新ぶんじん日誌(Ⅱ・2023年4月~)   TOPページ


*「南の風」最終4311号 南の風発行一覧(~2022年)→■ 旧ぶんじん日誌→■  
  
新ぶんじん日誌Ⅰ(2022~2023年)→■(前ページ)  ぶんじん日誌Ⅲ→■ (次ページ)

<目次・2023>
13、
桜咲く夕べ、対面による研究会満開!(2023/3/31)
14,
  東アジアへの出版・5冊の蓄積(2023/4/26)
15,  五月薫風、エビネ蘭咲く (2023/5/5
16,  沖縄にイジュの花、TOAFAEC総会近づく (2023/5/30
17, やんばる(北部)社会教育との出会い、旧宜野座区公民館長・城間盛春との再会 (2023/6/28) 
18,  新しい字誌(又吉編著)「甦れ宮里の歴史と文化」発行(2023/8/14)
19,  人形劇サークル「むぎぶえ」公演(第8回)(2023/9/3)
20,  名護市城区のエイサー(2023年9月)
21,  屋部公民館「豊年」、油山「白樺」の秋色(2023年10月)
22
, 
「三多摩テーゼ」10年(1982~83)の論議・回想(2023/11/1)
23. 東アジア研究交流、沖縄の文化に包まれて (2023/11/30),
24. 東アジアフォーラム・第1回(上海)回想(2023年12月10日)


 
 新【ぶんじん日誌】Ⅱ

第13号(2023年4月3日):
 桜咲く夕べ、対面による研究会も満開!
 前号にも書いたように、「南の風」終刊(2022年4月11日、4311号・最終号)から1年。「風」を受け継ぐかたちで「TOAFAEC通信」が元気よく発信されてきた(事務局長・山口真理子さん発行→■)。案ずるより生むが安しとはこのこと、ご同慶の至り。もう大丈夫! さて、次は「TOAFAECホームページ」運営の譲り渡し。これが済めば当方ようやく一人前の老後を送ることになる。3月31日事務局会議で、あえてTOAFAEC組織としての対応を強くお願いした。若い世代のエネルギーで何とか一歩前進してほしいと願っている。
 
年度末の最終日(3/31)には、佐賀(上野景三・代表)、仙台(石井山竜平)、高知(内田純一)からの上京もあり、対面による事務局会議・編集委員会・定例研究会(第301回)が一挙開催された。オンライン参加では、福岡からヤンビョンチャンさん(韓国・公州大学)の顔も。久しぶりの賑わい。時あたかも神田川沿いの桜満開の季節。終了後ご存知「イーストビレッジ」では盛んにビール・ワインのグラスが乱舞した。私たちの研究会も往時を取り戻した実感あり、ぶんじんも例によってしゃべり過ぎた。終了した時刻は定かでなく、いつものことながらマスター夫妻に感謝!(下掲写真・撮影は東大院・金さん)。3会議の報告はホームページに別掲される予定(各位の報告をお待ちしている、事務局会議記録も。)。
 新しい年度が始まる。4月中旬には上海から呉遵民一家の来日あり、久しぶりに「今半」を予定(16日)。またその前日には「須恵村ー日本の村」(J.エンブリー著、田中一彦新訳、農文協刊)研究会」(Facebook、オンライン)にてゲストスピーカーとして発言を求められている。「枯れ木も山の賑わい」のつもり。
 さらに4月末・金曜日「302回定例研究会」の論議を経て、5月中旬は再び名護へ。11月下旬(予定)「東アジア生涯学習研究フオーラム」へ向けての準備が進められる。この取り組みリーダーは石井山竜平さん(東北大学)、ご声援を。
3月31日・定例研究会+28号編集員会 *撮影・江頭晃子さん

