南の風・各号後記(ぶんじん日誌)
1700号【2006年8月14日】
★<ふるさとの8月 >
九州は8月の旧盆。ほぼ例年この時期は福岡なのに、今年はなおまだ異郷?にあり、仕事に追われている身。盆になると、亡き母がよく諭したものです。「地獄の釜のフタだって盆には開く。あくせくと働きなさんな。先祖さまを迎え、ゆっくり精霊さんを送んなさい!」
“盆・正月”という言葉もあるではないか。この齢になっても、まだゆとりを見出せないまま、亡き父母供養の盆提灯も灯さず、迎え火も焚かず、親不孝とはこういうことを言うのでしょう。いつしか心は少年の頃に戻っていました。
少年にとって8月は特別の月。旧盆だからというだけではありません。8月の11日は故郷・久留米がアメリカ軍大空襲の戦火に焼かれた日です。終戦4日前!に街は焼け落ちました。いつまでも忘れることができない恨みの1日。そして8・15敗戦の日の思い出へと続きます。大勢の人が焼死し、家を失い、生活を壊され、戦後の厳しい時代をさまよいました。少年Bの8月の想い出は、これまで何度となく「南の風」に書いてきました。
昨夜(12日)のNHK・ETV特集は、「映画作家・黒木和雄」を取りあげていました。題して“戦争へのまなざし”。同じ九州で、同時代を生きたものとして、黒木の作風に深く共感するものがあります。
個人的な面識はありませんが、彼の作品は戦争三部作(明日、美しい夏キリシマ、父と暮らせば)など印象的に観ました。もうすぐ遺作「紙屋悦子の青春」が上映されるらしい(岩波ホール)。少年の日の戦争体験にこだわりつづけた、その黒木和雄も、すでに亡く・・・。
本号でようやく1700の大台。まだ旧アドレス帳で配信していますが、次号からは新アドレス帳に切り替えます。本号まで(辛抱づよく)お付き合い下さった方々、まことに有り難うございました。
1699号【2006年8月12日】
★<夜間中学運動−人権救済の申し立て>
全国夜間中学校研究会(全夜中)では、3年前から「義務教育未修了者に学ぶ権利を」と、公立夜間中学校の増設を求め、日本弁護士連合会(日弁連)に「人権救済申立」を行ってきました。ぶんじんも申立人の一人です。
全夜中・人権救済申立専門委員会の関本保孝さん(委員長、東京都世田谷区三宿中学校)から連絡があり、昨日(10日)、日弁連より画期的な意見書が出されることになったとのこと、午後2時半から記者会見、これに出席できないか、という要請でした。あまりにも急な連絡、「東アジア」第11号に向けて未着原稿受信のためパソコンの前に座る必要もあり、残念ながら動けない旨の返事をしました。
関本さんから聞いたところでは、文部科学省に出される「意見書」は次のような内容らしい(まだ詳細は見ていません)。
「ひとしく教育をうける権利」をうたっている憲法・教育基本法の理念にもかかわらず、義務教育修了者について文部科学省は全く調査もしていない、義務教育保障のため実態調査をせよ、夜間中学校は必要性があるので各自治体に設置せよ、自治体に指導助言せよ、財政的措置も必要、現夜間中学校の受け入れ拡大、民間夜間中学校の設置支援、個人教師派遣援助も、など。
これまでの経過を考えても、この内容だとまさに画期的。さて、今朝の新聞がどのように報じているか、朝日など見てみましたが、まったく記事なし。いずれ詳細が分かるでしょうが、どの新聞か報じているところがあったでしょうか。(11日夜)
1698号【2006年8月11日】
★<第11号・最終編集会議 >
昨夜(10日)は“風の部屋”で編集会議。この間、締切り時間厳守を訴えて、皆さんご協力いただき、有り難うございました。11号原稿は、ほとんどすべてが10日5時までに着信し、充実した会議となりました。その後、編集長の石倉さんは(ぶんじんも)今日未明までの作業が続き、発注先(アンテイ多摩)との約束通り、午前7時までにすべての入稿が終わりました。
ご参考までに、予定執筆者(7月締切りに間に合わなかった人たち)に出したメールを(記録として)ご紹介しておきます。
From: bunjin-k@js4.so-net.ne.jp (小林ぶんじん)
Date: Wed, 09 Aug 2006 21:39:26
Subject: 11号原稿・至急のお願い
<至急のお願い>小林文人
「東アジア社会教育研究」第11号の原稿お急ぎ下さい。最終編集会議を10日夜に開きます。お願いしていた原稿は、10日午後5時までに、小林にお送り下さい。
組版制作のため11日朝7時に発注先に入稿しなければなりません。なにとぞご協力を賜りますよう、お願いいたします。鶴首の思いで、送稿をお待ちしています。
<黄先生・追悼文>
黄先生の追悼文について、その後のご執筆は如何でしょうか。お願いしていた追悼文・原稿は10日午後5時(日本時間)まで、メールにてお送り下さい。11号予定の他の原稿も、すべてのこの時点で締切になります。(時間厳守を!)−以下同文。
ぶんじんのパソコンは、この時間までに大忙し。ベトナム・津久井原稿は3通(写真追加など)も届きました。編集者冥利につきるとはこのこと。入稿済みの一部修正(2本)は例外として、未着の原稿は残念ながら、すべてタイムアウトとなりました。ご了承下さい。
イギリス・レディングに帰省中の岩本陽児さんからいま電話あり、目次の英訳について「その後、どうなりましたか?」と問い合わせ。「大丈夫、ご心配なく!」と答えておきました。
1697号【2006年8月日】
★<全国集会の余韻 >
いま図書・資料を出来るだけ増やさないように努力中。しかし全国集会になるとそうもいきません。資料販売のコーナーを通ると、ついつい買ってしまいます。習性になっているのでしょう。また、頂く資料もあり、帰りの荷物はずしりと重い。
エイデル研究所のコーナーでは、三日間終日、山添さんが奮闘して近刊『韓国の社会教育・生涯学習』の予約も開始されました。「風」に予約(特価)の案内を送っていただけませんか?
集会では速報「天下の険」が6号まで発行されましたが、最終号には韓国から参加した若手4人(女性)の感想が掲載されていて、興味深い。注目の「韓国平生教育士協会」会長イ・ギュソン女史のコメント。(「平生教育士」は「平生教育法」(1999年制定)に基づく本格的な専門職制度、日本の社会教育主事よりも水準の高い法制、もちろん課題もある。)
「事例発表 → 質疑応答 → 自己紹介と質問 → 質問への答弁 → テーマを決めての討論、という進行プロセスについては満足しています。参加者がすべて真摯に学び、発表する姿は、多くの感動を与えました。
しかし、期待があまりにも大きかったためか、または韓国語への通訳に時間を費やしてしまったためか、テーマに関する深みのある討論の部分がなく、とても残念でした。
多文化共生分科会らしく、外国人に配慮しながら進行してくださったことは申し訳なくもあり、感動また感動の連続でした。良い印象をもって帰ることができます。カムサハムニダ!」
風・前号の写真では、全体交流会「アリラン」合唱で、パク・インジュ団長の後ろで歌っている女性がイ・ギュソンさん。この夜、部屋に戻ってイ・ギュソンさんたちを囲み、群馬・石原照盛さんの畑のとれたて胡瓜をかじりながら、山城千秋さんの泡盛を汲みかわして、お互いの交歓を楽しみました。
▼後列中央−イ・ギュソンさん(韓国平生教育士協会会長)
1696号【2006年8月日】
★<第46回全国集会終わる>
箱根で開かれた第46回社会教育研究全国集会(8月5日〜7日)は盛会裡に終了。帰路は車2台で箱根・芦ノ湖スカイラインへ。群馬や鹿児島の皆さんと疲れを癒しました。右の目下に芦ノ湖、左方には駿河湾、前方に富士、という雄大な景色を楽しみながら、一路、箱根の山を駆けおりて、明るい内に東京へ帰りつきました。皆さん、お疲れさま。
全国集会への参加者数は432名。社全協だけの(現地実行委員会をおかない)集会としては、大成功でしょう。この種の集会が全般的に高齢化しているなかで、学生を含めて若い世代の参加が多く、新しい息吹きを実感。ぶんじんも今や最年長層の一人となりました。
印象的なことは、韓国の皆さんの全国集会参加が定着したことでした。それも儀礼的な参加でなく、分科会の討論のなかでも実質的な発言があり、1日のプログラムが終わった後の夜の集い(飲み会)でも、連夜にわたって、一緒に車座になって実に楽しく交流しました。肩を組んで、「アチミスル(朝の露)」を歌い(お返しに「友よ」も歌った)、「鳳仙花」をリクエストして、こちらから沖縄の「てぃんさぐぬ花」を披露したり。
第1日の全体交流会では、韓国訪日団のご挨拶の壇上に呼ばれて、団長のパク・インジュ(朴仁周、平生教育総聯合会会長)さんと「アリラン」を合唱しました。記念に画像数枚をHPへアップ。→■
2日目「この指とまれ−沖縄を語る」は、予想通り、沖縄からのご参加なく、やはり寂しいひととき。来年に期待しましょう。
来年の全国集会は「阪・奈・和」で開かれるそうです。「大阪南部の貝塚市を中心に、近畿の多くの人たちの力を結集して開催することになりました。和歌山大学、社全協関西ネットの研究者、職員、住民の念願の思いをまとめての決定です。」(集会速報「天下の険」最終号、7日)
▲集会第1日夜・全体交流会「アリラン」の合唱、中央は朴仁周団長(060805)
1695号【2006年8月日】
★<全国集会「沖縄を語る」集い >
例年の全国集会は8月末、今年は8月初旬(5日〜7日)の日程となりました。沖縄はちょうど旧暦のお盆と重なって、エイサーやウークイ、八重山ではアンガマなどの盆行事の時期です。沖縄から誰が参加してくれるか、まだ動静は聞こえてきません。おそらく無理か。
全国集会では毎年、私たち沖縄研究グループが中心となって、2日目夜「この指とまれ」プログラムのなかで、「沖縄を囲む」「沖縄を語る」集いを開いてきました。記録を見ると、年度によって違いがありますが、1986年前後から定着してきたようです。今年はちょうど20年。先日の“風の部屋”編集会議の折、今年も(仮に沖縄からの参加がなくても)「沖縄」集いを用意しようということになり、遠藤輝喜さんを世話人として準備しています。といっても泡盛1本を持っていくだけ。あとは自由に交流しようというだけのこと。
山城千秋さんのサンシンを聴きたいと期待していましたが、上記メールのように、昼の分科会が終わるとすぐに帰らなければならないそうです。もしかすると、ウチナンチュが一人もいない珍しい集いになるかも。去年の福岡(油山)集会とは大違い。
