沖縄研究・総ぺージ■

  シリーズ・沖縄の公民館・おきなわ短信
                     (1999年11月〜2003年〜)     


【目次】
A,沖縄の公民館シリーズ(「公民館の風」所収、1999年〜2000年)
1999年

(1) 名護東海岸の集落と公民館(1)(「公民館の風」第6号、1999年11月9日)
(2) 名護東海岸の集落と公民館(2)(第8号、11月24日)
(3) 集落公民館と公立公民館(第9号、11月29日) 
(4) 読谷村中央公民館、その閉館行事(第10号、12月2日)
(5) 再び東海岸へ、久辺地区(第12号、12月9日)
(6) 名護市の集落公民館(島袋論文)(第14号、12月13日)
(7) 地域史づくりの潮流(第17号、12月21日)
(8) リュウキュウ・アユを呼び戻す運動(第18号、12月28日)
2000年
(9) 読谷村字楚辺公民館発行『楚辺誌(民俗編)』紹介(第23号、1月26日)
(10)集落の公民館と図書館(第26号、1月29日)
(11)竹富島の公民館・竹富島憲章(第29号、2月6日)
(12)辺野古区公民館の行政委員会(第35号、2月22日)
(13)「象グループ」と今帰仁村中央公民館(1)(第38号、3月6日)
(14)「象グループ」と今帰仁村中央公民館(2)(第40号、3月24日)
(15)今帰仁村中央公民館その後(第44号、4月5日)
(16)名護市中央公民館の歩みと本土型公民館への複雑な感情(第45号、4月9日)
(17)石垣(白保)新空港問題と公民館(第53号、4月30日)
(18)寺中構想と読谷村波平公民館の二つの門(第55号、5月10日)
(19)「沖縄タイムス」が報じた公民館(1)(第61号、6月5日)
(20)「沖縄タイムス」が報じた公民館(2)(第63号、6月12日)

B,おきなわ短信「南の風」「公民館の風」所収、2001年〜2002年)
2001年
(1) 名護・研究会の余韻  (南の風 622号 2001年1月29日)
(2) 与那国の冬の海    (南の風 624号 2001年2月2日)
(3) 日本最西端の公民館 (公民館の風138号 2001年2月7日)
(4) 与那国の集落公民館組織 (公民館の風141号 2001年2月13日)
(5) 与那国の文庫活動       (公民館の風143号 2001年2月19日)
(6) 古層型の公民館(1)―宮古・西原 (南の風 703号 2001年7月10日)
(7) 古層型の公民館(2)―与那国   (公民館の風188号 2001年7月16日)
(8) 那覇市公民館の試み・琉球新報記事 (公民館の風188号 2001年7月19日)
(9) 平和教育に取り組む公民館・沖縄タイムス (公民館の風199号 2001年8月19日)
(10)沖縄県教育委員会「要覧」等資料にみる公民館 (公民館の風203号 2001年8月30日)
(11)最近のエイサー4題・タイムスと新報 (公民館の風213号 2001年9月26日)
(12)旧8月15夜・沖縄    (南の風750号 2001年10月2日)
(13)沖縄のアイデンティティとの対話 (公民館の風218号 2001年10月8日)
(14)あんつく、そしてパピリオンの夜 (南の風753号 2001年10月9日)
(15)やんばるの里から3題 (公民館の風221号 2001年10月19日)
(16)源河公民館・アユを呼び戻す運動 (公民館の風221号 2001年12月10日)
(17)小さな公民館の大きな苦悩 (公民館の風244号 2001年12月26日)
2002年
(18)山の炭焼き煙と竹富の海開き (公民館の風270号 2002年3月6日)
(19)沖縄のなかのムネオ (公民館の風272号 2002年3月17日)
(20)南の島から、三つの祝い (公民館の風273号 2002年3月22日)
(21)4月の沖縄−選挙・大学・沖縄憲法 (公民館の風280号 2002年4月10日)
(22)首里の夜、那覇の1日−首里石嶺町公民館へ(公民館の風282〜293号 4月14〜17日)
(23)最近の沖縄の公民館・3題(タイムス、新報) 公民館の風292    5月14日
(23)A台風のすき間をぬって出版パーティ 南の風904 7月15日
(24)取り返しのつかないミス・本づくり   南の風905 7月16日 送信後一部修正
(25) 石垣への旅・難民から賓客へ     南の風906 7月17日
(26)八重山へのキャラバン記事(八重山日報・八重山毎日新聞) 南の風909 7月23日
(27)全国集会に向け琉球列島キャラバン報告 公民館の風318号,7月24日
(28)沖縄で全国集会を・略史(その1)  公民館の風319  7月27日
(29)沖縄で全国集会を・略史(その2)  公民館の風320  7月29日
(30)久留島武彦賞とエイサー論議 公民館の風324  8月6日
                 
以上・本ページに収録
(31)竹富島憲章と来間島憲法 公民館326  8月10日
(32)竹富島憲章と竹富公民館         公民館の風328 8月14日
(33)来間島憲法               公民館の風330 8月18日
(34)沖縄の8月15日 公民館の風332 8月22日
(35)沖縄の公民館・二題           公民館の風357 10月26日
(36)最近の地域の動き(沖縄タイムスほか) 公民館の風364 11月15日
(37)城辺中央公民館と那覇・高良自治会館 公民館377 12月20日
(38)名護市民投票から5年           南の風980号 12月24日
(39)おきなわの図書館(八重山図、図書館経費減)公民館379 12月25日
(40)竹富島の五つの地域力(上勢頭芳徳) 公民館382 1月3日
2003年【おきなわ短信】
(41)沖縄の成人式の動き 公民館383 1月7日
(42)南の島の成人式 公民館384 1月12日
(43)旧琉米文化会館のフィルム 南の風989 1月13日
(44)竹富公民館、交響詩「ひめゆり」 公民館386号 1月18日
(45)九州地区公民館大会、竹富町・合併問題と公民館 公民館391号
(46)名護屋部区の写真集、戦前の沖縄稀少資料 公民館394号
(47)シマ酒文化展(喜如嘉公民館)、字公民館とNPO(竹富) 公民館395号2月7日
(48)沖縄「地名シンポ」、宮良長包資料 南の風1003号
(49)戦より人間愛/バレンタインデーにイラク攻撃反対 1007号2月19日
(50)住民主権の自治基本条例素案、喜納昌吉イラクで熱唱 1009号2月22日
(51)平和市民連絡会がバグダッド報告会、日本映像民俗学の会 1012号
(52)読谷村楚辺「象のオリ」(琉球新報2月26日) 1014号
(53)歴史認識の共有訴え/東アジア植民地主義で国際シンポ(新報3月2日)1017号
(54)南部・旧南風原陸軍病院壕、米軍基地にも査察を 1021号
(55)従軍記者・沖縄行定期便(琉球新報3月17日) 1025号
(56)名護市青年団「やんばる船」が10周年式典(琉球新報3月26日)1029号
(57)反戦ハンスト10日間 牧師の平良さん(沖縄タイムス3月30日) 1031号
(58)ミヤコニイニイ 早くも鳴き出す/伊良部町(宮古毎日新聞3月31日)1032号
(59)基地内大学、日本人学生“締め出し”(琉球新報2003年4月5日)1034号
(60)教育と地域活性化でNPO発足 具志頭村(琉球新報2003年4月18日)
(61)西表リゾートで反対住民が阻止行動「工事を中止しろ!」(八重山毎日4月3日)
(62)地域の伝統 脈々と受け継ぐ 宮良青年会「サニズ演劇発表会」(八重山毎日4月22日)
(63)那覇市の地域づくり事業 NPOに業務委託(沖縄タイムス2003年4月24日)
(64)「4・28」風化させない 北島角子さん(琉球新報 2003年4月29日)
(65)もう1つ選挙のニュース−宜野湾市長選(琉球新報2003年4月28日)
(66)子供は地域で育てよう 平田大一さんが講演・宮良公民館(八重山毎日新聞5月3日)
(67)モンゴルの子5人那覇でコンサート(沖縄タイムス2003年5月11日)
(68)波照間公民館が盛大に合同歓迎会 新任医師や教員などと交流(八重山毎日5月16日)
(69)沖縄の主体性提起 「新しい自治」で法政大学シンポ(琉球新報2003年5月25日)
(70)
以下・略 


和光大学(2001年)小林プロゼミ、名護訪問(名護市中央図書館応接室、2001年10月3日)。
前列左より中村誠司、島袋正敏、小林文人、後列に大崎正治(國學院大学・当時)、稲嶺進(市収入役、
2010年より名護市長) −敬称略。他は和光ゼミ学生(1年生、氏名・略)



A,沖縄の公民館シリーズ(「公民館の風」所収、1999年〜2000年)

1,名護東海岸の集落と公民館(1) 
公民館の風第6号:1999年11月9日)
 今朝(11月9日)の朝日新聞は一面トップで、名護市長がいよいよ普天間基地移設を名護東海岸のキャンプ・シュワブに「受け入れ」る方針であること、すでに市議会関係者とは協議を始めたことを報じている。反対派の市民団体は岸本市長が受け入れを表明した場合、直ちに解職請求、市長リコールの運動を始めるという。
 「沖縄タイムス」が伝えるところによると、いま名護市東海岸の二見(キャンプ・シュワブ辺野古の北)以北10区に、国や市の補助金が集中的に投入されているという。この地区は1997年の名護市民投票では活溌なヘリ基地反対運動を展開したところだ。今また普天間飛行場移設問題が大詰めを迎え、目前のキャンプ・シュワブが再び最有力候補地といわれている段階で、「破格の補助金が基地問題と結びついているのではないか」と不安の声が上がっている。(11月4日朝刊)  
 補助金の主要なターゲットは、集落の公民館建設だ。「二見以北10区のうち3区で公民館の建て替え工事が進められている」という。工事現場の前に立てられた看板には、事業名として「キャンプシュワブ等周辺地区会館設置助成事業」と書かれている。発注者は名護市長。このほかにも2区の公民館建て替えと、1区の公園整備等が予定されている。
 これらの事業は、1998年から始まった。名称は「日米特別行動委員会(SACO)関係施設周辺整備助成補助事業」。防衛施設庁が9割を負担し、通常の防衛関連事業と比べ、補助率が高い。
 これを受け取る二見地区以北の側にはもともと警戒感が強かった。市は「基地問題とは別」と繰り返し説明し、ようやく区長たちを説得したという。しかし今でも地域に不安は残る。
 かってアメリカ占領下の沖縄では基地対策として「高等弁務官資金」がばらまかれた歴史がある。その補助対象は道路・簡易水道整備などとならんで「公民館」建設が多かった。いままた「札束でビンタ」の歴史が繰り返されている。かっては「沖縄の帝王」と言われたアメリカ側の高等弁務官、いまは日本政府(防衛施設庁)と自治体という構図だ。

2,名護東海岸の集落と公民館(2)
 公民館の風第8号:1999年11月24日
 11月22日午前、沖縄県は米軍普天間基地移設問題で「名護市東海岸・辺野古沿岸、キャンプシュワプ水域を移設候補地と決定」したことが報じられた。水面下で動いてきた事態がいよいよ表面化し公式化したのである。
 名護東海岸は人ぞ知る景勝の地、地先の海ではときにジュゴンが泳ぐ。キャンプ・シュワブの辺野古と、隣りの集落・二見は「二見情話」で知られる。「上り下り」の多い辺野古と二見の間での男女の恋を歌った物語だが、いまこの地区は基地移設問題で、実に厳しい「上り下り」の経過をたどっているのである。
 沖縄タイムスなどの報道によると、この間に、二見以北10区には公民館の建て替え工事などのほか、1997年から毎年400万円から900万円が市から交付されている。「二見以北10区地域振興補助金」と名付けられたこの事業は、97年の市民投票直前の市議会で認められた。使い道は基本的に自由だ。
 97年の海上ヘリ基地事前調査の説明会では、この二見以北10区の区長(公民館長)たちは当時の比嘉鉄也市長を残して一斉に退出し、抗議の意志を示した経過がある。反対デモ行進の先頭にも立ってきた。
 しかし、あれから2年、状況は変わってきている。10月20日に開かれた久志地区(二見以北10区を含む)区長会は、ヘリ基地建設に反対する新たな決議採択を見送った。「基地問題を議論すれば、集落は再び分裂する」。蒸し返したくない、というのが区長たちの本音だ。地縁・血縁で結ばれた小さなコミュニテイの事情がある(沖縄タイムス11月4日朝刊)。
 しかし底仁屋区では臨時部落総会(4日夜)を開き、全会一致で、新たな基地建設の反対を決議したという(同11月5日朝刊)。また隣りの宜野座村・松田区でもやはり全会一致で反対決議をし、村当局へ要請行動をしている(同11月16日朝刊)。稲嶺県知事の名護東海岸・辺野古地区周辺への移設受け入れ表明(11月22日)で緊迫する中、住民で組織する「ヘリ基地いらない二見以北十区の会」は名護市役所に市当局としての受け入れ拒否を求めるなど、活溌な反対活動を繰り広げ始めた。集落の状況は複雑に展開しつつある。
 名護東海岸の10区はいずれも戸数100戸たらずの小さな過疎の集落である。この時期に20年かけての地域史(字誌)を完成させた嘉陽区などは現在人口はわずか120人に過ぎない。前は海、背後に豊かな森に守られて共同的な集落組織を維持してきた。その中心に集落の公民館が位置してきたのである。
 日米安保の大きな現代的問題が、やんばるの小さな集落に深い影を落としている。集落の小さな公民館が、アメリカ極東戦略や日本の防衛問題の大きな状況に対峙させられて、いま呻吟を強いられている。

3,集落公民館と公立公民館 公民館の風第9号:1999年11月30日
 ところでアメリカ占領下の沖縄で、公民館制度はどのように普及・定着してきたのだろうか。戦後日本の公民館制度が、どのように沖縄に伝播したのだろうか。これについては、これまでいくつか書いてきたものがある(横山・小林編『公民館史資料集成』1986、小林・平良編『民衆と社会教育ー戦後沖縄社会教育史研究』1988)。詳しくはそれらを見ていただくことにして、いくつか特徴的なことのみあげれば、次のような経過であろう。
1,戦後日本の公民館構想が、紆余曲折をたどりながら、奄美を経由しながら沖縄に伝播し施策化されていく。
2,アメリカ占領軍政は、占領政策に直結した「成人学校」制度を強い権限をもって普及しようとするが(1949、「成人学校規定」)、定着せず、琉球政府・中央教育委員会決議「公民館設置奨励について」(1953、公民館に関する最初の公的文書)による公民館制度が各地域に支持され、普及されていく。
3,日本・社会教育法を基礎として、運動的に立法された琉球・社会教育法(1958)では、日本と同じく「公立公民館」制度を法制化したが、占領下の現実、財政的な制約のため、実際には公立公民館は直ちに設立をみなかった。
4,戦後の復興過程で「むら興(おこ)し」されていく地域住民組織を基盤に字(あざ)公民館、集落の公民館が主流となって琉球政府下(1972年・復帰まで)の公民館の実像が形成されていく。当時の琉球政府の公民館政策も、字公民館の奨励策が基本であった。
5,「本土」と同じく自治体によって公立公民館が設置されるのは、日本復帰が政治的日程として具体化していく時期、ようやく1970年、読谷村立(中央)公民館が最初であった。
 
 私たちの沖縄研究の当初、この沖縄型の字公民館・自治公民館の実像にふれて、その苦難の歴史を知れば知るほど、新しい事実の「発見」の感動を味わった。それまでの三多摩などの「公立公民館」を中心とする公民館研究の狭さ、固さ、が反省させられた。
 また本土各地の(三多摩等には見られないが)、いわゆる本土型「自治公民館」の形骸化、空洞化を思い知らされた。住民の生産・消費・祭祀・自治・対基地闘争等の「日常」に文字通り密着した、ほんものの“自治”公民館の実像を、形骸化した「自治」公民館と同じ概念でくくることは出来ない。沖縄では一般に「公民館」と呼ぶ場合は、この「字」「シマ」「集落」の公民館をさす。私たちは、本土「自治公民館」と区別するために、沖縄型の公民館を積極的に「字公民館」「シマ公民館」と呼ぶようにし、その上位概念として(本土の自治公民館、部落公民館、地域分館、町内公民館などを含む)「集落公民館」という名称を使うようになった。
(小林「戦後社会教育の形成過程ー沖縄社会教育史研究に関連して」日本社会教育学会年報25『地方社会教育史の研究』1981、など)名護東海岸の各区の「公民館」とは、このような「集落公民館」である。普天間基地移設問題でゆれる集落の激動、矛盾、分裂等の苦悩は、したがってそのまま公民館の苦悩となる。  

4,読谷村中央公民館 公民館の風第10号:1999年12月2日
 本土復帰を前にして、沖縄にようやく本格的な公立公民館が設立されるのは、1970年のこと、読谷村(中頭)においてであった。当時の中心の職員は上地武雄氏、積極的な仕事ぶりで注目を集めた。
 読谷村は公選主席の屋良朝苗氏(復帰後・知事)の出身地、この時期に山内徳信村長も就任し、役所には活気あふれる雰囲気があった。沖縄で初めての中央公民館、活溌な事業内容、職員の情熱、など高い評価を得てきたのである。私(小林)も沖縄研究を志して訪沖(1976年)したその足で、具志頭村や具志川市とともに、まずは読谷村中央公民館を訪ねた記憶がある。
 中央公民館は役場のすぐ横に位置していたが、数分歩けば例の文化門・経済門の波平区(集落)公民館があり、集落公民館と公立公民館の二つの体制の併存状況が始まったのである。
 *波平区公民館については、小林「沖縄の社会教育が問いかけるものー復帰20 年に想う」(月刊社会
   教育93年1月号)に書いている。
 その中央公民館が、この9月30日をもって閉館した。旧飛行場跡の基地の中に村庁舎を建て(1997年)、その横に村文化センターを新築、そこ(ふれあい交流館)に中央公民館機能を移したのである。10月23日夜、29年間の労をねぎらう「感謝と思い出を語る夕べ」(教育委員会主催)が開かれた。
 11年間、専任講師として青年学級を指導してきた山内前村長(大田県政時代の収入役)は、当時の想い出を振り返りつつ、「読谷が示した社会教育のテーゼは、全国から社会教育の見本との評価も得た。中央公民館の果たした役割は大きい」と功績を讃えたという。(沖縄タイムス10月28日)

○関連して、読谷村社会福祉協議会事務局長・上地武昭氏より、次のようなメールが届いている。
 <文化センター落成!>1999年11月21日 12:17
 本日、読谷村文化センターが落成しました。総工費25億円、延床面積6,700平方メートル、4階建て、ホール収容人員は700名です。
 読谷村は「人間性豊かな環境文化村づくり」を村政の目標として掲げて来ており、その集大成としての位置付けがあります。基地の中に、村庁舎を平成9年に造り、そして今回の文化センター。
 よみたんまつりにおける諸団体の発表もすごかったけど、今回の落成式における祝賀舞台の発表もすごいのがありました。
 この文化センターを使って、読谷村の文化活動がますます充実して行くものと私は期待しております。今月、28日、29日には村出身のキロロのコンサートも予定されております。 (この項、南の風第383号より)

5,再び名護東海岸へ・久辺地区  公民館の風第12号:1999年12月9日
 名護市東海岸の久志、辺野古、豊原三区は久辺地区と呼ばれる。稲嶺知事が基地移設先を「辺野古沿岸域」と表明して以来、各区は複雑な思いだ。
 「いかなる振興策をもってきても、海上・陸上への基地の移設・新設断固反対。久志区」公民館の入り口前には、白地に黒色の文字で書かれた大きな看板が立つ。同区では九月末、臨時の区(公民館)行政委員会でキャンプシュワブ沖への移設に反対する決議を全会一致で採択。「われわれとしてはやれることはやった。」「市長は地元の頭越しにはしないと言い続けてきた。区長会等で市長が説明するはず」と区長。
 豊原区はじっと静かに事態を見守っている。ここでは九月末の臨時区行政委員会で「陸上、埋め立て」両案に反対する決議をした。海上案については「県幹部がすでに否定している」として、ふれなかった。「絶対反対」「もしも造るなら沖合に…。」区民の思いは複雑だ。
 辺野古では、知事表明の日、複雑な表情の区民が多かった。同区も「陸上、埋め立て案」に反対する決議を行っている。「市から話があれば、区行政委員会を開いて対応する。それまで待つしかない。」それぞれの区の事情が垣間見える。(沖縄タイムス「普天間」問題取材班、12月2日)
 区・行政委員会とは、集落の公民館組織の中核だ。名護市の受け入れ表明、それに伴う市長辞任、そして再度の市長選、などが伝えられる状況のなかで、候補地である地元・久辺三区の公民館が、重圧のなかで、苦悩の色を深めている。
 
6,名護市の集落公民館(島袋論文) 公民館の風第14号:1999年12月13日
 沖縄・公民館の独自の歴史については、これまで琉球政府『琉球史料』第三集(1958)、沖縄県教育委員会『沖縄の戦後教育史』(1977)などの公的な刊行物のほか、私たち沖縄研究グループによる「沖縄社会教育資料」全7集(1977〜85)、小林・平良編『民衆と社会教育ー戦後沖縄社会教育史研究』(1988)などがあり、また関連する研究・論文のなかにも、沖縄の公民館にふれたものが少なからずある。
 しかし何と言っても圧巻なのは、沖縄独自の地域史研究、とくに字(集落)誌・史に見られる集落公民館の記録である。字誌・史そのものが集落公民館によって企画・編集・刊行されたものが少なくない。
 このことにもふれて、公民館の風第13号でも紹介した新刊『これからの公民館』(1999年、国土社)所収の島袋正敏論文「沖縄の集落自治と字公民館ー名護市の実践」が興味深い。
 島袋正敏さんは、本土復帰前から、ひとすじに「やんばる」そして名護の、これまでの社会教育・地域活動を担い、支えてきた人。この間には博物館をつくり、同館長、社会教育課長を歴任、その後には図書館づくり運動から、現在は同(新図書館)館長をつとめている。
 まず島袋論文の沖縄「集落公民館小史」が簡潔にして面白い。最近の特徴的な動きとしては、集落の祭りや年中行事と公民館、字誌づくりの活動、琉球アユを呼び戻す運動(源河区公民館)、海上ヘリポート基地問題と公民館、が取りあげられている。基地移設問題は、そのままこの地区の集落公民館の主要な問題であり、問題が論議される過程で集落自治のあり方が厳しく問われている。それとの関わりで、社会教育行政の本来的な役割が指摘されている。

○「沖縄の公民館(5)再び名護東海岸へ・久辺地区」(公民館の風第12号)で紹介した辺野古など三地区(公民館)では、基地移設賛成派の動きによって、新しい局面を迎えた。12月10日夜、久辺地域振興促進協議会(促進派)は豊原区で会合を開き、移設基地を(陸上案、埋立て案ではなく)沖合3キロ以上の海上案という線で方針をまとめ、さらに11日午前には辺野古活性化促進協議会(促進派)と会談して同方針で合意し(両派は1997年の市民投票の段階では分裂していた)、「協力して市長の支援を行う」という。(沖縄タイムス、12月10、11日)

7,地域史づくりの潮流 公民館の風第17号:1999年12月21日
 沖縄の公民館の、本土に見られない活動の一つは、集落史(字誌)づくり、地域史づくりの潮流であろう。「これからの公民館」(国土社)島袋論文にも、名護の事例が紹介されていて、興味深いものがある。地域史づくりについての俯瞰的な研究は、同じく名護の中村誠司さん(名桜大学)の一連の字誌目録づくり、集落史研究が見逃せない。
 中村誠司さんによれば、字誌づくりとは、その地域(字)に住む人々が自らの地域の記録をつくりあげる点にその本領があり、住民自身による濃密な地域学習・研究・文化活動であるという。1980年代に入ると、字(集落公民館)の事業(予算)として集団で編集委員会を構成して取り組むことが当たり前になってきた。
 最近のまとめでは、字誌目録の総数は400という。沖縄県下の集落公民館の数が約800、団地や分譲地の自治会等集会所まで含めると約1000に近い集落の、ほぼ半数ないし4割が何らかの自らの集落史、いわば地域の自分史を創り出してきたことになる。400点の内訳は、公民館組織を基盤とした字誌・集落史が176、地域住民による個々のテーマに関する成果が142、地域住民及び出身者による各種記念誌・郷友会誌(字誌部分を収録)が44、外部の研究者による地域研究の成果が38、となっている。(同「沖縄の字誌目録」、小林編「戦後沖縄社会教育における地域史研究」第1集、1999年3月、「東アジア社会教育研究」第4号に採録)
 私たちの沖縄研究では、名護にとどまらず、とくに読谷村の一連の字誌づくりの軌跡が印象的であった。『民衆と社会教育ー戦後沖縄社会教育史研究』(1988、エイデル研究所)の「まえがき」では、私は同村・宇座区公民館編『残波の里』から書き始めた。「忘しり難なさや生り島」と切々たるフルサトへの想いが胸をうつ公民館史・集落史である。米軍上陸で集落は壊滅し、追われた人々が戦後ようやくムラに帰ってみると、そこは米軍に接収されボーローポイントという飛行場になっていた。やむなく周辺の荒地を開いての苦難の「村興し」が始まって40年。人々はかっての自分たちの「生り島」と、戦後の集落づくりの格闘を書き残さないわけにはいかなかったのであろう。『残波の里』編集の中心には、のちの読谷村々長・山内徳信さんもいた。
 最近では、同じ読谷の楚辺区公民館の地域史づくりが注目を集めてきた。とくに『楚辺誌ー戦争編』(1992)は圧巻である。当時500戸ちかくの楚辺区全世帯の戦争体験を写真ととも記録している。これほどの戦争地域史は、おそらく他(世界?)に類がないのではないかと思われる。その楚辺区が、また新しく集落『民俗誌』(1999年6月)を世に出し、今年の沖縄タイムス出版文化賞を受賞した。拍手!

