★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
(2)公民館・社会教育に関する動き−文献・資料など
 
  (2000〜 「南の風」記事ほか)    特記以外は小林文人


      *公民館研究・資料一覧(表紙)→■
      *(1)公民館・社会教育をめぐる政策・実践(1970〜2000)→■



<目次>
1, シリーズ「沖縄の公民館」(20060113) *シリーズ(1)〜(29) 1999〜2000 →■
2, 旧美濃部都政と公民館(20060317)
3, 公民館研究会編『公民館読本』1949(20060409)
4, 公民館60年ー「東アジア社会教育研究」第11号特集構想(20060422)
5, 公民館「施設空間」論
(1)三多摩テーゼ、 (2)沖縄の字公民館、 (3)象グループの仕事、
      (4)自治体構想 (2006年4月〜)、(5)市民が提起する公民館施設論、など(14)まで 
→こちら■
6,  「笠懸公民タイムス」終刊?(20060505)
7, 林克馬「公民館の話」など(20060615)
8,  「公民館は学校になくてはならない」(南英毅氏)(20060714)
9, 公民館数も職員数も減少(文科省社会教育指定統計・速報)(20060914)
10,  長野県の公民館大会(20060929)
11,  鈴木健次郎、白鳥蘆花に入る、鈴木文庫(20061111) *下村湖人→■(73)
12,
 日本公民館学会の5年(20070131)
13,
 鈴木健次郎生誕百年記念特集号(20070222)
14,  飯田市(第44回)公民館大会(20070224)
15,  北陸・鯖江の公民館、湖北・米原の公民館(2070308)
16,  八重山・竹富島憲章と竹富公民館→■
17,  妻籠公民館と町並み保存運動→■
18,  飯田市公民館「主事会報」(20070921)
19,
  杉並の公民館・社会教育を記録する活動→■
20
, 最近の公民館の本三つ−「木曽福島公民館六十年の歩み」など(20071023)
21, 「長野県公民館活動史U」と「公民館史資料集成」続編を(20080627)
22, 創造と抵抗の公民館史−「長野県公民館活動史U」(月刊社会教育2008年11月)
23, 地下水脈の流れとなってー「月刊社会教育」50年(月刊社会教育2008年1月号)
24, 地域の活動を生み出す市民活動を−2009年(「市民活動のひろば」20090115)
25, 公民館の構想−地域史の水脈を再生しよう(「あきた青年広論」96号、2009年4月)
26, 寺中作雄「あんずの村」 (南の風2208号 2009年4月28日)
27, 公民館憲章 (南の風2211号 2009年5月4日)
28,  自治公民館の分科会(南の風2223号 2009年5月24日)→■
29, 公民館・英文冊子“Kominkan”(南の風2234号 2009年6月11日)
30, 市民の公民館宣言 (南の風2350号、2009年12月25日)
31, そよ風−長門の社会教育私史」刊行 (南の風2322号、2010年4月20日)
32, 三多摩の歩みを掘る (南の風2322号、2010年4月30日)
33, 福岡県・庄内村・初期公民館史料 (南の風2451号、2010年6月11日)
34, 公民館初期史料について・回想一つ (南の風2454号、2010年6月16日)
35, 三多摩テーゼ40年・回想(2014〜15年・南の風記事・シリーズ)→■
36,




浜木綿(はまゆう)−竹富島・星砂の浜(070419)




(1)シリーズ「沖縄の公民館」  
*シリーズ(1)〜(29) 1999〜2000 →■
  (南の風1588号、2006年1月13日)
 1999年10月に創刊した「公民館の風」、そこに書いた記事を思い出して、発行リストを開き久しぶりに読み直す機会がありました。「南の風」が“交流”的であるのに対して、旧「公民館の風」は案外と“研究”的だったのですね。
 ちょうどこの頃、沖縄研究を再開し、戦後沖縄社会教育「地域史」をテーマとして、何度目かの文部省(当時)科研費も幸いにとれて、沖縄に通う機会が多くなっていました。あらためて、<沖縄の公民館>の面白さを再発見した感じがあり、そのシリーズを「公民館の風」に載せはじめたのでした。その経過について、「公民館の風」29号に次のように書いています(2000年2月6日)。
 「 … 公民館の“風”で、<沖縄の公民館>シリーズを始めた契機は、一つは埋め草、あと一つは、名護東海岸に普天間基地移設問題が浮上し、辺野古など関係の集落が(自治)公民館組織として対応を迫られる事態となり、この機会に、沖縄型の集落公民館の動きを紹介しようという思いからでした。…」
 このシリーズは20回続きました。相前後して第42回社会教育研究全国集会(2002年)が名護で開かれることに。さらに『おきなわの社会教育』本の企画・編集などと、ますます沖縄に行く機会が増え、その間に得た新しい動きや興味深い新聞記事等を紹介しようというわけで、新シリーズ<おきなわ短信>が始まったのです。「南の風」「公民館の風」(2003年2月休刊)の両方に交錯しながら掲載してきました。
 <おきなわ短信>はその後も続いて、2006年1月現在276 回(風・前号)を数えています。今は(ご承知のように)ほとんど新聞記事の紹介。しかし当初はすべて書き下ろしでした。折りにふれての気楽なエッセイ風の駄文ながら、なかには少し面白いものあり。
 5年あまりの歳月を経過したいま、一つの記録として、「短信」リストを作ってみました。新聞記事紹介欄に移行していく前の段階の短信・目次一覧です。「沖縄の公民館」シリーズ・目次と合わせて、さきほどホームページに掲載。何かの参考になれば幸いです。→こちら■
 ただし本文の入力はなし。HPには「そのうちに本文の入力作業に努める予定」と書き添えておきましたが…、実現するかどうか。(タイトルだけで興味を惹くものがあれば、ご一報下を。本文を送ります。)


(2) 旧美濃部都政と公民館 
    (南の風1620号、2006年3月17日)
 愛知川合宿(3月11日〜12日)ではいろんな話が出ましたが、横浜の伊東秀明さんから、「美濃部都知事を公民館嫌いにしたのは?」とのお尋ね(メール)がありました。
 直接に故知事にお聞きする機会があったわけではありませんが、東京教育大学教授時代(都知事になる前)に、どこかの公民館で、「経済」講師を依頼され、その思想性の故に講師を断られた経過があるらしい。公民館は古い体質だ!との認識があったのではないか、という話が伝わっています。
 これは風説の類に過ぎません。しかし具体的な事実として、東京都政のなかに公民館は位置づいてきませんでした。美濃部都政になって図書館建設の補助金は実現したのに、公民館についての助成策はまったく動かない。「公民館」という名称は美濃部施策(たとえば「広場と青空の構想」、シビルミニマム等)のなかから欠落しています。
 これに挑戦したのが三多摩の公民館関係者。都教委の理解ある人たちに働きかけ、資料委員会を立ち上げてもらって「新しい公民館像をめざして」(1973〜74、いわゆる三多摩テーゼ)を世に出します。黄色の表紙の小さな冊子をいちばん先に読ませたかったのは、ほかならぬ美濃部知事だったのです。読んでくれたかどうかは定かでありませんが。
 併行して東京都社会教育委員の会議は「市民教育のあり方」についての答申(1973年)を出し、その後「市民集会施設」という名目で(図書館と並んで)若干の補助金が出るようになる一時期があります。しかし都財政の逼迫ですぐに廃止。
 当時(1970年代)、ぶんじんは都社会教育委員でした。美濃部都政のもと、知事部局の本丸は無理としても、都教委・社会教育行政の計画や資料のなかに「公民館」を少しでも盛り込ませる努力はしたつもりです。しかしその後の、鈴木→石原都政への流れのなかで、社会教育・公民館をめぐる状況が惨憺たる経過をたどることはご承知の通り。
 横浜のことはよく知りません。ぜひ調べてください。東京についての資料は、本ホームページ「東京社会教育研究」に拙論を収録しています。
 16日夜、さきほど那覇に着いたところ。東京は春の嵐とか、こちらはさわやかな南の風が吹いています。


(3) 公民館研究会編『公民館読本』1949 
     (南の風1630号、2006年4月9日)
 先日の「公民館・コミュニテイ施設ハンドブック合評会」(日本公民館学会、3月29日)の席上、標記の『公民館読本』(1949年)について長澤成次さん(千葉大学)の一文が紹介されました。数日前の「公民館の風」(佐藤進さん発行)にも同文が掲載されていましたので、関連して、私の知る範囲のことを書いておきます。
 小生宅の雑然とした戦後社会教育史料棚のなかにも、この本はあります。1949年12月発行、233頁、定価150円。ご存知のように、この年に社会教育法が制定され(同年6月)、その半年後の出版です。
 その前の段階、つまり初期公民館の時代には寺中作雄「公民館の建設」(1946)や、同「公民館の経営」(1948)−この本はもっと注目されるべき−、鈴木健次郎との共著「公民館はどうあるべきか」(1948)等を含む「公民館シリーズ」(全6集)が刊行されています。そして寺中作雄「社会教育法解説」(1949年5月)と続くわけです。この一連の寺中・鈴木等の仕事ぶりは画期的なもので、それを反映して(小冊子ながら)熱気を含むこれら著作が広く読まれてきました。
 それに比して、法制定から半年後の『公民館読本』はあまり注目されてきませんでした。横山・小林編『公民館史資料集成』(1986)にも引用はありません。この年は、なによりも『社会教育法解説』のインパクトが大きい。『読本』は、それを受けて、法制化にともなう公民館普及のために書かれたものでしょう。優良公民館の紹介にしても簡潔なものに終わっています。そして翌年には、鈴木健次郎『郷土自治建設と公民館』(1950)、林克馬『公民館の体験と構想』(同)、鈴木『公民館運営の理論と実際』(1951)等に象徴される次の時代がやってくるのです。
 最初は一つの構想であり理念にすぎなかった公民館が、自治公民館の数年を経て、優良公民館の表彰などが行われ、そして社会教育法による法制化も実現して、いわば実像化していく。その道程で「読本」という本の役割があったのでしょう。
 この『公民館読本』について、私自身は、寺中や鈴木等の論稿よりも巻頭の金田智成「公民館の社会的意義」が印象に残っています。金田さんは社会学専攻の(当時)若い文部事務官。地域社会学的な視点をはじめて書いている。故横山宏さんの友人、のち国立社会教育研修所長。その関係で知己を得た経過があったからかもしれませんが・・・。


