識字・基礎教育研究   トップページ

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<目次T−識字調査・夜間中学> (
1990〜2016 小林文人

1,国際識字10年と日本の識字問題(まえがき) *未入力
  自治体社会教育と識字実戦の課題 (森山沾一と共同執筆)
      
(日本社会教育学会年報第35集『国際識字10年と日本の識字問題』東洋観、1991年)
2,東京の識字実践・1992−第二次調査マップ調査報告−すこしながめの
  巻頭言
  東京学芸大学社会教育研究室(1992年)
3,東京の識字実践−識字マップ調査報告1992
 (内田純一・梶野光信と共同執筆)
        
  東京学芸大学紀要第44集(1993年)
4,東京の識字実践−92年から94年へ・第三次調査マップ調査報告−まえがき
          
東京学芸大学社会教育研究室『東京の識字実践・1994』(1995年)
5,三多摩の夜間中学−識字実践の歩み(別記)→■
     
東京都立多摩社会教育会館『戦後三多摩における社会教育の歩み』Y、(1993年)
6,民族共生の地域づくりと社会教育・展望(第40回社会教育学会・課題研究)
              日本社会教育学会紀要NO,30 (1994年度)
日本社会教育研究における識字問題と識字実践
           
第42回社会教育学会研究大会・報告メモ、1995)
8,
夜間中学の実践に学ぶ−識字と人権の視点から 
                       
和光大学人間関係学部紀要1号(1997年)
9,韓国・文解(識字)教育運動が問いかけるもの   
            
韓国社会教育研究会『99韓国訪問報告書』(東京学芸大学、1999年)

     *関連・韓国文解教育協会講演(1999年)→■
10,義務教育に相当する学校教育等の環境の整備の推進による学習機会の充実に関する
  法律案(義務教育等学習機会充実法案)について 
            
全国夜間中学校研究会(第56回全国夜間中学校研究大会(2010年12月2日)*未入力
11,人権の視点から識字実践を
                 (東京都夜間中学校研究会50年誌、2011年) →■(別ページ)
12,
夜間中学校問題についての意見書(東京−2012、横浜-2013)

13,
基礎教育保障学会設立総会リレートーク・「社会教育研究の立場から」(2016年8月)




<目次U−基礎教育学会(仮称)構想・記録 (2014〜2015)→■ (別ページ)
1,基礎教育学会(仮称)懇話会−経過メモ
2,基礎教育の概念・文献資料など
3,学会への模索・懇話会など−いくつかの回想・記録 (「南の風」記など・未入力
4、



 関連
<目次V−韓国・文解教育>

〇文解基礎教育基本法案                訳・解題
 李正連 →■
    
(「東アジア社会教育研究」第15号、2010年)


<目次W−中国・掃盲教育>
1,

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1,国際識字10年と日本の識字問題・まえがき 
  自治体社会教育と識字実戦の課題 (小林文人、森山沾一と共同執筆)
   (日本社会教育学会年報第35集『国際識字10年と日本の識字問題』東洋観、1991年)
                                   *未入力




2,東京学芸大学社会教育研究室(1992年)
  『東京の識字実践・1992−第二次識字マップ調査報告−
  
〈すこしながめの巻頭言〉
  “内なる識字問題”への挑戦−東京の識字実践(第二次)調査−  小林 文人
                    
 大阪と神奈川の識字マップ
 今回、私たちがふたたび「東京の識字実践−識字マップ調査」に取り組むに至った経過をふりかえってみると、この間に三つぐらいの重要な背景があったように思われる。
 第一は、なによりも1990年の国際識字年の動向である。この年、識字問題にたいする日本の一般的な対応は、この問題は主要には第三世界の国々に関することであって日本ではすでに解決ずみのこと、したがって募金キャンペ−ンや財政援助など、いわゆる外に向かっての国際協力の努力をすすめるという方向が支配的であった。しかし、夜間中学の調査分析や関西の被差別部落の識字学級の歴史などに研究関心を抱き続けてきた「社会教育演習」(小林ゼミ)のなかでは、外への国際協力の姿勢だけではなく、日本の“内なる”識字問題にどう迫るかという視点が忘れられてはならないのではないか、日本の識字問題をふまえてあらためてパウロ・フレイレを読もう、などといったことが議論されたことを思い出す。
 私たちの研究室では、これまでも毎年かならず東京の夜間中学の教師(たとえば見城慶和氏など)を招いて貴重な実践の報告をお願いしてきた。自主的な研究会のなかでも、できるかぎり被差別部落の文献や「差別と人権」に関する記録・映像などを通して、識字問題を考える機会をつくってきた。それだけに1990年国際識字年にあたって、「国際識字年推進中央実行委員会」や関西では同「推進大阪連絡会」などが組織されて、積極的に「日本の非識字」問題に取り組む「行動計画」などが策定されたことは、ある意味で救われた思いであった。
 なかでも国際識字年推進大阪連絡会編『読みたいねん・書きたいねん』(1990年)のなかに示された大阪の識字マップ「一人じゃない・仲間がまっている」の一覧は私たちにとって極めて刺激的なものであった。また同じころ神奈川県国際交流協会による「かながわ識字プロジェクト」が作成した『ことばのちず』は私たちの心をゆさぶった。インドシナ難民ほかさまざまの在日外国人をふくめて日本の内なる識字問題への心暖まる取り組みが、この一枚の「ちず」に凝縮されていた。社会教育ゼミの有志で横浜・海外通りにある神奈川県国際交流協会を訪問したのも、この「ちず」や「民ちゃんシリ−ズ」など意欲的な仕事をされている人たちに会いたいためであった。
 それでは、首都・東京ではどうか。どんな実践や運動が始まっているのだろう。私たちは、新聞の切り抜きをはじめたり、個別の断片的な情報などを集めはじめた。そして「東京の識字マップ」のようなものを作成できないか、と話しあったのである。

 第一次・東京識字マップ調査
 第二には、日本社会教育学会が毎年刊行する『年報』(第35集、東洋館、1991年)の特集テ−マとして『国際識字10年と日本の識字問題』を取り上げたことが重要な契機となった。これはもちろん国際識字年に対応した企画であった。日本の教育関連学会のなかでは、他に識字問題と真正面からとりくんだ紀要・年報はなく、学会レベルとしては「いまのところ日本社会教育学会が唯一であろう」(同「まえがき」)という状況であるだけに、年報編集委員会(委員長、小林)の意気込みも相当なものであった。
 このなかで小林は「自治体社会教育と識字実践の課題」を担当・執筆している。民間のボランタリ−な識字実践・運動だけでなく、公的な社会教育として一体どのような識字問題にたいする挑戦があるのか、その動向なり実態をできるだけ把握し、課題も明らかにしてみようというのがねらいであった。
 第一次識字マップ調査は、この論文の一部「東京の識字実践」実態把握の作業として、東京学芸大学社会教育ゼミの院生・学生の協力を得て行なわれた。東京二三区と三多摩の全自治体について分担し、主に教育委員会社会教育課の関係者からの聞き取りによって識字マップが作成された。すくなくとも公的な社会教育としての取り組みの実態はある程度明らかになるだろうと考えた。調査時点は1991年6月現在である。
 その詳細については同年報(162〜4頁)を見て頂きたいが、主な結果だけを あげれば次の通りある。(1)把握できた識字実践は、公立夜間中学8、自主夜間中学2、公的機関(外郭団体等を含む)32、民間団体31、であった。(2)公的機関・民間団体両者をあわせれば、全体の三分の二強の自治体で何らかの識字実践が行なわれている。そのうち公的機関によるものは約半数である。(3)しかし公的機関の果たす役割はまだ不十分であって、(夜間中学を除けば)何らの識字教育の窓口も開いていない自治体は、全体の6割をこえる。(4)夜間中学を別にして計63学級のうち、大多数は在日外国人(いわゆるニュ−カマ−の人たち)のためのものであって、“内なる”日本人(非識字者)に開かれているものは、中国帰国者向けの学級が15、それ以外(障害者など)4、にとどまる、などである。
 この調査の精度は必ずしも高いとはいえないが、それでも(とくに公的機関については)一応の傾向は明らかになったと思われる。しかし地域の民間ボランテイアの活動レベルにまでおりて調査すれば、もっと新しい実践や運動があるに違いないと予想される。また作成した調査マップが配布され(同じく『年報』が刊行され)た後、研究室にはいくつもの問い合わせが寄せられた。しかしわれわれの調査は各実践についての詳細な情報を細かく収集し得ていない。この問題についての関心の深さを実感するとともに、次の段階の新しい調査の必要を、すでに調査を終了した直後から、痛感したのである。

 潮流としての識字実践
 東京識字マップ調査は1991年6月現在の集計・作図であったが、その時点で「日本語講座・開設準備中」とか、「秋から計画を具体化する」とかの情報が相次いで舞い込んできたことが印象的であった。ちょうど潮の流れのような勢いで識字実践の努力が各地で始まっていること、そしてその流れは大きく動いていること、この状況が私たちが今回の調査に取り組むに至る第三の背景であった。なかには私たちの第一次の識字マップ調査の問い合わせ、聞き取り活動に刺激をうけて、自治体としての識字実践の事業が計画されはじめる(北区「日本語教室」など)という嬉しいニュ−スも聞いた。
 三多摩地区では、東京都立多摩社会教育会館(市民活動サ−ビスコ−ナ−)が各地の市民グル−プやボランテイア−活動の情報をあつめ、交流のつなぎ目となって、識字実践をふくむ「国際交流」のネットワ−クづくりに一役かう貴重な仕事をはじめた。「多摩の各地で国際交流に取り組んでいる市民グル−プや個人が、情報や経験を分かち合いながら、活動を活性化しょう」というねらいで「三多摩国際交流ネットワ−ク」も発足した(1992年8月23日、読売新聞など各紙・多摩版が報道)。第1回の交流会には28グル−プと個人参加をふくめ計66人が集まったという。
 戦後の社会教育実践のあゆみを振り返ってみると、それぞれの時代的背景のもとで、いろいろな新しい実践が胎動してきている。たとえば1950年代の青年の学習や婦人学級、60年代の市民大学や消費者運動、70年代の公民館保育室や障害者学級、80年代の高齢者のための事業や各種交流活動、などあげられよう。新しい実践が提起され具体化されていく経過には、かならずそれを求める時代的・社会的要因があり、そして実際にその実践を担う教育委員会や公民館など公的社会教育(職員)の側の知恵と努力が存在していた。
 しかし1980年代の後半(それにいたる前史もあるが)から始まり、主要には1990年国際識字年を契機としつつ、大きな展開をみせている日本語学級など識字実践の動きほど急速な“潮流”となってきた例は、これまでにもないのではないだろうか。その性格は明らかに社会教育実践の範疇に属するものであろうが、現実には社会教育行政や施設以外の諸機関(たとえば国際交流協会など)がむしろ積極的に対応していて、社会教育行政・施設は立ち遅れの感もないわけではない。しかも識字実践の潮流は、単に公的な行政・施設のサイドだけでなく、市民ボランテイア団体など民間サイドの取り組みが極めて積極的であり、この点もまたこれまでに見られない新たな特徴である。
 私たちの第二次識字調査は、このようなまさに現代的な実践・運動の潮流のなかに身を乗り入れて、その渦と格闘するような思いで始まったのである。

 1992・第二次識字マップへの挑戦
 調査活動に参加した大学院生・学部学生は、いずれも小林担当「社会教育演習」(東京学芸大学、中央大学は「社会教育方法論特講」の院生2名)のメンバ−である。調査に要する経費はまったく無く、みな手弁当のまさにボランテイアの取り組みであって、この機会に参加院生・学生(巻末一覧参照)の積極的な意欲と情熱にたいして改めて感謝の意を表しておきたい。
 調査は東京二三区と三多摩の全自治体にたいして、参加院生・学生が少なくとも1自治体を分担するかたちで行なわれた。まずは教育委員会の社会教育関係者を窓口にして状況を聞き取りし、外郭団体(国際交流協会など)や市民・民間団体の活動についても、出来るかぎり面接によって実態を把握(調査票記入)するように努めた。なかにはお願いして「日本語教室」など識字実践の現場に実際に参加して調査(参与的調査)する場合もあった。その学生にとっては又とない貴重な学習・体験の機会となったわけである。一部に充分な理解を得られないケ−スもあったが、全般的には積極的な協力をいただいき、調査はきわめて順調にすすめられた。ご多忙のなか、未熟な学生たちの調査活動にご協力下さった関係者の方々に心からの御礼を申し上げたい。
 調査に当たっては、あらかじめ次のことを申し合わせた。
1,,調査時点は1992年6月現在とする。(7月以降の動向については、把握できたものを別掲して新
 しい動きを一覧にした。)
2,営利的な「日本語学校」などは調査対象から除く。
3,公立夜間中学については、すでに詳細な資料・統計が関係者によって整備されているのでこの際
 の調査は省略する。ただし「識字マップ」には入れる。
4,自主夜間中学については調査する。
5.義務教育学校で開設されている「適応学級」「日本語教室」なども省いたが 一部は別記した。
6.調査票は、第1面については必ず記入(聞き取り)することとし、第2面は可能の範囲で記入する
 こととする。(被調査者とのラポ−トの関係による)
7,調査期間は7月中とする。(ただし一部の補充調査は8月に行なわれた)

 調査報告の作成
 1991年度調査からちょうど1年を経過して、東京の識字実践はどのような展開をみせているか。その詳細は本文の設置者別その他の項の集計分析を見ていただきたいが、昨年から比較して、設置者数で約39%増(学級数ではさらにふえる)、とくに民間団体による開設は61%増、を示している。公的機関にたいして民間団体の努力(全体の57%)が相対的に顕著である。しかしこの1年の間に公的機関による開設も明らかに前進し、「行政として何らの識字教育の窓口を開いていない自治体」(夜間中学を除く)は昨年が全自治体の62%であったのにたいし、今回調査では45%を示すにとどまった。それでもまだ全体の半数近くの自治体は未だ識字実践に公的な取り組みをおこなっていないことになる。
 ところで、各自分担して調査した結果については、8月中に基礎集計とマップづくりが行なわれた。(マップと一覧については「東京の識字実践−識字学級リスト」として、すでに調査協力をいただいた関係各位に送付した。) 9月に入って、目次に見るような項目にしたがって集計・作図、分析・検討をすすめ、それぞれの担当者によって一応のコメントを付して、ひとまずの報告書を作成することとなった。本来ならば必要な補足調査などをさらに時間をかけておこない、また分析コメントについても深い討議を重ねて、より充実した内容のものにまとめあげるべきかも知れない。しかし識字実践それ自体が“潮流”のように動いている状況であり、調査分析も不充分な部分を残していることを自覚しつつ、あえてこの段階で、まとめ得る範囲のものを時期を逸しないで報告することとした。識字問題と格闘し、そして私たちの調査にご協力いただいた関係の方々にたいする責務でもあると考えたのである。
 各項目の分析は、院生・学生が分担して(限られた時間のなかで)精一杯の検討をし、相互の討議を経た上で、それぞれの責任で執筆した。未熟な点や克服すべき課題も少なくないと思われる。お気付きのところについて、ぜひともご批判、ご教示をいただきたい。
 この意味で本報告書は、東京の識字実践についての「中間報告」的なものであり、あるいは1992年度版の「速報」的な性格のものと言ったほうが適当かも知れない。