○名護東海岸「二見以北十区の会」の反応:
 12月17日、東京で開かれた沖縄政策協議会(第10回、主宰・官房長官)は、基地の北部移設先振興策の特別財源措置として1,000億円(10年間)投入の方針を示した。札束でビンタ!の構図だが、これをめぐって地元首長や土建業者などが歓迎一色、これに対して「二見以北十区の会」などの住民たちは危機感をつのらせている。
 自然ガイド・浦島悦子さんは「あと10年も補助金漬けにされたら、やんばるの自然は開発で完全につぶされてしまう」「自立への模索が続いているなかで、こうした振興策は自分がつながれている鎖を自分で太くするようなもの」「本当の開発は内発的なものでなければ続かない」等。(沖縄タイムス、12月18日)

8,リュウキュウアユを呼び戻す運動 公民館の風第18号:1999年12月28日
 引き続き、沖縄の集落公民館にかんする島袋論文(「これからの公民館」国土社)に関連した動き。最近「源河川にアユを呼び戻す会」の新し取り組みが注目を集めている。
 名護市源河区(戸数約300戸)のアユ復活運動は、この区の公民館活動として取り組まれてきた。「アユを呼び戻す会」は1986年に発足しているが、発足の火付け役となったのはムラの青年たちだ。源河では、全世帯が「呼び戻す会」の会員、会長は公民館長である。「その土地に住んでいるものが主体となり、……いわゆる自然保護団体を活動に割りこませなかった。だからこそ、畜産農家との地道な話し合いによってその移転などが可能になった」という(島袋論文)。
 12月20日の沖縄タイムスは、源河区公民館が「源河アユ生産者組合」の設立準備報告会を開いたことを報じている。関係者約150人が出席し、リュウキュウアユの養殖の見通しがついたとして、今後の産業化の可能性が語り合われた。「呼び戻す会は、現在十トンの養殖池5ヶ所をもち、年間で十万匹を孵化させることが出来る。そのうち四万匹前後の歩留まりがある。早めに市場に出し需要と供給を調べ、産業化の道を探りたい。過去に例がなく、実践しながらやっていくことになる。」(アユ専従職員の瀬良垣貢さん談)
 若者たちが火付け役になり、年寄りたちが昔を語り、子どもたちが放流し、集落あげて取り組んできた活動が、いまムラに一つの産業を生み出そうとしている。

○普天間基地移設問題(名護)に関して、その後:(この項、「南の風」第407号より転載)
 名護東海岸「辺野古」「二見以北十区の会」総決起大会が開かれた。基地移設候補地・東海岸で反対運動を続ける「命を守る会」、「二見以北十区の会」は、19日、辺野古公民館で久志地域総決起大会を開いた。当初の予定では、会場は辺野古の砂浜だった。雨天のため、変更された公民館には、500人を超える参加者が外まであふれた。命を守る会の相談役・嘉陽宗義さん(78才)は、会場を見渡しながら「雨が降っているから何十人集まるかなと思っていた。沖縄の心は滅びていない」と礼を述べた。
 海の横で育った輿石安奈さん(21才)は「無数の命につながる自然を傷つければ、最後に私たちが傷つくことになる」「自然と共に生きてきた“やんばる”の先人たちの“じんぶん”(知恵)に学ぼう、基地に頼らず、命の自立をしよう」と参加者に語りかけた。
 この集会には、隣接する宜野座村松田区からも30人が駆けつけた。辺野古沿岸域にヘリ基地が建設されれば、同区は滑走路の延長線上に当たる。(沖縄タイムス、12月20日)
 朝日新聞・沖縄タイムス合同世論調査では、「普天間」移設・反対が59%、賛成は23%に止まる、という厳しい「民意」を報じている。しかし現地の事情はさまざまであり、反対運動はこの数字のように多数派をしめているのではない。
 …と、ここまで書いていたところに、12月27日午前、岸本建男・名護市長の基地建設受け入れ表明が行われた。名護市として自ら基地建設を容認したわけだ。ついに来たのか、と思い複雑なものがあった。

 私は、岸本さんに何度か会ったことがある。ほぼ20年前、大竹康市等の若き建築工学「象グループ」が、今帰仁村や名護市の自治体計画に参画していたころ。いまは亡き大竹さんから「やんばる」での「実験」的取り組みの話はさんざん聞かされていた。
 1977年のある日、安里英子さん(当時「地域の目」主宰)と「やんばる」めぐり、まず真っ先に名護へ、そして市役所(現在の名護市博物館)の一室で彼を紹介してくれた。暑い日でもあったが、あのせまい市役所の一角で、熱気むんむんの議論をしていた一人だった。大学の若々しい研究室の雰囲気、たしか島袋正敏さんも仲間だったはずだ。(なぜかこの時に正敏さんと会っていない、彼と会うのはもう少し後だ。)
 カッコいい自治体職員、男ぶりもよく、英子さんはたしか「期待の星」と言ったようだった。そしてこの部屋から結実した名護市自治体計画は多くの注目を集めた。みずみずしく提起された計画理念は、自然と環境を守ること、地域の産業おこし、自らの地域の将来に自己決定権をもつこと、などであり、そのキーワードとして、有名な「逆格差論」「自力建設」「内発的エネルギー」論が新鮮な響きをもって迫ってきたことを想い出す。
 その計画づくりの中心に岸本現市長はいたのだ。しかし、今は…。逆の立場で「期待の星」になろうとは・・・。

9,読谷村字楚辺公民館『楚辺誌(民俗編)』 公民館の風第23号:2000年1月26日
 昨年末、沖縄・楚辺から912頁の大著が送られてきた。ときどき本を恵贈していただくが、こんな嬉しい献本はない。どこの本屋に注文しても買うことが出来ない、読谷村楚辺という集落の皆さんの手づくりの大記録である。すでに「沖縄の公民館(7)」(「公民館の風」第17号)で紹介したように、楚辺区・地域史は『楚辺誌(戦争編)』(1992年)が有名であるが、それに引き続く集落史の圧巻。あらためて自らの集落への思いと自治のエネルギーを実感させられる。『楚辺誌(民俗編)』は今年の「沖縄タイムス出版文化賞」を受賞した。
 目次だけでも紹介したいが、2段組みで13頁。とても出来ない。編集の中心メンバーである比嘉豊光さん(ペンション・ゆめあーる経営、ゼミ旅行で何度か泊まったことがある)がカメラマンだからか、古い記録写真をふくめて、たくさんの映像が躍っている。巻末「楚辺の風景(5)」をかざる山羊の顔になぜか涙が出た。このような「地域がつくる地域史」に寄せられた思いは、どんな歴史学者も、陣容豊かな大学研究室といえども、太刀打ちできないだろう。
 この集落の戦後史・公民館史の項をせめて半頁だけでも紹介することにしよう。
 「…1952、53年頃から琉球政府文教局の指導により社会教育活動が展開されるようになった。従来の字(あざ)事務所が公民館に改称され、村内各字ではすでに新しい公民館を建築し活溌な運営が行われていた。遅れを感じた字民から、「部落再建のために立ち上がろうじゃないか」という話が出た。日増しにその話が進み、字民の世論となり部落常会において公民館建設が決定された。1956年11月、公民館を建設し同時に簡易水道・赤犬子宮・高土原の農道開設工事と矢つぎ早に基本施設を整備した。
 1957年の新春を迎えるとともに公民館予算を編成し、いよいよ公民館運営が開始された。実践部門として総務・産業・教養・厚生・生活改善・自警の六部門を設け、各部とも活溌な運営がなされるようになった。……」(読谷村字楚辺公民館『楚辺誌(民俗編)』1999、p.63)

10,集落の公民館と図書館 公民館の風第26号:2000年1月29日
 せっかく部厚な本をを開いたのだから、あと少し『楚辺誌』の紹介をさせていただこう。
 前号「公民館と字行政」に続く「教育・文化」の項に興味深い記述がある。学事奨励会、(集落)奨学制度、教育隣組、楚辺区図書館、などなど。いずれも戦後沖縄独自の歴史のなかで展開されてきた。なかでも新しい発見は、集落レベルの図書館の歩みである。
 沖縄の公共図書館は苦難の歴史をたどった。県立図書館は別にして、市町村立図書館の歩みは実に貧弱なものであった。ここ10年ぐらいの間にようやく市部にいい図書館が整備されてきたが、それ以前には、小さな名護町立(当時)「崎山図書館」が唯一といっていいような状況であった。
 1972年の本土復帰前には「琉米文化会館」によるアメリカ型(占領政策の枠内で)の図書館活動が見られたが、自治体による公立図書館づくりには反映されてこなかった(小林「アメリカ占領下沖縄の図書館」『図書館雑誌』1992年8月号)。それだけに最近の急速な各市図書館づくりの潮流が注目されるのである。
 しかし沖縄には集落による、その意味での“公共”図書館の貴重な歴史があることを『楚辺誌(民俗編)』は教えてくれる。これまでも一部の集落には文庫や図書室が設置されてきたことが報告されてきたが(たとえば金武町伊芸区、安富祖リエ子「子どもに緑と本を」月刊社会教育1981年7月号)、あらためて『楚辺誌』の記述から「集落図書館」ともいうべき独自の歩みを知ることが出来る。
 楚辺区図書館の場合、次のような経過であった。
1951年 青年図書館として発足。
1956年 公民館の落成とともにその一室(7坪)に移り、昼間は児童生徒、夜間は青年会の文化部
 が運営。
1964年 専任司書を配置。午後二時から開館、児童生徒の利用が著しく増えた。
1965年 各区立の幼稚園が小学校に統合移転されるにともない、幼稚園の建物を公民館図書館と
 して使用。
1967年 区内のあらゆる階層(生徒会、青年会、婦人会、教養部の代表者)で構成した区民図書館
 運営委員会が組織された。楚辺区公民館図書館を楚辺区図書館に改称、などなど。
 
 ちなみに楚辺区は戸数400、人口2000前後の、むしろ中型の集落である。そこに専任司書を配置した。歴代の専任司書が掲げられているが、12名を数える。集落レベルの図書館は、集落おこしの一環であり、集落の公民館活動と深く結びついて展開されてきた。自治体の公立公民館と図書館のように、バラバラの動きではない。文字通り「公民館図書館」であった。
 集落による図書館づくりの背景には、おそらく沖縄の悲惨な戦争と厳しい占領の歴史がある。だからこそ子どもへの切なる思い、若者への期待があり、周囲に本屋などない環境のなかで、本へのあこがれ、文化・教養への渇望があった。集落の協同と住民自治のつながりが、自力で小さな図書館を創りだすエネルギーとなったのだろう。

11,竹富島の公民館・竹富島憲章 公民館の風第29号:2000年2月6日
 「公民館の風」で<沖縄の公民館>シリーズを始めた契機は、一つは埋め草、あと一つは名護東海岸に普天間基地移設問題が浮上し、辺野古など関係の集落が(自治)公民館組織として対応を迫られる事態となり、この機会に沖縄型の集落公民館の動きを紹介しようという思いからでした。
 いつの間にか本号で11号となります。埋め草ながら、いろんな話題があり、あと少し続きそうです。もし、興味をおもちの方があれば、そのうち「沖縄の公民館を訪ねる旅」でも計画しましょうか。

 八重山郡竹富町の竹富島は、知る人ぞ知る景勝の島、石垣島からわずか6キロあまり、小さな珊瑚礁の小島。国の無形文化財に指定されている「タナドィ」(種子取)の祭りが有名。
 2000年1月24日、老朽化した旧公民館にかわって新「竹富島まちなみ館」の落成式が盛大に開かれた。まちなみ景観保存地区にふさわしく、木造平屋建てで赤瓦と白い石造りの壁を配した美しい仕上がり。総工費1億5千万円。文化庁が特例として公共施設新築修景事業を全国で初めて適用、経費の8割を補助し、残りを沖縄県と竹富町が分担した。完成式では竹富の皆さんが伝統の踊り「ガーリー」(タナドィで踊る、公民館長と長老たちと女衆たちとの群舞)を繰り広げ、体全体で喜びを表現したという。(沖縄タイムス、1月25日朝刊)
 この機会に、本土復帰後の本土資本・土地買上げの跳梁に抗してつくられた「竹富島憲章」を紹介しておこう。「竹富島は南島文化を代表する典型な農村集落」であり、伝統的まちなみと「周囲の環境の地域的特色」により「重要伝統的保存地区建造物群」選定(1987年4月28日)の記念碑とともに、シマの広場に「憲章」碑が立っている。
 「私たちは祖先から受け継いだ伝統文化と美しい自然環境を誇り『かしくさやうつぐみどぅまさる』の心で島を生かし、活力あるものとして後世へ引き継いでいくためにこの憲章を定めます。
  保全優先の基本理念
一、『売らない』 島の土地や家などを島外者に売ったり無秩序に貸したりしない。
二、『汚さない』 海や浜辺、集落等島全体を汚さない。
三、『乱さない』 集落内、道路、海岸等の美観、島の風紀を乱さない。
四、『壊さない』 由緒ある家や集落景観、美しい自然を壊さない。
五、『生かす』 伝統的祭事、行事を精神的支柱として、民俗芸能、地場産業を生かす。
私たちは、古琉球の様式を踏襲した集落景観の維持保全につとめます。
私たちは、静けさ、秩序のある落ち着き、善良な風俗を守ります。
私たちは、島の歴史、文化を理解し教養を高め、資質向上をはかります。
私たちは、伝統的な祭りを重んじ、地場産業を生かし、島の心を伝えます。
私たちは、島の特性を生かし、島民自身の手で発展向上をはかります。

*ちなみに『かしくさやうつぐみどぅまさる』とは「賢さと協同の心が何にもまして優れている」の意。竹富島を「うつぐみの島」と呼ぶ場合もある(竹富町史別巻3,写真にみる竹富町のあゆみ「ぱいぬしまじま」1993)。“うつぐみ”は島びとの“共同体精神”を表している。このような「憲章」がつくられた背景・経過にはなみなみならぬものがあった。
*小林は、一昨年から、その西方(日本の最西端)の「与那国島」調査を手がけている。第1次レポートは『戦後沖縄社会教育における地域史研究』第1集(1999年3月)に「与那国の歴史と社会教育ー研究覚書(その1)」をまとめ、ちかく第2次レポートを報告したい。

12,辺野古区公民館の行政委員会 公民館の風第35号:2000年2月24日
 辺野古区公民館については、小林平造氏など鹿児島大学沖縄研究グループが一連の調査報告をしているので(「集落公民館の自治と運営論に関する歴史実証研究ー琉球弧の事例」1998年11月、九州教育学会等)、基地移設問題にゆれる集落自治の最近の状況をレポートしてもらいたいのが本音だが、32号に記したように「公民館長が自殺未遂」というショッキングなニュースも報じられたので、東京で分かる範囲で経過を紹介し、不充分なところを補足してもらうことにしよう。
 関係者の話を総合すると、区長(公民館長)が薬物をのんで自殺をはかり病院で手当をうけたのは1月29日14:30ごろとのこと(その後は体調も回復し近く退院の見込み)。各新聞がこれを報じたのは2月1日だ。
 沖縄タイムスは、その直前「普天間・条件決議の辺野古行政委」という見出しで辺野古区を大きく(2面7段抜き)取りあげ(1月30日)、そこでは当の区長の談話も紹介されている。苦悩を含む複雑な発言だ。
 名護市辺野古区は、かって二度にわたって基地受入れ反対の決議をした経過がある。それだけに昨年末の名護市長の受入れ表明以降、あるいは基地とセットの地域振興策を推進しようとする「久辺地域振興促進協議会」の動きのなかで、集落としてどのような態度をとるか、どう意志決定をするか、厳しい判断を迫られてきた。基地反対派からも地域振興の立場をとる側からも注目されてきたのである。
 そして、市長が基地受入れを明らかにした以上、従来までの反対決議を頑固に継承するだけでいいのか、もし大勢が基地移設で動いていく場合、この機会に集落としての必要「条件」を提示し発言していく必要があるのではないか、という苦悩の論議を強いられてきた経過があった。それが上述の「条件決議の辺野古行政委」(沖縄タイムス)記事となってきたのである。

 集落公民館「行政委員会」とは、集落としての意志決定機関である。本土の公民館運営審議会と類似の位置づけのように見えるが、単なる諮問機関ではなく、いわば集落(シマ)の議会である。前に本欄で紹介した読谷村楚辺では「審議委員会」がそれにあたり、あるいは「代議員会」という場合もある。辺野古区の場合、区行政組織として「区民総会」が最高決議機関であるが、日常的な審議・決定は「行政委員会」があたる。正副委員長を置き、7つの小委員会(総合開発計画推進、教育推進、選挙管理、給与及補助金検討、褒彰審査、親善、三区合同、各委員会)を設けている。
 行政委員は、各班(教育隣組)選出12名、青年会長、婦人会長、区選出市会議員・教育委員・農業委員より構成されている。互選により正副委員長を選ぶ。(『辺野古誌』1998、p58) 
 今回の経過のなかで、辺野古区行政委員会は基地移設の場合の「条件」を論議し決議したのである。前回の住民投票以降の「反対決議」の姿勢から考えると苦悩の転換が読み取れる。その中心に自殺をはかった区長(公民館長、46才)はいた。その背景に、基地反対と容認の間で揺さぶられてきた住民がいる。

 いま朝日新聞が「沖縄ー名護の群像」の特集を組んでいる。今日は「基地賛否で裂かれた辺野古」を取りあげている。基地反対の先頭に立って闘う「嘉陽のオジー」(嘉陽宗義氏、78才)は、親戚でもある区長について「(動機は)本人から聞いていないから、分からん。でも、苦しみは分かる。あれは鏡のような心をもった男だ。」 オジーは熱を出し、1週間寝込んでしまったという。
 その後、区長は健康を回復して、とつとつとこう話した。「どうして辺野古に決まったのか。工法は何か。すべてが不透明では、地元は判断がつかない。大変な時にこんな役割になったけど、巡り合わせだから・・」と。(朝日、2月22日朝刊)

13,「象グループ」と今帰仁村中央公民館・その1 公民館の風第38号:2000年3月6日
 前号(第35号、沖縄の公民館12)にも書いたように、朝日新聞が5回にわたって「名護の群像」を連載した。よく通っている自治体だけになかなか興味深いものがあった。最終回の「描きかえられた未来図」(2月25日)では、「理想掲げた市長変わった」として岸本建男市長の変節を追っている。岸本は、かって反戦地主を支援する「一坪反戦地主」に名を連ねたこともあったのだ。
 朝日の記事では、当時(復帰前後)の名護市「総合計画・基本構想」を取り上げ、故大竹康市ら(記事で一つ不満なのは大竹に触れていない)の若い建築家集団「象グループ」と岸本ら(名護市の若い職員集団、島袋正敏もいた)の出会いを紹介している。
 高度成長期直後の日本に復帰した沖縄の人々は、低い所得や経済・開発の遅れを問題にし、当時しきりに「格差是正」が叫ばれた。外から海洋博などが導入された。それに対して名護市総合計画づくりに参画した「象グループ」と名護の若き群像たちは、「格差」の事実を真正面から受けとめつつ、しかし地域からの発想の起点として「逆格差論」を提起した。格差を追う視点からではなく、やんばるの自然・環境・社会の豊かさと人間的な諸関係を再発見する眼をもち、地域の内発的なエネルギーをこそ発展させる立場から、自治体計画を立案しようとしたのである。
 当時の岸本は「象グループ」に共鳴しながら、いわば地域主義的な立場から、外からの開発ベクトルを拒否し、地域の開発と運命の自己決定権に強くこだわる陣営の一角にいたのだ。基地受入を表明した時点で、彼は外からの開発論に完全に変節したことになる。
 名護市「総合計画・基本構想」は「やんばる」「名護」への尽きせぬ愛着が基本にあって、読んで実に面白い自治体計画である。たしか都市計画学会?賞をもらったはずだ。当時、名護とならんで同じ発想で創られた計画に、隣りの今帰仁(なきじん)村「総合開発計画基本構想」があった(1974年)。 この計画づくりにも同じく「象グループ」が参画した。名護市計画よりも、むしろもっと具体的に地域主義的な視点が活用されていたように記憶している。自治体としての地域計画の基本単位が「集落」であり、その拠点として「集落公民館」の独自の役割が描かれている。そのモデル図「集落公民館とまわりの計画」は、手書きのデザインが実に見事で、機会あるごとに紹介した一時期がある。(日本社会教育学会年報第25集、小林論文p38、小林・平良編『民衆と社会教育ー戦後沖縄社会教育史研究』エイデル、1988、の背表紙など)
 私は安里英子さんや名護・今帰仁の関係者を通して(沖縄で)「象グループ」を知り、(東京で)新宿の設計事務所を訪ねるようになった。末本誠なども一緒に行ったことがある。当然、そこで故大竹康市と会った。彼らの事務所は、大学の若々しい研究室よりも、もっと活気あふれる空気が充満していた。それから折々に東京学芸大学の私の研究室を大竹さんが訪ねてくれるようになった。沖縄だけでなく、「日本」の社会教育の仕事もしたいというので、国分寺や東上線沿線の研修会などに、大竹康市を紹介したこともある。宮代町(笠原小学校、コミュニテイセンター)などの「象グループ」のポストモダーン的な仕事ぶりを、ゼミの小旅行で訪ねてまわったりした。
 社会教育関係の設計では、その代表的なものが今帰仁村(公立)中央公民館であろう。

14,「象グループ」と今帰仁村中央公民館・その2 公民館の風第40号:2000年3月24日
 …承前(第38号(13)その1)…
 名護市役所等を設計した「象グループ」の仕事のうち、社会教育関係で出色のものは隣りの自治体・今帰仁村の中央公民館であろう。今帰仁村中央公民館は言うまでもなく集落公民館でなく、自治体立の公立公民館である。
 沖縄の公立公民館の歩みは苦渋に充ちている。沖縄県教育庁による社会教育・生涯学習関係「要覧」に記載されている「公民館設置状況」一覧のうち、設置年度の項をたどれば、ようやく1970年前後から公立公民館の設置が始まる。公民館設置に関する中央教育委員会決議(1953年)や、琉球社会教育法(1958年)は公立公民館の設置を基本のかたちとしていたが、実質は集落公民館の奨励が中心の歴史であった。
 1972年までのアメリカ統治下では、アメリカ側が設置した主要都市の「琉米文化会館」が大型・公立公民館・図書館にあたるものであろうが、占領政策に拘束されたいびつな施設であった。本土復帰が具体的な日程となり占領体制からの脱却が始まって琉米文化会館の機能が終息していくのと対応するように、ようやく自治体立の公立公民館が姿を現すのである。(琉米文化会館については「沖縄社会教育史料」第5集や小林・平良編「民衆と社会教育」に詳しい。)
 沖縄の公立公民館の第1号は驚くなかれ、最西端の島・与那国町(1969年)、しかし実態は集落公民館の複合的な施設であった。実質的には読谷村中央公民館の設置(1970年)を第1号とするのが通説となっている。ついで本土復帰後に石川、具志川、糸満、那覇などの都市部で公立公民館が誕生していく(1974〜1975年)。しかし施設状況も職員体制もむしろ貧弱であって、石川・那覇の両市は、旧琉米文化会館施設を転用したものであった。それと前後して国頭、城辺、伊良部などの農村部でも公立公民館の設置が始まるが、その一角に今帰仁村中央公民館が誕生するのである(1975年)。沖縄県では実質7番目の公立公民館であった。
 今帰仁村中央公民館は、同村「総合開発計画基本構想」(1974年、名護市総合計画は1973年)の翌年、ともに「象グループ」によって構想・設計された。旧来型の施設のイメージしかなかった当時、今帰仁村中央公民館の設計は、いわばポスト・モダーンの思想に基ずく新しい発想、意表をつく紅い柱と緑の屋根、まことに斬新奇抜、むしろ奇想天外な印象さえ与える新しい建物であった。全国どこの公民館にも見られない個性と地域性にあふれた設計とも言える。
 私は、1977年当時、始めて今帰仁村を訪れ、この中央公民館をみたときの興奮を忘れない。竣工して2年目、まだ未完成の感じをただよわせていたが、林立する紅い柱の回廊は、私のそれまでの公民館イメージをこなごなに壊してしまった。従来までの固い公民館の構造理論に激しい痛打を与えられ、厳しい転換を迫られた日となった。あわせて今帰仁村「総合開発計画基本構想」にみる「集落公民館とそのまわりの計画」(前号)を目にし、集落組織と公立施設の調和論を知るに及んで、あらためて「象グループ」の若い建築工学者集団へ強い関心をもつようになった。(今帰仁村中央公民館については、建築理論誌『建築知識』が特集を組んでいる。同誌1975年?月号、いま手もとになく正確な号数は不正確。)    

