杭州・西湖「楼外楼」、呉遵民・撮影(10/24)
【南の風2005】1551号〜1600号・発行一覧・目次
1551号【10月28日】沖縄金武町青年団のエイサー公演、金報告への共感、福建省の生涯教育条例
1552号【10月30日】福建省・生涯教育促進条例成立、文豪・巴金氏を悼む、油山・宴の名残り
1553号【11月 1日】和光大学の畑、隠されたヒバクシャ、泡盛サミットin名護、沖縄研究・次の一歩
1554号【11月 3日】見城慶和さん「えんぴつの会」、沖縄調査日程、『砂川闘争の50年』
1555号【11月 4日】パソコン修復、日本山妙法寺上人の不当逮捕、「あの闘争が今の繁栄を・・・」
1556号【11月 6日】モンゴル母語教室、辺野古より、普天間移設地元拒否、君はどこにいるのか
1557号【11月 8日】高知との関わり、さらば戦争!映画祭、沖縄基地移設問題、新ホームページ
1558号【11月10日】戦争と平和の博物館、一坪たりとも渡すまい、名護より訃報、沖縄訪問日程
1559号【11月11日】風に参加、愛知川町史の予約、名護ものづくり塾、新ホームページお目見え
1560号【11月13日】韓国(富川・光明)調査から帰国、島酒通信16号、海勢頭「七つ星の歌」
1561号【11月15日】第112回研究会報告、新アドレス、中国・職業教育、新『ハンドブック』
1562号【11月17日】新『公民館ハンドブック』、松本市・町内公民館見学、島はまつり一色、HP更新
1563号【11月19日】松本・町内公民館見学、沖縄・木津上人の釈放、研究会の記録について
1564号【11月21日】上海行き報告、長崎で日本平和学会、公民館学会ビデオ上映、小さな地域
1565号【11月23日】アーデルに男児誕生! 世界自然遺産(琉球諸島)障害は基地、新上海本
1566号【11月25日】上海本編集、枚方の公民館その後、安井家資料調査、EAFAEの集い
1567号【11月27日】第113回定例研究会ご案内、沖縄修学旅行、訃報、青年運動史研究の試み
1568号【11月29日】韓国で環境問題交流、「地域と図書館」刊行、南灯寮、名護「大国林道」
1569号【12月 1日】沖縄大学・ミニシアター、沖縄青年運動史研究会、沖青協運動との出会い
1570号【12月 3日】沖縄大学・ミニシアター(2)、ソウル「首爾」、沖縄青年運動史研究への思い
1571号【12月 6日】石垣新空港問題−白保の人々の現在、日本公民館学会(第4回、松本)盛会!
1572号【12月 8日】公民館学会(松本)の論議から、ポスターセッション、自治公民館をめぐって
1573号【12月10日】宮城与徳生誕100年記念事業(名護)、福岡県春日市の動き、早くも忘年会
1574号【12月12日】第113回研究会報告−沖縄民主同盟、『公民館ハンドブック』販売ご協力を
1575号【12月13日】トロントより−識字教育の状況(1)、松本・公民館学会から、内なる識字問題
1576号【12月15日】『沖縄は基地を拒絶する』本紹介、トロント・識字教育の状況(2)、訪沖日程
1577号【12月17日】2006新年会ご案内、奥区共同店100周年、年末の沖縄日程・時を惜しむな
1578号【12月19日】原水禁運動(安井家)資料研究会、1フィート新版ビデオ、研究会記録アップ
1579号【12月21日】来年はモンゴルへの旅を! 「新石垣」空港設置へ、「中国農民調査」発禁
1580号【12月23日】定例研究会のこれから、114研究会に向けて、沖縄県立図書館郷土資料室
1581号【12月25日】杉並からの緊急のおねがい、ブラジルより、「吹き渡る風の音に耳を傾けよ」
1582号【12月28日】新石垣空港(白保メール)、沖縄学研究所の危機、青年団運動の独自の歴史
1583号【12月31日】ニート研究会、烟台で初めての年越し、沖縄県祖国復帰闘争史を、大晦日
2006年
1584号【 1月 3日】賀正!2006年、東アジアからの新年ご挨拶、沖縄からのメッセージ
1585号【 1月 6日】
新年おめでとう! 15日新年会へ、中国の農村問題、奄美の島歌
1586号【 1月 8日】『公民館ハンドブック』刊行間近か、ヒューマンに生きる、研究会の記録化
1587号【 1月11日】草の根からの中日友好を! 米軍再編反対の全国組織、留学生との出会い

1588号【 1月13日】第113 回定例研究会ご案内、内モンゴルからのご挨拶、沖縄の公民館
1589号【 1月15日】宮城与徳展、山入端つるさん(逝去)、平塚らいてう賞、新春ビッグニュース!
1590号【 1月17日】新年会への参加、共同売店記事、真っすぐに毅然と(追悼)、三三七拍子!
1591号【 1月19日】新年会に集う群像−ご報告、八重山・大浜公民館、公民館憲章の動き
1592号【 1月22日】平塚らいちょう賞・受賞、「宮城与徳」展始まる、社会教育「辞典」づくり
1593号【 1月25日】松本との交流−名護は桜満開! アーデルよりご挨拶、集落公民館の交流を
1594号【 1月26日】『公民館ハンドブック』特価締切り1月末、回想法が東京へ、竹富島憲章
1595号【 1月28日】松川町健康を考える集会、平田大一講演、114回研究会、アジアのお正月
1596号【 1月29日】公民館「ハンドブック」刊行、わたぼうしコンサート、新しい本の誕生!
1597号【 1月31日】春節ご挨拶、内モンゴルへ、『公民館ハンドブック』刊行祝い、2月6日
1598号【 2月 2日】北海道・置戸町より、横浜・磯子の地域学習拠点、悪魔のささやき
1599号【 2月 4日】近況・北海道教育大学より、モンゴルっ子の歌CDに、北と南と
1600号【 2月 6日】公民館カフェ〜お茶でも飲んで、1600お祝い、ひとつのゴール

【南の風2005〜06】発行リスト・1551号〜1600号
各号後記(ぶんじん日誌)

★1501〜1550号・前ページ

*1601号〜1650号(新HP)

南の風・編集後記(ぶんじん日誌)


1600号【2006年2月6日】
◆<ひとつのゴール>
 「南の風」誕生日(1998年2月6日)、8年を経過したその日に待望の1600号をお送りいたします。年平均ちょうど200号、うまくいきました。これまでのご愛顧、有り難うございます。
 2号前の本欄で書いた「悪魔のささやき」。誘惑されそうになりながら、あとすこし旅を続けようということになりました。しかしいま一つのゴールに到達したという思いです。
 旧「公民館の風」と合計して、2000となる1605号まであとひと踏ん張り。それ以降は、これまでよりもっと自由に、勝手気ままに吹いていきたい。どこかで静かに吹き止むかたちで、姿を消したいという気分です。
 それがいつになるか、自分でも分かりません。「風」への期待を多少でも感じるのであれば吹き続けよう、実感できなくなったときに、そっと筆をおこう、と思っています。今朝(Sun, 05 Feb 2006 09:32)、ソウルの孔秉鎬(Kong Byung-Ho)さんから,「風がなければ動きもなくなります」という一文。有り難う!
 実はいま風メンバーはさらに増えています。今年になってもう5人ほど。ソウル大学(院)に留学している沖縄出身・呉屋淳子さんという方から(川崎の小田切督剛さんを介して)「風」への参加申し込みがあったばかり。そのうち自己紹介を送っていただくようお願いしたところです。こんな動きのなかで、多少でも役に立つのであれば、続けていこう、と思うのです。
 最近のご参加や「風」に投稿・来信していただいた方は別として、引き続きの送信ご希望の方は、お手数ですが、あらためてのエントリーをお願いいたします。1605号(あと10日余り)まで現アドレス帳での配信、それ以降は新リストに切り替えて、ゆっくりと次のゴールをめざすことにいたします。

1599号【2006年2月4日】
◆<北と南と>
 本号も前号も、北海道からの風、有り難うございました。それぞれに状況は厳しい様子、しかし元気が何より。
 小生はいつも南の方に足が向いてしまって、この間、北の大地には失礼を重ねています。内田さんや森田さんなどを通して、お会いした方々の風貌はいつも懐かしく心のなかにあります。オケクラフト・ワインクーラーは“風の部屋”の飲む集いの中で、森田さんのかわりに座の中心に。新年会でも。最近、木の肌に渋い艶が出てきました。 こちら→2005/2/15■
 さて2月下旬になれば、いよいよ花粉症の季節。花粉飛散量は去年より格段に少ないという予想ですが、果たしてどうか。今年の花粉のがれの旅は、北をめざすことにしようか?と(メールを拝見しながら)思ったりしました。しかし3月はまだ寒いでしょうね。やはり温かい風に吹かれたくなるのかなぁ。
 今年はまだ福岡にも行く機会がありません。お正月は東京でしたから、たまった用事がいくつかあります。油山の書庫で資料の探し物あり、久留米の生家の管理のことあり、大山(大分県)で昨年秋に亡くなった旧友(元青年団活動家)の墓参りや、熊本の山城千秋さんと会って沖縄青年運動史研究会のこれからを相談もしたい。そんなところに永田香織さんから九州国立博物館(太宰府)へ「ぜひ一度おこしください」とのお誘いもいただきました。
 早いもので今年も2月、そろそろ動き始めたいところです。東京のお付き合いはいい加減にして、南からの風にのってジャンプしてみたい。

オケクラフト・ワインクーラー(風の部屋)


1598号【2006年2月2日】
◆<ここで終止符!と悪魔のささやき>

 2月1日の東京は雨でした。終日よく降りました。冷たい雨。こういう日は気勢があがらない。うっかりすると心も冷えてきますね。
 これから「南の風」をどう吹いていくか。年賀状には“模索”と書きましたが、この間いろいろ考えながら歩いてきました。風メンバーと会う機会に意見を求めてみたり。あまり応えてくれない。なんともイヤな出会い系サイトの膨大な迷惑メール、そのなかに「風」も埋没している。風・通信を出す意味はあるのだろうか。かってEメールはそれぞれに新しいメッセージを運んでくれたものだ。しかし、最近はメールボックスを開くのも嫌になってしまった!
 ちょうど半年前、1500号アドレス帳整理の際に、南の風は「最終コーナーをまわりかけている」と書きましたが、1600号を迎える今、はれてゴールに到達した感じもあるのです。
 ここで終止符を打とう!という甘美な囁き、悪魔の声が聞こえてきます。先夜の研究会のあと、少し酔って、そんな方向で発言した経過もあります。なんともいえない解放感がありました。
 しかし・・・他方で・・・、本号の森田メールなどを頂くと、風をお送りする意味を実感します。とくに留学生の皆さんなど、手をひろげて「南の風」を待っていてくれる。単なる情報ネットにとどまらず、ときには励ましの風となり、活力源にしている場合があることも知っています。迷惑メールを跳ね飛ばす力となっている!
 ぶんじんの旅はもう少し続きそうです。沖縄・東アジアの友人たちへの思いも残る。TOAFAEC 研究会や「東アジア社会教育研究」もきっと継続されるでしょう(と期待している)。風もあとすこし吹き続けてみたいと思っています。
 1605号(通算2000号)にアドレス帳を更新させて頂きます。

1597号【2006年1月31日】
◆<2月6日・誕生日>
 1月29日は春節、あらためて新年の慶賀メールをいただき、有り難うございました。
 そしてすぐに2月6日、「南の風」の誕生日です。1998年のこの日に、沖縄研究の再開を呼びかけるかたちで「風」は吹き始めました。当初は6人〜10人前後のメンバー。あの頃はEメールアドレスをもたない人が大半(8年を経過して、いま100人余への配信)。2月6日の誕生日は「やんばる古酒」乾杯!の予定です。
 ところで面白い数合わせ。誕生から5年を経過した2003年2月6日、「南の風」はちょうど1000号を数えました。その直前に「号外」1本を出して号数を調整した記憶があります。それから3年、今年の2月6日の当日、風はピタリ1600号を送信できる見通しです。あと3号、今回は「号外」の必要もなく、うまくいきそう。毎年平均200回の風を送信してきた計算になります。
 加えてこの間に旧「公民館の風」を発行しています。1999年9月から2003年2月までに395号(南の風1000号を期して休刊)。合計すると「風」はいま2000号に近づいている勘定に。おそらく2月6日から10日後あたりに「南の風」は1605号、総計2000号に到達!というわけです。再び「やんばる古酒」乾杯!
 この8年、はるばると旅をしてきました。今年の2月6日誕生日は特別の思い。1000号達成の折、伊藤長和さんから「2000号をめざして頑張れ!」と激励されたことを憶えています。とうてい無理な数ですが、二つの「風」を合算すれば、ようやくゴールを迎えることにもなります。さて、これから「南の風」発行をどうするか。(以下、次号)

