新ぶんじん日誌V(2024年1月〜)  TOPページ

*「南の風」最終4311号 南の風一覧(1998年〜2023)→■ 旧ぶんじん日誌→■
  
新ぶんじん日誌T(2022〜2023)→■  新ぶんじん日誌U(2023)→■(前ページ)

<目次・2024>
25号(2024年1月7日):お正月・新年会の賑わい(回想)
26号(2024年2月29日):ホームページに異変あり
27号(2024年3月27日):花のたより 訃報ふたつ
28号(2024年4月8日):40年余、やんばる(名護・宜野座)との交流
29号(2024年5月8日):ホームページに載らなかった奥多摩の山桜
30号(2024年6月5日):やんばる対談(第14回)記録づくり
31号(2024年7月9日):不思議に命ながらえて
32号(2024年 月 日):




 
新【ぶんじん日誌】2024

第25号(2024年1月7日):
 お正月、新年会の賑わい(回想)
 お正月にいろんな方から年賀状をいただいた(御礼!)。旧年とくに11月「東アジア生涯学習研究フォーラムin名護」の経過もあって、感想や評価も添えられ、また中国そして台湾や内モンゴルからも(中には長文の)賀状を拝受。有り難うございました。当方は、先年の大手術・長期入院以降、すでに賀状欠礼の身。この「ぶんじん日誌」(25号)をもって、年頭ご挨拶とさせていただきたく、お許しを。
 正月元旦は、息子一家が来訪。すでに成人となった孫たちと楽しく屠蘇酒を汲み、日本酒からワインに移ったところで、能登の大地震・激発のニュースが飛び込んできた。被害の映像が次々と流れてきて、つらい年明け。追っかけて翌2日には羽田空港の衝撃的な衝突ニュース、日本航空機は炎上、はじめて目にするような大型機消失の映像。ただごとではない新年の幕開け。ぶんじん個人としては、年末からの失せ物(キャッシュカード)がポロリと顔を出し、また永く会っていない従兄弟(千歳烏山・旧京王書房)から「お正月参上!」の嬉しい電話、いい気分だっただけに、まさに暗転!の三ヶ日となった。屠蘇の祝いも吹っ飛んだ。
 正月と言えば新年会。振り返ると小林宅は1980年代から「新年会」で賑わってきた。格闘してきた思いも。まず正月は福岡油山で旧学生たちと新年を祝い、次いで沖縄へ飛んで(沖縄研究最盛期には正月休みは必ず沖縄に旅してきた)、那覇や名護の皆さんと「いい正月でびる」と挨拶をかわし、その後に東京に帰って永福自宅の新年会が待っていた。日程は当初は1月15日を定例化。当方としては、それぞれにやってくる年始客を1日にまとめる算段。留学生にも声をかけ、また媒酌した新カップルもあり、子ども連れもやってきた。
 まず連れ合い・富美さんの理解が大事。そして田中美奈子さんなど幹事役の協力もいただいて、昼から深夜まで、多い年には(子ども達まで含めると)50人を超えるお客さん。せまいマンションに押しあいへしあい座って会が始まる。夜に向けてだんだんと酒呑み常連がやってきて、本格的な新年会が佳境に入る。しかし酔っ払いは深夜になっても帰らない。その後、これ以上は無理ということになって、近くのレストラン等を貸し切って、昼だけの新年会に切り替えるかたちとなった。だがその後も二次会への思いあり、小林宅の夜の混雑は残り・・・最近ようやく静かに・・・と思い出尽きず。
 ホームページに新年会や七夕の集い(もともと留学生向け)の記録・写真をアップしてきた。初期の頃(1986年)の画像を掲げておこう。懐かしい皆さん! 今年の新年会は1月13日午後予定(幹事・江頭晃子さん、案内→■)。久しぶりに、お出かけを。
38年前の永福・新年会(韓民・高峡夫妻、羅李争等の中国留学生、若い富美さんの顔も、1986年1月) 