研究会終了後の交歓(イーストビレッジ、2023/3/31) *撮影:東大院・金さん


第14号(2023年4月26日):
 東アジアへの出版・5冊の蓄積
 先日(4/9)久しぶりに開かれた「韓国生涯学習研究フォ-ラム」は、数えて第97回。あと3回で100回の大台に乗ることが話題となった。何か記念の催しを企画したいものだという話も。ホームページ記録をたどってみると、第1回は2007年10月7日に開かれていた。今年で15年あまりの歳月を歩いてきたことになる。
 この研究会では、振り返ると韓国に向けて日本の社会教育を紹介する1冊(ハングル版)と、韓国「平生学習」の躍動をまとめた1冊(日本語版)を世に出している。またTOAFAEC年報には、毎年「韓国この1年の動き」を記録してきた。年々の「歩み」を重ねると、1冊の本になるほどの積み重ね。まさに蓄積は力なり!
 思いおこすと韓国研究フォーラムの前に、私たちは初めての韓国本・出版をめざして、2002年末から呼びかけを始めた歴史がある。約30回の編集会議の作業を経て、2006年10月『韓国の社会教育・生涯学習ー市民社会の創造をめざして』が出版された。このテーマでは日本で初めての仕事だ。編者の黄宗建先生は出版直前に亡くなられた無念の思い出。出版お祝いの会は、黄先生の追悼の会でもあった。あの日の記念写真(下掲)には、編集にかかわりなかった笹川孝一さんが「私に黄先生の写真をもたせてほしい」と申し出て中央に座っている。その両脇に編者の伊藤長和さんと小林。まわりに川崎メンバーを中心に皆さんの若々しい顔が並んでいる。1年経って韓国へ。黄先生の墓前に初めての韓国本を供えたのだった。
 この30回の編集会議を加えれば、韓国研究フォーラムはすでに130回の歴史を重ねてきたことになる。20年余の歳月は、そのまTOAFAEC苦節の、かけがえのない蓄積の歩み。韓国ソウルで出版された『日本の社会教育』ハングル版は、その後これを底本にして日本版が出版され(2013年)、2冊目の韓国本『躍動する韓国の生涯学習』は、これを底本として中国語版が出版された(清華大学出版社、2022年)。翻訳は王国輝・楊紅のお二人。
 韓国生涯学習研究フォーラムという小さなグループが、東アジアに5冊出版という大きな仕事をしてきたことになる。「躍動」の中国語版には、北京・韓民さんが「序」を寄せている。王国輝さんが日本語に翻訳し、TOAFAECホームページに収録している。

 →■http://www.bunjin-k.net/korea2023.html
『韓国の社会教育・生涯学習』出版記念会(川崎、2006/10/6)


第15号(2023年5月5日)
 五月薫風、エビネ蘭咲く

 ホームページ表紙の中央に載せる写真は、ほぼ1ヶ月の間隔で更新する慣わし。これまでの多野岳(名護)遠望の一枚から、一昨日、福岡油山の庭「えびね蘭」に差し替えた。前にも載せたことあり、見慣れた方も少なくないだろう。コロナ禍以降、新しい写真が少なく、古い画像が多くなってしまう。しかし「今頃はきっと可憐に咲いているだろう」との花への想い。もう3年あまり油山に行っていない。この連休には出かけようと思っていたのに、1週間後にまた名護に行くことになったので、昔のような元気はなく福岡行きはあきらめてしまった。えびねへの思いだけ、1枚の写真に託して。ホームページを開くたびにエビネを楽しむことができる。知る人ぞ知る、油山はエビネがいろいろと自生している山。
 油山に家を建てたのは半世紀前。当初は表土を少し削って工事が始まったので、土むき出しの庭だったのが、次第に笹竹も拡がり、20年ぐらい前からその片隅にエビネが顔を出すようになった。ちょうど5月連休が花の見頃、毎年楽しんできた。
 TOAFAECの定例研究会や編集会議、関連するいろんな集いに写真を撮ってきたので、ぶんじんアルバムは相当のボリュームとなっている。コロナでマスクが多くなり、会議もZoomとなってカメラの出番は少なくなっていたが、この半年、再び画像記録が並ぶようになっている。最近の記録は「新しいニュース」欄に並べている。韓国フオーラム関連の記録が多くなってるが、五月・名護訪問の写真も。ご覧あれ。→http://www.bunjin-k.net/yotei2207.htm
 前号の話の続き。韓国本「躍動の韓国の社会教育・生涯学習」が、原版(2016年刊)を底本として中国語版が出版された(2022年)ことは 画期的ニュース、前号に紹介した通り。いま東京滞在中の王国輝さん(中国・温州大学教授)を囲んで2月定例研究会(300回記念)は王さんのお祝い会でもあった。中国語版に寄せられた韓民さん(北京)の「序」も嬉しいこと。ホームページには王さんと小林の記念の写真も。本の共編者そして編者・訳者は、お互い「義兄弟」の仲というのはぶんじんの持論。3月研究会の夜、王さんの頭には「ぶんじん帽」。
左・編者(小林)と右・訳者(王国輝)ー20230428/高井戸