全国集会は、その後に参加申し込みが増えたそうです。約400人とか。現地実行委員会の体制がないだけに心配していましたが、安心しました。韓国の平生(生涯)教育総聯合会からも13名の参加だそうです。
「自治公民館」分科会は、沖縄集会(2002年)をきかっけに動き始めて今年で5年目。まとめの年にしたいものだと声をかけあってきましたが、世話人に突発的な事情が生じ、まずは今年の分科会の論議が面白く展開することが大事。皆さん、楽しく参りましょう。
箱根での久しぶりの再会を楽しみにしています。
1694号【2006年8月日】
★<現代「模合」の提唱>
これまでは神出鬼没、居所もあまり分からなかった赤崎隆三郎さんから、最近は頻繁にメールが届くようになりました。細かな動静も判明しました。お元気のようでなによりです。
さんにん(月桃)の花が咲き誇っていた時期.。たしか1998年5月、故黄宗建先生やボヤンバートルたちと一緒に、与論島の豪邸(なにしろ庭が広く、前は東シナ海、真っ赤な夕陽が沈んで見事!)に泊まったことを思い出します。黄先生は、あの部屋が気に入って、「南の島に部屋が出来た!」とはしゃいでいました。名護の友人たちのこともよく話題にして、酔えば「花」を歌い合いました。
琉球新報「落ち穂」への連載、「むえー(模合)サミット」拝見しました。来年6月1日へのご招聘、有り難うございます。
沖縄の「むえー」の面白さを知って、15年ほど前から「現代模合」を提唱してきました。大学で研究室をもち、研究費や科研費(国民の税金だぞ!)を自由に使える人たちには関係ないこと。金も権力ももたない研究生や留学生たちが、研究を続けていく上で、切実に困るときがある。彼らは奨学資金の恩恵に浴することも夢。バイトに苦しむ毎日。そんな中で「模合」の思想を活用していこうというわけ。
たとえばパソコン資金(30万円・当時)、無理してでも海外に行くフィールドワーク資金(20万円)など。初めはこちらで基金だけを提供して、無利子で回していく。条件ができたら返金して次の人へ。若い人たちで励ましあって、いわば「研究むえー」のネットをつくっていく構想です。実際にいま一つ動いています。しかし「むえー」は案外と古いイメージで捉えられがち。実はきわめて現代的な、生活的な、励まし合い、助け合いの民衆の智恵なのに。
1693号
【2006年8月2日】
★<第11号編集の進捗状況>
今年、ぶんじんは「TOAFAEC 顧問」ですから、「東アジア社会教育研究」第11号編集の直接の責任はない。しかし、成り行き上、また会議が西永福「風の部屋」で開かれることもあり、この作業にどっぷりと参加することになってしまいました。
こんななずではなかった・・・と気づいても遅いのです。「南の風」を発行している立場もあり、いわば広報担当のようなつもりで、8月1日(昨夜)編集会議の模様を報告しておきます。
企画(6月総会)は順調だったのですが、その後の依頼や確認の作業は中断・遅れがあって、その上に突発的なこと(黄宗建氏追悼の小特集や韓国本編集との関わりなど)も加わり、初期の特集構想はほぼ解体した感じ。しかし勢いは回復し、かなりのページ数で9月学会までに刊行される見通しがつきました。
公民館60年講演をめぐっての原稿依頼(上野氏担当)、黄先生追悼特集に向けての原稿依頼(小林担当)、これにもともとの企画依頼や投稿の流れが入り乱れて、同じ方に二つの、多い方には三つの原稿依頼が届いている錯綜もあり。これは、年報編集の混乱・・・しかし、そこに“勢い”を見る思い。三つの原稿依頼を受けた方には、まずはお詫び申しあげなければなりません。
昨夜の編集会議では、原稿の整理・レイアウト・版下づくりを、編集長が一手に引き受ける(これまでの方式)ではなく、若干の経費を用意して、いわば他(アンテイ多摩)に外注?する方向となりました。編集長の重圧感は少なくなりましたが、入稿・校正その他のスケジュールは厳密に設定されることになります。皆さん、頑張りましょう。すべては10日に入稿を終わり版下組みに入らなければなりません。原稿未提出の方々、1日も早い送稿をお願いします。内容的には(ぶんじんがいま目次をつくっている最中)、むしろ韓国特集の様相になってきています。
1692号
【2006年8月1日】
★<梅雨明け宣言、夏が来た・・・>
長かった梅雨がようやく明けました。久しぶりの陽光、しかしまだ本格的な夏の日ざしではありません。8月となったのに・・・部屋にこもっての作業が続きます。ガマンの夏だ。
先号も書いたように、『韓国の社会教育・生涯学習』(エイデル・近刊)の最終ゲラ読み。原稿の大半はハングル版、それを李正連さんや小田切督剛さんたちがすばらしい日本語に訳してくれて、本になるのが楽しみです。その執筆者各位は韓国ですから校正は無理、時間に追われて、編者が分担して最終校正をやろうと。ページ削減の課題もあり、シンドイ作業です。
本の終章は黄宗建先生の執筆。文字通りの“絶筆”となりました。座り直して粛然として読みました。
あと一つの仕事は、「東アジア社会教育研究」第11号の関連。7月末が締切、期限通りに原稿が集まってくるか、明日(1日)の編集会議で確認します。きっと催促が一仕事でしょう。黄先生の追悼小特集は8月5日が締切。追悼文を書くというのも、つらいことですが、ご寄稿の皆さん、どうぞよろしく。デッドラインの8月10日に向けてお互いに頑張りましょう。
昨日(7月30日)は、久しぶりに原水禁運動(安井家)資料研究会でした。安井家には少々疲れてたどりつき、休息に行ったようなもの。この日のビッグニュースは、安井節子さんが懸案のホームページを立ち上げたこと。作ったばかりの「研究会」文字画面がインターネットに登場したときは拍手・歓声でした。
1691号
【2006年7月31日】
★<あの笑顔、忘れじ・・・>
「南の風」と関連して黄宗建先生のこと。実は「風」は一度も黄先生に届きませんでした。私のアドレス帳には黄宗建アドレスが二つも残っています。風を送るようにと強い要請がありました。2003年から翌年にかけて数回も。しかし送信は成功せず。なんど繰り返しても風は戻ってきて、結局、諦めてしまいました。失望されたに違いありません。その頃、勤務されていた中国の大学側の接続か、あるいはサーバーに問題があったのか、単にアドレスが(2通とも!?)間違っていたのか。
ちょうど韓国本の編集委員会を起ち上げた頃。先生は山東省の紡織職業大学に招聘され、韓国語学科教授(顧問)として赴任されていました。私が同じ山東省の烟台(日本語学校)に滞在した時、電話したその日に長距離バスで飛んでこられました。中国の地で日韓の感激的な再会。当時のホームページ(2003年11月スケジュール)に写真を掲載しています。若者たちに囲まれたあの笑顔が印象的。
「南の風」送信はうまくきませんでしたが、TOAFAEC の「東アジア」研究には当初から大きな関心を寄せ、声援をおくって頂きました。沖縄への興味も並々ならぬものがあり、「次は南の島で再会しよう」と約して別れたのでした。お会いしたのは、これが最後。
古いアルバムから、名護訪問(1998年5月)の際の画像1枚を探し出してHP追悼ページに追加アップ。8年前の小林平造さん、ボヤンバートルさん、それにぶんじん。黄先生はどの写真も楽しく歌っておられる姿ばかり。
1690号
【2006年7月28日】
★<連日の編集会議>
27日の夜は「東アジア社会教育研究」第11号編集会議でした。今年は、TOAFAEC
も「顧問」となり、暑い夏の編集作業から解放されるものと思っていました。しかし浮き世の定めか、そう簡単にことは運ばず。石倉編集長の頑張りを支え、予定通りの刊行をめざして急ピッチの作業に入っています。やれやれ、なんとか、第11号発行の見通しがついたように思います。
どんな本であれ、1冊の刊行物を出すのには(編集の実務を知らない人には分からない)喜びと苦しみがある。苦しみながらも、当事者でなければ味わえない達成感、充実感を夢見つつ、夏を過ごすことになります。それにしても、韓国本、第11号、「辞典」原稿・・・などが重なり、しんどい季節となりました。我に仕事を与え給う天なる神に感謝申しあげます。それにしても、こんなに忙しい夏を過ごすことになろうとは・・・天の神を恨みまする!
東京は梅雨もまだ明けず、今年はものみな異常なのだ。あきらめよう。すべては自ら招いたこと。自虐の言葉を空に放って、次なる解放の時を自ら獲得するほかなし。なんのこれしき!
26日の韓国本・編集会議、27日の第11号編集会議によって、夏休み中の日程がほぼ確定しました。原稿読み、ゲラ校正、最終チェックなどに取り組みながら、8月1日、10日、14日、15日、19日に集まることになりそうです。できるだけ皆さんに駆けつけていただきたいので、石倉さんから8月(11号関連)スケジュールを整理し、呼びかけていただきませんか。
あわせて、黄宗建先生を偲ぶ会と、『韓国の社会教育・生涯学習』刊行記念会の日程のことが話題になりました。
松本大学の白戸洋さんから、アジアの公民館に関する大きな集会(ユネスコ主催)の案内が届きました。この
CLC・ワークショップの日程は8月2日から7日までの約1週間、アジア13カ国から約40名の参加、公開シンポジウムが6日、という盛大なもの。しかし箱根の社会教育研究全国集会と重なり、行きたいところですが、かないません。矢久保学さんなどは松本で頑張るらしい。アジアに松本の公民館がデビューする国際ワークショップの成功を祈っています。会の模様など、ぜひご紹介下さい。この案内のこともあり、連日の風となりました。ご了承を。
1689号
【2006年7月27日】
★<韓国本・校正作業>
26日午後から韓国本・拡大編集会議(於・川崎市高津市民館)。
韓国本のゲラが机上に並びました。これまでの歳月をかけての執筆・編集作業を反映して、想像をこえる厚み。これに資料編を加えると、公民館『ハンドブック』なみのページ数になってしまう。ただちに本の定価につながるわけですから、どう縮小するか、難作業が始まりました。嬉しい悲鳴どころか、苦しく呻くような数時間。さてどうなるか・・・。
予定以上の枚数を書いてきた執筆者にターゲットをしぼって・・・編者で分担しての校正作業が始まります。ケズル仕事は頭が痛い!
