南の風・各号後記(ぶんじん日誌)
1800号【2007年3月3日】
★<3月の定例研究会・編集委員会>
3日は雛祭り。本号で1800号となりました。これまでのご愛顧に感謝! 継続の方は、今しばらくのお付き合いを願い上げます。
恒例100号おき送信アドレス帳の整理!と書いたところ、日頃あまり頂けない各地からのメール来信。南だけでなく北からも西からも、たくさん有り難うございます。風・編集としても嬉しい悲鳴。頂いたメールは1両日で配信(速報性?)するのが「南の風」のウリですが、今回はそうもいかず、掲載が遅れることをお許し下さい。また一部のお便りは(親しさに甘えて)収録割愛させていただきます。ご了承を。
研究会等のご案内も、いずれきちんと載せますが、本号では3月日程の予告のみ。定例(第127回)研究会は3月30日(金)午後6時半より。この2年越しに取り組んできた東京杉並の原水禁運動と杉並公民館(安井郁館長)の資料発掘について、とくに社会教育と女性に注目して、丸浜江里子さんに報告していただくことになりました。ご期待を!
また『東アジア社会教育研究』第12号編集会議の開催について、編集委員各位のご都合を伺っていましたが(風1796号)、具体的な返信がほとんどなく、日程調整が未だ出来ません。日本の大学は忙しいのです。「気にはなっていますが、ともかく忙しくて、予定が立ちません。もう少しお待ちください」(末本誠さん、Fri,
2 Mar 2007 )とのこと。
3月30日当日、研究会に先だって午後4時頃から編集会議を開く案はどうだろう、など遠藤輝喜さん(事務局長代行)と話しあっているところです。お互い無理はさけてメール編集会議を充実する、もし可能であれば出席していただく・・・。さて30日案、ご都合は如何でしょう。在京の編集委員・事務局の皆さんは、この日ぜひ!ご予定を。
1799号【2007年3月2日】
★<再び南・竹富島へ>
ご存知のように「南の風」は、「南」沖縄の研究と交流のなかから生まれました。風・前号の記事(白保「ゆらてぃく」)に、直ちに南の島から、専門家・新垣重雄さんの風=解説を送っていただき、まことにありがとうございました。なるほど!「ゆらてぃく」(寄らいてぃ来)の意味がよく分かりました。
ところで最近、南の八重山とくに竹富島に強く惹かれるところあり、昨年11月、今年2月と出かけました。竹富島憲章(1986年)と集落づくり、その社会組織・竹富公民館の実像を、社会教育の視点から記録にしておきたいからです。できれば『東アジア社会教育研究』第12号に収録できないかと、上勢頭芳徳さん(竹富島喜宝院蒐集館々長)に原稿を依頼した経過もあります。前回の訪問では、芳徳さんと小林の対談のかたちで楽しい記録にしようという企画が浮上、幸いに竹富島在住の前本多美子さん(学大・小林ゼミ卒)にテープ起こしをお願いできることになりました。
そんな経過があり、4月16日から20日の日程で、再び沖縄そして竹富島に渡ることに。芳徳さんとの対談は、18日(午後)あたりでしょうか。その前後は聞き取り活動の予定。竹富では翌19日が「浜下り」(旧暦3月3日)だそうです。
やや早めに日程を決めたのは、安い飛行機便を確保するため。今だとまだ格安の便がとれますし、竹富の宿は、多美子さんにお願いできます。関心おもちの方、ご都合がつけば、ぜひご一緒に竹富島に遊びましょう。日程・フライト等はTOAFAEC
ホームページをご覧下さい。
なお前日の4月15日は、奈良(田中伸一さんや稲富和美さん等)で取り組んでいる阪奈和集会プレ集会in奈良−風1791号、1797号に案内−に参加して、翌日に関西空港から沖縄に飛ぶ案を思案中です。
1798号【2007年2月28日】
★<「公民館の歌」合唱 >
前号の続き。2月25日の飯田市公民館大会は、その全体会の冒頭でご存知「公民館の歌」が歌われました。これまで聞いた「公民館の歌」のなかで最も美しい合唱だと思いました。思わず画像1枚、TOAFAEC・HP表紙に掲げました。合わせてサウンドをセットできないのが残念。
同じ伊那谷の米山義盛さんより、「はれまあ!灯台下暗し!」のメール来信。「…飯田市の公民館はどうなって行くのですか。近くに居る私ですが、よく分かりません」「また『風』に情報を提供して下さい」と。
昨年9月の長野県公民館大会でも、飯田市の公民館問題が大きな話題になりました(風1722号「須坂市温泉の夜」)。日本公民館学会にも一度ご報告いただけないかとお願いした経過もあります。
飯田市では一部に「公民館を市長部局に移行し、公民館条例を廃止」の要望も出され、これに対して市長は「5年後を目処に対応を検討していく」(2006年1月)と回答。公民館側はこの厳しい事態を受けとめて「飯田市公民館基本方針−新たな公民館ビジョン」(同4月)が積極的に作成されています。
こんどの大会では、基調提案として、今年導入される地域自治組織・まちづくり委員会の中で、公民館は他団体とも連携・協力し、新しく歴史的な第一歩を踏み出していきたい趣旨が力強く出されました。
公民館は行政機構の問題に止まらず、まさに市民の問題。公民館のこれからの実践的な動きとともに、市民の側が公民館のあり方をどう考え、市民にとっての公民館ビジョンを新しくどう画いていくかが注目されましょう。公民館の調べが、市民コーラスグループによって高らかに歌いあげられ、満堂の参加者がこれに和して合唱した情景が印象的でした。
▼飯田市公民館大会・開会式「公民館の歌」合唱−20070223−写真移動
1797号【2007年2月26日】
★<飯田市へ>
2月24〜25日、飯田市(第44回)公民館大会に出かけていました。珍しく?冷たい風、久しぶりの飯田。江頭晃子さんたちと信州合宿を企画して松本から飯田に車を走らせた日のこと、小峯みずきさんたちと人形劇フェスタを楽しんだ夏の日ざしなど、想い出しながら。
飯田市は信州のなかでも地域公民館の体制が濃厚に蓄積されたきた自治体ですが、合併を契機とする「地域自治組織」の導入が決まり、そのなかに公民館がどう位置づくか、この3年ほど、公民館再編をめぐる緊張した論議が重ねられてきました。その動きや課題については、昨年10月の「風」に木下巨一さん(飯田市役所)から6回にわたって報告していただきました(1722号〜1734号)。ご記憶の方も多いと思います。
公民館大会は、さすが飯田!という感じ。受付に20公民館ごとの机が並び圧巻、大ホールほぼぎっしりの参加者(約400人)。7分科会の議論も熱心なもの。「地域の芸術文化活動を考える−人形劇フェスタ地区公演の取り組み」の分科会など、全国でまさに飯田だけが開くことができるテーマ。
牧野光朗市長とも少しお話できました。若い!おそらくまだ四〇歳代半ば。公民館の歴史と役割にしっかりと理解がある市長さんと見受けられました。東京学芸大学「麦笛」(人形劇サークル)の卒業生など、珍しい人との再会もあり。また帰り際には「竜丘公民館の飲み会にどうぞ、東京に帰るのはやめて私の家に泊まりなさい」と誘う人もあり。心は傾きかけましたが(花粉症のこともあり)やはりお断りして、夜の新宿行き高速バスに乗りました。
飯田の皆様にお世話になりました。有り難うございました。
1796号【2007年2月24日】
★<『東アジア社会教育研究』第12号・編集会議を>
そろそろ今年の研究年報(第12号)編集について、ご相談する時期となりました。編集委員の皆さんは「南の風」メンバーですから、この欄を利用してお願いいたします。
編集委員の方で、3月の中下旬に東京に出る予定があれば、お知らせ願いたいのです。旅費支弁ができない
TOAFAEC、編集会議のみの上京では申しわけない。しかし在京メンバーだけでなく、少しでも各地からの参加をいただきたい思い。皆さんのご都合を調整し、編集会議の日程を設定、あらためてのご案内を差し上げたいと考えています。
ぶんじんは、3月21日(水)に福岡・社会教育研究会に参加する予定がありますので、その前後は東京を離れることになります。福岡滞在の間に、九州関連の編集会議を開くという案もありますすね。松田(九大)、小林(鹿児島大学)、上野(佐賀大学)等の委員の皆さんのご都合は如何でしょうか。みな、忙しいので、恐る恐るのお伺い。
昨年来からの経過でお分かりの通り、第11号の編集は結果的に東京(小林ぶ・編集長、石倉・事務局長など)で担当しましたので、その流れで第12号・編集会議の呼びかけをさせていただく次第です。
本号収録の「第1回韓国社会教育研究会」(2月21日夜)では、昨年の韓国本出版の高揚もあり、韓国「平生学習」関連の論文執筆について積極的な動きがあります。また中国や沖縄についての報告も予定されているものあり、その意味では、第12号編集は実質的に動きはじめている感じです。海外・国内の編集委員の皆さんも、会議出席の有無にかかわらず、編集上のご意見、ご執筆の意向、あるいは投稿論文の情報など、お寄せいただければ幸いです。また来年以降のこと、今後の課題等についても忌憚のないご意見をお願いします。関連して、一度TOAFAEC
事務局会議も開きましょう。
1795号【2007年2月22日】
★<鈴木健次郎生誕百年記念特集号>
『あきた青年広論』(2007第92号、秋田県青年会館・発行、2月10日刊)が届きました。ご恵送有り難うございました。戦後日本の社会教育とくに(寺中作雄とともに)公民館の創設と普及に大きな役割を果たした鈴木健次郎の特集号です。鈴木は、秋田の生まれ。今年の2月14日がちょうど生誕百年。秋田県青年会館は郷土先輩の遺徳を偲んで記念号を編んだのです。
鈴木健次郎は、1970年の夏、この世を去りました。享年63歳の若さ。それからすでに40年近く経つというのに、秋田では今年2月10日に「生誕100年記念式典兼秋田の社会教育を考える集い」が開かれたそうです。鈴木健次郎は幸せな人です。
特集号の構成は、特集−人と思想、鈴木イズムを生み出した寸言集、座談会(1)鈴木健次郎の文部省時代を語る、同(2)秋田時代を語る、など。秋田高校々長としての名言「汝、何のためにそこにありや」についての回想も。
元文部次官の井内慶次郎氏(社会教育法の立法担当者)などとご一緒に、座談会(1)
に参加しました。この経緯は、昨年11月の風1746号に書いています。公民館設置についての次官通牒(1946年)に関して、「次官通牒は“寺中構想”ですか?」(小林)の問いかけに、井内氏は「それは寺中・鈴木構想と言ってよいのではないでしょうか」「鈴木先生が起案者で間違いないと思います」(p29)などの証言。
1794号【2007年2月20日】
★<Web タイムス笠懸の発行 >
ご存知の群馬県・笠懸公民館の「笠懸公民タイムス」縮刷版(第W号、401〜500号)を送っていただきましたが、その添え書きで「公民タイムス」のインターネット版とも言うべき表記「Web
タイムス笠懸」が、今年1月から発行を始めたとのお知らせをいただきました。
笠懸町公民館「公民タイムス」(1949年1月創刊、行政から自立し住民主体の編集により57年にわたって発行)が、合併(みどり市)の思わぬ波紋により昨年3月に予算が打ちきられ、527
号で終刊となったことは、南の風でお知らせした通り(1660号、2006年6月5日)。これを惜しむ人たちの集まりに笠懸まで出かけた経過もあります。それだけに嬉しいニュース!