第26号(2024年2月29日):
 ホームページの補修と運営ー異変あり
 
いまTOAFAEC公式通信・発行は山口真理子さん(事務局長)が奮闘中。ご苦労さま。
 ぶんじんは「南の風」発行を終刊とし(4311号・2022年4月11日)、いま折々のこと、勝手気ままに書くだけの自由の身。新「ぶんじん」通信に切り替えてほぼ2年となった。月に1,2本は書くリズムをつくってきたが、それも忘れるような気楽さ。いや老化進行を証明する「ぶ日誌」(本欄)だ。この2月は、1本も書かないまま3月に移ろうというときに、とんでもない事態に遭遇した。大事なTOAFAECホームページの異変!
 ホームページの更新・運営はいまなお現役。この30年ちかく、孫のように慈しんでHPを育ててきた。わずか1ページの幼な児(1997年6月オープン)から、手とり足とり、鍛えながら、各種のフアイル・写真を収蔵し編集して供覧ページを創ってきた。1ページから2ページへ、3フアイルから4フアイルへ。写真も捨てず、関連フアイルのなかに折り込み、案外と面白い独自の収蔵庫が拡がって、20歳をこえ、今も成長中だ。もっとも腐心してきたのは、サイト内の相互のリンクづけ。あるページに入り、リンクをたどっていけば目当てページに確実にたどりつける。慣れれば、10〜20秒ぐらいでの出会い。
 ところが先日、出先でいつものようにスマホを使ってデータを引き出そうとしたところ、表紙の大事なリンクが多数切れていることを発見。裏切られた思い、ホームページ表紙の半分近くのフアイル・リンクが消失していた。幸い家のパソコンHPは異常なく、一息ついて安堵。しかしスマホは怖い! 一挙に造反された感じ。原因はまだよく分からない。修復に終日を要した。この異変の原因・背景、どなたか詳しい方に教えていただければ幸い。
 できれば、関心ある方々にTOAFAECホームページ(http://www.bunjin-k.net/)を覗いてみていただきたい。当方は手探りでページ作りを重ねてきた素人。このページには、ぶんじん資料と、TOAFAEC関係記事・記録を掲載する共用サイト。「ぶんじん」が前世紀末から発行してきた通信「南の風」「公民館の風」記録(全文ではない)、TOAFAEC定例研究会記録・年報「東アジア社愛教育研究」全目次・編集資料。加えて東京(大都市)、沖縄・韓国・中国・台湾・ベトナムなど東アジア社会教育・生涯学習関連などいろいろ。最近1997年ホームページ初版もあえてアップ:初期ホームページ(1997〜2002年)→■。 今世紀にデジカメが使えるようになって以来の画像も少なからず収録。 TOAFAEC「ホームページ史」→■もご覧を。
いまHP表紙を飾っている沖縄・備瀬浜の潮溜り。はじめてのデジカメ写真(2003年1月)。20年
 を経過して今も珊瑚礁・右方に破船が漂流しているだろうか。年に1回はHP表紙を飾る記念の1枚。


第27号(2024年3月27日):
 開花おくれ、訃報二つ
 今年は桜開花が遅れている。東京は冷雨・曇天(菜種梅雨)が続き、まだ開花宣言に至らず(3/26現在)。温暖化以前の昔にもどった感じだ。四月の入学式あたりに桜満開か。桜の想い出(1980年代)は、何よりも小金井・学芸大学キャンパスで、社会教育研究室主催による盛大な花見の宴を催してきたこと。新入りの院生・留学生を歓迎しつつ、近くの国分寺市民や劇団「ふるさとキャラバン」から参加の年もあり、研究室の活気、皆さんとの楽しい思い出が甦る。
 ぶんじんは桜に恵まれてきたようだ。生家の庭(今は道路になってしまった)のソメイヨシノ大木。戦時中、その下に防空壕を掘って「空襲警報」をしのいできた。満開の桜花の上空に、憎き米爆撃機B29の翼がキラキラ輝いていた妙な記憶も残っている。小・中・高ともに、校庭には桜が咲いていた。そして小金井(学芸大学)の桜が実に見事! いま暮らしている杉並・永福も、神田川・善福寺川沿いに桜並木、春爛漫を競いあう一帯だ。この季節にはホームページ表紙に桜をかざる慣わし。今年は杉並ではなく、東京奥多摩の山桜の一枚(初出)を載せる予定(開花宣言後)。山桜はソメイヨシノより数週間遅れて咲き、4月下旬が見頃となる。
 花の季節を前に、残念な訃報二つ。2月29日に酒匂一雄さん(東京都庁→福島大学)が亡くなられた。風の便りに保谷の自宅を引き払われたニュースが聞こえてきて、気になっていたが、町田で逝去されたとのこと。ぶんじんの同世代(一歳上)。宮崎出身でお互い九州の同郷意識でも結ばれていた。月刊社会教育・編集長(1975年)、日本社会教育学・会長(1997年)ともに、巡り合わせで「ぶんじん」から酒匂さんへ引き継いだ。この間に20年余の間隙があり、学会体制の“老齢化だろう”などと語り合ったことを思い出す。酒匂さんが亡くなられて、社会教育・同世代の仲間がほとんどいなくなった。ご冥福を祈るのみ。
 沖縄からの訃報は安里英子さん逝去のニュース(3月18日・75歳)。17歳も年下の訃報は悲しい。私たちが沖縄研究を始めたころ(1977年〜)、那覇・久茂地の喜納勝代さん文庫の近くで、雑誌「地域の目」を創刊された人。その後は1991年「揺れる聖域」、そして「琉球弧の精神世界」等を出版され注目を集めてきた。私たちが那覇で資料調査に呻吟していた頃、、安里英子さんが呼びかけて名護・今帰仁に連れだして頂いた。やんばると出会い、象グループ・大竹康市等と杯をかわすきっかけをつくって下さった。福岡・油山の別宅にもお出でいたことがある。最近はお会いする機会がなかったが、40年あまりの得難いお付き合いに感謝!安里さんのことはまた書くことにしよう。
月刊社会教育800号パーティにて・故酒匂一雄さん(2022年1月29日)


