大都市社会教育・研究の系譜・回想(小林・進行中)
ー南の風(2021年4月〜、4237号〜、2022年) 記事ほか TOPページ
*大都市社会教育・研究と交流の集いー20年・25年ーめざしてきたもの→■
*『大都市・東京の社会教育ー歴史と現在』(2016)→■ *研究史ノート→■
▼第29回・大都市社会教育研究つどい懇親会(2006年9月10日夜)
<目次>
はじめに (南の風4237号<4月8日>)他、TOAFAEC「東アジア」年報26号(南の風4265号、2021/8/31)
1,戦後初期公民館構想における都市論の空白 (南の風4244号<2021年5月14日>)
2,八幡市(現・北九州市)公民館計画の胎動 (南の風4244号<5月14日>)
3,東京杉並研究・「歴史の大河は流れ続ける」第1集「解説」小林 (南の風4237-38号<4月08日>)
4,戦後初期・東京都社会教育行政に関する資料収集 (南の風4239号<4月12日>)
5,「大都市社会教育・研究と交流の集い」経過 (南の風4239号<4月12日>)
6,1980年代「大都市・集い」の展開 (南の風4279号<11月11日>)
7,1988〜1999、「東京三多摩社会教育の歩み」(全13冊)編集刊行 (南の風4287号12月24日)他。
以下目次―資料・回想など入力予定(12 は既入力)
8 東京都・斎藤峻史料、三多摩社会教育「歩み」史料廃棄問題、幻の『東京都教育史』通史編5巻
9, 杉並・80年代の自主講座編成、2000年代の安井家・原水禁運動資料・データーベース化作業
10, 大都市生涯学習計画の動き、政令都市社会教育の統計調査など
11,『大都市・東京の社会教育ー歴史と現在』(2016)出版、東京研究フォーラムの胎動
12, 大都市の社会教育・研究の集い、岡山からの報告(内田光俊)(南の風4276号・10月26日)
はじめに
ぶんじん研究自分史をたどれば、1960年代に社会教育の歩みと出会い、70年代に公民館研究、80年代は沖縄研究、90年代に東アジア研究への拡がり、そんな道のりを概括できそうです。加えてあと一つ、70年代から(沖縄研究と平行して)「大都市研究」の取り組みが始まっていたことを、最近あらためて自覚し、再発見した思い。5年前の『大都市・東京の社会教育ー歴史と現在』(2016年、エイデル研究所)の出版は、課題を残しつつも「大都市・社会教育」研究のあるまとめを東京を舞台に世に出すことができたように思っています。
しかし振り返って、「大都市」研究に集中してきたというより、いかにも断続的な取り組み。当の本人も記憶から消えてしまいそうな半世紀の歳月の経過があり、あらためてその「系譜」の大筋をつなぐ作業が必要であることも再確認してきました。というわけで思い出すまま、メモ風にその系譜をたどってみる作業を5回ほど「南の風」に書いてきました。戦後初期からの調査や報告など、散逸しがちな軌跡をつなぎ、時代の流れに整序して研究史メモを綴っておきたいと考えています。あらためてテーマのみ(風への掲載順序を少し変えて)再録しておきます。
1, 戦後初期公民館構想における都市論の空白(南の風4244号【5月14日】)
2, 八幡市(現・北九州市)公民館計画の胎動(南の風4244号【5月14日】)
3, 杉並研究ー安井公民館構想「歴史の大河は流れ続ける」(風4237〜9号,【4月8〜18日】) 、
4, 東京・戦後初期の社会教育行政に関する資料収集 (南の風4239【4月12日】)
5, 「大都市社会l教育・研究と交流の集い」(風4238号【4月8日】他、TOAFAEC「東アジア」年報26号)
4月から5月(2021年)にかけて「風」に書いてきた大都市研究「系譜」メモ。しかし故千野・片野そして御塚(福岡)各氏の訃報、、コロナ禍騒動もも重なって、そのまま中断していました。ご容赦ください。この間には、とくに「大都市社会教育・研究と交流の集い」(1978〜2016)の―準備1年を加えれば、なんと40年の歴史―について、年報掲載(25号・26号)の試みもあり、この動きも風に何度か書きました。大都市「教育労働」組合と学会等研究者集団の、例をみない協働の取り組みの歩み。今後どう再開できるか。川崎市・北條秀衛さん(元市職労教育支部長、のち同市教育長)や、末本誠さん(湊川短大学長)を含む関係9氏の貴重な回想・課題提起を年報「東アジア社会教育研究」26号に収録しました。
