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<目次U>
1,稲嶺進さん、名護市長に当選! 社会教育推進全国協議会通信 (2010年1月)
2,「長門の社会教育私史」に寄せて−ひとすじの道に学ぶ−

                        中原吉郎著
『そよ風−長門の社会教育私史(2010年4月)
3,茅ヶ崎「息吹き」300号を祝う 茅ヶ崎市社会教育を考える会「息吹き」300号 (2010年5月)
   *参考−「息吹き」20年(1997年)
4,人権の視点から識字実践を  東京都夜間中学校研究会50年誌(2011年2月)  
5,東日本大震災をめぐる社会教育からの緊急報告 東アジア社会教育研究交流委員会
(共同執筆)
  
はじめに、1,未曾有の大震災が社会教委教育に問いかけるもの(小林)  
      福建省「終身教育」2011年(第9巻)2号  
東アジア社会教育研究・第16号(2011年)
6,社会教育フロンティアC横山宏−独自の水路を拓く 月刊社会教育・2011年7月号→■
7,自著を語る『日本の社会教育・生涯学習〜草の根の住民自治と文化創造に向けて〜』
    
学志社、2011年 →■・ 社会教育推進全国協議会通信・第233号(2011年3月)
8,三多摩の公民館の歩みと活動−1960〜1970年代を中心に →■・
                     たましん地域文化財団『多摩の歩み』144号(2011)
9,徳永功さんの仕事 
徳永著『個の自立と地域の民主主義をめざして』エイデル研究所(2011) →■・
10,『社会教育・生涯学習辞典づくり10年・回想(南の風1〜5)→■・
11,市民自らが歴史を創ってきた「挌闘の10年」と「ひろば」→■・
       発行委員会(アンティ多摩「市民活動のひろば」2012年5月号 100

12, 施設を創造する視点 (月刊社会教育・かがり火) 2014年9月
13,
農中茂徳『三池炭鉱 宮原社宅の少年』(石風社、2016年)に寄せて
14、東京社会教育史編集委員会[編] 大都市・東京の社会教育エイデル 2016年9月)
目次等
15、評:上原直人『近代日本公民教育思想と社会教育―戦後公民館構想の思想構造』
    (大学教育出版社、2017年)、日本社会教育学会紀要・第54号(2018年)所収




1,稲嶺進さん、名護市長に当選!   
*社会教育推進全国協議会通信(1月) 

 2010年1月24日夜、名護市長選に立候補していた稲嶺進さん(社全協会員)"当確"のニュースを受けて、選対事務所前の仮設テントは歓喜の渦に包まれました。ぞくぞく集まってくる市民、拍手と歓声、指笛や太鼓が鳴り響き、歴史的瞬間に立ちあっている実感。これまでの苦悩・決断・奮闘の経過を知るものとして、胸にこみあげるものがありました。
 米軍普天間基地(宜野湾市)の移設先として辺野古(名護市)案が出され、市民投票は基地反対多数にもかかわらず、当時の市長が基地受け入れを表明して辞職(1997年)。それから13年の歳月。市民は分断され、アメとムチの政策に翻弄され、日米軍事同盟(安保条約)の最前線におかれてきた名護市。そこに改めて民意が明確に示されたことになります。
 稲嶺ススムの選挙公約は、なによりも「辺野古の海に新しい基地は造らせない」、そして
「市政刷新」「地域経済活性化・雇用創出」など。「基地ノー!」の市民意志を一本化し、一部保守層も巻き込んで、保革の枠をこえた市民党の立場からの出馬でした。誠実な人柄は多くの人が知るところ。「ススム!ススム!ススム!」の大合唱が耳に残っています。
 稲嶺進さんは名護市三原の生まれ。琉球大学卒。名護市に入職し社会福祉の仕事を経て、社会教育主事10年。その後、名護市総務部長、収入役、教育長など歴任。現在64歳。
 初めて社会教育研究全国集会に参加したのは、1982年の富士見集会。このときの熱い思い出はいつまでも消えることがなく、社全協へ参加。私たちの「沖縄社会教育研究会」との交流も30年近く続いてきました。東京学芸大学・和光大学の社会教育ゼミは沖縄研究をテーマに掲げ、毎年の名護訪問で市内のいちばん安い宿を探してくれるのは「ススムさん」でした。2002年の全国集会・名護集会では、台風直撃の日程変更に対応して、ススム・ブンジン主催「ヒージャー会」(山羊を食べる会)を開いたことなど、懐かしい思い出。島袋正敏さん(義兄)と『おきなわの社会教育』(エイデル研究所)の本づくりも実現しました。
 名護市は、これから新しい道を歩むことになります。基地反対と同時に、住民本位で平和な地域づくり、持続的な地域経済発展の施策が求められます。若き日の社会教育実践を活かした意欲的な政策形成・自治体運営を期待したいもの。ススムさん、頑張れ!
 名護では翌日もお祝いの乾杯が続いています。この機会に、稲嶺ススム支援カンパを寄せて下さった皆様、「応援する会」代表として、厚く御礼申しあげます。(1月25日記)
名護市長選・稲嶺進氏の当選の弁(名護・選対仮設テント、100124)




2,『長門の社会教育私史』刊行に寄せて−ひとすじの道に学ぶ− 
                           *中原吉郎著『長門の社会教育私史』(2010年4月)

