南の風001号〜50号発行リスト・ぶんじん日誌1  TOP

南の風発行リスト一覧→■  ぶんじん日誌51〜100号ぶんじん日誌2(次ページ)→■ 
略年譜(抄)→■


1998年
           <主要目次>
第1号 【1998年2月 6日】沖縄研究再開について(末本)、台湾訪問(上野)
第2号 【1998年2月 9日】東京・沖縄研究会の案内
第3号 【1998年2月10日】TOAFAEC 研究会(東京)予定:2月〜6月
第4号 【1998年2月11日】島袋正敏氏等を囲む、和光大学沖縄研究会案内
第5号 【1998年2月12日】社会力量弁学条例(末本)沖縄占領文書(上野)
第6号 【1998年2月13日】韓国訪問(江頭)、韓国社会教育研究交流の歩み
第7号 【1998年2月24日】沖縄研究会報告、中国訪問計画、HP追加記事
第8号 【1998年3月 3日】中国から帰りました、2集「成人教育法案」、3集編集
第9号 【1998年3月 6日】華東師範大成人教育学院との研究提携(末本他)
第10号【1998年3月12日】第3集編集案だよ、旅は中止
第11号【1998年3月18日】5月連休の沖縄合宿は可能か
第12号【1998年3月22日】NPO法成立(江頭)、編集案への意見未着
第13号【1998年3月26日】華東師範大学との提携、可能性あり?(上野、松田)
第14号【1998年4月 2日】桜いろいろ、東アジア社会教育研究・第3号編集
第15号【1998年4月 8日】桜は散ったか、沖縄合宿実現に向けて
第16号【1998年4月 9日】華声和語のこと
第17号【1998年4月13日】とりあえずの鹿児島・沖縄プログラム連絡
第18号【1998年4月14日】内田くんへラブコール
第19号【1998年4月15日】古賀くんも誘ってください(上野)
第20号【1998年4月16日】鹿児島からの招聘状(小林平造)
第21号【1998年4月17日】招聘状・別紙、山羊さんの食べ残し
第22号【1998年4月18日】名護からの案内だよ(島袋正敏)
第23号【1998年4月20日】華東師範大学へ手紙を書いた
第24号【1998年4月22日】ワインを飲みながら、沖縄研究再開だよ
第25号【1998年4月25日】花水木咲くころ、点字の音ひびく
第26号【1998年4月28日】NPO法関連年表(江頭晃子)だよ
第27号【1998年4月29日】浜田陽太郎さん追悼
第28号【1998年5月 2日】HP追加、上海・華東師範大学・葉教授への書簡
第29号【1998年5月 4日】新人紹介:山口真理子さん、鹿児島へ返
第30号【1998年5月 7日】沖縄研究・科研費内定
第31号【1998年5月10日】黄宗建先生のこと
第32号【1998年5月18日】南の海から帰った風、占領文書の目録
第33号【1998年5月21日】沖縄研究をどう進めるか、吾若くあらねど
第34号【1998年5月24日】贈られし文献資料、あわれかの幼き子の
第35号【1998年5月29日】字誌刊行しきり、おお「ブラス」よ
第36号【1998年6月 1日】沖縄研究資料コレクション
第37号【1998年6月 2日】メール討論が始まったよ
第38号【1998年6月 5日】こんなことしてみたいー沖縄研究
第39号【1998年6月 8日】歴史的にみる視点、ふるさとの紅き夕焼け
第40号【1998年6月11日】20日駒沢であいましょう
第41号【1998年6月14日】ミーテイング会場ご案内、八重山を恋うる夜
第42号【1998年6月17日】六月集会時ミーテイング、NPO法その後
第43号【1998年6月19日】見城慶和さんからの「学校」
第44号【1998年6月22日】渋谷の夜、沖縄研究第3サイクルの開始だ
第45号【1998年6月23日】シーズのホームページを見る
第46号【1998年6月24日】もう一人の内田くんからのメール
第47号【1998年6月26日】華東師範大学との研究交流
第48号【1998年6月30日】最近の市町村史・字誌を
第49号【1998年7月 2日】沖縄の新聞がおもしろい
 *49号外【1998年7月 1日】科研費・沖縄研究の進め方
第50号【1998年7月 3日】第50号記念、勝手に風は吹く