公民タイムスの元編集委員が発起人となり、タイムス編集の精神を受けつぐかたちで「インターネット新聞サークル」準備会を立ち上げ、会の規約や編集方針、活動の方法や資金集めなど検討がすすめられてきたそうです。ある事務所も確保し、昨年12月に設立総会、そして今年1月「Web
タイムス笠懸」を創刊、2月に第2号が発行されました。インターネットだけでなく、印刷版も作成されているとのこと。一方で新しく「笠懸公民館だより」も編集協力委員の参加をえて準備がすすめられ、二つの活動が活性化を生む効果にもなっていくようです。
開設されたばかりのホームページURL http://www.ne.jp/asahi/web-times/kasakake/
1793号【2007年2月19日】
★<春節−新年好!>
広州の李偉成さんや烟台の張林新さんから、春節のご挨拶をいただきました。有り難うございました。李さんは「春が来て、万物はよみがえり・・・、ぜひ花粉症にならないよう・・・」とのこと。しかし沖縄から帰って、その翌日に花粉症は発症。
前号収録の伊藤長和さんメールのまえがき。「… 私は11日〜13日にかけて何組かの観梅客を案内して、鎌倉散歩をしました。とたんに
14日から花粉症になりました」(Fri,16 Feb 2007 09:57)とのこと。
春節のおめでたい号に、花粉症の話題になって恐縮ですが、このアレルギー症も春を過敏に生きている証しだと思って、2ヶ月?を頑張ることにいたしましょう。薬を飲むと、調子も出ないし、お酒も美味しくない。今年は少しでも軽微であることを祈るのみ。
春節の当日、さきほどまで(既報の通り)東京・渋谷で呉遵民さんと袁正守・羅時竜夫妻の来日歓迎会。上海からは他に日本留学中の羅笈さん(愛娘)と呉研究室の周晟さん(院生)、それに筑波大学・手打明敏研究室の呉迪さん(院生、ハルピン出身)。日中双方15人ほど集まって、楽しいひとときとなりました。呉遵民さんの新著『現代中国の生涯教育』現代中国叢書7(明石書店)にも乾杯!
ご参加の皆様、有り難うございました。きっとどなたか記録を「風」に送っていただけるものと期待しています。(2月18日23:45)
▼渋谷・ロゴスキーにて(20070218)
1792号【2007年2月17日】
★<竹富島の音の世界>
沖縄から帰って数日経つというのに、まだ竹富に泊まった余韻がただよっています。風のそよぎ、降る雨の暖かさ、路地を散策する観光客のささやき、時折におう水牛の落としものなど。
竹富島では、NPO「たきどぅん」が活発に動いています。たきどぅんとは竹富のこと。同ホームページ(http://www.takidhun.org)の冒頭には「今あなたの目の前に広がる美しい集落風景と赤瓦の民家、手にするミンサーの織物、聞こえてくる民謡や芸能の音
… 」と。港の傍の「ゆがふ館」は「たきどぅん」が運営している立派な施設ですが、そこで、CD「竹富の風」を入手。(これはお薦め!毎夜聴いています。)
収録されているのは竹富の民謡・わらべ歌・祭り(種子取祭など)の歌など。その最後は「夏の夕暮れ、集落のはずれにて」。竹富の静かな夏の宵−虫やヤモリ、コノハズクの声に混じって、どこからともなく三線と歌が聞こえてくる。「月ぬ美しや」で始まって「夏の夕暮れ」で終わるCD。
そうだ、竹富には、自然や集落の風景もさることながら、暮らしのなかで紡ぎだされる独自の音の世界があるのだと気づきました。私たちが失ってしまっている音の世界。それが余韻(余音と言うべきか)となって体に残っているようです。
たとえば、民宿「泉屋」の離れに寝ていると、朝、スリスリ・・・と足音が聞こえてくる。珊瑚礁の白い砂をしきつめた路地から。そしてサヤサヤ・・・と箒で落ち葉を掃く音がつづく。眼が醒めてみると宿の若者(長男?)でした。心洗われる思いで、1日が始まるのでした。
▼竹富島・真知御嶽(マートオン)−写真撤収
1791号【2007年2月15日】
★<沖縄青年運動を担った群像>
今回の沖縄調査行の第2のテーマは、戦後の地域青年運動を担った方々の証言収集。2月12日〜13日は、那覇市と沖縄市を歩き、次の3人の方から、興味深いお話を聞きました。戦後復興期から復帰運動にかけての燃えるような時期の群像たち。皆さん今なお若々しく、それぞれの貴重な証言から教えられるところがありました。
お一人は、平田嗣功さん(1962〜63年当時の沖縄県青年団協議会事務局長、現沖縄県青年会館理事長)、そして富田哲さん(1950年代前半の竹富島青年会→竹富町連合青年会の結成、教師、元那覇市教職員組合委員長)、最終日は山内徳信さん(1958年より読谷村青年会活動、その後読谷村長、沖縄県出納長)。このような“群像”の証言を集めていけば、貴重な歴史を再生し復元させていく作業につながりましょう。2月欄に写真を数枚アップ、ご覧下さい。
山内徳信さんは、ご存知のように次の参議院選挙への出馬を決意。13日夜、沖縄市内で「山内徳信さんを励ます中頭OBの集い」が開かれ、インタビューは、その直前の忙しい時間を割いていただき行われたものです。新垣重雄さん(元社会大衆党書記長)と石垣で会ってきた話もしておきました。
集いは参会者150名をこえる盛大な激励会となり、中頭青年活動のかっての主要メンバーがみな集まっていたような感じ。東武さん(1975年当時の沖青協会長)に紹介してもらって、ぶんじんも(候補者のように)名刺を配って歩きました。会場では伊波洋一さん(宜野湾市長)や久しぶりに福地昿昭さん(沖縄戦記録フイルム1フィート運動の会代表)の顔も。ぶんじんは「神出鬼没、幽霊のようだ」と福地さん。
おわって大嶺自吉さん(元具志川市教育長、『おきなわの社会教育』共同執筆者)や田場盛順さん(復帰当時の沖青協会長)、玉那覇正幸さん(宜野湾市立図書館長)たちに“拉致”されて、具志川の酒場へ。そこに宮城英次さん(もと沖縄県教委社会教育主事・青年担当、現うるま市史編さん委員会委員長)も自宅から顔を出され、30年前の回想など。ぶんじんにとっては沖縄研究の同窓会のような一夜となりました。
▼山内徳信を励ます中頭OBの集い(沖縄市「かりゆし園」20070213)
1790号【2007年2月12日】
★<竹富島へ>
今回の竹富島訪問には、パソコンを持参せず、那覇のホテルに置いてきました。宿泊予定の民宿(泉屋、民宿第1号とか)でインターネットにつなげるかどうか、分からなかったからです。おかげさまで、パソコンから解放され、毎夜遅くまでゆっくり飲むことができました。前本多美子さんはもちろん、上勢頭芳徳さんはじめ竹富の皆さま、歓迎していただき、有り難うございました。印象深い三日間となりました。
二日目(2月10日)の午前、竹富公民館の現館長・島仲弥喜さんのお宅で聞き取りをしている最中に、八重山「ネットワークサービス」の人がやってきて、ブロードバンドへの切り替え作業。館長さんのパソコンがインターネットに通じた一瞬。テストにぶんじん(TOAFAEC)のホームページを開いてもらいました。見事成功!
ご承知のように、ぶんじんHP2月の表紙写真は「竹富島まちなみ館(竹富公民館)」。島仲館長の驚きの表情が笑顔に変わって、目出度し!メデタシ!のひととき。
今回の調査活動で竹富島の主立った方々のお話を聞くことができました。かって数年通った与那国調査を思い出し、竹富にもまた数年お邪魔をすることになりそうな予感。もちろん体力・気力があれば・・・の話ですが。9月刊行予定『東アジア社会教育研究』第12号に「竹富島憲章と公民館」(仮題)を収録する案を上勢頭芳徳さんに相談してきましたが(昨年11月訪問時)、どう具体化するか。上勢頭−小林の対談形式を考えようかという話になりました。締切り日程の関係では、3月か4月にまた島へ渡る必要もありそう。
那覇への帰路、石垣で新垣重雄さんの店(「島そば一番地」−市役所前)に寄って、ビールで歓談。今回は、渡慶次賢康さんにも平久保の皆さんにもお会いする余裕がありませんでした。11日夜、那覇へ帰着。12日からは沖縄青年運動史をになった群像たちの聞き取りです。
この間(9日)、鷲尾真由美さんは風・前号(ぶ)欄を見て、沖縄県立図書館へ行かれたとのこと、しかし1日違い。また電話をいただいて(このときJTA機中)、たいへん恐縮しています。
▼竹富島の水牛車観光(泉屋コッテージの横)
1789号【2007年2月9日】
★<那覇の港にザトウクジラ>
呉遵民さんの歓迎会当日(2月18日)午後に東京をまわるエクスカーション(遠藤輝喜さんの車)が企画されていますが、既報のように大規模なマラソンと重なっています。呉さんからは「すべて遠藤さんにお任せしたいです。当日の連絡につき、私が携帯電話を持っていませんので・・・」と、連絡についての心配も。当日は、お約束の場所に午後2時に出会うことを確認しておいて、あとは状況をみて、車か地下鉄かなど、判断していただいてはどうでしょうか。連絡については、念のため、前夜(2日17日夜)に遠藤宅かぶんじん宅に、呉さんから電話を下さい。(電話は、TOAFECホームページを。)
今日(8日)那覇に着きました。琉球新報 の記事(2007 2/7 16:00)に驚きました。「ザトウクジラ 那覇港沖でのんびり!」と。
「6日午後、那覇港沖に親子とみられるザトウクジラ2頭が現れ、交互にジャンプする仲むつまじい様子が目撃された。同港沖防波堤近くまで接近し、しぶきを上げる姿が同市天久の琉球新報社からも確認された。漁師の赤嶺政広さん(46)は、これほど近づくのはまれ。自分は初めて見た、と話した。ザトウクジラは5日も同港沖で、4日は空港沖でも目撃された。(後略)」
以前からこの時期に那覇沖で目にし「3月いっぱいは姿が見られるだろう」とのこと。天気もよいし、港の高台に行ってみようかと誘惑にかられましたが、辛抱して、沖縄県立図書書館へ。竹富島の文献探索に。明日(9日)、竹富島に渡ります。
1788号【2007年2月7日】
★<風の誕生日>
本号は「南の風」らしく、すべて南・沖縄からの記事となりました。有り難うございます。当方も明日から沖縄、「やんばる」だけでなく沖縄南部も桜満開とのこと。東京の花粉の風からも待避することが出来て、うきうきしています。
ぶんじんには誕生日が二つあります。自分のと、「風」の誕生日です。昨日の6日で満9才になりました。昨年の2月6日がちょうど1600号の風、この1年で188号を送信してきたことになります。ほとんど2日に1回の風。旅行中を含めて(モンゴル草原のときは別)、最近は規則正しく?隔日の風発行。留学生風の挨拶でいえば、「おかげさまで・・・」というわけです。
風の吹きすぎだ、とのご批判も頂きますが、1年に平均200号を発行してきた8年間と比べると、この1年はわずかに静かだったことに。風は少年ですが、発信者は年寄り。少しずつ静かになっていきたいと思っています。
3月ひな祭り前後に1800号を迎えます。この機会に、恒例のアドレス帳整理をいたします。風は双方向に吹き合うお約束。100回のラブレターを出したら、1回ぐらいの返事をいただきたいもの、というのがこちらの言い分。恋はさめたよ、という返信も期待しています。最近の迷惑メールの氾濫もあり、この風が迷惑になってはならじとの自戒も。
いま海を越え、東アジアの各都市に吹く約30通を含めて、全体では毎回114通(最近のご参加12)の風が吹いています。あと少し続きそう。どうぞよろしくお付き合い下さい。
1787号【2007年2月5日】
★<2月の沖縄調査計画 >
風1776号(1月14日号)に書いた通り、2月8日から14日まで沖縄調査を計画しています。日程が近づいて、この数日は訪問先の竹富島関連の文献を調べたり、最近入手した写真集(「うつぐみの心・竹富島」大塚勝久)や
DVD(「沖縄・竹富島の豊年祭と御嶽」益田兼房)などを楽しんだりしています。
