南の風・末尾後記(ぶんじん日誌)
1650号(2006年5月15日)
◆<自治体による公民館施設設計−施設空間論その4>
ご承知のように、全国の公民館数は約1万8千(文科省統計−自治公民館をのぞく)。そのすべてが公民館として独自に設計されたわけではないでしょうが、それぞれに公民館施設としての実像をもっていることは疑いない事実。そこに実際にどのような「施設空間」論の展開を読みとることが出来るか、この点で私たちは無関心に過ぎた怠慢を思わずにはいられません。
統計的には、全公民館のうち約65%(1万1千館余)が単独館、複合館が35%です。仮に単独館のみに限ってみても、これまで1万をこえる規模において、なんらかのかたちで(理念は別にして…)実態として公民館施設の設計がなされたきたことになります。
すでに姿を消した公民館施設のなかにも、さまざま思いのこもった施設空間論があったに違いない。たとえば、東京都杉並区立公民館(同公民館長・安井郁氏の原水禁運動資料研究に取り組み中)は、いまでも思い出に残る施設です。まず廊下で図書館施設と結ばれていたことが大きな特徴。公民館部分(延床面積654u)は、250人定員の(当時としては)本格的な講堂=ホールを核に、機能別の各室が配置され、中庭の緑を通して木漏れ日がさしこんでいた講座室の風景、木造施設の独特の雰囲気など忘れられません。
開館時の「杉並区広報」(1953年10月26日号)は、「文化区杉並に新威容−区立公民館落成」のタイトのもと、社会教育法第22条−6条項を掲げて新施設を説明しています。最後の部分には「…講堂は視覚教育の重要性にかんがみ、映画、演劇等の上演を考慮してステージも広く、光線、照明等細心の注意がはらわれ、映写室、技師室、機械室、浴室等も設けられている」と書かれています。
杉並公民館は、施設の老朽化もあって、1989年に杉並社会教育センター(セシオン杉並)に“発展”的に移行します。その後どのように展開していくのか。このような自治体それぞれの公民館「施設空間」の実像を分析的に追跡していく視点をもってみたい。玉石混交の実態のなかにどんな施設空間論が見えてくるか。
私自身としても、いくつもの自治体で公民館建設(改築)論議との印象的な出会いがありました。たとえば、国立、東村山、杉並(セシオン)、町田など。自治体の正規の審議機関に委員として参加する機会を与えられ、公民館をどう設計していくかについて、多くのことを論じあい、かつ学ぶことができました。(つづく)
1649号(2006年5月13日)
◆<象グループ語録−施設空間論その3>
沖縄は思わぬ人と出会う十字路のようなところです。たとえば、まだ若かりし頃の浅野平八さん(日本大学)やNHKの桑原重美さん(カメラマン)などとの出会いは、東京ではなく、那覇の居酒屋や名護の街角でした。建築家集団・象グループの大竹康市さんと会ったのも、場所は定かではありませんが、今帰仁村中央公民館を通してでした。
その後、東京に帰って新宿の場末(当時)に事務所を構えていた象グループを訪ねたり、大竹さんが私たちの研究室(東京学芸大学)にみえたり、研究会で話をしていただく、そんなお付き合いが始まったのです。
記録をみると、1981年8月の「沖縄社会教育研究会」(第43回)に、ゲストとしてお招きし、BMに「網走番外地」を流しながら「象グループ」制作のスライドを楽しみました。いい思い出。しかし若くして(サッカーの試合中)急逝、1984年2月の定例研究会(第61回)は「大竹さんを偲ぶ」会に。私たちは惜しい人を亡くしてしまった!
私の手元のフアイルに一連の象グループ関係資料があります。そのなかの1枚、題して「象語録集」。これがなかなか面白い。大竹さんが研究会で配って、あの大竹節でウンチクをかたむけたものです。幾つかをご紹介しましょう。
1,不連続統一体:個々はそれぞれの独自性を発揮しながら集団もうまく調和を保っているよう
な世界。木の葉や花もそれぞれ独立して美しいが、一本の木となって別の美しさを出現させる。
DISCONTEの理論。<D>どれも、<I>いちにんまえに、<S>それぞれの、<C>コースを歩みつつ、
<O>おなじ、<N>仲間として、<T>力を合わそう。
*DISCONTE は、小林・平良編『民衆と社会教育』序文に引用した。
2,発見的方法:創造の端緒は発見にあり、発見は着目を変えることにある。
3,魚眼マップによる発想:地図による発想転換。身近かで些細なものと思われていたことが
実は重要なのだ。1点から世界を考える。
4,逆格差論:価値尺度の逆転。所得が果たして暮らしの目安なのか。
…(全部で12項目、長くなるので以下省略)…
このような発想転換の視点にこだわりながら、今帰仁村中央公民館や名護市役所など(沖縄だけでも20に及ぶ仕事)を設計したのでしょう。
1648号(2006年5月11日)
◆<「韓国本」編集の夜>
企画が始まってすでに3年半、わが国はじめての「韓国の社会教育・生涯学習」(日本語版)刊行に向けて、編集作業はいよいよ最終段階となりました。10日午後は川崎で最後のツメの作業。終わって(例によって?)夜は愉快に飲みあい語りあいました。
この日、小田切督剛さんが韓国「平生教育白書」等をもとに、巻末の資料編に収録する統計、法令、関係機関・団体、平生学習都市一覧などを作成。本のイメージが非常に具体的になって、一同、楽しくなったのでした。しかし、現在の韓国・平生学習の躍動をあらわす資料は揃った感じですが、今日にいたる曲折・苦難の(たとえば軍事独裁政権下の)歩みが見えてこない、たとえば、かって黄宗建氏(編者の一人)が担ってきた創成期の韓国社会教育協会や文解教育運動などの資料を盛り込めないか、そんな話になりました。
いま韓国を離れて中国に滞在中のご本人にお願いしてみよう、小林が連絡をとってみることになりました。といっても本編集はすでに最終段階、1〜2頁程度を「終章・付記」として書き加えてもらうのが関の山でしょう。
その場で、はたと思い出したことあり。「東アジア社会教育研究」では、第4号(1999年)と第5号(2000年)の2回に分けて、「この人−先達の自分史」企画を組んだ経過がありました。その第1弾は黄宗建氏。聞き手は小林と金子満(当時、大学院生)。家に帰りつくや、酔いを振りはらって、6年前の古いフロッピーを探し出すなど大騒動。
うまくHTM に置き換え、別の機会に撮った3人の写真も1枚添えて、ホームページに掲載したところです。敏速果敢な小田切メール(上記)に負けてはならじと対抗心を燃やし、頑張って見事に成功!
まずはこの証言をご覧下さい。あらためて読み直してみると興味深い内容。深更さらにいい気分になり、また一杯、というわけです。
夜のしじま、紫蘭のかすかな薫りがただよってきます。
1647号(2006年5月10日)
◆<内モンゴルの旅・スケジュール案 >
これまでTAFAEC として内モンゴルへの旅は2回。最初は1997年7月、一行は和光大学の学生たちを含めて15名前後。「東アジア社会教育研究」第2号(1997年)に記録を載せています(小林文人「広州から内モンゴルへ−茘枝の籠をさげて」)。2回目は2002年9月、和光大学だけでなく、東京都立大学の学生たちも参加して10名前後。「モンゴルの草原と子どもたちに出会う旅」報告書(私家版)があります。いずれも1週間前後の日程、北京を経由してフフホトや通遼に入りました。
今回の第3回・内モンゴル行きの企画は、1月新年会の酒の座から始まり、この間、トクタホさんの呼びかけも重なって、ようやく具体化する時期となったわけです。これまで「風」の折々に関心を寄せた方は、頼りない記憶ですが、北の森田はるみ、南の島袋正敏、東京の近藤恵美子、石川敬史(事務局候補)それに伊藤長和(いずれも敬称略)と小林。トクタホさんの見通しでは15名前後、1週間程度の日程、内容として内モンゴル師範大学(フフホト)関係者との交流や草原への旅など。
伊藤長和さんから8月末〜9月初旬にかけての日程案(上記)が出されました。今年の社会教育研究全国集会(箱根)は8月上旬ですから、8月下旬出発のスケジュール案もいいご提案。小林(前後に山東省烟台に寄る計画あり)も調整可能です。トクタホさんや受け入れのフフホト・ボヤンバートルさんたちのご都合なども勘案してスケジュールを決めましょう。内モンゴル行きに関心をおもちの方もどうぞご希望(草原・ゲルに泊まりたい、馬に乗りたいなどを含めて)をお寄せ下さい。
トクタホさん、ボヤンバートルさんと連絡をとって、風・数号後にはスケジュール、内容、経費などについての具体的な第1案を提案していただきませんか。まずは参加メンバーを確定したいもの。
本号も「公民館・施設空間論」(続き)を載せる余白がなくなりました。ご了承ください。
1646号(2006年5月8日)
◆<ホームページその後>
昨年11月10日、旧ホームページの容量が満杯となり、新(現)HPを立ちあげました。それからちょうど半年。旧サイトから主な資料を引っ越し、その後の「風」や記録、新しく収集した資料等を加えながら、無理をしないで入手できるデータを少しづつ盛り込む努力を重ねています。ご覧になって如何でしょうか。ご意見や助言などいただければ幸い。
古い世代の、まったくの手づくりページ、技術的にも素人の域を脱することは出来ませんが、原則として隔日の更新というところがミソ。大きな機構や団体とちがって、せっかくの小さな組織ですから、自由闊達に動いていこう、と考えてきました。TOAFAEC
としての公式?サイトと、ぶんじんの個人的なサイトの二つの側面があり、ときに公私混同の誹りをうけることもありそうですが、しかし、あまり気にしないで、まずは活発に・・・という方針です。それだけに、お気づきのこと、注意すべきことなど、ご遠慮なくご指摘下さい。
最近の新しいページ。たとえば1月・沖縄の集落公民館や自治公民館の動き、2月・韓国平生教育法改正論議(李正連さん報告)、3月・沖縄青年運動史研究会(山城千秋さん協力)、4月・与那国研究など小林論文サイトなど。詳細は、HP「更新履歴」に記しています。
5月連休明けに、内田純一さんの台湾訪問報告(風1645号)が届きました。昨年の訪台レポート(ぶ)に加えて、「2006年台湾訪問」ページをアップすることにしました。内田さん、ご了承いただけるでしょうか。訪問記録や収集資料の紹介など「つづき」を期待しています。
本号は、沖縄「5.15アピール」の呼びかけを掲載しましたので、長文しかも連日の送信となりました。ご了解下さい。
1645号(2006年5月7日)
◆<宮城与徳記念誌 『君たちの時代』>
6日午前、名護より『君たちの時代』 が届きました。「宮城与徳生誕百年を記念する会」による心をこめた労作。出来たてのホヤホヤを送っていただき、時を忘れ、ページをめくりました。
宮城与徳は名護・東江(あがりえ)の出身。ご存知のように、昭和の軍国主義下「尾崎・ゾルゲ事件」に連座して逮捕され(1941年)、「国賊」の汚名を帯びたまま、第一審判決をまたず巣鴨拘置所で獄死(1943年)、享年40歳。
戦後しばらくして、「彼らの情報・諜報活動は日ソ戦を回避するための非戦・反戦・平和の活動であった、との国際的・国内的評価がなされた。しかし、古里沖縄において画家として、また人間・宮城与徳の人権回復と再評価は遅れた。」(本書「読者のみなさまに−本書の概要」)
名護市で1990年に開かれた「宮城与徳遺作展」が、与徳の人権回復と再評価につながる大事な場となったようです。それから15年をへて、昨年の記念碑建立、記念展開催、そして本書刊行へと結実するわけです。
戦前の暗い時代、与徳は甥の屋部高志さんに「いずれ、戦争が終わり、新しい“君たちの時代”が必ずくる」と口ぐせのように語っていたとのこと。与徳の夢であり願いであったこの言葉が、本書のタイトルとなり、また記念事業のテーマともなってきました(「はじめに」)。
写真が豊富、資料や詳細な解説に驚きます。編集を担当された中村誠司さんが「あとがき」に“涙そうそう”と書いておられるように、私も読みながら、何度か胸があつくなりました。
島袋正敏さん(記念する会・事務局長)や中村誠司さんなど名護の皆さんによる取り組みとしては『記念誌・徳田球一』(2000年)が想起されます。このときの事務局は名護市立中央図書館、今回の宮城与徳記念事業の場合は「名護博物館」。図書館・博物館の役割としても興味深い。
本書(A4変型版・250頁、送料こみ2000円)ご希望の方は、風・前号の中村誠司メールをご覧下さい。
1644号(2006年5月5日)
◆<映画「ナミイと唄えば」>
東京は東中野、JRの駅前に「ポレポレ東中野」という小さな映画館があります。4月から「三池−終わらない炭鉱の物語」(モーニングショー)を上映しているところ。オーナーは映画監督・写真家の本橋成一(チェルノブイィの悲劇を記録した「ナージャの村」など監督)。ちなみに「ポレポレ」とは、スワヒリ語で「ゆっくり〜」の意。
誰かを誘って行きたかったのですが、それぞれお忙しい。やや衝動的に電車を降りて、一人でいま話題の映画、「ナミイと唄えば」を観ました。毎日、夕刻からの上映、監督は本橋成一、石垣出身の三線弾きナミイおばあの記録です。この映画と並行して、姜信子『ナミイ!八重山のおばあの歌物語』(岩波書店、2006年1月刊)が注目され、写真集『ナミイうたの日々』(明石雄介、冬青社、同年3月刊)も出版されています。姜信子さん(岩波新書『日韓音楽ノート』などの著者)は、おばあの「家来」となって、映画にも出演。
ナミイおばあ(新城浪)は85歳の現役、数年前CDデビュー、昨年4月には浅草木馬亭で「ナミイの三線放浪記」を上演、映画はその場面の弾き語りから始まります。語りは浪曲師の玉川美穂子。
9才で那覇・辻に売られ、その後はサイパン、台湾の高雄、北投温泉、宮古を転々。戦後も(家族を養うため)石垣の料亭で三線弾き、与那国から那覇、さらにコザ、普天間、再び那覇、そして石垣へという、まさに三線放浪の人生。いまも元気に百二十(ひゃくはたち)まで生きることを念じながら、三線を離さない。映画のラストシーンでは「今日はありがとうね、一緒に遊んでくれて。死ぬまで一緒に遊びましょうね」と。
上野英信「眉屋私記」を思い出しました。本橋監督もまた上野英信を敬愛してやまぬ一人とか。そういえば「眉屋私記」の底本は山入端ツルさんの「三線放浪記」。ナミイおばあの物語によって、沖縄の近現代を生きてきた人々の流転が浮きぼりにされ、その厳しさとたくましさ、三線の調べと唄に励まされます。5月12日までの上映(18:25〜)。
ナミイおばあの歌譜は、すべてカタカナ書き。「十九の春」の替え歌−「老後の春」の一節。ナミイおばあのテーマソングだそうです。
♪五十、六十が蕾なら 七十、八十は花盛り
私の人生これからと 希望の花を咲かせましょう
(中略)
心に光あるならば 日々が楽しく人生を
九十、百歳楽々と 花に輝く人生さ♪
1643号(2006年5月3日)
◆<『古宇利誌』の刊行>
この欄で書き始めた自分史風・公民館「施設空間」論は一休み。先に書きたいニュースが。昨日(2日)心待ちにしていた今帰仁村の『古宇利誌』が届きました。見事な出来映え!