 東京の識字実践・いくつかの課題
 前掲の日本社会教育学会年報『国際識字10年と日本の識字問題』所収の論文「自治体社会教育と識字実践の課題」において、小林は自治体社会教育が取り組むべき課題として次の7点を指摘している。簡潔に再録しておこう。
1,すべての自治体が識字教育にかんするなんらかの事業を開設すること、
2,地域内の“非識字者”の発見と友愛的な出会い、
3,識字教育・実践を担う専門的な職員体制と施設的な条件の整備、
4,資金の援助、識字基金の創設、
5,識字学習・方法論、教材論の研究と深化、
6,訪問サ−ビス(障害者への識字実践など)、
7,ボランテイア指導者の養成と市民・民間団体相互のネットワ−ク。
 もちろん仮設的な提示であって、これに尽きるものではないであろうが、今後の検討課題として論議していただければ幸いである。
 今回の「東京の識字実践」第二次調査では、調査票の第2面において「今後の課題と展望、問題点」の項を用意した。その具体的な結果については本文の「今後の課題」あるいは「特記事項」などを見ていただきたい。それぞれの機関あるいは団体において、かかえる問題点はさまざまであって、きわめて興味深い課題が多く示された。上記の7点とも関連して、出された課題についてある程度共通するところをとくに次の3点にしぼって提起し、今後の識字実践のあらたな展開に資する手がかりとしたい。
 第1は、いうまでもなく識字実践にたいする公的サイドからの援助・条件整備に関する課題である。それは公的機関内の問題もさることながら、とりわけ民間団体によるボランタリ−な取り組みの側から、行政援助にたいする切実な要望が出されている。施設、資金援助、広報・宣伝、講師(日本語ボランテイア)の確保・養成、学級それ自体の開設ないし拡大、などである。
 第2は、識字学習の内容・方法、教材・テキストの開発や交流の課題、さらには系統的かつ継続的な学習集団の形成とともに、生活にねざしつつ同時に学習の成果を具体的な現実にいかす識字実践の方法論など、総じて学習論の理論と方法を深め、相互にそれを交流・共有する課題である。
 第3は、識字実践の各機関と市民団体がともに横に手をつなぎ、ネットワ−クをひろげていく課題である。本報告書も、東京の識字運動ネットワ−クの基礎デ−タとして役立つことが出来れば、という思いから作成された。すでに三多摩では国際交流ネットワ−クの動きが始まっているが、二三区でも、また同一の区のなかでも、活発な交流活動が始動することを期待しておきたい。




3、東京学芸大学紀要(第1部門、教育科学)第44集(1993年)
  東京の識字実践−識字マップ調査報告1992
                         
    小林文人 (内田純一・梶野光信と共同執筆)

1.研究経過
 国連総会決議による1990年・国際識字年からすでに実質ほぼ3年が経過した。この年より世界各国において新しい識字実践がさまざま展開されてきた。またユネスコを中心とする国際識字推進委員会は、西暦2000年までに世界から非識字者をなくす10年行動計画を明らかにし(同年1月)、あるいは「すべての人に教育を!世界会議」は “Education for All!"
の宣言を採択した(同3月)。それから3年、いま世界の識字運動ないし成人基礎教育はどのような地点に到達したのであろうか。
 国際識字年の設定は、日本国内においてもこれまでにない動きを生み出した。部落解放同盟などによる「国際識字年推進中央実行委員会」や同・大阪連絡会などの活動が開始され(同1月)、あるいは「かながわ識字国際フオ−ラム」による「かながわ識字宣言」もおこなわれた(同10月)。これらの動きは、国際識字年を発展途上国への援助キャンペ−ンの次元に止めるのでなく、日本のいわば“内なる識字問題”の認識と新たな取り組みを提起してきた。
 しかしながら日本の社会教育(行政)・実践のこの問題にたいする対応は、高度識字社会を当然の前提とする発想から抜けきれず、自らの内なる課題として深く識字問題をとらえる姿勢において消極的であったといわざるを得ない。それは識字問題に限らず、被差別少数者(マイノリテイ)の立場からその人権実現という課題を据えて、全体としての社会教育・生涯学習の在り方を問い直すという意識がいまだ希薄であり、具体的な実践においても微弱な対応に終わっていることの反映でもあろう。
 その翌年、1991年に日本社会教育学会が学会年報の特集テ−マとして(教育関連学会のなかでは唯一つ)「識字問題」を掲げたのは、この“内なる識字問題”を自覚的に認識し、理論的な究明を深めようという趣旨であった。この年報の編集については、筆者(小林)は学会担当理事として編集委員長をつとめ、あわせて「自治体社会教育と識字実践の課題−生涯学習政策の展開のなかで」の項を執筆した。その過程で、実態を把握するために「東京の識字マップ」(第1次、1991年6月現在)調査をおこなうとともに、「すべての自治体社会教育が識字教育にかんするなんらかの事業(識字学級など)を開設すること」を主軸に7点の課題を提起した。(日本社会教育学会編『国際識字10年と日本の識字問題』年報35集、1991年、東洋館出版社、参照)
 それから1年が経過した。この間に東京における識字実践は、在日外国人の急増を背景として、これまでに見られない勢いで拡大し、新しい展開をみせつつある。とくに三多摩地区では地域からの国際交流をすすめる市民グル−プや、識字実践に取り組むボランテイア相互のネットワ−クづくりも始まっている。第1次の調査の不備をおぎない、この1年に新しく生成しつつある実践を動態的に把握するために、以下示すような方法で第2次「識字マップ調査」を実施した。本報告はその結果の主要部分を整理集計し、必要な分析検討を加えたものである。今後さらに追求すべき多くの研究・調査課題を残し、その意味で「中間報告」的なものである。

2.調査の目的と方法
 (1)調査目的−東京・識字マップについての第1次調査は、一応は都下各区市町村について社会教育(行政)関係者の協力を得て「識字学級」等の開設状況を聞き取り調査したものであるが、時間的制約のため、各事例の具体的な開設内容・方法については一部を除き詳細な調査にいたらなかった。また行政機関・施設等による公的開設についてはほぼその総体を知り得たとしても、民間団体による開設状況については充分な把握ができていない場合があることが察知された。そこで今回の第2次調査としては、@公的開設「学級」はもちろん、とくに市民ボランテイア・民間団体開設「学級」の把握に努める、A各事例について、歴史、参加者属性、関連諸活動、課題等をふくめて、ある程度詳細な開設状況を調査する、Bその上で第1次から2次にいたるこの1年間の推移を明らかにする、ことを目的とした。
 (2)調査時点−1992年6月現在。(7月以降の動きについては、別途調査)
 (3)調査対象−東京都下、全23区27市4町1村(ただし島 部は除く)の日本語学級、日本語ボランテイア養成講座など(以下「識字学級」という)。営利的な日本語学校は除く。公立夜間中学および義務教育学校に開設されている「適応学級」「日本語教室」等は別に資料が整備されているので省略する。ただし自主夜間中学については調査する。
 (4)調査項目−設置主体、開設年、場所、曜日・時間・回数、参加資格、参加者の国籍など属性、参加経費、学習方法、テキスト、講師・指導者、広報、予算・補助金、関連諸活動、課題等について、調査票を作成。
 (5)調査方法−公的(国際交流協会など外郭団体を含む)機関・施設の「識字学級」担当者ならびに民間団体開設「学級」の代表者等にたいする面接・聞き取り調査。可能な場合「学級」への参与観察を含む。ただし一部被調査者の都合等により電話による調査もあった。
 (6)調査員−東京学芸大学大学院学生4名、研究生2名、学部学生29名(社会教育ゼミ参加者)、中央大学大学院学生2名。1人1自治体を原則として分担調査した。ただし調査員の経験・能力等により調査精度に差異がみられた。
 (7)調査期間−1992年7月中、一部補充調査は8月に行なわれた。

 調査は大学院生のリ−ダ−シップにより順調に進行したが、調査活動に未熟な学生もあり、調査票の記入が必ずしも充分でないケ−スもみられた。必要な補充調査はおこなったが、今後さらに調査・追求すべき課題は残されている。しかし1992年度・東京における識字実践の概要はほぼ明らかにできたと考えられる。
 調査結果については、協力していただいた(調査対象として確定し得た)91「識字学級」設置機関・団体(学級数としては102)すべてについて、それぞれの個票を作成し、院生・学生の討論に基づく項目別の分析を加えて、急ぎ報告書を作成した。協力いただいた機関・団体にはこれを送付した。(東京学芸大学社会教育研究室『東京の識字実践・1992−第2次識字マップ調査報告書』1992年10月、B5版、134頁−以下「報告書」という)。本報告の基礎となる具体的なデ−タについてはこの「報告書」を参照いただきたい。   

3.「識字学級」の潮流−1991年から92年の推移
 (1)識字マップの作成(別図1、別図2)略
 1991年度の識字マップ(第1次調査)および今回調査により作成した1992年度識字マップは別図の通りである。1991年度識字マップは前掲・学会年報『国際識字10年と日本の識字問題』163頁、より転載したものである。
 (2)この1年間の推移、その特徴
 公的機関と民間団体の両者を含めて、総体としての「識字学級」設置者数は1991年62から92年91へ大きく増加した(47%増、ただし夜間中学は含めない、以下同じ)。とくに民間団体による開設は59%増を示した。つまりこの1年間に、何らかの識字教育・実践の場をもっている自治体は増えたわけで、反面「識字学級」の空白地帯は減少し、91年に全体(二三区 ・三多摩)55区市町村のうち22自治体(40%)が空白であったのに対し、92年の空白自治体は14(25%)となった。(別図1、2参照)
 「識字学級」設置については、相対的に公的機関に比して民間団体(全体の56%)の努力が顕著であるが、それでもこの1年間に公的機関の開設も明らかに前進し、「行政として何らかの識字教育の窓口も開いていない自治体」(前掲拙稿「自治体社会教育と識字実践の課題」164頁)は昨年が34自治体(62%)であったのに対し、今回調査では27(49%)をに止まった。それでも全体の半数の自治体は未だ識字実践に公的な取り組みをおこなっていないことになる。
 東京の「識字学級」は最近地域に急増している在日外国人を主たる対象として開設が始まったものが大部分である。“内なる識字問題”としての日本人にたいする識字実践に取り組んでいる事例は、中国帰国者を別とすれば、部落解放同盟・支部2、自主夜間中学3、障害者学級3、社会教育施設(公民館)2、にとどまる。全体の約1割である。この状況は昨年から大きく変化していない。とくに公的社会教育施設として、主要に日本人“非識字者”に挑戦している実践はわずかに2例(福生市公民館松林分館「ことばの会」、東久留米市中央公民館「障害者教養講座」)のみである。
 (3)設置主体別、開設年度別の動向
 1992年調査により「識字学級」の設置主体を集計してみると、@公的機関(一般行政、教育行政、社会教育施設を含む)23(25%)、A外郭団体(国際交流協会、社会福祉協議会、ユネスコ協会など)17(19%)、B民間団体(市民団体、ボランテイア・グル−プ、部落解放同盟、ユニオン等)51(56%)、計91、であった。昨年に比して民間団体のはたす役割が比重をましているが、調査活動をさらに継続し精度をふかめれば、この比重はさらに大きくなるものと考えられる。@グル−プのなかで社会教育行政・施設がどの程度の役割を果たしているか、他行政との関係あるいはAグル−プとの関連など、今後究明していくべき課題であろう。(なお次項以下の分析では、Aの公共的性格を考慮し、@・Aをともに「公的機関」として一括している。)
 開設年度別の推移については、一応@ABのカテゴリ−に分けて、その動向をみておこう。別図3に見る通り、今回の調査で知り得た範囲では1975年の開設がもっとも早い。図示していないが、「日の出舎・夜間小学校・ふきのとう学級」(重度身体障害者授産施設「日の出舎」による設置)である。東京における識字実践は(公立夜間中学の歴史を別にして)さしあたり「ふきのとう学級」をもって嚆矢とすると言うことも出来よう。公的機関による開設としては1979年の2件が早いが、いずれも中国帰国者のための日本語教室(東京都援護施設・塩崎荘、常盤寮)であり、ついで1981年の東久留米市中央公民館「障害者教養講座」が続く。また1980年および81年から始まる町田市「やさしい文章サ−クル」「さなえサ−クル」については、現在は自主グル−プであるが、当初は「障害者の要望に公民館が応えたかたち」(調査票記録)で出発したもので、むしろ公的援助の比重が大きいと考えられる。
 しかし1980年代前半のこの時期は、中国帰国者への援護行政を別にすれば、概して公的機関よりも民間団体による役割の方が積極的であり、それが80年代後半のいわゆる「ニュ−カマ−」と呼ばれる在日外国人の増大を背景とする「識字学級」の新しい取り組みへと発展していくのである。とくに1988年ないし89年以降になると、明らかな潮流として識字実践の開設が一段と増加していることが注目される。1991年度の動きはきわめて象徴的であって、民間団体の努力が大きく、それを公的機関が追いかけるかたちである。1992年度については、調査時点・6月現在までの集計であって、実際には年度中におそらくこれに倍する識字学級の開設が続くものと想定される。まさに「東京の識字実践」の新たな“潮流”を実感させられる。
 いうまでもなく「識字学級」の性格は明らかに社会教育実践の範疇に属するものであろう。しかし現実には社会教育行政・施設以外の諸機関がむしろ積極的に対応していて、社会教育の側はむしろ立ち遅れの感がないわけではない。しかも識字実践の潮流は、単に公的な行政・施設のサイドだけではなく、市民ボランテイア団体など民間サイドの取り組みが極めて積極的である。この問題にかかわる市民グル−プやボランテイア相互のネットワ−クも形成され始めている。これら民間側のエネルギ−に刺激されあるいは要求されるかたちで、公的セクタ−の対応が始まる事例もみられる。従来の行政主導による社会教育実践の展開には見られない新たな特徴といえよう。(小林文人)

