【南の風2015】発行リスト・3501号〜3550号
各号目次一覧・後記(ぶんじん日誌)


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南の風・各号後記(ぶんじん日誌)


3550号【2015年9月11日】
■≪大河の氾濫≫
 栃木・茨城・宮城に記録的大雨ニュース、書いていたものは次号まわして。
 鬼怒川の氾濫、堤防が崩れて常総市に流れ込む泥水の勢い、目を奪う画像です。床上下への浸水もイヤなものですが、家屋流失をもたらす大河の氾濫。まさに津波の急襲に似て、その爪痕・被害は大変ですね。お見舞申し上げます。
 九州・筑紫次郎の川沿いに育ったぶんじんには、少年の頃からいくつもの筑後川氾濫、大水害の思い出があります。なかでも忘れられないのは、1953年6月の集中豪雨、北部九州の河川はほぼ全て?氾濫したといわれる程。「死者・行方不明1,001名、浸水家屋45万棟、被災者数約100万人」の記録あり。
 北部九州に数日降り続いた豪雨でした。この年、九州大学4年、福岡で教育実習中。久留米が大水害!とのニュース。飛び乗った博多からの列車は鳥栖駅で動かなくなり、線路の上、深いところはほとんど首までの泥水(筑後川氾濫)につかって、乗客互いに手をつないで大洪水のなかを渡ったのでした。水中行軍は、鹿児島へ帰る紡績に働く女工さんたちと一緒の思い出。久留米駅までの2時間余り、いつまでも忘れません。
 幸い自宅は浸水を免れていました。風呂を沸かして、水害にあった小森野の九大分校(当時)の先生方が列をなしてお出でになり、大いに喜ばれたことなど懐かしい。そう言えば、このこと、はるか昔に本欄で書いたような…。
 翌日は熊本「白川大水害」の救援へ。たしか「九学連」(学生運動)としての活動でした。その数ヶ月前に噴火した阿蘇山の火山灰が大量の泥水となって熊本市内に流入、すべてドロドロになった火山灰にまみれた風景。時計のなかにまで泥の粒子が入り込んだという話を聞きました。水害被災者を校舎に入れなかった熊本大学当局への糾弾の場面を妙に憶えています。

3549号【2015年9月8日】
■≪童らつどいしガジュマルの≫
 これも20年余り前のこと。ある人の案内で、沖縄・嘉手納基地を見て回ったことがあります。ドル紙幣で食事をし、教会や映画館や遊園地みたいな楽しい場所もあり、広大な空軍基地の中にアメリカの開けたニュータウンのような風景。広々とした芝生に、ぽつんとガジュマルの樹がさびしく立つていたのが印象的でした。おそらく基地以前(沖縄戦後に接収される前)には、まわりに普通の集落・広場があり、木陰では年寄りが憩い、子どもたちも遊び戯れていたに違いない、と感傷にひたった記憶があります。
 基地内の丘に、沖縄降伏調印のモニュメントがありました。「南西諸島の日本軍代表と米第10軍司令官スチルウェル大将らが、第10軍司令部(嘉手納基地内)で降伏文書に署名」(沖縄タイムス社説・9月7日)した場所。東京湾ミズーリ号艦上・降伏文書の調印式から5日後のこと。日本軍司令官が自決した6月23日を過ぎても、2ヶ月半ちかく戦争の惨劇が続いていたことになります(上掲・沖縄タイムス[大弦小弦]9月7日)。
 ノートの切れはしに走り書きしていた拙歌数首。初期の「南の風」に載せていました(第47号・1998年6月26日)。この中の一首、こっそりと「月刊社会教育」(1993年1月号・小林「沖縄の社会教育が問いかけるもの−復帰20年に考える」)にも書き入れていた記憶。
◇むらむらの童らつどいしガジュマルよ今ひとり佇つ緑も映えず 
◇さんざめく祭りは消えてガジュマルをつつむ静寂そして爆音
◇戦世(いくさゆ)をくぐりて耐えし老木の歴史を語る重き風格

3548号【2015年9月6日】
■≪TOAFAEC・20年の歳月≫
 9月5日午後の韓国研究フォーラム、ご参加の皆様、ご苦労さまでした。当日さほど飲んでいないのに、閉会後、3階(風の部屋)から5階への帰路は足がふらついていました。自ら衰えを実感した夜。当日の記録は、その日のうちに松尾有美さん(東大・院)から送信いただきました。有り難う(報告・上掲)。
 この席でもお話ししたことですが、今年は TOAFAEC(東京・沖縄・東アジア社会教育研究会)創立から20年。そして年報第20号の刊行(予定)、定例研究会(毎年11回の開催)は次回で220回を迎える・・・記念の年です。遅れている年報の完成と合わせて「20年の集い」をもちたいもの。事務局あたりで企画を検討いただけないものかと期待しています。
 20年の歳月については、関係各位のご協力を得て、かなり詳細な記録が残されています。→■ http://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/toafaec.htm
 しかし発足当初は、研究会の活動が20年も続くとは夢にも思わず、数年はあまり充全な記録ではありません。HPらしきものが素人作業で作成できたのはスタートから2年後(1997年)、しかし当時はほとんどスケジュール予告のみ。→■ http://www007.upp.so-net.ne.jp/bunjin-k/1997schedule.htm
 「南の風」はそれからさらに1年遅れ(1998年)のスタート。デジタルカメラの画像をなんとか載せ始めるのは今世紀に入ってからのことでした。それ以降は、「風」とHPが重なって、いま読み返してみても、一応の研究史的な内容となっているように思います。
 20年の歳月は、ぶんじんにとっては東京学芸大学・定年退職後の歩みでした。さて、これからどのような歴史を刻むことになるか、「風」がどのように吹いていくかを含めて、成り行きに任せ、のんきに歩みたいと思っています。
9月5日・韓国研究フォーラム、小田切督剛さん撮影 (風の部屋、150905)   写真移動・関連ページ→■

3547号【2015年9月4日】
■≪10年前の6月・ドイツ≫
 「南の風」は創刊以来すでに20年に近く、3550号に達しようとしています。“終盤”を迎えていることは明らか。今、どなたかの遺言のような「継続を!」の声や、数人?の熱烈なご期待に、なんとか応えようとする意地だけで発行を続けているようなもの。… 夜も更けて、少々酔いながら、書いています。
 終盤となれば、いささかの回想記事もお許しいただけるかと、前々号「20年前の8月」を書き、本号はその続きです。ドイツ・ポーランドの一人旅、あの旅は、はじめて“ヨーロッパ現代”を垣間見た実感でした。その前に1986年末から87年にかけて、文部省(当時)在外研究の機会を得て、米・英・伊をまわったことがありましたが、断片的な知識・知己を得たに過ぎなかった印象。その後、1990年代(冷戦解体後)に「東アジア」への関心が増幅して、対照的に「ヨーロッパ」を見る意識がふくらんできたのかも知れません。
 2000年に入って、和光大学の援助をもらって2ヶ月のドイツ滞在。谷和明さん(東京外国語大学)を通しての「社会文化運動」への関心もあり、ハンブルク・アルトナーレ(市民祭)などへ数年参加しました。この頃は「南の風」発行中、かなり詳しい記録が残されていて、懐かしいものがあります。
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  2005年には珍しく妻・富美を誘ってハンブルク・アルトナーレへの旅を計画しました。ところがリーダーの谷さんが病に倒れ渡独できす、結果的にドイツへの思わぬ二人旅。ちょうど「戦後60年」の年。ベルリン・ブランデンブルク門の“廃墟”(1945年)にたたずむ富美の写真が残っています。→■
戦後60年・ブランデンブルク門。佇む小林富美 (ベルリン、20050620) 


3546号【2015年9月2日】
■≪やがて鳳仙花の種が弾け・・・≫
 沖縄をともに旅した方は、那覇「苗」の店をご記憶でしょうか。お酒のあと「カツオめし」を注文する慣わし。ここに初めて連れていってくれたのは安里英子さん(ライター・詩人)でした。30年余り前のこと、当時『地域の眼』を主宰。象グループや今帰仁村中央公民館を鮮烈に取り上げていました。
 8月8日に出た「時の眼−沖縄」批評誌『N27』第5号に、安里さんは、「朝鮮人軍夫の戦後70年−アジアの視点で琉球・沖縄の主体と自治を考える」を書いています。シマ共同体論だけでなく「私は10数年前から朝鮮人軍夫の問題に関わるようになった」こと、戦時下の阿嘉島に軍夫として強制連行された姜仁昌(1918〜2012年、慶尚北道出身)の貴重な証言、「恨之碑建立を進める会沖縄」の活動など、興味深い報告。読谷村瀬名波の丘に建立(2006年)されている「恨之碑」の写真も掲げられています。その碑文には安里英子さんの詩が刻まれているそうです。その一節を紹介します。
 「…日本軍の性奴隷として踏みにじられた姉たち 軍夫として犠牲になった兄たちに深く頭を垂れる やがて固く結んだ鳳仙花の種が弾け 相互の海を越えて花咲くことを信じて…
 兄姉よ、あなたたちの辿った苦難を語り継ぎ 地球上から戦争と軍隊を根絶することを この地に果てた兄姉の魂に 私たちは誓う」
 『N27』第5号の奥付に安里さんは「ライター」と記されていますが、詩人でもありますね。変わらない健筆に敬意。第5号も『N27』編集人・比嘉豊光さんから送っていただきました。有り難うございました。

3545号【2015年8月31日】
■≪20年前の8月≫
 30日深更、J:COMのラインで映画「シンドラーのリスト」が流れていました。何度か観た映画なのに、やはり引き込まれて最後までお付き合い。スティーヴン・スピルバーグ監督作品(1993年、米)が日本で公開されたのは、たしか、1994年と記憶しています。この映画の刺激もあって、ぶんじんは1995年夏、ヨーロッパの一人旅のなかに、当時まだ社会主義体制の名残りが色濃く残っていたポーランド行きを企画。ポ大使館で旅券をとり、ワルシャワからクラコフへ、そしてアウシュヴィッツ強制収容所跡への鎮魂の旅に出たのでした。
 ナチスによるユダヤ人虐殺(ホロコースト)については、『夜と霧』(V.E.フランクル、映画はアラン・レネ監督)ドキュメンタリーが頭に焼き付いていましたが、映画「シンドラーのリスト」もまた衝撃的だったのです。
 1995年は、東京学芸大学から解放され、和光大学へ移った年。私立大学の自由な学風は、難なく1ヶ月の欧州・自由遊学を許してくれて嬉しい一人旅。この8月は主としてドイツ(東・西)を動いたのでしたが、そのうち1週間をとって、戦争・東西からの侵略、そして社会主義体制に呻吟してきたポーランドを初めてまわる旅となりました。ワルシャワ・ゲットー、少年たちも闘ったワルシャワ蜂起、慰霊碑の前で謝罪のため崩れ伏したドイツ首脳など、アウシュヴィッツだけでなく、深く心に残るポーランド。それらに、クラコフでのシンドラーの挌闘の映像が重なったのです。
 当時まだ「南の風」を発行していませんでしたので、記録は充分ではありませが、旅の報告は、TOAFAEC第4回定例研究会(1995年9月18日)のテーマに。
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ttp://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/00kenkyukaikiroku.htm
 余談ですが1995年は、春に社全協委員長からも解放された年。しかしこの旅が終わってすぐ、秋に社会教育学会長を引き受けることになり、その意味でも8月は二度と味わえない自由のバカンスでもありました。

3544号【2015年8月30日】
■≪全国集会・参加できず≫
 基礎教育学会(仮称)設立準備会の次回(第4回)予定。南の風へのご案内(世話人・添田祥史さん)は、「9月18日−東京開催、*決まり次第お知らせします」と(南の風3524号-7月18日)。その後の日程・会場の詳細が気になっていました。今日(29日)「学会設立準備会」MLによれば「9月13日(日)2時〜5時、東京・中野サンプラザ6階バードルーム」とのこと(同世話人・岩本陽児さん)。急ぎのご連絡として、同MLより上記再掲しました。
 MLや「風」記事は、所詮は吹き流れていくもの。諸案内・情報のストックとなるHP・ブログ等のページがほしい。日本公民館学会の設立(2003年)にあたっては、その初期段階から中央大学・大学院諸氏の役割が大きく、応援ホームページも賑やかに機能していたことを懐かしく思い出します。
 TOAFAEC 年報『東アジア社会教育研究』が今年で第20号を迎えます。全バックナンバーの論文テーマ、執筆者、国・地域別の総索引づくりが進行中。事務局・山口真理子さんの奮闘!です(上掲)。有り難うございます。この年報は1980年代の沖縄社会教育研究の系譜を受け継ぎ、東アジアに視野をひろげて、掲載論稿の大半は中国・韓国・台湾・モンゴル等に関する報告、これまでにない拡がりで編集・刊行されてきました。それだけに索引づくりもたいへん。しかし20年にわたる全索引が完成すれば、大きな財産となること疑いなし!
 いま岩手・盛岡で、第55回社会教育研究全国集会が開催されています。今年は(留守中の介護体制が整わず)残念ながら参加できなくなりました。沖縄・名護からの参加者「囲む会」のことも気になりながら、本欄を書いています。