第16号(2023年5月31日):
 象グループ(設計集団)制作・今帰仁村中央公民館へ
 この五月、ホームページ表紙に「エビネ」蘭を飾ってきたが、数日前に沖縄やんばる「イジュ」の花に差し替えた。黄色から白い花へ。多分、古宇利島で撮ったような記憶(2008年5月)。ホームページには初めての登場か。琉球固有種のような花だから、当初はこの花を知らなかったが、「イジュの花の咲く頃」といった会話を折々に耳にするようになって、沖縄「やんばる」では雨期の到来と関係があることも分ってきた。私たちにも次第に懐かしい季語の響き。この時期、やんばるの森を白く飾る花たち。ところが今年は台風2号の襲来。被害のないことを祈ります。
 「イジュの花が咲く」頃に・・・屋我地島一周のシーカヤックを楽しんだ思い出(2006年6月)、新「ぶんじん日誌」第2号に記録を載せている。島福善弘さん(源河区アユ復活運動、もと名護博物館長)から誘われ、手打(筑波大学)や故石倉(TOAFAEC事務局長)のお二人と、雨にぬれながらシーカヤックを漕いだ一日は、いつまでも忘れないだろう。そして今、私たちTOAFAEC総会の季節(今年・6月3日夕)。日本社会教育学会六月集会に合せての日程、皆さん多数のご出席をお願いしたい。
 前置きが長くなった。本題へ。今年は11月に「東アジア生涯学習研究フオーラム」(第7回)を名護で開く希望が実現することになり、その交渉・依頼のため、すでに二回も名護を訪問した。はじめて名護と出会ったのは1970年代末、すでに40年余が経過したお付き合い。そして名護で象グループの仕事に刺激を受けてきた。とくに忘れられないのは(隣村の)今帰仁村中央公民館との出会い。象グループのプ設計になる公民館施設は衝撃的だった。名護から車をとばして、久しぶりに今帰仁村を訪問。しかし残念ながら解体?ニュースが伝えられていて、あの紅い列柱が悄然と建っていた(既報・写真は別ページ→■)。
 象グループとは、当時、気鋭の建築家集団。名護市役所(日本建築学会賞)をつくったことでも有名だ。リーダーの大竹康市さんは、東京学芸大学社会教育研究室によく話に来てくれた。今でもネット上に今帰仁村中央公民館(RC/1階、延べ面積716㎡のこじんまりした施設、竣工は1975年、1977年芸術選奨文部大臣新人賞・美術部門)の記事が踊る。乙羽岳の緑につらなって大屋根は緑、北斗七星の小さな天窓が屋根に輝き、浜からみんなで拾ってきた貝殻がコンクリート構造のなかに埋められた。建物はまわりの緑と連動し、村人の手造り思想が貝殻に託されていた。・・・「大屋根一面を覆ったパーゴラに這わせたウッドローズやブーゲンビリアは季節の表情を豊かに彩り、乙羽岳からの緑の連続と捉えられ、新たな町への緑のスプロール拠点のようだ。床に屋根裏に軒先や梁に埋め込まれた貝がら模様は、潮風とともに海のざわめきを伝え、ひとつひとつ埋め込んで行く村民の手つきや顔つきまで伝えてくれる」と。
 2001年8月には、初めて海で泳ぐ目的をかねて今帰仁村中央公民館を訪ねたモンゴル留学生たち(小林ゼミ他)との記念写真がある。そこには屋根の緑と花、その
片鱗が残っていたが、いま解体を前にして大屋根はのっぺらぼうに変わり果てた。(つづく)
2001年8月1日、モンゴル留学生と今帰仁村中央公民館訪問、屋根に花がー。(小林写す)


第17号(2023年6月28日):
 