4,5,ー略

6.東京の識字実践の課題
 調査票では第2面に「今後の課題と展望」についての項を用意した。それぞれの機関・団体の「識字学級」がかかえる課題、問題点は、実に多様かつ切実であって、きわめて興味深い内容が示された。項目的に整理すると、@条件整備に関するもの、A学習内容・方法に関するもの、B連携・ネットワ−クの課題、C生活問題、権利保障について、その他、に分けることができる。予想されたことであるが、公的機関よりも民間団体の方が課題提起が活発で多くの問題点が指摘された。その特徴的なところを取り上げておこう。
 第1に、識字学級の条件整備に関しては、とくに民間団体の側から、場所の確保、資金的援助、宣伝・広報活動、講師・ボランテイアの養成・確保、参加者(子どもを含む)の拡大、識字学級それ自体の増設、などが主な内容であった。これらは主要には民間・ボランテイア活動の立場から公的行政へ向けての切なる課題提起という性格をもっている。しかし同時に公的機関が開設する識字学級においても、予算の増額、時間枠の拡大、職員体制の充実、日本語ボランテイアの養成などの類似の問題が出されている。まさに生成過程にある新しい実践に共通する条件整備の課題なのであろう。  
 第2に、学習内容・方法については、テキストの充実、教材開発、講師の資質向上、レベルに応じた学習・継続的学習の方法、参加者の学習意欲向上、参加者の定着、交流活動、などについて出された。公的機関・民間団体の両者にほぼ共通する内容・傾向であった。いずれも具体的かつ実践的な重要な課題である。
 第3に、連携・ネットワ−クの課題としては、識字学級間のネットワ−クづくり、地域に広げ理解を深める、ホ−ムステイの受入れ、国際交流事業との連携、などであった。
 第4の生活問題、権利保障等については、社会保障制度の拡大、不法就労者への対応、在日外国人の母語学習、学習機会の拡大、学習参加者のアフタ−ケア(講座終了後の学習保障)、など傾聴すべきものが少なくなかった。(詳細については、前掲「報告書」p.94〜99 を参照されたい。)
 筆者(小林)は、冒頭「研究経過」にあげた日本社会教育学会年報・所収の論文「自治体社会教育と識字実践の課題」において、取り組むべき課題として、仮設的に次の7点を指摘している。簡潔に再録しておこう。?すべての自治体が識字にかんする何らかの事業を開設すること、?地域内の“非識字者”の発見と友愛的な出会い、?識字教育・実践を担う専門的な職員体制と施設的な条件の整備、?資金の援助、識字基金の創設、?識字学習の内容・方法論、教材論の研究と開発、?訪問サ−ビス(障害者の識字学習の援助など)、?ボランテイア・指導者の養成と市民・団体相互のネットワ−クの形成、である。
 今回の第2次識字マップ調査に示された「識字学級」のかかえる諸課題は、以上の7点の課題提起と深く重なりあい、相互に関連しあい、実践的な立場から具体的な内容として明らかににされたところが少なくない。問題は、高度識字社会を前提とするわが国の社会教育の体制ないし生涯学習の“体系化”のなかに、どのように識字教育・実践の契機を生み出すことができるか、(識字実践を被差別部落や夜間中学の個別の課題として特定するのではなく)すべての自治体行政の当然の責務として、識字に関する何らかの事業を具体的・実践的に導入していくことができるか、であろう。七つの課題のなかで、少なくとも?「すべての自治体で識字実践を!」という方向が行政側でも運動的にも模索される必要がある。そのためには社会教育・生涯学習の体制が、あらためて被差別・少数者の立場から問い直されなければならず、同時にそれを求める市民・ボランテイアの運動とネットワ−クの輪を拡げていくことが課題となる。
 二度にわたる「東京の識字マップ」調査は、現在まで全く経費的な条件をもたず、研究室・ゼミに参加する大学院生・学生の意欲と情熱のみに支えられて実施されてきた。東京都下・全自治体についての悉皆調査のかたちをとっているが、もちろん地域の草の根の、とくに民間・ボランテイア活動のすべてについて調査し得ているかどうか、については課題を残している。しかも識字実践そのものは、これまでの社会教育実践にみられない勢いで、むしろ激しく新しく“生成”されつつある。静態的な視点ではなかなか把握しにくい動く対象でもある。しかしそこに新しき創造のエネルギ−が、また市民の正義の精神が、躍動し始めている。この草の根からの胎動に触れることで、調査者である若者たちも実に多くのことを学んできた。その意味でも、第3次の識字マップ調査がさらにいいかたちで実現できればと期待している。
 *本調査にご協力いただいた東京都下各自治体の関係機関、ならびに識字実践に奮闘されている市民・ボランテイア・団体の皆さまに心からの御礼を申し上げたい。また調査活動に参加した院生・学生の皆さんにも、あらためて感謝の意を表したい。 (小林文人)




4,東京学芸大学社会教育研究室
 『東京の識字実践・1994−第三次識字マップ調査報告−』(1995年)
 <まえがき>
 東京の識字実践−92年から94年への潮流  小林文人

 1,追跡調査への胎動
 私たち東京学芸大学・社会教育研究室(小林ゼミ)が識字問題について、共同で研究調査に取り組みを始めたのは、1991年初夏のことであった。そしてその秋には、簡単なものであるが、東京識字マップ第1次調査結果として報告した(日本社会教育学会年報第35集『国際識字10年と日本の識字問題』所収、小林論文参照)。早いもので、それからすでに4年が経過したことになる。
 これを受けて同・第2次調査が翌1992年夏に実施された。研究室・ゼミ参加者の総力をあげての調査活動であった。その成果は、“手づくり”報告書として1冊にまとめて刊行することが出来た。赤い表紙の『東京の識字実践・1992−第二次識字マップ調査報告書』(同年、10月)である。またこれをやや理論的に整理したかたちで、同題目による研究論文(小林・内田・梶野共同執筆、東京学芸大学研究紀要・第1部門・第44集、93年3月)も報告された。
 識字マップ第二次調査では東京全域で91学級(団体)が集計されたが、この報告書は、なかでも所収の個票一覧については、各方面から意外に多くの反響が寄せられた。大学の研究出版物は普通はあまり読まれないものだ。しかし新聞が報道(朝日新聞、日本教育新聞など)したこともあって、研究室には問い合わせの電話が相次ぎ、あらためてこの問題の重要性、研究調査の社会的意義を実感させられた。その後東京では「東京日本語ボランティア・ネットワ−ク」(93年12月6日設立総会)が結成されるが、私たちの東京識字マップ一覧が一つの呼び水となったことを伝え聞いた。嬉しいニュ−スであった。
 1993年私たちは、さらに継続して東京・識字実践の動向を追跡するかどうかについて論議した。この間東京では、上記の「東京日本語ボランティア・ネットワ−ク」の結成に象徴されるように、各地で新しく日本語教室・識字学級が始動していた。三多摩ではすでに1992年夏から「三多摩国際交流ネットワ−ク」が発足していたし、その後に公民館等での識字学級や日本語ボランティア養成講座などの開設の動きがみられた。これらの実践の“潮流”に学びながら、さらにこれを追っかけていこう、という論議である。
 同じ時期に、川崎で開かれた「日韓社会教育セミナ−」(第4回、1993年12月)を契機として、社会教育推進全国協議会事務局(長澤成次氏)「国際担当」(笹川孝一、野元弘幸、伊藤長和氏など)を中心に「社会教育と国際活動に関する懇談会」が発足し、神奈川県や千葉県を含む識字実践・運動の研究交流が勢いよく開始されていた(「ヒュ−マンネット通信」創刊、1994年3月)。『月刊社会教育』でも「多文化教育」(93年1月号)や「地域からの国際連帯」(93年4月号)の特集を組み、また同編集部編『日本で暮らす外国人の学習権』が刊行された(1993年8月)。千葉大学教育学部社会教育研究室では『房総の識字マップ』(1994年5月)の調査報告がまとめられた。首都圏としても、かってみられない識字実践をめぐる研究と交流の大きなうねりが始まっている、という状況の1年であった。
 しかし、私たちは別の課題もかかえていた。研究室に在籍するアジアからの留学生と研究活動を共有するためにも、日本とならんで少なくとも中国、韓国、台湾の社会教育・成人教育についての比較共同研究をすすめ、その基礎資料をまとめていこうではないか、という課題である。
 1992年調査の中心メンバ−が研究室を巣立って世代交替がすすんだこともあり、また追跡調査のインタ−バルを1年おいて識字実践の動向をじっくりと見つめてみる、という必要もあり、1993年度の研究室共同調査のテ−マは、識字マップ調査から一応はなれ、「東アジア」研究ということになった。その結果としてまとめられたのが『東アジアの社会教育・成人教育法制』(1993年12月刊行)である。この作業のなかで中国(「掃盲」教育)でも韓国(「公民学校」「文解教育」)でも、また台湾(「失学民衆」「補習教育」「成人基礎教育」)でも、国家レベルの教育政策として識字教育が熱心に取り組まれていることを認識させられた。これらはいずれも、歴史的背景として戦前日本の植民地支配・侵略戦争と深くかかわっていることであり、その意味ではそれぞれの国の問題に止まらず、日本の識字問題であるといっても過言ではない。そのことを痛感させられた1年であった。

 2,1994年識字調査の取り組み
 1994年度に入って研究室では、新しい識字マップ調査をどのように開始するかについていくつもの模索があった。正直のところ、93年度『東アジアの社会教育・成人教育法制』調査・刊行の疲れもある。他方では、その後いくつかの機関・団体による東京・日本語教育に関する調査やリスト(たとえば特別区協議会調査部資料室「特別区における在住外国人のための日本語教育」1994年3月、上記・東京日本語ボランティア・ネットワ−クによる「日本語教室まっぷ東京編」1994年1月など)が出されている。あるいは東京都の委託によるという野村総合研究所・日本語教室調査の動きも伝わってきた。伝聞ではあるが、識字実践に取り組んでいる民間・ボランティア・グル−プではこの種の調査にたいするある種のアレルギ−も生じている、という情報もあった。
 私たちの調査活動は、言うまでもなく“手づくり”“手弁当”の活動である。公的な経費は全く用意できず、調査参加者が少しづつ必要経費を出しあって進めるほかはない。しかし私たちには、1991年、92年と取り組んできた経験と調査資料の蓄積がある。それに何よりも研究室(ゼミ集団)の“心意気”(知的探求心と実践への連帯意識)があれば、調査は可能だ。大きな専門的な調査機関はそれなりの特長をもっているのであろうが、私たちは私たちなりのスタンスで、出来る範囲で質的に丁寧な、インテンシィブで独自な調査をやろうではないか、そんな論議のなかで、1994年・第三次東京識字マップ調査に取り組もうではないか、ということになっていった。
 第一次・第二次調査で活躍した内田純一、梶野光信の協力も得られることとなり、今期第三次調査では、自らの研究テ−マとして識字問題を設定した江頭晃子(大学院2年)が中心的な推進役を担うことを決意し、調査実施は確定された。

 3,第三次調査の課題と方法
 調査活動に取り組んだのは、東京学芸大学・小林担当の「社会教育演習」(社会教育専攻および他専攻の学生)、「社会教育特講・政策研究」(大学院)、中央大学「社会教育方法論特講」(大学院)履修の学生・院生を中心として、ほかに識字問題に研究関心をもつ他大学の学生たちも数名参加した(巻末一覧参照)。参加の状況は正規の授業としての履修学生全員参加ではなく、それぞれの関心にしたがってのいわばボランティアとしての参加であった。この機会に、献身的に努力してくれたこれら学生・院生の皆さんに感謝の意を表したい。
 94年調査にあたっては、言うまでもなく(92年度調査に引き続いて)東京全域・全数のすべての識字実践について実態を明らかにすることを目標とした。それも量的な実態だけでなく質的な内容を把握することにも留意し、出来るかぎり実証的な調査としての水準を維持するよう努力した。調査・分析をすすめていく上での主な視点・方法を以下に列記しておこう。

1,調査項目・方法は、92年調査の継続性を重視して、ほぼ前回の調査票の形式をそのまま活用する
 こととした。ただし表現や表組みなどについて若干の必要な修正をした。
2,調査時点は、1994年6月現在とした。
3,実際の調査活動は、同年7月〜8月の夏休み期間中におこなわれた。しかし、調査不備の部分も
 あり、その後も授業の合間をぬって断続的に調査は継続され、最終的に調査を打ち切ったのは同年
 12月であった。そのため、調査基準点は6月現在であるが、部分的にその後の動きが含まれている
 場合がある。
4,調査対象の日本語教室・識字学級(以下、識字学級という)および日本語ボランティア養成講座
 (以下、養成講座という)については、前回調査のリストを基礎とし、その後の関連する資料や情報
 を加えて一覧を作成した。調査を進めていく過程で新たに活動が確認された学級・講座については、
 あらためて調査対象リストに加え、出来るかぎり東京の「1994・識字実践」全体を把握するよう努力
 した。
5,調査はすべて調査対象(識字学級あるいは養成講座)の当事者にたいする直接・面接によって行
 なうことを原則とした。また可能な場合は、識字実践の事業・活動のなかに直接参加し観察させてい
 ただくようお願いした。ただし、事情により直接・面接の協力が得られない場合があり、一部は電話等
 による調査にかえたケ−スも含まれている。
6,前回調査と同様に、営利的な「日本語学校」は調査対象から除外した。また、自主夜間中学は含
 めたが、公立夜間中学校については、すでに詳細な資料・統計が関係者によって整備されているの
 で調査は省略した。ただし「識字マップ」には含めている。
7,調査結果の集計および分析にあたっては、「設立主体」別に、@公的機関(行政機関・施設)、
 A外郭団体(国際交流協会、福祉教育財団など)、B民間団体、の三つに分類 した。また上述した
 ように、項目により、@識字学級(日本語教室・識字学級など)と A養成講座(日本語ボランティア
 養成講座など)にわけて分析した。
8,設立主体の団体は、はそれぞれに識字学級あるいは養成講座を開設しているわけであるが、同
 一団体が対象別、水準別、曜日別などにより、複数の学級を開いている場合がある。したがって設
 立団体数と識字学級あるいは養成講座数は一致しないことに留意いた だきたい(以下項目別分析
 a,b,c,dなど参照のこと)。
9,実際の調査活動はすべて学生・院生の分担によって行なわれた。また調査票の集計・分析、そし
 て報告執筆もすべてこれら学生・院生の手によって進められた。この種の社会調査を初めて経験す
 る学生も多く、調査の精度は必ずしも一様ではない。調査個票のなかには一部ブランクも残されて
 いる。今後の課題である。
10,調査を受けとめて下さる側に充分な理解を得られないケ−スもあった。ごく一部に必要な資料収
 集ができないままに、しかし識字学級の活動が確認された場合は、個票を作成し本報告に記載した。
 しかし全般的には積極的な協力をいただき、調査はきわめて順調にすすめられたと言える。ご多忙
 のなか、未熟な学生たちの調査活動にご協力下さった関係者の方々に心からの御礼を申し上げる。
 また、私たちの“手弁当”の調査活動を伝えきいて、川崎市幸市民館・日本語学級・学習支援者
 (ボランティア)ほかの方よりカンパをいただいた。あわせて御礼を申し上げたい。

