本書のゲラ刷りが送られてきて、読み始めたら夜が明けてしまった。続きを読んだ夜もそうだった。少年たちが生き生きと動き、筑後(大牟田)弁で豊かに語りあっている。厳しい暮らしも楽しく見えてくるから不思議だ。育った地域(三池炭鉱・宮原社宅)の描写も詳しく、これほどまでに少年の記憶が残っているのかと驚いた。
子ども時代の回想・証言、宮原社宅で育った自分史が、そのまますぐれて希少な地域史となり、三池争議をはさむ激動の社会史の側面をもっている。
著者・農中茂徳との出会いは半世紀前にさかのぼる。一九六〇年代後半からの付き合いだ。東京学芸大学(東京・小金井市)のキャンパス、芝生の上。彼は大学当局に抗議の座り込み(もしかするとハンスト?)の学生、私はまだ若い大学教師。お互い対峙する関係なのに、何かひとこと対話したのが最初であった。妙に気の合うところがあって、同郷意識(私は筑後・久留米の出身)も重なり、その頃住んでいた国立市の公団住宅に遊びに来るようになった。本書「シジミ」の話などは直接聞いた記憶がある。苦節の中を生きる学生のたくましい生活の智恵だ!と感服した。一時は演劇の道を志していたような印象もあり、声量ある声で演説か台詞の稽古をしていた場面が想い出される。
卒業論文の制作は、三池争議とくに三池主婦会の活動とその歴史に取り組んだ。重い課題、しかも自ら現実を見聞きしているだけに、かえって簡単には書けなかったに違いない。歴史をさかのぼっていくうちに、力作となるべき論文も“未完”のまま終わったと記憶している。それが今、当時の「少年」をテーマに掲げて、このようなユニークな一冊となり、貴重な記録に結実したことを我が事のように喜びたい。
いくつもの回想が蘇る。友人たちの多くは教師の道に入ったが、彼は野田市の社会教育の仕事に就いた。社会教育の研究をしてきた私にとっては、同じ道に入った最初の卒業生だ。仕事は順調に進んだらしく、地域の若者や演劇仲間に囲まれ、信望を得たのか、推されて市議会議員に立候補した。予想以上の票を得たが、見事に落選、そして失職した。
福岡に戻り、雌伏数年を経て、筑豊の聾学校や筑後の養護学校の教師として生涯の道を歩いてきた。ハンディをもつ子どもたちに寄り添い、諸問題と格闘しながら、心温まる教育実践に取り組んできた。折々の実践記録が届けられてきた歳月。その中には珠玉の輝きを放つものがあったことを憶えている。
この本で少年時代の記録を読む機会を与えられて、あらためて思うことがあった。「タカちゃん」との友情、仲間との遊び、母への思い、父がくれた贈りもの、宮原社宅という地域の交流など、なんと豊かなことか。上野英信さんが「三池労組」の子どもたちは幸せだと書いたその実像でもあるだろうと。心の暖かさ、暮らしの智恵、生きるエネルギーのようなものが、その後の人生の歩みにさまざま結びついてきているのではないかと。本書に続いて、その後のこと、とくに教師の実践記録をぜひまとめてほしい、と願っている。
▼著者・農中茂徳さん(福岡油山・新年会、20020102)
14,東京社会教育史編集委員会[編]
大都市・東京の社会教育−歴史と現在
(エイデル研究所 2016年9月刊 A5判570頁) ・・・目次・計か等→■
*社全協通信268号「自著を語る」 2017年1月
当初の書名案は「東京社会教育史の研究」、歴史書の企画であった。20年前に刊行された『東京都教育史』(1〜4巻、東京都立教育研究所・当時)のなかで、ブランクとなってしまった「戦後・現代史」(第5巻・未刊、経過は本書「まえがき」参照)を埋めようという思いからであった。その後の編集過程で、歴史書にとどまらず、「大都市・東京」社会教育の“現在”を確かめ、展望をえがく一冊を創ろうという作業に拡がった。