呻吟の数時間を終わって、みんなで故黄宗建先生に献杯。在りし日を偲んで、思い出話いろいろ。この間、顔を見せなかった金子満さんに電話、文部科学省から川崎まで呼び出して、また献杯。黄先生は「父のような存在」だったとのこと。
かなり酔って帰宅、すぐダウンでした。その後のこと、以下のメールをご覧下さい。深夜3時過ぎの小田切督剛さんへの妙なお願いの1通。
「昨夜はお疲れさまでした。帰宅して、少々酔っていたのか、
一眠りして・・・。いま目がさめて、カメラから昨夜の画像1枚を抜き出し、
ホームページ・7月スケジュールにアップしたところです。
ご覧ください。山添さんのうしろに小生の帽子が写っています。
ビヤホールのすみっこ。
実は帰り際にハンチングが見当たらず、
ま、いいか、そろそろどこかで失う頃だ、
酔いもあって、あまり探しもせず帰宅したのでした。
デジカメの効用で発見できました。
すみませんが、確保しておいて下さいませんか。急ぎませんので・・・次回にいただきます。」
小田切さんの職場はこのビヤホールの隣のビル、どうぞよろしくお願いします。急な電話に驚いて駆けつけた金子さんも、ご苦労さまでした。
1688号
【2006年7月26日】
★<第11号に追悼小特集を>
この数日、黄先生の急逝に関連して、たくさんのメールが飛びかいました。魯在化さんへのぶんじんメール。魯さんはソウルにいるとばかり思っていましたから、繰り言ばかり。
「…黄先生のお見舞いに行きたかった。黄先生のお葬式には参列したかった。せめて弔辞をお送りしたかったけれど、すべて間に合わず、残念です。…」
肥後耕生さん(韓国・中央大学校大学院博士課程)へのメール。
「早速に“黄宗建博士の略歴と業績”有り難うございました。追悼文と一緒に第11号へ掲載することになると思いますが、まずはHP“黄宗建先生追悼”のなかに挿入してみました。一つだけ「日本語による論文・報告」の項に、TOAFAEC
「東アジア社会教育研究」第4〜5号収録の“自分史をかたる”を加えました。ご覧の上、お気づきのところがあれば修正してください。掲載を控えた方がよければご一報を(ぶ)」。
石倉祐志さん(いま第11号編集中)から来た意見。
「黄宗建先生の追悼文は、肥後さんだけでなく、文人先生を含め幾人かの方にお願いするというのはどうでしょうか。黄宗建先生の追悼(小)特集にするということです。」
追悼文は、風前号・魯在化メールのように、すでに金済泰牧師にお願いし、魯さんご自身も書いていただけるようですし、肥後さんも「黄宗建先生追悼文の件、了解しました。書き次第お送りします」との返事。
黄先生にかかわりのあった「南の風」メンバーのなかでも、追悼文寄稿のお気持がある方は、ご一報下さい。8月5日の締切、字数の目安は1ページ(1500字)以内、多少の増減可、といたしましょうか。急遽、編集長になったつもりでの提案です。
7月27日夜(風の部屋)に予定されている編集会議(緊急)で協議・確認していただきましょう。
1687号
【2006年7月25日】
★<黄宗建先生の追悼ページ>
一昨日(22日)、黄先生の訃報がとどいて以降、さかんにソウルへ電話し、魯在化さんを探しました。しかし通じない。メールも。本日、ようやく連絡(留守電−直接に話せず)あり、それもアメリカからでした。黄先生の急逝のとき、魯さんはソウルに不在だったのです。
金済泰牧師との電話では、黄先生の(最後の)病名は脳梗塞とのこと。魯在化メールによれば、22日(土曜日)のご葬儀は、金宗西氏・金信一氏など列席のもと、滞りなく執り行われたそうです。
この一両日、黄先生ご逝去についての驚きと追悼のメールが「風」に寄せられました。一つひとつご紹介することができません。お許しください。
風の前号で久しぶりに拙い挽歌“虚ろなる心”と詠んだように、何にも手がつきません。HPの黄宗建先生「自分史をかたる」は「追悼ページ」になってしまいました。黄先生の写真はたくさん出てきました。そのうち5〜6枚をデジタル化し、「在りし日」をしのぶかたちで、アップしました。ご覧下さい。
日韓の社会教育研究交流の初期(1992年1月、大阪)、故小沢有作さん(東京都立大学・当時)と肩を組んで歌っておられる写真も出てきましたので、すこしピントが甘い(ぶんじんも酔っていた)けれど、関連して追悼ページに入れました。お二人とも故人になってしまわれた。
いま進行中の「東アジア社会教育研究」第11号に、黄先生の追悼記事を収録してはどうかと思いますが、編集委員会の皆さん、如何でしょうか。やはり金済泰牧師、それに「黄宗建・研究所」(平生教育研究所、文解教育研究所など)の文献資料を引き継いだ魯在化さんや「黄宗建」研究をテーマにしている肥後耕生さんに、準備をお願いしました。ただ日程的には、あと旬日を残すのみ。たいへん厳しいスケジュールで間にあうかどうか。
◆在りし日の黄宗建先生(ソウル、19960302)→■黄宗建先生追悼アルバム
1686号
【2006年7月23日】
★<訃報・黄宗建先生>
昨日(22日)昼、韓国の黄宗建先生が亡くなられたという知らせが飛び込みました。あんなにお元気だったのに・・と、しばし茫然、なんとも残念無念の思い、享年まだ77歳の若さ!でした。
その後の肥後耕生さんの連絡(Sat, 22 Jul 2006 17:26)では「20日午前10時13分にお亡くなりになられ、今日22日午前10時に出棺だった」「最期、お会いできなく残念です」とのこと。
この間の経過。「南の風」には載せませんでしたが、6月下旬、魯在化さんの電話で黄先生が中国から急遽ソウルに帰られて、空港よりそのまま緊急入院されたことを知りました。親友の金済泰牧師以外は誰も会うことができず、詳細が分からず。しかしその後は一段落されている様子でもあり、経過を見守っているところへの訃報でした。
この4年近く難航を重ねてきた『韓国の社会教育・生涯学習』(編者:黄宗建、小林文人、伊藤長和)刊行の見通しがようやくついて、最終編集の経過報告を(当時滞在中の)中国に送ったのが5月。しかし、いつものようにご返事がなく、気になっていたのでした。黄先生からは早々の原稿をいただいていましたから、もしかすると(日本側が遅れていることに)怒っておられるのかも・・・と思ったり。もうそのころは体調をこわしておられたのでしょう。
黄先生との出会いは、1980年1月。故諸岡和房さん(マンチェスター留学の友人)を介して、日本社会教育法の調査に来日された時です。中断をはさんで、1990年以降はソウルで、また東京・鹿児島・沖縄・佐賀や川崎で、あるいは中国・烟台等でも、親しくお付き合いをさせていただきました。その経過の一部は、9月刊行予定の上記・韓国本にも書いています。私たちの研究年報「東アジア社会教育研究」4号、5号には「黄宗建・自分史をかたる」を掲載し、最近、ホームページにも再録。その末尾に略歴や業績も。韓国の社会教育研究・運動の文字通りのパイオニヤでした。
いろんな思い出が脳裏をよぎります。昨日は何も手につかず、古い写真を探し出すと、どの顔も実に楽しそうな笑顔ばかり。とりわけ南の島(与論、沖縄)では解放感あふれる表情。沖縄再訪を約束していたのに、待望の新本を前に乾杯したかったのに・・・と、残念です。
★黄宗建先生を悼む−
◇海越えて薫り続けし大輪の孤高の花に雨降りしきる
◇虚ろなる心でさがすアルバムにその顔ありて歌の聞ゆる
◆左・黄宗建先生、中央・金宗西先生、右・小林 (TOAFAEC訪問団歓迎会、@ソウル、19970302)
→*黄宗建・追悼ページ・写真→■
1685号
【2006年7月21日】
★<8月の日程−忙しい夏>
7月も下旬。沖縄はとっくに夏、しかし本土はまだ梅雨です。それも末期特有の豪雨が続いています。九州もかなり降っている模様で、福岡油山が気になっていますが、いまいくつかの仕事に拘束されて、ゆっくり出かけることもできません。こんなはずではなかったのにと、ボヤキながら、パソコンに向かっています。
毎年の8月は、いつも油山の庭で遊ぶ計画。今年はそれに加えて、懸案の書庫整理−できれば安井家資料データーベース化をお手本にして−を本格的に始めたいと思っていました。農中至さんの協力もお願いしていたところです。
しかし韓国本の執筆者最終校正のスケジュールや、遅れている「東アジア社会教育研究」第11号の編集作業(東京で行われることになった)の手伝い、重なっていくつかの仕事、月末のモンゴル行きなどの日程等を並べていくと、今年の8月、福岡行きは残念ながら断念!ということになりました。
日程の隙間をみて、1両日は出かけることができるのですが、旅費も使うことだし、短くても4〜5日は滞在したい。もともとは月の半分は福岡で・・・などという構えだったのに、浮き世の悲しさ、思う通りにはいきませんね。
この間、沖縄にもご無沙汰しています。2ヶ月ごとに中頭の青年団運動史の聞き取りをしよう、その前後に名護の皆さんとも歓談しよう、八重山に飛び平久保の歌碑の前で一杯やろう、などの思いは今は夢のかなた。皆さん、ご無沙汰をお許し下さい。
油山の書庫整理は、9月中旬に延期したいと思っています。
1684号
【2006年7月19日】
★<「あんにょん・サヨナラ」>
ポレポレ東中野(東京・JR東中野駅前)で上映中の「あんにょん・サヨナラ」、日韓・靖国問題を深く問いつめる、つらいつらい2時間でした。日韓共同ドキュメンタリー・戦後60年企画。在韓軍人軍属裁判を支援する会・太平洋戦争被害者保障推進協議会等の共同制作。
映画パンフの表紙には、「戦後60年−日本と韓国の辛い歴史に真のサヨナラをするために過去を探る旅に出る」、そして「ANNYONG
to peaceful future」とあります。
李煕子さんのお父さんは、日帝統治下1944年に徴用され、中国の戦地にいるという手紙を最後に戻ってきませんでした。李煕子さんの陳述書(在韓軍人軍属裁判第1回口頭弁論、東京地裁)より。
「…子として父の名誉回復と正確な記録を探すべく、懸命に活動しました。驚くべき事実は、父の名簿が日本の靖国神社に合祀されているというのです。
父親が靖国神社に合祀されているということは、いまだに父親の霊魂が植民地支配を受けていることだと思います。… 遺族の要請を受け入れて合祀を撤回するべきだということは当然であるにもかかわらず、それをしないでいるため訴訟を提起することになったのです。
昨年8月15日に合祀取り下げを要請するために靖国神社を訪ねました。しかし日本の右翼たちが、車で人を動員して阻止する光景を見て、父の霊魂が靖国神社に祀られていることに子として何よりも胸がいたみました。…」
日本人遺族・古川佳子さんの痛み。「戦死した二人の兄を忠魂碑に祀られたくない」、息子の戦死を聞いてお母さんが詠んだ歌。「これにます 悲しきことのなにかあらん 亡き子二人を返せこの手に」
1683号
【2006年7月17日】
★<七夕の浴衣姿>
16日の七夕の会、昼と夜の部まで合わせると、30名近くのご参加。むし暑い1日に永福までお出でくださり、有り難うございました。幹事役の遠藤輝喜さんから早速のメール。「七夕の会 お世話になりました。新しい方もきて下さり感謝です。いろいろいたらないことばかりですみません。皆さんに楽しんでいただけたかと思いますが・・・。本当にありがとうございました。」(Mon,
17 Jul 2006 01:23)
もともとこの会は、留学生の激励会のようなかたちで始まったと書きましたが(風1680号)、今年は幸いにモンゴル・韓国・中国(先着順)の皆さんにお出でいただき、いい会となりました。はじめてのご参加もあれば、まったく久しぶりの顔もあり、小さなお子さんづれもありました。1ケタ世代から70代(ぶんじん)まですべての世代が揃ったのではないでしょうか。いや、10代だけがいなかった?
何よりの話題は、50代(後半)の方が、10代の娘のような浴衣姿で登場し、♪笹の葉さらさら・・・♪の「七夕」と、「涙そうそう」を歌われたこと。学生時代からすでに40年近くが経って、はじめての浴衣姿を拝見しました。さてこの方はどなたでしょう?