風1769号(2006年12月30日、昨年の最終号)「風の積み残し」で、新年早々にも・・と予告した「竹富島憲章」等のご紹介は、1月の「風」記事が案外と忙しく、まだ掲載できていません。「竹富島憲章」そのものは、すでに全文をHPにアップしておきました。「憲章」への関心は、昨年11月の千葉県公民館研究大会の際に出されたもの。あらためて、沖縄公民館研究として、少し詳細な記録を調べておきたいと思ったのです。このことはいずれ書くことにいたします。予告ばかり?と言われそうですが、お許し下さい。
沖縄行きのあと一つの目的は、一昨年から山城千秋さんなどと動いている「沖縄青年運動史研究」としての証言聞き書き活動です。中頭を中心に、復帰運動等に関わった当時の活動家層に会ってきました。すでに年齢的には長老なのに、皆さん忙しく、当方の訪問日程となかなか合致しません。さきほど山城さんからメール来信(有り難う!)、平田嗣功さん(沖縄県青年館理事長)が会ってくださるとのこと、どうぞよろしくお願いして下さい。2月12日(月)ご指定の時間(午後2時あたり)に参上しますと。当日は休日ですが、会館は大丈夫でしょうか。念のため、平田嗣功さんのケイタイを教えておいて下さい。
なお、13日(火)は夕刻から夜にかけて、山内徳信さん(元読谷村長、県収入役)にお会いできそうです。
1786号【2007年2月3日】
★<節分の青い鬼>
今年は記録的な暖冬、地球規模での異常な温暖化の様相が報じられています。オホーツクの流氷も姿を現さず、北国のスキー場も雪祭りも雪不足。豪雪地帯は楽な越冬なのでしょうが、桜がほころろぶとか、ヒマワリが咲いた、などのニュースは気になります。
さきほど(2日夕)東京のテレビは「花粉が飛び始めました」と。やはり異常なのだ。嫌な季節の到来です。花粉と聞いただけで鼻がむずむず。抗ヒスタミンの薬を飲み始めることにします。これからしばらくは不機嫌な「風」が吹くことになります。
新年会で久しぶりに会った小峯みずきさん(和光大・小林プロゼミ卒)から、お見舞いのようなメールが届きました。学童の子どもたちの節分行事にお面をたくさん作ったそうです。写真も。
「…いま私は、“張り子”がマイブームです。乾燥の気候も手伝って、とにかく今がいちばん制作日和です。とりあえず私の作品“張り子の鬼の面”写真添付でちょっと自慢したい気分。まあ、見てやってくださいませ。張り子を本職にしたいとまで思います。その夢はいつまで持ち続けていけるものでしょうか…」
(Thu, 1 Feb 2007 20:49)
「南の風」は添付しない原則なので、写真のご紹介は省略。張り子の青鬼のお面、なかなかいい出来映え、ホームページに載せます。
1785号【2007年2月1日】
★<春節の楽しみ>
かっての研究室では、アジアからの留学生が多く、春節になると餃子をつくったりして、楽しい集いを企画したものです。研究室のゼミ机はこの日、白い粉にまみれ、すぐに白い酒の香がひろがって・・・、水餃子に舌鼓み。餃子作りは力量差が大きく、上海人はほとんどダメ、北京人の方がうまい。とくに韓民(中国教育部)の餃子は絶品でした。
昨年の旧正月はたしか1月29日、堀尾正靱・磯守両氏(東京農工大学)と御塚夫妻に来ていただいて、楽しく飲んだことを思い出しました。餃子はなかったけれど、新春放談の趣き、いい気分でした。
今年(2月18日)はたまたま呉遵民さんの来日歓迎の日と重なります。上海教育出版社・袁編集長もこの日に合わせて来日準備中とか。風1782号「ご案内」に応えて、すでに15人前後の申し込み。ロゴスキーの予約室にうまく入りきれるか、心配になってきたところです。呉さんの日程変更がないことを祈っています。
呉メールによれば、靖国神社に関心ありとのこと。これまで中国からの訪問者は「靖国神社だけは行きません!」と固辞(たとえば2002年7月の上海成人教育訪日団など)されてきた経緯あり、印象深く読みました。2月18日午後のエクスカーションは、TOAFAEC
遠藤輝喜さんが車で対応する用意があるそうです。
1784号【2007年1月30日】
★<日本公民館学会の5年>
この5年余、日本公民館学会の創設に加わり、その活動に参加してきました。助走期間が1年余り、正式の学会発足は2003年5月。東京−東京−埼玉−松本−川崎、と5回の研究大会が開催され、『公民館・コミュニティ施設ハンドブック』刊行、あるいは「公民館60周年」集い開催(昨年7月)など、まずまずのスタートをきることができたのではないかと思っています。昨年12月の川崎・研究大会の機会に、会長を交代(新会長・小池源吾氏−広島大学)することになりました。この間の関係各位のご協力、特に故奥田泰弘さん(事務局長)のご労苦をしみじみ思いおこし、月並みの表現ですが、皆様に心からの感謝と御礼を申しあげます。
新しい学会の創設というのは、たいへんですが、やはり貴重な(めったに味わえない)体験となりました。若い学会なので、格式ある学会とは違う、自由闊達な議論と清新な運営を心がけてきたつもりです。
27日夜、前会長ご苦労さん!というわけで「慰労会」を開いていただきました。毎月の学会理事会のあと、必ず寄った神田神保町のドイツビールの店(放心亭)、すこし飲み過ぎました。慰労されることなど冥利につきる思い。思いがけなく花束まで。有り難うございました。
皆さんから「隠遁しないように」とか「今後とも・・・」など励ましの言葉をいただきましたが、「年をとると丸くなるのが普通なのに・・・」との意見も。たしかに年令“不相応”に若気あり、自分でも困ることがあります。自戒して参りましょう。今後ともどうぞよろしくお願いします。
1783号【2007年1月28日】
★<TOAFAEC 「将来イメージ」>
26日夜の1月定例会「韓国・平生学習研究をどう進めるか」は、これまでの研究会の歩みのなかでも記憶にのこる印象的なひとときとなりました。昨年秋に刊行の『韓国の社会教育・生涯学習』編集にたずさわった4人が、それぞれにレジメを用意して、これからの方向を出しあいました。あらためて「韓国・平生学習・研究フオーラム」(仮称)をスタートさせることに。2月にその第1回を開こうという方向です。
なかでも小田切督剛さんのレジメはA4版で8ページ。一晩かかっても論じつくせない内容。論点のポイントはもちろん韓国平生学習研究の進め方について、関連して、TOAFAEC
のこれからの「将来イメージ」がイラスト入りで提示されています。
韓国研究が、東アジアにおける地域研究のモデルであり試金石となるような方向性、ゆるやかな部会を形成し、台湾をふくむ中国、モンゴル、ベトナム、そして沖縄などそれぞれの地域研究が響きあって、TOAFAECの体制強化につながるような「長期的課題」も。
沖縄研究(1976年〜)から東アジア研究に視野を拡げて歩んできたTOAFAEC (1995年〜)。あれからすでに10年を越えました。大学・研究室の専門研究者の支えだけでなく、いま自治体・市民の実践活動サイトから、TOAFAEC 「将来イメージ」が画かれる時代の到来、その意味でも印象的な一夜でした。
1782号【2007年1月26日】
★<杉並・安井家訪問調査 >
昨夜25日は、今年最初の「原水禁運動(安井家)資料研究会」でした。東京杉並(荻窪)の安井家を訪問し、資料整理・調査活動が始まったのは2005年1月、早いもので、2年が経過したことになります。この間、毎月1回の定例会(学習会を含む)が継続されてきました。この日で通算29回目(ホームページに案内)。
参加メンバーは、発足当初から振り返ってみると、多少の出入り?があるものの中心メンバーは変らず。竹峰誠一郎、石川敬史、丸浜江里子、江頭晃子、それに安井節子の皆さんとぶんじん。20代は別にして30代から70代まで各世代からの参加。若い世代を代表していた稲富和美さんはいま奈良に職を得て、毎月の定例会には参加できず。これに先回(昨年12月)から、岩本陽児、古市直子夫妻が加わっていただき賑やかになりました。
作業は遅々として進まず、しかしゆっくりと継続されてきました。1時半から5時頃まで、途中で安井節子さん心づくしのお茶の時間。終ったあとは、荻窪駅前でしばしビールのひととき。折々にいろんな話をしてきました。この作業からなにが生まれてくるのか。
もちろん安井家資料の掘り起こしが第一の課題ですが、それを通していろんな成果が顔を出してくるに違いないと思っています。ぶんじんは、正月の初夢にも出てきた「市民運動資料のデータベース化」と「戦後初期社会教育資料の発掘と全国ネットづくり」への構想を温めているところ。「平塚らいちょう賞」を受賞された丸浜さんは、安井家資料研究を核にして「なぜ杉並に原水禁運動が拡がったのか−社会教育と女性に注目して」論文がまとめられました。まだ拝見していませんが、力作!間違いなし。TOAFAEC
研究会にもご紹介いただきたいとお願いして別れました(3月予定)。
本日26日は、TOAFAEC 本年第1回の定例研究会「韓国研究をどう進めるか」についての語り合いです。皆さま、お出かけ下さい。
▼安井家にて(2006年12月定例訪問調査、江頭晃子さん撮影)
1781号【2007年1月24日】
★<岡山からの便り、「自治公民館・小地域」分科会 >
岡山・美若忠生さんから久しぶりのメール。もともとは社会教育研究全国集会(社全協主催)「自治公民館・小地域学習活動と地域づくり」分科会世話人(ぶんじんもその一人)宛に送られてきたものですが、ご了解を得て「南の風」に掲載させていただきました。
あまり仰々しく取りあげるのは、ご本人としてお好きでないかも知れませんが、上掲の近況報告(略)に続く動きも寄せられましたので、あわせて紹介させていただきます。
「… 今日23日、町長・助役が出席して、公民館の補助職員の廃止=支所的業務の取扱い廃止について、地区長(自治会長)への説明と協議がありました。たくさんのすばらしい意見が出され、助役から「町の提案は受け入れられなかったというということで持ち帰りたい」と発言があって終わりました。
羽出地区から多くの発言があり、地域における公民館の役割を自治会長なりに理解してもらっていることをうれしく思いました。
… おじいさん・おばあさんの公民館への期待にはすごいものがあります。暮らしを支える公民館への期待です。補助職員廃止・次期館長候補推薦問題を通じて、羽出公民館の到達地点もおぼろげながらわかったことが大きな収穫でした。」(Wed,
24 Jan 2007 00:04)
全国集会の「自治公民館・小地域」分科会は、2002年・沖縄名護集会を契機に胎動したものです。沖縄独自の「字(あざ)公民館」活動に刺激されるものがありました。それから5年が経過。昨年(箱根集会)は、分科会の中心だった美若さんが体調をこわされ、やや失速気味の分科会となりましたが、今年は体制を整え(横浜の伊東秀明さんが幹事役)、新たな取り組みが始まっています。美若さんもすっかり恢復されて何より。沖縄風に言えば「おじい・おばあ」の期待に応えて、さらに継続して活躍されることになるのでしょうか。
1780号【2007年1月22日】
★<出会い系サイトとの闘い >
毎日、殺到してくる迷惑メールと闘っています。メールボックスを開くたびに不愉快。その氾濫のなかで、南の風に収録すべきファイルを一緒に削除してしまう失敗も幾たびか。
メールアドレスを新規に変えることも考えてみましたが、風も乱気流となるおそれあり、とくにホームページとの関連があって、現アドレスを維持して闘うしかないと意を決しています。「迷惑メール」への振り分けサービスで分かったことですが、内外合わせて約50本ぐらいとの対決。
HPには「TOAFAEC 掲示版」を用意しています。ある朝、出会い系のメッセージだけでなく、淫靡な裸体が張り付く始末。直ちに削除。しかし繰り返しの乱入!時代の乱れを思わせる悪行ぶりです。
まず「掲示板」の表示をとり、「TOAFAEC へ」などとして、トップページ上の位置を移すなど虚々実々のやりとり。敵もさるもの、それでも追っかけてきて、朝開いてみると、見るもあざやかなカラー画像!