目次1〜5のあと、『大都市・東京の社会教育ー歴史と現在』へいたる「系譜」(メモ)を6〜7本書き足すつもりです。回想.メモに過ぎませんが、後日これをもとに「大都市社会教育研究の歩み」について、思い出を引き出せる範囲で、やや詳しくご披露に及ぶ予定でいます。(南の風4265号、2021/8/31)
1,戦後初期公民館構想における都市論の空白 南の風4244号【5月14日】
(1) 公民館設置についての次官通牒(1946)あるいは寺中作雄・初期公民館構想は「新しい町村の文化施設」(寺中「公民館の建設」1946)として提起され、都市部への公民館普及については欠けるところがあった。実際の普及にあたっては、次官通牒は全国が地方長官宛「通牒」であり、また時宜よく「新憲法公布記念公民館設置奨励」(局長通達)として全国レベルで教養講座等が催され、公民館制度の周知は全国規模へ、つまり都市部へも広がったと言える。しかし公民館制度の地域創設は、とくに大都市部において消極的なものにとどまった。戦後70年余を経た現在において、大きな空洞をもたらしていることに注目しておきたい。
(2) 同時にまた、都市部の多くは戦争末期の米軍空襲により焼失し、廃墟からの復旧に追われ、また教育行政としては戦後義務教育年限の延長、六三三制実施という課題がなにより大きな課題であり、当時は社会教育施設の設置まで手がまわらないというのが実態であった。1950年代に戦後復興・新制中学の整備が一段落した段階においても、新しく大都市部への「地すべり」的人口流入の大波に対処しなければならなかった。
(3) 1947年から始まる文部省・優良公民館表彰は、そのような事情を反映し、当初から農村部の公民館が主流であった。寺中作雄・鈴木健次郎「呼吸のあった二人三脚のコンビ」(寺中)に推奨された15公民館事例が注目されたが、市部は敦賀市と川崎市の2例にとどまる(『公民館シリーズ』6,1948)。大都市部における公民館設置の動きはまったく欠落していた。鈴木は1950年代になると、都市公民館の普及について積極的な発言をし(鈴木健次郎『公民館運営の理論と実際』1951)、また都市公民館連絡協議会等も開催(別府市)されているが、農村・都市の格差はその後も大きな亀裂となってきた。
(4) このような状況のなかで(前述した)東京都杉並区において、革新区政(新井格区長、1947〜48)が誕生し、高木敏雄区長が文化区政を継承して、本格的な区立図書館(1952)をスタートさせ、併設して翌年に区立公民館を 建設した意義は大きいものがあった。館長に国際政治学者(法政大学教授)安井郁を招いた。女性の読書会(「杉の子」会)や活動が注目されたが、とくにビキニ環礁被爆事件(1955/3/1、第五福竜丸)を契機に広範な原水爆禁止署名運動が公民館を中心に広がり、日本の反核運動の起点になったことは周知のとおり。しかし東京各区でも公民館設置は広がりをみせず、横浜市では公民館設立の動きなど皆無であった。川崎市では市中心部に公立公民館が設立され、のちの「市民館」網設立の基礎となってきた。
2, 八幡市(現・北九州市)公民館計画の胎動 (南の風4244号【5月14日】)
(1) 上記・鈴木健次郎は、1951年に文部省を離れ、福岡県教育委員会社会教育課長に転出している。福岡県は戦後の公民館制度創出にあたって、1948年・旧青年学校教員給与を専任公民館主事の給与にあて、多数の専任主事を配置した公民館制度を全県レベルで実現した県であった。福岡県は戦後初期、全国比較において「ずば抜けた公民館設置率と専任主事の設置率を生み出すこととなった」(日本社会教育学会編「社会教育法制研究資料」13集、1972)。しかし都市部の公民館は多くの課題を残していた。そのなかで旧八幡市がいわゆる「八幡型公民館」を創設し、都市型公民館の第一のピークを実現した事例は貴重である。そこに鈴木健次郎の役割も少なくなかった。。