1596号【2006年1月29日】
◆<新『ハンドブック』誕生!>
 新しい本の誕生は、いつも嬉しいものです。出来映え、誤植はないか、評価はどうか、など不安と緊張を含みながらも、まずは本が世に出たこと、「よくぞ生まれてくれた!」感激で一杯。
 とくに今度の『公民館・コミュニティ施設ハンドブック』は、日本公民館学会(2003年設立)が世に問う最初の出版物です。この2年余り、ともに本づくりに関わってきた学会関係の皆様、とくに編集長・手打明敏さん(筑波大学)、資料編・索引作成に奮闘された同研究室、皆様とともに乾杯!
 昨日(27日)午後、エイデル研究所・山添路子さんから喜びの連絡が入りました。市ヶ谷の駅でお会いして待望の本を頂きました。
 20年前のこと。苦労を重ねて『公民館史資料集成』(1986年、横山・小林共編)が出来上がった日、このときも編集担当の入沢充さん(エイデル・当時)から連絡を頂きました。忘れもしない、その日はちょうど日青協・青年問題研究集会(助言者)の当日。会場を動けないために日本青年館まで持ってきて頂いたのでした。
 入口で待っていると、遠くから大きく本をかざしながら、彼がやってきました。躍り出すような表情、満面の笑顔、いつも思い出します。今回もまた市ヶ谷の駅で、場面は違いますが、同じような山添さんの笑顔でした。
 すでに予約は400をこえたそうです。これまでにないこと。悩み多い公民館の歩みを確かなものにしていこうとする大事な本、皆様ぜひ普及販売にもご助力ください。

1595号【2006年1月28日】
◆<春節−アジアのお正月>
 明日1月29日は“春節”、アジアのお正月です。皆さん、あらためて新しい年のスタートを祝いましょう。
 かって研究室に留学生が群れていた頃、この日には水餃子をつくったり、酒蔵庫に蓄えていた各地の酒を卓上に並べて飲みあったり、楽しんだものです。最近はそういうこともなくなって、旧正月の日さえ忘れがちになりました。
 15日・新年会のご案内が届かなった東京農工大学の磯守さん、それに堀尾正靱さんの両先生が、春節の夜にお出でいただくことになりました。磯さんは、私たち研究室が中国への関心をもちはじめたころ、一歩先駆けて、中国語に精通し、上海に拠点も定めて活発な研究交流をすすめた人。
 TOAFAEC と上海・業余大学(当時)との合作構想(1997年前後)では、日本側の理事として名を連ねていただいたことあり、『東アジア社会教育研究』に「はじめての上海訪問」思い出を寄稿されてもいます(1999年)。大学は同じ小金井の地、農工大から学大・研究室の集いによくお出でいただいたものです。
 堀尾先生とは今回が初めて。「バイオマスと持続型社会の形成」等の面白いご研究があるようで、いろいろお話しを聞けるのではないかと楽しみです。
 同じく新年会に来れなかった御塚伸也(福岡・御塚隆満さんの息子)夫妻もやってくるそうです。29日午後6時半、井頭線「永福町」改札で待ち合わせ、近所の店へ。関心のある方は、ご遠慮なくお出かけ下さい。

1594号【2006年1月26日】
◆<竹富島憲章>
 日本最南端の八重山毎日新聞が伝えるところでは、アジア太平洋地域の16カ国・地域の若手研究者やジャーナリストたち20人、竹富島に集まって「アジア・パシフィック・ユース・フォーラム」を開いたそうです。そういう時代になったのですね。 
 竹富島はほんとに美しい島です。3集落、人口わずか351人(2005年10月20日現在)。しかし14年前は251人だったそうで、離島なのに、この間にちょうど100人増えたことになります。
 風1591号本欄の続き。上勢頭芳徳さんは「竹富島憲章」づくりの経過について次のように書いています。
 …1972年の本土復帰のころ、八重山のいたるところで土地買い占めが横行し、竹富島でも、島外者に土地が買われ、島の自然、文化が変質、崩壊すると危機感を持った人たちが立ち上がり、土地の買い占め売り渡し反対運動を展開した。
 そのころ、1971年にできたばかりの「妻籠宿を守る住民憲章」を参考に、「竹富島を守る憲章」(案)がつくられた。
 保全優先を基本理念とする「売らない」「汚さない」「乱さない」「壊さない」「生かす」というもので、理念がしっかりしていたため、島外企業の侵入を阻止することができた。これを島民の総意として明文化し、島の方針を打ち出そうと、公民館では3集落の例会で話し合い、“憲章制定委員会”で検討し、公民館議会でさらに検証し、その後公民館総会で「竹富島憲章」として満場一致で決議採択した。
 …(以下略)…
 集落の公民館が、住民自治の生きた組織として、みずみずしく機能している姿が見えてきます。TOAFAEC ホームページ「自治公民館」と並んで「しま・八重山」の頁に、関連資料を紹介しています。

1593号【2006年1月25日】
◆<海を越えて−集落公民館の交流を>
 25日に行われる名護・宮城與徳碑の除幕式典に参上したかったのですが、東京の別用と重なり、ジャンプすることができませんでした。桜も満開とのこと、ひんぷんカジマル小公園の(徳田球一碑と並ぶ)二つの碑が目に浮かんできます。
 島袋正敏メールを拝見すると、松本市議一行(福嶋昭子さんたち)へ温かく対応していただいたとのこと、まことに有り難うございました。25日は読谷の集落公民館との交流日程でしょうか。おそらく上地武昭さん(沖縄大学)にお世話になることでしょう。どうぞよろしくお願いします。
 福嶋昭子さんは、2002年(第42回)社会教育研究全国集会(名護集会)で、松本・蟻ヶ崎西町会の公民館活動を報告されました。「福祉づくりは地域づくり〈福祉の町づくり宣言〉」が印象的でした。しかし台風の影響あり、分科会の時間が縮小され、充分な討論と交流になりませんでした。本土と沖縄を結ぶ願ってもない機会だったのに、といまでも残念な思い。(報告概要は、TOAFAEC・HPに収録)
 しかし、この分科会で残された課題が、その後毎年の全国集会「小地域・自治公民館」分科会を生み出したと言えるかも知れません。
 今回の名護訪問も慌ただしい日程とのこと。しかし、このような海を越えての集落公民館活動の交流、とくに松本市「町内公民館」などと沖縄の「字公民館」の出会いがもっと拡がらないものか。沖縄の、松本の、それぞれの地域事例に特化してしまう見方が一般的だからです。地域を越えて、そこに共通する一般理論を抽出していく必要がありましょう。そこから、公立公民館のあり方についても基本的な問い直しを求める視点を導き出せるのではないか、と思っています。
 本号も、竹富島・公民館憲章(風1591号)の続きにまで筆が及びません。お許しを。


1592号【2006年1月22日】
◆<「社会教育・生涯学習辞典」づくり>
 東京は今日(1月21日)雪がしんしんと降りました。終日、気温もあがらず。それでも雪見(豪雪地帯の皆さんには申しわけない!)の気分で、カメラをもって雪中散歩。1枚をHP表紙に掲げました。
 本号は、竹富島・公民館憲章(前号)の続きを書きかけていましたが、標記「辞典」企画がようやく海面上に浮上(執筆依頼状の発送)しましたので、お願いを含めて、この間の経過を書きたくなりました。ご了承ください。
 社会教育の領域で専門的な「辞典」を創ろうではないかいう話は、四半世紀前からありました。しかし、簡単なことではありません。教育社会学関係では1967年に辞典を刊行し、しかも千頁に達する新版も上梓しています(1986年、東洋館出版社)。
 社会教育関係では、「事典(ことてん)」はありますが、本格的「辞典(ことばてん)」はまだ登場していません。政策・行政・実践の新しい動きがあり、かなりの研究蓄積もあり、国際的な躍動もあるというのに。むしろ概念や思想や語句の乱雑な展開が憂慮されます。
 私たちの思いが伝わって、辞典編集・刊行を引き受けてくれたのは朝倉書店。準備が始まったのは3年前でした。いくつかの面白いエピソードは、いずれ別の機会に書くとして、この3年間、私たちの「辞典」づくりの作業は静かに進行してきました。
 4〜7人の編集幹事による助走段階から、30人の編集委員会体制に発展するのが2004年秋。約3000語句を1500に厳選し、検討を重ねて、このたびようやく執筆者依頼の段階にまでこぎつけることができたという経過です。
 「風」の皆様のなかにも、本号と相前後して「辞典」執筆の依頼状が届くと思います。日本初めての社会教育「辞典」づくり、その趣旨をご理解いただき、ぜひともご承諾・ご協力下さいますよう、お願いいたします。大作となる見込み、刊行は来年秋の予定です。

1591号【2006年1月19日】
◆<八重山・公民館憲章の動き>
 もう一ヶ月余り経ちましたが、昨年12月の八重山毎日新聞に「公民館憲章」の記事が掲載されました。石に刻んで公民館前に建立されたとのこと、石垣市大浜(自治)公民館。この欄で紹介しようと思いながら、他のことと紛れて、本号になってしまいました。
 すぐに同じ八重山の「竹富島憲章」のことを思い出しました。住民がシマを守り発展させていくために、“創意”を寄せ合い、“総意”を確かめ合って策定されたもの、心打つ取り組みです。風1588号・本欄に書いた「シリーズ・沖縄の公民館」(11)で取りあげた経過があります。
 また、同じ八重山毎日新聞の2006新年号で、上勢頭芳徳さん(竹富島・喜宝院蒐集館)が,「土地買い占め乱開発防止で生まれた竹富島憲章」を書いておられます(同新聞・1月4日)。
 「…竹富島憲章は1986年3月の公民館総会で満場一致で採択され、制定から20周年になる。近年まちづくりの基本としての憲章の重要性、有効性が認識されるようになった。…」
 「…自らの地域の生き方を自ら決定するよう共同体では不文律や村内法が機能していたが、個性の尊重や多様化など、耳当たりのいい言葉をふりかざして、地域の実情を認識できない島外企業やわがままな人たちが現れてくると、明文化する必要に迫られてきた。…」と続きます。
 上勢頭さんは、3年前の同新聞2003年新年号にも「竹富島の五つの地域力」のテーマで竹富島憲章を報告されています。印象的な一文でした。
 「憲章」というと、ときに行政や議会による型どおりのものが目につきますが、八重山の「公民館憲章」の動きは、地域のなかから、住民による地域意識−ある種の危機意識をバネとし、公民館組織を通して、具体化されてきたように思われます。この場合の公民館とは、公立公民館ではなく「自治公民館」。まさに住民自治的な「憲章」づくりの動きなのです。
 長くなりそうです・・・次号へ。

1590号【2006年1月17日】
◆<新年会の夜−三三七拍子!>
 15日新年会へご参加の皆さま、お疲れさまでした。セタリンさんなど初めての参加あり、お互い久しぶりの再会あり。この会で今年も本格的にスタート・・・という気分になるから不思議なものです。
 トクタホさんたちの馬頭琴、八朔友二さんのギター、白井夫妻の歌、徳江紀子さんの踊りなどなど。二次会だけに駆けつけた人たちもいて賑やかな1日となりました。世話人の皆さん、有り難うございました。 
 HP「1月スケジュール」に当日の写真6葉をアップ。もっと載せたいところですが、容量の問題があり、禁欲して厳選。当夜遅く、江頭晃子さんから早々に6枚の画像を送信していただきました(有り難う!)が、すべて高画質の重い容量、HPにとっては負担が大きい。そのうち1枚、八朔くんの恒例・三本締めだけ、周辺をトリミングし、低画質に置き直し(容量を軽くし)て掲載するのがやっとこさ。ご了承下さい。
 新年会では、この年度の大きなスケジュールがいろいろ決まっていくのが面白い。集まって楽しく飲み合うのだから、やや気分も高揚、あれこれ屈折するのでなく、案外とすぐ決まりますね。
 一つは、新潟・魚沼(星野修美さん、森山丈順さんなど)への訪問が5月連休−雪解け後の花が咲き揃う時期。あと一つは、内モンゴル訪問を9月第1週−夏のスケジュールが終わり秋の学会シーズンが始まる間の1週間(ボヤンバートルさんの都合は大丈夫かな?)に計画しようということになりました。川崎の伊藤長和さん、首都大院のトクタホさん、ぶんじん等の間で一応合意した案。関心ある方々はご検討下さい。同行希望者の意向により今後変更もありましょう。
 本来は、飲みながら、TOAFAEC の今年の運営体制やスケジュール、また「東アジア社会教育研究」第11号の編集のことなど、新しい課題の語り合いができればもっとよかったのですが、この点の進展はなかったようです。最後はお決まり、八朔(ふるさと・きゃらばん)風の三三七拍子!!! みんな若い元気を取り戻した表情で、夜の会も終わりました。