 <ぶんじん日誌>


■第1号 【1998年2月 6日】沖縄研究再開について(末本)、台湾訪問(上野)
みなさまへ。南の風bP(小林ぶんじん)
 ここ1両日、相次いで神戸と佐賀からメールがとどきました。いずれも沖縄研究あるいは東アジア研究に関連するところあり、実験としてパソコン通信として配信してみたくなりました。小生は、とりあえず「南の風」通信と名のることにします。これはその記念すべき第1号です。
 ただし情報過多になるのはよくないので(小生の旧友のパソコン通信ネットは、1日に2〜3通来ますので、その弊害あり。読むのにたいへん!)、意見ください。迷惑であればただちにネット配信は停止しますので。

■第2号 【1998年2月 9日】東京・沖縄研究会の案内
 佐賀から「南の風」bPに早速メールいただき、有り難うございました。おや、案外とこの通信、軌道にのるのかな、などと思って、bQを差し上げることにしました。
 この第2号は、Eメールで、末本、上野、内田、江頭、加えて(不公平になってはいけないので)FAXで、小林平造に送ります。
★名護の海は温かいよ、泳ぎにいこう!。平久保(八重山)浜に家をたてよと誘惑する人がいる・・・。

■第3号 【1998年2月10日】TOAFAEC 研究会(東京)予定:2月〜6月
★そろそろ花粉症の季節だ、 日本はいやな国だ、 格安航空券で遊びに行こうよ。

■第4号 【1998年2月11日】島袋正敏氏等を囲む、和光大学沖縄研究会案内
 2月の定例研究会は、思いがけず、豪華なゲスト陣となりました。
 最初は、和光大学内部の研究会(総合文化研究所・沖縄研究グループ)に沖縄の地域研究者を呼ぼう、旅費も一人分ぐらいはなんとかなる、というので、中村誠司氏だけの計画でした。
 ところが、これに加えて、名護出身・徳田球一の資料集めと顕彰碑建設に腐心している島袋正敏氏が上京予定であることがわかり、ぜひ一緒に東京で顔を合わせよう、名護の話も聞きたい、「よしきた」というわけで正敏さんも一緒に来ることになったのです。
 そして、これにたまたま別用で、上原文一氏が同時期に東京滞在予定であることが確認され(今日の電話で)、20日夜に合流することになりました。
★東京には空がない、ゆんたくの場所もない。学大の研究室が、いま、無性に懐かしいよ あの研究室も、ああ、姿を消した?ああ!

■第5号 【1998年2月12日】社会力量弁学条例(末本)沖縄占領文書(上野)
 休日明けの午前、相次いで二つのメールが入りました。
 小生が悩まされている旧友の通信(60代後半、リタイヤ後の暇な話題)と違って、研究的にかなりの内容と提案、嬉しくなりました。こんなタイプの通信が重ねられれば、元気がでますね。
 この号から鹿児島・小林平造のメール・アドレスも届きましたので、ネットにつないで発信しています。ただし、まだスムースにはいかないらしい。まずは、末本・上野両氏の2メールを掲げます。

■第6号 【1998年2月13日】韓国訪問(江頭)、韓国社会教育研究交流の歩み
 江頭さんからのメール、どうも有り難う。読んでくれていたらしい。新しい韓国訪問・交流の計画、ぜひよろしくお願いします。学生たちにとっては、7月の休みに入ってからの方が行きやすい(昨年のモンゴル行きのように)と思います。計画を進めてください。
 成案に仕上げる前に一度会って具体的に相談しましょう。韓国訪問計画への日韓文化交流基金の助成が決定したら、「南の風」ネットで情報公開してください。
 黄宗建さんの訪日については、もし実現するとすれば、5月連休明けの模様。鹿児島大学(小林平造氏)で日程調整中。ところで、手元に「日韓文化交流基金」提出用の「研究会の歩み」(1997)がありましたので、すこし長いけれど、この機会に記録しておきます。ただし、助成金ほしさに、あることいろいろ・針小棒大、の作文です。

■第7号 【1998年2月24日】沖縄研究会報告、中国訪問計画、HP追加記事
 TOAFAEC のホームページが新しくなりました。といっても、今年2月の「追加記事」を加えたもの。まだ工事中。出来はよくありませんが、師の厳しい?教えをもちろん受けつつ、今回はある程度は自力の作品です。だけど力不足で、全体がすこし斜めにゆがんでしまいます。どこが悪いのか、どんな手直しが必要なのか、磯先生あたりから、ヒントと激励のメールなどいただければ有り難いのですが。
 それでは中国へ。しばらく「南の風」は吹きません。どうぞ安らかに、お休みください。

