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1,故横山宏氏追悼(2001年没)
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2,韓国・故黄宗建氏を悼む(2006年没)、黄先生自分史(2000年聞き取り)
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黄先生アルバム
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3,故奥田泰弘氏追悼(2006年没)
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4,故小川利夫氏のページ(2007年没)
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5,故伊藤長和氏・追悼のページ(2014年没)
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6、故上勢頭芳徳氏追悼(2017年没)
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7、故小林富美・追悼ページ(2017年没)
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追悼
U>
(下掲)
11, わが友の死
月刊社会教育1978年10月号
12, 1枚の切符(
月刊社会教育1979/4
),
吉田昇先生と沖縄(
吉田先生追悼集編集委員会『この道を』)
13, 伊藤寿郎氏を悼む
(「月刊社会教育」第35巻6月号、1991)
14, 宇部市社会教育との“出会い”−田中辰彦さんの思い出(1992)
15, 佐々木軍八氏(山口県豊浦町・中央公民館元館長)を偲んで(1992)
16, 幼な友・大鶴泰弘くんの思い出(書簡、1993)
→■
17, 「歴史の大河は流れ続ける」のことー田中進sあん
追悼パンフ(1993年)
→■
18, 一すじに追いかけたものを想う−川崎・原政行さん追悼(1994)
19, メッセージを語り継ぎたいー福岡・森川実さんを想う(1994)
20, 21,
22, 朱膳寺春三氏を悼む 「月刊社会教育」1991年1月号
23, 寺中作雄さんとの出会い、沖縄のこと−追悼にかえて(公民館史研究」1995)
→■・
24, 25,
26, 正義感あふれる知識人、外間政彰さんへの感謝
(同追悼文集『爽風一過』1997)
27, 浜田陽太郎さん追悼
(「南の風」第27号、1998)
28, 野呂隆さん追悼 (同追悼パンフ、1997)
29,大きな体躯の短パン姿、想い出いくつか−
飯塚達男さんを偲ぶ(同追悼パンフ、1998)
30, 仲宗根政善先生を偲ぶ−『追悼・仲宗根政善』に寄せて
(「南の風」第177号、1999)
31, 川口武彦先生を悼む
(「南の風」第162号、1999年)
32, 浪江虔先生を悼む
(南の風171号 1999年)
33, 訃報・碓井正久先生
(南の風1353号(2004年10月11日)
34, 安井田鶴子さんの思い出
南の風第1435号(2005年3月16日)
35, 駒田錦一元会長の逝去
(日本社会教育学会・学会通信、2002年)
36, 37,38,
39, 君の霊安かれと祈るのみ−石倉祐志君追悼−
『東アジア社会教育研究』第14号(2009)
40,想い出つきず−新城捷也さんを偲ぶ−
「南の風」第 2662号(2011年5月26日)
41,
ともに歩いて半世紀
−
佐久間章さんを偲ぶ
同・追悼集「おーい、元気でやってっか」(船橋)
2011年
42,安藤延男さんとの想い出
「南の風
」第3390号(2014年10月23日)
43,仲宗根悟さんを悼む
南の風
3529号(2015年7月28日)
44
,
中根章さん逝く
南の風
3697号(2016年7月17日)
45,
翁長雄志・沖縄県知事 急逝!
南の風
39687号(2018年8月10日)
46,
棺
に公民館「職協」の旗をかけて
、
福岡・中島博さん
南の風3931号(2018年4月16日)
<回想・短信・エッセイなど>
→■(別ページ)
61,シーサー抱えて−沖縄の友人たちへの礼状(1992)
62,みんなで歌をうたおう 若者よ
(秋田青年会館「青年広論」 1992)
63,広州で「たーはい(大海)」をうたう(1992)
64,麦笛の歴史を掘れ
(東京学芸大学人形劇サークル30周年、1992)
65,サンシンとニガナの話−沖縄・名護からもらった“こころ”(1993)
66,沖縄・社会教育との出会い−宮城英次さんを通して(1993)
67,ある回想−15年目の白馬江−韓国・扶余(1994)
68,「松花江上」との出会い−社会教育研究のなかで−
旧満州国教育史研究・2(1994)
69,震災時における社会教育の在り方
杉並区社会教育委員の会議・意見具申案(1996年)
70,海を越えてはばたいてほしい
上門加代子琉舞道場10周年記念誌『輪舞』(1996)
71,社会教育運動の歴史を担って−林貞樹さんの自分史に寄せる(1994)
72,さらに新しい歩みを祈ってー宜野座へのメッセージ
(宜野座「八月遊び百周年」1996)
73,下村湖人 (現代学校教育大事典 ぎょうせい、1993年)
74,どんな社会・地域・人間をめざすか−IT革命のゆくえ
<かがり火>月刊社会教育(2001年6月号)
75,いまから新しい歩みが始まる−沖縄・名護全国集会の成功を祝って−(2002)
76,学会の研究活動、出版活動のことなど
(日本社会教育学会「50年のあゆみ」2003)
77,北の大地と南の風と
(オホーツク社会教育研究会設立20周年『OXOTCKU』2003)
78,
79,重い心と体を引きずりながら−社全協委員長の4年
(社全協40周年記念誌、2004)
80,
81,地下水脈の流れとなって−「月刊社会教育」さらに50年の歩みへ(2008年1月号)
→■
・
82,
「南の風」2000号のご挨拶
−
「南の風」第200号(2008年3月8日)
83,
南の風3000号の歩みに参加された皆様へ−感謝のご挨拶
(2012年12月15日
)
84,
*
沖縄関連エッセイ→
沖縄研究交流ページ
→■
* 2010年
以降
〜 「短信・回想」ページ
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別ページ
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【本ページ
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<
追悼ページ
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(小林文人)
11,
わが友の死
*「月刊社会教育」 1978年10月号 「ろばた」欄
ことし(一九七八年)の福岡の夏は、水飢饉で乾ききっていて、ことさら暑かった。八月の汗ばむ夜、旧盆からさらに数日おくれて、私はようやくわが友、故川崎隆夫の霊に盆まいりをすませた。悲しい無言の対面であった。
奥さんが在りし日の写真を次ぎから次へと出して下さる。川崎隆夫には、親しいものだとすぐわかる独特のポーズがあった。顔をすこしななめに上向きかげんにたおして、目がいつも笑っていた。そんな写真を見ると、すぐに涙がにじんで彼の顔がゆがんで見えた。
私は昨年の八月のことを想い出していた。社会教育研究全国集会がはじめて福岡で開かれる。その準備のために福岡の実行委員会は全力を傾けた。そして大会は成功した。その檜舞台の蔭で川崎隆夫が実に重要な推進力となっていた。彼は当時福岡県教育庁社会教育課長補佐であった。複雑な県の教育行政のなかにあって、彼は決して表面に出ることはなかった。しかし大会の成功を人一倍願い、心配もしてきた。大会会場で注目を集めた喜納勝代さんたちの沖縄コーナーについても心のこもった受け入れを準備した。
大会の第一日夜、熱気あふれるなかでレセプションが開かれた。その席でも彼はどちらかといえば、ひっそりとビールを飲んでいた。しかし体全体で大会の成功を喜んでいて、私の手を固くがっしりとにぎってくれた。その時のことをいま想い出す。
川崎隆夫は、今年(一九七八年)四月一日に県の社会教育課長となった。彼自身は管理的な立場が好きではなかったから、当惑したに違いないのだが、まわりは喜んだ。その豊かな人間性、みずみずしい感受性、そしてなによりも自由の精神。彼に期待するところが大きかった。
「いよいよ川崎くんの時代だよ」、「ルネッサンスだ」と語る人もいた。
いまにして思えば、川崎隆夫への大きな期待は、当の本人には大きな重荷だったのではないか、と思えてしかたがない。私は四月四日にたまたま福岡に帰って彼と会った。「おめでとう!」といったら、例のポーズで、少しはにかんで、何か口のなかでモゴモゴとつぶやいた。早速飲む相談をしたが、日がとれず、「ゆっくりやろう、人生はながい」というような言葉をかわして、別れた。それが最後となった。
四月六日、帰京の朝、彼の突然の訃報がとびこんだ。朝起きて、突然倒れた、急性心筋梗塞という。ぼう然とした。四五歳の働きざかりであった。
川崎隆夫と私は、九州大学で一しょだった。諸岡和房氏などもいた。大学院にすすみ、彼が九大ではじめて社会教育専攻として修士論文を書いた。私たちはみな彼に一目おいた。彼こそが研究者の道にひたすら進むのだと思っていたが、大学に失望したのか、突然やめて、実践に身を投じた。
その後は、社会教育・文化行政の仕事に文字通り没入した。表面はさりげなく愉快そうに振舞いながら、内面的には深く心をくだいた。県行政のなかで苦悩の日々もあったに違いない。まわりの友人や後輩のことを憂え、しかし自分のことは人に心配させなかった。ひたすらに激しく生き、そして突然に逝った。
川崎隆夫はいつも自分を表面に出さず、まわりのために自分を酷使した。彼の遺志をどう継承していけばよいのか。
▼
1977年9月・社会教育研究全国集会(福岡)の翌日に開かれた沖縄社会教育研究会
→■
。多彩な顔ぶれ、初めての画期的な集い。左より3人目に川崎隆夫氏。この半年後に帰らぬ人となった。(KKR・はかた会館、19770905)
<写真上>
左より、徳永功、古賀皓生、
川崎t隆夫
,、土井洋一、猪山勝利、上原好美(沖)、当間(名城)ふじ子(沖)、諸岡和房、玉城嗣久(沖)、上原文一(沖)の皆さん。
<写真下>
左より(上原文一、一人おいて) 新城隆子(沖)、正面テーブルに石井邦一、門田見昌明、小川利夫、右側にi横山宏、喜納勝代(沖)、長浜功など各氏。(1977年9月5日夜、小林撮影)