15,今帰仁村中央公民館その後 公民館の風第44号:2000年4月5日
 前40号で、初めて今帰仁村を訪れ、中央公民館の新建築と出会った想い出を書いたが、その後に記録をたどってみると、1977年ではなく1978年だったようだ。いずれにしても私たちの沖縄研究の初期(1977年は那覇市や読谷村あたりまでで、まだ山原<やんばる>にはたどりついていなかった)、それだけに強烈に目に焼きついている。
 その後1978年から79年、80年にかけての沖縄調査は、さかんに<やんばる>、とくに今帰仁村を歩いている。携えたテキストは、象グループによる「今帰仁村総合開発計画・基本構想」に画かれている全集落の公民館「プラン集」(36〜37頁)。自転車を借りて、(案外と急な)上り下りの坂を越え、美しい「蔡温の松」並木を楽しみ、福木の集落をまわった頃が想い出される。
 当時の今帰仁村教育委員会・社会教育主事は玉城勝男であった。彼は1975年の中央公民館の建設について、部厚い資料綴りを前におき、実に情熱的に、そこに流れる思想と具体的な経過を語ってくれた。打たれるものがあった。(残念なことに、その後事情があって職を去ったが、沖縄社会教育研究会・東京学芸大学社会教育研究室では、あらためて、上京中であった彼に報告を求めたことがある。第97回研究会「玉城勝雄に聞く−今帰仁村中央公民館の設立過程」1988年11月19日、於学大、終了後に国分寺で交流会。
 皆で浜に出て貝殻を拾い、新中央公民館のコンクリートの床に自分の「シマ」名や恋人名を書き埋めたこと、社会教育主事は天井に登って「にぬぅふぁぶし」(北極星・北斗七星)に見たてて貝を飾ったことなど、公民館にかけた思いが印象的であった。
 今帰仁村中央公民館はなによりも“色”が豊富である。緑の芝生と紅い柱、屋根にはパーゴラを組んで、ブーゲンビリヤ、パッションフルーツ、ウッドローズなど亜熱帯の植物を這わせて緑と花で覆う、それが年をおうごとに拡がっていく、あたかも公民館が歳月とともに豊かに“発達”していくことを象徴するような風景があった。
 無機質のコンクリの構造にいわば“魂”を入れる、そこに集う人々の柔らかな感性と緑と花の空間をつくる、手づくりの思想と紅い柱に象徴される解放性、そして施設の“発達”論など、ハコモノとしての本土型公民館に貴重な一石を投じているように見えた。
 その頃、川崎市のある研修会で、紅い柱の「今帰仁村中央公民館」を紹介したことがある。それを聞いた武田拡明氏(当時・川崎市高津市民館勤務)は「ほんとかな?」と沖縄に飛んでいったという。たしかに紅い柱の回廊があった。その後は私も、沖縄を訪問するたびに今帰仁村を訪れる習わしとなった。同行したゼミの学生たちと、中央公民館の緑の芝生にまるくなって寝ころび、蒼い空と紅い柱と、それに支えられた屋根の緑を眺めながら、時の余裕があるときは昼寝をした。その都度、屋根の緑を写真に撮ってきた。毎年の記録を重ねて見ていくと、そこにたしかな緑の拡がりを確認することができた。
 だがしかし、それから10年ぐらい経って、すぐ横の空き地に、今帰仁村コミュニテイ・センターが建てられた。この施設でいろんな集会が頻繁に開かれるようになって、せっかくの中央公民館は賑やかな人の出入りをしだいに失っていくように見えた。ある年、突然、中央公民館の屋根の緑が切り払われて、コンクリの肌がむき出しになっていた。楽しみに学生たちと訪問してこの光景に出会い、呆然とした。心ない管理的な発想からせっかく育っていたウッドローズやブーゲンビリヤなどは根本からばっさり切られていた。中央公民館の紅い柱の回廊も虹の広場も荒廃していた。魂が抜けたのである。どんな意欲的な設計でも、思いをこめた建物でも、それを利用する人々の感性とつながらなければ、荒れはてていく見本を見せつけられた。
 その後(4,5年前)、屋根を覆うための緑が再び植えられた。ほっと安心して、また<やんばる>に行くたびに今帰仁村中央公民館を訪問し、屋根の写真を撮り続けている。今帰仁村の公的社会教育と公民館活動が再び活性化することを願いつつ・・。 

16,名護市中央公民館の歩みと本土型公民館への複雑な感情 公民館の風第45号:2000年4月9日
 …承前(第44号(15)今帰仁村中央公民館その後)…
 山原(やんばる)の中心はもちろん名護市、今帰仁村はそれに隣接する、典型的に山原的な美しい村だ。村を見下ろして乙羽岳が位置し、海へ続くなだらかな道筋に各集落が点在している。象グループの紹介にも助けられて、私たちはここで沖縄型(山原型)の集落公民館の典型を知った感じがする。それに、先号に書いた玉城勝男・元社会教育主事との出会いが大きく、最初の頃は名護のまちを通過して、いつも今帰仁への道を急いだ数年があった。そこに設置された中央公民館の印象が強いだけに、その後の中央公民館の歩みがどのようなものであったか、気になるところである。注目を集めた象グループの建築であるだけに、それが実際にどのように機能してきたか、が問われる必要があろう。早いもので、開館からすでに四半世紀を経過している。
 あと一つ、この機会に書き留めておきたいことは、名護市中央公民館の歩みについてである。名護市の中央公民館は、今帰仁村より10年おくれて1985年ようやく建設された。市民会館と併設された施設総面積は1万uにちかい沖縄県下随一の規模であり、関係者にとっては待望の施設であった。
 しかし中央公民館の構想自体は、集落公民館活動の比重が大きい地域だけに、そのなかでどのような役割を果たしていくのか、単純な評価ではなかったように思われる。あるいは、かっての名護・琉米文化会館(その跡地が現在の名護市役所)の歴史的なイメージ(負の遺産)が、複雑な影を落としているのかも知れない。もちろん中央公民館の、施設それ自体の価値は期待されるものがあったであろう。しかし、その役割なり機能については、明らかに本土のそれと異なるものがあるに違いない。沖縄と地域の問題に深くかかわっている人たちの間に、本土型・公立公民館にたいする複雑な違和感、反発、矛盾意識のようなものが介在してきたように思われるのである。このあたりのことについて、名護の島袋正敏さんや中村誠司さんなどに、一度ゆっくり聞いてみたいなと思いながら、まだその機会をもつことができない。
 いくつかの回想がよぎる。名護の社会教育関係者として最初に会った人物は、玉城勝男の友人でもあった宮城満さん(当時・公民館主事、現・名護市立中央図書館)であるが、「新山そば」を食べながら、自己紹介として「私は幻の公民館主事だ!」と何か誇らしげに語った顔を想い出す。(1979年?) 当時、施設としての(公立)公民館をもたないことへの自虐でもあり、また山原型・公民館への自己主張でもあったように思われる。
 同じ時期、那覇市の公立図書館のネットワークづくりに腐心していた故外間政彰さん(当時・那覇市図書館長、1フィート運動事務局長)は、私が話した「三多摩テーゼ」(東京・新しい公民館像)と学級講座づくりの実践にたいして強く反論した。公的機関による「学級講座」などというものは、つねに教化主義に陥る側面があり、住民活動の自主性を否定するおそれをもっている、所詮は、上から下へ組織していく教育・学習論ではないか、という趣旨の主張であった。いつも温厚な政彰さんなのに、反論の激しさに驚いた記憶がある。
 また、博物館づくりに情熱を燃やしていた頃の島袋正敏さんが、静かに「私たちはいつも東京から学ぶことを止めようと思っている」と語ったことがある。もちろん公民館構想それ自体を否定したわけではないが、少なくとも博物館づくりにおいて、風土的にも「東京から学ぶことはない」という意味のことを指摘し、つねに山原型の地域性に立脚して発想する必要を熱く語ったことを想い出す。「やんばる」の立場に立てば、外からの振興策、与えられる施設、といった構図がいつも内側からの自立をゆがめ、自然を壊してきたという正敏さんの問題提起(朝日「沖縄・むしばむ基地」連載、4月5日記事B島袋正敏・特集)に通じるものがある。
 沖縄の心ある人たちのなかに、本土型・公立公民館にかかわって何か複雑な感情が滞留してきているように思うときがある。決して否定的なのではないが、見落としてはならない深い澱のようなものがある。あえて整理して言えば、そこには、戦前の国家主義的な社会教育にたいする激しい拒否感、戦後のアメリカ施政権下における琉米文化会館の文化統制への違和感、復帰後の本土型・文部省主導による社会教育・生涯学習にたいする嫌悪感、総じて上から(外から)沖縄の地に下ろされてくる流れへのアレルギーがあり、それに反発する自らの「生まり島」への地域主義が底流にあると言えようか。

17,石垣(白保)新空港問題と公民館 公民館の風第53号:2000年4月30日
 4月26日から27日にかけての沖縄の新聞各紙は、新石垣空港建設地決定をトップで報じている。建設位置選定委員会(委員長は東江康治名桜大学長)が結論とした「カラ岳陸上」案を、稲嶺知事が正式に決定したというものだ。
 カラ岳とは白保集落の北に位置する標高136メートルの小山。図(友人の鷲尾夫妻にいただいた。「南の風」442、443、446号など参照)を見ると滑走路の東北端はほとんど海岸に接し、すぐ横は白保海域のサンゴ礁、ぎりぎりサンゴ礁そのものにはかからないという意味で「陸上」案なのだろうが、膨大な工事に伴う赤土流失などによる環境悪化は避けられそうにもない。またしても白保かという、うめきの声が聞こえてくる。
 反対意見を表明したWWFJ(世界自然保護基金日本委員会)は、石垣島のサンゴ礁保全は国際的な関心事であること、環境アセスメントで問題が生じた場合は建設位置を含めて大幅な計画修正を行うこと、地権者や漁業団体、国内外の自然保護団体などの反対意見に十分配慮すること、なにより250万立方メートルに及ぶ切り土の調達と大規模工事による赤土流失への懸念を強く表明している。
 (WWFJ「意見」→ホームページhttp://wwfjapan.aaapc.co.jp/index2.htm)
 白保集落が空港建設問題に直面するようになってすでに20年あまりが経過している。当時の沖縄県が新空港建設予定地として白保海浜地先を決定したのは1979年5月のこと。このとき白保集落は賛否で完全に二つに分れ、公民館の組織も活動も分裂(第2公民館ができた)してしまった。過去のつらいつらいこの経験があり「二度と地元を二分したくない」という意識から、空港建設に疑問を抱く人たちも、今回は表だった動きは控えているという。(「沖縄タイムス」4月26日夕刊)
 私が沖縄に通うようになり、はじめて八重山に渡り、白保公民館の聞き取り調査をしたのは、調べてみると1979年3月2日、空港問題が激発する数ヶ月前のことであった。この日、公民館長(玉城正雄さん、当時)など数名の方に集まってもらって、もう初夏の気配の前庭で、白保公民館活動について話を伺った。白保独特の、まさに自治的な「公民館運営規則」綴に感動し、総務部、産業部、教養部、放送部、体育部、保健衛生部、レクリエーション部、治安部、生活改善部、等の活溌な活動のさまざまに身を乗り出して聞き入った。あのおだやかな、やさしい風景が、数ヶ月後には厳しい対立に引き裂かれたのである。
 あと一つの忘れがたい回想。それから数年後(いま手元に日時の正確な記録がない)石垣市教育委員会から招かれて、公民館について講演したことがある。会場は石垣市文化センター(旧八重山琉米文化会館)、市教委の担当課長は渡慶次賢康さん(もと社会教育主事、のち中学校長、現在は退職、県社会教育委員)、市内各自治公民館の関係者が集まった。この頃、石垣新空港問題をめぐる対立は激烈をきわめ、白保公民館の分裂もその極に達していた時期だ。
 講演会の会場には、白保から第1公民館と第2公民館の双方が針巻きをしてつめかけ、緊迫した状況のなかでの講演会であった。東京から招かれた講師は、新空港を推進する市当局側が呼んだ講師として反対運動の側は受けとり、緊迫した1日であった。渡慶次さんたちの心労も並々ならぬものがあった。どうにか衝突もなく事なきをえて講演会を終えたが、緊張のあまり頭のなかは真っ白け、何をどのように話したのか、内容についてはまったく記憶がない。ただ沖縄の集落公民館が、このような地域の政治的論争的な問題の舞台となり、真正面からの対応を迫られている事実が深く印象に残っている。
 この記憶は、あと一つ、金武湾を断ち切る海中道路と石油備蓄基地問題に揺れた勝連町屋慶名(やけな)集落の公民館分裂、その第2公民館の思い出に重なる。初めて訪沖した本土からの研究者数人(多分、福尾武彦さんや大前哲彦さんがいた)と一緒に、その第2公民館(反対運動団結小屋)を訪れて、運動のリーダー故安里清信氏から話を聞いた。東(あずま)武など中頭青年会の活動家OBが案内役だった。安里先生はその夜は多少酔ってもいたが、本土から来る学者・研究者は信頼できない、として一括してひどく非難された。いつまでも忘れられない苦渋の夜(1980年1月8日)の思い出である。沖縄の厳しい地域課題に(ヤマトンチュとして)かかわることの難しさを実感させられた。そして地域対立の渦中で反対運動・団結小屋として第2公民館が設立されるという状況にも驚かされたのである。
 新石垣空港の「カラ岳陸上」決定を受けて、これからの白保・宮良など関係集落の公民館は、今回はどのような展開をたどっていくのだろうか。また名護の海上基地移設予定地をかかえる辺野古区公民館などではどうだろう、前にも記したことがある(「公民館の風」35号「沖縄の公民館(12)ー辺野古区公民館の行政委員会」)。気になるところである。       

18,寺中構想と沖縄の公民館・読谷村波平公民館の二つの門  公民館の風第55号:2000年5月10日
 …承前・第53号(17)… かねがね私は、日本の公民館構想の起点・寺中構想(1946年)は、いま沖縄の集落公民館の風景のなかに、現代的な様相をともないつつ、もっとも活溌に息づいているのではないか、と考えている。
 別の言い方をすれば、本土の施設的に壮麗な公立公民館や、また空洞化してあまり自治的でもない、いわゆる「自治公民館」の実態のなかには、寺中構想は死んでいる、あるいは別種のものに変容している、と言った方が適切なんじゃないか。だから日本の公民館の「原点」としての「寺中構想」というよりも、「起点」としての寺中構想、という表現を使ってきた。
 読谷村(旧)役場の所在地・波平区は、戦後いち早く本土の公民館構想を吸収した集落である。戸数は450前後、かなりの規模の大きな集落だ。記録(波平公民館発行『波平の歩み』1969年)によれば「波平区事務所」を「波平公民館」に改称したのは、琉球政府文教局が正式に「公民館設置要綱」(中央教育委員会決議)を打ち出した直後(1953年)のことであった。
  *ちなみに同じ波平に読谷村立中央公民館が設立されるのは、その17年後、1970年のこと
   であった。(沖縄の公民館(4)「風」第10号所収)
 波平公民館は直ちに「第1次振興5カ年計画」を策定し、青年会、振興会(壮年会)、生活改善グループが等が力を合わせて、戦後の混乱期、アメリカ軍基地に呻吟するなか、地域復興のための総決起集会、各種行事の再建、公民館運営実績発表会、など活溌に取り組んだ。内発的な村興し運動だ。
 1958年からの第2次振興5カ年計画では、村内初の公民館々舎の新築、道路・農道の整備、その他共同施設の設置、その最終年度(1963年)には鉄筋2階建ての集落立図書館(45坪、総工費8,000ドル)が建設された。
 波平公民館の体制は、館長をはじめとする専任の職員(区雇い)が5人前後。施設配置は、広場の奥(中央)に公民館ホール、これを両側からはさむようなかたちで、右手前に区の「消費経済の大半を賄う」共同売店(その後スーパーとなり、知花昌一氏が区から借り受けて経営していた)、左手前には区の「文化の殿堂」である図書館が位置し、それに連なって青年や年寄りのたまり場、祭り道具の部屋や事務所等がぐるりと広場を囲んでいる。はじめてここを訪問したのは、1976年冬。しばし立ちつくしたのは、道路から広場への入口、その両脇に据えられている二つの門。ドッシリした右の門柱、共同売店の側が「経済門」、そしてその横に年中濃い緑を絶やさない松が植えられている。左の門柱は、図書館の側に「文化門」とあり、横には季節になると真紅の花を開花させる梯梧(でいご)。集落の繁栄を経済と文化の2本の門柱に象徴させ、公民館の担うべき役割を松と梯梧の木に思いを託している。経済と文化を二本の柱とする地域興し、まさに寺中構想の初心につながる発想である。
 ちなみに戦争末期、集団自決の洞窟(がま)「チビチリガマ」そして多くの人が助かった「シヌクガマ」、いずれも波平区、公民館からすぐ近くにある。「公民館の風」メンバーである上地武昭氏(読谷村社会福祉協議会事務局長、この4月より沖縄大学人文学部福祉文化学科講師)も波平の人。いつもお願いして、ゼミの学生たちを二つのガマに案内していただいたが、その復路、「経済門」「文化門」の二つの門を訪ねることが習わしとなってきた。
 私の悲願は、寺中作雄さんを波平にお連れして、二つの門をお見せし、公民館活動を担ってきた人たちと交流する機会をもってみたい、ということであった。寺中さんは画家である。梯梧の花が咲く季節に、しばしこの地に滞在していただき、二つの門を、そして松や梯梧をゆっくりと描いていただこう、わくわくした思いで、そのような場面に思いをめぐらした。
 当時、私は東京都社会教育委員の一員であり、最後の期には寺中さんも委員として参加され、会議では幸せにもよく隣り合わせに座ることがあった。ある日、沖縄の公民館のこと、波平公民館の「二つの門」の話をして、ぜひ一度沖縄にご一緒していただけないか、とお願いしたことがある。
 寺中さんは、例の気さくな感じで「行きましょう」とおっしゃった。私は沖縄県教委の知人にもこの話をして、しかるべき機会(たとえば公民館大会での講演など)をつくってほしいと頼んだ経緯もあった。しかし、それ故にかえって沖縄行きが具体化しなかったのは、かえずがえすも残念であった。個人的に計画を進めればよかったのに、と後悔している。ゆっくりと構え過ぎてしまった。
 当時の印象では、寺中さんは「二つの門」のことより、沖縄の梯梧の花や写生旅行に興味をもたれたようであった。しかしその後、健康を害された。目も不自由になられ、結局のところ、この悲願は実現できなかった。亡くなられたのは、1994年かと記憶している。       

19,「沖縄タイムス」が報じた公民館沖縄の公民館(1)  公民館の風第61号:2000年6月5日
 日本各地の新聞のなかで、おそらく沖縄の新聞(琉球新報、沖縄タイムスなど)ほど公民館を報道している例はないだろう。「公民館」という印字が紙面に出てこない日はない?といっても過言ではない。地域のなかで、それだけ公民館が動いている、社会的に存在している、ということであろうか。
 試みにいま「沖縄タイムス」のホームページにアクセスして、キイワードに「公民館」を置いて検索してみると、4,301件が顔を出した。少々うんざり。そこで最近の1ヶ月(2000年5月)に限定して呼び出してみると66件。毎日2件あまりが報道されていることになる。
 新しい公民館が出来上がったよ、という記事(大里村と名護市、いずれも集落公民館)を二つ紹介しておこう。「地区会館」的施設もそのまま「公民館」と位置づけられているところが面白い。名護汀間(ていま)区の場合は防衛施設局から補助金を獲得したものと思われる。
 
 <待望の公民館完成/大里村仲程区/調理室や作業所設置> 2000年5月10日(水)
 【大里】村仲程区(比嘉徳喜区長、527人)の「農村集落総合管理施設」(公民館)がこのほど完成。7日、落成記念式典と祝賀会が開かれた。 旧公民館(1956年落成)の老朽化に伴う新施設。約300平方メートルの敷地面積に多目的ホールや会議室、調理実習室、共同作業所などを備えている。総事業費は8350万円。農村集落整備事業を活用し、国と県が八割以上を補助した。
 同区では97年に仲程地区集落地域整備事業実行委員会(宮城哲男会長)を結成。約三年かけて待望の新公民館が完成した。 式典で比嘉区長は「行政のほか、地域からも多くの支援をいただき感謝している」と祝辞。宮城会長も「多様なニーズにこたえる機能的な施設として大いに活用してほしい」と期待した。 祝賀会では琉舞やエイサーなどの余興があり、区民総出で新たな活動拠点の誕生を祝った。(写真)完成した大里村仲程区の公民館(略)−朝刊1版(市町村欄22面)

 <汀間区会館が完成>  2000年5月5日(金)
 【名護】汀間(ていま)区(上里忠善区長)の「汀間地区会館」が完成し4月29日、関係者ら約300人が出席し落成式典が行われた。 同公民館は図書館資料室や調理室、身障者用のトイレやスローブなども完備された施設になった。 式典で上里区長は「私たち区民が、長年要望した会館が実現した。地域環境にマッチした素晴らしい施設が完成しました」とお礼を述べた。
 那覇防衛施設局の北原巌男局長(代読、栗原精治施設部長)は「健康で明るく住み良い社会づくりの基盤として、極めて重要な事業であると考えている」と来賓あいさつ。 汀間子供会(わらび会)代表の松田圭介君(久志小児童会長)は「クーラーの入った図書室では、夏休みにたくさん勉強をしたいです」と喜んでいた。
 同会館の敷地面積は900.82平方メートル、床面積は364・92平方メートル。総事業費は1億3672万円。 (写真)多目的ホールや図書館資料室も完備された汀間地区会館−朝刊1版(市町村欄18面)
                         
20,「沖縄タイムス」が報じた公民館沖縄の公民館(2)  公民館の風第63号:2000年6月12日
 …承前・第55号(19)…
 沖縄の新聞各紙が報道する公民館記事は、ホームページ記載から拾い出しても(沖縄の公民館19で書いたように)かなりの件数であり、また地方記事(市町村・集落)のなかでも大きな比重をを占めている。先回は、集落の公民館ないし類似施設の開館に関するニュースを紹介したが、本号はいくつか具体的な学級・講座等の事業についての報道を4例ほど取りあげることにしよう。
 前3例は、那覇市の公立公民館、最後の1例は名護市の集落公民館での取り組みである。沖縄らしく「琉歌」「歌って学んで」あるいは「サミット」や「ヘリ基地移設」問題に関係しているところが興味深い。
           
(1)[お知らせ]【那覇市久茂地公民館】/来月から琉歌講座/ (2000年5月29日)
 琉歌を鑑賞し、学ぶ市民講座「琉歌の心をさぐる」が6月9日から8月4日までの毎週金曜日、全七回、久茂地公民館で開かれる。 文学碑や三線、組踊と琉歌を通した琉歌とのかかわりについて学んだ後、試作に入る。最終日には自作を発表する。
 講師は垣花武信(沖縄女子短大付属高校講師)、吉川安一(作詞家、作家、キリスト教短大講師)、比嘉良雄(重要無形文化財組踊保持者)の各氏。 申し込みは、5月30日〜6月1日の午前9時から午後5時、同公民館に来館または電話で申し込む。電話098(867)0342。

