戸をこえる、名護市内でも大きな規模の集落だ。豊年祭プログラムは「長者の大主」「かぎやで風」から始まって、もう東江区自慢の「獅子舞」が登場していた。獅子の中では青年が必死に舞っている。地方(ぢかた、いずれも集落内の達人たち)の三線(さんしん)と笛が響き、太鼓とドラが心にしみる。獅子とからんで二頭の猿がたわむれる「猿舞」のときは子どもたちが舞台に群がり、後ろの長老が「座って、座って」と声をかける。中天にお月さま、広場は人で一杯だ。
 すべての演目が終わったのはほぼ真夜中、これが三日続くという。この夕に東(あがり)の空からゆらゆらとのぼった満月は、祭りの広場を見下ろして、少し疲れたように西に傾いていた。茜にそまっていた西(いり)の海も深更、「浦浦深き」とよまれた名護湾も深い眠りだ。この季節、南の国でも夜風が涼しく、もう秋の気配を感じさせる。


 集落の自治と共同

 東江区の豊年祭に行ったのは、ここがとくに有名だからというわけではない。たまたま日が合っただけのことだ。東江は比較的大きな集落であるが、一五〇から二〇〇戸程度の平均的な集落でも、もっと小規模の区でも、沖縄ではこの時期大半の「むら」で、自分たちの村祭りを執り行っているところが多い。海の彼方からニライカナイの神を迎えて、五穀豊穣や「むら」の繁栄を祈って、伝統的には十日にわたる程の儀式・行事をもつ集落もある。そのなかに芸能奉納の夕べもあるわけである。
 そういえば昨年は研究室のメンバ−を誘って、八重山・竹富島の種子取祭(これは有名、重要無形民俗文化財指定)に参加した。そのあと西表島をまわって祖納という集落に一泊した。夜に太鼓が響いてくる。出てみると、すぐ近くの祖納区公民館の広場では祭り(節祭)の稽古だ。むらの女たちは踊りの輪をつくり、子どもたちは棒術の遣い方を練習している。地域の教師も息を切らして祭りの稽古に加わっていた。 その前にも「沖縄社会教育研究会」(後述)十五人ぐらいで宜野座区の豊年祭(「京太郎」チョンダラを演じる)に行ったことがある。三夜にわたって芸能が奉納される。あの時は末本誠など神戸大学の皆さんも一緒だった。宜野座村には何度行ったことだろう。想い出せばきりがない。
 この季節の沖縄は、あちこちの集落で祭りに出会う。それぞれの「むら」にそれぞれの祭りがある。耳をこらせばどこからか笛や太鼓が聞こえてくる感じだ。
 なぜ私はこんなにも集落の祭りに心を奪われるのだろう。とくに祭りの民俗や芸能についての興味があるわけではない(いや、全くないわけではないが−)。それはまず楽しいからだ。しかしそれだけではない。一言でいえば、その祭りそのものに集落の自治と共同のエネルギ−の躍動ををみるからだ。そして地域にともに生きる人たちの楽しみや喜び、こまやかな息づかい、大きなどよめきを実感するからだ。私たちは一見豊かな現代・都市に住んでいて、いつの間にかそういう人間相互の豊かな関係と感動を失ってしまっている。
 振り返ってみると、戦争中もそうだが、戦後の沖縄の苦難の歩みのなかで、人びとがたくましく生きてきた経過のなかには、この集落の自治と共同の力が不可欠だったのではないか、と思われる。人びとは戦後史のなかで、ときに苦しみかつ悲しみながら、しかしそれを乗りこえて生きていく上で、お互いに助け合い励まし合い、そして祭りで祈り、そして楽しみ、場合によっては、外からの圧力にともに抵抗(たとえば米軍実弾演習にたいするレジスタンス、あるいは石油備蓄基地建設にたいする反対など)する必要もあった。それが集落(「むら」「あざ」「しま」など)の相互の連帯・団結を必然的に生み出したのであろう。その自治と共同の拠点に沖縄独自の集落「公民館」が位置づいてきた。
 むらの公民館の広場で、満月の光と祭りのどよめきに身をひたしながら、そこに戦後史をみる思いさえしたのである。