(2) 横山・小林共編『公民館史資料集成』では、西田嵩(八幡市公民館長・当時)の回想を収録して、旧八幡市の公民館史を語らせている。守田道隆(八幡市の戦後初代公選市長、のち全国公民館連合会長)の都市計画構想は、道路・住宅・上下水道・福祉など本格的な広がりをもっていたが、とくに公民館(当初は公会堂・市民館)計画は重要な政策の柱となった。西田の回想によれば、当初は「公民館は全国各町村に設置され」るもとの理解から、八幡市に設置する考えはなかったが、社会教育法(第21条)により「公民館は市町村が設置する」規定によって市全域への画期的な公民館設置が具体化することになった。1952年10月、守田市長は鈴木健次郎(県教委)課長を八幡市に迎え、1,中学校区に地区公民館を設置、2,各公民館に館長と専任主事を配置、3,各公民館には公立幼稚園を併設、といういわゆる八幡型公民館計画を具体化させていく。ちなみに福岡市では小学校区の配置、嘱託主事制による福岡型公民館の体制が具体化していくが、これと対比して八幡型公民館と呼ばれてきた。
(3) 八幡市中央公民館の開館(1951年)から20年の間に、八幡市全域に地区公民館が建設された。各公民館には専任館長、主事そして用務員が配置された。その後の北九州市五市合併後に「教育文化事業団」への公民館委託、さらに市民福祉センターへ公民館吸収という嵐がやってくるのである(後述)。
北九州市「八幡型公民館」については、古賀皓生「八幡型都市公民館の形成過程とその性格−初期都市公民館「守田構想」の再吟味」(熊本学園大学創立50年記念論集、1992年)、小野隆雄ら旧公民館職員6氏による『北九州市八幡公民館五十年通史』2000年)などの貴重な労作が残されている。また福岡県公民館連合会発行『福岡県公民館のあゆみ(福岡県公民館40年記念)1992』があり、北九州市教育文化事業団委託後も、旧八幡区には旧中央公民館のほか16地域公民館(小野隆氏が勤務した穴水公民館等)が整備された歩み・回想が記載されている。
3,東京杉並研究・『歴史の大河は流れ続ける』全4集
(第1集・第4集―解説) 南の風4237〜38号【2021年4月08日】他
*杉並区立公民館を存続させる会・発行(1980年4月〜198年8月)
(1)『歴史の大河は流れ続ける』(第1集)「解説」(小林文人)
この資料集の標題「歴史の大河は流れ続ける」は、杉並公民館<公民教養講座>(1954年4月26日〜1961年6月16日)における安井郁(名誉)館長の連続講演「世界の動き」最終回のテーマである。この標題は、もともと読書会「杉の子会」のテキスト『新しい社会』(E.H.カー)にながれる大きなテーマでもあった。
私たちはこのたび、杉並公民館そして地域の文化運動の歴史を記録するにあたり、このテーマを継承し、資料集第1集に、あらためてこの標題を掲げることにした。
その安井郁先生も、すでにこの世を去られた。私たちが杉並公民館の歴史にかかわってこられた方々の証言・聞き書き活動を開始し、そして、この第1集刊行の計画を進めていたさなか、3月2日のことであった。一度、せめて一度、安井先生から直接にお話をうかがいたいという私たちの悲願も、遠い夢となった。残念なことであった。
私たちはただ哀悼の意を表しつつ、公民館の創設と地域平和運動・文化運動に大きな足跡をのこされた先生の意志を復元する努力を続けるほかはない。結果的に本資料集は、先生の追悼号ともなってしまった。
東京の社会教育には“歴史”がない。歴史の事実そのものは、かけがえのない歩みとしてあるが、それが実質的に記録された“歴史”がない。日本の(戦後)社会教育のなかでも大きな空白となっている。
東京の社会教育の歴史とともに、そのなかでの杉並の公民館の歴史もまた、日本の他のどの公民館と比べても比べることができないほどの歴史をもっている。それは日本の公民館史のなかでのあざやかな1頁といってよい。しかし、その“歴史”もいままで綴られることがなかった。
杉並公民館の独自の歴史、その歴史を綴ることの意義については、私たちの研究会で5点ほど話しあったことがある。すなわち、(1) 公民館制度をもたない東京都区部のなかでの例外的な公民館であること。(2)原水爆禁止運動との結合、(3)注目すべき「教養講座」の展開、(4)図書館と公民館の併設、(5)安井郁の館長就任、などについてである。
しかし杉並公民館の創設からわずか四半世紀を経過した現在において、すでに記録は散逸し、歴史は風化しつつある。しかも、杉並区の基本構想によれば、このかけがえのない歴史をもった公民館を廃止しようとする計画さえ進められている。私たちは、「杉並区立公民館を存続させる会」の運動とも結んで、杉並公民館の歴史を記録する作業を急がなければならないと考えた。