やんばる(北部)社会教育との出会い、旧宜野座区公民館長・城間盛春との再会
 
・・・前号の「続き」が遅くなった。私たちが沖縄に通うようになったのが1970年代後半、すでに半世紀をこえた。沖縄フイールドワークを通じて、かけがえのない出会いがあり、多くのことを学んできたが、何よりも忘れられないのは、北部「やんばる」の地を訪ね始めるようになったことが大きい。その後に奄美調査が続き、さらに八重山ー竹富島や与那国へのフイールドワークがつづくが、その前段としての「やんばる」調査の経験・知見がなかったら、奄美・先島フイールドワークの充実も先島研究の成果も違ったものになったに違いない。「やんばる」調査はまさに琉球的な風土・文化を体感し、また本土の若き建築家集団「象グループ」、その代表でもあった大竹康市の個性に出会う場ともなったのである。(以下・敬称略)
 「やんばる」への最初の旅は、多分1978年「イジュの花の咲く頃」か。ぶんじんの案内人は安里英子(当時「地域の目」編集)、車は新城捷也(沖縄県社会教育主事、仲宗根政善先生の甥)。まず東海岸の三原(小学校訪問)へ。山を越えて名護の街へ出て市役所(のち博物館施設)へ。当時の市企画担当の若き侍たち(岸本建男のち名護市長)などと会った。そして車は今帰仁村へ、すでに象グループ設計になる今帰仁村中央公民館(前号参照)は出来上がっていた。社会教育主事・玉城勝男と出会ったのはこのときであった。この折りに新城捷也は仲宗根政善先生の生家に連れていってくれた。後日、那覇の街で象グループとよく飲んだ「苗」の店や、「おきなわ社会教育研究会」例会後に必ず繰り出すことになっていた海勢頭豊ライブハウス「パピリオン」への最初の案内人も安里英子だったように記憶している。私たちの沖縄研究の旅に忘れられない出会いを用意してくれた1日であった。
 その翌年あたり、ぶんじんは象グループ作成の資料を手がかりに、今帰仁村の全字(アザ、集落)公民館)を自転車で駆けめぐっていた。集落の中心に広場があり、あさぎ(祭事場)、共同売店、共同(農機具格納等)倉庫、字公民館事務所・ホールなどを確認するフイールドワーク。象グループ設計の中央公民館の緑の広場は、各字・集落公民館のシンボル的な意味合いをもっているように思われ、広場はとくに印象的であった。
 東京三多摩の公民館関係者が沖縄「やんばる」と出会う最初の機会は、1979年正月、この今帰仁村中央公民館の広場においてであった。記録によれば東京から、徳永功、進藤文夫、平林正夫、山口真理子、小林文人の面々が今帰仁村の新公民館を訪問し、山口県研究会の中原吉郎など15人ほどを加えたヤマト客人を迎えるかたちで、「やんばる」各自治体「北部社会教育主事会」が相集い、ヒージャー会の集いがもたれた。寒い日、汁も冷えていたが、お互いの心は暖かな夜となった。地元の玉城勝男社会教育主事は公民館料理実習室で豚一頭をぐるぐる丸焼きにしていた。宜野座村からは、長浜宗男社会教育主事に誘われて、宜野座区の公選による字公民館長も参加していた。当時まだ25才の俊英・城間盛春、地元芸能「京太郎」(チョンダラ)踊りのリーダー。この出会いをきっかけに、宜野座区「豊年祭」「チョンダラ」踊り(のち国立劇場にも出演)と、東京「沖縄社会教育研究会」とのながい付き合いが始まったのである。
 今回2023年5月の沖縄の旅の一コマ、名護への車を宜野座区にまわして、大声で「盛春!」と喚び叫んで探した(すぐに出会った)旧友・城間盛春との嬉しい再会。公民館研究が生み出す半世紀にわたる交流を確かめたひとときであった。
宜野座村宜野座「お恵」前、右・城間盛春と小林ぶ (内田純一写す、20230512)

左・玉城勝男(今帰仁)、右・宮城満(名護市)の旧友と。2003/3/13 @大国林道


第18号(2023年8月14日)

 <沖縄・図書紹介> 新しい字誌(うるま市宮里区)出版
   ー又𠮷英仁(編著・発行)『甦れ宮里の歴史と文化』(20236月刊行)
 
コロナ禍のなか、やんばる・名護の字誌(集落史)づくりは、その後どんな経過だろうと気になっていた。今年3月初旬、「葛草庵」(名護市底仁屋)で開かれた「やんばる対談」(第13回、年報28号収録)でも話題となった。席上、久しぶり参加の中村誠司さん(元名護市史編纂室、名桜大学名誉教授)がゆっくりした口調で、字誌づくりが着実に進んできたことを話され、あらためて名護・諸集落(字)のエネルギーに感嘆した。これほどの地域の歴史意識、社会教育的活動は全国に例をみない。同席の比嘉久館長(新名護博物館・特任)も言葉を重ねて「名護の55集落のうち字誌づくりは30を超えている」と。6割前後の集落が地域史をもっているのだ。
 本土の、まわりの集落と比較してみるとよい。日本各地で、どれほどの集落が自らの地域史をもっているだろう。市町村史は別として、集落史・字誌をつくる意識はほとんどないといってよい。沖縄の「字誌」運動を牽引したのは、名護市教育委員会である。同市史編纂室が初めて100ページあまりの「字誌づくり入門」を発行したのが1989年。版を重ねて増補され、いま手元にあるのは第6版(2009年刊、138頁)だ。
 沖縄では、もともと(天皇史ではなく)琉球史の独自の展開があり、人々の歴史意識は並々ならぬものがあった。しかも戦争による史誌料消失があり、さらに戦後は米軍基地収用に抗して「わが生まりジマ」が語り継がれてきた。八重山を含め史料復元・地域記録化の努力。私たちの沖縄研究報告『民衆と社会教育―戦後沖縄社会教育史研究』(エイデル研究所、1988)でも、冒頭に『残波の里』(読谷村宇座区の字誌)を引用している。名護だけではなく、各地に地域史の語り継ぎ、字誌づくりへの努力。さまざま地域史が刊行されてきたのである。
 この7月中旬、うるま市の又𠮷英仁さん(もと具志川市教委・社会教育課長、のち市民芸術劇場館長、劇団「創造」)から、ずしりと重い一冊が届いた。旧具志川間切・宮里村(現うるま市宮里区)の字誌『蘇る宮里の歴史と文化』(B4版上製美装本・函入)、全761ページの大作。文章記録・回想だけでなく、明治期の稀少写真や航空写真を含む膨大な地域アルバム集の趣きもあり、数日ページをめくり続けた。驚きの1冊。
 この種の字誌は、集落・字の「編集委員会」等による発行のかたちが普通であるが、本書は「又𠮷英仁」個人名による出版のかたち。内容的には多くの字関係者が参加され、証言等もたくさん収録されている。経費的にはどう工面されたのか。細かな編集後記の記述なく、次回訪沖時に詳しいお話を聞くのが楽しみ。まずは個性的・高水準の字誌刊行に心からのお祝いを申し上げる。
又𠮷英仁(編著・発行)字誌『甦れ宮里の歴史と文化』(2023年6月)

