南の風・各号後記(ぶんじん日誌)
1750号【2006年11月19日】
■<雪国から南の島へ >
久しぶりの十日町(新潟)へ。1泊して昨日(18日)帰ってきました。その昔、30年前にもなりましょうか。故横山宏さんとよくご一緒に十日町に通っていた頃、上越線(もちろん新幹線はまだない)「六日町」から、あえぎあえぎの小さなバスで山越え、ずいぶん時間がかかったものです。いま新幹線「越後湯沢」から「ほくほく線」に乗り継ぐと、アッという間に十日町の街に着きます。東京から2時間前後。
帰路は田村達夫さん(もと同市公民館長、博物館長)のお宅でゆっくりと昼食(なんと!ケンサン焼き)をご馳走になって、4時頃に田村邸を辞し、7時前には東京杉並に帰宅できました。
横山宏さんとの戦後社会教育資料調査の旅は、まず最初のフイールドが十日町市の公民館資料室でした。1970年前後のことです。田村さんに確認したら、資料は保存されているとのこと。これを全国的な視野も加えてどう整理し、データーベース化するかが課題だ、と期せずして「戦後社会教育・公民館資料“文庫”ネット構想」(風1748号)の話になりました。十日町では、公民館30年を記念して寺中作雄氏の講演会を催し、その記録も残されていました。
今回、私に与えられたテーマ「公民館60年−これからの公民館像」。例によって時間不足ながら、精一杯の問題提起をしたつもり。十日町は雪はまだ降っていませんが、冬を迎える準備(雪囲い)も済んで、すでに冷気しんしん。懐かしの「松乃寿司」も久しぶり。
今日(19日)は京都の会に出て、関西空港から夜のフライトで那覇へ。いまホテルに旅装を解いたところです。この数日、かなり厳しい日程で疲れましたが、南の島の暖かさに癒されて、ゆっくり寝ます。
▼ 田村達夫さん(十日町、もと公民館・博物館長など、20061117)
1749号【2006年11月17日】
■<12月の中国訪問 >
8月の内モンゴル訪問の際は、北京にも烟台にも寄る余裕がなく、失礼しました。のびのびになっていた烟台日本語学校の訪問を中心に、次のような日程で中国行きのスケジュールが確定いたしました。12月9日→北京、10日〜11日(烟台)、12日〜13日(広州)、14日〜15日(上海)、16日帰国。
目的は、「東アジア社会教育研究」11号の配達、12号に向けての取材と協力依頼、上海の呉遵民さんへの(新上海本・原稿がおくれたことの)お詫び、同閘北区学院の訪問、何よりも旧友との再会。当初は、北京−烟台だけのスケジュールでしたが、久しぶりの訪中なので(寒い華北だけでなく)温かい華南・広州に足をのばそうと、李偉成さんに問い合わせメールを出したところ、歓迎!とのこと(上記)。となると当然のこと上海へ、という次第です。
まさに師走の南船北馬の旅。もし同行希望の方があれば、ご一報ください(旅費各自負担)。今のところ、前半は和光大学・伊藤武彦さんがご一緒の予定。後半は張林新さん。航空券の予約を張さんを通してお願いします。
北京の韓民さん(この記事を読んでくれるかな?)、9日夜のご都合いかがでしょうか。食事をしましょう。上海の呉遵民さん、14〜15日は上海にいますか。羅李争さん、「風」読んでいますか?袁允偉さんと連絡をとってください。久しぶりに閘北区学院を訪問しましょう。
1748号【2006年11月15日】
■<鈴木文庫のこと>
この欄で「鈴木健次郎」を取りあげたところ(風・前号)、思いのほかの反響をいただきました。本号所収の浅野メールはもちろん、収録してはいませんが、「煙仲間」の一文を読んで「いい言葉ですね、書き留めておきたいと思います」(松井章江・福井市)と感想が届いたり。あまり読む人もいないだろう、でも記録として書いておこう、といった程度でしたから、少々驚きもし、嬉しくもなりました。
10日の「鈴木健次郎生誕100年」記念座談会でご一緒した文部省・長老の井内慶次郎さんからは、「昨日は失礼しました。鈴木さんのことを久しぶりにお偲びすることができました。勝手なことを申しまして失礼しました。…略…いろいろ難しいことの多い昨今、どうぞよろしくお願いします」とハガキをいただき、恐縮してしまいました。
あらためて考え始めたことがあります。「文庫」のことです。座談会に備えて通読した『鈴木健次郎集』3巻は、「鈴木文庫懇談会」の編集になるもの。鈴木文庫は「遺族より贈られた愛読書をもとに」秋田青年会館に創設され、その整備・充実のために同「懇談会」が発足。
考えてみると、私たちのまわりにはいろんな「文庫」があります。規模はさまざま、それぞれの思い。個人的な出会いだけでも、すぐ十指をこえる。そしていま自らの文庫づくり(整理)の課題もあります。
戦後社会教育・公民館資料を共通テーマに「文庫」ネットを構想できないか。旧「公民館史研究会」の再生?あるいは新しい発想での史資料研究への取り組み、どうすすめるか。杉並・原水禁(安井家)資料研究のこともあるし、沖縄青年運動史研究もそのままになっているし、秋田にも一度出かけて「鈴木文庫」を訪問してみたい・・など、夜になるとだんだんと遠くに思いが駆けめぐって、目が冴えてくるのです。(14日夜)
1747号【2006年11月13日】
■<“白鳥蘆花に入る”>
前号に続き、鈴木健次郎のこと。鈴木は自らの師として田沢義鋪や下村湖人(戦前の青年団指導者)を尊敬していました。とくに湖人(「次郎物語」著者。雑誌「青年」に連載中、自由主義的だと非難され、日本青年館を去る。1937年)について、その教えが戦後の「公民館の生命をつくる上に大きな力となった」ことを述懐しています。(鈴木「下村湖人追悼」1956年)。
湖人から伝わった幾つかの言葉は、鈴木を通して、戦後初期の公民館運動の中で語り継がれてきました。たとえば“白鳥蘆花に入る”。
「…白い鳥が白い蘆の花の中に入ったというのです。鳥の姿が同じ白色なので、その姿はさだかでないが、しかし鳥の入ったことによって蘆花が、一波が万波をよぶように動き出したというのであります。わたくしは公民館の町村社会における姿をこのように解したい。」(鈴木『郷土自治建設と公民館』1950年)
あるいは「煙仲間」の提唱。煙仲間は、「…お互いの意見を出しあい、その実現を誓っても(団体の決議として強制するようなことを避けて)、まず自分の課題として受け取り、黙々として率先実行し、郷土の人々にその必要性を自覚させていくような、…いわば郷土の地下水的なはたらきを果たす人々」。“地下水としての公民館”という言葉もここから流れていきました(鈴木『水交』9,1966年)。
「煙仲間」は、下村湖人が青壮年団の翼賛体制化を批判して使った言葉と記憶しています。「葉隠」の歌の一つに、“恋死なん後の煙にそれと知れ ついにもらさぬ中の思いを”(記憶のみ、要確認)とあります。
寺中作雄は、鈴木健次郎の急逝を悼んで一文を寄せていますが、その思いは切々と胸を打ちます。「…お互いの共鳴と協調の内に、私と鈴木君はがっちり肩を組む事になった。鈴木君の持ち味の地についた指導振りは…好評をもって迎えられ、講演依頼が殺到した。鈴木君の講演ぶりには地方の人々殊に青年達にその魂を攪きゆする響きがあり、多くの共鳴者を得て、公民館の普及は燎原の火のような勢いとなった。…本当に鈴木君のような人は近来稀に見る徳の人ともいうべきである。」(寺中「公民館と鈴木君」、秋田青年会館『鈴木健次郎集』第3巻、1976年)
11月11日の日本公民館学会・川崎学習会の交流会(焼き肉屋)席上、鈴木健次郎のことについてすこし紹介してほしいという話題になり、本欄は長くなってしまいました。
1746号【2006年11月11日】
■<鈴木健次郎生誕100年>
社会教育関係者であれば、寺中作雄を知らない人はいないと思いますが、鈴木健次郎については如何でしょうか。寺中とともに、戦後日本の公民館構想を生みだし、全力で日本全土へ拡げる努力をし、社会教育法へ結実させた人。いわゆる「寺中構想」も「寺中・鈴木構想」とよぶべき一面もありましょう。当時をよく知る人の中には「公民館の父」と評する声も聞かれます。
簡単に略歴を記しておきますと、秋田の出身(1907生れ)、戦前の大日本青年団から、1945年に文部省へ。公民館の制度創出にたずさわり、転じて福岡県社会教育課長(この時期、ぶんじんは大学院生)、日本教育テレビをへて、故郷へ迎えられ(秋田県知事・小畑勇二郎の懇請)秋田県立秋田高等学校校長へ。秋田青年会館の初代理事長。1970年逝去。享年63歳でした。
来年は鈴木生誕100年にあたります。記念事業として「あきた青年広論」は特集号を企画し「鈴木健次郎を語る」座談会が開かれました。10日午後、井内健次郎さん(元文部次官、1949年社会教育法制定当時の担当)などとご一緒に談論風発の3時間、司会は佐々木英雄さん(元日青協事務局長)。
日本公民館学会の創立のことも話題にしておきました。奇しくもこの日、会場の日本青年館では、「第62回田沢義鋪記念会」が開かれていました。
生誕100年の企画などめったにないこと。さすが!秋田の皆さん!秋田青年会館からは、鈴木健次郎の著作、論文、追悼記事、書簡などをすべて収録した『鈴木健次郎集』全3巻(1974〜1976年)が刊行されています。
▼前列・井内健次郎氏、その右・佐々木英雄氏(日本青年館、20061110)
1745号【2006年11月9日】
■<風を呼ぶ男>
7〜8日と福井に出かけていました。7日の北海道で竜巻が襲ったころ、日本海側も大荒れ。北陸線は「強風のため運転見合わせ」。新幹線で順調に米原までたどり着いたところで立ち往生。やっと6時間遅れの特急が動き始め、それに飛び乗って、なんとか夜の約束の時間には間に合いました。やれやれ。待っておられた皆さんにはご心配をかけました。
今年は、9月18日・福岡で「瞬間風速は50米に近い」台風13号と遭遇(風1716号)、今回の福井行きでは「強風」に見舞われ、いつも「風の部屋」で飲んで・・・、連日「南の風」を吹いて・・・、いまや「風の男」になったようです。どうもすみません。
福井の二日間、いくつかの発見。
一つは、越前市(旧武生市)の公民館主事(非常勤)の皆さんは、10年ほど前から「公民館職員組合」を結成されていること。毎年、定期大会が開かれ本格的な「議案書」など拝見、興味深いものがありました。
二つは、公民館区(ほぼ小学校区)単位に「地域自治振興」施策が始動し、今年度予算は1億円余。旧武生市区長(自治会長)会連合会からの提案も背景にあって、地域の公民館(17館)と今後どのように交錯していくのか。注目すべき動きと思いました。
三つめ。翌8日は福井市に出て、公民館の話を聞きました。課題をかかえながら活発な雰囲気。この4〜5年来、社会教育研究者や松本、貝塚、岡山等の公民館との交流もきわめてさかん。いまや全国的な規模での社会教育関係者の十字路になりつつある感じですね。
四つ。TOAFAEC ホームページに載せている本欄(ぶ日誌)記事をひそかに読んでいる方を発見。ご希望もあって「南の風」を送ることになりました。
HPは公開しているわけですから、いろんな人が読むのは当然のこと。ただし「南の風」本体はアップしていません。ねんのため。
1744号【2006年11月7日】
