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 沖縄の集落自治と字公民館に関する研究
   
      −字誌・地域史を手がかりに− 
(小林文人)


 <目次>
1, 『おきなわの社会教育』(第1章)−沖縄の社会教育実践(2002)→■
,沖縄の集落自治と字公民館をめぐる法制(2003〜2004) 本ページ
3,沖縄の集落(字)育英奨学活動の展開(2005) 本ページ


4,与那国調査報告(2002)→■
5,竹富島の集落自治と字公民館(2008)→■

6,名護・若者たちの太鼓、東アジアに響く (2024) 本ページ
   ―名護の集落(字)公民館の歩み、期待と課題―
(2024,名護城区)

7,



*沖縄・字(集落)公民館・資料→■



1,,『おきなわの社会教育』
   (小林文人・島袋正敏共編、エイデル研究所)2002年→■

第1章 沖縄の社会教育実践 ーその独自性と活力

一、戦後沖縄社会教育の地域史
二、戦後史に展開する社会教育、その特徴
三、琉球政府時代の社会教育
四、復帰後の沖縄社会教育の展開
五、沖縄からのメッセージ
六、沖縄社会教育に関する研究交流史




2,沖縄の集落自治と字公民館をめぐる法制
   
−字誌・地域史を手がかりに−(2004)
                 

1,はじめに−沖縄の地域史の潮流

 沖縄の公民館制度は、主要には集落に基盤をおく「字公民館」として定着の歩みをたどってきた。後述するように1953〜54年にその歴史が始まるとすれば、いま丁度50年を経過したことになる。この半世紀、沖縄の集落にとって公民館の構想や制度はどんな意味をもったのであろう。そしてまた、沖縄独自の字公民館の展開は、日本の公民館の全体像に何をもたらしたのであろう。
 字公民館の歩みは、沖縄の戦後史を背景として、それぞれの集落史と切り離すことができない。字公民館の歳月は、集落の歴史とほとんど一体的に推移してきたのである。それだけにわれわれは沖縄の集落史・地域史に注目していく必要がある。
 戦後沖縄の集落(ムラ、シマ、字、自治会)の歩みは、その多くが想像に絶する苦難に充ちたものであった。日本の他のどの地域も経験したことがない激動をたどってきた。その実相は、沖縄戦との関わりや戦後復興の経過、とくにアメリカ占領・基地との関係などによって、個別に大きく異なるものであった。
 集落史というものは、同じ沖縄でありながら、これほどまでに違った側面をもつものかと驚かされる。また同じ集落のなかで、そこに生きる人々の暮らしも多様な歴史があった。同時代でありながら、人それぞれのさまざまな人生ドラマが織りなされてきた。
 私たちに沖縄の集落史の多様な違いに気づかせてくれたのは、個別の聞き取り調査によるところもあるが、何よりも最近の地域史(市町村史、字誌)の成果から得るところが大きい。1980年代からの沖縄独自の地域史づくりの潮流。小さな集落ながら実に見事な大きな字誌の刊行! 感動しながら、重い字誌のページを何度めくってきたことか。そこから多くのことを学ぶことができた。

 沖縄研究を志して沖縄へ通い始めたころ(1970年代後半)は、消失してしまった戦前史料はもちろん、戦後の資料もきわめて少なく、とくに社会教育の分野において依るべき史料も見るべき資料もきわめて限定されているという実感であった。わずかの稀少資料も散逸・風化がすすんでいた。それだけにその保存や復刻の課題を自覚させられてきたともいえるし、事実、いささかの努力(たとえば東京学芸大学社会教育研究室『沖縄社会教育史料』全7号の刊行、1977〜1987年)を重ねてきた。しかし今日、この状況は大きく変化したと言えるだろう。
 琉球政府文教局による『琉球史料』(全10集)、沖縄県教育委員会『沖縄県史』(全24巻)や、同『沖縄の戦後教育史』同『資料編』等によって、戦後沖縄・社会教育の制度史レベルの概要はある程度の復元が可能になってきた。しかし、その具体的な地域レベルの推移や変容の実相は必ずしも明らかではない。ところが各地の市町村史はもちろん、この間の実に多くの集落史刊行によって、これまでにない社会教育(とくに字公民館)の実像がさまざま記録され証言されてきているのである。これほどの地域史資料をもつ(これからもさらに増えるであろう)地方は沖縄以外にはない。
 多くの集落史は、個別の地域史としてかけがえのいな記録である。と同時に、戦前・戦後・沖縄の全体史の断面としての側面をもっている。各地の集落史あるいは公民館史、社会教育関連団体や諸運動の個別史を、さらに全体史との関連をもって、横断的に通覧してみると何が読みとれるのであろう。いま地域史の潮流のなかで実は膨大な史・資料群が姿を現しつつあるといってよいのではないか。しかしこれらを研究的に活用する作業はこれまであまり多くない。
 本論では、このような問題意識をもって、沖縄独自の集落史とくに字公民館の地域史的展開に焦点をあて、集落自治と字公民館をめぐる「法制」についての地域比較論的な検討を試みようと思う。なにが明らかにできるか。本来ならば、字誌の文書的記録を手がかりに地域実証的な調査分析を重ねるべきであるが、今回はそのような余力がない。むしろ字誌による“文献”研究にとどまり、各集落・字誌刊行後のその後の展開を含む具体的な地域実証研究は今後の課題に残されている。

2,戦後沖縄における公民館制度の導入過程

 戦後日本の公民館構想は、どのような経過で沖縄に導入されたのか。宮古民政府や八重山民政府による教育基本法(1948〜49年)は本土法を基礎にしていたから、同第7条に「公民館」という名称が含まれている。それより早く沖縄民政府文化部による「市町村文化事業要項」(1947年)には「文化施設」の一つとして「公民館(附簡易図書館)」の記述がみえる(『琉球史料』第十集、文化編2)。しかしこの時期は公民館についての具体的な動きが実際に見られたわけではない。
 日本本土との通交が政治的に遮断されていた戦後初期において、本土の教育改革に関する諸資料が(公民館関係資料を含めて)スムースに沖縄に伝えられるという事情にはなかった。教育基本法等の資料を、当時わずかに通じていた測候所・補給船に託して運んだり(宮古、八重山)、闇船から入手したり(沖縄)、現職教員による密航でようやく運び込む(奄美)というような状況であった。この間のドラマについては「海を越えた教育基本法」として書いたことがある。(『季刊教育法』41号、1984年) 
 これまでの調査では、沖縄へ公民館構想が渡ってくる経過は、奄美を経由してのルートであっただろうと考えられる(『沖縄社会教育史料』3集・証言集)。奄美ではいち早く「全市町村に公民館を設置」(1950年)する施策が出され、公民館制度を骨格とする「社会教育条例」(1951年、奄美群島政府)が公布されていた。しかし公民館の施設的な実態はなかったという(『沖縄社会教育史料』4集、喜島範俊氏等証言)。
 群島政府から琉球臨時中央政府をへて琉球政府発足(1952年)の時期になると、復帰前の奄美と沖縄の社会教育行政担当者間の交流はかなり頻繁なものがあった。沖縄側にも公民館構想の積極的な受け入れの姿勢があり、琉球政府文教局の初期施策の中心に公民館の振興策が位置づくのである。琉球政府の初代社会教育課長・金城英浩氏は「いろんな文献や資料のようなものは、確か奄美大島を経て入ってきたんじゃないか。(奄美は)すでにみな公民館というものを置いて公民館主事といっていました。」「各市町村に社会教育主事を置くというのは大島からヒントを得たのです。」「沖縄の村には中央公民館という施設はないし・・・当時どうしても部落中心の公民館活動から始めようという方針でやりました。このことは今でも間違いなかったと考えています。」と回想している。(前掲『沖縄社会教育史料』3集)  

 他方でこの時期は、琉米文化会館の設置にみられるようにアメリカ占領下の宣撫工作的な文化施策が積極的に動き始めていた。アメリカ占領軍当局による「成人学校」(規定、1949年)の奨励策も下達されていた。しかし「軍政府の指令に基づ」く成人学校が定着を示さなかったのに対して、それと競合しつつ、日本からの公民館構想は次第に地域に普及していくことになる。結果的に(八重山・宮古を含めて)琉球全域で集落(字)公民館の形態が広く定着を始めるのである。
 琉球政府の公民館奨励策は、1953年11月「公民館設置奨励について」(中央教育委員会決議)によって開始される。公民館という名称もこの文書によってはじめて一般に使われ始める。公民館奨励の内容は、本土の公民館設置についての文部次官通牒「公民館の設置運営について」(1946年)と同趣旨と考えてよい。設置の基本的な形態は「区教育委員会が設置する」公立施設であり、「公民館の管理は区教育委員会がする」「公民館は市町村に1ヶ所設ける外、各部落に分館を設ける」と規定されていた。基本は公立公民館の形態である。しかし実態は、集落レベルにおける住民の自力建設による字公民館の設立のかたちが中心であった。公立公民館の登場は、周知ののように1970年の読谷村中央公民館設置までまたなければならない。
 奨励策はまた公民館設置についての次官通牒と同じく、館長、主事その他必要な職員を置くこと、公民館運営審議会を設けること(ただし次官通牒では「公民館委員会」)、公民館の編成として教養部、図書部、産業部、集会部等の部をおくこと、などを示している。公民館の事業についても、この部制を中心にすすめることが詳細に記述されている。沖縄で、このような方向が実際にはどのように具体化していくことになるのだろう。

3,集落への「公民館」の定着


 各地への公民館の普及・定着の歩みは、一般には1953年以降のことであるが、読谷村の場合は、1952年より従来の「区事務所を公民館と改称」(波平公民館発行『波平の歩み』1969年)、新築の「事務所を公民館と称する」(宇座区公民館発行『残波の里』1974年)という記述がみられる。公民館という名称が、1952年のアメリカ民政府「布令六六号・琉球教育法」に記載されている(第八節・社会教育、ただし下位規定は用意されていない)ことの関連と考えられる。この段階では名称のみであって、公民館の制度・組織は具体化されていない。
 初期の公民館の普及・定着過程において大きな役割を果たすのは、琉球政府の成立(1952年)以降の各連合区教育事務所に(1953年以降は市町村=教育区にも)配置されるようになった社会教育主事と地域の学校教員であった。ちなみに琉球政府時代の社会教育主事は学校教員のなかから適任者が配置されてきた。
 この間の経過を字誌の記録のなかからさぐってみよう。今帰仁村謝名区の場合は次のような経過であった。具体的な状況がよく分かるので、やや長く引用する。

 「一九五三年から翌年にかけて、“公民館”という言葉が聞かれるようになってきた。一時期は、その言葉が流行語みたいに広く用いられるようになった。その頃、今帰仁村小学校を通して文教局の社会教育課から校区内に公民館を設置してはどうかとの話がもちかけられてきた。社会教育主事が、まだ地方にまで配置されていない頃であったので、各小学校は学校教育と並行して校区内の社会教育にも大きく力を入れていた時代であった。その地域の社会教育指導の主体が、学校にあったからである。あまり耳馴れない言葉で、初めはずいぶん戸惑いを感じたものである。公民館とはどういうものであるか、現在使用している字の事務所を改築しなければ公民館として認められないのか。いろいろな疑問も出て、ひとまず社会教育主事を招いて区民にも説明を聞いてもらうことにした。校区内の六ヵ字を回って六日間説明をしてもらった。どの字でも、区民は公民館とはどんなものであるか幾分理解することができたが、直ちに踏み切ることには大きな抵抗を感じた。
 再三の説明会によって、謝名と崎山が公民館の設置に賛同するようになり、直ちにその手続きを始めた。これが今帰仁村における公民館設置のいきさつであり、謝名と崎山が村内における公民館の第一号とでもいうべき設置認可であった。今までの字の事務所をそのまま使用すること、館長は区長が兼任してもよいこと、館長を中心として教育文化、生産、生活改善、青年、婦人、娯楽の各部をおいて、部長、副部長、部員をおいてすべての部落行事は各部で企画運営すること等をとりきめた。館長を補佐して部落の村おこしに、全区民が協力していこうという趣旨のもとに動き出したのである。」(今帰仁村謝名区編集委員会編『じゃな誌』1987年、290頁) 

 同村・崎山区では、これに加えて、1956年の公民館運営研究発表会のことが記録されている。公民館の先進地視察(東村平良公民館、読谷村波平公民館)を行い、琉球政府文教局や国頭教育事務所より社会教育主事の指導を仰ぎ、当日は今帰仁小学校全教職員の「献身的な協力により大成功裡に研究発表会を取り行うことができた。」「区一戸に一個の西瓜供出運動を展開し、集まった多数の西瓜を婦人会が切ってお客さんに提供するという組織をあげての取り組み」など報告されている。(今帰仁村崎山公民館発行『崎山誌』1989年、299頁)
 今帰仁村「経済振興五ヶ年計画 自1955年1959年」(同村歴史文化センター蔵)には、文化施設の項に「現在のところ六ヵ部落に設置をみているが、将来は全部落に設置するべく準備を進めている」との記述がある。1957年度の琉球政府資料では同村・部落数20のうちすでに12に公民館が設置されているとある。1953年を契機とし1955年以降に着実に(急速に)字公民館の普及が進んでいくことが分かる。

4,琉球政府の公民館奨励施策

 公民館普及に関して、琉球政府レベルの施策は次のような経過であった。
 琉球政府の成立に先だって公布された上記「布令六六号・琉球教育法」(1952年)では公民館に関する細則は何ら規定されていなかった。その5年後、本土の教育基本法制を沖縄に実現しようとする教育四法民立法運動に対抗して、多くの反発を呼びつつ公布されたアメリカ民政府「布令一六五号・教育法」(1957年3月)において、皮肉なことに初めて社会教育・公民館についての条項(第14章1〜12節)が用意されている。そこでは公立公民館が基本とされ、たとえば「公民館の名称または他のそれにまぎらわしい類似の名称は、地方教育委員会によって運営されていない集会所、あるいは同様な施設にはこれを用いてはならない」(同第12節)とする規定さえもある。
 布令一六五号に基づき、中央教育委員会規則として「公民館設置規則」(1957年3月)が公布されている。ここでも公民館は「市町村教育教育区により運営される施設」(同第1条)であった。周知のように、教育四法民立法運動によって実現した社会教育法(1958年)はもちろん、また同法により本土基準に準拠して制定された「公民館の設置及び運営に関する基準」(1958年)も、教育区(市町村)が設置する公立公民館を基本としていた。「公民館の施設、設備補助金の交付に関する規則」(1969年)も同様である。しかし、前述したように実際の公立公民館の設置は(1970年まで)実現できず、地域の実態は集落レベルの字公民館の普及奨励が主流となってきたのである。法制の示す理念と地域レベルの実像との間に大きな落差があったことになる。

 法制上の理念・規定とは別に、琉球政府の「字公民館」奨励の施策それ自体はその後積極的なものがあった。公立公民館の施設は実現できないとしても、字公民館の運営や事業についての「公民館振興費」は1955年度から支出されている。「公民館補助金交付規則」(1957年)、公民館が開設する講座や事業に対する「補助金交付に関する規則」(1958年)が設けられ、さらに「開拓地公民館の施設補助金の割当」についての中央教育委員会議決(1956年)の記録も残されている。
 1957年度「社会教育の現況」(琉球政府文教局)の公民館の項には次のように記されている。「公民館は1955年初めて政府予算に公民館振興費が計上され“村おこし”をめざす新しいタイプの教育機関としてすべりだしたのであるが、1957年度現在、全部落数の35%の設置を見、貧しさからの解放、農村文化向上の新しい標柱として高く評価されている。1957年度の指導目標として、(1)35%の設置促進、(2)定期講座の活発化、(3)職員の資質向上、(4)モデルの設定、(5)啓蒙の強化、の5点にしぼったのである。」(沖縄県教育委員会『沖縄の戦後教育史−資料編』1978年、908頁)
 前述・崎山区誌でも回想されているように、公民館とは「耳馴れない言葉」であり「初めはずいぶん戸惑い」もあったものが、その後は次第に普及を拡げていく。何より琉球政府による奨励施策が大きな役割を果たしてきた。とくに初期段階では、1953年当初から始まるモデル公民館の指定(優良公民館表彰)と「社会教育総合研究大会」「公民館運営研究発表会」の開催が、公民館の啓蒙普及、相互の研究交流の場となってきたことが字誌等の記録から明らかである。後述する各地の集落の「公民館運営規約」等の法制整備も、この優良公民館表彰や運営研究発表会を契機としている事例が少なくないようである。
 前掲『じゃな誌』はこのように記している。「私たちの謝名公民館は、琉球政府時代の1954年に優良公民館として表彰を受けた。戦後の復興期、字民が一丸となって行った事業である」。その翌年(1955年)「6月に文教局社会教育課と名護地区教育事務所の社会教育主事の方々を指導者として、当公民館で公民館運営協議会を開催して今帰仁村における公民館活動に大きな貢献をした」(同、292頁)。東京学芸大学社会教育研究室発行『沖縄社会教育史料』第2集(1978年)では、この年度の表彰公民館の記録(第2回社会教育総合研究大会プログラムに掲載)を紹介しているが、紙数の関係で再録しない。