東京の社会教育が大きく転換し、とくにこの20年来、東京都行政が「解体」に近い状況に陥っている事態への危機感があった。歳月の経過とともに「市民の記憶」から社会教育が遠ざかりつつある現状への焦燥感、稀少資料・記録が散逸・風化していくことへの喪失感も重なっていた。なんとかしたい思い。小さくてもいい、一冊の本をまとめよう、そんな有志の語り合いが思い出される。そして満4年にわたる編集作業を重ねるなかで、取り上げる項目は次々に増え、結局600頁に近い大型本となった。出版に向けて積極的に対応して下さったエイデル研究所に感謝している。
編集委員会(代表・小林)は、斉藤真哉、野々村恵子、井口啓太郎、石川敬史を事務局として総勢14名、執筆には40名の皆さんが参加された。「幸いなことは執筆者のほとんどが執筆テーマに関わって“生きた記憶”の持ち主であったことだ。」(本書まえがき)
本書編集にあたって、私たちが心がけたことは次の諸点である。(1) 東京社会教育・現代史の通史を綴ること。(2)稀少資料・記録を調査・収録する。(3)狭い社会教育行政の枠を脱し大都市独自の社会教育的活動の拡がりに注目する。(4)歴史当事者の世代から次世代の担い手への対話の機会とする。(5)歴史をふまえつつ、これからの社会教育の未来に向けて展望を試みる。もちろん不十分な点を多く残しているが、大都市社会教育研究としての一歩を刻んだ実感をもっている。
全体を貫くキーワードは、東京社会教育の“復権”である。終章には「展望・東京社会教育・10の提言」を掲げている。やや広い視点から、これから追及していくべき課題と方向を提示してみたつもりである。本書へのご批正をいただきつつ、東京だけでなく他都市においても社会教育の展望を論議する上で参考になればと願っている。(小林文人・編集代表)
15,書評:上原直人『近代日本公民教育思想と社会教育―戦後公民館構想の思想構造』
(大学教育出版社、2017年)、日本社会教育学会紀要・第54号(2018年)所収 小林 文人
社会教育における「公民教育」の思想史研究、戦前・戦時期だけでなく戦後教育改革期「公民館」構想へいたる「思想構造」に関する研究、大作である。私たちは「公民教育」資料や個別論文、あるいは田澤義鋪や下村胡人についての評伝などを読む機会があったが、その体系的な思想史研究、社会教育と公民教育との関わりについての本格的な歴史研究をこれまで持たなかったのではないか。本書を手にして、改めて通史『日本近代教育百年史』(国立教育研究所編)第七・八巻を開いてみたが、「公民教育」に関する記述はまことに少なく、目次の小見出しにも登場してこない。本書はこれまでの近代日本・社会教育史研究を大きくふくらませ、新たな視点・知見を加えた「公民教育」思想史に関する労作である。多くのことを学ばせていただいた。
序章「研究の課題と方法」は示唆に富む。これまでの社会教育史観の見直し、社会教育と公民教育の特質を検討することを通して新たな社会教育史観の再構築が意図されている。なにより公民教育の多義性に着目し重層的にとらえる視点が強調される。上からの「国民を統合する論理」と「市民が自治的に治める論理」の二つの流れ、加えて前者と結びつく「国家への忠誠心の育成」、後者に関わる「立憲的知識の涵養」「生活の場としての地域社会の振興」の三つの側面(p26,図表2)が提示され、これらの重層的展開として「公民教育」思想史を描き出そうとする。この重層的視点は本書の全体を貫く枠組みとなっている。
研究の具体的な対象として、その公民教育論が重層的性格をもち、学校教育・公民科だけでなく社会教育を視野に入れ、そして戦後社会教育・公民館構想に影響を与えた人物として、関口泰、田澤義鋪、下村胡人、前田多門、蝋山政道の5人,が取り上げられている。講壇的公民教育論(関口、蝋山、前田)と実践的論者(田澤、下村)に分けられているが、いずれも国家体制下に自由主義的知識人として共通し、戦時体制への「参加と抵抗」を経て、戦後教育改革・公民館構想へつながる思想史が展開されている。戦後初期教育改革、寺中作雄の公民教育・公民館構想へどのように連なっていくのか、その歴史的な継承と戦後的な発展の吟味が主題となっている。