■<昭和自分史『カチューシャの青春』>
色川大吉さん『ある昭和史−自分史の試み』(中央公論社、1975年)をご存知の方は多いでしょう。「自分史」の動きはこの本から始まったとも言えます。その後に、色川著『廃墟に立つ−昭和自分史1945〜49』(小学館)、『カチューシャの青春−昭和自分史1950〜55』(同)が出ていることをご存知でしょうか。歴史家がえがく自分史の戦後編です。
東京・世田谷・烏山に私の叔父夫婦が住んでいました。二人とも亡くなっていますが、「京王書房」という本屋を営み、その食卓で色川大吉さんと一緒にスキヤキをつついたことがありました。たしか1965年前後か。そんな縁もあって、「月刊社会教育」巻頭言<かがり火>に執筆を依頼したこともあります。調べてみたら1974年5月号。
『カチューシャの青春』を読んでいくと、何カ所も叔父の名が出てきました。「千歳烏山駅前で京王書房をいとなむ相沢さん一家などは、ゆくたびに茶菓を出し、温かい声をかけてくれる」など。
色川さんは1925年生まれ、私より6歳上。この年齢差は、戦争体験だけでなく、戦後史においても、大きな体験差、少なからぬ時代差があることを知りました。
今後の続編について(「おわりに」)。この2冊で自分史・青春編にひと区切りがついて、さらに「生きている限り書き続けたい」「このままのペースだと全十巻ぐらいになるかもしれない」、内心では「1970年代まで五巻も出せたら恩の字だと思っている」とのこと。
1743号【2006年11月5日】
■<ホームページの表紙写真>
8月下旬の内モンゴル訪問から帰って、草原・落陽・砂漠・黄河など4枚の写真をホームページ表紙画像に掲げました。いつもは1ヶ月前後はそのまま掲載、今回は2ヶ月に4枚の更新です。「表紙をかざった画像」ページに保存しています。
実は、4枚目「包頭を流れる黄河」は、黄濁色の盛り上がるような大河の風格?はあるものの、ドスンと沈んだ色調、ホームページにあと一つ躍動を感じさせない。精彩に欠けるというわけで、4日ほどで更新してしまいました(昨日)。対照的に日本の錦織りなす紅葉の鮮やかな1枚を。ご覧下さい。
場所は、東京杉並・大宮八幡に流れる善福寺川のほとり。お気に入り散歩道のスナップです。毎年、この場所は定点撮影のポイント。
2003年秋に上海から『現代の社区教育の展望』(末本誠、呉遵民と共編)を上梓した際、出版祝賀会のプレゼンテイションに50枚ほど「日本の社会教育−三多摩の公民館を中心に」の画像を紹介したことがあります。中国人にきわめて好評。その冒頭の1枚が、この地点の「日本の紅葉」でした。
同じ地点ですが、同じ画像ではありません。似てるようでも新しい1枚、HPにも初めて載せるものです。よくご覧下さい。紅葉燃える秋のひととき、初老の男が孤独に、物思いにしずみながら、歩いています。錦のような紅葉の絢爛、彼の心にも元気を与えてくれているような。
1742号【2006年11月3日】
■<沖縄の小さな文化祭>
昨日につづいて本号は連日の「風」となりました。今や日刊新聞?並み、吹きすぎはよくない、読むのに追いつかない、などの苦情も重々承知の上ですが・・・、恐縮して、言い訳を書きます。
一つは、丸浜江里子さん(東京・杉並)から送信していただいた「三池と夕張から日本を掘る」(緊急シンポジウム、ポレポレ東中野)の日程が11月4日(土)なのです。丸浜メールは、昨日の風・前号と入れ違いに届いて、掲載することができませんでした。急なご案内になってしまいますが、せめて前日の風に載せて、お許しいただこうという次第。
あと一つは、今日の文化の日に、琉球新報「小さな文化祭」記事(「民家舞台に芸能披露」11月1日)をご紹介したかったからです。「南城」とは聞きなれぬ自治体。今年正月に誕生した新市(佐敷、知念、玉城、大里の4町村が合併)。旧佐敷村・津波古は、たしか馬天港がある比較的に大きな集落(山城千秋さん調査によると、2003年現在939戸、3011人)。
そこに16回を数える集落文化祭が盛り上がっているとのこと。棒術保存会、山学校、ゆし豆腐、指笛、ゆんたく場、などを伝える記事に励まされるものがあります。こんな風景こそ、ほんものの文化でしょう。
この風の「南」はもともと「沖縄」の意。小さな記事でも「南の風」として沖縄を載せようと奮闘してきました。最近あまり風を吹かない山城千秋さん、「山学校」などを解説していただけませんか?
名護・名桜大学の中村誠司さんからは、奥共同店100周年記念式典のパンフと、沖縄大学地域研究所が編集した稀少資料「奥共同店関係資料集1」を送っていただきました。有り難うございました。
1741号【2006年11月2日】
■<秋の夕、ある回想 >
今年も残すところ、あと2ヶ月。歯の噛み合せがうまくいかず、1日午後、旧友の歯科医(南青山)へ遊び?に行きました。持つべきものは友。調整してもらって、気分もよし、天気もよし。表参道の並木道を原宿方面へぶらぶら歩き。足をのばして代々木公園へ。
いい季節になりました。木々も黄葉ちらほら、落ち葉かさこそ。まだ5時前。忙しい人たちはきっと仕事に追われている時間でしょう。申し訳ない思いで都心の森をのんびり歩きました。どこかで太鼓をたたいている人あり、隣の森(明治神宮)ではカラスが騒がしい。
木立の向こうに「オリンピック記念青少年総合センター」が見えてきました。ここには硬軟とりまぜての思い出あり、複雑な場所です。一つの回想は、東京学芸大学時代の社会教育主事講習。
たしか1984年の夏、主事講習は小金井の学大キャンパスを主会場として開かれ、数日はこのセンターに会場を移動しました。いろんな顔が浮かんできます。同僚だった海老原治善さん(当時、東京学芸大学教授)と待ち合わせるようにして、小田急・参宮橋の駅からセンターへの道を歩いたことなど。その日は終日ご一緒でした。
ちょうど「地方行革」(地方自治体の行政改革)が政策的に動き、臨時教育審議会が発足した頃。日教組講師団の中心メンバーだった海老原さんとさかんに議論したものでした。そして行きつけの新宿飲み屋の夜。
そんなことを想い出しながら、暮れなずむ代々木の森を抜け、参宮橋の駅へ続く道をたどって帰りました。
1740号【2006年10月31日】
■<韓国本の反響>
10月12日に誕生し、14日の出版記念会で御披露目した『韓国の社会教育・生涯学習』(エイデル研究所)。2週間余が経過したところですが、ようやく反響が聞こえはじめました。献本が届いての礼状も頂いています。当事者にはすこし面映ゆい賛辞も。有り難うございます。
韓国社会教育については本邦初の出版。類書がないということもあるからでしょう、これまでにない手応え。この種の本が求められていたことをあらためて実感しています。→
韓国本■
今度の出版には、ある程度の予約冊数を求められましたから、学会等でお会いした方々にご助力をお願いしました。無理なお願いにもかかわらず、快く?応じて下さった皆さんに心からの御礼を申しあげなければなりません。人の情けとはこういうことだろうと思っています。
繰り返してのお願い。まわりの図書館にぜひリクエストを。研究室等での受け入れもどうぞよろしく。もし個人での購入の場合は、特別割引本の在庫(風の部屋)がありますので、活用してください。ぶんじん宛、ご連絡いただければ直ちにお送りいたします。
ついでに,「東アジア社会教育研究」第11号(TOAFAEC発行)についても関心ある方々へのご推奨をお願いします。黄宗建先生追悼の特集や韓国「平生」教育関連資料など、エイデル・韓国本の姉妹編ともいうべき内容を盛り込んでいます。こちらは実費1500円、特別割引制はありませんが、やはり類書のない研究年報の手づくり刊行、激励の意味でもお求めいただければ幸い。構成・内容・執筆者など、いずれもTOAFAEC
ホームページに紹介しています。
→11号■
1739号【2006年10月29日】
■<「紙屋悦子の青春」>
いろんな仕事に追われてきた2006年、いつの間にか10月末となってしまいました。それでも最近は多少の余裕もできて、この1週間、いくつも映画を観ました。「プージエー」(関根吉晴とモンゴル遊牧民の娘との出会い、ポレポレ東中野)、「蟻の兵隊」(日本兵・奥村和一の山西省残留問題、川崎市中原市民館)、そして「紙屋悦子の青春」(黒木和雄監督、岩波ホール)。
黒木和雄監督は今年4月急逝(享年75歳)。「紙屋悦子の青春」は戦争レクイエム三部作(「TOMORROW/明日」1988年、「美しい夏キリシマ」(2003年)、「父と暮せば」2004年)に続く遺作となりました。黒木監督は宮崎県えびの生まれ、原作の松田正隆も「美しい夏キリシマ」からのコンビで長崎生まれ。舞台は九州(鹿児島の田舎町)、場面は戦時下、小生の少年時代と重なります。しみじみと観ました。
紙屋悦子(モデルは松田正隆の母上と伝えられる、現存)をめぐる二人の若者。鹿児島県出水市の海軍航空隊からやってくる。悦子が心を寄せてきた明石少尉(特攻で出撃)は、親友の永与少尉を連れてきて、後事を託する。戦争の業火に命を投じる人と、残された者同士の切なる哀しみ。
「…戦争のどげんなるか…私もどげんなるかわからんですばって…私はもうあなたば…一人にしません」と永与。僅かな沈黙の後「はい」と答える悦子。
「私の沖縄戦記」(風1737号)に記禄される過酷な戦闘をくぐった人たちも、「紙屋悦子」をめぐる若者たちも、いずれも小生より数歳年上の世代です。
1738号【2006年10月27日】
■<風の送信リスト>
「風」編集は、たまに苦痛なときもありますが、たいていは楽しみの作業、ほぼ隔日のリズムで吹いています。はるばると送っていただくメールに感謝。待機中の次の号が満杯(目安として100行前後)になると、連日の風が吹くこともあり。しかし五月蠅い風となること必定、自戒しているところです。(本号は連日の風となり申し訳なし。)
昨日、ある方から「…のアドレスは削除していただけると幸いに存じます」と丁重なメールを頂きました。有り難うございます。「風」の悩みは、読まれない状況なのに、つまり迷惑メールなのに、そのまま送信リストには生きていて送信が続き・・・とくに最近は出会い系サイトと重なって・・・迷惑感が重複すること。
風を双方向に吹きあいたい、顔のみえる関係でネットをくっていこう、新参加の方には自己紹介の一文をお願いしよう、というわけで50号おき(最近は100号おき)に送信リスト更新の努力を重ねてきました。それでも「削除して下さい」という連絡はほとんどありません。やむをえず当方から、それと覚しき人に「風・・・続けますか?」と尋ね、返信がないことを確かめ、おそるおそる送信リストから「削除」させていただく。案外と面倒な作業ですが、この9年近く「アドレス帳整理」を重ねてきたおかげで、風ネットの新陳代謝がすすみ、新しい風も吹いてくることに。
1人の方がはずれて、いま107人の方に送信。この間、数名の方の参加があり、大学関係(院も含む)35、自治体(職員・市民等)45、海外・留学生27の内訳。細々ながら“世界に発信”しているかたち。
1737号【2006年10月26日】
■<「私の沖縄戦記」>