■第8号 【1998年3月 3日】中国から帰りました、2集「成人教育法案」、3集編集
 ・・・夜もふけました。すこし疲れた。つたない歌、心だけでも伝われば、有り難い。
・天空にあれば 心は浮遊して 新しき歌 秘めたる思い  (機上にて)
・格安の 航空券の 機内食 さすがにまずく ビールのみ飲む (ノースウエスト)
 (26日、業余大学の車を出してもらって、羅、袁と三人で南京に遊び、念願の南京・大虐殺
  記念館に詣でた。アウシュヴィツに似ている。1997年10月刊行「侵華日軍南京大虐殺写
  真集」同CD-ROMを入手した。ページを開けばただ粛然。)
・吾はいま リーベンレン(日本人)として ただ一人 “万人坑”の墓前に たたずむ
・碧空に 白く輝くあの嶺を 越ゆれば 草原 モンゴルの地か (北京上空)
・北平の 古き胡洞(フートン)ひたすらに ひとり歩けば 小鳥さえずる(琉璃庁裏路地)
・路地にあそぶ 子ども 将棋の大人たち くず買いの声 物うりの叫び (同)
・ただ一人 論じつづける才人の 悲しき孤独 静もる空間 (ある日本の社会教育学者) 

■第9号 【1998年3月 6日】華東師範大成人教育学院との研究提携(末本他)
 前号:第8号について早速にメールをいただき、有り難うございました。親しい仲だから、そのまま配信することにします(到着順)。(これ以降、配信しては困るというメールはその旨付記してください。なによりも無理をさけたい。いまのところ「南の風」についての否定的評価はないように思いますので、まずは少し継続していきたい、だから、すべて無理にならないようにしていきたいので。)

■第10号【1998年3月12日】第3集編集案だよ、ドイツ旅は中止
 ことしの春はやけに忙しくなってしまった。『ハンドブック』の1999年(20周年記念)夏刊行をめざして作業を開始しなければならないが、編集体制の世代交代論がなかなかうまくいかず、またまた、ずるずると引き込まれそう。内田くんはラブコールを無視して賢く身をさけている? 
 「社会教育法50年」のある企画も始まったし、「公民館50年―地域史研究と国際比較」(特別年報の副産物)実現のためには、あれこれ走りまわらなければならず。上海の諸君は訳をしたいと本をまっているし、それに、やはり、宮仕えの身であることに変わりはなく、ああ、悲しき運命(さだめ)よ、自らわが身に仕事を引き寄せて。
 20日間を確保して、格安航空券も手にいれて、ベルリンZOO駅前の、大好き小ホテルに宿札も打ったのに、さぼっていいよ、と言ってくれる人もいるのにさ、なぜに旅をあきらめる! このお人よしめ!なぜにそんなに花粉症を楽しむの? バカめ!
・春風よ 花の粉すてよ かぐわしき 色こそはこべ 花ごころかたれ 

■第11号【1998年3月18日】5月連休の沖縄合宿は可能か
 ー前後不覚?<相談その3>
  ところで例の華東師範大学からの研究交流の提案、その後皆さんの方ではいかがですか。和光大学のまわりの数人(奥平康昭・学部長、梅原利夫・学科長など)に話をしてみますと、案外と積極的です。できる範囲で、やりましょう、などと言ってくれます。
 しかし、やはり和光が中心にはなれない。国立のどこかが中心になって、そこを窓口にして研究ネットワークを組む、そんな新しいスタイルの提携が出来ないでしょうか。
 九州大学はなかなか、のようです。佐賀も無理か? 鹿児島あたりでひとつ積極的に考えてみませんか。できないことはやらない、面白くないことはやらない、無理でなく双方になんらかの果実がありそうなことをゆっくり見定めて、やっていく。ほな、ぼちぼち、といった感じでどうでしょうね。