というわけで、別のページに隠していました。約2ヶ月、さすがにこの間は被害なく、逆に書き込みができない「伝言板」を工夫するなど思わぬ副産物も(ご覧下さい!)。
しかし「掲示板」本来の公開性も失われてしまいます。思わぬ方からのメッセージも届くのです。一段落したところで、昨日そっと、HPトップページ(表紙)に戻しておきました。さて、また新しい闘いが始まるかどうか。迷惑メールを圧倒するメッセージをお寄せ下さい。
1779号【2007年1月20日】
★<15日の新聞−夜間中学とマーシャル諸島のヒバクシャ>
年頭の本欄で書いたように、夜間中学運動がいま活発。年末・年始に相次いでメールを寄せられたのは、夜間中学の関本保孝さん(世田谷・三宿中学夜間学級、全国夜間中学校研究会)。本号に収録した「不就学日系ブラジル人」についての状況など興味深いものがあります。
夜間中学の拡充等を強く求めている『よっかいち宣言』(昨年11月21日)のことなど知りませんでした。日系ブラジル人を多く抱える外国人集住都市会議(21都市)による2001「浜松宣言」や2004「豊田宣言」を引き継いで多文化共生社会へ向けての積極的な提言。社会教育の運動でも、こんな提言・宣言づくり活動にもっと果敢に取り組んではどうか、と思いました。30〜40年前の「テーゼ」の回想にふけるだけでなく。
関本さんも触れているように、1月15日の毎日新聞「教育の森」は「公立夜間中学」問題を大きく取りあげています。川口や北九州の自主夜間中等の運動についても。
同じ1月15日、東京新聞は「南の風」にときどき登場する竹峰誠一郎さん(早稲田大学・院、原水禁運動−安井家−資料研究会)の研究を詳細に紹介しています。マーシャル諸島のヒバクシャ問題について、両面見開きの記事。「米核実験から半世紀、補償進まぬマーシャル諸島」「生活ムリ、安住の地は?」「住民置き去り、援助先細り」「米相手に訴訟相次ぐ」などの見出し。写真・地図、そして顔写真も。驚きました。竹峰さんからは、その全文が送られてきましたが、長文のため、記事の最後の部分のみ。
「…竹峰さんは訴える。核実験をやめれば、それで済むわけではない。ビキニの住民は故郷に帰れないし、裁判もこれが最後だろう。押しつけてきた核の遺産に、どう向き合うのかが問われている」と。
1778号【2007年1月18日】
★<1月17日−あれから12年>
阪神大震災から12年、東京は朝から小雨、終日どんよりとして雪になってもよさそうな冷たい1日でした。あの年あの日のことを思い出しています。あの年、ぶんじんは永く勤めた大学の定年退職の年でした。あの日はたしか火曜日、地震ニュースを聞きながら、教員として“まとめ”の講義をしたような記憶。
この日、たまたま全国公民館連合会から『公民館における災害対策ハンドブック−』(2006年12月、B5版
150頁)が送られてきました。副題として「避難所のよりよい運営のために」を掲げ、公民館の避難所機能を強く意識した構成となっています。
全公連はこの1両年、公民館災害対策調査研究に取り組んできたとのこと(「はじめに」)。防災学習や災害への備え、災害対応マニュアルなど「日常の防災活動」(第1部)だけでなく、「避難所としての対応マニュアル」(第2部)が主要な内容。「避難所運営の実際」として26項目。また地震だけでなく、風水害、土砂災害、火山噴火、津波にも言及あり、各種参考様式、関連事例・資料等も収録されています。
あの翌年(1996年)、社会教育施設は大地震にどう対応したのか、その役割や課題について、神戸や西宮に出かけて証言を聞いたことがあります(杉並区社会教育委員の会議)。神戸の場合、避難所として学校が大きな比重をもったのに対して、西宮では公民館が、その地域配置、生活的な施設空間、住民ネットワーク等の特徴をもって、独自の役割を果たした証言を印象深く記憶しています。
1777号【2007年1月16日】
★<2月の春節−先客万来>
上海の呉遵民さん(華東師範大学)から、2月訪日の予定が届きました。横浜の滞在は1週間。毎日忙しいようですが、そのなかで2月18日が自由らしい。この日は、たまたま春節(旧正月)で日曜日。呉遵民さんたち(院生一人同行)の来日を歓迎し、日中の研究交流について歓談、あわせて春節を祝う会、を開きたいと思います。TOAFAEC
2月定例(第126回)研究会も兼ねることにしては如何でしょうか。
同じ頃に、上海教育出版社・編集長の袁正守さんが東京訪問の予定です。まだビザがおりず、スケジュールは確定していないとか。うまく日程が合って、18日に一緒にお出でいただければ、2007春節にふさわしい、願ってもない集いになります。2003年に同社から刊行された『現代社区教育の展望』につづく姉妹編『現代生涯学習論―学習社会構築への架橋』(近刊、いずれも呉遵民、末本誠、小林の共編著)出版へ向けての前祝い、そして翻訳・編集・校正等に苦労した呉遵民さんや黄丹青さんなど、みんなの慰労会にもなりましょう。
春節はアジアのお正月!会場もいつもの高井戸ではなく、どこか別のところ(たとえば渋谷あたり)を考えて、いずれ「風」でご案内することにいたします。
年賀状によれば、島袋正敏さん(名護市もと博物館長、図書館長、現在は山原島酒之会々長)が同じく春節前後に上京予定。聞いてみたところ、この秋に計画されている「スペイン酒の文化交流の旅」について大使館へ情報収集などの用件だそうです。この機会に、ぜひ“風の部屋”に泊まっていただき、愛蔵の古酒カメの「仕次ぎ」をお願いしました。「やりましょう」とのご返事。島酒之会事務局長の仲宗根禎さん(名護市教育委員会)も同行されるそうです。
そしてこの時期、花粉症も顔を出すことでしょう。先客万来!
1776号【2007年1月14日】
★<今年も順調にスタート>
13日の新年会ご出席の皆さん、お疲れさまでした。夜(だけ)の参加者まで加えると、45名前後の方々、有り難うございました。
とくに新潟魚沼の森山一家、岩手北上からの片方(旧姓・木下)親子など、遠路はるばるとお出でいただきました。常連の顔もあれば、久しぶりの、また初めての登場もあり、賑やかな1日となりました。とくにモンゴル留学生からの馬頭琴演奏は錦上に花を添えるかたち。
新年会締めの三三七拍子は(八朔君にかわって)久しぶりの磯守さん(東京農工大学)が音頭をとり無事終了。夜の二次会も心づくしの料理が並び、楽しく飲んで、ほぼ10時にはお開きとなりました。準備にあたって頂いた遠藤輝喜さんや江頭晃子さんなど、ご苦労さまでした。新年会が盛会裡に終わって、ようやく今年も順調にスタートした感じです。
この数日で、1月定例研究会のプログラムが確定。1月26日、「これからの韓国研究をどうすすめていくか」、話題提供は伊藤長和さんなど川崎グループ(HPに掲載)。また、2月に予定している沖縄訪問の日程も決まりました。8日の出発、9〜11日竹富島調査、12〜13日は本島に帰って戦後青年運動史の証言収集、というスケジュール。
実質わずか2日間ですが、はじめて(今まで日帰りの)竹富島に泊まって、シマの公民館の歩み、集落づくり、竹富島憲章のこと、そして新しい「NPO
たきどぅん」としての取り組みなど、関係の方々のお話を聞きたいと思っています。主要な方々にお会いしたいと、前本多美子さんにお願いしているとこと。もし同行希望の方があれば、ご一報下さい。
1775号【2007年1月12日】
★<明日は新年会>
1月13日(土)午後から夜まで、恒例の新年会です。皆さん、ご都合をつけてお出かけ下さい。昨年までのレストランが閉店して、今年は会場が変わり、近くの「トライアングル」(tel:03-3325-9874)という店。京王・井の頭線「西永福」下車、徒歩4分ぐらい。ホームページの案内をご覧下さい。
正確な記憶はうすれてしまいましたが、この永福・新年会、おそらく1985年前後から始まり、在外研究で日本を離れていた87年1月をのぞいて、この20年余、毎年1月15日前後に開いてきました。午後のはじめの時間帯は子どもづれ、だんだんと飲兵衛がやってきて、陽が落ちるころから本格的な飲み会に。夜が更けるにしたがって酔っぱらいが多くなり、終わるのがたいへん!
参加者は平均50〜60名(延べ人数)。最初は自宅(といってもせまいマンション)でしたから、押し合いへしあいの有様。今となっては懐かしい思い出ですが、疲労困憊の末、近くの店に場を移したという経過です。最近は人数も30〜35名程度と落ち着き、5時には閉会のかたちになりました。ふるさときゃらばんの八朔友二(今年は沖縄公演で不参とのこと)による三三七拍子でお開きとなる習わし。
ところが、近くの店にしたのが失敗?去り難く別れ難い飲兵衛たちは5時以降、ぞろぞろと“風の部屋”へ。(遠い店にすればよかった!)
昼の都合がつかず、夜の部だけにやってくる人もいます。風の部屋は転じて“酒の部屋”へ。相変わらず、賑やかな酒の夜が更けていくのです。今年は「皆さん、お手を拝借!」役の八朔君がいない、うまく9時(予定)に終わるかしら。
▼昨年の八朔友二(中央)「三三七拍子」(20060115) 写真撤収
1774号【2007年1月10日】
★<八重山の新聞 >
はるか南(八重山)の島々は,3自治体(石垣市、竹富町、与那国町)合わせても、人口わずか5万弱。そこに二つの新聞(八重山毎日新聞、八重山日報)が発行されています。加えて沖縄本島中心の2誌(琉球新報、沖縄タイムス)も読まれている。本土誌はほとんど見かけない。
いま東京の自宅から、毎日いながらにして、これら新聞の主要記事を読むことができます。インターネットの効用!時間があれば南の新聞を開くことに。集落などの小さな記事が面白いのです。
ちなみに東京は、大新聞が跳梁?して地域や住民の小さな動きはほとんど報じられない。かって、三多摩(人口約400万)に1誌でいいから地域新聞(Local
paper)を発行できないものかと模索したことがありました。たとえば社会教育で活躍してきた人々が、そのネットワークを活かして、誌面をつくる発想。経営や発行の体制も整えて・・・などと議論しましたが、やはり簡単なことではない。それだけに小さな島々に地域新聞が活発に動いて、その紙面から、思いのこもった記事を発見したときは、感激ものです!