 沖縄との出会い15年余

 あるきっかけから沖縄に通いはじめるようになるのは一九七六年の末、復帰後もう四年半ばを経過したころであった。その直接のエピソ−ドを書く余裕は今はないが、当時私にはなんとしても本格的に沖縄研究を始めなければならぬ、という少し切迫した理由があった。
 その頃、日本社会教育学会では横山宏を中心とした『社会教育法制研究資料』(一九六九〜七三年、全十五集)の作業が終り、またそれとほぼ平行して、故吉田昇等を責任者として進められた『日本近代教育百年史』7・8巻−社会教育編(国立教育研究所、一九七三年)の刊行も成って、やれやれ一段落といった感じであった。その両方に参加できて私は幸せであったが、しかしつねに重くのしかかる宿題があった。それは沖縄について何も書いていないということだ。とくに『百年史』では一九四五年から六〇年までの社会教育行政・施設の通史を担当しながら、血潮と涙の歴史ともいうべき沖縄について一行も書くことができなかった。
 言い訳は可能かも知れない。原稿執筆時は沖縄は復帰前であった。しかし一九七二年の復帰後に『百年史』は刊行された。時が経過してみると、日本の他のどの地域も経験したことがない“戦争と占領”下の沖縄・社会教育を全く無視したことになる。これは、自己批判ものだと思い続けてきた。
 そしてようやく沖縄の社会教育の歴史に出会う旅が始まった。しかしそれからがまた大変だ。あらためて自分の無知を恥じなければならない事実を次から次に突きつけられる連続であった。たとえば、アメリカ占領下の沖縄では、教育基本法をはじめとする日本の教育法制を実現しようとした「教育四法民立法運動」が取り組まれ、アメリカ民政府(USCAR)に抵抗しつつ、ようやく琉球政府「社会教育法」が成立していた(一九五八年)ことさえも知らなかった。民衆の側の立法運動によって教育法制を実現させるという経験を本土の教育界は全くもたないといってよい。あるいはアメリカ民政府直営の「琉米文化会館」のこともよく知らなかった。日本の公民館構想がどのように海を越えて沖縄に渡ったのかも分からなかった。アメリカ側の宣撫工作的な社会教育・文化施策(たとえば「成人学校」「琉米文化会館」普及)に対抗しつつ、日本の公民館構想は奄美を経由して沖縄にわたり、各地の集落を基盤に定着していったのだ。
 東京ではまず「戦後沖縄社会教育研究会」(東京学芸大、一九七六年九月開始)が始められた。最初のゲストは上原文一(当時、具志頭村社会教育主事)であった。それから数えて定例研究会は今年十月で一一七回となる。那覇でもこれに呼応して「おきなわ社会教育研究会」(代表故玉城嗣久、現在・平良研一、事務局長は玉那覇正幸)が結成された。この間には、前掲『社会教育法制研究資料』の姉妹編のつもりで『沖縄社会教育史料』の刊行(一九七七〜八七年、全七集)も進めた。沖縄で収集した希少資料や聞き書きのテ−プ起しなどを記録化し、関係者と(私的にではなく)社会的に共有したいという想いからであった。日本社会教育学会「通信」や『月刊社会教育』も運んだ。当時の沖縄では、学会のことも『月刊』のことも皆あまり知らなかった。
 沖縄への旅は続いた。ある人からは「重症の沖縄病」と揶揄され、ある時は「どうも沖縄に恋人がいるらしい」というあらぬ噂もささやかれた(らしい)。しかしそんな話を結構楽しみながらの旅でもあった。そして歳月を重ねるうちにかけがえのない沖縄の友人(たとえば喜納勝代、又吉英仁、名城ふじ子、佐久本全、組原洋子、渡慶次賢康、長浜宗夫などなど)が増えた。山口や埼玉や三多摩などの沖縄に関心を寄せる社会教育関係者による交流も頻繁になった。また学会報告を繰り返していくにつれて、まわりに共同研究者のつながりも出来ていった。その一つの結実が『民衆と社会教育−戦後沖縄社会教育史研究−』(小林・平良編、一九八八年、エイデル研究所)の刊行である。