この第1集では、私たちのこれまでの資料収集・聞き書き活動のなかから、基本的なもののみ選んで収録した。公民館「教養講座」の復元表はまだ不充分な箇所を残しているが、あえて不充分なまま収録することにした。関係者のご協力をえて、こんご空白部分をうめていきたいと考えている。資料集としては、引き続き第二集(証言集1)、第三集(証言集2)、第4集(行政資料集)などの編集・刊行の計画を進めている。内容の面でも、基金の面でも、区民の多くの方々のご参加ご援助をお願いしたい。
*参考資料→http://www.bunjin-k.net/suginami06kominkan.htm
▼旧(東京)杉並区立公民館(手前の木造)1989年閉館
(2)『歴史の大河は流れ続ける』(1〜4)全目次(1980〜1984) 所収項目→■別ページ
*杉並区立公民館を存続させる会・発行
@第1集ー杉並公民館の歴史(B5版、36頁、1980年4月)
はじめに(伊藤明美)、民衆と平和(抄)(安井郁)、安井田鶴子氏に聞く、ほか
A第2集ー杉並公民館の歴史(2)(B5版、56頁、1981年5月)
特別区の社会教育ー民主社会の基礎工事として(安井郁)、幻の原稿(解説・安井田鶴子)など
B第3集ー杉並公民館の歴史(3) (B5版、83頁、1982年8月) 社会教育の基地(安井郁)ほか
C第4集ー原水爆禁止署名運動の関連資料集(B5版、149頁、1984年8月)
水爆禁止のための署名簿、杉並アピール、原水爆禁止署名運動杉並協議会記録、など
(3) 第4集「後記」(小林文人、1984年8月)
「杉並公民館の歴史は貴重だ。日本の公民館史上、杉並の歩みはキラリと光を放っている。この足かけ5年間の作業で、私たちは、そのことを再認識、再確認できらように思う。公民館構想の出発に、ご存知のように「寺中構想」がある。それとは明らかに違う内容で、いま私たちは「安井構想」を“発見”した。安井構想とはなにか。地域と地域、国内と国際、生活と歴史、それらを結合させて、学習を組織し、さらにそれと運動(反核運動)と結合させた。そのような公民館の実践の全体像をいま描き出しておく必要がある。」
◆都市公民館研究―東京都杉並区立公民館『安井構想』の展開過程(園田教子)
東京杉並の住民団体「杉並区立公民館を存続させる会」に協力するかたちで進められた杉並区立公民館研究、とくに原水爆禁署名運運と安井郁館長主導による都市型公民館(安井構想)に関する資料収集は、同会発行「歴史の大河は流れ続ける」4冊のなかに記録され、貴重資料として評価を集めてきた。また調査メンバー・園田(平井)教子(東京学芸大学大学院生)によって、杉並公民館・安井構想に関して検討が重ねられ、修士論文「都市公民館研究―東京都杉並区立公民館『安井構想』の展開過程」と題する力作が報告されている。
小林は、1980年から東京学芸大学学生部長の激職と重なり、充分な論稿・資料を発表するに至っていない。その後約20年を経過し、「杉並公民館50年」(2003年―実際には「セシオン・杉並区社会教育センター」へ移行していた)を記念する学習会や資料展示・博物館活動(区民の自主活動による)を期として、原水禁運動とくに安井家所蔵の資料調査が始まり(2005年3月〜2009年12月、毎月1回の安井家訪問)、退蔵資料のデジタル・データ化の作業が重ねられた。この間、数冊の記録・報告集が刊行された。2000年代の杉並(安井家資料)研究史として後述する。
4, 東京・戦後初期の社会教育行政に関する資料収集 南の風4239【4月12日】
◆経過:
1976年から始まる戦後沖縄社会教育研究会(東京学芸大学社会教育研究室)は、1985年〜86年に「地方社会教育制度の形成過程に関する実証的研究」をテーマとして二度目の文部省科研費(総合研究A)の交を受けた。作業は沖縄研究が主であったが、福岡・北九州研究と並んで、東京研究に取り組む一時期があった。主要な作業内容のみ列記しておく。
東京社会教育に関する歴史研究が十分でないこと、先行研究を3点ほど紹介した上で、関係者の聞き取りをおこなった記録がある。「東京都レベルにおいて(戦後初期の)社会教育行政にたずさわった関係者のリストは、石川光隆氏作成の資料が基礎になったので、今後の調査活動の便宜のため当報告・文末に掲載されている。」