お酒は(ビール・ワインは別として)、一つは山東烟台の銘酒「張裕」、夜の部になって、やんばる・山川酒造「珊瑚礁」(15年、43度)、そして与那国「花酒」(新酒、60度)の逸品。こういう強い酒になると、がぶ飲みできません。口に静かに含めば、深く幸せに酔います。
年に一度の「仕次ぎ」をする予定で、山原島酒之会々員として愛蔵中のカメ三つを並べたのですが、先に酔いがすすんで、カメを開けるところまでいきませんでした。これは次回のお楽しみ。
酔いながら、突然舞い込んだ編集会議を二つこなしました。
1682号
【2006年7月16日】
★<ケヤキ並木は繁る−東門からの道>
いまホームページ表紙の写真は、東京学芸大学「東門からの道」のケヤキ並木です。6月下旬の1日、久しぶりに学大キャンパスへ。通いなれた道でしたが、ケヤキの木々が美しく繁って、緑のトンネル、一瞬、別の空間に来たかのような感じでした。歳月が経てば、樹木はこんなにも育つのかと思いました。このスナップ、案外といい評判。複数の方から褒めていただきました。
実は、この日は「麦笛・さよならパーティー」でした。「麦笛」とは知る人ぞ知る学大の児童文化活動・人形劇サークル。多くの学生たちがこのサークルに参加し、学生運動とも交錯しながら、学内だけでなく学外への巡回公演など、活発な活動を繰り広げてきました。ここからプロの人形劇人も何人か輩出?しています。
ぶんじんは、20数年、このサークルの“顧問”として彼らの喜怒哀楽に付き合ってきました。忘れがたい想い出も少なくありません。ところが近年、しだいにサークルメンバーが少なくなり、ついに今年で部員がいなくなる事態となり、サークル部室も閉鎖とのこと。というわけで「麦笛さよならパーティー」となったのでした。
年々歳々、緑は繁るのに、人は変わって、とうとう「麦笛おわかれの日」かと、ある感慨をもって、ホームページに載せた画像でした。当日の記念文集への寄稿。「さよならにしないで、またどこかで、それぞれの麦を育て、笛を吹きあってほしい。」(ぶんじん)
幸いに新しい「麦笛」へ再生する動きあり。14日夜は、その中心メンバーの飲み会(狛江・慶岸寺)に出かけました。そして、今日は七夕の会。
1681号
【2006年7月14日】
★<「公民館は学校になくてはならない」>
10日ほど前に、「生涯学習社会における公民館と学校」と題する冊子(A4版、120ページ、本年4月発行)を送っていただきました。著者は南英毅氏。その副題が表記「公民館は学校になくてはならない」。
略歴によると、ながく藤沢市の小学校に勤務され、10年ほど校長職、3年前に退任。その間に藤沢市教育委員会の勤務もあり、校長として藤沢市公民館運営審議会委員をされていたことも。
書き出しは「少年期の公民館の思い出」。150 世帯程の集落に無人の公民館(集落公民館)、子どもたちが七夕飾りをしたり、畳の上で相撲をとったり、青年団主催の映画会があったり、寝泊まりしたり、などの回想。ワイワイがやがや、大人も子どもも大勢集まり、「子どもは子どもなりに連帯を培う場」、「ふるさとを感じ、ふるさとに責任をもつ公(おおやけ)の子」として育ってきた思い出などが、印象深く記されています。
そのような公民館の初期体験が、さらに教師となり校長として公民館にかかわる体験のなかで、豊かに発展されることになるのでしょう。
「公民館は、地域の多くの人が集まり、その潜在的教育力は魅力であり、文化の集まりです。また文化は、高齢者から子どもに伝達継承されていくとすると、公民館のもつ教育力は、学校にとっても大きな社会資源です。」「公民館と学校との関係が密になればなるほど学校は、活気を帯び、学校は社会力をつけ地域の学校として育つことと思います。」(はじめに)。
地域の教育力の視点から、学校にとっての公民館の役割が注目されています。私たちの『公民館史資料集成』や、他の公民館文献もよく読んでおられて、著者冥利につきるものがありました。ちなみに、南英毅氏は、ご存知の方も多い小野隆雄さん(北九州市、風1665号本欄に紹介)の義弟にあたり、手紙によれば「…義兄の後ろ姿を見てきました」と。
遅れていた次回(120回)研究会の案内が届きましたので連日の風送信となりました。ご了承下さい。
1680号
【2006年7月13日】
★<韓国本の刊行近し!>
川崎と東京では、この3ヶ月、『韓国の社会教育・生涯学習』の最終編集作業が続きました。編者の伊藤長和さんと小林ぶ、編集委員のうちとくに小田切督剛、金侖貞のお二人、それにエイデル研究所からは担当として山添路子さん。本づくりに向けてのチームワークと集中度、ミニ編集会議による毎回の前祝いなど、いつまでも思い出に残る作業となりました。山添メールにあるように、11日にすべれの原稿を無事入稿できました。本への夢がまさに現実となる見通し、嬉しい限りです。まだ作業は続きますが、皆様、ご苦労さまでした。
この間ご心配をかけた韓国側の編集委員、とくに魯在化さん、大活躍だった李正連さん、それに肥後耕生さん、早くから原稿を寄せてくださった皆様、有り難うございました。刊行は9月の日本社会教育学会をめざしています。
この本の企画が始まったのは2002年の暮れ。それからすでに4年近くが経過しています。思いのほかの難航でした。しかし、このテーマでの本づくりは日本初の挑戦、海を越えての編集作業、当然すぎる歳月ともいえましょう。編者の黄宗建先生、そして(当初はアメリカ在住だった)魯在化さんも、編集会議のため来日(2003〜04年)していただきました。私たち日本側も2回ほど韓国に渡って編集会議。その間に、川崎で開かれた編集会議(ミニ会議を含めて)は数えきれません。執筆者は、日韓双方あわせて30名をこえます。
7月26日(水)午後は拡大編集会議(川崎市高津区市民館、風1678号・小田切メール)。編集委員だけでなく、執筆者を含めて、できるだけ賑やかに集まって校正作業をすすめたいと考えています。執筆者以外の方も、もし関心をおもちの方は、ぜひご参加ください。
追記:金侖貞さん、「東アジア社会教育研究」第11号に向けての原稿を拝受いたしました。ありがとうございました。
1679号
【2006年7月12日】
★<南の風へのメール>
南の風は、南だけでなく、いろんな方角から楽しいメールが舞い込みます。有り難うございます。まずは南からの島袋正敏さん(名護)のメールに関連して。
モンゴル行きについて正敏さんはご無理とのこと。「山原島酒之会」−南の海原に生きる男たち−と、モンゴルの草原で、純度の高いモンゴル酒を飲みあいたいというのが夢。そのうちに一度ぜひ実現しましょう。名護の海で泳いだボヤンバートルさんが待っています。(なお関西の若者が一人、モンゴル行き参加希望と渡部幹雄さんから連絡あり。)
ところで、岸本力さんは、社会教育研究全国集会(名護集会、02年)の事務局を担った若者です。大会が成功裡に終了したとき、涙をながしていた姿をおぼえています。その後、サンシンの道に精進。名護を訪問し、皆さんと飲む機会があれば、いつもサンシンを抱えて、楽しい座をつくってくれました。会うたびに腕が冴え、声が響いて、師匠の域に到達しつつあることを実感してきましたが、いよいよ民謡研究所のオープンとのこと、おめでとう!さらなる精進と発展を祈ります。まずは「南の風」の皆さんにお知らせと岸本力くんにお祝いの一文。
韓国出身の姜乃榮さん「日本の祭り」取材についてのメール。
京都や大阪の祭も特色がありますが、この種の祭でもっともダイナミック、圧巻!と(ぶんじんが)思うのは、なんといっても博多(福岡)の祇園山笠です。福岡は私の故郷。しかし残念ながら、7月15日未明の勇壮「追い山」で日程は終わり。
大規模ではありませんが、日本の祭りの原型は集落(ムラ)の小さな祭りでしょう。とくに典型的なのは、沖縄やんばるのムラ祭り。旧暦8月の満月前後には、いろんなムラ・マチから笛や太鼓が聞こえてきます。いま新暦7月、「今月23日から一週間」という時期に、沖縄ではどんな祭りがあるのか、情報不足ですが、まずはお知らせまで。ただし、沖縄への取材では、旅費の負担がかかりますね。
どなたか姜乃榮さんへメールを返していただけませんか?
1678号
【2006年7月10日】
★<韓国・社会教育法 >
TOAFAEC のホームページには、折々に「東アジア」の社会教育・生涯学習に関する法制資料等を掲載してきました。しかし、韓国「社会教育法」は未入力のままでした。今回『韓国の社会教育・生涯学習』本(エイデル研究所・近刊)編集の過程で、川崎の小田切督剛さんの作業によりデジタル入力された法全文(日本語訳)を頂いて、ようやくアップできました。ご覧下さい。(HP表紙・左側「韓国」から入って下さい。小田切さん、有り難う。)
韓国・社会教育法は、1950年代(朝鮮戦争のなか)草案づくりが始まり、約30年間の助走を経て、1982年末に成立しました。当時の社会教育ゼミ(東京学芸大学)で、これをいち早く取りあげ、日本・社会教育法との異同などを論議したことがあります。最初の日本語訳は、魯在化さん(当時・院生、現在・聖潔大学校教授、韓国本編集委員の一人)。社会教育法施行令を含めてレポート用紙11枚、鉛筆手書きの労作です。末尾に「なるべく韓国語に忠実に訳したので表現がかたいと思う」のメモが付されています。この魯在化訳は、ぶんじんの韓国関係資料ファイルのなかに大事に保存されてきました。
今回これに加えて、社会教育法最終改正(1997.12.13)の日本語訳として収録できたのです。訳者はあえて「魯在化・小田切督剛共訳」とさせていただきました。
ご承知のように韓国の社会教育法は、1999年に成立した「平生教育法」(平生=生涯)へ全面的に移行することとなりました。法としては17年の命脈。日本社会教育法を研究してきたものとして、同じ名称の法の歩みについては大きな関心をもってきたのです。
1677号
【2006年7月8日】
★<七夕の夜は前祝い>
8月のモンゴル行きについて、ボヤンバートルさん(内蒙古師範大学)から三つのルート提案がありましたが、追いかけて、次のような「草原旅行路線提案」が来ました。
「こんにちは。依頼した旅行社から正式な路線案が来ました。路線は三つありますが、皆さんが検討して選んでください。私の方からは、第二案を推薦したいです。
なお、中国語で送りますが、システムが受け取れないかも知れませんので、念のためファックスで送信します。」(Thu,
6 Jul 2006 12:35)
ぶんじんのパソコンでは、案の定の文字化け。直接に電話もいただき、FAXも来信の模様でしたが、なぜかうまくいかず、通信文は姿を現しませんでした。細かなことが分かりませんので、ボヤンバートルさん推奨の「第2案」でOK!できれば牧民のゲルを訪問したいもの。すべてお任せします。(別にトクタホさんに届いている「路線提案」を日本語訳にして「風」に送って下さい。)
参加者については、これまでにモンゴル草原への関心を示された方々にあらためての「お誘い」を出しました。文中には、「…トクタホさん<首都大院>が同行し、先方の受け入れについては、ボヤンバートルさんが(おそらく)絶品のモンゴル酒で迎えてくれますから、おすすめの旅となること請け合い。沖縄の山原島酒之会としても、世界一?のモンゴル酒と出会う機会でもあり、ぜひ、どなたか代表派遣?などご検討いただくに値する企画かと自負しています」(Mon,
03 Jul 2006 01:12)などとお誘い(挑発?)していますが、まだ返報ありません。
森田はるみさんは断念、石川敬史さんからは最後の調整中、との返事。風メンバーの他の方で関心をおもちの向きはどうぞご連絡下さい。せっかくの機会、受け入れ・歓迎の方向です。ご遠慮なく。
昨日(7日)は七夕。この間、川崎の皆さん(伊藤長和、小田切督剛、金侖貞さんなど)と取り組んできた韓国本編集の最終日でした。4年近くにわたる大きな作業を終えて入稿、エイデルの山添路子さんにすべてを託して前祝い(といっても編集会議では毎回前祝いをやってきましたが・・)。
永福の恒例「七夕の会」は7月16日(日)午後の予定です。
1676号
【2006年7月6日】
★<映画「バルトの楽園」>
3日前の朝日のコラム「窓」が、「第9とお遍路さん」と題して、映画「バルトの楽園」を取りあげていました。出目昌伸監督、会津出身の俘虜収容所長には松平健、ドイツ側の青島総督にはブルーノ・ガンツ(「ヒトラー〜最後の12日間」でヒトラー役を見事に演じた)を配した音楽感動大作。朝日「窓」の一文をすこし引用させていただきましょう。
「渦潮で有名な徳島県鳴門市は、1918年、日本で最初にベートーベンの第9が演奏された土地として知られる。
公開中の映画・バルトの楽園では、ドイツ人捕虜たちが、鳴門の板東にあった捕虜収容所で第4楽章を歌い上げるシーンがクライマックスだ。
第1次世界大戦で日本はドイツと戦った。中国での戦闘で捕虜となったドイツ人約千人がここへ連れてこられた。敗者をいたわる会津出身の所長と、地元の温かいもてなしが異境に暮らす捕虜たちの心を解きほぐした。一方、ドイツ人はパンづくりや印刷技術など西欧の文化や技術を伝えた。今でも近くに彼らが造った石橋が残っている。
映画では、捕虜が感謝をこめて「フロインデ(友よ)」と歌う。敵、味方の関係を超え、第9がまぎれもなく平和を喜び、希求する曲だと胸に迫ってくる。…
」(7月3日夕刊、「窓」編集委員室から)
青島(ちんたぉ)の攻防戦に敗れたドイツ兵たちは、まず九州・久留米(師団)におかれた収容所に送り込まれます。ドイツ軍の捕虜は当時約4千人、全国各地12ヶ所に収容所があったらしい。わが故郷・久留米では、日本陸軍の過酷な管理、劣悪な環境、非人道的な囚人扱いが画かれています。演ずる収容所長は板東英二。そして移動した四国の板東収容所は、対照的に「楽園」(がくえん)だったのです。久留米出身の少年としては、この点だけがいささか残念な映画でした。
1675号
【2006年7月4日】
★<創造力が求められる>
韓国出身の姜乃榮(カンネヨン)さんから履歴・活動歴と自己紹介文を送っていただきました。掲載が遅れたこと、また詳細な履歴・活動歴を収録できないこと、申しわけありません。姜さんは先週金曜日の研究会にも出席。「南の風」へのご参加、歓迎!です。
姜さんとは2年前の社会教育研究全国集会・福島大会で初めて会いました。当時はまだ日本語が充分でなく、しかし分科会で大胆に発言した姿を思い出します。そして先日の韓国大使講演会(6月15日、川崎)で再会。あらためての出会い、これからもどうぞよろしく。
長文の自己紹介を拝見して、現代韓国の躍動する市民運動と、そのなかで育ってきた若者の、ひとつの典型的な歩みを実感しました。東京にもこんな若者がどこかにいるのでしょうが、いまの韓国青年の意欲的な眼差しがとりわけ印象的。自ら「活動家」たらんと志す生き方、「活動家というのは、どのような職業よりも創造力が求められる仕事だと思います」という言葉に打たれるものがあります。これからの研究と活動に期待するところ大。いちど私たちの研究会でも、姜乃榮さんのレポートを聞きたいものだと話しあっています。
昨夜(3日)は、伊藤長和さんと笹川孝一さん(法政大学キャリアデザイン学部長)を市ヶ谷に訪ねて、大学25階のレストランで夜遅くまで飲みました。10年あまり前の日韓社会教育セミナーのことなど、3人で久しぶりの歓談。いろいろ書きたいことがありますが、本号も長くなりましたので、このあたりで。
1674号
【2006年7月2日】
★<楽しいお酒をのんで・・・モンゴル行きの相談>
8月下旬のモンゴルへの旅計画(8月26日午前・出発〜8月31日夜・帰国−5泊6日確定)について、一昨日(30日)のTOAFAEC
定例研究会で相談しました。
いまのところ、参加者は8〜9名、みな中国へ行ったことがある(今回は学生はいない)ようですから、北京の1泊観光は必要なく、そのままフフホトへ飛ぶことになりました。内モンゴルでのスケジュールがそれだけゆとりをもつことになります。また日程的に1日遅れて参加、1日早めに帰国したい、などのオプションも可能。韓国から参加予定の魯在化さんは、現地で合流ということになります。
参加者による個別の希望(モンゴル族学校を見学したい、牧民のゲルを訪問できないか・・・)についても、できるだけ尊重して、スケジュールのなかで具体化することになりました。フフホトのボヤンバートルさんとも相談して、日程の最終案やフライトを確定していきましょう。
当夜は、石川敬史さん(モンゴル・ツアー事務局長候補)の姿がなく、あるいは事情が変わったのか、ぶんじんから確認することになりました。また「風」などで、8月のモンゴル行きに関心を寄せられた方には、あと一度お誘いしてみることにしました。人数的には15名前後になった方が経費安上がりという事情もありますから。もし新しく参加希望をおもちの方は、問い合わせを含めて、ぶんじんまでご一報ください。
研究会終了後、モンゴル行き主要メンバーで、前祝いの楽しいお酒を飲みました。すこし飲み過ぎ。翌日(7月1日)は、日本公民館学会主催「公民館創設60年記念・講演と交流のつどい」、この夜もやや飲み過ぎ。このところ連日お酒がつづいて少々疲れていますが、楽しいお酒からは逃げられません。両夜の写真をHPに載せました。
▼6月30日研究会、報告者(左)トクタホ・首都大学東京院、(右)小軍(東大院)
1673号
【2006年6月29日】
★<安井家資料との出会い−研究会「ちらし」原稿より>
安井家資料との衝撃的な出会いは25年ほど前でした。安井郁先生は亡くなられていましたが、安井田鶴子さんが、亡夫の原水爆禁止運動や「杉の子会」等の原資料をしっかりと継承され、そこから「歴史の大河は流れ続ける」(1984年)などの記録も編集されました。それから四半世紀、安井家はこれら第一級の貴重資料を大事に保存されてきたのです。
社会的な共有財産として:
日本だけでなく国際的に拡がった原水爆反対の平和運動は、地域から胎動しました。杉並では母親たちの小さな読書会から始まり、旧杉並公民館が運動の拠点。その記録・資料が安井家の書庫に保存されてきました。これらは歴史と時代が生み出した社会的な共有財産です。世代と立場をこえて、その保存運動が市民運動として取り組まれ、整理・分析の共同作業が始まっています。
世代から世代へ語り継ごう!