最近、八重山の新聞で目を引くのは、竹富島(3集落、人口361人、戸数165)についての記事。本号所収の八重山毎日新聞記事「竹富島の新年」がその良い例です。NHK「ゆく年くる年」も竹富から実況しました。離島なのに、この15年連続して人口は増えている、観光も伸び、修学旅行も入るようになりつつある。その背景には、竹富島の地域づくりの蓄積(「竹富島憲章」に象徴される)があり、竹富公民館(字公民館)の役割が大きい。昨年の最終号本欄でも書いた通りです。
TOAFAEC ホームページに「竹富島憲章」をアップしました(お正月休みの作業)。本年最初の「1月スケジュール」サイトには、竹富島の赤瓦とシーサーの画像(昨年11月、水牛車から撮影)をかざってみました。2月あたりに数日(今までいつも日帰りの)竹富島に泊まりたいと画策
中。どなたか一緒に行きませんか?
いま「風」には、新しくご参加の西山正子さん(茅ヶ崎市)や張林新さん(山東省烟台市)「広州報告」メールが届いていますが、本号も長くなりましたので、次号おくりとさせていただきます。
▼竹富島風景(20061121)
1773号【2007年1月8日】
★<“棟方志功”を観る>
1月7日の日誌。
近藤恵美子さんから長いメールを頂きました。私信扱いご希望のようなので、全国夜間中学校研究大会資料についての、終わりの部分のみ掲載。夜中「研究大会資料」は、私の手もとには残部がありません。南の風1771号でご案内した夜間中学HPにて直接申し込んで下さい。すでに「残部僅少」だそうです。
7日午後は、東京芸術劇場「わらび座」を観に行きました。棟方志功夫妻の主役(安達和平、阿倍佐和子)にからんで、10人ほどの出演者(気まぐれ合唱隊)の一人、浪花亜希子さん(和光大学卒)はその声ですぐ分かりました。躍動的な演技と合唱。まったく別人のような役者ぶり、驚きました。この合唱隊は、志功夫妻をとりまくあらゆる人々を演じるのです。柳宗悦、浜田庄司なども登場し、家族、隣人、駅員、知人、大人から子どもまで、何役も。志功夫妻の舞台上の着替えや道具転換もこなし、いわば「アンサンブルによる狂言回し」なのです。
浪花亜希子さんは、ぶんじんの和光大学時代の最初の学生。君津の社会教育などを卒論テーマに取りあげ、国内研修で三多摩にやってきた松本の皆さん(村田正幸さんなど)と出会い、その誘いにのって、一時は、松本市中央公民館の嘱託職員をしていたこともあります。わらび座「棟方志功」を楽しみながら、人間の生き方の躍動、その“発達”をしみじみ実感しました。
終わって立川へ。ちょっとだけでも顔を出そう、枯れ木も山の賑わいだ、とばかり、NPOアンティ多摩の新年会にまわりました。そこで奇しくも(考えてみれば当然のこと)和光ゼミで浪花さんと一緒だった竹中薫さんと再会。ビール・ワインで乾杯。
帰宅したら、沖縄公演で那覇入りしたばかりの「ふるさと・きゃらばん」八朔友二から電話あり。公演でTOAFAEC
新年会(13日)には来れないとのこと。名護「大国林道」で飲むようにと紹介しておきました。まだ、お正月が続いているような気分。
▼浪花亜希子さん(わらび座)
1772号【2007年1月6日】
★<わらび座とふるさときゃらばん>
お正月のお休みは、各地からの年賀状が届けられ(有り難うございます!)、思いがけない電話をいただいたり・・・やはりお目出たい気分。とくに何もしていないのに、あっという間に松の内が終わろうとしています。今年は、幼い孫たちと初めてトランプに興じました。
年賀状はいろんな新しい動きを伝えてくれます。たとえば、「昨年は“棟方志功”で久しぶりに全国の皆様にお会いでき、本当に幸せな感激の1年でした。・・・皆様から頂いたパワーで少しでも前に進んで感動を届けられるよう頑張ります」と。わらび座の浪花亜希子さん(和光大学・小林ゼミ卒)からの墨書きの賀状。正月には東京芸術劇場での公演(5日〜8日)、ご本人も出演するらしい。せっかくのお誘いだ。別にご案内いただいているアンテイ多摩の懇談会・新年会と重なりますが、7日は“棟方志功”の浪花さんに会いに行くことにしました。江頭晃子さん、ご了承ください。
“ふるさと・きゃらばん”の天城美枝さんの賀状。「今年は新作“地震カミナリ火事オヤジ”中心の1年になります」とのこと。そういえば朝日新聞5日夕刊「窓」が、「消防団ミュージカル」「風神平(ふうじんだいら)消防団に集う人々のドラマ」のことを書いています。
“ふるきゃら”の公演スケジュールを調べてみたら、なんと1月13日から2月2日までは沖縄公演(“沖縄みちぶしん”13ヶ所の公演)。宮古や石垣にも飛ぶようです。名護の公演は、1月14日。“ふるきゃら”と名護の皆さんと一緒に、「大国林道」あたりで飲みたいところですが、気付くのが遅かった。
1771号【2007年1月4日】
★<夜間中学の運動>
全国夜間中学校研究大会は、昨年12月に東京で開かれた大会で第52回を迎え、充実した大会資料が作成されました。毎年そうですが、今回はとくに日本弁護士連合会「学齢期に修学することのできなかった人々の教育を受ける権利の保障に関する意見書」(2006年8月10日)が提出されたことがあり、活気あふれる内容となっています(B5版 260頁)。いまだとまだ入手できる? 「南の風」でも数回にわたり、全夜中大会や資料の申し込みを報じてきました(風1750号、1752号など)。*第52回全国夜間中学校研究大会ホームページ
→ http://zenyachu.sakura.ne.jp/52nd/index.htm
ぶんじんの「社会教育基礎論」「生涯学習論」では、1970年代後半より毎年必ず「夜間中学」について特別講師(見城慶和さんや関本保孝さん)を招いたり、ゼミで取りあげ、見学会を催したり、などしてきました。夜間中学の運動は、基礎教育・識字問題への実践であり、すべての人の学習権保障の運動という意味で、社会教育のテーマと深く関わるからです。
風・前号に紹介した藤掛紳一さん(川口養護学校、埼玉に夜間中学をつくる会)も、東京学芸大学「社会教育基礎論」で見城慶和さんの特別講義を聞いたのがきっかけ。「夜間中学との出会いが、私には大きな刺激になり、それが30年も続いています!」との年賀状をしみじみと読みました。
1770号【2007年1月2日】
★<初夢ひとつ >
厳しい時代状況のなか、新しい年が静かに始まりました。今年もどうぞよろしくお願いいたします。いよいよラスト・ランの「南の風」、まだゴール・テープは見えませんが、あとしばらくのお付き合いを。
各地から新年ご挨拶のメールをいただき、有り難うございました。風の新年号(1770号)には、その幾つかをご紹介いたしました。1月1日には年賀状もたくさん。その中から(南の風メンバーではありませんが)二つほど採録。ぶんじんの年賀状(1月1日に投函)は遅れて配達されます。お許し下さい。
除夜の鐘を聞きながら、ホームページ表紙を新年風に更新。年賀状書きの作業よりも優先して、写真なども新しいものに。1日朝起きて「初夢ひとつ」を書き添えました。以下の通り(表紙「伝言板U」)。
「2年前から始まった原水禁運動(安井家)資料研究会の取り組みを一つのステップにして、戦後初期の社会教育・公民館に関する稀少資料(各地の「文庫」)のデーターベース化と、その全国ネットづくりを構想しています。関心ある方々のご参加をぜひ!」と。
虚像の夢を、うまく実像化することができるかどうか。いずれそのうちに、この夢の構想について、すこし具体的に書くことにします。
1769号【2006年12月30日】
★<風の積み残し>
新しい年を前にして、年賀状の作業が遅れています。今年中の「風」になんとか載せておきたかった話題も幾つかありますが、やはり積み残しに。一つは11月の沖縄訪問の機会に渡った竹富島のこと。それから12月の中国訪問の際に見聞した広州「民工学校」のことなど。「民工」とは出稼ぎ労働者のこと。広州では「外来工学校」と呼んでいるようです。
竹富島については、本欄に「…あらためて竹富島憲章への取り組みと、竹富公民館の役割を思いました」などと書いていますが(1751号、11月23日)、同「憲章」を含めて、来年早々にも紹介することにしましょう。幸いに、竹富島在住の前本多美子さん(東京学芸大学・小林ゼミ卒)に「南の風」が届くようになりましたから、分からないところは聞くことにして・・・。
広州については、同・小林ゼミ最後の卒業生(閉門弟子)の李偉成さん(広州市教育局研究所)が朝日新聞に取りあげられた経過もあります(2006年11月21日、週間アジア・広州→
■)。この日ちょうど、私たちが竹富島を訪問し、名護にたどりついた日。実は11月21日はぶんじんの誕生日でした。名護「大国林道」の集いでお祝いの乾杯をしていただき、泡盛の席にケーキが並んで、大感激の一幕(HPに写真)。
というわけで、楽しく浮かれて、この朝日記事に気づきませんでした。広州で李偉成くんに再会し、コピーを頂いて、はじめて読んだような始末。申しわけない。社会格差の増大、教育の商業主義化、公教育の不均等への悩みが切々と吐露されています。これと同じ線上に「民工学校」の問題もあるのです。広州市は公立学校数2200校、民工学校数はなんと1200校もあると聞きました。詳しい報告は、いずれ別の機会に。
今年もいよいよ大晦日。騒々しい「風」に辛抱強くお付き合いくださって有り難うございました。皆さま、良いお年を。
▼せまい教室にぎっしり、民工学校の子どもたち(広州市・鉱泉中学に併設、20061214)
1768号【2006年12月28日】
★<福岡−佐賀−東京>
12月26日は那覇から福岡へ。27日夜に東京へ。今年の旅の終わり。
6年ほど前までは、年末のこの時期には東京から福岡に帰省して、正月を過ごす習わし。そして恒例の「油山」新年会に皆さんが集まってきたものでした。しかし、幼い孫たちが生まれて、正月は東京で・・・ということになってしまった。年末に故郷・福岡を離れるというのは、妙なものです。落ち着かない気分で、羽田(異郷!東京)に着きました。
福岡では、農中茂徳・至のお二人に迎えていただきました。さて、どこで九州の魚を食べるか。思い立って、上野景三さんに電話、佐賀に車を飛ばして食事をすることに。筑前国から肥前国へ三瀬峠(トンネル)を越えて南下。昔の佐賀イメージからは想像もできない立派な料理屋で美味しい刺身を頂きました。
佐賀平野は、はるか50年前、大学院時代に初めて農村調査(当時の関心は農村社会学)に加わり、はるばると通ったところです。農村の暮らしも、院生の生活も、みんな貧しかったあの頃。あえぎあえぎ動いていた小さなバス。いまその道を快適に談笑しながらの車の旅。ひとときの回想。
いま福岡在住の白井(樋口)知子さん(もとエイデル研究所)とも会い、帰りの板付空港では、すぐ近くに住んでいる森山沾一さん(福岡県立大学)を呼び出してビール。皆さんにご迷惑をかけました。農中のお二人、お疲れさま、有り難うございました。
一つだけ忘れもの。福岡の八百屋で、雑煮のカツオ菜や正月飾りのダイダイなど買ってくる約束をすっかり失念していました。旅にはいつも失せ物・忘れ物があるものだ、と弁解しても、あとの祭り。
1767号【2006年12月26日】
★<那覇の年の瀬>
今年も残り少なくなりました。那覇の年の瀬を楽しんでいます。ホテルに帰ってパソコンをのぞいてみると、南の島にいながらにして、北からも、いろんなメールが飛び込んできます。モンゴルの旅につながる話や馬頭琴の忘年会のことなども。
一つは8月下旬、内モンゴル旅行にご一緒にした井上孝代先生(明治学院大学)の「信濃毎日新聞」コラム記事。伊藤武彦さん(和光大学)から送っていただきました。追っかけるようにご本人からも。「内モンゴルの見渡す限りの草原」によせる印象的な一文。
あと一つは、22日の今年最後のTOAFAEC 定例研究会の報告。モンゴルの草原で聞いた馬頭琴の響きが、私たちの研究会・忘年会でよみがえりました。広い草原を、どこまでも吹きわたる風のささやきにも似て、むせぶような旋律が脳裏から離れません。セーンジャーはじめ、トクタホなどモンゴルの皆さん、ありがとう!