(4) 公民館60年ー「東アジア社会教育研究」第11号特集案 
         (南の風1637号、2006年4月22日)
 今年は日本の公民館が制度的に創設(次官通牒、1946年)されて、ちょうど60年。7月5日が誕生日、人にたとえれば還暦にあたります。
 60年の歳月を振り返って、公民館の制度と活動の歴史をどのように評価することができるのか。一つの区切りとして、総括的に考えてみたい課題です。同時に、海を越えて、東アジアの視野からみた場合、どんな光景が見えてくるのか。私たちの研究会としてチャレンジすべき課題。それが今年の『東アジア社会教育研究』第11号の特集テーマとなりました。(南の風1633号、内田「第11号編集会議」記事)
 欧米諸国の成人教育史と比較して、公民館はまさに日本的な施設であり、同時にまた東アジア的な施設でもあると言えるでしょう。日本は公民館をいち早く社会教育法のなかに法制化(1949年)しました。韓国でも社会教育法の成立(1982年)過程において、公民館制度への大いなる関心があったと考えられます。台湾では、たとえば台北市社会教育館の楊振華館長(1989年・当時)が、その著作に日本社会教育法(中国語訳)を紹介し、公民館を積極的に称揚し、ご本人から直接過大な評価を聞いたことがあります。
 戦後アメリカ占領下の沖縄にとって、琉球政府による公民館構想の導入(1953年)はどのような意味をもったのでしょうか。そしてドイモイ政策(1986年)後のベトナムが、その経済復興と地域開発の施策として、各地に公民館的施設の奨励にあたったことも興味ある事実です。
 日本ユネスコ協会連盟→(財)国際開発センターの津久井純さん(在ハノイ)が私たちの第11号に向けて、ベトナム「共同学習センター」(チュンタム・ホックタップ・コンドン)の報告を寄せてくれることになりました。承諾の返事をいただき、とても嬉しかった。日本の“KOUMINKAN”という言葉が、ベトナムの地で使われたのはどんな経過だったのだろう、「公民館」が海を越えて普遍性をもちうるのは、いかなる特性においてなのか、などと思いをめぐらしています。
 戦後沖縄における公民館の展開については、山城千秋さんと小林の共同で取り組み、第11号の原稿に仕上げようと相談しているところ。


(5) 公民館「施設空間」論(1) 
    (南の風1640号、2006年4月27日)

 この1月に出版された日本公民館学会編『公民館・コミュニティ施設ハンドブック』(エイデル研究所)の新しい特徴は、まずは「施設空間」の章ではないでしょうか。昨夜(4月26日)の『ハンドブック』合評会第2回でも「施設空間論」がテーマでした。報告者はこの章の執筆陣の中心・浅野平八さん(日本大学)。建築学者からの公民館研究のお話は興味深いものがありました。
 これまでの数多くの公民館研究、たとえばその事業論・学習論、あるいは運営論や職員論等の展開がありながら、それと結んで施設空間論を提示していく努力が少なかっことをあらためて痛感。研究会報告は、別に用意される学会記録にお任せして、この機会に私なりの公民館「施設空間」論との出会いをいくつか(自分史風に)書いておきます。
 まずは東京「新しい公民館像をめざして」(いわゆる三多摩テーゼ)があげられます。公民館の基本的な理念と関連して、どういう施設空間が求められるか、徳永功さんたちと楽しく論議したものです。1971〜72年にかけてのこと、30数年前のことになります。発表は1973年。
 「新しい公民館をめざして」には、四つの役割・七つの原則等の理念提起のあとに「公民館の標準的施設・設備の規模と内容」の表があります。仮設的な試みですが、その後の公民館建築に一定の影響をもったところも。たとえば、公民館は基本的に市民のもの、その参加と交流を!という立場から「市民交流ロビー」「団体活動室」など、あるいは「文化」的役割論−三階建論を脱皮する視点−として「ギャラリー」「美術室」「音楽室」「ホール」論等、主婦論との関係で「保育室」、青年論の視点をもって「青年室」構想、などが思い出されます。
 三多摩テーゼをつくる基本的姿勢は、頭のなかだけで構造・構図を画くのではなく、実際に地域の公民館運動や現実の実践の動きから、施設空間論が提起された点にあると思います。市民が何を求めているか、職員の事業展開のなかで何が生み出されているか、その具体的な要請を起点として表が作成されたのです。それだけに、実践や運動の到達水準が「施設空間」論にも反映されている。たとえば、当時まだ未発だった障害者論にたつ施設・設備の具体的提示は明らかに不充分です。(続く)


沖縄の集落(字)公民館−「施設空間」論(2)
     (南の風1642号、2006年5月2日)
 …(承前・1640号)… 次の公民館「施設空間」論との印象的な出会いは、沖縄の集落公民館、それを核にした地域計画の動きでした。具体的には「逆格差論」や「住民自治の原則」を打ち出した名護市総合計画・基本構想(1973年)、さらに「ムラの共同体施設」としての集落公民館を重視した今帰仁村総合開発計画基本構想(1974年)等。その基礎となる地域分析や、計画作成の実質的な作業にあたったのは若い建築家集団を「象グループ」のメンバー(大竹康市さんなど)です。
 今帰仁村基本構想では、約20の各字でつくられてきた字公民館がスケッチされ、その理念型が「集落公民館とそのまわりの計画」として大きく画かれています。象グループの面白さは、施設の内部空間論もさることながら、まわりの環境、地域の暮らしへの眼差し、集落づくり共同施設の核として字公民館を位置づける、いわば外部空間論的なアプローチにありましょう。たとえば集落の広場、共同売店、保育園、子どもの遊び場、老人クラブ、共同出荷場、農機具格納庫などの諸施設の真ん中に公民館が存在している風景。
 今帰仁村では、この基本構想に続いて、中央(公立)公民館が建設されました(1975年)。設計管理は象グループ+アトリエモビル。緑なす芝生を囲むかたちで、公民館の各室が配置され、開放的な空間論を基本に、沖縄の風土と文化を象徴するかのように赤い柱が全体を支えるという、知る人ぞ知る個性的な公民館です。この公民館は、1977年・芸術選奨文部大臣新人賞(美術部門)を受賞。建築専門誌でも、今帰仁村中央公民館の写真を掲げて特集を組み、象グループの仕事がひろく注目されてきました。(『建築文化』1977年11月号、『建築知識』1977年8月号ほか)。
 集落公民館の計画と公立公民館の立体的な構成−今帰仁村の動きには大きな関心をもって、ゼミ学生などと一緒に訪沖するたびにこの公民館の広場に佇んだものです。それから30年、その後の展開は、行政の状況や住民意識の関わりのなかで、複雑な評価が必要でしょうが、地域づくりの視点をもつ象グループの施設空間論には鮮烈な刺激を受け続けてきました。(続く)


◆公民館「施設空間論」(1,2,は重複)・・・・→こちら■
          1, 公民館「施設空間」論について
          2, 沖縄の集落(字)公民館
          3、 象グループ語録
          4. 自治体の公民館計画と施設

          5, 市民が提起する施設空間空間論、など 
          6, 国分寺市の公民館づくり(佐藤進)
          7, 国立市公民館改築委員会の回想(徳永進)

          8, 障害者にとっての公民館
          9, 施設づくりの主体形成(浅野平八)
          10, 施設空間の記憶(浅野平八)
          11, 公民館の用途変更(浅野平八)
          12, 公民館数も職員数も下降ラインへ−社会教育調査・速報
          13, 公民館と指定管理者制度(上田幸夫)
          14, 施設空間の文化−近江八幡の公民館(浅野平八)


            


(6) 「笠懸公民タイムス」終刊? 
    (南の風1660号、2006年6月5日)

 日本社会教育学会六月集会(6月3〜4日)、今年の会場は筑波大学でした。いくつか印象的なこと。一つは、会場校・手打明敏さんのご挨拶。「…筑波大学(前身は東京教育大学)は、50年を超える学会の歴史の中で、大会・集会の会場校に名前を連ねていません。…大変気になっていたところです」(学会通信 178号)と。その意味で“学会の歴史に一歩を印す”(手打)集会だったのです。
 私は1日だけの慌ただしい参加でしたが、自治体関係者の懐かしい顔が少なくありませんでした。激動渦巻く状況のなか、学会の理論研究に(きっと!)期待があったのでしょう。
 まことに広大なキャンパス、しかし食事もままならず、早く脱出?したいとバスを待っていると、石原照盛さん(群馬県邑楽町)たちが通りかかって、期待通り、車に便乗させてもらいました。「つくば」駅前でビール・食事・久しぶりの歓談。
 石川敏さんから「社会教育への思いは熱く」(桐生タイムス、2006年3月3日)のコピーを頂きました。半袖シャツの写真を大きく掲げた石川さんの記事(7段抜き)。話は期せずして、石川さんが情熱を燃やして頑張った笠懸町公民館の「公民タイムス」終刊のことに。
 「笠懸公民タイムス」は、公民館が開館してすぐ、1949年1月に創刊、57年にわたって発行を続け、この3月で527号(最終号?)を数えました。行政から自立し、すべての編集作業を住民が担ってきた独自の公民館報=地域新聞でもあります。他に類のない歩み。たしか大部の縮刷版も3冊(もしかすると4冊?)刊行されている。
 あの懐かしい公民館の一室、お茶の間のような雰囲気の畳の部屋、夕食を済ませた編集委員の皆さんが三々五々集まってきて「タイムス」誌面づくりの作業(編集会議)に同席させてもらったことがあります。賑やかでいい風景でした。他にも忘れられないことあり。ところがこの4月、合併「みどり市」誕生とともに廃刊?という信じられない話!
 編集委員会による「笠懸公民タイムスの存続を願う」の訴えを大きく掲げた3月号。しかし、4月以降の予算は組まれていないそうです。


(7)林克馬「公民館の話」など
    (南の風1665号 2006年6月15日)
 北九州の小野隆雄さんから、戦後初期の公民館資料2冊を送っていただきました。小野さんは九州・筑後(旧水縄村)出身−筑後は私にとっても故郷。一筋に旧八幡市の都市型公民館を創りあげた一人。しかし北九州五市合併後は厳しい歩み。ついに公民館制度が解体していく過程では、その波に抗して闘士の風格! 最近まで「八幡公民館史研究会」を主宰し、貴重な歴史を復元する努力をされてきました。添えられた手紙の一節を(小野さんもきっとご了解いただけると思い)ご紹介します。
 「…今は、公民館も東高西低のようで、かって公民館雄県であった福岡県・北九州も話題は少なく、往昔の面影もない感じです。現場では諦めきれない残党員が歯を食いしばっているのが痛ましい思いです。私の老いの感傷かも知れません。
 さて、笈底から、公民館の化石本が出てきました。このまま蔵に埋もれさせるのに忍びませんので、どなたかに目を通していただき、陽の目を見せて・・・」「本書の適当な受け入れ先がありましたら、然るべくお取り計らい頂ければ幸甚に存じます。」
 いずれも故人・林克馬氏の著になる「公民館の話」(公民叢書第1集、日本文化出版社、1950年)、同「農村建設の譜」1951年、です。林克馬さんは全公連初代副会長、水縄村「生産公民館」時代の主事、小野さんにとっては老師にあたる人。
 1950年、小金井の浴恩館で開かれた第1回全国公民館職員講習会(全公連結成の機運をつくった集い、林さんは議長をつとめた)の記念写真の最前列に、鈴木健次郎(文部省・当時)や岡本正平(全日本社会教育連合会・当時)等の“歴史上の人物”と並んで、林さんはもちろん、小野さんも写っておられます。書きたいことはいろいろ・・・。
 さて、小野さんからのお申し出、どう進めましょうか。私の書庫にもこれまで集めてきた戦後資料が少々あり。関心ある面々で、こういう機会に少し検討してみてはどうか、と思いました。