 次表(1)は、琉球政府による公民館普及期初期に表彰された優良公民館の一覧である(沖縄県教育委員会『沖縄の戦後教育史』1977年、798頁)。ほぼ半世紀を経過した現在、このなかにその後『字誌』をまとめている字公民館が少なくないことは興味深い。
 また関連して次表(2)は、アメリカ占領下(復帰前)の字公民館の推移、普及状況を示している。母集団の集落数が固定しているなど、統計的精度は必ずしも充分ではないようであるが、1955年以降に着実に字公民館が定着していく動向を読みとることができる。(末本誠「琉球政府下、公民館の普及・定着過程」小林文人・平良研一編『民衆と社会教育』エイデル研究所、1988年、所収、208頁)

(1)【優良公民館表彰一覧 1953〜1960年】 *市町村名は当時(合併前)
──┬────────────────────────────────
年度│    公民館名(市町村・当時)
──┼────────────────────────────────
1953│ 川満(下地村)、呉我(羽地村)、長浜(読谷村)、新垣(三和村)
1954│ 世名城(東風平村)、名嘉真(恩納村)、謝名(今帰仁村)
   │ 繁多川(真和志市)、宇座(読谷村)、具志川(久米島具志川村)
   │ 喜如嘉(大宜味村)、美里(美里村)、当間(大里村)
1955│ 平安座(与那城村)、波平(読谷村)、松田(宜野座村)、屋富租(浦添村)
   │ 伊地(国頭村)、保良(城辺村)、宮良(大浜町)、崎山(今帰仁村)
1956│ 平良(東村)、瀬高(久志村)、東恩納(石川市)、具志川(具志川村)
   │ 宣次(東風平村)、仲地(久米島具志川村)
1957│ 津波(大宜味村)、知花(美里村)、沢岻(浦添村)、当添(与那原町)
   │ 嘉陽(久志村)、大里(高嶺村)
1958│ 波平(読谷村)、与根(豊見城村)、桃原(与那城村)、個人2人(略)
1959│ 楚辺(読谷村)、塩屋(恩納村)、大南(名護町)、個人2人(略)
1960│ 馬天(佐敷村)、赤野(具志川村)、個人2名(略)
──┴────────────────────────────────

(2)【集落(字)公民館の推移】
─────┬───────┬────────┬──────── 
  年度    │      集落数 │      公民館数 │    設置率%
─────┼───────┼────────┼──────── 
 1954    │        803 │           71 │    8.8
 1955    │        803 │          175 │   21.8
 1956    │        803 │          220 │   27.4
 1957    │        815 │          272 │   33.4
 1958    │        816 │          358 │   43.9
 1959    │        819 │          370 │   45.2
 1960    │        819 │          487 │   59.5
 1961    │        819 │          552 │   67.4
 1962    │        819 │          565 │   69.0
 1963    │        819 │          588 │   71.8
 1964    │        819 │          600 │   73.3
 1965    │        819 │          600 │   73.3
 1967    │        819 │          613 │   74.8
 1968    │        819 │           − │    −
 1969    │        819 │          635 │   77.5
 1970    │        819 │          635 │   77.5
 1971    │        819 │          639 │   78.8
─────┴───────┴────────┴──────── 


5,字誌にみる集落の規則・規約

 各地の『字誌』を通覧していくと、ほとんど例外なく集落の「行政」「役職」「財政」「団体」等の記述があり、それらの「規約」「会則」等が紹介されている。もちろん濃淡はあるが、集落はいわば一つの自治組織としての制度・機構をもち、それに必要な「法制」を自治的に整備していることが明らかである。この場合の「行政」は、国家や地方自治体による公的行政としてでなく、集落内の自治「行政」の意である。国家実定法に基づく公権力の統治や管理作用としての行政ではなく、ムラやシマの社会的な共同や自治の作用としての「行政」用語がごく自然に使用されている。公権力「行政」と集落自治「行政」の二つの意味が、相互に独自性をもって、並列して存在している。
 集落自治的な「行政」組織や相互規制・規範に関する成文法はきわめて多様である。その名称も、たとえば「行政規程」(宜野座村惣慶区)、「行政運営規約」(勝連町津堅区)、「部落会会則」(金武町伊芸区)、「区運営規約」(名護市東江区)、「自治会規約」(豊見城村保栄茂区)、「公民館運営規約」(今帰仁村仲宗根区)など、内容もそれぞれに個性的であり、ある意味で躍動的でさえある。
 集落の「行政規約」だけではない。字の組織や団体や財産等をめぐって一連の体系をもった集落「法制」が整備されている事例に驚かされる。たとえば宜野座村惣慶区の場合を見てみよう。
 惣慶区「行政規程」(総則、組織、区政委員及び監査委員、戸主会、区職員、給与、全69条、1975年改正)を中心に、区職員退職金支給細則、区行政積立金規則、区選挙規則、区金銭取扱者身元保証規則、公民館規則、産業・社会風紀及び衛生取締規則、義務人夫出役規則、区奨学会々則、敬老会々則、スポーツ振興会々則、農事奨励会々則、学事奨励会々則、行事、が列記されている。さらに、事務委託事項、共有財産会権者会(全56条)、これに加えて、婦人会々則、成人会々則、子ども会のきまり、子供会育成会々則、等が整備されている。(宜野座村惣慶区発行『惣慶誌』1988年) 
 読谷村波平区の場合は、惣慶区とは対照的に「公民館」規約が中心となっている。(ただしその後、1993年に「行政運営規則」に改正された。)
 波平公民館運営規約(名称と所在地、組織と運営、区民の権利と義務、機関、会計、諸行事、全38条)を中心に、公民館職員給与規定、公民館運営負担金徴収規程、役員選挙規程、技術職員退職給与金積立金規則、技術職員退職金支給規則、波平公民館備品貸付規定、波平区振興会々則、学事奨励会規程、波平青年会々則、波平婦人会々則、波平老友会々則、字波平社会体育振興会々則、等が並んでいる。波平区にはかって「波平売店」(共同店)の歴史もあり、これに関する規約や財産目録等も整備されていた。(前掲『波平の歩み』1969年)
 もちろんすべての集落がこのような体系的な「法制」をもっているわけではない。また相対的に小規模の集落では、字の組織や規範が慣習法的に維持され、上記のような成文法をもっていない場合もある。しかし共通して、集落が集落として自らの制度・組織を自治的につくり、それにともなう規範やルールを(慣習法的にか成文法的にか)整備して、字としての共同活動や機能を継続してきた。

 ところで集落それぞれの法制化はどのように進展したのであろうか。前述した戦後1953年に始まる公民館という制度の導入と定着が、どのように関連しているのだろうか。
 前出「公民館設置奨励について」(中央教育委員会決議、1953年)はとくに公民館「規約」「規則」の整備について指示してはいないし、またそのモデル案のようなものを下達してもいない。その設置の手続きについて、公民館設置委員会のようなものを結成し、設置の規模や一般計画、経費予算、館長・職員や運営審議員の推薦についての協議等を期待しているが、とくに規則等についての言及はない。しかし公民館の設置に踏み切ったところでは、なんらかのかたちで「公民館運営規約」を制定し、あるいは集落の規約・規則に「公民館」の条項を盛り込む動きとなっていくと考えられる。
 公民館の設置目的の規定に関して、いくつかの例を紹介してみよう。画一的でなく、字によって案外と個性的な内容になっているところに注目しておきたい。国家法制に準拠した各地の自治体条例・規則の非個性的な条文と比較してみても、集落の法制のなかに自治的な性格が読みとれるのではないだろうか。

 読谷村宇座区公民館運営規則:
第3条 本公民館は区民の総意を総合したものであり区民の福利増進を計るものとしてその運営は民主的に運営されなければならない。(1955年)
 浦添村沢岻公民館運営規約:
第2条(目的)本館は区民の親和協力の基に、産業、文化、教養の向上を期して、日常生活の合理化を計るを以て目的とする。(1957年)
 石垣市白保公民館運営規則:
第2条(目的)本館は、白保部落民の親和団結を密にする集まりの場であり部落民の教養の向上、産業の振興、生活の合理化を促進し、明るい豊かな部落を建設することを目的とする。(1964年)
 波平区公民館運営規約:
第2条(設置の目的)本館は波平区民の自治、経済、文化、教育の昂揚を図り、文化的教養を高めるとともに区民の福祉を推進し、経済的地位を高め、住みよい明るい字を造成することを目的とする。(1965年)
 もちろんこれに尽きるものではない。規約・規則の年度は、手元の収集資料に記されている(改正の経過を含む)年次であり、必ずしも作成年度を示していないようである。またこの年度以降に改正されている場合もある。出典はいずれも字誌(前掲『残波の里』1974年、浦添市沢岻公民館「字誌たくし」1996年、前掲『波平の歩み』1969年)、白保については現地調査(1978年)の際に入手した同区規則綴りの写しである。
   
6,集落自治法制としての展開

 周知のように、沖縄には村内法(間切内法、島内法)の興味深い歴史が残されている。それは「ムラの規範であり、民の法である。元来不文であるのが本体・・・」(奥野彦六郎『南島村内法』至言社、1952年、1頁)であったが、慣習的なムラの自治統制規範が次第に体系性をもち成文法的な体裁をもつ経過のなかから村内法が形成されてきた。字誌のなかにも内法、内規についての記述が少なからず残されている。
 島内法は「民の心」が「自主的に作用しだして法を構成した」(同上、4頁)側面があり、「単に官権力の命令的側面から把えるのではなく、権利の対抗関係を制御する民衆の自治規範たる側面から把えるべきこと」(同「解説」黒木三郎、2頁)が指摘されている。戦前から戦争を経て、さらに戦後への転換過程のなかで、このような集落の内法はどのように変容していったのであろうか。
 たとえば戦後において、前掲『崎山誌』には、「一九四八年一月 字崎山内法規約 字崎山消防団」(全9条)が収録されている。「綱領」として字消防団は「農村発展ヲ目的トスル農作物ノ保護ト其ノ取締リ方ヲ字民ヨリ委任サレタルモノナリ」とし、「民意二従ヒ本規則に違反セシ者ハ相当ノ処罰ヲナス」(第3条)「許可ナク他人ノ作物ヲ侵害セシ者、一金五拾圓以上壱百円未満ノ処罰ヲナス」(第4条)等の、取締・禁止・統制的な規定が基調になっている(同、433〜434頁)。
 また久志区(旧久志村、現名護市)においては、1948年11月「久志区内取締法」が定められ、取締罰則(第8章)として「取締罰則運営、常会取締、風紀風俗取締、衛生取締、土地に関する取締、農作物取締、山林取締、河川取締」の各節が詳細に定められている。およそ10年間にわたって「区民の生活の規範」として機能したという。(久志区公民館発行『字久志誌』1998年、94〜101頁)
 集落の内法がこのようなムラ規範としての性格をもち、一面で自治的な形成過程があったとしても、伝統的には管理的統制的な色彩が強いものであったところは否定できない。そのような集落の旧内法が、どの時点において、いかなる経由をへて、一定の(相対的な)近代法的な理念と構成をもった集落自治法制へと脱皮していくことになるのか、興味あるところである。
 この点については、今後さらに歴史実証的研究を重ねていく必要があり、伝統的な集落内法から集落自治法制へ展開していく時系列的な分析をまたねばならないが、上述してきた琉球政府による1953年・公民館設置奨励施策とそれ以降の普及定着過程がこの流れに一つの影響を与えてきたのではないか、というのが一つの仮説であり、これからの研究課題でもある。

 沖縄の公民館構想は、いうまでもなく伝統的な集落組織を受け皿として奨励・普及され、「字公民館」の独自の歴史を歩んできた。その過程で、ムラやシマの古い規範や秩序の遅緩という時代的状況をも背景にして、管理的統制的な旧内法から相互協定的な「行政規約」や「公民館運営規約」などの集落法制を自治的に創り上げていく脱皮の過程があった。公民館構想や制度がその過程で一定の役割を果たしてきたのではないかと考えられる。もちろん地域によって決して一様ではなく、規約や規則等の具体的な条文もさまざまである。その個別的な多様性を前提とした上で、総体として字公民館のそれぞれの歩みが、伝統的な古さを含む集落の旧内法的な規範やルールに変化をもたらし、集落自治のいわば現代的な“内法”への水路を開く一面があったと言えるだろう。
 同時に、琉球政府のいわば上からの公民館構想は、集落レベルに定着していく過程において、複雑な屈折の形態があったと考えられる。一面において既存の集落組織にそのまま同化し吸収されていく側面があったであろう。あるいは相対的な独自性をもちつつ集落組織と併存しつつ定着していくかたちもあったであろう。また他面、公民館としての独立した組織がつくられ、あるいは集落を公民館組織として再編していくような新しい展開をみせる場合もあったであろう。
 実態からすれば、すでに50年が経過した現在、集落組織と公民館組織の関係を二つに分けて考えることには無理があり、両者はいわば混然一体として分ちがたく機能しているというのが一般的な状況である。しかし歴史的な経緯と組織的な側面からあえて分析的に考えてみれば、二つの組織の関連について幾つかの形態を抽出してみることも可能であろう。

7,「行政規約」と「公民館運営規約」の関係

 集落自治法制の構成の面からいえば、集落「行政」規約と「公民館」運営規約がどのような関係として位置づくかという点にまず一つの焦点があると思われる。集落それぞれに多様な違いがあり、今後さらに詳細な調査分析が必要であるが、少なくとも三つのタイプに分けて考えることができるのではないか。 
 第一は、集落の一般「行政規約」のなかに吸収され同化されて、公民館の独自の「規約」は存在していない、あるいは極めて弱い位置づけでしかないタイプである。
 国頭村奥区の場合を見てみよう。「奥部落における政治行政は、区条例を指導理念として運営されている。伝統的な慣習法を参考に、昭和29年に初めて成文化されたといわれる。初期の条例は現在資料として残されていない。(中略)その後、昭和38年12月に改正され、更に昭和59年7月に改正されたのが現在の条例である」という経過であった(『字誌 奥のあゆみ』同刊行委員会、1986年、69〜70頁)。「奥区条例」は、奥区民の権利及び義務、総会及び議会、区長の任務及び副区長、会計、区役職員の選挙、区事務所職員、共同店、補償、改正、補則、という十章構成(全65条)であるが、そこには公民館については何らの規定もなく、また区の役職員・事務所職員のなかにも公民館職員にあたるものは含まれていない。
 名護市我部祖河区では、区「内規」(全29条)、区「規約」(全43条)、区「規約施行規則」(全23条)が成文化されているが、公民館についての独自の規定はない。しかし区事務所の所在地として「我部祖河公民館に置く」(規約3条)とあり、公民館自体は(建物として)存在していることになる。(我部祖河区発行『我部祖河区誌』1999年)
 類似のかたちは同市古我知区、仲尾次区、東江区、大南区等にもみることができる(各区の字誌)。また宜野座村宜野座区「諸規定」綴りは、宜野座区「行政条例」(全7章、65条)を中心に選挙規則、会議規則、職員服務規則等が19本収録されている。そのなかに1本のみ「宜野座区公民館管理使用に関する規則」(全8条)が含まれているが、建物の管理・使用に関する規定に止まっている。集落の組織・機構上における公民館の位置づけはとくに定められていない。本論5節に紹介した宜野座村惣慶区「公民館規則」についても内容的には同じと考えることができよう。
 しかしあえて付言すれば、このタイプの集落に公民館の組織や活動が存在しないのではない。むしろ集落組織そのもに同化しつつ、集落活動と一体的に存在し機能しているとみておくことができよう。

 第二は、集落「行政規約」と公民館「運営規約」が並立しているかたちである。名護市では、たとえば大中区の字誌が「区行政の組織運営の改革」の項で次のように記している。「社会教育活動の進展と区行政の振興の上から、組織運営の改革を行うべきだとの機運が高まった。大中区にあっては、公民館を中心とした行事活動の研修が行われ易いように、新しい組織編成を図るべきだという区民からの要望によって、1966(昭和41)年8月の役員会において、大中区規約・公民館運営規則を設ける要請の議案が提出された。役員会は全員の同意をもって、設立準備会を発足させた。」 草案などの研究審議が行われた後、同年9月の区民総会において「大中区規約」及び「公民館規約」が満場一致をもって承認可決された。(大中公民館発行『大中誌』1994年、122頁)
 金武町並里区「例規集」では「区行政条例」を中核として「議会会議規則」「議会委員会規程」から「水道規程」まで22規程が並んでいるが、そのなかに「公民館条例」「公民館管理使用規程」「公民館運営審議会規則」が定められている。「公民館条例」自体は全7条の簡潔なものではあるが、「条例」として区行政条例として両立しているかたちである。
 同じく金武町伊芸区の場合は次のような経過であった。1954年「伊芸部落会則」(全58条)が設けられたが、1957年「部落会の名称を廃止し部落の行政を公民館活動に統合して行政の統一を図ることとした」。同年に伊芸区は「伊芸育英会」(同規約、全24条、1974年より同「定款」全30条)を創立して注目されるが、翌1958年には公民館を新築し、新生活運動の推進をテーマに公民館活動発表会を開催、さらに公民館2階に図書室を開設し、1959年に図書閲覧規程を定めている。「公民館運営要綱」は「縦に執行機関としての館長、書記を置き、事業の計画と実践機関として、総務部、文化教養部、産業部、社会部、体育部の5部を設け、横に意志決定機関として公民館運営審議会を設け」ている(安富祖一博『村の記録』1983年、239頁)。他方で、詳細な「伊芸自治会会則」(全144条、1976年)が施行されている。
 浦添市沢岻区の場合は、1957年の優良公民館表彰と公民館運営研究発表会の時点で「沢岻公民館運営規約」が作成されているが、区行政規約にあたるものとして「沢岻自治会会則」も設けられている(『字誌たくし』同編纂委員会、1996年、296〜308頁)。他の多くの事例を紹介する紙数がないが、集落規約と公民館規約が並立しているこのタイプが比較的に多いと考えられる。もちろんその個別の規約相互の関係や具体的な展開はきわめて多様であることは言うまでもない。