又𠮷英仁さん写真、本「ぶんじん日誌」11号(前ページ→■)に収録

第19号(2023年9月3日)
 人形劇サークル「麦笛」公演
 東京学芸大学・人形劇サークル「麦笛」については、これまで「南の風」でも取り上げてきたので、ご記憶の方も少なくないだろう。ホームページに一部記事・写真を収録している。→■
 8月19~20日、第8回むぎぶえ人形劇フエスティバル(コロナで延期されていた)が盛り上がった。卒業後OBGが、いまも麦笛!として、プーク人形劇場(西新宿)で、二日間の興行を楽しむのである。オリンピックの年、8月最後の土日の日程。最初の頃は全国集会(社全協)の日程と重なって、欠席が続いた。そしてコロナで延期。今年久しぶり第8回集い、杖をつきながら出かけて、皆さんの元気な公演をひととき楽しんだ。
 ぶんじんは、東京学芸大学時代、「麦笛」サークル顧問教官をつとめた。ひたすら声援をおくるだけの役であったが、ともによく飲み歌い、なかには媒酌の役をつとめたり。東京諸大学サークルのなかでは活発な活動を重ねてきた歴史。麦笛をスタートとしてプロの芸団に入った「うそ・まこと」君などもいて、卒業後の「麦笛」活動が続いてきたのである。卒業生の多くは教師となる大学だけに、現役の校長先生が人形劇を演じている姿もあって、懐かしい思い出が少なくない。
 学大の同じ児童文化活動系のサークルには、麦笛から分れた子ども会サークル「麦の子」があり、この顧問も務めてきた。しかしその後「麦笛」については(私の退職後)次第に参加学生が少なくなり、残念ながら4,5年後に学生サークとしては惜しくも歴史を閉じた。それだけに「いまも麦笛」として、卒業生たちのプーク人形劇場フエスティバルに思いがつのるのであろう。案内パンフの書き出し。。
 「東京学芸大学に『児童文化活動サークルむぎぶえ』というサークルがあったとさ。このサークルの卒業生は、せんせいになった人も多いけど、うっかり人形劇をつづけている人もいたそうな。プロになっちゃった人もいるんだけど、仕事をしながら人形劇を続けている人たちも大勢いたので、4年に1回集まって、フエスティバルをすることになったとさ。」
劇団「はてな」公演(8月20日 プーク人形劇場)

左より山口さん、うそまこと(劇団はてな)、小林ぶんじん、わけちゃん


第20号(2023年9月12日)
 イサーの季節;名護市城区、これからの課題も(名護市城区・渡口裕)
 