12月24日のクリスマス・イブ、外間知明さん(前沖縄青年会館理事長)からの聞き書きを終えた夜、那覇・久茂地で、山城千秋さんとゆっくり飲みました。ご存知の方も多い「苗」が日曜であいにく休み、やむなく近くの店で。妙齢の「みやらび」と二人で飲むビール、宮古島のシマ酒「菊の露」も、ことさらの味わい。
25日は(東武さんからお誘いの電話もかかってきましたが)まったくの休日にしました。那覇の市場の横丁をぶらぶら一人歩き。まだあたたかいサンターアンダギーを頬張りながら、今年の仕事はこれで終わりにしよう、とつぶやいて・・・充実感と開放感。26日は福岡へ。
*いま那覇のNHK・TV(総合)では、沖縄在来の黒豚と島袋正敏さんが登場しています。
▼外間知明氏
1766号【2006年12月24日】
★<30年目の研究会・忘年会 >
12月22日はTOAFAEC(東京・沖縄・東アジア社会教育研究会)の第124回研究会、そして待望の忘年会。思い出に残る楽しい夜でした。
TOAFAEC の前身は「沖縄社会教育研究会」(東京学芸大学社会教育研究室、1776年創立)、通算すれば今年はちょうど30年の歳月を重ねた年となります。その当時の若者(団塊の世代)も今や定年を間近にし、壮年だった小生(昭和一ケタ世代)も隠遁を目前にしています。
よく続いてきたものです。いろんな人が研究会を通り過ぎていきました。いま“東アジア”の視点を軸にして、さらにいろんな出会いが続いています。それらが単なる過去の回想に終わらないために、HPでも記録を復元しているところ。この夜は、大げさにいえば、30年の忘年会のような気分で飲みました。
ゲストは上原信夫氏、「東アジアを駆け抜けた」稀有の人生を歩まれた証言は聞く人を圧倒します。この夜はシリーズの一区切りとして総括的な話を伺う予定でしたが、「密航」の話から始まり、1950年〜1951年(沖縄→大阪→沖縄→シンガポール<英国海軍により逮捕され>→香港<脱出>→広州へ)の1年で時間切れ、忘年会場(イーストビレッジ)へ移動することに。内容はいずれ報告されましょう。HPにも写真とともに上原信夫サイトをアップ。
忘年会には,いま注目の馬頭琴奏者・賽音吉雅(Senjiya)が来てくれました。トクタホの配慮によるもの。小さなレストランに馬頭琴が響き、ギターの合奏も加わって、来年への思いも新たに。
センジヤから頂いた出来たての馬頭琴CDを終夜聞きながら、再び旅装を整え、今日(23日)は那覇に来ています。明日は山城千秋さんと沖縄青年運動史についての調査(外間知明氏など)。今年は贅沢な年末となりました。
なお台湾・高雄の陳東園さんからクリスマス・メールが着信、しかし文字化けで読めず。添付のロゴ(カード)はたくさん!有り難う!
▼賽音吉雅(Senjiya)氏
1765号【2006年12月22日】
★<研究年報第11号から12号編集へ>
今回の中国訪問に関しては、記録しておきたいことがいろいろありますが(たとえば烟台職業学院、広州「民工学校」、上海閘北区行健職業学院など)、次の機会にして、私たちの年報「東アジア社会教育研究」について、いくつかの経過報告をしておきます。
まず9月に刊行できた第11号を中国各地(華北−韓民、華東−呉遵民、袁允偉、華南−李偉成)の編集委員と「ぶんじん図書室」(上海)に手渡しで届けたこと。あわせて来年予定の第
12号に向けての編集活動の始動。12号については、北京・韓民とは会って相談することができませんでしたが、広州・李偉成(広州市の「民工学校」の動き)と上海・呉遵民(閘北区の社区教育活動のその後の展開)のお二人とは、来年7月締切りの原稿依頼(日本語入稿)をいたしました。具体的な執筆者名や枚数についてはいずれ・・・。
また11号積み残しのベトナム・ダーオ女史(ベトナム公民館の母)報告や沖縄・仲宗根悟証言があり、11月の竹富島訪問の際に「竹富島憲章」関連のレポートをぜひ収録したいとお願いしてきました。
そして、大きな課題は韓国「平生学習」についてのこの1年、私たちの韓国本出版後の新しい動向をどう盛り込むか。22日の第124回研究会で、川崎グループと相談を始めたかったのですが、伊藤長和さんが出席できず(風・前号)、次の課題となりました。韓国テーマに関しては、名古屋に赴任された李正連さんや、福島の浅野かおるさんなどのお力もお願いしたいところ。1〜2月にいい機会をつくれないでしょうか?
なお第12号の編集担当については、昨年の経過をふまえて内田純一さんから積極的な申し出があります。今のところ、11号から12号への流れもあり、ぶんじんが当面の推進役を担っていくことにしています。来年になって、この間の経過とこれからの体制について皆さんと相談の機会をもち、「南の風」上でもご報告したいと思っています。
というわけで、第12号へ向けての編集が動き始めていますので、ご意見やご希望を、まずは「ぶんじん」あて、お寄せ下さい。
1764号【2006年12月21日】
★<沖縄青年運動史調査>
中国から帰ってすぐだというのに、沖縄行き(12月23日〜26日)を予定しています。昨年に続いて、戦後沖縄の青年団運動史についての証言を収集する計画。
ちょうど1年前、仲宗根悟さん(もと沖縄青年団協議会事務局長、その後、祖国復帰協議会事務局長)の貴重なお話を聞くことが出来ました。山城千秋さんの努力ですでにテープ起こしが済んでいます。「東アジア社会教育研究」第11号に収録する予定でしたが、残念ながら締切に間に合わず。今年もそれに引き続く企画として、東武さん(復帰当時の沖青協会長)等にも相談、復帰前の関係者にお会いして、証言記録を残していこうというわけです。
しかし、この時期は忘年会の季節、1年納めの諸行事もあって、皆さんなかなかお忙しい様子です。すでに飛行機もホテルも予約していますし、ささやかな調査活動を継続していきたいという多少の意地もあって、(中止するのでなく)23日からの訪沖スケジュールを予定通り、と思っています。沖縄青年会館の沖青協・書庫をのぞいてみるのも楽しみ。帰路は福岡に寄って、油山へ。
今晩の伊藤長和さんメール(上記)によれば、同じ時期にやはり沖縄訪問とのこと。まったく偶然、ご一緒に那覇ででも飲めるかな?と嬉しくなりましたが、よく読むと、ご同伴で離島への楽しい旅らしい。お邪魔虫になってはならじ。今回の沖縄行きは、山城千秋さんにお任せすることにしましょう。
1763号【2006年12月19日】
★<上海の街から聞こえてくるもの>
前号に続く:12月15日の日誌(2)
中国訪問最終日。上海の夜の街を一人歩きしました。目抜き通りの一つ、淮海中路のある小綺麗なレストランで夕食。金曜日夜とあって、若者たちの賑やかな集い、カップルの楽しげな笑いなど、さんざめくひととき。やや疲れた老人が一人でビールと一椀で食事をするのは、すこし不似合いな若者たちの店でした。
クリスマスを前にして赤白のキャップをかぶったウエイトレスのお姐さんたちが、口をそろえて「歓迎光臨!」と言ってくれます。素朴な顔つき、田舎から来た少女たちのようです。注文をとりにきた一人に(旅の恥はかきすてて)不充分な中国語で聞いてみました。
「どこから来たの?あなたの出身はどこ?」
「ナンホイ」(と聞こえた)
「仕事はたいへんだね」
「・・・・」(答えず)
こんどは逆に質問されました。
「お客さんはどこから来たの?」
「日本だよ」
「日本はいい国ですか?」
「・・・・」(答えられず)
中国の大都市では(上海だけでなく)いま豊かな生活を謳歌する若者たちと、それに奉仕させられる内陸・農村出身の貧しい若者たちの、二重構造が見えるように思いました。都市の若者たちがぜいたくに食べちらかした席を、もくもくと片づける農村出の少女たち、そんな風景をみながら・・・。こちらの視線をうけて、さきほどのウエイトレスが、にこっと笑ってくれたのが救い。
街に出ると、喧噪のなか、どこからか笛の音が流れてきます。街角の物乞いの老人でした。おそらく田舎出身、貧相ながらしっかりした顔で、寒風の暗がりの道端に座って、ひたすら笛を吹いていました。その横には“中国の調和社会を建設しよう”という趣旨の大きな看板。
1762号【2006年12月17日】
★<中国より帰国 >
前号に続く上海日誌−12日15日〜16日。
15日午前は、閘北区行健職業学院(前身は閘北区業余大学・社区大学)へ。上海には毎年行っているのに、学院訪問は3年ぶり。ご無沙汰していたのです。この間、2年前に訪日された学院幹部(徐熾強書記など)一行の東京滞在記録(CD)が出来ていました。歓迎するぶんじんの写真が大きく写し出され、一同で思い出話の花が咲きました。ぶんじんはなぜか飲む画像ばかり。
日本語を学ぶ学生たちともしばし交歓しました。「小林国際交流閲覧室」はいま補修中。この1年間に刊行した『公民館・コミュニテイ施設ハンドブック』『韓国の社会教育・生涯学習』『東アジア社会教育研究』第11号を書棚に飾ってきました。
学院招待の中食を頂き、そのまま無錫に体休め?に行く学院関係者と挨拶をかわし、また全日程に同行してくれた張林新とも別れ(ありがとう!)、「案内しましょう」という羅李争の厚意も断って、15日の午後は(この旅はじめて)一人旅。
タクシーに乗らず、地下鉄で、それからかなり歩いて・・・運動不足の体には快適。上海の街を散策しながら、この20年間の大都市の激動を考えていました。街並みに聞こえてくる新しい脈動、しかい激しい喧噪、なにかきしむような亀裂音、悲鳴のようにきこえる警笛、物乞いの老人が吹く笛の哀しさ、などなど、書きたいことあり、次の機会に。
16日朝、見送りの羅李争と一緒に、はじめて浦東空港までリニヤーモーターに乗りました。中国語では「磁懸浮」というらしい。世界初の営業線。地下鉄2号線「龍陽路」駅にリンクし、最高時速なんと430キロ、空港までわずか8分前後か、驚きました。
予定通りの便で成田へ。今回の旅もまた各都市で歓迎いただき、いろいろとお世話になりました。有り難うございました。ホームページにいつくか写真を載せはじめています。ご覧下さい。
▼行健職業学院関係者、右から3人目・王鴻業学院長(20061215)
1761号【2006年12月15日】
★<上海からの風 >
いま(15日)上海です。3年前『現代社区教育の展望』(上海教育出版社)を刊行しましたが、その企画が始まった思い出のホテル「南鷹飯店」に投宿。上海教育出版社編集長・袁正守さんの手配によるもの。
広州・白雲空港で李偉成さんに送られ、上海・虹橋空港で呉遵民さんと袁さんに迎えらました。先に帰国した伊藤武彦さんと別れて小林・張の二人。今回の旅の最後の上海日程です。
12月13日〜14日の広州日誌(「民工学校」訪問等)は、李偉成を取り上げた朝日新聞記事(11月21日「東アジア−広州」)等も紹介したいので、いずれ後日に詳しく載せることにして、上海到着後の記録を書いておきましょう。
12月14日の日誌(2)。上海は曇天・モヤの中、こんな天気が続いているそうです。呉遵民さんの賑やかさは相変わらず。早速、今年6月に刊行された新著(主編)『基礎教育決策論』(華東師範大学出版社)を頂きました。「決策」とは政策決定のこと。450頁の大作。夜の夕食会では、教授昇進と活発な出版活動に敬意を表して乾杯。
あわせて、次に予定されている上海本(呉・末本・小林共編『生涯教育の架け橋』上海教育出版社)への日本側原稿の遅れを深くお詫びしました。もちろん編集長・袁正守さんにも。いま呉さんによって最終編集(リライト)が進められているところ。その作業が終わって入稿でき次第、直ちに印刷に入るとのこと。前著『現代社区教育の展望』に続く日中三世代の編者、韓国を含む執筆者による意欲的な挑戦、中国教育界に新たな反響を呼ぶことになるだろうと期待が話されました。執筆の遅れもあり、はたして内容的にその期待に応えられる本が完成するかどうか、お楽しみ!