 「占領」は何をもたらしたか

 私はこの本の序章で次のように書いている。
 「ふりかえってみると、沖縄の戦後社会教育史への旅をはじめて、当初は占領がおとした“影”の部分、その厳しい現実に心を奪われていた。その場合、沖縄の民衆は被害者であり、研究にとっての客体であった。
 しかし暦がめくられ旅が深まってきて、しだいに新しい事実の収集がふえてくるにつれ、そのような研究視角だけでは戦後社会教育史の全体をみることにならないことが分かってきた。厳しい現実に立ち向かって、何と多くの民衆のエネルギ−が燃えさかってきたことか。社会教育の領域のなかだけでも、本土の地域史にみることができないさまざまの民衆の実践があり運動がある。」  
 占領支配の“影”にたいして、戦後社会教育が生み出した民衆エネルギ−の“光”の部分にもっと目を向けてみる必要があるのではないか。そのような歴史の担い手としてみるとき、沖縄の民衆は研究の単なる客体ではなく、実践・運動の主体であり、そして「社会教育とはなにか」の生きた語り部なのだ。それぞれの地域で、それぞれの戦争と戦後史を、諸問題に直面しながらしたたかに生きぬいてきた人たちの聞き書き活動をしながら、私たちは多くのことを学んできた。
 占領下社会教育の歴史をかたちづくった民衆の実践・運動とは、典型的なものをあげれば、たとえば?戦後初期の集落ぐるみの「むら興し」運動(一九五三年前後からは集落「公民館」の活動として展開される)、前述の「教育四法民立法運動」(一九五二〜五八年)、祖国復帰運動とその推進力となった地域青年団・青年会の運動(一九五三年ないし六〇年以降)、基地環境や米兵犯罪への対策を契機として結成された「沖縄子どもを守る会」の運動(一九五三年以降、会長は後の公選主席・知事の屋良朝苗)、などなどである。これらはいずれも、アメリカ占領下沖縄がかかえる独自の地域課題・生活問題と切実に向き合いながら、占領権力と複雑に対峙しつつ展開された。本土の類似の諸運動に容易にみられない民族主義的な視点と民衆エネルギ−の迫力をもっていた。地域婦人会の活動にしても、またPTA運動にしても、同様の側面がみられる。
 関連して、これまで日本の社会教育研究者や青年運動関係者などがあまり注目してこなかった歴史として、一九五三年の本土復帰にいたる奄美諸島の青年運動そして婦人運動の血の滲むような歩みがあった。政治的分断にとどまらず厳しい生活条件のなかに放置されて、奄美の人々は強権的な占領権力と対抗しつつ、生活権擁護と民族独立(本土復帰)を主張した。青年団長はじめ一般の青年団活動家たちが幾度も逮捕され、あるいは婦人会員は復帰をもとめて断食祈願に結集するというような状況であった。これらを背景として奄美の社会教育・公民館活動の歩みがあったのである。
 (戦後奄美の社会教育・諸運動の具体的な展開については、前掲『民衆と社会教育』〈古賀皓生・上野景三「占領 下奄美における社会教育の展開過程」など〉や『沖縄社会教育史料』第4集〈戦後奄美の社会教育特集〉に詳し い。)
 占領下社会教育において独自の展開をみせた民衆の運動や実践に光をあててみると、そこに共通して、身近な生活の問題と政治・権力の問題が結びついて把握されていること、暮らしの自立と民族の自決の課題、あるいは日常の地域の動きとアジア(アメリカ極東戦略)の動向、が結合した視点でとらえられていることが特徴的である。毎日の暮らし、子どもが育つ環境のこと、あるいは集落の簡易水道の確保や農地の保有の問題など、さまざまの小さな生活の問題が大きなアメリカの極東戦略や世界の政治情勢と深く関連してきた。そのなかで沖縄の社会教育活動や青年・婦人運動は格闘してきたといえよう。  