関係者への面接調査は、次のような経過で行われた。それぞれに関係資料の一部を用意し、それに基づいて“証言”を求める方法でおこなわれた。
第1回(1984年12月21日)安井辰雄(元青少年教育課長)、三石辰雄(同)「青年学校から青年学級へ「(吉祥寺・武蔵野青年の家) 第2回(1985年1月12日)織戸勝雄(文部省から東京都へ、元青少年教育課長)「東京都戦後初期の社会教育行政」(東京都教育会館) 第3回(1984年2月16日)長谷川和彦(元東京都視聴覚教育課長、現全日本社会教育連合会)「戦後東京の文化行政・視聴覚教育行政」(東京都教育会館) 第4回(1985年3月16日)宇田川誠(元北区社会教育課)、石川正之(同)、「北区の社会教育行政と公民館の歩み」(赤羽会館文化センター) 第5回(1985年6月28日)杉山一人(東京府社会教育課、のち町田市教育長)「東京の青年学校について」(全国連合退職校長会会議室)
これらの聞き取りに東京学芸大学社会教育研究室(大学院生)が参加した。研究室内部での分析検討会など行えず、7月以降は沖縄調査とその学会発表、報告書の作成などに集中したため、「東京」研究会・資料作成の余力がなかった。沖縄社会教育研究会発行『沖縄社会教育史料6−宮古・八重山の社会教育』1986年刊のなかに、東京報告はp162〜p173に所収されている。
5, 「大都市社会教育・研究と交流の集い」経過 南の風4239【4月12日】他 関連→■20年記録
TOAFAEC年報26号所収(2021、小林)
・・・各年度の「集い」参加者数は一様ではないが、学会(研究者)側が10名前後、各都市(職員労働組合・教育支部)側が20〜30名。毎年度に各都市から持ち込まれる自治体諸資料を共有しながら、活発な論議が交わされてきた。「集い」のスケジュールは、日本社会教育学会・年次研究大会に合わせ、会場もその近くに設定されてきた。したがって、北は北海道から南は鹿児島まで、全国規模で開催されてきた。学会プログラムの最終日(三日目)午後から大都市「集い」が平行して開始され、翌日まで一泊二日の濃密なプログラムが組まれた。1日目の夜は、全参加者が集う交流・懇親の催しが通例となり、年度により濃淡はあるが、忘れることができない交歓がかわされてきた。
毎年恒例となってきたこの「集い」が、開かれなくなって4年。昨2020年夏に、「集い」の後半部分(第27回・2004年以降)の事務局を担当された今川義博氏(仙台市職員労働組合教育支部)にお願いして、とくに資料記録が不十分な第25回以降を含め、休会状態に陥っている「集い」記録を一定復元していただくこととなった。年報25号(2020年12月刊)に収録された「大都市の社会教育・研究と交流の集いに関わって」(今川義博、pp243〜255)がそれである。第1回(1978年)から第39回(2016年)までの全「集い」記録(開催年、学会会場、集い会場、開催プログラム、論議テーマ、作成資料(25回まで)、懇親会場等)が一覧となって蘇った。仙台市職労・中央執行委員長の激務のなか、労を惜しまず作業を進めていただいたことに深く感謝したい。
今川復元資料を共通素材にして、大都市「集い」創設に参加してきた主要メンバーに、以下それぞれの立場から自由なコメントをお願いすることとした。大都市「集い」の「これまでとこれから」について、短い紙数しか用意できないが、自由に書いていただいた。各位のご協力に感謝したい。
「集い」がスタートした1970年代の複雑な高揚を、今まざまざと思い出す。当時の背景を概観すれば、東京三多摩(旧農村部)では「新しい公民館像をめざして」(三多摩テーゼ)の普及があり、自治体レベルの公民館づくりが躍動しつつあった一方で、戦後初期から独自の公民館体制を創出してきた旧八幡市、福岡市(あるいは西宮市ほか)では、すでに職員削減いわゆる公民館「合理化」策が進行していた。北九州市(五市合併)は「教育文化事業団」を発足させ、旧八幡市公民館体制を丸ごと委託(1976年)、福岡市では政令市昇格後に公民館主事嘱託化(1977年)を強行した。つまり地方都市として確立しつつあった公民館体制は、政令市となることによって放棄されたといってよい。そこには戦後社会教育法制の根幹部分(公民館制度)が大都市部に定着してこなかった「非定着の定着」の大きな空洞が口をあけていた。いったい社会教育にとって「大都市」とは何か!