★なお本調査ならびにこの報告書において「識字実践」という言葉を使ったのは、次のような意味からである。それぞれの自治体や地域では「日本語教室」「日本語ひろば」あるいは「識字教室」「自主夜間中学」などさまざまな名称で日本語学習の実践、つまり「識字実践」が取り組まれている。日本語ボランティ養成講座を含めて、これらすべての日本語の学習実践を総称して「識字実践」とした。「識字」という言葉は「国際識字年」(1990年)でもそうであったように 国際的用語としての“Literacy”の日本語訳として一応定着(韓国では「文解」)してきた概念と考えたからである。また「識字教育」という言葉をテ−マとして掲げなかったのは、概念的に公的機関の範囲内の活動に限定されることをさけたこと、つまりいま躍動的に動いている民間団体のさまざまな活動・運動を含む用語として「識字実践」の方が適切と考えたからである。あと一つ「日本語教育」「日本語教室」を表題に掲げなかったのは、識字実践は単に外国籍住民を対 象とするのではなく、92年・第二識字次調査でもそうであったように、“内なる識字問題”としての日本人自体の非識字問題に取り組む実践を当然内在的に含む意味からである。なお以下の報告・分析のなかでは、実態に即して日本語教室あるいは日本語学級などという表現をつかっているが、総称して「識字学級」とし、日本語ボランティ養成講座については「養成講座」とすることは上述した通りである。

 4,東京・識字実践は大きく動いている
 この2年間において、東京・識字実践をめぐってどんな動きがあり、そしてまたこの調査で何が明らかになったのだろうか。細かくは2年間の経過を含めて「項目別分析」を検討する必要があるが、なによりも識字学級数はもちろん、その設置団体数が大きく増加していることが注目される。
 92年調査と比較すると、設置団体は約 57%(91→143)の増加である。しかもその内訳をみると、公的機関、外郭団体の数に比して(10%増、40→44)、とくに民間団体の増加がいちじるしい(94%増、51→99)。ほぼ倍増である。そして同じ団体ないし機関が複数の識字学級(初級・中級、あるいは昼間・夜間など)を開設しているケ−スが多くなり、識字学級・養成講座の総数は飛躍的に増大している(265%増、91→242)。識字学級数の増加がとくにいちじるしく(433%、51→221)、また日本語ボランティア養成講座も約5倍に増加した(4→21)。92年調査の場合は設置団体と識字学級・講座の数はほとんど同じであったが、今回調査では団体数(143)に比べて学級・講座数(242)がはるかに多くなっていることが特徴的である(1:1.7)。それだけ識字実践は大きな拡がりをみせ、その厚みがふくらんで、識字学級・養成講座の重層的な構造が形づくられ始めているとも言えよう。
 しかしこの量的増加の実態は単純ではない。一方では、新しく設立された団体があり、しかし他方ではこの2年の間に活動が停滞し、識字学級が停止されたケ−スもみられる。なぜ停滞あるいは停止されたのであろうか。後掲「第2次調査以降の移り変わり」に示されるように、この停滞・停止された14ケ−スの細かな分析を深める必要があろう。そして他方、言うまでもなく新しい潮流のように、とくに民間団体による躍動的な識字学級の誕生がある。新しい実践が生まれてくるその背景、契機、要因、条件などを明らかにしていくと、何がみえてくるか。その自治体あるいは団体の識字実践の開始は、92年から93年にかけてその増加のカ−ブがとくに大きいが(後掲「開設年」の項目分析参照)、それはどのような要因によるものであろう。
 一つには、いうまでもなく地域における外国籍住民の増大を背景として、まさにボランタリ−な民間団体のエネルギ−が具体的な実践を創りだしてきている。二つには、しかし同時にこの間には公的機関による識字教育事業もまたゆるいカ−ブではあるが、増加していることも確かなことだ。それらが、課題を含みつつも識字実践の一定の公的条件整備を前進させ、識字実践の理論と方法を拓いてきている。日本語ボランティア養成講座を開設する公的機関も目にみえて増加してきた(約4倍、4→15)。この養成講座から育ったボランティアたちが「学習援助者」「共同学習者」として識字実践に有志的に取り組みはじめる構図も見えはじめた。三つには、この2年間の発展として特徴的なこととして、それぞれの識字実践を横につなぐボランティア・ネットワ−クが東京二三区、三多摩に結成されたことである。前に述べた東京日本語ボランティア・ネットワ−ク、三多摩国際交流ネットワ−クだけでなく、地域的に「足立区にほんごボランティア・ネットワ−ク」「江東区日本語の会」の活動も報告されている。また自主夜間中学の関係者では関東地区で夜間中学運動を横にむすぶ連合が組織されている。これらの識字実践・運動のネットワ−クが相互の交流と連帯をつくり、おそらく紆余曲折を含みながら、しかしさらにまた新しい実践の潮流を創りだしていくのであろう。

 5,東京の識字実践・新しい課題
 1992年調査と同様に、今回調査においても、調査票の重要項目としてそれぞれの識字学級の「課題と展望」の設問を用意した。各機関・団体から出された課題ないし展望は実に興味深く、その詳細は項目別分析のなかに一覧にして示している。整理の柱は、92年調査にしたがって、条件整備、学習内容・方法、学習者、援助者、連携・ネットワ−ック、権利保障、その他、としたが、そのなかに提起されている具体的な課題は92年段階から明らかに変化し発展してきている。識字実践にかかわって「量の問題とともに質の問題を論議する時期がきた」(笹川孝一、月刊社会教育95年1月号)ことがたしかに実感される。
 これらの問題については、今後さらに後掲の具体的な事例報告(ご協力いただいた見城慶和、秋枝ゆう児、原田久美子、横山文夫、高橋登志江、伊藤静一各氏の貴重な実践)とともに、質的な深みにおりての分析・検討が必要である。ここでは今後の論議のために忘れてはならないいくつかの課題についてふれておくことにしよう。
 1,民間的な実践・運動にとって公的な機関がどのような役割を果たすべきか、その質的な在り方があらためて問われている。施設・設備や経費的な条件整備を求める課題と同時に、保育やPR活動やAV機器をはじめとして、質的に一歩すすんだ要求が提起されはじめている。そしてボランティア養成をふくめて、識字実践にかかわる広汎なネットワ−ク(行政相互、行政と民間、民間相互など)の形成に公的機関が独自に果たし得る役割の追求がはじまっているのではないか、と考えられる。
 2、日本語学習の内容・方法(テキスト、教材を含む)について、初級・中級あるいは昼間・夜間など重層的な学級編成が広がってきた現段階において、あらためてその具体的かつ実践的な深化、理論化、その交流、共有が求められている。
 3,以上に関連して、識字実践にかかわる公的職員、専門的な日本語教師、そしてボランティア(学習援助者)、さらには外国籍住民を支援する市民ネットワ−クなど、それぞれの役割と相互関係をどのように考えていくか、どのように連携し、分担し、調整し、そしてともに外国籍住民の「学習権」保障の実質を創りだしていくかが共通の課題となってきている。
 4,外国籍住民=学習者の「学習権」保障は、それだけの問題に止まらず、彼らの労働や医療、保育や福祉、あるいは住宅などの「生存権」の問題とつねに関連している。識字実践にかかわって格闘している市民グル−プのなかでも、たとえば具体的に地域の心ある医師や住宅関連の不動産屋とのネットワ−クを形成しながら(立川国際友好協会・原田久美子氏の報告、後掲)、識字実践の運動の輪が拡がりをみせている。あわせて外国籍住民とともに生きる“共生”の地域づくり、まちづくりの課題とも連動して考える必要が痛感される。
 5,この間、神奈川県下では「在日外国人」にたいする自治体「教育方針」が相次いで策定されたことが、この時期の一つの特徴でもあった。たとえば川崎市「在日外国人教育基本方針」(1986)は言うに及ばず、横浜市「民族共生の教育を創り出そう」(教育基本方針、1993)、神奈川県「民族共生の教育を拓こう−ふれあい教育をさらに豊かにするために」(神奈川県在日外国人にかかわる教育研究協議会、1994)などがある。しかし東京都下では、このような積極的な自治体教育行政の姿勢はいまだ未発である。自治体が公的に外国籍住民にたいするきちんとした「教育方針」「計画」をもつかどうかは、地域の外国籍住民の「学習権」保障、その識字実践の発展と大きく関係してくる。東京都をはじめ二三区、三多摩各自治体の今後の課題というべきであろう。




5,三多摩の夜間中学−識字実践の歩み→■
     東京都立多摩社会教育会館『戦後三多摩における社会教育の歩み』Y、(1993年)




6,民族共生の地域づくりと社会教育の課題・展望       小林文人
   (第40回社会教育学会・課題研究) 日本社会教育学会紀要NO,30 (1994年)


識字実践の潮流
 社会教育とエスニック・マイノリティの問題については、歴史的には重要な問題事実があるにもかかわらず、社会教育研究としてはほとんど自覚的に取組まれてこなかった。ようやく最近のニュ−カマ−の増加を背景として、また1990年国際識字年を契機とする、地域・自治体レベルにおける識字教育・実践や国際理解・交流の活動が社会教育の分野でも展開をみせるようになり、むしろそれらに刺激されるかたちで研究・調査の試みも開始された状況である。
 東京学芸大学社会教育研究室では、1991年と92年の両年にわたり、東京都全域にわたる識字実践の調査とマップづくりを行なった。調査の精度は未だ必ずしも充分ではないが、一応の状況と傾向についてはある程度明らかにできたように思われる。ここではその詳細を報告する紙幅は与えられていないが、この両年の経過と特徴的な点をあげれば次のようになる。
 ?障害者や中国帰国者等あるいは夜間中学における識字教育・実践を別にして、近年のニュ−カマ−増を背景とする新しい識字実践の動きは1986年以降顕著に拡大し始めた。?「識字学級」は1991年62から92年91へ、1年間に47%増加した。注目すべき伸びである。?自治体等公共的機関(外郭団体を含む)よりも市民・ボランティアによる取組みが積極的(年間62%の増)である。?公的機関はむしろ民間・市民グル−プの努力に啓発されるかたちで新たな識字サ−ビスを拡げ始め、92年段階で何らかの識字事業を開設している自治体は東京都全域で51%であった。91年の38%から比較すれば増加は著しい。?公的機関の開設がみられず(49%)、また民間・市民グル−プによる開設も皆無の“空白”自治体は25%であった。?関西と比べて東京では、被差別部落など日本の「内なる識字問題」への実践はきわめて少ない。?それぞれの状況は個別に異なるが、全体として識字学級の諸条件整備は貧弱であり、また識字学習の内容・方法・教材などで悩みは多い。?それらを相互に克服する必要もあり、識字実践と運動のネットワ−ク(例、三多摩国際交流ネットワ−ク)が胎動をみせている。
 (注)詳細は、東京学芸大学社会教育研究室報告「東京の識字実践・1992−第二次識字マップ調査報告書」、また小林・内田・梶野「東京の識字実践」東京学芸大学紀要・教育科学・第44集、1993年、を参照のこと。
自治体社会教育への課題提起
 日本社会教育学会年報35集では「国際識字10年と日本の識字問題」が特集された(1991年)。その特論「自治体社会教育と識字実践の課題」において筆者は、地域における国際化の状況が進行するなかで自治体社会教育が取組むべき新しい課題として仮設的に7点の提起を試みている(詳細省略)。その第1に掲げたのは「すべての自治体社会教育が識字教育にかんする何らかの事業(識字学級、日本語ボランティアの養成講座など)を開設する」ということであった。前記・識字マップ調査が示しているように、東京都ならびに川崎市など首都圏では、このような方向が明らかに一つの潮流となって動き始めていることは確かである。これまでに見られない新しい挑戦であり、日本の社会教育実践史に新しい一頁を加えつつあると言っても過言ではないだろう。
 しかし問題はこれらの実践が、どのような思想性において、そしてどのような内容・方法論をもって、またいかなる条件整備のもとで展開されているか、ということである。自治体が公的な社会教育事業の柱として自ら識字教育を取りげるようになり、量的にその比率が全体の半数をこえた事実を確認すると同時に、いまあらためてその質こそが問われなければならない。簡潔に言えば、われわれは単一民族の思想に規定され民族“同化”教育の痛苦の歴史を背負っているだけに、これらの新しい識字実践が真に民族“共生”の視点を獲得し得ているかどうか、あるいは人権、民族アイデンティティ、自治等の理念の尊重の姿勢を確立しているかどうか、が問われなければならぬ。
展望をさぐる視点
 自治体の社会教育・行政が、民族共生の思想に立脚して、新しく社会教育事業あるいは実践に取組むにあたって、留意すべき課題はなにか。新しい実践の胎動は、それがもつ積極的な側面の創出とともに、また新たな問題状況をも生み出していく。いまある意味でスタ−トラインに立って、実践的展望をえがきながら、そこに含まれる問題点を厳しく析出する必要がある。
 第一は、善意による恩恵的な識字教育思想、文字と記号の単なる教え込みによる適応の学習、異言語(母語)・異文化の軽視ないし無視、人権保障の一環としての識字学習の欠落、がみられることである。それは日本の社会教育の歴史に深く根ざしてきた体質でもあって、問題点が逆照射的に浮き彫りにされているともいえる。他方「企業戦略としての共生」(経団連、野村総研など)の動きも急ピッチである(月刊社会教育93年4月号、山口和孝の発言)。あらためて「人間化」としての共生と識字の思想を想起する必要があろう。
 第二は、ここ数年の注目すべき識字実践を分析的にみてみると、共通してその出発点に学習者と行政関係者あるいはボランティア等の人間的、友愛的な「出会い」が重要な契機となっていることが興味深い。行政側とボランティアや市民運動との出会いもあれば、同じ行政関係者でも社会教育施設・主事と福祉・ケ−スワ−カ−の連帯・協力の出会いもあった(福生市松林公民館分館「ことばの会」の事例)。神奈川「ふれあい教育」や川崎「ふれあい館」などにみられるキィワ−ド「ふれあい」も、この友愛、連帯あるいは出会い、交流の思想から胎芽したものであろう。その意味で“友愛的な出会い”を可能とする“民族共生の地域づくり”が識字実践にとっても課題とされる。 第三は、公共的な条件整備論に関して、あらためて「民族共生の社会教育」をめざす視点からこれを再構築してみる必要があるのではないか。たとえば公民館「三多摩テ−ゼ」(1973・74年)の段階ではこのような視点からの提言をまったく含んでいない。やや具体的にあげれば、施設利用の条件、職員の資質や技能、委員の構成(例えば公民館運営審議会メンバ−の国籍条項)、識字実践の資金援助、基金の可能性、などがあげられる。 前掲「東京の識字実践1992−第二次識字マップ調査報告書」では、条件整備について多くの課題が提起されている(詳細・略)。
 第四は、識字実践の内容・方法・教材・テキスト等についての、いわば方法論的な研究・開発・交流を深める課題が切実である。九州や関西の被差別部落の識字学級や、東京や大阪の夜間中学における実践の蓄積(例、夜間中学教師による教科書づくりの格闘)を社会教育の識字実践にどのように共有化していけるか、興味深い課題である。 第五は、すでに東京・首都圏では模索が始まっている実践・運動グル−プの相互ネットワ−クづくり、あるいは行政関係者によるネットワ−クの拡がりが期待される。国際識字年(1990年)を契機として組織された国際識字年推進中央実行委員会や関西におけるネットワ−ク、たとえば国際識字推進大阪連絡会、あるいは神奈川識字国際フォ−ラムなどは、「国際識字10年」にむけて今後どのような活動を展開していくのだろうか。そして同時に日常生活圏的な自治体レベルにおける地域的ネットワ−クの形成がこれから重要な意味をもつようになるだろう。
 第六には、関西各都市や川崎、横浜、そして神奈川県にみられる自治体の公的な計画・方針(例「在日外国人教育基本方針」)等の策定が今後どのような展開をとげていくことになるか、注目される。とくに在日韓国・朝鮮人の固有の間題はもちろんであるが、ニュ−カマ−の問題を含めて、社会教育の在り方をどのように改革するか、外国籍住民にも共に開かれた社会教育をどう創り出していくか、公的に問い直していく必要がある。