前号に続き沖縄の本。今年の6・23(沖縄慰霊の日)に刊行された外間守善著『私の沖縄戦記』(角川書店)はまことに衝撃的な1冊でした。60年の歳月を経てはじめて語られる戦記。これほどまでに厳しい戦争体験だったのかと、読み終わった夜は、しばし眠れず。1945年4月末の所属大隊は約
800名の陣容。それが前田高地(浦添市)等の激戦を経て、9月3日(武装解除)まで生き延びた人数はわずか29名。その中のお一人だったのです。
高名な外間守善先生を知る人は多いと思いますが、あえて略歴を記しておきますと、1925年那覇生れ、沖縄師範学校在学中に現地入隊(陸軍二等兵)、奇跡の生還ののち戦後は日本へ。國學院大学に学び、「おもろさうし」の研究などで沖縄学の第一人者。法政大学名誉教授、沖縄学研究所所長。
先生の戦争体験については、学友の大田昌秀、安村昌享両氏との共著『沖縄健児隊』(1953年)があります。しかし当時、「戦後8年しか経ておらず、真実を語るには記憶はあまりにも生々しく、私はあまりに若すぎて、悪夢のような前田高地の死闘について具体的に触れることができなかった」と。
戦後収容され、知花米軍病院で「私はやっと体中の破片を抜き取ってもらい、食糧を与えられ、身体は少しずつ回復していった。」 体の中に入り込んだ鉄片や石片は無数、手術で抜き取ったり、自然に体内から抜け出たりしながら、完全に回復するまでに十年余りを要したそうです。
1736号【2006年10月24日】
■<比嘉春潮顕彰碑>
韓国本の出版記念会も終わって、この1週間、積んだままになっていた本を開く時間がもてるようになりました。読み始めると、急ぎの仕事を忘れてしまうから困ったもの。
沖縄関係では、「ふるさとを愛した篤学・反骨の研究者−比嘉春潮顕彰−事業報告書」(同顕彰碑期成会、沖縄県西原町中央公民館内、2006年9月)。比嘉春潮氏は東京杉並区荻窪に住んでおられたのです。1977年没(94歳)。戦後直後は、空襲で焼け出された伊波普猷夫妻を自宅に迎え(その死を看取る)、廃墟の沖縄の復興救済のための「沖縄人連盟」創設と機関誌『自由沖縄』発行(1945年)、「沖縄文化協会」結成、そして『沖縄文化』発刊(1948年)など。
今年4月、西原町立図書館内に立派な顕彰碑が建立されたそうです。碑文の揮毫は豊平峰雲氏。同期成会副会長の新川明氏によれば、久米島の「仲原善仲先生」胸像等を見て、「わが郷里・西原が生んだ沖縄学の巨人・比嘉春潮先生の事績を伝えるものが一つもない」ことを思い知っての発議だったとか。故郷とは有り難きもの。
私たちも親しくお付き合いした外間政彰さん(元那覇市立図書館長)を肝煎り役にして、東京遊学中の気鋭の若者たちが集った荻窪のお宅での沖縄研究会は毎月1回、80回を数えたそうです。由井晶子さん(元沖縄タイムス編集局長)などの回想が興味深い。
あと一つ、我を忘れて読みふけったのは、外間守善著『私の沖縄戦記−前田高地・六十年目の証言』(2006年6月23日刊、角川書店)。この本は次号で。外間守善氏も「比嘉春潮顕彰報告書」に寄稿されています。
1735号【2006年10月22日】
■<地域の連帯責任−ノーベル平和賞 >
今年のノーベル平和賞の話題。心に響いてくるものがありました。たとえば朝日「天声人語」(10月17日)は次のように書いています。
「それまでの常識を覆し、貧しい人たちに無担保で金を貸す。額は少ないが、それはやがて人々が自らの足で立つ貴重な礎となった。バングラデシュの金融機関・グラミン(農村)銀行と創始者のムハマド・ユヌス氏が、ノーベル平和賞を受賞する。
30年前、42世帯に計27ドルを貸したのが始まりだという。それが、約7万の農村で660万人以上に貸し付けるまでになる。このマイクロクレジット(少額融資)は、90年代には世界に広がっていった。」
一般的には担保がなければ銀行は金を貸してくれません。貧しい人は貧しい故に金貸しの金利に追われ、貧しさの淵から脱却できない。ユヌス氏はこうした土地も資産もない人たちを対象に、自立と起業(竹細工、刺繍、壺焼きなど)を期待し、無担保で資金の少額融資をしてきたのです。融資の回収率は9割を超えたといいます。
それを可能にしたのは、周囲の村人たちの連帯のネットワーク。借り手は銀行の組合に参加するかたち、5人連帯の単位をつくり、それを横につなぎ、非識字者を含めて、公民館のようなところで学習組織を拡げていく。そんな映像を見たことがあります。地域社会が融資返済の連帯責任を負うことになるのです。
沖縄の「むえー(模合)」(風1694号)のことを思い出しました。相互助け合いと連帯意識、その発想を根っこにもった大規模な銀行事業ではないかと。
1734号【2006年10月21日】
■<筑豊「ありらん文庫」 >
筑豊・田川に「ありらん文庫」があります。記録作家「林えいだい」の仕事場です。最近は会う機会がない。6月、福岡に滞在した折に農中茂徳さんの車に乗せてもらって訪ねました(風1667号・筑豊社会教育の群像)。連絡なしの訪問でしたから不在で会えず。ところが昨夜(19日)の朝日夕刊の大きな写真で、久しぶりにその風貌に接しました。(ニッポン「人・脈・記」筑豊の夕焼けC)
いま72才、やはり年齢相応の顔つき。しかし、相変わらず眼光に気迫あり、なにより元気そうでよかった。少し体調を心配していたのです。写真には後ろに「ありらん」の看板。
なぜ彼が朝鮮人強制連行の問題にこだわって仕事をしてきたのか。戦時下、お父さん(神職)は炭鉱から逃げてきた朝鮮人坑夫をかくまって「うちの2階に絶えず5人から10人の朝鮮人」がいた、それが発覚し、「特高警察の拷問を受けて」死亡。終戦後、2人の朝鮮人が訪れ、「あの時のお礼に」と十円札を置いていった。その古びた1枚を今でも仕事机の引き出しにしまっている、そんな記事です。
林えいだいは、北九州市が合併する前の旧戸畑市の社会教育主事でした。当時は、ぶんじんも九州にいて、付き合いが始まりました。彼は北九州の公害学習に取り組み、すぐれた記録が残されています。しかし退職。カメラ1台をもって足尾銅山に入り、さらに・・・公害、戦争、台湾、朝鮮、筑豊などをテーマに、清貧の記録作家の道を歩んできました。ときどき体調をこわし、元気をなくすと「声が聞きたい」と電話がかかってきた仲。出会いから40年余りの歳月、いろんなエピソードがありますが、そのうち書く機会もあるでしょう。
そうだ!新刊『韓国の社会教育・生涯学習』を送ろう!
1733号【2006年10月19日】
■<訃報あり>
世の常とは言いながら、思いもかけない逝去のお報せが届くと、悲しくなります。10月17日の朝日や毎日は、国土社社長・丸山八朗さんの急逝を伝えました。同日夜、上田幸夫さん(「月刊社会教育」編集長)からもメールをいただきました。急性肝炎とのこと、享年68歳の若さ!
国土社とはながいお付き合い。雑誌「教育」は創刊(たしか1951年)以来の読者でしたし、1960年頃から「月刊社会教育」との出会いがあり、折りにふれていろいろと書く機会がありました。「月刊」編集長の時代(1973〜1975)、幸いに部数が大きく伸びたこともあり、若い丸山さんなど国土社の皆さんから評価もされ、お互いに激励しあってきた仲でもありました。訃報に接して、目白の田中角栄邸の隣にあった旧社屋を妙に懐かしく思い出しました。
去年10月、月刊社会教育600号お祝い会で隣の席に座り合わせ、久しぶりに歓談(下掲写真)。今年4月の桜の頃、ある本の企画で高田馬場でお会いしました。当方は数人で合宿をして構想をねり、国土社の意向も尊重して今後どうすすめるか、来年に向けてご相談したいと思っていた矢先の訃報。まことに残念です。はるかにご冥福を祈ります。
▼前列左から3人目・丸山八朗さん(月刊社会教育600号お祝い会、東京・神楽坂、20051001)
1732号【2006年10月17日】
■<静かな余韻>
黄先生追悼・出版記念会(10月14日)の静かな余韻が残っています。翌15日夜は、はるばる韓国からご参加のお三方(李慶恵、魯在化・金順女夫妻)を囲む会(渋谷・ロゴスキー)。伊藤夫妻と小林夫妻もはじめて一緒に食事をするかたちとなりました。
魯在化さん夫妻は、深夜便で飛んで、未明(午前四時過ぎ)に仁川着とのこと。重い荷物(新韓国本と第11号)をかついで、ほんとにご苦労さまでした。16日夕「無事に帰りました」との電話。帰ったその日、ほとんど徹夜気味で、大学での講義を2回こなし、さすがに疲れたと。
あんなにお元気だった黄先生の急逝、その波紋があるからでしょうか、いつもになく丁重な電話。「先生、お体を大事に長生きして下さい」と。ご心配いただいて、恐縮しました。
そういえば、当日の参加者のなかからも、「ぶんじん先生、もういい年だから、あまり無理しないように・・・」とか、「いまのうちに言い残しの話を聞く会でも・・・」などの話が聞こえてきました。たしかに年の順では、黄先生の次は小生ですから、それなりの自覚?はありますが、まだまだ・・・の気分。年相応にもっと衰えてよさそうなのに、その兆候があまりなく、当人もむしろ当惑気味。金子満さんの報告にあるように、一緒に「花」を歌ったりすると、ますます元気になります。
しかし、心にかけていただいて、有り難うございます。黄先生追悼会の私なりの収穫は、皆さんからの励ましと、自重自愛すべしとのご忠告。心して次のステップへ・・・などと、余韻を楽しんでいます。
1731号【2006年10月15日】
■<「夜間中学は僕らのふるさと」>
昨夜(14日)は川崎で開かれた『韓国の社会教育・生涯学習』出版記念会。黄宗建先生の追悼会でもあり、この日のために韓国から来日した魯在化さん持参の写真がかざられ、思い出がこもごも語られました。参加者は約50名。「平舜さんのパンソリが演じられ、黄先生が大好きだった「花」も歌われました。終了時の記念撮影など、HPにアップ。ご覧下さい。二次会も盛大。
珍しい顔ぶれもあり。当夜ご出席の方で、「風」に一文を寄せていただけないでしょうか。
かなり(黄先生の分まで)酔って帰宅。一眠りして深夜のメールをチェックしたところ、全国夜間中学校研究会(関本保孝さん)から、日弁連意見書学習会の案内が届いていました。
夜間中学といえば、ご存知の見城慶和さん(東京学芸大学卒、一筋に夜間中学の仕事を続け、退職後も「えんぴつの会」など運営)が、NHK(教育テレビ)「知るを楽しむ−人生の歩き方」に登場されます。10月は「なかにし礼」さんが「死こそわが友」について語っていますが、なかなか面白く、思わず見入りました。11月が見城さん「夜間中学は僕らのふるさと」。自分史風に夜間中学の歳月を振り返りつつ、「鈍行列車で行こう」「世の中にもっと夜間中学を」など年来の語りをご披露されるようです。楽しみです。(毎週水曜日22:25〜22:50)。なかにし礼さんとセットになって、見城慶和さんの記録がNHKテキストのコーナーに並んでいます。
1730号【2006年10月13日】
■<沖縄・八重山行き日程 >
前号・本欄に書いたように、待望の韓国本がめでたく刊行されました。昨日(12日)午後7時半頃、「出来上がってまいりました」との一報が入り、当日の日本公民館学会理事会の終了時間に合わせるように、新刊本が届きました。見事な出来映え!