第12号【1998年3月22日】NPO法成立(江頭)、編集案への意見未着
 <名護・海上基地反対の市民運動・代表・宮城康博のこと>
(先便の続き)
 彼は、若いころ東京で演劇青年だった。奥さんは漫画家。名護に帰ってからは例の山原地域誌「あっちゃー」を発行。その創刊号(1995年10月)記事「友ありて遠方より来る―小林文人さんと学生たち」 そこにこう書いている(抄)。酔って論じている写真も。「疲れ果てた学生たちを尻目に名護の連中と文人さんが盛り上がっていた。盛り上がりは、再会を喜ぶ蛮気あふれる友たちの宴。
 地域をかたり、沖縄を語り、世界を、人間を語る。夜は短く、世界は 広い。どんな地域にも、その地域を愛する遠く離れた友がいる。その時々の再会は地域を精神的に豊かにするものだ。小林文人は、そのような人だった。」“ぶんじん”はこの文章をとてもよろこんで、当時むりやり学生たちに読ませた。
  名護の市民運動の先頭に立った“やすひろ”は、なかなか迫力ある演説家、そして案外と誇大な文章が得意な、愛すべき男のようだ。宮城康博は、頭(脳腫瘍?)の大きな手術をして、一時まわりを心配させたが、市民運動のなかで、市議補選(2月の名護市長選=岸本当選=と一緒に行われた)へ、  対立候補なく市議に。ようやく毎月幾ばくかの収入を得る身分になったが―さて、これから『あっちゃー』は再び出るだろうか。

■第13号【1998年3月26日】華東師範大学との提携、可能性あり?(上野、松田)
 「南の風」は騒がしい、時間かまわず吹く、ときに疾風あり、いつも長すぎる、迷惑ですね、などの声が聞こえてきます。 だが、ありきたりの、そよ風なぞ吹かぬ方がよい、などと考えているものだから、相変わらず、勝手に、吹くことにします。迷惑をかけるのは、いつものこと。
 3月24日夜、ビールとワインを飲みながら、第3号・編集会議(グラン・メール)。編集事務局メンバー5人参加、構成ほぼ決定。(話しあったことは第14号に)執筆依頼に入ります。メールで佐賀から反応がありましたが、25日着で、間に合わず。
 ところで華東師範大学との研究交流・提携について、それぞれでご検討いただき、有り難うございます。(葉教授になりかわって御礼) すこし興味深い動きが出てきたように思いますので、まずはご報告、配信。

■第14号【1998年4月 2日】桜いろいろ、東アジア社会教育研究・第3号編集
 陽春。しかし今日は冷たい雨。このメール、昨日作成したのですが、April fool だから、出すのをやめました。というわけで今日のこと、書き添えることになりました。
 今日午後、「ハンドブック」編集会議でした。10人ほど集まり、かなりの議論。小生は、これが最後の仕事とばかり、レジメ(再録可能だが、メール長すぎとの声を意識して?省略)をつくって、例の世代交代論を展開。半分は説得できましたが、まだ退くことは出来ず。まあまあこの程度だろう、と諦めて帰宅したところです。帰路は市ヶ谷(エイデル)から九段の方ヘ、「靖国の桜」の下をぶらぶら歩いて帰りました。雨に濡れた花は、まだ散らないが、なにか悲しげでした。

■第15号【1998年4月 8日】桜は散ったか、沖縄合宿実現に向けて
 今日は佐藤一子さんと会って「公民館五〇年ー地域史研究と国際比較」(エイデル・予定)の企画を相談しました。皆さんのメールも届くし、なんとか楽しい日でした。
・白樺の貰われし朝鳥鳴きてエビネも芽吹きともに見送る
 (農中くんに白樺の株分け、4月5日)
・運び来し山の文庫の本棚に追悼文集安らかに眠る
・よろめきつ「棄ててなるか」と携えし本ありされど多くを読まず

第16号【1998年4月 9日】華声和語のこと
 
『華声和語』は、中日関係および在日中国人コミュニティに関するニュースを中心とする雑誌です。インターネット上にいる在日中国人をはじめ、中国に関心を持つ方すべてを対象としております。 『華声和語』は、日本在住のボランティアによって編集され、無料で提供されています。

第17号【1998年4月13日】とりあえずの鹿児島・沖縄プログラム連絡
思い煩うことなかれ 空飛ぶ鳥をみよ 播かず刈らず蔵に納めず (太宰治)
・悩み苦しむことなかれ 水に遊ぶ鳥をみよ たゆたふ流れに春をかたらう(ぶんじん)
―鶴川の駅から和光への道は 鶴見川の流れにそっている
  その流れの淵にひそむ鯉がいて その上でひねもす遊ぶ鳥もいる
  彼女らそのくらしぶりに励まされつつ 歩くのです―