(8)「公民館は学校になくてはならない」(南英毅氏)
      (南の風1681号 2006年7月14日)
 10日ほど前に、「生涯学習社会における公民館と学校」と題する冊子(A4版、120ページ、本年4月発行)を送っていただきました。著者は南英毅氏。その副題が表記「公民館は学校になくてはならない」。
 略歴によると、ながく藤沢市の小学校に勤務され、10年ほど校長職、3年前に退任。その間に藤沢市教育委員会の勤務もあり、校長として藤沢市公民館運営審議会委員をされていたことも。
 書き出しは「少年期の公民館の思い出」。150 世帯程の集落に無人の公民館(集落公民館)、子どもたちが七夕飾りをしたり、畳の上で相撲をとったり、青年団主催の映画会があったり、寝泊まりしたり、などの回想。ワイワイがやがや、大人も子どもも大勢集まり、「子どもは子どもなりに連帯を培う場」、「ふるさとを感じ、ふるさとに責任をもつ公(おおやけ)の子」として育ってきた思い出などが、印象深く記されています。
 そのような公民館の初期体験が、さらに教師となり校長として公民館にかかわる体験のなかで、豊かに発展されることになるのでしょう。
 「公民館は、地域の多くの人が集まり、その潜在的教育力は魅力であり、文化の集まりです。また文化は、高齢者から子どもに伝達継承されていくとすると、公民館のもつ教育力は、学校にとっても大きな社会資源です。」「公民館と学校との関係が密になればなるほど学校は、活気を帯び、学校は社会力をつけ地域の学校として育つことと思います。」(はじめに)。
 地域の教育力の視点から、学校にとっての公民館の役割が注目されています。私たちの『公民館史資料集成』や、他の公民館文献もよく読んでおられて、著者冥利につきるものがありました。ちなみに、南英毅氏は、ご存知の方も多い小野隆雄さん(北九州市、風1665号本欄に紹介)の義弟にあたり、手紙によれば「…義兄の後ろ姿を見てきました」と。 


(9)文科省指定統計「社会教育調査」速報
          (南の風1714号 2006年9月14日)
 <公民館数も職員数も減少 >
 7月下旬に公表された文科省指定統計「社会教育調査」の速報、福島で開かれた学会等でも取りあげられました。
 ほぼ3年周期で調査が行われてきましたが、今回は2005年10月現在の統計(事業等は1年間)です。しかし、もうすでに1年が経過している。精度が気になる項目もあり、「自治公民館」などはまったく含まれていませんが、なにしろ、社会教育・生涯学習に関しては唯一の全国悉皆調査。年次的な推移など、比較・分析したくなる数字がいろいろ。
 いくつか新しい傾向が現れています。一つは、公民館の最近の動き。この20年来、停滞していた(ほとんど減少していなかった)数字が今回調査では明確に下降に転じているのが注目されます。2002年当時と比較してみると、なんと館数で △638館、職員数では △1599人の減少です。公的セクターの見直し(「行政改革」)路線が、確実に影響を見せ始めたと言えるでしょう。今後もちろん自治体合併の波紋も気になるところ。
 とくに今回調査から、新しく「指定管理者」別の施設統計が示されています。「管理委託者を含む」ので、厳密ではありませんが、文化会館は(1年前に)すでに36%、社会体育施設21%、博物館類似施設等は17%、が指定管理者に委託されている。公民館についてはまだ4%弱の数値ですが、今年度で「指定管理者」へ移行した施設数は、おそらく大きく上昇していること間違いなし。
 指定管理者としては、財団法人や地域団体だけでなく「会社」も登場、NPO への委託はほんのわずか。これからどんな展開になるのか。社会教育施設をめぐる状況も新しい段階を迎え、3年後は激変の統計か。
 学会報告資料のなかに、新しい「公民館の指定管理者」の動きを発表している上田幸夫さん(日本体育大学、「月刊」編集長で忙しいでしょうが)、上記に関連してコメントを寄せていただけないでしょうか。
 なおこの記事は、HP掲載シリーズの続編として、「公民館・施設空間論(12)」とします。

(10) 長野県の公民館大会
   (南の風1722号 2006年9月29日)

 長野県須坂で開かれた公民館大会に久しぶりに参加してきました。今年は数えて第54回。全県からの参加、12分科会とパネル討議、1泊2日、の大集会です。往事の盛況はないにしても、須坂温泉の大広間に集った夜の懇親会参加者だけでも150名前後。さすが信州の公民館大会だ、という実感でした。
 同室の方(4名)は、長野県公民館運営協議会の会長さんなど、長老の顔ぶれ。皆さん、夜9時過ぎには床につかれました。夜更かしの身としては困り果てて、大浴場に行ったり、ロビーをのぞいたり。それでも10時過ぎには布団に。早朝(未明)に目が覚めて、7時には朝食。
 いつも不規則な生活をしている者には、規則正しいリズムに逆に疲れてしまいました。「松本の部屋では飲んでいますよ、どうぞ!」との誘いにのればよかった、と後悔しても後の祭り。
 この大会の最大の話題は、なんといっても飯田市の公民館をめぐるここ数年の大論議。合併を契機に導入される「地域自治組織」「まちづくり委員会」等に関連して、飯田市がこれまで蓄積してきた地域公民館体制の再編が迫られています。自治協議会連合会からは「公民館を市長部局に移行し、公民館条例を廃止」という提案まで出され、市長側は「5年後を目処に対応を検討していく」と回答(今年1月24日)。
 公民館関係者(館長会、主事会等)からは、「公民館主事としての想い」(2月19日)や「新たな公民館ビジョン」(4月12日)が提示されています。この間の詳しい報告が行われた分科会はホール満員の状況。
 こんご(とくにこれから5年後)の動きが注目されます。

(11)鈴木健次郎について

<鈴木健次郎生誕100年> 南の風1746号(2006年11月11日)
 社会教育関係者であれば、寺中作雄を知らない人はいないと思いますが、鈴木健次郎については如何でしょうか。寺中とともに、戦後日本の公民館構想を生みだし、全力で日本全土へ拡げる努力をし、社会教育法へ結実させた人。いわゆる「寺中構想」も「寺中・鈴木構想」とよぶべき一面もありましょう。当時をよく知る人の中には「公民館の父」と評する声も聞かれます。
 簡単に略歴を記しておきますと、秋田の出身(1907生れ)、戦前の大日本青年団から、1945年に文部省へ。公民館の制度創出にたずさわり、転じて福岡県社会教育課長(この時期、ぶんじんは大学院生)、日本教育テレビをへて、故郷へ迎えられ(秋田県知事・小畑勇二郎の懇請)秋田県立秋田高等学校校長へ。秋田青年会館の初代理事長。1970年逝去。享年63歳でした。
 来年は鈴木生誕100年にあたります。記念事業として「あきた青年広論」は特集号を企画し「鈴木健次郎を語る」座談会が開かれました。10日午後、井内健次郎さん(元文部次官、1949年社会教育法制定当時の担当)などとご一緒に談論風発の3時間、司会は佐々木英雄さん(元日青協事務局長)。日本公民館学会の創立のことも話題にしておきました。井内さんの写真を1葉HPに掲載。奇しくもこの日、会場の日本青年館では、「第62回田沢義鋪記念会」が開かれていました。
 生誕100年の企画などめったにないこと。さすが!秋田の皆さん!秋田青年会館からは、鈴木健次郎の著作、論文、追悼記事、書簡などをすべて収録した『鈴木健次郎集』全3巻(1974〜1976年)が刊行されています。
 前列・井内慶次郎氏


<“白鳥蘆花に入る”>
 南の風1747号(2006年11月13日) *下村湖人→■(53)
 前号に続き、鈴木健次郎のこと。鈴木は自らの師として田沢義鋪や下村湖人(戦前の青年団指導者)を尊敬していました。とくに湖人(「次郎物語」著者。雑誌「青年」に連載中、自由主義的だと非難され、日本青年館を去る。1937年)について、その教えが戦後の「公民館の生命をつくる上に大きな力となった」ことを述懐しています。(鈴木「下村湖人追悼」1956年)。
 湖人から伝わった幾つかの言葉は、鈴木を通して、戦後初期の公民館運動の中で語り継がれてきました。たとえば“白鳥蘆花に入る”。
 「…白い鳥が白い蘆の花の中に入ったというのです。鳥の姿が同じ白色なので、その姿はさだかでないが、しかし鳥の入ったことによって蘆花が、一波が万波をよぶように動き出したというのであります。わたくしは公民館の町村社会における姿をこのように解したい。」(鈴木『郷土自治建設と公民館』1950年)
 あるいは「煙仲間」の提唱。煙仲間は、「…お互いの意見を出しあい、その実現を誓っても(団体の決議として強制するようなことを避けて)、まず自分の課題として受け取り、黙々として率先実行し、郷土の人々にその必要性を自覚させていくような、…いわば郷土の地下水的なはたらきを果たす人々」。“地下水としての公民館”という言葉もここから流れていきました(鈴木『水交』9,1966年)。
 「煙仲間」は、下村湖人が青壮年団の翼賛体制化を批判して使った言葉と記憶しています。「葉隠」の歌の一つに、“恋死なん後の煙にそれと知れ ついにもらさぬ中の思いを”(記憶のみ、要確認)とあります。
 寺中作雄は、鈴木健次郎の急逝を悼んで一文を寄せていますが、その思いは切々と胸を打ちます。「…お互いの共鳴と協調の内に、私と鈴木君はがっちり肩を組む事になった。鈴木君の持ち味の地についた指導振りは…好評をもって迎えられ、講演依頼が殺到した。鈴木君の講演ぶりには地方の人々殊に青年達にその魂を攪きゆする響きがあり、多くの共鳴者を得て、公民館の普及は燎原の火のような勢いとなった。…本当に鈴木君のような人は近来稀に見る徳の人ともいうべきである。」(寺中「公民館と鈴木君」、秋田青年会館『鈴木健次郎集』第3巻、1976年)
 11月11日の日本公民館学会・川崎学習会の交流会(焼き肉屋)席上、鈴木健次郎のことについてすこし紹介してほしいという話題になり、本欄は長くなってしまいました。

<鈴木文庫のこと> 南の風1748号(2006年11月15日)
 この欄で「鈴木健次郎」を取りあげたところ(風・前号)、思いのほかの反響をいただきました。本号所収の浅野メールはもちろん、収録してはいませんが、「煙仲間」の一文を読んで「いい言葉ですね、書き留めておきたいと思います」(松井章江・福井市)と感想が届いたり。あまり読む人もいないだろう、でも記録として書いておこう、といった程度でしたから、少々驚きもし、嬉しくもなりました。
 10日の「鈴木健次郎生誕100年」記念座談会でご一緒した文部省・長老の井内慶次郎さんからは、「昨日は失礼しました。鈴木さんのことを久しぶりにお偲びすることができました。勝手なことを申しまして失礼しました。…略…いろいろ難しいことの多い昨今、どうぞよろしくお願いします」とハガキをいただき、恐縮してしまいました。
 あらためて考え始めたことがあります。「文庫」のことです。座談会に備えて通読した『鈴木健次郎集』3巻は、「鈴木文庫懇談会」の編集になるもの。鈴木文庫は「遺族より贈られた愛読書をもとに」秋田青年会館に創設され、その整備・充実のために同「懇談会」が発足したもの。
 考えてみると、私たちのまわりには、いろんな「文庫」があります。規模はさまざま、それぞれの思い。個人的な出会いだけでも、すぐ十指をこえる。そしていま自らの文庫づくり(整理)の課題もあります。
 戦後社会教育・公民館資料を共通テーマに「文庫」ネットを構想できないか。旧「公民館史研究会」の再生?あるいは新しい発想での史資料研究への取り組み、どうすすめるか。杉並・原水禁(安井家)資料研究のこともあるし、沖縄青年運動史研究もそのままになっているし、秋田にも一度出かけて「鈴木文庫」を訪問してみたい・・など、夜になるとだんだんと遠くに思いが駆けめぐって、目が冴えてくるのです。(14日夜)