わずか150戸の集落が、これほどの大作(B5版、506頁、箱入美製)を上梓し得たことの意味、手にとってしばし考えました。集落の編集委員会、書き手の体制、事務局の役割、財政、集落の外からの声援、専門家のサポートなどなど。集落の自治と集落内外の協同を象徴するたいへんな取り組みです。まずは、苦労された小浜美千子さん(古宇利区長)に本が届いた報告と、お祝いのメールをおくりました。いま数分前に小浜さんから返メールが着信したところ。(上記)
巻頭言を寄せておられる外間守善氏(法政大学名誉教授)は、この字誌が「学界に恩恵を与えることであろう」「文献、口承を基にして編集された『古宇利誌』から手繰られる研究がどれだけ大きいものか図りしれない」と賛辞。編集後記で仲原弘哲氏(今帰仁村歴史文化センター館長)は「…多くのことを学ばせてもらいました」「…編集者冥利につきます。感謝」と。1冊だけ余部があります。ご希望の方があればご一報を(要実費)。
字誌についてあとひとつ別のニュース。実は先日来、国頭村奥の上原信夫さんから、この数年探し続けてきた垂涎の『字誌・奥のあゆみ』を送っていただきました。1986年刊の稀少本。3月に共同店サミットで奥を訪問した折り、「東京ではまったく読むことができません、なんとか1冊!」という願いに応えて、探して頂いたようです。20年前の字誌がもつ質・量の重量感。どんなかたちで感謝の気持を伝えたらいいのか考えあぐねているところ。誠司さん、お知恵を借してください。
1642号(2006年5月2日)
◆<沖縄の集落(字)公民館−施設空間論2>
…(承前・1640号)… 次の公民館「施設空間」論との印象的な出会いは、沖縄の集落公民館、それを核にした地域計画の動きでした。具体的には「逆格差論」や「住民自治の原則」を打ち出した名護市総合計画・基本構想(1973年)、さらに「ムラの共同体施設」としての集落公民館を重視した今帰仁村総合開発計画基本構想(1974年)等。その基礎となる地域分析や、計画作成の実質的な作業にあたったのは若い建築家集団「象グループ」のメンバー(大竹康市さんなど)です。
今帰仁村基本構想では、約20の各字でつくられてきた字公民館がスケッチされ、その理念型が「集落公民館とそのまわりの計画」として大きく画かれています。象グループの面白さは、施設の内部空間論もさることながら、まわりの環境、地域の暮らしへの眼差し、集落づくり共同施設の核として字公民館を位置づける、いわば外部空間論的なアプローチにありましょう。たとえば集落の広場、共同売店、保育園、子どもの遊び場、老人クラブ、共同出荷場などの諸施設の真ん中に公民館が存在している風景。
今帰仁村では、この基本構想に続いて、中央(公立)公民館が建設されました(1975年)。設計管理は象グループ+アトリエモビル。緑なす芝生を囲むかたちで、公民館の各室が配置され、開放的な空間論を基本に、沖縄の風土と文化を象徴するかのように赤い柱が全体を支えるという、知る人ぞ知る個性的な公民館です。この公民館は、1977年・芸術選奨文部大臣新人賞(美術部門)を受賞。建築専門誌でも、今帰仁村中央公民館の写真を掲げて特集を組み、象グループの仕事がひろく注目されてきました。(『建築文化』1977年11月号、『建築知識』1977年8月号ほか)。
集落公民館の計画と公立公民館の立体的な構成−今帰仁村の動きに大きな関心をもって、ゼミ学生と一緒に訪沖するたたびにこの公民館の広場に佇んだものです。それから30年、その後の展開は、行政の状況や住民意識の関わりのなかで、複雑な評価が必要でしょうが、地域づくりの視点をもつ象グループの施設空間論には鮮烈な刺激を受け続けてきました。(続く)
1641号(2006年4月29日)
◆<4・28沖縄デー>
毎年やってくる4月28日。この日はかって(1960年代)「沖縄デー」と呼ばれ、当時の学生たちは午後になると、三々五々デモに繰り出したもの。陽光さんざめく四月のこの日にまつわる思い出少なからず、風でも毎年「沖縄デー」のことを何か書いています。
1952年のこの日、サンフランシスコ対日平和条約・日米安保条約が発効、沖縄は逆に米軍支配下に位置づけられました。そして8年後の1960年のこの日、「沖縄県祖国復帰協議会」が結成されました。
1963年2月、タンガニーカで開かれた第3回アジア・アフリカ諸国人民連帯大会が「4月28日を“沖縄デー”として国際的共同行動を行うよう、すべてのアジア・アフリカ人民に訴える」決議を採択して以来「沖縄デー」が広く定着(新崎盛暉)。同時に誰言うとなく“屈辱の日”ともよばれてきました。この年から1970年までは辺戸岬と与論島の間、北緯27度の分離線では日琉双方からの海上大会。いまの学生たちは知るものもいなくなりましたが。
今年の「沖縄デー」は、私たちの第117回定例研究会の当日、しかも伊藤長和さん退職記念講演・お祝いの日でした。第U部・交流会では久しぶり思いっ切り「沖縄を返せ」「沖縄に返せ!」と歌いあいました。この時代を知る世代は、期せずして拳をにぎり、大きな声をはりあげて大合唱となり、面白かった。
その前日、名護・島袋正敏さんから届いた「請福フアンシー」と与那国・崎元智代さんの60度のスピリッツ、それに包聯群さんご持参のモンゴル酒が回されて、酔いはいっそう深いものに。皆様に御礼!
当日のことは研究会記録として掲載することになりますが、伊藤さんの「川崎の社会教育と韓国の交流」講演への感想など、ご参加の皆さんからお寄せいただければ幸い。
なお、前号から書き始めた公民館「施設空間論」は、次におくります。
1640号(2006年4月27日)
◆<公民館・施設空間論−その1>
この1月に出版された日本公民館学会編『公民館・コミュニティ施設ハンドブック』(エイデル研究所)の新しい特徴は、まずは「施設空間」の章ではないでしょうか。昨夜(4月26日)の『ハンドブック』合評会第2回でも「施設空間論」がテーマでした。報告者はこの章の執筆陣の中心・浅野平八さん(日本大学)。建築学者からの公民館研究のお話は興味深いものがありました。
これまでの数多くの公民館研究、たとえばその事業論・学習論、あるいは運営論や職員論等の展開がありながら、それと結んで施設空間論を提示していく努力が少なかっことをあらためて痛感。研究会報告は、別に用意される学会記録にお任せして、この機会に私なりの公民館「施設空間」論との出会いをいくつか(自分史風に)書いておきます。
まずは東京「新しい公民館像をめざして」(いわゆる三多摩テーゼ)があげられます。公民館の基本的な理念と関連して、どういう施設空間が求められるか、徳永功さんたちと楽しく論議したものです。1971年〜72年にかけてのこと、30数年前のことになります。発表は1973年。
「新しい公民館をめざして」には、四つの役割・七つの原則等の理念提起のあとに「公民館の標準的施設・設備の規模と内容」の表があります。仮設的な試みですが、その後の公民館建築に一定の影響をもったところも。たとえば、公民館は基本的に市民のもの、その参加と交流を!いう立場から「市民交流ロビー」「団体活動室」など、あるいは「文化」的役割論−三階建論を脱皮する視点−として「ギャラリー」「美術室」「音楽室」「ホール」論等、主婦論との関係で「保育室」、青年論の視点をもって「青年室」構想、などが思い出されます。
三多摩テーゼをつくる基本的姿勢は、頭のなかだけで構造・構図を画くのではなく、実際に地域の公民館運動や現実の実践の動きから、施設空間論が提起された点にあると思います。市民が何を求めているか、職員の事業展開のなかで何が生み出されているか、その具体的な要請を起点として表が作成されたのです。それだけに、実践や運動の到達水準が「施設空間」論にも反映されている。たとえば、当時まだ未発だった障害者論にたつ施設・設備の具体的提示は明らかに不充分です。(続く)
1639号(2006年4月25日)
◆<「GAMA 月桃の花」−ヤドカリの映像>
4月22日、海勢頭豊コンサート(千代田区公会堂)に出かけました。那覇の旧パピリオンがなくなったいま、昔のように気軽に海勢頭豊の歌を聞けず、まして話をする機会もなくなってしまった。まずは彼に会いに行ったようなものです。
1時間あまりの短いコンサート。いつもの口調で元気よく海勢頭節を語り、さとうきびの花、トラジの花、琉球讃歌、喜瀬武原などの代表作を歌ってくれました。わずか3人の編成(ギターの豊さん、バイオリンの愛さん、ボーカル・島田路沙さん)、しっとり思いのこもった1時間。久しぶりの「琉球讃歌」では、とつぜんに故足立邦彦のことを想い出しました。彼が沖縄通いを始めたころ、この歌に魅せられ、研究会で声はりあげてうたった夜は、もう30年近く前のこと。
映画「GAMA月桃の花」は今年で10年、コンサートも誕生10周年の記念イベント。この映画は観るたびにだんだん見応えが出てくるから不思議です。当初はガマのなかの音響と、オバァ(平良とみ)たちのウチナーグチ(沖縄弁)に聞き取れないところもあり、それがだんだんと理解できるようになったせいかも知れません。
今回の映画での新しい発見は、ヤドカリでした。ガマのなかで慰霊の手を合わせる場面、生きたヤドカリが近寄ってくる。カミさまのお使いか死者の魂が会いに来たかのような。「あっ」と声にならない声。そして別の場面、陽光まぶしく波が寄せる砂の上の明るいヤドカリ、現世に生きる象徴のごとく。
私の平久保(石垣島)の歌碑にも、大きく「ヤドカリ」の字が躍っています。歌碑建立の祝い(2003年秋)に同行された山口真理子さんや鷲尾真由美さんが、ヤドカリのことを書いています。
沖縄ではヤドカリのことをアーマン(アマン)という。「昔アマンという神が、天にかかっている七色の橋から土や石を海原になげて、それをかきまぜて島をつくった。そのなかから最初にヤドカリが(この世に)あらわれ、その穴から男女の人間が生まれた」という伝説。*風1140号
私の拙い歌はヤドカリを物象として詠んだだけですが、あらためてヤドカリが精神世界のなにかを象徴する意味をもっていることを知りました。今回はとくにヤドカリの映像が印象的だったのです。
映画のエンディング「月桃」の歌。「悲しく沈んだ歌い方をしないで、明るくさわやかに歌ってほしい」とつぶやいた海勢頭豊のことを思い出して、♪月桃ゆれて
花咲けば♪ と楽しく歌いながら帰りました。
1638号(2006年4月24日)
◆<海をこえての年報企画>
風前号に引き続き、「東アジア社会教育研究」第11号特集へむけての原稿依頼、上海の呉遵民さんからも返事が寄せられました。特集テーマについて海をこえての執筆依頼、学会の研究年報等でもあまり例がない企画に挑戦しているわけですが、いま着々と進行中、まことにご同慶のいたりです。
ご参考までに上海・呉遵民さんに送った依頼メールは次の通り(抄)。
「呉遵民さま その後、お元気でしょうか。
…(略)…
今年、日本の公民館制度が創設されてちょうど60年。私たちの「東アジア社会教育研究」では、東アジアの視点をもって、今年の第11号で、特集を組もうということになりました。題して「日本公民館60年と東アジア」 韓国、台湾、ベトナム、沖縄をとりあげ、そして日本自体の総括的な提起をしていこうという構想、いま依頼をすすめています。