いつもの放心亭(三省堂地下)、誕生したばかりの新本、白く泡が盛りあがるヴァイス・ビヤ、この嬉しさ、美味しさ、何にたとえることができるだろう、と硫歌でも詠みたくなるような気分で皆さんと乾杯!
新しい本を手にした夜は、なかなか寝付けないものです。昨夜も飽かずページを開いていました。注や解説や資料など、これほど細部に目配りした本も、そうあるものではないという実感。この4年近くが思い出され、頑張った皆さんの顔が浮かんできます。ついまたワインの瓶を持ち出して・・・。
ところで、風1726号(ぶ)欄に書いた八重山・沖縄行きの日程が確定しました。もし同行のご希望があれば、ご一報下さい。いまだと安いチケットが買えますので、早めのご案内です。
11月19日(日)那覇へ→那覇周辺の皆さんと交流(泊)
20日(月)石垣へ→お見舞いと平久保・歌碑へ(泊)
21日(火)竹富島、那覇→名護、やんばる諸氏との交流(泊)
22日(水)中南部へ、那覇(泊)、夜・帰京するグループあり
23日(木)那覇、夜・帰京
以上はおおまかなスケジュール。詳細は参加者の希望で決めていきます。目下4〜5人の旅か。ぶんじんの予約便名は、ご参考までに、ホームページに書き入れました。
1729号【2006年10月11日】
■<韓国本の誕生!>→■
明日(12日)午後、4年近く取り組んできた『韓国の社会教育・生涯学習』(エイデル研究所)が誕生します。どんな顔をして生まれてくるか楽しみ。山添路子さんはじめ、みんなで苦労した本づくり、いつまでも忘れることはないでしょう。数え切れない編集会議、多くの課題と格闘しながら、伊藤長和さんの音頭でよく飲み、疲れを癒しました。
川崎の編集会議には黄宗建先生が中国から来日され、魯在化さんはアメリカより帰国早々に馳せ参じ、日本からも韓国(安養・ソウル)に出かけました。折々の写真をホームページにアップしています。
残念なことは、今年7月に編者・黄先生が急逝されたこと。思いもしない痛恨の知らせ。この本の終章は先生の絶筆となってしまいました。新刊本を前に飾って、ご一緒にお祝いの乾杯をしたかった!
14日(16:00〜、川崎市中原区武蔵小杉「ホテル精養軒」)は、黄先生追悼・出版記念の会(ホームページに案内)。皆さん、お出かけ下さい。
この日のために、魯在化さんはご夫妻で来日されるそうです。黄先生の写真と一緒に。帰路には、韓国側への献本分を飛行機に積み込んで持ち帰ってほしいと頼んであります。「東アジア社会教育研究」第11号の荷物もありますが、きっと大丈夫でしょう。
「南の風」の皆さんにお願い。関心ある方々に新刊『韓国の社会教育・生涯学習』を拡げて下さい。定価5000円、10月15日まで(あと数日!)予約していただければ、特価4000円、10冊まとまれば3500円の超特価!
できれば10冊のご注文を。もし売れ残ったら、ぶんじんが残部をすべて引き受ける約束です。歳月をかけて、ゆっくりと売るつもり。
1728号【2006年10月10日】
■<「共同」の叡智が見える>
信州・飯田の公民館再編をめぐる風(木下巨一さん)、相次いで沖縄・奥から「共同店100
周年」祝賀の報告(中村誠司さん)が寄せられました。有り難うございました。
今年3月、「共同店サミットin 奥2006」で訪沖した折、100周年の催し企画を聞き、手帳にも書き入れ。しかし残念ながら今回「奥」まで飛べませんでした。ひそかに日程調整を試みた経過もあったのですが、あと一つの跳躍力不足。
7日祝賀会の興奮は、中村誠司さんのメールから伝わってきました。その前後には、沖縄タイムスも琉球新報も、写真入りで報道(タイムス記事は風・前号)。また両新聞ともに大きく社説にも取りあげています。百戸あまりの小集落の行事が、なぜこれほどまでにマスコミに注目されるのか。百年の歳月の歩みのなかに、現代に格闘してきた「共同」の叡智が見えるからでしょう。
琉球新報社説のタイトルは、「奥共同店1世紀−“地域力”再生のモデルに」(10月9日)、沖縄タイムス社説は「つながることの大切さ」(10月6日)。長文の同社説のなかには、奥共同店に学んで胎動した宮城県丸森町大張の共同店「なんでもや」の事例も紹介されています。
関連して、沖縄大学・宮城能彦さん(琉球新報)や名桜大学・中村誠司さん(沖縄タイムス)の論文も掲載されたそうです。
この機会にあらためて稀少本『字誌・奥のあゆみ』(美装,B5版、590頁)を開いてみました。ちょうど20年前の刊行、「奥共同店80周年記念祝賀会」写真が飾られていました。
1727号【2006年10月9日】
■<飛ぼうよ二人で >
先日の長野県公民館大会(風1722号に既報)では、飯田市の公民館再編をめぐる問題が大きな関心を呼び、熱心な論議がかわされました。関連して、この間の飯田市公民館をめぐる動きを解説的に「風に一文を寄せて頂けませんか」とお願いしたところ、折り返し木下巨一さん(飯田市役所環境課)から詳細なメールを送っていただきました。有り難うございました。
やや長文なので、本号から数回に分けて掲載させていただきます。興味深い内容。しかも「これは前編」、最新の取り組みについてはさらに後編をお送りいただくとのこと。楽しみです。本月3日に着信していたものですが、急ぎの案内等を優先しましたので、掲載が遅くなりました。お許し下さい。
今日(8日)は、夕刻より「すばらしき沖縄コンサート」(風1721号にご案内)に出かけました。琉球センター・どぅたっち(島袋陽子さん)主催、会場は西池袋の自由学園「明日館」(重要文化財)。ホールの一角には故大嶺政敏画伯の作品展も。いくつか書きたいこともありますが、本号は長くなりましたので、佐渡山豊(沖縄フオーク村)が歌った「飛ぼうよ二人で」(金井喜久子・曲)の詩(矢野克子・作)を紹介するにとどめます。私たちの次の沖縄・八重山訪問も、二人ではなく数人で、11月19〜23日に飛ぶことになりました。(HPに記載、参加歓迎)
♪飛ぼうよ二人で♪
くろしお どんとほゆる
みんなみへ
おきなわよいとこ
そらは
はれわたる
とぼうよ
ふたりで
おきなわへ
とぼうよふたりで
おきなわへ
1726号【2006年10月7日】
■<沖縄・八重山行きの日程 >
胡興智さん待望の長子誕生。そのニュース(風前号)を受けて、山口真理子さんから、お祝いのメールが届いています。もともと「風」はこんな「個人情報」をたくさん載せていたものです。それらを含めての交流通信。風の初心を思い出して、胡さんと真理子さんに感謝!