8,集落の復興・発展への取り組みと「公民館運営規約」

 読谷村宇座区はアメリカ沖縄占領と基地造成によって先祖伝来の土地を追われた悲劇の集落である。その苦難の戦後史は字誌『残波の里』(宇座区公民館発行、1974年)に詳しく、「忘しり難なさや生まり島」の愛郷の想いは切々たるものがある。私たちの戦後沖縄社会教育史研究『民衆と社会教育』(小林・平良編、エイデル研究所、1988年)序文の冒頭に引用した経過がある。宇座区の集落再建の合い言葉は「太陽は東からアカガラチ(照らし)、村の栄えは公民館からウクチ(興し)」(同、63頁)であった。
 「…いずれにせよ当区としては旧部落(基地接収地)への復帰は夢だに考える余地なき状況であるとのことで、この際、思い切って旧部落への復帰を断念して、新部落形成を目指して百年の計の樹立、区民総意の熱望で所期の目的を達成するため、公民館を建築し、事務所を公民館と称した。公民館は、区民の教育文化、産業経済の場として、公民館運営の組織を整備して、公民館活動が益々活発に展開するようになった。」(同、69頁)
 そのような取り組みのなかで、琉球政府文教局による優良公民館表彰(1954年)、そして公民館運営研究発表会(1955年)開催があり、それを契機として同年「宇座区公民館運営規約」が作成されている。ここには戦後10年の時点における集落の再建と発展にかける公民館への期待がほとばしり、「公民館運営規約」に結実する経過を知ることが出来る。宇座区の場合は、あわせて「字宇座行政規程」も策定(1959年)された経過があり、形式上は上述してきた第二のタイプに属する事例であるが、戦後復興のなかで公民館とその「運営規約」へかけた思いからすれば、次のタイプに位置づけ得る側面をもっている。

 第三のタイプは、公民館「運営規約」が中核となり、集落組織もこのなかに合体して規定され、多くの区にみられる「行政規約」類が統合されているかたちである。その典型的な事例は前掲・読谷村波平区にみることができる。
 波平区もまた沖縄戦により集落を追われ、戦後は他集落の人たちを含めて「波平の一部にしか居住が許されず、波平の字は相当な混乱」を経験している。これを克服していく拠点として「波平区事務所」が設置され、さらにこれを「波平公民館」と改称した(1952年)。「…戦争で失われた波平のすべてを再建するため、公民館運営組織機構を整備強化し、1953(昭和28)年、波平区第一次振興五ヶ年計画を樹立し、青年会、振興会、生活改善グループ等、字民が一体となって強力にこれが推進された」。1955年には優良公民館として表彰され、波平公民館運営研究発表会を開催、さらに第3回社会教育総合研究大会においても発表し、「一躍全琉にその名声を高めた」と記録されている(前掲『波平のあゆみ』20〜21頁)。この間に波平公民館は「村興し運動の基礎」も作成(1953年)している(「字波平総決起大会−30年の概要」1953〜1982年、波平公民館発行)。
 「波平公民館運営規約」は、上述第5節にのべたように体系的な集落法制の中心的な位置をもち、公民館の目的、事業、組織等とともに、「区民の権利と義務」や区民総会、役員会、青年会、婦人会、老人クラブあるいは区民負担金、諸行事など一般の「行政規約」的な条項を含んでいる。因みに「区民の権利と義務」(第4章)では次のような規定となっている。
 「第6条 区民は、すべてこの規約のもとに、平等の権利と義務を有し、いかなる場合においても、思想、宗教、性別、門地、社会的身分等によって本館に対する権利と義務を失うことなく、また差別待遇を受けることはない。
第7条 区民は、すべて平等に本館の正当な機関を通して、自己の意志を表明する権利を有するとともに決議に参加できる。
 第8条 規約に基づき区民はすべて役員を選び、また役員となる権利と義務を有する。
 第9条 区民は、いつでも会計に関する書類の閲覧を求めることができる。」
 ここには、集落における「区民の権利」についての近代法的な理念が明らかである。ただし波平区では、これらの理念を保持しつつ、集落法制を整備するかたちで「公民館運営規約」は「行政運営規則」に移行された(1993年)。
 具志川市昆布もまた「公民館運営規約」を中心にした集落であった。昆布区は1950年代以降、米軍基地の貯油施設による地域接収、米軍の砂採取による私有地減失、ナイキ基地による接収問題、弾薬移送桟橋施設、とくに1960年代後半は新規軍用地接収に対して5ヶ年の反対闘争をたたかってきた。そういう基地問題との対応を背景に、同規約は「…字民の福祉を増進し経済的地位を高め住みよい明るい字を造成することを目的とする」(第2条)とうたっている。現実との厳しい相克のなかで公民館が果たす役割への期待がこめられている。(具志川市昆布区「創立60周年記念碑落成・記念誌」1978年)
 収集し通覧し得た集落資料のなかでは、本部町「備瀬公民館規則」(1954年)、前掲の石垣市「白保公民館運営規則」(1964年)、今帰仁村「仲宗根公民館運営規約」(改正後、1993年)、大里村「古堅自治公民館規約」(1979年)等がこの第三のタイプに属すると考えられる(出典は仲田栄松編『備瀬史』1984年、前掲白保資料、仲宗根公民館発行『仲宗根誌』1996年、古堅自治公民館発行『わたしたちの古堅自治公民館』1979年)。その経過や実態等について今後の地域調査でさらに検証していく必要がある。
 石垣市宮良区の場合は次のような経過であった。1955年優良公民館の表彰をうけ研究発表会が開かれ、早くから公民館活動に取り組んだ集落であったが、その後、部落会組織との関係で公民館としての活動は一時期消滅したかに見えた。1966年になって「…公民館活動の機運が再び高まり、公民館規則制定小委員会を発足させ、改めて宮良公民館規則を制定し…」、館長、副館長を選任して再出発、部落会長という役職は廃止され、名実ともに宮良公民館として定着してきたという。(宮良公民館発行『宮良村誌』1986年、99頁)

9,公民館構想は何をもたらしたか   

 上記の第三のタイプで事例としてあげた集落の歴史と字公民館の取り組みをみていくと、アメリカ占領下沖縄の厳しい状況のもとで、いわゆる「村興し」運動や基地問題への対応等に格闘してきた地域史が背景となっている。苦難のなかで、新しい構想として登場した公民館制度への強い期待と、これを拠点とする集落活動の活発な展開がみられた。集落の再建、生活の防衛、再生と復興、さらには改革と創造、といった切実な思いをもって字公民館活動の取り組みがあったことに注目しておきたい。前節の読谷村宇座区「太陽は東からアカガラチ、村の栄えは公民館からウクチ」の合い言葉がその歩みを象徴している。
 振り返ってみると、1953年の琉球政府「公民館設置奨励について」以降、全琉規模での普及・奨励策によって、沖縄型ともいうべき独自の字公民館の形態が定着してきた。その過程で公民館の制度や活動が、その成立基盤である集落組織やその展開にどのような影響を与えたのか。公民館構想が集落の歩みに何をもたらしたかという視点から、とくに「規約」とその実践に関わって、4点ほどを指摘しておきたい。

 (1)公民館構想に内包された基本理念に関して。公民館の初発の段階から、地域課題への総合的な取り組み、各種団体を含めて“村興し”への貢献、住民すべての平等性と自主性の尊重、といった基本理念は各地の字公民館「規約」とその活動に共通する視点となってきた。公民館構想・理念が集落の再建・復興・発展に新しい方向と活力をもたらし、各地の集落活動へ波及することを通して、公民館の定着もはかられてきたのでなないか。
 琉球政府「公民館設置奨励について」の「公民館の目的」は、周知のように「ここに常時町村民が集って談論し、読書し、生活上産業上の指導をうけてお互いに交友を深める場所」という書き出しで始まり、「…各団体が相提携して市町村振興の底力を生み出す」ことを呼びかけている。その設置については「…真に市町村民の自主的な要望と協力によって設置せられ、又市町村自身の創意と財力によって維持せられる」ものとしている。内容的には、言うまでもなく本土の公民館初期構想(寺中構想)を引き継ぐものであるが、「市町村」「町村民」という語句を「集落」「字民」に置き換えれば、寺中構想は戦後沖縄の字公民館においてむしろ実像化されるところがあったと見ることができよう。
 また公民館がせまく教育・文化の活動にとどまらず、地域・集落が当面する諸課題(産業、経済、福祉、衛生、治安、生活全般を含めて)に総合的に取り組むことは、多くの公民館「規約」にさまざま表現されているところである。

 (2)公民館の自治的な運営組織。公民館構想には、運営上の組織として「公民館運営審議会を設ける」ことがうたわれている。運営審議会ないし類似の委員会の制度が、集落の合意形成・意志決定の仕組みとして、各集落の「公民館運営規約」はもちろん、一般「行政規約」のなかにも具体化されているところが多い。従来の戸主会あるいは区民総会だけでなく、例示的にあげれば、運営委員会(名護市東江区)、審議委員会(読谷村楚辺区)、評議員会(名護市我部祖河区)、代議員会(国頭村奥区)など多彩である。委員の公選を規定している場合(宜野座村宜野座区「行政委員会」、金武町並里区「議会」等)もあり、集落組織における民主主義ないし代議制の実現を志向しているということができよう。単なる諮問機関に止まらず、議決機関でもあり実行組織としての性格をもっている場合も少なくない。
 豊見城村(当時)保栄茂区の場合は、「部落」の名称から自治会に改称し「自治会規約」を制定したところである(1966年)。それまでの古い慣習から抜けきれない部落運営を脱皮し、長老支配に挑戦して住民本位の自治会を目ざした歩みであった。字誌は次のように記している。
 「自治会の運営は、住民主権を基本として、各階層の意見を聞く場として審議委員会制度を取り入れ、年間の事業計画や予算、決算などすべて住民の代表で審議し、さらに全住民(各戸代表)が参加のもとで決定し、総会を最高の議決機関とした。」 集落運営の決定権が(長老支配から)住民の総意としての総会に移されることに激しい抵抗もあり、曲折があったが、集落は「改革から二九年、制度も定着し、公平、公正、公明な民主的な自治会運営がなされている」という。(豊見城村保栄茂自治会『保栄茂ぬ字誌』、56〜58頁)

 (3)公民館運営にかかわる専門部組織。琉球政府「公民館設置奨励について」は公民館の編成に関わって、教養部、図書部、産業部、集会部、さらに必要に応じ体育部、社会事業部、保健部などの組織を奨励している。それぞれの課題に対応し、ともに住民が事業・活動に取り組んでいく自治と参加の組織論ということができよう。集落がもともと伝統的に維持してきた類似の機能別組織を下敷きにしつつ、公民館制度の導入以降、この部制は急速に各地の字公民館固有の組織として定着をみせ、多くの集落「規約」等に盛り込まれていったと考えられる。
 平均的な部の編成は、上記の3〜4部が多いが、集落によって、たとえば総務部、社会部あるいは青少年部や文化部など多少の違いはみられる。それぞれに集落活動を実質的に担っていく実行・執行組織として集落のなかに不可分に位置づけられてきた。
 「公民館運営規約」をもたない一般「行政規約」のなかにも部制は規定されている。たとえば、名護市「大南区規約」(1985年)では地区別「班」組織とならんで「第12条2項 区に必要な部をおき、各部はそれぞれ次の業務を行う」とあり、総務部、教養部、生活福祉部、保健体育部、産業部が規定されている。(名護市大南区創立五十周年『記念誌』1996年、104〜105頁)
 読谷村楚辺区「行政運営規則」では次の9部が設けられている。総務部、産業部、文化部、厚生部、生活改善部、補導部、防犯部、体育部、交通安全部(同規則第5条)。これに基づき「行政運営細則」には各部の「所管事項」(第2条)が定められている(字楚辺区編集委員会『字楚辺区・民俗編』1999年)。沖縄市美里区「自治会則」では、総務部に並んで、教育振興部、体育振興部、文化厚生部、建設経済部の5部構成となっている(沖縄市美里自治会『美里誌』1993年)。国頭村奥区の場合は「奥区条例」で同「奥区議会」内に部制が設けられている。「第21条 議会内に左の部をおき部門担当者は担当部門に関し調査研究計画を立てその実行にあたる。農事部、山林部、土木部、文化衛生部、畜産部、水道部」とある。とくに細則は設けられていない。地域の産業と生活に密接に関わる独自の部制といえる。(前掲・字誌『奥のあゆみ』、79頁)

 (4)公民館の教育・学習・文化の機能。社会教育法にいう公立公民館は社会教育機関としての法的位置づけをもつが、類似施設としての字公民館(自治公民館)は地域住民組織を基盤とする活動であって、とくに教育・文化活動に限定されないこと、むしろ地域の生活全般にかかわる総合的な性格をもって機能していることは、本節(1)においても触れた通りである。しかし同時に「公民館」であることによって、地域「社会教育」活動の施設として、集落内における教育・学習・文化に関わる機能を積極的に担う側面があったと考えられる。
 いくつか例示的にみてみよう。たとえば7節で取り上げた名護市大中区の場合は、公民館規則が制定され(1966年)、公民館の施設新営なり(1986年)、同年より公民館講座(一般講座、特別講座)が開設されている(前掲『大中誌』1994年、426頁)。大里村古堅区では「青少年育成会」を同「自治公民館規約」のなかに位置づけ、子ども会・育成会の活動を推進してきた。青少年育成会、子供会、高校学生会、PTA、高校PTAの各会則が整備されている(前掲『わたしたちの古堅自治公民館』1979年、68〜73頁)。勝連町平敷屋区は「社会教育部」を置いている(『平敷屋字誌』1998年、106頁)。「教育隣組」「学事奨励会」等についても『字誌』には多くの記述がある。
 さらに沖縄の集落に独自の歩みを刻んだものとして、集落の図書館・図書室、同じく奨学会・育英会等の歴史が興味深い。たとえば図書館・図書室については読谷村波平区・楚辺区、宜野座村惣慶区、金武町伊芸区など。奨学会・育英会については名護市辺野古区、宜野座村の漢那区・惣慶区、金武町伊芸区、沖縄市美里区・上地区、勝連町平敷屋区など。もちろんこれだけではない。さらには米軍基地対策・軍用地収入の条件も背景にあって、集落によっては学習館(惣慶区)、武道館(宜野座区)、柔道場(辺野古区)等の設置もみられる(出典はいずれも『字誌』)。
 これらの集落立施設の展開や育英・奨学会活動については、今後さらに研究調査を重ねて、あらためて報告する機会をもちたい。

10,おわりに−三つの発見

 沖縄の『字誌』には、上記のほかに集落内の多様な機関や施設についての記述が含まれている。規約・定款など成文化された規則類も少なくない。変容のなかにあるとは言え、地域共同体的機構を自治的に整備してきた独自の歩みがあった。伝統的な蓄積をもっていた北部(やんばる)地方の集落の記録には興味深いものがある。
 たとえば、大宜味村喜如嘉区では、「戦後の部落直営事業」として、「共同店、筵工場、精米所、製材所、湯屋、火葬場、茶園・茶工場、発電事業」などをあげ、それと並んで字公民館が位置づいてきた。もちろん時代の変化とともに「今はなくなったり、利用されなくなった」、あるいは(火葬場など)自治体へ移管されたものがある。(喜如嘉誌刊行委員会『喜如嘉誌』1996年)
 国頭村奥区の場合は、国頭村奥共同店々則(1973年改制)により共同店が経営されているが、ここで「売店、製茶工場、精米工場、酒造業、電燈業、運送業、水道」の各事業が行われてきた(1960年代)。共同店については、今帰仁村崎山共同販売店(定款、1959年)、名護市嘉陽共同店(定款、1949年)等があり、水道・電気については、簡易水道規程(金武町並里区)、水道規約(具志川市昆布区)等、電気施設(宜野座村漢那区、1962年まで)等がある。(出典はいずれも『字誌』)
 上述してきたように、字公民館はこのような集落の共同組織や施設と並存し、あるいはそれと一体的に、ときには相対的な独自性をもって、多様な展開をみせつつ半世紀の歩みを刻んできたことになる。市町村自治体の行政機構のなかに置かれる公立公民館(中央公民館)の位置づけとは基本的に異なる性格をもち、集落組織・施設としての特色と可能性を歴史的に形成してきた。そして半世紀が経過したのである。
 なお関連して、各集落・公民館と市町村自治体との関係性については、本土の自治公民館と行政の場合以上に、多様かつ複雑な関係が織りなされてきた。両者の間にも一定の法制が設けられている。たとえば宜野湾市の場合、「宜野湾市自治会の認定に関する規程」(1985年)、「宜野湾市自治会育成補助金交付要綱」(同)、「宜野湾市自治会長会会則」(1983年)等がある(「ぎのわん市の自治会」1989年)。市町村間においても一様な展開ではない。この点についても今後の課題として残されている。
 