 中原吉郎氏との出会いは一九六五年。社会教育を通して、半世紀にわたるお付き合いが続いてきたことになる。私は「中原さん」(といつも呼ばせて頂いた)のお誘いで、長門市だけでなく、宇部、山口、周東、小郡、豊浦など山口県各地の社会教育関係者や地域活動家の皆さんと貴重な交友を重ねることが出来た。私にとっても長門そして山口県との関わりは稀有の社会教育「私史」である。まず心からの感謝を申しあげたい。
 かねがね私は、中原吉郎さんが歩いてこられた人生、これまでの道程に畏敬の念を抱いてきた。戦争体験をもち、戦後初期の学生運動と関わり、郷土の社会教育行政を担当し、自ら地域活動の実践家であり、さらに退職後は市会議員として活躍され、地域新聞社を創設し、俳人であり、地域文化の再発見に尽力されてきた。その多彩な生き方に驚かされる。
 同時に、その生き様を貫く"ひとすじの道"のようなものに打たれてきたところがある。私が知る中原さんの実像は、多彩というよりむしろ地味であり、自らの信念を大事にしてときに頑固であり、内面的に深く静かな批判精神を秘めてきた人であった。複雑な地域のなかで柔軟でありながらキラリと光る正義感、そして郷土と文化を再生しようとする強い意志と情熱、を実感させていただくことが少なくなかった。
 社会教育研究の立場からいえば、戦後社会教育の創設を担ってきた第一世代あるいは第二世代へ展開する時代の実践家、文字通りの先達である。長門市は中原さんという人を得て、自治体としての社会教育の独自の歴史を創り出してきた。中原さんの仕事ぶりは、地域に根ざしながら、地域を超えて時代の動きと結ぶ努力をしてこられたところに特長がある。それが新生活運動や社会同和教育運動へのアクセスであり、社会教育推進全国協議会への参加や『月刊社会教育』(国土社)との関わりであった。本書の刊行も『月刊社会教育』に連載された中原さんの「社会教育私史」三論文(一九八三年)が契機となっている。
 本書にほとんど記録されていない重要な足跡として「山口県社会教育研究会」の歳月が忘れられない。一九六七年から一九九七年前後まで、山口県下の主要な社会教育・農業普及関係者(会員五十余名)による合宿研究会が年に数回開催され、三十年にわたり内容の濃い論議が持続されてきた。官製ではない「民主的な社会教育」をめざす自主的な研究集団として注目を集めたが、中原さんが提唱し、広い視野からのリーダーシップが会を支えてきた。東京から何度となく合宿研究会に参加した思い出は、今なお鮮烈に脳裏に残っている。本書に盛り込めなかった他の「私史」も少なくないはずである。
 社会教育「私史」は、自分史でありながら地域史そのものであり、同時に全国的な社会教育史の貴重な断面でもある。本書が多くの人に読まれ、いつまでも光彩を放ち続けることを期待したい。      
1987年11月、山口県社会教育研究会(前列・右2人目に中原吉郎さん、3人目に山本哲生さん、左端に小林、
 後列左2人目に田中辰彦さんほか。@山口県周東町図書館前、198911月29日





3,茅ヶ崎「息吹き」300号を祝う    *茅ヶ崎市社会教育を考える会「息吹き」300号(2010年5月)
       
*「息吹き」まとめ誌編集委員会編 『息吹き−公民館づくり書き続けて300号』(揺籃社、2012年)再録

 私の社会教育資料室(ぶんじん文庫−福岡・東京)には、1970年代後半からの茅ヶ崎「公民館をつくる会」(当時)資料や、第一号の公民館・小和田公民館の活動記録が大事に保存されています。その中心に光彩を放っているのが「息吹き」。最初は皆さんとお会いした折々に頂いたもの、その後に定期的に送っていただくようになりました。恐縮しつつ拝受してきた三十年余。一部に欠号もあったのですが、百号刊行の際には、バックナンバーの一揃いを「研究室に…」と贈呈いただき、あの感激はいつまでも忘れません。
 茅ヶ崎の皆さんとの交流が始まるのは、鈴木敏治さん(市教育委員会・当時)との出会いからです。たしか相模原市を会場に、社会教育推進全国協議会(社全協)調査研究部の例会が開かれたとき、馳せ参じた鈴木敏治さんの意欲を知りました。ちょうど茅ヶ崎で「公民館をつくる会」が発足する頃。この会で、相模原の安立武晴、小林良司、藤沢の故諸節トミエ、川崎の伊藤長和などの皆さんとの交流も始まりました。
 1970年代は、社会教育の充実を求める市民運動が各地で躍動する時代です。三多摩の各自治体でも公民館や図書館をつくる運動が大きな拡がりをみせます。当時、市民の公民館運動のテキストとなった東京都「新しい公民館像をめざして」(1973年)を持参して、茅ヶ崎市に参上した日のことなどを思い出しています。
 茅ヶ崎の社会教育に関わる市民運動は、むしろ遅れたスタートだったと思います。しかしその後、この三十年余りの「息吹き」発行に象徴される持続的な取り組み。本格的な公民館もなかった茅ヶ崎に、いま市内全域にわたる公民館体制、そして図書館を設置し、博物館(構想)をつくってきた地域史は、いつまでも記憶されるべき歳月でしょう。「息吹き」に結集されてきた市民の皆様の、いつまでも変わらぬ心意気、そのエネルギーに拍手!拍手! そして、これから「息吹き」の思想は、どのように継承されていくのでしょうか。