「…(略)… 胡さん、清海君のお誕生、おめでとうございます。子どもを授かった(手放しの)喜びと育児への意気込みが、ガンガン感じられて、こちらまでうれしくなってしまいました。父子ともども(?)の健やかなご成長をお祈りいたします。真理子」(6
Oct 2006 03:49)
あわせて、沖縄・八重山訪問の日程について、次のような提案が寄せられました。
「…八重山行きはいつ頃になりそうですか。私も鷲尾真由美さんに台風13号の状況をお聞きしました。とにかくすごかったようですね、後も大変だったみたいだし。(お見舞いの訪問は)11月19日(日)〜21日(火)が休みなので、その頃だったら、私も行けるなあと思ったりしています。もちろん先生や皆さまのご都合が優先ですが、選択肢のひとつになるようでしたら、お願いいたします。(同)」
さて、どうしましょう。風1724号に「竹富島・種子取祭にも、と思って問い合わせたところ、10月28〜29日だそうです」と書きましたが、この日程を組み込むと、安い飛行機(「旅割」「特割」など)はとれない。真理子さん提案の日程だと半額近くの格安チケットが(今ならまだ)大丈夫。11月19日に那覇集合(泊)、20日に八重山(石垣)−渡慶次先生お見舞いとぶんじん歌碑−、21日以降さらに八重山に残るもよし、ぶんじんは本島−名護へ)という日程案を第1案にしてみましょうか。関心ある方々のご都合はいかがでしょうか。数日うちに決めましょう。
1725号【2006年10月5日】
■<風のアドレス帳 >
「南の風」は、できるだけ公開性を大事にして吹いてきました。というより、風の送信自体が、個別の動きや意見を公開する、お互いに共有する、という試みでもあるわけです。初期(前世紀)の「風」の時代には、風の誌面を介して、メンバー相互の新たな交流が生まれる、という状況もありました。パソコン通信の物珍しさもあったと思います。
いまは事情が大きく変わりました。多くの人がアドレスをもち、迷惑メールが氾濫し、個人情報保護の必要もあって、“公開性”とか“情報共有”とか単純に言えなくなりました。
本号に投稿された飯田の米山義盛さんから、「南の風・通信の中で受信者メールアドレスがみな分かってしまいます。それを伏せる方法があるようですので、そうしたようにされた方が良いと思われます」(10月3日)との助言をいただきました。発信者としても、最近はとくに気になっていたことです。
お気づきでしょうか?風前号(1724号)からは、ご意見にしたがい送信先アドレスを伏せて、Bcc(Blind
Carbon Copy)で発信することにしました。ご了承下さい。
しかし、誰が参加しているか分からない風では困る、“闇夜の突風”では投稿もしにくい、風の双方向性を大事にしよう、という意見もあります。同じ仲間うちだった風の時代から、いまお互いの顔が見えない風ネットに変貌していますから、難しい問題です。個人情報保護と公開性、この二つの命題に調和的に対応していく必要があります。
新参加の方には(これまで通り)簡単な自己紹介をお願いします。内部資料の扱いで、南の風アドレス帳一覧を用意していますので、ご希望があればお送りします。「私信」扱いの場合はその旨ご指示下さい。
いま「風」は1700号アドレス帳更新により102名でスタートし、その後の新参加は6名(大学関係2名、自治体関係4名)、合計108名の方に送信しています。
1724号【2006年10月4日】
■<八重山−平久保の子どもたち>
前号本欄「八重山へのお見舞い」記事のあと、台風13号被害のレポートがいくつか寄せられました。
たとえば、「… 30年ぶりという猛烈な台風13号は一夜にして島の風景を一変させてしまいました。コンクリート製の電柱が折れたり、プレハブが吹っ飛んだり、信号が壊されたり、街路樹が根こそぎ引き抜かれたり、台風一過の島の風景は津波に洗われたような惨憺たるものでした」とのこと(白保メール85、Mon,
02 Oct 2006 23:35)。あるいは、「私は今回の台風の時は那覇にいて、怖い目にあわずに済みました。私の家は、お蔭さまで本体は無事でしたが
…」(Mon, 2 Oct 2006 17:17)、その後の修復は大変だったことなど。
八重山毎日新聞(2006-10-02)記事に登場する平久保・米盛三千弘さんにもお見舞いの電話をしました。やはり猛烈な台風だったこと、プレハブ風の別荘は吹き飛んだ、停電したけれど幸いに水は大丈夫とか。平久保は石垣島の最北端、小学校児童数わずか6人の小さな集落。記事によれば、台風の被害にめげず、子どもたちのサンシンで古謡「安良越路節」が演奏されたそうです。情景が目に浮かびます。
集落の入口に米盛さん一家経営の食堂「浜遊」があり、道路に面して、ぶんじん歌碑が建っています。2003年9月に歌碑の建立式。その翌年に足の怪我で杖をつきながら訪問して以来、この2年、ご無沙汰しています。「ほんとに歌碑?」と疑う人もありますので、渡慶次さんのお見舞いをかねて、平久保再訪のスケジュールも組んでみたい。竹富島「種子取祭」にも、と思って問い合わせたところ、10月28〜29日だそうです。この日程に合わせるのは無理ですね?
1723号【2006年10月2日】
■<八重山の台風被害>
9月16日に八重山から北上し、17日夜に福岡を襲った台風13号。九州に近づいても950ヘクトパスカルの勢力を保ち、当夜は緊張しましたが、幸い福岡の自宅は被害がなかったことを「風」に書いて、その後は忘れていました。ところが、八重山への打撃は大きく、被害甚大であったことががだんだんと判明。驚いています。
電柱が折れ、御嶽の神木や街路樹がなぎ倒され、家屋の倒壊も。停電、それに伴う断水、電話不通などライフラインへの影響も大変だった模様です。10日ほど経って、何人かの方にお見舞いの電話をしたところ「こんなに怖かった台風ははじめて!」という声もあり。なにしろ70メートルに近い風速、想像を絶します。烈風に巻き上げられた潮水が襲って、塩害のため樹木の緑は消えてしまっているとのこと。あらためて八重山の皆様にお見舞いを申しあげます。
台風見舞いの電話で知ったこと。渡慶次賢康さん(元八重山教育事務所社会教育主事、石垣市教委・社会教育課長、石垣中学校長など)が昨年、脳内出血で倒れられ、その後リハビリに専念、しかし右側に後遺症が残ったそうです。言語障害はほとんど克服され、お元気な電話でしたが、あらためて八重山にご無沙汰してきたことを反省させられました。
この30年近くの八重山研究・交流の際には、いつもお世話になってきました。与那国調査(1998〜2000年)や『おきなわの社会教育』出版記念会(2002年)、副産物のぶんじん歌碑建立(2003年)等も、渡慶次先生のお力があったればこそ。一段落したら(11月?)、お見舞いの八重山行きを計画したいと思っています。
1722号【2006年9月29日】
■<長野県の公民館大会>
長野県須坂で開かれた公民館大会に久しぶりに参加してきました。今年は数えて第54回。全県からの参加、12分科会とパネル討議、1泊2日、の大集会です。往事の盛況はないにしても、須坂温泉の大広間に集った夜の懇親会参加者だけでも150名前後。さすが信州の公民館大会だ、という実感でした。
同室の方(4名)は、長野県公民館運営協議会の会長さんなど、長老の顔ぶれ。皆さん、夜9時過ぎには床につかれました。夜更かしの身としては困り果てて、大浴場に行ったり、ロビーをのぞいたり。それでも10時過ぎには布団に。早朝(未明)に目が覚めて、7時には朝食。
いつも不規則な生活をしている者には、規則正しいリズムに逆に疲れてしまいました。「松本の部屋では飲んでいますよ、どうぞ!」との誘いにのればよかった、と後悔しても後の祭り。
この大会の最大の話題は、なんといっても飯田市の公民館をめぐるここ数年の大論議。合併を契機に導入される「地域自治組織」「まちづくり委員会」等に関連して、飯田市がこれまで蓄積してきた地域公民館体制の再編が迫られています。自治協議会連合会からは「公民館を市長部局に移行し、公民館条例を廃止」という提案まで出され、市長側は「5年後を目処に対応を検討していく」と回答(今年1月24日)。
公民館関係者(館長会、主事会等)からは、「公民館主事としての想い」(2月19日)や「新たな公民館ビジョン」(4月12日)が提示されています。この間の詳しい報告が行われた分科会はホール満員の状況。こんご(とくにこれから5年後)の動きが注目されます。
1721号【2006年9月27日】
■<すばらしき沖縄コンサート>
東京・葛飾の島袋陽子さん(琉球センター・どぅたっち)から沖縄コンサートの案内が届いています。その一文をご紹介します。
「今年、生誕100年を迎えた、宮古島生まれの作曲家・金井喜久子さんと、名護に生まれた詩人・矢野克子さん。沖縄に生まれたお二人は、それぞれ、ハツラツと青春を生き、希望に溢れ、羽ばたく世界をもとめて東京に来ました。音楽で、詩で、その表現は、身の回りのちいさな自然にも目配りし、生命を慈しむ思いに溢れています。そして、いつも、お二人の心にあるのは、沖縄への思いと、ふるさと沖縄で培われたものへの畏敬であり、沖縄に役に立つことなら、いとわず尽くす、生き方です。その凛として生きる姿に、魅きつけられました。
そのお二人の女性の作品をさらに多くの方に知っていただきたく思い、このコンサートを開催します。…
(略)」 お気づきかと思いますが、矢野克子さんは徳田球一の妹さんです。
興味深い企画、意欲的な取り組み。ぜひ、ご一緒いたしましょう。
○“すばらしき沖縄コンサート”
沖縄女性(ウチナーイナグ)の想い(ウムイ)
−金井喜久子・矢野克子、音・詩の世界−
日時:2006年10月8日(日)17:00〜(開場16:30)
出演:高良仁美、佐渡山豊、田中真紀子
会場:自由学園・明日館講堂
JR池袋駅メトロポリタン口(東京芸術劇場側)より徒歩5分
主催:琉球センター・どぅたっち(豊島区駒込2−14−7、03-5974-1333)
後援:琉球新報、沖縄タイムス
入場料:3500円(前売 3000円)
チケット扱いは、上記「どぅたっち」、または「わしたショップ」で。
1720号【2006年9月26日】
■<「東アジア社会教育研究」第11号 >
第11号が世に出て、3週間が過ぎました。福島の学会で手にとっていただいた方々、ご覧になって、どんな感想をおもちでしょうか。忌憚のないところを、いろいろとお聞ききしたいです。
構成・目次については、風1712号「福島にて」で紹介しました。ホームページにもアップ。当初の構想のようには進みませんでしたが、結果的には面白い内容になったと(編集者としては)思っています。編集全体の進行には石倉祐志さんの苦労があり、レイアウトや写真等については、編集実務を担当した江頭晃子さんの奮闘がありました。もちろん事務局の頑張り、目次の英語訳、中国語訳、ハングル訳に協力していただいた方々、カットも含めて、お世話になった皆さんに、あらためての御礼を申しあげます。
前にも書いたことがありますが、学会でもなく、大学の研究紀要でもなく、まして営利の出版事業でもない、小さなグループのささやかな試み、財政的な基盤もないのに、よくぞ11号まで継続できたもの。質も量(B5
版、237頁)もそれなりの水準だ。この種の刊行物は、日本だけでなく、東アジアのどこにもない、その独自性への自負とひそかな心意気だけが今日までの歩みを支えてきました。
それだけに、これからの歩みのためにも、ご意見、ご教示、批判や提言などをいただきたいのです。できれば、合宿して“合評”会でも催したいところ。
執筆者や編集委員で第11号未着の方はご一報ください。海外の方は機会をみてお届けする予定。維持会員の方々の変わらぬご協力をお願いいたします。まわりの皆さんに第11号(1部・1500円)を拡げて下さい。来年の12号に向けての論議も折りをみて始めていただきたい。
一つだけ誤植が発見されました。最終ページの奥付、「郵便振替番号」は、00130−4−532936(誤)ではなく、(正)00130−4−352936、です。ご訂正下さい。
1719号【2006年9月24日】
■<9月22日〜23日の日誌 >
9月22日(金)夜のTOAFAEC 9月定例研究会。南の風(第1715号)に「ご案内」を出した石倉祐志さんが体調をくずし欠席でしたので、遠藤輝喜さんから報告を寄せていただきました。有り難うございました。
今回の旅には、和光大学から石原静子、伊藤武彦の両先生(いずれも心理学)が参加。4年前まで、ぶんじんとは同じ職場で仕事をしてきた同僚、というだけでなく、とくに石原先生はぶんじんより2つ年上、まったくお元気な長老との印象的な1週間の旅でした。この夜の報告会でも、モンゴルを思い出して、よく飲みかつ歌いました。
旅行には、井上孝代先生(明治学院大学、異文化間心理学・カウンセリング理論)も参加されましたが、報告会当日から再び北京へ。この夜には姿が見えず、残念。
9月23日(土)は、原水禁運動・安井資料研究会。この日、1年余をかけてきた活動の報告書(風1717号に既報)が出来あがり、安井家に届いていました。約60ページの労作、私たちの活動記録や入力した安井家・資料目録等が収録されています。「杉並の市民活動と社会教育のあゆみ」(同記録する会編集)シリーズの別冊、杉並区教育委員会社会教育センター(セシオン杉並)発行というかたち。もちろん中間報告的なもの、不充分な部分もありますが、次の歩みへのステップとなること間違いなし。関心ある方があれば、若干お分けできる部数があるかも。
安井資料研究会ホームページ更新作業のなかで、江頭晃子さんたちの「アンティ多摩」が手づくりでホームページを開設されたことを知りました。みんなでお祝いしましょう。ぜひ、南の風にご紹介下さい。
23日夜は、山東省烟台から来日中の張林新、張藍藍のお二人と夕食。
▼左より伊藤武彦、石原静子の両先生、右は小林(高井戸、20060922)
1718号【2006年9月22日】
■<お土産のモンゴル酒あり!>
予定通り、20日夕刻に東京へ戻ってきました。月遅れの夏休み、あわせて書庫・資料の整理も一歩前進。手伝っていただいた皆さん、有り難うございました。
8月下旬・モンゴル旅行の記録作成については、トクタホさんから、石原先生分の入力と自分の記録が届いていますが、黄丹青さんからも興味深い文章が送られてきました。私たちが北京へ出発したあとのフフホトの1日。ボヤンバートル夫人が案内役、たいへん面白い「感想」です。
ぶんじんも今回の旅が実現する経過を書いています。トクタホさんの一文と重複するところがありますので、すこし調整しましょう。
前にも書きましたが、これまでTAFAECとして内モンゴルへ旅した2回、いずれも記録が残されています。第1回(1997年7月)は「広州から内モンゴルへ−茘枝の籠をさげて」(小林)を収録している『私たちはあの空を忘れない』、第2回(2002年9月)は『モンゴルの草原と子どもたちに出会う旅』報告集です。参加者のメモ・感想や写真を出しあっただけの素朴なレポート、しかし歳月が経過すると、貴重な記録となるから不思議です。今回は参加者それぞれ「書かない自由もある」ことを確認しあって別れましたが、ぜひ記録集としてまとめましょう。とくに伊藤長和さんの時間きざみの「日程表」が楽しみ。ぜひよろしくお願いします。
いまモンゴルへの旅を想いおこしています。観光だけでもない、研究だけでもない、これまでのお互いの出会いをベースとしての、人間的な交流と友情の旅。TOAFAEC としてこんな企画の可能性を追求していきたいもの。
22日夜は9月定例研究会、モンゴルの旅の報告会です。お土産のモンゴル酒(絶品!)もあり、皆さん、お出かけください。
1717号【2006年9月20日】
■<油山書庫の作業>
台風13号は思い切りよく吹いて日本海へ去りましたが、雨は終日残りました。幸いに被害はとくになし。ご放心ください。
台風明けの9月18日、油山では書庫・資料整理をしました。作業グループは、農中至・茂徳のお二人、それに樋口(白井)知子さんとぶんじん。至くんがリーダー。段取りよく進みました。皆さん、お疲れさま!