3543号【2015年8月27日】
■≪ガルトゥング氏の訪沖≫
 高齢をおして来日した「平和学の父」ガルトゥング氏(Johan Galtung,1930年、ノルウェー生まれ)が、沖縄の辺野古・瀬嵩の浜に立ち、「皆さんは日本の民主主義そのものです」「この海を壊すことは許されない」と“平和を呼ぶ一陣の風”“ウチナーンチュを鼓舞する旋風”を巻き起こしたそうです(上掲・琉球新報「金口木舌」8月26日)。印象的なコラム。同紙25日の社説は「北東アジア共同体、心に響く案追求したい」を書いています。
 講演で「北東アジア共同体」設立が歴史の趨勢だと強調、その上で「沖縄ほどその本部を置くのに適した場所はない」。欧州連合(EU)の拠点がブリュッセルやルクセンブルクにあり・・・沖縄がかつて独立国で、各国からほぼ等距離にある点をも重視。あるいは政策提起について、単に『反対』だけでなく政府案よりいい『プランB』を出す視点、たとえば尖閣問題について具体的な政策提言も含まれ、傾聴すべき内容です。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-247786-storytopic-11.html
 南の風が、このような平和への風を、「心に響く」構想を、運ぶことができるのは嬉しいことです。ガルトゥングのいう「積極的平和」、それは貧困、抑圧、差別など「構造的暴力」がない状態のこと、それへの取組みをいうのであれば、人権に根ざす社会教育・生涯学習の実践と運動は、まさに本来の積極的平和主義につながる活動そのもの。前を見据えて、歩んでいきたいものです。
 東京は明らかに秋の気配、夜も少しずつ長くなりました。元気を取り戻しましょう。年報第20号など今年は遅れている作業を一歩ずつ先へ進めましょう。

3542号【2015年8月25日】
■≪ようやく秋の風らしき・・・≫
 激しい台風15号が八重山・沖縄本島・奄美・九州を縦断しています。石垣の渡慶次賢康さん(もと中学校長、市社会教育課長)など数人の方にお見舞の電話をしたところ、異口同音に「こわい」台風だった由。石垣市内では瞬間風速70米の記録、驚きました。25日は九州全域の交通機関はマヒ状態。
 竹富島ブログ(ta)「台風15号の爪あと−非常に強い台風15号は、八重山地方を直撃しました。定期船は22日から欠航し、通過後の本日も運航を取りやめています。・・・これから石垣島からの給水が止まり、断水するとの島内放送が流れました。復旧のメドはまだ立ちません。」(8月24日)
 お見舞い申しあげます。各地の被害が少ないことを祈っています。主のいない油山の寓居も心配。今年の夏はまだ足を運ぶことができないのです。
 「南の風」は、沖縄からの通信や動きを(できれば)毎号載せて、「南」の風として面目を保ちたいと【おきなわ短信】欄を設けてきました。加えて、さらにその南、台湾ほか東アジアの関連情報を−折にふれて−掲載し【アジアの動き】を紹介する努力も重ねてきました(本号で128)。もちろん個人で知る範囲でのささやかな試み。今日(24日)の朝日新聞記事「李登輝氏『日本人として祖国のために戦った』−元総統寄稿に台湾で論争−」が目にとまり、久しぶりの台湾の動きを載せました。
 もちろん皆さんからのご寄稿が第一。「おきなわ短信」や「アジアの動き」欄が並ぶのは、連日の炎熱に疲れて?皆さんの便りが少ないことの証左でもあります。ようやく夜は秋の風らしき涼しさ、道ばたにチロチロと虫の音も聞こえてきます。一息ついて、そちらからの風を吹いて頂ければ幸い。

3541号【2015年8月21日】
■≪知らなかった話≫
 福岡・社会教育研究会の横山孝雄さんより、5月に開催された名護・島袋正敏さんの講演記録が送られてきました。「平和と自治の再生を沖縄・名護から考える」興味深い内容。ペーパー記録(福岡県自治体問題研究所「福岡の暮らしと自治」第451号)なので添付できないのが残念です。
 セイビンさんとは三十数年来のお付き合いですが、この記録を読んで、知らないことがいくつもありました。それだけ自由闊達に面白く語されたということでしょう。たとえば1970年のコザ騒動に関連しての話。「私は1960年から64年まで沖縄(コザ)市で仕事をしていました」。米兵相手のキャバレーで会計・税務処理などをやっていたとのこと。知りませんでした。
 「そこで仕事をしていると、米兵とのトラブルは日常茶飯事だったわけですよ。…実は私が米兵と取っ組み合いをしているときに、タクシーが来て、運転手さんが顔見知りでも何でもないのですが、俺にも加勢させろと、一緒になって米兵をボコボコにする喧嘩をやったことがあります。そういうことで警察に拘束されたこともあるのです。パークアベニュー側の駐在署、そこの留置所に一晩やっかいになりましたが、そのときに警察官が『もっと徹底的にやればよかったのに』と言いました。コザ騒動は、日頃のそういう鬱積したものが出たということだと思います。」
 講演テーマ副題は「沖縄の苦悩と抵抗・戦後70年、たたかいは続く」。横山さんから余部を送っていただきましたので、ご希望の方はどうぞ。手もとにあった7年前のセイビンさんの写真(@松本市での集い)を掲げておきました。さて、8月19日夜・東京社会教育史研究会の論議は活発でした。この記録は次号で。
島袋正敏さん- 7年前(松本市の集い、20080217) 


3540号【2015年8月19日】
■≪暑さとの闘い≫
 あらためて残暑お見舞い申し上げます。秋雨前線?のような天気図と聞きましたが、相変わらず蒸し暑い酷暑。さきほどのニュースでは、「7月に熱中症で病院に運ばれた人は全国で2万4000人余り、7月としてはこれまでで最も多くなった」(消防庁まとめ)とか。地域的には群馬など関東、年齢別ではもちろん高齢者。いまや暑さとの闘いです。
 こう暑くては頭も働きません。本日(8月19日夜)の研究会「ご案内」を正式には掲載していなかったようです。上記・お詫びに書きましたが、前回の編集会議(7/20)記録−風3526号・石川報告−に含まれていましたから、ホームページには書き入れていますが・・・風・編集としては申しわけない。
→■ http://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/tokyoforumu2012.htm
 今夜、編集会議の精鋭メンバーだけで頑張ることになりましょうか。テーマは「最終章“展望”をどう書くか」。まさに正念場。お一人でも多くの皆さんのお知恵をいただきたいところ。あえて同日付「ご案内」を本号に掲載した次第です。暑さに免じて、ご容赦ください。
 那覇の鷲尾真由美さんから,「BS11 アーサー・ビナード 日本人探訪 ♯5 沖縄やんばるの森を守る人々」の案内が届きました。ヤンバル(高江)に住む伊佐家(トートーメづくり)をリポートしたもの(8月15日放送)。ヤンバルの森のなかにオスプレイ基地が6個所もつくられる異常さ。辺野古「静かな海への願い」(琉球新報「金口木舌」8月18日)とあわせて「静かな森への願い」を実感しました。
→■https://www.youtube.com/watch?feature=youtu.be&v=ezD311AzK-8&app=desktop

3539号【2015年8月17日】
■≪八月の歌ごこ≫
 日中学院(東京・文京区)の胡興智さん(中国語・専任講師)から、今年の八月を詠む歌30首ほどが送られてきました。旺盛な歌づくりの意欲。末尾に「追伸:思うままに書いたものなので、取捨をお任せ致します」とあり、紙数の関係もあり、お言葉に甘えて、8首ほどを選ばせていただきました。いわば、ぶんじん選−光栄なことでした。
 胡さんについては、いつぞや本欄に紹介したことがあります。天津に生まれ、東京学芸大学・院に学び、現在は日中学院で中国語教師。しかし単なる言語の教師だけでなく、その土壌となる文化や歴史を大事に考え、たとえば日本の生け花をたしなみ、短歌を詠む努力をし、その歌づくりの素養に磨きをかけている毎日。生け花については、7月の「七夕の会」に華麗な三鉢を創作、私たちの目を楽しませてくれました。
 そういえば胡さんは中国(天津?)料理の達人。横浜中華街に叔父さんの店があって(珠江菜館?)、昔はゼミのメンバーで何度か高級料理をご馳走になったものでした。
 いま日本の歌づくり、とくに社会詠が活発です。この機会に、胡さんに触発されて、8月の朝日歌壇(今日・15日)から4人の選者が選ぶ秀作のなかから1首ずつ。
◇デモの中おひとついかがと配らるる老女持参のキスチョコゆかし(宇都木まや)
◇九条を傷だらけにして孫に継ぐ七十年目の悲しき節目(田中洋一)
◇祖父の戦死こころに在りて娘らは国会前へ出かけて行きぬ(圓城寺順子)
◇支持されてゐるからと言ひ支持率を下げてもやると今度は言へり(内野修)
 ・・・前号の続き。七十年前の八月十五日を想う・戯れ歌(ぶ)。
◇戦終り蒼空高く月さやか ◇あの夜の灯の煌めきを忘れまじ

3538号【2015年8月15日】
■≪70年前の8・15−あの青い空≫
 今年も8月15日がめぐってきました。あれから70年も経ったのか、というのが正直な驚き。少年Bは当時13才(数え年で15才)、旧制中学2年でした。前号の上平泰博メール「少年護郷隊」に関連して言えば、「…14歳から組織される国民青少年義勇隊が全国で組織化」された場合、戦役に動員されたかも知れない最年少の世代、危ないところでした。沖縄の「少年護郷隊」はまさに少年義勇隊の「先兵的、実験的なとりくみであった」(上平)。「国民義勇兵役法」公布は沖縄戦が終わる6月23日でした。
 1945年の学徒「勤労動員」中の少年Bは、間違いなく愛国・軍国少年。教育勅語だけではなく「軍人勅諭」さえも暗記し始めていました。「陸軍幼年学校」を受験したいと思っていたところに、1944年8月・空襲警報下の怪我(大腿骨々折)により入院加療を強いられ、志望挫折したのが“怪我の功名”。このことは自分史風に書いたことがあります。
 70年前の今日「8月15日」は、高い青空でした。虚脱感・敗北感とともに、言いしれぬ解放感がありました。食糧に餓え、物資窮乏にあえぎ、一時期は裸足(はだし)で外出していたことも。しかし日常化していた「空襲警報」発令はなくなり、「灯火管制」で真っ暗だった夜が、あの日から明るく輝いて、その煌めきと高揚感はいつまでも忘れません。高い青空と煌めく夜は少年Bのひとつの出発点となりました。
 翌1946年の混乱期を経て、47年には六三三制が発足。旧制中学から新制高校への切り替え。少年Bはバレー部(九人制)創設に関わり、あまり勉強などせず、体育館の片隅でタバコに手を出し、授業には出ず映画館に通うグループ。九人制バレーのレギュラーは、大学2年まで続けました。