歴史的な資料を復元するというのは、古い作業のように見えて、実は歴史を創造していく新しい運動だと思います。貴重な宝の山を、現代に甦らせ、とくに子どもや若者たち、若い世代に伝えていきたい。当時の人々が織りなした活動と資料を再発見し、いまの時代に語り継いでいきたい。保存されている豊富な写真なども活用して、たとえば「地域から平和を!」の躍動的な映像などを制作できないだろうかと夢見ています。
1672号
【2006年6月28日】
★<「メール・マナビン」500号・おめでとう!>
「南の風」でときどきご紹介してきた横浜市磯子区の「“学ばんとほっす”人たちのためのメールマガジン」が、この25日で500号を迎えました。お祝いを申しあげます。発信者はご存知・伊東秀明さん(横浜市教育委員会社会教育主事・磯子区役所勤務)。
私の手元には、2003年2月2日発行の「メール・マナビン」11号からのファイルが保存されています。11号は「むかし磯子に戦争があった」(磯子地域自治研集会)の集会報告。創刊はおそらく2003年初頭か。とすれば3年半に500号、2〜3日おきの発信、まことに(お互い)ご苦労さまです。
顔も名前も分からない匿名性の大都市状況のなかで、パソコン1台を活用して、独自の出会いとネットワークがつくられてきました。リースマンの言葉をかりて言えば、“孤独な群衆”の真っ只中で、対話と交流の場をつくり、地域の“隣人”づくりのネットが動いてきたわけです。
固有の施設空間としてはほぼゼロの状態、それだけに逆に、人々の交流接点を創ろうという思いが伝わってきます。横浜は「公民館」が設置されなかった大都市です。しかし「メール・マナビン」を通して、人々の関係性のなかには、ある種の温かい市民相互の交流空間が拡がってきた感じ。その意味では、目に見えない公民館の機能が独自に動いてきたといえるかも知れません。
いま、何人に配信されていますか? このネットに参加しているメンバーは、磯子と磯子以外に分ければ、どんな比率になりますか?
まったくプライベイトな立場からの、しかし志向するのは、開かれた交流空間への挑戦。いまどんなことが課題ですか? 地域交流拠点づくりのイメージは? そのうち(あまり暇もないでしょうが)「風」に一文を寄せていただけませんか?
1671号
【2006年6月26日】
★<6月の原水禁運動(安井家)資料研究会>
6月25日(日)の研究会は、同じ杉並にお住まいの吉田嘉清さんをお招きして、貴重なお話を聞きました。吉田さんは、1950年・反レッドパージ闘争を早大全学委員長として闘い、1954年以降は原水爆禁止運動に参加。1955年の日本原水協結成とともに事務局常任、1964年に同事務局長、1975年には副理事長、1983年代表幹事などを歴任、現在もお元気に「平和事務所」代表をされています。
さきほど届いた竹峰誠一郎さん(早稲田大学・院)のメール。
「…本日は80歳を迎えた吉田嘉清さんの泉のようにあふれ出すお話に感嘆させられること多々あり。縦横実に3〜4時間語っていただきました。まだまだ話したりないような印象。フルネイムで次々登場するお名前の数々、記憶力も抜群。人名辞典が欲しかった。途中から安井郁さん田鶴子さんの長女である渡辺侑子さんと夫の渡辺雅司さんも合流。実に豪華な学習会でした。この要約については、丸浜江里子さんから出される予定です。安井節子さんにはいろいろとお気遣いいただきました。 …(以下略)…」(Mon,
26 Jun 2006 00:42)
次いで丸浜さんからのメール。「今日のお話し会、本当に充実していました。吉田嘉清さん、渡辺(安井)侑子さんから次々とすごいお話が出て、本当に驚きでした。…(略)…
みなさま、お疲れ様でした。」(Mon, 26 Jun 2006 01:29)
研究会には久しぶりに本田雅和さん(朝日)も来会。故安井夫妻の遺影がみつめる部屋での吉田さんの証言はひときわ印象的なものがありました。多くの曲折をのりこえて、一筋に平和の道を歩んでこられた人生、このように元気に歩き続けたいと思いました。ちなみに吉田嘉清さんの本「わが戦後行動−いま原水爆禁止は」(新興出版社、1981年)、「原水協で何がおこったか」(日中出版、1984年)など。
▼後列・左端−吉田嘉清さん(撮影・丸浜江里子さん)
1670号
【2006年6月24日】
★<ドイツからの通信>
石倉さんの旅先からの2006「ドイツ通信」が届きました。おそらく時差ぼけ、昼間の活動、そのなかの夜のホテルで記録づくり、なかなかエネルギーを要する作業のはず。ご苦労さま!
「南の風」は、これまで案外と海外からの通信を掲載することが出来ました。長期シリーズとしては、英国「レディング通信」(2000〜01年、岩本陽児さん)、「パリ通信」(2000年、末本誠さん)、「ベルリンの風」(2003年、谷和明さん)など。短いものでは上海(ぶんじん)や台湾(内田純一さん)その他。
とくにドイツからの通信は、2000年以降、ほぼ毎年の「風」の定番となった感じです。関係の皆様、有り難うございます。ぶんじんも「ドイツ短信」(2000年7〜8月)を20号ほど頑張って送信した経験あり。当時はすべて電話回線を利用してのメール、ホテル(交換)によっては通じないことも多く、たいへんでした。チェックインして、まず最初の仕事はパソコンを電話につなぐ、それからしばし格闘することが多かったのです。それだけに、メール送受信が出来たときの喜びは格別。
とくに古い格式あるホテルほど簡単ではありません。谷和明さんと一緒に泊まったポツダム会談の宮殿(ツェツィーリエンホーフ、2000年8月)でも一苦労して、やっとの思いで「風」を日本に送った記憶があります。あらためて石倉「ドイツ通信」に感謝します。次号も楽しみ。
1669号
【2006年6月23日】
★<第11号に向けて>
6月20日の福岡、楽しい1日となりました。太宰府の九州国立博物館ではいま特別企画『うるま・ちゅら島・琉球』(美のシリーズ第三弾)が評判。来館者は引きも切らず。3月の中国展に引き続く“美しい琉球”展です。永田香織さんのご案内で、二つとも観ることができました。有り難うございました。
沖縄の厳しい戦争をくぐった“美”だけに、ことさら印象的でした。もっとも展示のなかでは、厳しい歴史にはほとんど触れるところがありませんでしたが・・・。
久しぶりに門田見昌明さんをお誘いし、また副館長・光安常喜氏(元福岡県教育長)とも会って懐かしいひととき。お互い年齢相応の風貌となりましたが、気分はともに若い。
同夜は、九大院・OGの皆さんが集まる席に押しかけて、短い時間でしたが、山城千秋さんの「沖縄の公民館」レポートをめぐって論議。私たちの「東アジア社会教育研究」第11号に向けて、報告をどうまとめるか、の話し合いでした。いい内容に結実することを期待しつつ。すこし酔って、遊び心で何人かの方に突然の電話。たいへん失礼しました。
当日の光安常喜さんや、福岡「若き群像」の写真を、HP「6月スケジュール」サイトに載せました。ご覧下さい。21日深夜便で東京へ。
ところで、第11号については、その後の編集作業はうまく進展しているでしょうか。執筆予定者の皆さんへ、その一覧や、山城千秋さんのお尋ねもあるように、執筆枚数、締切り期日等について、あらためて正式依頼(確認・催促を含めて)を出しては如何でしょうか。
▼福岡・若き群像(20060620)
1668号
【2006年6月21日】
★<アユの話>
アユの香りはなぜか戦時中の思い出。1944年の空襲警報下に負傷した少年Bは、大腿骨骨折のため約2ヶ月の入院を強いられました。当時の陸軍幼年学校の受験が出来ず、失意の毎日。結果的にはこれが幸いして、普通の学業生活に戻ることになるのですが・・・。入院中に、数日おきに筑後川のアユを見舞いにもってきていただいた方あり。懐かしいアユの香りをかぐと、その温容と少年の屈折の日を思い出すのです。
ところで、前号本欄で、筑後川の上流・日田の寿司屋でアユを賞味した話を書いたその日、朝日新聞・夕刊が、夢枕獏のアユ釣りのエッセイ(「一日百尾の夢破れ」)を載せていました。
まず沖縄のアユのこと。曰く、「…沖縄にはかって…リュウキュウアユがいた。しかし、昭和53年ごろに絶滅し、今は奄美大島にしか生息していない…」と。これはおかしい。「リュウキュウアユを呼び戻す運動」に取り組んだ島福善弘さん(シーカヤック同好会)から、ぜひ反論を寄せていただきたいところ。
そして韓国のアユの話。「…我々の行った川は、鮎は地元の人の食生活に入り込んでいて、その小さな村に行けば、ほとんどの食堂で、鮎を食べさせてくれる。ワタをとって、基本的には生で食べる。…店の水槽に鮎がたくさん泳いでいるので、釣りをするときは、それを買って、オトリとして使うのある。」
これはいい話。日田では天然アユを出してくれる店を探すのに一苦労でした。こんど韓国行きの折には、アユを食べよう。
1667号
【2006年6月19日】
★<筑豊社会教育の群像、そして大山へ>
かねて懸案のエクスカーション。若い頃、九州の山野をかけめぐっていた時代に出会った人たちが、倒れたり、あるいは老境を迎える年代になって、数人の旧友を訪ねる約束がありました。なかなか実行に移せず、ようやく日程をつくって、17日に福岡・油山へ移動。
久しぶりなので、まず集まって飲む仕事から始まります。農中茂徳・至の二人や白井・樋口夫妻など。話がはずんで、寝たのは午前4時。翌18日、農中君の車に乗せてもらって、まず筑豊へ。
炭坑閉山の厳しい時代に旧穂波町(現飯塚市)を拠点に数年のフィールド・ワークをした時期がありました。当時は(社会教育ではなく)社会学・助教授。案外とまともな社会学的なモノグラフをまとめています。「産炭地における社会教育基本研究−穂波町調査報告」羽江忠彦と共同執筆−福岡県公民館連合会「公民館福岡」52号〜54号(1971年)。故川崎隆夫(福岡県教委)を中心に動いていた福岡県社会教育研究会の歴史とも重なって、ボタ山が威容?を誇っていた頃の懐かしい顔ぶれ−筑豊社会教育の群像たちと会いました。旧碓井町の松岡俊雄・元町長や新飯塚市の森本精造・教育長など。日曜日なのに教育長室で時を忘れて懐旧談。
そして田川へ。旧友「林いえだい」に会うためです。連絡が悪かったのか、不在。まことに残念!