(2)【那覇市久茂地公民館】29日から女性学級(2000年5月22日>
 女性学級「活かす・ありのままの自分を」が、今月29日から7月31日までの全十回、久茂地公民館で開かれる。 講座では、「変動する現代社会に対応するため、自分を知り、弱点を克服し、ありのままの自分を生かす」方法などを学ぶ。 対象は、那覇市在住、在勤、在学の人で、定員は40人。受講料無料。申し込みは、22〜24日の午後5時まで(最終日は午後3時まで) 。問い合わせは、久茂地公民館、電話098(867)0342。

(3)【那覇市若狭公民館】講座/きょうから受け付け(2000年5月22日)
 若狭公民館が6月からスタートする市民講座「歌って、学んで 私達のサミット」と「ちょっとした工夫で あなたも名シェフ」の受講生を募集している。
 サミット講座では、サミット参加国の歌を言語で学ぶことによってその国の文化に触れる。参加国出身者が講師を務める。6月5日から7月7日までの毎週月・金曜日、午後7時から9時まで。定員40人。申し込みは29〜31日。
 料理講座では、ボンゴレなどパスタ料理や魚のカルパッチョなどの作り方を学ぶ。6月2日から7月14日、毎週金曜日午後6時半から9時。全6回。申し込みは22〜24日まで。定員は16人。材料費4500円は自己負担になる。 対象はいずれも那覇市在住、在勤、在学の者。問い合わせは、同公民館、電話098(869)8623。

(4)地域の振興は足元見据えて/ヘリ基地反対協が講座(2000年5月23日)
 【名護】ヘリ基地反対協(新城春樹・安次富浩共同代表)は22日夜、名護市の大中公民館で「基地に頼らないやんばるの発展とは」と題した市民講座を開催した。講師を務めた沖国大教授の来間泰男さんは、北部振興策について「普天間基地の辺野古周辺への移設と引き換えであり、政府の動機が不純だ」と述べ、基地を拒否し足元を見据えた発展の在り方を訴えた。
 来間さんは、北部振興策の問題点として「内容が決まっていないのに金額が先に決まっている」ことを指摘。現在、北部十二市町村から出ている個々の事業についても「本来、念頭にあるべき軍民共用空港を活用するものがまったくない。中身の検討がなく、とりあえず要望したものばかりだ」と批判した。
 さらに「基地のない市町村から不満が出るなど、沖縄内部で矛盾を引き起こしている」と強調。「基地受け入れと引き換えに、振興策を要求することが本土からどう見られているのかを考えるべきだ」と話した。
                     





B,おきなわ短信「南の風」「公民館の風」所収、2001年〜2002年)
2001年

【おきなわ短信】(1)<名護・研究会の余韻>  南の風622号(2001年1月29日)
 1月28日の名護・研究会をおえて、29日午前は比嘉佑典さんの島宇宙博物館を訪問(はじめてミセス比嘉と二人のお嬢さんに会った)。NHKが取材に来て、内モンゴルの留学生・張文科(和光大学4年)ファミリーを含めてみんな感想を聞かれる。「まさに島宇宙を展望する博物館だ」などと当たり前のことをしゃべる。
 「新山そば」を食って名護の日程はすべて終了。「お疲れさん!」と別れを告げる。名護の桜をゆっくり観る暇もなく、少し思いを残しつつ、鷲尾夫妻ともども一路南へ。
 内田君に那覇空港まで送ってもらって、夕刻には石垣に着いた。ほぼ1年ぶりの八重山だ。
 旧知の渡慶次賢康さん(もと石垣市社会教育課長、石垣中学校長、現在は沖縄県社会教育委員等)が迎えてくれる。長老に迎えられていい気分。夜は石垣市の現課長(高木氏)などを交えての歓迎夕食会。与那国出身の波平長吉氏(同郷友会長)も駆けつけて頂く。
 いま夜の風に吹かれ、石垣港のほとりをぶらぶら歩きしてきた。八重山といえども1月の海の風は冷たい。マンボーの寿司(極上のトロ、なかなかいけるぞ!)とビールでほろ酔いの身でも、すこし寒くなって、定宿の「ぱいらんど」に帰ってきたところ。
 沖縄滞在4日目の夜、ようやく一人になった。親しい仲間との「ゆんたく」もいいが、一人歩きも捨てたものではない。歩きながら、いろいろ考えるところがあった。
 期待した原稿がもらえなかったこと(失望!)、名護・研究会の参加状況からすれば「おきなわ社会教育研究会」は実質的に壊滅したのではないか、2002年の全国集会は果たして成功するだろうか、それにしても和光大の学生たちが7人も参加(大雪で飛行機に乗れなかったメンバーを加えればもっと多くなる)、若い諸君がこの集まりをどう受け止めただろう? 先程つまんだマンボのトロはうまかった、さて科研費報告書・第3号はうまく出来るかな、などとりとめもなく。

 沖縄研究を始めて25年。かなりの頻度で沖縄を訪れたが、来年の社会教育研究全国集会・沖縄開催を控えて、この1両年は沖縄に旅する機会がもっと増えるだろう、そんな予感がする。せっかくの「南の風」だ、折りにふれて沖縄の風を少し吹かせてみようか。その場その時の、勝手気ままな思い、その断片を記録にしておこう、3〜4人ぐらいは読んでくれるだろうさ、と歩きながら考えた。
 ペンションのベッドの上で、忘れないうちにと書きはじめたのが、題して「おきなわ短信」。お読み捨て下さい。30日からは与那国。(1月29日夜)
  
【おきなわ短信】(2)<与那国の冬の海> 南の風624号 2001年2月2日
 与那国への旅は今度で4回目。TOAFAEC 第3号(1998)に与那国の調査覚書的なレポートを書いているが、それ以降はまったく筆をとることが出来ない。なかなか難しい、なによりも公的文書を含めて記録・資料類がきわめて少ない。役場(教育委員会)行政記録がよく保存されていないし、町史編纂事業はほとんど動いていない。集落資料も、たとえば「やんばる」では見ごたえのある総会資料があるが、ここでは全く作成されず、まして字誌・地域史の類はまだ未発の状況だ。
 驚いたことに、「中央公民館」自体が自治公民館的な性格をもたせられてきた経過がある。与那国独特の政争や競合がそれに複雑にからんでいる。他方で、伝統的な祭事(マチリ)や芸能の濃密な蓄積がある。それらの輪郭がほぼ見えてきたが、精度のたかい報告として記述するには文書的資料が薄いのだ。いま断片の収集資料から拾って、自ら「与那国社会教育年表」を作成している始末。

 さて今回の旅で、どれほど新しい資料の収集が出来るのだろう。あまり期待をかけると失望が大きいぞ、無理しないで、ゆっくりいこう、などと自らに言い聞かせて、空港に降り立った。石垣・宮良在住の鷲尾夫妻と一緒。調査など忘れて、3人でのんびり与那国を歩く、そんな旅だと毎日が楽しいのだが・・・。
 石垣の渡慶次賢康さんが連絡して下さったらしく、空港には教育委員会の崎元智代さん(昨年1月に社会教育主事の辞令を受けた)のほかに与那国小学校の新崎和治校長も迎えていただく。
 宮良保全翁(『与那国民謡工工四』の編者、一昨年は沖縄を代表して地域功労賞<文部大臣>受賞、文字通り与那国文化芸能の長老)に1年ぶりに挨拶する。教育委員会も大きく異動あり、初めての女性教育長山田ヤス氏が就任されていた。かって司馬遼太郎が、『沖縄・先島への旅』(「街道をゆく」6)のなかで、空港ではじめて出会って「私の旅の幸運」「初老の品のいい・」と書いた池間苗さん(『与那国ことば辞典』著者)、腰をいため入院されたと聞いたが、苗さんの「民俗資料館」に行ってみたら、折よく在宅。鷲尾夫妻に、ご自分の収集民俗資料について立て板に水の説明をされていた。お元気だ。
 教育委員会の諸氏と打ち合わせして、早速、集落の公民館長宅の訪問を開始。今回は町内の5公民館のうち4公民館長に面接。とくに棒、舞踊、組踊、狂言、三味線、太鼓等の「座」「師匠」組織が興味深い。
 夜の訪問は、話しが終わるとすぐに「しま酒」が出てくる。夜だけではない。もと教育長で東公民館の「総代」(館長)だったこともある松本博明翁は、書見台で読書(十返舎一九「東海道中膝栗毛」)中、私たちの突然の訪問に困惑気味ながら、のっけから横の古酒の瓶から泡盛を汲み注がれた。まだ昼食前のひとときに、3人ともほんのりと酔ってしまった。
 2日目の夜は、上記・宮良保全さん宅で私たちを歓迎する宴がもたれた。3日目の夜は5公民館長合同の歓迎会、久部良公民館長・玉城孝さんの三線が見事。太鼓も打たれ、同席の東小浜(ありこはま、教委総務課長)さんも即興の狂言のような踊りを舞った。この日は、和光大学の二人の学生(大雪で名護研究会にこれなかった山越幸恵、名護には来ていた工藤千佳良の両名、いずれも3年生)が突然与那国に姿を現し、同席させていただいた。このような歓待の席では、「風」メンバーからの「体をいたわるように、酒を控えるように」などという有り難い忠告など、もう、完全に忘れてしまう。
 天候はやや不順、初日からときに驟雨あり、海からの風はやはり冬の厳しさ。しかし与那国の人の温かさに包まれて、楽しく夜も更けていく。調査の方は遅々たる歩みだが・・・。(2月2日朝)

【おきなわ短信】(3)<日本最西端の公民館> 公民館の風138号 2001年2月7日
 …承前(南の風624号)…
 与那国から帰ってもう数日経つというのに、まだ南の島のなにかが体に残っていて、東京の仕事に身が入らない。今夜は研究室の卒論発表会。皆それぞれにいい発表をしてくれて、そのあとの「のむぎ」のコンパ、ここでようやく調子がもどった感じ。これほどまでに男の心をとらえる、なんとかの深情けみたいなもの、それはいったい何だろう、と思ってしまう。
 
 名護の研究会でも「挨拶」にしゃべったことだが、沖縄に通いはじめてちょうど四半世紀になる。南西につらなる島々にはほとんど渡った。しかし大事?な島だけいくつか残してある。そこに渡れば、私の沖縄の旅は終わってしまう、そんな「おそれ」のようなものがあり、大事なものをいつまでも机の中にしまいこんでおくような、子どもじみた感情を楽しんできた。
 たとえば、最南端の波照間島、中国大陸にもっとも近い久米島、太平洋の真っ只中に浮かぶ大東島など、これらさいはての島にはまだ渡っていない。最西端の与那国島もそんな島だった。
 しかし、当方も年齢的にそろそろ年貢の納めどき。1998年の夏、意を決して与那国調査を開始した。当初は3回ぐらいの「渡海」(とけ)で一応のまとめは出来るだろう、そんな予定だった。遠い島だ。経費的にも時間的にも、ひょいと一飛びというわけにはいかない。1年に1〜2回が関の山。そして今回が4回目。しかし、ますます深みにはまって、きちんとした研究報告をまとめる段階には至っていない、いつのことになるのやら。
 私なりの仮説はおおまかに三つ。一つは、時に台湾が見えるほどの国境(はて)の島、辺境ととらえがちだが、その“国際的位置”の実像はどうであったのか、そしていまどうなのか。
 二つには、与那国は1島1町(全人口1,800、3集落)の独立自治体だ、自給自足経済から貨幣経済へ巻き込まれていく近代化過程、そして現代の政治・経済の激動は、一つの島に典型的に凝縮するかたちで展開されてきている、その具体的な姿を“小さな宇宙”の地域史としてどう画くことができるか。
 三つには、「しま」の古層(祭祀など)と現代の表層のダイナミックスのなかで、いわば近代法制に基づく社会教育・公民館制度がどのような定着と機能を見せているか、といったところである。
 あえて極端な言い方をしておけば、この島の公民館は、「しま」の古層に深く呑み込まれてしまった。近代的制度の土着化の典型事例といってよかろう。中央公民館の年間行事の中核は、「しま」の伝統的な祭祀(「願い」「まつり」など)行事であり、集落公民館機構の重要な一角には「司(カァブ)」(神女、のろ)が位置する。公民館の活動組織は、太鼓、三味線、組踊、棒、狂言、舞踊の各「座」であり、それぞれに「師匠」が配置されている、・・・・と書いていけばきりがない。さて、このような古層型の公民館をどう評価すべきか?
 最近、ようやく中央公民館の制度に対応して、この古層型公民館が自治公民館として分離される「改革」が進行している。しかし中央公民館は、高等弁務官資金でつくられたホール(1970年)と本土復帰時の設置条例があるだけで、職員もいなければ運営審議会もない、そんな状況である。

 調査に疲れると、海を見ることにしている。与那国島の突端に立てば、宇宙を展望する気分になれる。比嘉佑典さんの「島宇宙展望博物館」の想いが分かる。
 この島の東の岬は東崎(あがりざち、喜納昌吉の歌で有名)、最西端の岬は西崎(いりざち)。西崎のはるか向こうの(普段は見えない)台湾の山並みに太陽は沈む。日本で最後に沈む夕日である。
 突き出た岬がやさしく抱くかたちで、日本最西端の集落・久部良の家並みがひっそりと続く。世帯数240戸、海人(うみんんちゅ)の集落として歩んできたが、いま約4分の1程度が漁業(カジキ漁が有名)に従事する。
 ここの集落公民館が、文字通り日本最西端の公民館だ。昨年、久部良公民館は約1,600万円を工面して、この海で亡くなった糸数繁さんのサバニを展示し、壁面に「老人と海」を大きく掲げた。公民館は集落内でもっとも立派で文化的な施設。記念にジャン・ユンカーマン監督の長編記録映画「老人と海」(原題・UMINCYUーThe Old Man and the East China Seaー)上映会も行われた。 (2月7日、卒論発表会の夜)

【おきなわ短信(4)】<与那国の集落公民館組織>
公民館の風141号 2001年2月13日

  …承前(公民館の風138号)…
 与那国は、人口わずか1,800人あまり、戸数730前後の小さな島である。しかし1島1町の独立自治体、ゼット機が飛ぶ空港をもっている。三つの集落は、祖納467世帯、比川44世帯、久部良220世帯、これが5自治公民館(祖納集落が東、西、島仲の3公民館)に分かれている。
 西公民館の現在の館長さんはJA与那国「さとうきび増産対策室長」の田島正雄さん。今回の調査では、着いたその夜に、鷲尾夫妻と一緒に田島さんのお宅を訪問した(1月30日)。西公民館の組織や活動について、いろいろ聞き取りをした。一通りの話が終わったところで、しま酒「どなん」をご馳走になったことは、短信(2)で書いた。
 田島さんは、いわゆる古層型公民館(短信3号参照)の仕事に忙殺されながら、毎夜、パソコンの前に座り、メールを打ち、手作りのホームページの作成に励む。面白い人だ。西公民館の組織等について質問すると「それは私のホームページに書き入れています」と答えが返ってくる。こんな離島の古い集落の組織がインターネットに位置づいている。こちらの頭がくらくらしてきた。
 以下、田島さんのHPから西公民館「3,公民館祭事・行事及び館長・役員の役割」の項を紹介してみよう。「風」の皆さんもきっと混乱?すること請け合いだ。どうぞゆっくりご覧あれ。
 この資料は、もともと昨年10月に開かれた与那国町「生涯学習フエスティバル」(第1回)地域活動事例発表の際に作成されたもの(発表者は田島正雄・西自治公民館館長)。なお、カァブとは司、祭祀を司る神女、御嶽(ウタキ、ウガン)を守る女性。トヤマウガンとは十山御嶽のこと、島内の10の御嶽の総本山(池間苗「与那国ことば辞典」1998年)。(URL http://www.cosmos.ne.jp/~m-tajima/kouminkan.html)
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3,公民館祭事・行事及び館長・役員の役割
(1)館 長
 館長は主に推薦に因って任務に就き、任期は基本的に2年を単位としている。その就任に際しては、「いくみ」と呼ばれる、引継式と披露宴が催される。館長は役員(ダグサ)を召集して、司主体の行事(アラガトタカビ、イスカバイ、ムヌン、ウガンフトゥティ等)、公民館主体の年中行事(ウチニガイ、タナドリ、シティ、ハーリ等)の準備を行い、執行する。
 又、毎月旧の一日、十五日はトヤマウガンでカァブのお供をし、島民の健康願い及び航海安全の祈願をするのも重要な任務の一つである。
(2)役 員
 任期は館長と同じである。昔からの慣例として、青年男性は一生に一度はダグサをやり、「むらぐとぅ(公民館行事)」に当たらねばならないという決まりがある。役員を経験して副館長になり、又、館長へと上がって行くのが古来からの図式である。
(3)各座師匠
 与那国の伝統芸能保持者であり、高度の技能を有して次世代への継承活動をも行っている、民俗文化の担い手である。各公民館には、舞踊、棒踊(太鼓、銅鑼、笛をむ)、組踊、狂言、獅子舞があり、与那国島の芸能団と言った趣がある。公民館の果たす役割に十分留意しなければならない。
(4)教育・行政への補助活動
 昨今は公民館の関係者が大変忙しい毎日を送っているように思える。行政からのイベント参加依頼、教育機関からの青少年学習活動協力依頼、さらには各種スポーツ大会への取り組み等々かなり盛況である。館長のなり手が無い中で、公民館の存立根拠と役割を考えざるを得ない。
(5)司(カァブ)と祭祀
 昔は13名おられたといわれるカァブが、現在はただ一人存在するだけで、しかも、後継者のめども立たない状況にある。高齢者でもあられるので緊急に取り組むべき課題かとも思う。カァブは自分に与えられたウガンがあり、その人が亡くなると祭祀自体が行われなくなったり、他のカァブへ統合されたりして、祭祀が減ってくるということである。古来より連綿と続けられてきた与那国島の祭祀がカァブと共に案じられる。
4、与那国島のマチリ−以下略− (2月13日) 

【おきなわ短信】(5)<おはなし館文庫−与那国の図書館運動>公民館の風143号 2001年2月19日
 …承前(公民館の風141号)…
 2月1日朝、池間苗さんの「与那国民俗資料館」を訪ねたその足で、祖納の集落をぶらぶら歩いた。なにか惹きつけるたたずまいの赤瓦の家、玄関に「おはなし館文庫」の白い看板が目についた。横の入口には「なんた子ども会」のブルーの立て看。嬉しくなって、鷲尾夫妻と一緒に案内を乞うた。老女が応対されて、子どもも大人も自由に利用できる文庫ですよ、という話。
 今日は縁起がいいぞ、民間私設の博物館のあと、いわば私設の小図書館に出会ったことになる。文庫を主宰されているのは、お嫁さん?の田頭恵子さん、1999年10月に自宅の玄関を開放して「おはなし館」がスタート。支えるメンバーは祖納の主婦たち20人。県立図書館の団体貸付の200冊と会員が持ち寄った100冊、合わせて300冊あまりで始まった。ここは日本の最西端の島、県立図書館の本だって、はるばる海をわたって運ばれてくる、そこで文庫が始まったのだ、と心ゆさぶられるものがあった。
 午後になると学校を終えた子どもたちが座りこんで好きな本に読みふける姿があり、児童書だけでなくわずかだが一般書もあり、自分たちで貸出しノートに記入して借りていくこともできるそうだ。また会員で、与那国小と比川小で定期的な読み聞かせ活動もおこなっているという。
 驚いたことに、田頭恵子さんは教育委員会勤務。なんと、私たち(いつも教育長室を占拠して作業をしてきた)によくお茶を出して下さる方だ。そして、1年前の与那国訪問の折り、私が残した手書きのメモ(与那国に図書館を創ろう!)が立派にワープロで打ち直されて、書棚に貼ってある。これには感激した。日付けから考えれば、実はその2ヶ月前に「おはなし館」はスタートしていた。そんなことは露知らず、私は私なりに文庫づくりから図書館設立にむけての、ささやかな提言をしていたことになる。
 少し長くなるが、記録として「小林メモ」を以下に転載させていただこう。当の本人は、実はこのメモのことなどまったく忘れていた。コピーを渡されて「そうだ、あの時、しま酒に酔って、少し正月気分も残っていて、思いつくままに書いたんだ」と想い出した。
 「風」の皆さんのまわりに、お手もちの絵本などあれば、与那国「おはなし館文庫」に送って頂けませんか。図書館の廃棄本でも結構!
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○十年後の与那国町に図書館を実現する十の視点
    −2000年1月5日 和光大学・小林教授より提言−(ママ)
1,小さな自治体、離島(書店が1軒もない)だからこそ公立図書館が必要であることの意識形成。−自治体首長部局、教育委員会、社会教育委員(活性化の要)会議等への働きかけ−
2,小さな文庫、こじんまりした図書室、その楽しい空間づくりの発想から出発する。
  1年ごとの積み重ねの運動論。
3,おとな、専門的知識人のための図書整備を中心とせず、子ども(幼児、小学生)を第一の利用者として、絵本、児童文学書の提供、サービスをスタートさせる。
4,月にせめて2万円あるいは5万円(有志の寄付も募る)の予算で、新しい美しい本を積極的に購入して文庫に入れる。(施設づくりでなく、活動、サービスづくりの視点)
5,お母さん、PTA有志あるいは中学生・高校生、若者たちのボランティアとしての運営参加。
6,学校図書室と心ある教師グループとの連携。
7,自治公民館活動の一つとしての位置づけ。役員組織の理解と協力。
8,新しい血液(絵本、図書)をいつも循環させていく。みずみずしい血管(ネットワーク)を広げていく。血液を流していくポンプ役を行政側で努力する。
9,石垣市などの文庫づくり、図書館づくりの経験に学ぶ。(例、潮平俊さんなど約二十年の蓄積)
10,取り組みの努力の積み重ねと拡大。 以上 」 (2月16日)

【おきなわ短信(6)】<古層型の公民館(1)―宮古・西原> 南の風第703号2001年7月10日
 …承前(公民館の風143号)…
 この「おきなわ短信」は、今年2月、与那国調査のつれづれの記録を「公民館の風」(1〜5)に載せたもの。久しぶりに想いだして、また続編を「南の風」にも書きはじめている。
 きっかけになったのは比嘉豊光さん(読谷村楚辺区、カメラマン)の写真展「南風(ハイヌカジ)の神々〜ナナムイヌンマたち―」(新宿東口・高野4階、コニカプラザ・西ギャラリー、7月3日〜11日、南の風695号に既報)だ。
 7日が写真集「光るナナムイの神々」(比嘉豊光・1997〜2001)出版祝賀会。亡弟の49日法事のあと、式服のまま行ったみた。読谷から直送のゴーヤや紅いもや豚の塩漬けなど、手づくり料理が並んでいる。
 豊光さんはこの4年、宮古に通って西原(平良市)の祭りを記録してきた。インテンシブな調査だとか称して、1週間たらずの現地調査で報告・論文を書く(私のこと)のとはわけが違う。「あとがき」によれば、「1997年3月、比嘉康雄さん(写真家)と平良市狩俣での取材を終えての帰り、飛行機の時間にはまだ早いということで、空港に行く途中に西原ムラに立ち寄ってくれた。すると偶然にもカーヌカンニガイが行われていて、そこで私は西原の祭祀、ナナムイヌンマ達と出会ったのである」とのこと。
 周知のように、故比嘉康雄には写真集「神々の古層」シリーズのなかに「遊行する祖霊神ウヤガン(宮古島狩俣)」(ニライ社)がある。比嘉康雄を師として、比嘉豊光は西原の祭りを写真集にしたのである。驚いたことに、この4年、祭りの始終をカメラまわしてビデオに記録した映像が出版祝賀会場で映し出されている。
 私は、与那国の「マチリ」(比嘉康雄「巡行する神司たち(与那国島)」として写真集になっている。同上シリーズ)を想い起こしながら、これは容易ならざる貴重な記録だ、与那国でも姿を変え始めた伝統的な祭祀が宮古では今なおあざやかに生きていて、それが細かく活写されている、と実感した。
 40をこえる西原の「神ニガイ表」(集落の神事・祭祀行事一覧)のなかには「公民館ヌヤシキダミニガイ(公民館の屋敷鎮め願い)」等も含まれている。私のいう「古層型の公民館」の実像が、与那国よりもっと生き生きと暮らしのなかに息づいているのではないか。
 2月の与那国調査のあと、文部省科学研究費報告書(3月刊行)に私は「古層型の公民館」について書いている。(7月7日)
              