*写真移動→こちら「八朔友二の三三七拍子」20060115、風の部屋


1589号【2006年1月15日】
◆<平塚らいちょう賞>
 「平塚らいちょう賞」が日本女子大学に新しく設けられ、その第1回奨励賞を丸浜江里子さんが受賞されたこと、まことにおめでとうございます。新春早々に飛びこんできたビッグニュース!
 しかも杉並・原水禁運動(安井家)資料研究をテーマにしての受賞ですから、私たち研究会としても、嬉しい限りです。丸浜さんは、昨年の2月頃から「南の風」に参加され、折りにふれてメールを頂いてきました。「杉並の教育を考えるみんなの会」事務局として活動されていますが、もともと中学校(社会科)の先生、退職されて明治大学・大学院へ。修士論文の研究テーマとして杉並の原水禁運動をとりあげられたのです。
 「らいちょう賞」選考委員会のコメントは次の通り。
 「半世紀前に、杉並の公民館に集う主婦たちが始めた水爆禁止署名運動の足跡をたどり掘りおこす研究は、膨大な資料の整理・記録・聞き取りという地道な努力と熱意を要する貴重な活動になる。当時と現代の人間の関係など、生の人間に目線がいけばおもしろい論文にまとまるし、評価の異なる市民活動を分析することによって、より客観的な成果も期待できる。今回は修士論文であり1年後の研究発表とともに、この研究をさらに継続・発展させ、その成果を社会に還元していかれるよう望む。」とのこと。
 このテーマは、岩本陽児さんを介して、和光大学・総合研究所でも研究プロジェクト事業として一定の評価を得ているようです。市民主導のささやかな研究活動が、こういうかたちで社会的に注目されていくことは、当事者の一人として励まされる思いです。
 いつもは控え目?な丸浜さん、今回のこと「風」にぜひ一文を。感想やこれからのことなど語っていただけれれば幸いです。

1588号【2006年1月13日】
◆<シリーズ・沖縄の公民館>

 1999年10月に創刊した「公民館の風」、そこに書いた記事を思い出して、発行リストを開き久しぶりに読み直す機会がありました。「南の風」が“交流”的であるのに対して、旧「公民館の風」は案外と“研究”的だったのですね。
 ちょうどこの頃、沖縄研究を再開し、戦後沖縄社会教育「地域史」をテーマとして、何度目かの文部省(当時)科研費も幸いにとれて、沖縄に通う機会が多くなっていました。あらためて、<沖縄の公民館>の面白さを再発見した感じがあり、そのシリーズを「公民館の風」に載せはじめたのでした。その経過について、「公民館の風」29号に次のように書いています(2000年2月6日)。
 「 … 公民館の“風”で、<沖縄の公民館>シリーズを始めた契機は、一つは埋め草、あと一つは、名護東海岸に普天間基地移設問題が浮上し、辺野古など関係の集落が(自治)公民館組織として対応を迫られる事態となり、この機会に、沖縄型の集落公民館の動きを紹介しようという思いからでした。…」
 このシリーズは20回続きました。相前後して第42回社会教育研究全国集会(2002年)が名護で開かれることに。さらに『おきなわの社会教育』本の企画・編集などと、ますます沖縄に行く機会が増え、その間に得た新しい動きや興味深い新聞記事等を紹介しようというわけで、新シリーズ<おきなわ短信>が始まったのです。「南の風」「公民館の風」(2003年2月休刊)の両方に交錯しながら掲載してきました。
 <おきなわ短信>はその後も続いて、2006年1月現在276 回(風・前号)を数えています。今は(ご承知のように)ほとんど新聞記事の紹介。しかし当初はすべて書き下ろしでした。折りにふれての気楽なエッセイ風の駄文ながら、なかには少し面白いものあり。
 5年あまりの歳月を経過したいま、一つの記録として、「短信」リストを作ってみました。新聞記事紹介欄に移行していく前の段階の短信・目次一覧です。「沖縄の公民館」シリーズ・目次と合わせて、さきほどホームページに掲載。何かの参考になれば幸いです。ただし本文の入力はなし。HPには「そのうちに本文の入力作業に努める予定」と書き添えておきましたが…、実現するかどうか。(タイトルだけで興味を惹くものがあれば、ご一報下を。送ります。)

1587号【2006年1月11日】
◆<留学生との出会い>
 広州の李偉成さんからの新年ご挨拶、そして上海の朱榴芳さんの年賀メール、有り難うございました。実は朱さんからは元旦早々にメールが着信、しかし完全な文字化けで、なんどかのやりとり。ようやく平仮名メールが届いて、上記文中のいくつかを漢字に変換させて頂きました。
 お二人とも東京学芸大学時代の最後の院生です。卒業後も付き合いは続き、広州には何度も、また湘潭(当時の朱さんの勤務先)にも、面白い旅をしました。
 私の研究生活の歳月、とくに東アジア研究への道を振りかえると、留学生との出会いが実に大きな意味をもっています。中国は大陸だけでなく台湾の、もちろん韓国等を含めて、彼らとの出会いがなければ、TOAFAEC への取り組みも、『東アジア社会教育研究』10号にいたる刊行も、有り得ないことでした。
 いまは現物にあたることも難しくなった稀少資料『東アジアの社会教育・成人教育法制』(東京学芸大学社会教育研究室、1993年)の刊行が象徴的な挑戦でした。この時期の研究室には(研究生を含めて)15人前後の留学生が在籍し、少数派の日本人院生と協同するかたちで、ゼミ共同研究の成果としてこの『法制』(日本語バージョン)が完成したのです。李さんも朱さんも、そのメンバー。ドクター課程をもたない研究室なのに・・・よくぞ出来たものだと思っています。
 その後の東アジアにおける生涯(平生、終身)学習に関わる新しい法制化が活発に動いている現在、国を超え海を越えて、若い研究者たち協同による新しい挑戦(『法制』第2版)ができないものか。もしどこかの研究室で取り組む動きがあれば、馳せ参じたい思いあり。資料や研究ネットワーク(人脈)など、これまでに蓄積されたもの、多少はお役に立つものがありましょう。

左から2人目・李偉成さん(広州市教育代表団来日、2001/11/13)


1586号【2006年1月8日】
◆<定例研究会の記録化>
 まずはお詫び。前号・1585号は、タイトルを「1586号」と1号間違って送信しました。本文1行目の号数は間違っていませんが、正月早々の早とちり、申しわけありません。ご訂正下さい。
 お正月休みを利用して、いまホームページの充実・拡充?の努力をしています。旧・新二つのホームページを一体化する(相互のリンクをはる)こと、そして「南の風」記事の活用です。
 「南の風」をそのままHPにアップする案も(早くから)ありましたが、その都度に投稿者の承諾をいただく必要もあり、今は毎号「ぶんじん日誌」や毎月の「研究会」案内・記録だけに留めています。しかし風記事も、風に吹かれて、所詮は消えていくもの。いまのうち、可能な範囲でHPに記録化していくつもりです。
 とくに定例研究会の記録。いま2004年〜2005年(第92回〜113回研究会)記録のアップを終って、遡及的に2002〜2003年(71回〜91回研究会)の作業をすすめています。すべて「南の風」記事。ついつい読み直したくなって、作業がはかどりませんが、これを1995年6月の第1回研究会まで遡る予定。
 記録者は、内田純一と石倉祐志のお二人(前・現の事務局長)。昨日、内田さんから届いたメールでは、研究会初期(南の風・発行前)の記録も「文豪」に残っているとのこと。楽しみです。
 歴史は“事実”としてそのまま残るように見えて、すぐに風化・拡散し、消え去っていきます。しかし記録化することによって、歴史は(その範囲で)残っていきます。日本公民館学会の大会・研究会等の歩みも、いまのうちに記録化の努力を始める必要がありましょう。
 日本公民館学会の最初の本格的な刊行物『ハンドブック』が今月いよいよ刊行されます。まさに研究の記録化、2年がかりの集積。手打明敏さん(筑波大学)からの普及販売の訴え、皆さま、ぜひご協力下さい。とくに図書館関係各位のご高配をよろしくお願いいたします。

1585号【2006年1月6日】

◆<奄美の島歌>
 やはり年賀状はいいものです。お子さん誕生の写真あり、結婚あるいは教授昇進等の朗報あり、お目出度い知らせが運ばれてきます。概して悪い知らせはありません。
 ここ数年の興味は、ホームページのご案内。公的な機関や組織のHPと違って、年賀状(個人)が伝えるHPには、それぞれの思いやメッセージがこめられていますね。すこしオーバーに言えば、権力や財力をもたないものの、ひたすらな自己表現の努力がある。
 1年ほど前の本欄(風1409号)に書いた奄美・名瀬「仁左ェ門工房」の原正仁さん(大島紬を織る伝統工芸士)の年賀状。原さんとは一度、渋谷でお会いしただけで、その後はまったく再会の機会なく、年賀状だけが結んでくれるご縁です。
 年賀状の隅に書き添えてあるホームページURLにアクセスしてみると、開いたとたんに奄美の島歌が流れ始める。これがいい! しばし奄美の文化とその情けの世界に沈没してしまいました。年賀状が島歌を運んでくる感じ。 
 「仁左ェ門工房」からのメッセージ。「奄美大島より心を込めて−幾多の時代変遷の中で様々に移り変わってもなお、生き続ける奄美民族の血にも似た確かさと歴史の重み、私どもはもうかなりの歳月、大島紬を作り続けて参りました。
 大島紬の染めと織の巧緻さは言うまでもなく、心を暖かく包み込むようなしなやかさに人生のゆとりを感じ心惹かれます。大地から生まれた大島紬は、地球の贈り物です。…」
 「ときどき 立ち止まってごらん 風の音も聞こえるよ」「まっすぐ歩くって おもしろくない」などのポエム。三線の写真もあり。「紬の心」等をうたって歌手デビューとのこと。
 → http://www.nizaemon.jp/

1584号【2006年1月3日】
◆<沖縄からのメッセージ>
 正月二日夜、越後からのお酒を楽しみながら、届いた年賀状を拝見しています。こちらからの賀状は、例年になく?遅れてしまって(1日未明に投函)、申しわけありません。
 とくに沖縄から頂いたメッセージ、いくつかご紹介します。きっとご本人も了解していただけると思いますので。−すべて抄録・敬称略−
 …ともあれ自公政府は、民意を反映しない小選挙区制で衆院選圧勝を背景に憲法改悪、武装自衛隊を海外に出兵させ、戦争の出来る国に進もうとしているようです。全国75%の米軍基地は県内たらい回しでなく、米国へ引き揚げさせることこそ最善であり、引き続き長期戦になりそうです。(宮古郷土史研究会長・仲宗根将二)
 …「戌は威なり」。その偉力と行動力と平和願望を実践し、「抵抗こそ正義」。「命どぅ宝」の沖縄哲学が、人類普遍の原理として確立される年にしたいものです。(元沖縄県祖国復帰協議会事務局長・仲宗根悟)
 …パピリオンの閉店、「ラ・メール物語」本の出版、バレェ音楽「血の婚礼」琉球交響楽団初演版CDの制作、同東京公演等。お陰さまで一連の宿題が無事終了致しました。
 勿論このような仕込みは、ヤマトの改憲勢力に対処するべく理念づくりで行ったものです。そして迎えた今年こそ、共に「世直し」運動を明るく楽しく進めたいと決意! 年頭にあたり、皆様の変わらぬ友情と御多幸を祈ります。(ジージーエス代表・海勢頭豊)
 …「沖縄を元気にする」活動にまい進して参りました。本年は年明け7日(沖縄コンベンションセンター、那覇空港より車で30分)に現代版組踊「大琉球浪漫」という大きな公演も控えております。…集大成的作品です。ぜひ足をお運びいただけるようお願い申しあげます。(TAOフアクトリ代表・平田大一)
 …古宇利大橋開通の日から、未経験の諸々の対応にアタフタするばかりの毎日でした。皆さまの温かい御支援や励ましの言葉に支えられて、感謝の気持いっぱいの新春を迎えることができました。2006年が皆さまにとって幸多い年でありますよう心からお祈り申しあげます。(今帰仁村古宇利区長・小浜美千子)

1583号【12月31日】
◆<今年最後の風−大晦日>
 大晦日となりました。この日に今年納めの「風」を発信するのを楽しみにしていました。この1年、「風」へのご愛顧、とくにご寄稿を賜った方々、誠に有り難うございました。お陰様で風は順調に吹き続け、ほぼ隔日の発行が定着。この1年で189号をお届けできました。もうすぐ1600号、来年2月初旬?あたりでしょうか。
 沖縄から帰って風邪気味、外出を控えた年末。やむなく積み重ねたままの資料整理など始めましたが、なかなか進みません。旧コザの夜(24日)、復帰運動の話を聞いた余韻が残っていて、『闘争史』(1982年刊)の写真を見直したり、別の記録を探したりしているうちに、今年も余すところ1日弱。
 年賀状を出す作業が残っていました。誰かのように「年賀状廃止」宣言の勇気なく、例年とまったく同じ、苦しみながら住所録ソフト“筆まめ”の整理中。まだ宛名の印刷までたどりつきません。毎年の名簿整理にもかかわらず、だんだん枚数はふくらんで、どうせ出すのであればと約千通。いまの住所録への改訂版をつくった3年前にリストラを断行し700通へ。しかしその後もまた増えて、いま約800通。年一度の賀状だけの旧友あり、離島の友人もいて、頑張ることにしているのです。
 大晦日の夜、孫たちがやってきて、年越しのお酒を飲むときまでにはなんとか終了したい。「風」の皆さんにも、今年の年賀状は遅れて配達されます。お許し下さい。
 まずはこの1年、騒がしい「風」を寛容に受け止めて頂いたことに重ねて御礼申しあげます。恒例となってきた福岡・油山の新年会は(2年前から息子・孫の一家と東京で正月を迎える習わしとなり)開きません。ご了承下さい。杉並・永福の新年会は、ご案内(風1577号)のように、1月15日(日)。ぜひご予定下さい。久しぶりに“やんばる”古酒カメも開きたいもの。
 いいお正月をお迎え下さい。新しい年への期待をこめて・・・。