*東京・沖縄、最初の合同社会教育研究集会(東京としては第8回研究会) 「戦後沖縄社会教育研究会」主催:1977年9月5〜6日(於福岡・はかた会館)
報告1
:アメリカの沖縄教育政策 玉城嗣久(琉球大学)
報告2
:戦後社会教育法制研究における『沖縄』問題 小林文人(東京学芸大学)、懇談・交流。
12, 一枚のキップ−吉田昇先生の思い出
*「月刊社会教育」1979年4月号
吉田先生との最初の出あいは、私が九大の助手のころであった。だからもう二十年の歳月になる。
当時私はまったく社会教育に関心をもたなかった。それがいまは、まったく社会教育を中心のテーマにするようになった。おそらくこれからもこの道を歩むことだろう。私を社会教育にひきつけ、そのきっかけを与えてくださった方が何人かおられる。社会教育という怪物の魅力もさることながら、私はそこに情熱をもやしておられる方々の人柄のようなものに魅かれた。
そのかけがえのないお一人が、吉田先生であった。吉田先生が忽然と姿を消されて、ほんとうに悲しい。私は大学の後輩でももちろんないし、講義を受けた教え子でもない。一つは日本社会教育学会の、一つは月刊社会教育の、一つは社会教育推進全国協議会の活動を通して、未熟者の私をときに励まし、ときにそれとなく叱り、そしてたくさんのことを教えてくださった。学閥の関係では決してなく、社会教育研究の道をともに歩むというその一点で、目にかけ心にかけてくださったことがなによりも嬉しいことだった。
吉田先生への想い出は学会からはじまる。一九六〇年にはじめて九大で社会教育学会の大会(第七回)が開かれた。私は会場校の事務局長のような仕事をした。この大会は私にとって生涯忘れることができない大会となった。社会教育への道を歩むきっかけとなったし、夜の博多の楽しい集いは、わずか一夜であったけれど、人生の生き方の本質を教えてくれたようなものであった。
大会に先だって、打ち合わせにか(あるいは講演旅行か?)吉田先生は夫人とご同伴で私たちの前にあらわれた。若々しく、さっそうとした感じで、「うらやましいな」と思った。大会のときも、お茶大のお弟子さんを数名つれられて、はなやかであった。そのとき九州にみえたお弟子さんはいまどうしているのだろう。
私はその後九大で職を失ない、東京に流れ、そしてまた九州に流れ、出稼ぎ労働者のように再び東京に移った。その間にいくたびか流れ者の孤独と悲哀をかみしめた。「我を入れるにせまき、国を去らんとすれば」といった歌をいきがって口ずさんだりした。いまから考えてみると、私が自信をなくしているときに、吉田先生はぴたりとはげましの声をかけてくださった。さりげなく、人の心をよんでおられるようであった。
徳島で学会が開かれたときであった。吉田先生の年譜をよむと、一九六七年(第一四回大会)、この年に先生ははじめて学会の会長になられている。この大会ではプログラムに予定されている主要な報告が二人も突然の欠席となった。一つは「原歴」部会(いまの理論研究部会)、一つは「課題研究」、いずれも公民館の問題がテーマであった。前夜の打合で、私はこの両部会ともに、急ぎの代役を命ぜられた。お人好しにも程があると自戒しながら、吉田先生の巧みな誘惑にのってしまった。二夜続けて死ぬような思いで徹夜して草稿をつくり、結果的には壇上で恥をかいた。(学会編「二十年の歩み」には、欠席した二人が、そのまま報告したように記録されている。)
私は貧しくこの大会の旅費の工面が苦しかった。それをどこで吉田先生は感づかれたのだろう。帰路「小林君、一緒に帰ろう」といわれた。そして固辞する私を制して、東京までの切符を買ってくださった。
一九七五年から七七年まで、吉田先生としては何度か重ねられた学会会長のうちの最後の任期をつとめられた。私は光栄にもこの期の事務局長を命ぜられた。このことがいまとなっては、かけがえのない二年となってしまった。
学会の仕事でも、また月刊社会教育の編集のときでも、考えあぐねたときは、私は先生の意見をできるだけ聞くようにした。吉田先生は自分からはあまり強く言われず、つねに「求めに応じる」原則であったように思われる。状況判断はいつも広く、そして的確であった。ときに強く正義の精神といったものを感じた。「なーるほど」と思うことがしばしばだった。そして決定はこちらに委ねられた。吉田先生に聞くことができなくなった今、なにかぽっかり大きな穴があいてしまった。
吉田先生は社全協創設時からの委員長であり、一九七四年の第一四回全国集会(名古屋大会)までその重責に耐えられた。社全協初期の苦しい道程は、ともに歩いた野呂隆さんをはじめとして、知る人ぞ知るところである。私は東京に移って(一九六七年)常任委員会に出るようになったが、その頃がドン底ではなかったかと思う。さびしくショボショボとした集まりであった。東京にたくさんの研究者がいながら、どうして吉田先生や野呂さんだけに激務を強いているのだろうと、当時は田舎からポッと出のものに義憤を感じさせたこともあった。
今にして思えば、一九六八年の第八回全国集会(東京・聖蹟桜ヶ丘)三日目、会場の入口に、集会のおわりをまちかねるように吉田夫人がたたずんでおられた。先生の健康を気づかわれてのことであった。あの日の暑い夏の陽ざしを思いだす
しかし先生は社全協運動の基礎を築かれた。健康を害されて参加できなかった大会にも「オモイハサンカ」という電文がよせられた。社全協発展の大会ともいうべき名古屋大会の(準備にあたる)現地実行委員会の盛況ぶりをみて、「第一回全国集会のときと同じ規模だ」と帰路の新幹線で先生は感慨ぶかげだった。九州大会にはるばる参加した喜納勝代さんなど沖縄の人たちとの親交もはじまったところだった。
吉田先生は、社全協運動を通して、実践家相互をつなぎ、研究者をつなぎ、青年・住民をつなぎ、地域と地域をつなぎ、それらの結び目の役割をせい一杯はたしてこられたように思う。立場のちがいをこえて、社会教育の民主化とその発展をねがうすべての人たちの結集の中心におられた。
そこにぽっかり穴があいた。あとに残ったものが、その遺志をついでいかなければならない。
▲
「月刊社会教育」1974年7月号・200号記念座談会にて(司会)
12 (2), 吉田昇先生と沖縄
吉田先生追悼集編集委員会『この道を』1980年・所収
吉田昇先生は、私にとっては、まったくお元気のまま、こつ然と逝ってしまわれた。
吉田先生は、そう、いつもお元気であった。一時入院されたあとも、あるいは会合の折、薬をのまれていたときもあったが、しかし常にお元気に、精神的に活発な方であった。ときに無理をされていたのであろうが、いつも若々しく活発に私たちを刺激してくださった。
だから、すこしも亡くなられた感じがしない。妙なものだ。なにか生きておられるような気がする。
昨年(1979年)先生が亡くなられて四十九日の日が青研集会の最終日であった。学会の六月集会のときも社会教育研究全国集会のときも、なんとなく今年も吉田先生は出席しておられる感じがした。吉田先生は誠実な方であったから、これらの諸集会には皆出席であった。私もそれに教えられて、同じような道を歩いてきた。私にとって社会教育の諸集会にはいつも吉田先生が先達としておられたから、亡くなられたあとも、そんなに急に先生の姿は消えないのである。
私は先生の「教え子」でもないのに、学会や社全協の運動のなかで、ずい分と多くのことを教えていただいた。そして時に不活発な私をそれとなく励ましていただいた。
いま私の学会のなかでの研究テーマは「戦後沖縄社会教育史研究」である。それは吉田先生がチーフをされた『日本近代教育百年史』の作業で、まったく沖縄をとりあげることができなかったことへの自己批判から出発している。そのことをいつか吉田先生に話したことがある。北海道大学での学会(1977年)のときだったように記憶している。(この年、先生が学会々長、私は事務局長であった。) 吉田先生は一瞬厳しい顔をされた。そしてまた普段の顔にもどられて、私たちがつくった『沖縄社会教育史料』第一集を手にもちながら、はげまして下さった。沖縄は遠い。
旅費もかかる。しかし私らには金がない。ただ自己批判の精神と沖縄への想いのようなものがあるだけだ。そのようなとき、先生のはげましはありがたかった。
亡くなられる前の年の日教組教研集会は沖縄で開かれた。吉田先生はこれに出席された。そして沖縄の青年団関係者や「久茂地文庫」(喜納勝代氏主宰)の人たちに会いたい、連絡をとってほしい、とはずむような声で電話をかけてこられた。那覇のあたたかい冬の一夜、楽しい集いがもたれた筈である。この数か月あと、喜納勝代さんたちが上京してきて、まっさきに吉田先生の研究室を訪ねたい、という。吉田先生は一時入院され、ようやく退院された直後だったと思うが、元気に久茂地文庫をはげまされたのである。
私はいまお金のやりくりをしながら毎月一回ぐらいの割合で沖縄に通っている。そしてやはり那覇の町で吉田先生の想い出話がでるのである。沖縄を旅しながら、ああ、吉田先生は今でも生きておられる、と感じるのである。
吉田先生と沖縄の交流は始まったばかりであった。先生はいつもお元気であったが、しかし、突然に私たちの前から姿を消してしまわれた。
13,
伊藤寿朗氏を悼む
「月刊社会教育」第35巻6月号、1991年
今年3月29日、本誌編集委員伊藤寿朗氏(東京学芸大学助教授)が急逝された。まだ44歳の若さであった。あとにのこされた遺児はまだ1歳に満たず、なんとも無念なことであった。
胃癌の手術をしたのは昨年夏。それからほぼ8ヵ月の間、のこされた時間に限りがあることを知っていた彼は、渾身の力で「がん」とたたかいつつ、ひたむきに仕事に挑戦してきた。病床でも夫妻の口述・筆記の仕事は続けられた。お二人の共同制作とも言うべき「ひらけ、博物館」(岩波ブックレット)が友人たちに届けられたその翌日、当の本人の訃報が走った。ついに力及ばず、私たちの前から彼はまさに忽然と姿を消してしまった。
私との出会いは、1968〜9年あたりの大学紛争の時代、彼は法政大学の学生であった。ある人を介して博物館と社会教育との関わりや、地域調査のことについて研究室をたずねてきた。当時すでに学生サ−クルとして「博物館問題研究会」のようなものを始めていたと記憶している。独特のガリ版刷りの会誌もその頃から出始めた筈だ。それから四半世紀近く、伊藤寿朗は一筋に博物館研究の道を脇目も振らず歩いてきた。さぞかし疲れもあっただろう。
「誰にでも開放された自主的研究会」を掲げて1970年に“博問研”を発足させるが、あの手書きのガリ版刷りニュ−スが、会を持続させてきた。すべて彼の仕事である。その頃日本社会教育学会では、法制研究資料刊行や施設・職員の「宿題研究」を進めていたが、関連するところには「博物館」資料をひっさげていつも積極的に参加してくれた。「日本近代教育百年史」(国研)の戦後博物館の項も実質的には彼の仕事である。厖大な「日本博物館沿革要覧」(野間研)調査でも主要な役割を担ったに違いない。
