小林富美さんの元気なお顔を見られなくなることは信じられない思いです。
小林富美さん、あなたは、昭和42年から平成29年の50年間の長きにわたり、東京農工大学の卒業生や教職員とのご厚誼を続けておられました。その様子は、在学生、卒業生、教職員が作ります「化工会誌」の中にたくさん綴られています。その記事をご紹介しながら、お元気だった頃の小林富美さんの姿を本日の参列者とともに偲びたいと思います。
小林富美さん、農工大を退職される前の年に発行された16号でのあなたが書かれた「化学工学科との25年」の記事を覚えておられますか。そこで次のように話しておられます。
「時の流れは夢の様です。私は来春で長年お世話になりました化学工学科とお別れすることになりました。この間、多くの先生方、職員の皆様、1000名に及ぶ卒業生の皆様方に心からのお礼を申し上げます。
私が農工大・工学部に参りましたのは、昭和42年6月でした。現在の4科棟は建設中でした。そこで、とりあえず主任をされていた松本先生の部屋に同居させていただく形で、私はスタートさせていただきました。現在の4科棟3階の化工事務室に落ち着くことができたのは、昭和45年だったと記憶しています。
構内の道路は未舗装でした。雨が降れば雨靴がなければ歩けない…今の学生さんには想像もできないと思います。
花見の時期ともなれば、学内の満開の桜が十分に私たちを楽しませてくれますが、これも学内美化に力を注がれていた村田先生のご努力と長く記憶にとどめたいと思います。
乙武先生や諸先生のご努力により、工学部にドクターコースが誕生し、それに伴う学科の改組がありました。旧制度の化学工学科の卒業生が巣立たれるこの年に、私もご一緒に卒業いたしますことは、偶然ではありますが、奇遇と言われても仕方ありません。私も今までの元気を持続いたしまして、先生方、職員の皆様、多くの卒業生との出会いを一生大切な思い出とさせていただきたいと思います。」
このように、あなたは、周りの人への感謝の思いを抱きながら、3階の化工事務室に集まる学生や教職員に対して明るく心和む笑顔で接してくれました。
この16号には42名の卒業生の方から小林さんに対するお礼の気持ちの言葉が寄せられています。その中のいくつかを紹介します。
「私たちにとって、化工事務室は唯一の安住の地でした。これも小林さんの人柄でしょう。嫁さんを紹介してもらったり、入院見舞いに来ていただいたり、お世話になりっぱなしでした。51年卒 和田文夫」
「大学生活での良き思い出は、小林さん抜きではあり得ない程。在校時、卒業後、とても存在感の大きかった小林さん。ずーと我々の母親代わりに親身に接していただき、誰からも慕われ、頼りにされていた小林さん。長い間お世話になりありがとうございました。52年卒 澤井伸一」
「いつも少女の雰囲気が漂う白衣の天使というイメージの小林さんが定年とお聞きして驚いています。笑顔がとても印象的でした。46年卒 東島嘉夫」
「在学当時、化工事務室に一番近い松本研究室に在籍し、事務室に頻繁に出入りしていた我々二人にとって、そこの主である小林さんは、学校でお母さんという存在でした。たまに顔を出す我々卒業生を明るく迎えてくださる小林さんがこの春を持って退官されると『おっす!』という感じで気楽に学校に来れなくなる気がするのは私たちだけではないと思います。52年卒 堀米良夫、佐藤恭司」
「最初の出会いの時、小林さんの一人息子、宏さんは幼稚園生。一緒に遊んだかわいいヤンチャ坊主が今社会人3年生の青年宏さん。自分自身に照らしても時の移り変わりの早さを感じます。唯、時が止まったように感じるのは小林富美さんの印象。あのおかっぱ頭。若々しい笑顔。変わらぬ饒舌…いつまでも変わらないでほしい。49年卒 角井康雄」
「卒業後、何かにつけ、お邪魔した化工事務室で、昔と変わらず学生諸君と接しておられる小林さんを垣間見るにつけうらやましく思い、我々仲間の昇進に子供のように喜ばれ、退職を自分のことのように心配してくださる小林さんが、可愛らしく思えてなりません。私はそんな姉のような小林さんとお会いできるのが楽しみで、何の違和感もなく化工事務室のドアをノックしていたのですよ。52年卒 石井伊知郎」
このように、25年間の在籍中は在学生や卒業生が3階の化工事務室に集まり、毎日充実した日々を過ごされていました。退職されてから今までの25年間も、各年度の同期会に招かれて卒業生との交流は続きました。
5年前の平成24年には、小林さんの80歳の傘寿(さんじゅ)のお祝いを小金井キャンパスにある創設140周年記念館で行いました。学科創設期から退官されるまでの卒業生25名が集まりました。その写真は、参列されている皆様がお持ちの思い出の写真に元気な姿として見ることができます。そのころは、杖が必要ではありましたが、元気な笑顔と饒舌なお話は変わりませんでした。その時の話もたくさんあり・・・・
いつまでも思いはつきませんが、我々東京農工大学の卒業生ならびに教職員に対する小林富美さん、あなたの常に変わらぬ笑顔と愛情あふれたご厚情に対し、心から感謝の意を表し、御冥福をお祈りしたいと思います。