1582号【12月28日】
◆<青年団運動が刻んできた独自の歴史>
 沖縄は思いのほか寒い毎日。ところが帰りついた東京も、26日はとくに冷たい風が終日吹きすさんで、疲れもあったのか、少し風邪気味です。
 昔の沖縄行きは、学生を連れていくときなど責任もあり、ぐったり疲れたものですが、いまは気楽なもの。思い通りにスケジュールを組んで自由に歩きまわり、その点で疲れは全くありません。しかし体力はたしかに劣ってきているのでしょう。
 私はもともと農村社会学のなかでフィールドワークの訓練を受けてきました。調査というものは集団的な共同研究が多く、お互いの信頼を築きあって、収集してきた証言や資料を共有し、ときには激しい議論もして、そのなかで鍛えられてきた、疲れるのは当り前。そんな調査活動を懐かしく思い出しています。
 今回の調査ではどんな収穫があったのか。簡単ではありませんが、要点だけ少し書いておくと・・・。
 沖縄の祖国復帰運動は、日米安保体制・アメリカ極東戦略を背景とする現代史の激動のドラマ。そこに沖縄の青年団運動が(沖縄教職員会とともに)果たしてきた大きな役割。1950年代の復帰への先駆的な活動が注目されてきましたが、1960年(沖縄県祖国復帰協議会の結成)以降の本格的な展開のなかでも、政党や労働組合に伍して、青年団運動が並々ならぬ比重をもったこと。沖縄県青年団協議会は類をみない独自の歴史を刻んできたのです。
 ところが、その運動的な展開や具体的な事実は、あまり“記録”されていない。沖青協から復帰協に入って、復帰(1972年)まで事務局長として運動を中心的に担ってきた仲宗根悟さんはその象徴的な存在。復帰後も『復帰闘争史』の編集責任者。貴重な証言を聞くことが出来ました。たいへんお元気ながら78才。中根章さん(原水協・初代理事長)はじめ当時の若者たちもいま70代、復帰時点の沖青協関係者もすでに60才前後。その証言や資料をどのように記録していくことが出来るか。若い世代へどう語り継いでいくか。これからの課題がはっきり見えてきたように思いました。
 ところで、仲宗根悟さんにお願いして『沖縄県祖国復帰闘争史』(資料編・写真編−2セット,特価8,500円)を2部ほど頒けていただくことが出来ました。復帰運動資料の決定版、ご希望の方はご一報を。

仲宗根悟氏(1953〜1958年・沖縄県青年団協議会(沖青協)事務局長、
 1966〜1975年・沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)事務局長等を歴任。
 復帰後10年『沖縄県祖国復帰闘争史』1982年・編集責任者、1927年生れ)



1581号【12月25日】
◆<コザ(沖縄市)の夜−クラウンホテル>
 本欄で数回書いた「沖縄青年運動史研究会」のこと。中頭青年団OB忘年会は、12月24日夜・嘉手納l基地ゲート前・クラウンホテルで開かれ、印象的なひとときとなりました。25人ほどの皆さん、もちろん旧知の顔もありましたが、大半は初めての方。青年団運動史料の収集と語り継ぎ(杉並・安井資料データーベース化の例も出して)を訴えることが出来てよかった。再会を約して別れました。
 夜の会に先立って、この日午後、仲宗根悟さんを中心に青年団運動と復帰運動“自分史”とも言うべき証言を聞きました。いままで活字で読んできたことを、その当事者から直接に話していただくと、また格別に歴史が蘇ります。
 本号は、とくに思いをこめて、復帰運動に関わる次の碑文を収録しておきます。「全世界の友人に贈る」詩は、復帰の年(1972年)の復帰協・会長(故)桃原用行さんの作、石に刻まれた碑文は、同事務局長・仲宗根悟さんの書になるもの。桃原さんは1週間ほど辺戸岬に通って、「打ち寄せる波濤の響き」の中で、イメージを練られたそうです。

○祖国復帰闘争碑(沖縄県国頭村辺戸岬、1976年・建立)
  “全国のそして全世界の友人へ贈る”
 吹き渡る風の音に 耳を傾けよ
 権力に抗し復帰をなし遂げた大衆の乾杯の声だ
 打ち寄せる 波濤の響きを聞け
 戦争を拒み平和と人間解放を闘う大衆の雄叫びだ
   鉄の暴風やみ 平和のおとずれを信じた沖縄県民は
   米軍占領に引き続き 一九五二年四月二十八日
   サンフランシスコ「平和」条約第三条により
   屈辱的な米国支配の鉄鎖に繋がれた
 祖国日本は海の彼方に遠く 沖縄県民の声は空しく消える
 われわれの闘いは蟷螂の斧に擬された  
   しかし独立と平和を闘う世界の人々との連帯であることを信じ
   全国民に呼びかけ 全世界の人々に訴えた
 見よ 平和にたたずまう宜名真の里から
 二七度線を断つ小舟は船出し
 舷々相寄り勝利を誓う大海上大会に発展したのだ
   今踏まえている土こそ
   辺戸区民の真心によって成る沖天の大焚火の大地なのだ
 一九七二年五月十五日 沖縄の祖国復帰は実現した
 しかし県民の平和への願いは叶えられず
 日米国家権力の恣意のまま 軍事強化に逆用された
   しかるが故に この碑は
   喜びを表明するためにあるのでもなく
   ましてや勝利を記念するためにあるのでもない
 闘いをふり返り 大衆が信じ合い
 自らの力を確かめ合い決意を新たにし合うためにこそあり
   人類が 永遠に生存し 
   生きとし 生けるものが 自然の摂理の下に
   生きながらえ得るために警鐘を鳴らさんとしてある
              (沖縄県祖国復帰協議会)

辺戸岬・復帰闘争記念碑(和光大学プロゼミ沖縄旅行にて、
 サンシンは吉松朋子さん・和光大学1年・当時、2001/10/01)


1580号【12月23日】
◆<(1) TOAFAEC 定例研究会のこれから>
 年の瀬ともなると、これまでやこれからのことなど、あれこれ書きたくなります。いつも頭のなかにあるのは、まず定例研究会のこと。これからどう進めていくか。
 研究会は1995年・TOAFAEC 立ち上げとともに新装開店(東京学芸大学・旧「沖縄社会教育研究会」からの脱皮)。それから10年を経過して、先回で113回。全国集会「沖縄を囲む」その他の企画など加えると、平均して月に1回(以上)の集いが定着してきました。他のどの研究会にもない独自の視点を追求して10年、立派なものだ・・・とついつい自画自賛!すみません。
 しかし、つねに悩みを抱えながらの10年でした。「東アジア」に視野を広げる一方で、焦点がぼやける反面あり。テーマごとに参加者がかわり、なかなかうまくいかない、非定着の状況もまた定着してきたのです。どのテーマにも、アジアからの留学生(中、韓、台湾、モンゴル等)が参加してほしい、けれどそう簡単ではない。日本のことを沖縄の視野で考える、東京のことを東アジアの拡がりで論じる、そんな絵はなかなか描ききれませんね。
 個別のテーマが横に並ぶけれど、それが縦に蓄積していかない。「東アジア」の視点からという夢は、ややぜいたくすぎるのかも?
 行政関係者もいれば、図書館・生協やNPOなど市民もいて、研究者も留学生もいる。ともに語り、さかんに飲みあう。そこから元気を出して、何を生み出すことが出来るか。10年を経過しただけに、あと一つの、跳躍は出来ないものか・・・と考える一方で、(正直)諦めもないわけではない。まぁ、こんなもんでしょう、継続していること自体が大事なことだ、と言い聞かせて、新しい年への歩みも、また始まるのです。
 先日、新年第1回の研究会は、東京・三多摩から、そしてNPOの視点をもって「社会教育」を問う、そんな研究会から始めようということになりました。久しぶりに江頭晃子さんの登場。ホームページに出した予告テーマは「三多摩の市民活動・NPOと社会教育」(仮題)。話の内容は、最近とみに調子をあげてきた江頭さんにお任せしたい。江頭節を聞きましょう。(後略)

◆<(2) 沖縄県立図書館・郷土資料室>
 那覇に滞在中です。着いた翌朝、久茂地の「1フィート」運動事務局へ。新しい『沖縄戦の証言』(DVD版、風1578号に紹介)を求めました。早速、ホテルに帰って観てみました。子どもたちに向けた新版、いい出来あがりです。研究会でも一度機会をつくって感想など出し合ってはどうでしょうか。
 今回の訪沖は、戦後沖縄の青年団運動についての証言収集。とくに中頭の青年団OB・長老の皆さんにお会いするのが主な目的。24日夜に計画されている忘年会にも出席する予定です。
 準備のため、22日は終日、沖縄県立図書館にこもって、仲宗根悟さん(元沖縄県青年団協議会々長、沖縄県祖国復帰協議会事務局長)や中根章さん(同・沖青協事務局長、初代原水爆禁止協議会理事長)に関わる資料を読んでいました。決定版『沖縄県祖国復帰闘争史』(資料編1430頁、写真編 205頁、1982年刊)は、仲宗根悟さんが編集責任者。あらためて祖国復帰運動のなかで果たした「沖青協」の組織的な役割を実感させられます。
 沖縄県立図書館の郷土資料室に座って、ゆっくりゆっくり、収蔵資料を読むひとときは至福の境地。まったく知らない沖縄出版物も多く、沖縄独自の地域史資料の豊かさに圧倒されます。しかし、沖青協関連の資料はほとんどない。
 私たちの『沖縄社会教育史料』(全7集)は、第3集を除いてすべて収蔵されています。第1集は4冊も。しかしなぜか第3集は、いまは亡き関係者の貴重な証言集なのに、欠本になっています。
 『東アジア社会教育研究』(全10号)は1冊も入っていないことを発見。郷土資料室/奉仕担当の方にTOAFAEC・HPを開いてもらって確認をお願いし、在庫がある旨お伝えしておきました。手弁当で刊行してきた経由もお話して、できれば購入していただけないか、と“営業”もしておきました。

1579号【12月21日】
◆<発禁本『中国農民調査』>
 日曜日の朝日新聞・書評欄に取りあげられた『中国農民調査』(2004年1月刊、日本語版は2005年10月刊)。ちょうど読んでいるところでした。著者は陳桂棣・春桃(夫妻)、日本語訳は納村公子・相田雅美のお二人、文芸春秋社からの発行。
 昨年1月に中国で出版されて注目を集め、しかし2ヶ月後には発禁処分。改革開放政策と激しい高度経済成長下の中国において、人口の三分の二以上(9億人)をかかえる農村・農民の貧困と差別・不平等の実態がどれほどのものか、ルポルタージュ文学の手法を駆使し、その現実を深く描いて衝撃的!です。著者・陳氏は、もともと社会派の作家、第1回魯迅文学賞を受賞、本書の執筆を始めるきっかけは、あまりの農村の貧しさに強く心を動かされてのことだそうです。
 「なぜ発禁処分になったのか。それは当局の発表が一切ないので分からない。だが、本書の影響の大きさを当局が恐れたからにほかならない。…(略)… 都市部を中心にした中国のめざましい変革ぶりをみて、中国は経済成長を続けている、改革開放政策が成功している、と見ている人も多い。本書が伝える中国農村の実態は、そうした幻想を完全に消し去るだろう。」(訳者・まえがき)
 私たちは社会主義市場経済が始動し始めた頃、1990年代の初頭、広州駅の広場で百万人にのぼる「盲流」(農村からの出稼ぎ労働者)の渦にまきこまれたことがありました。あの情景はいつまでも忘れることができません。進藤文夫・内田純一さんたちと一緒でした。
 その後は「民工」潮と言いかえられて・・・しかし上海でも北京でも、農村からの出稼ぎ労働者が過酷な仕事を強いられている現実。いま大都市の3K労働はすべて農村出身者といってよいのです。都市住民がそれなりに享受している社会保障などなく、子どもたちの無償の公教育も与えられない。農村戸籍(二元戸籍制度)に縛られ、あたかも別の国の隷属民のような位置づけ。
 この書名はもともと、若き毛沢東「農村調査」を踏まえて名付けられたとのこと。著者夫妻「農民調査」の舞台は江南・安キ省の小さな農村、3年の歳月を費やし、約50の県をまわっての「調査」。たとえば、ある農家の1年の収入はわずか1000元、税金や費用を出すと、手元には100元(1元は約14円)しか残らない・・・と。
 機上でページをめくり、そんな農村・農民の厳しい暮らしに思いをはせながら、那覇空港へ。これから5日間の沖縄です。