私たちは、公共図書館の「中小レポ−ト」に学んで、公民館関係者で“地域”の視点から「三多摩テ−ゼ」を提唱したが、伊藤寿朗はそれらを横に睨みながら「地域博物館」「第三世代の博物館」などの新鮮な理論を提起してきた。この構想がようやく拡がり、市民も支持し、各地で花をつけ始めたというのに、彼はもういない。
伊藤寿朗は少年のように純真で、青年のように正義感にあふれていた。ときに頑固で妥協しないところがあった。縁あって私とは同じ職場になり、学生の指導などで意見が合わないときもあった。彼は容易に自説をまげなかった。おそらくは在野で厳しい道を一すじに歩いてきた哲学なのだろうと思った。
厳しい道はまだ続く。しかし、伊藤くん、あなたはたくさんの仕事をした。あなたが育てた若い人たちがきっと後を継ぐだろう。
休み給え、眠り給え。
▲在りし日の伊藤寿朗さん(東京学芸大学社会教育研究室、1987年6月24日)
14,
宇部市社会教育との“出会い”
−田中辰彦さんの思い出
*宇部市「婦人ボランテイア・セミナ−15年誌」1992年
この15年を振り返ってみると、あたかも恋人が住む町であるかのように、宇部市に通いつめたことになります。毎年必ず夏の蝉の季節です。宇部の町で蝉しぐれを浴びて、ああ今年もまた1年がめぐってきた、と思ったものです。
最初の数年は「婦人ボランテイア・セミナ−」だけでなく、別の事業の講演にも引っ張り出されて、1年に何回も宇部通いをしました。帰路には当時私を委員に(驚くなかれ、正式に)委嘱した豊浦町の公民館運営審議会に出席したり、私の日程に合わせて開かれる山口県社会教育研究会に参加したりしました。宇部市「ボランテイア・セミナ−」によって、宇部の皆さんとは言うまでもなく、山口県の多くの社会教育関係者との忘れがたい出会いがありました。
そのきっかけを作ってくれたのは、今は亡き田中辰彦さん(当時社会教育係長)です。初めて田中さんと出会ったのは、「ボランテイア・セミナ−」発足の前の年(と記憶している)、小郡の公民館で開かれた山口県社会教育研究会の席上でした。会の中心であった長門市の中原吉郎さん(当時社会教育課長)が紹介してくれました。一度宇部市に来るように、と私をさそった田中さんのひたむきな顔が昨日のことのように思い出されます。
それから15年、実にたくさんの魅力的な宇部「婦人」たちとの出会いがありました。その場面ごとに田中さんの顔が浮かびます。田中さんは“出会い”をつくるのが上手でした。一緒に沖縄の旅もしました。また田中さんはときどき東京の私の研究室に電話をかけてきました。講師の人さがしです。少しせっかちな話ぶりですが、いい人を宇部に招きたいという熱意あふれる電話です。それに応えて私も積極的に紹介の役を果たしたつもりです。山口県下で宇部市ほど、日本の社会教育の第一線で活躍している理論家・実践家を招いたところはないのではないでしょうか。
田中さんが播いたいろいろな種が、どのように花をひらき実を結ぼうとしているのでしょうか。とくに「ボランテイア・セミナ−」から巣立ったみずみずしい女性たちが、地域のなかでどのような市民の“花”を咲かせているのか、田中さんはきっと遠くから見ているように思われてなりません。
私は年に1度か2度の講義だけの出会いですから、なんとなく物足りない思いがして、田中さんに(かっての新生活運動のような)合宿して語りあうような「集い」を、それも同級だけでなくいわば同窓の、縦の集いを計画してはどうか、と提案したこともありました。その機会にはまだ恵まれませんが、もし企画されれば出席したいなあ、と思います。 一人ひとりの小さなエネルギ−を横に、また縦につなぎあわせて、楽しいネットワ−クを拡げていけば、きっと大きな力になる筈です。宇部の町を、誰もが住みよい町にしていく静かな胎動・運動を、皆さんのボランタリ−な網の目が創り出してほしいと思います。「15年のあゆみ」に寄せて、田中さんを偲びつつ、そう思うのです。
▼
1987年11月・山口県社会教育研究会 (
後列左2人目に田中辰彦さん。
前列・右2人目に中原
吉郎さん、
3人目に山本哲生さん、左端に小林。 @山口県周東町図書館前、1987年11月29日
)
15,
佐々木軍八氏を偲んで
*山口県豊浦町「佐々木軍八(中央公民館元館長)追悼集」(1992)
佐々木軍八元公民館長が亡くなられたという報せを片山房一くんからいただいたその夜、過ぎし日をあれこれ想いおこしながら、淋しくなってアルバムをめくってみると、すぐに佐々木館長(当時)の温顔がいくつもでてきました。豊浦に参上した折、帰りにわざわざ川棚の駅まで送って来て頂いて、記念にカメラを向けると、威儀をただして写真におさまっていただいたものもあります。古い駅の、案外新しいベンチの上です。1981年頃でしょうか。じっと見ていると、あの温かいお人柄が今でもふわりと体全体をつつんでくれるようで、切ないかぎりです。
あの頃、私はときどきの豊浦への旅が楽しみでした。こんなことは二度とないだろうと思いますが、当時の私に、豊浦町教育委員会は公民館運営審議会委員を委嘱されました。大学では、学生部長の激務に追われ、疲れ果てる毎日が続いていましたが、その中での豊浦への旅は、私に人間を取り戻し、自然にかえる時間を与えてくれました。佐々木館長は、その私をいつも両手をひろげるような感じで歓迎してくださいました。包みこむような人間的な温かさを忘れることができません。
私と豊浦との出会いのきっかけは町の公民館の建設です。東京都で私も委員の一人として参加・作成した「新しい公民館像をめざして」(1974、いわゆる三多摩テ−ゼ)を下敷きにして公民館は設計・建築されたというのです。豊浦町の「新しい公民館像をめざして」も作られました。そして私を招いて、拙い話を何度も皆さんで聞いて頂きました。一度ならず、墨書きの礼状もいただいたものです。
佐々木館長は、挨拶がお上手な方でした。いつも私をもちあげて皆さんに紹介されました。恐縮しつつ、いつのまにかいい気になって話を始めると、不充分な内容でも、にこにこと笑顔で聞いてくださいました。あの笑顔が懐かしい。
人を温かく受け入れ、いつの間にかその気にさせて、それぞれのエネルギ−を引き出す、人と人とを結び合わせ、地域の活動の輪をひろげていく、この方は天性の社会教育者だったのではないでしょうか。
私は、佐々木館長が抱いた公民館への情熱をいつまでも忘れません。豊浦町公民館の初期創造のいきいきとした精神を忘れません。若い職員たちのエネルギ−や意気盛んな町民有志の善意に支えられて公民館は躍動を始めたわけですが、その中心のところに佐々木館長の心意気と配慮があったに違いありません。このことを語り継ぎながら、新たな公民館の発展をめざしていただきたいと思います。
山口県社会教育研究会とのお寺での合宿や、暑い夏の社会教育研究全国集会(埼玉県富士見市)へのご参加など、若い人たちに伍しての佐々木館長はみごとに若々しい思想を秘めておられました。想い出はつきず、今はただ在りし日を偲びつつ、私たちも頑張らねば、と思うのです。
16,幼な友・大鶴泰弘くんの思い出 *自分史メモ
→■
*大鶴春子さんへの書簡(1993)
1
7,
「歴史の大河は流れ続ける」のこと−田中進さんの思い出
→■
「田中進追悼の集い」パンフ 1993年
18,
一すじに追いかけたものを想いながら−原政行さん追悼
*「原政行君を偲ぶ追悼集」刊行実行委員会(1994)
原政行さんは、いつもあまり多くを語らないで、しかしひたすら自らの信じる道を、ときにはたった一人で、もくもくと歩き続けてきたように思います。
社会教育推進全国協議会では常任委員として研究調査部を担当されました。とくに最後の二年はその体制が充分に整わず、責任者として誠心誠意ずいぶんと頑張っていただいたのですが、その仕事ぶりはどちらかといえば寡黙な方でした。
あの日、彼が突然われわれの前から姿を消してしまって、はじめて私たちは、そのあとの大きな空白に驚きました。表面にはみえないところをふくめて、実に大事な役割を担ってこられたのだということを実感させられたのです。いなくなってみて、あらためて原さんの存在の大きさを知る、そんな一年でした。それだけに何とも口惜しく、またなんらその労に報いることができず、申し訳ない思いで一杯です。
実は、原政行さんが亡くなって一ヵ月後、福岡の社会教育実践・運動の中心にいた森川実さん(社全協・全国委員)が急逝されました。あいつぐ悲報に、私たちは呆然としました。いずれも体は頑強、誠実な人柄、まわりの信望厚く、そして二人とも人一倍の努力家でした。そういう人だからこそ、また共通して社会教育という深みのある仕事に運動的にかかわってきたことが、結果として生命をすりへらすようなことになっているのではないか、しばし天を仰いで考えこんだことを思いだします。
かって歌ごえ運動のなかで「若者よ、体を鍛えておけ」という歌がありました。みんなで飲んではよく歌いました。「美しい心が、たくましい体に、からくも、支えられる日がいつかはくる、その日のために、体を鍛えておけ、若者よ」と歌いながら頑張ったものです。
私たちは、たしかに体を鍛えておく必要があります。しかし頑張りすぎてはいけない。私たちは誠実に、そして努力する必要がある、しかし何にたいして誠実であるか、何のために努力するか、と問いかけながら、ゆっくりと歩む必要がある、と思います。
原さんが、一すじに追いかけたであろう何かに想いを馳せながら、ゆっくりと頑張りたいと思います。(社会教育推進全国協議会委員長・小林文人)
19,
メッセージを語り継ぎたい
一
森川実さんを想うー
*福岡子どもの文化研究所発行「子どもの文化」第34号(1994)
1993年6月中旬、私は九州・福岡にいた。
翌94年度の社会教育研究全国集会(第34回・九州集会)準備のための「拡大事務局会議」(佐賀・武雄温泉・如蘭塾、6月12〜13日)に参加するためである。往路の福岡から武雄までは御塚隆満さんの車に、そして帰りは森川実さんの車に同乗させてもらった。
この両日のことは、いまでも鮮明に憶えている。ここで、第34回・全国集会を(長崎や佐賀ではなく)雲仙の地で開くことがほぼ決定された。雲仙については、皆、噴火のこと、災害のことが心配だった。「大会中にもし普賢岳が爆発したら、みんなで一緒に死ねばよい」などという冗談も飛び出して、意気盛んな会議となった。この席で森川実さんは詳細に、そして大胆に、集会を準備していく組織体制について提案した。その声がいまも耳に残っている。(その時の横顔が大写しで私のカメラに収まっている。)
如蘭塾の夜の交流会では、久しぶりに会った中島博さんが、少しお酒に酔った感じだったが「最近、森川くんがほんとに成長しましたよ」「森川くんがしっかり頑張ってくれるから安心だ」と繰り返し語ってくれた。自治体・教育労働運動を担ってきた先輩として嬉しかったのだろう。