(12) 日本公民館学会の5年
    (南の風1784号 2007年1月30日)

 この5年余、日本公民館学会の創設に加わり、その活動に参加してきました。助走期間が1年余り、正式の学会発足は2003年5月。東京−東京−埼玉−松本−川崎、と5回の研究大会が開催され、『公民館・コミュニティ施設ハンドブック』刊行、あるいは「公民館60周年」集い開催(昨年7月)など、まずまずのスタートをきることができたのではないかと思っています。昨年12月の川崎・研究大会の機会に、会長を交代(新会長・小池源吾氏−広島大学)することになりました。この間の関係各位のご協力、特に故奥田泰弘さん(事務局長)のご労苦をしみじみ思いおこし、月並みの表現ですが、皆様に心からの感謝と御礼を申しあげます。
 新しい学会の創設というのは、たいへんですが、やはり貴重な(めったに味わえない)体験となりました。若い学会なので、格式ある学会とは違う、自由闊達な議論と清新な運営を心がけてきたつもりです。
 27日夜、前会長ご苦労さん!というわけで「慰労会」を開いていただきました。毎月の学会理事会のあと、必ず寄った神田神保町のドイツビールの店(放心亭)、すこし飲み過ぎました。慰労されることなど冥利につきる思い。思いがけなく花束まで。有り難うございました。
 皆さんから「隠遁しないように」とか「今後とも・・・」など励ましの言葉をいただきましたが、「年をとると丸くなるのが普通なのに・・」との意見も。たしかに年“不相応”に若気あり、自分でも困ることがあります。自戒して参りましょう。今後ともどうぞよろしくお願いします。
日本公民館学会理事会による前会長慰労会(神保町・放心亭、2007年1月27日)
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(13) 鈴木健次郎生誕百年記念特集号
    (南の風1795号 2007年2月22日)

 『あきた青年広論』(2007第92号、秋田県青年会館・発行、2月10日刊)が届きました。ご恵送有り難うございました。戦後日本の社会教育とくに(寺中作雄とともに)公民館の創設と普及に大きな役割を果たした鈴木健次郎の特集号です。鈴木は、秋田の生まれ。今年の2月14日がちょうど生誕百年。秋田県青年会館は郷土先輩の遺徳を偲んで記念号を編んだのです。
 鈴木健次郎は、1970年の夏、この世を去りました。享年63歳の若さ。それからすでに40年近く経つというのに、秋田では今年2月10日に「生誕100年記念式典兼秋田の社会教育を考える集い」が開かれたそうです。鈴木健次郎は幸せな人です。
 特集号の構成は、特集−人と思想、鈴木イズムを生み出した寸言集、座談会(1)鈴木健次郎の文部省時代を語る、同(2)秋田時代を語る、など。秋田高校々長としての名言「汝、何のためにそこにありや」についての回想も。
 元文部次官の井内慶次郎氏(社会教育法の立法担当者)などとご一緒に、座談会(1) に参加しました。この経緯は、昨年11月の風1746号に書いています。公民館設置についての次官通牒(1946年)に関して、「次官通牒は“寺中構想”ですか?」(小林)の問いかけに、井内氏は「それは寺中・鈴木構想と言ってよいのではないでしょうか」「鈴木先生が起案者で間違いないと思います」(p29)などの証言。

(14) 飯田市(第44回)公民館大会
    (南の風1797号 2007年2月26日)

 2月24〜25日、飯田市(第44回)公民館大会に出かけていました。珍しく?冷たい風、久しぶりの飯田。江頭晃子さんたちと信州合宿を企画して松本から飯田に車を走らせた日のこと、小峯みずきさんたちと人形劇フェスタを楽しんだ夏の日ざしなど、想い出しながら。
 飯田市は信州のなかでも地域公民館の体制が濃厚に蓄積されたきた自治体ですが、合併を契機とする「地域自治組織」の導入が決まり、そのなかに公民館がどう位置づくか、この3年ほど、公民館再編をめぐる緊張した論議が重ねられてきました。その動きや課題については、昨年10月の「風」に木下巨一さん(飯田市役所)から6回にわたって報告していただきました(1722号〜1734号)。ご記憶の方も多いと思います。
 公民館大会は、さすが飯田!という感じ。受付に20公民館ごとの机が並び圧巻、大ホールほぼぎっしりの参加者(約400人)。7分科会の議論も熱心なもの。「地域の芸術文化活動を考える−人形劇フェスタ地区公演の取り組み」の分科会など、全国でまさに飯田だけが開くことができるテーマ。
 牧野光朗市長とも少しお話できました。若い!おそらくまだ四〇歳代半ば。公民館の歴史と役割にしっかりと理解がある市長さんと見受けられました。東京学芸大学「麦笛」(人形劇サークル)の卒業生など、珍しい人との再会もあり。また帰り際には「竜丘公民館の飲み会にどうぞ、東京に帰るのはやめて私の家に泊まりなさい」と誘う人もあり。心は傾きかけましたが(花粉症のこともあり)やはりお断りして、夜の新宿行き高速バスに乗りました。

 (南の風1798号 2007年2月28日)
 前号の続き。2月25日の飯田市公民館大会は、その全体会の冒頭でご存知「公民館の歌」が歌われました。これまで聞いた「公民館の歌」のなかで最も美しい合唱だと思いました。思わず画像1枚、TOAFAEC HP表紙に掲げました。合わせてサウンドをセットできないのが残念。
 同じ伊那谷の米山義盛さんより、「はれまあ!灯台下暗し!」のメール来信。「…飯田市の公民館はどうなって行くのですか。近くに居る私ですが、よく分かりません」「また『風』に情報を提供して下さい」と。
 昨年9月の長野県公民館大会でも、飯田市の公民館問題が大きな話題になりました(風1722号「(須坂市温泉の夜」)。日本公民館学会にも一度ご報告いただけないかとお願いした経過もあります。
 飯田市では一部に「公民館を市長部局に移行し、公民館条例を廃止」の要望も出され、これに対して市長は「5年後を目処に対応を検討していく」(2006年1月)と回答。公民館側はこの厳しい事態を受けとめて「飯田市公民館基本方針−新たな公民館ビジョン」(同4月)が積極的に作成されています。
 こんどの大会では、基調提案として、今年導入される地域自治組織・まちづくり委員会の中で、公民館は他団体とも連携・協力し、新しく歴史的な第一歩を踏み出していきたい趣旨が力強く出されました。
 公民館は行政機構の問題に止まらず、まさに市民の問題。公民館のこれからの実践的な動きとともに、市民の側が公民館のあり方をどう考え、市民にとっての公民館ビジョンを新しくどう画いていくかが注目されましょう。公民館の調べが、市民コーラスグループによって高らかに歌い
あげられ、満堂の参加者がこれに和して合唱した情景が印象的でした。
 
飯田市公民館大会「公民館の歌」合唱(写真撤収)

(15)北陸・鯖江の公民館、湖北・米原の公民館
      (南の風1803号 2007年3月8日)

 6日〜7日は福井・鯖江へ出かけていました。雪が舞い、7日朝は一面の銀世界。雪のない冬を過ごした身には今年の初雪でした。この二日間、いくつも初めての出会いがあり、いささかの充実感。お世話になった皆様、有り難うございました。
 まず鯖江の公民館との出会い。数年前の福井市等との合併協議では公民館のあり方等をめぐって、結果的には合併が白紙にかえる経過があったと聞いています。その鯖江市公民館連絡協議会の皆さんが一堂に集い、溌剌と議論し懇親を深める夜。その場に初めて参加し、すすめられるままにビールを楽しみ、深夜のホテルで花粉症が発症したのはご愛嬌。
 鯖江市の公民館主事は「社会教育専門員」(現在22人、公民館数10)として発令されていますが、位置づけは正規常勤職員ではなく不安定。いろいろと課題があるようです。しかし館長グループも職員集団も皆さんお元気!
 7日午後は東京への帰途、米原(まいばら)で道草をしました。電話して滋賀・愛知川の渡部幹雄さん(図書館長)と駅前で落ち合い、車に乗せてもらって、指定管理者制度のもと新しい挑戦を始めている米原市の公民館を(4館のうち2館)訪問。道すがら図書館(これは直営)にも。指定管理者(NPO)に委託された公民館の現場に立つのは初めてなのです。
 米原公民館では専務理事・高見啓一さん、また近江公民館では館長の山田裕美さんから話を聞きました。二人とも公務員から転身してNPOの立ち上げに参加し公民館の経営を受託した経歴。給料は大きく下がり、展望もおそらく不透明?それだけに公民館にかける志しのようなものを感じました。同じ市の公民館なのに、違った雰囲気で施設が動いている様子が印象的。短い時間でしたが、公民館と指定管理者の問題について、多くのことを考えることができました。
 呼び出したつもりではなかったけれど、結果的にそうなってしまって、渡部さんに迷惑をかけました。またいずれ・・・。こんどは浅野平八先生ご推奨「近江八幡の公民館」(風1784号)への道草をお願いします。
 
左・渡部幹雄さん(愛知川図書館)、右・高見啓一さん(米原市米原公民館) 


(16)八重山・竹富島憲章と竹富公民館→■

(17)妻籠公民館と町並み保存運動→■

(18)飯田市公民館「主事会報」
    (南の風1918号 2007年9月21日)

 信州・飯田市の公民館主事会では、公民館で働く主事さんたちの会報が3ヶ月おき(かっては隔月刊)に発行されてきました。すでに30年あまりの歩みか。住民に向けての公民館報とは違って、仲間同士の気のおけない通信、ときには家庭の内輪話も載っているような編集ですが、地域の公民館活動史としても貴重な断面を記録するユニークな内容となっています。
 今回、木下巨一さんから送られてきた第158号は、郵送ではなく初めてPDF版による配信。内容は、毎年8月初旬に開かれている「いいだ人形劇フェスタ」特集号、ことさらに誌面が躍っている感じです。今年は約200の劇団による300を超える多彩な公演が「市内いたるところで上演された」、これまでの成果や課題をふまえて「地区公演の充実がフェスタを盛り上げ!」などの記事。各地区の公民館もきっと大活躍されたのでしょう。
 その昔はあの懐かしい手書きのガリ版刷りでした。毎号送っていただいたはずなのに、私のファイル・ボックスの保存は断続的(申し訳ない)。それでも自治体の公民館体制(約20公立施設の地域配置)を支える主事集団のつながりとエネルギーが伝わってきます。手書きからワープロ編集となり、最近は写真も飾られ、だんだん読みやすく、さらに今回からPDF版による新しい展開へ。期待しています。
 あらためて発行順に整理していたところ、故伊藤安正さん(飯田市公民館元副館長)の急逝を悼む特集号(2002年11月号)が出てきました。想い出のひととき。伊藤さんが企画の中心となった最後の仕事(2001年、「生涯学習を考える講座」、竜岡公民館)のことなど。打ち合わせの静かな印象が残っています。多くの方々の追悼の辞を読んでいくと、あらためて公民館を担ってきた個性的な“群像”を再発見したのでした。