【おきなわ短信(7)】<古層型の公民館(2)―与那国> 公民館の風第188号 7月16日
 …承前(南の風703号・おきなわ短信(6))…
  「おきなわ短信」1〜5は、今年2月、与那国調査のつれづれに公民館及び南の「風」に載せたもの。久しぶりに想いだして、また続きを書き始めている。きっかけになったのは、比嘉豊光さん(読谷村楚辺区、字誌「戦争編」制作、カメラマン)写真展「南風(ハイヌカジ)の神々〜ナナムイヌンマたち―」(新宿東口・高野4階、コニカプラザ・西ギャラリー、7月3日〜11日)、そして写真集「光るナナムイの神々」(比嘉豊光・1997〜2001)刊行。7月7日、七夕の夜に出版のお祝いの会が開かれた。宮古・西原集落の古い祭りの映像を見ながら、あらためて与那国「古層型の公民館」を想い出していた。

 この3年、取り組んできた文部省科研費による「沖縄社会教育の地域史研究」、今年3月ようやくまとめの報告書を出した。その巻末に小林「与那国の集落組織と公民館制度の定着過程―与那国調査覚書―その2」を収録している。与那国は難しい。もっと通い続ける必要があるが、いささか遠い。せめて今後の研究課題を提起しようとして、3点ほどのまとめを書いておいた。
 その一つの課題提起は、「与那国の公民館定着過程を総体としてどう評価するか」についであった。若干の引用をお許しいただきたい。
 「…略… 公民館定着の類型論としていえば、与那国の場合は、“非定着の定着”の対極にある形態、つまり地域への埋没的定着あるいは併呑型の定着とでも表現したらいいだろうか。集落の伝統的な祭事行事の文化のなかにどっぷりと呑み込まれるかたちでの公民館の展開過程である。おそらく社会・経済の近代化のなかで地域自体も大きく変貌をとげてきているなかで、このことは、なおかつ集落の伝統的な祭事とそれを支える社会組織、規律、連帯感が生き続けていることの証左でもあろう。国家実定法に基づく公的社会教育機関としての公民館の制度はいわば換骨奪胎されつつ、しかし地域の古層のひだに埋没して息づいているのである。地域との関係をもたず、あるいは大きく遊離して機能している公民館よりも、はるかに生活的に、しかも古層の文化のなかに受容されて定着しているという事実はやはり注視しておく必要がある。このような与那国の、いわば“古層型の公民館”をどのように評価していけばよいのか。
 しかしあえて付言すれば、そこには古層の祭祀文化と集落の伝統的な社会組織が機能しているのであって、もはや本来の公民館は(集落に併呑されて)存在しないという批判もあり得る。近代教育法制のなかに位置をもつ公民館制度が本来担うべき公共的な社会教育機能、学習文化活動の拠点としての役割との関係をどのように考えるか。この問題は、地域や集落がもはや崩壊し、孤独なる群衆を相手にいわば自由気ままに機能し得る都市型公民館と対比して、地域の固有の文化と人々の連帯の意識が伝統的に生きている与那国のような集落構造において、そのなかでどっぷりと機能している古層型の公民館にとくに問われる難しい問題なのであろう。事実を確かめながら、この矛盾的な課題を考えていく必要がある。…略… 」
 しかし与那国では、そのかたちが明らかに変貌しつつある。マチリは重く、集落の公民館は硬い表情であった。宮古・西原ではどうか。伝統的な祭りを担う公民館は、映像で見るかぎり、生き生きとした顔つき、「南風(ハイヌカジ)の神々」もまた楽しそうに笑っている。伝統がまさしく現代に生きている印象だ。あらためて宮古の集落に、古層型の公民館の実相を発見できた思いであった。(ぶ) (7月8日)

【おきなわ短信(8)】那覇市公民館の試み・琉球新報記事 公民館の風189号 2001年7月19日
 <那覇市公民館の試み―地域の講座 支援します…6公民館が講師謝礼を補助>
 那覇市中央公民館など市内に六つある公民館が、地域で自主的に行われる学習活動に講師を派遣する事業に取り組んでいる。子ども会、自治会などを対象に、講師の謝礼金は公民館が負担する仕組み。公民館側は「地域活動の一環として行われる学習活動は、ひいては地域づくり、人づくりにつながる」と利用を呼びかけている。
 事業は「地域学習支援のための講師派遣」。市内在住、在勤在学する十人以上で構成する団体が地域づくりの一環として学習活動をする場合に、講師の謝礼を三千円〜五千円の範囲で支払う。分野はパソコン、天体観測、子育て、キャンプ、健康体操など幅広い。講師は、利用団体が独自に探すことも多いが、公民館の人材ネットワークを利用して紹介できる。(写真=講師派遣を利用して行われた保育園保護者会の親子たこ作り、略)
 一九九七年度までは婦人会や老人会などに補助金を出す形で、それぞれの地域で婦人学級や高齢者学級などの地域学習を支援していた。だが、補助金申請の手続きが煩雑で、ニーズも多様になったため、九八年度から講師派遣事業を導入した。
 九八年度は三百七十二回約八千二百人、九九年度は二百四十六回約八千三百人、二〇〇〇年度は二百二十六回約九千六百人が利用した。
 那覇市中央公民館はの前原信喜館長は「この事業は、出前的な形で住民の身近な公民館などの場所で学習活動ができる。住民サービス向上にもつながる」と意義を説明する。約二百万円の年間予算はほぼ使いきるような状況で、前原館長は「生涯学習が盛んになる中、需要は多い。実績をふまえて予算の増額を要求していきたい」と話している。(以下、問い合わせ先6公民館の電話等、略)(琉球新報 6月19日朝刊)

【おきなわ短信(9)】沖縄の公民館・沖縄タイムス記事 公民館の風199号 2001年8月19日
 <沖縄の公民館・平和教育に取り組む話題二つ―沖縄タイムス(2001年8月13日)>
○被爆体験に聞き入る/身近な場所で学ぶ機会/沖縄市、古謝自治会初の平和教育
 【沖縄】地域で原爆展を開催している古謝自治会(呉屋淳子会長)は十二日、市内在住の被爆者・金城文栄さん(73)を公民館に招き、被爆体験講演会を開催した。金城さんが代表者の「沖縄原爆展を成功させる会」と地域がタイアップした企画で、お年寄りから子どもまで約三十人の住民が被爆の悲惨な体験談に聞き入った。講演の中で金城さんは小泉純一郎首相の靖国公式参拝や米国のミサイル防衛構想に触れ、「歴史の道を引き返す危うさを感じる」と語った。
 五十六年前の夏、金城さんは長崎で被爆した。「四〇〇〇度というしゃく熱の爆風にさらされた市民は目が飛び出て手の皮膚がただれ落ち、幽霊のようにさまよった。地獄とはこのような光景かと思った」
 金城さんが語る生々しい体験談を聴衆はじっと聞いた。沖縄戦当時、幼稚園生だった兼城千代子さん(62)は「むごい。戦争を引き起こした当時の政治家や軍人が許せない」と目を潤ませた。
 自治会として初めて取り組んだ地域による平和教育。原爆展を企画した地域の模合仲間「ゆいの会」の知念正信会長(49)は「身近な場所で子どもに戦争を知らせる格好の機会」と、公民館で原爆展を開催する意義を強調した。
 親子で参加した久米美紀乃さん(泡瀬小五年)は「原爆は学校で教わったけど、被爆体験を直接聞くのは初めて。なぜ原爆を落としたのだろう」と疑問を持った。
 金城さんは「二度と地球上で原爆を使ってはならない。沖縄戦を繰り返すまい」と訴えた。講演後に市内のハーモニカ愛好家グループが「長崎の鐘」を演奏し、公民館に鎮魂の音色が響いた。 (写図)金城さんの悲惨な被爆体験談に聞き入る地域住民=沖縄市古謝公民館(略)

○金武町中央公民館において高校生平和集会―沖縄タイムス(2001年8月13日)朝刊―総合1面
 「基地は全国の問題」/県内生徒の「慣れ」に驚き/世界平和へ熱く議論/ 全国高校生平和集会
 【金武】垣根を取り払い、みんなで平和を考えたい-。本土の高校生と沖縄の高校生が平和について話し合う「2001全国高校生平和集会IN沖縄」は二日目の十二日、高校生を主体に大学生も含め約二百人(県外約百人)が研修を行い、金武町中央公民館での全体集会や分散会で意見交換と交流を行った。参加者同士が車座になり、「基地を当たり前と思ってはいけない」「基地問題は沖縄だけの問題じゃない」などと率直に意見を述べ、議論を重ねた。集会後の交流では、全員でカチャーシーを踊り平和への思いを一つにした。
 研修では「愛楽園」「ハンビータウン」「読谷」「宮森小学校」の四コースに分かれ、辺野古で合流。基地と生活とのかかわりなどについて体験者の話を聞きながら、沖縄の過去と現状への認識を深めた。
 全体集会で講演した吉田勝広金武町長は、町内での米軍絡みの事件の多発を強調し、町が基地経済からの脱却を目指していると説明。「基地と兵器の矛先にだれがいるのか、考えてください」と「宿題」を投げ掛けた。
 その後、参加者らは五つの分散会に分かれ、研修での感想を踏まえて基地や平和について議論。県外高校生からは「沖縄の高校生が基地に慣れていて驚いた」との声が目立った。
 ロレンゾ・マーク君(中部工業高三年)は「全国との交流で沖縄を知ってもらい、基地のない平和な世界をつくりたい」と力強く話した。
 埼玉県出身の伊藤壮平君(東北福祉大一年)は高校生のころから三回目の参加。沖縄は初めてといい「基地を当たり前と思っていては何も見えない。意識するのが大事」と話した。
 県内のある高校教諭は「平和教育では教師も自分の問題として感じていない場合が多い」と問題提起。さらに「高校生が、自分たちが主人公という思いで取り組む学校は県内でもまだ少ない」と指摘した。
 川武睦実行委員長(中部工業高三年)は「全国の高校生の考えを聞いて基地は沖縄だけの問題じゃないと思った。僕たちも全国に目を向け、みんなで世界平和を考えていきたい」と決意を話した。
 (写真:交流会では参加した高校生全員でカチャーシーを踊り盛り上がった=金武町中央公民館(略)

【おきなわ短信(10)】<沖縄県教育委員会「要覧」等資料にみる公民館 >
                      (公民館の風203号 2001年8月30日)
 モンゴル留学生を連れての沖縄の旅、いろんな思い出とエピソードを残して、8月9日午後、彼らは東京に帰っていった。
 彼らを見送った後、小生のフライトまで約4時間の時間がある。内田君のレンタカーで沖縄県教育委員会(生涯学習振興課)へ。その後、沖縄県青年会館にいた山城千秋さんもさそって、沖縄市の県立教育センター(所長・高嶺朝勇氏)へと足を延ばした。高嶺さんに来年予定の社会教育研究全国集会開催への協力をお願いするためである。山城千秋さんの高校時代(知念高校)の恩師が高嶺先生、いちど一緒に訪ねてみたいと思っていたのが、思いもかけず実現した。帰りの飛行機の時間が気になって早々に辞する必要があり、短い時間で残念ではあったが、ひととき、充実したいい時間をもつことが出来た。
 県では与那国出身の社会教育主事・波平真充氏に会って、その後のことを聞き、また県の最近資料を入手するつもりであった。しかしあいにくの不在。初面識の大嶺和男氏(課長補佐)に挨拶して、平成12年度「要覧」をいただく。今年度の新しいものは、いま作成中という。「要覧」はもともとは当時・琉球政府主催の社会教育総合研究大会(1955年前後に始まる)の資料集として作成されてきた経過がある。県レベルの社会教育年報的な性格をもち、歴史的にも第一級の資料といってよい(かって「おきなわ社会教育研究会」の新城かつ也さんがこの大会の資料や写真を追っかけていた)が、単なる行政資料としかみない人が多く、また最近心なしかその資料的深みが少ないようで残念である。
 「要覧」で、私はまず最初に公民館の項を見ることにしている。最新資料で、沖縄にはいま公民館がいくつあるのか、年次的推移はどんな傾向なのか、などを確かめるのだ。
 ここで沖縄の公民館史を記す余裕はないが、いわゆる沖縄型の公民館の歩みは、集落・自治公民館を主流として展開されてきた。自治体立の公立公民館の設立が始まるのは、本土復帰を目前にして、ようやく1970年,読谷村が最初であった。1972年復帰時点での公民館統計では、沖縄県はわずか1館、全国ではもちろん最低の設置率であった。
 その後の四半世紀の経過はどうであったのか。平成12年度「要覧」によれば、53市町村のうち公民館設置の自治体は44、設置率は83%となっている(同4月1日現在)。公立公民館数は、本館(中央公民館)40、地区館57、計97館。この間、一時ほどの伸び率はみられないが、一応着実に増加してきているといえよう。かっての最低県・沖縄は、現在の最低・東京(設置率44%)をはるかに凌駕している。
 公民館統計は、単なる数字だけでは読めない内容を含んでいる。沖縄の公民館は、本土各地の公民館に比べて独自の特徴がある。総数97館のうち、大半(主として地区館)の実態は、集落・自治公民館とみておく必要があるのだ。おそらく補助金(文部省補助だけでなく、防衛施設庁補助がかなり、他に沖縄開発庁等もある)取得の手続き上、自治体条例による設置形態をとり、形式は公立公民館として位置付けて、統計上もそのように算定しているようだ。その意味では、実質としての公立公民館は、上記の本館(中央公民館)に限定しておいた方が事実に近いと思われる。それでも設置率は75%を超えている。
 ちなみに、いまなお中央公民館を設置していないのは大宜味、恩納、中城、仲里、具志川、北大東、佐敷、与那原、座間味、渡名喜、上野、石垣、竹富、の13自治体(市は石垣のみ)である。しかし中央公民館を置いている場合でも、与那国のように古層の集落祭祀に深く埋没している事例もみられる。(【おきなわ短信(7)】公民館の風第188号を参照)
 沖縄の集落公民館を主流とする独自の展開にもかかわらず、この「要覧」には、集落公民館については、とくに記述がなく、残念である。いったい沖縄の集落・自治公民館については、どんな統計があるのか。
 1997年度・沖縄県「公民館関係職員研修資料」という冊子がある。そのなかに条例設置の「公立公民館」と並んで、「自治公民館」が市町村別に一覧となっている。公民館という名称にとどまらず、集落センター、集会所、構造改善センター、コミュニテイセンター、自治会事務所、町民会等の名称も多様に含まれているが、多くは「自治公民館」「字(あざ)公民館」等と呼ばれ、活発に利用されている実態が反映されている。
 このすべてを市町村別に集計し、地区別に合計してみた数字を記しておこう。国頭159、中頭203、島尻301、那覇99、宮古65、八重山68、合計(沖縄県全域)895.。かって「公民館の風」第5号(1999年10月30日)で「類似・集落公民館の統計(3)」を検討し、全国値推計を試みたことがある。そこでは「沖縄県下の集落公民館は約800」と記していたが、むしろ「約900」とすべきであった。
 集落の共同的な組織や活動は、所詮、古いおくれた形態であって、時代変貌とともに、次第に姿を消していく、といった“近代主義”的な捉え方がある。しかし興味深いことに、沖縄の集落「公民館」活動は、最近むしろ拡がりをみせていることに注目しておく必要がある。

【おきなわ短信(11)】<最近のエイサー4題> 公民館の風213号 2001年9月26日
                     
○東京・新宿の新たなイベントとして、「2001新宿エイサー祭り」が23日、多くの人でにぎわう新宿通りで開かれた。エイサー祭りには、琉球国祭り太鼓が出演。勇壮な踊りとエイサー太鼓の音で新宿の街を魅了した。
 新宿エイサー祭りは、新宿駅前商店街振興組合、新宿エイサー実行委員会が主催。昨年、琉球国祭り太鼓のメンバーが同商店街で踊ったことをきっかけに、本格的なイベントとして開催された。
 同振興組合の平正幸理事長は「エイサーを見てもらうことで沖縄のPRにもなるし、新宿の発展にもつながる」と話し、今後も新宿の風物詩として位置付けたい考え。今回は他の祭りとの併催だが、来年はさらに規模を広げ、単独で開催していくとしている。
 エイサーは多くの人でごった返す新宿通りで行われた。演舞が始まると、あっという間に周辺は見物客で人だかりができるほど。最後は見物客もカチャーシーに飛び入りするなど盛り上がった。
 写真(略):多くの人で盛り上がった新宿エイサー祭り=23日、東京・新宿通り 琉球新報9月24日

○祭りを通し沖縄PR/東京・中野でアシバ祭
 東京沖縄県人会青年部が主催する「アシバ祭」が23日、東京・中野の中野駅北口広場で開かれた。今回で16回目となる祭りでは、エイサーや琉球舞踊、コンサートも開かれ、多くの人でにぎわった。
 アシバ祭は東京沖縄県人会青年部を中心に実行委員会を組織、沖縄の文化や歴史を伝えようと毎年開かれている。同青年部の上運天英樹委員長は「県出身以外の人たちも祭りに参加している。祭りを通し沖縄を少しでも知ってもらいたい」と話した。 琉球新報9月24日朝刊

○勇壮な舞4000人魅了/名護市青年エイサー
 名護市青年エイサー祭り(主催・同実行委員会、共催・名護市各地区青年会、名護市教育委員会、沖縄タイムス社)が二十五日、名護市の21世紀の森公園野外ステージで開かれ、八団体約二百人が出演。勇壮な舞で四千人の観衆を魅了した。
 初出場から百年の伝統を誇る団体まで、青年らが練習の成果を披露。やんばるの夏の夜に力強い太鼓と三線の音を響かせた。チョンダラーが会場を盛り上げ、女性たちが手踊りで華を添えた。
 安和青年会はめまぐるしいリズムの変化を演じ切った。古蔵健会長(21)は「百年の伝統をうまく表現できた」。初出場の名桜エイサー。
 始めて二カ月という埼玉県出身の島村真希さん(20)は「楽しく笑顔でできた」とにっこり。会場で、大きな拍手を送っていた石川正福さん(63)は、「若者のエネルギーを感じる。いつ見ても新鮮」と話した。
写真・略:力強い舞を披露する青年ら=名護市・21世紀の森公園野外ステージ 沖縄タイムス8月26日

○笑いの中、浮かぶ基地問題/「ちむどんどん」公演
 一九九六年に旗揚げした名古屋の劇団で、沖縄の基地問題などをテーマにした芝居を公演している平和世創人ちむどんどん(秋吉拓史代表)の「まぶやー」(脚本・演出=秋吉)が二十五、二十六の両日、沖縄市民小劇場あしびなーで上演された。
 過去の作品は「基地問題を重視するあまり芝居の間口を狭めていた」と秋吉が振り返るように、四作目となる「まぶやー」では嫌みのない程度の沖縄テイストを盛り込みながら、笑いをふんだんに取り入れた喜劇調に仕立て上げている。
 物語は、間抜けな銀行強盗と客の間に生まれる奇妙な連帯感を軸に、基地への思い、それぞれにとっての「パラダイス」「まぶやー」を求める自分探しを描いた。
 オープニングとエンディングにロックバンド、クイーンの強烈サウンドが響くヒット曲「ウイ・ウィル・ロック・ユー」を効果的に使った舞台は、随所に笑いを盛り込みながら、重くなりがちな基地問題をテンポよく浮かび上がらせた。人一倍沖縄への思い入れが強い「ちむどんどん」の役者たちだが、コテコテの沖縄色を出さず、沖縄アクセントも自然で、そのことがテーマに普遍性を持たせてくれるようなつくりだ。
 また、県内で活動する「やちむん」が作った主題歌「夕焼け秘密基地」の生演奏も芝居上演ではユニーク。安慶田青年会に指導を受けた玄人はだしの「エイサー」は、メンバー自身が一番楽しんでいるようでもあり、自然と観客も舞台に上がり、手踊りで応じていた。
写真(略):笑いもふんだんに取り入れた、ちむどんどんの4作目「まぶやー」=25日、沖縄市民小劇場あしびなー沖縄タイムス8月30日夕刊

【おきなわ短信(12)】<旧8月15夜、沖縄> 南の風750号 2001年10月2日 
 中秋の満月だ。村々を歩くと、あちこちから旧八月十五夜の笛や太鼓が響いてくるというのは、もう沖縄でも望むべくもない風景のようだ。10月1日(旧8月15日)終日、ゼミ学生たちと南部まわりをしたが、祭りのさんざめきは聞こえてこなかった。もっとも私たちは戦跡をめぐったのだが・・。具志頭村安里の大綱引き(4年前のプロゼミはこれに参加した)が、今年は恒例の十五夜でなく次の日曜日に延期されるなど、事情に応じた変容があるのは(残念ながら)事実なのだ。
 しかし月・潮の干満に応じて人が動き心がさわぐのも、沖縄ならではのこと。10月1日満月の夜は久しぶりに「心さわぐ」いろいろなことがあって、楽しい夜となった。
 具志頭村では、上原文一氏の案内でガラビ壕にもぐった。そのあと役場会議室で、ヒージャー汁をご馳走になる。大きな鍋に誰が仕込んだのか、いい出来映えのヒージャー。はじめての沖縄を体験している学生たちへの心づくしのもてなし。フーチバと塩と生姜。なかにはお代わりをする学生もいた。
 「あんつく」では、佐久本全さんたちが待っている。早々に辞して那覇へ。学生代表の吉松朋子と滝本ちひろが一緒。二人とも来年は単位互換制を利用して沖縄大学へ留学予定だ。途中で沖縄大学へ寄り、夜間の講義をすませた平良研一さんを拾って「あんつく」へ駆けつける。6時の約束が8時をまわっていた。2時間遅れとは私たちもすっかりウチナンチュになった気分。
 上地武昭(沖縄大学講師)さんがゼミの学生8人ほど連れて、「あんつく」に待っていた。賑やかな交流会となった。佐久本さんはすっかり出来上がっている。韓国からの留学生・金さんもいて、アリランを歌い「鳳仙花」の話題となり、「てぃんさぐぬ花」を歌った。久しぶりに平良さんと「あしみじ(汗水)節」も歌った。
 雨続きの沖縄、ようやく晴れた満月の夜、月光をあびながら、二人の学生と久茂地をぶらぶら散歩しながら帰った。「苗」の前を通る。これは寄らないわけにはいかない。主人ご夫婦が「お久しぶり!」と迎えてくれる。象グループ・故大竹さんの思い出話になる。彼は沖縄の仕事に疲れてはよく「苗」で飲んでいた。安里英子さんのことも話題になる。
 「先生は若い」と冷やかされる。「こんな学生さんといつも一緒だから若いのでしょう」とおカミが言う。「そうだよ!」と応じて、また月の夜を若い二人と帰った。この夜、楽しいことが相次いで、いま酔っている。

【おきなわ短信(13)】<沖縄のアイデンティティとの対話を・・・ちょっと気になること、T氏へ>
               公民館の風218号 2001年10月8日
 これまでの全国集会の歩みを考えても、集会を引き受ける地域の皆さんが主体性をもって、地域個々の条件と個性を大事にしつつ独自の取り組みを重ねてもらえるかどうか、この点が集会成否のポイントだろうと思っています。そして地域の取り組みとその独自性が、社全協の運動を豊かにふくらませてもきました。
 とくに沖縄は、戦前・戦後のアメリカ占領下の歴史から考えても、また文化的風土性からみても、日本の他のどの地域とも比較できない地域性をもち、その土壌のなかで社会教育の独自性も形成されてきました。近現代史において差別や忍従を強いられてきた経過があるだけに、内側に深く秘めた地域“アイデンティティ”への志向があります。
 こんど集会を実質的に引き受けた名護の皆さんは、とりわけ「沖縄のアイデンティティ」へのこだわりをもった人たちです。そのことに充分留意しつつ、しっかり“対話”をしていく必要があるのではないでしょうか。
 くれぐれも東京・社全協からの流れにならないように。むしろ沖縄側からの独自の流れを全国側で受け止め、支援し具体化していく姿勢をもってほしい。そのエネルギーで“沖縄らしい集会”を創りだしてほしい。そうでなければ、はるばる沖縄で集会を開く意味がなくなってしまう、と思います。
 私も全国集会には、担当常任から副委員長や委員長として、多年かかわってきました。毎年、暑い夏は全国集会の季節でした。多くの苦労があり、成功もあれば反省もあります。そんなことをくどくど申し上げる必要はないけれど、やはり全国と現地との“対話”がなければ集会は成功しない!
 旅行エージェントの選定は、これまで現地実行委員会側の領分であり責任でした。それが沖縄集会準備では全国側の判断で(現地との対話なく)進められたことに危惧をもっています。沖縄の土地や景観を本土資本が買いしめてきた経過と同じとは言いませんが、新潟集会「この指とまれ」以来、ずう〜と気になっていることです。
 苦言を呈するかたちになるのは本意ではないのですが、「多々ご助言」をという言葉に甘えて、ちょっとひとこと。妄言であれば幸いですが・。 