帰りの車は、中島博さんや石井山竜平くん(九州大学院生)とも一緒だった。あれこれの社会教育のこと、研究のこと(石井山くんが少し難しい話もした?)など、四方山話しのうちに福岡までたどりついた。疲れた体には、森川さんの運転が心地よかった。二人が先に下りた後、私をわざわざ城南区油山の寓居まで送りとどけてくれた。
「じゃね、頑張って下さい。送ってくれてどうもありがとう。」「いやいや、次はいつ福岡ですか、その時またお会いしましょう。全国集会はきっとうまくいきますよー。」そんな挨拶を交わして、手をふって別れた。それから5日後の悲報であった。
森川実さんが福岡市の地域公民館に就職したのは1968年のことだという。私はその前年、東京学芸大学に職を得て、福岡から東京へ居を移していた。だから福岡ではすれちがいだ。社会教育にかかわって一緒に生活したことはないわけである。しかしなぜかそんな感じではない。彼が就職した年、何かの集会で今は亡き田岡鎮男さんから紹介されて以来、森川さんとは25年来の知己となった。その後ほとんど毎年といっていい位、必ずどこかで会ってきたように思う。たとえば福岡市の研究集会で、あるいは公民館「合理化」反対闘争のなかで、また社会教育研究全国集会の場で、会ってきた。お互いに社会教育の民主化運動に参加するなかで、私たちは四半世紀来の仲間であった。福岡市社会教育研究会などのあの丹念な彼の手づくり記録や通信を何度読んできたことだろう。
私は、かって「はげまし学ぶ主事たちの動きーその苦闘と創造とー」という報告を書いたことがある(小川利夫編『住民の学習権と社会教育の自由』1976年、勁草書房)。それは主として福岡市地域公民館の「主事たち」の集団的な実践、そして地域公民館を守る闘い、を記録しておきたかったからである。そこに登場する人々は(名前こそ掲げていないが)前述の田岡、中島、御塚さんたち(福岡市公民館主事の第一世代)と、それに続く第二世代の林貞樹、日下部恭久、坂田一九夫、横山孝雄などの皆さんたちである。森川実さんは、その第二世代の中心にいた。そして人生半ばにして惜しくも倒れたのだ。
思い起こせば、1992年・神奈川・湯河原で開かれた第32回全国集会・第1全体会で、森川実さんは、全国からの参加者を前にして福岡市公民館40年の歴史と嘱託公民館主事のおかれた現状について、長い長い報告をした。約束の時間を大幅に超過したが、報告は終らない。司会者はやきもきするが、彼は臆せず最後まで報告を省略しなかった。あの時、私は彼の執念を感じた。全国の仲間に今なお格闘している福岡の公民館問題を伝えずにおくものかという気迫と、福岡の公民館を支える第三世代ともいうべき人たちへのメッセージを実感した。
一すじの誠実さと秘めたる正義感、省略をみとめない丹念さと頑張り、彼がいなくなってみてピカリと光るその生き方にいま教えられる思いである。なんとも残念なことだ。
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22,朱膳寺春三氏を悼む
「月刊社会教育」1991年(第35巻)1月号
公民館制度の創設の頃から、公民館の実践にたずさわってきた“公民館人”の一人、朱膳寺春三さんが亡くなられた。
独自の公民館史である『公民館の原点』(1985年、全国公民館連合会)を上梓された後、さらに第二作を執筆中に脳梗塞で倒れられて(1988年4月)以来、今年11月11日に息を引き取られるまで、二年半にわたる闘病生活であった。ご子息の宏一氏(船橋市教委社会教育課勤務)の話では、最後まで意識はたしかで、医者を呼ぶことも断り、自宅で静かに逝かれたという。
朱膳寺春三さんは1911年横浜市の生まれ、旧満州に1931年に渡られた。渡満前には小学校代用教員をされたこともあった(当時の教え子たちが闘病生活中に何度も見舞いに来られたという)。
戦後に北京より引き揚げ、1947年に宮城県本吉郡小泉に仮寓、これが縁で翌年に同郡津谷町役場に就職され、創設期の町の公民館づくりに参加された。以後は一すじに公民館人としての道を歩んでこられた。
この津谷町公民館長(1955年)、さらに本吉町公民館長、宮城県公民館連絡協議会長、全国公民館連合会理事などを勤められた。退職(1969年)後上京されて10年ちかく千葉県鎌ヶ谷市の社会教育指導員や同市公民館長・図書館長(嘱託)として活躍された。1970年前後には社会教育コンサルタントと称されたこともある。
文字通り戦後社会教育の、公民館の歴史の実践的な生証人であった。しかしそれだけではない。思い起こしてみると、驚くほどの執着心をもって研究的であった。公民館史についての貴重な事実を精力的に発掘され、資料も整理保存されてきた。
たとえば寺中作雄の公民館構想にかんする最初の論文「公民教育の振興と公民館の構想」(大日本教育、1946年1月)の発見や、「二つの次官通牒」(月刊公民館、1963年1〜6月)などは、朱膳寺さんの研究執念の結晶のようなものである。「月刊社会教育」にも「公民館単行法の経緯をめぐって」(1969年3月号)をはじめとして、10点をこえる“朱膳寺節”の証言を寄稿されている。
朱膳寺さんがまだ本吉町に在職されていた頃、地方社会教育資料調査に没頭していた私は、横山宏氏(国立教育研究所、当時)に同道して、東北本線から大船渡線を乗り継いでお宅に伺ったことがある。はるばるとよく来た、というわけで、朝風呂を沸かしていただいた暖かさを想い出す。北陸から山陰への調査行のときにもご一緒していただいた。少し体が弱られても、学会などによく出席された。「これを君にあげる」と言われて、収集された資料を何点か頂戴したとき、なにか形見分けをされているような感じで、悲しくなった。
朱膳寺さんが遺されたものは大きい。朱膳寺さんからいろいろと教わったが、その一すじの生き方、秘めたる反骨の精神のようなものに学んだ気がする。
▼北陸地方・社会教育資料調査、左より小林、朱膳寺、横山、古賀(皓生)、藤田(博)の各氏(高岡市、1973年)
23,
寺中作雄さんとの出会い、沖縄のこと−追悼にかえて
(別ページ)
→■
*公民館史研究会・会報9号(1995年2月)
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26,
正義感あふれる知識人、外間政彰さんへの感謝
*外間政彰文集追悼『爽風一過』(1997)
私たちが戦後沖縄社会教育史研究の空白を恥じて、沖縄に通いはじめたのは、1976年の冬であった。その翌年だと思う、那覇市史編纂室をお訪ねして、はじめて政彰さんにお会いした。たしか真栄里泰山さんともその時にお会いした。いや、真栄里さんから紹介していただいたのかも知れない。
当時の私たちは、いま思いおこすと赤面ものであるが、戦後沖縄の、とくにアメリカ占領下の歴史などについてまったくの勉強不足、ただなんとかして研究を始めたいという想いだけで動いていた。政彰さんは、そんな私たちの初歩的な質問に、やさしい眼差しで答えてくださった。大柄の風格、該博な知識、やや早口でのいくつかの助言、が実に印象的であった。暖かい励ましをいただいたと思う。
それから沖縄に行けば、折りにふれてお会いするようになった。私たちの「沖縄社会教育研究会」にもときに出席していただいた。しかしその後、すこし交流が深まってからの政彰さんの印象は決してやさしく、暖かいだけではなかった。むしろ激しく、厳しく、鋭い舌鋒で切り込むように議論される政彰さんであった。
いまでも思いだす。私たちの奄美調査の報告会の席で、戦後奄美の経済状況の認識が甘いことへの率直な指摘。あるいは本土型の上から下への教化主義的社会教育への厳しい批判、教育とか学習の方法論への疑問、などなど。論議のなかでいわゆる枚方テーゼの一項目「社会教育の本質は憲法学習である」(大阪府枚方市、1963年)については逆に激しく賛意を示された。いま改めて想いおこすと、政彰さんは私たちを甘やかすのではなく厳しく課題を指摘し、戦後沖縄の生きた証人として、また先人として、いいかげんにではなく率直に励ましていただいたのだという感を深くする。正義感あふれる知識人であった。
とくに那覇市公共図書館づくりや1フィート運動にかけるひたむきな情熱を忘れることができない。「未来への証言」の前に、たしかNHK沖縄が制作した「戦世の光景」のビデオを「本土の社会教育でひろめてほしい」といって手渡された。私は東京に帰って研究室で30本ほどコピーして心ある人たちに配ったことを思いだす。
中央線・吉祥寺の南口に「かも屋」という店があった。ある夜ここで、上京された政彰さんを囲んで鴨料理を食ったことがある。喜んでいただいた。この「かも屋」もなくなったが、大事な政彰さんまで逝ってしまわれた。残念である。(和光大学教授、日本社会教育学会会長)
27,
浜田陽太郎さん追悼
*「南の風」第27号(1998年4月 29日)
最近しきりと訃報が届きます。4,5日前は、もと九州大学・矢野峻氏など。今日、突然に麻生誠さん(東京学芸大学→大阪大学、定年後に放送大学)から電話あり、浜田陽太郎さんが亡くなられたことを知りました。驚きました。食道ガン。手術をせず、コバルトで照射しながら、延命の手当をされてきたそうですが、闘病のかいなく、ついに逝かれました。新聞も報じていました。いくつもの想い出がよぎります。
浜田陽太郎さん(もと立教大学総長)は教育社会学者です。実は私もかっては教育社会学の専攻、九州大学の助手時代(1958〜62年)の所属講座は教育社会学、社会教育ではありませんでした。
1960年、九大は日本教育社会学会(10月)と日本社会教育学会(11月)の両大会を盛大にやりとげました。事務局としてほぼすべての仕事を仕切りました。苦労があれば報いもあるもの、このとき、両学会の主要な気鋭の方々(今は長老)との出会いがありました。たとえば前者では清水義弘、青井和夫、そして浜田陽太郎など、後者では横山宏、碓井雅久、小川利夫などの方々です。
その翌年、小林助手は九州大学(教育社会学講座)を石もて追われました。この経過はいろいろあり過ぎて、簡単に書けません。たしかに60年安保デモの先頭に立ったり、やや“造反”的ではありましたが、無念でした。そして東京へ落ちました。そのとき心配して「日本育英会」の職場を用意されたのが、駒田錦一(九大・教育行政講座、当時)と関口隆克(国立教育研究所長)の両先生。このお二方への恩義はいつまでも忘れられません。
そして有り難いことに、失意の身を励ましていただいた方々がありました。九大・教養部の中村正夫(社会学、昨年11月逝去)、川口武彦(経済学)など、それに東京では、お茶の水女子大学・吉田昇などの各先生、そして前記の方々です。
そのなかで浜田陽太郎さんの“叱咤激励”はとりわけ思い出に残るものとなりました。