旧六大都市の公的社会教育体制はなべて貧弱である。人口あたり社会教育費の比較では京都・横浜の貧しさは目にあまる。ところが新政令市・川崎市は旧公民館制度を定着させ、政令市移行後はこれをベースに「市民館」を図書館とともに各区に配置、専門職員を含む職員集団を充実させてきた。自治体職員労働組合運動のなかに「教育支部」が組織されるようになる。自治体計画や公民館研究に取り組んできた日本社会教育学会や社会教育推進全国協議会調査研究部のメンバーと川崎市職労「教育支部」との出会いは1975年前後。前者の北九州の財団委託・福岡の公民館主事嘱託化反対運動と、川崎の大都市社会教育調査を前史として、本「集い」構想へ論議は、1977年から始まっていたように記憶している。とくに川崎の故伊藤長和さんの果たした役割が大きかった。
当時のこと、「集い」開催のその後の展開については、前掲「大都市の社会教育研究と交流の集い20年−私たちはなにをめざしてきたか」(1998、小林)に証言として記録されている。
6, 1980年代「大都市社会教育研究と交流の集い 」の展開 (南の風4279〜80号【11月11〜20日】)
「集い」の具体的な展開について、初期(1980年代〜)の活発な展開について記しておこう。
(1) 「集い」は、まず川崎市から伊藤長和・古橋富美雄氏らによる報告、いわゆる川崎グループによる「政令指定都市の各市統計比較「基礎資料編」の報告から始まった(第1回、名古屋)。川崎グループは、同年の日本社会教育学会でも「指定都市統計基礎資料調査」について報告している。同資料・基礎統計は、横浜市の伊藤秀明・坪野忠両氏による「横浜市の社会教育・問題点」とともに、社会教育推進全国協議会(社全協)調査研究部の資料第7集『1978年の社会教育施設をめぐる状況』特集U、として収録されている。「政令指定都市・・集い」の準備が、社全協調査研究部(小林担当)活動として進められてきた事情による。
なお指定都市社会教育・基礎統計分析は、さらに2年後の社全協・調査研究部資料第8集「1980年の社会教育施設をめぐる状況」特集U「政令指定都市の社会教育」にも続編・分析が掲載されている。この段階では、特別区制・東京都教育支部は、自治労(政令指定都市)教育支部組織に入っておらず、東京都社会教育の統計分析は含まれていない。
6−(2) ー以下・風4280号ー 「大都市社会教育研究と交流の集い」(1998〜2016)は、準備1年を含めれば、40年の歴史を刻んだ活動である。日本社会教育学会の研究者有志と自治労・大都市教育支部(労働組合)が一堂に会した「研究と交流」は、感動的な出会いであった。
集い記録としては、『大都市の社会教育研究と交流の集い・20周年記念誌ー日本型“WEA”の創造に向けた歩みー』(神戸大学社会教育研究室・末本誠編、1998年)、同『第25回報告書』(仙台市職員労働組合教育支部、2003年)がある。「月刊社会教育」の集会報告として、1980年(1月号)、1982(3月号)、1984(3月号)、1986(1月号)など各号に記録が残されている。
6−(3) 1970年代後半から各都市を直撃し始めた行政改革・嘱託化・委託等の問題について、80年代の「集い」で多くの報告・討議が行われた。また1980年代の臨時教育審議会「教育改革」論議・「生涯教育体系」への移行策が唱道され、大都市・集い間でも、大阪・川崎・横浜等の「生涯教育計画」についてさかんな論議がおこなわれた。自治労(教育支部連絡協議会等)によって、「大都市社会教育の在り方を求めて」(1982)、「政令指定都市社会教育実態調査報告書」(1983)、「臨調行革、臨教審下の“七つの提言”」(1986)等が公刊されている。当時の自治による社会教育出版、貴重な記録として残された。
6−(4) ユネスコ・ICAEによる「学習権宣言」(1985)は、大都市「集い」のなかでも大きな反響をよんだ。それとの関連もあり、ユネスコ・E.ゼルピ氏の招聘(1987)が実現し、東京・川崎・名古屋・大阪・福岡・沖縄各地での画期的な講演会等が開催された。この記録として、海老原治善編『生涯教育のアイディティー市民のための生涯学習』(1988)があり、大都市「集い」関係者が中心となって執筆したた稀少記録である。
また1989年には、中国教育文化事情視察団が編成され、中国大都市(瀋陽、北京、西安、上海)を訪問し交流した。天安門1か月前に、訪問団(海老原団長、小林副団長)は同じ広場に立っていた。残念ながら報告・記録は残されていない。
(6−(5) 大都市「集い」は、2016年11月(第39回)まで、毎年の日本社会教育学会研究大会の最終日・翌日の二日間にわたって開催されてきた。第39回プログラムは、この年に公刊された『大都市・東京の社会教育ー歴史と現在』(エイデル研究所)をとりあげ、討議された。しかし、その後「集い」は休会状態となっている。 『第25回報告書』(2003年)以降の記録はまとめられていない。なお第39回(2016年度開催)にいたる一連の開催プログラムは、事務局を担った今川義博氏(仙台市職労、仙台市若葉区中央市民センター)によって再現され、一覧記録となって残されてることは既述の通りである。(TOAFAEC