歓迎夕食会は華東師範大学(杜教育学部長など)と上海教育出版社(袁編集長など)両者の好意によるもの。すっかりご馳走になってしまいました。袁編集長は来年2月に東京に来られるとのこと。呉さんも同じ時期に来日が予想され、別の話題とも重なって、楽しい歓迎会(TOAFAEC
主催?)を東京で開きたいと思います。
夕食会後、ホテルに帰ったところ、羅李争さん(東京学芸大学・院卒)と袁允偉さん(同・研究生、閘北区行健職業学院・副校長)が待っていました。こもごも積もる話。共通の友人である北京の韓民さん(中国教育部)へ電話。夜の10時をまわった時間というのに韓民氏はまだ会議中。たいへんな激務のようです(頑張れ!)。かねて依頼中の朝倉書店「社会教育・生涯学習辞典」の執筆を急いでほしいこともとくにお願いしておきました。
▼久しぶり、左・袁允偉と中・羅李争(200612014)
1760号【2006年12月13日】
★<青島(Qingdao)から広州へ>
12月11日の日誌。週末には迷惑メールが氾濫し、その削除にたいへん。とくに旅先のホテルでの落ち着かない作業、大事なメールを一つ二つ、一緒に消してしまった?ようです。気になっています。
それでもホテルからのメール送受信がずいぶんと楽になりました。この十年来、ホテルに入ると、メールができるかどうか、まず電話回線を点検する習癖がついて四苦八苦したものです。今は部屋から簡単にインターネットへ。そんなホテルを選んでくれた張林新に感謝!
実はちょっとしたトラブルもあって本号送信は1日遅れとなりましたが、それも些細なこと、李偉成(広州)の助言で簡単に回復しました。
さて、久しぶりの烟台・日本語学校は、新しい校舎へ向けて、仮住まいでした。10日夜は学校関係者に迎えられ歓迎の夕食会。日本からの若い教師(竹田武司−函館出身、伊波葉月−沖縄出身、万徳智子−福岡出身)の皆さんも元気、安心しました。まさに異郷の地できっといろんな課題もあるでしょうが、頑張ってほしいと願って乾杯!
11日午後は、日本語を学んでいる学生たちとしばし歓談しました。みんな笑顔でVサインを出しながら記念の撮影。ちょうど3年前、烟台で合流した故黄宗建先生とこんなかたちで写真を撮ったことを思い出していました。人は去り、時はめぐり、そしてまた、新しい出会いの1日。
11日の訪問先。午前は烟台職業学院(烟台市立)、午後に山東城市服務技術学院(山東省立)。いずれも大規模な職業大学(3年制専門学校)です。溌剌とした技術実務系学院の雰囲気にふれ、日本の学校体系と比較して、あらためてその柔軟性と意気込みを実感しました。
12月12日の日誌。広州行きのフライトが早朝便のため、前夜に烟台より青島へ移動。早起きして空港へかけつけたのに、霧のため飛行機は3時間遅れ、広州へ着いたのは午後2時半でした。迎えてくれた李偉成の懐かしい笑顔。投宿した広州迎賓館は思い出深いホテルでした。たしか1992年、広州教育局(成人教育)に招かれ「日本の社会教育」についてはじめて講演した折に泊ったところ。
広州の街もずいぶんと変わりました。「盲流」(内陸からの出稼ぎ労働者の群れ)の姿は表面的には消えていました。しかし市の現住人口の半分近くは外来の「新市民」(いま盲流といわない、「民工」等と呼ぶ)とのこと。大きなビルが増え目抜き通りは一段と賑やかに。美しい珠江のほとりをみんなで散策しました。
夜は李力氏(広東省放送大学教授)も参加されて、東京学芸大学(院)と和光大学ゼミ卒業生の饗宴となりました。一足先に帰国する伊藤武彦さん(和光大学)とは今晩でお別れ。深センから駆けつけてくれた張文科・張淑珍夫妻、有り難う!
和光小林ゼミやともに旅した沖縄のことなどを語りあいました。(広州、12月12日23:05)
▼烟台日本語学校にて(20061211)
1759号【2006年12月11日】
★<北京の空から >
9日午後、予定通り北京に着きました。気温2度。やはり冷気しんしん。張林新の迎えを受け、1時間後到着の伊藤武彦さん(和光大学)を待ち受けて市内へ。2008五輪のメイン会場となる「鳥の巣」スタディアム(建設中)を見学。今年になって取り壊された張家の旧「四合院」跡にも佇ちました。王府井の一角。国家的な都市再開発(国家的地上げ)にまきこまれて、古い家並みも路地も跡形もなくサラ地になっていました。庭の老木のみ悄然と1本残っていました。
ホテル京廣中心(北京でもっとも高いビル)で食事。合流予定の韓民は急な会議のため来れなくなりました。「東アジア社会教育研究」第11号は張くんのお父さんに託すことに。私たちは北京1泊のみ、烟台へ移動しなければならないからです。つもる話はいずれ次の機会に。
伊藤武彦さんによれば、和光大学人間関係学部は8日夜にかけての教授会で教育基本法改正問題を取り上げ、長時間の論議の末、反対を表明することになったそうです。
部屋に帰ってパソコンを開いてみたら、関本保孝さん(東京・三宿中学校=夜間中学校)より「教育基本法案徹底審議を求る緊急賛同署名お願い」が着信していました。
▼歓迎幕の下で、伊藤武彦さん(中)、左は張林新(200612111、烟台・日本語学校) 写真撤収
1758号【2006年12月9日】
★<やんばる−海原の古酒づくり>
久しぶり、太田政男さんの泡盛「ジュゴンの里」の話、有り難うございました。島酒は「辺野古の海の底で、人間に代わって、基地建設反対の座り込みをしていた」とのこと。波に洗われ、潮に抱かれ、座り込みしながら、古酒の領域に近づくのですね。“海の古酒づくり”だと思いました。海原もまた古酒づくりに参加することになった驚き!
島酒を海に沈める智恵は、やはり島袋正敏さんですか。端倪すべからざる発想。そういえば最近は正敏さんの「島酒通信」が届きません。そのうち“海の古酒づくり”についての便りをいただきたいもの。
先日(11月21日)の名護の夜は、久しぶりに正敏さんたちと飲みました。突風のような慌ただしい訪問(反省しています)、楽しいひとときながら、ゆっくりと話をうかがう余裕なく・・・。この日はたまたま小生の誕生日でした。卓を囲んだ皆さんに(四捨五入で)80歳となった乾杯をしていただきました。泡盛の座に突然バースディケーキが持ち込まれ(大国林道オーナー・山城秀夫さんの差配による)、歌も流れました。泡盛屋に洋式ケーキが並ぶことなど二度とないでしょう。(HP「ぶんじん日誌」に歴史的な写真1葉!)
この夜、岸本力くんのサンシンとうた、来年に挙式予定の美童も登場、この二人に酔いました。正敏さんが故郷の大地で何か新しい構想を練り始めている話をちらっと覚えています。次の機会に、楽しい企画をゆっくり聞こう、そんな記憶。いずれ、そのときに“島酒を海に沈める”話もお願いします。太田政男さんの“ものすごくウマイ”「ジュゴンの里」の便りにこちらも酔ってしまったようです。
今日(8日)は65年前に太平洋戦争が始まった日。明日から1週間中国へ出かけます。
1757号【2006年12月7日】
★<“南船北馬”>
奥田泰弘さんの通夜(5日)は人あふれ、告別式(6日)も多数の人が参列しました。この日の朝、中国行きのことで済まさなければならない急用が生じて、遅参しましたが、しばらくぶりの方(たとえば白杖の中野光先生など)とも再会。
なぜか若い人が「先生もお元気で・・」とか「車で送りましょう」などといたわってくれるのが、有り難くもあり、複雑な思いでもありました。
帰宅したら、上海の羅李争さん(東京学芸大学・院卒)から待望のメールが来信していました。いつも上海に行く場合はまず最初に連絡をとる人なのに最近はまったく返信なし。電話しても(別の人が出て)通じない。小生の訪中がようやく伝わったようで「…こちらはいつも暇で、よければ飛行機便号と到着時刻を教えていただき、空港へ出迎えに参ります…」と。有り難う!