1578号【12月19日】
◆<PC−HP−TOAFAEC 研究会・記録化>
 ワープロからパソコンに移ったのは10年ほど前。振りかえってみるとこの間、2年に1台のパソコン。実は数日前にVAIOの一番軽いTタイプを仕入れました。5台目。
 2000年夏、ドイツに出かける際に買ったVAIOモバイル・ノートブックがいよいよ限度にきて、のろのろ・めろめろに。バッテリーもひどく劣化し、先日の松本のホテルでは通信中にパワーが切れるような状態に立ち至ったのです。しかしこの5年間、よくぞ勤勉に働いてくれた、なにしろすべての旅に付き合ってくれました。17日夜に“ご苦労さん!”と(ひそかに)声をかけて乾杯。そして、新しいパソコンにも“頑張れよ!”と言い聞かせて、終日、ホームページ関連のFTPとかデジカメ画像編集ソフトなどインスツール。(この風は、新パソコンからの送信第1号です、届かない?場合があるかも。)
 ところでホームページも更新してほぼ1ヶ月。だんだん落ち着いてきたようです。あまり悩まないで自分勝手につくっていますから、外からの訪問者には見づらいところがありましょうが、旧ホームページとのリンク作業も多少すすんで、やや多層的になってきたのではないか、と甘い自己評価をしています。感想・助言など頂ければ幸い。
 この作業中にTOAFAEC 研究会の毎回の記録(「南の風」に収録、石倉祐志の労作)をHPにアップしようと思いたちました。研究会「案内」はHPに掲載してきましたが、「記録」は「南の風」どまり。10年の歩み、113 回の蓄積、歳月の経過とともに(単なる記録に止まらず)案外と資料的価値も出てくるのではないかと思っています。
 今日の空き時間で、やっと2005年・12回分(時間がかかる!)を整理、石倉さんの了解も得ましたので、HP表紙の左上に小さく「研究会」を載せました。ご覧ください。
 TOAFAEC 研究会の歩みのうち、前半は内田純一さんが記録を書いてくれたはず。「南の風」発行以前は、初期「ニュース」に掲載だったかな。折りを見て、内田パソコンの中から「記録」を拾い出して、送っていただけませんか。 

1577号【12月17日】
◆<“時を惜しむな”>
 奥共同店100年企画については、中村誠司さんのメール(風1573号、12月10日)等を興味深く拝見していました。上記・沖縄タイムスの記事(12月11日)によれば、戦前から奥区は隔絶した集落であるにもかかわらず上級学校進学者が多く「共同店の奨学金制度が人材育成に果たした役割は大きい」ことが指摘された(宮城悦生氏)とのこと。ぶんじんはこの数年来、沖縄各地の字誌を通覧しながら、沖縄独自の「集落育英会」活動の歩みを調べ、小さな報告にまとめました(HPに収録→)。しかし、奥の共同店(そして奨学金制度)については、気になりながら、まったく触れていません。
 今回の共同店100年企画に関連して、奥の育英奨学金制度についての記録等があれば、ぜひ拝見する機会を得たいもの。いずれ名護・やんばるを訪れる機会にでも(誠司さんを通して)お願いできないものでしょうか。
 ところで、12月24日夜・沖縄(中頭郡)青年団運動OBの集まりに向けて訪沖できないものかと、この一週間、東京の年末日程との調整に苦しんできました。しかし成功せず、一時はほぼ諦めましたが、あえて二つほどの不義理をお許しいただいて、21日から25日までの沖縄行きを決断。前に予定していたフライトに加えホテルの予約も完了。
 「時を惜しむな、金を惜しむな・・・」の言葉(上野英信)あり。これまでも、「行くか行かないか」「どうしよう?」と迷ったときは(自閉しないで)動いた方がいい、ダブルスケジュールで困ったときは、近くより(少し無理しても)遠いところへジャンプしてみる、その方が後悔はない、これまでひそかに考えてきたことです。無理をしても動けば、必ずや報われるところがある。さて、今回はどんな旅になるのか。
 こんな独白の背景として、人形劇人“うそまこと”からのハガキ(略)をご覧下さい。まことに申しわけない!

1576号【12月15日】
◆<年末の沖縄行き>
 この欄で何度か書いたように、沖縄青年団運動の歩みについての証言・資料収集へ向けて、一歩動き始めた感があります。年内に関係者(とくに中頭地区)にお会いする機会が話し合われ、ポンと“跳躍”して中頭青年団OB諸氏の忘年会企画へ。いまのところ12月24日夜、沖縄市・クラウンホテルを会場に開かれることが確定したそうです。
 この動きのなかで、沖縄青年運動史研究会も登場。事務局の山城千秋さん(熊本大学)からの連絡に応えて、小林平造さん(鹿児島大学)から次のようなメール(Wed, 14 Dec 2005 11:37)を頂きました。
 「…公民館学会、内容が充実していた様子。公務で出席できなかったのが残念です。
 …沖縄青年運動史研究会の件ですが、24日は無理すれば出席できます。その際は23日に出発して、25日に帰宅かというところです。以上は、航空券が取れればという条件付。25日は、午後に院生の結婚を祝う集いがあり、帰宅しておく必要があります。」
 山城千秋さんは24日に向けての帰沖は無理とのこと。ぶんじんはこれまでの経過から出席する責任があると考え、すでに東京−沖縄の航空券も確保済みですが、当初の日程案が変更されたこともあり、いま年末・東京の先約との調整に難航中。昨日の電話で、東武さんにもこの事情を話しておきました。
 あと数日お待ち下さい。もし行ける場合は、忘年会だけでなく、その前後に1両日のスケジュールをつくって(少なくとも12月21日には沖縄入り、22日〜23日の両日等)都合のつく時間帯で、中頭青年団OBたとえば仲宗根悟氏や中根章氏等の証言聞き取り、資料閲覧の機会をお願いしたいと考えています。東武さんにも、その際は、時間の調整等についてご相談したいと伝えてあります。せっかくの訪沖ですし、忘年会出席の機会を活用したいのです。

1575号【12月13日】

◆<内なる「識字」問題>
 この機会に日本の“内なる識字問題”研究についての回想を。
もうはるか昔になりましたが、1990年の国際識字年、この国際的な動きを契機として、日本社会教育学会は研究年報35集『国際識字10年と日本の識字問題』(1991年)を刊行しました。たいへん好評で、学会年報としては珍しく在庫がなくなったことが話題に。識字問題が本格的に取りあげられたのは、日本の教育関連学会では初めてのこと(編集委員・故小沢有作氏の感想−同書「まえがき」)。
 ぶんじんはこの年報の担当理事・編集委員長。その責任もあって「東京の識字マップ」第1次調査に挑戦し、あいついで第2次・第3次調査をまとめました。いずれも東京学芸大学社会教育研究室(当時)の発行。研究室メンバー協同の労作、まだ少し在庫あり、興味ある方はHPを。
 この時期は、いわゆる外国人労働者・外国籍住民の比重が増え、東京などで、ようやく日本語教室・識字学級が社会教育事業として開始されていました。対外的には東南アジア等への「TERAKOYA」運動への援助。
 しかし、私たちは“内なら識字問題”への着目が抜け落ちていること、韓国の社会教育研究者が多く識字(文解)研究に関心をもっているのに日本の研究者はほとんど識字問題についての認識がなく、研究蓄積も皆無にひとしいこと、などを論じあったものでした。
 あらためて被差別運動における識字学級や、夜間中学の取り組み、川崎ふれあい館の挑戦、そして鈴木敏治(茅ヶ崎)や加藤有孝(福生)などの社会教育実践、いわゆる“内なる識字”実践、に注目してきたのでした。
 1996年に創刊したTOAFAEC 『東アジア社会教育研究』の巻頭論文では、そんな問題意識の流れのなかで、金宗西さんの『韓国文解教育問題の考察』を日本語訳にして掲げました。私たちの熱い慫慂に対して、金宗西さんから暖かい承諾のお手紙を頂いたのも昨日のことのようです。
 それから10年が経過している・・・、と思いながら、荒井容子さんのトロント報告(識字教育について)を読んだのです。

1574号【12月12日】
◆<新『ハンドブック』普及を!>
 日本公民館学会編『公民館・コミュニティ施設ハンドブック』いよいよ刊行!のニュースは、すでにご存知のことと思います。「風」では版元・エイデル研究所の山添路子さんから特別販価のお知らせ(1562号)がありましたし、風を読んでおられるメンバーのなかにも多数の執筆者。本号では、編集委員会の中心で奮闘された手打明敏さん(筑波大学)から、特別価格による購入受付のご案内(上記)が届きました。
 学会編による画期的な『ハンドブック』、せっかくの出版を世の中にどう広めていくかがこれからの課題。普及・販売についてぜひともご協力くださるようお願いいたします。
 学会編などという刊行物は、どうしてもある程度の価格となり、結構いい値段!なのです。そこで、とくに編者・執筆者扱い、学会を通す場合には、特例の割引額(6,000円→4,200円)を設定してもらって、大学・研究室関係や図書館はいうまでもなく、とくに公民館や地域施設等への周知・普及を広くお願いしていきたい。公費購入の場合に必要な書式等もエイデル研究所で対応していただけるとのこと。まわりの公民館関連の主事会や市民ネットワーク、あるいは県郡市の公民館連絡協議会等にもご紹介、ご推薦ください。5冊あるいは10冊とまとめて注文していただくような流れになれば有り難いのですが・・・。まわりに執筆者や学会関係者が直接に見当たらない場合は、ぶんじん(南の風)宛にご一報いただいても結構。特別価格の枠で送本できるよう、手続きします。
 話はかわりますが、先日めでたく第一子誕生のアーデルさん(カイロ大学)から、「私の息子の笑顔写真を送信します」と画像が届きました。風は添付ファイルを付さない原則なので、HP・12月スケジュールのページにアップしておきました。嬉しいおめでた写真、ご覧下さい。
 というわけで、荒井容子さんの「トロント報告」は、またしても次号掲載となってしまいました。お許し下さい。

1573号【12月10日】
◆<早くも忘年会>  *上原信夫氏写真
 9日夜は第113回定例研究会。ゲストは久しぶり上原信夫氏。研究会としてお話しを聞くのは3回目です。回を重ねるたびに、この先輩の人生ドラマの激しさに圧倒されます。今回ようやく沖縄民主同盟(戦後アメリカ支配下沖縄にいち早く台頭した政党、1947年結成、上原さんは青年部長)に話が及びました。当時を回想され、話は高揚して、一同シンとなる一瞬も。昨年初めてお会いして丁度1年、ますますお若い上原先輩でした。この夜は研究会に初参加3人あり。嬉しいことです。1年ぶり(当然!)の忘年会。詳しくは、いつもの通り石倉さんの研究会報告をお楽しみに。
 皆さんと別れて家に帰ったところ、驚いたことに山東省烟台の張林新さん(日本語学校々長)が来ていました。わずか数日の滞在とのこと。あらためて忘年いや“望年”の乾杯。小泉・靖国問題の影響が次第に拡がり、日本語学校としてはつらい時期、なんとか乗り切ってほしい、と願ってまた乾杯。帰りの電車がなくなり、“風の部屋”に泊まっていきました。
 今朝(10日)、TOAFAEC 掲示板に投稿がありました。まったく未知の方、愛知の高校関係者。2年ちかく前の風1222号・本欄「別所温泉」回想が目にとまってのお尋ねです。久原甫氏(元国立教育研究所)の連絡先をどなたかご存知ないかとのこと。当方はいま年賀状の交換もきれてしまって、残念ながら「分かりません」と返事。
 「掲示版」には、最近、乱暴な出会い系サイトの書き込みあり、あるときなど裸像も貼りついている始末(すぐ削除)。掲示版撤去も考えましたが、現在はそれと分からないようにHP表紙にそっと忍ばせています。このようなお尋ねがあれば(直ちにお役にたたないにしても・・)残しておいてよかった。
 トロントの荒井容子さんから便りをいただいていますが、長文のため次号に掲載します。
以上、昨夜から今朝にかけての日誌でした。

1572号【12月8日】
◆<自治公民館をみつめる眼>
 日本公民館学会(松本大学)公式プログラムの翌日(12月5日)、前号にも書いたように、松本市「町内公民館見学会」が開かれました。南の風1562号(伊東秀明さんの呼びかけ)、1563号(矢久保学さんの案内)に記された企画。参加者は約20名。このメンバーにとっては、公民館学会は3日間続いたわけです。二つの町内公民館を訪問、充実した時間を過ごしました。
 松本の「町内公民館」は、いわゆる「自治公民館」。この企画の背景には、社会教育研究全国集会「自治公民館・小地域」分科会の論議がありました。日本に7万をこえる規模(全公連調査)で存在している自治公民館や、大都市を含めての「小さな地域」の住民活動・近隣自治をめぐる動きにもっと注目していこう、公的セクターの公民館論だけでなく、市民・住民の視点からの、あとひとつの「自治公民館」実践や研究をしっかり位置づける必要があるのではないか、という主張です。この分科会4年間の報告や論議は、TOAFAEC ホームページに収録されています。
 本号・矢久保学さんの、ほとばしるような“思い”にある「公民館にながれるもうひとつの水脈」も、この点に関連しています。今回の学会では、三多摩テーゼの評価にも関わって、毎晩の(お酒を含む)交流の席で盛んな議論が交わされました。
 学会の3日間が、いろんな波紋を広げていくようです。これから、どのような展開が始まるのか、興味あるところ。本号は、学会に関するメールが相次ぎ、長い風となりました。このあたりで。