 
<参考−「息吹き」20年に寄せて (1997年)>
  「息吹き」創刊(1977年)から20年とのこと、いくつかのことを想いだします。その頃、私はよく茅ヶ崎に通いました。社全協の調査研究部が神奈川を母胎に活動していましたが、その中で出会った鈴木敏治さんやその上司だった故金子忠志さんの熱情が私を茅ヶ崎に惹きつけたのです。因みに金子さんは1978年の1年間、月刊社会教育の「口絵」を担当、まだ小和田公民館が出来る前の、ういういしい社会教育活動記録がなつかしい。
 忘れがたいのは、丁度同じ頃、私は沖縄研究を始めていました(1976年秋)。昨年は那覇で20周年の集いが開かれました。それからまた同じ頃、大都市社会教育研究「集い」を伊藤長和さん(川崎市)等とスタートさせました。1978年のことですから、来年で20年になるわけです。
 実は1980年代は私にとっての社会教育「空白」期。大学内の仕事に拘束されて、たとえば茅ヶ崎に参上する機会も少なくなりました。それでも意地になって沖縄研究と大都市研究だけは続けてきたのです。
 「息吹き」20年は私の自分史を照らしだす鏡のようです。「息吹き」を読みながら、あらためてこの20年とは何であったのか、と考えています。私は一体何が出来たのだろう、と自問しつつ、しかし「息吹き」20年が私たちを励ましてくれます。一つは、継続してきたエネルギー、二つは、貴重な歴史の証言、そして三つには、そこに集う人々のネットワーク。やはりかけがえのない地域史の創造です。また次の一歩をきざみましょう。歴史は新しい歩みを求めているのです。  (和光大学・小林ぶんじん)



人権の視点から識字実践を
      
       東京都夜間中学校研究会50年誌(2010年)   小林 文人

 東京都夜間中学校研究会の半世紀にわたる歳月、この間の「すべての人に義務教育を!」運動の取り組みと発展、丹念な記録を開くたびに強い刺激と深い感動をうけてきました。
 私の夜間中学「運動」との出会いは、1970年の全国夜間中学校研究会(第17回、会場・荒川九中)でした。生徒たちが発言したあの会場をいつまでも忘れません。40年も前のこと。その後、見城慶和先生との出会いがあり、東京学芸大学「社会教育論」の特別講師として夜間中学・現場からの講義をしていただくようになりました。熱のこもったお話に影響を受けた学生も少なくありません。関本保孝先生に来ていただいた年もありました。
 識字教育や基礎教育の問題に研究関心をもつようになるのは、夜間中学の実践・運動に学ぶとともに、あと一つは韓国の「文解教育」研究との出会いがあったからです。畏友・故黄宗建先生(韓国文解教育協会・初代会長)を通して、韓国の主要な教育学者たちが識字問題の実態調査や文解(literacy)理論研究を重ねていることを知りました。日本の教育関連学会にこの領域での研究蓄積に見るべきものがないのと対照的。1990年・国際識字年を契機として日本社会教育学会が研究年報35集『国際識字10年と日本の識字問題』(1991年)をまとめましたが、おそらく学会として識字研究を本格的にとりあげた最初の1冊だと思います。編集委員会委員長として全力を傾注した1年でした。
 この研究年報「まえがき」に次の一文を書いています。「…国際識字年を発展途上国への援助キャンペーンの次元に終わらせるのでなく、日本の"内なる識字問題"を深く認識し、現代的人権の視点から日本の社会教育・生涯学習のあり方をとらえかえしてみよう」と。"学習権"と"内なる識字問題"追求の思いは今でも変わっていません。
 その後、東京学芸大学研究室で「東京の識字マップ」調査に取り組み、新しい職場となった和光大学のゼミ・テーマに識字教育を取り上げ、引き続き見城先生や故大沢敏郎氏(横浜・寿識字学校)等に来講いただくなど、次の歳月が始まりました。しかし遅々たる歩み。
 夜間中学の実践と運動が蓄積してきたもの、その理論や方法を、外国籍市民の日本語教育や地域社会教育・生涯学習の中に発展させ、人権の視点から識字実践を位置づけていく必要があります。これまでの歩みに自信を、その蓄積を再発見する目を、それを拡げていくエネルギーを、育てていきたいものです。



東日本大震災をめぐる社会教育からの緊急報告
                        
東アジア社会教育研究交流委員会(共同執筆)
 
 未曾有の大震災が社会教育に問いかけるもの(小林文人)
                               福建省「終身教育」2011年(第9巻)2号 中国語版
                              TOAFAEC 『東アジア社会教育研究』2011年(第16号) 日本語版


はじめに−本稿の経過と構成

 2011年3月11日に発生した大地震・津波・原発事故による大震災は、とくに岩手・宮城・福島の三県を中心に甚大な被害と悲劇をもたらした。同時にこのニュースは驚くべき速さで世界をかけめぐり、国際的な拡がりで見舞、追悼、激励そして救援・義捐金等が寄せられた。まず冒頭に各国・各層の関係各位に深甚の謝意と御礼を申しあげたい。
 とくに中国・福建省全民終身教育促進会からは、震災発生当日に「日本東北地方に史上最大震災が起こったニュースに驚きました。末本代表・小林顧問をはじめとする東アジア社会教育研究会の皆様は大丈夫でしょうか。福建省全民終身教育促進会では、皆様に謹んでお見舞い申し上げます。遭難者に哀悼の意を表しいたします。」との丁重な見舞いを頂戴した。あわせて福建省『終身教育』(隔月刊、同終身教育促進会発行)編集部より「東日本大震災をめぐる状況と生涯教育・社会教育の課題」についての特集企画と原稿執筆の依頼が来信した。
 当時は大震災直後、混乱の真っ只中にあり、事実把握の調査や冷静な分析など全く出来ない状況にあった。しかし未曾有の事態の中でも、社会教育に携わる立場から出来る範囲で"緊急報告"を書かずにはおれない思いもあり、日本「東アジア社会教育研究交流委員会」関係者を中心に急ぎ執筆することとなった。大震災発生からちょうど1ヶ月後の時点における状況や課題について、社会教育の視点からの七つの報告が作成された。報告のテーマ及び執筆者は次の通りであった。