 本稿を書き始めようと思うきっかけは、沖縄の地域史との出会い、とりわけ(市町村史もさることながら)『字誌』への感動からである。しかも、すべての字誌が字公民館に大きな比重をおいて構成されていること、発行主体として字公民館が大きく関わっている場合が多いこと、内容的にも地域個性的な多様性をもっていること、への驚きからである。
 初めの部分にも書いたように本報告は字誌を通覧することによるいわば“文献”学的な研究である。これに地域実証的なフィールドワークを重ねていくことを今後の課題としておきたい。
 少なくとも三つの点で新たな発見があったと思う。第一は、もちろん字誌そのものの発見である。第二は、あらためて集落の活力を再発見することができた。その共同性や活動エネルギーは衰退の方向にあるというのが一般的な見方とされるが、仔細に調べていけば、変容の過程のなかに、再生・再編・新生・発展の事実をも見る視点を欠落させてはならないと思われる。何よりも字誌を創り出す活力をどう評価するか、小さな集落のひたむきな営みから大きな問いかけが投げかけられている。
 第三の発見は、集落レベルの社会教育法制の発見である。私たちはこれまで国家実定法レベルでの社会教育法制研究を主たるテーマにしてきた(横山宏・小林文人編『社会教育法成立過程資料集成』昭和出版、1981年、など)。当然、市町村レベルの条例・規則研究が次の研究課題となってきていた。さらに国際的レベルでの(成人教育・生涯教育・社区教育等)法制研究も次第に問題意識として定着してきた。この三つの社会教育法制研究に加えて、沖縄の地域史の蓄積に助けられつつ、集落レベルの社会教育・公民館をめぐる法制についての認識をもちはじめたことになる。

 付記:本報告を執筆するにあたり、名護市立中央図書館及び同市教育委員会市史編纂室の所蔵資料を数多く利用させていただいた。関係の各位に深く感謝したい。

 【出典】初出は、TOAFAEC発行『東アジア社会教育研究』(第8号、2003年)、これに若干の補筆を加え、『沖縄の字(集落)公民館研究』(第2集、九州大学・松田武雄・研究代表者、2004年)に掲載された。


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3,沖縄の集落(字)育英奨学活動の展開

          −字誌等を通しての研究覚書−(2005)


1,近代学校制度普及と沖縄の育英奨学

 沖縄の小さな集落で、規模は弱小ながら「育英奨学」の大きな努力が歴史的に重ねられてきたことを知ったのは、直接には『ぐすく育英会三十五年の歩み』(名護市城区育英会、1991年)を手にしたときであった。城(ぐすく)区は戸数約300世帯、人口700人たらずの名護市部の中規模集落、ここで1955年に区の育英会が発足し意欲的な活動が取り組まれ、その詳細な歴史がまとめられていたのである。300頁(B5版)に及ぶ美装本、興味深い記録となっている。
 それまでも、沖縄各地で1980年代以降に顕著な潮流となって刊行されてきた集落史(以下、字誌という)を通覧していく過程で、*1「学事奨励」や「育英」の記事が散見されていた。それはごく一部の、個別的な集落の事例として看過してきたきらいがあった。しかし記録を調べていくにしたがって、この問題は、沖縄の集落(字)研究として、あるいは日本の育英奨学の全体史のなかで考えても、歴史的経過を含めて、いちど光をあててみなければならない貴重な事実であり、解明に価する課題ではないかと考えるようになった。

 近代沖縄において、日本の公教育(学校)制度への接触は、他の都道府県とは異なる独自の複雑な経過をたどった。琉球王府・旧藩時代の在来「村学校」(筆算稽古所)と、日本各地より遅れて導入される義務教育制度を伴う「日本(やまと)学校」への移行と普及過程も、あるいはその後の本格的な近代学校制度の整備にともなう中等・高等教育への進学問題も、単純なものではなかった。たとえば、当初「日本から押売された」小学校の普及過程では、定員数を確保するために、当時の地方役所は「特典付き奨励方法を考案して、番所に強制した。即ち、一、小学校入学者には年間四円の奨学金を出すこと。二、生徒父兄は夫役の免除を受ける。三、卒業後は番所の文子(書記)に採用することを村学校出に優先する」等の記録(1882年)が残されている。沖縄教育史に「奨学金」の文字が登場するのは、皮肉なことにこれが最初のようである。あるいは読谷村波平区の場合、「就学奨励策として、年に麦俵二俵又は三俵を与えていた」というような状況であった。*2
 明治期以降の近代日本学校制度の普及過程において、沖縄では義務教育だけでなく、中等教育機関の設置も容易に進まず、かつ錯綜してきた。*3 師範学校以上の高等教育機関は戦前の沖縄に設置されることなく、加えて離島苦や経済的困窮を背景として、日本本土への上級学校進学は困難をきわめた。さらに沖縄戦の惨苦、戦後の混乱、アメリカ占領下の日本本土との政治的隔絶、などの状況のなかで、教育機会の確保の問題は切実なものがあった。次世代に寄せる「育英奨学」の思いは、日本各地のなかでも、沖縄においてとりわけ熾烈だったのではないだろうか。
 
 日本の育英奨学制度は、戦前学制下において公的・私的な奨学制度が始動し、1943年の財団法人「大日本育英会」の創設が基礎となって、戦後の政府予算を主とする特殊法人「日本育英会」事業が大きな役割を果たしてきた。
 沖縄においても育英奨学制度が設けられてきた。明治期の県費留学生(1882年、5名)をはじめとして、高等師範学校への県費派遣(明治中期以降)、上海・東亜同文書院への貸費生制度、旧藩主・尚家による奨学金、那覇市等の奨学金、志喜屋孝信の主唱による「沖縄奨学会」設立(1934年)等の歩みなどがあった。*4
 戦後においては、戦争直後にいちはやく設立された「臨時育英会」(1946年、福岡)、その発展としての財団法人「沖縄県学徒援護会」、アメリカ当局援助による「契約学生」制度(1949年)、日本政府援助による公費(国費)琉球学生制度(1953年)等の経過があり、そして「琉球育英会」の創立(1953年)によって育英奨学の事業が大きく展開することとなった。*5 琉球育英会は本土復帰後は「沖縄県育英会」(1972年)となり、さらに「沖縄県人材育成財団」(1981年)から「沖縄県国際交流・人材育成財団」(2000年)へと推移してきている。
 またこの間には、沖縄県下市町村による奨学金の貸給費制度が創設されるようになり、1964年の時点で全市町村の5割、その後2002年現在において、ほとんどの市町村において奨学金制度が設けられている(離島5町村を除く)。また企業・団体・個人による30団体をこえる「篤志奨学基金」(1千万円以上)が活用されてきた。*6
 これらの育英奨学の公的・私的な事業が、貧窮にあえぐ学生のみでなく沖縄の多くの若い世代を励まし、進学・修学の機会を拡充し、有為の人材を世に出して、各方面において社会的貢献をはたしてきた意義は計りしれないものがある。
  
2,字誌が発見した集落の育英奨学活動
 
 しかし沖縄における育英奨学の活動は、このようないわば制度的展開にとどまらず、あと一つの沖縄独自の側面、つまり集落レベルにおける地域的な展開があったのではないか、その歴史と実相を明らかにしてみようというのが、本報告の主題である。冒頭にも書いたように、字誌や関連する記録を注意深く探していくと、集落による「育英」や「奨学」についての貴重な記述が残されている。もちろん、沖縄各地にわたる字誌のすべてを渉猟しているわけではないが、沖縄北部及び中部を主要な舞台に、地域・集落調査による収集資料・証言を加えて、主題に迫ってみることにする。

 前節に記した沖縄県育英会、沖縄県人材育成財団、沖縄県国際交流・人材育成財団は、それぞれ本格的な『あゆみ』『財団史』を刊行している。*7 統計・資料・年表等を含む詳細な記録であるが、しかし、集落の育英奨学の事実についてはまったく言及がない。周知の沖縄大百科事典(沖縄タイムス社、1983年)「育英制度」の項にも、戦後・戦後にわたる沖縄・育英奨学の歴史が概述されているが、同じく何らの指摘はない。
 筆者自身も字誌等の記録に接するまでは、育英奨学の歴史は、これまでの通念に従って、いわば制度的な展開としてのみ理解してきたところがあった。名護市城区のような集落育英会活動は、特例的な篤志事例にとどまると考えていた。しかし調査が進むにしたがって、同じ名護市のみでも、嘉瀬区において「創立35年記念誌・育英会の歩み」が刊行され、同宇茂佐区では「学事奨励会80周年記念誌」があり、そのなかには「奨学資金の貸付」が主要な事業の一つとなってきたことを知ることができた。*8 さらに少なからぬ字誌が記録している学事奨励会(その事業としての奨学資金制度)の展開に出会うことを通して、これまでの通念的な理解だけでは不充分であることを痛感するに至ったのである。

 集落によるいわば地域的な育英会活動の展開について、当初に想定していた調査仮説をいくつか修正して作業をすすめる必要も明らかになってきた。問題の所在を整理しておく意味で、はじめにその点を四点ほど覚書風に記しておこう。
 1,集落育英会活動は、一般的に理解されているような一部の特例的な事例というよりも、現実にある程度の地域的な拡がりをもち、「学事奨励会」(後述)による奨学資金貸付制度まで加えると、むしろ広範な流れとして事実を捉えていく必要があるのではないか。
 2,集落を基盤に一定の組織・規約と財政条件を必要とする「育英会」活動と集落行事的な「学事奨励会」活動とは、単純に一体化できるわけではないが、実際には、両者は歴史的にも連動している側面があり、「学事奨励」への住民意識と活動が、組織的な「育英奨学」制度形成の社会基盤となってきたのではないか。そこには沖縄集落独自の相扶と共同意識の具体的な展開をみることができる。
 3、育英奨学活動には、一定の財政的な条件を必要とするが、豊かな集落のみが育英会活動を組織しているのではなく、むしろその逆の関係をも見逃すべきではないだろう。その背景には沖縄近現代史の過酷な歴史があり、厳しい現実と貧窮からの脱却の思いが、若い有為な世代への期待となり、集落として育英奨学事業を具体化していく動因になってきたのではないか。
 4,集落の育英会活動は戦後の展開と考えられるが、同時にその集落の戦前からの歴史的系譜を継承している側面がある。もちろん具体的な活動は集落ごとに一様ではなく、集落間の情報交流があり、共同体としての集落(シマ)のそれぞれの自尊とともに、シマ相互の響きあいがあった。

3,戦前・学事奨励会の歩み

 戦後の集落「育英会」活動の展開をみる前に、まず戦前からの「学事奨励会」の歩みを取りあげておく必要がある。学事奨励に関しては、字誌によってさまざま精粗はあるが、実に多くの記述を発見することができる。
 学事奨励会は、1901(明治34)年前後に那覇・泉崎等で行われたのが最初とされる。「那覇には西の親友会、泉崎学事奨励会あり東、久茂地、泊にも各学事奨励会の組織ありて子弟の学事を奨励しつつあり。」*9 当時は、琉球処分(1879年)後に急速に普及された学校制度(小学校義務制は1886年)の「勧誘」「督促」「奨励」がすすめられた時期であった。とくに義務就学の規定を厳密にした明治34年・文部省「小学校令」改正(1900年)*10 が直接の契機となって、学事奨励の積極的な施策が動いたと考えられる。沖縄県では、その翌年1901年に訓令第九号を公布している。学齢児童を調査し、就学の義務を強制的または勧誘的に遂行させようという趣旨から、「学事奨励組合規則」等も制定された。*11 記録によれば、就学を怠り説諭の効果もない場合は違約金や科料を課す一方で、「就学児童を褒賞し不就学児童の父兄に対しては(中略)懇談をなし以て児童の就学を促」すなどの勧誘的な方法として、「学事奨励会」があげられている。字誌の記録から、学事奨励会のいくつかの具体的な経過をみてみる。

 宜野座村惣慶区では、小学校への就学普及のため学資援助をしたという。すなわち、「当字では小学校創立当時(惣慶尋常小学校の独立1890年・筆者注)の強制入学者や、国頭高等小学校(金武町に分校設置1897年・同)への進学者には学資援助が与えられたという。これが、広い意味の奨学金のスタートといえよう。大正の初め頃から字民の向学心が高まり、小学校教育とタイアップして字の原山勝負(農事奨励活動・同)と一緒に奨学生の学事奨励会が盛大に行われた。また、中等学校への進学希望者もふえていったが、当時の中等学校進学はよほどの財力がないと田舎の百姓の力では無理であった。しかし昭和の初め頃から字の発展のためには優秀な人材を育成することが最も大切だということで、中等学校や大学に進学する者には字資金から戸主に毎月五円宛貸与することになった。これは卒業後六ヶ月してから五円宛返済するようになっていた。当時は規約や予算はなかったが、この制度ができてからは中等学校進学者が急増し…」という経過であった。*12
 1900年代に入って活発化する各地の学事奨励会の動きについては、当時の「琉球新報」が細かく紹介している。たとえば沖縄市(旧美里村)美里区の場合をみてみると、明治42年8月4日(水)琉球新報記事「去る七月三十日、美里村字西原に於いて、学事・農事奨励会並に善行児童の表彰式挙行致候。当日は…(詳細略)」、明治44年8月3日(木)同記事「七月三十日、美里村字西原、同志会の催しに係る学事並に甘藷奨励会挙行致候。来賓は…(詳細略)」など、当日の盛況ぶりが臨場感あふれる筆致で報道されている。字誌には旧美里村美里区(当時、西原)では、1934年頃より「西原奨学会」の組織があったことの記録がある。*13

 名護市宇茂佐区では、琉球新報記事より「第一回学事奨励会賞品授与式」が1907年に行われた歴史を確定し、前掲・同区『学事奨励会80年記念誌』を刊行している。もともと宇茂佐の学事奨励会は、1904年頃が「最初であるという伝承が残っているが、残念ながらそれを裏づける資料がない」ため、琉球新報記事を起点としたという。同記念誌は、沖縄県内でも他の集落より早い時期に学事奨励会が開かれてきた背景について次のように記している。
 「…劣悪で狭い宇茂佐の田畑は低地であり、大雨が降ると畑などすっかり水侵しになり作物の被害はひどく、宇茂佐住民を幾度となく悩ませた。農業が唯一の生産基盤とされた当時からすると、宇茂佐は農業には悪条件の土地であり、他の村にも太刀打ちできない経済状態にあった。そのような悪条件を克服するための打開策として、宇茂佐の有志達は人材育成の必要を感じ、児童生徒に学問を奨励することが最良の方策であるという結論に至った。
 学事奨励会の設立には多くの児童生徒に賞品授与を行い、勉学に励むことを奨励し、家計が苦しく進学できない生徒には学業に専念できるよう援助を行う育英事業を目的とした。」*14
  
4,集落による学資貸付・奨学金貸与

 名護市(当時、名護町)孝喜区についてみてみよう。字誌『孝喜部落の歩み』によれば、学事奨励会の設立は明治42(1909)年という。この時期から中等学校(農学校、高等女学校)への進学者が現れたことが特記されている。*15 さらに1930年代前半と推定される孝喜区資料には、学事奨励会について次のような記述が残されている。*16
 「八、学事奨励会
一 目的 字民挙って子供の為の会を催し、賞品授与、講演会等をなすことによって、子供達 を奮発せしめ、立派な人物を養成せんとするにある。
二 期日 四月下旬
三 方法 賞品授与、講演、小学芸会、宴会
四 基金 五七四.六四円 現在貸費 三四〇.〇〇円
五 貸費 中等学校以上の入学者にして一人当五十円の無利息貸費とす
六 返済 卒業後、職に就いて二ヶ年目から毎月五円の月賦払い」
 当時の孝喜区(戸数78、人口356)は、「大方農業をなして生計を営んでいるが、元来耕地が狭い上、猪害を被ることが多いので、以前は往々食糧の欠乏を訴えた」のである。字民の自力更正の努力により、まず猪垣約二千米を築造し、漸次民力を涵養して、1932年より沖縄県指定の生活改善指導部落となり、共同浴場の設置(七坪半)、豚舎改良、台所改善、農繁期託児所の設置などを行ってきた。さらに字事務所を新築し(二一坪)、生活改善同盟組合が組織され、共同店(年販売高一一三九.三六円、純益一五〇.〇〇円)経営も順調であった。同記録は加えて「模合一口 拠出金年額二六〇円」「字民の負債なし 数年前までは六千円(一戸平均八二円)を有せしも漸次返還し現在殆ど皆無の状態となれり」「共同貯金 米作一、二期作二回の収穫期に五十銭以上の玄米を出して共同販売をなし、其の売上金を三ヶ年据置に共同貯金をなす」と記している。集落のこのような「自力更正」「生活改善」等の共同の取り組みが、上記の学事奨励会活動と奨学金貸与の基盤にあったわけである。