1970年代に沖縄研究をはじめた時期、若ものたちの「エイサー」演舞に出会った興奮は、いつまでも忘れない。最初の科研費による報告書(『民衆と社会教育』1988)の冒頭写真は、みやらびの「エイサー」躍動を掲げた。当時、東村山に住んでいた写真家・小橋川共男さんにお会いして、写真集『御万人の心』より提供していただいた。御万人(うまんちゅ)とは、沖縄の言葉で「民衆」の意であると添え書きした。
 その後、沖縄調査の旅が重なるにしたがって、「エイサー」の話題や画像が少しずつ増えていった。いま熊本にいる山城千秋が浦添市内間のエイサーでサンシンを弾いていた姿も憶えている。沖縄県青年団運動のリーダー東武(あずまたけし)の勝連・平識屋(へしきや)エイサー。あの独特の念仏踊りエイサーは、本土(幕張や太宰府)にも招かれて、和光大学々生や、山口真理子・農中茂徳など関心ある人たちを誘って観に行った。
 忘れられないのは、2002年夏、名護で開かれた社会教育研究全国集会(第42回)にあつまった中部・北部のエイサー隊(下掲写真)。当時の和光大学学生もどこかの青年会に紛れ込んで、エイサー姿の彼女らと会場で感激の対面を果した。そして近年は、名護・城区からのエイサー・レポート。コロナ禍のなかでもエイサーが続けられた記録は貴重であった(名護市城区・渡口裕)。TOAFAEC年報(24号)に渡口裕報告が収録され、当時の「南の風」に貴重な証言・写真→■を載せている。
 数日前に今年の城区エイサーの写真が届いた(下掲)。その渡口メールに添えられた一文、次の通り。「(略)ー今年の城青年会のエイサー写真を送付します。今年で75年目のエイサーとなります。県内では、青年会活動の危機的状況と、個人的には感じています。名門の中南部の青年会エイサーが存続の危機となり、話題となりました。地域もこれまでどおりの活動、考え方だけでは持続可能な地域にはならないでしょう。地域の統合・消滅もあり得る状況になってきました。沖縄の社会教育のふんばりどころです。
 私は現在、近頃活動が行われていなかった城区の育英会・子ども会活動を新たな形で再開しようと計画中です。9/12(火)の城区評議員会において提案を計画中です。具体的な活動方針・内容については、おいおいご報告できればと思います。」(渡口裕) お互いに頑張りましょう。
2002年8月全国集会(第42回、名護市)に集まった各地のエイサー隊(2002/8/31)

今年の名護市城区青年会のエイサー(2023/9/8)


第21号(2023年10月19日)
 <屋部公民館「豊年」、油山「白樺」の秋色>

 「南の風」終刊(20224月)、あれから丁度1年半。思い起こせば四半世紀に近い苦行、妙な使命感に拘束されて動いていた歳月。それらから解放された複雑な喜び。いまは本日誌を書くことも忘れるほどの自由の身。しかし書き綴ったなかには大事な記録も含まれ、自分なりの充実感もあった。そして時の経過とともにそれも少しづつ消えていく。TOAFAEC「通信」は、いま山口真理子さん(事務局長)が格闘中。ご苦労さま。
 しかし、ホームページについては、今なお交代できず。名護フオーラム(11月予定)準備作業も佳境に入って、HP更新や補強の作業は続いている。こちらの解放感はまだなく、やや無理しながら、若者の気分になって鋭意努力中。母体のTOAFAECが活発に動いている証でもあり、まずまずご同慶の至り(と言うべきか)。
 さて、恒例のHP表紙中央におく写真には、11月「名護フオーラム」準備に訪問した屋部公民館(「八月踊り」が4年ぶり賑々しく開かれた)のホール「豊年」扁額を掲げた。今回の訪問時に撮った1枚はライト装置と重なって、かえって「豊年」文字が欠けるので、約20年前に撮りおきしていた1枚(同じ「豊年」)を使った。屋部「八月踊り」に今年お邪魔したお礼をかねて、比嘉久さん(屋部、名護博物館長)に電話、それとなくHPアップのご了承も得たつもり。→■
 元気な頃、沖縄の帰りは福岡に寄ったものだ。福岡・油山の寓居には(コロナ禍もあり)もう4年あまり行っていない。資料・記録を点検する作業もできないまま、最後の本っづくりも頓挫したまま。ほんらいはこの里で老後をゆっくりと過ごす計画であった。いま庭などどうなっているか心配であるが、幸い農中茂徳くんが管理して、生い茂る竹も抜いて掃除までしてくれている様子(感謝!)、安心している。連絡によれば畳も拭いて管理行き届き、小生滞在中よりも綺麗に保たれているらしい。
 私の書斎(2階)からは、かって白樺の繁りが目の前に揺れていた。今頃は秋の虫が鳴いているだろう。3本の白樺がぐんぐん伸びていた頃は、当方も元気だった。11月が近づいたこの時期、すでに黄葉していた(写真)。書斎からボンヤリと白樺の葉のささやきを聞き、四季の移ろいを楽しんでいた。あの悪夢の年、白樺は3本とも相次いで枯れてしまった。朽ち木を火に投じて、お葬式をした思い出がいつまでも残っている。
秋色の油山・白樺。二階書斎の前。(2004/11/4)


