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近代化の淵源を探る (5/6) |
□教育勅語の下賜 学校制度に関する最初の法令は、フランスを手本とした学制令でした。それは、国民皆学を目ざす、自由主義的な法律でした。ただし、小学校の設置費や運営費は、すべて国民の負担とされたので、学制反対運動が起こりました。やむをえず、文部省は、小学校の設置を強制することをやめて、アメリカの制度を手本として、学校を市町村の自由管理とする教育令に変えることにしました。 しかし、その翌年、教育令は、全面的に改正されるのです。明治政府の保守派が、自由民権運動が盛んになることを恐れて、教育は、国家が統制すべきである、と主張したためです。改正教育令では、各学校が、独自でカリキュラムを組むことは、認められなくなりました。 教科の内容は、すべて、文部省が統制するようになり、「修身」が、小学校の筆頭科目に定められました。 1886年、初代の文部大臣によって、学校令が公布されて、学校教育制度が確立されました。それによって、国家による教育の統制は、いちだんと強化されました。 その四年後に、天皇の名によって、「教育勅語」が、各学校に下布されることになり、各学校では、校長がその謄本を頂く、奉戴式という儀式が行なわれました。さらに、各校長あてに、「学校の式日の度に、生徒を集めて、教育勅語を奉読せよ」という訓令が出されました。それによって、教育勅語の内容が、子どもたちの頭に叩きこまれてゆきました。 教育勅語の狙いを、つきつめて言うならば、「忠君愛国」の精神を養うことにあった、と言ってよいでしょう。こうした教育勅語の文言が、やがて、「臣民である国民は、君主である天皇のために死になさい」というような仕方で、軍国主義教育に用いられてゆくようになりました。こうして、教育勅語は、日本の精神教育の支柱となっていったのです。 なお、天皇制教育とともに、御真影(天皇夫妻の写真)の奉置も、国旗の掲揚も、国歌の斉唱も、浸透してゆきました。 |
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