年報・第25号、2020年発行)。
7,1988〜1999、「東京三多摩社会教育の歩み」研究(全13冊)の編集刊行
南の風4287号(12月24日)
7-(1),はじめにー東京・三多摩「社会教育の歩み」編集・発行ー全13冊一覧
私たち(東京社会教育史研究グループ)は、1988年から1999年にかけて,『東京・三多摩社会教育の歩み』全13冊を編集・刊行した。それまでの東京都社会教育史としては、東京都教育委員会「社会教育10年の歩み」1959年、東京都立教育研究所編「戦後東京都教育史」下巻・社会教育編、1967年、などが公刊されていた程度であった。1980年代の東京都立・立川(のち多摩)社会教育会館の理解を得て、同館事業に位置付けられて、画期的史料シリーズが世に出ることとなった。
まずその一覧・主要な(小林執筆・担当テーマを中心に)内容の一覧を列記しておく。いずれもB4版(「東京」3冊はA4版)100頁前後の報告書であるが、1993年「別冊」は(なんと!)495頁の大作となった。
◇東京都立多摩社会教育会館『戦後三多摩における社会教育の歩み』(第1集〜第12集及び別冊 1988〜1999年(第10集・1997年より「東京における」に改題)
第T集(1988年) 特集:その揺籃期を探る 戦後三多摩・社会教育の歩み−その歴史を掘ろう、戦後社会教育行政のあゆみ、戦後初期三多摩の婦人会活動と学習(座談会)ほか。
第U集(1989年) 特集:その揺籃期を追う 西多摩婦人生活館の顛末、婦人たちの共同学習ー北多摩、米軍宿舎反対運動と南街婦人会、はじめに住民の学習ありき(座談会)、北多摩婦人会活動の状況(座談会)、ほか。
第V集(1990年) 三多摩社会教育の歩みについてーその特質と課題 調布地区青年団の記録、西多摩郡社会教育主事会の歴史、東久留米の社会教育の歩み、ほか。
第W集(1991年)いくつかの挑戦(まえがき)、三多摩博物館のあゆみ、地域婦人会・生活学校・消費者運動(羽村)ほか。
第X集(1992年) 歴史の空白を埋める(まえがき)、三多摩公立博物館の歩みU(座談会)*斉藤峻・丸田修二資料目録、など。。。
第Y集(1993年)第三サイクルへの挑戦(まえがき)、三多摩の夜間中学−識字実践の歩み、うたでつづる三多摩社会教育実践史(座談会・証言1ほか。
【別冊】 昭和20年代の東京都の社会教育資料集・報告書(1993年)
第Z集(1994年) 戦後40年余の風雪をふりかえる(まえがき)、八王子の織物青年学級、織物学校、演劇でつづる三多摩社会教育実践史(座談会),三多摩テーゼ20年−経過とその後の展開−ほか。
第[集(1995年) あらためて社会教育・半世紀の歩みをふりかえる(まえがき)小平の初期公民館について、有賀三二資料・解題、座談会・解題 新生活運動の歩み(座談会)、勤労青年学校を追う(座談会)ほか。
第\集(1997年)大河の流れをみつめてきた思い(まえがき),三多摩における社会教育をめぐる住民運動−1970年代を中心に、ほか。
戦後における東京の社会教育のあゆみT−通巻第10集(1997年)戦後50年の地点にたって(まえがき)、東京二三区の公民館ー資料解題的に、ほか。
戦後における東京の社会教育のあゆみU−通巻・第11集(1999年)東京社会教育の地域史を(まえがき)、葛飾区社会教育の歩み(座談会)、その意味するもの(解題)、「ふだん記」運動について(解題)ほか。
戦後における東京の社会教育のあゆみV−通巻・第12集(1999年),社会教育の歩みを掘り続けよう(まえがき)、 渋谷区社会教育行政・施設の歩みと展開(座談会)、東京23区障害者青年学級のあゆみ(座談会)ほか。
7-(2) 発行にいたる背景と編集経過 南の風4288号(12月27日)
前号・一覧「東京・三多摩社会教育の歩み」(全13冊)については、初めて知る方も多いのではないだろうか。もともと「史料」編纂刊行の予算枠組が用意された事業ではなく、「社会教育資料分析」のわずかな委員謝金のみ。調査経費も原稿料も皆無のスタートであった。報告書の印刷部数も少なかったはずだし、東京三多摩の各社会教育施設等に配布されたが、一般市民に頒布できるような規模の事業ではなかった。しかし小規模であれ、結果としては13年にわたって事業は継続し、三多摩各市町村と一部23区(杉並、北、太田、葛飾、渋谷ほか数区)にわたって、延べ350点(概数)を超える社会教育史・関連史料が発掘され記録されたことは注目されていいだろう。
この「歴史を掘る」事業に参加した委員は、年度によって異同があるが、小林文人(主任研究員)、故藤田博、故小川正美、佐藤進、穂積健司、荒井隆ほか数人のメンバーであった。原稿の形態は、素記録を含み、すべてが成稿となっていたわけではないが、各種座談会をはじめとして、さらに調査し探求されるべき諸課題が数多く堀り出され、思いがけない収穫をもたらした。