 戦後「沖縄タイムス」は、沖縄各地の集落を取材し、その概要を「ふるさとの顔」シリーズとして連載(1965年〜1967年、598回)しているが、*17 孝喜区についての記事(ふるさとの顔(8)、1965年2月16日)は戦前・昭和初期の状況を伝えていて興味深い。孝喜区は1931年、沖縄県により「モデル衛生部落」に指定されたこと、集落内の清掃、便所の改良、スマートな銭湯(共同浴場、入浴料1銭)、“文化部落”への生まれかわり、などの紹介とともに、「50年前から育英会」という見出しで次のように記されている。  
 「しかしそれより二十年も前に部落民だけでつくりあげたのが育英会だった。当時の区長津波仁平氏や新城常喜氏、部落で店を経営していた安里盛湖氏(那覇出身)らが中心になって開いた。明治四十二年の学事奨励会がそのきっかけとなり、間もなく部落育英会が結成された。部落民の寄付や共同作業で得た収入が資金として積み立てられ、これまで子弟教育に役立てられてきた。対象はもっぱら上級学校進学者に限られていたが、最近、幼児教育もその中にふくめることになり、手はじめに幼稚園の机、腰かけなどを整備した。五十年の歴史を誇る育英会である」と。*18
 「それより二十年も前に…育英会」が組織されたとすれば、1910年前後ということになる。しかし、前掲『字孝喜』にも字誌『孝喜部落の歩み』にも、「育英会」という記述は見あたらない。おそらく「学事奨励会」による貸付金貸与というかたちでの奨学制度が、育英会と表現されたのであろう。学事奨励会と育英会の活動は単純に分離できるものではなく、実態として奨学資金貸与というかたちで深く連動していたといえる。 

 同じ沖縄タイムス「ふるさとの顔」シリーズでは、東村慶佐次区について「奨学の気風培う」
のタイトルにより、戦前からの集落奨学金制度が紹介されている。ここでは育英会という表現は使われていない。具体的な展開が分かるので、そのまま引用しておこう。
 慶佐次区は、「昔から村内随一の教育部落だったと自慢するとおり、奨学制度の発達したところである。この制度ができたのは大正のはじめ。当時の金で二万四千円の資金をもとに、終戦までに三十余人の学徒を世におくった。財源はすべて部落有地を処分して得たもので、これを近隣の部落に個人貸し、その利息を奨学金にあてた。
 金額は旧制中学で一人につき年二十円、大学生に百二十円。すべて無償還だった。この制度のため、戦前は上級学校卒業者の大半がこの部落から出ていた。現在名護で医院を開業している比嘉昌栄氏、名護英語学校長・宮城盛吉氏、辺土名高校教頭・宮城俊雄氏らは、みなこの恩恵で上級学校まで進んだ。
 この教育熱を燃え上がらせたきっかけは、山原船で慶佐次に出入りした本土の商人から刺激を受けたためだという。明治の末頃、アイ染めに使うテカチを求めて、本土からやってくる人の中には、かなりの期間住みつくのもいた。こうした人々はほとんど学問を知らなかった土地の人々に刺激となった。本土の人と対等になるには教育以外にない、と考えた有志たちが、奨学制度で子供を上級学校にやることを思いついた。教育熱は戦後になってもさかんで…(以下、略)」*19 と紹介されている。
 
5,集落と学校、地方行政機関等との関係 

 学事奨励の活動は、集落が独自に取り汲む形態だけでなく、当然のことながら学校ないし学校区の事業とも関連していた。読谷村の場合、学事奨励会は「戦後は字単位で行うようになった」が、「戦前は学校を中心に行っていた」という。*20
 戦前において、たとえば同村波平区では次のような経過であった。「大正3年(1914年)3月20日、読谷山小学校の卒業式当日、各字区長が集まっていろいろ協議すべきことがあった。その終了後、話は渡慶次小学校、古堅小学校の両校の学事奨励会の基本金造りのことに及んだ。」ちなみに隣の古堅小学校では、その前年(1913年)に学事奨励会が発足し、「校区内字有志多数の寄付金によって基金が積み立て」られていた。読谷山小学校区ではその後、準備会を重ね同年6月14日「五回目の会合で有志の寄付金額の決定、寄付金の一口当り最少額1円、寄付募集の方法や基本金運営の規程案などを取り決め、7月に総会を開いて発足」した。「こうして発足した学事奨励会は、校区内の旧制中等学校以上に進学する生徒に対する学資金の低利子貸付や奨励金としての給付など誠に有効適切に活用され、多数の人材養成に寄与しつつ、昭和19年まで満30年間続いてきた」のであった。並行して「我が波平の学事奨励会も大正3年に発足した読谷山小学校にならって、字として基本金を募集して会を発足した。」「基本金は各戸1円以上寄付して校区には字割り当て額二百円を出資して、残額を字の基金に振り向けるよう字民集会で決定」し、学事奨励会基金は造成された。
 その後は字の毎年の役員(組長、班長、婦人会長、青年団役員等)は必ず応分の寄付をする例となり、終戦までには相当額の基金が蓄積されていた。基本金は原則として取りくずしせず、「学資として低利貸付け、次ぎに一般字民には生産資金、生活資金、住宅建築資金として低利貸付けをする。その貸付金及び利子は毎年3月10日に返済し、翌日11日には新しく貸し付ける方式だったので経理面は完璧であった」という。*21

 読谷村楚辺区の場合、上記・古堅小学校の校区に属していたが、大正2年(1913年)頃に学校の学事奨励会設置に伴い、字にも学事奨励会が発足した。しかし奨学資金貸付制度の実施はその後15年余を経過してからであった。「昭和4(1929)年に教育の重大さを痛感した当時の有識者が、学事の向上、人材の養成として主に中等学校進学者を出すことを目的に『学事向上同志会』を結成した。年1回総会を開き、奨学資金貸し付けの準備金を各自2円宛納め、中等学校に進学した者に無利子で貸し付け、更に学事問題を重点に子弟の学事向上を話し合い、併せて会員相互の親睦会が催された。設立当時の会員は次の方々(略)十九人であった。その後次第に教育に対する関心が高まり、優秀な生徒は毎年中学校へ入学する者が出るようになり、同志会員も増加したが、今次大戦で自然消滅した」のであった。*22 
 楚辺区の事例は、奨学資金の貸付制度が、当初は字組織そのものによってではなく、字内の有志組織によって始動したことを示している。前述してきた集落各事例についても、その歴史には集落個々のさまざまの事情があり、多くの場合、有志・篤志の個人的な努力が大きく介在していたものと考えられる。
 名護市の古我知区の学事奨励会の経過は次のようであった。「明治の中期頃、字の長老の九年母下、赤平、門口のおじいさん方が会所方を結成した。後に下仲門、大屋(略)等が加わった。会員はごく少人数だが、相当の基金をもっておられ、幾つかの行事を行っていた模様である。その一つが学事奨励会…(中略)…。明治から大正までの学事奨励会は字行事でなく、会所方の主催行事であったようである。昭和の初めに会所方の基金が字に譲渡されたので、その後は字の主催行事として行われた。(松川源傑氏「古我知の手さぐり記」より)」*23

 南部の東風平町富盛区では、集落内の村有地や字有地の管理によって得る収入を財源として、1917年より中等学校進学者に3円、(旧制)専門学校進学者に10円の学資貸費制を実施していた。「村有地や字有地を管理している字当局は、毎年旧暦九月に行われる総御願の日に役員立ち会いのもとで、幾つかに区分けされた部分の草や茅を競りにかけた。競り落とした者(字民)は、料金を支払って草や茅を刈り取り、持ち帰って馬の飼料にした。字当局は村有地の管理費とその売り上げ金を積み立てて育英事業を実施した。上級学校に合格した多くの方々が、その恩恵に浴した。(知念富一氏より聞き書き)」*24
 富森区の字誌は、あわせて「東風平町の育英奨学制度」についても、次のように記している。「本町の奨学制度の始まりは、大正八年頃であろうと言われている。高等専門学校以上は貸費制で二十円、中等学校は給費制で五円、後になって三円支給されている。」(同、454頁)

 北谷町の上勢頭誌は、字による学事奨励会が1909(明治42)年に設立され活発な活動が行われたことと、あわせて地方行政機関としての村(当時)と中頭郡の学資貸与制度について記している。「中頭郡(中略)学資貸費については、規程を設け、郡内で高等の教育を受ける者の中から家計が苦しい者に学資を貸与して、学業を援助した。また中頭郡組合でも貸費留学生を派遣した」として、(旧制)第七高等学校、第五高等学校、長崎医学専門学校へ3名の奨学生を進学させたこと(琉球新報、1914年3月24日記事)を紹介している。*25

 本論では、“集落”の育英奨学制度に焦点を据え、字誌を主な資料としているので、市町村や郡の行政機関についての検討は主題となっていない。各自治体の市町村史等を通覧していけば、地方行政機関が整備してきた制度的な育英奨学制度の歴史が明らかになる。字と地方行政機関の動きもまた相互に関連があるはずである。
 このようにみてくると、集落・字組織の育英奨学活動は、それだけで自己完結しているのでなく、集落内の有志・篤志の人たちの努力があり、学校区レベルの活動と連動し、あるいは農事実行組合等の組織さらに地方行政機関による制度的な育英奨学の事業等と、その規模は大きくないとしても、ある種の重層的な関係をもって歩んできた歴史でもあったと言える。いずれにしても、集落の育英奨学活動が、戦前において、決して一部の限られた特例に止まるのでなく、相当の地域的な拡がりをもって展開されてきた事実は確認できるようである。

6,戦後における集落育英会活動の胎動

 沖縄の「学事奨励会」は、明治中期から登場してきたいわば古い名称であるが、戦後においても持続的に活動は継承されてきた。もちろんその実態はさまざまであって、学校教育あるいは子どもをめぐる状況の変化のなかで、あるいは「教育隣組」活動*26や子ども育成会等の戦後的な動きとも関連して、変容・衰退し姿を消していく事例もみられた。それと対照的に「育英会」は、戦後に新しく胎動する用語であって、おそらくは日本育英会(1943年)そして琉球育英会(1953年)の設立を背景にしていたものであろう。
 前に触れたように、戦後直後に沖縄が日本から分離された時期、郷里との連絡をまったく絶たれた沖縄出身の学生たちの経済的困窮を見かねて、九州在住の沖縄関係有志により「臨時育英会」が福岡・沖縄県事務所に設立された(1946年)。*27 これが、沖縄において「育英会」が正式の名称としてつかわれた最初の例であろう。その後、集落レベルにおいて育英奨学的活動が胎動するのは1950年以降のことと考えられるが、当初は「学事奨励会」あるいはそれに類する名称でスタートし、次第に「育英会」呼称に推移する流れのように思われる。そこには戦後の育英会的活動が、戦前の学事奨励会活動の歴史と決して無縁ではないこと、その系譜を受け継ぎながら新しい展開をみせていく経過が示されているともいえよう。

 まず戦後初期1950年代の動きについて、字誌記録からいくつかの事例を取りあげてみる。先述した読谷村波平区は「戦後あらためて基本金は造成していないが、1950年度から学事奨励の活動・事業を復活」している。「字波平学事奨励会規程」は、目的を達成するための事業として、(1)出席、学力、品行佳良なる児童に賞品を授与する、(2)児童、生徒の学力平均点及び出席歩合を調査し上位に占める班に賞与する、(3)当字出身の中等学校以上の学生の奨励及び学資の補助をする、(4)学事に功績ある者を表彰する、(5)その他本会の目的を達成するために必要な事業をする、の5項目を掲げている。このうち(3)が学資支援の項目となっている。ちなみにこの規程は大正3(1914)年に施行されたものであった。*28
 同村宇座区の戦後第1回学事奨励会は1951年に開催された。諸活動の記録「基金積立」の項には、「一、奨励会員決議の上寄付募集せり、二、寄付総金額壱万八千五百六拾円也、三、賞品贈入金額三千九百四拾円也、四、差引金額は会員決議の上、貸付を実施す、利息は月利壱千円につき参拾円也、但し家庭貧困にして進学のため借用する者に対してはその限りにあらず」と記録されている。その後毎年の活動を続け、1965(昭和40)年に正式に育英会が発足した。「一人でも多くの子弟が経済的な都合のために向学心を断念することがあってはなならないという立場から資金を準備」してきたという。字「行政機構図」には「学事奨励会」と並んで「育英会」が図示されている。*29
 同村楚辺区の場合、同じく1951年に、学事向上同志会(5節に既述)に変えて「学事奨学会」を組織(賛同者は百余人)、1962年に正式に「字楚辺奨学会」が発足した。事務所は同区公民館におき、会長は区長が兼任、7人の理事を会長が選任し、「優秀なる学徒で経済的理由によって修学困難なる者に対して学資を貸与」してきた。*30

 宜野座村惣慶区では1951年に字として奨学金貸与事業を始めているが、次のような経過であった。「昭和25(1950)年、字出身のハワイ移民開拓団の大先輩である三氏(略)が郷土見舞訪問された時、部落発展の基は人材育成が第一であると、当時の字の指導者(略)と一緒になって、部落青少年の教育奨励に使ってくれと多額の金額を寄贈された。このすばらしい厚意が一般区民に感動を与え、区民が一体となって惣慶区奨学金貸与制度の創立となった。寄付金を基に区予算から必要な金額を繰り入れ、昭和26年4月から事業開始した。」
 その後も「郷土訪問者や字民のお祝い祈念に多額の寄付金」が寄せられ、資金が不足の場合は「いつでも区費から繰り入れる仕組み」とし、奨学金貸与事業は順調に継続されてきた。「惣慶区行政規程」には「第八章 惣慶区奨学会々則」(全17条)が設けられている。目的達成の事業としては、「1,学資金の貸与 2,奨学館の設置、3,学事奨励会の開催、4,その他奨学に必要な事項」(同第4条)が規定されている。1978年までに99人が学資貸与を受けたという。*31
 前述した旧美里村美里区では、1952年7月に「奨学育英立案委員会」が開かれている。海外同胞よりの寄付金(約2万8千円)を基本金とし、卒業記念寄付、誕生祝賀寄付、結婚祝賀寄付、郷友会寄付等を呼びかけ、高等学校以上の進学者への貸付金として事業計画が練られた。対象人員は高校生28名、琉球大学生4名、日本留学生3人、その2割強(7人)に3ヶ月毎に貸与する、基本金合計3万9千3百62円のうち三分の一を3ヶ月の運営貸付金とする、等の計画であった。この字育英会事業は、美里向上会の社会部事業として位置づき、具体的な「施行細則」が字誌に記録されている。*32
 名護・喜瀬区の場合は、1951年度の「学事奨励会」において、「育英会」創設が提議された。「肝心の資金が乏しく区民の山稼ぎで薪を売ったりして、かれこれ寄付金が当時のB軍票4,750円集まり、これを基金にして貸付を始めました。高校生二十名あまりの生徒に一時立替金で一人3円から5円」の零細な学資援助から出発した。その後の育英資金造成期を経て、1961年には「喜瀬区育英会々則」「育英会資金貸付及償還細則規程」を制定している(後述)。*33

 戦後沖縄において、このように集落の育英奨学の活動が胎動する1950年代初期とはどういう時代なのであろうか。当時はまだ沖縄戦から5年を経たばかり、形容しようのない破壊と被害の厳しい現実のなかにあり、それだけに生活の立て直しと復興への取り組みが切実に求められていた時期であった。政治的には、アメリカ占領体制と本格的な基地構築が進み始める状況が一方にあり、他方で沖縄側も群島政府時代から琉球政府の設立(1952年)へ、また地方行政も一定の整備が進んでいく過程にあった。この段階において、教育の面では沖縄民政府下の六三三制学校制度が実施(1949年)されつつあり、義務教育修了後の高校と琉球大学(1951年開学)をはじめとする大学への進学問題が具体的な問題となっていく時期であった。戦後教育体系の確立のなかで、家庭・地域・社会を担う次世代の修学と進学は、厳しい経済生活と格闘する多くの家庭にとって、そして集落にとっても、切実な課題として認識されていく時代であったのである。
 戦後沖縄において、生産(農業)と生活の再建・復興はとりわけ重大問題であったが、何よりも大きな特徴は、日常生活の基礎単位である集落(字、シマ)の組織と社会的結合が大きな役割を果たしたことである。集落の伝統的な共同と自治の結びつきが、戦後の生産・生活の復興・再生という新しい課題(いわば現代的な危機的状況)に直面して、新しい変容をとげながら甦り再生していったといえよう。子どもの修学・進学も本来は個々の家庭の私的な領域に属する問題であろうが、沖縄では同時に集落としての共通問題であり、共同して取り組むべき課題でもあったのである。集落を基盤とするユイマールの相扶思想が息づいていた。生産基盤の回復、集落自治の再編、地域文化の再生、豊年祭等の行事や芸能の復活、総じて地域(ムラ)興しへの取り組みなどの努力がさまざま進められていった。地域の育英奨学の活動は、そういう集落の共同と自治の基盤に支えられて胎動していったのである。
 たとえば、いち早く集落「育英会」構想を具体化した名護市喜瀬区(既述)の場合は、次のような経過であった。喜瀬区育英会を提議した島新栄氏(1960〜1976年まで同区育英会々長)の証言には切々たる思いがこめられている。
 「育英会創設の動機。終戦直後の人々は悲しみと失望の日々であった。その中で青年会、成人会の組織で、ややもすると暗く沈みがちな住民の心の支えとして、いち早く豊年祭の復活に取り組んだのである。しかし戦前の踊りの衣装、小道具、幕等は戦火で焼滅のため、衣装作り資金として、部落はもちろん、県内、本土、ハワイ、南米在の郷土出身者に協力を願い、各御先輩のご理解と慈悲により、衣装の再製、豊年祭の復活ができた。豊年祭行事と平行して、野原仕事の畦道で、ある時には舞踊練習、また演劇脚本作りのひととき、数名の幹部が夜半夏の星空下、野外舞台で、東の空の明けるのも忘れ、戦争の犠牲になった肉親や、若い命を失ったありし日の学友、友人達の生前の面影を偲びつつ、生き残った我々は、部落の復興、後継者作りの人材育成は責務であり、その実現のためお互いに誓い合った」*34のであった。
 育英会活動の資金は、集落行事としての「生年合同祝」関係者からの寄贈、還暦・古稀・喜寿・米寿等の祝賀金寄付、多くの一般寄付、など集落組織を母体とし共同の相扶意識のなかから蓄積されてきた。