日本育英会から九州産業大学へ、それから麻生誠さんに誘われて東京学芸大学へ(1967年)。上京後の学会活動の中心は当時(社会教育学会ではなく)教育社会学会。麻生さんの事務局長の下で「研究部長」の一時期もあり(副部長は天野郁夫さん)、東洋館の紀要編集や辞典つくりなどで浜田陽太郎さんとよくお会いしました。
そのあと教育社会学会から社会教育学会へしだいに軸足を移し、浜田さんに会う機会は少なくなっていきます。
しかしたとえば、沖縄研究の科研費などが実現したのは、実は浜田陽太郎さんの評価が大きかったようです。『教育社会学辞典』の原稿を後まわしにして沖縄調査(科研費)に出かけ、浜田陽太郎さんから催促をうけ(うちのかみさんが)叱られたこともありました。
金子書房が「教育学講座」のような企画をした際、寺崎昌男さん(野間教育研究所、当時)や小林文人を推挙したのも浜田陽太郎さん。しかしこの企画は大学紛争などで実現しませんでしたけど。
ついでに、社会教育研究では、横山宏・小川利夫のお二人との出会いがとくに大きかったと思います。小川さんのことは『小川利夫社会教育論集』月報4(1997年1月)所収「社会教育の深い森のなかへ」に少し書いています。
浜田陽太郎さんとのかかわりで忘れられないこと。1970年代初頭の東京教育大学・筑波移転問題をめぐって、浜田さんは東京教育大学(農学部)を辞任されます。浪々の身となるわけです。当時、なんどかお会いしましたが、あまり多くを語られませんでした。
辞任のあとの東京教育大学農学部の教育社会学(教育調査)関連講義は、乞われて小林が(非常勤として)担当しました。1973年、74年の2年間です。そのときの学生の一人が手打明敏さん(筑波大学)。この2年間は、浜田さんの後任になったような気持ちで、張り切って駒場(現在は大学入試センター)へ通ったことを思い出します。
立教大学総長になられてからは、ごく近くに住んでいるのに、ほとんどお会いできませんでした。浜田陽太郎さんは梅根悟氏の高弟、小生は縁あって梅根初代学長によって創学の理念の多くを与えられた和光大学に勤めることになりました。そのうちに和光大学の創設のことや、梅根悟学長のお話などを伺いたいと思いながら、ついにかなわぬこととなり、残念でなりません。
小生は古い大学の体質と学閥的なしがらみに追われ、(また学大では)痛めつけられ、生きてきました。だから当然、それとの闘いもありました。なんども「こんな大学は辞めよう」と思いました。思いもかけず、リベラルな人たちの支持をうけて、学閥的にはまったくマイノリティの小生が学生部長や図書館長に推されるという面白い経験もありました。このときも浜田さんから激励をうけ、また麻生さんから一席設けてお祝いをしていただいた記憶があります。懐かしい思い出です。
学閥から自由に、研究的な思いこそをだいじにして、浜田陽太郎さんは小生をなんども“叱咤激励”していただきました。これをこそ学恩というのでしょう。最初にお会いして以来すでに40年ちかく、享年72歳とのこと。もっとお元気でいてほしい方でした。心からご冥福をお祈りいたします。5月1日、告別式。この日、麻生さんとも久しぶりに会います。
28,野呂隆さん追悼 (追悼パンフ、1997年8月)
初めて野呂さんにあったのは1960年代末の九州、実際に社全協や月刊の活動をともにするようになったのは1967年、私が九州から東京学芸大学に職場を移してから。当時この二つの運動の事務局的な仕事を、誇張していえば、ほとんど野呂さんが一人でやっていた。その孤軍奮闘の姿がいまも目に浮かぶ。大学紛争中という事情もたしかにあったが、東京の大学人はいったい何しているんだろう、という疑問(彼もときに激しく批判した)を想いだす。野呂さんの姿につき動かされて、私も及ばずながら社全協運動に参加し始めたようなものだ。
それからいろんなことがあった。意気投合したことも当然あったし、私が沖縄研究を始めたときには手元の文献資料を一包み持ってきてくれた(今では稀少資料となった牧瀬恒二編「沖縄事情」など)。よく酒も飲んだ。もともと下戸の私は、議論に対抗するために結果的に結構飲めるようになった。宴半ばで帰りたくなかったから。
当然論争もした。私も若かったときがある。もっとも残念なことは、野呂さんが倒れる直前に、社全協全国集会の分科会編成のことで、かなり言い合ったことだ。彼も飲むとかなり頑固、私も案外あとに引かない。言い合ったまま、二人は別れた。よく挨拶もしないで。そして事故。そのまま、野呂さんは意識が再生しなかった。
論議の内容は実につまらないこと、しかし意見が対立したまま、「じゃ、さようなら」と挨拶しないまま、になってしまった。その後、野呂さんと楽しく語らう機会はなく、いま永久に談笑して酒を飲むことは不可能になった。それから私は酒を飲んであまり激しく議論しないことにしている。
この場をかりて「野呂さん、いろいろご苦労さん。つまらない議論をして申しわけない。楽しくおいしい酒でも飲みましょう。私たちの沖縄研究も20年を越えました」と別れのご挨拶をさせていただく。
▲
社会教育推進全国協議会・第一回全国運営委員会−1969年・蒲郡
*
南の風2675号
社全協が発足(1963年)し、全国規模で開かれた初めての運営委員会。左から徳永功(東京・国立)、小林文人(東京)、野呂隆(東京、初代事務局長)、一人おいて、太田善照(大阪・富田林)、串田稔光(東京都教育委員会)、田中貞之助(大阪)、林貞樹(福岡)、一人おいて、飯塚達男(千葉・船橋、事務局長)、堀場喜八郎(埼玉)の各氏。宿舎前にて。
敬称略
29.大きな体躯の短パン姿、想い出いくつか
飯塚達男さんを偲ぶ・追悼パンフ (1998年)
私は1962年から64年まで、船橋・前原団地に住んでいた。九州の大学を追われ、東京に流れてきたときである。苦しい時代であったが、新婚(まだ子どもはいない)でもあって、懐かしい船橋の風景がいまでも脳裏にあざやかだ。しかし、この時期にはまだ飯塚さんと出会った記憶はない。福尾武彦さんを中心に開かれていた研究会でお名前を聞いた程度である。この頃、飯塚さんは野田から船橋へ職場を移されていた。
当時の私の職場は日本育英会、社会教育とは直接かかわりはなかった。しかし社会教育推進全国協議会結成の集会(1963年、金沢文庫)に参加したり、「月刊社会教育」関連の活動に参加し始めていた。そして一九六四年、また九州に戻った。出稼ぎが故郷へ帰る心境であった。
ふたたび東京へ出てきたのは1967年、美濃部都政誕生の四月、職場は東京学芸大学。住まいは国立にかわったが、それから船橋の社会教育との深い付き合いが復活した。よく船橋の公民館に出かけた。「婦人学級」での話はいつも前原団地の新婚時代の思い出から始まった。そして翌68年からは社全協運営(常任)委員となり、また月刊社会教育の編集にも参加するようになった。当時の社全協事務局長は初代・野呂隆さんのあとをうけて、飯塚達男さん。偉大な体躯に親しみをこめて「たっちゃん」と呼んだ。私の社全協運動の初期は野呂さんや飯塚さんと一緒に始まったようなものだ。
想い出はつきない。当時の社全協の体制はまだ創設期の幼さをもっていたが、中心で苦労した人たちには、それだけに言いしれぬ連帯感があったように思う。68年夏の第八回全国集会(東京・聖蹟桜ヶ丘)の前夜、準備のために集まったのは、故吉田昇委員長ほかわずか3人?程度。ときに孤立感もあったが、飯塚さんのあの体躯、ゆったりした人柄、野呂さんのようには論ぜず(案外と寡黙な人だった)、しずかに笑いながら、縁の下の役割をこなしていた短パン姿、に大いに救われるところがあったのである。
1970年夏の湯河原集会で、社全協事務局は石間資生(第三代事務局長)を中心とする三多摩若手メンバーに引き継がれるが、飯塚さんは、それにいたる時期の、厳しく、ときに寂しく、難しい時代の社全協運動を重く担われたのだ。あまり「言挙げ」しなかった飯塚さんの労苦、奮闘、そのお人柄にあらためて敬慕の念をおぼえる。
飯塚さんが再び野田市に復帰されたのが1971年。その翌年と記憶しているが、私はお願いして、社会教育の仕事に就きたいと切望していた学生(農中茂徳くん)を野田市に採用していただいた。彼は社会教育主事の資格をもっていなかったが、飯塚さんのお力で勤労青少年ホーム?の職員に職を得ることができた。このことも忘れられない。
農中くんは、その後、周囲(演劇青年など)に推されて野田市議選に立候補、見事に落選、職を失ったが、いま郷里の九州で養護学校教諭として、いい仕事をしている。
30,
仲宗根政善先生を偲ぶ−『追悼・仲宗根政善』に寄せて
*「南の風」第177号(1999年2月7日)
1999年2月4日、新城捷也さん(元沖縄県教委・社会教育主事)が和光大学へ見えた。息子さんの大学受験に東京まで付き添い。画に描いたようないいお父さんらしい。新城さんは、私たちが沖縄研究を開始した当時(1970年代後半)、宮城英次さんと机を並べていた青年担当の社会教育主事。東京学芸大学「沖縄社会教育研究会」(1976年創立)に伍して立ちあがった那覇「おきなわ社会教育研究会」(那覇、1977年)の創設からの主要メンバー。新城さんは故仲宗根政善先生の秘蔵の甥。昨年末に刊行された『追悼・仲宗根政善』(沖縄言語研究センター発行、ニライ社)を持参されていた。仲宗根先生は1995年2月に亡くなられ、すでに4年。三拝して拝受、いま飽かずページをめくっている。
*仲宗根政善(1905〜1995、沖縄師範学校女子部教授、ひめゆり女生徒とともに沖縄戦へ。
九死に一生を得て戦後「沖縄の悲劇ー姫百合の塔をめぐる人々の手記」上梓。沖縄群島
政府文教部から琉球大学教授へ、同副学長、「沖縄今帰仁方言辞典」により日本学士院
賞、ひめゆり平和祈念資料館・館長、歌集「蚊帳のホタル」など。1995年2月14日没)
私が最初に仲宗根政善先生にお会いしたのは、記録によれば、1978年2月12日。新城捷也さんに首里のご自宅へ案内していただいた。当時の沖縄研究・現地事務局長の当間ふじ子(現姓名城、那覇市役所勤務)が同道していた。そのときのテープおこしが『沖縄社会教育史料』第三集(1979年3月刊)に収録されている。
実の甥の新城捷也さんが連れてきたということもあるのだろう、初対面なのに、先生は打ちとけて、いろんな話をしていただいた。いま「第三集」を読むと、あの日のことをまざまざと思い出す。私は「沖縄戦のときはどちらにいらっしゃいましたか」など、素っ頓狂な質問からインタービューを始めている。「ひめゆりの悲劇」の当事者に何と失礼な・・・といま冷や汗が出る。
その頃の私は、戦後沖縄史の証言を聞くときには、いつも沖縄戦から話を聞くパターンがあって、ついうっかりそんな問いかけから始めたのだ。それでも、政善先生は、あのやさしい、もの静かな口調で、こちらの質問にすべて丁寧に応答して下さった。