第22号(2023年10月30日
 <「三多摩テーゼ」十年(1982~83)論議・回想1

 先日来、東京「新しい公民館像をめざして」(いわゆる「三多摩テーゼ」1973~74)史についてお尋ねが寄せられた。ご承知のように、三多摩テーゼ「二十年回想」「四十年回想」等のタイトルで、雑文をいくつか記した経緯があるからだろう。(これらは他の文章と一緒にTOAFAECホームページに収録。 (別ページ・→■)
 関係者が最近あいついで他界されたこともあり、その歴史に関わったものとして、折りにふれて、あれこれ記しておくのも、何かの役にたつことがあろうと思うので(重複を厭わず)本「ぶんじん日誌」に書きとめておくことにした。
 (1)東京都「新しい公民館像をめざして」の登場は1973年である。まず基本構想(四つの役割と七つの原則・第一部)を世に問い、その第二部として、翌1974年に「公民館職員の役割」「公民館主事の宣言(提案)」をまとめ、1冊にして発表するという経過であった。いわゆる「黄色のレポート」は、冊子としては2冊世に出たことになる。「三多摩テーゼは1974年に登場」として間違いはないけれども、作成にかかわったものとしては、初年度1973年冊子の大きな反響をいつまでも忘れない。
 (2)この1974年版は、年度内に印刷にまわす必要があり、締め切り最終日は大忙しの綱渡り作業の思い出が残っている。裏表紙に10行ほどの「後記」を記しているが、電車のなかで「この作業はこれで完結したのではない」と(文字通り)“後記”した。かねがね作成委員のなかで話し合っていた次なる課題(スポーツ・レク活動との関係、子どもと公民館、地域活動にたいする援助、障がい者の学習権保障など)を書き添えたのである。これらが10年後の『東京の公民館の現状と課題ー公民館事業論の構築をめざして』の取り組みへとつながっていくことになる。
 (3)2冊の『新しい公民館像をめざして』は、「東京都教育庁社会教育部」刊行物、同じ黄色の表紙で『東京の公民館の現状と課題ー公民館事業論の構築をめざして』2冊(1982年、1983年)は「東京都立川社会教育会館」(のち「東京都立多磨社会教育会館」と改称)から刊行された。「三多摩テーゼ」発表から10年後の作業、2冊ともB5版70~80ページに及ぶ力のこもった内容となっている。「東京都公民館資料作成委員会」としての研究活動、研究員は進藤文夫(国分寺市教育委員会)、野沢久人(福生市公民館、のち市長)、平林正夫(国立市公民館)、佐藤進(国分寺市公民館)、川上千代(稲城市公民館)と小林(東京学芸大学)など(他にテーマに応じて協力委員)が取り組んだ。
 『東京の公民館の現状と課題ー公民館事業論の構築をめざして』2年の活動については、「三多磨テーゼ10年」として、*三多磨テーゼ「二十年回想」「四十年回想」」のなかでも触れている。(別掲→■)  (続く)
東京都立川社会教育会館(発行):
  『東京の公民館の現状と課題ー公民館事業論の構築をめざして』Ⅰ,Ⅱ(1982年、83年)