7,名護市城区育英会の給費制度

 集落育英会による学資援助は、一般的には貸費制(低利子もしくは無利子)あるいは一時貸付のかたちである。そのなかで名護市城(ぐすく)区育英会の場合は、給費制度をとってきた。名護市城区育英会の設立経過からみてみよう。*35 同育英会の発足のための有志会は、1954(昭和29)年6月に開かれている。参会者は13名であった。
 「…発会のきっかけを作って下さったのは誰も知る山入端ドクターである。昭和29年といえば終戦直後十年そこそこ、民心は落ち着いていたが、生活水準は低く、進学どころの騒ぎではなかった。こんなとき山入端松正氏がハワイから帰省なさった記念として城区に壱万円(B円)ポンと出されたのである。これまさに天来の福音、当時B円は120円が1弗だったので約83弗にあたる。一般には手の届かない資金である。区の有志会で協議の結果、松正氏の御好意を末代まで存続させたいということで、それが育英会資金造成の基金となったのである。…」
 この基金は10万(B)円を目標に、月利2分の利息による貸し付け、加えて青年会によるエイサー収益からの寄金、古稀祝い記念の寄付、その後さらに在米の城出身者6人をはじめとする関係の団体や個人の寄付が集まり、「潮を寄せるように基金は増加していった」。資金計画によれば、その他に出産祝い・建築祝い等からの寄金、香典返し、婦人会による募金活動、外国・他府県への趣意書発送による資金増額、などがあげられている。
 会則や趣意書づくりについては、当時「部落単位の育英会というのはほかにその例が少なく、またあっても参考になるようなちゃんとした定款も見当たらなかったので、原案作りには苦労した」。会則案の手直し、評議員の推薦(各班別に計37名)、区内寄付の具体案などが検討され、医師・比嘉松栄氏を会長、区長など2名を副会長、幹事1名(宮城盛雄氏)を選任して、1955年4月、城区育英会は発足した。
 地域的に戦前より教育への関心は高く、上級学校への進学の夢を実現する育英会設置への取り組みに区民は積極的なものがあった。その後、「三十五年記念誌」がまとめられる段階において、基金は9,598,198円に達し、68名の大学生にその恩恵を与えることが出来たという。「記念誌」には詳細な「沿革」表がまとめられているが、ちなみに1988(昭和63)年度「総会」記録は、前年(昭和62年)度決算として、歳入1,263,858円、歳出692,000円、差引571,858円(上記・基金へ)、そして予算1,751,200円、基金総額9,026,340円、を計上している。この年度の育英資金給付学生数は3人(給付額15,000円、計450,000円)であった。*36

 城区は明治期以降、学事奨励会活動が活発であった。とくに師範学校在学中より学事奨励会に取り組んだ山入端月懸氏(名護尋常高等小学校教師、県会議員)の果たした役割が「記念誌」には特記されている。戦後においても学事奨励会行事は継続され、奨励会として寄付金を募集してきた。しかし上に記してきた育英会創設にあたり、学事奨励会は実質的に区育英会に吸収される形がとられた。
 1955年4月に制定された「城区育英会々則」は全19条より成る本格的なものである。第2条は「本会は優秀なる学徒で、就学困難なる者に対し、学資を援助し、有為なる人物を養成するとともに区内の教育水準を高めること」を目的を定め、第13条において「第2条の目的達成のため、左の事業を行う」として、次の3項目を掲げている。すなわち、
「1,上級学校進学者の学資の全部または一部の給与若しくは貸与。
 2,学事奨励会その他の教育奨励に関する事項。
 3,教育水準を高める等本会の目的達成に必要な事項。」
 したがって区育英会として、学資の給費だけにとどまらず、学事奨励会活動を含めて積極的な事業を展開してきた。たとえば「ぐすく育英便り」が1987年5月から発行されているが、同61号(2000年7月)によれば、「平成12年度事業計画」は、給費生の激励、書き初め、展示会、育英便りの発行、子ども会・子ども育成会・区内団体への協力、その他、があげられている。同「便り」には同区会館の図書室文庫便りも含まれ、「子ども会の皆さん、名護市から沢山の図書が会館に届いています。夏休みには必ず2階の図書室に来て、多くの面白い本を読んで、かしこい子に成長して下さい。皆さんが来室することを、いろんな本が首を長くしてお待ちしています。ご父兄の皆様にもよろしく。」などの呼びかけがある。集落育英会の活動は、学事奨励会や子ども会活動をも含む内容になっている。

 前述したように城区育英会の重要な特徴は、貸費だけでなく、給費制を実現していることであった。この点については、初代会長・比嘉松栄氏の役割が大きかった。「…氏は育英会の生みの親であり育ての親である。(中略)これまで学資補助の方法として貸与か給与か幾度も揺れたが、貸与は返済という義務を伴なうので、気軽に活用できる給与の方が会発展のため最良の方法であるという先生の基本理念があったので、三十五年も給与制になっているものと思う。」(前掲・宮城盛雄「城区育英会発足の経緯」)と回想されている。
 比嘉松栄氏は、東村慶佐次の生まれ、県立二中から東京医学専門学校を卒業後、医師として
沖縄県内病院勤務後、山入端松正氏の跡を継ぐかたちで名護に医院開業、戦時中は軍医の経験もある。戦後は医師のかたわら名護町会議員(当時)、琉球政府立法院議員、のち県会議員、琉球大学理事長などを歴任した。*37
 出身地の東村慶佐次区は、戦前いち早く集落として育英奨学制度を実現したところであるが、部落有地処分による当時の金で二万四千円の資金を「近隣の部落に個人貸し、その利息を奨学金にあてた」「金額は旧制中学で一人につき年二十円、大学生に百二十円、すべて無償還」とした。比嘉松正氏もその奨学金給与の恩恵を受けて、旧制中学そして医学専門学校(当時)に進学することが出来た人であった(4節に既述)。*38
 慶佐次区生まれの比嘉松正氏が、城区育英会の初代会長として、給費制の育英制度を実現したのには、戦前・無償還の奨学金を受けた経験に負うところがあったのではないかと考えられるが、故人に確かめるすべはない。城区育英会の関係者からの聞き取り調査では、確証はないが、ありうることだという回答であった。

8,1960年代の集落育英会の動き

 ここで1950年代から60年代にかけての、沖縄の高校・大学の進学率をみておこう(別表1)。
中学校卒業者の高校進学率は、1950年代は5割にみたなかったが、1960年代には50%をこえて60%代となり、1972年の日本復帰の年には70%代に入った。6割から7割の子どもたちが、高校へ進学する時代となっていくのである。大学進学率は、高校進学率のような増加傾向ではないが、1割台であったものが1960年代後半には2割以上の線に達するようになり、高校生のうち4分の1前後が大学へ進学するようになっていく。集落の育英奨学事業は、このような家庭・社会の進学要求を背景にしていたわけであるが、同時に集落育英会が、この進学率上昇の一端を担っていたことも考えられる。

 (別表)中学校及び高等学校卒業者の進学率・就職率(%)*39
────┬─────────────┬───────────── 
      │中学校卒業者進学率・就職率 │高等学校卒業者進学率・就職率
────┼────────┬────┼─────────┬─── 
 1957  │          41.7│    38.2│           20.1│ 47.8
 1958  │          50.4│    34.9│           21.9│ 46.9
 1959  │          47.7│    31.2│           16.8│ 40.4
 1960  │          51.8│    29.3│           20.0│ 45.6
 1961  │          55.4│    33.0│           14.7│ 52.5
 1962  │          60.9│    30.5│           15.1│ 53.5
 1963  │          57.8│    30.9│           17.4│ 49.5
 1964  │          54.9│    28.2│           19.9│ 52.7
 1965  │          52.6│    26.2│           23.2│ 50.9
 1966  │          53.5│    23.9│           22.4│ 41.2
 1967  │          59.1│    23.2│           21.7│ 43.9
 1968  │          60.8│    18:3│           26.8│ 41.7
 1969  │          63:5│    17.2│           25.8│ 36.3
 1970  │          67.5│    21.5│           25.3│ 47.4
 1971  │          67.9│    17.8│           24.2│ 43.4
 1972  │          71.1│    15.5│           26.5│ 42.2
────┴────────┴────┴─────────┴─── 
                           *琉球政府文教局・教育統計

 再び字誌等の記録に戻ろう。1950年代末から60年代にかけて、集落育英会に関しては次のような動きがあった。
 名護市辺野古区では、1958年の区政委員会による育英会設立に関する議事が記録されている。翌1959年には奨学金の貸与が行われた。基金は米軍(キャンプ・シュワープ)兵士の寄付によるものであったが、その後は資金不足となり、わずか1人(大学生)の奨学生に止まり、事業は自然消滅したという。*40 
 名護市大西区では「1957年より適用」の「大西区育英会々則」が作成されている。第13条の事業の項では「上級学校進学者学費の全部又は一部の貸与もしくは給与」とあり、全体の構成とくに給与制の規定等は、上記・城区育英会の会則に類似した内容となっている。*41 その実態については今後の調査をまたなければならない。
 関連して、奨学金の給与的な提供については、嘉手納町屋良区に次のような事例がみられる。
同区では「字有財産の保全と活用」を主要な目的として、1973年「字屋良共栄会」が発足するが、この共栄会によって学事奨励会が催され、活動の一つとして「奨学金」制度が位置づけられた。毎年の共栄会予算に奨学金30万円が計上され、各年度の大学または専門学校合格者に3万円が「給与」されてきた。*42
 名護市(旧久志村)久志区では、1961年から奨学資金の貸付を開始している。対象は大学生以上、区の基金に余裕がある場合に貸付ける、ただし村の育英資金と重複してはならない、などの条件であったが、その後に貸付け額、利息、返済等についての改定が行われ、また高校生を含み、村育英会貸与と重複可となった。1992年現在、高校生等には20万円、大学生等は40万円の学資貸付を行っている。*43
 名護市宮里区は、1910年前後より学事奨励会(区の三大行事)が続けられてきた古い集落であるが、1965年に宮里育英会が設立されている。それ以降は、奨学資金の貸与だけでなく学事奨励会も育英会事業として行われるようになった(会則第12条)。貸与額は1人20万円、2001年までに178人(大学生、高校生等)がこれを利用した。*44 

 沖縄本島の東海岸では、次節に述べるように、軍用地収入や石油備蓄基地(CTS)補償などによる字収入増の条件が加わり、1980年代以降に大規模な育英会事業が展開されるが、その前段階から育英会設立の努力をしてきた集落があったことにも注目しておきたい。
 金武町屋嘉区では、1959年に育英会を設立している。*45 隣の伊芸区では、それより早く1957年に正式に育英会を発足させている。現在、両集落はいずれも毎年1千万円前後の予算をもって育英会が運営されているが、当初は小さな規模での出発であった。
 伊芸区の場合をみてみよう。伊芸区では育英会発足前にも、高等学校全員入学を字の重要方針として子どもたちの学習督励につとめ、また毎年予算を計上して大学進学者を援助してきた経過があった。育英会の設立後、その運営を字の一般会計に組み入れたが、返済される奨学金が字の収入として取扱われ、育英会に還元されないため資金が次第に減少し、規約改正等がおこなわれてきた。1974年には、当時の育英会長・安富祖一博氏は、字当局に「育英資金の増額出資」についての陳情を出し、次のように訴っている。「…いつか解放されるであろう広大な総有地や公有地を利用して、平和で豊かな社会の建設には、まず子弟の教育が最も先決」であり、「この(沖縄縦貫道路用地の)使用収益金は、私達の先輩が自分と子孫のために獲得したものであり、また、私達も私達だけのために費消することなく子孫のために残すべきは当然のことであります」と。*46 その後は伊芸育英会は財政規模を拡大し、活発に活動を続けていく(後述)。
   
9,小規模集落の育英会活動−名護市喜瀬区の歩み

 1950年代後半から1960年代には、市町村による公的育英会制度が大きく始動し、前進してきた時期であったが、これに加えて集落レベルの育英奨学事業が独自の拡がりをみせてきたのである。もちろんそれらの展開は多様であって、集落によって、基金、予算規模、決算、奨学生数など差異が大きい。しかし歳月を重ねるにしたがって、概して育英会の事業は定着し、経営的にも安定・発展の方向をたどっている場合が多いように思われる。毎年の奨学金貸付の蓄積は、いずれ返還される性格の次なる資金でもあり、それぞれの育英会の資産となっていく。
 典型的な事例として、名護市喜瀬区育英会(3節・6節に既述)のその後の展開をみてみよう。喜瀬区は人口400人にみたない小規模集落であるが、沖縄タイムス「ふるさとの顔(6)」にも紹介されている通り、「物事に対しては積極的」な気風で「団結力で生活合理化」をはかってきた歴史がある。旧慣の行事等を廃止あるいは合同化して「その費用を育英資金にあて人材養成に力を入れて」きた集落であった。*47 その育英会の歩みは、文字通り集落あげての共同と自治の積み重ねとみることができる。
 「喜瀬区育英会の歩み−創立35周年記念誌」は、1951年創立以来の寄付者一覧を克明に記録している。区育英会の資金は、すべて区民、関係者の寄付(学事奨励会、生年合同祝、還暦・古稀・喜寿・米寿の祝金、香典返し等)ならびに字会計「運営補助金」とその他雑収入(預金利子)によるものであった。資金額は1972年79万円であったものが、年々増加し1986年には568万円となっている。その後さらに奨学金の返還が順調に推移し、2004年度において総資金額はさらに倍増以上となり、集落育英事業は全く安定した基盤を確立するに至っている。
 現在の奨学生は大学生4人(月額4万円、計48万円)、高校生1人(月額1万5千円、計18万円)、一時金貸付1人(10万円)、合計220万円の奨学金貸付、返還金123万円、育英会への寄付額は72万円(15名)であった。*48
 米軍用地収入等に依存しない一般(小規模)集落の、“芳志”を寄せ合い、自力で蓄積を重ねてきた集落育英会活動の歩みとして興味深いものがある。

10,1980年代以降の集落育英会

 日本復帰後の沖縄では、アメリカ軍基地維持政策と軍用地料の増大、あるいは金武湾の石油備蓄基地誘致と地元への補償等があり、関係する集落に多くの影響をもたらした。それらの波及をうけて集落育英会の活動が積極的に動いてきた一面もあった。いくつかの事例を以下に取りあげておく。名護市等の小規模の集落育英会と比較すれば、この軍用地料収入増等による字財政と育英会経営の大規模化に驚かされる。
 勝連町平敷屋区では、1996年に会則を制定し育英会が発足している。平敷屋は戸数1,331(人口4,128)の大規模集落であるが、旧集落は戦後すぐに米軍基地として接収された歴史をもち、苦難の歩みを経験してきた。他方で、近年は米海軍基地(ホワイトビーチ)関連の軍用地料収入が増額され、1996年前後において「軍用地料特別会計」(歳入約7千万円強)より区財政への繰入金(約4千万円強)の比重が大きく、また創立された育英会にも多くの基金が用意された。育英会には初年度(1996年)に1千万円を繰り入れ、その後2004年にいたるほぼ毎年の繰入金があり、累計は4,292万円にのぼっている。奨学金は大学生等(県外月額3万円、県内2万円)及び高校生(月額1万円)に無利子貸与、奨学生は2004年までの9年間で計75人に達している。会則に基づき、すでに返還も始まっている(累計約230万円)。ちなみに、2004年度の平敷屋区自治会資料によれば、区の財政規模はさらに拡大し、軍用地料収入が約9,358万円、区一般会計へ3,957万円、育英会へ633万円を繰り入れている。*49