どうか、安らかに眠ってください。
平成29年5月15日
東京農工大学の卒業生と教職員を代表して 亀山秀雄
▲小林富美さんを囲む忘年会(東京農工大学40周年記念会館、2012年12月22日)
1-(2) おばあちゃんへ
小林 真由香 (2021年9月)
私が、おばあちゃんのお葬式でお別れの言葉を述べてから、約4年が経ちました。大学生の今の私の気持ちを書いてみようと思います。まず、真由香は、大学4年生になりました。あと半年で卒業です。無事に就職先も決まり、来年の4月からは社会人になります。
実は、おじいちゃんとおばあちゃんが大学に勤めていて、教育関係の仕事をしていたことは知っていたけど、おばあちゃんが元気な頃、私はまだ大学生ではなかったので、あまり深く考えたことがありませんでした。自分が大学生になり、自分の祖父が大学教授で、祖母も大学に勤めていたということを実感し、誇らしく思ったし、ただただ素直に すごいなと感じました。
また、おばあちゃんは旅行が好きだったイメージがあります。私も大学生になってから、家族とではなく、自分たちで旅行に行く楽しさを知り、旅行が大好きになりました。
今おばあちゃんが元気でいたら、以前よりももっとお互いにお話して、旅行もできるのではないかなと思います。 私の大学生活の話をしたら、どんな風に聞いてくれて、喜んでくれるかな、とても気になります。
私の大学生活は、人との出会いに恵まれて、とても幸せな大学生活になりました。
現在は、コロナウイルスの影響で、精神的にも身体的にも大変な世の中です。そのような中で、おじいちゃんも私たち家族も無事に健康に過ごせています。このまま、全員が何事も無く、健康で過ごせるように、見守っててね。
▲2004年正月、二人の孫・夏希と真由香(右)と (文人写す)
2,小林富美さんを悼む、七月「偲ぶ会」記録・・・・→■
ー「南の風」記事 (2017年5月〜7月)
3, ドイツを歩く(2005年6月、ぶんじん同行)記録 →■
はじめて二人でドイツを旅した記録。ぶんじんのハンブルク・アルトナーレ市民祭への
参加が主な目的でしたが、すぐにベルリンへ移動。ツオ駅前に投宿してドイツ各地(ワ
イマール、ドレスデン、ニュールンベルクなど)を歩きまわりました。富美は骨折入院後、
退院1か月での訪獨でしたが、よく歩きました。ベルリンでは大戦後60年記念の催しが
ブランデンベルク門などで開かれ、瓦礫の展示に一人で立つ富美の写真等をご覧下さい。
本ページ冒頭の笑顔写真も訪獨中の1枚。博覧会が催されていたハノーフアの市庁舎横
でビールを飲むスナップ。この写真から笑顔だけ編集して告別式写真としました。 (ぶ)
4,写真・・・七夕・新年会・二次会、油山 (アルバム)→■
・・・告別式配布写真(江頭作成)ほか
▲2002年1月、和光大学最終講義の夜、花束・・・
5,小林富美・略年譜
1931(昭和 6)年 11月 2日 父・坂口静夫、母・英の長女として北海道・ 旭川に出生
*父の任地にしたがい東京・京都・福岡・久留米・善通寺(父・師団長)等を経て、1945 年後は熊本(玉名)へ
1951(昭和26)年 熊本県立玉名高等学校・卒業、 活水女学院(英文科)入学
1953年 同学院卒業、九州大学教育学部研究室(研究補助員)
1954年〜 1962年 九州大学総長室(学長秘書)
* 1960年12月 小林文人(九州大学教育学部助手)と結婚
1962年〜 1964年 東京大学物性研究所(所長秘書) ◇文人(日本育英会〜)
1964年〜 1967年 九州大学工学部合成化学科(研究室勤務) ◇文人(九州産業大学〜)
* 1964年9月 長男・宏、出生
1967年〜 1992年 東京農工大学工学部・化学工学科研究室勤務 ◇文人(東京学芸大学〜)
*この間、大学教職員組合(ダコセ)活動に参加
中国語学習会(講師:韓民、朱浩東など)主宰
1986〜7年、イギリスへ (文人・在外研究)
*福岡油山に別宅(大学退職後の用意として)建設
1992年 東京農工大学定年退職、三井信託銀行(当時)参与 ◇文人(1995、和光大学〜)
2003年 同社退職
*退職後、2004年・転倒事故あり圧迫骨折、大腿骨々折など相次ぎ次第に足腰を弱めた
2005年〜ドイツ(別掲■旅行記)、イタリヤ、2000年〜中国(煙台)、沖縄(名護)等訪問
この間、初孫・真由香、次孫・夏希、出生(船橋在住)
*2012年夏 胆管結石のため緊急手術(3回)・入院加療が重なり加えて認知症の症状も
次第に介護が必要となる 福岡油山・老後生活の楽しみは夢に終わった
*2015年 要介護4 の状態 東京永福の自宅で「老々介護」の生活が続く
2016年7月23日、 嘔吐・下血の症状激しく緊急入院、その後は病院生活と なる
敗血症・多臓器不全の状態をかかえての闘病生活は9ヵ月余り
2017年5月10日 永眠(心不全)、享年86歳
▲永福駅前・馴染みの寿司屋にて三人 (20110912、堀尾正靭さん写す)
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