7,日本社会教育研究における識字問題と識字実践
     [東京の識字実践−第3次調査をもとに] 
     日本社会教育学会第42回大会(明治大学)報告・メモ−1995/9/23−(小林)

(1) 日本社会教育研究における識字問題
  ・1991年よりこの4年ほど私たちの研究グル−プは「東京の識字問題」にとりくんできた。
  ・その契機−背景は、1990・国際識字年の国外、国内のさまざまの動き
  ・直接的には学会年報35集「国際識字10年と日本の識字問題」の編集
  ・この「まえがき」に−「教育関連諸学会のなかでも、識字問題を学会の共通の研究テ−マと
   して取り上げたのはいまのところ社会教育学会が唯一であろう」と書いた。
  ・しかし社会教育研究あるいは実践において、その後どのように深まったか→状況はかわらない。
  ・発表要旨集録(p65)に書いたように、マイノリテイの視点にたつ実践・研究、その視点の弱さ。
   →今次の年報39集・元木論文がこのことを指摘している。 
  ・たとえば韓国では、2年前の都立大学(40回)大会で招待講演をされた黄宗建氏などの生涯
   教育研究の中心の課題は、識字(文解)教育研究、その実践の理論化にあるといってよい。
  ・中国の成人教育関係者は必ず「掃盲」=識字実践に関心をもち、台湾でも社会教育の重要な
   課題として「失学民衆」への取り組みが意識されてきた。
  ・これらの東アジアの識字問題は日本の戦前の植民地支配に深く関連している
   −日本の社会教育研究として無関心ではいられない。
  ・高度識字社会の日本においても、社会のなかに少数者として埋没している。最近 新しく増大
   している(ニュ-カマ-)「非識字者」の存在と、その人権としての学習権保障の問題について、
   社会教育研究の立場から挑戦していく必要がある。
  ・私たちの問題意識として、非識字者の実態把握、取り組みとしての識字実践の動向・潮流の
   追跡、実践内容ないし方法の分析、そして課題−展望を模索していこうという作業をいくつか
   重ねてきた。
(2) 「東京の識字マップ」調査については、2つの報告書(1992・1995)にくわしい。
  ・調査の手法としては東京全域のすべての識字実践グル−プにたいする直接面接による実態
   把握。学生・院生によって個別調査の結果には精粗がある。
   *とくに1991年は電話調査、一部もれあり(あとでわかる)。しかし1994年度調査は、ある程度
     「全数調査」の水準に近いのではないか。調査時点は6月、しかし数か月にわったての補足
    調査。1994調査は結果的に半年ぐらいの補足。
  ・概略の「識字マップ」−資料2→資料1(1994)−詳細・略
   ここからどのような動向・特徴をみることができる。
(3) いくつかの特徴
 @東京の識字実践は、夜間中学を別にすれば、1970年代に萌芽的にいくつかの実践がみられるが、主要な流れとしては80年代、それも80年代後半に(ニュ-カマ-の増大を背景として)増加し、さらに90年代大きな潮流として拡大していく。→資料4
 A(発表要旨集録 p65)それぞれの学級・教室の設立経過はそれぞれに多様であるが、公的機関(外郭団体を含む)と民間ボランテイアによる実践に分けて、まず主要な流れを創りだすのは、(中国帰国者のための日本語学級は別として)民間団体、ボランテイヤによる取り組みであり、そして、その比重はむしろ明確に増大している。(資料3−設置主体別比較)→1994年度調査(円グラフ)にくっきりとあらわれている。
 B設置団体だけではなく、それが開設する識字学級・教室数が飛躍的に増大している。1992年調査から94年度調査の比較で興味深いことは、設置団体数 91が 143 に 157%増(約1・5倍)であったのに対し、学級数は 112 →221へ 197%増(約2倍)にふえている。
 このうち民間団体は 57 →137 へ 267%増(約2.5倍)となっている。
 一つの団体が初級から中級へ、あるいは昼の学級から夜の学級を開設するなど、識字実践の重層的な構造が形づくられ始めている。この点も、予算などの枠組みに拘束される公的機関よりも民間団体のボランタリ−なエネルギ−が識字実践の新しい厚みを生み出している。
 これに日本語ボランテイア養成講座の増加を重ねると、東京の識字実践のははっきりと重層構造をもち始めているといえる。
 Cこれに平行して、学習者の出身地(国籍)別にみてもも多彩にひろがり、1992年の62ヵ国から1994年の92ヵ国へ、とくにアフリカ−3倍、中南米−2倍の増加がいちじるしい。
 他方で「日本の内なる」課題、日本人にたいする識字学級は、福生公民館・松林分館「識字学級ことばの会」、東久留米市中央公民館「障害者養成講座」、町田市公民館の「さなえサ−クル」などの障害者教室などわずかであって、大阪などの解放会館などで開かれている被差別・識字学級などの開設と対照的な違いをみせている。

 以上統計的な主な傾向→量的増加は当然質的な変化を生み出している。(集録 p65)A?この発表では主として、量的な東京識字実践のこまかな動向については報告書にまかせ 以下では、識字実践の質的な内容の分析を通して、いくつかの問題提起を試みたい。
 その際、次のような視点で問題分析をすすめていきたいと考える。
 第1に、1980年代から、とくに90年代に大きく展開をみせている東京の識字実践を社会教育実践としてとらえてみる、という視点である。単なる日本語教育論ないし学習論としてのみとらえない、ということ。(発表要旨集録 p65)「これまでの社会教育実践と連続的視野をもってとらえる」ということ。
 第2に、戦後の社会教育実践の展開のなかにこの識字実践を位置づけた場合、つまりそれは、いわば「社会教育的マイノリテイ=社会的教育的に不利な立場におかれている人々にたいする学習権保障」の実践であるわけであるが、これまでの細々とした、しかし果敢に取り組まれてきた社会的マイノリテイにたいする社会教育実践の歩みのなかに「連続的視野」でとらえると、何がみえてくるか、という問題である。
 たとえば1970年代、三多摩の社会教育のなかでは果敢にに展開されてきた障害者の青年学級、あるいは社会同和教育、さらには80年代になると高齢者にたいする社会教育実践が多彩にとりくまれる。これらの実践の歩みにたいして、ここで問題にする識字実践はこれまでの実践とどのように共通しているのか、しかしまたどのような新しい側面、あるいはこれまでにない注目すべき特徴をもっているか、に注目してみたい。
 第3に、具体的には、さしあたり5つの注目点があるように思う。
 @識字にかかわる社会教育実践をになう公的社会教育−それをになう職員の役割もさることながら、識字実践の潮流をみると、それが市民・ボランテイアの民間的運動としてまずは提起されてきた、いわば識字実践の市民的潮流ともいうべき特徴である。
 A識字実践に参加する「学習者」はただちに非識字という厳しい状況で、しかも異国でくらす「生活者」であるということ、したがって学習者の学習課題は実に深く生活者の生活課題と重なっている、学習支援は生活支援と不可分の関係で展開せざるをえな  い。この点は戦後社会教育実践における「学習と生活」の結合の問題に具体的なイメ−ジを与えてくれるように思われる。
 B識字実践を実践的に担うのは、文字通り(公的職員だけではなく)市民・ボランテイアの人たち、その共同の運動である。市民としての、そして共同学習者としての市民ボランテイアとネットワ−ク、そしてその重層的な構成が実践の(あるいは地域のなかで)新しい状況をつくりだしている。
 Cこのような市民的活動にたいする行政の条件整備の重要性とともに、これまでの条件整備論、そのありかたをあたらしく転換させていく課題が提起されてきているのではないか。つまり行政主導の「市民参加」論にたいして、主体的な「市民主導」のボランテイア活動へのいわば「行政参加」、市民・ボランテイア活動がむしろ行政の条件整備の「参加」を求めてくる、あるいは行政を住民活動の課題にそくして「引きずりだしていく」、そのような条件整備論が求められはじめている。
 Dそして第5に、自治体の教育計画、社会教育計画、あるいは「生涯学習計画」としての「外国籍市民・教育計画」あるいは「指針」や「方針」のような公的な、かつ具体的な自治体計画論の必要である。関西や、あるいは近くでは川崎市、横浜市、神奈川県などにみられる「民族共生の教育」をめざす自治体計画は、東京では未だ未発!





,夜間中学の実践に学ぶ−識字と人権の視点から 
                     和光大学人間関係学部紀要1号(1997年) 小林文人
                

 1 はじめに−識字実践の背景
 高度識字社会の日本では、ともすると読み書きができない人(非識字者)の存在は否定されがちである。ユネスコの調査にたいして国の公式見解は「日本では識字の問題は完全に解決ずみである。−−−特別な施策をとる必要はまったくない」(1964年)というものであったが、この考え方は現在でも踏襲されているように思われる。1990年国際識字年にあたっての日本の対応も「内なる識字問題」についての認識は弱く、外への(不充分な)援助に終始するという状況であった。
 しかし、義務教育への就学率がほとんど100%に達する現段階でも、近現代史の苛酷な 歴史と差別の構造に翻弄されて、学校に行くことができなかった人たち、あるいは学校に在籍しても「形式的卒業者」や「落ちこぼれ」など、実質的には非識字者と呼ぶべき人たちが少なからず存在することを忘れてはならない。
 それだけではない。戦前日本の植民地支配は、強制連行を含めて、多くの在日の韓国・朝鮮人、中国人を生み落とした。また戦後は、1965年日韓条約や1972年日中国交正常化などを契機として両国からの引揚・帰国者が、あるいはその後も東南アジアからの「難民」や「アジアの花嫁」が、また1980年代後半になると新しく来住外国人(いわゆるニュ−カマ−)が増大した。日本の社会はこの間に明らかに多国籍化し多民族化してきている。日本語を母語としない新しい外国籍住民が、非識字者として生活上さまざまの課題をかかえながら、地域にともに住むようになってきている。
 日本では、このような社会的教育的マイノリティとしての非識字層の存在にもかかわらず、識字教育の実践はきわめて希少であり、またその理論研究や調査活動も未発の状態に近い。韓国の生涯教育(「平生」教育)の実践では識字教育(「文解」教育)が不可分の関係で取組まれ、またその理論的解明の努力が、社会教育や教育社会学の研究者によって、精力的に積み重ねられているのと比べて、対照的に異なる。識字教育そして非識字問題研究の欠落を反省し、その空白を協同して埋めることは今後の大きな課題であろう。
 だが日本でも、これまでこの課題に果敢に挑戦してきた貴重な実践がある。三つの系譜をあげておこう。その第一は、言うまでもなく、戦後1947年から胎動する「夜間中学」の運動である。公教育制度のなかで、教育的無権利層の発見とその教育機会保障の実現に営々として取組んできた点に重要な意義がある。第二は、公教育制度の周辺に、たとえば子守学校、夜学、民間の読み書き塾などの事例がみられたが、組織的な民間運動として、部落解放運動・同和教育運動における識字実践(1963年福岡県京都・行橋地方に始まる)が取組まれてきた。全国で約六百前後の識字学級が運動的に開設されているとみられる。第三は、主として東京首都圏、また他の都市部においても、1980年代後半から外国籍住民を主な対象とする日本語教室・識字学級の新しい潮流が始まっている。なかには一部に日本人の非識字者へ実践(茅ケ崎市、福生市、町田市など)もみられる。地域の市民ボランティアが民間有志的活動として開設する動きが牽引車の役割を果たしつつ、それを追っかけるかたちで公民館、市民館(川崎市)など社会教育施設や国際交流協会等の公的機関による識字教育の施策が拡がりをみせている。
 人間発達学科(第4回)講演会は、日本の識字問題・実践について認識を深めるため、このうちとくに第一の夜間中学について主報告をお願いし、夜間中学の実践に学びつつ、関連して被差別部落の識字運動や外国籍住民にたいする識字実践の動向をも視野のなかにいれて、主題についての課題、展望をさぐってみようという企画から始まった。
                           