そこに当然、中国から、それも上海周辺で1本、報告をお願いしたいのです。日本公民館との関連で、社区活動センター、社区学校などの地域施設をレポートしていただきたい。
いつぞや(たしか2001年)蘇州を訪問したとき、日本の初期公民館を大型にした施設構想(単なる学習センターでなく、医療、保育、技能養成をふくめて、生活的な機能を含む)に感じ入った記憶があります。蘇州を事例に取り上げることはできないでしょうか。
執筆者は、呉さんが書いていただくのが第1希望ですが、もし忙しく無理であれば、どなたか他の方、たとえば蘇州のどなたかに依頼し
ていただく。中国文で送っていただき、東京のメンバーで日本語訳にいたします。ただ、党の報告のような、型どおりの論文にならないように、具体的な事実を報告していただき、課題や展望を率直に書いていただければ、有りがたいのですが。枚数は・・…(以下、略)…」
TOAFAEC 年報「研究」第11号については、今年から内田純一さんを中心に編集委員会のMLが動いています。それだけ活動が活発になったわけですが、「南の風」誌面には反映されなくなる。沖縄研究についても、科研費が出たり、MLが機能すると、「南の風」からはこのような研究・編集の記事が遊離していく矛盾があります。前号に引き続き、本欄であえて第11号(特集)編集の動きをご紹介した次第です。
1637号(2006年4月22日)
◆<公民館60年>
今年は日本の公民館が制度的に創設(次官通牒、1946年)されて、ちょうど60年。7月5日が誕生日、人にたとえれば還暦にあたります。
60年の歳月を振り返って、公民館の制度と活動の歴史をどのように評価することができるのか。一つの区切りとして、総括的に考えてみたい課題です。同時に、海を越えて、東アジアの視野からみた場合、どんな光景が見えてくるのか。私たちの研究会としてチャレンジすべき課題。それが今年の『東アジア社会教育研究』第11号の特集テーマとなりました。(風1633号、内田「編集会議」記事)
欧米諸国の成人教育史と比較して、公民館はまさに日本的な施設であり、同時にまた東アジア的な施設でもあると言えるでしょう。日本は公民館をいち早く社会教育法のなかに法制化(1949年)しました。韓国でも社会教育法の成立(1982年)過程において、公民館制度への大いなる関心があったと考えられます。台湾では、たとえば台北市社会教育館の楊振華館長(1989年・当時)が、その著作に日本社会教育法(中国語訳)を紹介し、公民館を積極的に称揚し、ご本人から直接過大な評価を聞いたことがあります。
戦後アメリカ占領下の沖縄にとって、琉球政府による公民館構想の導入(1953年)はどのような意味をもったのでしょうか。そしてドイモイ政策(1986年)後のベトナムが、その経済復興と地域開発の施策として、各地に公民館的施設の奨励にあたったことも興味ある事実。
上記メールのように、津久井純さんが私たちの第11号に向けて、ベトナム「共同学習センター」(チュンタム・ホックタップ・コンドン)の報告を寄せてくれることになりました。承諾の返事をいただき、とても嬉しかった。日本の“KOUMINKAN”という言葉が、ベトナムの地で使われたのはどんな経過だったのだろう、「公民館」が海を越えて普遍性をもちうるのは、いかなる特性においてなのか、などと思いをめぐらしています。
戦後沖縄における公民館の展開については、山城千秋さんと小林の共同で取り組み、第11号の原稿に仕上げようと相談をしています。
1636号
【2006年4月20日】
◆<エビネ蘭咲き初める・・・>
いつも主のいない福岡・油山の隠れ家では、着いたその日、まずは大掃除。今回は1ヶ月半ぶりです。まぁ、いい加減に済ませて、魚でビール、楽しい夜を過ごしたつもりでしたが、夜半に激しい花粉症的症状に襲われました。
溜まった埃はいわば花粉の山、掃除したつもりがハウスダストを巻きあげたかたち、過敏な目は鼻はただちに反応したのです。まぎれもない花粉症の再来。
しまった!薬をもってきていない(今年はもう大丈夫だと過信)、いまこそ請福酒造“Fancy”を試す絶好の機会、と思っても後の祭り。不愉快な1日でした。今日(19日)、この4月に福岡へ引っ越した樋口知子さん、そして夜に農中茂徳くんが現れたころ、ようやく落ち着きました。いきつけの「壺」へ。天麩羅屋ながら刺身の皿が絶妙、昆布じめスズキなど、いい味でした。
それにしても、4月の庭はなかなかいいものです。せまい空間、その隅に可憐なエビネ蘭が咲き始めています。何も手入れをしないのがいいのか、毎年、株が増えてきた。3本の白樺も元気、浅緑の若葉がそよそよと風にそよぎ、その下で、同じ風に吹かれれば、何もしたくなくなる。真裸になってもそう寒くありません。久しぶりに思う存分、陽光を浴びました。
こんな個人的な話にもお付き合いいただき、まったく恐縮至極でした。本号のぶんじん日誌、これでおしまい。
1635号
【2006年4月18日】
◆<「小さな扇」のさわやかな風>
杉並・安井家資料研究会の4月日程は、二日続きの合宿で集中してやろうという提案があり、15〜16日の両日、安井家に通いました。荻窪の駅からお宅に向かう道、曲がり角の八重桜が実に見事。安井家の桜もまだ白く咲いていました。竹峰誠一郎さん(早大院)は西永福“風の部屋”に宿泊、ご苦労さま。
これまでの資料データー入力作業からしばしはなれて、それぞれのテーマで資料を読んだり、スキャンしたり。いろんな話がはずんで・・・集中したようなしないような。ぶんじんは、この機会にいくつかのボックスに大事に保存されてきた生原稿すべてを通覧(といってもタイトルに眼を通すだけですが・・・)。
本格的な論文から、新聞・雑誌への寄稿文、なによりも原水爆禁止運動関連の集会挨拶やメッセージ、あるいは結婚式の祝辞まで、手書きの生原稿がすべて残されています。なかに鉛筆書きもありますが、ほとんどが端正な字で清書されていて、驚くべきことです。
著作構想(未完の三部作?)のための原稿等に混ざって、一篇の詩がありました。タイトルは「小さな扇(未定稿)」。かなり劣化した「法政大学」用箋7枚。安井節子さんにお願いして、コピーして頂きました。書き出しの部分と、最後の小節のみをご紹介いたしましょう。
小さな扇(未定稿) 安井郁
世界ではじめて
原爆がおとされた都市―
その廣島を私はおとずれた
爆心地のちかくに建てられた
ひろい公民館は
市民でうずめつくされていた
それは自分のからだをもって
あるいは愛するものの身をとおして
原爆の苦痛のきびしさを
つぶさに知った人々であろうか
その人々のかがやく瞳を
じっと見つめながら
私は語りはじめた
一枚のメモも手にもたずに
…(中略)…
語りおえて席にかえった私の
顔を 背を
汗がとめどもなくながれた
九月もすでになかばだというのに
そのとき
つぎのO博士の講演を
熱心にノートをしていたひとりの婦人が
自分の扇を
私のところにとどけてくれた
小さな扇―
そのおくるさわやかな風のなかで
私はあかるく考えつづけた
平和をもとめる人々を
結びあわせるつよい力を」
このあとに「1953年9月16日、東京にむかう急行列車『雲仙』にて」と記されていました。当時、安井郁(法政大学教授)はまだ杉並公民館長ではなく、第五福竜丸ビキニ被爆(1954年3月1日)から胎動する原水禁運動もまだ未発のころ。この日付に興味をそそられました。あたかも原水協理事長(1955年9月)を思わせる詩作そのもの。夜行列車にゆられながら、「平和」へ「結びあわせる力」を予見していたような安井郁の当時を偲びました。
1634号
【2006年4月16日】
◆<30年の歳月−記録されて甦る歴史>
TOAFAEC(東京・沖縄・東アジア社会教育研究会)は1995 年の創立です。この10年余の歳月で、研究年報の刊行(10号)、研究会の開催(116回)、あるいは沖縄・東アジアへの旅、研究調査・交流の活動など、案外と活発な歩みを重ねてきました。自画自賛!
その前史には「戦後沖縄社会教育研究会」「留学生ゼミ・アジアフォーラム」等の歴史があります。当時の活動拠点は、東京学芸大学・社会教育研究室。沖縄研究の開始は1976年でしたから、通算すると、今年はちょうど30年を迎えたことになります。
しかし、歳月が流れていくと、歴史は消えていくもの。記憶も記録も風化し拡散していきます。私たちの沖縄研究はたどたどしい歩みながら、幸いに『沖縄社会教育史料』(1977年〜全7集)等を刊行してきた経過があり、手もとのノートなどと合体してみると、一応の歴史を復元できます。
暇を見つけて、1976年からの約20年の歩み(研究会記録)を入力し、ホームページに掲載しました。「TOAFAEC」→「前史」や「沖縄研究」の項をクリックすると出てきます。ご覧下さい。1976〜1979年の研究会創設時の迫力はなかなかのもの。当時の懐かしい顔ぶれが思い出されて、入力作業は楽しいものでした。
さらに継続して、その後10年のTOAFAEC「研究会記録」をいま発掘中。あらためて「日誌」「活動記録」等もアップしておきたい。たとえば『東アジア社会教育研究』毎号末尾の「研究会日誌」ファイルなど(内田・石倉作成)を送っていただくと、10年をつなぐ記録として直ちに掲載できます。機会をみてどうぞよろしく。
1633号
【2006年4月14日】
◆<伊集(イジュ)の花心>
名護の島福善弘さんが「南の風」に参加されることになりました。仕事は同市教育委員会(図書館→文化財)、というよりも、源河「リュウキュウアユを呼び戻す住民運動」に取り組んでこられたことで、ご存知の方も少なくない人。小林・島袋共編『おきなわの社会教育』にも報告があります。リュウキュウアユ運動をめぐっては、私にもいろんな思い出あり、エピソードを書きたいところですが、それはまた別の機会に。
今回いくつかメール交換をしたのは、シーカヤックで源河から古宇利島への海を渡ろう、という数年前からの島福提案に関してです。既報のように、3月訪沖・名護の夜、再びその話が出ました。(風1622号本欄)
地図をご覧下さい。そこは東シナ海につらなるところ。距離にして約2里。瑠璃色の海も荒れなば恐ろし、という言葉もある。こちらもそう若くないのだから、この挑戦にどう応えるか、など考えました。海が穏やかなのは、やんばるの山にイジュの花が咲くころ。その季節に日程を考えましょう、という話になりました。イジュはツバキに似た純白の花、5〜6月に山々に開花し、実に美しい。この花心に誘われて、海に遊ぼう、という計画です。
島福さんのメール。正敏さんに相談したところ、日程は「第一案として5月27日(旧5月1日)大潮あたりか・・・」「サンゴや魚を見ながら、ときにリーフに上がり貝などを採り」「リーフの口では、釣り糸を垂らし、小魚でよろしければ、かなり高い確率で楽しめます」と。「シーカヤックでの古宇利島あるいは今帰仁のリーフでの海歩きはほとんど力はいりません」「軽く肩の力を抜いて波に乗りながら船は進みます」など夢のような話です。
当方としていくつか日程を調整する必要があります。まずは5月26日予定の東京・定例研究会を1週間ほど早める(後ろにずらす?)ことが可能かどうか。石倉さん如何でしょうね。当日のゲスト・上原信夫さんのご都合を聞いていただけませんか?