一 未曾有の大震災が社会教育に問いかけるもの(小林文人・TOAHAEC)
二 被災地、仙台から(石井山竜平・東北大学)
三 震災後の復興過程における避難所としての公民館(上田幸夫・日本体育大学)
四 震災と公民館の役割−阪神大震災(1995年)の経験から(竹内正巳・西宮市)
五 災害時における市民の情報リテラシー能力を考える(岩本陽児・和光大学)
六 東日本大震災と日韓市民交流(小田切督剛・川崎市高津市民館分館)
七 震災下の在日中国人の動向と課題(黄丹青・目白大学、包聯群・東京大学)

 福建省側では日本語原稿を緊急に中国語訳し、『終身教育』2011年(第9巻)第2号及び第3号に掲載された。また中国山東省烟台・山東工商学院外国語学院に日本語教師として在籍中の伊藤長和(TOAFAEC副代表)も「中国から見た日本の大地震と社会教育」を寄稿し、同2号に掲載されている。
 本稿は以上の経緯により執筆された大震災後1ヶ月の時点における緊急報告であるが、不充分な部分を含んでいることを自覚の上、一つの記録として本号に日本語原文をそのまま収録することとした。
 その後、月日が経過するにしたがい、大地震・津波の被害もさることながら、東京電力・福島第一原発事故による「原発震災」が思いもよらぬ規模に拡がり、事故終息への対応が遅々として進まないまま、放射線飛散の影響は(福島だけでなく)広大な地域に及び、深刻な問題となってきていることは周知の通りである。
 上記の福建省報告では「原発震災」については、あまり触れることができなかったため、江頭晃子(NPOアンティ多摩)報告八「原発事故に対する市民団体の動きについて急ぎ執筆をお願いした。江頭報告は大震災から3ヶ月を経過した時点の報告であることをお断りしておきたい。(小林)

1,未曾有の大震災が社会教育に問いかけるもの(小林文人)

(1) 未曾有の大震災

 東日本を襲った今回の大地震・大津波、それに起因する原子力発電所の大事故は、歴史的に未曾有の甚大な被害をもたらした。多数の死亡者・行方不明者を出すことになった激甚の震災に対して、中国をはじめ世界各国・各層から寄せられた追悼、見舞、激励そして国際的な救援・義捐金等に、まず心からの御礼を申しあげたい。
 2011年3月11日14時46分に起きた大地震(太平洋三陸沖を震源地とするマグニチュード(M)9、.最大震度7.0、沿岸集落に10mを超える大津波襲来)は、これまでの想定を超える激烈なものであった。観測史上、最大級の大地震、ほぼ1ヶ月を経過した現在でもなお断続的に強い余震が続いている。4月7日深夜の余震は、M7.4、震度6強の規模であった。いま東日本(とくに宮城・福島・岩手各県)の太平洋岸は天変地異の様相を呈し、津波が襲来した集落はほとんど壊滅状態となっている。1ヶ月が経過してもなお詳細な被害・犠牲者の総値は確定していないが、死亡者(12,915人)・行方不明者(14,941人)合計は2万8千人近く、死者の半数以上は65歳以上の高齢者であった。住居を失った約16万4千人にのぼる人々が今なを避難所生活をおくっている(朝日新聞調べ、4月10日記事)。気も遠くなるほど多数の生命が奪われ、各地でそれを悼むむ悲しみの涙がたくさん流されている。
 加えて地震・津波の襲来により原子力発電所(福島)が大きく破損、必須の電源がすべて停止し、事故への対応に失敗して多量の放射能飛散を招くことになった。いわゆる「原発震災」の事態を引きおこしたことが今回震災の重大な特徴であろう。原子力発電所の周辺住民は長期のる立ち退きを強いられることとなった。広範囲にわたる大気・土壌の放射能汚染、海洋への汚染水投棄がもたらす影響は深刻である。農漁業への打撃、住民の健康被害・不安、厳しい環境破壊が今後どのように長期にわたって拡大していくか憂慮される。企業(東京電力)と政府当局の失態に対する批判は次第に拡がり、日本国内だけでなく、国際的非難を受ける状況となってしまった。まことに残念である。
 
(2) 防災対策の取り組み
 日本はもともと自然災害(地震、津波、火山、台風、水害等)が多い国である。それだけに民衆意識として自然への畏怖と災害対策・防災への取り組みの歴史がある。自然との調和や環境保全を大事にする生活が求められてきた。自然崇拝の思想、四季の祭祀・年中行事、防災についての伝承や地域文化などにその実像をみることができる。しかし近代化・現代化の過程で、自然や環境との調和的関係は大きく変容することになった。
 とくに地震・津波については、有史以来、大規模な災害が記録されている。それからの復興の経験も蓄えてきた。近年では全国的規模において、防災に関する訓練や啓蒙の事業が取り組まれてきている。たとえば「関東大震災」(1923年9月1日)の日を「防災の日」と定め、この日を中心に防災行事、避難訓練、意識啓発等の社会教育的事業が重ねられてきた。とくに「東海地震」を想定して「大規模地震対策特別措置法」(1978年)が制定され、さらに1995年「阪神淡路大震災」(後掲、四・竹内報告)を契機として、自治体としての「地域防災計画」や学校教育・社会教育の「防災体制基本方針」等が策定されてきている。「安心・安全」の地域づくりをめざす行政施策、ハザードマップ(防災のソフト対策)作成の試み、地域組織(消防団、町内会、自治会、子ども会、各種社会教育関係団体等)の連携づくりも活発に取り組まれてきた。
 筆者が居住している東京都杉並区の場合、区「防災体制基本方針」に基づき、学校・社会教育施設の防災マニュアルが作成されている。教育委員会の役割を含めて、1)平常時の対策、2)災害発生時の対応、3)警戒宣言に伴う対応、に分けて、児童生徒の安全確保、住民の災害救援と避難施設、教職員の対応、PTA・市民組織との連携、救護活動、二次災害防止、教育活動の回復等、の諸項目が詳細に定められている。社会教育委員会議(議長・小林)も「震災時における社会教育の在り方について」について意見具申を出したこともある(1996年)。
 全国各自治体の教育委員会・学校・社会教育施設においても、それぞれの防災関連の計画・指針・マニュアル等を策定し、訓練や意識啓発等を重ねてきたはずである。