 2 夜間中学校教師・見城慶和さんについて
 第4回講演会は1995年11月29日、和光大学B205教室で開かれた。まず専任教員・小林 文人が「識字と人権」をテ−マに30分程度の問題提起をし、その後に、東京都江戸川区立小松川第二中学校(二部)教諭・見城慶和さんに「夜間中学の現場から−35年間の夜間中学教師生活の中で生徒から学んだもの」と題して約1時間半の講演をいただいた。司会は専任教員の伊藤武彦であった。あわせて一週間後には、関連して山田洋次監督『学校』(1993年、松竹作品)の上映会も学内で行なわれた。
 当日の出席者は約150人、学生の参加が多く、映画『学校』への興味もあってか、初め て聞く夜間中学の報告に身を乗りだし、食い入るように集中する姿が多かった。杉山学長も参加されていた。講師の見城慶和さんは「35年間」の教師生活を総括するような立場から、詳細な統計資料や記録をもとに熱弁(見城節というべきか)をふるわれ、まことに充実したひとときとなった。(以下、敬称略)
 見城慶和は、1937年群馬県生れ、東京学芸大学教育学部(国語科専攻)卒業後、教師の道を志して、当時出版されていた塚原雄太著『夜間中学生』(知性社、1958年)に刺激をうけ、1961年、東京都荒川区立第九中学校第二部(夜間部)教諭となった。少年時代は、戦後のみずみずしい民主教育のなかで新憲法と出会い、また大学時代は、60年安保前後の学生運動の洗礼もうけ、多感な青年教師としての出発であった。それから35年間、一すじに夜間中学校教師としての道を歩んできた。1988年より江戸川区立小松川第二中学校二部に転じ、現在は主に日本語学級の担当をしておられる。また夜間中学の増設運動(「松戸市に夜間中学校をつくる市民の会」など)の推進役でもある。
 夜間中学校をえがいた映画『学校』、この企画のため山田洋次監督が荒川九中を訪れたのは1975年2月のことであったというが、見城は当時からこの映画づくりに熱い思いをかけて見守ってきた。実際の撮影が夜間中学校で行なわれたときもあり、またエキストラとして夜間中学校の生徒や卒業生が大勢参加している。出演俳優の一人である竹下景子は、時間が空くと「先生、授業をさせてください」と見城先生の教室に飛び込んできたこともあるという。主演の西田敏之が演じる夜間中学校教師(黒井先生)像のなかには、見城慶和の教育実践が色濃く投影されているように思われる。
 以下、当日の講演のなかから、夜間中学の歴史、現状、その教育実践について提起された重要な点を取り出し、いくつかのコメントを付し、あらためて認識を深めてみたいと思う。「 」内は特記しないかぎり、当日の講演からの引用である。なお配布された統計・資料などは、紙数の関係で収録できないが、お許しをいただきたい。
右・見城慶和さんと (小林チヒロ写真展にて、20300501)


 3 公教育のなかの運動−夜間中学校の苦悩の歩み
 まず講演は映画『学校』をめぐるエピソ−ドから始まった。撮影は夜間中学校関係者の全面的な協力で進められた。「山田洋次監督のこだわりなんですね。夜間中学をいちばん体で知っている人に出てもらいたい、というわけで広く卒業生に呼びかけ、自主夜間中学の人にも呼びかけ、もちろん在校生、現に勤めている教師、講師にも協力をお願いした。主要な俳優さんを除けばエキストラ250人ほどはみな夜間中学校の関係者なんです。」「作り話ではない、映画のスト−リ−は私たちが経験した、実際あった出来事なんです。登場人物はほとんどみなモデルがいるんですよね。」「ですから映画を見ていると、毎日の授業、毎日の学校生活の延長のように思われて、自分がその映画のなかに飛びこんでいきたいと思うような−−」そんな映画に仕上がっている。人によっては<こんな学校がほんとに存在するのだろうか>という批評があるが、事実としてこの「学校」は“存在”してきたのである。
 夜間中学校はどのように生れ、今日までどんな歩みをたどってきたのだろうか。それはまさに苦悩と矛盾の歴史であった。配布された「略年表」によると、大阪市生野第二中学校「夕間学級」が始まったのが1947年、東京では1951年足立区立第四中学校が最初だ。そして1954年には全国で87校、翌年55年84校(生徒数5208人)となるが、このあたりをピ−クとしてその数は減少していく。1966年には行政管理庁が文部省にたいし「夜間中学校早期廃止勧告」を出し、その影響は大きく、1968年21校(生徒数416人)、70年には20校ま で落ち込んだ。しかし、その後の夜間中学校関係者の増設運動、たとえば高野雅夫氏などの全国キャンペ−ン、自治体側の努力、全国夜間中学校研究会の毎年の訴え、などによって夜間中学校を開設する動きは若干回復し、1994年現在34校(生徒数3027人、年令は15才から70才以上まで、国籍別では中国、韓国、そして東南アジアなどを中心に多国籍化、うち東京は8校)、また自主夜間中学運動15グル−プ(東京・首都圏は5グル−プ)という 状況になっている。
 しかし文部省は夜間中学校を公教育機関として正式に認めているわけではない。またその後に行政管理庁の廃止勧告が撤回されたという話も聞かない。後記するように「夜間中学校見直し」の会計検査院の指摘(1992年)も行なわれている。したがって、東京都など8都府県の自治体が、それぞれの事情のもとに運営上の工夫をしてようやく開設されているに過ぎない。文部省の夜間中学校にたいする否定的な態度は、常に夜間中学校の存続を脅かし、その増設を望む地域の運動を阻む大きな障害になっている。
 ふりかえってみると夜間中学校の歴史は、日本の公教育制度のなかに公的位置を認められていないだけに、この学校を真に必要としている人びとの教育要求に根ざして、正規の学校として認めさせる、その存在を明確化する、という苦しい運動の歴史であった。その実践の道程のなかで、そもそも学校とは何か、いったい教育はどうあるべきか、という基本の理念、初心が問い続けられてきた。
 あと一つ、最近注目すべき取組みとして、自主夜間中学の運動が拡がってきている。たとえば「私(見城)が住んでいる松戸市には、11年前に市民運動で自主夜間中学をつくりました。週2回授業をやっています。もう650名もの人たちがここに学びに来ている。そ れにも関わらず、松戸市は夜間中学校をつくりません。江東区もそうです。−−−勝手にやってください、公立化は認めません、そういう姿勢なんですね。」 さらに苦悩の歩みは続くのであろう。しかし公教育制度の在り方を問う運動として、理念を追求しつつ、今日にいたる迷いない持続的な取組みは、心ある人たちの胸をうつ。

 4 生徒たちの実態、その質的変化
 戦後初期の夜間中学校創設の時期は、第一はなによりも貧困、長欠、義務教育不就学者の救済のための学校であった。1960年代になると、学齢をはるか超えた高年齢生徒が入学してくるようになる。戦争、戦後混乱などで就学の機会を奪われた人たちだ。さらに70年代に入ると、先述したように韓国や中国からの引揚者、帰国者、その家族たちが登場してくる。またこの時期の後半から80年代になると、昼間の学校の競争・受験戦争・学校荒廃を背景に登校拒否者たちの入学が増加し、学齢・若年期生徒の比重が大きくなる。当時の荒川九中の場合などでは登校拒否生徒が夜間部在籍者の六割を占める状態になったという。その後80年代後半以降は、外国籍住民(ニュ−カマ−)の増加にともない、夜間中学校生徒の構成は多国籍化していく。
 このように夜間中学校の生徒の動向、その質的変化をみていくと、まさに戦後日本の社会激動を反映し、社会矛盾と混乱、教育の歪みの諸断面が凝縮して現われていることが分かる。夜間中学校は、「社会の見える展望台」「時代を映すリトマス試験紙」といわれ、「いつも社会に現われる現象を十年先取りしています」という現実がある。
 配布された夜間中学校在籍生徒の内訳表(東京、1994年現在)によれば、次のような構成であった。都内8校合計409名のうち、日本人29%、中国帰国者40%、在日韓国・朝鮮人9%、ベトナム難民3%、ブラジル移民3%、その他外国人14%などとなっている。もは や日本語を母語としない生徒が全体の7割を占める。その他外国人の国籍は12ヶ国にのぼっている。生徒たちの構成は質的に大きく変化してきた。
 ところで約3割の日本人生徒29%の内訳はどうか。入学時に20才以上のものが19%、20才未満の若年・元登校拒否者はわずか9%、その他1%となっている。かって大半を占めていた登校拒否者がなぜこのように減少したのか。夜間中学校は、若年生徒の増加のなかで「登校拒否児たちに、自分を解放する場を保障し、自信を回復させ、のびのびと生きる力をつける」ことを新たな教育課題としてきたのに−−。
 都全域の中学校長欠者、登校拒否の統計は年々明らかに増加してきている。それなのになぜ若年生徒が夜間中学に来なくなったのだろう。「実質的には中学校教育を受けていなくても、15才過ぎると卒業判定されちゃうんです。義務教育には除籍はない、卒業証書くらい持たないと生きる道を閉ざされることになる、という教育的配慮の美名のもとに、形式的な空手形の卒業証書が渡される。そうすると公立夜間中学にさえ入れない。そうしたカラクリのため若年生徒は減らされているんです。」「学齢の生徒は昼間の中学校に通うのが建て前、夜間中学に入れてはいけないという厳しい指導がある。でも映画『学校』を見たり、話を聞いたりして、あんな家族的な学校ならば、私にも通えるかもしれない、と藁にもすがる思いでくる人がいる。そんな人を追い返すことは、死ねと言うようなものですね。イジメです、それは。だからやっぱり見学にいらっしゃいということになる。」
 夜間中学校では、学力も違い、異年令、多国籍、そしてさまざまの人生ドラマをかかえ、それぞれの生活と格闘している、まさに多様な人々が、ともにあい集い励ましあい、仲間として学びあう学習共同体がめざされているように思える。

 5 生活史、生活綴方的な教育方法
 講演のなかでは、生徒たちの作文、生活史、生活綴方が数多く紹介された。少ない時間のなかで思いをこめて次から次へと作品が朗読された。見城の回想によれば、大学時代に寒川道夫『山芋』、無着成恭『やまびこ学校』などとの出会いがあり、生活綴方的な教育実践への関心が強くあったようだ。1961年、はじめて荒川九中の教師になったとき、「一日も早く、一刻も早く、なぜ夜間中学生なのかを知りたかったのです。ノ−トを一人ずつにプレゼントして、このノ−トになんでも書きましょう、とくに生活のこと、昼間の仕事のことを書いてください」と呼びかけた。このノ−トをもとに、生徒たちの生活現実の理解、そして人間的な交流と指導、が始まるのである。おそらく、そこには教師と生徒相互の信頼関係が生れていなければ、生徒にとってはつらい自分史も、ありのままの生活実態も、意識の深層にあるほんねや悩みも、綴られなかったに違いない。相互の心の交流がなければ、このような作品は生れなかっただろう。講演では、生徒の感動的な作文だけでなく、そこに秘められている人間発達の輝きにふれた教師・見城自身の感動もまた語られた。その一部を要点のみ記しておこう。
 浅見タケ(女、55才)「私の人生は子守からはじまった−−−」「ここに来なかったら、なんにもしらないまま年をとっておわったかもしれません。九中二部の先生方は、私にとっては目のおいしゃさんでもあります。だんだん目が見えるようにして下さいます。」「私は幼いとき家が貧しかったので/学校に行くことが出来なかった/ずいぶん年をとってから/私は私の乗れる汽車を見つけた/それは夜間中学校という鈍行列車/私の乗った駅は荒川九中二部駅」 この詩を紹介したあと、見城はこう言っている。「鈍行列車の詩を読んだとき、私は鳥肌が立つと言うのか、夜間中学校が鈍行列車ならば、今の当たり前といわれている小中高等学校はなんなんだろう、いつも息せききって、尻叩かれているリニアモ−タ−カ−みたいな学校じゃないだろうか、そんな競争、競争でどこへ行き着こうとしているのか。」(ちなみに日本テレビは1984年「僕らの鈍行列車」というタイトルで夜間中学校のドキュメントを放映している。)
 菊地(男、17才)「−−不良グル−プのいじめの対象となり、金もってこい、とおどされた。−−−自分の一生はもうだめだと、ますます落ち込んで人生をぶんなげてしまった。東京に夜間中学があると知って、駅まで5キロ、それから電車にのって2時間もかかる夜間中学へ通いはじめた。はじめの頃は、時間にル−ズで、とても続きそうもなかった。でも僕はがんばればやれる、と思うようになった。−−−がんばれば、物事は少しずついい方へ行く、と考えることができるようになった。ぼくが不幸になれば、僕だけが不幸になるのではないことがわかった。」 授業妨害などもして一時荒れたこともある彼は、その後、内面的葛藤をへて、問題を克服し、大学にも進学した。国家公務員になり、教師・見城へ素敵な手紙も書いてくるようになっている。見城はこう言う。「いま目の前にいる現象的な彼らのありように惑わされないで、夜間中学をでて5年後、10年後はどうしているか、その人の未来像をえがきながら助言するっていうのかな、何も助言できないときは、あ−よくきたね、今日は元気いいな、とか声をかける、−−教師の方が決めつけないで、生徒に寄り添いながら、しっかり関わっていくってことが大事なんですね。」
 井上年栄(男、38才)「酒好きの私は、仕事(建築労働)が終わって家に帰るとすぐ呑んで寝る毎日でした。でもある日、こんな生活ではいけないと思い−−−九中二部があることを知りました。一人では行けないと言って女房に一緒に来てもらいました。入学して私はがくぜんとしました。いかに自分がいい加減な生活をして生きてきたかを知ったからです。学ぶ一日、一日が自分を変え、自分を大きくしてくれました。−−−連合運動会にそなえて、足を鍛えるために自転車をやめて歩くようにしました。そして当日、駈けに駆けた。とっても疲れた。でも得たものは大きかった。それは無報酬の報酬でした。そこで私は自分でやらなければこの無上の喜びは得られないことをかみしめました。今私が非常に残念に思うことは、学べる時に学ばなかったことです。−−−私の胸は今、充実した心でいっぱいです。それは生涯学ぶということ、これからは自分で問いを出し、自分で答を出しながら自由に生きていくことができます。」 見城はこの作文についてこう語っている。「運動会に一位になったって赤いリボンがくっつくだけなんです。でも井上さんは、そこから得たものは、無報酬の報酬でした、と書いた。私はね、本当にこの言葉に出会えて良かったなと思いました。もし本当に豊かな人生があるとすれば、死ぬ間際に自分の人生に本当に無報酬の報酬といえるような仕事がどれだけ出来たか、その無報酬の報酬がどれだけ実感される人生だったかどうかが、生きるに値する人生だったかどうかを決めるんじゃないかなあと、井上さんから私は学びました。」
 学校、そして教師に出会うことによって、生徒たち学ぶ側は新しい発見をし、自己発達の歩みをたしかなものにしていく。そのことを通して教師自身が逆に教えられ、教師としての歩みを新しくきざんでいく、そのような循環を読みとることができる。