 沖縄型の公民館

 那覇から国道五八号線(占領中の軍用一号道路)を北上すると、右手に広大な嘉手納基地が見えてくる。かって青年運動を激しくたたかった活動家を介して、この基地のなかにもぐりこんでぐるりと一回りしたことがある。軍事施設だけでなく、そこには学校がありストアがあり、教会や映画館もあって、アメリカの町が広々とした緑の芝生の上に豊かに成立している。なかには日本政府の「思いやり予算」で増築されている部分もある。
 妙に印象深かかったのは、米軍家族住宅の間に、ところどころに大きなガジュマルの樹が点在していることだった。今もしっかりと枝をひろげ木蔭をつくっている。樹齢を思えば明らかに四七年前の沖縄戦をくぐり抜けた樹だ。そうだ!この広大な基地には過ぎし昔、人々の豊かな集落がたくさんあったのだ。いまでも沖縄の古い集落を歩いていくと、必ずといってよいほどその真ん中に広場、遊び場のようなところがあって、そこにはガジュマルなどの大樹が涼しげな空間をつくっている場合が多い。あのガジュマルなのだ。もしかすると基地のなかのガジュマルの数だけ、昔の集落があったのではないかと思った。〈村むらのわらべらつどいしガジュマルの いま独り佇つ緑も映えず〉
 国道をさらに北上して比謝橋をこえると読谷村だ。読谷村は山内徳信村長自ら先頭に立って、旧日本軍・北飛行場跡地など軍用地の返還と平和の地域づくりを進めてきた自治体として注目を集めているが、社会教育の関係では、沖縄県(当時琉球政府)下いち早く公立公民館が設立(一九七〇年)されたところとして有名である。
 アメリカ占領下では、先述した社会教育法の立法によりたしかに公立公民館の法的基礎は明文化されたものの、自治体財政の貧困(本土自治体と比較して社会教育費平均約三分の一)により、実際には設立されなかった。アメリカ側は「琉米文化会館」などの直轄施設には力をいれる一方で、沖縄側の施設・職員・財政等の公的条件整備については冷淡であった。図書館・博物館の場合は法的整備さえもなく、琉球政府立施設は別にしても、市町村施設としては全く低水準のまま推移し、一九七二年復帰時点において、たとえば図書館の場合わずかに名護市立(当時町立)崎山図書館一館のみ、公立公民館としては読谷村立中央公民館が沖縄本島における唯一の施設であった。(図書館については、小林「アメリカ占領下沖縄の図書館」『図書館雑誌』一九九二年八月号を参照されたい。) 
 しかしそれに代位するかたちで、沖縄型の公民館は、一九五〇年代後半以降、集落づくりと自治活動を基盤にほぼ全琉規模で普及していく。なかには村屋(むらや−)などと呼ばれてきた集落施設を前身とし、約八〇〇に近い多くの区あるいは字(あざ)や自治会などの単位で、文字通りの「自治公民館」が、一部補助金(USCAR・高等弁務官資金などによる)を受けつつも、基本的にはまさに自力建設されてきたのである。復帰前の琉球政府文教局も、精一杯の奨励策をとった(一九七一年・字公民館設置率、七九%)。沖縄本島と宮古・八重山とではもちろん地域差がみられるが、活発な集落の公民館では図書館(室)や郷土資料室など、なかには幼児園や体育館までを備えているところもある。名護市や今帰仁(なきじん)村などの自治体基本構想では、この集落公民館が計画の重要な単位に位置づけられた経過がある。


 文化門と経済門、二本の柱

 例として読谷村の場合を見てみよう。自治体の人口は約二万四千、集落(字)の数は二二、平均二〇〇戸程度の各集落に一つの字公民館、もちろん集落規模で違いはあるが平均二人の専任の職員(字費雇い、行政事務委託費も含む)を置いている。
 読谷村の中心、役場や中央公民館がある波平区は戸数約六〇〇戸の比較的大きな集落である。ここの字公民館では四人の専任職員と二人の非常勤職員(一人は図書館司書)が活躍している。集落の自治組織として、区民総会、役員会、運営審議委員会、総務部など四部、四班一六組の機構をもち、また公民館運営規約(全三八条)、役員選挙規定、職員給与規定その他こまかな諸規則を備えている(同公民館発行「波平の歩み」一九六九年など参照)。あのチビチリ洞窟(がま)の悲劇も波平区の出来事である。
 波平公民館の広場にはいる入口に二つの柱が立っている。一つは「経済門」、一つには「文化門」と刻まれている。経済門の方には共同売店(現在はス−パ−)が、文化門の方には鉄筋二階建ての図書館が配置され、広場を囲んでホ−ル、事務室、老人クラブ、青年会館などが並び、そして祭りの衣装・道具を納めた部屋もある。
 私は、読谷(よみたん)を訪れる機会があれば、波平公民館に行きたくなる。しばしこの経済門と文化門の前にたたずみ、そしていつも感動する。「むら」の経済と文化の発展の想いをこめて、その拠点としての公民館の役割を石の柱に刻んだのであろう。公民館そのものを、施設としてだけではなく、地域の基礎的な自治と共同の組織として、みんなの力で育て定着させてきた。ここには創設期の公民館の“初心”、寺中構想の原型のようなものが具体的に生きていると思う。 もう十年あまり前のことになるが、寺中作雄さんに沖縄の独自の公民館の歩みと波平公民館の二つの門柱の話をしたことがある。そして一度ぜひ沖縄へご一緒いたしましょうと申し上げた。沖縄の公民館関係者にも寺中構想との関連を説明しお願いをした。しかしまだ実現しない。 