第28号(2024年4月8日):
 40年余、やんばる(名護・宜野座)との交流   *関連報告「やんばる対談」→■
 
学会70周年向け原稿チェックの約束も果たせぬまま、今年の「やんばる対談」(4月6日午後、やんばる・蔓草庵)に出かけていた。“やまと”からは、ぶんじん・山口真理子の常連、石井山竜平・上野景三の計4人。さきほど(8日夕)帰京。下掲の写真は上野・山口お二人の撮影。ありがとう。皆さん、お疲れさま。
 やはり年のせいか、今回はひどく疲れた。そろそろ沖縄行きも自重すべきか?と思ったほど。写真の整理を始めて、すこし元気をとりもどし、本文を書き始めている。「やんばる対談」(6日)写真から、とりあえず2枚。そして久しぶりの宜野座・城間盛春さんとの再会“ゆんたく”(7日)の1枚を下掲。最近のぶんじん写真は、2017年(妻の死亡、ぶんじんの股関節手術)以降は、ほとんど笑顔を失っているが、久しぶりに旧友・盛春さんと会って破顔一笑。撮影した真理子さん、ありがとう。
 名護・島袋正敏さんは元気だ。通院されているが、ますます冴えて、「集落と字誌づくり」について貴重な発言(年報29号=9月刊行予定)。中村誠司さんも参加、あらためて1990年代・名護市史編纂室の活気(『字誌づくり入門』等)を思い出した。初めての参加は「二見以北十区」の浦島悦子さん(名刺の肩書:三原字誌作成委員会委員長)。集落誌づくり事務局を担っておられる。九州大学に米ジェット機が落ちた当時の学生だったとか。ご存知・比嘉久(名護博物館長、屋部区)、渡口裕(市教委、城区)のお二人。また那覇から鷲尾真由美さんなどお二人の参加、皆さんご苦労さま。沖縄独自の字誌づくりの話になると、“やまと”側はもっぱら聞き役。
 夜の交流会は、稲嶺進(前市長)、稲福善弘(前名護博物館長)、宮城満(前名護図書館)などの皆さんも参加。名護の各位とは小林ゼミ学生を含め、40年余りの交流が続いてきた。永いご交誼に感謝! 皆さんに御礼を申し上げた。翌7日は、石井山さんの車で、宜野座・城間盛春さん(出会い当時は25歳の字公民館長、その後宜野座村議会議長など歴任)を訪ね、久しぶり“ゆんたく”を楽しんだ。
 実は本ホームペーページ中の、最も古い記事「沖縄社会教育研究会」記録には、こんな一文がある。「1982年3月19日〜25日 沖縄調査(第17回)小林文人・学生ほか計6名(白井・樋口など学生、中国からの留学生・韓民、博物館研究・伊藤寿朗など参加)ー名護博物館準備室長・島袋正敏氏と、宜野座区公民館長・城間盛春氏など」→■
 名護と宜野座の二夜、やんばる(山と海)の珍味で、私たちを歓迎いただいた。この出会いから、40年余りの「やんばる交流」。あらためて正敏・盛春のお二人に感謝! いつまでも忘れない。

第14回やんばる対談(4月6日、名護・底仁屋「蔓草庵」にて)上野景三撮影
*時折、雨が降ってアマガエルが大声で鳴いた。横に見える山羊小屋、いま山羊はいない。

夜の交流会、左より島袋正敏、島福善弘、稲嶺進各氏とぶんじん(6日夜、上野撮影)
*手前のテーブル(見えない)には、石井山竜平、山口真理子、上野景三、渡口裕、宮城満の各氏