(3) 「想定を超える」ことへの判断
 しかし今回の大地震・大津波は、これまでの「想定を超える」激甚なものであった。定められた対策・指針に従って冷静に行動し安全を確保した例はもちろん多いが、マニュアル通りには対応できなかった事態も少なくなかったであろう。なかには臨機応変の対応が時機を逸して結果的には大きな悲劇となった事例もある。石巻・大川小学校では全校児童が列を組んで退避中に大津波に巻き込まれ、児童108人の7割が、また教師11人のうち10人が、濁流に呑み込まれ姿を消したという(読売新聞、4月9日記事)。
 三陸沿岸の宮古市田老地区の防潮堤は、住居2階の屋根より高く町を二重にグルリと囲む「万里の長城」と称揚された規模で、津波から住民を守るため44年の歳月をかけて建造されたものであった。しかし今回の津波はこれをあっさりと乗り越えた。釜石市の港湾口防波堤は、2010年に「世界最大水深の防波堤」としてギネス記録に認定されたものであったが、今回大きく破断して、津波は市内を襲った。ただ市内への津波襲来を6分間遅らせる効果があったという。(読売新聞4月2日記事)
 太平洋の巨大断層(長さ500km、幅200km)が動いた大地震、「千年に一度」とも言われる大津波、この自然の魔力は人智の「想定」を超えた。我々は想定した防災対策・マニュアル等の枠組を脱して、「想定」以上の事態を判断していく力量を求められている。既成の枠組に固定されないで発展的に考えていく判断力、緊急の状況に対応する臨機応変の行動力、そのような個々の主体的な力量と、人間相互がともに共同していく関係性が必要になってくる。ハザードマップなどの「想定」を手段として(目的にしないで)活用しつつ、、「想定外に対処できる防災力を育てていく」(朝日新聞、4月10日記事)ことがいま課題として語られている。

(4) 震災時における公民館の役割
 日本の社会教育制度では、地域施設の中核として「公民館」を全国に設置してきた。義務教育の学校区と並ぶ規模において、地域の社会教育・文化活動の拠点として機能してきている。もちろん地域的格差はあるが、今回の罹災地(宮城、岩手、福島各県)はこれまで公民館が地道に日常的な実践を蓄積してきた一帯であった。
 震災発生直後から、公民館は別稿(後掲、三・上田、四・竹内の両報告)にみるように、罹災者の避難所として大きな役割を果たしてきた。学校・社会体育施設(体育館等)をはじめとする公共施設と並んで、各地の公民館(及び類似のコミュニテイ施設)のもつ独自の避難所機能が注目されている。もともと地域的に設置され、住民活動と近い距離にある上に、施設・設備的にも、集会室、団体室、和室、調理室、ロビーなど生活的空間を多様にもっている公民館が少なくない。公民館避難所では、地域住民との繋がりによって、避難民の班活組や自治組織が動き始める可能性も大きい。
 公民館が避難所として機能する場合、ハード的な施設条件にとどまらず、日常の社会教育活動を通じての団体・サークル活動、各種住民組織やボランティアとのネットワーク、住民の交流や地域づくり活動など、いわばソフト面での蓄積が震災時に有効に展開することになる。これらの動きがさらに復旧過程の公民館活動や、地域再生への運動に結びついていくことも期待される。
このようなソフト面での活動の底辺では、公民館の職員、運営組織の役員、地域リーダー、公民館ボランティア等の果たす役割が大きい。避難所としての公民館には、地域の具体的な状況の違いをこえて、施設機能と同時に、不可欠のスタッフとして人的機能の役割に注目しておく必要があろう。(後掲、四・竹内報告)

(5) 集落自治による住民の取り組み
 自治体条例により設置されている公立公民館とともに、集落自治による「自治公民館」
の取り組みも、今回の大震災のなかで注目された動きであった。復興・再建の主体として住民が位置づくこと、その集落自治的な活動が人々を元気づけること、その具体的な実像を一つの自治公民館の事例からみておきたい。社会教育関係者によって「集落公民館の底力」として注目された被災地の事例、「河北新報」記事である。
 「3.11大震災・集落の約80人が大家族のように暮らす小石浜公民館。
 避難所の公民館に、お母さんたちの元気な声が響く。震災発生以来、総勢約80人の共同生活を切り盛りしている。まるで大家族のようだ。…(略)…
 大船渡市三陸町綾里の小石浜地区。小さな湾で大半がホタテ養殖を営む30世帯が、地震とともに公民館に集まった。津波で8軒被災したが、全員が無事。大勢が死んだ明治の大津波の教訓で、すぐここに集まると決めている。多くの家も高台にある。
 20人余りの80代も逃げた。… 確認を終えるや、直ちに家が壊れた人もそうでない人も一緒の避難所生活が始まった。米やみそ、冷蔵庫の食材や水産物、灯油やまきストーブ、ガスボンベも持ち寄り、集落の孤立にもびくともしなかった。…
 高台の駅は残ったが、養殖場や浜の倉庫、作業所はめちゃめちゃ。だが、落ち込む間はない。水道が止まった後、集落の人々は「昔の生活に戻ればいい」(集落長)と、かつての水源だった山の水を公民館まで引いた。そうした共同作業や家々の片付け、捜索活動に出る消防団の担い手は青年部だ。メンバーは20〜30代を中心に8人。…
 高齢者、保育所や小学校の子ども、男たちの順に昼ご飯を出した後、お母さんたちがテーブルを囲んだ。毎日の献立づくりと食材選び、掃除、住民の健康のチェックなど、こちらも忙しい。…(略)…痛みを包む公民館のぬくもりに小石浜の火は残った。(寺島英弥)」(仙台「河北新報」2011年03月24日記事、抄録)。