3537号【2015年8月13日】
■≪旧盆入り・沖縄護郷隊≫
 8月も半ばとなりました。父のはまゆう母のゆふがほ盆が来る(伊藤いと子)、畦を来る揚羽のごとく盆の僧(富永成女)。東京では揚羽の蝶も精霊トンボも飛ばず、ただ残暑のみの旧盆入り。
 もともとお盆は正月とならぶ我が家(久留米)の二大年中行事でした。お寺(浄土真宗・東派)と深い関わりのあった祖父の影響が大きく、旧盆の3日間は親戚が集まり、お経があがって・・・初盆の家にお詣りに行き、など案外と忙しい。本でも読んいようものなら、「閻魔さまも休み、地獄の窯の蓋もあくのに」と母にたしなめられたものでした。
 福岡に家をつくって、1970年代からは、8月のお盆は油山で遊ぶようになりました。沖縄から(東京へ帰らず)福岡へ、いつも集まるメンバーがいて、庭の白樺に蝉、ムクゲが咲き、日陰に揚羽の舞い、夕暮れから手作りベンチを持ち出して、ビールを飲む至福のひととき。
 閑話休題。上平泰博さん(協同総合研究所)から「沖縄護郷隊」の話題が届きました。11日夜のNHK番組「あの日、僕らは戦場で(アニメ・ドキュ)」がいい出来映え。これまで語られなかった少年ゲリラ隊の記録。
 「鉄血勤皇隊」や「ひめゆり」などの学徒隊に比べて、旧青年学校や国民学校高等科卒の在農少年たちの「護郷隊」については、記録・証言が稀少。陸軍中野学校を出た将校に率いられたスパイ・ゲリラ組織だったのです。沖縄ではなかなか話せないと、十日町の雪祭りに招いた夜、「はじめて話します!」と護郷隊の過酷な証言を聞いた夜がありました。

3536号【2015年8月11日】
■≪編集会議−ワインの空き瓶≫
 前号の標題・タイトルの部分、一部の方に見苦しい乱れがありました。いつものことながら、指のもたつき・目のカスミ、ご容赦ください。
 先島諸島から台湾・中国大陸へ抜けた台風13号。大きな被害が報じられています。幸いに竹富島では「家屋倒壊など甚大な被害」はなかったものの、多くの樹木がなぎ倒されるなど「久しぶりに“恐怖”を感じさせる威力」だった模様、お見舞い申しあげます。しかし「台風の影響がなくなると直ちに島内の清掃」が始まり、いつもの御嶽の美しさが戻っていると(上掲・おきなわ短信1032−A)。情景が目に浮んできます。
 さて、10日「風の部屋」は年報20号の編集会議(第5回)。作業は遅れていますが、賑やかな集いとなりました。論議と飲みっぷりは猛暑をはねかえす勢い。あとに残ったワインのカラ瓶を数えてみると、1人ほぼ1瓶を飲んだ勘定。若者をしのぐ壮年・老人の元気、お見事でした。ぶんじんも当夜は久しぶりに深く酔いました。高知の内田編集長はじめ皆さんご苦労さまでした。
 遅れて参加した人の感想。「昨日はお疲れさまでした。編集会議だったのやら、飲み会だったのやら…」とコメントあり。もちろん、たしかな編集会議でした。骨格部分の論議が一段落して、オケクラフト・ワインクーラーのお出まし。いい20号となる予感。詳細は(いずれ届く)編集長報告をご覧下さい。
 8月11日は、1年のなかでも終生忘れることが出来ない日。旧制中学2年の夏、故郷・久留米が米軍大空襲で消失した日(1945年)。長崎原爆から2日後、4日後は15日「天皇放送」という瀬戸際の惨事でした。この記録は本欄で何度か書きました。ホームページに、こっそりと記録を残しています。

3535号【2015年8月9日】
■≪明日は編集会議≫
 強烈な台風13号、石垣・竹富など先島諸島から台湾へ。皆様に被害はありませんでしたか。相次いで台風14号は小笠原あたりから北上中。忙しいことです。
 東京は昨(8日)夜は幾分しのぎやすい風が吹いていました。深夜の散歩でもと思ったほど。結局は懐メロ番組をみているうちに出足がとまり、相変わらずの運動不足、そして(やや?)飲み過ぎ。
 本号は、TOAFAEC 新代表の上野景三さん「就任のごあいさつ」を掲載しました。もともとTOAFAEC(年報発行)「維持会員」あての文書、抄録しました。南の風あての「ご挨拶」も、とお願いしていたのですが(風3532号「猛暑のなか取越し苦労」)、すこし時日も経過しましたので…。ご了承ください。
 8日夜のモンゴル・チャリティイベント、結局行けませんでした。包聯群さんに出したお詫びのメール。「モンゴルチャリティコンサートのお誘い、ありがとうございました。楽しみにしていたのですが、行けなくなりました。いま妻を一人にできないので、誰かに介護を頼むのですが、当夜、いつもの方がどうしても都合がつかず、外出できなくなりました。せっかくの機会なのにと残念です。…」
 当夜、チャガンボルグ君の消息が聞けたそう(上掲・岩本メール)、驚きました。チャガンボルグは和光大学へのモンゴル留学生としては初期メンバーの一人。おそらく2001年春(九州大学・院より)研究室にやってきたと記憶しています。2010年頃には西池袋で「ボルグ(泉)」というモンゴル料理屋を開いていた時期もあり、しかし、うまく成功しませんでした。もしこの文章を読む機会があれば、ぜひTOAFAEC 研究会に顔を見せてください。明日(10日)は編集会議、暑中ご苦労さまですが頑張ってお出かけ下さい。

3534号【2015年8月7日】
■≪妻と語らう原爆忌≫
 強烈な台風13号が南太平洋上に。八重山から台湾へ向かっています。本号には竹富島「豊年祭」記事(おきなわ短信1030)。台風を前にして、ひと足先に祭りは終わったところでしょうか。しかし、これから暴風圏内、無事通り過ぎることを祈っています。日本列島は猛暑が続いています。南の沖縄よりも、北海道の方が気温が高い日も。亜熱帯と亜寒帯が逆転の様相。驚くべき異常気象です。本欄は少しでも暑苦しくない話題をと思いながら、ついつい猛暑の話、お許しください。
 今日(6日)の朝日新聞「文芸論」は、朝日俳壇・朝日歌壇の選者が対談しています。最近は「自然詠」に対して、社会で起きていることを詠む「社会詠」が急に増えている。60年安保闘争に向けて「社会詠」が大いに盛り上がった時代がありましたが、いま「それ以来の盛り上がりのようだ」と。
 俳人・金子兜太は「新聞俳壇はジャーナリズムだと捉えていますので、意識して選んでいる」と。「憲法が散華してをる揚花火(馬目空)」「積極的従属主義や夏の陣(大井みるく)」を紹介しています。歌人・佐々木信綱は「作者の真剣な表情」を思いながら、「憲法が守りてくれし我が人生、銃撃たざりき撃たれざりけり(松下三千男)」「戦争になぜ反対をしなかったそう賢(さか)しげに我ら言ったはず(春原正彦)」などを。
 猛暑のなか、当方の歌ごごろは萎えています。毎日の雑事に追われ言葉が出てきません。夏の夜の月を見上げて、思わずの自分詠、場ふさぎの戯れ歌です。
◇つらい夜の十三夜ことさらに美しく 悲しい夜に仰ぐ満月は笑っている 
◇桃冷やし妻と語らう原爆忌

3533号【2015年8月5日】
■≪米軍キャンプシュワブ・ゲート前≫
 8月4日のニュース。官房長官は午前の記者会見で「米軍普天間飛行場の辺野古移設計画について、今月10日から9月9日までの1カ月、移設計画にかかる一切の工事を停止し、県と移設問題について集中的に協議する」(東京)と発表。那覇でも翁長県知事が同じく1ヶ月の工事中止と「当該期間中に、県による(大浦湾)岩礁破砕立ち入り調査を実施する」と。沖縄各紙は号外を出し、翁長知事会見の動画を流しています。
 琉球新報・辺野古問題取材班による辺野古の米軍キャンプ・シュワブ前の様子。「新基地建設に反対する市民らは、4日午前…工事関係車両の基地内への通行を阻止しようと抗議行動を展開した。午前7時ごろ、機動隊と衝突する場面もあったが、けが人はなかった。午前10時20分ごろ、一か月の作業中断の一報が入り、市民らからは拍手と歓声が上がった。… 辺野古の海上では辺野古崎付近のフロート(浮具)を撤去している様子が見られたが、スパッド台船は付近で確認できず、海上作業は見られなかった。市民らは船2隻とカヌー少なくとも14艇を出して新基地建設に抗議した」など。
 当方、いまちょうど今年3月の名護「やんばる対談」の記録・原稿づくりに汗を流しています。あの日(3月28日)、私たち訪問団は、名護側の島袋正敏さんとキャンプ・シュワブ市民座り込みテントで落ち合いました。ぶんじんはテントの皆さんの前で短い挨拶を求められ、韓国から参加の崔一先さん(慶煕大学)は即興で抗議座り込みの人たちに向け“珍島アリラン”を絶唱。これに和して呉世蓮さん(早稲田大学)は優雅に舞ったのでした(風3470号)。忘れがたい思い出のひとコマ。遅ればせながら写真一葉(歌う崔先生と踊る呉世蓮さん)。
左・崔一先さん(慶煕大学)、右・呉世蓮さん(早稲田大学)、カメラ・鷲尾真由美さん(名護・辺野古、20150328)


3532号【2015年8月3日】
■≪猛暑のなかの取越し苦労≫
 ご記憶でしょうか、6月6日の学会・六月集会の夜に、私たちTOAFAEC の総会が開かれ、その報告は「南の風」3512号(6月19日)に掲載されました。今年はこれまでにない大きな決定(代表交代、維持会員の会費変更−半額へ)が注目されるところ。しかし維持会費の件など事務局レベルでの充分な検討がないままでの総会決定。こんごのしっかりした取り組みが大事。
 新代表の挨拶と維持会員への「お願い」が発送されたとのこと(上掲・事務局コーナー153)。会計・山口真理子さん、ご苦労さまでした。総会からすでに2ヶ月が経過、こんなにゆったりしたリズムで大丈夫かいな?と気になっています。今年はとくに年報編集作業が大きく遅れていることへの心配が重なっているのかも知れません。取り越し苦労であれば幸い。
 7月末の編集会議が延期され、8月10日あたりの線で開催と聞いていますが、早急に時間・場所などの確定ご案内を「南の風」にも送ってください。猛暑に負けず・・・頑張りましょう。一両日うちに維持会員への文書が届くそうですから、あらためて「南の風」へ載せるメッセージ(上野新代表の挨拶)や諸報告も頂ければ幸い。
 本号には、日韓学術交流研究大会(第7回−10月17日〜18日、韓国済州島)、モンゴル民族文化基金・チャリティコンサート(第10回−8月8日、東京)のご案内が寄せられました。「本コンサートの収益の全てを教育支援にあてる」とのこと。ご都合つく方は、ぜひ!ご一緒にまいりましょう。

3531号【2015年8月1日】
■≪夏の夜の暑気払い≫

 昨夜(7月31日)は、第219回定例(7月)研究会でした。毎年(8月をお休みにして)毎月1回、着実に開いてきた定例会、ちょうど20年目を迎えた今年。来月220 回の研究会で満20年となります。取り上げたテーマは、沖縄をはじめとして東アジア(韓国・中国・台湾・モンゴル)、ときにエジプトあるいはドイツ、もちろん東京・川崎など・・・自由・多彩な拡がりで20年を歩んできました。そして今回は、ネパールの識字問題に関わる実践と課題について、興味深いお話でした。報告の長岡智寿子さん、ご参加の皆さま、お疲れさまでした。
 終わってイーストビレッジへ、賑やかな暑気払い。ひとり先に帰った江頭晃子さんから、3時間後に当夜の報告が届きました(上掲)。私たちがイーストビレッジで楽しく飲んでいる間に・・・ひとり記録を書いていた感じ。お見事、有り難うございました。
 実は当日は夜だけでなく、午後の会(年報編集会議)も予定されていました。老々介護の身、留守の時間がながくなると別の介護の方をお願いしなければなりません。編集会議は事情により延期となりましたが(残念!)、この夜、留守中の体制は万全。解放感をもって、ゆっくりと飲める夜となりました。やや酔って、例のようにしゃべり過ぎ?の暑気払い。お許しください。
 8月の定例会は、例年のようにお休み。9月定例会(最終金曜日)が220回研究会となります。どんな企画にしましょうか。年報20号の完成をまって、一緒に「TOAFAEC 20年」の集い、のイメージでしょうか、ご意見を。
左から2人目に長岡智寿子さん(高井戸、20150731