【おきなわ短信(14)】<あんつく、そしてパピリオンの夜> 南の風753号 2001年10月9日
 那覇一銀通り「あんつく」のことを「短信12」(風750号)に触れた。この店とはもうながい付き合いだ。本土からやってくる私たちの歓迎会や、昔の「おきなわ社会教育研究会」はよくここで開かれた。そういえば、私の60歳のお祝いも「あんつく」だった。かっては沖縄研究グループの寄せ書き色紙も壁にかかっていた。末本誠を除いて、みな拙劣な字ゆえか、いまは取り外されているが。
 ここで出会った人たち、うたった歌、交わされた激論などなど、そのうち一度書いておきたい、と思いながら、まだ回想にふける余裕がない。
 「あんつく」の会が終わると、そのあとは海勢頭豊の「パピリオン」に繰り出すのが慣わし。当時の那覇滞在の夜は、だから、いつも賑やかで、心ときめくものがあった。はじめて沖縄に来た学生などをとくに強く誘って「喜瀬武原」など聞かせたものだ。沖縄の歴史と文化にふれる玄関口のような「パピリオン」の存在だった。だが、今はパピリオンも閉じられて、簡単に海勢頭豊にも会えなくなってしまった。
 こんどの和光大学プロゼミの旅でも、那覇の夜があとひとつ充実しない。「パピリオン」があればなぁ、と思って夜の散歩のついでに繁華街・松山の通りを歩いてみたら、紫の看板だけのパピリオンが残っていた。
 ところが、そんな思いが通じたのか、宿舎「沖縄県青年会館」に帰ったら、海勢頭豊の名前に出会った。青年会館の掲示板にも、エレベーターの中にも、次のポスターが張ってある。
 「10・10空襲を風化させない市民の集い2001」・基調講演:船越義彰(実行委員会委員長) ・一人芝居:北島角子(新作) ・平和メッセージコンサート:海勢頭豊 ・パネル展示:沖縄県立公文書館、那覇市歴史資料室 ・日時:2001年10月10日(水)18:30開場、19:00開演 ・場所:那覇市民会館大ホール ・主催:10・10空襲を風化させない市民の集い実行委員会
 ついでに、実行委員長(船越義彰氏)あいさつ文を紹介しておこう。船越義彰氏は、今年2月「小説・遊女(じゅり)たちの戦争―志堅原トミの話から」(ニライ社刊)を上梓している。辻を舞台にする興味深い1冊、いま那覇の本屋に並んでいる。
 「昭和19年10月10日、那覇は地上から消えた。浮島の昔から慣れ親しんできた風景は変貌し、父祖以来、積み重ねてきた文化的遺産は瓦礫と化した。 
 この日以来、家を焼かれた多くの市民は避難民という名で呼ばれるようになった。しかし、十・十空襲は、来るべき沖縄戦の幕開けであった。今度は、全県民が戦場を彷徨することになる。この沖縄の命運を根本的に変えた那覇空襲、沖縄戦も歴史の中に組み込まれ、いまは、そのことを経験した人々も少なくなった。とくに十・十空襲時の那覇の人口は約6万。それだけに、空襲体験者も少ないと見てよい。
 我々は、沖縄戦の中から多くのものを学ぶべきことを承知している。そして、十・十空襲にもそれがあることと、私は信じている。なぜ空襲が行われたか。戦争だったからである。では、なぜ戦争が行われたか。国家的理由からである。国家的な理由とはどういうことだったのか。そのことと民衆はどのように関わってきたのか。
 こうした問題の確実な基点として十・十空襲を捉えるためにも、このことを風化させてはならない、語り継ぐべきだと考える。こうした観点から「10・10空襲を風化させない」運動を展開してきたのである。多くの方々、とくに、若い世代のご理解をいただければ、本当に有り難いと思う。実行委員長 船越義彰」

◆【おきなわ短信(15)】<やんばるの里から3題> 
公民館の風221号 2001年10月19日

 
1ー(1) 国頭村辺戸区処分場建設問題 命懸けて山守る/区民ら150人が抗議デモ
                              (沖縄タイムス・2001年9月24日朝刊)
 【国頭】辺戸区(石原昌一区長)の反対を押し切り、強制着工に踏み切った国頭村の一般廃棄物最終処分場で、辺戸区は23日、抗議デモと集会を開いた。区民や郷友会など約150人が参加し、公民館から建設予定地までの3キロ余りをシュプレヒコールしながら行進。公民館で開かれた集会では強制着工への怒りや「命を懸けても辺戸区の山を守る」など、あくまでも処分場建設に反対する意見が相次いだ。
 デモには連日の監視活動をしているお年寄りらもプラカードを手に参加。歩き抜いた予定地のテント前では、着工した20日に気分が悪くなり、現場で倒れた区民の上江洲和子さん(61)も「勝利の暁には、みなさんの手で山に植樹をしましょう」と元気な声で呼び掛けた。
 集会では先頭に立って反対してきた玉城増夫さん(82)が着工の日の状況を「われわれは70以上の年寄りが多い。どうしても着工を止めることができなかった」と説明。 弁護団からは「専門家が認めた入会権の存在や自然環境、生活環境に影響が及ぶという意見書を裁判所に提出している。しかし村は25日の第三回審尋にまだ書面一枚も出していない」と報告、憤りを示した。 那覇市から駆けつけた平良克己郷友会長も「皆さんの精神的ダメージは金では買えない。シマを出ていった人も心を痛めている」と怒りを表した。
 (写図)処分場建設予定地のテント前でガンバローを三唱し、建設反対を誓い合う区民ら=国頭村辺戸(略)
                
1ー(2) ごみ処分場の建設禁止、地裁が仮処分/国頭村辺戸区 (琉球新報・2001年10月4日)
 国頭村(上原康作村長)が、同村辺戸区(石原昌一区長)に建設工事を強行した一般廃棄物最終処分場問題で、那覇地裁の綿引穣裁判長は3日、入会権などを理由に同施設の建設工事禁止を求めた石原区長ら区民116人の請求を認容し、工事禁止の仮処分決定をした。決定により、同処分場の建設は当面不可能となった。村は土地収用法の適用なども含めて、検討する方針。併せて、地裁決定に対する保全異議の申し立て、建設続行を求める本裁判の提訴も行う考えだ。同処分場に対する国庫支出は厳しい局面を迎え、村は計画の練り直しを迫られることになりそうだ。
 綿引裁判長は辺戸区が入会権、もしくは旧慣使用権を有している理由について、(1)入会集団として管理、統制されている、(2)国頭村所有の森林、原野について毎年度各行政区所在の村有資産から得た収益の50%を行政区育成資金として得ており、区が村に対し、何らかの権利を有している―を指摘。同区民が村側と具体的な法律上の権利関係にあることを認定し、権利侵害にあたる建設工事の禁止を命じた。
 村は、これまでの審尋で入会権や旧慣使用権について「入会林野などにかかる権利関係の近代化の助長に関する法律」に基づき消滅手続きを完了し、入会権はない上、同施設建設は公共性が高いなどと主張していた。
 綿引裁判長は、同施設の計画地が1985年の村議会による消滅手続き上の土地台帳にないことなどを指摘し「別の土地では旧慣使用権の消滅手続きが行われている以上、区民が保全を求める土地についても旧慣使用権は現に存続しており、建設設置された場合、権利回復は困難であるから、保全の必要も明らか」と述べた。また「法律による行政を行うことが基本原則であることは言うまでもなく、必要であれば、土地収用法による収用をすれば足りる」として、村の主張を退けた。
 同処分場は、村が国庫補助金に95%を依存する形となっており、区民側弁護団が仮処分決定された場合の国庫補助金の扱いについて国側は「支出条件に合致しない」との見解を示している。
                   
2、名護市屋部の八月踊り(沖縄タイムス・2001年10月2日夕刊 [今晩の話題]村踊りのころ)
 十五夜の月を見ながら、豊年祭(村踊り)のにぎわいを思った。夜の蒸し暑さも和らぎ、やんばるの村々はシマの繁栄を祈願する祭りで活気づいた。
 先月27日の夜は、激しい雨を気にしながら名護市屋部の八月踊りを見に出掛けた。七時を過ぎたころ公民館に着くと最初の演目「長者の大主」が始まっていた。
 「屋部の八月踊り」の本番は毎年、旧8月8日、10日、11日の3日間。それぞれの日はスクミ(仕込み)、正日、ワカリ(別れ)と呼ばれる。 136年の歴史を持つ行事は、旧盆前の「ミンクバイ(面配り)」から始まり、本番の約一週間後に行う「ワカリザンカイ(分散会)」まで、ほぼ1カ月にわたる。ミンクバイのときに前区長を団長に「踊り団」が結成され、踊りのけいこから準備、本番、慰労会までを取り仕切るという。
 屋部の八月踊りは、演目だけでなく、これら一連の行事全体が「沖縄の村踊りの形式をよく残している」と、県の無形民俗文化財に指定(1988年)されている。 今年の舞台は、締めの組踊「矢蔵の比屋」まで22の演目が披露された。気が付くと、公民館は子供からお年寄りまで大勢の区民でびっしりと埋まっていた。
 豊年祭を見るたびに思うのは、演じる側も観衆も表情が輝いていることだ。どの村でも演目の一つひとつが「シマの宝」であることを舞台を通して再確認しているように思う。各地の村踊りが終わるころ、島には秋の気配が漂い始める。(久高将己)

3、大宜味村喜如嘉公民館の近く「ふるさと資料館」
   (沖縄タイムス・2001年9月25日夕刊[今晩の話題]ブナガヤの里)
 NHKの連続テレビ小説「ちゅらさん」で、おばぁが鋭い勘で家族の吉凶を察知するのは、特別なことではなかったかもしれない。 古来、人々は自然の中に人知を超えたものの存在を鋭く感じ取り、それに対する畏敬(いけい)の念を、さまざまな行事や風習で表現してきた。
 大宜味村の喜如嘉や謝名城には、赤い髪と小柄な体で、怪火を操ったりする「ブナガヤ」(キジムナーの一種)にまつわる話が数多く残されている。 旧暦8月10日に行われる「シバサシ」のころには、木の上にやぐらを掛けてブナガヤが現れるのを待つ「アラミ」という風習が、かつて盛んに行われたという。
 喜如嘉公民館の近くにある「ふるさと資料館」を訪ねると、多くのブナガヤたちに出合える。資料館を主宰する平良景昭さんが、伝承や証言を基に表現したブナガヤ像や絵を展示しているほか、関連資料などを収集して
いる。 地元のわらべ歌に登場する「アブシブナガヤ」は、三線を担いで田んぼのあぜ道を歩く姿が笑いを誘うが、擬人化されるほど身近な存在だったことが分かる。
 大宜味村では、村おこしの一環として「ぶながやの里」を宣言している。それは、ブナガヤと共生できる豊かな自然を守り続けるというメッセージでもある。 「目には見えないものが意味を持つこともある」と平良さんは言う。あすは旧8月10日。森の奥からブナガヤが人間の行動を見つめている気がする。(久高将己)

◆【おきなわ短信(16)】<名護市源河公民館「源河川にアユを呼び戻す」運動>

                        公民館の風221号 2001年12月10日
 来年の社会教育研究全国集会は沖縄・名護で開かれる。「やんばる」だ。そんなこともあって、新聞を読んでいても“山原”に目がいく。この短信でも、先号は「やんばるの里から3題」だった(10/19)。
 しかし早いもので、短信(15)からもう2ヶ月近くが経過している。この間には「上海の風」シリーズ(ホームページに収録)などを載せて、つい「おきなわ短信」発行の間がのびてしまった。申しわけない。

 ご記憶の方もあろうか、「公民館の風」初期に「沖縄の公民館」(1〜20号)特集を掲載したことがある。そのなかに本号のテーマ「源河川にアユを呼び戻す会」のことは一度取りあげている。(公民館の風第18号、1999年12月28日)。当時、刊行したばかりの『これからの公民館』(小林編、国土社、1999年)所収の島袋正敏論文「沖縄の集落自治と字公民館活動―名護市の実践」に関連して紹介した。2年前の記事なので、新しい風メンバーのためにも、その一部を再録しておこう。
 「名護市源河区(戸数約300戸)のアユ復活運動は、この区の公民館活動として取り組まれてきた。「アユを呼び戻す会」は1986年に発足しているが、発足の火付け役となったのはムラの青年たちだ。源河では、全世帯が「呼び戻す会」の会員、会長は公民館長である。「その土地に住んでいるものが主体となり、……いわゆる自然保護団体を活動に割りこませなかった。だからこそ、畜産農家との地道な話し合いによってその移転などが可能になった」という(島袋論文)。
 12月20日(1999年)の沖縄タイムスは、源河区公民館が「源河アユ生産者組合」の設立準備報告会を開いたことを報じている。関係者約150人が出席し、リュウキュウアユの養殖の見通しがついたとして、今後の産業化の可能性が語り合われた。「呼び戻す会は、現在十トンの養殖池5ヶ所をもち、年間で十万匹を孵化させることが出来る。そのうち四万匹前後の歩留まりがある。早めに市場に出し需要と供給を調べ、産業化の道を探りたい。過去に例がなく、実践しながらやっていくことになる。」(アユ専従職員の瀬良垣貢さん談)
 若者たちが火付け役になり、年寄りたちが昔を語り、子どもたちが放流し、集落あげて取り組んできた活動が、いまムラに一つの産業を生み出そうとしている。」

 ところで、先日の沖縄タイムス(2001年12月3日朝刊)が、源河「アユを呼び戻す」運動のその後の動きを報じている。公民館を拠点とする環境運動と生涯学習の実践、そして“アユ”産業化の努力がここまで来たのかと、感慨深いものがあった。
 <アユで産業化目指す/試食会で魅力アピール/名護市>(沖縄タイムス、12月3日朝刊、21面)
 一時県内の河川から姿を消したリュウキュウアユを呼び戻そうと十年以上にわたってアユの種苗生産と放流に取り組んでいる名護市源河区の住民らが、アユの養殖事業を導入した地域産業の創出を目指している。住民らでつくる「源河アユ生産組合設立準備委員会」(会長・大城勝治・源河区長)が三十日、市内のホテルに関係者五十人を招き、リュウキュウアユとテナガエビの試食会を行い、事業化に向けての意気込みをアピールした。
 設立準備委員会と、アユの種苗生産に取り組んでいる「リュウキュウアユ種苗センター」が開いたもの。リュウキュウアユの魅力を知ってもらおうと県調理師会や名護市、県の関係者など約五十人を招いた。
 源河区では、復帰後の開発などによる河川環境の悪化で、地元の源河川からリュウキュウアユが姿を消した。清流を取り戻そうと住民らが「源河川にアユを呼び戻す会」を結成し、奄美から稚魚を導入。人工ふ化による繁殖に取り組んできた。
 住民らはこれまで十年以上にわたって種苗センターで増殖と河川への稚魚の放流を行ってきた。これまでの取り組みで増殖技術は確立したものの、事業を継続していくための経済基盤の確立などが課題となっており、アユを資源とした産業化を模索していた。
 地元では養殖事業の主体となる「源河アユ生産者組合」を年内にも設立する予定。また、名護市も本格的な養殖施設整備事業を計画している。計画ではリュウキュウアユで年間二十四トンが生産できる規模の施設を目指している。
 試食会では、リュウキュウアユを食材にしたみそ焼き、ごはん、南蛮漬けなどが並んだ。招待者は舌鼓を打ちながら、事業化した際の生産計画などを質問していた。
 なお、現在、河川などでリュウキュウアユを採取することは県の内水面漁場管理委員会指示で禁止されている。今回の試食会は、同委員会の承認に基づくもの。」

【おきなわ短信(17)】<小さな公民館の大きな苦悩> 公民館の風244号 2001年12月26日
 宜野湾の普天間飛行場(米軍ヘリポート基地)の名護移設問題は、この27日「代替施設協議会」での岸本建男市長の意思表明が焦点となってきた。代替基地をどこに、どう移設するか。代替施設の「三工法八案」、珊瑚礁・リーフとの関係など、その位置・規模・工法問題等で直接に甚大な影響がある辺野古や豊原などの集落が苦悩している。
 各集落の小さな公民館組織(たとえば行政委員会)が、日米安保に関わる重大問題に対応を迫られているのだ。利害や思惑、疑念や不信、集落の分裂危機など、つらい状況のなかで、さまざまの議論を繰り返し、何らかの判断を強いられている。
 最近の現地新聞(沖縄タイムス、琉球新報)から、豊原区(公民館)を中心とする集落の動きと、名護市の対応、市民運動についての記事をいくつか拾い出しておく。
 
○普天間代替、結論出ず/市長判断仰ぐことも/豊原区行政委 沖縄タイムス<11月29日>
 【名護】米軍普天間飛行場移設問題で、市が「移設先地元三区」の一つとしている豊原区の行政委員会は、代替施設建設位置についての初めての会合を28日、同区公民館で開いたが結論は出ず、各自で意見を述べるにとどまった。次回以降に二、三の案に絞った後、同区の意思決定機関となる戸主会に諮る予定。
 しかし「戸主会でも判断が出なかった場合は、市長に判断を仰ぐ」としており、最終的に岸本建男市長の判断となる。 会合には、名護市の末松文信企画部長ら、担当職員が出席。辺野古区と同様に航空写真に施設の規模を示し、「リーフ上」案を説明。
 会議では、辺野古区で強い懸念の声が上がった民間部分について各委員の間で賛否が分かれたほか、あくまでリーフ外を主張する委員や騒音を心配する声、振興策の必要性を強調する声が上がった。 …略…

○多くの意見集めたい/辺野古の議論も視野に/豊原区行政委 沖縄タイムス<11月29日>
 【名護】28日夜開かれた、米軍普天間飛行場移設先の地元の一つ豊原区の行政委員会では、代替施設の三工法八案に関し「なるべく多くの意見を聴取する」(宮城秀雄区長)として、議論よりも十五人の行政委員全員の意見の聴取に終始。意見の整理と集約は次回以降に持ち越された。
 「辺野古の議論もたたき台にしたい」(宮城区長)として、市からリーフ上を想定した航空写真の説明を受けた後、一人ずつ意見を述べた。
 豊原区集落と滑走路は「わずか数百メートルしかない」などと懸念する声や埋め立てによる潮流の変化を心配する声が上がる一方、「振興策が重要」「区の活性化のために軍民共用でなければ駄目」「辺野古と歩調を合わせた方がいい」などの意見が出た。
 城間正昭委員長は振興策を重要視する意見が多かったとの印象を述べた上で「次回はある程度集約できると思う」との見通しも示した。また、意見集約にめどをつける岸本建男市長の判断は「基本的にはわれわれの意見を聞いてからというのは当然」との認識を示した。

○岸本市長、「外洋側」を提起へ/普天間代替施設  琉球新報<2001年12月22日>朝刊
 米軍普天間飛行場の代替施設の位置について、岸本建男名護市長は21日までに、施設の一部が沖合のリーフ上にかかることを容認しつつ、できるだけ外洋が望ましいとする見解を、27日の代替施設協議会で提示する方針を固めた。リーフを含んでも、できるだけ住宅地域から離れた外洋側にするよう求める。19日に行われた地元の辺野古区、豊原区からの意見聴取で出た地元行政委員の意見を踏まえ、判断した。地元の意見集約状況を報告する中で、市長の見解を示す。
 岸本市長は代替施設に関し、稲嶺恵一知事が公約に掲げる軍民共用化を前提に、民間機就航を見据えた2000メートルの滑走路設置に伴う施設規模拡大に対する地元の懸念に配慮し、約200ヘクタールの代替施設の規模をできるだけ縮小することを求める方向で検討している。岸本市長は、騒音などによる生活・自然環境への悪影響を極力抑制する案として、位置や規模を提示する具体的な文言について詰めている。
 一方、県は辺野古などの地元三区の状況や、滑走路の延長線上の離着陸コースの直下に当たり、騒音被害への懸念が根強い宜野座村松田区に配慮し、生活・自然環境への影響を抑えるよう配慮を求める方針。県が説明会を開いた際の地元の意向を踏まえ、基本計画策定後の環境アセスメントでの工法案の修正を視野に入れ、政府が地元の懸念や要望に最大限配慮するよう求める。
 代替協の開催が確定したことから、県は名護市、宜野座、東の両村との最終調整に入った。来年度予算の編成作業に合わせて上京している稲嶺恵一知事や比嘉茂政副知事の帰任後、県の最終方針を詰める。
 一方、宜野座村の浦崎康克村長は騒音被害を抑制する実効的な措置を強く要求する方針だ。

○名護市長の独断許さない/代替協前に市民抗議集会 沖縄タイムス<2001年12月22日>
 「市長の独断行為は許さない」「名護市民の意思は市民投票」。米軍普天間飛行場移設問題で、27日の代替協施設協議会での岸本建男市長の意思表明が焦点となる中、名護市労働福祉センターで21日、市内外から約三百人が参加し、名護市長の地元意見集約の在り方などに抗議する集会が開かれた。この日は、1997年の市民投票から満四年。参加者は「基地は単に沖縄の問題ではない」などと気勢を上げた。
 主催したのはヘリ基地反対協議会と基地の県内移設反対県民会議。ヘリ基地反対協の安次富浩代表委員は「私たち自身の手で、市民投票のように市民一人ひとりが立ち上がる運動を進めたい」とあいさつ。
 住民対話集会を市長に求め、拒否されている二見以北十区の会の東恩納琢磨さんは「市長は議会では住民に会うと言い、私たちには会わないと言って逃げている。市民に目を向けず、意見を集約しないまま代替協に走っている」と厳しく批判した。
 最後に「市民投票の民意の尊重」「民意に基づかない市長判断を行わないこと」「市民説明会の市内全地域での開催」などを求める決議を満場の拍手で採択、シュプレヒコールが会場に響いた。
 参加した市民団体などは、26、27の両日、名護市役所前で座り込みや集会を行うほか、東京にも抗議団を派遣し、抗議行動を展開する予定。

【おきなわ短信(18)】<春のトピックス2題−山の炭焼き煙と竹富の海開き>
                         公民館の風270号 2002年3月6日
○炭焼きの煙復活/国頭村・奥集落 昔ながらの手法で小屋づくり(沖縄タイムス2002年3月4日)
 本島最北端の山あいにたたずむ国頭村奥の集落に、35年ぶりに炭焼きの煙がたなびいた。同区では、昔ながらの炭焼き風景を再現して、村おこしに活用しようと、成人会の有志を中心に区民らがボランティアで炭焼き小屋を建造した。26日に一回目の火入れを行い、同27日には窯を開け、出来上がった木炭を取り出した。
 奥区では戦前から戦後の一時期まで盛んに炭焼きが行われていた。全盛時は山中に六十ほどの炭焼き小屋があったという。
 炭焼き小屋建造の中心となった成人会メンバーの糸満盛也さん(50)は「炭焼き小屋から白い煙が立ち上っているのを見ると心が癒やされる。住民や郷友会の間からも、炭焼きを再現してほしいという声もあった」と取り組みの背景を話す。
 炭焼き小屋を再現するため、メンバーらは山中に入り、幾つかの炭焼き窯跡の調査も実施した。また、実際に炭焼きを生業としていた区の先輩らにも参加してもらい、昔ながらの手法で窯を作り、雨よけの屋根は茅(かや)でふくなど、かつての炭焼き小屋を復活させた。
 今回、指導役となった崎原栄秀さん(76)は、14歳から炭焼きに従事していた経験を持つ。てきぱきと作業を進めながら「懐かしいですね。作業の手順はいまでも体に染み込んでいます」と笑顔を見せていた。
 奥区の島田隆久区長は「炭焼き小屋とその周辺を体験学習やエコツーリズムなどの素材として活用し、村の活性化を図っていきたい」と話している。

○竹富町、県内トップ「海開き」/西表・干立海岸 波しぶき、子供ら歓声/イベントでにぎわう
 竹富町観光協会は3日午前、西表島北西部の干立海岸で県内トップを切って、「海開き」を宣言した。日本最南端の同町が最初に海開きするのは今回が初。午前8時半現在の気温は21・1度。曇り空の肌寒い天候にもかかわらず、西表小中学校の児童らが勢いよく海に駆け出し、初泳ぎを楽しんだ。
 地元のツカサたちが安全祈願した後、那根元会長(町長)が「緑したたる竹富町からニライの神々の加護の下、海の安全と事故防止を願う」と海開きを宣言。姉妹町の北海道斜里町長からのメッセージも披露された。
 町内七島の住民や観光客ら多数が詰め掛ける中、「海上収穫祭」のイベントが催され、歓声が上がった。このほか町内にある各公民館対抗の爬龍(はりゅう)船大会もあり、大いににぎわった。