(6) 社会教育にとっての課題
 大震災がもたした災害、苦難、悲劇は切ないものがある。それを乗り越えて人々は生きていかなければならない。その挌闘のなかに、社会教育に問われる課題が鋭角的に見えてくる。逆に日常の社会教育活動の価値が、震災下の人々の復興への営みの中にくっきりと現れてくる。紙数の関係から、大震災と社会教育の課題について本稿で書き残していることを幾つか項目のみ書き留めておきたい。
(1) 災害弱者・マイノリティへの視座。震災によって多くの高齢者が命を落とし、障がい者や要介護者を含む「災害弱者」への対応が求められた。あらためて医療・介護・福祉の関連分野との連携の必要が痛感されている。子どもを守る体制もこれと連動する必要がある。
(2) ボランティアの役割。災害への救援活動は古くからボランティア(たとえば青年団等)
を登場させてきた。阪神淡路大震災(1995年)時の潮流を経て、今回の東北各地のボランティアの活躍は新しい段階を感じさせた。とくに継続的ボランティアが求められている。
(3) 地域づくりへの取り組み。東北農漁村の伝統的な集落の結びつき、地域的相扶関係の大事さが震災によって再発見された。人は地域の中で生き続け、地域の連帯が生活の活力につながっていく。地域に根ざす社会教育・生涯学習の在り方があらためて課題となる。
(4) 復興への自治体計画。震災によって自治体行政は体制自体が痛手を負っている場合もある。その緊急状況だからこそ、復興に向けての自治体計画づくりが急がれる。社会教育行政がこの復興過程に参画し、復興主体として住民の積極的参加が期待されている。
(5) 原発震災と科学・技術のあり方。原発事故問題は電力企業の責任や政府の失態を厳しく問うこととなったが、同時に原子力に関わる科学・技術への失望と怒りを招ねいている。民衆の視点から、政治と科学・技術の在り方、現代社会の未来を考える認識力を深めていく課題をあらためて痛感する。社会教育もまたその一翼を担うべきであろう。(小林)



6,
社会教育フロンティアC横山宏−戦後社会教育に独自の水路を拓く 
                 月刊社会教育・2011年7月号 →■
                 編集委員会『人物でつづる戦後社会教育』(国土社)

7,自著を語る『日本の社会教育・生涯学習〜草の根の住民自治と文化創造に向けて〜』
           (ソウル・学志社・2010年) 社会教育推進全国協議会通信・第233号(3月)→■

8,三多摩の公民館の歩みと活動−1960〜1970年代を中心に →■
                
たましん地域文化財団『多摩の歩み』144号(2010年

9,徳永功さんの仕事     
        
徳永功著『個の自立と地域の民主主義をめざして』エイデル研究所 →■




10,『社会教育・生涯学習辞典づくり10年・回想(南の風1〜5)→■

11,市民自らが歴史を創ってきた「挌闘の10年」と「ひろば」
       
発行委員会(アンティ多摩「市民活動のひろば」2012年5月号 100
→■



12,
施設を創造する視点
(月刊社会教育・かがり火)2014年9月号

 戦後日本には、数多くの、多様な社会教育施設が作られてきた。それがいま大きな転機を迎えている。とくに公共施設再生計画という名の転換が問題になっている。いま社会教育施設の何を壊し、何を残していくか、そして新しくどう創造していくかが問われている。
 社会教育施設の歩みを振り返ると、とくに公共セクターの施設では、法制の枠組みとか、
行政管理の基準とか、施設理論の水準とか、つねに何らかの前提のもとで上から設置されてきた歴史であった。もともと施設は概念自体が"施し設ける"営造物として、与えられてきたイメージ。いま、その発想こそを大きく転換していく時代ではないだろうか。
 東京「新しい公民館像をめざして」(通称・三多摩テーゼ)が世に出たのは一九七三年(増補七四年)。今年で四十年が経過したことになる。歴史的に貧弱であった東京の公民館の拡充をめざして、その公的条件整備論を基調として「都市公民館」像が打ち出された。構想づくりに参加した一人として、いまその功罪を問う声に耳を傾ける。四十年の蓄積を確かめつつ、あらためて新しい公民館像を再創造していく作業に参加していきたい。
 三多摩テーゼの一つの功績は、各地の公民館づくり住民運動の胎動を刺激したことであろう。住民からの発言、署名請願活動、諸提案、施設計画の書き替え、「公民館をつくろう」の歌声、それらはまさに施設創造の営みであった。七十年代から八十年代にかけての大きなうねりは消えたが、あのときの創意あふれる施設の一角はいまも輝いている。
 創り出す歩みを、世代から世代へ語り継いでいきたい。施設に魂を入れるのは人であり、住民や職員の智恵や願いや運動が、物としての施設を再生・創造してきた歴史であった。
 