 6 生活にねざし、生きる力を支え励ます教材、教科書づくり
 夜間中学校の教師たちは、自らの仕事を通して、教えるということの基本的なあり方、その具体的な教育・学習方法の創意工夫、を集団的に研究してきた。そのエネルギ−には打たれるものがある。つまり教えるということは、基本的に学ぶ側の実態とその要求(潜在的なものをふくめて)から出発すること、どんな教育活動でも、すべて学ぶ側の主体的な学習活動がなければ成立しないこと、そして、教える側と学ぶ側の相互をつなぐ具体的な教材や教科書は、学ぶ側の実態と要求に基づいて、個別に作成され、自主編成される必要があること、そのような姿勢、課題を、夜間中学校の教育実践は追求してきた。
 たとえば夜間中学校では、既成の、あるいは市販の、教科書でいえば検定の、出来上がった教材・テキストはそのままでは使えない。基本的には、自分たちで、生徒たちの顔を思いうかべながら、教材や教科書を自主製作していく必要がある。生徒たちの学力水準や生活実態に立脚すれば、とりあげるテ−マも内容も、おのずから基礎を重視し、しかし具体的な生活にねざして、そして生きるエネルギ−に結びつくような、そんな視点から創作、創造していくことが求められる。
 見城は、講演の終りの方で、短い時間ではあったが、「私は国語の教師なので、どういう力を育てることを願って、どういう授業をしているかを一言お話ししてみたい」と言って、「生きる力を支え励ます文法指導」の説明をした。その冒頭に示された例文も夜間中学校生徒の作文であった。項目をあげれば、?上位・下位の概念を明確にしよう、?他動詞を意識的につかおう、?可能動詞で可能性を否定しない、?形容詞の落し穴に注意する、というユニ−クな内容である。見城は次のように言っている。「−−このように文法にしても、漢字にしても、作文にしても、一人ひとりの生き方、生きる姿勢、を問うということを柱において、吟味しながら、教材を選び、教え方を考えていくのです。」
 配布された資料「生きる力を支え励ます文法指導」の裏面は、「夜間中学における生活基本漢字の指導」についての興味深い資料であった。夜間中学校の国語教師たちがつくった生活基本漢字は、次のような方法で選定されているという。生徒たちは、国籍も多様で、年令も15才から70才台までと幅があり、多くの人が社会人として仕事についている。それらの生徒たちの切実な学習要求にこたえるために、生活の中でつかわれている漢字を、つかわれている言葉で学べるようにしようという考え方で、次の14項目の生活場面が定められた。すなわち、基礎、履歴書、衣食住、身体、病院、公共施設、標識、交通、自然、地理、職業、学校生活、社会生活、個人生活、である。これに都道府県名にもちいる漢字を加えて、380字の生活基本漢字が選ばれた。
 これに基づいて編集された国語教科書は実に感動的なものだ。なんと暖かく、やさしく、こころ細やかなテキストだろう。基本的に学習者の立場にたった教科書づくりの典型と言ってよい。「笑−うえのじはわらうとよみます。したのじはなくとよみます−泣」の扉ではじまる「国語」教科書の第1課は、「一、二の三でとびおきろ/四の五のいってるひまはない/いつも、あさめし六、七分/たまにはゆっくりたべたいが/八じのしゅっきんじこくにまにあわない−−」の書き出しである。かっての「さいた、さいた、さくらがさいた/すすめ、すすめ、へいたい、すすめ」の国定教科書を想起しながら、教科書づくりの歴史、その思想の大きな転換、そこにかける教師たちの熱い思い、を実感する。
 このような夜間中学校の教師たちの教材・教科書づくりの努力と工夫は、最近の外国籍住民にたいする日本語・識字実践のなかにもっともっと継承される必要があるのではないだろうか。とくに夜間中学校の教科書は、教師たちの思いをこめて自主製作されたテキストだ。これらが公費で印刷され、公教育の場で正式につかわれているという点では、戦後初期(アメリカ占領下)沖縄の自主製作の教科書とならんで、戦後日本(検定)教科書史のなかにきらりと光る1頁をしめることは確かだ。

 7 教えることは学ぶこと−教師は生徒たちに学ぶ
 今回の講演で、見城は夜間中学校教師としての35年を振りかえって、くりかえしその幸せを、とくに生徒たちから学ぶことが大きかった喜びを強調した。生徒たちの多くは厳しい人生境遇や苦しい体験があり、それを克服して自立していこうとする姿勢、その熾烈な思いに打たれるところが少なくないのであろう。いくつか見てみよう。
 「学校っていうところは生徒たち一人ひとりのペ−スで、一人ひとりが主人公としての居場所がなくちゃいけないんじゃないでしょうか。そういうことを夜間中学生は私たちに訴えていると思うんですよね。」「夜間中学校の卒業っていうのは、確かにこの学歴社会の中では学歴とはいえないと思いますけれども、一人ひとりが自分の人生の主人公であるという自負と、自分らしく生きる力と、本ものを見抜く力と、そういうもので学力をはかるとすれば、夜間中学生というのは卒業に値する学力を一人ひとりがしっかり身につけて、卒業していくんじゃないかなって思っています。その後押しをするのが僕らの使命なんですけど、本当に負けているんです。」「僕は夜間中学の先生で良かったなと、本当にとことん思うんです。<いろはかるた>を毎年作ってるんですけど、夜間中学生は、とてもいいものを作りますよ。たとえば<ら>のところでは<楽な生活、学歴優先>、これを大学生の前で読んだらみんな笑ったんです。−−−夜間中学は卒業しても学歴にもならず、知識だって、そんな高級なことを勉強するわけじゃない。でも夜間中学生は、<け>のところで<経験は充分あるぜ、夜中生>、<こ>のところでは<高校生、大学生だけが人間じゃない>、そして<や>では<やせてもかれても俺は俺>。なんと胸をはった、自分は自分なんだ、自分が人生の主人公なんだという、そういう誰にも侵されない強さっていうのか、そういう尊厳の輝きを獲得して生きているっていう、そういうたくましい一人ひとりが浮かんできます。私は幸せなことに、そういう生徒と35年間も過ごしてきているんですね。みんなから多くのことを学びました。一番出来が悪いのは僕なんじゃないのかなと思うんですけど−−。なんとか応えなくちゃと思う毎日です。」 
 教えることと学ぶこと、その深い結びつきと相互の信頼と尊敬、味わい深いものがる。

 8 生涯学習政策下の夜間中学校−問題と課題
 本来、国際的な潮流からすれば、生涯学習政策の登場は、すべての人の生涯にわたる教育・学習の権利保障をめざすものであろう。しかし日本の動向は必ずしもそうではなく、複雑な屈折がみられる。1990年の生涯学習振興整備法の制定は、バブル経済を背景とする立法であって、生涯学習の公共的条件整備の転換、民間(企業)活力導入、生涯学習・文化の商品化と市場形成、という方向がめざされている。
 これにたいして、夜間中学校の実践と運動は、一言でいえば“すべての人に義務教育”を実現していこうという課題に挑戦してきた。しかし生涯学習政策下において、逆に「夜間中学は、経済性、効率性、公平性、合法性、の面から問題があり、見直されるべきものである」(1992年会計検査院の監査報告)と指摘さている。これに対して、全国夜間中学校研究大会においては、第一の要望として「夜間中学校はあくまで義務教育の中学校であり、生涯学習振興整備法によりその性格をゆがめてはならない」ことの確認がつよく求められた。またあわせて、義務教育未修了者の実態調査、義務教育保障対策の確立、全都道府県に夜間中学校の設立、現夜間中学校の諸条件整備、などの課題が提起されている(1994年)。公教育制度のなかに、正規の教育機関としての夜間中学校をどのように“存在”させていくか、課題は大きい。
 ここであらためてユネスコ・第4回国際成人教育会議(1985年)で採択された『学習権宣言』の思想、また国際識字年を契機に発表された『万人のための教育・世界宣言』(ユネスコ、ユニセフ、UNDP、世界銀行共同採択、1990年)の理念を想起しておきたい。これらの宣言は、発展途上国だけに適用されるものでない。国際的な動向にそって、日本にも非識字者が存在し、彼らはひたすら適切な教育機会を求めていること、なかでも夜間中学校の制度的充実は当然の政策課題であること、を確認しておきたい。




韓国・文解(識字)教育運動が問いかけるもの
       
韓国社会教育研究会『99韓国訪問報告書』(東京学芸大学)1999

         *関連記録:東アジアにおける識字教育運動の研究・交流・協力
                           (韓国文解教育協会講演、1999年)
              TOAFAEC『東アジア社会教育研究』第4号(1999年)所収→■

1,日韓社会教育の研究と交流
 今回の韓国訪問は2年ぶり。昨年は残念ながら日韓文化交流基金の助成が実現せず、結果的に1度も韓国の土を踏むことがなかった。
 逆に、鹿児島大学の招きで黄宗建先生が来日(1998年5月)され、私も同道して、鹿児島から与論島を経て沖縄への旅をご一緒する機会があった。この1週間、かなりハードな日程であったが、またとない貴重な忘れがたい旅となった。私は毎日、先生といわば寝食をともにしたのである。黄先生を通して、たっぷりと韓国を知り味あう機会に恵まれて、この年も結果的には韓国としっかり出会うことになった。
 またこの年、『東アジア社会教育研究』(TOAFAEC編)第3号が発行され(1998年9月)、「韓国の教育改革(生涯教育政策)の動向」(孔秉鎬)等の論文が掲載されたが、韓国の新しい息吹きと苦悩の歩みを知り、金大中政権によるこれからの展開に強い関心を寄せてきた。
 思えば日本・韓国の社会教育の研究や実践の間にも「近くて遠い」距離があったが、1990年代に入ると、学会や運動体(日本・社会教育推進全国協議会と韓国社会教育協会)相互にこれまでにない交流が始まっている。私たち(当時、東京学芸大学社会教育研究室)もまた、1992年に「韓国社会教育法10年」を調べる有志の旅を試み、また1994年冬以降は日韓文化交流基金の助成を得て、毎年の韓国訪問を重ねることができた。その過程で、韓国の社会教育研究あるいは運動にたずさわる主要な方々との交流を深めることになったが、その一つの重要な研究テーマは、言うまでもなく文解(識字)教育・実践についてであった。私たちは、これまでの訪韓事業で毎回必ず文解教室を訪問し、意見を交わし、大いなる刺激をうけてきたのである。
 振り返ると、この韓国訪問プロゼクトでも、1994年12月には、ソウルの高麗学院、大邱の福南平生教育センター、1996年3月には光州の希望学校、釜山の円仏教叡智院、1997年3月には、同じ釜山の広場図書院、などを訪問してきた。その記録は各年度の報告書に事例的に掲載されている。そして今回もまた、大邱市の新岩教会・平生教育院(識字学校)を訪問することが出来た。あらためて紹介の労をとっていただいた前記・黄宗建氏と金済泰氏など韓国文解教育協会の知友の方々に感謝したい。
 韓国の識字教育実践は、いずれもそれぞれに個性的かつ感動的な取り組みがあり、日本の社会教育・生涯学習の中では見られない貴重な歴史とエネルギーを秘めている。またこれらの識字実践のなかで格闘されてきた社会教育運動のリーダーや研究者たちの情熱から教えられることが少なくなかった。たとえば今年の新岩教会平生教育院では、黄宗建氏の教え子である李善花さん(同院長)の役割が印象的であった。

2,日本の識字問題への取り組み
 ところで、日本ではどうか。韓国の識字実践・運動の歩みと比較すると、大きな遅れがある。日本ではすでに識字問題は「解決済み」という考え方が支配的であるが、事実は決してそうではない。戦後50年の歩みのなかで、なぜに夜間中学が存在してきたか、被差別部落の識字学級がいかなる展開を見せてきたか、そして最近の外国籍住民の日本語教室等の実践等に目を向ければ、そのような「常識」が誤りであることはすぐに判明する。識字問題というきわめて重要な問題が現実に存在するのに、その事実を見ようとしない姿勢や意識こそが問われなければならない。社会的には少数の、しかし歴史的には重要な、国際的にはむしろ普遍的な、非識字という事実、その厳しい現実をきちんと見る目をもたず、それを社会教育研究の課題として自覚的に捉える点において不充分であった。私たちは大きな課題を忘れ、重要な問題を見過ごしてきた誤りを反省せざるを得ない。日本でも、いま遅ればせながら、ようやく識字問題についての研究的な取り組みが開始されたといえようが、それも日本社会教育学会等において1990年代に入って以降のことである。
 たとえば、私自身が識字問題にささやかながら研究関心をもち始めるのは、1990年「国際識字年」からであった。この年に学会では識字問題を研究年報の特集テーマに取りあげることになり、その担当理事として編集委員会に参加し、1冊の本を上梓することが出来た(『国際識字10年と日本の識字問題』学会年報第35集、1991年、東洋館)。日本の教育学関連諸学会の公式の年報・紀要のなかで、識字問題を取りあげたおそらく唯一の企画であろうと評価されている。
 これを契機として、日本の識字実践・研究は新たな歩みを始めることになる。たとえば、東京学芸大学社会教育研究室について言えば、東京の識字実践についての実態調査に取り組んできた(『東京の識字実践−識字マップ調査報告』1992年、1994年)。千葉大学や埼玉大学でも意欲的な研究調査報告がまとめられた(『房総の識字マップ』1994、『埼玉県における外国人教育の現状』1995など)。これらの研究動向に支えられながら、私自身も和光大学等の講義やゼミで積極的に識字問題を取りあげてきた。また社会教育推進全国協議会(社全協)や川崎市など自治体関係者による識字問題の共同研究活動にも参加してきた。このまとめは、「私たちのめざす日本語・識字教室ー日本語・識字教室発展のための指針(第6次案)」(『月刊社会教育』1995年10月号)として公表されている。
 このように振り返ってみると、この10年ちかくの間に、日本でも識字問題に積極的な研究エネルギーが注がれてきたことを実感するわけであるが、この間いつも私たちは、韓国・社会教育関係者の識字研究から学び、強い刺激を受けてきた。比較してみて、日本の社会教育研究は、また実践・運動についても、識字問題についての認識が弱く、その重要な研究視点を大きく欠落してきたこと、を再認識させられてきたのである。
 それだけに、日韓文化交流基金助成による韓国訪問はその都度貴重だったのであり、今次の旅もまたそうであった。あらためて感謝の意を表する次第である。