沖縄戦の悲劇については、とくに話を伺わなかった。あまりに重く聞けなかった。政善先生もすぐに戦後に話題を移された。主として、アメリカ占領下のご苦労、日本語による教育を堅持されたこと、教科書づくり、本土の社会科・地図に「沖縄を抹殺しないように」と出版社に交渉された話、そしてUSCAR、“アメリカさん”のこと、琉球大学での出来事などなど。
政善先生のお話は、厳しい事実を、静かに、具体的に、やさしく述べられる。戦争だけでなく、戦後のつらいつらい沖縄・教育史のものがたり。
突然に、耐えきれなくなって、横にいた当間ふじ子が泣き出した。声をあげて泣いたことを想いだす。一緒にいた新城捷也さんも憶えているだろう。
その後、この日の聞き書きテープは、当間ふじ子らによって、文字化され記録となった。それが上述「第三号」である。ただちに政善先生にこの「第三号」は届けられた。この号は、政善先生のほかに、安里源秀、金城英浩、山川宗英、佐久本嗣善など、各氏の証言が並んでいる。戦後沖縄・社会教育行政を担った方々だ。すでに物故された方が多く、第三集は今や貴重な証言集となった。
「第三号」をご覧になって、きっと政善先生は私たちの仕事ぶりを喜んでいただけたのではないか、などと単純に期待していた。
それからしばらく経って、訪沖中のある日、比嘉洋子(現姓・組原)さん−故人−から、第三号について「政善先生は当惑しておられる」ことを聞いた。驚いた。
先生に、ざっくばらんにお話いただいたことを、そのままテープおこしして、まったくそのまま、証言者ご本人にはお目にかけないまま、印刷に入れてしまったのだ。証言の最終チェックをお願いする時間的余裕が科研費支出の関係で出来なかった。たとえば、アメリカ側の担当官等の評価を遠慮しないで厳しく語っておられるが、そのまま「第3号」に収録する結果となった。先生の、あのやさしい、謙虚なお人柄からすれば、当惑に値する記録化だったのだ。先生にたいへんなご迷惑をかけてしまった。その日は眠れなかった。
その頃、私たちの調査活動は奄美にフィールドを移していた。次の奄美調査の前日、私は那覇に飛び、そのまま先生の首里のお宅に参上した。記録では定かではないが、1980年8月3日ではないか、と思う。翌4日に那覇から船便で沖永良部島(和泊)に渡り、知名町の医師・若松軍八氏に会っているが、政善先生の名刺を持参していたことを鮮明に憶えている。
夏の盛りの仲宗根邸は、暑い思い出など全くない位に緊張のひとときであった。はじめから精神的に汗をかいていた。幸いに先生はご在宅で、にこやかに迎えて下さった。「お詫びに参りました」と申しあげると、「ほー、何かありましたか」などとおっしゃって、まったく何もなかったかのように応対された。「第三号」については具体的な話にならず、ただ当方のお詫びと恐縮の体だけを笑っていただいた。私は心底ほっとして「あぁ、許して下さったようだ、伺ってよかった」と胸をなでおろしたのだ。
お詫びのあとは、翌日から奄美調査に入ることを聞かれ、琉球弧の中の奄美、そのなかでの与論や沖永良部の方言や集落のことなど、かなり専門的な話をうかがったようだ。普段はいつもテープコーダーとノートを離さないのに、まったくメモも記録もとる余裕がなかった。ただ激励していただいたことだけは忘れられず、今になってしみじみ有り難いことだと思っている。
沖永良部(知名)の若松医師をご紹介いただいたのは、そんな激励のひとつの表現だったのだろう。
政善先生のお宅にうかがったのも、直接に親しくお話したのも、ただこの2回だけである。あとはある集いなどで、すこし遠くからご挨拶するだけで、その後はお会いすることはできなかった。
しかし「ひめゆり平和記念資料館」に行くたびに、あるいは『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』や『蚊帳のホタル』など読むたびに、いつも先生とお会いしてきたように思う。毎年の年賀状にいつも「新城捷也をよろしく」と書き添えられていたこともいま懐かしい思い出。いつまでも忘れ得ぬ先生との出会いであった。あらためて、新城捷也さんに感謝したい。
仲宗根政善著『蚊帳のホタル』(1988)から歌をいくつか。仲程昌徳氏(琉球大学教授)が『追悼・仲宗根政善』のなかで「歌の終わり」として紹介している沖縄戦下の歌四首と、それから40年後の歌一首と「ひめゆりの塔」歌碑。
◇二十人にただ四人生く、百九十四人の教え子帰らず
◇教え子を壕に残して出づる夜の闇をつんざき砲声うなる
◇いやはての巌に追われて粥炊きて我に与えし教え子のあり
◇いたづける我をかばいし教え子とふけゆく夜の蛙を聞けり
―そして1985年の歌。この年、数首をのこして歌は終わる―
◇よきことの今年もあらむ教え子の夜のふくるまで集いさわぐも
―あわせて、ひめゆりの塔のうた―
◇いはまくらかたくもあらんやすらかに ねむれとぞいのるまなびのともは
31,川口武彦先生を悼む
*「南の風」第162号(1999年1月18日)
川口武彦先生(元九州大学教授、向坂逸郎氏の後継として教授職を離れ、社会主義協会代表へ、当時、町田市は社会教育委員を委嘱している)が旧12月29日に突然亡くなられた。
小林は、九大教育学部助手時代に同じ団地(貝塚)に住み、家族ぐるみのお付き合いをさせていただいた。石もて大学(教育学部)を追われた時、当時の教養部人事(実際には実現せず、東京へ)などでいろいろとお世話になった。議論もさせていただいたが、なぜか個人的には気が合うところがあり、必ず年に一度のジョイフル・コンサート(町田)にご一緒した。
旧11月から入院されていたことを知らず、亡くなられた時は、日本を離れていて知らず、帰国後、ご逝去を知り呆然、遅れて町田のお宅に弔問に参上(16日)。お顔(写真)が印象的。人生つらいぞ、甘くはないぞ、と言いたげな口もと、なんとなく安らかでない表情で眠っておられた。
◇社会主義を論じつづけて生涯を歩みし人の厳しきマスク
◇70代に生き続けんと欲すれば60代どう生きるかだと教えたまいし
▼川口夫妻と。右端・長身の川口先生(町田・ジョイフルコンサートの日、19900429)
32、浪江虔先生の訃報
*「南の風」第171号(1999年1月30日)
浪江虔先生が亡くなられた。山口真理子さんが福岡に報せてくださった。1月16日、年末に急逝された川口武彦先生のお宅(町田・鶴川)に弔問にうかがった帰り、近くに住んでおられた浪江さんのお宅に寄ろう(虫がしらせたのか)と思い、道順を聞いたら、川口夫人が「歩いてでは少し遠いでしょう」とおっしゃる。「じゃ、また次の機会に」と言って、寄らずじまいで帰った。いまとなっては残念でたまらない。享年88歳とのこと。
浪江先生は、文字通りの在野の知識人。知識人として正義に生きることを私たちに求め、自らも最後まで正義の人であった。年頭の封書の年賀状(「親しい人だけ出します」とあった)も、しっかり書かれていた。日本社会教育学会も社会教育推進全国協議会も、創立当初からの参加者。懇親会などで酔えば、藤村の初恋の詩をうたわれたものだ。
私は、自治労が分裂する直前まで、全国「自治研」の助言者として、約10年、浪江さんとコンビを組んだ。浪江さんが図書館関連、小林が社会教育その他、の役割分担。前後の会合や記録のまとめ等を合わせると、毎年約1週間ぐらい同じ宿(部屋)でご一緒した。
いろいろと叱られもしたが、励ましていただいた。社全協・委員長のときも学会・会長のときも、たくさん手紙をいただいた。
福岡に約束があって告別式に出れない。はるかにご冥福を祈り、感謝の合掌。
―浪江虔先生を偲ぶ、1月29日夜(ぶ)―
◇少年の如くに頬は紅潮し 老女に「初恋」献じし日あり
◇朴政権下マウル文庫の運動を 評価すべきと力説されし
▼左より3人目・浪江虔先生、後列に小林、佐藤進、小川正美、藤田博の各氏ほか(私立鶴川図書館、19880312)
<メモ> 都立多摩社会教育会館「三多摩の社会教育の歩み」研究グループで浪江先生を「私立鶴川図書館」に訪問(1988年3月12日)、貴重なお話をうかがった。この歴史的な私立図書館は翌1989年に閉館された。
33,
訃報・碓井正久先生
南の風1353号(2004年10月11日
10日、碓井先生(もと東大教授、日本社会教育学会々長)が亡くなられたとの訃報を頂きました。もう2年以上も病臥・闘病され、お見舞いもせず、お話しする機会もないままのお別れとなりました。
忘れもしない1960年11月の日本社会教育学会(第7回、九州大学)。先生は学会の若き事務局長(30才代)、小生は会場校の大学助手(20才代)、大会準備に奔走したとき以来のお付き合い。当時の九州大学は、故駒田錦一教授のほか社会教育学会関係者は一人もなく、教育社会学講座の助手に仕事がまわってきたのでした。当初は迷惑千万の思い。しかしこの大会で碓井先生だけでなく、山本敏夫(当時、会長)、宮原誠一、横山宏、小川利夫ほか多数の社会教育学者との出会いがあり、社会教育研究の道を志すきっかけとなったのです。
駒田先生から、一晩どこか(中洲?)の飲み屋に誘われ、「小林君、手伝ってほしいよ」といわれた一言が、その後の人生の歩む道を決めることとなりました。何よりも学会のみずみずしい雰囲気とそれを担う碓井先生をはじめとする若い!研究者集団に強く心惹かれるところがありました。
その後、折りにふれて、いろいろと相談にのっていただく機会が少なくありませんでした。学会のことはもちろん、月刊社会教育や社全協のこと、あるいは少し私的なことも。「月刊」編集長の仕事を始めたとき(1973年)、「協力するよ、遠慮なく言ってほしい」と励まされたことをよく憶えています。あのころ碓井先生は、教育科学研究会の活動が中心で、月刊の編集委員でもなく、また社全協常任でもなかったのに、編集委員以上の声援をおくっていただいたのです。
年齢はちょうど10才違い、しかし故横山宏さんと同じく、出会いからなぜか「碓井さん」と親しく呼ばせていただきました。教え子でもないのに文字通りのご指導、ご高誼を賜りました。有り難うございました。伏して御礼を申しあげ、ご冥福をお祈りいたします。
通夜・葬儀については本日(11日)の朝日新聞などが報じています。
▲碓井正久先生(杉並・横山家にて 20011107)
34,安井田鶴子さんの思い出
*南の風第1435号(2005年3月16日)
3月13日、原水禁運動(安井家)資料研究会は、荻窪駅で待ち合わせ、歩いて約10分、安井家を訪問しました。そこで安井田鶴子さんが亡くなられたことを知りました。2月14日、享年91歳。ショックでした。
竹峰誠一郎君を紹介し、一緒に資料を下見して整理作業の進め方など相談するため、安井家に伺ったのはたしか1月28日。そのわずか2週間後のことだったのです。まわりにあまりお知らせされなかったそうで、私たちも存じあげませんでした。いつも安井先生の写真が飾ってある応接室に、田鶴子さんのご遺骨と遺影が安置されていて、一同9名でご冥福を祈りました。