さて評者(小林)は、社会教育・思想史研究ではなく、現代社会教育の具体的な展開、とくに公民館の地域的な実像に迫るフィールドワークに携わってきた。取り組んできたテーマに関連して歴史・思想史へ分け入る機会をもってきたが、作業はいつも不充分、さしたる定見ももたず。その意味で本書の書評を引き受ける資格に欠けるところがあるが、本書に刺激されて、ともに検討・論議すべき課題を4点ほど述べてみたい。
第1は、思想の流れと、それが動いていく舞台としての政策・行政・事業等の現実、その実像との関係についてである。戦前の公民教育が登場する時期は、国家レベルの社会教育行政が組織化される時代と重なる(1920年代〜)。戦後改革期に寺中作雄が行政官僚として公民館構想を具体化していく状況とは当然異なるが、大正・昭和期にかけて社会教育行政組織化を担った人たち、たとえば乗杉嘉壽など当局側の「公民教育」思想は「取り上げない」(本書、p31)とする。公民教育の政策形成、行政施策等の実像は、つねに視野のなかに入れておくべきでなはいか。思想はこれら政策実像と対峙し、それとの葛藤・矛盾の関係において変転し発展していく側面があろう。
第2に、従来の社会教育史観の見直し・再構築が重要な課題であることは本書が縷々指摘する通りであろう。天皇の臣民として「オオミタカラとしての公民」と「近代立憲国民としての公民」「地域社会の自治振興を支える公民」の三つの概念の重層構造として公民教育をとらえる視点も重要であろう。しかし歴史の実像は、とくに昭和ファシズム下において、圧倒的な国家統制と皇民化教育、つまり「オオミタカラとしての公民」観が支配的であった事実はとくに強く認識される必要がある。評者(戦後70数年を経過した現在でも教育勅語が頭から去らない)の世代的体験としても強調しておきたい。官府的民衆教化性の体質は戦後も残存し、公民館制度も政府主導で下達されたことは紛れもない事実である。この歴史実像の認識が不充分な公民教育思想研究は、楽観的すぎるとの批判を免れないだろう。
第3に戦後の寺中作雄・公民館構想について。本書には詳細な分析が重ねられた。評者は幸いにして晩年20年ほど折々の交誼を得たが、もし存命ならば苦笑してこの評論を読んだに違いない。寺中は公民教育思想に影響され、画期的な公民館構想を提起し、文部官僚として力量を発揮した。同時に大きすぎるほどの民主開明の文化人であった。戦後の公民館構想や社会教育法がこの文化人によって担われたことは「のちのちまでも幸いとしなければならない。」(『社会教育論者の群像』横山宏)
歴史における個人の役割が過大に評価されてはならないこともまた留意すべきである。公民館構想の初期普及には鈴木健次郎と二人三脚のかたちで担われた時期があり、また各地の公民館建設には、多数の「公民館人」群像が胎動した。そこには地域的な公民館構想の多様な拡がりがあった。その意味で寺中構想は戦後社会教育施設の“基点”であったが、また”起点”として位置づける観点も必要であろう。
第4に、戦後日本の公民館制度が大都市部にほとんど普及定着しなかったこと、また日本社会教育が制度的に大学と遊離してきたこと、職業教育・訓練機関の役割を分離してきたことなど、これらの制度的特徴は、本書で詳述された公民教育思想とどのような関連があるのだろうか。本書を読みながら新しく考えたことであった。すでに紙数が尽きたが、教示願えれば幸いである。加えてあと一つ付言すれば、本書が戦前から戦後にわたり、膨大な文献・資料・人名等を収録しているだけに、ぜひとも関連年表と充実した索引がほしい。