再会の“ゆんたく”城間盛春さん(右)とー宜野座区公民館にて、4月7日ー山口真理子撮影


第29号(2024年5月8日):
  ホームページ表紙(index)改装ー表紙に載らなかった「奥多摩の山桜」
 この1ヶ月、またしてもホームページ・表紙写真に翻弄されてきた。ぶんじんホームページは、デジカメが普及するようになった今世紀の初頭から、手撮り写真1枚を選んで表紙中央を飾ってきた。20年余の蓄積となる。画像のまわりに、TOAFAEC活動の研究会案内や年報編集委員会、旧「南の風」記録、ぶんじん収蔵資料(追悼・エッセイ等を含む)等の「目次」一覧を配するかたち。サイト内リンクを充実し、掘れば出る記録・資料の山・・・・この構図が20年余り定着してきた。
 表紙中央の画像・折々のスナップ写真。すべて保存(削除しない)、TOAFAEC・ぶんじん記録として蓄積されてきた。歳月とともに「沖縄・東アジア」関連資料が多数アップされたホームページ。その表紙の中央画像はほぼ1月前後で次の1枚へ。2023年の一覧は記録として、HPの隅っこに収蔵しておいた。→■
 四月・桜の季節。豪勢なソメイヨシノが花見情報でも乱舞するなか、こちらは東京奥多摩の地味な「ヤマザクラ」の1枚(下掲)を用意しアップ予定した。少年時代、自宅門の脇のヤマザクラには蝉がよく来て、楽しんだ記憶もあり、またこの奥多摩の1枚にも叔母の思い出が重なっていた。HP表紙中央に飾って編集・アップの作業をしたが、画像だけがどうしても現れてこない。四苦八苦したが、うまくいかない。そう言えば、本日誌26号(2月、上掲)でも「異変」があった。2月はなんとか収拾できたが、今回はどうしても直らない。数週間、真ん中だけブランクのまま、HP表紙が世に流れていた。
 メール通信「南の風」が終刊(4311号)となって、この4月で2年。終刊の際、ホームページ運営も九十歳を過ぎた老爺が担当するのは無理・・・次の若い世代への交代をお願いした経過がある。半月近くもブランクのHP表紙を世にさらして恥ずかしいが、画像を囲んでいたTOAFAEC記録・ぶんじん収蔵資料類indexは、従来通り機能しているので、(殺風景ながら)写真を抜いて新しいHP表紙とし、再スタートさせていただくことにした。
 記録・資料indexの表紙位置どりは少し変わったが、大きな構図・内容は同じなので、お許しいただいて、これまで同様、活用いただければ幸い。サイト内リンクは、これまでの蓄積あり、「ぶんじん資料」の比重が大きくて恐縮だが韓国グループ、中国・台湾、東京、沖縄研究フォーラムなどTOAFAECメンバーのエネルギーが集積されている。すべてダウンロード可。とくに初めての方、ぜひご訪問を。もしお気づきの改善点などあれば、ご一報を。
ホームページ(最後の表紙)に載らなかった奥多摩の山桜(2005/04/24) 関連画像→■