【おきなわ短信(19)】<沖縄のなかのムネオ> 公民館の風272号 2002年3月17日
○鈴木氏への献金、組踊劇場受注4社も/6年間で12―90万円(沖縄タイムス3月12日)
 浦添市小湾に開場が予定されている国立組踊劇場(正式名称「国立劇場おきなわ」)の建設工事を受注した県内の業者が1995年から2000年にかけ、鈴木宗男氏の政治資金管理団体に献金を続けていたことが11日、共産党県委員会などの調べで分かった。6年間で、それぞれ12万円から90万円に上る。同氏は、劇場の建設計画が本格化した当時の沖縄開発庁長官。同委員会は「受注者から献金を募る利権構造」と指摘した。劇場の設計には、同氏の沖縄後援会事務局長の設計会社=那覇市=がかかわり、設計費の一部を受け取っていた。同社も毎年12万円の献金を続けていた。鈴木氏の事務所は「初めて聞いた話で答えられない」としている。
 鈴木氏に献金していたのは、劇場の建築や舞台機構などを請け負った県内の大手建設業者など4社。ある業者は、12万円から42万円の献金を毎年続け、6年間の総額は90万円に上っていた。
 設計や建設工事などを発注した沖縄総合事務局の開発建設部は「マスコミの問い合わせが多いので、念のために、1997年から2002年までの劇場に関するファイルを調べてみたが、(鈴木氏からの働き掛けといった)指摘されるような事実はなかった」としている。
 年間12万円の献金を続けてきた業者は「マスコミの報道を見て、沖縄でもここまで力があったのかとびっくりしている。まったく関係がないのに名前が出るのはイメージダウンで迷惑。来年からは献金をやめる」と話した。
 同劇場は、国指定重要無形文化財「組踊」をはじめとした琉球芸能の継承発展を目的とし、2003年度の開場を目指して建設工事が進められている。総事業費は111億1300万円。

○土地連、無断で名義借用/鈴木氏献金疑惑で事務局長会見(琉球新報・2002年3月15日)
 鈴木宗男衆院議員の政治資金管理団体「21世紀政策研究会」の2000年収支報告書で、献金事実のない読谷村内の軍用地主が個人献金者として記載されている問題で、県軍用地等地主会連合会(土地連、屋良政信会長)の松茂良興辰事務局長は15日、那覇市の土地連会館で記者会見し、「屋良会長ら三役会議で、同会長が会長を務める読谷地主会の会員の名義を借りることを決めた」と述べ、土地連三役会で組織的に一部の名義を借用することを決め、土地連の会費から献金していたことを明らかにした。
 土地連関連の献金の全体が、本人と他人名義での献金を禁じた政治資金規正法に違反する疑いが濃くなった。 松茂良氏は、企業・団体献金が2000年の政治資金規正法改正で禁じられたことに伴い、県選出・出身の国会議員の一部にも、正副会長ら三役名義などでの献金を続けているとも説明した。
 約300万円の献金がなされた鈴木氏側に対しては、同事務局長が鈴木氏の政治資金管理団体事務所に同年6月7日、200万円を持参し、三役名義の献金は銀行振り込みで充てた、と説明。献金の領収証は当日は受領していないとし、「鈴木氏事務所から地主に届いたのではないか」とあやふやな説明に終始した。
 松茂良氏は「法律論からいえば、違反かもしれないが、軍転法改正などの重要課題が岐路に立つ中で、土地連として(法律違反を)意識的にやってはいない」とし、結果的に規正法違反に該当するとの認識を示しつつ、違法性を帯びた献金は政治課題の前進のためで、故意ではないと強調した。
 また「名義を借りる際は私が提案し、屋良会長ら三役会の了承を得た」と繰り返し、「無断で借りる形になった会員には迷惑をおかけした」とし、政治資金規正法違反に関しては「おわびしたい」と述べた。

○土地連、違法献金認める/鈴木氏へ政治連盟会費 軍用地料増額狙う(沖縄タイムス3月15日)
 …略… 収支不透明、深まる疑惑/「説明不十分だった」
 「政治資金として約一千万円集めた。金がなくて鈴木氏への献金が不足し、役員が借りた」。鈴木宗男衆院議員(自民)への違法献金問題について県軍用地等地主会連合会(屋良政信会長、土地連)の代表は十五日、記者会見で釈明したが、献金の収支が不透明で疑惑は一層深まった。寄付者とされた軍用地主会メンバーが「献金した覚えはない」と否定していることには、「地主への説明が不十分だった」。献金総額についても「金だけでない。献金先は相手のこともある」とあいまいな説明に終始した。
 …略…
 詳細に調査へ/中谷防衛庁長官
 中谷元・防衛庁長官は十五日の閣議後会見で、庁内での鈴木宗男衆院議員の関与や影響力について、「沖縄の軍用地料の問題などもある。自己利益によって行政が曲がってはならない。行き過ぎや不適格なことがなかったかどうか、庁内で調査する」と述べ、鈴木氏の関与などについて、詳細に調べることを明らかにした。
 県、土地連に説明を要求
 県は十五日午前、土地連から鈴木宗男氏への献金の在り方に問題がある可能性があると見て、土地連に説明を求めた。だが、土地連側の責任者が不在のため、回答はなかった。社団法人である土地連は県知事から設立許可を受けており、土地連は収支や事業を県に報告する義務がある。県の親川盛一知事公室長は「政治献金の流れが個人的なのか、連合会として、どうかかわっているのか、事実関係を確認した上で適切に対処したい」と話している。

【おきなわ短信(20)】<南の島から、三つの祝い> 公民館の風273号 2002年3月22日
○島をあげて健康を祝う / 竹富で生年合同祝賀会(八重山毎日新聞・3月15日)
 竹富公民館(阿佐伊孫良館長)では午年生まれの合同祝賀会を、このほど「まちなみ館」で催催した。今年の干支である午年生まれの人たち44人が招かれ、島を挙げての盛大な祝いとなった。
 今年で43回目のこの行事は、1960年に生活改善事業の一環として始められたもので、すっかり定着している。石垣郷友会からも午年生まれの人たちが、一緒に祝いたいと大勢参加した。
 開会のあいさつで阿佐伊館長は「合同祝賀会も43回目を迎え、公民館の大きな力となっている。それぞれの年代にふさわしい生き方を目指して、さらに健やかな長寿と成長を祈念します」と述べて生年者の名前を読み上げて紹介し、85歳の桃原節さんと100歳の根原康子さんには長寿をたたえ、頌状を交付した。
 来賓の石垣郷友会の石垣久雄会長は「西塘様の前で緊張している。元気な親島のお年寄りに敬意を表します。竹富からは最近だけでもソニー賞の3年連続受賞、毎日駅伝の4位躍進と良いニュースが伝わってきている。郷友会は321戸、1053人となっているが、親島があればこその繁栄であり共にがんばっていきたい」と祝辞を述べた。
 山盛淳子校長の音頭で乾杯した後は祝宴となり、芸能の島らしく婦人会や午年生まれの人の家族から9点の舞踊が提供された。伝統芸能から新作までバラエティーに富んだ舞台に、観光客も喜んでビデオを回したりカメラに収めていた。舞台の合間には73歳、61歳、49歳の人たちが生まれ年を迎えた喜びを述べていた。(竹富通信員)

○1人だけの卒業式 / 富野小で宮村くん激励(八重山毎日新聞・3月17日)
 15日の大規模中学校の卒業式に続いて16日は、石垣市と竹富町の小中併置校9校でも卒業式が行われた。そのうち市立富野小学校(鳩間真英校長)では、宮村龍三君が小学校ではたった1人卒業を迎え、中学校4人の卒業生と小規模校ならではの心温まる卒業式に臨んだ。
 午前10時から同校体育館で行われた卒業式では、宮村君は中学校4人の卒業生とともに入場し、鳩間校長から「中学生になっても勉強やスポーツに頑張ってください」と卒業証書を手渡された。在校生6人から歌や送る言葉が述べられ、中学校のお姉さんたちに交じってちょっぴり緊張した表情の宮村君は、6年間の思い出を述べるとともに「中学生になると新しい教科もあるので、頑張って楽しい中学生活を送りたい」と元気よく抱負を述べた。郡内小学校の卒業式は、ほとんどが20、22日に行われるが、1人ぼっちの卒業式はこのほか、石垣市内の平久保と竹富町の古見、白浜、また船浮では卒業生がゼロとなっている。

○鳩間で約40年ぶり結婚式 / 2組のカップルに喜びの二重奏(八重山毎日新聞・3月17日)
 鳩間島でこのほど2組の合同結婚式が行われた。島出身者による地元での挙式は実に40年ぶり。島をあげて門出を祝った。祝福されたのは通事健次さんの長男・太一朗さんと新婦祐子さんのカップル。もう1組は砂川雅俊さんと通事さんの長女・洋子さんのカップルで、兄妹による合同結婚式となった。
 披露宴会場となった鳩間コミュニティーセンターには80人以上が詰めかけ、2組の夫婦を盛大に激励した。この日は那根元竹富町長や黒島精耕竹富町教育長なども祝いに駆けつけ、小さな島は大きな喜びに包まれた。(佐賀英美西表西部通信員)

【おきなわ短信(21)】<4月の沖縄−選挙・大学・沖縄憲法>公民館の風280号2002年4月10日
○有権者に将来像語る/町長選予定候補が公開討論/金武町 (沖縄タイムス3月28日)
 【金武】町長選告示を間近に控えた24日、金武町長予定候補者を知る公開討論会(主催・金武町青年団協議会)が町立中央公民館大ホールで開かれた。
 このような討論会開催は同町では初めて。3人の候補者のうち吉田勝広現町長と儀武剛候補が、約五百人の有権者の前でそれぞれの将来ビジョンなどを語った。 宜野座保候補は、人数が限定されていることや三百円の会費徴収、告示前の開催時期などに「公平さが保たれない」とする考えを主催者側へ文書で通達、欠席した。
 吉田候補は「生活に直結する予算獲得が大事」と財源確保の重要性を強調。地域活性化や米軍基地跡地利用などでは「金武町にしかない文化を武器にしたい」とした。 儀武候補は教育立町や女性の社会進出など十政策を提示。「町民の役に立つから役場」と役場改革メニューをアピール。「ともに考え行動する」姿勢を訴えた。

○金武町長に儀武氏/町政改革訴え現職破る(沖縄タイムス<2002年4月8日) 
 任期満了に伴う金武町長選挙は7日投開票され、新人で元町職員の儀武剛氏(40)=無所属=が、現職の吉田勝広氏(57)=無所属=と新人で前町議の宜野座保氏(53)=無所属=を破り、初当選した。
 8年ぶりの選挙は三つどもえとなり、町民参加型の町政、町役場改革などを訴えた儀武氏が、二期八年間の実績を訴えた吉田氏に競り勝った。儀武氏は勝因について「若い皆さんに『金武町を今こそ変えよう』と訴えた力が勝利につながった」と語り、「信じて戦ってきた。皆さんの力のおかげだ」と当選を喜んだ。 …以下、略…

○父娘そろって名桜大“新入生”/与論町 (琉球新報<2002年4月7日) 
 【名護】名護市の名桜大学(東江平之学長)で6日、第九回入学式が行われ、鹿児島県与論町の赤崎隆三郎さん(50)、瞳さん(18)さん親子がそろって”新入生”となった。父親の隆三郎さんは大学院生、長女の瞳さんは国際文化学科の学部生として、それぞれの夢を実現させるため、学生生活を始める。
 鹿児島県立与論高校で非常勤講師を務める隆三郎さんは「これからは高校と大学、学校と地域の連携が大切。学んだことを生徒や地域に伝えることで、まず自分が”連携”を実践したい」と意気込む。与論からの”遠距離通学”にも「日常的に通うことで、奄美と沖縄をつなぎたい。それが文化交流だと思う」と苦にならない様子。「サバニでも通います」と笑いながら決意を込めた。
 瞳さんは、与論町と気候や文化が似ている沖縄をもっと知りたいと、同大への進学を決めた。父親と同じ大学への進学については、「最初は嫌だなと思ったけど、父にも私にもやりたいことがある。父のチャレンジ精神は、見習いたいところの一つ」と笑顔。「これからは学生同士で励まし合って頑張ります」と意気込みを語った。 写真(略) *赤崎隆三郎さんは名護全国集会の世話人(奄美)、指導教授は中村誠司さんとのこと。(ぶ)

○つくろう“沖縄憲法”/自治体シンポ 歴史見直し活力探る (沖縄タイムス<2002年4月7日) 
 住民参加の行政を目指すシンポジウム「新しい自治体とこれからのまちづくり」が6日、那覇市内で開かれた。主催は沖縄の状況に沿った「基本条例」の素案策定を目指す沖縄自治研究会、自治体の憲法といわれる「まちづくり基本条例」を普及させる狙い。研究者らは「沖縄の自治は病んでいる」「復帰前、自治権獲得のため闘った歴史を見直そう」と指摘し「基地問題など、人権を侵す国策に抵抗する権利を盛り込んだ“沖縄憲法”をつくろう」などと提案。「優秀な人材豊富な役所が、もっと元気を出して頑張ってほしい」とエールを送った。県や市町村職員、議員ら約三百人が会場を埋めた。
 パネルディスカッションで、仲地博琉大教授をコーディネーターに江上能義琉大教授、高良鉄美同大教授、前津栄健沖国大教授、まちづくりNGOの中根忍さん、南風原町職員の前城充さん、屋良朝博沖縄タイムス記者が持論を展開した。
 江上教授は、復帰前は米軍施政下にありながら、本土とは異なり自治権を勝ち取った歴史があるとし「復帰後は高率補助に誘導され、米軍基地に大きなエネルギーを費やされた。現在の沖縄の地方自治は決して自慢できる状態ではない」と指摘。今後の議論の活性化を求めた。
 高良教授は「米軍基地や環境権は、自治体の役割である住民の人権を守る視点からとらえ、憲法にないことは自治体が埋めるべきだ」と“沖縄憲法”の制定を提案。前津教授は「行政の持つ情報の共有化」の必要性を強調し、検討段階の事業について、住民が理解しやすいよう積極的に提供することが大切だとした。仲地教授は、地方分権の影響が全国的にみられるものの、沖縄の自治体は「客観的に弱く、発信能力を失っている」と指摘。「慰霊の日設置のため地方自治法改正を勝ち取るなど、過去の財産を掘り起こし未来につなげるべきだ」とした。研究会はシンポの詳細を今月末までにホームページ(http://jichiken.tripod.co.jp/)に掲載する予定。

【おきなわ短信(22)】首里の夜、那覇の1日−首里石嶺町公民館へ
        
   (公民館の風282号〜293号 4月14日〜17日)
(1)<名護の夜> 公民館の風282号(4月14日)
 沖縄の社会教育実践の本づくり、最終編集会議のため、13日朝早く東京を発って、名護に来ています。いま予定スケジュールより1ヶ月あまりの遅れですが、それでもまぁ、なんとか順調に動いてきました。8月末の全国集会に間に合わせるための出版ではなく、その準備に役立つように、なんとか7月初旬には刊行にこぎつけたいという思い。最後の正念場、うまく進むかどうか?
 未着の原稿の見通しをさぐりつつ、ものごとすべて楽観的な展望をもつことが大事! あまり心配しないで(執筆者に期待して)乾杯!
 編集委員一同(平良研一、島袋正敏、中村誠司など)、オリオン(ビール)、そして島酒(泡盛)を楽しく飲み、店の看板まで語りつくして、ようやく今ホテルにだどりついたところです。
 この4月、名護市にはかなりの異動がありました。稲嶺進さん(総務部長、元社会教育主事、沖縄からはじめて富士見の全国集会に参加した)が収入役へ、島袋正敏さん(中央図書館長)は教育次長へ、昇格されました。
 皆さん、元気! 島袋正敏さんは1週間後に上京されます。上記・19日夜は、TOAFAEC研究会(ホームページ記載)でお話を聞く予定。関心ある方々の参加をお待ちします。

(2) 公283号(4月17日)<那覇の1日、首里石嶺町公民館へ “青少年に夢を、石嶺に旗頭を!”>
 公民館の風282号で「名護の夜」を書きました。今年は8月30日〜9月1日の3日間、社会教育研究全国集会(第42回)が名護市で開かれる関係もあり、「公民館の風」でも、つい沖縄の記事が多くなっています。沖縄にあまり興味をもたない方には、いささか迷惑かと思いながら、むしろ沖縄への関心を拡げたいという思いがまさって、ときどき「おきなわ短信」シリーズなども掲載している次第。
 あと一つ、実情を明かせば、「風」をある程度の間隔で吹いていきたい、いい記事が1〜2本寄せられているけれど、次の記事がなかなかとどかない(公民館の風は150行前後<南の風は100行前後>を一応の目安に発行しています)、このあたりで1本「おきなわ」記事でもつくって埋めようか、つまり埋め草に取り上げているうちに、ついつい沖縄記事が多くなってしまう、という経過もあります。ご容赦ください。

 ところで、先号の「名護の夜」につづく「那覇の1日」、しばしお付きあい下さい。
 14日は朝食後すぐに那覇に戻りました。同行の平良研一さん(沖縄大学)が「軍港移転反対」市民運動(浦添)の行事で、「浜下り」に参加されるというのです。那覇まで平良さんの車で送ってもらって、早くも10時には安里三叉路に到着。ほんとは、「浜下り」にも行ってみたかったのですが、じゃぶじゃぶと浜に入る足元の用意がなく、断念しました。この時期、つまり旧暦3月には清明(シーミー)祭など行事が多く、浜下りも旧3月3日の潮干狩り・健康祈願の行事。この日、あちこち(干潟埋め立て問題で話題騒然の沖縄市「泡瀬」など)の浜が賑わったようです。
 その夜、和光大学から沖縄大学へ1年間の留学に来沖したばかりの旧ゼミ生二人を連れて(この3月定年で那覇市を退職された佐久本全さんも一緒に)、海勢頭(うみせど)豊の新「パピリオン」に行きましたが、あいにく日曜日で休み。がっかりの「那覇の夜」のことは「南の風」853号に書きましたので省略。
 さて翌15日、お昼は名城ふじ子さん(那覇市役所、元社会教育主事、国場児童館長)と会食。こんどの沖縄・社会教育実践の本づくりくり「女性・ジェンダー」章の最終的なレイアウトを相談しました。(私だけ)ビールを飲みながら、なぜ那覇の社会教育行政がうまく進んでいないか、などの話も聞きました。この20年間、公民館と図書館の地域配置を進めてきた那覇市なのに、残念だなぁ、というのが正直なところ。彼女もいま税務の係長、社会教育に情熱を燃やしていた人だけに・・・、残念。彼女が勤務に戻ったあと、この日、東京への帰りの飛行機は午後5時すぎ、それまでどう過ごすか?
 昼のビールでややあかい顔もしているし、どこかで昼寝でもしようかな、などと思いながら国際通り久茂地の交差点を渡っていると、目の前を「石嶺行き」のバスが走っている、そうだ、一度行ってみたいと思っていた石嶺公民館を訪ねてみよう、と思いたちました。
 バスに飛び乗って、ゆっくり眠りこんで、運転手に「終点だよ!」と起こされる始末。道を聞きながら公民館を訪ねると、思いのほか大きな(温水プールつきの)立派な施設でした。きっと誰か応対してくれるだろうよとお願いしたら、外出していた仲田恵司(館長)さんを呼び戻してくれて、期待通りの歓迎でした。首里・石嶺公民館については、松田武雄さん(九州大学)の報告があります(「東アジア社会教育研究」第5号、2001年など)。この施設は、公立の(図書館、スポーツプラザ等の)複合施設ですが、これを拠点としつつ、地域には自治公民館的な施設もあり、なにより活発な市民サイドの活動がいろいろ動いてきているのです。とかく農村的な、あるいは古くさいイメージの「自治公民館」、地域活動ですが、どうしてどうして、石嶺のような都市部にも(また読谷・大添のような新しい住宅地にも)ユニークな集落・自治の公民館活動・市民活動がみられる、その典型的な事例のようです。
 松田報告(「沖縄における都市の地域形成と公民館−石嶺公民館と地域活動」)は、東京などでは聞きなれない「旗頭」運動とその発展としての北翔会、伝統エイサー会、自治会活動など、興味深いものがあります。また沖縄国際大学の石原昌家ゼミも「石嶺旗頭文化の再生と創造」(1992年度あし14号)を出しています。
 「青少年に夢を、石嶺に旗頭を」のスローガン、公民館を飾っている話題の“旗頭”も見せてもらい、また(おねだりして)中松竹二郎氏より石嶺旗頭制作記念誌『旗頭』(1993年)を頂いてきました。“旗頭”はいまホームページにアップしたところ。
 わずか1時間の短い滞在、想い出に残るトラベリング・サーベイではありました。

【おきなわ短信(23)】 <最近の沖縄の公民館、3題> 公民館292号 2002年5月24日
 …承前(22号:公民館の風第282/283号、2002年 4月)…
○雨の日も夜も使える/屋根付きの交流広場完成/豊見城市
 【豊見城】市立中央公民館の敷地内に交流広場が完成した。市が厚生労働省の少子化対策事業の補助を受け、「世代間交流の場に」と屋根や夜間照明付きの広場を設置した。二十六日に行われた落成式には市職員や市民が集い、新しい憩いの場の完成を喜んだ。
 広場は約541平方メートルと、ゲートボールもできる広さ。すでに子供たちのエイサーの練習などに利用されている。雨天や夜間にかかわらず活動できるとあって、多目的な利用が期待されている。
 式典ではテープカットの後、金城豊明市長が「心豊かな豊見城を実現するために造られた。積極的に活用し、世代間の交流が活発になることを願う」とメッセージ。
 保栄茂子供会の当銘咲絵さん(小六)が「ここでエイサーの練習ができると思うとわくわくする。大切に使ってたくさんの思い出をつくります」と期待した。
 式典終了後は照明がともった広場で祝賀会が行われ、公民館で活動している団体が歌や踊りを披露した。 (写図説明)交流広場完成を記念しテープカットが行われた=市立中央公民館内交流広場(略) 沖縄タイムス<2002年4月29日> 朝刊 
○浦添市前田に新公民館
 【浦添】浦添グリーンハイツ自治会(与那城清会長)の公民館がこのほど前田に完成し、28日住民らが多数集まって落成を祝った=写真(略)。
 同自治会では1979年に建設した集会所を使用してきたが、老朽化に伴い、昨年から建設工事を進めてきた。
 新公民館は鉄筋コンクリート1階建て。集会室をはじめ、学習室や料理実習室、保育室など、子供からお年寄りまで利用が可能。落成式で与那城会長は「公民館を自治会活動の拠点として有効に利用していきたい」とあいさつした。 沖縄タイムス<2002年5月3日> 朝刊 

○米軍統治下の暮らし振り返る/南風原文化センター
 【南風原】南風原文化センター(大城和喜館長)の第42回企画展「写真に見る南風原・あの日あの頃(ころ)」が南風原町兼城の同センターで開かれている。本土復帰までの戦後の町民の暮らしの移り変わりを写真で振り返っている。
 同展は50年前にサンフランシスコ条約が発効した4月28日に開幕、復帰の5月15日まで開催する。米軍政府時代に沖縄が「得たもの」「失ったもの」を見詰め直そうと企画された。
 展示されている写真は、照屋栄松さん=同町神里=ら町民や、山田實さん=那覇市=が撮影した約250点。農作業など共同作業で人々のきずなが結ばれていた時代をほうふつとさせる場面が切り取られている。写真と一緒に当時の暮らしを思い出させるミシン、弁当箱などの生活用品も展示されている。
 入場無料で休館日なし。展示時間は午前9時から午後6時まで。問い合わせは同センター098(889)7399へ。 写真説明:戦後の町民の暮らしの移り変わりを振り返っている(略)琉球新報 <2002年5月3日>