(19)杉並の公民館・社会教育を記録する活動→■

(20)最近の公民館の本三つ
     (南の風1933号 2007年10月23日)

 最近の私の本棚に届いた本のなかから、公民館に関連する文献を3冊ほどご紹介。実は直接に差し上げるべき御礼が遅くなり(いつもながら申しわけない)、そのお詫びの気持ちを含めての一文。お許し下さい。
 一つは、益川浩一さん(岐阜大学)編著『人びとの学びと人間的・地域的紐帯のの構築ー地域・まちづくりと生涯学習・社会教育』(大学教育出版、10月刊)。長野県での35年にわたる実践(水谷正さん)や名古屋・社会教育センター(いま生涯学習センター)での20年の取り組み(加藤良治さん)の記録のあと、岐阜県・愛知県・三重県からの報告が22本も並んでいて、重量感のある記録集となっています。日頃あまり東海地方を歩いていないだけに、それぞれから新鮮な風が吹いてきました。東アジア関連では、岐阜県の「日韓生涯学習交流の経緯と今後の発展」(内田晴代さん)が収録され、2005年の光明市「平生学習フェスティバル」訪問の記述も。あのとき同じところに居合わせたのです。
 二つめは、お願いして送っていただいた『木曽福島公民館・六十年の歩み』(同公民館発行、昨年3月刊)。1945年から2005年までのまさに60年の歴史、日誌風に記録された公民館史です。公民館関係資料だけではなく、「…町村報・学校日誌・記念誌・議会記録・写真など可能な限り集めてみました」とあり、十年がかりの作業であったとのこと(あとがき、編著者・井口利夫公民館長)。公民館とその歩みへの深い愛着が伝わってきました。
 あと一つは、先日の「風」1929号で、飯田の木下巨一さんが紹介された苅部直氏(東京大学)著『移りゆく教養』(NTT 出版、10月刊)。「社会の伝統と政治的教養」の一つの地域事例として飯田市公民館の歩みが取り上げられています。この本のことを知りませんでした。早速取り寄せ。人と人が地域のなかでともに生き、お互いに関わりながら活動を営んでいくなかに、伝統や教養や文化や政治の生きた展開があること、その過程に、公民館が大きく存在してきたことが印象的に書かれています。日本政治思想史の立場からの公民館論として興味深く読みました。



(21)「長野県公民館活動史U」(2008)と「公民館史資料集成」(1986)
       (南の風2052号・2053号ー2008年6月27日〜28日)

○「長野県公民館活動史U」刊行成る!
 …この1両日の大ニュースは、なんといっても、待望の「長野県公民館活動史U」(長野県公民館運営協議会、5月23日発行)を送っていただいたこと。A4版、499ページ、美装・ケース入り、大作です、ずしりと重い!
 ご存知のように、長野県公運協は1987年「長野県公民館活動史T」を発刊しています。その続編です。まず前編の「要約と補完」(第1部、110ページ)。さらに、その後の「1980年代以降の長野県の公民館」(第2部、190ページ)。そして「分館・自治公民館の設置と活動」(第3部)、「公民館活動を担う職員の役割」(第4部)など。最後に「長野県の公民館の今後−総合的な地域づくりの拠点として」(第6部)という構成。資料編も詳細、「信州の公民館7つの原則」が冒頭に掲げられています。
 編集を担われた方々に「南の風」へのご紹介をお願いしたいと思っています。入手方法も。新版「公民館の風」(内田・発行)へも、ぜひ一文を送っていただきたいもの。

○<『公民館史資料集成』の続編を>
 …『長野県公民館活動史U』について、同編集委員会事務局の大役を担われた高橋伸光さんから、労作のご紹介をいただきました(上掲)。有り難うございました。足かけ4年の大仕事、重い本を開いて読んでいくと、文中に、信州の公民館を支えてきた皆さんの顔が浮かんできます。
 この本は、前号にも触れたように、同書1986年版の“続編”。その要約・補完をしつつ、1980年代以降の展開が勢いよく書かれています。この本から、私たちはあらためて大きな宿題をつきつけられた思い。
 『公民館史資料集成』(横山・小林共編、エイデル研究所)のことです。同じ1986年の刊行。しかしここに収録されている資料は戦後初期から1970年前後まで。例外は東京「新しい公民館像をめざして」1974年、初出1973年)のみ。三多摩テーゼを加えることによって、30年の公民館史がなにか引き締まる感があったからでした。
 戦後公民館史60年のうち、いわば前半の史料は収録できていることになります。しかし後半30年は課題として残されました。当時まずは散逸しがちの戦後初期・稀少史料から復元していこうという判断。そのうちに歳月が重なれば、きっと1970年代以降の続編を編むことになるだろう、言葉にはしていないけれど、お互い共通の期待としてあったように思います。
 同時にまた、戦後前半部分にも大事な史料の欠落があり、その後に発見された貴重資料もあります。この補完も含めて、「続編」を作れないものか、と今回の信州の公民館史Uから課題を再確認させられたかたち。
 古本市場ネットで探しても、『公民館史資料集成』の姿はまったく出品なく、今や幻の本となりました。姉妹編『社会教育法成立過程資料集成』はたくさん並んでいるのに・・・。その意味でも、誰か身を乗り出して「続編」づくりに取り組んでほしい。



○<『長野県公民館活動史U』ご紹介 (編集委員会事務局・高橋伸光)>
 【南の風】初デビューの高橋伸光と申します。松本市の新興住宅地・松原地区(2010年4月に公民館が開館予定)を担当し、隣接地区の寿台公民館に配属されて4年目になります。また、長野県公民館運営協議会主事会役員でもあり、2052号でご紹介いただいた『長野県公民館活動史U』編集委員会事務局も担当しました。
 『活動史U(ツー)』ですが、記載されたとおり、1986年に出た『長野県公民館活動史』の続編となります。今回、編集の中心に据えたのは、公民館や地域を取り巻く煩雑化した課題や現状に対し、信州の公民館7つの原点(原則)をもう一度確認し、長野県の宝である公民館の役割・方向性を確認、課題提起するということで、編集・執筆してきました。
 特色として、1980年代以降の国や県等の政策の動き、その中での県内の公民館活動の現状、また実際に何が出来て、何が出来ていないのか、などの点を押さえ提起したこと、そして県内の大きな特色である「分館・自治公民館」を項目としておこし、その歴史的蓄積から役割・可能性を提起したこと、さらには地域自治組織が導入された飯田市の経過と今後、公民館活動の新たな可能性として地域福祉と融合した取り組みを進める松本市の活動などが挙げられます。
 その他にはコラム・エピソードとして、「全国第1号の公民館」「社会教育研究全国集会松本集会」「県内公民館への学生の実習」「越県合併・山口村」など、また統計・資料も充実しています。
 多くの皆さんにご覧いただき、活動の参考資料として、また長野県公民館の研究資料としてご活用いただきたいと思います。装丁…A4判・500ページ、上製本、頒布価格は2,100円(このボリュームでこの価格はかなりお買い得?)申込みは長野県公民館運営協議会 026-232-0111(内線4849)、fax026-233-1023、E-mail:kounkyo@mx1.avis.ne.jpへ、名前・住所・電話・申込冊数・受取方法(郵送希望等)をご連絡ください(郵送料・振込手数料等は申し込まれる方の負担となります)。
 以降、上田市の中村文昭さん、松本市の矢久保学さんから、「ここが見どころ!」という内容をご紹介いただければと思います。(南の風2053号・2008年6月28日)