3530号【2015年7月30日】
■≪「まぼろしの復帰闘争史」≫
 昨日(7月29日)の琉球新報・コラム「金口木舌」は、沖縄「復帰男」として、最後の復帰協事務局長・仲宗根悟さんを悼む言葉で綴られています。「近年、杖を手に集会に参加する姿は青年運動を率いた若き日を想像させた」(上掲)と。2005年冬はじめて青年運動・復帰運動の証言を聞いたとき、悟さんはまだ杖ではありませんでしたが、その翌年春、2回目の聞き取りの日は、たしか杖をついておられました。
 悟さんが編集責任者としてまとめられた大作『沖縄県祖国復帰闘争史』(資料編・写真集、1982年)。膨大な文書記録・資料・写真が収録されています。しかし「復帰闘争史」そのものについては、具体的な章・節の構成が第2次案まで提示されながら、「まぼろし」とされています(同・資料編 p.1332〜42)。
 小林は悟さんにこう聞きました。「復帰協に参加した運動体(政党・労働組合)には、それぞれの路線の違いもあるわけだから、簡単じゃないことはよく分かりますが・・・あの“まぼろし”の目次編は、少しは文章になったんですか?」
 仲宗根「なりません。目次は私が準備したんですけどね、… 何回も集まったんですよ。集まって議論して、分担して、そして、できるだけ早めに書こうとしたんですけどね。結果的には原稿は、執行委員会でチェックするもんですからね、執筆の先生方も書けないんですよね。結局うまくいかない。…」
 同席の有銘政夫さんの発言。「今、資料編をひっくり返してみてると、よく分かる。10年くらいして、その気になれば、僕は「復帰闘争史」は可能だと思う。…」(『東アジア社会教育研究』第12号p.246〜7、2007年)
 当時のご苦労がしのばれます。あれから、そろそろ10年が経ちます。
仲宗根悟さん(第1次聞き取り、まだ杖は手にしておられなかった。沖縄市・クラウンホテル、20051224) 


3529号【2015年7月28日】
■≪仲宗根悟さんを悼む≫
 前号に続いて、25日の韓国研究会・編集会議後の楽しい語らい、カンネヨンさんから「ソウル宣言」(2013年)が送られてきたので、そのことを書きはじめたところ、山城千秋さんより沖縄からの訃報が届きました。沖縄の日本復帰運動に大きな役割を果たされた仲宗根悟さんが25日亡くなられ、今日28日、すでに告別式が終わったそうです。享年88歳。在りし日のご活躍をしのび、心からご冥福を祈ります。
 琉球新報は大きく訃報記事を掲げています。「仲宗根さんは1966年から75年まで、沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)の事務局長として復帰運動の先頭に立ち、運動の象徴となった辺戸岬沖での4・28海上集会などを通して全国に沖縄の復帰を呼び掛けた。沖縄青年連合会(沖青連)の幹事や県青年団協議会の副会長も担った。復帰後は社会党県本の書記長を務めた。辺戸岬の祖国復帰闘争碑の碑文は、仲宗根さんの揮毫」(2015年7月28日記事)など。
 いくつか忘れてはならないことを書いておきます。仲宗根悟さんの社会運動は青年団運動が出発だったこと。1960年「復帰協」結成後、並み居る政党や労働運動の複雑な対立・葛藤を調整しつつ名事務局長として復帰運動をリードしてきたこと。復帰(1972年)後も事務局長として運動の収束にあたり、膨大な『復帰闘争史』(資料編)をまとめる仕事も担われたことなど。
 2005〜06年にかけて数回お会いし、貴重な証言をお聞きしました。「沖縄祖国復帰闘争と青年団運動−戦後沖縄青年運動史の証言」として、年報『東アジア社会教育研究』第12号(2007年)に収録しています。この記録はご本人の私家版として再版されました。2012年、復帰40年記念の座談会(年報17号収録)でお会いしたのが最後となりました。合掌!
左・仲宗根悟さん(元復帰協事務局長)、右・小林(沖縄市、20060319) *撮影・石倉裕志


3528号【2015年7月26日】
■≪風の部屋の賑わい≫

 また南から台風12号、沖縄本島北部をまきこみ奄美へ、いま九州西方を北上中。台風襲来はいま日常的となりました。台風がいないときの方が珍しいほど。今回は福岡・油山もかなり吹くのかな。最近留守ばかりで心配しています。そして、東京は異常な暑さ、地表を覆う熱気に蝉も鳴く力を失い、風の部屋の通路にアブラゼミが熱中症で?落ちていました。
 25日午後の炎天下、もっとも暑い時間帯に韓国研究フォーラムの皆さんが集まってきました。上掲・小山田報告のように、せまい風の部屋に9人(写真)も座ると、古い冷房機では効きが悪く、部屋の中も熱気。それをものともせず、難しい本づくりの議論をしようというのですから、大したものです。2006年に出版の韓国本から10年、その続編『躍動する韓国の社会教育・生涯学習』を新しく編もうという企画(エイデル研究所・予定)が順調に進行してきました。
 久しぶりにカン・ネヨンさんもやってきました。この人が来ると、なぜか話題が彼に集まります。エイデル研究所(編集)山添路子さんも加わり、作業は一歩前進のステップを刻んだ感じ。なにしろこの本の原稿は、大部分がハングル版で届き、その翻訳作業が大仕事。編集委員会には、金宝藍さん、呉世蓮さん、郭珍榮さん、松尾有美さんなど若いスタッフが揃い、高いレベルでの日本語訳がほぼ出来上がりました。10年前の初版本『韓国の社会教育・生涯学習』の時代から比べると、夢のような編集・翻訳体制の充実。
 作業が一段落したあと、カンネヨンさんを囲み、この日の「風の部屋」も賑やかでした。暑い日はビール!というのが定番ですが、冷やした白ワインもなかなか乙なもの。
韓国本・編集会議、カンネヨンさん(右端)も参加 (風の部屋、20150725) *撮影・呉世蓮さん


3527号【2015年7月25日】
■≪毎日寄り添い手を取り合って≫
 私たちの結婚は1961年。華麗な式場ではなく、あるレストラン(福岡)を借りて形ばかりの挙式。内輪のごく小さな披露宴みたいなことをすませ、その足て南九州の旅に出ただけの思い出。経費はその前日に出た冬のボーナスをあてました。仲睦まじい新婚生活の思い出などあまりなく、その頃、私は勝手に九州農村調査(フィールドワーク)等にでかけ、妻も仕事をもっていましたから自分のリズムで行動してきた生活。週のうち一緒に夕食をとる日の方が珍しかったような歳月でした。
 神様の思し召しか、ここ2年近く、二人の仲は一変しました。毎日寄り添い、手を取り合う新婚時代のような生活がやってきました。亡くなった伊藤長和さんは、“九州男児”のぶんじんが愛する妻の手を握りあうスタイルを一度見たいものだと言い、当方は「手をとりあわなくても愛はある」と反論したり・・・そんな会話が懐かしく想い出されます。いまは毎日、というよりほとんど毎時間手を取り合っている姿をみて、きっと拍手をしていてくれる?と苦笑しているところです。
 今年の「七夕の会」に、車椅子での移動のことや、一人で食事できない妻・富美の出席をどうするか、すこし迷いました。最近の記憶や認知にまだら模様あり、皆さんに失礼があってはならないとも思ったからです。しかし、この日旧知の方々に会って、彼女の眼は輝いていました。七夕の会の報告で飯沢美樹さんが書いているように(上掲)、「冨美さんのことが好きな人!という江頭さんの音頭に全員“はーい”と手をあげた、あの瞬間!」記念の一枚を写真添付させていただきます。
七夕の会−下方左端に富美(笑っている)、木村雅俊さん撮影(西永福、20150719)


3526号【2015年7月24日】

■≪写真集『御万人の心』≫
 先日の名護「85歳トゥシビー祝い」では、この40年の沖縄・やんばる社会教育・交流のなかでの出会い、忘れがたい人たちと、たくさん再会できました。島袋正敏さんはじめ世話人の皆さんのご配慮によるもの、目が熱くなるほどの思い。誘われてステージ上でたどたどしく「国頭(くんじゃん)さばくい」を踊り、手の舞い足の踏むところをしらず、のひとときも。
 久しぶりの再会に思うこと。それぞれの出会いには、忘れがたい物語があり、そのパーソナルなひとこまも、ある意味で貴重な研究史の断面でもあります。たとえば下掲写真、社会教育関係者のなかで写真家・小橋川共男さん(中央)は、私たちの沖縄研究にとって大事な恩人。
 最初の出会いは、小橋川共男写真集『御万人の心』(うまんちゅぬくくる、1979年)刊行のころ。共男さんは東京東村山に住んでいました。私たちは初めての沖縄社会教育史研究『民衆と社会教育』(エイデル研究所、1988年)を出版することになり、みな肩に力が入って、生硬な文章が多く、読みづらい。初対面の共男さんにお願いして、こぼれる笑顔の“みやらび・エイサー”や、海人(うみんちゅ)の公民館での憩い、語らの写真を口絵に掲載させて頂いたのでした。キャプションに「御万人(うまんちゅ)とは沖縄の方言で“民衆”」と書きました。
 小橋川共男さんは、その後、空港問題と関わって八重山「白保」の珊瑚礁の海を撮り、また「泡瀬干潟を守る」運動の共同代表。毎年の小橋川共男カレンダーが好評です。
左より小林、島袋正敏、小橋川共男、玉城勝男、大城誠の皆さん (名護市城公民館、20150711


3525号【2015年7月21日】
■≪重苦しい夏のはじまり≫
 東京は梅雨が明け、夏の青空がひろがっています。しかし蒸し暑い猛暑、まだ人は暑さに慣れず、梅雨明けを謳歌している顔は多くありません。戦争法案の強行採決後の新聞各社世論調査は、内閣支持率37&、不支持46%(朝日新聞)。この夏の政治情況はどう動いていくのか。重苦しい夏のはじまりです。
 恒例の七夕の会(19日)は盛会、楽しい1日でした。久しぶりに顔を見せた八朔友二さん(元ふるさときゃらばん)のギターが奏でられ、新しい歌も出ました。世話人の皆様、ご苦労さまでした。木村雅俊さんのスナップの Upload。適当にdownload をとのこと。https://goo.gl/photos/cYnTQ8hLVNyzLb3A9
 村田正幸さん(松本)からの信州地酒の誘いもあり、二次会(風の部屋)にも十余名の参集。しかし「二次会には駆けつけます」と言った人(上掲)はついに姿を見せず、失望。いまTOAFAEC 年報の行方も心配なのです。国土社倒産という思いがけないニュース、「月刊社会教育」休刊が予想されるなか、私たちの「年報」も、もしかすると、こける?のか。今年はなんとかなる?しかし来年の見通しは?など、今年の七夕は終日憂いの酒だったような。
 翌20日も「風の部屋」は賑やかでした。東京社会教育史研究フィーラムの本づくり編集会議。午後2時から8時過ぎまで。食事もとらず、皆さん、お疲れさま。前夜の騒ぎで用意していたワインはすべて空瓶。残っていた缶ビールまですべてを集めて・・・我が家は、秘蔵のスコッチとカメの泡盛古酒以外はお酒類はずべて空っぽに。しかし、おしまいの頃に元気のよい議論となって何よりでした。最後の酒がもたらした活気!というべき。
 七夕の会、東京社会教育史編集会議それぞれの記録を「風」にお寄せください。重苦しさをはねのけて、元気に夏を過ごしましょう。
2015七夕の会。前景の活け花3点は、胡興智(雅号・古月清舟)さん制作 (西永福、20150719) 関連ページ→■


3524号【2015年7月18日】
■≪「七夕の会」でお会いしましょう≫
 七夕の会の季節がやってきました。今年は数えて第30回。もし参加ご希望で、まだ連絡されていない方は、本日中に(江頭晃子さんへ、下記アドレスまで)お願いします。参加者名簿をつくるそうです。念のため、当日(明日)の日程など案内を再掲しておきます。
○2015(第30回)七夕の会
○と き:2015年7月19日(日)午後2時〜5時
○ところ:香港料理「蘭」
(京王線・西永福駅から徒歩3分、tel:03-6383-2983)杉並区大宮2-14-37 第二力蔵ビル1F→■ http://tabelog.com/tokyo/A1318/A131805/13145491/
○会費:アルコールなし2800 円、あり3500 円 呑ん兵衛カンパ歓迎! (留学生・学生1000 円、39歳以下2500 円、18歳以下500 円)
○当日連絡先:山口 090-1548-9595
○主催:文人先生・富美さんを囲む七夕の会世話人
 山口真理子、田中美奈子、遠藤輝喜、江頭晃子、竹中薫、飯沢美樹
○連絡先:tel/fax 042-482-9143(山口)E-mail:ringox@nifty.com(江頭)
 いつも世話人の方、ご苦労さまです。富美への迎えは開始の15分前あたり、如何でしょうか。どうぞよろしくお願いします。台風騒ぎも一段落してよかった。皆さんと楽しく飲み、語りましょう。お元気な皆さんと(年に一度?)お会いして、富美も昔を想い出し古い記憶が蘇ることでしょう。
 この日に向けて松本の村田正幸さんから信州の銘酒2本が届いています。日本酒(信州地酒)ですから終わって「風の部屋」で軽く2次会にしては如何と考えています。いつもながら村田さん、ありがとうございました。