1632号
【2006年4月12日】
◆<アルトナーレ>
今年のハンブルク・アルトナーレ(市民祭)の案内が谷和明さん(東京外国語大学)から届きました。6月中旬の日程、サッカー・ワールドカップの時期と重なっていますが、日本からの来訪者のためにハンブルクのホテルはすでに予約されているそうです。早めに飛行機チケットを確保する必要がありましょう。
ハンブルクの市民運動や「モッテ」など社会文化センターの研究・交流に努力されてきたのは、谷和明さんを中心とする社会文化学会のメンバーです。私も谷さんのご案内でドイツ各地の社会文化センターそしてハンブルクを訪問し(2000年夏)、その縁でヴェントさん<モッテ館長>の講演会を東京で開いたり、トールマンさん(建築家)を沖縄に案内した経過があります。その翌年には伊藤長和さんや石倉祐志さんなどと一緒にアルトナーレに参加しました。石倉さんはその後何度かアルトナーレに出かけているはずです。
日本の社会教育や公民館のあり方を考えていく上で、ドイツの社会文化運動やまちづくり運動そして市民が躍動する拠点としての諸施設との出会いはまことに示唆的なものがありました。文献・資料はいろいろあるようですが、まず次の1冊を。小林文人・佐藤一子共編『世界の社会教育施設と公民館』(エイデル研究所、2001年)、そのなかに収録されている谷和明「ドイツの社会文化センター」論文のなかに「モッテ」や「アルトナーレ」のことが紹介されています。事前学習会の企画などあれば「風」に紹介して頂きましょう。
1631号
【2006年4月10日】
◆<台湾からの電話>
昨年の5月連休には久しぶりの台湾への旅。もうそろそろ1年になりますね。このとき同行された沖縄大学の上地武昭さんを中心に、今年2月には沖縄大学メンバー(平良研一、宮城能彦の両氏と学生たち)が台北を中心に訪問されたそうです。その報告は「風」にいただけるとのこと、きっとそのうちに・・・、楽しみに待っています。
昨夜(9日)、台北市政府(社会教育担当・専員)の楊碧雲さんから思いがけない電話あり、「いま東京に滞在中」だそうです。10日夜は時間がおありのようでしたが、こちらはあいにく日本公民館学会の理事会。11日には帰国の予定、今回はお会いできない。聞けば、先月?は社区大学関係者と沖縄を訪問され、「上地先生たちにお世話になりました」と。まったく知りませんでした。私たちも奥共同店サミットで数日沖縄にいましたから、もしか会えたのでは?
などとお話しました。
電話の用件は、昨年来の原稿(TOAFAEC「研究」10号 )についてでした。昨年の来日(7月歓迎会)に持参された原稿は、日中教育研究交流会議・会報への提出を優先するかたちになったので、そのお詫び?に第11号向けの原稿を用意しているとのこと。気にされていたのです。
テーマは台北市「社区大学」の展開について。評価を含めて総括的に書かれているそうです。ただし中国語。必要であれば、台湾側で日本語にしても可と。有り難く御礼を申しあげ、「5月連休に、編集長の内田純一さんが台湾訪問の予定なので、その折りにお渡し下さい」とお願いしておきました。
ところで、7日編集会議の記録も「南の風」に載せたいところ。内田さん、どうぞよろしくお願いします。
1630号
【2006年4月9日】
◆<公民館研究会編『公民館読本』>
先日の「公民館・コミュニテイ施設ハンドブック合評会」(日本公民館学会、3月29日)の席上、標記の『公民館読本』(1949年)について長澤成次さん(千葉大学)の一文が紹介されました。数日前の「公民館の風」(佐藤進さん発行)にも同文が掲載されていましたので、関連して、私の知る範囲のことを書いておきます。
小生宅の雑然とした戦後社会教育史料棚のなかにも、この本はあります。1949年12月発行、233頁、定価150円。ご存知のように、この年に社会教育法が制定され(同年6月)、その半年後の出版です。
その前の段階、つまり初期公民館の時代には寺中作雄「公民館の建設」(1946)や、同「公民館の経営」(1948)−この本はもっと注目されるべき−、鈴木健次郎との共著「公民館はどうあるべきか」(1948)等を含む「公民館シリーズ」(全6集)が刊行されています。そして寺中作雄「社会教育法解説」(1949年5月)と続くわけです。この一連の寺中・鈴木等の仕事ぶりは画期的なもので、それを反映して(小冊子ながら)熱気を含むこれら著作が広く読まれてきました。
それに比して、法制定から半年後の『公民館読本』はあまり注目されてきませんでした。横山・小林編『公民館史資料集成』(1986)にも引用はありません。この年は、なによりも『社会教育法解説』のインパクトが大きい。『読本』は、それを受けて、法制化にともなう公民館普及のために書かれたものでしょう。優良公民館の紹介にしても簡潔なものに終わっています。そして翌年には、鈴木健次郎『郷土自治建設と公民館』(1950)、林克馬『公民館の体験と構想』(同)、鈴木『公民館運営の理論と実際』(1951)等に象徴される次の時代がやってくるのです。
最初は一つの構想であり理念にすぎなかった公民館が、初期公民館の数年を経て、優良公民館の表彰などが行われ、そして社会教育法による法制化も実現して、いわば実像化していく。その道程で「読本」という本の役割があったのでしょう。
この『公民館読本』について、私自身は、寺中や鈴木等の論稿よりも巻頭の金田智成「公民館の社会的意義」が印象に残っています。金田さんは社会学専攻の(当時)若い文部事務官。地域社会学的な視点をにじませて書いている。故横山宏さんの友人、のち国立社会教育研修所長。その関係で知己を得た経過があったからかもしれませんが。
1629号
【2006年4月8日】
◆<胃カメラのんで・・・>
もう20年あまり前のことになりますが、大学の激務(なんと!4年間「学生部長」)に追われて、かなり体調を壊した一時期がありました。連日の会議、文部省(当時)への交渉、学生との団交、とくに学寮問題の対応などなど。修羅場もくぐりました。この間は、社会教育の研究から遠ざかり、管理職という名の暗黒の毎日。ひどいストレスの連続。疲れ果てて健康診断を受けたところ、案の定、厳しい結果が出ました。西洋医学から逃げて?東洋医学に救いを求め、約3ヶ月の隠忍自重。保険のきかない煎じ薬をのみ、なんとか立ち直った経験があります。それ以来、漢方への親しみ。たとえば風邪をひくと、葛根湯をのんでいます。
いまでも血液検査の数値ではいくつか問題があります。しかし、どうにか持ちこたえてきました。忠告もあって、毎年の胃カメラ診断(一時期、ぶんじんの胃はかなり荒れていた)も受けています。今年もそのスケジュールがやってきて、4月6日は朝から食事を控え、午後に胃カメラをのみました。まったくまずい!
その前日は、川崎で韓国本のミニ編集会議。伊藤長和さんや山添路子さんたちと午後のビール、夜は烟台から来日した張林新さん(日本語学校長)と渋谷で夜のビール。今年の胃カメラ診断で、少し悪い結果が出るのではないか、アルコールを控えるようにと言われるに違いない、大きな顔をして飲めるのは今晩かぎり?実はそんな予感があったのでした。
胃カメラの結果は、その直後に分かります。もう永いお付き合いのドクター曰く、「今年は問題なし、ポリーブもありませんでした」と。血液検査の結果も、いつもは高数値のガンマーGTPが正常値!
というわけで6日の夜はお祝いのワイン。そして今晩(7日)は、高知から内田純一さんが上京し、「東アジア社会教育研究」第11号編集会議。6人の参加、前祝いの乾杯!
以上、本号発行が遅れた言い訳でした。4日ぶり! いただいたメール少なからず、次号は連日発行となります。悪しからず。
1628号【2006年4月4日】
◆<名護・前市長の訃報−若き日の横顔>
亡くなられた岸本建男さん(前名護市長)とは、わずか数回お会いしただけでしたが、私たちの沖縄・やんばるとの出会いの初期に重なって、いろんな記憶がよみがえってきます。ご冥福を祈りつつ、当時のことをいくつか書きたくなりました。
はじめて名護を訪問したのは、たしか1980年前後か。当時の名護市役所(現在の名護博物館)のせまい空間、「名護市企画室」の岸本建男さんにお会いしました。このとき市長の渡具知祐徳さん(元・沖青協会長)にもご挨拶。島袋正敏さんや中村誠司さんなどと出会う以前のことです。
案内役は、「地域の目」を発刊していた安里英子さん、車は新城捷也さん(県社会教育主事・当時)。那覇からやんばるへの初めての旅。何も知らないヤマントンチュに英子さんは終日しゃべりづめでした。この1日で実に多くのことを学び、その後の沖縄研究の方向が定まったような感じさえもっています。
名護は(今帰仁や恩納も)、若い建築家集団「象グループ」のエネルギーを活用して、自治体「基本構想」をまとめたばかり。いずれも横長B4の計画書、実にフレッシュな刺激を受けたものです。自治体計画における「集落公民館」の積極的な位置づけも、このとき初めて知りました。ちょうど同じ時期に出た「三多摩テーゼ」の公立公民館中心主義は、私の頭のなかで、この日、ボロボロと崩れはじめました。
名護独自の基本構想、自治に根ざす計画、逆格差論に立脚する地域づくり論、それらのユニークな水脈の中心に、当時の自治体職員・岸本建男さんはいたのです。若い果敢な横顔が印象的でした。
この日をきっかけに、建築家・大竹康市さんとの交友も始まったのでした。大竹さんも亡くなった。いま那覇・久茂地の酒場「苗」で飲むと、店主の上間秀樹さんが、「あの頃のやんばるは・・・」「いつもジュニアー(大竹)はここで飲んで・・・」などと語りかけてきます。
1627号【2006年4月2日】
◆<お花見の回想>
今年の東京は、例年より花粉も少なく、きわめて快調に4月を迎えることができました。4月1日の天気はまさに晴朗、近くの善福寺川沿いの桜を楽しみながら散歩。やはり名護から頂いた島酒「請福
Fancy 」の効能にもよるのでしょう、花粉症はほとんど快癒のようです。いろんな方からのお見舞い、有り難うございました。
いま桜はほぼ満開、春爛漫の季節です。散る花びらはまだなく、思わず、♪月ぬ美(かい)しゃ十日三日、美童(みやらび)美しゃ十七つ♪(八重山民謡)など口ずさみながら歩きました。「花の美しゃ八分咲き」というわけです。忙しくて花見もできない人のために、桜の画像を2葉、ホームページにアップ。ご覧あれ!