東京より運びこんだ約20箱のダンボール整理はもちろんですが、もっと大きな仕事は、これまで大きく二つに分離していた本・資料を主題別に一つにまとめること。1995年に東京学芸大学研究室から移したものと、2002年の和光大学研究室から運んだものが、合体できないままでした。沖縄文献、戦後史資料、社会学関連、社会教育資料、雑誌・刊行物など、それぞれが別(母屋と書庫)の2階に別れて住んでいたのです。一度、階段を下りて、また別棟の2階に入れ替えるという労働。午前・午後をかけて、どうにか終わりました。書架の配列・整理は今からゆっくりと。
お蔭さまで、主題別に本と資料が並んで書庫らしい体裁になりました。これに東京(自宅や「風の部屋」など)に残している蔵書等を移すことができれば万々歳ですが、いつのことになるやら。
終わって、行きつけの「壺」で夕食。かっては年中無休だった店、奥さんを亡くされてからは予約をしないと開いてくれません。そのかわり貸し切りの一夜。「壺」のご主人も元気でした。ぶんじんと二人で写真を撮りました。
(▼福岡「壺」にて、20060918)
1716号【2006年9月18日】
■<75年目の九・一八>
1931年9月18日、15年戦争が始まった日、今年は75年目の「九・一八」です。東アジア研究を志して以来、研究室の若い皆さんと、歴史を刻んできた日、たとえば「三・一」や「五・四」や「六・四」や「七・七」、そして東アジアにとっての「八・一五」などを忘れないようにしてきました。
とくに「九・一八」については、「松花江上」を歌い、この日に特別に研究会を開いてきたものです。故山辺賢蔵さんが大きな広告紙の裏に歌詞を書いて持参され、研究会一同で“学習”したことも。この歌詞はいま「風の部屋」に保存され、出番を待っています。
私たちの「東アジア社会教育研究」発行日も、毎年「九・一八」と奥付に書いてきました。今年は第11号。10年あまり「九・一八」を記録してきたことになります。
今年の9月18日は、九州には南から台風13号が襲来。17日夜から福岡も激しく吹きました。瞬間風速は50米に近いとのこと(報道)。油山でも、一時は前の家の瓦が飛び、車庫の屋根もなくなっていました。
幸いにこちらの庭は、烈風に耐えて、白樺3本とも無事にもちこたえてくれたようです。18日に日付が変わった今、返し風が始まりましたが、たいしたことはなさそう。雨も小降りになって、どこかでチロチロと虫が鳴きはじめています。75年目の九・一八の未明、平和な1日となりそう。
お見舞いのメールなど、ありがとうございました。
1715号【2006年9月16日】
■<福岡は雷雨 >
琉球新報9月14日記事中の島福善弘さん(名護市教育委員会)は、源河「琉球アユを呼び戻す」運動に取り組み(小林・島袋編『おきなわの社会教育』にも執筆)、最近は、名護シーカヤック同好会の有力メンバー。5月下旬には、やんばるの海で18Kを一緒に漕いだ仲です。「南の風」メンバー。この2日間、辺野古キャンプ・シュワブへの文化財調査の問題で、機動隊も導入されたとの報道。渦中にあって、さぞかし・・・、ご苦労さま。頑張れ!
9月15日、久しぶりの福岡です。着いたときはまだ陽がさしていましたが、日没とともに雨が降ってきました。台風13号の影響でしょうか。東京のマンション住まいの身には、雨だれの音も、虫の音もいいものですが、台風も心配。今朝16日は未明からの雷雨。
約3ヶ月ぶりの油山。例年は旧盆前後に1週間ぐらいは生活する習わしでした。しかい今年の夏はまったくのご無沙汰。小さな庭もほとんど藪になっていたようです。8月末には、樋口知子さん(4月に福岡に引っ越し)が息子さんを連れ「風を通し」て掃除していただいたり、ながく管理を頼んでいる友人には藪をはらってもらったり。皆さんにお世話になり、油山の寓居も幸せもの。
東京から出したダンボールが、16日に配達される予定です。これを開いて書庫整理に励むつもりですが、明日あたりは台風13号直撃!の予想。農中くんや樋口さんたちが手伝いに来てくれる、夜に楽しく飲もう、という計画、しかし台風さんもやってくる!どうなることやら。
台風13号はいま八重山の海を北上中。中心付近の気圧は、なんと 940ヘクトパスカル、猛烈な勢いです。お手柔らかに願いたいもの。今回は怪我から(かなり)癒えた富美さんも一緒です。
1714号【2006年9月14日】
■<公民館数も職員数も減少 >
7月下旬に公表された文科省指定統計「社会教育調査」の速報、福島で開かれた学会等でも取りあげられました。
ほぼ3年周期で調査が行われてきましたが、今回は2005年10月現在の統計(事業等は1年間)です。しかし、もうすでに1年が経過している。精度が気になる項目もあり、「自治公民館」などはまったく含まれていませんが、なにしろ、社会教育・生涯学習に関しては唯一の全国悉皆調査。年次的な推移など、比較・分析したくなる数字がいろいろ。
いくつか新しい傾向が現れています。一つは、公民館の最近の動き。この20年来、停滞していた(ほとんど減少していなかった)数字が今回調査では明確に下降に転じているのが注目されます。2002年当時と比較してみると、なんと館数で △638館、職員数では △1599人の減少です。公的セクターの見直し(「行政改革」)路線が、確実に影響を見せ始めたと言えるでしょう。今後もちろん自治体合併の波紋も気になるところ。
とくに今回調査から、新しく「指定管理者」別の施設統計が示されています。「管理委託者を含む」ので、厳密ではありませんが、文化会館は(1年前に)すでに36%、社会体育施設21%、博物館類似施設等は17%、が指定管理者に委託されている。公民館についてはまだ4%弱の数値ですが、今年度で「指定管理者」へ移行した施設数は、おそらく大きく上昇していること間違いなし。
指定管理者としては、財団法人や地域団体だけでなく「会社」も登場、NPO への委託はほんのわずか。これからどんな展開になるのか。社会教育施設をめぐる状況も新しい段階を迎え、3年後は激変の統計か。
学会報告資料のなかに、新しい「公民館の指定管理者」の動きを発表している上田幸夫さん(日本体育大学、「月刊」編集長で忙しいでしょうが)、上記に関連してコメントを寄せていただけないでしょうか。
1713号【2006年9月12日】
■<福島の4日間 >
東北地方は初秋のきざしかと期待したのですが、とんでもない!福島の盆地はむし暑い毎日でした。4日間の福島スケジュール(日本社会教育学会・大都市社会教育の研究と交流のつどい)は例年になく忙しい毎日、さきほど帰宅したところです。皆さん、お疲れさま。大都市「つどい」の懇親会の写真、一枚選んで、いまHPにアップしました。
例年になく忙しい・・・というのは、三つの出版の編集・営業の仕事に没頭したからです。ラウンドテーブルの報告も一つこなしましたが。
一つは、言うまでもなく「東アジア社会教育研究」第11号の販売です。内田・石倉ご両人が奮闘しましたが、それに伍して、ぶんじんは宣伝係。ラウンドテーブルも「東アジア」がテーマでしたから、韓国本のちらしと並べて、第11号を売り込んだり。その後に、大都市「つどい」に並べた5冊は、全部売り切れ。もっと持ち込めばよかったと思う反面、5冊だったから、大都市関係者が協力して買ってくれたのかも知れない・・・と、彼らの温情?に感激した次第。
『韓国の社会教育・生涯学習』(学会時の発行に間に合わなかった)については、予約の取りまとめ。無理な注文に快く?応じて下さった方々に熱く御礼申しあげます。“人の情け”を感じました。おかげさまでひそかに目標にしていた予約冊数にほぼ到達。エイデル・山添路子さんの嬉しそうな顔が楽しみです。
あと一つは、朝倉書店『辞典』。学会が福島大学で開かれることをメールしたのは前日だったにもかかわらず、同編集部・野島薫さんは編集委員(30人)あての資料−原稿提出状況などをもって駆けつけてくれました。その迫力は並々ならぬもの。学会懇親会のビールを飲みながら、大部分の委員に引き合わせることに成功。まことに印象的な福島の4日間となりました。
▼第29回大都市社会教育研究と交流のつどい・懇懇会(福島、20060910)
1712号【2006年9月9日】
■<福島にて>
「東アジア社会教育研究」第11号は確かに学会会場(日本社会教育学会、福島大学)に届いていました。エイデル研究所から送っていただいた韓国本資料やちらしも。江頭晃子さん、山添路子さん、有り難うございました。
学会初日(9月8日)午後のプロジェクト研究の会場で、末本誠さんの発表を聞きながら、第11号のページをめくっていました。なかなかいい出来映え。脱字や誤植などまだ発見できません。こちらの注文で字のポイントを落としてもらった結果、締まった感じに出来上がっていますが、ページによっては(「資料」「注」など)多少読みにくいところもある、画像の明るさがいま一つ、そんな印象。故黄宗建先生の追悼ページ(写真入り)はよく出来上がりました。カット(「風間智」とはどなたでしょう?)もいい。
内容的には、上記・目次をみてお分かりのように、なかば韓国特集の構成となっています。同時進行の韓国本編集との関連あり、黄先生追悼や韓国関連の特別報告(笹川孝一、伊藤長和両氏の回想)とが重なって充実感があります。編者の手褒めで申しわけありませんが、苦労しがいがあったというもの。
昨夜、石倉事務局長より連絡あり、ページ数や諸経費を考えて、11号の定価は(1200円だなく)1500円とのこと。維持会員の皆さん、ご了解ください。「風」の皆さん、販売にご協力ください。
1711号【2006年9月7日】
■<どこまで続く泥濘(ぬかるみ)ぞ!>
モンゴルより帰って数日は、草原を歩いた体を癒していました。酒もほとんど飲まず。一行のなかにはやや体調不良の方もいたらしい。やはり旅としては単なる物見遊山ではなかったのでしょう。5日川崎の韓国本編集会議(今後の販売計画など)、伊藤長和さんが土産にもってきたモンゴル酒(美酒!)を久しぶりに。空き腹でもあり、したたかに酔いがまわりました。帰りの電車では眠りこけて、渋谷で危なく乗り過ごすところ。
9月になると、当然のことながら、夏休みは終わった感じになりました。あと少々は休みたかったのに。今から福島の社会教育学会(第53回)です。この大会までに間に合ってほしかった『韓国の社会教育・生涯学習』(エイデル研究所)は「9月中の刊行」ということに。本1冊を出版するのは、まさに難事業!ということをを実感しています。
あと一つ、「東アジア社会教育研究」第11号は、まだ現物を見ていませんが、今朝(7日)出来上がって、直ちに福島大学(学会会場)へ送付するとのこと。やれやれ、やっと間に合ったか。よくぞ間に合った!この間に頑張っていただいた皆さん、有り難う!