(22) 創造と抵抗の公民館史−『長野県公民館活動史U』を読む−
                    
 (「月刊社会教育」2008年11月号)
一、公民館史を担う群像
 信州の公民館の歩みは、これまで全国の公民館史に多くの刺激を与えてきた。その創設の過程、「分館」の独自な展開、共同学習運動、下伊那テーゼ(「公民館主事の性格と役割」)、公民館の地域体制づくり、住民主体の実践などなど。それらの模索と蓄積のなかで「信州の公民館・七つの原則」が再発見され共有されてきた。
 公民館の具体的な展開は、地域・自治体の個別の歴史である。それぞれの固有の条件があり地域的な特性や格差もある。しかし自治体が個別に歩むのでなく、相互の連携や協力のなかで公民館活動が展開してきたのも、信州の大きな特徴であろう。そこに市・郡の連絡協議体のつながりがあり、また県の果たす大きな役割があった。
 長野県公民館運営協議会(県公運協)はこれまで精力的に公民館についての貴重な資料集(基礎知識、実践集など)を刊行してきた。その過程で『長野県公民館活動史』初版(一九八七年)がまとめられ、全国的な注目をあつめた(本誌一九八九年六月号・座談会等)。また飯田、伊那、松本などの自治体「公民館活動史」「五十年史」の力作も相次いだ。それらの蓄積をふまえ、前書「活動史」を補完しつつ、その後(一九八〇年代以降)の公民館の激動と発展をたどる『長野県公民館活動史U』が発刊された。まさに大作の誕生。信州の公民館関係者による集中的な編集・執筆作業、三年の取り組みに深い敬意を表したい。
 公民館の初期構想(一九四六年)を当時の文部省担当課長(寺中作雄)の名をとって「寺中構想」と呼ぶ場合が多い。間違いではないが、“個人の役割”がやや前面に出すぎる嫌いがある。実際の公民館構想とその定着過程には、鈴木健次郎(当時の文部省担当官)の存在も大きく、「寺中・鈴木構想」と呼ぶ声もある。しかし何よりも地域で初期公民館の活動を担ってきた「公民館人」の“群像”によって、各地の公民館の実像は形づくられてきた。戦後の時代的精神とそれぞれの地域群像による公民館の創造と運動があった。今回の『長野県公民館活動史U』を手にとって、まさに信州の公民館史を創り出してきた群像たち、その躍動と苦悩、蓄積と格闘の足跡を実感することができた。
二、公民館にとっての一九八〇年代
 本書はまず前書『長野県公民館活動史』の補完(第1部)からスタートする。前書刊行から二〇年。単なる補完にとどまらず、この間に掘り起こされた公民館史の新しい発見が興味深い。たとえば木曽・妻籠村の公民館は「わが国第一号の公民館」(一九四六年九月八日付「館則」、遠山高志「コラム」一六頁)であることがほぼ確定された。妻籠公民館は前書では「県内第一号」と記されたいたものである。創設の日付だけが重要なのではなく、当時の木曽御料林解放運動と結びついて公民館が始動されたこと、またその後、わが国の町並み保存運動の先駆けとなり、「妻籠宿を守る住民憲章」策定(一九七一年)等に結実してきた公民館活動の蓄積が貴重である。
 第1部を受けて、第2部「一九八〇年代以降の長野県の公民館」、第3部「分館・自治公民館の設置と活動」、第4部「公民館活動を担う職員の役割」、第5部「長野県公民館運営協議会」と続き、最後に第6部「長野県の公民館の今後−総合的な地域づくりの拠点として」がまとめられている。
 公民館にとって一九八〇年代以降の“現代”がどういう時代であったのか、をしみじみと考えさせられた。この時期は日本の生涯学習政策の導入の時代である。同時に、臨調・行政改革、財政合理化、自治体再編・平成大合併、規制緩和と民間委託、新自由主義施策と法制改正等、激しい政策動向が公民館を襲った二〇年。本来は地域生涯学習の拠点として位置づくべき公民館には、むしろ厳しい逆風が吹きまくった時代ともいえる。それだけに「信州の公民館・七つの原則」(地域設置、住民主体、地域課題学習、総合的地域づくり、分館協同、公民館主事活動、市町村自治)が追求される必要があったのだろう。
 しかし、七つの原則が受け継がれ、再創造されてきた過程には、同時にそれが「…停滞し動揺し、崩され忘れられ、捨てられてもきた」(三九九頁)という現実もあった。苦渋にみちた記述も少なくない。読み進むうちに、信州の公民館活動は、地域の学び・住民自治・地域づくりに向けての創造と再創造の歩みであると同時に、一九八〇年代以降の現代の厳しい荒波のなかで奮闘してきた“抵抗の公民館史”でもあったように思われた。
三、分館・自治公民館の可能性
 六十年にわたって蓄積されてきた公民館の実践は、信州独自の展開が記録されていて実に興味深いものがある。もちろん模索や挫折の過程を含むのであろうが、他の公民館史にはみられない特徴的な事業・組織・方式等が少なくない。たとえば地域新聞の側面をもつ公民館報、専門委員会・専門部の活動、地域課題・地域づくりへの取り組み、地域福祉と結ぶ公民館事業、公民館の地域体制・基準研究、さらには不当配転問題と公民館主事論の追求など。個別地域事例としての記録にとどまらず、こうして県レベルの公民館史としてまとめられると、日本の公民館史の一つの典型として、幅広い水脈と壮大な山脈ともいうべき「信州の公民館」の実像を実感させられる。
 なかでも『長野県公民館活動史U』の白眉は、住民自治そのものに根ざす「分館・自治公民館」(第3部)の記録であろう。「県内には公民館の本館二七八があり、地区館一一八館、分館・自治公民館三八八五という、全国的に見られないネットワークをもっている」(三四九頁)という。これまで公民館研究の一般的傾向として、とくに公立公民館の体制とその条件整備を重視する立場では、集落公民館(自治公民館、町内公民館、沖縄の字公民館等)の評価はあまり積極的なものではなく、むしろ否定的にさえ見る場合があった。しかし住民自治の視点から住民の生活世界に密着した地域活動・集落活動の価値を再発見する立場にたてば、あらためて信州における「分館・自治公民館」の取り組み、その独自のネットワークと多面的な役割がくっきりと見えてくる。小地域(地域共同体)の再生に関わって、公立公民館の在り方についても、原点にかえって再考すべき課題があるのではないかと考えさせられる。
 本書を読みながら、松本市教育委員会「町内公民館のてびき(第5次改訂版)」と実践事例集『自治の力ここにあり・学びとずくのまちづくり』(いずれも二〇〇五年)の刊行を想い起した。松本だけでなく、自治体の地域的な取り組みがさまざま集積して、「分館・自治公民館」についての力のこもった記録・提言となったのであろう。
四,いくつかの課題を考える
 第6部「長野県の公民館の今後」(総合的な地域づくりの拠点)を含めて、取りあげておきたい貴重な記述が少なくないが、すでに残りの紙数はない。この機会に、本書に触発されて、現代の公民館史を綴る上でのいくつかの検討課題を記しておきたい。
 一つは、「生涯学習」と公民館の関係について。一九八〇年代「生涯学習」施策が上から流れてくる経過のなかで、下からの住民自治を重視する公民館活動はそれと対峙的に考えられる傾向があった。しかし自治体の生涯学習計画づくりの中に公民館は本来重要な位置づけを獲得すべきである。信州は、県としての生涯学習基本構想や国のモデル市町村指定(茅野市、長野市、豊野町等)があり、同時に市町村独自の生涯学習計画づくり(上田市、飯田市、松本市等)の興味深い展開がみられる(第2部第2章)。「市民による学習権宣言」(松本・ずくだせ学びの森づくり)など鮮明なメッセージであった。
 しかし自治体再編・大合併の嵐の中で「生涯学習計画」もまた失速している。国際的潮流としても重要な生涯学習の地域構想に、公民館が重要な役割を担う展望を画くことは、日本のなかで信州の公民館史こそが追求できる大きな課題なのではないだろうか。
 二つめに、現代の公民館の地域総合的な役割、関連行政や諸機関ネットワークにおける中心拠点としての新たな可能性について。一九八〇年代以降は(上述した厳しい状況とともに)、公民館のまわりに図書館・博物館・児童館等が機能し、小中高諸学校の地域開放やクラブ活動があり、大学の拡張事業も拡大した時代であった。また環境行政、福祉行政、障害者サービス、女性施策等の関連行政の一定の前進があり、地域スポーツ・文化活動、さらにNPO諸活動が多様に展開し始めている。公民館の「総合的」役割は、かっての万能論的なものでなく、これら諸機関・行政・地域活動を総合的につないでいく新たな視点と方法が期待されなければならない。その意味での公民館の現代的な可能性をさらに明らかにしていく必要がある。
 第三に、本書が公民館史として貴重な事実・新しい発見・詳細な分析を含むことは言うまでもないが、それら資料・記録の出典・文献・所在情報がほしい。公民館資料は地域に埋没し散逸していく度合が激しいだけに、それらが権威ある公民館史に第一次資料として記録される意義は大きい。なお蛇足であるが、「公民館三階建論」(一九六四〜五年)と「三多摩テーゼ」(一九七三〜四年)等の混同があり、惜しまれる。
 第四に、あらためて全国的な視野からの「公民館通史」を編み直す課題をつきつけられた思いである。筆者が関わった『公民館史資料集成』(エイデル研究所、一九八六年)が取り扱った時代は一九七〇年代前半まで、それからすでに三〇年余が経過している。その後の千葉県、川崎市、名護市、豊中市等の地域史とともに、信州の公民館史が明らかにした地域実像を土台に、日本公民館史がさらに豊かに描き出される夢をいだくことができた。


(23) 地下水脈の流れとなって−「月刊社会教育」50年の歩み−
        
「月刊社会教育」(国土社)2008年1月号・かがり火

 変転めまぐるしい教育出版・教育ジャーナリズムのなかで、その退潮の流れに屈せず「月刊社会教育」は半世紀の長い道程を歩んできた。そしていま次の五十年の歴史を刻み始めようとしている。まさに(よちよち歩きの時期を知るものには)奇蹟とも思われる快事。
 本誌が通巻五十巻、六百号を超えることが出来たのは、もちろん編集部の頑張りや国土社の努力によるものであるが、何よりも全国各地の読者によって読み継がれ、支えられてきたからである。創刊(一九五七年十二月)当時、社会教育をめぐる「逆コース」的な動きのなかで、各地の心ある社会教育関係者たちは孤独な状況に陥りかけていた。社会教育における自由と民主主義の復権が求められていた。「月刊社会教育」は“ゆるぎない路線を求めて”(創刊号特集テーマ)を掲げ、そのような読者一人ひとりに思いをこめて新しい雑誌を届けてきたのであった。
 創刊案内ちらしの「五つのねらい」、その一つは「いかなる勢力にも支配されない自由独立の編集」とある。当初はほとんど無からの出発、編集は模索と挑戦の連続、難航する場合も少なくなかった。しかし発行の歳月が重ねられるにしたがって、少しずつ大地に滲みる水脈のように、「月刊」は読者をつなぎ、仲間相互の関係を創りだし、その輪を拡げて、新しい泉もまた湧き出してきた歩みであった。「月刊」読者の会から誕生した社会教育推進全国協議会のその後の発展が何よりの実証であろう。
 それから五十年。日本社会教育の地下水脈は地層をくぐって水量を増やしているだろうか。新しい水質を湧出しているだろうか。まして涸れたりしている泉はないか。

 この五十年の間に社会教育をめぐる環境・状況は大きく変化した。とくに今世紀に入って新自由主義・新保守主義等の諸施策のもと、改憲の動き、教育基本法制の改悪、社会教育諸条件の劣化、格差の拡大、地域の崩壊など、憂慮される事態が進行している。しかしその一方で、平和・人権の意識や持続的発展をめざす市民の学びや活動は(NPOを含めて)明らかに拡がりをもっている。地域の住民自治的な公民館活動の新しい展開もみられる。国際的には生涯学習や地域(社区)活動のみずみずしい鼓動が響いてくる。
 いま私たちには「月刊社会教育」五十年の蓄積を含めて、複雑な時代状況を新たな視点で解明していく力が求められている。ゆるぎない理念を追求しつつ、地域や活動のそれぞれの現実に対応して、柔軟かつ活発に、発想を豊かにする作業が必要になっている。
 蓄積に寄りかかり、慣れ親んだ論議に安んじるだけでは、未来は拓けないだろう。これまでにない厳しい現実もあれば、これまでになく躍動的な市民の活動もある。それらを見る目と力がなければ現実も未来も見えてこない。課題は多い。たとえば一つは、政策や条件整備の低下を嘆くだけでなく、市民の意識と地域の諸現実に立って取り組むこと。二つには、法制「改正」に対する防衛的論議だけではなく、積極的な立法論をどう組み立てるか。三つには、疲労し混迷のなかにある社会教育職員をどう励ますか。市民的視点から専門職論を再構築していく課題。四つには、従来型の海外研究・国際親善ではなく(とくに東アジアを含めて)海を越えての市民的地域交流をどう創り出すか、などなど。
 お互いに元気を出し肩を組み合って次の五十年の歩みを始めたいものである。臆することなく社会教育の未来を論じ合う必要がある。視野を広げ発想を切りかえて、新たな地下水脈の流れを創り出そうではないか。


(24) 地域の活動を生み出す市民活動を−二〇〇九年を迎えて
      (NPO・アンテイ多摩「市民活動のひろば」bU7、20090115)