3,韓国の文解教育の研究・運動から学ぶもの
 今回の韓国旅行のなかで訪問した、大邱市新岩教会・平生教育院(識字学校)については詳しい別稿が用意されるだろうから、ここでは、韓国・文解教育についての研究・実践の全体的な動向と特長について、とくにそれが日本の社会教育に問いかけるもの、という観点から、以下、私たちにとっての課題をいくつか記すことにする。
 第一は、まず識字問題についての研究的な取り組みについて。韓国では社会教育研究者の主要な方たちが、識字問題を重要なテーマとして研究に取り組んでこられた。言うまでもなく、黄宗建氏がそうであるし(前掲『国際識字10年と日本の識字問題』学会年報第35集、所収論文他、鹿児島大学国際生涯教育セミナー記録、1999年刊行予定)、また、1994年以降の教育改革に関する大統領諮問委員会委員長であった金宗西氏も「韓国の文解教育問題」についての総合的考察という重厚な論文がある。忘れもしない、私たちの『東アジア社会教育研究』(TOAFAEC編)創刊号(1996年)は、この金宗西論文(方玉順訳)を巻頭においてスタートした。金宗西論文を読めば、韓国における「文解」問題についての主要な研究調査の動向、その全貌がほとんど明らかなのである。
 日本ではどうであろうか。日本社会教育学会年報『国際識字10年と日本の識字問題』によってようやくスタートを切り、この執筆に参加したメンバーを中心に、いまようやく研究が開始されたところ、と言っておこう。いや、その後は、さしたる展開が見られないという評価の方が当たっているのかも知れない。
 第二には、韓国識字実践(及び研究)の運動的な性格について。周知のように韓国では民族固有のハングル文字を創生し(1443年)、その歴史的な蓄積を破壊するかたちで20世紀前半の日本植民地支配による文字収奪があった。1945年の日本統治からの解放直後の非識字率は80%に達したと言われる。したがってその後のハングル普及の実践・運動は、ある種の民族復権運動的な性格をもっていたし、その研究活動もまた民族自立と民主主義・正義の精神に根ざす側面をもっていた。韓国の研究者も実践家も、識字運動にたずさわることに強い信念と情熱をもち、それとの関連で社会教育や平生(生涯)教育にかかわる姿勢もまたヒューマニズムに立脚し、自負と誇りに充ちたものであるという印象がある。日本と韓国では自ずから歴史的な事情を異にすることは当然であるが、このような情熱と誇りに裏づけられた研究・実践・運動は、必ずや民衆的な支持を得て、社会的な拡がりをもつことになろう。大学の研究者もまた、自ら資金を集め、民間・ボランティア活動として文解教室を開設し、識字実践に取り組んできた事例(前記・福南平生教育センター)などには心打たれるものがあった。
 さて、日本ではどうであろうか。
 第三は、このような識字実践・運動・研究にたいする行政的支援、その公共的保障の課題について。その運動的な、その意味での民間的な性格は、逆に公権力による支援や保障を第一義的には求めず、公共的体制を整備する視点においてはむしろ積極的ではない、という特長があるのかも知れない。他方で、政策・行政側では、ながく軍事政権が続き、また第五共和国憲法(1980年)において「平生教育」の理念が明文化され、また社会教育法が制定(1982年)されたにもかかわらず、民間的な学習・教育の公的保障という施策や必要な行政体制の面ではむしろ拡充されてこなかった経過がみられた。法制は一定の整備が見られたが、行政の現実は大きくそれと乖離してきたのである。
 韓国では1992年の文民政権以降、いまようやく地方自治による各種条件整備が進展を見せ始める段階において、これからどのような行政施策が展開されることになるのか、民間的な活動を支援・奨励する方向での具体的な自治体政策が動いていくのか、注目されるところであろう。今回の韓国訪問のなかでは、とくに慶州市の龍江地区社会福祉館の訪問などで、公設民営的な施設において、かなりの比率の(80%ちかいという観測もある)文解教育事業が実施され、拡がりを見せていることなどに、これからの方向が象徴的に示されているのではないだろうか。

4,韓国・文解教育協会から学ぶ ―日本・識字教育協会(NPO)の提唱―
 第四に、韓国の文解教育運動が「文解教育協会」を組織し、労苦多いなかで、活溌な活動に取り組んできた事実が重要である。創立は1987年、機関会員約70、個人会員が約150、黄宗建氏を名誉会長とし、金済泰氏を会長とする全国規模の研究・運動の団体である。その年報や研究資料等はいずれ日本語訳にして、TOAFAEC編『東アジア社会教育研究』に紹介したいと考えているが、着実な活動が重ねられてきている。
韓国文解教育協会は、それが(研究活動を含みつつ)学会ではなく、文解問題に取り組む運動体である点が注目される。その具体的な運動・活動は、したがって常に実践的であり、かつ研究的なのであろう。しかし金済泰氏自身も語られたが、当然に悩みもある。参加団体には公的機関が含まれていないこと、協会の活動に対して一般的関心がまだ拡がっていないこと、国(教育部)の認識も低いこと、などである。
 この協会が設立されてくる背景と経過、その活動と運動的課題、今後の展望等について、黄宗建氏、金済泰氏などからさらに充分に教えていただきたいと考えている。1999年度の年次大会(4月28〜29日)には招聘を受け、出席する予定である。
 
 さて、日本において、この種の「日本識字教育(実践)協会」(仮称)といったものを成立させることは出来ないだろうか。
 日本の識字実践・運動もまた、貴重な歴史をもち、これまで厳しい道程を営々と歩いてきた。大きくその歴史的系譜を遡れば、一つは非差別部落解放運動における識字教室等の実践、二つには学校教育におけるいわゆる夜間中学および自主夜間中学の運動、三つには地域における非識字者のための、とくに近年の外国籍住民の増加を背景としての、自治体及び民間・ボランティア団体による地域日本語・識字教室等の活動、を挙げることが出来よう。しかし、これらの識字実践・運動は、歴史的系譜を異にしているだけに、相互の実践的な交流や協同は必ずしも充分ではない。いや、むしろ今なお未発というべきであろう。
 歴史や運動の性格の違いを超えて、日本における「非識字」問題の事実把握と識字運動の共有と発展のために、「識字実践」をキーワードにこれらの諸運動を横につなぐかたちで、NPO運動としての「日本識字教育(実践)協会」(仮称)といったもの始動させることはできないだろうか、と今回の韓国の旅のなかで、考え続けてきたのである。
 このような横断的な運動体が担う具体的な課題として、たとえば次のようなことが考えられよう。
 1,識字実践・運動の理論と方法の共有化
 2,識字教育の教材、テキスト、実践資料の作成、交流、普及活動
 3,国及び自治体の識字問題に関する計画策定や施策の提案
 4,非識字問題についての調査、研究活動の推進、関係研究機関・学会等との協同
 5,関連する海外諸団体(さしあたり韓国文解教育協会)との交流と友好 など
 前記・「私たちのめざす日本語・識字教室ー日本語・識字教室発展のための指針」(『月刊社会教育』1995年10月号)づくりの経過などを想起すれば、新しい交流的団体を創る素地はすでに胎動していると言っていいのではないだろうか。




10
,義務教育に相当する学校教育等の環境の整備の推進による学習機会の充実に
  関する法律案
(義務教育等学習機会充実法案)について
              全国夜間中学校研究会(第56回全国夜間中学校研究大会(2010年12月2日)
 未入力




11,人権の視点から識字実践を
          
 (東京都夜間中学校研究会50年誌、2011年)→■




12, 夜間中学校問題についての意見書
 (1) 東京「公立小・中学校日本語学級設置要綱」(改正案)について(2012)
           (夜間中学校と教育を考える会・ブログ20120228)
 私は、「公立小・中学校日本語学級設置要綱」(改正案)の夜間中学の実情を踏まえた運用を求め、以下意見を述べます。
 かねがね東京夜間中学・日本語学級の取り組みに深い敬意を抱いてきました。先生方の授業や指導を実際に見学した折りに、教育の原点をみた思いでした。その教育条件が少しでも向上されることを強く期待しています。
 「すべての人に教育を!」(1990、ユネスコ・ユニセフ等)は国際的なスローガンです。「すべての移住労働者の権利保障に関する国際条約」(1990、45回国連総会)も教育への権利をうたっています。
 それぞれ厳しい事情のもと、海を越えて日本で暮らす人々の日本語学習の保障、多民族がともに生きる共生社会に向けて、充実した日本語教育の機会が整備されていくことは、とても大事な課題だと思います。
その具体的な歩みに向けて、ほんらいの「すべての人の教育」機会保障のために、夜間中学の皆さんは奮闘されてきました。小さな教育条件の一つひとつが充実の方向に向けて改善されていく必要があります。その積み重ねこそが重要です。
 要綱・改正案が、そのような方向で充実されること、決して条件低下とならないよう、切に期待しています。

 (2)
横浜市教育委員会の中学校夜間学級統廃合問題及び夜間学級運営に関する意見書
     −横浜市教育委員会、横浜市会こども青少年・教育委員会あ(2013年12月7日)
 私は、2014年度からの横浜市教育委員会の中学校夜間学級に関する新方針(5校から1校への統廃合等)や夜間学級運営(専任教諭・PR・義務教育未修了者調査などの問題)について、以下意見を述べます。
 「全国夜間中学校現況一覧」によると、横浜市の夜間中学校(夜間学級)は、1947年〜1950年にかけて開設され、全国的にみて先駆的な都市であったことを知りました。義務教育を受ける諸条件に恵まれない人たちに教育の機会を届けようとする教育行政や教師など先人たちの努力があったのです。
 その後すでに半世紀を超える歳月が経過しています。東京・大阪をはじめとする各都市が夜間中学について一定の条件整備を重ねてきた歴史と対比して、横浜市では専任教員の配置がないことをはじめとして必要な行財政的な措置が充分にとられず、また教育機会から遠く離れている人たちに夜間中学・夜間学級の存在を広報する取り組みも不充分であったと思われます。
 せっかくの夜間中学校・夜間学級の先駆的な歴史をもちながら、それを実質的に機能させ充実させていく方向が見失われて、さらに5校を1校に統廃合しようとする方針が出されていることは残念でなりません。
 すべての人に教育への機会が保障されなければならないこと、教育の差別があってはならいこと(教育基本法第4条「教育の機会均等」)は、世界人権宣言(1948年)、国際人権規約(A規約、1965年)、ユネスコ「万人のための教育(Education for All)世界宣言」(1990年)等の国際的な潮流と結ぶ重要な教育理念です。しかし理念が言葉だけに終ってはなりません。自治体・教師・市民の協働による不断の努力と、理念を実質化していく具体的な取り組みが求められます。とくに社会的格差にあえぎ、教育機会から遮断されている人たちに対しては、きめ細かな対応が必要になります。横浜のような国際都市では、外国籍市民への教育機会保障、"共生"社会創造の課題も重要でしょう。横浜は他都市にみられない、独自の都市的な経験が多様に蓄積されているに違いありません。
 その意味で、歳月を重ねてきた夜間中学・夜間学級5校の拡充、その新たな再生と発展への道を拓くことこそ大事な方向ではないでしょうか。


13,基礎教育保障学会設立総会(リレートーク、2016年8月) 
 社会教育研究の立場から

 新しい基礎教育保障学会の未来を5分で語れと。話の前置きだけで終わるかもしれません。これまで50年ほど活動してきた日本社会教育学会のなかで、基礎教育に関する研究が十分に行われてこなかったこと、理論形成の努力も具体的な調査データも見るべき蓄積がないこと、残念ですが永年の課題となってきました。この点については、とくに韓国の社会教育学者との付き合いから深く学ぶところがありました。私の知っている範囲では、ほとんどの方が識字研究への視野をもち、実際に「文解」運動をやっておられる方もいる。韓国文解教育協会が設立される(1989年)など、強い刺激を受けてきました。同時に国内的には見城先生をはじめとする夜間中学の先生方が、実際に教壇で教えるだけでなく、資料・教科書づくりなど実践研究を蓄積し、また夜間中学拡充の運動を重ねられてきたことに打たれるものがありました。
 1990年の国際識字年に呼応して、日本社会教育学会では年報『国際識字10年と日本の識字問題』(第35集、東洋館、1991年)を刊行しています。他の学会を含めて、このような「基礎教育」をテーマとする学会年報がまとめられたのは初めて。私は幸いに編集委員長を仰せつかりました。小沢有作、笹川孝一、黒沢惟昭、元木健など各氏との貴重な論議が忘れられません。森実さんの論文など力作が並び、この段階での「基礎教育」についての得がたい集約となりました。
 私自身もこれを契機に「東京識字マップ」調査3報告(東京学芸大学社会教育研究室)をまとめ、その後にも東アジアに視野を広げて、基礎教育研究を大事な課題に考えることとなりました。TOAFAEC(東京・沖縄・東アジア社会教育研究会)年報『東アジア社会教育研究』(1996年創刊、全20冊)には、前世紀末から今世紀にかけての20年にわたる約40本の東アジア「基礎教育」「リテラシー」研究が収録されています。韓国からの報告がとくに多彩、日本がとくに大きく立ちおくれています。
 しかし、見方をかえてみると、日本でも実は基礎教育に関する研究や報告は案外と取り組まれてきたことは確かですし、とくに実践・運動の資料や記録はある意味で膨大な蓄積をもっているのではないか。夜間中学だけでなく差別・解放教育や自治体レベルの日本語教育等の諸実践もまたさまざまな展開をみせ蓄積されてきたのです。しかし、それらが横に出会わない、縦につながらない、国をこえて交流がひろがらない。そんな歳月が続いてきたように思われます。
 いま新しい学会がスタートして、基礎教育研究にかかわる体系的な学会として、当事者へのまなざしも大切にしながら、これまでの蓄積を横と縦につないで、さらに発展させていってほしい。教育学関連だけでなく、諸分野の研究者や実践運動の方々が集まる新しい学会。しかも学会の趣意書にはルビがふられ、ひらがなのぺ―ジが用意されている、こんな学会は文字通り初めてでしょう。運営的にはいろんな配慮や工夫が必要になってくる。難しい課題は山積している。それだけにこれほど歴史創造的な学会はないのかもしれない。
 国際的なスタンダードが問われる理論の形成、実証的なデータ、それらに基づく固有の政策提起が期待される“学会”であってほしいと思います。運動団体として傾斜するのでなく、やはり学会としての固有の役割が問われることになりましょう。
 従来の学会の反省ですが、規模が大きくなってくると学会としての政策提起ができなくなる。しかしこの学会ほど課題が鮮明な領域はない。理論とデータを基礎にして、多面的な政策づくり、積極的な課題提起に果敢にチャレンジしていただきたい。
 国家レベルの基礎教育・政策提起と同時に、課題は地域に現れます。韓国の文解教育では、国の法制だけでなく、心を打つ自治体文解条例が各地に拡がっています。これから日本にそのような状況をどう創り出していけるか。新しい学会へかけられる期待は大きいものがありましょう。





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