13,農中茂徳『三池炭鉱 宮原社宅の少年』(石風社、2016年)に寄せて

 本書のゲラ刷りが送られてきて、読み始めたら夜が明けてしまった。続きを読んだ夜もそうだった。少年たちが生き生きと動き、筑後(大牟田)弁で豊かに語りあっている。厳しい暮らしも楽しく見えてくるから不思議だ。育った地域(三池炭鉱・宮原社宅)の描写も詳しく、これほどまでに少年の記憶が残っているのかと驚いた。 
 子ども時代の回想・証言、宮原社宅で育った自分史が、そのまますぐれて希少な地域史となり、三池争議をはさむ激動の社会史の側面をもっている。
 著者・農中茂徳との出会いは半世紀前にさかのぼる。一九六〇年代後半からの付き合いだ。東京学芸大学(東京・小金井市)のキャンパス、芝生の上。彼は大学当局に抗議の座り込み(もしかするとハンスト?)の学生、私はまだ若い大学教師。お互い対峙する関係なのに、何かひとこと対話したのが最初であった。妙に気の合うところがあって、同郷意識(私は筑後・久留米の出身)も重なり、その頃住んでいた国立市の公団住宅に遊びに来るようになった。本書「シジミ」の話などは直接聞いた記憶がある。苦節の中を生きる学生のたくましい生活の智恵だ!と感服した。一時は演劇の道を志していたような印象もあり、声量ある声で演説か台詞の稽古をしていた場面が想い出される。
 卒業論文の制作は、三池争議とくに三池主婦会の活動とその歴史に取り組んだ。重い課題、しかも自ら現実を見聞きしているだけに、かえって簡単には書けなかったに違いない。歴史をさかのぼっていくうちに、力作となるべき論文も“未完”のまま終わったと記憶している。それが今、当時の「少年」をテーマに掲げて、このようなユニークな一冊となり、貴重な記録に結実したことを我が事のように喜びたい。
 いくつもの回想が蘇る。友人たちの多くは教師の道に入ったが、彼は野田市の社会教育の仕事に就いた。社会教育の研究をしてきた私にとっては、同じ道に入った最初の卒業生だ。仕事は順調に進んだらしく、地域の若者や演劇仲間に囲まれ、信望を得たのか、推されて市議会議員に立候補した。予想以上の票を得たが、見事に落選、そして失職した。
 福岡に戻り、雌伏数年を経て、筑豊の聾学校や筑後の養護学校の教師として生涯の道を歩いてきた。ハンディをもつ子どもたちに寄り添い、諸問題と格闘しながら、心温まる教育実践に取り組んできた。折々の実践記録が届けられてきた歳月。その中には珠玉の輝きを放つものがあったことを憶えている。
 この本で少年時代の記録を読む機会を与えられて、あらためて思うことがあった。「タカちゃん」との友情、仲間との遊び、母への思い、父がくれた贈りもの、宮原社宅という地域の交流など、なんと豊かなことか。上野英信さんが「三池労組」の子どもたちは幸せだと書いたその実像でもあるだろうと。心の暖かさ、暮らしの智恵、生きるエネルギーのようなものが、その後の人生の歩みにさまざま結びついてきているのではないかと。本書に続いて、その後のこと、とくに教師の実践記録をぜひまとめてほしい、と願っている。
著者・農中茂徳さん(福岡油山・新年会、20020102)





14,東京社会教育史編集委員会[編] 
大都市・東京の社会教育−歴史と現在
 
エイデル研究所 2016年9月刊 A5判570頁) ・・・目次・計か等→■
*社全協通信268号「自著を語る」 2017年1月


 当初の書名案は「東京社会教育史の研究」、歴史書の企画であった。20年前に刊行された『東京都教育史』(14巻、東京都立教育研究所・当時)のなかで、ブランクとなってしまった「戦後・現代史」(第5巻・未刊、経過は本書「まえがき」参照)を埋めようという思いからであった。その後の編集過程で、歴史書にとどまらず、「大都市・東京」社会教育の“現在”を確かめ、展望をえがく一冊を創ろうという作業に拡がった。
 東京の社会教育が大きく転換し、とくにこの20年来、東京都行政が「解体」に近い状況に陥っている事態への危機感があった。歳月の経過とともに「市民の記憶」から社会教育が遠ざかりつつある現状への焦燥感、稀少資料・記録が散逸・風化していくことへの喪失感も重なっていた。なんとかしたい思い。小さくてもいい、一冊の本をまとめよう、そんな有志の語り合いが思い出される。そして満4年にわたる編集作業を重ねるなかで、取り上げる項目は次々に増え、結局600頁に近い大型本となった。出版に向けて積極的に対応して下さったエイデル研究所に感謝している。
 編集委員会(代表・小林)は、斉藤真哉、野々村恵子、井口啓太郎、石川敬史を事務局として総勢14名、執筆には40名の皆さんが参加された。「幸いなことは執筆者のほとんどが執筆テーマに関わって“生きた記憶”の持ち主であったことだ。」(本書まえがき)
 本書編集にあたって、私たちが心がけたことは次の諸点である。(1) 東京社会教育・現代史の通史を綴ること。(2)稀少資料・記録を調査・収録する。(3)狭い社会教育行政の枠を脱し大都市独自の社会教育的活動の拡がりに注目する。(4)歴史当事者の世代から次世代の担い手への対話の機会とする。(5)歴史をふまえつつ、これからの社会教育の未来に向けて展望を試みる。もちろん不十分な点を多く残しているが、大都市社会教育研究としての一歩を刻んだ実感をもっている。
 全体を貫くキーワードは、東京社会教育の“復権”である。終章には「展望・東京社会教育・
10の提言」を掲げている。やや広い視点から、これから追及していくべき課題と方向を提示してみたつもりである。本書へのご批正をいただきつつ、東京だけでなく他都市においても社会教育の展望を論議する上で参考になればと願っている。(小林文人・編集代表)




15,評:上原直人『近代日本公民教育思想と社会教育―戦後公民館構想の思想構造』
    (大学教育出版社、2017年)、日本社会教育学会紀要・第54号(2018年)所収
 