その後、車は英彦山から日田に出て、山をのぼって大山へ。これも昔の話。大学院から助手時代に、大分県上津江ー日田にいたる川沿いの調査を手がけたことがあります。社会学・教育社会学の共同調査。そのとき出会った旧大山町(現日田市)の青年団リーダー・矢野征二朗が昨年末、亡くなりました。
彼は(「村に残った僕らの抱負」<明治図書>に一文あり)、大分の一村一品運動の先駆け−大山の梅栗運動を推進、のち町議、町長選に立候補し60票差で惜敗、その後に体の不調が続き、昨年末惜しまれながら亡くなりました。今年の年賀状の返報で訃報を知り、一度参上します、と約束していたのです。遺影と対面。お線香をあげて冥福を祈りました。お土産に彼が育てた梅をたくさん。
帰路、「鮎の季節だ!」というわけで、日田のまち(筑後川の上流)でアユを食わしてくれる寿司屋を探し出し、鮎うるか、鮎すし、鮎の塩焼きなどアユづくし。これは美味しかった!
1666号
【2006年6月16日】
★<川崎・6月15日の夜>
すこし遅れて会場に入りましたので、羅鐘一・韓国大使のお話は最初の部分を聞き逃しました。湧き出る信念を抑えるような静かな語り口、政治的な論点からではなく、しかし国を背負っての責任ある立場からの講演。内容も深く、たいへん印象的でした。
懇親会で川崎の旧知の方々にお会いしましたが、韓国からの若い留学生も少なくなく、なかには「2年前の福島・全国集会でお会いしました」と声をかけてくれる姜乃榮さん(首都大学校東京 都市科学研究科M2)など。岩本陽児さんのゼミ(和光大学)の学生たちにも会い、一緒に乾杯しました。和光の学生とは久しぶり。
岩本さんは、会場で羅大使に大きな声で質問をしました。元気そうでなにより。思わず後ろの席から駆け寄って・・・スナップ1枚。しかしややピントが甘く残念な出来映えですが、記念にホームページ(6月スケジュール)にアップしておきました。手打明敏さんや山添路子さん(夫妻)の顔も。
当日は、川崎と韓国・富川(プチョン)友好都市締結10周年の記念講演会。集まった方々の顔ぶれを見ながら、やはり10年の蓄積を実感しました。これまで在日コリアンの闘いあり、「ふれあい館」の活動あり、教祖や市職組など労働組合の参加あり、もちろん友好都市事業を推進してきた市行政当局の役割も大きく、今回はとくに美術家の顔も加わって、それらが重なりあいながらの10年の歳月。
川崎というまちは、このようにして創られていくのですね。
1665号
【2006年6月15日】
★<林克馬「公民館の話」など>
北九州の小野隆雄さんから、戦後初期の公民館資料2冊を送っていただきました。小野さんは九州・筑後(旧水縄村)出身−筑後は私にとっても故郷。一筋に旧八幡市の都市型公民館を創りあげた一人。しかし北九州五市合併後は厳しい歩み。ついに公民館制度が解体していく過程では、その波に抗して闘士の風格! 最近まで「八幡公民館史研究会」を主宰し、貴重な歴史を復元する努力をされてきました。添えられた手紙の一節を(小野さんもきっとご了解いただけると思い)ご紹介します。
「…今は、公民館も東高西低のようで、かって公民館雄県であった福岡県・北九州も話題は少なく、往昔の面影もない感じです。現場では諦めきれない残党員が歯を食いしばっているのが痛ましい思いです。私の老いの感傷かも知れません。
さて、笈底から、公民館の化石本が出てきました。このまま蔵に埋もれさせるのに忍びませんので、どなたかに目を通していただき、陽の目を見せて・・・」「本書の適当な受け入れ先がありましたら、然るべくお取り計らい頂ければ幸甚に存じます。」
いずれも故人・林克馬氏の著になる「公民館の話」(公民叢書第1集、日本文化出版社、1950年)、同「農村建設の譜」1951年、です。林克馬さんは全公連初代副会長、水縄村「生産公民館」時代の主事、小野さんにとっては老師にあたる人。
1950年、小金井の浴恩館で開かれた第1回全国公民館職員講習会(全公連結成の機運をつくった集い、林さんは議長をつとめた)の記念写真の最前列に、鈴木健次郎(文部省・当時)や岡本正平(全日本社会教育連合会・当時)等の“歴史上の人物”と並んで、林さんはもちろん、小野さんも写っておられます。書きたいことはいろいろ・・・。
さて、小野さんからのお申し出、どう進めましょうか。私の書庫にもこれまで集めてきた戦後資料が少々あり。関心ある面々で、こういう機会に少し検討してみてはどうか、と思いました。
1664号
【2006年6月13日】
★<風は吹き去り、サイトは残る>
ホームページの編集、技術的には拙劣ながら、案外と楽しんでいます。仕事が進まないときなど、HP編集で遊んで疲れを癒すことも。多忙だとかえって新しいサイトが登場する、という妙なリズム。ときに古い写真を探し出して「南の風」記事と合体させると、拙い文章もよく見えてくるから、面白いものです。
山口真理子さんから送信していただいた「2006・TOAFAEC 総会記録」をいまホームページに入れました。またTOAFAEC「規約」「役員構成」の項も、総会の記録に基づき、該当箇所を修正しました。HP表紙の左側トップ<諸記録>「TOAFAEC」そして「総会」欄をご確認下さい。
「風」は吹き去って姿を消していく、しかしHPに入れると記録として残る。総会記録も当日の写真を2枚ほど加えて、なかなかいい感じです。記念(ぶんじん・代表退任の総会)の写真は、みな笑顔。カメラマンは江頭晃子さん。この人が撮ると、なぜか愉快そうな気分になるから不思議です。逆にその楽しい画像には江頭さんの笑顔が登場しないという矛盾あり、「撮影・江頭晃子」のキャプションをつけることになります。
TOAFAEC 関係の更新だけでなく、最近の新しいサイトを三つ。すでに風でご紹介した文章もありますが、古いファイルから抜き出した“再発見”の記事・写真もあり、暇つぶしにご覧いただければ幸い。
1,黄宗建「自分史を語る」(1999年〜2000年、ソウルで収録)
2,公民館「施設空間論」1〜8(4〜6月、風・日誌欄からの再録)
3,「韓国の社会教育・生涯学習」編集記録(2003〜2006年)−工事中
総会報告のため、長い「風」になりました。本欄はこの辺で。
1663号
【2006年6月11日】
★<障害者にとっての公民館−施設空間論(8)>
国分寺市について佐藤進さん、国立市について徳永功さんから、公民館づくりについての貴重な証言(風1657号、1659号)を寄せていただき、有り難うございました。懐かしく当時のことを想いおこしました。実際の経過はそれぞれ違いますが、共通して幾つかのポイントがあるように思いました。
公民館の施設空間の新しいあり方について、市民たちが自ら発言しはじめ、運動的に取り組んできた努力が基本にある(そういう時代の潮流があった)ことは疑いないことですが、内容だけでなく、それを公的な施設計画・自治体施策に現実化していく過程に注目させられます。論議は原則論にとどまることができない、常に(立地、規模、機能に即して)具体的でなければならないこと。議論の場として市民参画の施設「建設検討委員会」や「改築委員会」等の設置(仕掛け?)が重要であったこと。その背景には社会教育委員会議・公民館運営審議会等の役割も無視できないこと。それらの流れのなかで、市民・委員会・行政当局をつなぐ職員の固有の役割があったのではないか、などなど。
この時期、戦後公民館のいわば定型的な施設空間論から脱皮して、成長する市民の要求をうけながら、市民交流ロビー、保育室、団体活動室、青年たまり場などの新しい施設空間論が具体化されていきました。とくに象徴的な動きは、障害者にとっての公民館の追求、その具体的な施設設備のあり方への果敢な実践的な取り組み。国立公民館の青年室や「わいがや喫茶」、国分寺市本多公民館の「喫茶ほんだ」などがその典型でしょう。1980年代には三多摩各地の公民館に拡がっていきました。
注目すべき事例は町田市公民館。駅前ビルへの移転が求められ、1998年夏、「移転建設検討委員会」が設置されました。ぶんじんもその委員の一人(出席率わるし)。委員会では障害者にとっての公民館づくりがさかんに論議されました。その土台にはもちろん障害者青年学級の実践が。同委員会報告書「市民参画による新しい公民館」(1999年)は力作です。「喫茶コーナー」の項の一節。「…障害をもつ人たちによる喫茶コーナーは他の三多摩地域でも積極的に取り組まれており、町田市における障害者青年学級などの経験を踏まえ、単にコーヒーやお茶を飲むだけの場所ではなく、障害者等の公民館利用者と市民との交流の場・新たな出会いの場となることを願って、設置を検討しました。」
1662号
【2006年6月9日】
★<韓国・社会教育についての本づくり>
6日午後は川崎で、近刊『韓国の社会教育・生涯学習』編集−最終のツメの作業。3年越しに取り組んできた課題です、もちろん韓国・社会教育についての出版(日本語版)企画としては本邦初!