●【おきなわ短信】(23)<台風のすき間をぬって出版パーティ> 南の風904 2002年7月15日
 新本『おきなわの社会教育』が世に出て、やけに台風がやってきます。これまでにないフットワークで、琉球列島をキャラバンする出版報告会そして名護・全国集会プレ集会のスケジュールが動きはじめたのに、沖縄に渡る日が台風6号の余波をうけ、いま沖縄本島から石垣に移動する日に大型台風7号(955ヘクトパスカル)の直撃にあい、那覇のホテルから動くことが出来ません。上記・鷲尾メールのように、14日の那覇から石垣へのすべての飛行機が欠航。いま沖縄本島内の路線バス、海と空の便、すべてが止まっています。すごい風です。
 明日予定の石垣の出版パーティに果たしてうまく出席できるかどうか、心配です。東京から参加の私たちはすでに予約席は消滅し、空席待ち整理券のみ、名護実行委員会からの中村誠司さん(名桜大学)は午前11時の席をお持ちだそうですが、それまでに台風一過となって、飛行機が飛んでくれるかどうか。

 ところで13日の名護・出版パーティ(名護市中央公民館、17:00〜)は、印象深い盛大な会となりました。東京からエイデルの新開英二さんと小林夫妻、九州からは松田武雄さん(九州大学)と小林平造さん(鹿児島大学)、隣の与論島からは赤崎隆三郎さん、浦添市内間の青年会のの皆さん、そして平良宏さん(大宜味村喜如嘉)や島田隆久さん(国頭村奥)など久しぶりヤンバルの皆さんと名護の方々。
 102歳の長老あり(全国集会・高齢者の分科会で報告予定)、北部地区医師会病院長あり(東大・宮原研究室出身の医師・宮田道夫さん)。
 ぶんじんは、短かく次のようなご挨拶をしました(概略)。
1,四半世紀にわたる名護との交流のなかでも、この日の集いはまことに印象的、いつまでも忘れない。
2,70名ちかい執筆者が一人の脱落者もなく、ほぼ予定通りのスケジュールで刊行できたことに驚いている。8月末の第42回社会教育研究全国集会・準備に活用してほしい。
3、本の評価は読者によってこれから定まってくるだろうが、編者としては、「おきなわの社会教育」の現在を俯瞰するこれまでにない本が出来たのではないか、歳月を経てもきっと価値を失わないだろう(と期待している)。
4,これまであまり深まりをみせなかった沖縄と本土の社会教育の対話と交流を深める本にしてほしい、沖縄から日本の社会教育に向けてのメッセージをよみとってほしい。
5,もちろん課題は少なくない。
6,これからの沖縄社会教育の、活力ある展開の大きな契機となってほしい。

●【おきなわ短信】(24)<取り返しのつかないミス>南の風905 2002年 7月16日
 7月8日夜、新本『おきなわの社会教育』(公式発行日は7月31日)が刷り上がってもう1週間。毎日、時間があれば飽かずページをめくっています。本を創ったものが共通に味あう醍醐味・・・とも言えましょうが、実は不安と緊張のひととき。どこかにミスはないか、各章の見出しは適切だったのか、本編と資料編の関連如何、目次に間違いはないか、索引はどうか、などなど。
 いまはデジタル・入力になりましたから、単純な誤植は少なくなりました。しかし、やはり落し穴はあるもの。本が出来上がって初めて発見するミスが出てくると、天を仰いで嘆息! 活字になって世に出た以上、取り返しがつかないのです。
 こんどの本では、この四半世紀にわたる「沖縄社会教育研究会」の記録を(沖縄も東京も、いくつかの曲折のあと結果的に)収録することが出来ませんでした。しかし歳月を重ねてきた歩みです。4月の編集会議、たしか中村誠司さんの発言だったかと記憶していますが、巻頭の第1章(ぶんじん執筆)に東京と沖縄の“研究交流史”を付してはどうか、ということになりました。
 紙数はあまりなく、短い文章にまとめなければなりません。しかし当然のことながら記録に間違いがあってはならない。第1章に急ぎ書き足す作業をしましたが、わずか2ページを書くのに、かなりの時間を費やしました。
 沖縄研究の初期、現地研究調査(科研費)の事務局長・当間(名城)ふじ子さんからは、「先生、最初からのメンバーを書き忘れてはなりませんよ」「△△さんを入れるように・・」などと助言をうけました。再校ゲラで確かに△△さんは追加しました。
 これで万全だ、簡潔ないい記録が出来た、などと思って、最終ゲラ読みの夜など、あとは本の出来上がりを待つのみ、新しいワインのコルクを開けて、乾杯したものです。
 沖縄へ発つ日、台風6号の影響をうけて、那覇到着は1日遅れの12日となりました。沖縄へのフライト、飛行機が大きく揺れて、急に悪い予感がしました。その直後の“発見”でした。悪夢の瞬間。大事な人を書き忘れていたのです。おきなわ側研究会の永年勤続表彰ものの事務局長・玉那覇正幸さん(宜野湾市教育委員会文化課長)のお名前が抜け落ちていました。
 あわせて研究会初期からの主要メンバーである東武さん(もと沖縄県青年団協議会々長)や田場盛順さん(同)など中頭青年会の猛者たちや宮城英次さん(もと県社会教育主事)の記述も欠落! 何たることか!
 取り返しのつかないミスとは、まさにこのこと。本の活字はいつまでも残りますし、また残ってほしいのに、研究交流史のこの部分には大きな欠落があったのです。これを補う次の本を作らなけらばならない!
 玉那覇正幸さんとは、旅行中ということもあって、まだ電話でアクセス出来ず、きちんとしたお詫びの機会がありません。宜野湾や中頭地区をもう大きな顔をして歩けなくなりました。

●【おきなわ短信】(25) <難民から賓客へ> 南の風906号,7月17日 
 7月14日、台風7号に見舞われて那覇滞在を強いられた私たちは、「空席待ち整理券」だけを頼りに、15日早朝から空港につめかけました。ホテルで朝食もとらず、なんとか石垣に渡り、この日予定されている出版祝賀会・全国集会プレ集会に出席したい思いからです。
 台風・欠航明けの那覇空港は、まさに“難民”の群れ。私たちもそのなかに立ちすくみ、気を取り直して列に並び、ひたすら忍の一字。若い元気な連中のなかの年寄りは、同じ難民のなかでもとくに惨めです。気を取り直して、やっと石垣行きのチケットを手にしたときは正直ほっとしました。機中でようやくサンドイッチにぱくつきました。
 そして、石垣空港で渡慶次賢康さんに迎えられ、「よくいらっしゃいました!」の一言からは、文字通り賓客になった気分。中村誠司さんも到着。二人で沖縄本の出版報告会と名護集会呼びかけを無事済ませたあと、夜は石垣グランドホテルで「小林夫妻を囲む交流の夕べ」が開かれ、旧知の方々、八重山の若い社会教育関係者が(驚いたことに与那国からも)多数集まってくださって、感激の夜となりました。
 16日朝は、初めての小林富美のために竹富島へ。上勢頭芳徳さんから連絡がいったらしく、久しぶりに前本(旧姓、鈴木)多美子さんも帰路の埠頭にかけつけてくれて、再会を喜びあいました。
 16日午後は、宮古空港で、下地達男さん(城辺町、元社会教育主事、現在は建築課長)に迎えられ、宮古地区社会教育主事協会の定例会(私たちのために急遽開いてくれた)に出席。いい本が出来ましたよ(小林)という話と、名護集会へどうぞお出かけ下さいよ(中村誠司さん)の呼びかけをしました。
 これで今回の「琉球列島キャラバン」日程はめでたく終了!いやその後には、宮古の夜の歓迎「お通り」が待っていて、今やや二日酔い気味ながら、爽快な朝を迎えています。
 誠司さん、そして富美・ぶんじん、お疲れさまでした。

●【おきなわ短信】(26) <八重山へのキャラバン記事(八重山日報・八重山毎日新聞より)>

   (南の風909号 (2002年7月23日)
○「地域を見つめ直そう」
 小林文人氏来島、沖縄の社会教育を語る
 沖縄の研究に携わってきた小林文人東京学芸大学名誉教授が石垣市へ来島し、15日に大浜信泉記念館で小林教授を囲む社会教育関係者の研修会呼び交流会が開かれた。
 小林教授は、名護市で8月30日から3日間の日程で開催される第42回社会教育研究全国集会 沖縄・名護集会(同実行委員会、社会教育推進全国協議会主催)に先駆け、自身も著者の一人である『おきなわの社会教育−自治・文化・地域づくり』(エイデル研究所)刊行の報告などに訪れたもの。
 15日の研修会で小林教授は「戦後、何もないところから自分たちで何とかしなければならなかった沖縄では、字公民館の活動などに代表される地域の自治的な取組みが展開。こうした取組みは“生涯学習”の原点とも言うべきもので、都市部で“地域”が失われつつある現在、見つめ直されるべき」など、沖縄の社会教育がもつ歴史の独自性や重要性について語った。
 社会教育研究全国集会が沖縄の地で開かれるのは初めてのことで、今回は「ジンブンよせあって、21世紀の自治・文化・地域を創ろう」をテーマに「集落の自治と文化」など六つの課題別学習会と「字の伝統と現代の子どもの育ち」など22の分科会が開かれ、それぞれの部会で市民団体などが事例発表を行う。
 同集会の問い合わせは名護市教育委員会社会教育課(電話0980−53−5429)まで。写真=社会教育関係者等の集い(略)  (八重山日報、7月16日)
○「沖縄らしい社会教育を」 小林文人氏が講話
 8月30日から9月1日の3日間に名護市で開催される「第42回社会教育全国集会沖縄・名護集会」(社会教育推進全国協議会主催)を前に15日、主催者側の小林文人氏、中村誠司氏が大浜信泉記念館で石垣研修会を開いた。
 同名護集会は、「ジンブン寄せ合って21世紀の自治・文化・地域社会を創ろう」をテーマに開催される。
 石垣集会では郡内の社会教育関係者を対象に、小林氏や中村氏が同沖縄・名護集会開催の意義や、小林氏等の著作「おきなわの社会教育」の発刊に当たって講話を行った。
 その中で小林氏は戦後の沖縄の社会教育の流れについて触れ、「沖縄がいかに本土化していくか、という社会教育ではなく、沖縄の独自性をふまえ、沖縄的な活力を生かしていくべきだ」と述べた。
 その具体例として、「県内に800を超える字公民館の存在など、本土の社会教育の在り方に対し、ある種のメッセージがあるのでは、と感じられる」と述べ、沖縄らしい生涯学習のあり方について講話した。
 写真ー沖縄の社会教育のあり方について講話する小林氏(略)  (八重山毎日新聞 7月18日)

●【おきなわ短信】(27) <全国集会に向けて、琉球列島キャラバンの報告>

                  公民館の風318号,2002年7月24日
 社全協運動で、かって「キャラバン」の試みがあった。小川利夫さんが委員長で、私が副委員長のとき、瀬戸内・北九キャラバンの旅など想い出される。福山、山口(宇部)そして北九州をまわって、地域の状況を語り合い、全国集会への呼びかけをしたのはもう十五年ほど前のことだろうか。
 今年の名護・全国集会に向けての本づくり『おきなわの社会教育』編集のひととき、ビールの座で「本ができたら琉球弧の島々をキャラバンしよう」と話したことがあった。島袋正敏さん(名護市教育委員会)はこの一言を憶えていて、六月初旬の最終ゲラ読み中、琉球列島キャラバン計画を持ち出した。横にいた中村誠司さん(名桜大学)もすぐ同調し、私もその挑発にのって、その場で日程案が出来上がった。
 地図を見ていただきたい。九州から台湾へ連なる琉球弧の島々は長い列島である。海をこえるキャラバンの試み。少なくとも四地点(南から八重山、宮古、沖縄本島の那覇、名護)を設営する必要があるだろう。その夜、旧知を頼ってそれぞれの地点に電話し、キャラバン計画への協力をお願いした。
 社全協常任委員会や全国集会担当の皆さんに相談する余裕もなく、計画は進行することとなった。全国集会呼びかけという趣旨からも七月中旬にはキャラバンを実行したいこと、それまでになんとしても沖縄本の刊行を実現すること、エイデル研究所の協力もお願いし、キャラバンの呼びかけは名護・全国集会実行委員会と『おきなわの社会教育』編集委員会、というかたちになった。
 本は、脱兎の勢いで最終作業を終え、めでたく7月8日夜、刷り上がっ
た。直ちに沖縄に直送。7月11日那覇(沖縄県青年会館)、13日名護(名護市中央公民館)、15日石垣(大浜信泉記念館、石垣グランドホテル)、16日平良(平良市中央公民館)で開催された。13日名護の集い
には、エイデル研究所・新開英二さん、九州大学の松田武雄さん、鹿児島大学の小林平造さんも駆けつけていただいた。
 しかしこの時期は、台風6,7,8号があいついで来襲した。私は台風6号の影響で那覇の集いには間に合わなかったが、その後はなんとか海を越えて、八重山にも宮古にも渡ることができた。先島には名護から中村誠司さんが同行された。参加者は、順に30名弱(台風の影響?)、40名強、30名強、20名強。新しい方々との出会いもあり、大成功だったと喜んでいる。 (社全協通信181号、7月24日号、に送稿)

■【おきなわ短信】(28) <「沖縄で全国集会を!」略史・その1>
                    
(公民館の風319号 2002年7月27日)
 社会教育研究全国集会と沖縄との出会いは、1977年夏、第17回集会(福岡)である。その前年、私たちの沖縄研究がスタートし、喜納勝代さんの久茂地文庫への訪問がきっかけとなって、喜納さんだけでなく、上原文一さんや田場盛順さんなどが福岡集会へ参加した。たしか玉那覇正幸さんの顔もあった。この集会に喜納さんは大量の沖縄文献資料を船便に載せ、農中茂徳くんが車を出してそれらを港から会場に運びこんだ。会場の一角に沖縄コーナー・短歌展が開かれた。当時の写真や記録が『照干一隅』(久茂地文庫一周年記念文庫、1978年)に収録されている。
 もちろん全国集会にとって“沖縄”は初めてのことである。田場さんが大きな声で基地問題を訴え、喜納さんは宮古上布の正装で挨拶したことを憶えている。福岡の拙宅に喜納さんと上原好美さんが泊まった。その最終日から翌日にかけて開いた合同の沖縄社会教育研究会(博多会館)には、名城(当間)ふじ子さんも参加し、その後の沖縄研究の大きな展開につながっていく。
 これを契機として、毎年の全国集会には、沖縄から誰かが参加するようになった。とくに印象的なのは、1978年・茨城集会等に参加の故組原(比嘉)洋子さん(91年松本集会にも参加)や、82年の富士見集会等の名護・稲嶺進さんたち、87年・福山集会等の金武町並里の仲間政治・嘉数義光さんたち。集会二日目夜に開かれてきた“この指とまれ”では、毎年、私たちの研究会呼びかけによる沖縄からの参加者を囲む交流の集いが恒例となってきた。
 「沖縄で全国集会を!」という声が出たのは、1980年正月の沖縄訪問のある一夜であった。当時の社会教育推進全国協議会(社全協)委員長の福尾武彦さん(千葉大学)や関西の大前哲彦さんなどが一緒だった。具志頭村のヒージャー(山羊)屋の一室、たしか福尾さんが筆をとって揮毫した。横にはもちろん上原文一さんがいた。この旅では、まだ58号線沿いにあった海勢頭豊「パピリオン」で“喜瀬武原”を聴き、翌日、一緒に金武町喜瀬武原まで出かけ、小雨の公民館事務室で、海勢頭豊のギターとともに“喜瀬武原”を歌うという忘れ難い想い出がある。同行の社会教育学会事務局・藤井加代さんはあまりの感動に歌えず、泣いていた。
 この年に開かれる第20回京都集会に向けて、前夜祭のかたちで海勢頭豊コンサートの企画を提案したが、海勢頭がまだ無名?だったためか、実現しなかった。
 沖縄で全国集会を開こうという話は、その後すぐには具体化しなかった。沖縄はやはり遠い、社全協の会員も少ない、早急には無理ではないか、というのが大方の雰囲気だったと思う。そんななかで、新しい議論のきっかけになったのは、1994年(第34回)雲仙集会。この集会には、名護から島袋正敏さんたちが豚の足1本をもって参加してくれた。夜の“この指とまれ”で泡盛を飲み、豚を食べたが、実に豪勢な交流会となった。
 三日間の大会スケジュールが終わり、九州の現地実行委員会とともに「ご苦労さん!」の乾杯をした席に、沖縄からの参加者・島袋正敏さんを誘い挨拶をしてもらった。この時期、私は社全協委員長だった。
 挨拶で正敏さんは、「機が熟せば、そのうち沖縄で全国集会を開きたい」という趣旨の挨拶をした。印象的なひとときだった。(ご本人は記憶が定かでないと・・・。)
 その後、私なりに機会があれば「沖縄集会」のことを話題にしてきた。その翌年、1995年は米兵による少女暴行事件の年、沖縄への関心が沸騰し始めた時期。96年の第36回集会では、現地・埼玉関係者の想いが実り、集会の一夜、海勢頭コンサートが実現した。永年の付き合いから、私が司会をして案外と評判がよかった。この埼玉集会には、たしか中村誠司さんや組原洋さんが参加していた。(続く)

■【おきなわ短信】(29) <「沖縄で全国集会を!」略史・その2>
    公民館の風320号 2002年7月29日…承前(公民館の風319号)…
 当初、沖縄で全国集会を開催できないかという意見は、2000年開催案、会場は(とくに名護と特定せず)那覇や中頭を含めてどこかを検討していく、という構えであった。社全協・常任委員会内部でも懸案であったが、沖縄社会教育研究会関係者にとっても密かな悲願となってきた。東京でも沖縄でも折りにふれて話題となり、雰囲気はしだいに拡がってきたといえるだろう。
 しかし2002年・名護開催案が確定していく過程では、いくつもの曲折があった。1996年以降、とくに大きな展開をみせるのは1998年。私が知る範囲で、2002年開催決定にいたる主要な経過を、以下に記録風に記しておこう(瑣末なことは省略する)。
○1996年4月30日(於名護):社全協(当時)事務局長の長沢成次氏と打合せのうえ沖縄訪問。初めて沖縄各地から主要メンバー約20名に集まってもらって全国集会開催について協議。「社会教育研究全国集会・沖縄開催の可能性について(2000年・第40回記念集会案)」(小林メモ)をめぐって説明。この日、2000年開催を決定する雰囲気となり、むしろ今後の課題として検討を深めてほしいとお願いする。夜の交流会では「決定」を延ばしたことについて、酔っぱらった中村誠司さんから褒め?られる。
○同7月9日(於東京):社全協三役に、沖縄全国集会問題のこれまでの経過について説明。「沖縄・社会教育・研究交流の経過など(メモ)」を用意。この間、あたかも小林の個人プレーで動いてきたような受け取られ方があり、極めて不快。以後、あまり積極的に動かないように心がける。
○1997年〜98年にかけて、沖縄側では2000年開催案をめぐって論議。東京では沼田伊久俊氏(社全協副委員長)などの調整努力。
○1998年8月末・第38回全国集会(東京都立大学):2000年・積極開催案の故組原洋子さんなど(一家で)参加。全国委員会には佐久本全さん出席。名護を含めて慎重に意志決定すべき方向を示唆。(南の風第76号に記録収録)
○同9月18日(那覇):末本誠さん「社会教育研究全国集会神戸集会の経験と教訓」(メモ)など論議。
○同10月25日(名護):島袋正敏、中村誠司など名護メンバーと、平良研一、玉那覇正幸など中南部の皆さんが集まって、「2000年に沖縄集会ができるのか」「まずは、おきなわ社会教育研究会のルネッサンスが必要。その延長線上に全国集会があり、いつか出来る時が来る」という結論。(同席の内田和浩氏からのメール)
 「とくに、名護市の島袋正敏さんや宜野湾市の玉那覇正幸さんのお話は、骨太で芯の通った、しかも実践に裏打ちされた内容であり、沖縄の風土性や社会の仕組みが私たちの暮らすそれとの大きな違いによるカルチャーショックとも相まって、多分一生残るであろう鮮烈な体験となりました。」(同じく木下巨一氏メール)
○同9月30日付書簡、社会教育推進全国協議会・奥田泰弘委員長より、沖縄側研究会代表・平良研一氏宛、2002年の全国集会開催を沖縄へ正式に再要請。(奥田さんからの書簡)
○2000年夏、平良研一氏より2002年全国集会開催について受諾の回答。(この時期、在外研究で滞在中のドイツへ便りあり)
 この後の経過は、皆さんほぼご存知の通り。名護を会場として2002年開催への準備が進み始めることになった。以上の記録は、もちろん不充分なところあり、また誤記あるやも知れず、関係の方々で、ぜひ補足・修正していただきたい。(ぶんじん)

■【おきなわ短信】(30) <久留島武彦賞とエイサー論議> 公民館の風324号 8月6日
 ○平田大一さんが第42回久留島武彦賞を受賞 (琉球新報 2002年7月29日)
 【勝連】勝連町の子供たちへの組踊「阿麻和利」の演出や県内での演劇ワークショップの実践などを重ね、勝連町きむたかホールの初代館長を務める平田大一さん(33)が、このほど青少年文化の向上と普及に貢献した個人や団体に贈られる第42回久留島武彦文化賞を受賞。18日に東京で贈呈式が行われた。平田さんは「一緒に町おこしをする中で、子供たちの可能性が自分も含めた大人を輝かせてくれた。1人でもらった賞ではなく、皆でもらったものだ」と喜びを語った。
 小浜島出身の平田さんは和光大学卒業後、故郷に戻った。「島を鎖でなく根っこにしようと思った。根を張れば翼が持てる」と、島限定の本を出したり、詩の創作やキビ刈り援農塾の活動をしたりしていた。そのころ、島内の保育園児を対象に紙芝居を始めたのが「現在の活動の原点」と振り返る。
 「子供は苦手だったが、自分が等身大でいいということを子供から教えてもらった」と言う。その後、県内のすべての小中高校を回る「南島詩人1人舞台」を始め、現在も活動を続ける。すでに400校を回った。
 1999年、勝連町で「阿麻和利」の演出を始め、本島に移り住んだ。
演技指導を続ける中で町とのかかわりが深まり、きむたかホールの初代館長就任に至った。
 「子供と大人、民間と行政など、違う者同士を結び付けるのが、文化の力だし自分の仕事」だと言う。子供たちとの付き合いは常に真剣勝負で、「向き合うには、大人も体力が必要。力をつけて子供を肩車してあげるのが大事」と話す。
 現在の仕事については「いつも心の根っこが見詰められていて、自分はどうなんだと問掛けられる。怖くもあるし試される仕事」と笑った。
 写真説明:第42回久留島武彦文化賞を受賞した、きむたかホール館長の平田大一さん=23日午後、勝連町のきむたかホール(略)

○本来のエイサーとは?/沖縄市でシンポ  (沖縄タイムス、2002年8月1日 朝刊)
 エイサーをめぐって熱い議論―。沖縄の夏の風物詩、エイサーが全国的にブレークするなか「本来のエイサーとは何か」をテーマにしたシンポジウム(主催・市青年団協議会)が30日夜、沖縄市民小劇場あしびなーで開かれた。道化役不要論が飛び出し、青年会活動を続ける上での悩みも出された。
 冒頭、四人のパネリストがそれぞれのエイサーとのかかわり、思いを語った。その中で沖縄全島エイサーまつりのテレビ解説者を務めている比嘉常俊さんが、隊列の間を練り歩く道化役のチョンダラーについて「本来はなかった。下品なアカサナジャーは伝統の品位を汚すもの。やめてほしい」と発言したことから一気に議論が白熱した。
 「そんなふうにガチガチに伝統をとらえてしまうと若者はエイサーから離れていってしまう。まず楽しむことが大切。伝統だけでは、感動は与えられない」と沖縄市芸術監督の玉城満さんが応酬。「エイサーの勝負は手踊り。伝統を失ったら破壊だ」と比嘉さんも譲らなかった。
 エイサー会館館長の仲真良彦さんは「青年会には目立ちたがり屋が多く本来の意味も分からずにやっている人が多い」と指摘。コーディネーターの崎浜秀嗣市観光協会事務局長は「チョンダラーはエイサーを知り尽くしたベテランの役目だと認識されている」と現状を話した。
 議論は青年会エイサーの活性化には何が必要かに発展。琉球国祭り太鼓を創設し、世界に広げた目取真武男さんは「若者が何を求めているのか。何に感動するかを見極める必要がある。演技より友達ができるということが大事だ」と持論を披露した。
 「青年会活動はエイサーだけではいけない。それ以外に二つぐらい、一年中友達でいられる仕掛けが必要。先輩だけでなく地域との交流も大事だし、環境も問題。住宅密集地では周囲に迷惑を掛けないよう音響学を勉強する必要があるかも」といった意見も。主催者では、シンポをシリーズ化したいとしている。





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