第23号(2023年11月29日)
 <東アジア交流、沖縄の文化に包まれて!>

 前号「三多摩テーゼ」10年その後・回想の続きを書くはずであったが、この間、「東アジア生涯学習フォーラム1n名護」(11月19~21日)の取り組みに参加し、疲れて、11月も終わろうとしている。反省しきり。しかし今年は思いもかけず4度も訪沖して、現役気分。古いい友人たちとも出会うことができた。いい機会なので、熱がさめないうちに「東アジア」研究交流の回想をいくつか書いておくことにしよう。「フォーラム」開催の中心は、石井山竜平さん(東北大学)、とりわけご苦労さま!
 私たちの「東アジア」研究への関心は、既に30年を超えている。なぜ「東アジア」なのか。一つは日本の社会教育研究における外国研究が欧米研究に偏していたこと。脱亜入欧とは言わないまでも、日本とまわりの国・地域の、東アジア社会教育・生涯学習の歴史・現況・課題をもっと知る必要がある。社会教育法制を中心に「東アジア」を取り上げて1冊にまとめたのは東京学芸大学・院ゼミの共同研究(1993年)→■。中国・韓国・台湾の若者(留学生)たちと、足もとの東アジアを語り合いたかったのだ。アメリカ極東戦略のキーストン沖縄の、その延長線上の政治状況も凝視していく必要がある。
 当時、ぶんじんゼミでは、留学生もみな一度は沖縄に旅した。那覇に着いた夜は、そろって海勢頭豊ライブハウス「パピリオン」で「豊さん」と乾杯し、「喜瀬武原」を聞き、「月桃」を歌いあった。今回の中国訪問団の長老格・韓民(ハンミン、東京学芸大学・院→名古屋大学・院、博士)は、確か二泊三日の船旅で沖縄入りした。記憶をたどれば1983年12月か、一行には故伊藤寿朗(博物館研究)も一緒だった。那覇・中頭から「やんばる」へ。名護博物館は当時まだ準備室時代。室長(のち館長)島袋正敏さんは、階段の下の雑然たる未来空間で、山海の珍味を用意して歓迎。山は猪、海はイルカなどなど。たしか黒豚アーグーの話も。「中国では?」の話題もでた記憶。
 今回の「名護フォーラム」で参加者たちは、初日に屋部(上野英信「眉屋私記」舞台)の公民館と出会い、二日目に屋部「八月踊り」報告を聞いた。夜の部では、城(ぐすく)区青年会によるエイサー演舞に、一緒に輪になって踊った。三日目エクスカーションでは、宜野湾市へ南下、佐喜真美術館で「沖縄戦の図」を鑑賞、道夫館長の解説を聞き、その絵の前で「海勢頭豊コンサート」を楽しんだ。沖縄の歴史と地域と文化が、「東アジア」生涯学習の友人たちを迎えてくれたようなかたち。海勢頭愛さん(息女)のヴァイオリンの響きもことさらに冴えわたっていた。
 閉会の席上、中国・韓民の挨拶は、留学生時代に歌った「喜瀬武原」を思い出したのか、歌のテーマ「君はどこにいるのか」をかみしめるかのように、涙にむせんで感動的であった。
二日目(20日)夜、名護市城(ぐすく)区青年会エイサー隊と一緒に 。(城区公民館) →関連写真
最終日(21日) 左より 韓民(中国)、小林、海勢頭豊(コンサート終了後) ー佐喜真美術館


第24号 ジアフォーラム・第1回(上海)回想(2023年12月10日)
 今回の名護フォ-ラムについては、海勢頭豊さんが2度、Facebookに書いていた。台湾の楊碧雲さんは39枚もの写真を添えて投稿された。別に台湾からの参加者3人の方とぶんじんの写真も出た。それを見て、何人かの方から「ぶんじんも元気らしい」とのメールが配信されていた。当方、Facebookは時々「読むだけ」で書かない主義、それでも名護フオーラムの波紋が拡がって、はじめて「東アジア」研究の活発な動きを知った人もあったようだ。今回は妙にFacebookを評価する機会となったという次第。
 その中で、楊
碧雲さんが今年の名護フォ-ラムを「東アジアフオーラム・第4回」と記されていた。2010年・上海を起点とすれば、次の上海(2016)が第2回、佐賀(2017)第3回、世宗(2018)第4回、北京(2019)第5回、コロナ中断を経て、今年の名護は第6回ということになる。またコロナ禍の中、日本・ズーム開催(2021?)をカウントするかどうか。日本・実行委員会として回数確定の課題があろう。来年の中国(杭州)開催も決まったことだし、今年の名護記録作成のなかで確定しておいてはどうだろう。
 第1回の上海開催(会場・上海外国語大学、2010年11月)については、その前年の動きを含めて、東アジア研究としていろいろ興味深い経過があった。TOAFAECホームページでは、3本の「東アジア」サイトを開き、写真も含めてアップ、新しい研究動向の記録として興味深い→■。当時、川崎市を退職した伊藤長和さん(TOAFAEC副代表、2014年没)は山東省で仕事を始めていた頃で、中国内からの参加であった。小林「南の風」通信と競って「烟台の風」を発行されていた。追悼ページ参照!→■
 この2010上海開催は、いま振り返ってみて、多くの話題を残している。日本代表としての石井山さんの登場、夜の三国協議の時間はヤンビョンチャンさんたちと楽しく飲んでいたいた思い出、福建省の皆さんとの交流、三国間で国際シンポらしく協議・調印したこと等、すべてホームページに記録が残っている。終幕にあたって総括的なコメントを求められ、7点ほど話した記憶がある。2010三国(上海)学術フオーラム記録→■
当の本人はその内容を忘れているが、伊藤長和さんが「烟台の風」に記録していただいた。
伊藤さんの思い出、懐かしい! *小林「南の風」2544号(2010年11月30日)に転載、ホームページにも掲載。→■ 
第1回の上海開催(会場・上海外国語大学、2010年11月)



                            
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