編者も執筆者(約30人)も編集事務局も、ともに日韓双方からの協力体制によるもの。この間に紆余曲折はありますが、海を越えて、こういう本づくりが実現できる時代になったこと、作業をすすめながら、感慨新たなものがあります。難しい出版構想をエイデル研究所に引き受けていただき、今年の夏には(なんとしても!)刊行しようと、頑張ってきました。まさに乞うご期待!というところ。
本づくりは、ときに厳しく、ときに楽しいもの。開いた編集会議は数知れず。当初は韓国からも来日して頂きましたし、こちらからソウルに渡って開いた会議も2回。本が出来上がったら、韓国で盛大なお祝いの会を催そう、などと楽しい話で盛り上がりました。
一衣帯水の隣の国でありながら、これまで研究的な交流も実践的な提携も、大きな潮流にはなってきませんでした。社会教育そして生涯(平生)学習の実際の展開は、当然のことながら、日韓双方で決して一様ではありません。
たとえば、自治体と教育行政の仕組みは異なり(韓国の基礎自治体に教育行政はない?)、図書館や「文化の家」などは教育行政の所管ではない。他方で住民自治センターや福祉施設などが地域で生涯学習の機能を活発に担い始めている。「平生学習」についての積極的な法制化・改正の動きがあり、市民の躍動的なエネルギーも注目される、などなど。この本では、そのあたりを理解する「資料編」を充実しようと話し合っています。
たまたま先日の日本公民館学会「公民館・コミュニテイ施設ハンドブック」合評会(第3回)では、韓国がテーマとなり、幸いに川崎の小田切督剛さんが詳細な資料解題と分かりやすい「地域施設」一覧表などを作成されています。ぜひ
本「資料編」に活用したいもの。またTOAFAEC「東アジア社会教育研究」第11号編集にも、これをふらませて、掲載できないものかと思いました。特集テーマとも関連しますし、内田編集長から依頼していただけないでしょうか。
1661号
【2006年6月7日】
★<モンゴル問題の事前学習会>
内モンゴルからボヤンバートルさんがやってきて、和光大学研究生となったのがたしか1997年。それから文字通り苦節10年を耐えて、このほどはれてドクターの学位取得、まことにおめでとうございます。なぜかすぐに奥さんの顔が浮かんできた。さぞかしお喜びのことでしょう。
いま、ボヤンバートルの教え子・トクタホ(首都大学東京・院)が、8月26〜31日予定のモンゴル訪問を呼びかけています(風1654号)。めったにない機会、関心ある方々のご参加をお待ちしています。
大凡の人数を把握し、準備に入る必要もあり、6月15日までに一応のお申し込みを。迷っている方を含めてどうぞ。(トクタホ
→ tkabc1898@green.ocn.ne.jp、「南の風」宛でも可)
また今月のTOAFAEC 定例研究会(6月30日・金)では、モンゴル訪問の事前学習会を予定しています。草原・砂漠化、少数民族問題や民族学校・識字問題など、お互いの共通理解をすこし深めることができれば幸い。トクタホさんたちのご都合よろしいでしょうか。
ボヤンバートルさんからの依頼のこと。明治維新を含めた日本近代史の文献資料について、調布図書館の山口真理子さんなどにご紹介をお願いできないでしょうか。そのうち数冊を8月訪問の際に持参したいと思います。
話はがらりとかわって・・・、5月末の沖縄・シーカヤックの旅の写真をデジタル化してようやくホームページに載せました(表紙、5月スケジュール)。はるか前方に古宇利島をのぞむ海上、雨に打たれ潮をかぶりながらの数葉。水平線に向かって進むカヤックの舳先を見ていると、今でも体が波にゆられているような感じ。
1660号
【2006年6月5日】
★<「笠懸公民タイムス」終刊?>
日本社会教育学会六月集会(6月3〜4日)、今年の会場は筑波大学でした。いくつか印象的なこと。一つは、会場校・手打明敏さんのご挨拶。「…筑波大学(前身は東京教育大学)は、50年を超える学会の歴史の中で、大会・集会の会場校に名前を連ねていません。…大変気になっていたところです」(学会通信
178号)と。その意味で“学会の歴史に一歩を印す”(手打)集会だったのです。
私は1日だけの慌ただしい参加でしたが、自治体関係者の懐かしい顔が少なくありませんでした。激動渦巻く状況のなか、学会の理論研究に(きっと!)期待があったのでしょう。
まことに広大なキャンパス、しかし食事もままならず、早く脱出?したいとバスを待っていると、石原照盛さん(群馬県邑楽町)たちが通りかかって、期待通り、車に便乗させてもらいました。「つくば」駅前でビール・食事・久しぶりの歓談。
石川敏さんから「社会教育への思いは熱く」(桐生タイムス、2006年3月3日)のコピーを頂きました。半袖シャツの写真を大きく掲げた石川さんの記事(7段抜き)。話は期せずして、石川さんが情熱を燃やして頑張った笠懸町公民館の「公民タイムス」終刊のことに。
「笠懸公民タイムス」は、公民館が開館してすぐ、1949年1月に創刊、57年にわたって発行を続け、この3月で527号(最終号?)を数えました。行政から自立し、すべての編集作業を住民が担ってきた独自の公民館報=地域新聞でもあります。他に類のない歩み。たしか大部の縮刷版も3冊(もしかすると4冊?)刊行されている。
あの懐かしい公民館の一室、お茶の間のような雰囲気の畳の部屋、夕食を済ませた編集委員の皆さんが三々五々集まってきて「タイムス」誌面づくりの作業(編集会議)に同席させてもらったことがあります。賑やかでいい風景でした。他にも忘れられないことあり。ところがこの4月、合併「みどり市」誕生とともに廃刊?という信じられない話!
編集委員会による「笠懸公民タイムスの存続を願う」の訴えを大きく掲げた3月号。しかし、4月以降の予算は組まれていないそうです。
1659号
【2006年6月3日】
★<2006TOAFAEC 総会>
6月2日(金)夜、今年度のTOAFAEC 総会が開かれました。それほど形式張った組織ではありませんが、TOAFAEC
発足(1995年)以降すでに10年余を経過し、このあたりで、ぶんじんも「代表」を交代したいと申しあげて(昨年度総会)すでに1年。新しい体制が発足するかどうか、一つの画期となる総会でした。
前史「沖縄社会教育研究会」(1976年、東京学芸大学社会教育研究室)時代から数えると、今年はちょうど30年です。まだまだ元気だから続けるように、との有り難い声も聞こえましたが、もうすでに30年頑張ってきた勘定。ここは頑固に意志をまげず、あげくには「顧問になりたい」などという我が儘も通させてもらうことにしました。この間、「東アジア社会教育研究」編集のことも含めて、皆さんで検討していただき、ありがとうございました。
新代表は、末本誠さん(神戸大学)。副代表は、これまでの伊藤長和さん(川崎市)と並んで、新しく島袋正敏さん(名護市)、そして小林平造さん(鹿児島大学)、常任委員12名、事務局長(石倉祐志)、会計(山口真理子)等の皆さんはとくに大きな変更なし。これからの課題についてもいろいろ意見が出て、たいへん有意義な総会となりました。
TOAFAEC の新しい歩みに期待して、「南の風」の皆さんもどうぞご声援をお願いします。正式の総会記録は、追ってホームページにも掲載する予定。事務局長もいろいろたいへんですが、記録づくり、どうぞよろしくお願いします。
*沖縄・佐喜真美術館の佐喜真道夫さん(館長)からの連絡。NHK教育TV「こころの時代〜宗教・人生〜沖縄・佐喜真道夫“絵の力を糧として”」(放送6月4日午前5時〜、再放送6月11日午後2時〜)。これまで、反戦美術館として取りあげられることが多かったのですが、今回は「宗教・人生」の番組です。その視点から多くのことを語ります。ぜひご覧ください、とのこと。
▼撮影:江頭晃子(20060602)
1658号
【2006年6月1日】
★<沖縄青年運動を担った群像>
今回の沖縄滞在の後半は、沖縄青年運動史の証言収集のため中頭(浦添・旧コザ市)を歩きました。沖縄はあいにくの梅雨、とくに今日(5月31日)は、台風襲来かと思うほどの風雨。幸いに田場盛順さんの車で送ってもらい、助かりました。田場・中根ご両人の証言を聞き書き。
田場さんは沖縄の日本復帰(1972年)前後の沖縄県青年団協議会(沖青協)常任理事そして会長をつとめた人。地域(集落→村→郡)の活動をへて沖県協の運動を担い、職場(琉球大学)でも労働組合の役員、ほとんど休む日なしの連続。地域の青年活動にとどまらず、反基地闘争・
平和運動・復帰運動という大きな政治課題に挑戦した沖縄ならではの証言、あらためて記録化の重要性を痛感しました。
中根章さんは、1955年より沖青協の常任理事、日本青年団協議会(日青協)青研集会にも参加、1958年の原水爆禁止沖縄県協議会の結成に努力し、初代・理事長(当時26才)。平和行進や辺戸岬の焚火集会などの立て役者です。沖縄の原水協運動は世代的に青年たちが担ってきたのです。1960年の沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)にいたる激しい対米抗議行動や当局交渉に取り組み、日本の他地域の原水爆禁止運動には見られない展開。その後、中根さんは旧コザ市の市会議員、復帰時点からの沖縄県議会議員、のち副議長。いま74才、ラジオ番組をもち、比謝川を蘇生させる会を主宰し、実にお元気。
事務所には、日本原水協(初代)理事長・安井郁の揮毫「平和はかちとらなければならない」の色紙が飾られていました。辺戸岬ではじめて焚火集会を企画したときには「安井先生と無線で相談した」とのこと。
中頭地区を中心に、青年団運動を担った群像の証言収集を重ねていきたいとお話しておきました。山内徳信氏(もと読谷村長、沖縄県出納長など)もかっての青年団運動の活動家。しかし次期の沖縄県知事選の候補者の一人として名があがって、当分は忙しく無理のようですが、そのうちにぜひ!
那覇への帰路、田場さんと宜野湾市民図書館へ。この4月に玉那覇正幸さん(1973年・沖青協常任理事、おきなわ社会教育研究会事務局長)が館長に就任。あいにく不在で残念。お祝いメッセージを残しておきました。
▼中根章さん(左)、田場盛順さん(右)、沖縄市中の町・中根事務所にて(20060531)
1657号
【2006年5月31日】
★<やんばるの海>
名護市教育委員会(文化財)島福善弘さんからのシーカヤックのお誘い、天候やコースなど予定(期待)通りにはいきませんでしたが、おそらく生涯忘れない体験となりました。当日われわれを迎えて一緒に海に出ていただいたのは「名護シーカヤック同好会」の皆さん、島袋正敏さんを含めて6人の方々、まずはお礼のメールをここに再録して、あらためての感謝を申しあげます。
「…(略)… シーカヤック・海上の旅という豪勢な1日、生まれて初めての体験。ビールの席でも申しあげたように、いつまでも思い出に残る日となりました。有り難うございました。魚こそ釣れませんでしたが、雨もまた楽し。海からの古宇利島も屋我地島もことさらに美しく、あらためてやんばるの自然の豊かさを実感!