北京の夜(9日)では、韓民さん(中国教育部)とも会えるようですし、烟台(10日〜11日)はもちろん張林新(日本語学校長)、南に飛んで広州(12日〜13日)の李偉成(広州市教育局研究所)、上海(14日〜15日)では上記・羅李争や袁允偉(閘北区行建学院)の皆さん−小林ゼミ卒業生との再会です。“桃李四海”を訪ねる幸せの旅。そして呉遵民さん(華東師範大学)とも一年ぶり。皆さんにお世話になると思います。どうぞよろしく。まさに“南船北馬”のあわただしい旅です。
「東アジア社会教育研究」第11号を配ってまわるのが第1の目的。あわせて、この間に出版できた『公民館・コミュニテイ施設ハンドブック』『韓国の社会教育・生涯学習』等を閘北区学院「ぶんじん図書室」に飾ってきます。
1756号【2006年12月5日】
★<お互いの労をねぎらいつつ・・・>
川崎の日本公民館学会(第5回)研究大会、ご参加の皆様、お疲れさまでした。心温かな集会に仕上げていただいた川崎・実行委員会の方々、有り難うございました。まだ若い学会ですが公民館研究大会らしい(小規模学会ながら、社会教育学会などでは味わえない)特色と成果を実感できました。プログラムのそれぞれのテーマのなかで、これからの課題もたくさん提起されたのではないでしょうか。
3日夕、学会のすべての日程が終了したその足で、福生の奥田家への弔問へ。手打明敏さん(筑波大学、学会新事務局長)と一緒。笑みも言葉もない奥田泰弘(前)事務局長と悲しい対面でした。居間に眠っておられました。川崎の研究大会のことは最後まで気にかけておられたそうです。私たちは「いい学会でした」と報告しました。
帰路、お互いの労をねぎらいつつ、立川でおそい夕食。奥田さんの思い出がよぎります。40年にわたるお付き合いでした。こんなにもあっけなく人は逝ってしまうのか。妙に感傷的になり、ついつい自分の過ぎし日の回想がいろいろあふれて、手打さんに聞いてもらいました。
私にとって今回の川崎大会はいつまでも忘れられない日となりました。一つは奥田さん急逝の衝撃。あと一つ、はれて学会会長から解放されたこと。一期だけのつもりだったのが、選挙の結果もあり、奥田さんにも求められて二期も。準備過程を含めれば6年近く学会創設に関わったことになります。なんとかまだ元気ですが、人の運命は有限であることを思い知らされ、これからの生き方を考えさせられる学会体験ともなりました。有り難うございました。
4日は黄丹青さんのお誘いで横浜山手中華学校の見学へ。写真1葉をHPに掲げました。
1755号【2006年12月3日】
★<早すぎる落日>
いま日本公民館学会研究大会(第5回)のため川崎に来ています。市役所近くのホテルの一室で書いています。
まことに残念なお報らせ!奥田泰弘さん(学会事務局長)が1日午後9時に亡くなられました。悲報はただちに学会会場をかけめぐり、2日午前に開かれた理事会にも届き、一同しばし声なく。学会プログラムは予定通り開かれましたが、課題研究シンポジウムに続く総会の冒頭、ご冥福を祈って参加者みんなで黙祷をささげました。
検査入院されたのがたしか8月、肺ガンとわかり、抗ガン治療を始められたのが9月、それからわずか3ヶ月、早すぎる悲報です。
11月初め病院にお見舞いしたときは思ったよりお元気、学会のことや辞典の編集のことなどゆっくりとお話しできました。しかしその後の病状は必ずしも好転せず。実は、28日に学会の今後の運営のことについて、ご本人の意向を伺いたく病室をたずねたのですが、このときすでにお会いすることができませんでした。奥様にお話しして「また参ります」と辞しました。これほど早く病状が急転するとは思いもしませんでした。
公民館学会の創設にあたっては、その準備段階から文字通り中心的な役割を担われ、新しい学会のスタートと体制づくりに全力を傾注されました。さらにこれからというとき、私たちは大事な人を失ってしまいました。ご本人もさぞかし無念の思いだったと思われます。ご家族の悲しみもいかばかりか。つつしんでご冥福を祈るのみ。
今日(3日)学会が終わって直ちにお宅に駆けつけるつもりです。お通夜は5日6時から、告別式は6日11時とのこと。いずれも東京都国分寺市(西恋ヶ窪1−39−5)の東福寺(042−321−1046)JR(中央線)西国分寺駅・北口からそう遠くないそうです。
1754号【2006年12月1日】
★<♪ 与那国しょんかね ♪>
南の島の新聞(八重山毎日新聞、八重山日報)をインターネットで読んでいます。今日(30日)の「八重山毎日」は「与那国に遊ぶ」をコラムに載せていました。
与那国は、日本最西端、晴れた日には台湾が見えるという(実はなかなか見えない)国境の島。ぶんじんは1998年から4,5年ほどこの島に通いました。社会教育・公民館の観点からの初めての調査。「与那国の集落組織と公民館」など、いくつかの報告をまとめています(『東アジア社会教育研究』7号、2002年、ほか)。この種の地味な研究は、あまり人の目にとまりませんが、そのうちに最南端の波照間島へのフイールドワークもひそかに心に期すものあり。子どもが美味しいケーキを残すように、これからの楽しみにとっている島、まだ渡っていません。
与那国調査では、渡慶次賢康さんのご紹介でまず宮良純一郎さん(与那国町教委・教育課長、現在は石垣市の中学校長)を訪ね、その父上の宮良保全さん(与那国民謡の第一人者、「工工四」編者)に歓迎していただきました。一夜、町役場近くのご自宅で、はじめて本場の与那国民謡を聴きました。私たちの与那国研究は、保全翁の歌・サンシンを楽しむことから始まったようなもの。幸せなことでした。
与那国の歌といえば、まず「与那国しょんかね」。今日の八重山毎日新聞記事が伝えている「ドゥナン・スンカニ」は「与那国しょんかね」の大会です。「波多浜に下りて(別れに)持った盃は、涙があふれて飲むことができぬ」と別離のつらさを切々と歌いあげます。
宮良保全さんは1999年秋、文部大臣賞「地域文化功労賞」を受賞され上京。東京・八重山郷友会による盛大なお祝いの会が催されました。その席上でも自らサンシンを弾き、しみじみとスンカニ節を歌われ、やんやの拍手。そのあと、私たちTOAFAEC有志でも保全翁を囲みました。しかし今年の2月1日、八重山病院で亡くなられ、いまは面影を偲ぶのみ。
1753号【2006年11月29日】
★<日本公民館学会研究大会in川崎 >
公民館学会については、ときどき「南の風」やTOAFAEC・HPで紹介してきました。ぶんじんは準備段階から数えると丸5年、この学会の活動にどっぷりと関わってきました。まだ出来たばかりの若い学会。本年度の研究大会(第5回)は今週末(12月2〜3日)に川崎で開かれます。HPに書き入れていた「ご案内」を以下に転記しておきましょう。皆さま、ふるってご参加下さい。
○日時:2006年12月2日(土)〜3日(日)
会場:川崎市教育文化会館(川崎駅東口より市役所前を通り徒歩15分)
プログラム内容:第1日(12月2日)
・課題研究1(13:30〜16:00)「公民館60年の歴史が問いかけるもの」
上野景三(コーディネーター)、片野親義、浅野平八、金侖貞
・ビデオ(16:00〜)「だれもが力いっぱい生きていくために―川崎ふれあい館10年のあゆみ」
・学会総会(16:00〜)、懇親会(18:00〜20:00)
第2日(12月3日)
・課題研究2(09:30〜12:00)「指定管理者制度と公民館の公共性」
佐藤進(司会)、上田幸夫、高見啓一、浅野秀重
・ポスターセッション(掲示:大会期間中)発表8:13:00〜14:30
・公開シンポジウム(14:30〜17:00)
「川崎市の多文化社会の創造と市民館(公民館)運動」
星野修美(コーディネーター)、朴海淑、小倉敬子、三浦知人
・参加費2,000円(学生は1,000円)、公開シンポジウムのみ参加の場合は無料
懇親会費3,000円
問い合せ先:日本公民館学会事務局 пF080-3402-5967
詳しくは 日本公民館学会公式ページを。→ http://www7a.biglobe.ne.jp/~kominkangakkai/
1752号【2006年11月26日】
★<最近のTOAFAEC 事務局 >
23日夜、沖縄より帰りました。24日はTOAFAEC第123回定例研究会、25日は原水禁運動(安井家)資料研究会と続いています。
「南の風」へ最近参加された方もありますから、TOAFAEC (東京・沖縄・東アジア社会教育研究会)のことを紹介しておきます。その歴史や規約や役員体制等、そして年報「東アジア社会教育研究」について詳しくはホームページ(URLは毎号「風」に表記)をご覧ください。小林ぶんじん発行「南の風」はその広報機能を担っているつもり。
お気づきと思いますが、毎月研究会の案内や報告を書いていた石倉祐志さん(TOAFAEC
事務局長)は、9月の内モンゴル訪問後に一時体調をくずされて休養中。かわって遠藤輝喜さん(渋谷区教育委員会)がいま代行されています。ご苦労さま。
「東アジア社会教育研究」は今年9月に第11号を予定通り発行できました。来年に向けて、第12号編集への論議が始まっています。11月12日には事務局会議に合わせて編集会議。『韓国の社会教育・生涯学習』出版の余波もあり、24日の定例研究会でも韓国の市民運動や「平生学習」についての特集構想が出されています。さて、どんな方向に具体化していけるか。
内モンゴル訪問記録(『星と草原に出会う旅』、TOAFAEC 発行、B5版35ページ)が出来上がりました。印刷・製本は「アンティ多摩」にお願いしました。関心をおもちの方があれば、若干部(1部500円)をお頒けできます。ご一報下さい。
1751号【2006年11月23日】
★<八重山から山原へ >
那覇に着いた夜(11月19日)は、沖縄県知事選挙・開票の真っ最中でした。出口調査で若干の優勢が伝えられていた糸数慶子候補、その勝利を期待していた支持者たちは、「仲井真当確」のテレビ報道に悲痛な思い。かっての国分寺市長選挙で、進藤文夫さんが(優勢、一部の新聞では「進藤当選」記事も)逆転で破れたあの夜、あの一瞬を思い起こしていました。
今回の沖縄県知事選では、自民・公明の陣営に対して、いわゆる野党連立が成り、本土各地ではなかなか実現できない「革新統一」候補を思わせる布陣でした。それだけ大きな期待が・・・。
しかし、野党連立は当然それなりの矛盾を内包。それぞれの党派の路線やしがらみあり。野党間の結束は充分でなかったのです。
翌日(20日)は石垣へ。闘病・リハビリ中の渡慶次賢康さんとお会いし一安心。平久保で久しぶりの歌碑と「浜遊」へ。夜は市中心部にもどって「島そば一番地」の新垣重雄さん(社会大衆党もと書記長)と再会。
21日に竹富島に渡り、上勢頭芳徳さん(喜宝院蒐集館)や前本多美子さん(学大小林ゼミ卒)と会いしました。短い時間でしたが、その後の竹富島の現況を垣間見たひととき。離島の「過疎」を乗り越え、大勢の観光客を迎えるようになり、「まちなみ保存運動」の成果は明らか。あらためて「竹富島憲章」への取り組みと「竹富公民館」の役割を思いました。
そして名護へ。「大国林道」で昨年の福岡・油山訪問の皆さんと乾杯。22日は中村誠司さん夫妻ご案内で「美ら海水族館」(同行の沖縄初訪問メンバーの強い希望)。那覇への道は、雷鳴と豪雨(警報も出た!)のなか、怖い数時間でした。
ぶんじんの突風(台風という人もあり)のような沖縄訪問。またしても皆様をお騒がせしました。有り難うございました。一行は沖縄を離れ、ぶんじんのみまだ那覇に残って、この「風」を吹いています。
▼名護の夜、「大国林道」のケーキ、この日ぶんじんは誕生日(20061121)
*1701号〜1750号
*1801号〜1850号(次ページ)