30年近く勤務した東京・小金井の東京学芸大学も、桜の見事なキャンパスでした。戦前からの古い桜と、戦後の復興期に教職員と学生が一緒になって植えた桜が織りなして、早咲きの吉野から遅い八重桜まで1ヶ月ちかくの花の季節。
毎年4月第1週・土曜日に研究室主催による「花見の会」を呼びかけるのが恒例。今日はちょうどその日にあたります。院生も学生も留学生も、中国語学習会や国分寺などの市民も、一緒になって、花を愛でながら歌をうたいあったものです。
花見は近所のお付き合い。小金井に稽古場をもつ「ふるさと・きゃらばん」の名優たちが、ギターを抱えて、研究室の花見に毎年のように来てくれました。ある年は、劇団を代表する石塚克彦さん、ひらつか順子さんなどの顔もあり、豪華版の花見宴。花冷えの夜に、桜の下から研究室に座を移して飲み明かした年もありました。
そんなことを思い出しながら、桜の風に吹かれながらの散歩のひととき。
1626号【2006年4月1日】
◆<新しい歩みの始まり>
今日は3月31日、年度が終わります。
川崎の伊藤長和さんから「定年」のご挨拶をいただきました。当方から送ったメール題目、「これから自由の天地、おめでとうございます!」
4月から新しい歩みが始まります。私たちの「東京・沖縄・東アジア社会教育研究会」TOAFAEC
でも、ここ数号に書いているように、研究年報「東アジア社会教育研究」第11号の新しい編集作業が開始されました。海を越えて開設されたメールリングリストを通して、台湾と韓国から届いた二つの便り。これまでにない新しい動き、楽しみです。
台湾の楊武勲さんからは4月7日予定の編集会議には出席できないとのメール、連絡だけでも嬉しい。韓国の李正連さんからは、魯在化さんの投稿希望の伝達。有り難う。魯さんのご希望は4月7日編集会議に伝えます。新たな意欲が伝わってきます。
李正連さんは、ちょうど昨年の今頃、名古屋大学でドクター学位を取得され、韓国に帰って公州大学など二つの大学で非常勤講師、それから1年が経ったことになりますね。この間、懸案の韓国本(『韓国の社会教育・生涯学習』エイデル研究所・予定)の編集や日本語訳などに大きな役割を担っていただきました。感謝しています。この本の企画が始まったのは2002年冬。4年目の今年、ようやく最終的な見通しがつき、刊行へ向けてラストスパートをかけているところ。
韓国の社会教育の歴史と生涯学習の新しい動きについて、初めて日本語による出版を実現しようとする企画です。夏にはきっと本になるでしょう。編者は、黄宗建・小林文人・伊藤長和の3人。できれば、伊藤さん定年退職のお祝い会(4月28日予定、次号に案内)に間に合わせたかったのですが、意欲通りにことは運ばず、これだけは心残りです。
1625号【2006年3月30日】
◆<杉並「記録する会」>
杉並の公民館(1953年開館、1989年閉館、現「社会教育センター・セシオン杉並」)の50年を記念して、2003年にはいくつもの事業が企画され、記録が綴られました。すべて市民企画。その経過はTOAFAEC
ホームページ「杉並」サイトに収録しています。
それから約3年が経過しました。早いものです。この間、いくつかの活動が活発に動いています。一つは、原水禁運動(安井家)資料研究会。ほぼ毎月定例の安井家訪問調査、3月26日(日)がちょうど定例日でした。本格的な作業を始めて、ほぼ1年。この1年の取り組みの記録をつくることになりました。
いつも午後1時半過ぎから作業を始め、5時頃まで。当日の参加者は5名。資料整理やデーターベース化へ向けての入力作業の合間に、安井節子さん心づくしのお茶の時間があり、いろんな話に花が咲きます。先月は映画「三池」の監督・熊谷博子さんが来訪され、ドキュメント映画づくりの貴重な話。今月は納戸のアルバムを初めて開き、安井夫妻の昔日の面影に接して、その当時に思いを馳せました。帰路は常連で荻窪駅前の店でビールを楽しむ習わし。
あと一つは、「杉並の市民活動と社会教育を記録する会」の活動。今日(29日)は、その3月例会日でした。安井家訪問調査はほとんど休みませんが、「記録する会」の方は、当方のスケジュールと合わないことが多く、最近はほとんど休みがち。敷居が高くなっていたところに「記録づくり編集作業の最終段階です、お出で下さい」とお誘いの電話がかかっていたのです。皆さんはお弁当持参の作業。これこそ「市民活動」そのもの。頭が下がります。
戦後史とは言え、すでに60年。貴重な歴史が記録されること疑いなし。本来は区史編纂の公的な体制が動くべきなのに・・・と、行政への失望を感じつつ、他方で市民エネルギーへの大きな期待を実感させられるひとときでした。
1624号【2006年3月27日】
◆<♪この酒のめば・・・♪>
TOAFAEC 定例研究会の(公式)記録は、いつも石倉祐志さんが書くならわし。それと重複するかもしれませんが、当夜(24日)の余韻がさめないうちに、いくつかのことを書きたくなりました。
小林茂子さんのドクター論文発表は、さすがに内容の濃い報告でした。 沖縄「移民」教育についての鮮明な研究視角、課題設定のオリジナリティ、5年にわたる実証資料の探求など、これから論文を書こうとする同席の人たちにとっても、大いに参考になったのではないでしょうか。
沖縄出身の長老・上原信夫さんがご出席。持ち帰ったばかりの奥「共同店サミット」資料をお渡ししました。同姓同名の上原信夫氏作詞「共同店口説」(奥)を興味深げにご覧になっていました。
会が始まり、やや遅れて、珍しい人の登場。文科省の金子満さん。忙しい職場を抜けての出席、ご苦労さま。最終段階を迎えた韓国本執筆についての最後のツメも出来ました。
終了後の小林茂子・博士「お祝いの会」では、TOAFAEC の(いつも飲むばかりの)会としては珍しく花束の贈呈(HPに写真→■)。そして名護・島袋正敏さんから頂いてきた泡盛「請福 Fancy」(35度)を皆で開けました。これはいい!さわやかな口当たり、シンのある島酒、静かに酔いがまわりました。
花粉症に効くというのが正敏節。当夜のぶんじんは、沖縄行きのおかげで花粉症が再発しておらず・・・効能を確かめることはできませんでしたが、実に楽しくファンシーな気分で酔いました。さらに元気回復。これで花粉症の季節から脱却できたこと間違いなし。井の頭公園の桜も開花しはじめ、花と酒、やっと本格的な春の到来!
モンゴル・タグタホさんが草原の歌を朗々とうたいました。ぶんじんも“やんばるの子守歌”にのせて、切々と、こう歌いました。
♪この酒のめば、やんばる思い出す、やんばるの思い出は、祭りの笛太鼓♪
1623号【2006年3月24日】
◆<奥の共同店サミット>
沖縄(主に中・北部)独自の共同店の歩みについては、私たちも沖縄研究の初期から関心をもってきました。この30年、やんばるの道を歩きながら、集落の共同店に立ち寄り、お茶(「奥みどり」)などを買ったり、店の人と声をかわしたりしてきました。
時代の流れのなかで、共同店をめぐる状況は厳しいものがあり、その数も次第に減少(北部を中心に約70店)。しかし共同店への愛着はなみなみならぬものがあります。インターネットで検索してみても「共同店」は賑やか。とくに昨年来、新聞・雑誌・テレビで取りあげられることが多く、東京にもその動きが伝わってきました。恐らく国頭村「奥」共同店100
周年を契機として、奥の方々の努力はもちろん、中村誠司さん(名桜大学)や宮城能彦さん(沖縄大学)などの研究者の取り組みが動因となっているのでしょう。
この数ヶ月の動き。まず「フォーラム・奥共同店100 周年記念−皆で考えよう・共同店の将来について」(2005年12月10日)の開催。琉球新報の正月特集(2006年1月1日、2頁にわたって「生活守る知恵・共同売店」記事)。NHK総合「発見ふるさとの宝」(2006年2月7日)で奥共同店を放映。JTA(旧南西航空)機内誌“Coralway”特集「共同店の百年」(2006年3〜4月号)など。この間には、中村・宮城両氏や金城一雄氏(沖縄大学、2000年来の共同店調査)等の諸論稿が新聞(沖縄タイムスを含めて)掲載され、そして今回の「共同店サミットin
奥2006」(3月17日)の開催へと続くわけです。
もともと共同店は、集落の自治組織と深く関わって、字民の共同出資、共同運営、利益の共有・還元を原型としています。集落・共同体の、いわば経済機能(自治、祭祀、教育、生活相助などの集落機能と連動して)を担うものでしょう。奥の共同店の歴史はそのことを示しています。その意味では、私たちの大きなテーマである「字公民館」の研究とも深く結びつくところがあります。
17 日午後、奥の集落センターで開かれた「共同店サミット」に参加して、諸報告を聞きながら、年に2〜3度ぐらい、仮称「字公民館サミット」を開けないものか、あるいは思い切って「沖縄公民館学会」を構想できないものか、などと考えていました。
1622号【2006年3月22日】
◆<名護交流会−3月の沖縄・続>
前号の続き。
末本誠さんとは、奥の共同店サミットでお会いしました。その後は並里へのスケジュールだったようですが、私たちは名護を経て読谷から旧コザへ。
18日夜の名護「大国林道」交流会は、岸本力さん(2002全国集会事務局)のサンシンも一段と冴えて、それはそれは賑やかな一夜。小生のみ歯の調子悪く、すでに口内炎の症状あり、浮かぬ顔(写真をみればよくわかる)。中村誠司さん(名桜大学)も共同店サミットの疲れか、静かでした。当夜の話題をいくつか…。
名護市教育長・稲嶺進さんは若い社会教育主事の頃(1982富士見全国集会に参加)、絶品の「二見情話」の歌い手。最近はリクエストしてもなかなか歌ってくれない。ところがこの夜、チカラ君のサンシンにのって、艶っぽく歌い始めました。続いて2番を松田毅さん(社会教育課長)、3番は島袋正敏さん。この豪華?な組み合わせ、久しぶりの名曲でした。
正敏さんは秘蔵のカメから汲んできた古酒2瓶と、花粉症に効くという請福酒造(石垣島)「Fancy
30度」を持ってきていただきました。いまその効果を試さんものと、沖縄で直った花粉症の再発を待っているところ。24日の研究会にも持参して同病の皆さんにお裾分けする予定です。
宴もたけなわ、同行の石倉祐志さんは「やんばる島酒之会」入会を申し出ました。しかし即決というわけにはいかず預かりに。この会は、原則として名護・やんばるの人々によるとのこと。
与論島にいるはずの赤崎隆三郎夫妻が登場。名護に手づくりで新居を建てているという話。翌朝、新築中の豪邸を訪問してきました。
イジュの花が咲く頃、カヤックで源河から古宇利島への海を渡ろうという、島福善弘さん(名護市教育委員会文化課)の再度の提案。今年は実現できるかどうか。イジュの花が咲く季節とは、ほぼ5月のどの週でしょうか。せめて予定を組む努力をしてみたい、と思っています。
山城秀夫さん(大国林道オーナー)はじめ、皆さんに歓迎していただき、まことに有り難うございました。
1621号【2006年3月20日】
◆<那覇・やんばる・コザー3月の沖縄>
3月16日夜・那覇。風前号を送信したあと、ホテルの前の小さな店で寝酒?を楽しんでいたところ、固いものを食ったわけでもないのに、前歯(義歯)2本がギクリとはずれてしまいました。老化です。こんどの沖縄の旅は第1夜からつまずいた。
西青山で歯医者をしている旧制中学時代からの親しい友人がいて、いまでも「ぶんちゃん」と呼んでくれる仲。彼に歯の修理をしてもらうため、昨夜(19日)遅く、予定を変更して東京に帰ってきました。沖縄日程の後半は残念ながら中止。集まっていただく予定だった那覇や南部の皆様にはたいへん失礼してしまいました。連絡役の名城ふじ子さんにとくにご迷惑かけました。
しかし毎日のスケジュールはまことに充実。歯の噛み合わせ悪く、いつもの調子でしゃべれない身としては残念の極み!