福島の学会に続いて「大都市社会教育研究と交流の集い(第29回)」(於福島市)。帰ってすぐ日本公民館学会理事会と杉並「社会教育と市民活動を記録する会」。8月に行けなかった福岡には15日から行けることになりました。それに向けてダンボール20箱前後を油山に発送する計画。うまくいくかどうか。
東京・永福の自宅(マンション)は、しばらくは持ちこたえていましたが、ここ半年、本・資料があふれて、いま再び混乱状態です。棄てるわけにはいかない!ダンボールに詰め込んで搬出する必要があるのです。
どこまで続く泥濘(ぬかるみ)ぞ、とかっての軍歌の一節を口ずさみながらの9月。
1710号【2006年9月5日】
■<草原の地の近現代史 >
いまHPに今回の内モンゴル訪問の写真をいくつか掲載しはじめています。まず表紙に草原の落日。包頭を通ったときに思いがけなく眼前に現れた黄河(黄色というより紅い?濁流の印象)や砂漠の写真もそのうちに、と思っています。
内蒙古自治区の中心都市・呼和浩特(フフホト)から西の包頭(パオトゥ)に延びる高速道路は、陰山山脈に沿って走ります。石灰岩質のような岩肌、少し青みがかった風格のある山容です。8月30日、私たち一行はこの山なみを楽しみながら、西に向かっていました。車中で、かって日本軍がフフホトからパオトゥを占領したこと、それに抗する中国側ゲリラ活動は、「この山から出没したのです」とボヤンバートルが話してくれました。
上海市周辺を歩くと、あちこちで上海事変当時の「戦跡」を知りました。北京・上海・南京だけではない、モンゴルのこんな土地まで日本占領の一時期があったのだ、というのが正直な驚き。草原にのんびりと遊ぶ羊群の地でも、過ぎし戦争の厳しい回想が語りつがれているようです。
モンゴルへの旅は、広大な草原や幽玄な星空と出会うだけでなく、この地で織りなされてきた近現代史に思いをはせる機会となりました。モンゴルをめぐる中・ソ・日の葛藤。内モンゴル東部(通遼など)はかって旧「満州」の一部だったこと。いま日本で学んでいる留学生の祖父の世代はノモンハン事件(1939年)で日本軍と戦ったこと。そして日中戦争から戦後の激動の歳月。
この日、パオトゥ西方の砂漠に遊び、オルドスの歌舞団を楽しみました。フフホトへの帰途、陰山山脈の山なみはどこまでも続いていました。→
写真移動
1709号【2006年9月3日】
■<ビッグニュース!金信一氏の長官就任>
内モンゴルの旅より帰って、興奮さめやらぬ間に、また記憶も鮮明なうちにと思って本欄を書き始めたところに、驚きのニュースが韓国(李正連さん)より舞い込みました。金信一氏が「教育人的資源部」(日本の文部科学省)長官に就任とのこと。そう言えば、10年ほど前に「有力候補らしい」という話を聞いたこともあったような。
金信一(キムシンイル、昨年までソウル大学教授)氏は韓国の社会教育・平生(生涯)学習研究の中心的な指導者。昨年の9月下旬、韓国第4回生涯学習フエステイバル(光明市)で会いました。そのとき一緒に撮った写真を探し出して、記念にHP「9月スケジュール」欄にアップ。ご覧下さい。その2ヶ月後には法政大学・EAFAE(東アジア成人教育フォーラム)の会議でも顔を合わせました。
金信一さんと初めて会ったのは1980年2月、韓国・扶餘(プヨ、百済の都)で開かれた社会教育法制定に向けての専門家会議でした。4半世紀前のこと。その後、1990年代の「日韓社会教育セミナー」の運営や、1993年の社会教育研究全国集会(木更津)、2003年の日本社会教育学会50周年記念シンポへの来日など、日韓研究交流には韓国社会教育研究者を代表するかたちで大きな役割を担ってきた人です。
日本に多くの友人をもち、おそらく日本の社会教育をもっともよく知る韓国研究者。もちろん世界の潮流にも詳しく、そういう人が教育大臣に就任するという韓国政治の躍動を実感します。日本では考えられない専門研究者を登用する国家人事。海を越えて、まさに拍手喝采の出来事、心からの声援をおくりたいと思います。
▼左から4人目・金信一氏、(韓国第4回生涯学習フエステイバル@光明市、20050923)
1708号【2006年9月1日】
■<モンゴルの旅おわる >
8月26日の夜おそく、内モンゴル・フフホトの空港では、ボヤンバートルさん(内蒙古師範大学助教授)夫妻や、トクタホさんの友人たちが私たち一行を迎えてくれました。投宿したホテルで、まさに深夜の歓迎宴会。
出発直前に届いたボヤンバートル・メール,「… 明日会うのをとても楽しみにしています。
… フフホトの気温は朝晩は涼しく、昼は暑くなります。13−27度。草原のシリンホトの方は、朝晩寒いと言っていいぐらい、日中はやはり日照りが強くなります。10−25度前後。…
」
朝晩の寒さのご用意を・・という「出かける前の注意」(Sat, 26 Aug 2006 00:30)。しかし出発数時間前の連絡では、参加の皆さんに配信する余裕などあろうはずはなく・・・。
フフホトに着いた一行は(翌27日に遅れて到着の方を含め)総勢12名。フフホトからシリンホトへは飛行機、そこから車で草原をかけめぐって、終りの日は西の「黄砂巻き起こる」砂漠まで。確かに草原(高原)の朝は寒く、秋というより初冬の冷気を感じました。
私たちをモンゴルの大地に迎え、自らも故郷の友人たちに囲まれたトクタホは、連日深夜まで飲み、かつ毎日泣いていたようでした。最終日、空港へのバスのなか、マイクをにぎって別れの挨拶を始めたものの、涙声となり嗚咽、言葉になりませんでした。
予定通り31日夜、無事に成田着。ボヤンバートルさんはじめモンゴルの皆様、心をこめた歓迎をいただき、誠に有り難うございました。同行の皆様もお疲れさまでした。
旅のレポートは、おいおいと「風」(写真はHP)に載ると思いますが、次回の定例(TOAFAEC)研究会/9月22日夜は、訪問団による「モンゴル報告会」を予定しています。頂いてきた天下の名酒・モンゴル酒(蒙古王など)も数本持参いたします。ご期待を。(当夜、馬頭琴を用意できないだろうか?)
▼左・トクタホ(都立大学・院)、右・ボヤンバートル(内蒙古師範大学、トクタホの先生)−060826− 写真移動
1707号【2006年8月26日】
■<内モンゴルへ>
今年の夏、ようやく東京を離れることができます。皆さんの夏休みが終わるころ、こちらの休みが始まります。約1週間。「風」もお休みです。普通の旅ですと、パソコンを持参する習わしですが、今回はモンゴルの草原へ・・・というより砂漠の中へ行くようなものですから、パソコンも離しての気軽な旅です。
内モンゴルへは3回目。これまではゼミ学生などを連れて責任もあり、それなりの心構えが必要でした。今回は大人ばかり。最近の旅はいつも最年長ですが、今回の参加メンバー(12名)には、年上の方がいらっしゃいます。その意味でも妙に気楽なのです。
韓国の魯在化さんはニューヨークから帰国見通しが立たず、不参加となりましたが、紹興に帰省中の黄丹青さんがお子さんを連れて合流@フフホト。賑やかになります。成田からはトクタホさん(首都大学東京・院)が付き添い、内モンゴル到着後はボヤンバートルさん(内蒙古師範大学)も待っていてくれます。豪勢な旅です。
北京空港でフフホト便に乗り継ぎの時間が数時間あり、ふと思い出して、北京の韓民さん(中国教育部)にいまメールしました。都合がつけば久しぶりに乾杯しようと。うまく会えるかどうか。
何も考えないで、草原の風に吹かれ、満天の星を仰ぎながら、大きな宇宙と、その中の丸い地球を実感しようと思っています。ただそれだけ。
1706号【2006年8月24日】
■<夜間中学を全国につくれ!>
風1699号でご紹介した、全国夜間中学校研究会(全夜中)による義務教育未修了者の「人権救済申立」に対する日弁連「意見書」の全文が、このほど関口知幸さん(同・専門委員会委員長)から送られてきました。8月10日の記者会見の様子も。
翌朝(11日)の新聞では、東京新聞が「夜間中学拡充を要望」と記事を掲げ、毎日新聞も小さな欄ながら「意見書」のことを報道しているようです。
意見書はA4版25頁にわたる本格的なもの。これまでにない内容です。いま日弁連の公式サイトで見ることができますが、要点のみを本号に掲載しておきました。
当日の記者会見・報告集会には、ぶんじんを含めてメッセージが寄せられました。そのなかの一人、松崎運之助さん(もと夜間中学校教諭)の詩一つ。
夜間中学は
生きるために 切実な場である
しかし その数が
無残に不足している
夜間中学を全国につくれ!