3523号【2015年7月17日】
■≪不気味な時代≫
 南から不気味な台風11号が北上、高知へ上陸。四国・瀬戸から岡山県に再上陸とのこと。今頃(17日朝9時)は岡山・美若忠生さん(上掲)のムラのあたりか。すでに暴風圏はなくなったようですが、農業に打撃はなかったでしょうか。お見舞い申しあげます。皆さんまわりに被害のないことを祈っています。
 他方、東京・国会では、安全保障関連法案が衆議院特別委員会で強行採決されました(15日)。安倍政権の驕りと焦り、自民一部議員の狂奔、しかし良識派の姿は見えず、また公明党の役割も遠くにかすんで・・・失望この上なし。
 国会をとりまくデモの熱気のなかには、若い世代の声が響き、上記・美若忠生さんも書いているように、血が騒ぐ思いです。若者たちが確かに動いている。これからの参議院審議の一方で、院外の、世代をつなぐ抵抗運動のうねりが新しい状況をつくりだしてほしい。
 国土社倒産(民事再生手続き開始を裁判所に申し立て・7月3日、債権者説明会・7月9日)のニュース、ショックです。国土社の歴史を知る一人として、またここから何冊も本を出版したものとして、時代の厳しさ、世の無常を実感しています。「月刊社会教育」は創刊から60年、国土社から世に出た「月刊」誌です。今後の雑誌継続をどうはかっていくか。現「編集委員会」の奮闘に期待したいもの。頑張ればきっと道は拓かれる・・・開いてほしい。
 名護「85歳トゥシビーお祝い」の余韻さめやらず、たくさんの写真のなかから数枚を選んで、沖縄「やんばる」との交流40年の数コマを書くつもでいました。本号すでにスペースなく、次号以降、折にふれて写真とともにご紹介することにいたします。

3522号【2015年7月15日】
■≪「名護やんばる大百科事典」構想≫
 11日夜の名護「85歳トゥシビー祝い」会について、お付き添い?の山口真理子さんから、またその前後の沖縄での活動について上平泰博さん(協同総合研究所)から、報告・コメントを頂きました。ありがとうございました。いずれも長文、やむなく2回に分けて掲載することに…。ご了承ください。
 小林は、このお祝い会で「沖縄社会教育と関わって−40年の思い」小講話の機会を与えられました。沖縄については、いくつか本・資料集など刊行した経過あり、また折にふれて書いた文章もいろいろ(一部はHPに収録)。しかし「40年の思い」まとめは未発。この機会にテーマをいただいた感じ。
 当日午後は、名護市立中央図書館AVホールで「やんばる学」研究会が開かれたそうです。台風9号の騒動がなければ参加できたのに・・・惜しいことをしました。中村誠司さんが「名護やんばる大百科事典」構想を話されたとのこと。当夜いただいた20ページにわたる「構想」レジメを拝見しています。
 すでにTOAFAEC 年報第18号「やんばる対談」のなかで、「市民百科事典」構想としてお聞きしていました。壮大な“夢”かと思っていましたが、WEB システムで実際の活動が始まっていると。「現在、担当委員が“基本システム”整備と500項目ほどでサービスを試行している。…3000項目(自然・歴史・文化)を目途にコンテンツを作成し、2020年に基本サービスを開始するのが当面の目標・・・それをもって名護市史としての刊行とし・・・この課題は(将来は)名護市博物館に継承される」構想。たしかに「大きな目標と構想は見えた」のですね。1冊の「本」(大百科事典)に編集・刊行する課題も想定され、息のながい取り組みに敬意。期待に胸はずみますね。

3521号【2015年7月13日】
■≪沖縄・やんばるの友人たちに囲まれて≫
 7月11日午後、那覇空港より名護へ向かう車中に、南の竹富島・上勢頭芳徳さんより電話あり、「台風9号の影響、波高く船が出ず、参加できません」との一報。残念です。沖縄本島もまだ風雨が残っていましたが、鷲尾真由美さんのご配慮で、無事ほぼ定刻に「85歳トゥシビー祝い」会場に到着できました。
 昨12日、名護にわずか1泊のみで東京へ。1泊トンボ返りは、沖縄研究交流40年を振り返って初めてのこと。この間「南の風」送信も台風9号にかきまわされて5日ぶりの発行。これも初めてのことか。
 85歳の年寄り、この旅は山口真理子さんに付き添っていただくかたち。会場では、ぶんじんの“保護者”として真理子さんは紹介されていました。数え年「85歳」のよぼよぼ。「風」発行も5日おきぐらいが丁度いいリズム!かと妙に納得して本欄を書いています。
 島袋正敏さんはじめ実行委員会の皆様のご配慮により、ぶんじん沖縄研究交流40年の、初期からお世話になった人たちの顔が並びました。今帰仁村の玉城勝男、宜野座村の城間盛春、沖縄県青年団協議会(復帰当時の会長)田場盛順、もちろん沖縄大学・平良研一、宜野湾市の玉那覇正幸、名護では稲嶺進市長は言うまでもなく、また社会教育研究全国集会(第42回名護集会、2002年)当時の面々(上地圭子課長、岸本力ほか)、そして中村誠司−いずれも敬称略ーなどの皆さん。末本誠さんのご息女も。ほか多数の方々・・書き切れません。
 沖縄の祝いの席は、琉球の芸能・舞曲に彩られます。最初に演奏される祝宴座開きの舞踊「かぎやで風」では、稲嶺進さん(写真中央)や比嘉久さん(博物館長、その左)が金の扇をかざしながら演舞され、ジンとくるものがありました。目を奪う達筆は書家・島袋正敏さんの揮毫。
座開き 「かぎやで風」、中央は稲嶺進・名護市長、その左に比嘉久・博物館長 (名護市城公民館、20150711)


3520号【2015年7月8日】
■≪11日・名護へ≫
 沖縄に台風9号の襲来。7月11日の「トゥシビー祝い」開催について名護・島袋正敏さんから、何度か電話をいただきました。7日には実行委員会で相談された由。ご苦労さまです。沖縄は9日/10日は荒れるが、11日当日は台風明けとなる見込み、開催できるとの判断だそうです。
 しかし前日(10日)の飛行機はほぼ全面欠航。私たちの沖縄行きフライトをむしろ当日(11日)に変更する必要があるとの助言。早速、手配しました。しかし午前の便はなく、午後に那覇空港へ。到着は3時半になる見込みです。東京滞在中の鷲尾真由美さんも「JAL/午後3時40分那覇到着」とのこと(上掲)。鷲尾さんのお言葉に甘え車に乗せていただき、ご一緒に名護へ向かいます。なんとか間に合いましょう。どうぞよろしくお願いします。
 上平泰博さん(ワーカーズコープ・研究所)は、逆にいま沖縄滞在中。名護に参加したいとの留守電をいただきました。これもなにかのご縁、ご参加ありがとうございます。
 杉山悦子さん(都留文科大学<非>講師)から、「沖縄における学校図書館改革」研究の論文に加えて“熟成古酒”を頂きました(前号本欄・既報)。その添え書き。「生年(トゥシビー)祝い、おめでとうございます。母方の親戚が造る泡盛・・・お口にあうとよいのですが」と。バーボンのオーク樽での貯蔵熟成がこだわり、見事な出来映えです。口に合いすぎて困っています。うるま市石川嘉手刈「神村酒造」、明治15年の創業だそうです。
 南方洋上には、さらに台風11号が日本列島をうかがって不気味に北上中。

3519号【2015年7月6日】
■≪85歳祝い・南に台風≫
 ヤマトゥにはないお祝い、沖縄独特の85歳祝い(数え年、トゥシビー・生年祝い)の企画に恐縮し、ご案内をいただいて1ヶ月余りが経ちました。早いもので、その当日(7月11日・名護市城公民館)が近づき、沖縄行きの準備をと思っているところ。→■http://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/2006sinnenkai.htm
 ところが、はるか南方洋上にいくつもの台風がうごめき、沖縄の新聞は、すでに「台風情報」を掲載。とくに第9号が怪しい。当日に名護・トゥシビー祝いに参加するような予想図。沖縄フライトがうまく飛ぶかしらと気になります。
 思い起こせば、2002年8月末に名護で開かれた社会教育研究全国集会(第42回)も台風の直撃を受けました。名護・大会実行委員会の中心は島袋正敏さん、一喜一憂したあの日。もちろん大規模集会ですから、簡単な変更はできませんでしたが、今回は小さな集まり、小回りがききます。どんな判断になるか、台風情報をにらみながら・・・ご連絡を待つことにしましょう。
 85歳トゥシビーの祝いに関連して、いくつか私信も拝受しました。当日に名護へ参加しようか迷っているなど。昨日はある方から祝いの飾りのついた熟成古酒のボトル。突然の宅急便に(最初はなにごとか分からず)驚きましたが、どうも85歳祝いらしい、と勝手に判断して、いつもの習い、早速開いて、ちびりと味見しました。いいクースー!ありがとうございました。
 昨日は、いい日でした。胡興智さん(日中学院)「日本人に中国語を教えるというすばらしい仕事」(趙海成編著、小林さゆり訳『それでも私たちが日本を好きな理由 』CCCメディアハウス、所収)をご恵送頂きました。一緒に届いた末本誠監修・神戸大学HCセンター編『語り合う自分史』も興味深し。ありがとうございました。

3518号【2015年7月3日】
■≪映画『沖縄 うりずんの雨』≫
 前号の続き。いま出ている『週間金曜日』(1045号、6月26日)、沖縄の映画を2本紹介しています。1本は「戦場ぬ止み」(三上智恵監督)、あと一つは「沖縄 うりずんの雨」(ジャン・ユンカーマン監督)。「戦場ぬ止み」のタイトルが琉歌から採られたことは前号に書きましたが、「うりずんの雨」は渡嘉敷島の小嶺基子さんが詠んだ短歌「うりずんの 雨は血の雨 涙雨、礎の魂 呼び起こす雨」からだそうです。
 草木が芽吹く三月から梅雨までの「うりずん」の季節。沖縄戦の悲劇は、この希望あふれる時期と重なります。「70年経った今でも、この時期になると当時の記憶が蘇り、体調を崩す人たちがいることから、沖縄を語る視点の一つとして、タイトルを『沖縄 うりずんの雨』とした。」(映画パンフレットより)
 いま神保町「岩波ホール」で上映中です。介護の時間をかいくぐって観てきました。たまたまユンカーマン監督の舞台挨拶があり、ラッキー! この人は、与那国島の老漁師(故糸数繁さん)と巨大カジキの挌闘を画いた記録映画「老人と海」(原題・UMINCYUーThe Old Man and the East China Sea)を撮った監督。今回の「うりずんの雨」では約20人の証言者を登場させていますが、そのなかには、安里英子さんや知花昌一さんなど旧知の顔もあり、また1995年に少女を暴行した米兵へのインタビューが収録され、衝撃的でした。
 エピローグで、安里英子さんの語り。「…女性たちだけでなく、沖縄そのものが凌辱されているっていうこと。今の基地問題だって、当たり前の人間として扱われていないっていう思い、怒りです。」

3517号【2015年6月30日】
■≪琉歌について≫

 TOAFAEC 事務局長・遠藤輝喜さんからの連絡・状況報告(上掲)、有り難うございました。事務局メンバーみなさん忙しく、ここしばらく事務局会議も定例化できていませんが、新しい課題(新維持会員の拡大など)に向けて、会議の“再生”(定例日の設定など)を期待したいもの。7月の会議については事務局(とくに会計)の判断にお任せします。風・編集としては「事務局コーナー」を設け、皆さんの折にふれての、活発な利用をお待ちしています。
 さて前号「おきなわ短信」(1016)に「沖縄学の第一人者・外間守善さん」についての毎日新聞コラム(余録)を紹介。そのなかに二つの琉歌が掲載されていました。「琉歌」とは?
 ある留学生の関心・問い合わせもあり、知る範囲での解説。和歌にたいして琉球文学のなかで奄美・沖縄に伝承される抒情的な短詞形歌謡。古くは「ウタ」あるいは「しまうた」。「琉歌の呼称が定着したのは薩摩侵入(1609年)以降のことだろう。大和文芸である和歌が受容されるにつれて、それと区別するためにことさら琉球の歌=琉歌と称したものと思われる。」(沖縄大百科事典)
 和歌(短歌)が五・七・五・七・七音で詠むのに対して、琉歌は八・八・八・六音。ウチナーグチ(沖縄語)でつくられ、三線(サンシン)にのせて歌われます。たとえば「てぃんさぐぬ花」(鳳仙花)など。ウチナーグチを理解できなければ、琉歌を深く読みとれません。
 まだ観ていませんが、話題の映画「戦場ぬ止み」(三上智恵監督)のタイトルも、琉歌「今年しむ月や 戦場ぬ止み 沖縄ぬ思い 世界に語ら」(有銘政夫)から採られたそうです。