小林 文人

 社会教育における「公民教育」の思想史研究、戦前・戦時期だけでなく戦後教育改革期「公民館」構想へいたる「思想構造」に関する研究、大作である。私たちは「公民教育」資料や個別論文、あるいは田澤義鋪や下村胡人についての評伝などを読む機会があったが、その体系的な思想史研究、社会教育と公民教育との関わりについての本格的な歴史研究をこれまで持たなかったのではないか。本書を手にして、改めて通史『日本近代教育百年史』(国立教育研究所編)第七・八巻を開いてみたが、「公民教育」に関する記述はまことに少なく、目次の小見出しにも登場してこない。本書はこれまでの近代日本・社会教育史研究を大きくふくらませ、新たな視点・知見を加えた「公民教育」思想史に関する労作である。多くのことを学ばせていただいた。
 序章「研究の課題と方法」は示唆に富む。これまでの社会教育史観の見直し、社会教育と公民教育の特質を検討することを通して新たな社会教育史観の再構築が意図されている。なにより公民教育の多義性に着目し重層的にとらえる視点が強調される。上からの「国民を統合する論理」と「市民が自治的に治める論理」の二つの流れ、加えて前者と結びつく「国家への忠誠心の育成」、後者に関わる「立憲的知識の涵養」「生活の場としての地域社会の振興」の三つの側面(p26,図表2)が提示され、これらの重層的展開として「公民教育」思想史を描き出そうとする。この重層的視点は本書の全体を貫く枠組みとなっている。
 研究の具体的な対象として、その公民教育論が重層的性格をもち、学校教育・公民科だけでなく社会教育を視野に入れ、そして戦後社会教育・公民館構想に影響を与えた人物として、関口泰、田澤義鋪、下村胡人、前田多門、蝋山政道の5人,が取り上げられている。講壇的公民教育論(関口、蝋山、前田)と実践的論者(田澤、下村)に分けられているが、いずれも国家体制下に自由主義的知識人として共通し、戦時体制への「参加と抵抗」を経て、戦後教育改革・公民館構想へつながる思想史が展開されている。戦後初期教育改革、寺中作雄の公民教育・公民館構想へどのように連なっていくのか、その歴史的な継承と戦後的な発展の吟味が主題となっている。

 さて評者(小林)は、社会教育・思想史研究ではなく、現代社会教育の具体的な展開、とくに公民館の地域的な実像に迫るフィールドワークに携わってきた。取り組んできたテーマに関連して歴史・思想史へ分け入る機会をもってきたが、作業はいつも不充分、さしたる定見ももたず。その意味で本書の書評を引き受ける資格に欠けるところがあるが、本書に刺激されて、ともに検討・論議すべき課題を4点ほど述べてみたい。
 第1は、思想の流れと、それが動いていく舞台としての政策・行政・事業等の現実、その実像との関係についてである。戦前の公民教育が登場する時期は、国家レベルの社会教育行政が組織化される時代と重なる(1920年代〜)。戦後改革期に寺中作雄が行政官僚として公民館構想を具体化していく状況とは当然異なるが、大正・昭和期にかけて社会教育行政組織化を担った人たち、たとえば乗杉嘉壽など当局側の「公民教育」思想は「取り上げない」(本書、p31)とする。公民教育の政策形成、行政施策等の実像は、つねに視野のなかに入れておくべきでなはいか。思想はこれら政策実像と対峙し、それとの葛藤・矛盾の関係において変転し発展していく側面があろう。
 第2に、従来の社会教育史観の見直し・再構築が重要な課題であることは本書が縷々指摘する通りであろう。天皇の臣民として「オオミタカラとしての公民」と「近代立憲国民としての公民」「地域社会の自治振興を支える公民」の三つの概念の重層構造として公民教育をとらえる視点も重要であろう。しかし歴史の実像は、とくに昭和ファシズム下において、圧倒的な国家統制と皇民化教育、つまり「オオミタカラとしての公民」観が支配的であった事実はとくに強く認識される必要がある。評者(戦後70数年を経過した現在でも教育勅語が頭から去らない)の世代的体験としても強調しておきたい。官府的民衆教化性の体質は戦後も残存し、公民館制度も政府主導で下達されたことは紛れもない事実である。この歴史実像の認識が不充分な公民教育思想研究は、楽観的すぎるとの批判を免れないだろう。
 第3に戦後の寺中作雄・公民館構想について。本書には詳細な分析が重ねられた。評者は幸いにして晩年20年ほど折々の交誼を得たが、もし存命ならば苦笑してこの評論を読んだに違いない。寺中は公民教育思想に影響され、画期的な公民館構想を提起し、文部官僚として力量を発揮した。同時に大きすぎるほどの民主開明の文化人であった。戦後の公民館構想や社会教育法がこの文化人によって担われたことは「のちのちまでも幸いとしなければならない。」(『社会教育論者の群像』横山宏)
 歴史における個人の役割が過大に評価されてはならないこともまた留意すべきである。公民館構想の初期普及には鈴木健次郎と二人脚のかたちで担われた時期があり、また各地の公民館建設には、多数の「公民館人」群像が胎動した。そこには地域的な公民館構想の多様な拡がりがあった。その意味で寺中構想は戦後社会教育施設の“基点”であったが、また”起点”として位置づける観点も必要であろう。
 第4に、戦後日本の公民館制度が大都市部にほとんど普及定着しなかったこと、また日本社会教育が制度的に大学と遊離してきたこと、職業教育・訓練機関の役割を分離してきたことなど、これらの制度的特徴は、本書で詳述された公民教育思想とどのような関連があるのだろうか。本書を読みながら新しく考えたことであった。すでに紙数が尽きたが、教示願えれば幸いである。加えてあと一つ付言すれば、本書が戦前から戦後にわたり、膨大な文献・資料・人名等を収録しているだけに、ぜひとも関連年表と充実した索引がほしい。



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