1571号【12月6日】
◆<松本から帰って>     *日本公民館学会・写真
 12月3日から開かれた日本公民館学会研究大会(会場・松本大学)にご参加の皆さん、お疲れさまでした。学会は今年で第4回。公式日程は2日間でしたが、3日目(5日)に、小地域・自治公民館研究グループ(全国集会分科会世話人)が呼びかけた松本・町内公民館の見学会−これがなかなか良かった!−を含めると、実質的には3日間のプログラム。5日夕に帰ってきました。風としても3日間のご無沙汰。
 学会は、首都圏から離れてはじめての地方開催、それだけに参加者数などその成否が気になるところでした。結果的には公民館学会らしい独自な報告があいつぎ、充実した内容で論議も活発、大成功だったのではないかと(主催者としては)思っています。まだ小さな学会ながら、第4回大会にして、(種を播き、芽が出て・・・)いまようやく学会としての“幹”が造られ始めたという実感。
 なによりも信州そして松本という公民館の蓄積をもった自治体での開催、とくに公民館を媒介として大学を地域に開く努力をされてきた松本大学を会場にしたことが大きかったと思います。
 学生の皆さんも、よくみられる会場お手伝いにとどまらず、フィールドワークやコミュニテイ起業など自らの取り組みを積極的にプレゼン! 学会プログラムの展開のなかに、巧みに、ときにパワーポイントも活用して、学生たちの躍動がありました。白戸洋(助教授)、住吉廣行(副学長)両氏をはじめとして、大学関係者とりわけ学生の皆さんに御礼を申しあげます。閉会挨拶でこのことに触れたとき、会場で駆け回っていた学生の姿が見えて、年甲斐もなく(いや、年のせいか・・・)思わず声がつまってしまいました。
 矢久保学さん、村田正幸さんほか多数の松本公民館関係の皆さん、夜の交流を含めて、ほんとにお世話になりました。有り難うございました。学会の新しい特徴となっているポスター・セッション、そこにはるばるポスターぶらさげて、積極的に報告してくれた福岡の永田香織さんなど13名の方々、ご苦労さまでした。学会の持ち方も含めて、感想などを「風」にお寄せいただければ幸いです。

1570号【12月3日】

◆<沖縄青年運動史研究への思い>

 前号の続き;
 そういえば、11月28日夜(那覇)旧「おきなわ社会教育研究会」との久しぶりの交流会には、病後リハビリ中の新城捷也さん(元・県教委社会教育主事)が見えました。痩せておられましたがお元気です。2002年・名護の全国集会以来のこと。この席でも、かっての中頭・青年団の話題になりました。
 玉那覇正幸さん(宜野湾市役所)は「おきなわ社会教育研究会」事務局長でしたし、東武さんともこの30年近く、間断なく会う機会がありました。中頭「ひろば」活動に関連して、また金武湾問題その後、あるいは平敷屋エイサー、パピリオン、などなど。上京の折り、国立や“風の部屋”に泊まってもらったり、また勝連の東さんのお宅に転がりこんだこともある仲。
 最近では、2003年10月の屋慶名(金武湾闘争をめぐる公民館分裂)調査、2004年5月の平敷屋(集落育英会)調査など、東さんは休暇をとって車で案内の労をとっていただきました。その折々に、復帰後・沖縄青年団運動のいろんな話、問わず語り。たとえば、「南の風」1275号(2004年5月29日)本欄には、次のように書いています。
 「…勝連への道中、東さんとの語らいは、どうしても当時の青年運動のことになります。そのうちに資料を前におきテープを回しながら、ゆっくりと話を聞く必要があります(約束しました)。」
 沖縄の青年団運動は、祖国復帰運動の大きな潮の流れのなかで大きな役割を担ってきました。また地域のなかでは集落の青年会活動。本土のどの地域にも見られない独自の歴史を刻んできました。運動それ自体に、また関わった青年たちにも、多くのドラマがありました。しかし初期の『沖縄県青年団史』(沖青協編、1961年)を除いて、歴史・資料がきちんと残されて(公開されて)いません。私たちの『おきなわの社会教育』(小林・島袋編、2002年)の記述も青年運動史については充分ではない。資料の散逸・風化も進んでいる。青年団OBの元気にも励まされながら、私たちにどんな取り組みが可能なのだろう、そんな話がこの間に重ねられてきました。
 「沖縄青年団運動史研究会」(仮)を立ち上げようではないかという思いは、こんな経過から具体化し始めたのです。

1569号【12月1日】
◆<沖縄県青年団運動との出会い>

 名護で見失っていたカメラは、名桜大学・中村誠司さんから東京へ送っていただきました。有り難うございました。充分すぎるほどの柔らかな包装、機能も画像もすべて無事でした。早速、カメラから4枚ほどを取り出し、さきほど編集してホームページに掲載。ご覧下さい。
 相次いで、赤崎隆三郎さんからも写真が。重い容量(高画質)なので1枚だけアップ。なにしろ10倍近い容量です、お許しを。
 ここ数号は沖縄に関する記事が多くなっています。本号はとくにすべてが沖縄のテーマ。もともと“南”の風は“沖縄”研究・交流のために吹き始めたもの、その意味では初心にかえった気持ち・・・しかし、沖縄に関心ない方々(留学生を含めての配信先)には申しわけない思いが複雑に交錯します。「風」編集としては、東アジアを含めて、毎号できるだけ多様な内容となるように心がけているつもりではありますが・・・。
 ところで、風1567号に書いたように、今度の訪沖でやや唐突に「沖縄青年運動史研究会」(仮)が登場しつつあります。この機会に、その経過を少し書いておきます。
 私たちの沖縄研究の開始(1976年〜)当時、沖縄県青年団協議会関係者との印象深い出会いがありました。復帰後の厳しい時代に会長をつとめた田場盛順・東武、事務局長の照屋雄健、あるいは常任理事の玉那覇正幸、棚原正和などの皆さんです。中頭郡の関係者が多い。
 媒介のキーパースンは宮城英次・新城捷也の両氏(沖縄県教育委員会社会教育主事・青年担当)。さらに松田政弘、安谷屋幸勇、仲里千代子他の次の世代の会長・事務局長等の皆さん。懐かしい顔ぶれです。
 田場さんは、沖青協からはじめて社会教育研究全国集会に参加した人(第17回、福岡集会)。東さんたちは、私たちをはじめて南部戦跡へ案内、復帰後の基地問題や金武湾・CTS問題、そして海勢頭豊「喜瀬武原」等に出会わせてくれた・・・と書きはじめると長くなりそう。
 次号へ。

1568号【11月29日】

◆<名護「大国林道」>
 前号の続き;
 26日の余韻さめやらぬ中、27日は沖縄市中ノ町・中根章さんのお宅を訪ねました。中根さんは1932年生まれ、沖縄県青年団協議会がいち早く復帰問題を提起した当時の常任理事(1955年〜)、1958年には(仲宗根悟氏を継いで)事務局長、その前後より沖縄原水禁運動に参加、環境問題(川を蘇生させる運動)にも取り組んできた典型的な沖縄青年団運動のOBです。東武さんと照屋雄健さん(東会長時代の事務局長)が一緒でした。
 短い時間ながら、アメリカ占領の厳しい圧政下、元気よく活動した当時の雰囲気、とくに中頭青年団の独特の活気、を語っていただきました。12月中旬過ぎにOB諸氏に呼びかけ、まず忘年会の集いを計画しよう、そのときにまたお会いしましょう、と約して別れました。忘年会の日程は、12月17日(土)あたりが第1候補。この日は、戦後初めて沖縄青年連合会(沖青連)が結成(1948年)された記念日だそうです。
 この日、名護には遅れて午後5時過ぎ着。博物館の中庭に「ものづくり塾」の皆さん。もちろん塾長(島袋正敏さん)、そしてメンバーには島福善弘さん(源河リュウキュウアユを呼び戻す運動)など。一緒に閉会のビールをいただきました。そして中村誠司さんや宮城満さんの顔も。
 そのあとの名護十字路「大国林道」3階は、実に楽しい会となりました。与論島の赤崎隆三郎さん(9月、ともに参加した韓国・光明市・生涯学習フェスティバルでは会えなかった!)や、照屋秀裕さん(名護市役所)、そして駆けつけた岸本力さん(2002全国集会事務局)など。若々しいサンシンで座は一段と盛り上がり。
 夏の福岡・油山の集いからちょうど3ヶ月です。オーナー・山城秀夫さんはこの夜も賑やか。あらためて油山パーティで大奮闘した農中茂徳さん一家への感謝(「大国林道」秘蔵の古酒瓶を託される)。庭の3本の白樺の話もあり、酔っぱらいの、おおげさな賛辞で、油山のせまい寓居はいつの間にか架空の大邸宅?に早がわり。いい気分でした。
 来年1月20日、名護・ヒンプンガジュマル前の徳田球一碑のそばに、同じ名護出身の「宮城与徳」をしのぶ新しい碑が建立されることになり、その除幕式が行われるそうです。その頃には、やんばるの桜も満開か。 翌28日は那覇へ。夜「おきなわ社会教育研究会」メンバーと。長くなりますから、また別の機会に書くことにしまよう。
*写真移動→こちら

1567号(2005年11月27日)
◆<半年ぶりの沖縄>       *関連写真
 11月25日夜、那覇に到着。南の風1553号・1558号の本欄に書いたように、私なりに思いを新たにしての沖縄。半年ぶりです。
 今回、東京からは一人。石倉祐志さん、山口真理子さんなどの心も動いたようですが、具体的な日程となると、簡単に調整できず、断念のメールが届きました。
 こちらでは、沖縄に帰っていた山城千秋さん(熊本)と合流しました。26日午後、浦添・当山の田場盛順さん(1972年復帰当時、沖縄県青年団協議会々長)のお宅、「復帰前後・沖縄県青年団運動の軌跡」について興味深い話を伺いました。同席は、東(あずま)武さん(1975年〜1976年、キセンバル闘争当時の同・会長)。
 戦後日本のどの地域にも類を見ない沖縄の(復帰運動の激動を闘った)地域青年団運動の歴史。この機会に「沖縄青年運動史研究会」(仮)といった取り組みを立ち上げ、証言聞き書きと資料収集の継続的な作業を始めてはどうか、山城さんに事務局をお願いをしよう、そんな協議をしました。早速、この12月に青年団OB諸氏に呼びかけて、忘年会をかねた顔会わせの集いの企画も。この日の集いが、いいきっかけになればと期待しています。
 ビールと泡盛を飲みながら約5時間。土曜日だからか、普天間基地に乱舞するヘリの爆音もなく、庭からは浦添ヨードレを望む田場さん宅に静かなときが過ぎていきました。東さんが勝連の浜で釣ってきたグルクンやエーガァの皿が卓上に並んで、海人(うみんちゅ)の手料理、とくにエーガァのマース(塩)煮が美味しく、思わぬ馳走に舌鼓。

1566号(2005年11月25日)
◆<EAFAEの集い>
 11月20〜22日、「東アジア成人教育フォーラム」(EAFAE)が東京で開かれました。初日20日(日)は、法政大学・キャリアデザイン学部(笹川孝一学部長)主催、シンポジウムT「生涯学習政策とキャリアデザイン」(午前)、シンポジウムU「東アジアにおける生涯学習政策の現段階」(午後)、というプログラム(会場・法政大学)。
 21日(月)は、国立オリンピック記念青少年総合センター(代々木)に会場を移し、分科会T「EAFAEの10年と展望」(午前)、分科会U「東アジアのコミュニティ教育」(午後)、22日(火)午前・EAFAE 総会、午後・ツアー、23日・解散、の日程。(あいにく別用と重なり、第一日のみの参加となりました。)
 EAFAE の前身は、1990年前後からソウル・大阪・大邱・川崎と開かれてきた日韓社会教育セミナー。この間にはいろいろと思い出あり。当時の東京学芸大学社会教育研究室の韓国への関心と重なる時期でした。
 1995年より、韓国・金信一氏や日本・笹川孝一氏等を中心にして「東アジア成人教育セミナー」(EAFAE) が発足。ソウル、香港、マカオ、シンガポール、台湾と、隔年開催の集いが開かれてきたようです。1995年といえば、私たちのTOAFAEC も発足の年。当時、笹川さんから「共同して・・・」という話もありましたが「それぞれに多チャンネルで・・」などと応じた記憶があります。
 そして今年、東京で EAFAE・第6回の集会。会場やスタッフ、そして資金など法政大学の積極的な援助があり(さすが!学部長!)、初日のシンポジウムは想像を超える盛会、興味深い内容でした。詳しい報告は、いずれ実行委員会でまとめられることでしょう。楽しみです。
 ところで20日は、ご存知のように、東京女子マラソン大会の当日でした。EAFAE の昼食懇親会(26階)の窓からふと下を見ると、お堀端に人が群れている・・・マラソン応援の人並みだ。思わずひとり会場を離脱して、急ぎ足でお堀端の道路へ。ちょうど高橋尚子が、スパートして先頭に立ち、四谷の坂へ駆け上るところでした。
 やはりプロランナーの迫力、サングラスのひたむきな顔の輝き、目の前をトップで走っていく勇姿は、印象的なものがありました。
 というわけで、午後のシンポジウムには15分ほど遅刻。