 前述した金武町伊芸区(戸数366、人口885)の場合は、育英会の設立が1957年、すでに半世紀近くの歳月を重ねてきているが、この間、伊芸区育英会においても経営規模は拡大してきた。2004年度の伊芸育英会資料によれば、その予算総額は1,049万円であった。歳入の内訳は、軍用地料等の財産保全会よりの繰入金732万円、それに加えて融資回収金(返還金)34名分300万円等となっている。歳出では、学資貸付金732万円、とくに基金造成費(積立金)288万円の計上が注目される。2004年度における貸与奨学生は16人(大学生13人各48万円、専門学校生3人各36万円、貸与総額は上記)、新たに奨学生希望者は5名を数えている。*50
 宜野座村宜野座区(戸数350、人口1,097)の育英会は1992年に設立されている。発足時は1,500万円の基金(宜野座区育英会会則第3条)であった。宜野座区全体の予算規模は、2000年度において、歳入16,937万円、そのうち14,839万円が「財産収入」(軍用地収入)、繰越金1,840万円。歳出のなかで「教育振興費」が3,594万円、そのうち1,000万円が「育英資金特別会計」にあてられている。2003年「育英会特別会計」明細によれば、歳入は1,372万円、その内訳は区からの繰入金800万円、返還金331万円、前年度繰越金240万円等となっており、歳出(同額)では奨学資金貸付984万円が予定されている。育英会特別会計の総資本額はすでに5千万円に達し、自治体の公的育英事業に匹敵する水準といえよう。*51
 与那城町平安座区(戸数526、人口1,554)の育英会設立は1987年であった。周知のように
1960年代末からの石油備蓄基地誘致と1971年の海中道路建は平安座区にとって大きな転機となった。その後の区(自治会)財政は「財産収入」等が飛躍的に拡大し、流動しつつも1億円代の大台にのる年も少なくなかった。そのような背景をもって育英会事業は展開されてきた。平安座育英会の2003年決算書によれば、歳入846万円、そのうち自治会一般会計からの補助金300万円、返還金384万円、寄付金32万円余り等となっており、歳出780万円余りのほとんどが「貸給費」(県外学生17人、各3万円、県内学生7人、各2万円)である。*52
 ここではいつかの典型手な事例をとりあげた。いうまでもなく、軍用地料収入等の特別財源を得ている集落がすべて育英会を設立しているわけではなく、それだけにこれら集落の積極的かつ大規模な育英会活動への取り組みが注目されるのである。 

11,おわりに−集落育英奨学活動が問いかけるもの

 沖縄の集落育英会の事例は、もちろん、以上にとどまらない。たとえば、沖縄市上地区の場合は、郷友会による「奨学資金運営委員会」育英事業(1986年設立)の事例であり、*53 あるいは前述した名護市孝喜区の場合は、戦前からの学事奨励会の歩みに重ねて、あらためて孝喜区育英会を設立(2003年)している。名護市許田区、金武町並里区、同金武区ほか、さらに調査を拡げれば、他にもいろんな育英会等の活動事例を見いだすことができるだろう。しかし、本報告に与えられた紙数もすでに尽き、ここで、ひとまずの報告を終わることにする。
 今後の研究調査を深めていくためにも、沖縄集落の育英奨学活動についての特徴的なことをいくつか覚書風に提示しておきたい。
 第一は、集落レベルにおける小規模の育英奨学活動のなかに、いわば制度的な育英会活動の原風景をみることができるのではないか。若い世代にかける思いや励まし、地域(社会)共同の取り組み、自発・自力・自治の精神、歴史的な蓄積の努力等によって育英奨学活動は支えられてきた。名護市城区育英会の給費制奨学金は、本来の「スカラシップ」そのものであろう。
 第二は、沖縄独自の伝統的なユイマール(結い、相扶の交換)やモアイ(模合)の思想や意識が、集落組織を基盤として、育英会活動に息づいているのではないか。近代公教育制度に向けての進学・育英への協同の取り組みは、いわば「学校模合」とでも言えようか。
 第三は、学事奨励会から育英会制度への歴史的系譜、さらにその継承と発展の流れに注目しておきたい。現代の育英奨学制度が次なる集落共同活動への歴史的展開を呼び出していく可能性もみえてくる。具体的に、集落育英会の奨学金貸付は、歴史的に継承され蓄積されて、集落の資産として次なる活動の共同資金となっていくに違いない。
 第四に、集落共同の社会的・教育機能としての育英奨学制度は、曲折をたどりつつ、そのことを通して、集落(シマ)の社会的結合に大きく寄与してきた側面があった。
 第五に、沖縄における育英奨学制度の多層性である。国ならびに琉球政府(復帰後は沖縄県)レベルに市町村等の奨学制度が加わり、これらに沖縄独自の集落育英会活動を重ねてみると、離島苦や経済的困窮に翻弄されつつも、むしろ重層的な展開が創出されてきたといえよう。


(付図)沖縄の集落育英奨学活動・略年表

 [時 期]      │ [集落名(設立年、市町村名)]
<明治期> 1900│*惣慶(宜野座)
           │ 宇茂佐(07,名護)、*孝喜(名護)
        1910│
<大正期>    │*慶佐次(東)、波平(14,読谷)、富盛(17,東風平)
        1920│
<昭和期>    │ 楚辺(29,読谷)
        1930│
           │
        1940│
大日本育英会43)│
        1945│
臨時育英会(46)  │
        1950│宇座(51,読谷)→65<育>、楚辺(51,読谷)→62<奨>、
琉球育英会(53) │惣慶(51,宜野座)<奨>、喜瀬(51,名護)→61<育>、美里(52,沖縄)<育>
           │城(55,名護)<育>、大西(57,名護)<育>、伊芸(57,金武)<育>
           │辺野古(59,名護)<育>自然消滅、屋嘉(59,金武)<育>
        1960│久志(61,名護)<育>
           │
           │宮里(65.名護)<育>
           │
        1970│
沖縄県育英会 72│
           │屋良共栄会(73,嘉手納町)<奨>
           │
        1980│            
人材育成財団81)│
           │上地(86,沖縄)<奨>
<平成期>    │平安座(87,勝連)<育>
        1990│宜野座(92,宜野座)<育>
           │
           │平敷屋(96,勝連)<育>
           │
        2000│孝喜(03,名護)<育>
           │

図注:( )内は設立の西暦年と現市町村、*印は年月未確定、<育>「育英会」、<奨>「奨学会」、他は学事奨励会等による奨学貸付を示す。


【本文脚注】
*1 拙稿「沖縄の集落自治と字公民館をめぐる法制−字誌・地域史を手がかりに」『沖縄の 
 字(集落)公民館研究』(九州大学松田武雄研究室)第2集所収、2004、本論はその続編 
 である
*2 比嘉宇太郎「学事の今昔」前掲『ぐしく育英会三十五年の歩み』所収、第4章、239頁、波 
 平公民館『波平の歩み』1969年、62頁
*3 比嘉宇太郎『名護六百年史』1958,「新旧学制の葛藤と初期の国民教育」「学校誘致運 
 動」等の各節参照
*4 阿波根朝松編『琉球育英史』琉球育英会、1965年、第1章(島袋全孝)
*5 沖縄県教育委員会編『沖縄の戦後教育史』1977、学校教育編第9章「育英奨学事業」参 
 照
*6 前掲『琉球育英史』245頁(1963年現在、本土市町村の場合、育英会制度の整備は2割 
 であった)、財団法人沖縄県国際交流・人材育成財団「事業の概要・平成14年版」2002
*7 沖縄県育英会『育英会二十五年のあゆみ』1978、沖縄県人材育成財団『沖縄県人材育 
 成史』1992、沖縄県国際交流・人材育成財団『財団50年のあゆみ』2003
*8 名護市嘉瀬区育英会「創立35周年記念誌・育英会の歩み」(1986)90頁、名護市宇茂 
 佐区「学事奨励会80周年記念誌」(1987)89頁、いずれもB5版
*9 那覇市史編集委員会『那覇市史』資料編第2巻上、1996、56頁、
 照屋寛之「学事奨励会」沖縄大百科辞典、1983
*10 文部省『学制百年史』第1編第2章、1972、316頁
*11 沖縄教育会『沖縄教育』第31号、1908、15頁、名護市史編纂委員会『名護市史・本編
 6−教育』2003、41〜42頁、金武町並里区誌編纂委員会『並里区誌』1998、482〜483頁
*12 宜野座村惣慶区『惣慶誌』1978、153頁。なお戦後には区規定に1章を設け「奨学会」
 (1951)が設立された(後述・戦後の項)。
*13 美里自治会『美里誌』1993、388〜9頁
*14 名護市宇茂佐区『学事奨励会80周年記念誌』1986、「学事奨励会の歩み」(山本川 
 恒)
*15 孝喜区編『孝喜部落の歩み』1978年、153〜154頁
*16 『字孝喜』(奥付なし、1935年前後の作成か)謄写版、23頁、沖縄県立図書館蔵
*17 中村誠司「資料紹介“ふるさとの顔”」前掲『沖縄の字公民館研究』第2集、203頁
*18 沖縄タイムス(連載)「ふるさとの顔(8)−孝喜−50年前から育営会」1965年2月16日
*19 沖縄タイムス(同)「ふるさとの顔(123)−慶佐次−奨学の気風培う」1965年
*20 宇座区公民館『残波の里』1974、「育英制度と教育隣組活動」124頁
*21 前掲『波平の歩み』「字波平学事奨励会」69〜70頁、字楚辺公民館『字楚辺誌・民俗 
 編』1999、133頁
*22 同『字楚辺誌・民俗編』、134〜135頁
*23 古我知誌編纂委員会『古我知誌』1998、207頁
*24 富森字誌編纂委員会『富森字誌』2004、456頁
*25 上勢頭誌編集委員会『上勢頭誌・中巻・通史編』(旧字上勢頭郷友会発行)1993、184 
 頁
*26 小林文人・野村千寿子「戦後沖縄における『教育隣組』運動−戦後沖縄社会教育史研 
 究(4)」、東京学芸大学紀要第1部門・教育科学・第36集、1985年」
*27 前掲・沖縄県教育委員会編『沖縄の戦後教育史』1977、682頁。会長・北栄三のち高嶺 
 明達、副会長・吉田嗣延
*28 前掲『波平の歩み』70〜72頁
*29 前掲『残波の里』80〜126頁
*30 前掲『字楚辺誌・民俗編』1999、135頁
*31 前掲『惣慶誌』87〜154頁
*32 前掲・美里自治会『美里誌』1993、396〜7頁
*33 名護市嘉瀬区育英会「創立35周年記念誌・育英会の歩み」(1986)24頁、83〜86頁
*34 同・嘉瀬区育英会「創立35周年記念誌・育英会の歩み」21頁
*35 前掲・名護市城区育英会『ぐすく育英会三十五年の歩み』(記念誌)1991年、宮城盛雄 
 「城区育英会発足の経緯」40~42頁
*36 『ぐすく育英会三十五年の歩み』所収、沿革、基金の推移、会則、ぐすく育英会便り等
*37 比嘉一雄「比嘉松正氏のプロフィール」、前掲『ぐすく育英会三十五年の歩み』所収、 
 130〜131頁
*38 前出・沖縄タイムス・連載「ふるさとの顔(123)−東村慶佐次−奨学の気風培う」1965 
 年、なお記事中「比嘉昌栄」は「比嘉松栄」の誤記と思われる。
*39 沖縄県教育委員会編『沖縄の戦後教育史』1977、資料編、946〜947頁
*40 辺野古誌編纂委員会『辺野古誌』1998、456頁
*41 「大西区育英会々則」(謄写版)、1957年前後、*孝喜区資料に挿入されていた
*42 屋良誌編纂委員会『嘉手納町屋良誌』字屋良共栄会発行、1992年、412頁
*43 字誌編纂委員会『久志誌』久志区公民館発行、1998、213〜4頁
*44 宮里字誌編纂委員会『宮里の沿革』名護市宮里公民館、2004、175〜181頁
*45 金武町役場『金武町誌』1983、305〜306頁、「屋嘉区育英会定款」2001年
*46 安富祖一博『村の記録(伊芸)』伊芸区発行、1983、217〜225頁
*47 沖縄タイムス「ふるさとの顔(6)−喜瀬−団結力で生活合理化」1965年
*48 前掲・名護市嘉瀬区育英会「創立35周年記念誌・育英会の歩み」及び2004年度資料
*49 字誌編纂委員会『平敷屋字誌』平敷屋区自治会発行、1998年、94〜95頁、162〜167 
 頁など、他に聞き取りによる資料
*50 伊芸区育英会「平成16年度総会」資料、2004年5月31日(於体育館)
*51 宜野座区「一般会計予算書」(平成12年度)、「育英会特別会計」(平成16年)、「育英会 
 会則」などの区資料
*52 平安座自治会発行『自治会館新築記念・故きを温ねて』1985、決算にみる自治会財 
 政、年表等、平成15年度平安座育英会決算書
*53 上地誌編集委員会『上地誌』上地郷友会発行、2000年、115〜117頁 

付記(1):資料収集にあたってご助力を賜った東武(勝連町)、中村誠司(名桜大学)、比嘉ひとみ(名護市史編纂室)、山城千秋(熊本大学)の皆様、集落調査にあたって快くご協力頂いた関係各位、収蔵資料を活用させて頂いた名護市立中央図書館に深く感謝したい。

付記(2):本稿所収の東村慶佐次区の育英会活動について、名護市・宮城満氏(元名護市立中央図書館)より、最近、次のような沖縄タイムス記事と同・育英会創立記念碑の写真を送っていただいた(2005年6月)。同氏のご厚意に感謝し、以下に記録として掲げておく。
 A,沖縄タイムス記事(2005年6月4日)
 「児童・生徒・学生に奨励金−慶佐次で育英会総会
 東慶佐次区(古堅盛和区長)は五月二十八日、公民館で育英会総会と学事奨励会を開いた。区民や郷友会員のほか、神山勝有銘小中学校校長らが出席し、児童・生徒を激励した。(写真・略)
 区育英会(新里健会長)は、区出身の小学校低学年生に千円、高学年に千五百円、中学生に二千五百円の図書券、高校生に一万円、大学・短大・専門学校生に一万五千円の奨励金をそれぞれ贈った。
 区では「村づくり人づくりから」として、1921年に育英会を設立。一ヶ月の生活費が五円でまかなえた1933年には、基金が二万円に増加。旧制中学生に月額十円、大学生に月額三十円を支給していた。
 戦争で一時中断したが、1967年に千ドルの基金で復活。毎年基金を積み立て、高校生や大学生に支給している。育英資金を得た区出身者は、教育界や経済界などで活躍している。区には現在、小学生五人、中学生十三人、高校生十五人、大学生二十三人がいる。」

 B,写真:大正十年三月三十一日創立 慶佐次育英会 創立記念碑
            (昭和四十九年三月三十一日設立)  
   *横は石倉裕志氏(20060317)


付記(3):本稿は、日本学術振興会科学研究費補助金(平成16年度、基盤研究B-1、研究代表者・松田武雄)報告書『沖縄の字(集落)公民館研究』第3集、2005、に収録された同タイトル・論文に、上掲「東村慶佐次区育英会」の記事・写真など若干の修正・加筆を加えたものである。
【出典】TOAFAEC発行『東アジア社会教育研究』第10号(2005年)所収







4,与那国調査報告(2002)→■


5,竹富島の集落自治と字公民館(2008)→■




 2024・年報29号所収
6,沖縄名護・若者たちの太鼓、東アジアに響く
―名護の集落(字)公民館の歩み、期待と課題―


     小林文人(東京学芸大学名誉教授・TOAFAEC顧問)



はじめに ―“ぶりでい”で、地域を元気に!

 2023年11月、東アジア生涯学習研究フオーラム(第6回)が沖縄・名護で開催された。 名護市の代表的な字(集落)公民館や新築成った名護博物館を会場とし、第2日目夜の交流会では、市中心部(城区)青年会による芸能「エイサー」(室内)が演じられ、三線の音がにぎやかに響き、フオーラム参加者ともに輪になって踊った。最終日エクスカーションは名護から中頭へ移動し、宜野湾市・佐喜真美術館(丸木位里・俊夫妻・共同制作)「沖縄戦の図」と出会い、その展示の部屋で、海勢頭豊(歌手)が沖縄戦後史の名曲を歌いあげた。想い出に残る感動あふれる集会のしめくくり。
 名護市の中央公民館や中央図書館、また50を越える字公民館の多くに出会う機会はなかったが、限られた時間の中で、沖縄の社会教育と文化に出会い、特に名護独自の地域文化と字公民館を通して、その現代的な役割を考える生涯学習研究フォーラムであったと言えよう。
 名護市では、同市史編さん室(名護市教育委員会)を事務局として、内容豊かな名護市史シリーズが刊行されてきた。本編1「わがまち・わがむら」に始まるシリーズのなかでも、社会教育・生涯学習の観点からは、特に『社会と文化』(市史本編7、2002年)や『芸能』編(同8、2012年)の重量感あふれる数冊が貴重である。目次をひろえば、市全域にわたる人々の生活の諸相、市民組織の拡がり、文化活動と地域づくり、時代変遷と外との交流、そして各集落が積み重ねてきた祭りと芸能、その詳細な諸記録が「社会教育」「生涯学習」の歴史・現代に重なりあっている。人々は地域に生き、暮らしを営むなかで、相互に学び伝えあい、稽古や指導の組織をつくり、地域文化を創造しそれぞれの芸能を継承してきたのである。その歩みの中で、自治体行政・施策が、見え隠れしながら、貴重な役割を果たしてきた。あるいは果たし得なかった経過もあったのであろう。
 今回の東アジアフォーラム開催準備のなかで、島袋正敏(名護博物館長、同中央図書館長、教育次長等を歴任)は、名護社会教育が取り組んできたテーマとして「群手(ぶりでい)で地域を元気に!」というフレーズを繰り返し語った。私たち研究会(TOAFAEC)との「やんばる対談」(合本記録、2018年)のなかでも、傾聴すべきテーマであった。沖縄方言「ぶりでい」とは「群れ」「多数」の市民の意であろうが、社会教育・博物館そして図書館等の取り組みのなかでも、積極的に多用していく過程を通して、住民多数による“主体的参加”の意味、その方向性が拡充し確認されてきたと思われる。名護博物館では『ぶりでい』(定期刊行物)が年報として発行され、あるいは「ぶりでい子ども博物館」などの事業が注目をあつめてきた。これまでの名護社会教育の歩みのキーワードとなってきた感がある。
 このフレーズが、これからの東アジア生涯学習の拡がりに、どのよな意味をもつことになるか。たとえばいま注目される中国「社区教育」実践の展開に、あるいは韓国の「マウル教育共同体」運動に、どのような意味・関連をもつことになるか、注目していきたいところである。沖縄・名護において、「ぶりでい」「地域を元気に」という場合、沖縄の歴史と風土のなかで創り出されてきた、いわゆる「シマ社会」における「ムラ」「集落」が基点にあり、具体的な活動の基盤となってきていること、その現代的な実像に注目していく必要があろう。それも近現代化過程において、つねに変転してきていることにも留意しておく必要がある。