 二〇〇九年は、社会教育法の制定(昭和二四年)からちょうど六〇年の年にあたる。この間いくたびも法改正があったが、制定当初の基本骨格は変わっていないと言えよう。六〇年の歳月のなかで、法はどのように定着し、何を創り出してきたのだろうか。
 また市民活動団体にとって昨年は、特定非営利活動促進法の制定(平成一〇年)から一〇年の年であった。ボランテイア活動や「市民が行う自由な社会貢献活動」(第一条)は、社会教育と深い関連をもっている。この一〇年はいったいどんな歳月であったのだろう。
 東京の社会教育法の定着は、たとえば公民館の設置状況に見られるように、全国的にみて遅れた歩みであった。しかし(とくに三多摩地区において)一九六〇年代から七〇年代の社会教育に関わる市民意識や住民運動には躍動的な展開があり、全国的な注目を集めてきた。残念なことに八〇年代以降は、行財政改革やそれと連動する生涯学習施策の導入、そして最近の新自由主義路線による規制緩和や民間委託等の流れのなかで、社会教育の公的体制は全般的に停滞し後退が目立つ。
 しかし地域の社会教育史を調べていくと、社会教育行政の事業や施設の実践は、実に多くのものを生み出してきたことに驚かされる。市民が個人として学ぶ機会を用意しただけでなく、そこから地域の自主サークルが生まれ、文化活動が胎動し、あるいはPTA活動、地域教育運動、消費者運動、環境・福祉に関わる市民運動など興味深い展開があった。もちろん地域史的な格差や曲折もあり、世代的な断続もみられるが・・・。
 この一〇年の市民活動の新たな展開もまた、歴史をたどれば、社会教育の地域史に源流をもち、その水脈からエネルギーをもらってきた側面は少なくないだろう。
 しかし市民活動はときに地域から遊離しがちである。たしかにそのテーマやミッションは地域を超えるものもある。つねにグローバルな視野をもつことが期待される。しかし活動の具体的な展開においては、ローカルに取り組む必要があり、“地域の眼”をもつことが求められる。それが、私たちが生きている地域の活力や再生につながってくる。
 東京・三多摩の社会教育史が、いまひとつ地域の活力につながらない側面があり、次なる転換・再生の局面にあえいでいる今、新たな展開を始めている市民活動が、地域の視点をもって、その独自の役割を果たす方向が期待される。
(東京学芸大学・和光大学等で社会教育の研究・教育にたずさわってきた。日本社会教育学会・日本公民館学会の元会長。)


(25) 公民館の構想−地域史の水脈を再生しよう
             (「あきた青年広論」96号、2009年4月)


 本誌第九二号「鈴木健次郎生誕百年記念特集号」(二〇〇七年)の座談会で、故井内慶次郎氏(元文部次官)と語りあう機会をいただいた。戦後日本の公民館構想がどのように生まれたのか。当時の文部省課長・寺中作雄の名をとって「寺中構想」として有名であるが、そこで鈴木健次郎が果たした役割は?と井内さんにお尋ねした。
 いわゆる公民館設置についての文部次官通牒(一九四六年)の起案について、井内さんは「私は(直接に)見ていないので・・・」と断った上で、「当時の起案の流れからすると、鈴木先生が起案者で間違いないと思います」と話された。まさに「寺中・鈴木構想」というべき証言であった。寺中作雄もまた自ら「私と鈴木君は、いわば呼吸の合った二人三脚のように、ぴったりと結ばれ合って、一つの仕事の貫徹のために青春の情熱を燃やすことになった」と書いている。(『鈴木健次郎集』3「公民館と鈴木君」、一九七六年) それから六十年余。寺中・鈴木のコンビで提唱・普及された公民館は全国各地に拡がり、国内だけでなくアジア各地の「地域学習センター」(CLC)モデルとして注目されている。いま躍動中の上海「地域文化センター」づくりにも公民館への熱い関心がみられる。 公民館の歳月を振り返ると、日本各地でさまざまな活動・実践を生み出し、それぞれの地域史の水脈が創り出されてきた。しかし他方でその歴史が忘れられ、水脈が涸れはてようとしているところもないではない。
 いま私はいくつかの地域で、公民館の歴史や地域史の水脈を復元・再生する作業に取り組んでいる。たとえば東京・杉並区立公民館を拠点とする原水爆禁止署名運動の歴史。立ち上がった女性たちの取り組み、たとえば「杉の子」読書会の署名運動など。公民館長・安井郁(法政大学教授)は日本の反核平和運動の牽引者となり、日本原水協の初代理事長でもあった。あるいはアメリカ占領下にあった戦後沖縄の地域青年団運動。沖縄県青年団協議会は沖縄の祖国復帰運動の重要な担い手であり、独自の地域・集落自治活動の活力となってきた。その活動の拠点は各集落の公民館であった。
 地域史は社会史であり、国や世界の大きな歴史とつながっている。戦後の公民館や社会教育の実践・運動はそのような地域史そのものを創り出してきた。そこにあと一つの光をあて、次なる時代へのエネルギーを語りあいたいものだ。(東京学芸大学名誉教授)
*小林文人:1931年、福岡県生まれ。九州大学大学院修了。東京学芸大学教授をへて和光大学教授。日本社会教育学会や日本公民館学会の会長をつとめた。東アジア社会教育研究会を主宰し、沖縄・韓国・中国の研究交流のため歩き続けている。 


(26) 寺中作雄「あんずの村」 (南の風2208号、2009年4月28日)
 書庫(油山)を整理していると、思いがけない本に再会するものです。 たとえば、『寺中作雄 作品集』(全56頁、1970年、同「還暦を祝う会」発行)、色刷りの立派なものです。とくに、寺中が1955年〜58年まで在仏日本大使館参事官としてパリに滞在していた間の、ヨーロッパ各地の写生作品がたくさん収録され、秀逸な出来映え。
 寺中自身の文章もいくつか載っています。たとえば「絵と私」冒頭の一節。「絵に対する私の情熱は間欠泉の湯のように、一定の時期を隔てて湧出するらしい。考えてみるとどの時期にも生活に緊張があり、仕事にも情熱を感じて忙しくしていたときがそうだったように、今のここ3,4年にも殊更それが感ぜられる。忙しい緊張した生活の中に却って心のゆとりを見出し、絵筆に親しむ気持を起こすのはどういうわけであろうか。…」(女性教養、1952年)
 「今のここ3,4年…」は、社会教育法策定など主要施策と格闘し、文部省社会教育課長、そして同局長の重責を担っていた頃と重なります。その後、寺中はパリへ、1958年帰国後は国立競技場初代理事長(東京オリンピックを迎える)、さらに国立劇場初代理事長。そのリベラルな(官僚的でない)姿勢が高い評価を得たと聞いています。
 1970年代末、東京都社会教育委員としてご一緒した一時期があります。毎月の会議でお会いするのが楽しみでした。時折(年に一度)個展を開かれ、案内を頂くようになりました。そして思いもかけず、1973年の作品「あんずの村」を頂くことが出来ました。「寺中作雄作品絵葉書」の一枚にもなっている逸品。いま油山の一室に飾っている宝物です。


(27) 公民館憲章(南の風2211号、2009年5月4日)
 日本最南端の八重山毎日新聞、コラム「不連続線」が宮良(石垣市)の公民館憲章について書いています(上掲)。記事によれば、公民館に隣接して憲章の石碑も建てられているそうです。知りませんでした。次回の八重山訪問の機会には立ち寄ってみたいもの。
 沖縄で公民館という場合は、公立ではなく、いわゆる字の集落公民館のこと。その意味で、公民館憲章は集落の住民憲章としての性格をもつことになります。典型的には、「風」でもよく取りあげる竹富島の住民憲章。本土リゾート資本の土地買い占めに抗して「売らない、汚さない、乱さない、壊さない、生かす」の憲章が公民館によって策定(1986年)されました。住民総意のメッセージは心に響くものがあります。
 八重山毎日新聞・コラムは、宮良に関連して隣の集落・白保の「ゆらてぃく憲章」に言及しています。「ゆらてぃく」とは、白保の島唄(白保節)の一節、♪ゆらてぃく ゆらてぃく 踊り遊ば♪(寄って来い、寄って来い 皆で踊ってお祝いしよう)からとったもの。「島そば一番地」(石垣市)新垣重雄さんから教えてもらったことです。
 沖縄の公民館憲章の動きについては、他の事例を含めて、私たちのHP→■に掲載しています。


(28) 自治公民館の分科会 (南の風2223号、2009年5月24日)
 毎年の夏の年中行事、社会教育研究全国集会(今年は第49回、8月22〜24日、信州阿智村)の準備が始まっています。2002年の沖縄・名護集会から胎動した「自治公民館」「小地域活動」の分科会、今年は信州の新しい世話人の参加もあり、関係の方々にメールを出しました。その抄録をご紹介いたしましょう。
1,「自治公民館」について。… 名称はいろいろ(自治公民館だけでなく、字(あざ)公民館、町内公民館、分館など)、また農村や中小都市だけでなく、大都市部(貝塚・横浜など)の地域活動も視野に入れて、分科会タイトルに「小地域」という名称を使ってきました。
 これまでの「討議の柱」「実践報告」「分科会のまとめ」等の記録はすべてTOAFAEC HP→■
にアップしています。かなりの蓄積あり。
2,この間、本を作ろうという動きもあり。小生は国土社(亡くなった社長)と会う経過もありました。しかし … あと一つの具体化の体力不足、失速のままです。今となっては惜しまれます。
3,2007年の貝塚集会、2008年の札幌集会には、韓国訪問団の主要メンバー(平生教育振興院長、学会会長など)が、連続してこの分科会に参加されました。韓国では「平生学習」施策の一つとして、マウル(集落、ムラ)の住民活動を支援していく動きが注目されます。昨年の分科会での韓国側の報告(住民自治センターとマウルの生涯学習)は、小さくまとめて、同じくHP・韓国研究のページ→■に収録しています。ぜひご覧ください。
 韓国側は、今年も全国集会に訪問団を組むことを確定したそうです。
4,沖縄について、ここ3年ほど、小生は竹富島の報告を重ね、また山城千秋さんが字公民館について報告した経過があります。… 
5,今年は、総務省系統の動きで、「集落支援員」の設置が話題になっています。信州ではどうでしょうか。限界集落の問題を含めて報告を用意していただければ、と期待しています。…(以下、略)…

(29) 公民館・英文冊子“Kominkan”(南の風2234号、2009年6月11日)
 文部科学省とユネスコ・アジア文化センター(ACCU)共同発行のかたちで、「公民館 Kominkan 」と題する英文パンフが刊行されています。A4版27ページ、5月刊)。ユネスコ第6回国際成人教育会議(新型インフルエンザのため延期)に向けて、文部省の委託を受け、ユネスコ・アジア文化センター(ACCU)がコーディネートして作成されたものです。いい出来映え。全国公民館連合会から送っていただきました。
 「公民館」は日本ブランドとして国際的にも有名、しかし文献資料はすべて日本語バージョン、英文版が求められてきました。たしか5年ほど前に全国公民館連合会が,「日本の地域学習施設(CLC)」として英文版を作成したことがあり、それが唯一といっていいのではないでしょうか。今回のは、ACCU「公民館の国際発展に関する調査研究−海外のコミュニティ学習センターの動向にかかる総合調査研究」(平成20年度)の成果の一環だそうです。
 内容を(逆に日本語にして)項目だけ紹介しますと、公民館とは、創設と普及、活動事例(7地域)、統計概表、法制、運営、職員、その役割、今後の公民館像、年表、関連団体など。それぞれ見開き2ページ前後の簡潔な記述。
 ちなみに、収録されている地域事例は、佐伯(大分),置戸(北海道)、福生(東京)、木更津(千葉)、岡山、十日町(新潟)、松本(長野)の七つ。興味深いことに、年表や関連団体のなかに「日本公民館学会」が記載されています。文科省関連の刊行物は、あまり学会のことに触れないのが多く、ちょっとした発見でした。