1565号(2005年11月23日)
◆<新・上海本>
 ご承知のように、2003年秋、三世代の編者(呉、末本、小林)による『現代社区教育の展望』(上海教育出版社)−中国語版−が刊行されました。中国関係者の間でも、いい評価を得たそうです。その姉妹本をつくろうという企画が昨年末の訪中(福建・北京)の際に話し合われました。
 新しい本の主テーマは『現代生涯教育論−学習社会への架橋』(仮題)、版元は同じく上海教育出版社。今年に入って、章節の構成案が確定、呉・末本両氏の分担のほか、小林担当分はTOAFAEC の中心メンバーが力を合わせて書くことになり、この間、執筆の努力が続けられてきました。しかし当初の原稿締切の期限は、それぞれの事情が重なり、予定通にいかず。その後、のびのびの状態に。
 それでも日本からの報告については、地域事例5本すでに完成、1本を除いて中国語訳出済み。しかし各氏の論稿部分は遅れています。そろそろ出来上がる頃かな、と期待しています。
 先月の訪中の折り、呉さんから、出版関係の契約や締切条件が厳しい中国の事情について話があり、入稿についての真剣な訴えがありました。日本の大学がいま(国立も私立も)非常に忙しい状況にあることなど説明して、お詫びしておきましたが、「大学が忙しいのは日本だけではありません。中国はもっと追われています」との反論。おそらくその通りでしょう。
 今年もすでに11月の下旬。関係の方々、12月中旬あたりを目途に原稿を仕上げていただけませんか。小林担当分の諸原稿は日本語稿の段階で相互に調整し、直ちに(今年中に)中国語訳の作業に入ることができれば幸い、と思っています。
 なお、全体の進行が遅れてきた経過を活かして、いま躍動的な動きを見せている韓国「平生学習」の動向について、特論的に1章を加える計画、呉さんも了解済み。先日、韓国(李正連さん)に急ぎ依頼をしました。この機会に思い切って台湾(「終身教育法」制定、2002年)報告も含めては如何でしょうか。福建省で行われた国際シンポジウムや研究年報に台湾からの報告(中国語、当然!)がありますし、呉さんのご検討をお願いしたいところです。

1564号(2005年11月21日)
◆<小地域への関心>

 ここ数年、とくに「小さな地域」(字、集落、自治公民館)について関心をもってきました。大きな広域自治体への合併の流れ、その対極にある「もうひとつの自治」への問題意識はもちろんですが、なによりも実像として小地域、集落活動、近隣自治、また新しくNPO等の存在を実感するからです。小さな地域の活動は、しっかりと見る眼をもたないと見えてこない。見えてくると、その動きは躍動的に見えてくる。
 たとえば、沖縄の字(あざ)公民館、ハンブルク・アルトナの市民活動、横浜や貝塚の市民ネットワーク、あるいは松本の「町内公民館」等に刺激を受けてきました。そして、こんどの日本公民館学会(12月3/4日、松本大学)の機会に、松本市・町内公民館の“実像”をみる見学会(風・1563号)企画が動いたことを喜んでいます。
 これまで公民館研究の世界では、その公的制度の確立や専門職制の追求のあまり、ともすると集落の住民活動や自治公民館の可能性について、正当に評価していく視点が弱かったと思います。ときには否定的な立論もありました。
 2002年の第42回社会教育研究全国集会が名護で開かれた折、字(自治)公民館をテーマにする分科会が設定され、関心をもつメンバーのネットワークが胎動。その後の岡山、磐梯、福岡と続く全国集会のなかで、自治公民館の分科会は継続されてきました。世話人の中心には美若忠生さん(岡山)。この「自治公民館・小地域の学習活動と地域づくり」分科会の拡がりが、今回の松本市「町内公民館」見学の企画に結びついたと言えましょう。
 TOAFAEC・HP に「自治公民館・小地域活動」分科会記録のページを開いています。矢久保さんご案内の松本市・徒前町会公民館(2005年度・分科会報告),および蟻ヶ崎西町内公民館(2002年度、同)等のレポートも収録されています。あらかじめご一読いただければ幸い。

1563号(2005年11月19日)
◆<研究会の記録について>

 11月4日(金)の TOAFAEC 定例研究会の記録(風1561号)について、当夜の報告者・平井教子さんからクレーム(Fri, 18 Nov 2005 22:07)をいただきました。以下の通りです。
 「…(略)… 私の報告について簡潔にまとめていただいてありがたいのですが、最後の“公民館 の取り組みが手薄になったことは反省点である”というのは正確ではありません。
 教育行政として十分援助できなかったのではないかという反省を教育行政に携わるものとしてしたということです。
 1つの自治体のことを1担当者があれこれ話すのは誤解も生じやすいので、私としてはあまり気が乗らなかったのですが、鶴ヶ島も公民館のことを責任を持って進めている公民館の担当職員がいることを、どうぞご配慮くださいませ。」
 まことにご指摘の通り。不充分な表現になったこと、TOAFAEC としてお詫びいたします。今回の研究会へのご報告は、複雑な時期に、無理をお願いする結果となり、申しわけない思いです。
 しかし、当夜の研究会(終了後の交流会も含めて)は刺激的なひとときとなりました。これまでの自治体としての歩み、そこで重ねられてきたさまざまの取り組み、とりまく状況変化の激しさ、そのなかで新たに求められる次なる努力は・・・、地域の歴史はこれからどう動いていくのだろう、などなどと、いろんなことを(参加者それぞれの立場で)考えあった研究会でした。

1562号(2005年11月17日)
◆<新HP、月日を重ねつつ>
 風・前号の本欄をうけて、エイデル研究所・山添路子さんから、折り返しのメール(『公民館・コミュニティ施設ハンドブック』紹介)をいただき、ありがとうございました。同出版部・ホームページをアップされたとのこと、早速拝見しました。さすが!いい出来映え、洒落たページづくりです。これからが楽しみ。
 ところで皆さま、TOAFAEC 新HPをご覧いただいたでしょうか。お気づきのところ、改善点(使いづらいところ)などご遠慮なくご指摘いただければ幸い。旧HPの「目次」と「表紙」のフレームを取っ払って、新味を出したつもりですが、それだけにかえって見づらい、使いづらいところがあるんじゃないか、と気になっています。手づくりの表紙、月日を重ねながら必要な修正や、記録となる写真も盛り込んで、少しづつ躍動的な誌面づくりにつとめるつもりです。
 真ん中の写真の左側が、これから掲載していく記録・資料等の収蔵目録欄、左側がスケジュールやご案内などの新しいTopics。例によって3点ほど“NEW”マークを付しています。下欄は,新旧の収蔵庫のリンクや更新履歴、アクセス・カウンター、そして事務局連絡先など。掲示板は最近の見境のない出会い系サイトの書き込み被害あり(旧HP,ひどい時代になったもの!)、早々に引っ込めたい。
 事務局メンバーの皆さんについては、住所や電話など個人情報に類するものが含まれていますが、連絡上の便宜もあり、これまで通りのファイルを掲載しています。しかし控えた方がよいかも。ご意見を下さい。
 HP へフアイルを転送するプロトコル(FTP)の設定は、今回は独力でうまくいきました。しかし、FTP 君も酷使に疲れたのか、昨日の午後からなぜかご機嫌ななめ。久しぶりに山口晃弘先生(この師匠がいなければ今日のHP はない)にメールで教えを乞うているところ。

1561号(2005年11月15日)
◆<『公民館・コミュニティ施設ハンドブック』>
 この2年越し、日本公民館学会が取り組んできた初めての本格的な出版。いま出来あがる寸前となりました。南の風メンバーには、編集の中心を担う人あり、編集の実務で奮闘した人あり、また100人をこえる執筆陣のなかに参加された方々少なからず、この間のそれぞれのご協力、まことに有り難うございました。
 今年度の日本公民館学会大会(第4回、12月3〜4日、松本市)プログラムが送付されてきたなかに、版元・エイデル研究所のちらしが同封されていました。裏面にはぎっしりと目次及び執筆者の一覧。執筆項目および資料数は計約150余。総500ページ。これを見ていて、あらためて、公民館研究(公民館学)の体系的な構図、そして公民館60年の歳月と蓄積を思いました。
 新本の実物は、残念ながら。12月初頭・大会当日には間に合わないようです(来年1月刊行とのこと)が、すでに定価も決まり、学会扱いの特別価格が設定されています。この機会に、できるだけ多くの方々の手にわたり、これからの公民館およびコミュニティ施設の発展に寄与したいもの。
 編集長の手打明敏さん(筑波大学)あるいは編集実務にあたってこられたエイデル研究所の山添路子さんからでも、『ハンドブック』普及に向けての一文(特別価格や申し込み方法)を「風」に寄せていただけませんか。・・・本号は、いつになく、真面目な文面となりました。

1560号(2005年11月13日)
◆<「七つ星の歌」>
 今年3月末、那覇の海勢頭豊ライブハウス「パピリオン」が閉じられました。たまたま那覇滞在中(花粉症のがれ)、閉店の最終日まで通って帰京した思い出、感慨深い数日でした(本欄に書きました)。
 その後、豊さんはどんな歌をうたっているのだろう、と気になっていました。これまでだと、那覇に着いたその足で「パピリオン」で飲めば、いろんな人に会えたし、新しい歌も聴けたのに。そんなとき、『週刊金曜日』(11月11日号、581号)「草の根ニュース」に,こんな記事が出ていました。海勢頭豊の新しい歌「七つ星の歌」、その大合唱。記事タイトルは「共謀罪先取る公安事件、完全無罪勝ち取ろう」。
 JR東労組浦和電車区分会の7人が、突然「強要罪」で逮捕された事件から3年。完全無罪を勝ち取る集会が1日、埼玉県さいたま市内で開かれたとのこと。主催は、弁護団を呼びかけ人とする「えん罪JR浦和電車区事件を支援する会」。組合員ら約2500人が参加したと。
 集会では、この事件が、共謀罪の先駆けになるという危機感が強調されたそうです。そして「エンディングは、シンガーソングライターの海勢頭豊氏(写真−愛娘の愛さんと−略)が7人に捧げる“七つ星の歌”を初披露し、会場は総立ちの大合唱となった」(西村仁美、ルポライター)。この歌を聞いてみたい、と思いました。
 いま手元には、創作グランドバレェ「血の婚礼」(海勢頭豊&ヒゴバレェ団)の案内(12月2日、東京・ネルパルクホール)が届いています。初演は1983年(沖縄)、その後は東京でも。そして今回は「世界のクラシック界に船出する実質上の初演」とのこと。意気盛んなものあり。

1559号(2005年11月11日)
◆<新ホームページお目見え>
 この1両日、ほかの仕事をやめてホームページの引っ越し作業をしていました。体は動かさず、指だけを酷使するという不健康な仕事ですが、あたかも研究室の書籍・資料の移動にも似て、それなりに疲れかつ楽しんだ時間でした。一応の新サイトの準備が出来ましたので、旧(現)ホームページの表紙に、次のようなご挨拶を書き込んだところ。
 「お知らせと御礼!
 本ホームページの容量が限度一杯となり、別サイトを新しく開設しました。11月10日以降の記事は新URLに収録しています。
 ひととび<こちら(新URL)>にジャンプして下さい。なお、これまでのファイル・資料を保存するため、本ページはこれからも当分開いています。約2年半にわたるご愛顧に厚く御礼申しあげます。(ぶ)」 *新URL→http://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/

 これまで作成・収録してきたファイルはすべて「収蔵庫」に一覧で示してきましたが、新しいホームページにこれから掲載するファイルも新「収蔵庫」に並べ、両収蔵庫をリンクで結んで、関連ファイルを縦横に利用できるようにしたつもり。
 新ページには25点のファイルを移動(または整理・再生)しました。一つは、TOAFAEC 規約・役員や「東アジア社会教育研究」バックナンバー「目次」などの基礎データ、それに加えて、東京・沖縄・中国・韓国・台湾など各項目(15領域)ごとに、当面新しいファイルを1〜2点ずつ。これから(11月10日以降)の記事・資料はすべて新ページに収録していくことになります。よろしくお願いします。
 旧ホームページは、記録として、まずはそのまま維持していきますが、今日まで延べ約5万人(回)の方々のご訪問!皆々様、この機会に厚く熱く、御礼をば申しあげる次第にございまする。