■第19号【1998年4月15日】古賀くんも誘ってください(上野)
 ご存知でしょうか? 立川叶子さん(東大和市)が亡くなられた。昨日の朝だったそうだ。3月14日の東大和「沖縄を知るつどい」の打ち合わせ(1月19日)でお会いしたのが、最後でした。当日は彼女の姿がなく、気にはなっていたのだが、やはり、だめだったのか。ご冥福を祈るのみ。

■第20号【1998年4月16日】鹿児島からの招聘状

 ・・・・
和光大学研究生に内モンゴルからの留学生・ボヤンバートルという男あり。典型的なモンゴル族(出身は牧民、草原のなかで育った)、少数民族の知識人としての悩み深く、いま妻子をフフホトに残して東京で格闘中。
 詳しくは『東アジア社会教育研究』第2号、小林「広州から内モンゴルへ」のなかに書いています。ご覧あれ。TOAFAEC有志と和光大学有志で1997年夏にモンゴル旅行を敢行したが、ボヤンバートルがいなければ実現しなかった。現在、内蒙古師範学院講師。
 彼は馬で学校に通った。天の碧と地の緑が 360度の広がりで接し、渾然とそのまま一体につながっているような草原大地に生きてきた。それだけに瑠璃にきらめくほんものの海を知らない。海への限りないあこがれ。沖縄に行きたい、というのが彼の夢です。
 2月20日の上原文一、島袋正敏、中村誠司などを囲む会(東京・新宿)の席でも、「ぜひ沖縄に行きたい」と演説していました。しかし経済的にも厳しく、なかなか行く機会はなさそう、なのです。

【南の風】第 22 号:名護からの案内だよ 1998年4月18日(ぶんじん)
 
ここ数日、東京は曇り、雨、とても陽春からは遠い四月。しかし今日ようやく晴天のきざし。さすがに日々緑は広がり、季節の活気を感じます。とくに鹿児島や名護(島袋正敏氏)から五月案内がとどけば、また俄然にぎやかな気分です。
 昨日来、どこからか伝え聞いたのでしょう、TOAFAECメンバーでない人からパソコン「南の風」通信について相次いで関心が寄せられました。おや?と思い、すこし面白い気分にもなり、この機会にちょっと簡単な経過を書いておくことにしました。
〇一月はじめ、親しい仲間6人で、那覇・名護・八重山と遊び、その感想をTOAFAECニュース(13, 1月 30日発行)誌上に「1998年頭、南の海を飛びながら―沖縄研究再開への想い」(小林)を書いたら、神戸や佐賀から「研究再開」についての反応がありました。そうだ、と思いついて、各メールをパソコン通信的に他のメンバーにも配信。結果的に「南の風」第1号となりました(2月6日)。
〇この間、『東アジア社会教育研究』第3号(1998年9月刊行予定)の紙上編集会議
 北京・上海の『同』小編集会議(2月末)報告
 華東師範大学からの研究・交流・提携についての提起をどうするか
 東京での出版・改訂版などの動き・コメント
 鹿児島大学の黄宗建招聘・国際セミナー開催についての意見交換
 TOAFAEC 研究会の案内、桜は散ったか、磯さんの紹介、その他あれこれ、
 の通信をかわしていく間になんとなく「南の風」は定着の模様。
〇しかし突然のメール舞い込みに、当惑、唖然、驚愕、反論、返信、激励、などいろいろの反応。それぞれに興味深く、こちらは一方的に風を吹かしたという経過です。
 この第22号まで通算 70日余。平均4日弱の間隔で発行。しかし訪中や九州滞在中の期間を除けば、平均3日おきに「風」は吹きました。「長すぎて読むのに大変」という感想を聞いて、短信的なものに自粛しようと思っても、内容があればそうもいかないよ。
〇配信先はTOAFAECメンバー、沖縄・中国等への研究関心をもっている人10人余り。もちろん E-mail への配信ですから、media-literacy の問題が生じています。こちらはいろいろ発信しているつもり、しかし限られた範囲ですから、情報ギャップがあります。これから E-mail アドレスを寄せる人、少し人数は増える予感ですが‐‐‐。
〇あと一つは、親しい仲間意識の故に、それに顔が見えないので、やや書きすぎのおそれを実感しました。最近は自重気味、紳士的なのです。その反面、あまり面白くない?
 もひとつ、リード・オンリーのメンバーにどう返信を書かせるか、静かに勝負!といったところ。