 地域(字)誌づくりの潮流

 同じ読谷村に楚辺という集落がある。かって沖縄戦が始まった最初の日にアメリカ軍が上陸したところだ。すべての集落が壊滅し、当時の戸数三八五戸のうち「家族全員無事にシマ(集落)に戻ることができたのは一五七戸」、四〇・八%であった。その後、旧集落は軍用地として米軍に強制接収され、荒地を開いて現在の楚辺区の「むら興し」に取り組み、「数々の難問題を区民一丸となって解決」しながら、今日を迎えている。戸数はいま五二〇戸である。
 今年三月、楚辺区公民館は『楚辺誌・戦争編』(同編集委員会編)を発行した。表紙には、沖縄戦の記録写真としても印象的な(これまでも見たことがある)一枚、四人の沖縄の老人と一人の米海兵隊(米カメラマン撮影)の写真が掲げられている。なんとこの写真の老人たちには名前が記されている。楚辺人(すびんちゅ)だったのだ。
 楚辺の字誌はB5版、驚くなかれ六九七頁の大作である。一九八八年から合同調査が始まり、「昭和一九年当時の全戸主を対象にし、調査可能な全家族の戦争体験」の聞き書き調査が重ねられた。楚辺の集落内に組織された字誌編集委員・事務局が、同じ集落の関係者に沖縄戦の実際の体験を一つずつ聞いていくのである。疎開、避難、捕虜生活、津島丸遭難(楚辺でも五五人が犠牲となった)、集団自決のことなど、すべて録音テ−プに収録されすべてが文章化された。三八五戸のうち、補足調査まで含めると三八〇件が調査確認されたという。当事者相互による聞き書き記録であるだけに迫真の証言は読むものの胸を打つ。いわば集落の自己史づくり、しかも集落内の悉皆調査によるこれだけの字誌づくりは今までにも例がないだろう。
 なぜこのような想像を越える作業が可能なのだろうか。しかも事例は『楚辺誌』だけに止まらない。沖縄では一九七〇年代後半頃より市町村自治体の地域史編纂事業が活発化するが、それと平行して「字誌づくり」の潮流が各地で動いていく。例えば同じ読谷村のなかでも、宇座区公民館『残波の里−宇座誌』(一九七四年)については、その感動を前掲『民衆と社会教育』“まえがき”冒頭に記したことがある。沖縄の地域史づくり運動の中心的なリ−ダ−の一人である中村誠司(前出)によれば、県下でなんらかの記録史(公民館〇周年記念誌などの記録を含めて)を出している集落は二八〇前後にのぼり、その半数が本格的な字誌づくりに挑戦し刊行を実現しているという。
 この字誌づくりの潮流からは共通して、沖縄の近現代の苛酷な歴史への認識、それを地域・集落あるいは民衆の側からみる視点、そしてそれぞれの“生まり島”である集落への愛着、そこでともに生きる人々相互の自治・共同・連帯の記録化への想い、を読みとることができよう。