今回の沖縄は、国頭村奥で開かれた「共同店サミット」(3月17日)への参加が第1の目的(風1613号)でした。あわせて旧コザ市で、仲宗根悟氏(当時の復帰協・事務局長)から「復帰運動と青年団運動」についての聞き取り第2段(19日)。その間をぬって名護の皆さんと旧交を温める夕べ(18日)・・・と、短い日程ながら、豪勢な毎日。
奥サミット終了後の炉辺での交歓(沖縄でいろりの火を初めて楽しんだ)、翌日は山荘での昼食会。午後には西海岸の共同店をめぐりながら、舟でなく大橋を渡っての古宇利入り。当日の「古宇利区長日誌」(ふいの島日記、小浜美千子さん)には、
「… 今日はナカムラ教授とブンジン先生が島にお見えだったようで、私はあいにくの不在でした
<(_ _)>。。。時間差でしたネ(^○^)…」と。
石倉祐志さん(TOAFAEC)も一緒でした。アサギのところで驟雨にあい、ぬれた石段をのぼって御嶽にも参りました。この神、古宇利の人だけの神だそうですが・・・。以下次号
1620号【2006年3月17日】
◆<旧美濃部都政と公民館>
愛知川合宿(3月11日〜12日)ではいろんな話が出ましたが、横浜の伊東秀明さんから、「美濃部都知事を公民館嫌いにしたのは?」とのお尋ね(メール)がありました。
直接に故知事にお聞きする機会があったわけではありませんが、東京教育大学教授時代(都知事になる前)に、どこかの公民館で、「経済」講師を依頼され、その思想性の故に講師を断られた経過があるらしい。公民館は古い体質だ!との認識があったのではないか、という話が伝わっています。
これは風説の類に過ぎません。しかし具体的な事実として、東京都政のなかに公民館は位置づいてきませんでした。美濃部都政になって図書館建設の補助金は実現したのに、公民館についての助成策はまったく動かない。「公民館」という名称は美濃部施策(たとえば「広場と青空の構想」、シビルミニマム等)のなかから欠落しています。
これに挑戦したのが三多摩の公民館関係者。都教委の理解ある人たちに働きかけ、資料委員会を立ち上げてもらって「新しい公民館像をめざして」(1973〜74、いわゆる三多摩テーゼ)を世に出します。黄色の表紙の小さな冊子をいちばん先に読ませたかったのは、ほかならぬ美濃部知事だったのです。読んでくれたかどうかは定かでありませんが。
併行して東京都社会教育委員の会議は「市民教育のあり方」についての答申(1973年)を出し、その後「市民集会施設」という名目で(図書館と並んで)若干の補助金が出るようになる一時期があります。しかし都財政の逼迫ですぐに廃止。
当時(1970年代)、ぶんじんは都社会教育委員でした。美濃部都政のもと、知事部局の本丸は無理としても、都教委・社会教育行政の計画や資料のなかに「公民館」を少しでも盛り込ませる努力はしたつもりです。しかしその後の、鈴木→石原都政への流れのなかで、社会教育・公民館をめぐる状況が惨憺たる経過をたどることはご承知の通り。
横浜のことはよく知りません。ぜひ調べてください。東京についての資料は、本ホームページ「東京社会教育研究」に拙論を収録しています。
16日夜、さきほど那覇に着いたところ。東京は春の嵐とか、こちらはさわやかな南の風が吹いています。
1619号【2006年3月15日】
◆<ゾフィーの言葉と眼差し>
小田切さんから頂いた「白バラの祈り」についてのメール、もう1週間近くが過ぎています。「風」に急ぎのご案内等が入ると、ついそれを優先してしまうのです。掲載が遅れ、失礼しました。
映画は、ナチス支配下のドイツ・ミュンヘン(1943年)、ヒトラー打倒を市民に呼びかけた白バラグループ、その紅一点、ゾフィー・ショル(学生)と兄ハンスたちが逮捕され、わずか5日で断罪(斬首)に処されるドキュメント。統一後の東ドイツで新しく発見されたゲシュタポの尋問記録を加えて、いわば史実を忠実に再現した記録だけに、痛切に胸にせまるものがありました。
ローテムント監督の「ゾフィーの言葉と眼差し、それがこの映画の主役なんだ」(パンフ)のひとこと。通例のゲシュタポ映画と違って、たしかに「言葉」と「眼差し」がこれほど脳裏にやきついた映画はなかったように思います。それを通して私たちに歴史を深く問いかけている。
たとえば印象的な言葉(表現がすこし不確かです)、ゾフィーは「信念を裏切ることは出来ない」「父は正直であれと教えた」、最後の別れで娘を抱き寄せ「私は誇りに思う」と父。ゾフィーはその日に、裁判官に向かって「次はあなたが裁かれる」と最後の一言、「太陽は輝き続ける」と言い残して処刑場へ。言葉のひとつひとつと、ジャンヌ・ダルクを思わせるゾフィーの眼が、心に深く激しく、つきささっています。
ゾフィー兄妹の最後の日、面会に訪れた両親に別れを告げ、ともに死に臨む3人で肩を抱き合う場面では、客席からいくつもの嗚咽が聞こえました。私が観たのは昼だったせいか、シニアーの方が多く、若者たちはちらほら。この映画を若い世代にみてほしい。
ナチス崩壊後60年、「白バラ」はいま歴史のなかで輝き、ホロコースト等の負の遺産を背負っているドイツの若い世代を励まし勇気づけているようです。日本の若者たちを励ますものはなにか、などと考えさせられました。
1618号【2006年3月14日】
◆<愛知川合宿−定食「公民館」>
前号の続き。3月11〜12日の愛知川合宿は、渡部幹雄さんのお世話で思い出に残る話題満載の旅となりました。有り難うございました。
なによりもレストラン定食メニュー「公民館」は驚きでした。矢久保さんが撮ってくれた画像をさきほどホームページ(3月スケジュール)にアップ! ご覧下さい。「公民館」メニューは「コロッケ、コキール、ヤサイサラダ」とあります。
いい味でした。さわやかな盛りつけ、ヘルシーでバランスのとれた一品。コロッケ、コキールもよかったが、とくにリンゴのたくさん入ったサラダが、オーナーの心意気をしのばせて結構な味。いい公民館とはこんなもんじゃないのか−そんなに豪華じゃないが、内容豊かで心意気!などと思いました。
公民館学会の“認定証”を出してはどうか、色紙に書き残していこう、会長がまず揮毫だ、などと悪のりするのは矢久保さんと伊東さん。それだけは遠慮しておきました。敬意を表して、オーナーにご挨拶。返ってきたご挨拶は、「公民館学会?そんなものがあるんですか?」と。
食べ物だけではありません。「小さな地域」活動、「自治公民館」の可能性を考える、これからどうまとめていくか、の論議もいい内容−自画自賛とはこのこと−でした。
本号は、川崎の小田切督剛さんから寄せられたメール、映画「白バラの祈り」について書く予定でしたが、次号おくり。また山城千秋さんの「沖縄青年運動史研究をどう進めるか」も次号(または次々号)へ。
1617号【2006年3月12日】
◆<湖東・愛知川にて>
3月10日の日本テレビ「ニュースプラスワン」羽村市生涯学習センターについての報道は予定通り放映されましたが、佐藤進さんのメールにあるように、主として施設のハード面とランニングコストの問題に集中して、ぶんじん登場予定のいわばソフト面については割愛されていました。風(1615号)本欄に予告?しましたので、関心をもたれた方には肩すかし、期待はずれの結果となり、申しわけなく思っています。
いま滋賀県(新)愛荘町(旧・愛知川町)に滞在中。旅先のケイタイに「…収録したお話を盛り込むことができませんでした」という弁明の電話がかかってきました。生涯学習センターと公民館の関係、法的基礎はどうなっているのか、無料の原則とは、公民館の地域配置の考え方など案外と熱心な取材があっただけに、当方も残念、しかし「…こんな問題を今後も取り上げてほしい」と応えておきました。
取材は麹町の日本テレビで。研究室らしく・・・というより、植木鉢などセットされて、研究室らしくない雰囲気、取材クルーを迎えて挨拶する場面から始まりました。いくつか専門の本を持ってきてほしいという要請あり、机上に重ねた本のいちばん上に新『公民館・コミュニティ施設ハンドブック』を置いて、三多摩テーゼの頁を開くかたちで話を進めたのです。肩書きも「日本公民館学会」とする打ち合わせ。それらの場面が放映されなかったのが、大いに残念!というところ。
しかし、こちらの話しぶりは、どなたかのようにワンフレーズというわけにいかない。どうしても説明的な言い回しになりがち。これではテレビという媒体にはのりにくいな、というのが反省点です。
いま愛知川で、美若忠生、伊東秀明、矢久保学などの皆さんと一緒です。「小地域活動・自治公民館」分科会(社会教育研究全国集会)の論議をどうすするめるかの合宿。渡部幹雄さん(町立図書館長)の案内で近江・湖東の古い歴史をもつ集落を訪ね、格式ある酒造り推奨の銘酒も楽しんだ1日。夕食のレストランは、公民館関係者であれば一度は食すべき特別メニューあり。これはきっと渡部さんが紹介してくださるものと期待しています。
1616号【2006年3月10日】
◆<ドキュメンタリー映画「三池」>
先日来より話題の映画「単騎、千里を走る」(高倉健、監督・張芸謀)や「白バラの祈り−ゾフィー・ショル、最後の日々」(ユリア・イェンチ、監督マルクローテムント)を観ました。いずれもシニアー料金、まことに申し訳ない思い。この欄で書きたいことがたくさん・・・・。
今日(9日)は、試写会「三池−終わらない炭鉱(やま)の物語」へご招待いただき、シニアー料金さえも払わず、なんとお礼を申しあげたらいいか・・・。監督・熊谷博子さんの言葉。
「三池の炭鉱跡に足を踏み入れたその瞬間です。地底から、働いていた人の声が本当に聞こえたようにな気がしました。その時から炭鉱(やま)の本当の声を聞こうとする、私の長い旅が始まりました。炭鉱の残した人とものは、あまりにも力強く魅力的でした。なのにその足あとを消したい人がいる。怒りが湧き起こりました。
私一人でできたわけではありません。まちの歴史と向き合おうとした行政、自分たちの思いを伝えようとした市民と撮影スタッフの、不思議な共同作業から生まれました。…」
2年がかりで100人近い証言と30を越す炭鉱関連施設の撮影、延べ110時間の映像、そこから103分の作品が完成(2005年、ドキュメンタリー)。大牟田・三池の近くに育ち、三池争議(1960年)や悲惨な炭じん爆発事故(1963年)も間近にみてきたものとして、痛切なひととき。あわせてこのような地域史のドキュメンタリー映画を仕上げた監督への畏敬の念をもちました。
熊谷さんは杉並にお住まいの人、原水禁署名運動の歴史や私たちの安井家資料研究に大きな関心をおもちです。
映画「三池」の上映は、4月1日より、JR東中野駅前「ポレポレ東中野」モーニングロードショー(10:50〜)。皆さん、時間をつくってお出かけください。
1615号【2006年3月8日】
◆<テレビの取材>
「南の風」配信リストの更新をめぐって、永いお付き合いの徳永功さんからはレスポンスなく、実は少々心配していました。5日夜の「市民活動資料センターが欲しい!」集会(立川、呼びかけ・アンティ多摩)でお会いした進藤文夫さんにも様子を伺ったりしたのでした。
今日(7日)午前、この間パソコンの調子がよくなかった事情と「南の風」継続を!のお元気なメールを頂き、旧友ここにあり、と嬉しくなりました。いつも風への熱いエール、有り難うございます。
「市民活動資料センターが欲しい!」集いは、多彩な顔ぶれで刺激的なひとときでした。かっての多摩社会教育会館「市民活動サービスコーナー」資料保存問題が背景にあるのはご承知の通り。久しぶりに江頭晃子さんからでも、その後の経過と「新たな第一歩」踏み出しのことなど、風に送っていただけないでしょうか。
ところでこの間、日本テレビ・ニュースプラス1のスタッフから頻繁に電話がかかってきました。生涯学習センターと公民館はどう違うのか、最近の大規模な(たとえば東京・羽村市の)センターづくりをどう評価するかなど。なかなか熱心な取り組み。九州旅行中のケイタイにも。
羽村市の(公民館を取り壊しての)新生涯学習センターは約50億のデラックス施設、この4月オープン予定と聞きます。そういえば、佐藤進さんが「2005公民館の風」28号(11月18日)で、「憤激レポート」と題する写真週刊誌『FRIDAY』の(羽村を含む)生涯学習センター関連記事を紹介されたことを思い出しました。事情をお話して、送っていただいたのが、本号の佐藤メールでした。
4日午後、ニュースプラス1の取材クルーと会いました。ディレクターが聞き手になって、案外と長く(約1時間)「生涯学習センターと公民館」についていろいろの質問。そのなかから編集して番組のなかに盛り込むようです。
こちらはいま花粉症で不機嫌、全般的に説明は不充分、ときに(例によって)言い過ぎもあり、編集されたものをチェックしたいところですが、そうもいかず、まあ、いいか、と諦めています。
放送は(大きな事件報道がないかぎり)3月10日午後5時過ぎのニュース・プラスワン(日本テレビ、4チャンネル)のなかで15分?程度。どんな出来上がりなのか、気になっています。ただし東京・関東エリアのみだそうです。
1614号【2006年3月6日】
◆<師勝町の回想法>
もう2週間余り前のこと、2月18日に江戸東京博物館で「博物館で高齢者の元気をつくる」(国際シンポジウム)が開かれました。渡部幹雄さんが「回想法が東京へ」と知らせてくれたもの(風1954号)。
イギリスからのヴィヴ・ゴールデン女史(レスター大学)と並んで、師勝町(愛知県)歴史民俗資料館の市橋芳則さんが特別講演。市橋さんには私たちの新・上海本に報告を寄せてもらった経過があり、そのお礼と(急いで書いていただいたのに)刊行が遅れているお詫びをしたい気持ちもあり、土曜日の他の日程をパスして出かけました。講演終了後に立ち話でしたが、ご挨拶できました。
江戸東京博物館や東京都老人総合研究所のスタッフによる報告(例えば「ものづくり向島」地図づくりプログラム)や地図展示も。
市橋さんの講演では、短い時間ながら、師勝町想い出ふれあい(回想法)事業の取り組みが紹介されました。詳しくは師勝町のサイトを。http://www.town.shikatsu.aichi.jp/~center08/kaisou/01_jigyou.html
昭和日常博物館の試み、今生きている人々のキオクの展示、回想法キット(洗濯板、裁縫箱、アイロン、そろばん、教科書、筆箱など約20箱、貸し出しもしている)、回想法スクール、そのOB会・いきいき隊など、興味深い報告でした。高齢者が自ら「脳を活性化させ、活き活きとした自分を取り戻そうとする療法」であり、介護予防事業の側面をもつと同時に、回想法を軸に「地域社会に参画する高齢者たち」への展望も。博物館の手法を活かしつつ、活動が方法化され定式化されているところが大きな特徴と言えましょうか。
社会教育の実践史を振り返ると、共同学習、生活記録、自分史学習など多くの“遺産”をもっている。それを現代的にさらに展開させ、方法化し技術化して発展させていく課題、せまい座学の学習論から多面的な活動論へ拡げていく視点など、思いをめぐらした1日でした。
この日誌欄は、ついつい長くなってしまうのが欠点、と自戒しつつ。
1613号【2006年3月4日】
◆<3月・沖縄訪問日程>
3月17日午後の沖縄「共同店サミット@やんばる奥」(風1605号・中村メール)に参加する予定です。他の用件と調整する必要あり、まだ航空券を入手していませんが、一応のスケジュールは次の通り。
16日夜に那覇着。翌朝(山城千秋さんと落ち合って)やんばる・奥へ。17日は奥泊り。18日名護泊り、19日は中頭(下記)、そして那覇へ、という日程を考えています。その後、八重山に行くかどうかは未確定(こんどはジャンプしようと思っている)。
中村誠司さんへのお願い、17日の奥宿泊をお願いしていただけないでしょうか。翌18日の夜、名護で「花粉症の妙薬」とかいう泡盛古酒を一服頂ければ有り難い。島袋正敏さんのご都合は如何でしょう?