翌日も今朝も疲れなく、さわやか。肩が軽くなっています。小生も若くはないけれど、まだなんとか海に出れる、18Kを漕ぎ続ける体力ものこっているなど、自ら確かめることができて、なによりの喜びです。
いろいろのご配慮有り難うございました。皆様にどうぞよろしくお伝え下さい。ますますのご活躍を祈っています。」(Tue,
30 May 2006 08:45)
イジュ(伊集)の花はほとんど咲き終わって、ナングスク(名護城)の山中にちらほらという感じでしたが、月桃(さんにん)の花はまだあちこちに艶やかな色を残していました。
「やんばる」と言えば、まずは山野の自然の拡がり、その豊かさを思い浮かべますが、今回は雨にけぶる千変万化の海、その一端を知りました。釣りの用意もありましたが、ゴールにたどりつき、その後のビールの予定時間のこともあって、わずか20分程度の竿。しかも大物ねらいとあっては、いかに豊かなポイントでも、そう簡単にはいかない。次の機会に“また会いましょう”と、やんばるの魚たちがメッセージをおくっているようにも感じました。
▼梅雨空・驟雨の中の出発、岩礁の向こうにはるか古宇利島。このカヤックで18キロを漕いだ。(20060528)
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1656号
【2006年5月29日】
★<名護にて>
10日ほど前、中村誠司さん(名桜大学)から、宮城与徳生誕百年記念誌『君たちの時代』(同・記念する会刊、事務局・名護博物館)を一包み送っていただきました。有り難うございました(宮城与徳記念事業と本書のことは「風」1645号で紹介)。
早速、26日(金)の定例研究会でご披露し、やんばる出身の長老・ゲスト上原信夫さんに(中村誠司さんの名代として)謹呈、希望の方に実費(2,000円)でお頒けしました。まだ残部あり、ご一報下さい。
誠司さんからの連絡によれば、寄贈先名簿作成中とのこと。「本土の情報が少なくて困っています。図書館、美術館など社会教育機関には積極的に寄贈させていただきます。ここにはぜひ!というところがありましたら、ご紹介ください」と。ちなみに宮城与徳はもともと画家。本書には36点の作品がカラー版で収録されています。
大学の研究室や図書館、また自治体の(公民館を含めて)図書館・博物館・美術館等の諸施設等で、“ぜひ!”というところがあれば、下記事務局まで寄贈を申し込まれては如何でしょう。貴重本です。
「宮城与徳生誕百年を記念する会、事務局・〒905-0021 名護市東江1−8−11
名護市博物館、電話0980-53-1342 FAX 0980-53-1362」
さて、同じ名護からのメール。島福善弘さんの「海は呼んでいる、山ではイジュの花が迎える」の誘い(経過は「風」1651号に既報)。
「…略… 天気予報では28日当日、曇り時々雨となっています。今日(24日)のこちらの天気は、予報では曇りのち雨ですが、ほとんど晴れ上がっています。クバガサは準備しておきます。…略…
少々の雨は大丈夫ですが、「風」は気になります。でも、たぶん大丈夫でしょう。(祈) 3時ごろからサザエをつまみに一杯といきましょう。それでは、お待ちしています。」(Wed,
24 May 2006 17:37)
追っかけて、島袋正敏さんのメール。(Thu, 25 May 2006 18:35) 「天気は気になりますが決行しましょう。イジュやサンニンの花はやや峠を越えましたが、まだ楽しめます。文人先生をお迎えするためのリハーサルをと、23日(火)に島福さんと今帰仁の海でカヌーを漕ぎ(初体験)、釣りを楽しみました。…略… 何と言っても、一日海の上でゆっくり、というのが最高です。再会楽しみにしております。(瓶)」
ここまで編集して、5月27日夜、名護へ。毎晩の楽しい集いに「風」送信の時間がなく、4日ぶりの本号となってしまいました。
名護からのお誘いに、ぶんじん、手打明敏(筑波大学)、石倉祐志の3人が参加。28日当日はやはり小雨、しかし風は弱く、シーカヤック4艇、屋我地島1周に挑みました。東京から離れ、浮世を忘れ、やんばるの海に身を任せながら、外海から羽地内海も漕ぎきってゴール。合計18キロの海上の旅。そのあとのビールの美味しいこと。至福の1日を過ごしました。以下、次号へ。
1655号
【2006年5月25日】
★<市民が提起する公民館施設−施設空間論5>
この日誌欄に、数週間前から公民館「施設空間論」などという論文調のタイトルを掲げて、堅苦しいことを書き始めてしまいました。もともとは新刊『公民館・コミュニティ施設ハンドブック』(エイデル研究所)の合評会(4月26日)の感想をひとつ、というだけのつもりが、つい回を重ねています。いろんな思い出が頭をよぎって、次を書きたくなる、困ったものです。
合評会では、公民館の理念づくりや施設設計論への努力があったとしても、現実の公民館建設は、まったく当局(市役所施設部など)の枠組で決まってしまう、という悲観論が語られました。たしかに、そういう現実のなかで公民館が数多くつくられてきた歴史は否定しがたいものがあります。
しかし(自分史風に回想すれば)1970年代に大きな変化が現れたように思います。新しい市民の潮流とでも言いましょうか。それが(前掲)東京「新しい公民館像をめざして」の背景にあり、この文書がさらに新たな流れを生み出していく。構想の「はじめに」から終章「いま何をなすべきか」(1973年版)までを貫いている基調は「公民館は住民がみずからつくりあげていくべきものです」というメッセージでした。言葉だけではなく、各地に澎湃として湧きおこる“公民館づくり住民運動”の胎動がありました。
市民たちは自分たちの活動の拠点として、公民館の施設を求め、その「施設空間」各論についても具体的に発言し始めていました。たとえば公民館保育室や青年のたまり場論などはその典型。とくに国立、国分寺、あるいは東村山や町田などの公民館づくり、その施設要求運動を想いおこします。実際の動きのなかに身をおいた一人として、いつまでも記憶にのこる躍動的な一時代。そのような市民的な潮流から20〜30年が経過して、いま、どのような展開がみられるのでしょうか。
国分寺市・もとまち公民館から本多公民館へいたる施設づくり(1980年前後)の展開について、佐藤進さん(当時、国分寺市公民館勤務)に一文を寄せていただけないでしょうか。できれば国立の公民館改築時の熱気あふれる市民論議(1976年)に関しては、久しぶりに徳永功さんの回想をうかがいたいもの。勝手なお願いですが…。
1654号
【2006年5月23日】
★<内モンゴルの旅・企画案>
5月21日(日)は、原水禁運動(安井)資料研究会でした。安井家でホームページの立ち上げ作業(第一次)や今後のことなど話しあった席に、トクタホさんも来てくれました。終わって、荻窪駅前で飲みながら、夏のモンゴル行き企画案について、あれこれと相談。
おおまかなスケジュール案は、風1647号の本欄に書きましたが、8月下旬ではどうかという提案があり、その線でトクタホさんのメールのような第1案(8月26日〜8月31日)となりました。日程はあまり長くならないように5泊6日。内モンゴルだけでなく、はじめて中国へ行く人もいるだろう(2002年の内モンゴル訪問の際がそうだった)というわけで北京プログラムを1泊2日で組むことになりました。そのため、やや窮屈なプログラムに。
6泊7日だともっと楽な日程になるでしょうし、また8月下旬でなく、9月初旬の日程案もありうるかも。今だと変更可能ですから、関心をおもちの方は遠慮なく(早急に)修正意見をお寄せください。「風」にも紹介して、最終案を確定していきます。
フフホトのボヤンバートルさん(内モンゴル師範大学)は、かって和光大学に留学し、ぶんじんに同道して鹿児島から沖縄(名護)へ旅したこともあります。旧知の人も少なくない。その後、北京でドクター学位を取得し、かねがね日本の大学との研究交流を熱望している人。2002年9月に北京で会ってすでに4年が経過し、再会が楽しみです。われわれの日程に合わせて、内モンゴルのスケジュールや受け入れ体制を整えていただくとのこと。どうぞよろしくお願いします。
8月26〜27日の北京プログラムを組む場合、韓民さんのご都合は如何でしょうか。とくに26日夜の夕食会、27日の施設見学や交流についてご助力をお願いできるでしょうか。
公民館「施設空間論」の続きを載せる予定がのびのびになっていますが、まずは内モンゴル訪問の具体案をお届けします。ご了承を。
▼2002年・内モンゴル訪問−ヘシグテン草原、はるか向かうのゲルに泊った(20020907)
写真移動→内モンゴル交流の旅→■
1652号
【2006年5月21日】
★<山笑う−新潟・魚沼訪問その2>
今年の越後は降雪量が多く、山や沢にまだ雪が残っています。しかし花々が一斉に咲き、緑が芽吹いて、いわゆる“山笑う”季節。はるかに雪の白を背景に、緑や花の色が織りなし、実にあざやかな風景です。正岡子規に「故郷やどちらを見ても山笑う」という句がありますが、三日間の滞在でよく分かりました。
伊藤長和さんからもメール来信。「 … 銀山平に積もった大雪、田植えを待つ水を張った田んぼに映る残雪の越後三山、そして咲き誇るカタクリの群生、などが目に浮かんでいます。」(20
May 2006 22:35)と。とりわけ紫の花をつけたカタクリが見事! 拙作の写真をホームページに掲げました。ご覧いただければ幸い。
“山笑う”は春の季語(俳句)。ちなみに夏は“山滴り”、秋は“山粧う”、冬は“山眠る”と。これは星野修美さんの方が詳しく、思わぬ勉強をしました。“山眠る”冬でも、川は流れ続ける。奥只見湖にそそぐ清流のそばには「河は眠らない」(開高健)の碑。銀山平の残雪にまだ埋もれていました。
ところがこの季節、越後では杉もまた花粉をまき散らしていたようです。山菜を摘みに山に分け入って楽しんだまではよかったのですが、二日目の夜には激しい花粉症の発症に見舞われました。今年3度目の花粉症。愛用の錠剤も持参していませんし、まして「請福
Fancy」があろうはずはなくクシャミの連発。せっかくの越後の銘酒もあまり飲めず残念至極。同行の皆さんにはご迷惑をかけてしまいました。
帰宅して応急の処置、その夜に治まりましたが、我ながらあまりの過敏さに驚いています。“山笑う”は別のニュアンスに。
星野修美さん、森山丈順さん、ご家族の皆さま、お世話になりました。“山笑う”季節、もし次の機会があれば、こんどは花粉症対策をして参上するようにいたします。
▲カタクリの群生、背景の白は残雪(20060517)
1652号
【2006年5月20日】
★<新潟・魚沼の三日間>
5年前の夏、新潟県聖籠町で社会教育研究全国集会(第41回)が開かれたことはご承知の通り。三日間のスケジュールが終わって、車で移動、魚野川のほとり、その名も同じ「魚野川」というソバ屋で盛大な懇親会、引き続き「おきなわ本」編集会議が開かれました。集まった面々は(敬称略)島袋正敏・平良研一など沖縄のメンバー、小林平造・文人などとエイデル研究所(長谷吉洋)の本土側、そして設営にあたったのが地元・堀之内町役場の森山丈順(学大・小林ゼミ出身)でした。
この日から精力的な本づくりが始まって、1年後(2002年)の名護・全国集会には、めでたく『おきなわの社会教育−自治・文化・地域づくり』を刊行できました。
しかしその思い出の地は、2004年10月23日夕刻の中越大地震で大きな被害を受け、「魚野川」も全壊。堀之内の各地には(隣の川口や山越はもちろん)いまだにその傷跡が残っています。そして今般の大合併で堀之内町、小出町など6町村が合併して新「魚沼市」となり、広大な市域を誇ることになったものの、課題は山積。
5月17日から19日まで、再び魚沼市堀之内を訪問する機会がありました。懐かしの「魚野川」もみごとに再建なり、新装のレストランへ。越後の美味しいお酒を頂きました。
今回の訪問は、いま堀之内在住の星野修美さん(もと川崎市教育文化会館々長、『自治体の変革と在日コリアン』明石書店−2005年刊−の著者)のお宅を訪ね、山菜を摘み、いま盛りのカタクリの群生を愛でつつ、あわせて合併の新自治体で奮闘している森山丈順くんを激励しようというもの。伊藤長和さんなど川崎の皆さんに同行させていただいきました。
パソコンを持参せず、結果的に4日ぶりの「風」。(続く)
1651号
【2006年5月16日】
◆<伊集(イジュ)の花心、やんばるの海歩き>
在日米軍再編、普天間基地の移設問題をめぐって、風雲ただならぬ名護の海と山。そのなかで、海のリーフを歩き、山のイジュの花と語りあう旅のお誘いです。1ヶ月ほど前の本欄(風1633号、4月14日付)で、この企画のことを書きました。その後、5月28日(日)のスケジュールが具体化しましたので、あらためて島福メール(略)をご紹介し、ご案内いたします。
「シーカヤックは4艇は準備できそう」「もう少し呼びかけます…」とのこと。いま小生以外に参加希望も寄せられていますが、もし他にもご希望の方があれば、ご一報下さい。
沖縄はすでに梅雨入り。例年より入梅は遅れたそうですが、本土の梅雨と違って、シトシト一日中降り続くことはない。さきほどの島福さんの電話では「いま、晴れていますよ」と。ところが、イジュの花は例年より早く、もう満開だそうです。月末まで咲いているかどうか。聞いてみると、いつもの調子で「大丈夫でしょう」との返事でした。
しかし、問題は風。今日のニュースでは、すでに台風1号が発生し香港を直撃とか。ま、この時期の沖縄は大丈夫でしょう。
参加希望の方は、前夜(27日)までに名護に集合。宿はいつもの山田荘(0980-52-2272)、各自で予約して下さい(すでに参加希望を頂いた方は予約済み)。28日も泊まることになりましょう(名護2泊)。
ぶんじんは、5月26日夜のTOAFAEC 定例(東京)研究会に参加して、27日午後沖縄(ANA129便
15:35那覇着)へ。当日夜はおそらく「大国林道」(山田荘からすぐ)あたりで飲んでいると思います。
5月30〜31日の両日は、かっての中頭青年団運動についての聞き取りを予定します。いまからお願いの連絡。まだ虚像に近い「沖縄青年運動史研究会」を実像化していくための二日間と考えています。
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