3516号【2015年6月28日】
■≪新しい韓国本への期待≫
 昨日(6月27日)は久しぶりの韓国研究会(韓国生涯学習研究フォーラム)でした。数えて第56回、いま2冊目の韓国本「社会教育・生涯学習」についての出版を準備中、その編集会議でした。韓国側から送られてきた原稿の日本語訳やリライト作業が順調に進んで、上掲・小田切督剛さんメールのように、見通しもはっきりしてきました。別に金侖貞さんからも研究会「報告」をいただき、有り難うございました。
 この日、久しぶりに酔いがまわりました。軽くワインを飲んでいる間はいつもの通り。ふとブックスタンドがわりにおいていた古いスコッチのボトルに目がいき、残っていたウイスキーを口にしたのが間違い。やや足がもつれ、しゃべり過ぎました。確実にアルコールに弱くなってきているようです。
 振り返ると、私たちは2006年秋に『韓国の社会教育・生涯学習』(エイデル研究所)を上梓しました。2002年暮れから話が始まり、約4年の取り組み。充分な記録になっていませんが、おそらく30回をこえる編集会議。韓国側から黄宗建先生、日本側から小林と伊藤長和さんが編者となり、四苦八苦の作業、なんとか1冊に仕上げることができました。ところが、その直後に韓国「平生教育法」の全面改正(2007年)があり、また自治体・市民活動レベルの“躍動”が目ざましく、新しい韓国本への新訂・出版が期待されてきたのです。
 『韓国の社会教育・生涯学習』初版の出版を契機に2007年2月に現研究会が発足。この記録はホームページにすべて収録。写真もいろいろ、懐かしい歳月です。
→■http://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/kankokukenkyukai07.htm
 今回の新しい韓国本の編者は世代交代して、韓日双方から、ヤンビョンチャン、金侖貞、李正連、小田切督剛の4氏。来年初頭?には出版予定。いい本になりそうです。乞ご期待!

3515号【2015年6月25日】
■≪指笛が鳴り響き・・・≫
 6月23日の沖縄「慰霊の日」、今年の沖縄全戦没者追悼式(摩文仁)の雰囲気は大きく変わったそうです。「翁長雄志知事が、辺野古の新基地建設に反対する県民の民意を無視する政府に対し、国民の自由、平等、人権、民主主義が等しく保障されずして、平和の礎(いしずえ)を築くことはできない、と断言すると、いいぞ!そうだ!の声が飛び交って指笛が鳴り響き、万雷の拍手はやまなかった・・・一方で、安倍晋三首相が、これからも国際平和の確立に向け、不断の努力を行っていく、と発言すると、うそいうな!戦争屋!安倍帰れ!の怒号が会場内に響き、県警のSPが発言者を退席させる場面があった」(八重山毎日新聞・コラム・不連続線)と。
 沖縄自民党県議は「政治色が強過ぎる。穏やかな追悼の場にそぐわない内容だ」と顔をしかめた。翁長知事が内外に辺野古反対のアピールを強める中での平和宣言、県幹部は「米軍基地を語らずして平和は語れない。どうやっても政治的になる。今の沖縄が置かれた状況がゆえだ」と述べた(朝日新聞24日朝刊)。
 風・前号の名護「小林文人85歳トゥシビー祝い実行委員会」チラシが各地に届きはじめたらしく、「ほんとに85歳か?」などいくつか反応がありました。「風」に最近はほとんど音信がなかった玉那覇正幸さん(宜野湾市)から、早速「85歳のトシビ―祝い参加します」のメール来信(次号掲載予定)。恐縮です。大げさなことにならないよう祈っています。

3514号【2015年6月23日】
■≪老いて生きる≫
 沖縄の6月23日「慰霊の日」、今年は沖縄戦から70年。この日に出す本号特集として、琉球新報・沖縄タイムス両紙に敬意を表し、それぞれの社説を紹介(抄録)させていただきました。沖縄戦の教訓は「軍隊は住民を守らない」こと、糸満市米須では「全257戸のうち一家全滅が62戸(24%)…全人口のうち戦没者は52%、実に半数以上の住民が亡くなっている」ことなど、あらためて衝撃的な数字に驚きます。このような歴史的な教訓に思いを至し、政治の動き(安全保障関連法案など)に立ち向かう必要がありましょう。
 実は、あと一つ、六・二三特集のつもりで、ひめゆり教師として生死の境を生き抜いた仲宗根政善先生を「偲ぶ」拙文を抄録する予定でした。仲宗根先生が亡くなられて丁度20年。ひめゆり学徒の悲劇も想い起こしたからです。
 ほぼ編集を終え本号配信の直前、名護・島袋正敏さんより「小林文人85歳トゥシビー祝い」案内(添付)が届きました。長文になりすぎてはならじ、再編集し、冒頭をトゥシビー祝い案内文に差し替え、本欄も書き直してお送りします。「仲宗根政善先生を偲ぶ」一文、同証言を収録している『沖縄社会教育史料』3号(1979年)のことなど次の機会に。原文はウエッブサイト・追悼ページ(20)収録済み。→■
 先日のTOAFAEC 総会の報告−規約改正、代表交代などの記録(風3512号、6月19日)をホームページに書き入れました。→■ 老いて視力が弱くなり、指の機能も退化。変換ミスや脱字、記録内容そのものの間違いなど、ありそうな予感です。事務局の皆さんご点検ください。HP広報担当を担ってきた20年、枯れ木も山の賑わいの喩え。老いてなお生きる思い。

3513号【2015年6月20日】
■≪6月の戦時体験≫
 70年前の6月。沖縄戦は末期を迎えていました。同じ頃、少年Bは九州の筑後川沿い耳納山中で、日本陸軍の勤労動員学徒として働いていました。家では毎夜の灯火管制・空襲警報・庭に掘った防空壕の生活が多くなり、連夜の真っ暗な生活。昼は米軍艦載機の来襲に逃げまどう日々。配給制度の破綻により毎日の食べ物に困窮していた時期でした。
 それでも家族揃って(父は教師、軍隊への召集を免れていた)防空壕に退避した夜、蝋燭の灯に肩を寄せあった雰囲気は、つらいながらも懐かしい思い出につながるところがあります。どちらかと言えば幸せな部類の戦時体験だったかも知れません。でも、7月を経て8月、広島・長崎の原爆ニュースが伝わり、久留米大空襲(8月11日)の時点になると、忘れることができなない、悲しい戦時体験となりました。
 沖縄の1945年6月の戦争記録に接すると、九州・少年Bのつらい体験など吹っ飛んでしまう厳しさ。沖縄各地で家族バラバラとなり、文字通り戦火に巻きこまれていった現実。「沖縄タイムス」が社説として掲載している「地に刻む沖縄戦」記録(6月15日「ガマ 住民が見たものは…」上掲)を読むと、家族揃って6月を過ごした例などほとんど皆無に近いと思われます。「糸数アブチラガマ」では、「…奇跡的に生き延びた住民と負傷兵がガマから出たのは、沖縄での組織的戦闘が終わり、日本が降伏した後の8月22日のこと」「悪臭漂う暗闇に5カ月もの間、隠れ続けていた」と記されています。
 少年Bと同じ世代の沖縄「青少年」は、「鉄血勤皇隊」「ひめゆり隊」等の学徒隊だけでなく、旧青年学校生徒などは防衛召集されて、陸軍中野学校出身の将校を隊長とするゲリラ部隊「護郷隊」に編成された歴史があります。苛烈な戦闘体験を聞いた衝撃的な夜の記憶など忘れることができません。

3512号【2015年6月19日】
■≪ヤマケン先生を囲む会≫
 TOAFAEC 20年。先日(6月6日)の総会の記録、事務局各位より送られてきた案文を調整して上掲しました。とくに今回は維持会員制・会費についての変更があり、今後の課題も緊急、早急に取り組む必要がありましょう。
 維持会員の会費(これまで2万円)を「一口1万円」とし(規約改正)、新しく(一口の)維持会員を拡大する課題とともに、年報発行のために、これまでの維持会員の方々には、事情が許せば、ぜひ!二口2万円を“維持”していただきたいというお願いも必要です。
 早速に新代表・上野景三さんからの提案。「維持会員の件、年報の安定発行のために維持会員制をとってきたわけですから・・・具体的にに維持会員拡大の目標を掲げなければならない・・、どこかで維持会員候補を出し合って呼びかける手だてを講じなければならないのではないかと思います。」 ぜひ!新・維持会員候補を出しあう日程と早急な取り組みの相談を始めて下さい。
 さて、18日夜「山本健慈(ヤマケン)先生を囲む会」(TOAFAEC第218回研究会)が賑やかに開かれました。南信州松川町からは米山義盛さんも。今年3月までの和歌山大学長時代の記事・記録、また最近の発言録などコピー資料をいただき、帰宅してあらためて目を通していますが、興味深い内容。国立大学協会(専務理事)の立場、複雑なところでしょうが、ぜひ大事な発言を重ねていって頂きたい。当夜はヤマケンさん“応援団”の雰囲気だったようにも思いました。世話人の金ボラムさんから、当夜の写真がたくさん送られてきましたが(ありがとう!)、そのうちの1枚をHPに掲げます。
第218回研究会。左から3人目にゲスト・山本健慈さん(高井戸イーストビレッジ、20150618)


3511号【2015年6月17日】
■≪どなたも参加歓迎!≫
 前号末尾の「安全保障関連法案に反対する学者の会」アピール全文を本号に載せました。「安倍晋三政権が国会に提出した「国際平和支援法」と10本の戦争関連法を改悪する「平和安全法制整備法案」に反対するアピールを学者・研究者が連名で発表しました。これに賛同する署名活動をおこなっています。寄せられた署名は、当ホームページで公開し、記者会見でも発表します。国会議員にも届ける予定です。メールやSNS などで拡散いただければ幸いです」とのこと。6月16日現在、このホームページに寄せられた賛同署名は、学者・研究者3476人、市民3075人。詳しくは→■http://anti-security-related-bill.jp
 日本公民館学会では、「公民館構想」についての研究会が始動し、6月20日(土)午前(会場・筑波大学東京キャンパス(茗荷谷)116講義室)に第2回が開かれるそうです(お知らせ・上掲)。事情があって出席できず、申しわけありません。この種の研究会は貴重なだけに、毎回の「記録」が(ホームページなどで)報告いただけると(参加できないものにとっては)有り難いです。
 明日(18日)夜は、高井戸でTOAFAEC6月定例研究会です。1995年6月、会の発足から丁度20年目の記念研究会。山本健慈さん(前和歌山大学長)がお見えになります。ゲストの都合により、定例の金曜日ではありません。また会場も高井戸区民センターではなく、最初からお馴染み「イーストビレッジ」での開会となります。雨模様の予想ですが、多数のご出席をお待ちします。店は貸し切りのかたち、しかし席数に限りあり、早いもの順?で楽しく飲める席にお座り頂けます。どなたも参加歓迎!