今回は、石倉祐志さん(TOAFAEC )も同行予定ですが、まだ確定ではない模様。また末本誠さん(神戸大学)も共同店サミットに参加とのこと、賑やかな数日になりそうです。
話は遡りますが、2月末から福岡へ。久留米を経て、3月1日は熊本に泊まりました。久しぶりの旧友が集まって(50年ぶりのガールフレンド?も来てくれた)飲んでいたところに、鹿児島から小林平造さんが駆けつけて、これはまた賑やかすぎる一夜でした。宴も終わった後、両小林と山城の3名はホテルロビーに座りこみ、沖縄青年運動史研究をどうすすめるか、酔いも忘れての語りあい。寝たのは午前4時?頃か。みな(ぶんじんも)若い!
その関連で、東武さんを通して沖縄青年運動史の聞き取り・段取りをお願いしたところ、19日午後に旧コザ市で・・・という日程が決まりました。春のスケジュールが始まったようです。
なお、伊藤長和さん(川崎)の定年退職お祝い会は、4月28日(金)4月定例研究会として(学会等関係者にも案内して)催す予定です。皆さん、ご予定下さい。
1612号【2006年3月1日】
◆<社会教育実践史>
『月刊社会教育』(国土社)は、今年の2月号・3月号の2回にわたって、島袋正敏さん(2004年、名護市教育委員会を退職)の社会教育実践史を掲載しています。このシリーズで沖縄からのレポートは初めて。私たちの名護との交流の歳月と重ね合わせて、印象深く読みました。
正敏さんと初めて会ったのは、1980年前後。もうすでに四半世紀をこえたことになります。ちょうどその頃は「ぶりでぃ(みんなの手)で博物館づくり」(2月号)の胎動期だったのです。ぶんじんゼミ一行を歓迎していただいた場所は、活気あふれる博物館準備室でした。たしか留学生の韓民(中国・教育部)や白井・樋口さんたちが2泊3日の船便で沖縄入りした旅。正敏さんが用意した歓迎の席(現・博物館の土間)には、豚、猪、ヒトゥ(いるか)など、やんばるの山と海の幸が満載でした。この夜のことはいつまでも語り草です。
ぶんじんの沖縄への旅は、一人旅はほとんどなく、いつも誰かを誘って行くならわし。市民、院生、留学生、あるいは和光大学(1年)プロゼミ学生などさまざま。多いときは20人をこえるときもあり。そのすべてを正敏さんたち名護の皆さんは、心ひろく迎え入れていただきました。かりに年平均20人と軽く見積もって(実際はもっと多い!)25年間に延べ500人。それぞれに沖縄とのいい出会い、とりわけ島酒を介しての一夜、みんな名護が好きになったのです。
故伊藤寿朗をはじめて名護に連れていった日、正敏さんは熱をこめて「空調なしの収蔵庫」(2月号)を語りました。陽も西に沈む暗がりで、博物館研究に生涯をかけていた彼の目の輝き。正敏さんの実践史を読みながら、忘れられない場面をヒトコマずつ想い出しています。
しかし、『月刊』に書かれていないことがたくさん残されていますね。たとえば「やんばる展」のこと、本格的な市立図書館づくり、字公民館への取り組み、字誌づくり、あるいは関連して徳田球一・宮城与徳の顕彰事業などなど。写真家・正敏が撮り溜めた作品を中心に、「写真が語る実践史」のようなユニークな1冊を世におくっていただけないものか。
1611号【2006年2月27日】
◆<“虫の目”と“鳥の目”で>
2月24日の研究会(上記)報告に加えて、二つのことをご紹介しておきます。一つは、地をはう“虫の目”について。
朝日「ニッポン人脈記」の「沖縄をつむぐ」シリーズは、毎号ともに知己の顔が登場して楽しみでしたが、宮城晴美さん(那覇市歴史資料室)もその一人(2月13日夕刊)。1980年前後、私たちが沖縄研究を始めたころは、雑誌『青い海』の編集を担当されていて、その縁で同誌に拙論が掲載されたこともあります(小林「地域づくりと公民館」『青い海』90号、1980年2月)。
宮城晴美さんは、故郷・座間味島の惨劇(米軍上陸の日、住民 130人「集団自決」)を『母の遺したもの』(高文研、2000年)として記録されています。歴史学者・安仁屋政昭氏との出会いがあり、沖縄県史の編集等を通して、歴史を見る姿勢を「地をはう虫の目と、大空を舞う鳥の目で」ということばで教えられたそうです。研究会の席上、この記事を紹介したのでした。
あと一つ。当日の午後は安井家を訪問して、未見のファイル、資料箱や袋を開いて整理する作業をしました。丸浜江里子さんを通して、私たちの活動に関心をもたれた映画監督・熊谷博子さんが来訪され、ドキュメンタリー制作の核心のような話を聞きました。このときも「虫の目と鳥の目」の思想を感じたのでした。
熊谷監督の最近のお仕事は「三池・終わらない炭鉱(やま)の物語」。3月2日と9日のロードショー(岩波小ホール)、4月1日よりモーニングロードショー(ポレポレ中野−JR東中野駅前)だそうです。
1610号【2006年2月25日】
◆<韓国平生(生涯)学習の研究資料>
昨年9月(23日〜26日)韓国光明市で開かれた第4回全国平生学習フェスティバル、川崎の伊藤長和さん、小田切督剛さんや金侖貞さん(東大院)等とご一緒に小林も参加して多くの刺激をうけました。同じく訪問団メンバーであった手打明敏さん(筑波大学)は、この旅を一つのステップとして、その後積極的な韓国研究を開始されています。11月には新たな研究グループで、光明・富川両市を中心とする平生学習についての調査を実施、その通訳の任にあたられたのが本号の李正連さん。
李正連さんは、同・平生学習フェスティバルの一環として開催された「学習社会実現のための平生教育法の合理的改善法案」論議の資料を日本語訳にして紹介され、TOAFAEC
ホームページに掲載しました。成立5年余を経た段階での韓国・平生教育法改正についての興味深い論議です。日本の社会教育法や生涯学習の概念的な検討を深める意味でも、これからの動向が注目されます。
手打研究グループでは、その後「自治体と市民の社会的協働による地域社会教育構築に関する日・韓・独比較研究」をテーマとして研究会が継続されているそうです。先日の第4回研究会では「韓国・富川市の地域社会教育事業」について小田切さんが報告され、その資料も送っていただきました(風1607号)。ご了承を得て、早速TOAFAEC
ホームページに収録しています。
関係の皆さんのお力を得て、TOAFAEC サイトには、少しづつ新しい資料が増えています。その経過は「更新履歴」に。折にふれてお立ち寄りいただければ幸い。
1609号【2006年2月23日】
◆<ベトナム写真展>
久しぶりに津久井純さんのベトナムからの便りが届きました。いまは「公民館」づくりの仕事ではないそうですが、お元気そうで何より。
東京では、先日まで「発掘された不滅の記録1954−1975 VIET NAM そこは戦場だった(ベトナム)」写真展が開かれていました(恵比寿・東京都写真博物館)。朝日新聞(主催)に小中陽太郎氏が一文を寄せていて(2月13日夕刊)印象的でしたので、終了間際の午後、出かけてきました。
南ベトナム側の記録だけでなく、北で撮られた写真が数多く展示され、また命を賭して戦場を撮り続けた内外のカメラマン(たとえば沢田教一、ピュリッツアー賞、享年34歳)の代表的な画像が並んでいて圧倒されるものあり。沖縄戦記録と同じく、戦争の悲惨な現実が写しだされていますが、これと闘った民衆のひたむきな眼や、若者たちのはじけるような笑顔もあって、大きな違いを感じました。
写真展は、当時の北ベトナム軍が南ベトナム大統領官邸に突入して、首都サイゴンが陥落、抗米戦争が終結(1975年)するところで終わっています。しかし、その後の中越戦争、カンボジアへの軍事侵攻、未曾有の経済混乱、そして「ドイモイ(刷新)」政策(1986年)等の激動の時代を経てのベトナムの現在。そこでの津久井さんたちの仕事があるんだ、と思いを馳せたひととき。
私たちのホームページには、「ベトナム教育法」(1998年、津久井純・坪井未来子訳)を収録しています。これに2005年改正法の日本語訳をぜひ加えてもらいたい、と切望しています。
1608号【2006年2月21日】
◆<台湾と沖縄の間 >
沖縄と台湾とは、地理的に文字通り一衣帯水の間。戦前は(戦争直後も)とくに八重山・与那国などは、経済的にまた生活的に台湾との強い絆で結ばれてきた歴史がありました。沖縄と台湾の間は、ほんとに近い。那覇から台北に飛んでみればすぐに実感できます。しかし社会教育の面では、これまで案外と行き来がない。たとえば台北と那覇との社会教育の相互交流はほとんどありません。
かねがね私たちは、海を越えて、東アジアの拡がりのなかで、社会教育の研究交流を創っていこうと考えてきました。TOAFAEC
の活動を通して、また「東アジア社会教育研究」編集において、これまでいくつかの努力を重ねてきたつもり。東アジアの視点からみる場合、その重要な結節点の一つは、沖縄と台湾の間にあると思います。
風・前々号の上地武昭メールによれば、沖縄大学のメンバーがこの24日から台湾を訪問されるそうです。昨年5月の私たちTOAFAEC
の台湾行きに同行された上地さん、この旅をきっかけにしての今回の企画だそうです。楊碧雲さん(台北市政府)はじめ皆さんにどうぞよろしく。これから新しい交流が始まりそう。
本号の記事では、楊武勲さんが台湾から沖縄へ楽しい旅をされたとのこと。早めに分かっていれば、沖縄の皆さんと連絡しあって、新しい出会いになったことでしょう。“イチャレバチョウデイ”(行き逢えば兄弟)という言葉が沖縄にはありますから。
ところで、私たちの昨年5月の台湾行きは「東アジア社会教育研究」第10号の取材・編集旅行でした。年が明けてすでに2月下旬、今年の第11号をどう創っていくか、具体的な活動を始めるときが来たのではないでしょうか。
1607号【2006年2月19日】
◆<内モンゴルとの研究交流>
ボヤンバートルさん(内蒙古師範大学)からも「風1600号おめでとうございます」のお祝いメールが届いています。
「 … 最近、私は中国・国家留学基金委員会に訪問学者として、来年の日本留学申請を提出しました。許可を取れるかどうかわかりません。その理由書の中に先生の名をお借りしました。その内容は中国語で次のとおりです
…」(Thu,16 Feb 2006 15:51)とあり、原文が貼り付けられていました。しかし当方のパソコン(中国語ソフトがない)では多くが文字化け。残った日本語漢字により、その大意は判別できました。再度の(公式の)日本留学の実現を祈っています。
こちらでは、トクタホさんを中心に9月初旬の内モンゴル(フフホトなど)行き計画が動きはじめています。「南の風」にも関心をもつ人がいます。そのうちに訪問計画について相談があると思います。どうぞよろしく。
しかし、ボヤンバートルさんが期待する内蒙古師範大学との大学間研究提携については、いまのところ関心をもつ大学・研究室は具体的に現れていません。日本の大学は、足元の問題に追われてみな忙しいのです。国立大学の独立法人化に伴う体制づくり、私立大学も18歳人口減を背景にさまざまの問題を抱え、ゆっくり研究にいそしむ状況ではありません。募集や入試、会議や諸学務等の仕事に追われて大変です。ぶんじんは、いいときに大学を辞めたものだと思っています。
本号より(やっと整理が出来た)新アドレス帳による送信。無事に着信できたでしょうか。なにか混乱があれば、ご一報下さい。
1606号【2006年2月17日】
◆<「風」へ吹く風>
この間、新アドレス帳への切り替えをめぐって、皆さんからたくさんのメールが届きました。短い文章のなかに、いろんなメッセージ。アドレス帳作成のデータに使っただけで消去するのは“もったいない!”