第30号(2024年6月5日):やんばる対談 (第14回)記録づくり
 
今年の「やんばる対談」は数えて第14回。昨年11月「東アジアフオーラムin名護」の4ヶ月後とあって、新しいサイクルが始まったような充実感。名護独自の「字誌」運動の動きを報告してもらった。正敏さんはもちろん、中村誠司さんも参加され、屋部、三原、城(ぐすく)、天仁屋・底仁屋の各集落からの報告は興味深いものだった。テープ起こしなど山口真理子さんが奮闘、小生もそれに圧されて記録編集(解題、小見出し入れなど)を担当。この「ぶんじん日誌欄」執筆は忘れていたほど。
 最近は目もうすく、こういう作業は無理だ!と断ったが、テーマは「字誌」。やんばる集落・地域史運動をあまり知らない(字誌を読んだこともない)人)に仕事をまわすのは、それも無理だろうと、やや買って出たようなかたちとなって、この間は対談記録と向き合っていた毎日。ようやく下作業を終えて、対談出席者にリライトをお願いする一文を出したところ。記録として、各氏に出したお願い文を掲げておこう。
□「やんばる対談」ご参加の皆様へお願い2024/5/29 小林文人)
 去る46日・蔓草庵「やんばる対談」へのご出席、貴重なお話をいただき、ありがとうござました。 その後、当日「対談」の「記録おこし」に取り組み(山口真理子さん)、先日ようやく文字化された第一次稿が 出来上がりました。(一部の方に録音不十分な箇所あり残念ですが)全文について、小見出し入れ、補正・調整などの編集作業を行い、添付のように第二次稿が出来あがりました。読み応えある内容となっていて、各位にあらためて御礼申し上げます。
 これから年報掲載・第三次(最終)稿に向けて、皆さまに内容確認・修正・追加等の作業をお願い致したく、下記の通り、何卒よろしくご協力をお願いします。
1,ご発言内容のチェック。削除(取り消し線で)、修正・追加(大事ですのでアカ字で)。また他メンバーの箇所、あるいは小見出し設定など編集について、お気づきのところあれば、ぜひご指摘ください。
2,録音の関係で、充分に聞き取れなかった箇所は、ゴシックにしています。ぜひ再生をお願いします。ご無理の場合は、編集にお任せください。(その部分を削除の上、前後をつなぎます。)
3,
比嘉久・浦島悦子お二人から当日提供いただいた資料の一部を、「対談」ページに掲載させてください。できるだけ賑やかに当日の顔写真等を載せたいのですが、今回は枚数少なく、個別にお願いいたします。
4、2週間程度で、6月14日(土)までに、修正稿をお戻し願います。作業が遅れていて、とくにご相談する場合は別として、最終稿を確認いただく余裕はなさそうです。校正作業の際に最終修正が可能となります。
 以上、どうぞよろしくお願いいたします。「やんばる対談」掲載予定年報『東アジア社会教育研究』299月初頭に刊行予定です。お楽しみに。島袋正敏さんを通してお届けする予定です。
やんばる対談(4月6日、蔓草庵) 右より浦島悦子(三原区)、元気な島袋正敏(底仁屋区)、渡口裕(城区)
 の皆さん、*撮影:上野景三



第31号(2024年7月9日):
 不思議に命ながらえて

 ここに掲げたタイトルを懐かしく思うのは、私たちの世代までだろう。戦前・明治の古い軍歌「戦友」の一節である。♪ここは御国を何百里、離れて遠き満州のー♪ で始まる全14節の終わりの部分、戦時中の子どもたちもよく歌った。軍歌といっても哀愁あふれる歌詞・曲調。赤い夕陽の満州に散った「戦友」の死を悲しみ、我は「不思議に命ながらえて」、友の最後を故郷に知らせる手紙を書く、「思わず落とす一しずく」が最終句。その切なさに、軍歌として歌うことを禁じた部隊もあったと聞く。
 私の一年先輩で、ともに社会教育研究の道を歩いてきた故諸岡和房氏(文部省社会教育官、九州大学名誉教授)は、頑丈な人であったが、70歳になって肝臓ガンが発見され闘病の毎日、しかし惜しくも2001年1月に逝去。諸岡さんは1960年代に英国マンチェスター大学留学中に黄宗建さん(韓国)と同学。その縁で小林は黄さんと出会い、韓国そして東アジア研究のきっかけを与えていただいた。韓国と日本の社会教育法制について3人で議論しようと語り合ったこともあるが、それは果たせぬまま、黄さんも2006年に急逝された(追悼ページ■)。韓国・清州の松林に眠る黄宗建さんの霊に会いに行った日のことが思い出される。お二人が亡くなって、すでに20年が経ってしまった。そしてぶんじんは、お二人よりも不摂生・不規則な生活、加えて股間節・人工関節(2017年冬の手術)に喘ぎながら、いま「不思議に命ながらえて」、本文を書いている。
 TOAFAEC研究会のことは、お二人はほとんど知らないまま、天国に逝ってしまった。お元気であれば、きっと力になってくれたに違いない。一昨日、TOAFAEC・2024年報(第29号)「名護の社会教育」執筆のため、3階「風の部屋」資料をしばし探索した。そして名護資料の横に思いがけない本が、ひょっこり顔を出した。嬉しい再会。諸岡邦子著『約束の川ー伴侶の死を生きるために』(梓書院、2002年)、表紙オビには「二人の灰を一緒に流そう、それがテムズの川辺で交わした約束であった」と。諸岡夫妻の闘病・看病そして看取りの壮絶な記録である。親友の安藤延男さん(1年先輩、2014年没)も登場する。終日、読みふけった。あの年、本を頂いて一度目を通したはずだが、不思議に命ながらえた今、初見のような緊張と感動。その後の記録も「続編」として本になっているらしい。
韓国・黄宗建さん(中国・煙台、2003/11/26) *デジカメの諸岡さん写真が見当たらない。


第32号(2024年7月 日):











*第24号(2023年)まで■(前ページ)

                        TOPページ