安井先生が亡くなられた1980年3月前後、ちょうど「杉並公民館を存続させる会」で『歴史の大河は流れ続ける』編集を開始した頃でした。このとき私たちは先生の訃報に接しました。今回も安井家資料の調査整理を始めたばかり、不思議な一致だなと思いながらお線香をあげました。
『歴史の大河は流れ続ける』編集作業は、東京学芸大学社会教育研究室とくに園田(平井)教子さんの役割もありましたが、何よりも安井田鶴子さんの存在なしには語れません。1号から4号までに収録されている杉並公民館や原水禁運動の貴重な資料は、安井家所蔵の資料から田鶴子さんが持参されたものが少なくありません。
いい「解説」も書いておられます。たとえば「民主社会の基礎工事」として社会教育を位置づけた安井郁論文について。「故安井郁の書き残したものの中にこの『特別区の社会教育』の原稿はあった。古びて色の変わった、所々汚れた四百字詰の原稿用紙十七枚に、最初の方はペンで、そして終わりの方は鉛筆で書かれている。(以下略)」など(第2号7頁)。安井郁先生が亡くなられて丁度1年を経過した頃の一文です。
この日、帰宅して古いアルバムをめくってみました。1980年夏の懐かしい写真が出てきました。安井田鶴子さんを中心に「存続させる会」代表の伊藤明美さんや園田教子さん、それにちょうど50歳の若いぶんじんなど。
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コピーして次回の研究会にもっていきましょう。
TOAFAEC ホームページに当日(3月13日)の写真4葉などをアップしました。
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1980年夏・杉並公民館を存続させる会「歴史の大河は流れ続ける」編集会議、左2人目に安井田鶴子さん
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35,駒田錦一元会長の逝去
日本社会教育学会・学会通信(2002年)
2002年11月26日夜、駒田錦一先生が亡くなられました。新聞では脳梗塞のためと報じていましたが、ご遺族のお話では「老衰」。ここ数年は自宅で静養されていましたが、ご逝去のその日もご家族と話され、そのあと眠りにつかれて、いつの間にか亡くなられていた、そんな最後だったそうです。点滴の管につながれることなく、苦しまれることなく、ご自宅でまさに大往生、享年95歳でした。
先生は1954年・日本社会教育学会の創設に参加され、初代副会長、72年から74年にかけて会長をつとめられました。戦後初期の文部省視学官、社会教育局でとくに青少年教育行政に携わり、その後、国立教育研究所で青少年教育部長、勤労青少年調査を手がけ、同時に日本青年団協議会・青年問題研究集会の助言者でした。1954年より九州大学に転じ、教育行政・社会教育講座の創設にあたり、そして教育学部長。1962年より大阪大学へ、人間科学部の創設に尽力され、同学部長。定年後は東京理科大学へ、若い学生に81歳まで講義されていました。この間、東京都社会教育委員(議長)として尽力されていたこともあります。
1950年に米国政府の招聘により渡米されて以来、ソビエト・ロシヤを含めて数多くの海外渡航を重ね、社会教育・青年指導分野における国際交流・比較研究のパイオニア的役割を果たされました。酒を愛され、酔って乱れず、温厚な人柄、多くの人から「コマキンさん」の愛称で慕われた方でした。社会教育学会の厳しい対立論議のなかでは、よく「第三の道はないのか」と発言されていたのが印象的です。謹んでご冥福をお祈りいたします。
▲前列中央・駒田錦一先生(夫妻)、左端・門田見昌明、2列目左端・小林、三人目・古賀皓生、後列左より三人目
・諸岡和房、右端・国生寿ほかの各氏(第35回日本社会教育学会@九州大学、1988年10 月8日、福岡)
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君の霊安かれと祈るのみ−石倉祐志君を惜しむ−
TOAFAEC『東アジア社会教育研究』第14号(2009年)
いつものように"石倉君"と呼ばせてください。石倉君とは大学・学部時代からの出会い、指を折って数えると30年余にわたる歳月。ときに語り歌い、ともに喜び悩み、また一緒にたくさんの旅(中国、韓国、モンゴル、沖縄、ドイツなど)をしてきました。思い出はつきません。こんなに突然の別れがこようとは夢想だにしませんでした。
石倉君は、学生として大学生協に関わり、卒業論文で、また大学院修士論文でも生活協同組合運動をテーマに選び、独自の問題関心を深めてきました。研究室と生協事務室を往復しながら、活発に動いていた学生時代の姿が瞼に浮かんできます。
大学院終了後は生活クラブに職を得て、生協運動一筋の人生であったと言っても過言ではありません。社会教育研究室の出身ということもあり、学習・運動の視点をもって生活協同組合運動の研究に取り組んでほしいと期待してきました。研究者は大学の中にだけいるのではない、むしろ実践・運動のフィールドにこそ研究者が育ってほしい、そんな話をした日もありました。自らも在野の研究を心に秘めた一時期があったと思われます。
学会発表や論文執筆などについて議論したこともありました。TOAFAECの研究活動とのつながりで、ドイツ社会文化運動との交流に参加し、あるいは沖縄への研究旅行のなかで、「やんばる」の共同店や集落自治に、生活協同組合運動の初心を見い出す生き生きとした表情がありました。多くを語る人ではありませんでしたが、内面的には、事実にふれながら、実に多くのことを考えていた人であったと思います。
しかし職場は、研究条件があるわけではなく、研究者としての道は思うようには進みませんでした。これまでの生協運動の経験を活かし、地域活動との新しい出会いもあり、むしろこれから面白い人生が始まるのではないか。そんなときに体調必ずしも充全でなく、そして突然の落日! 最後の2年は、ゆっくりと語りあう機会がなく、まことに残念の極みです。私たちは惜しい人を亡くしました。若い頃の研究への志や探求意欲を知るものとして、無念の思いを禁じえません。
TOAFAEC の活動には、発足(1995年)当初は断続的な参加でしたが、すぐに常連となり、その後は事務局の中心メンバーでした。たしか2001年春から2006年夏ごろまで、およそ5年余り事務局長(第2代)の重責を担いました。毎月定例の研究会案内、そして丹念な研究会記録がホームページに残されています。年報『東アジア社会教育研究』は、第7号〜第11号の5冊の編集長。徹夜で作業していた姿が脳裏に浮かびます。
TOAFAEC は少なくとも実質5年ほど彼によって支えられ、年報発行が危機に瀕した一時期を救ってくれたのも彼でした。結果的に無理を強いることになったのではないかという悔恨の思いがあります。大学時代の出会いが、卒業後も続き、親子ほどの年の差なのに、間断なく(体調をこわしたこの2年は別にして)30年の歳月をともに歩いてきたことに深く感謝、ただただ、君の霊安かれ、と祈るのみです。
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2008年七夕の会(池袋、20080628)
40,
想い出つきず−新城捷也さんを偲ぶ−
「南の風」第 2662号(2011年5月26日)
5月24日の那覇からの訃報(新城捷也さん、23日に狭心症により急逝)。在りし日を偲びつつ写真を探していると、いろんな想い出がめぐってきます。とくに印象的なことが幾つかあります。
私たちの沖縄研究(1976年)、当初は那覇や読谷などで戦後初期の社会教育関係者の証言収集が中心でした。はじめて(1977年)“やんばる”に入ったのは、新城さんの車でした。安里英子さんが案内役。東海岸から名護市役所、今帰仁村へ。若い建築家集団「象グループ」の仕事(両自治体の基本構想づくり)と出会う旅でもありました。あのころ新城さんは沖縄県教育庁・社会教育主事。宮城英次さんとご一緒に青年担当として息のあったコンビ。青年たちとの豊かな信頼関係を想い出します。
やんばる行きでは、今帰仁村与那嶺の母上の(叔父・仲宗根政善先生の)生家にも寄りました。今でも今帰仁村を通ると当日のことが懐かしいのです。
首里の仲宗根政善先生のお宅に初めてお邪魔して(1978年)、貴重な話を伺うことが出来たのも、もちろん甥・捷也さんのお引き合わせ。喜納勝代さん、当間(現・名城)ふじ子さんがご一緒でした。この日の証言は私たちの『沖縄社会教育史料』第3号に収録。これにまつわるエピソード(失敗談)は、「仲宗根政善先生を偲ぶ−『追悼・仲宗根政善』に寄せて」として「南の風」177号(1999年2月)に書き、ホームページにも再録(本ページ、上記30)しています。
東京の沖縄社会教育研究会(東京学芸大学)と並んで、1年おくれで創設された那覇「おきなわ社会教育研究会」(1977年〜)の中心メンバーでした。社会教育ひとすじの道。晩年はなんどか体調をこわして闘病生活だったようですが、悠々たる人生を歩まれた方だと思います。2008年3月、上海・華東師範大学及び韓国からの一行が初めて沖縄を訪問したとき、「おきなわ社会教育研究会」を代表してお元気な挨拶をされた姿を思い起こしています。
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新城捷也さんのご挨拶、左側は呉遵民教授(通訳)−20080326、沖縄青年会館ー
41,
ともに歩いて半世紀−佐久間章さんを偲ぶ
*
同・追悼集
「おーい、元気でやってっか」(船橋)
2011年
1961年から3年ほど、船橋・前原団地に住んだことがある。九州の大学を追われ東京に流れてきた頃である。大学のポストはなく、日本育英会にようやく職を得たが、当時の首都圏は高度成長下・人口急増の嵐でひどい住宅難、やっと籤にあたったのが船橋の団地という経過であった。調べてみたら、すぐ傍に福尾武彦先生(千葉大学)が住んでおられた。
福尾さんを中心に、多分「船橋社会教育研究会」の名称で小人数の研究会が始まっていた。福尾邸で開かれたり、数回は小林の団地の一室が会場となったこともある。この研究会で初めて佐久間章さんと出会った。ちょうど半世紀前のこと。彼は大学を出たばかり、こちらも30歳を越したところ、お互いに「安保問題」など生意気な議論を楽しんだことを想い出す。
この研究会では、勝野時雄さん(日本第一号・妻籠公民館の初代主事、当時は淑徳大学助教授)から木曽谷の御料林解放闘争や地域民主化運動と妻籠公民館について話を聞いたことが印象的であった。飯塚達男さんはいつも温顔であった。小林はまだ新婚時代、船橋駅前で仕入れたハマグリをどっさり入れたスキヤキの鍋が好評であった。