 復帰20年沖縄の社会教育、その矛盾
       
 本土復帰から二〇年を経過して、いま沖縄の社会教育はどのような状況にあるのだろうか。この二〇年の歩み、それは一言でいえば必然的に社会教育「本土化」の流れであった。 社会教育「本土化」とは何か。たとえばまず第一に次のような点をあげることが出来よう。(1)図書館法・博物館法を含む社会教育法制の適用、(2)一定の公的条件整備の進展、本土との格差是正、とくに沖縄振興開発特別措置法による第一・二次・振興計画による援助、(3)具体的には公立(中央)公民館の設置促進(一九九一年度現在、六九館、設置率七五・五%)、市町村図書館の設置(九市・設置率九〇%、六町村・同一四%)、同じく市町村博物館・美術館等の設置増加、(4)市町村・自治体社会教育計画の策定(那覇市、浦添市、読谷村など)、(5)青年の家、少年自然の家など県立施設、国立青年の家の設置、などの動きである。
 同時にまた第二に次の諸点も指摘されねばならない。(1)国の社会教育事業・施策の積極的導入(国庫補助事業の受け入れ等)、(2)一九七七年以降の「生涯教育」政策・事業の具体化(情報提供事業、推進会議など)、(3)一九八八年以降「生涯学習」関連施策の実施(生涯学習センタ−計画、モデル市町村、長寿学園、審議会設置など)である。概して沖縄県社会教育行政の体質は、本土復帰の過程から(ある意味では必然的に)国の方針や施策に大きく規定され、強い指導と太いパイプに結ばれてきた傾向があった。
 しかし沖縄は、本土のどの地域よりも(琉球王朝時代をふくめて)独自の歴史と文化をもち、また上述してきたような戦後の占領下社会教育の経験と民衆運動の歩みをもっている地域である。国からの直接的な、あるいは画一的な施策や指導は、琉球弧と呼ばれるさまざまの島を含む沖縄の地域や集落の、草の根の実態、活動、課題とは簡単に適合しないのは当然のことであろう。
 社会教育「本土化」の二〇年は、たしかに一面では貧困な社会教育の公的条件整備の水準を改善・向上した側面をもっている。しかし他面では、新たな矛盾をも生み出している。 それはたとえば、(1)県行政の上からの施策と市町村社会教育の地域的な課題とのずれ、(2)公的施設の整備に対応すべき職員体制のおくれ、(3)公立中央公民館の役割と集落公民館の活動との乖離、(4)社会教育行政・施設への住民参加の未発、(5)公的社会教育事業と住民の学習・実践・運動の分離と二重構造、などである。社会教育の条件整備が一定すすむことによって、あるいは生涯学習の施策が“体系化”するにともなって、逆に住民のいきいきとした学習活動や自治と共同の組織との距離がかえって増大してきているという傾向をどのように克服していけばよいのであろうか。


 いくつかの課題提起

 いまあらためて、戦後沖縄の苦難の歴史のなかで模索・創造されてきた民衆・住民レベルの社会教育実践・運動の“初心”を想起する必要があるのではないか。それは本土型の社会教育あるいは生涯学習施策に単純に従属するのではなく、本土の先進的な自治体がそうであるように、自らの地域・沖縄の歴史と文化の基盤に立脚して、地域個性的な、その意味で新しい沖縄型の社会教育・生涯学習の計画をつくり出すことであろう。いくつかの課題を仮設的に提起してみよう。
(1)まず住民が社会教育に求めるもの、その期待、課題を起点に据える。出発点は住民である(国ではない)。
(2)集落の自治と共同の組織と活動(字公民館)を重視する。
(3)住民の自主的な実践・運動(環境、健康、福祉、教育、文化、平和など)をこそ社会教育活動の本質に位置づける。
(4)市町村自治体の公的行政・施設への住民参加を促進する。
(5)自治体独自の計画づくりと職員体制拡充に努める。
(6)県行政は国の指導・施策のコピ−だけではなく、沖縄らしい、独自の計画・施策を模索し追求し構築する。

 昨年から今年にかけて、名護市では「社会教育振興大会」と生涯学習に関する「名護セミナ−」が開催された。前者・振興大会では、「地域づくり」を主要なテ−マとして、源河川にアユを呼び戻す運動、伝統芸能の継承と地域づくり(屋部・村踊り)、辺野古の字誌づくり、名護街づくりなどの実践が取り上げられ、地域づくりの視点から生涯学習の在り方が提起されている。あと一つの名護セミナ−では、市民にとっての図書館づくりと博物館づくりがひたすら論議された。 ここには地域の主人公である住民にとって、真の社会教育とはなにか、ほんものの生涯学習とはなにか、を原点に立ち返って問いなおす方向が模索されている。上述した楚辺区の字誌づくりの実践にしても、集落住民相互による戦争体験の聞き書き活動そのものが、すぐれて平和学習であり、民衆自身による草の根からの生涯学習にほかならない。


*沖縄研究・交流一覧ページ→■