3510号【2015年6月15日】
■≪風の部屋のワイン、安全保障関連法案に反対する学者の会(ぶ)≫
 久しぶりのTOAFAEC 事務局会議、風の部屋で13日夜。先日(6日)「総会」を受けての集まりでした。事務局の皆さんは、最近それぞれに忙しく、総会に向けての準備協議は不充分、気になっていました。とくに会計・維持会員・会費の問題など検討の課題あり・・・。当夜は今後に向けての論議も出来て何よりでした。総会報告は今回とくに「規約改正」あり、表現調整の上で、風及びHPに載せることができれば幸い。事務局長、会計担当、どうぞよろしくお願いします。事務局の皆さん、土曜の貴重な夜、ご苦労さまでした。
 風の部屋では、お泊まりの方、ご来室の皆さんはご存知の通り、古い酒各種、残り酒いろいろ、泡盛古酒は3カメなど取り揃え?ています。宴会が少なくなったこともあり、最近はあまり減りません。事務局会議や小研究会などの折は、オケクラフトに氷を張って、頃合いの(安い値段の)ワインを用意する慣わし。永福町駅前の仲好しワイン屋、オーストラリヤ・ニューランドなど南半球のワイン仕入れが得意な店でもあり、この10年来ワインも「南」から。
 ところが突然・残念なニュース。このワイン屋が7月に転業?するというのです。永年の大事な友人を喪う感じ。友あればこそ、安くてもいい味がしたワインたちが姿を消してしまう。この10年余、この店のおかげで、南半球の各種銘柄を楽しんで来たのでした。さてこれからどうずるか、思案投首。
 「特定秘密保護法」に反対する運動・「学者の会」が賛同署名を求めています。安倍政権が「戦争法」といえる違憲立法を国会に提出、「安全保障関連法案に反対する学者の会」としての取り組みです。以下URLにアクセスしてください。→■ http://anti-security-related-bill.jp/

3509号【2015年6月13日】
■≪「トゥシビー」祝い≫
 風3497〜98号・末尾に、ちらりと書きましたが、名護で「ぶんじん85歳の祝い」企画が進んでいるそうです(上掲・島袋正敏メール)。自分の祝いごとを自分で書くのは妙なもの、筆が進みません。しかし、この時代に、ヤマトゥの年寄りをウチナンチュの、しかも名護の皆さん(ナゴンチュ)が企画していただくなど(稲嶺進さんのお名前もあり)、正直のところ言葉にならない …、有り難いことです。恐縮しつつ、7月11日の当日に参上する準備をします。
 沖縄には「カジマヤー」(風車)の祝い、数え年で97歳の祝いがあります。10年ほど前、名護のお酒の席で「ぶんじん・カジマヤーの祝い」をしようと言う人がありました。もちろん酔いの戯れごと。当方は「とても97まではもたない」。横から誰かが「“85の祝い”もある」と。酔って「毎年その予行練習をしよう」などのやりとり。島酒の座の冗談話が本当になりました。
 「トゥシビー祝い」は本土にない沖縄の生年祝い。生まれた年と同じ十二支の年(今年はひつじ年)、数え年で61,73,85、そして97を祝う風習。公民館では「合同生年祝い」行事がよく行われています。トゥシビーとは「年忌(としいみ)」が訛ったものであろうとの説(沖縄大百科事典)。
 実は還暦の年(1991年)、たまたま60歳の誕生日に、八重山から那覇に着き「おきなわ社会教育研究会」の皆さんに祝って頂いたことがありました。懐かしい店「あんつく」での即興の祝い。あのときは満年齢でしたが、今回は名護で本格的な「85・トゥシビー祝い」のお招き、冥利につきるとはまさにこのことです。皆さんにお世話になると思いますが・・・大げさなことにならないよう、どうぞよろしくお願いします。

3508号【2015年6月11日】
■≪公民館議会−竹富島≫
 竹富島の話題(前号)が出ましたので、ついでに島独自の公民館のことを書いておきます。集落自治の組織、伝統的な祭祀を含む典型的な“古層型”公民館の活動が濃い密度で取り組まれてきました。
 竹富島が位置する八重山の島々に、「公民館」の名称・構想が登場するのは、琉球政府の公民館奨励策(1953年)から10年ほど遅れます。竹富の集落は3部落(仲筋、東、西)から成りますが、これが「公民館」と呼ばれるようになるのは1963年。3部落を代表して「公民館長」、そして各部落(支会)に副館長、公民館主事等の役職が定着していきます。復帰直前に米軍・高等弁務官資金を活用して待望の公民館施設が完成(1971年)。
 本土資本のリゾート地買い上げに抗して、「売らない、汚さない、乱さない、壊さない、生かす」5原則による「竹富島憲章」(1986年)、町並み保存(重要伝統的建造物群保存)地区への選定(1987年)は、集落あげての取り組み。それは「竹富公民館」による住民運動といえるものでした。公民館の組織や機能、そして憲章づくりや町並み保存運動の経過については、前号「対談」や小論「竹富島の集落と字公民館」に素描しています。→■http://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/taketomironnbunn08.htm
 竹富公民館には、集落自治に基づく住民意志の決定機関として、公民館「議会」があります。一般の公民館にみられる運営審議だけでなく、住民総会につぐ集落の日常的な意志決定・議決機関です。各集落(支会)から3人ずつ、これに老人、婦人、青年の各団体代表が加わって12人の構成。学校長と郵便局長が同席できると。ある年度の学校長の感想。「私はN市議会を傍聴したことがあるが、それよりはるかに充実した議会だ。」
2000年・町並み保存事業による竹富島まちなみ館=竹富島公民館・竣工 (20061121) 写真移動

3507号【2015年6月10日】
≪歴史の重さと楽しさ-東京竹富郷友会90周年記念公演≫
 6月7日、東京王子「北とびあ」で開かれた「東京竹富郷友会90周年記念公演」には、竹富島からも多数の方々が上京・出演され、90年の歴史をくぐってきた東京郷友会の各位、旧知の皆さんとお会いできました。大ホールは満席、熱気あふれ、引き続き開かれた式典・祝賀会・懇親会も竹富の皆さんでぎっしり、驚きました。歴史を重ねることの意義と楽しさを実感。上勢頭芳徳さんのご配慮に感謝!有り難うございました。私たち4人、終日「竹富」の人と文化に酔いました。
 研究室(東京学芸大学)で初めて竹富島を訪問したのは、多分1991年の秋、種子取祭を堪能した旅でした。渡慶次賢康さんが竹富小中学校の教頭として赴任されていたご縁によるもの。その後なんども竹富島を訪ねる機会がありましたが、本格的なフィールドワークを思い立って、島への一人旅を重ねたのは2006年からの数年。75歳を越えていたことになります。何本かの調査ノート、対談記録、小論文等をホームページの片隅に掲載しています。芳徳さん・小林の対談「竹富島憲章と竹富公民館」は年報『東アジア社会教育研究』第13号(2007年)に収録。→■http://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/taketomitaidan07.htm
 この記録づくりには、前本多美子さん(学大OG)にお世話になりました。今でも「多美ちゃんの先生」と呼ぶ人(現公民館長・上勢頭篤さんなど)あり。また忘れられないのは故阿佐伊孫良さん(NPOたきどぅん)の情熱と知見。教えられること多く、90周年の集いでお顔を見ることができないのが悲しい。会場では阿佐伊拓さん(風・前号)に会えましたが、多美子さんとは行き違いで失礼しました。
 あらためて東京竹富郷友会『60周年』(1985年)『80周年』(2006年)記念誌や「対談」を読み返しています。対談からすでに10年近くが経ちました。本号には竹富島・NPO たきどぅんブログから「郷友会」や芸能稽古風景について一部紹介させていただきました。(ta)氏ご了承ください。→■ http://takidhun.org/wordpress/
東京竹富郷友会90周年記念公演・フィナーレ・巻踊り (東京王子、20150607)


3506号【2015年6月7日】
≪TOAFAEC の新体制≫
 5日夜の年報(20号)編集委員会に続いて、6日夜は総会、TOAFAEC 関連の集いが続いています。ご出席の皆さん、お疲れさまでした。
 それぞれの報告は各担当より別に寄せられると思いますが、本欄では速報的にTOAFAEC の運営体制について記しておきます。
 まず代表について。これまで10年にわたって代表をつとめられた末本誠さん(神戸大学名誉教授)と交代して、副代表の上野景三さん(佐賀大学教授)が新しく就任されることとなりました。空席となった副代表の後任は未決のまま。実は故伊藤長和・副代表のあともまだそのまま。現在は沖縄・名護の島袋正敏さんお一人だけの副代表。課題を残して・・・新体制(第11期)がスタートすることになりました。
 他の役員は常任委員を含めて変更なし。事務局長(遠藤輝喜さん)、事務局次長(岩本陽児さん)、会計(山口真理子さん)、年報編集長(内田純一さん)など、引き続いての重責、ご苦労さまです。
 ぶんじんは、こんな集いでは最後まで残って飲んでいたものですが、今は家内の事情あり、総会当夜も(遅刻した上に)一足先に中座。学会理事会から駆けつけたであろう上野さんたちに会わないまま失礼しました。
 ひとり池袋の駅に着いて、丁度ホームに入ってきた電車(埼京線)に飛び乗ったところ、逆方向と気づいた時すでに遅く、そのまま赤羽まで運ばれました。それから渋谷方面へ乗り直し、30分ほどロスして激しい疲れ。方向感覚が鈍磨したようです。
 明けて今日(7日)は、東京竹富郷友会創立90周年記念公演・祝賀会(上掲)へ。竹富島の皆さんと久しぶりの再会が楽しみです。
総会が終わって懇親会(池袋、150606)


3505号【2015年6月5日】
■≪2015「総会」へ≫
 6月となりました。はや年の半ば、皆さん、如何お過ごしでしょううか。6月は案外と忙しい月です。1990年代、中国問題に関心をもつ研究室として、6月4日の天安門事件を想起しつつ、集いをもったこともありました。日本社会教育学会は毎年「六月集会」。東京だけでなく各地区ブロックの六月集会もあり、ご念の入ったスケジュル。
 TOAFAEC は、東京六月集会に合わせて「総会」を開く慣わしです。小さな団体だから、あえて形式張った会議を開くまでもないと思いつつ、規約に定めた以上、開くほかないだろうというのがホンネ。TOAFAEC の発足当初は総会などなく、ようやく今世紀に入ってこの形式が始まりまし。2001年度から記録が残っています。→■ http://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/03soukai2.htm
 あらためて記録を振り返ると、あれやこれやの議論。なにか空しさと、ある創造の思いが交錯しています。総会の開催と記録化には、故石倉裕志(2代目の事務局長)の役割が忘れられません。TOAFAEC は、昨年亡くなられた伊藤長和さん(副代表)と並んで、大事な人を喪いました。
 今年の総会は、6月6日(学会六月集会の初日)夜の予定。皆さんのご参加をお待ちします。学会理事会と重なりますが、いつぞや書いたように、理事・幹事の方々も(理事会が終わって)駆けつけていただければ幸い。理事会がスムースに進行することを期待しつつ…。会場も同じ池袋です。
→■
http://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/yotei1504.htm
 岩本陽児さんから、第4回となる院内シンポジウム(夜間中学等義務教育拡充議員連盟と全国夜間中学校研究会共催)について、興奮気味の速報が深夜到来(上掲)。
 風・本号から新アドレス帳で配信しています。どうぞよろしく

3504号【2015年6月3日】
■≪第1回研究会−1995年≫

 20年前の昨日(1995年6月2日)、TOAFAEC 第1回研究会が東京・国立市公民館を会場に開かれました。同じ日付で発行された「TOAFAEC ニュース」創刊号(「社会教育のひろば」)に、ぶんじんは「東京・沖縄・東アジア社会教育研究会の提唱」を書き、先日の風(3484号−回想A)にも再録しました。ご記憶の方も。→■
 第1回定例研究会のプログラム、報告者は文孝淑さん(一橋大学・院)、テーマは「韓国社会教育法をめぐる近年の動向」。当時「平生教育法」はまだ姿をあらわしていない時期。その数日前(5月31日)、韓国では大統領諮問委員会の「5.31教育改革方案」が出て、これをきっかけとし、地方自治の潮流を背景に、「平生教育」への改革施策が胎動していった画期的な時期でした。
 ぶんじんの個人史では、この年の3月に定年(東京学芸大学)を迎え、4月から和光大学へ移った年。あれからちょうど20年が経過したことになります。長いような短いような…。この間の歳月を思いかえしてみると、何より印象的なことは、やはりTOAFAEC が20年の歴史を刻み、年報『東アジア社会教育研究』が今年で20冊を重ねること、よくぞ続いてきたものです。これからどのような道を歩いていくのか。平坦な道ではないにしても、大事な道であることは確か。苦しいときもあるでしょうが、楽しみでもあります。
 20年記念の今月の定例研究会(第218回)は6月18日(木)、「ヤマケン先生」を囲む会→■。金ボラムさんから「ご案内」が届きました(上掲)。第1回研究会の報告に挑んだ文孝淑さん、ぜひ!お出かけください。