沖縄の地域史・公民館史のひろがり

 厳しい沖縄戦の悲劇と戦後の「地域おこし」(復興)の取り組みの中から、沖縄の戦後の社会教育史は動き始める。具体的にはシマ・集落独自の公民館活動の多様かつ個性的な取り組みとして展開されてきた。ところで沖縄にとって「公民館」とは何か。用語はそれほど古いものではない。戦後直後にはまだ公民館は導入されていなかった。沖縄各地には古くから、いわゆる「シマ」社会としての集落の祭祀・相扶・共同そして文化・芸能等が地域的に蓄積され展開されてきたが、「公民館」用語はシマ・集落の歴史から自生してきた言葉ではない。別の系譜から沖縄戦後史のなかに導入されてきた。この機会に沖縄「公民館」用語について、簡潔に記しておこう。
 戦後直後、日本教育改革の動きは沖縄側にはあまり定かではなかったが、社会教育改革の中核的施設として「公民館」制度(文部次官通牒、1946年)の登場があり、次第に全国的な拡がりを見せるようになる。当時、日本から切り離されていた沖縄側には、社会教育制度改革の中核としての公民館制度の動きはまだなく、用語としても未発の状態であった。1950年頃には情報としては伝わっていたが、正式の導入は琉球政府下、1953年のことであった。当時の経過を調べてみると、アメリカ占領下・琉球政府「中央教育委員会」として「公民館設置奨励」(1953年)を議決している。これを契機として「公民館」用語が沖縄各地に普及していく。しかし社会教育法制が期待した市町村立・公立公民館の設置は未発の状況が続き、実態としてはシマ・集落における「字公民館」が名称として普及していくというのが実態であった。米占領施策としての高等弁務官資金も集落への援助であった。琉球政府「教育要覧」によれば、集落の「公民館」普及率は、1955年―22%、60年―59%、65年―73%、70年―78%(概数)というような動きであった1。
 名護・社会教育史としては、米占領下初期からの「琉米文化会館」が設置された経過がある。設置当初の名称は「情報会館」(1947年〜)、1951年には他の主要都市(6館)と同じく「琉米文化会館」と称した。専門職を含む12人の職員配置、いわゆる都市型成人教育施設・近代的図書館サービスを通して、当時「アメリカ民主主義のショーウインドウ」を誇った施設であった。沖縄ではそれまでにない大型施設、都市型文化諸企画、近代図書館サービスが登場したことになるが、その評価は複雑であって、占領政策による住民宣撫工作的機能を併せ持つ側面があり、復帰(占領終結)を前にして閉館(1972年)した2。この大型施設「ショーウインドウ」は四半世紀の歩みをたどったことになるが、名護社会教育史にはほとんど定着するところはなかったと思われる。


名護・自治体構想における「字公民館」

 本土復帰(1972年)とほぼ同時期に、名護市は大型(五町村)合併により新しく誕生した(1970年)。本号別稿(稲嶺進)にあるように、画期的なスタートであった。合併後3年、新市としての「総合計画・基本構想」がまとめられている。名護市の公的な計画構想であるが、大竹康市など建築家集団(象グループ)も参加して作成された。この「名護市総合計画基本構想」は、本土政府の「沖縄振興開発計画」に抗して、いわゆる「逆格差」論を提起し注目を集めた。新名護市「基本構想」として掲げた四つの柱は、「1,美しい自然を守る(自然保護)、2,生活・生産基盤の確立(基盤確立)、3,市の将来を市民の手で握ること(住民自治)、4,計画とは―現実のあらゆる差別、格差に対する未来への理性的、人間的な闘いである」、と宣言している。
 名護市「基本構想」は「自立建設」「社会計画」の新しいイメージを強調し、「公民館活動と村づくり」の重要性を掲げている。この場合の公民館は、現実の地域(「シマ」社会)で機能している集落(字)公民館であることは言うまでもない。一面でその「閉鎖性」等を指摘しつつ、集落公民館の住民自治や公開原則等を唱道し、地域の自力建設への展望を掲げている。
 この時代、本土都市部の自治体でも、公民館についての積極的な計画構想が取り組まれていた。たとえば東京三多摩において、「四つの役割・七つの原則」等を提起した公民館「三多摩テーゼ」が注目を集めていた(筆者も計画作成に参加した)。奇しくも名護・逆格差論・自治体構想と東京の公民館三多摩テーゼは、まったく同年(1973年)の構想であった。名護・公民館論は集落(字)公民館への注目であり、三多摩テーゼは「公立公民館」計画の拡充であった。しかし公立公民館と地域組織との関連は弱く、あるいは集落・自治公民館との関連等について全く触れるところはない。大都市・東京にはその地域実態がないからである。大都市「地域」との関連は、防災論ともからんで、都市「小地域」計画論の構築として、こんご都市型計画と社会教育の大きな課題となっていくと考えられる。
 当時、日本社会教育学会や社会教育推進全国協議会等では、公立公民館の研究充実が主要課題であって、部落・自治公民館、集落公民館についての研究評価は低い。また法的位置づけも公民館「類似施設」(社会教育法42条)にとどまっていた。その実態も、住民自治論から遠く、行政従属的な状況が多く、公立公民館の体制拡充・普及にマイナス効果があって、研究的にも軽視されてきた経過であった。その後、信州の公民館―たとえば「分館」(飯田市)、「町内公民館」(松本市)等―への注目があり、九州等の自治公民館への評価とも並び、沖縄「字公民館」史“発見”が重要な契機となって、この時期、集落公民館への研究に注目が拡がるようになる。たしかな研究の流れとなるのは、今世紀に入って、日本公民館学会による研究論議の拡がり3があったと言えよう。


沖縄本島、離島調査、「やんばる」対談など

 私たちの沖縄研究は1976年に始まる。本土復帰からまだ4年、名護市の誕生からも10年を経過していない頃だ。沖縄研究の第一段階は、那覇を中心とする戦後アメリカ占領下の琉米資料調査が中心であったが、そのまとめ作業4をステップに、沖縄中南部(具志頭村、読谷村など)へのフイールドワークが始まる。象グループと名護「やんばる」との出会いから、いわゆる「やんばる型土地利用」イメージに魅せられ、象グループ・大竹康市が♪網走番外地♪をBMにのせて「象グループ語録」を論じる楽しい想い出も忘れられない。「やんばる型村落」概念図5と、今帰仁村基本構想の「集落公民館とまわりの計画」図は、私たちがいつまでも忘れない「字公民館のイメージ」を与えてくれた。小さな集落と字公民館の構想は、やんばる集落のなかからのみ自生しただけではなかった。
 2002年夏、名護で社会教育研究全国集会(第42回、現地実行委員会・社会教育推進全国協議会共催)が開催されることになり、大会資料集ともいうべき『おきなわの社会教育―自治・文化・地域おこし』6を編纂・出版した。編集作業は名護市(主として中央公民館工作室)で開いてきたので、北部「やんばる」からの執筆が多くなったが、最西端の国境の島「与那国」から子ども文庫の報告を加えるなど、沖縄初めての、全県規模・社会教育実践資料満載の貴重本となった。今は高額の古書扱い、新しい出版を企画する必要があろう。
 今世紀に入って、戦後沖縄史とともに沖縄独自の地域運動・文化芸能活動、そして社会教育実践の資料収集・編集に奔走した数年が懐かしい。まさに沖縄の心に抱かれつつ格闘してきた思いでもある。この間に調査収集した記録・資料・写真類は、離島(与那国島、竹富島)記録を含めて、そのほとんどをTOAFAEC(東京・沖縄・東アジア社会教育研究会)ホームページ・沖縄の項に収録している。また可能の範囲で、TOAFAEC年報(1996〜2024)に諸記録を掲載してきた7。
 名護報告としては、前掲『おきなわの社会教育』のほか、さらに名護市長・稲嶺進氏市長当選の年(2010年)から、応援の意味で私たちと島袋正敏氏を中心とする名護関係者との間で「やんばる対談」が重ねられてきた(2024年・第14回=本年報に収録。この間、コロナ蔓延で中断もある)。
 ホームページ収録中の沖縄諸資料は、論文・記録、対談ほかエッセイ等も含まれ、雑多にすぎるが、相互の関連や注釈などを加えて、理論的かつ時代的に整理すれば、一定の資料価値が発生し、それなりの証言・資料的な役割を果たしてくれるように思われる。約半世紀にわたる諸資料のうち、中間報告的な位置にあるレポート一点を資料例示的に紹介しておこう。
 あの年は本土復帰から20年の年であった。当時は年に平均5回ほど訪沖していたが、ある日「正敏さん、名護市社会教育の基本資料をいただきたい」と資料提供を求めたことがあった。彼(当時、教育次長か)は一笑いしながら「これです」と1枚の表を渡してくれた。「これがいま名護社会教育行政にとって一番大事な資料ですよ」と言う。名護市各集落の村踊り・豊年祭、諸行事の開催一覧表だ。
 この年の夏、当方(1992年当時、社全協委員長、大学図書館長)の日程を調整して、訪沖し、名護市東江区の豊年祭に出かけた。小林「沖縄の社会教育が問いかけるもの ―復帰20年に考える」論文8は、この東江区の場面から始まる。論文の小見出しは次の通り。「祭りのひろばへ、集落の自治と共同、沖縄との出会い15年余、占領は何をもたらしたか、沖縄型の公民館、文化門と経済門の2本柱、地域(字)誌づくりの潮流、復帰20年沖縄の社会教育、いくつかの課題提起」。
 本論文もホームページに入力済み、ご覧いただければ幸いである。寺中作雄さんにもお話しし、ご一緒に訪沖のお願いもした。しかし実現しなかった。


沖縄の社会教育、集落公民館が示唆するもの

 日本復帰(1972年)後、沖縄の社会教育・公民館も、日本社会教育法の規定にそって、各自治体に公立・中央公民館が設置されるようになった。比較的に大型の都市型施設が多い。しかし住民が一般に「公民館」と意識しているのは、言うまでもなく「わったぁ生まりじま」(我が生まれ故郷)の集落「字公民館」をさす。いま各自治体で、公立公民館と集落・字公民館は、相互に調和のとれた関係を創り出してきていると言えよう。独自の沖縄型公民館体制の時代が到来していると思われる。名護市も例外ではない。
 本論を締めくくるにあたって、あらためて沖縄型の字公民館がたどってきた道と、その内在的な価値、日本の公立公民館へ強く示唆するもの、に注目しておきたい。それは東アジアの生涯学習のあり方にも関わりをもってくるのではないか。

1,集落の共同組織と地域文化
 字公民館がたどってきた歴史や現在おかれている状況は、実にさまざまに異なり、多様な実態にあることを前提として考えていく必要がある。ただ沖縄・集落の場合、共通して沖縄戦との格闘の歴史があり、戦後「地域おこし」に奮闘したかけがえのない取り組みもみられた。そこには古い慣習と揶揄される場合もあるだろうが、伝統的な相互扶助・ゆいまーる、地域・集落の共同組織・共同作業、古い伝承による神行事・祈り・祭り行事、そして集落古来の芸能文化が集積されてきた。字公民館の組織と活動は、その集落の共同と文化を担い維持してきた歴史が貴重である。

2,住民自治の基礎単位
 集落はほんらい共同して自ら防衛する機能を期待され、そして集落の自治、住民自治の単位として機能していく。今も沖縄集落に組織されている例が見られる「教育隣組」は、もともとアメリカ占領下の子ども達の安全をまもる近隣組織として結成された。字公民館の組織論として集落内の法規が創られてきたが、委員会の規約、その選出規定、さらに集落財政のルール、それらが累積して、集落が意思をもって自治的に動いていく、いわゆる住民自治の地域基礎単位の役割を果たしていく。前述した「名護市総合計画・基本構想」(1973年)にいう、地域・自治体を「自分の手で握る」住民自治は、このような集落自治が大事な前提となるのではないか。

3,集落の年序組織・年齢集団の協同
 地域の生活は、古来から、子ども、若者、成人、年長者等の年齢集団から構成され、地域集落内のそれぞれの役割を分担し協力し、相応の役割分担を果たし、集落生活を維持してきた。大都市状況下では、そのような地域的な年序組織は崩壊している。若者たちの活動が見られても、地域・集落を超えて、年序の関わり合いをもたない場合が多い。本号別稿・名護市城区の場合は、この年序組織は、子ども育成会、青年会、女性部、養老会等があげられている。他の集落事例では、青年会の年長集団として、向上会あるいは戸主会などが動いている。おそらく年序組織あるいは地域年齢集団の経験をもたない世代が多数派である大都市部においても、多様な年序組織、あるいは個別の年齢集団(たとえば青年サークル)の事例がみられる。分析的・発見的にみていけば、現代的に機能的な年序の、新しいかたちを発見できるのではないか。職域集団も年序を否定するものではないだろう。

4,集落の地域課題
 地域課題は集落に限定されない状況がむしろ多数であろうが、他方、集落の活動によって地域の諸課題が動いている側面がある。名護市の場合、集落共通の地域課題として集落史いわゆる「字誌づくり」運動が挙げられる。名護市55集落のうち、ほぼ6割の集落がすでに字誌を完成し、または進行中という報告に驚かされる。それも本格的な出版として実現している(本号別稿「やんばる対談」参照)。住民がみずから集落史を書き綴る作業は、まさにユネスコ「学習権」宣言(1985年)につながるものであろう。また名護市では、源河区が「リュウキュウアユを呼び戻す」取り組みを重ねてきたが、同区字誌『源河誌』(2022年)に詳しい経過が記録されている。各地の字誌運動の拡がりは、同時に地域・集落の地域課題を記録する媒体となっているという関連にも感動させられる。

5,自治体・公的機関の援助
 戦後史は社会教育行政あるいは福祉行政など関連行政との整備の道程でもあったことは確かであろう。集落の文化あるいは祭りなど年中行事の充実に、社会教育行政がすぐれた援助を重ねてきたことは名護市の例として前述したが、1980年以降の名護博物館、1990年以降の中央図書館は、集落の字誌づくり運動や地域の子ども文庫活動などに大きな励ましとなってきた。教育委員会に置かれた市史編さん室もまた、集落の字誌づくり活動に大きな役割を果たしてきた。字公民館の活発化のために、社会教育行政・博物館・図書館等の専門機関の積極的援助が大きな意味をもっていることを強調しておきたい。
 名護市の場合、五町村合併のあと、旧町村(支所)に各1名の社会教育主事が配置されてきた。若い主事集団の意欲はなみなみならぬものがあり、それが字公民館の援助にもつながってきたが、市役所人事体制の関連か、現在、直接的には五人の配置が中断されている状況にある。体制復旧・拡充の人事施策が待たれる。


            *城区エイサー(城区k公民館、20231120)ー右下に太鼓
おわりに

 再び冒頭「東アジア・フオーラムin名護」の話題に戻ろう。プログラム第2日(2023年11月20日)夜は、名護市中心部の城区公民館・青年会メンバーによる歓迎「エイサー」公演が企画されていた。東アジア各地からの参加メンバーは、ビールを楽しみ、親しい再会に酔い始めていた。そこに太鼓一番!「ド〜ン」と響いて、エイサー演舞が始まった。
 エイサーは、もともと旧盆供養の芸能と聞いている。地域の青年会メンバーが町内の路地を練り歩く。城区の場合は、太鼓のエイサーではなく「手踊り」エイサー、やさしい演舞だ。しかし、幕開けに打たれる太鼓は、さすがに城区のエイサー。力づよく、東アジアからの参加者の心を揺さぶった。東アジアに響いた城区青年会エイサー、演舞の青年会の皆さん、有り難う!

【注記】
1 末本誠「琉球政府下・公民館の定着過程」小林文人・平良研一編『民衆と社会教育』(1988年、エイデル研究所)p.208
2 前掲『民衆と社会教育』第5章。
3 たとえば、日本公民館学会編『公民館・コミュニテイ施設ハンドブック』2002年
4 前掲『民衆と社会教育』に集約。
5 名護市史編さん室編 名護市史本編7『社会と文化』2002年、名護市、p.43
6 小林文人・島袋正敏編『おきなわの社会教育―自治・文化・地域おこし』2002年、エイデル研究所
7 http://www.bunjin-k.net/06okinawa.htm(沖縄フイールドワーク諸記録) 
8 小林文人「沖縄の社会教育が問いかけるものー復帰20年に考える」『月刊社会教育』37巻1号(通号441号)1993年1月 http://www.bunjin-k.net/okinawa93toikake.htm





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