1558号(2005年11月10日)
◆<沖縄訪問日程>
 山原島酒之会(会長・島袋正敏さん)から「泡盛サミット in 名護・山原2005」(風1553号)当日のパンフと資料(「考古学からみた泡盛」など)が届きました。有り難うございました。パンフ表紙の写真が見事!どなたの作品でしょうか。
 カメから掬い出される古酒の一滴。ページをめくっていくと、垂涎の古酒蔵。協賛広告の扉に添えられている静かなカメの風格。こういう画像に・・・基地の風景はまったく似合わない!
 永福「風の部屋」の古酒カメ三つ。正月に少し飲んだまま仕次ぎの機会なく、どなたか山原の方が上京する折りにでも、また一手ご指南いただけないものか、など考えています。福岡・油山には山城秀夫さん(大国林道)ご持参の壺一つ。これも大事に開けないでいます。何年ものなのでしょうか?こんど会うときに聞く楽しみ。
 11月の沖縄訪問(風1553号)の日程が決まりました。9日の午後、東武さんと相談し、山城千秋さんの沖縄滞在とも合わせて、26日午後から夜にかけて、ゆっくりと話を聞くことにしました。次の通りです。
 11月25日(金)那覇着
     26日(土)「復帰前後・沖縄青年団運動の軌跡」
            証言:田場盛順・東武の両氏(いずれも元沖青協会長)ほか
            聞き手:山城千秋・小林文人など
     27日(日)名護へ(予定)
     28日(月)那覇へ(予定)
     29日(火)東京へ
 今年から来年にかけて、何度か機会を設けたいと考えています。関心ある方々の参加歓迎。時間・会場など詳細は新ホームページで。
 なお石垣・平久保への計画は次回に延ばすことにしました。

1557号(2005年11月8日)
◆<新しいホームページ>

 TOAFAEC・HP の表紙をご覧ください。小さく「新HP」のリンクが出ていることにお気づきでしょうか。ただし「工事中」です。風標記の URLも、まだこれまで通りのご案内、そのうちに正式に新しい URLへ変更することになります。
 10月中旬(1547号)の本欄で、ホームページの更新について悩んでいることを書きました。先日の中国行きの写真を5枚ほど掲載したところで、サーバー(so-net)が提供する最大容量の限度(50MB)いっぱい。古い記録を削除するか、それともあと一つの別サイトを開設するか。ぶんじん初版の旧HPから現HPへの更新の時点(2003年6月)で、結果的に大事な画像等を含めて一括廃棄してしまった失敗を思い出し、大慌てで新URLを取得することになりました。
 この2日ほど、いろいろ格闘?して、新HPの画面を試作しています。あまり苦しまないことにして、しかし、これまでの表紙とは一味違うところをどう創り出すか。あえて工事中の作品をアップしてみました。もしご覧いただく機会があれば、感想や助言などいただければ幸い。
 それにしても、2年あまりで50MBに到達したというのは立派なものだと褒めてくれる人あり。拙い写真や記録など、消去した方がいいものもありますが、ひとまず記録としてそのまま残し、その上で、すべての記録・資料リストを新旧「収蔵庫」として、すぐに抽き出すことができるようにリンクで結びました。かく申す本人が便利なように工夫しているに過ぎませんが、あるいはご活用いただく機会もあろうかと期待しています。

1556号(2005年11月6日)
◆<♪君はどこにいるのか♪>

 昨(4日)夜の研究会は高知から内田純一さんが来会、杉並の安井節子さんなどいつもとは違うメンバーのご参加あり、ゲストは久しぶりの平井教子さん。終わったあとの交流会はことさらに賑やか、終わりには海勢頭豊「喜瀬武原」「海の子守歌」を歌いました。懐かしの歌、印象的な一夜となりました。
 「喜瀬武原」は、かっての小林研究室の主題歌でした。沖縄・中部の喜瀬武原という集落を舞台に、米軍実弾演習反対運動を静かにうたった歌です。本号は長くなりましたので、その一節だけを。
 ♪喜瀬武原 陽は落ちて
  月がのぼる頃
  君はどこにいるのか
  姿もみせず
    風が泣いている
     山が泣いている
    皆が泣いている
    母が泣いている
     …(略)…
  闘いつかれて ふるさとの山に
  君はどこにいるのか 姿もみせず♪

1555号(2005年11月4日)
◆<「あの闘争があったから今の繁栄がある」>

 前号に続く。
 1955年の砂川基地拡張問題とそれに抵抗した砂川闘争。その立川基地も1977年に全面返還され、いま跡地利用が進められています。『砂川闘争50年』の「はじめに」の部分に、星さんが次にように書いていて印象的です。
 「立川市長の青木久さんは機会あるたびに、“あの砂川闘争があったから今の立川の街の繁栄がある”と言われます。青木さんは、旧砂川町の収入役として宮伝町長を支えて闘争にかかわってこられた方だけに大変重い意味を持った言葉だと思います。もし滑走路が延長されていたら、大型機が離着陸し住民は騒音と墜落の危機にさらされ続けたでしょうし、アメリカ軍が移っていくこともなかったでしょう。
 軍事基地に反対して農地を守り、地方自治を確立しようとした砂川の闘いは、全国の同じような立場におかれた人々にどれほど大きな励ましになったことでしょう。」(同書、3〜4頁)
 関連して、一つ思い出す話があります。アメリカ空軍によるベトナム北爆が激化していた頃(1970年前後か)のこと。立川市で開かれたベトナム反戦・連帯集会で、ベトナムからの訪日団代表は「砂川闘争により立川基地の拡張は阻止された、立川からベトナム爆撃の飛行機は一機も飛んで来ない!」と挨拶して、満場は深い感動に包まれたと。その会場にいた人々から伝わってきた話です。  

1554号(2005年11月3日)
◆<『砂川闘争の50年』>
 10月25日の日付で『砂川闘争の50年−それぞれの思い』と題する本が出版されました。星紀市さん(砂川市在住)の編になる砂川闘争の貴重な証言集(けやき出版、A5版、243頁、1800円)。
 星紀市さんは、2002年に「砂川の熱い日−砂川闘争47年目の証言」というビデオ版(製作:砂川を記録する会、語り手:原田芳雄、2時間6分)を世に出されました。砂川闘争の本格的な記録、その映像・証言は、見るものを圧倒する内容です。その当時、「南の風」にも紹介したことがあります。
 砂川闘争については、もう知らない人の方が多い?のかも知れませんが、1955年・立川米軍基地拡張計画に立ち向かった地元農民、学生、労働組合、あるいは日本山妙法寺の僧侶等の反対闘争。そして、今年はそれから丁度50年。
 米軍側が(横田基地を拡張することによって)計画をあきらめ、立川基地の飛行活動を停止(1969年)するまでの15年にわたる歳月は、砂川の関係者はもちろん、当時の三多摩の学生たちにとって忘れがたいもの。「土地に杭を打たれても、心に杭は打たれない」という言葉はながく人々の心に記憶されてきました。闘いに疲れ果てた学生たちが、泣き続けながら「赤とんぼ」の歌をうたったことも。
 歴史を風化させてはならじ!とする星さんの思い。私たちの「三多摩の社会教育の歩み」研究でも、「砂川基地闘争と青年団」についての調査記録(佐藤進)が収録されています(第2集、1988年)。言うまでもなく、1955年は原水爆禁止第1回世界大会が開かれた年。いま取り組んでいる杉並・安井家資料研究について、そのうち1冊の本にまとめることができないものか、と星さんの本を拝読しながら思ったことでした。
 『砂川闘争の50年』出版については、朝日新聞の紹介記事がありますが、本号が長くなりましたので、次号まわしに。この本ご希望の方はご一報下さい。 

1553号(2005年11月1日)
◆<沖縄研究、次の一歩を>

 今年も残すところ、あと2ヶ月。振り返ってみて沖縄研究の作業が中断された1年となった反省あり。昨年までの松田(九州大学)科研費グループによる沖縄共同研究が一段落したこと。一方で、研究ネットワークが途切れがちであった台湾への修復?研究旅行(5月)、続いて6月のドイツ行きをはさんで、韓国(9月)と中国(10月)への訪問、と忙しすぎるスケジュールに追われたこと・・・などなど、言い訳です。
 しかし沖縄のテーマは熱く私たちを待っているように思われます。研究費がなくても(これまでもそうだった)、少しづつ地道に沖縄研究を 継続し、せっかくの蓄積を一歩進めていく姿勢を持ち続けたい。
 当面いま考えていることは二つ。一つは宝の山「字誌」を研究的視点から読み解くこと。何が見えてくるか。中村誠司さんによる貴重な字誌「目録情報」データーベースもあり。一昨年と昨年に、字公民館法制と集落育英会についての字誌記録をまとめた経験からいっても、これまでにない地域史料が字誌として発掘され資料化されていることを実感してきました。字誌を横断的に分析するテーマはいろいろあります。
 あと一つは、かねて懸案になっている本土復帰前後の沖縄の民衆運動、とくに沖縄県青年運動(いま資料的に空白)の聞き書きと資料復元に取り組むこと。この時期は他に類を見ない貴重な運動史。東武さんとも相談し、11月26日〜27日あたりを第一候補として、いま日程調整中です。関係の方々に集まっていただき、ゆっくり回想をお願いし、史料を読み合うという計画。山城千秋さんも積極的に参加いただけるとのこと。関心ある方、ご都合がつく方々、ぜひお知らせ下さい。
 その前後の数日は八重山に遊んで、1年ぶりに平久保の歌碑の前で旧交を暖める旅をしよう・・・という案も浮上しつつあり。

1552号(2005年10月30日)
◆<油山・宴の名残り>

 8月末の社会教育研究全国集会(福岡)から、ちょうど2ヶ月ぶりに油山に泊りました。あの夏の夜、沖縄から参加の皆さんを囲んで約30名の飲んべえが集った思い出深いひととき。いまはもう秋深く。
 あれから韓国(9月)、中国(10月)への旅が続き、福岡に出かける余裕がありませんでした。その後、大きな台風も襲来して気になっていた・・・白樺に被害はないかと。幸い小さな枝が1本折れていただけ。もう黄葉が始まっています。まだ金木犀の残り香がただよい、庭の隅っこにはどこからか住みついた野菊が小さく咲いていました。
 部屋も庭も掃除して帰京したはずなのに、あの夜の宴(うたげ)の名残りがいろいろ、夏の興奮が甦ってきました。庭にはいくつかのビールの空き栓、棚にはご持参の古酒(クースー)の瓶、なぜか増えているコップ、普段は使わない二階部屋の布団、など。
 貝塚の松岡伸也画伯(社全協副委員長)は、騒々しいなかで、名護「大国林道」オーナー・山城秀夫の似顔絵を残していました。これがなかなか上品な出来映え、秀夫さんらしくない美男子に仕上がっています。「いい記念だ!」というわけで、農中茂徳さんが壁に(寺中作雄の絵の下に)飾ったのを記憶していますが、いまは静かに微笑んでいるだけ。あの夜の秀夫さんは、酔った勢い、海ンチュの大きな腕で、ぶんじんや農中の首を激しくしめつけたのに。8月29日ホームページに話題の証拠写真が残っています。
 夏に茂り過ぎたカズラを切ったり、笹竹を払ったり、ひとときの庭仕事。落ち葉も集めて、焚き火。こんなひとときを過ごすと、東京に帰りたくない気分。
 しかし・・・30日『辞典』編集会議あり、29日の深夜帰京。

1551号(2005年10月28日)
◆<福建省・生涯教育条例>

 今回の中国への旅では、いくつかの新しい動きを知ることが出来ました。その一つは、かねて注目されていた福建省「終身(=生涯)教育条例」が正式に成立したニュースです。
 福建省では2003年来、生涯学習施策の活発な展開あり。台湾からの参加を含めて大がかりなシンポジウムが開催され、研究年報も創刊され、そして「終身教育条例」案文が策定されてきました。その主要な動きは、送られてきた資料に基づき、白メイさん(中央大学・院)が『東アジア社会教育研究』第9号に紹介しています。ご存知の方もあるかと思いますが、白メイさんは福建省の出身。 
 「終身教育条例」草案については、黄丹青さんによりいち早く日本語訳に。ただし当時は正式決定ではないので未公開。なにしろ中国では初めての生涯教育法制化の試み!多くの関心が寄せられてきました。
 福建省からは呉遵民さんを介して日本の報告も要請され、昨年12月、末本誠さんと小林が「福建2004生涯教育フォーラム」に参加したことはご承知の通り。その頃の「南の風」に記事、ホームページに写真。
 正式決定をみた福建省「終身教育条例」策定に関連して、この間の報告と論議が1冊にまとめられ、末本・小林の両論文もそこに掲載されています。次回研究会でご紹介いたしましょう。また、呉遵民さん(論集の巻頭論文執筆)からも一文を頂けるのではないかと期待しています。
 ところで、中国から帰国した翌日、私の帰りを待っていたかのように、かねて入院中だった郷里の叔母が息を引き取りました(26日の早朝)。中国から帰ったその足で、いま福岡(通夜・葬式)に来ています。一昨年来より、父方と母方の叔母三人を亡くし、ただ一人存命だった叔母でした。近い親族では、私が最年長となってしまいました。


   
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