3503号【2015年6月1日】
■≪TOAFAEC 20年≫
 島袋正敏さんが福岡に現れ、「平和・自治の再生を沖縄・名護から」について、いい話をされたそうです。その企画者・横山孝雄さん(福岡・社会教育研究会)より電話あり、また岡幸江さん(九州大学)からは便り(上掲)をいただきました。渡部幹雄さん(和歌山大学)も駆けつけたとのこと。二次会に至る賑やかな話題も。ぶんじんも本来ならば福岡・油山の住人・・・もしそうであれば、きっと一緒だったに違いないと残念な思い。正敏さん、お疲れさま。
 さて、東京29日の5月定例研究会の報告、松田弥花さん(東大院)より早速に送っていただきました。ありがとうございました。報告に添えられた弥花さんの感想。「昨日は研究会に・・・初参加でしたが、皆さまに温かく迎えて頂き大変嬉しかったです。お二方のご報告や全体での議論もとても刺激的でした。・・・また来月、お目にかかれることを心より楽しみにしております。」
 来月の研究会プログラムは、5月より“初めての東京暮らし”の「ヤマケン先生」(前和歌山大学長・山本健慈氏)を囲む会の企画。最終金曜日・定例日ではなく、ゲストのご都合により、6月18日(木)夜の日程で準備が進んでいます。近くご案内が出る予定。会場は「イーストビレッジ」の貸し切り(開会19:00〜)。定例研究会としてはちょうど満20年の記念の会となります。
 現場の教員が作った「学び舎」歴史教科書(風3476号に既報)が、いよいよ展示会(6月19日から2週間)を迎えるうです(上掲・鳥塚メール)。パンフによれば「中学3年間の成長を見通し」「多彩な世界史教材からグローバルな時代に生きる知恵をつかむ」「戦争の現実を見る、平和を考える」「歴史のなかの女性たちに光をあてて」などが教科書の特徴。青木書店から市販されるそうです。2000円(7月1日発売)。「カンパのつもりでぜひ!」の呼びかけ。

3502号【2015年5月30日】
■≪217回目の研究会≫
 5月29日夜の定例(217回)研究会は賑やかでした。初参加の方が4人も。嬉しいことです。報告者(金ボラム・江頭晃子のお二人)を含めて、世代的に若くなって、研究会の今後にとってご同慶の至り。
 九州からわざわざ来会された包聯群さん(大分大学、TOAFAEC 編集委員)は、この間、委員会開催の案内が届かず、当日報告が年報(第20号)執筆に向けてのテーマでもあり、編集会議かと思って上京されたとのこと。たいへんご負担をかけしました。湯布院のお土産も美味しく、改めての御礼!
 当夜の記録を、ぶんじんの横に(たまたま)座っていた松田弥花さん(東京大学・院)と目があって、お願いしました。考えてみると弥花さんも初参加の一人。きっと名前が分からない参加者もいるに違いない。どなたか参加者氏名一覧をお願いできませんか。TOAFAEC 定例会は、これまで参加者の氏名をすべて記載。月日が経過すると、案外と興味深い記録となっています。かっては中国からの留学生が多く、ある会は大半がモンゴル人、という時期もありましたが、近年はほとんどその姿が見えなくなったことや、自治体の社会教育職員の参加比重が少なくなったことなど。なにかを象徴しているような。
 定例研究会は、報告者を含めて、画像記録もHPに残してきました。ところがこの夜、愛用のカメラバッテリーが不調。金ボラムさんのカメラから送っていただき、掲載しました。有り難うございました。全員の写真(イーストビレッジ)が残念ながらややピント甘く、報告者お二人の写真(+ぶんじん)を採りました。ご了承下さい。ご報告のお二人、ご苦労さまでした。
 前号本欄に載せるつもりだった拙歌、恥ずかしいのですが、記録として。
◆歌の工房  *風3500号(2015 / 5 / 27)に到達。夏のような午後に。
◇夏の如き五月の緑燃えさかり 風よ薫れと励ます陽射し
◇はるばると歩み来し日の懐かしき いま紫陽花の咲き初むる道
217回目の研究会報告、中央・金ボラムさん、右・江頭晃子さん(高井戸、20150529)


3501号【2015年5月29日】
■≪「多様な教育機会確保法(仮称)」立法へ≫
 5月から6月にかけて、TOAFAEC 総会を含む諸行事あり、風・アドレス帳更新のお知らせも重なり、加えて国会関連で「多様な教育機会確保法(仮称)」試案・立法への動き。皆さんからニュースを頂いて、風・編集は大忙しです。
 27日午後、国会横の憲政記念会館で「夜間中学等義務教育拡充議員連盟」と「超党派フリースクール等議員連盟」の合同総会が開かれたそうです。「義務教育段階における普通教育の多様な機会の確保に関する法律案(仮称)」立法に向けて、その骨子、基本理念や方針、国や自治体の責務・施策の方向など概要が、この会議で了承され、早急な条文案作成に入るとのこと。国会から流れてくる教育政策の動きとしては、久しぶりの快事と思われます。
 今日の報道によれば、「6月中に条文としてまとめ・・・今国会での成立と、2017年4月の施行を目指す」(朝日、5月28日)とあり、いよいよ具体化のスケジュール。公的な制度として法的位置づけをもたなかった「夜間中学」、それだけにどんな条文になるのか期待大!注目していきましょう。
 不登校の子どもたちが通うフリースクールや家庭学習を義務教育として容認する施策と並んで法制化がすすめられることには、一瞬「おや?」と感じるところがありました。フリースクールの取り組みは、いわば“脱学校化”の動き。それに対して、夜間中学の運動が主張してきた方向は、正規の学校教育を求める取り組み。この二つの課題が、一つの法律にどう結びついて立法化されるのか、これを貫く法理念がどのように表現されるか、楽しみです。
*本号はまだ旧アドレス帳で配信しています。

★南の風・3451〜3500号→■
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【南の風2015】3501号〜3550号・目次一覧

3501号【 5月29日】夜間中学等議員連盟総会開催、子どもNPO白書、多様な教育機会確保法(仮)」立法へ
3502号【 5月30日】基礎教育学会(仮)準備会(第3回)、映画「戦場ぬ止み」、217回目の定例研究会
3503号【 6月 1日】5月研究会、福岡に島袋正敏さん、日青協の十日町青年学級訪問、「学び舎」教科書
3504号【 6月 3日】ヤマケン先生を囲む218研究会、ささやかな願い、年報編集4、第1回(1995)研究会回想
3505号【 6月 5日】今年の全国集会1、ヤマケン先生歓迎会、風に参加、第4回院内シンポ、2015総会へ
3506号【 6月 7日】2015七夕の会お誘い、東京竹富郷友会創立90年、辺野古土砂搬出反対、総会−新体制
3507号【 6月10日】第20号編集会議(第4回)、喜屋武字誌(琉球新報)、竹富島ブログ、歴史の重さと楽しさ
3508号【 6月11日】東京社会教育歩み研究会、NHKスペ沖縄戦、地に刻む沖縄戦、竹富の公民館「議会」
3509号【 6月13日】名護・85の祝い日程、東京の日本語教育つどい報告、事務局、「トゥシビー」祝い
3510号【 6月15日】全国集会2、日本語教育、「琉球処分」史料、安全保障関連法案に反対する学者の会
3511号【 6月17日】学者の会アピール、第2回公民館構想研究会、戦後の「初心」、研究会どなたも参加歓迎
3512号【 6月19日】2015・TOAFAEC 総会報告、維持会員の拡大を、松川町、ヤマケン先生を囲む会の夜
3513号【 6月20日】18日お礼、TBSラジオ夜間中学特集、川崎、地に刻む沖縄戦「ガマ」、6月の戦時体験
3514号【 6月23日】文人85歳トゥシビー祝い案内、琉球新報・慰霊の日、沖縄タイムス・地に刻む沖縄戦
3515号【 6月25日】ヤマケン先生を囲む会報告、町田とびたつ会、福岡より、ウチナーンチュが発した言葉
3516号【 6月28日】第56回韓国フォーラム、85トシビ―参加、外間守善さん(毎日新聞)、新韓国本の期待
3517号【 6月30日】学者の会賛同者へ、辺野古ブルー激励会、「つぶされないでよ」(沖縄タイムス)、琉歌
3518号【 7月 3日】基礎教育学会(仮称)準備会、沖縄共同抗議声明、映画『ルンタ』、『沖縄うりずんの雨』
3519号【 7月 6日】尼崎でサマーセミナー、夜間中学映画・無料上映会、辺野古ゲート前の1年、南に台風
3520号【 7月 8日】夜間中学卒業生スピーチ、日中学院、町田、基地をめぐる「誤解」、沖縄フライト欠航
3521号【 7月13日】7月定例研究会、東大阪市太平寺中学夜間、戦争体験者、やんばる友人に囲まれて
3522号【 7月15日】小林85歳トゥシビー祝い報告1、台風直下沖縄9〜11日記録1.名護やんばる大百科事典
3523号【 7月17日】安全保障法案の強行採決、85歳トゥシビー祝い2、台風直下沖縄2,不気味な時代
3524号【 7月18日】基礎教育学会(仮)設立準備会ご報告、若い学生への政治教育、明日・七夕の会へ
3525号【 7月21日】戦争法案反対!国会正門前行動、2000年・沖縄サミットネね重苦しい夏のはじまり
3526号【 7月22日】東京の社会教育のあゆみ(仮)集中編集、生命を守る旗、名護、写真集『御万人の心』
3527号【 7月24日】七夕の会報告、大田区学芸員募集、町田市とびたつ会、韓国本づくり、毎日寄り添い
3528号【 7月26日】第57回韓国研究フォーラム・編集会議、三上智惠『戦場ぬ止み』、風の部屋の賑わい
3529号【 7月28日】仲宗根悟さん逝去、ソウル宣言、国立公民館60周年、祭りの活力、仲宗根悟さんを悼む
3530号【 7月30日】七月定例(再)、学校を核とする地域教育、「復帰男」(新報)、「まぼろしの復帰闘争史」
3531号【 8月 1日】7月研究会報告、夜間中学の受け入れ(文科省通知) 、竹富島、 研究会の夜・暑気払い
3532号【 8月 3日】日韓学術研究大会、モンゴル・チャリティコンサート、沖縄タイムス・lコラム、取越し苦労
3533号【 8月 5日】年報編集会議、高津市民館−平和・人権学習企画、町田、キャンプシュワブ・ゲート前
3534号【 8月 7日】名護から、日大二高・原水禁運動DVD作成へ、竹富島の豊年祭、妻と語らう原爆忌
3535号【 8月 9日】TOAFAEC新代表挨拶、琉球新報「金口木舌」、モンゴルコンサート、年報編集会議
3536号【 8月11日】維持会員、公民館構想研究会、地域再生への英知、竹富島の台風、ワインの空き瓶
3537号【 8月13日】編集会議−美酒と歌と、沖縄大学ワーカーズコープ講義、米軍ヘリ事故、沖縄護郷隊
3538号【 8月15日】年報20号へ寄稿(上海)、映画『望郷の鐘』、おきなわ短信(1034)、8・15あの青い空
3539号【 8月17日】映画「ルンタ」−他人の痛み、夜間中学卒業生スピーチ大会、「今日有感」、八月の歌  
3540号【 8月19日】第24回東京研究会、アーサー・ビナード高江訪問、静かな海への願い、暑さとの闘い
3541号【 8月21日】島袋正敏講演記録、町田、第55回全国集会、八重山教科書選定、知らなかった話
3542号【 8月25日】東京フォーラム報告、SEALDs琉球の動き、台湾・李登輝氏の寄稿論争、秋風らしき
3543号【 8月27日】「多様な教育機会確保法案」論議、平和を呼ぶ一陣の風、ガルトゥング氏の訪沖
3544号【 8月30日】基礎教育学会<仮>準備会、年報索引づくり、八重山毎日コラム、全国集会不参加
3545号【 8月31日】年報バックナンバー索引作業(上田・李・江頭)、 沖縄行動2500人、20年前の8月
3546号【 9月 2日】第58回韓国フォーラム、川崎・富川高校生ハナ、戦争法案反対学者の会、朝鮮人軍夫
3547号【 9月 4日】国際識字デー、いたばし会議、飯田市公民館研修会、日米地位協定、10年前の6月
3548号【 9月 6日】58回韓国フォーラム報告、いたばし会議ご案内(補足)、歴史を刻む地名、20年の歳月
3549号【 9月 8日】大都市研究つどい、基礎教育学会(仮)準備会東京、沖縄降伏調印9月7日、ガジュマル
3550号【 9月11日】編集会議(第6回)、町田、うるまエイサー、山田洋次インタビュー記事、大河の氾濫




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