とりわけ別冊として刊行された「昭和20年代の東京都の社会教育資料集」(1993年)は貴重であった。1946年からの初期・東京都社会教育事業資料を収録することができた。戦災の痛手にあえぐ東京の復興への歩みと結びついて、戦後社会教育の新しい潮流がいかなる動きであったか、貴重な資料を救い出すことも出来た。
三多摩・各自治体の社会教育史調査が一段落したところで、作業は特別区の史料調査に踏み出すこととなった(第10集・1997年〜)。新しいステップに入ってわずか3年、多摩(立川)社会教育会館の閉館が決まり、社会教育史「歩み」を掘る事業も終息することとなった。閉館は多くを失った。最終号(1999年)末尾に、まとめとして「分析研究報告書」目次一覧、執筆者一覧、市区町村別索引、を収録している。
7-(3)「報告書」・収集資料の廃棄問題
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12, 大都市の社会教育・研究の集い、岡山市の動き・参加
内田光俊(岡山市立西大寺公民館長)、南の風4276号、10月25日
5年も前の事ですが、大著『大都市・東京の社会教育ー歴史と現在』(エイデル研究所、2016年)を読んだことを思い出します。一通り読むだけでも大変な厚さでした。本の厚さと実践の厚みの両方です。「大都市研」(第39回@国立)でこの本をもとにコメントするお役目を頂戴していたので、どうしても読み込んでおかないといけなかったのですが、自分にとっては貴重な学びになったのでした。
この時FBに投稿した内容を思い出してシェアしたところ、小林先生からこれを南の風に投稿して欲しいという話が届き、これを書いています。この本を通じて、改めて再確認できた東京の社会教育の発展史から、学ぶことがたくさんありました。東京の社会教育は、公民館はもちろんですが、それだけでなく多様な分野で多彩な取り組み・実践が展開、蓄積されてきたことが、再確認できましたし、知らなかったこともたくさんありました。自分は、1970年代の半ばから後半にかけて東京で学生時代を過ごし、中央大学で島田修一先生たちから社会教育を学んだ者ですが、当時の息吹のようなものを感じることもできました。
岡山市の公民館職員たちも、三多摩テーゼ以来の三多摩の公民館実践に学んできたからこそ、今があります。岡山でも、こうした掘り起こし作業をしなくてはとも思わせられました。これは僕がやらねば、誰も手を付けない仕事かもしれませんが。
大都市研は社会教育の研究者たちの呼びかけを受けて、大都市の自治体労働組合の教育関係の支部で活動する中心メンバーが集まって研究協議(1978年・第1回〜2016年・第39回)を重ねてきたもの。岡山市は政令市になってから加わった新参者ですし、都市の規模も小さく大都市とは言えない(一部で大都会岡山と揶揄する向きもありますが)ので先輩諸自治体と同様にはいかないと思いますが、それなりに公民館の発展については実績があると思っています。
特に嘱託職員の正規職員化による社会教育主事の全館配置(37名)は、労働組合が大きな役割を果たしたからこそ実現できたものでした。その後の公民館市長部局移管を阻止した運動についても同様です。
その点では、他の大都市では、自治体労働組合が社会教育の発展に大きな役割を果たしてきたとは見えにくいことが、残念に感じられます。僕の知識不足、あるいは紙面の都合で割愛されざるを得なかったのかもしれませんが、東京においても地域や市民生活の切実な課題と向き合う社会教育、公民館などの実践と、市民の運動、最近では
NPOなどの活動と、自治体労働運動が響き合っている姿が見えてこないと感じるのです。
社会教育職員の個人としての、また職員集団としての取組とその成果、蓄積の大きさが読み取れるだけに、不当配転撤回闘争くらいでしか登場しない自治体労働組合は何をしていたのかと思わざるを得ません。しかし、これは東京だけでなく全国的な傾向かもしれず、自治体労働運動の中ではずっと取り組まれてきているはずの
自治研活動などとの接点がなかったのか、もしそうならそれはなぜなのかの検証を、この東の重い本をもとに取り組む必要があるのではないかとも感じさせられたのでした。
ソーシャルユニオニズムの言葉を持ち出すのは大げさかもしれませんが、自治体労働組合のそうした役割は、本来、社会教育分野や、社会福祉分野などの自治体労働運動が先鞭をつけていくべき分野だろうと思います。そして、現今の社会情勢の中で、市民社会の中での労働組合、とりわけ自治体労働組合の存在意義を発揮することの必要性と重要性を考える者なので、かつて「大都市研」が毎年開催されていたことを思い出しつつ、さらに東アジアの大都市や
CLCが広がっているバンコクやジャカルタなどの都市にも発想を広げて、共に学び合い考え合うような場もできると面白いのになとも考えています。もっとも、諸外国の大都市に職員の労働組合があるのかどうか、あったとしてどういう方針でどんな活動をしているのかについてはまったく不勉強なので、思い付きの範囲を出ませんが・・・。
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