(30) 市民の公民館宣言 (南の風2350号、2009年12月25日)
 南の風4号前(2246号)の本欄で「市民の図書館宣言」を紹介し、おしまいに「つづく」と書いたまま、名護市長選・稲嶺ススム頑張れ!記事や、カイロ「ピラミッドの写真」の話題など相次ぎ、続きの一文を失念していました。
 「市民の公民館宣言」について書きたかったのです。社会教育・公民館について、歴史的に記憶されるテーゼ・宣言がいくつもあります。枚方テーゼ、公民館三階建論、下伊那テーゼ、あるいは東京「新しい公民館像をめざして」(三多摩テーゼ)など。しかし、市民による公民館宣言とでもいうべき作業は、まだ未発なのではないかと思うのです。
 これら「テーゼ」の書き手はいずれも市民ではないし、市民の参加もない。また内容的にみても、市民にとっての公民館「宣言」の志向をもっていない。行政として公民館をどう整備していくか、公民館主事の役割はなにか、という流れです。三多摩テーゼの批判的検討として「住民自治をすすめる」視点の欠落が指摘されていることなど、その証左でしょう。(当時の茅ヶ崎の公民館をつくる会、町田市公民館運営審議会など、小林「三多摩テーゼ20年」三多摩社会教育の歩み研究7、1994)→■
 むしろ自治公民館や沖縄の字公民館の取り組みのなかに、市民による公民館宣言や「住民憲章」への胎動がみられるように思います。その試みこは住民自治の思想があざやかに息づいている。たとえば、本土リゾート資本の攻勢に抗して、「売らない、汚さない、乱さない、壊さない、生かす」理念を宣言した「竹富島憲章」は、竹富公民館によって策定された住民憲章(1986年)そのものです。

(31)「そよ風−長門の社会教育私史」刊行 (南の風2322号、2010年4月20日)
 国土社「月刊社会教育」は、1980年代前半に、社会教育で奮闘してきた先達の「社会教育私史」を連載したことがあります。いろんな方が登場して読み応えのあるシリーズ、「月刊」らしい企画でした。その中のお一人に山口県長門市の中原吉郎さん(1925年生れ、公民館主事・社会教育主事、退職後は市議、長門時事新聞社創設)。ぶんじんとは1965年の出会い、すでに半世紀をこえるお付き合いです。
 中原さんは「月刊」創刊号(1957年12月号)からの購読者。ぶんじんは、当時まだ「月刊」を知らず、創刊号からの15号ほどを持たない、そんな話を中原さんにしたことがあります。それを憶えていて下さって、退職後に「私の手もとに置くより、先生に差し上げよう」という有り難いお話がありました。当時の勤務先・和光大学(1966年創立)の図書館は「月刊社会教育」バックナンバーを1970年頃まで所蔵しておらず「大学図書館へ寄贈して下さい」とお願いした経過があります。 
 そんなエピソードを前書きにして、中原さんの自分史が刊行されました(4月16日、私家版・222頁)。「月刊」に執筆された3本の「社会教育私史」が契機となったもの。書名に掲げられた「そよ風」は、中原さんが八方奔走して実現された移動公民館車(専用運転手付き)マイクロバスの名前。1961年のこと、「当時としては珍しく、県内の仲間から大いに羨ましがられた」と述懐されています(p134)。
 ぶんじんも「刊行に寄せて−ひとすじの道に学ぶ−」の一文を書いています。段ボールで送っていただきましたので、ご希望の方に差し上げます。次回研究会(4月23日、上掲)にも持参しましょう。

(32)三多摩の歩みを掘る (南の風2322号、2010年4月30日)
 前々号(2426号「記録も記憶も消えていく」)に続く。東京都立多摩社会教育会館の事業のなかで、あえて書きとめておきたいことは、同館から発行された「戦後三多摩における社会教育のあゆみ」(1988〜1999年、別冊を含む全13冊)についてです。まだ10年余が経過しただけなのに、そこに収録されている自分の文章も忘れたものがありました。
 当時、会館は正式に研究員を委嘱。藤田博、小川正美、手打明敏、佐藤進などの各氏(藤田さんも小川さんもすでに故人)、小林が主任研究員を拝命。メンバーは変わりましたが、足かけ13年間続いた東京(三多摩)社会教育史・資料発掘の研究事業です。調査費はまったくなかったのに、いま読み返してみて、いぶし銀のようないい仕事が残った感じ。
 首都・東京にきちんとした社会教育史がないこと、資料収集・保存に本格的に取り組んでいく必要、を提起したのは、私たちの戦後沖縄・社会教育史研究のなかからです。「沖縄社会教育史料」第6集:宮古・八重山特集(1986年)の中に、小林は場違いながら「(沖縄だけでなく)東京社会教育史の研究」を急ぐべきこと、1984年から始めた東京社会教育史研究会(学大研究室)の歩みを記録し、杉並の公民館を存続させる運動(1980年〜)と「歴史の大河は流れ続ける」4冊(同「存続する会」発行)も一つの契機となったこと、などを記しています。
 報告書の中では「歌でつづる三多摩社会教育実践史」(座談会)など面白い企画も記録に残っています。会館が閉館になった今、これら13冊がどのように保存されているのか。収集したもとの資料の行方は? せめて自分が関わったところだけでも記録にし、記憶を蘇らせておこうと、HPに1ページを加える作業を楽しんだ次第。三多摩の夜間中学、八王子の織物青年学校、七〇年代の住民運動、二三区の公民館の顛末など、消えかかっている(消えてしまった?)歩みに執着して、歴史再生の思いで頑張った当時を思い出しつつ。亡き藤田博さん、小川正美さんが懐かしい。→■
http://www007.upp.so-net.ne.jp/bunjin-k/tokyoayumi.htm

(33) 福岡県初期公民館史料 (南の風2451号、2010年6月11日)
 3月の年度末、そして4〜5月にかけて、いろんな方から貴重な研究報告、大学紀要、編著書など恵送いただきました。「風」に紹介する余力なく残念です。頂いてすぐに礼状を書けばよいものを、少しでも読んで感想の一端でも(言い訳!)・・・と思うのがよくない。御礼が延び延びとなり・・・、まことに申しわけありません。この場をかりてお詫び申しあげます。
 数日前、5月28日に刊行された『福岡県初期公民館史料集』(正平辰男編集・発行、B5版、260頁)を拝受しました。有り難うございました。福岡県は戦後いち早く公民館を創設・奨励し、しかも旧青年学校教官給与を活用し県費補助による専任公民館主事の配置策をとり、全国平均よりずば抜けて公民館設置率・専任主事率が高かったところ。文部省より鈴木健次郎が県社会教育課長として赴任、7年にわたって公民館の普及定着の指導にもあたりました。農村部では水縄村公民館あり、都市型公民館として八幡市の先駆的な公民館建設あり、それだけに福岡県「初期公民館史料」は貴重です。
 正平辰男氏(県社会教育主事を経て純真短期大学特認教授)は、2005年に『庄内村公民館史資料集T』(自費出版)を発行。南の風1431号本欄に紹介したことがあります。今回はその続編ともいうべき労作。1951年の福岡県社会教育史料も一緒に収録されています。ちなみに「庄内村公民館」は新憲法実施一周年記念として表彰された優良公民館(1947年)の一つ。『世界の社会教育施設と公民館』(小林・佐藤共編、2001年)でも、公民館地域史の典型事例(15例)として取りあげたところです。「はじめに」を読むと「もちろん庄内公民館の資料はまだ多く残っている」(正平氏)とのこと。さらに「史料集」続編が期待されます。

 <参考−福岡県「庄内村公民館史」資料 南の風1431号(2005年3月8日)
 稀少出版の最近ニュース。866頁の『日本PTA史』(PTA研究会編、日本図書センター)は、故横山宏氏の「序文」日付から6年目の刊行。群馬県下の元社会教育職員『光山善二郎の残したしごと』(同刊行会編)は、ご本人が亡くなられてから、なんと26年目の本(「月刊社会教育」3月号に書評、2部残部あり)。出版されるまでの歳月の長さが、その間にあったであろうさまざまの経過を物語っているようです。
 先月の福岡(社会教育研究全国集会・合同世話人会)で、東和大学の正平辰男氏(同教授、元福岡県社会教育主事)が故郷・庄内村の戦後初期公民館資料を私費を投じて出版されたことを知りました。早速、電話して、戦後の福岡県社会教育行政を担った群像を偲びあいました。
 庄内村公民館は、代表的な戦後初期の「優良公民館」の一つ。かっての筑豊産炭地に位置し、昭和天皇「ご巡幸」公民館としても有名。興味深いのは、戦前「全村学校」の系譜をひく戦後「公民館」の発足だったこと。最近では、小林・佐藤編『世界の社会教育施設と公民館』(エイデル研究所、2001年)に、その公民館史の記録(朝原良行)を収録しています。
 かって福岡県の公民館史調査や九大の資料収集の経過があって、夢でもみるようなかたちで「昭和23年」「昭和24年」両年度の資料がダンボール2箱(公文書綴20冊)発見されたというのです。場所は福岡県立社会教育総合センター。正平さんはこれを自ら入力・復刻し、「定年退職記念のささやかな仕事」として標記・資料集が刊行されました(2005年1月)。文字通りの自費出版。資料は55年ぶりに日の目をみたことになります。5部ほど送ってもらいましたが、すでに売約済み。ご希望の方は直接に正平さんへ(「庄内村公民館資料集1−公文書綴」1部2500円、送料別、Email:masahira@tohwa-u.ac.jp)
 斉藤峻資料など東京都社会教育稀少資料が、大事に保管されていたにもかかわらず、どこかに姿を消した運命など思い浮かべながら。

(34) 公民館初期史料について・回想ひとつ (南の風2454号、2010年6月16日)
 風2451号「公民館史料」に触発されて、回想一つ。戦後初期の公民館史料など稀少の社会教育資料を全国的な視野で渉猟・収集して「文庫」づくり、あるいはデータベース・ネットの試みを考えた一時期がありました。本欄で「鈴木健次郎」を取り上げ、旧「公民館史研究会」の再生や各地「文庫」の連携、あるいは新しい発想での公民館史料調査への取り組みなどできないか、秋田「鈴木文庫」にも一度出かけてみたいなどと書いた記憶があります。(風1748号 2006/11/15 など)
 1年余が経過して、ホームページ「伝言板」に<公民館初期史料の収集>と題する次のような呼びかけも。「かねがね、戦後初期・社会教育と公民館に関する稀少資料(各地の文庫など)のデーターベース化・全国ネットづくりの構想を温めてきました。日本公民館学会の作業課題とされた経過もあり、踏み出しを控えてきましたが、『公民館の風』再刊の動きを契機に作業を開始したいと考えています。関心おもちの方々のご参加・ご助言をいただきたく・・・」(2008/4/6)と。
 日本公民館学会の頃は、理事会が終わったあと、公民館初期史料について故奥田泰弘さんとビールを飲みながら気勢をあげたことを思い出します。彼はナショナルセンターの構想、当方はデータベース化への挑戦が持論。案として全国50余地点余を設定し一部に依頼も始めた頃です。
 しかし学会の仕事も交代し、他方、中国・韓国など「東アジア」交流や本づくりの課題にも追われ、また「年寄りの冷や水」への自戒もあって・・・、そのまま歳月が過ぎてきたのでした。
 それから数年、調査地点(予定)50余地点の社会教育・公民館を担った長老のなかには物故された方もあり、公民館学会としても特に動きはなさそう。『公民館の風』もいつの間にか姿が消えてしまったようです。


(35) 三多摩テーゼ40年・回想(2014〜15年・南の風記事・シリーズ)→■


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