それは人として
当然の要求である。
この要求に
日弁連の意見書は
新たな力を与えてくれた
ここから
新しい一歩が始まる。
1705号【2006年8月22日】
■<今年の日本公民館学会・川崎で >
昨夜(21日夜)は、8月夏休み中にもかかわらず、日本公民館学会理事会でした。首都圏・在京メンバーだけでなく、九州から上野景三さんが出席、ご苦労さまでした。
主要な議題は、12月2日〜3日に予定されている学会大会のプログラムづくり。最終確定は9月理事会ということになりましたが、大まかなスケジュール・時間配分を協議し、内容の骨格など話しあわれました。また来年度以降の大会開催地をどこにお願いするかなども。
この若い学会(2003年5月創設)も、今年で第5回研究大会を迎えることになります。1月には学会編『公民館・コミュニティ施設ハンドブック』が刊行され、規模はまだ小さいものの、ようやく学会としての存在も認められてきた実感があります。
本年度大会の目玉は、「公民館60年の総括と展望」「指定管理者制度と公民館の公共性」(仮題)、それと会場地「川崎」の独自の社会教育、市民館(公民館)、地域の実践・運動についての公開シンポ。「ふれあい館」見学の企画等も話題になりました。
既成学会とは一味違う雰囲気で・・・という思いから、ポスター・セッション(あわせてコーヒーブレイク)、稀少ビデオ上映などの工夫がありますが、今年はどんな内容になるのか。ぜひ成功させたいものです。
学会理事・伊藤長和さんはじめ、川崎(公民館学会研究大会実行委員会)の方々、どうぞよろしくお願いいたします。
12月2日〜3日の会場は、川崎市教育文化会館。まだ先のことですが、年末日程としてご予定下さるようお願いいたします。
1704号【2006年8月20日】
■<最終ゲラすべて読み終わる>
今年の夏の大仕事がようやく一段落しました。
前にも書きましたが、毎日、うんざりする程のゲラ読み。一つは9月刊行予定の『韓国の社会教育・生涯学習』(エイデル研究所)、あと一つはTOAFAEC
発行「東アジア社会教育研究」第11号、スケジュールが重なってしまいました。二つの本のゲラ1校〜2校を連日交互に読んでいるような毎日でした。
しかし、本になる夢が一歩ずつ実現する作業ですから、いま、終わってみると、結果的には疲れも吹き飛ぶ充実感。秘蔵の泡盛古酒をチビリとやって、いい気分です。
ここ数日の日誌。8月17日は終日、韓国本の最終ゲラを読んでいました。夜になってエイデル研究所へ。山添路子さんが待って?いました。川崎の小田切督剛さんも来て、残った問題を処理しながら、午後9時過ぎにすべて終了、4年越しの仕事から解放されました。乾杯のエネルギーさえも残っていないほどの疲労感、そして、なんともいえない達成感。
昨日、8月19日は永福“風の部屋”で第11号の最終校正。常連メンバー5人。読んでいくうち、TOAFAEC
年報としては、これまでにないものが出来たのではないかと自画自賛!
作業は午後から夜へ。その間に沖縄の中村誠司さんからFAXを頂き、上海の呉遵民さんに電話。夕食をはさんで8時過ぎにはほぼ終了。あとはアンティ多摩・江頭晃子さんたちの頑張りに託すのみ。どうぞよろしくお願いします。
上海の呉さんへの電話は、編集委員会メンバーとしての肩書を確認するため。確かに教授に昇進!おめでとうございます。あわせて遅れている上海本のお詫び。ほんとに申しわけない、原稿はほぼ揃って、あとは調整と一部の翻訳を残すのみ。モンゴル行きから帰って、最終の作業をして送稿します・・・と、ひたすらお詫びの電話。
というわけで、20日からやっと夏休みの気分です。26日出発のモンゴル行きに備えて、脚力を鍛えることにしましょう。
さきほどホームページ掲示版に、朴三植さんから黄宗建先生・追悼のメールが届きました。
1703号【2006年8月19日】
■<山東省烟台と黄宗建先生>
久しぶりに烟台(山東省)からのメール。お元気のようで何よりです。伊波葉月さんは、沖縄・名護市の出身。一人で烟台・日本語学校へ赴任して1年余り。頑張れ!とはるかに声援を送ってきました。
実は、8月下旬のモンゴル行きの帰路、北京から烟台に寄る計画でした。伊波さんたちとも久しぶりに会えるかな、と楽しみに。しかし訪問団一行と一緒の便で成田へ帰国する必要があり、今回は断念です。北京でも烟台の学校側でも、歓迎の用意をして頂いていたのに、申しわけない。張林新校長(父上にも)はじめ皆様によろしくお伝え下さい。
小泉の靖国問題は中国の日本語学校に冷たい逆風となりました。とくに昨年からの反日の空気のなか、学校経営に影響があるのではないかと心配です。
先月、亡くなられた韓国の黄宗建先生と最後にお会いしたのは烟台でした。高速バスで約3時間のところ、ウエイバンの大学に招聘され、教授として中国と韓国を結ぶ仕事をしておられました。2年あまり前、滞在中の烟台から連絡をしたその日、高速バスにのってお出でになり、張校長の歓迎により1泊されました。忘れられない思い出。
前に海、後ろに山、丘の中腹に建つ学校のまわりを二人で散策しながら、「いい環境だ、いい学校だ」といたく気に入られた様子。その日は寒い日だったせいもあり、別れ際に「こんどは温かい沖縄で再会しましょう」と約して別れたのでした。それが最後となりました。
訃報が届いて、HP・追悼ページに載せる写真を探したところ、烟台の若い学生たちに囲まれて楽しそうな先生の画像が目に飛びこんできました。7月スケジュール・22日(訃報が届いた日)の記録に掲げています。追悼ページの冒頭、笑顔の黄先生の写真も烟台での記念の一枚。
→■
在りし日を偲ぶ数枚の烟台の画像。しかしなかに、孤独感をただよわせる横顔もあります。晩年の中国は、やはり異郷の地、寂しい日もおありだったようです。
▼在りし日の黄宗建先生(烟台、20031126)
1702号【2006年8月17日】
■<新アドレス帳102名
>
1700号達成を期して、恒例100号おきのアドレス帳更新。本号は新リストで配信しています。いま102名の皆さん、内訳は大学関係者(院生等を含む)33名、自治体関係者(市民を含む)
40名、海外(留学生を含む)29名。どうぞよろしくお付き合い下さい。
今回の更新では、この間、ほとんど音信のない(と思われる)20名前後の人に、「風を継続しますか?」と別メールを出して、それにまったく反応のない方が7名。この方々をはずして、これに新参加者を加えた結果が102名、という経過です。
南の風は、前にも書きましたが、1998年2月発足当時は10名前後のまったく仲間うちのネットでした。それが30名となり、50名を過ぎる段階から、お互いの顔が見えにくい関係となっていきます。2年ほど前からは100名を前後する規模に。ぶんじんは、その方々の顔がみんな浮かんできますが、風メンバー相互では「見知らぬ関係」が多くなっていきます。
誰が読んでいるか分からなければ、“闇夜に鉄砲”のようなもので投稿もしにくいし、通信の内容も変わってきます。しかし、なんとか相手の表情がそれなりに見えるような、そして双方向性のやりとりを重ねていけるような、そんな通信ネットを維持していこう、という涙ぐましい?努力が
100号おきアドレス帳更新の工夫なのです。この数年で約半数の新陳代謝もありました。
100人の大台を越えると、南の風は大きく変貌していくことを実感していますので、特別の希望者をのぞき、新しい方への呼びかけは控えています。久しぶりの北の国からの便りでは「1800号を楽しみに・・・」とあり、正直のところ複雑な心境。
本号はとくに長くなりました。頂いたメールがまだ当方の郵便箱に残っていますが、この辺りで。
1701号【2006年8月16日】
■<8月15日の日記
>
今年の8・15は、とりわけ重苦しい朝。小泉靖国参拝は単に「心の問題」にとどまらない。中国や韓国との関係だけではない、われわれ自身にとっての大きな問題、しばし深い喪失感に襲われました。
この日、「東アジア社会教育研究」第11号の校正作業。「東アジア」波高し。そんな中での疲れる仕事です。負担意識ではとてももたない。しかし、ものは考えようだ。校正できるということは、実は有り難いことなんだ!
そう思い直して・・・まず一杯ビールで景気をつけて・・・。
うまく当たりました。校正のために問い合わせていたベトナムからメール来信。台湾・高雄へのメール発信。とつぜん飛びこんでくるニューヨークからの電話。一昨夜からお願いしていた写真探しに、あっという間に10枚近くの画像が集まってくる、こんな面白さは校正作業があればこそ。
朝の重苦しさを吹き飛ばすような、“風の部屋”なりの思いもかけぬ充実した1日となりました。石倉祐志編集長もご苦労さん。
ニューヨークからの電話とは魯在化さん。故黄宗建先生への追悼文は届いたか(たしかに拝受)、いい日本文となるよう手を入れてくれたか(丁寧に補筆した)など。こちらからは、10月に韓国本の出版記念会と重ねて黄先生の追悼会を催そうという企画浮上(14日案で検討中)、来日できないか、など相談しました。魯さんは来てくれるそうです。しかし今月下旬のモンゴル行きは断念とのこと。テロ警戒で飛行機の予約が簡単ではなく、ニューヨークから韓国へ帰る予定がたたないらしい。
夜には江頭晃子さんも駆けつけて、がぜん賑やかに。ゲラ刷りにいろいろ注文つけたり、表紙の色をどうする?などの話にもなって、この日の作業はめでたくお開きとなりました。終わりにはワインも少し。15年古酒もちょっぴり。元気が出たところで、この日誌を書いています。
1700号達成のお祝いと、アドレス帳更新に向けてのメールをたくさん頂戴しています。貯まったメールを(連日「風」を吹かせて)一挙に配信したいところですが、せっかくの盆休み、控えています。掲載が多少遅くなりますが、ご了承下さい。本号はまだ旧アドレス帳で配信。
*1651〜1700号
*1751号〜1850号(次ページ)
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