小さなメールは「…割愛させていただく」と前号で書きましたが、方針変更。この機会に、抄録のかたちで、ご紹介することにします。編集がたいへん! しかし日頃は風・誌面になかなか登場しない?方もあり、名簿がわりの記録ともなりましょう。本号はその一部(順不同)。
一方で長文のメッセージを寄せて下さった方の風・掲載はさらに遅れてしまいます。ご容赦下さい。なお、新アドレス帳の作成が追いつかず、まだ旧アドレス帳での送信となります。ご了承を。
(中略)
◆<沖縄・共同店サミット・への旅計画>
各地からのメッセージは、まだまだ続きます。抄録(…略…)が多く申しわけありません。次号以降にも順次収録していく予定です。
ところで、東京もやっと春めいてきました。今年の旅行計画がようやく始動。一つは2月末の福岡行き。この機会に一晩だけ熊本に足をのばそうかと思っていますが、山城千秋さんは2月28日あたり在熊かしら?小林平造さんのご都合はどうだろう。一緒に熊本で合流できませんか。ついでに上野景三さんのご都合は? 沖縄青年運動史研究会の相談が出来れば、と期待しているのですが。夜の飲み会には、宮里六郎さん(熊本学園大学・社会福祉学部)にも連絡をとっているところ。
二つ目は3月11〜12日の滋賀県湖東(愛知川町など)訪問。小地域・自治公民館論議の集まりです。社会教育研究全国集会分科会世話人(美若忠生さんなど)の呼びかけ、これからのことを相談しようと。渡部幹雄さんにお世話になります。この日程は確定。
三つ目は、3月17日予定の沖縄「共同店サミット」(@やんばる奥、風・前号の中村誠司さんメール)に参加し、名護・中頭にも寄り、可能であれば久しぶりに八重山(平久保「ぶんじん歌碑」など)にも飛ぼうという企画。石倉祐志さんはこの訪沖日程で「休みが取れないか」調整中とのことです。関心ある方はご一報を。しかし・・・難点もあり、この時期は飛行機の割引がほとんどない(シルバー割引もない!)。
さきほど南からの別の風に乗って来信あり、大橋架橋1周年を迎えた古宇利島を、古酒を腰(ダチビン)にさげて、神参りしながら、ぶらぶら歩こうという企画も伝わってきました。面白や!
いずれ数日内には旅行日程を確定したいと考えています。東京は、温かくなってきたかわりに、花粉到来の兆し。心なしか昨日あたりから眼ショボ鼻ムズの感じ。昨年3月に花粉症を逃れて(衝動的に)沖縄へ逃げた思い出あり。今年は花粉飛散が少ないとの予報ですが、さてどうなることやら。やはり東京から脱出したくなる?
1605号【2006年2月15日】
◆<次なる峠への道 >
風8年目の誕生日に1600号、そして本号で通算2000号達成!などと子どもじみた計算を並べ立てて、恥ずかしい限り。自分では、これで結構嬉しいのです。1605号でのアドレス帳整理をお知らせしたところ、たくさんの「継続」希望メールをいただき、有り難うございました。またしばらく風を吹き続けるエネルギーを頂きました。
皆さんからのご返事、一つひとつを風・誌上に掲載したいところですが、全部を紹介できません。編集上では嬉しい悲鳴!多くを割愛させていただき、主なもののみ順次収録していくことにします。速報性に努めてきた「風」も、これからは(余程のことがないかぎり)連日の送信は控えたいので、掲載が遅れることになります。お許し下さい。
まずはこの時点で、これまでお付き合い下さった皆様に心からの御礼を申しあげます。現アドレス帳による配信はこれでおしまい。あらためて、本号までのご愛顧に深く感謝いたします。
ここで“惜別の歌”をお届けしたい思い。声は届きませんが、いま心では静かにうたっています。
8年かけて山道をのぼってきました。いま一つの峠を越えた心境です。息を休め、まわりの風景を楽しみながら、次なる峠への道をあと少し歩いていきます。引き続き受信していただく皆様、どうぞよろしくお願いいたします。今まで以上に我がままな「風」になること必定。ご遠慮なく助言・批正など賜れば幸いです。
なお本号でお別れの方々も、後日ご一報いただければ(まだ風が続いていれば)すぐに送信を再開いたします。TOAFAEC
ホームページにも、風掲載の記事(研究会案内、ぶんじん日誌、中国・韓国等との研究交流記録など)をアップしていきますので、お暇の折りにご覧下さい。
1604号【2006年2月13日】
◆<「オソイ(愛護)とクサティ(腰当)」>
仲松弥秀先生を偲んで・・・。若い留学生から質問もありましたから、不充分ながら「オソイ(愛護)とクサティ(腰当)」(風前号)のことを。「日本語は難しい」と。いや、日本人にも沖縄語は難しいのです。
仲松弥秀著『神と村』(伝統と現代社、1975)は次のように書いています。クサティ(腰当)とは、「幼児が親の膝に座っている状態と同じく、村落民が御嶽(ウタキ)の神に抱かれ、膝に座って腰を当て、何らの不安も感ぜずに安心しきって拠りかかっている状態をさしていう」と。
クサティという言葉は、日常的にも使われています。集落を抱きかかえるように守っているまわりの森を「腰当森(クサティムイ)」、そこに多く御嶽が祀られ、いわば鎮守の森なのです。
いつぞや名護「大国林道」で飲み始めるとき、ゆったりと壁に寄りかかることができる「クサティの席」を、年長のぶんじんにすすめていただいたことがあります。ハッと思い当たりました。
オソイとは「襲い」「支配」と解されがちですが、上記の『神と村』では、「臥している子に衣をおそう(蔽う)てやる、鳥が卵を抱いている愛護の動作」と説明しています。たとえば「浦添」は、伊波普猷のように「浦襲い」「浦々を支配する」意でなく、幼子に衣を蔽ってやるように「浦(港)を愛護する」意味だと。仲松説はやさしい響きです。
オソイという沖縄らしい言葉を知って、学生たちに「衣を蔽ってやるよう」な関係をもっているだろうか、教師として反省したものです。
「オソイ(愛護)とクサティ(腰当)」の思想は、ムラ・シマの御嶽や祭祀にかかわる古語としてでなく、現代にも通じる深い意味を含んでいるように思われてなりません。仲松『神と村』を再読しながら、あらためて現代の家族、子育て、学校のあり方など、考えさせられました。
中村誠司さんからは、別に奥・共同売店のこと、共同店サミットについての一文をいただいていますが、長くなりますので、次号に掲載させていただきます。
1603号【2006年2月11日】
◆<沖縄のムラ・シマ>
仲松弥秀先生が亡くなられました。今ごろ(10日午後)は告別式がおこなわれている時間だ、と思いながら、この日誌を書いています。個人的に教えをうける機会はありませんでしたが、「神と村」「古層の村」などの著作を通して、多くのことを学びました。
沖縄のムラ・シマについて、日本の農村社会学や民俗学などでは分からないことが多すぎる。仲松先生の本を読むと、なぜか新しい視界が開けて、すっきりみえてくるものがありました。まさに“偉大なるフィールドワーカー”、たくさんの具体的な事実を基礎にしての論究ですから、よく分かるのです。「オソイ(愛護)とクサティ(腰当)」の指摘など、当時の私には衝撃的なものでした。ムラの先輩が、若い世代を温かく抱きとめて(オソイ)、じゅんじゅんと大事な話を説いてくれる、そんな趣き。中村誠司さん(名桜大学)から、弥秀先生の“思い出の記”など送っていただけないでしょうか。
ムラ・シマの共同を象徴する「共同売店」。琉球新報の正月元旦特集は見開き2頁にギッシリと「地域が誇る宝」「生活守る知恵」共同売店が取りあげられていて(山口真理子さんから切り抜き)、驚きました。80年頃に116店あった共同売店は、現在やんばる(北部)を中心に約70店とのこと。その特質や今後のことについて、宮城能彦さん(沖縄大学)や中村誠司さんがコメントされていて興味深い。
小林ゼミがやんばるを旅するときは、どこかで必ず共同売店に寄ったものです。たとえば今帰仁村の崎山。ムラの広場の茅葺きアシャギのところで一休み、「お土産買うなら、共同売店で買おう!」と呼びかけて、やんばる茶やサーターアンダギーを買いました。
○お知らせ−再掲(1600号・日誌欄)
<アドレス帳整理−あらためてのエントリーを!>
最近の「風」への投稿・来信がなかった方で、引き続きの「風」送信をご希望の方は、お手数ですが、あらためてのエントリーをお願いいたします。数日後の1605号まで現アドレス帳による配信、それ以降はご希望の方のみの新リストに切り替えます。
1602号【2006年2月9日】
◆<地域から平和を!>
前号の続き…。
日曜日(5日)の安井家訪問調査では、メンバーの安藤裕子さん(早稲田大学アジア太平洋研究センター特別研究員)が、「杉並・安井家に眠る原水禁運動創成期の貴重な資料が今明らかになる!」というチラシ原案をつくってきてくださいました。
まわりの関心ある人たちに呼びかけ、私たちのプロジュエクトに参加していただこう、カンパもお願いしよう、市民運動的な取り組みとして拡げよう、その呼びかけチラシです。
安井資料研究プロジュエクトはいま中心メンバー8人、20代から70代の多彩な顔ぶれ。ぶんじんは顧問的な役割です。その欄も設けて頂くそうなので、次のような趣旨の短文を載せようと思っています。
「安井家資料との衝撃的な出会いは25年ほど前でした。日本だけでなく国際的に拡がった原水爆反対の平和運動は、地域(杉並)の母親たちの小さな読書会から始まったこと、杉並公民館が運動の拠点となったこと、そのすべての記録・資料が安井家の納戸に保存されてきたのです。
貴重な宝の山を市民運動として再発見していきたい。資料の古文書的な保存だけでなく、現代に甦らせ、広く市民(子どもたちも含めて)に伝えていきたい。資料を復元し豊富な写真を活用して、たとえば“地域から平和を!”のDVDなど制作できないだろうかと夢見ています。」
DVDのことは、文字通りの夢物語。しかし昨年末に制作された沖縄・1フイートの会「沖縄戦の証言」(ビデオ、DVD)−風1578号で紹介−を観て以来、頭から離れないストーリーです。いずれ日をあらためて書くことにします。
1601号【2006年2月7日】
◆<安井郁「道」>
2月5日は安井家訪問調査(第15回)。原水禁運動−安井家資料研究会は、その後も月1〜2回のスケジュールで着実に動いてきました。歩みが始まってほぼ1年。この日の参加は竹峰、丸浜、安藤、小林の4人と安井節子さん。データー入力を一休みして、収蔵資料・全体像の把握もしようというわけです。
納戸の棚から隣の応接室へ、これまで未見の包みや箱を移して、新たな資料を開く作業を始めました。安井郁・田鶴子夫妻の写真の前での作業、印象的なひととき。いま応接室は足の踏み場もない状況です。
おそらく安井先生ご自身が紐でくくられたであろう、生原稿の袋を開くときの緊張と感動。なかに「道」の袋がありました。先生は、とりわけこの言葉を愛されました。追悼の本も『道 安井郁 生の軌跡』と題されています(1983年、法政大学出版局)。
この日に開いた「道」の袋は、生前に自ら刊行された文集(1967年)。端麗な字で書かれた原稿や写真、印刷者への指示など。文集の巻頭を飾っている「道はわが前にも後ろにも」の原稿も。その一節です。
「…道を求めるという古めかしい言葉を、真実を求めるという言葉におきかえてもさしつかえない。専攻の学問と教育の分野のみならず、信仰の分野でも、文学・音楽など芸術の分野でも、そして原水爆禁止運動を中心とする国民運動の分野でも、私はひたすら何が真の道であるかを求めて遍歴しつつ、しばしばつまずいて倒れ、傷つきながらも、また立ちあがって歩みつづけた。…」
「あとがき」によれば、個人雑誌をつくろうという夢をもっておられたようです。還暦を記念して、その夢を実行に移そうかと考えたとき、「狭い門からはいれ」という内面の声を聴き、このような文集(16頁)のかたちで出すことにしたと。質のたかい、味わい深い「道」です。
▲安井郁先生−応接室にて(2003年8月5日)
*ぶんじん日誌1551号〜1600号
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