その後、東京学芸大学に職を得て(1967年)、本格的に社会教育研究の道を歩むようになって、佐久間さんとは間断なく会ってきた。なかでも社会教育推進全国協議会・調査研究部のことなど忘れられない。1970年代に入って社全協事務局が世代交代をとげた時期。佐久間章(千葉)、片野親義(埼玉)、安立武晴(神奈川)、石川敏(群馬)、藤田博(東京)という豪華メンバーに小林が加わって、調査研究部として初めての社会教育「条例・規則」全国調査に挑戦したことなど。この調査報告は『学習権の保障のために』(社全協、1973年)として公刊され、学会年報(『社会教育法の成立と展開』第15集)にも佐久間章さんの研究論文(共同執筆)が収録されている。
自治体の社会教育・公民館の足腰を強くしようと共に歩いた半世紀。わが友は先に
逝ってしまった、あの辛口の佐久間節をあと一度聞きたい、の思い切なるものがある。
42
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安藤延男さんとの想い出
*南の風
3390号(2014年10月23日)
なぜか最近、ぶんじんとの関わりで訃報が続きます。南の風メンバーではありませんが、安藤延男さん(九州大学名誉教授、元福岡県立大学長、85才)が亡くなられました。10月20日未明とのこと。森山沾一さんからの報せ。西日本新聞(23日)記事では「老衰のため」とあり、あれほど闊達に活躍してきた人が「まさか?」と目を疑いました。追悼の思いをこめて、いくつか「二人史」を書くことにします。
大学では1年上の先輩、心理学専攻。当方とは研究室が違いましたが、お互いに気の合うところがありました。「第九」の感動を語る目の輝きを印象的に憶えています。大学卒業後、安藤さんの新婚ホームは、久留米の自宅からすぐ近く、よく遊びに行ったものです。豚肉のカレーライスがお得意の家庭料理でした。ぶんじんが久留米市教育研究所に勤務した時期(1954年、1年後に大学院に戻った)、ほとんど二人だけの発意で、「教育科学研究会」(本屋の2階で雑誌『教育』を読む会)をスタートさせた思い出。安藤さんはとくに「日本作文の会」「生活綴方運動」に熱心だった一時期もありました。この頃の熱気を伝える資料を探し出し、二人で当時を語り合う機会を楽しみにしていたところでした。
福岡女学院の教師生活が案外とながく、安藤さんが大学院に戻る経過いろいろ。その後は九大に職を得て「教育と医学の会」編集にも。1960年代の同誌に5〜6本のぶんじん論文が載っているのは、ずべて安藤さんの配慮によるもの。
話は一気に1990年代へ。安藤さんは九大教授を経て「福岡県社会保育短期大学」学長へ。ある日、短大から「四年制大学」へ移行させる「準備委員会」への参加要請。当時の福岡県知事・奥田八二さん(革新系知事、元九大教授)の辞令が出て、ぶんじんは新しい県立大学づくりに加わりました。東京学芸大学退職後は、油山に住んで、安藤さんと一緒に仕事をする予定でしたが・・・。
43,
仲宗根悟さんを悼む
南の風
3529号(2015年7月28日)
沖縄の日本復帰運動に大きな役割を果たされた仲宗根悟さんが25日亡くなられ、今日28日、すでに告別式が終わったそうです。享年88歳。在りし日のご活躍をしのび、心からご冥福を祈ります。
琉球新報は大きく訃報記事を掲げています。「仲宗根さんは1966年から75年まで、沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)の事務局長として復帰運動の先頭に立ち、運動の象徴となった辺戸岬沖での4・28海上集会などを通して全国に沖縄の復帰を呼び掛けた。沖縄青年連合会(沖青連)の幹事や県青年団協議会の副会長も担った。復帰後は社会党県本の書記長を務めた。辺戸岬の祖国復帰闘争碑の碑文は、仲宗根さんの揮毫」(2015年7月28日記事)など。
いくつか忘れてはならないことを書いておきます。仲宗根悟さんの社会運動は青年団運動が出発だったこと。1960年「復帰協」結成後、並み居る政党や労働運動の複雑な対立・葛藤を調整しつつ名事務局長として復帰運動をリードしてきたこと。復帰(1972年)後も事務局長として運動の収束にあたり、膨大な『復帰闘争史』(資料編)をまとめる仕事も担われたことなど。
2005〜06年にかけて数回お会いし、貴重な証言をお聞きしました。「沖縄祖国復帰闘争と青年団運動−戦後沖縄生年運動史の証言」として、年報『東アジア社会教育研究』第12号(2007年)に収録しています。この記録はご本人の私家版として再版されました。2012年、復帰40年記念の座談会(年報17号収録)でお会いしたのが最後となりました。合掌!
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中頭青年会OB忘年会の夜、仲宗根悟さん(元復帰協事務局長)、(沖縄市、20051224)
44,
中根章さん逝く
南の風
3697号(2016年7月17日)
沖縄中頭(なかがみ)の青年団運動ひとすじ。同OBとしてお元気に活動されてきた中根章さん(写真)が15日未明、亡くなられました(上掲記事)。盟友の旧沖縄復帰協(事務局長)仲宗根悟さんの1周忌を前にして、悟さんが章さんを呼ばれたのではないかなど、東武さん(元沖青協会長)と電話で話したことでした。
中根章さんは、沖縄(コザ)市の繁華街に事務所をもっておられました。中頭青年団OBのたまり場、私たちTOAFAECメンバーとの座談会(2007、2012年、いずれも年報に掲載)もここで収録されました。HPに掲げた写真は、ちょうど10年前、同事務所でのスナップ。闊達なお人柄に惹かれて何度もお邪魔した思い出。私たちは惜しい人を亡くしました。はるかにご冥福を祈ります。
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左・中根章さん(コザなかの町中根事務所にて、20060531)
45,
翁長雄志・沖縄県知事 急逝!
南の風
3968号(2018年8月10日)
≪ウチナーンチュとしての県知事≫
風・前号を配信したのが多分7日。その翌日8日の夕刻、島袋正敏さん(名護)から電話。おや、電話はいつも午前なのに・・・と、のんきに出たところ「翁長県知事死去!」の知らせでした。驚きました。
4月の膵臓ガンの手術、その後の闘病。慰霊の日や辺野古埋め立て承認撤回の記者会見(7月27日)で痩せ細った姿が気になっていましたが、しかし元気に「沖縄の心」を表明され、背筋をのばして問題に立ち向かっている政治家の意気込みも感じていました。それだ
けに、まさか?の驚き。セイビンさんも狼狽気味。しばらくして、テレビに副知事による「知事・意識混濁」の会見が流れ、相次いで急逝の速報が報じられたという経過でした。辺野古問題が急をつげるとき残念無念!
稲嶺進さんの名護市長と重なって翁長県知事の奮闘があり、心より応援もしてきました。折にふれて大事な言葉を発しながら、独自のメッセージに打たれるものがあり。それだけに、なんとも言えない喪失感。これからの知事選、辺野古問題がどう動いていくか。
ヤマトゥの保守政治家が(首相はじめ)その場しのぎの美辞麗句をならべ、まったく空疎な言葉にうんざりしてきただけに、翁長知事の語録は心に響くものがありました。イデオロギーよりアイデンティティー、日本の政治の堕落、ウチナーグチの訴え。「グスーヨー、負ケテーナイビランドー。ワッターウチナーンチュヌ、クワンウマガ、マムティイチャビラ、チバラナヤーサイ(皆さん、負けてはいけないよ。私たち沖縄人の子や孫を守るため頑張りましょうよ)」(2016年6月19日、元米兵の女性暴行事件に抗議する県民大会)。
「ウチナーンチュ、ウシェーティナイビランドー(沖縄の人をなめてはいけないぞ)」など(2015年5月17日、辺野古新基地建設に反対する県民大会で)。沖縄タイムス(8月9日)「翁長語録」参照。
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在りし日の翁長雄志・沖縄県知事(名護市民会館大ホール、20141015)
名護・前田勇憲さん提供
「2014年の知事選の時のもので、10月15日(水)に名護市民会館大ホールで行われた「ひやみかちうまんちゅの会」北部連合主催の女性部大会の際の写真です。やんばるらしい和やかさと、オナガさんへ思いを託す熱気にあふれた、とても素晴らしい会でした。」(前田勇憲)
46、
棺に公民館「職協」の旗をかけて、
中島博さんの訃報
南の風3931号(2018年4月16日)
福岡市の公民館制度の拡充、とくに公民館主事の正職員化運動を中心的に担われた中島博さんが亡くなられました(4月12日朝)。横山孝雄さんからの知らせ(上掲)。享年95歳、大往生とのこと。中島さんは一度も「南の風」に登場されたことはなく、実際に最近はお会いする機会もありませんでしたが、いつまでも忘れることができない公民館主事の生涯。お元気な頃の写真を探し出してホームページに掲げ、心からご冥福をお祈りいたします。
その棺には「公民館職協」の旗がかけられたそうです。ジーンときました。公民館職協とは「福岡市地域公民館職員協議会」(1964年結成)のこと。当時私はまだ福岡(九州産業大学)にいましたから、地域にバラバラに配置されていた職員の皆さんの、画期的な横の連帯の組織づくり、興奮のひとときをよく覚えています。
小川利夫さん編集の本に「励まし学ぶ主事たちの動きーその苦闘と創造を」を書いたことがあります(1976年)。その具体的な自治体の事例として、福岡市「公民館職協」(あと一つは松本市公民館主事会)の動きを取り上げました。その中心にいつも中島博さんの顔が。普段は寡黙ながら、公民館主事の教育専門性と労働者性を論じるときの舌鋒は激しいものがありました。いわゆる下伊那テーゼに対する福岡からの「疑問」(日本社会教育学会年報『現代公民館論』所収)は、その議論を反映したものでした。あの頃は、よく激しい言い争いをしたものだ(今は仲良し論だけ)、しかしそんな“苦闘”から、かけがえのない連帯・友情が生まれてきた(“創造”)、私の研究者としての在り方を問われたこともあったな、など想い出いろいろ。当時を懐かしく偲んでいます。中島博さん、「公民館職協」の旗に包まれて、安らかにお休みください。
▼
写真:前列左より門田見昌明、松田武雄、小林文人、
中島博
の各氏。後列に小林富美や横山孝雄氏も。(福岡・20030614)
2018年以降〜
追悼
V
(別ページ)
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(2) 回想・短信・エッセイなど
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