■第23号【1998年4月20日】華東師範大学へ手紙を書いた
 昨日、たまたま店頭で、刊行されたばかりの名護の記録(ヒューマンドキュメント・写真集)『沖縄海上ヘリ基地ー拒否と誘致に揺れる町』(高文研)をパラパラめくって立ち読み。例のヒゲづらの宮城康博に興味があったから。
 驚いた。「ぶんじん」が写っているではないか(p122)。知らぬ間にー。
 そのときの状況は、いつぞや紹介した和光大学「エスキス 97」小林「沖縄との出会い、そして移動大学」の一節に次のように書いている。
 「‐‐辺野古の小さな港で、海上ヘリ反対支援コンサートが催されると聞いて、元気な学生たちと出かけた。開演までのひととき、疲れを癒して波止場に座りこみ、車座になってオリオンビールを飲んでいたところに、折りも折り、西に落ちる夕日を背景に、喜納昌吉が漕ぐサバニ・ピースボートが入港した。好奇心のかたまり、向山えりか(和光大学4年)がはしゃぐ。―以下略」
 このとき、喜納昌吉は上陸して、「漕いできた櫂(カイ)を辺野古のむらの祝女(カミンチェ)に捧げた」(1997年9月20日)のである。翌日の各新聞はこの感動場面を写真で大きく報じた。
 私はたまたまカミンチェのすぐうしろに立っていた。観衆の一人として。横には小さく向山えりか(この4月卒業、荒川区社会教育指導員の仕事を始めている)も写っている。 いやいや、驚いた。悪い場面でなくてよかったよ。ただちにこの写真集を買ったよ。

■第24号【1998年4月22日】ワインを飲みながら、沖縄研究再開だよ
 昨日(「公民館50年」特別年報の別企画)も、今日(ハンドブック編集委員会)も、エイデルに出かけた。大塚代表に、定期券を買ってほしい、と冗談を言い合ったり。
 神戸(末本誠さん)からのメール、皆さんに配信。私の(なかにはもう時効がきたように古い)拙い文章をこのように話題にしていただいて、恐れ入谷の鬼子母神だあ。

■第25号【1998年4月25日】花水木咲くころ、点字の音ひびく(第25号記念)
 「南の風」は長すぎる、末尾の戯れ歌だけ、まあ、読むぐらいのものさ、との声を聞いて、短信風にしたよ。
そのうち、また、ぎっしりとつまったメールを吹かせよう。
 <つれづれの拙歌・二首
     和光大学は日本の大学のなかでもっとも障害者に開いている大学なのだ。盲導犬も
     講義を聴き、聴覚障害者には横に「ノートテーカー」が座るよ。
〇花水木ゆれて五月の風わたる教室のしじま点字のひびき
〇点字うつ音途切れたり開かぬ目なじるが如く我を凝視す
 
第26号【1998年4月28日】NPO法関連年表(江頭晃子)だよ
 今日はいい日です。昨夜の「ハンドブック編集委員会」(エイデル)がうまくいった。
「これ以上は、もう、進行役はやらない」ことを宣言して、編集体制の世代交代をやや強引にすすめたよ。これまで三ヶ月の隠忍自重がようやく効を奏した。最終的に、姉崎、笹川、長沢、そして小林繁、の4人が編集に参加してくれることになり、かなりの交代の雰囲気ができた。ぎりぎりの 40代体制(はじめ 50代、40代、30代の3人編集体制も提案した)となった。つまり 60代はもちろん、50代も飛び越した。まあまあ、の線だろうよ。
 おめでとう! 自分で乾杯!
 この二〇年、もし「ハンドブック」をやっていなければ、自分の本を少なくとも3冊は誕生させることができただろう、と入沢(エイデル)にも、そして他のみんなにも公言した。いい気分だあ!
 *お裾分けのご報告。
 前にお知らせした「平和教育研究交流会議」(4月25〜26日、お茶の水)は「中国山地教育を支援する会」(旧中国労働者を悼む会)の年次大会のようなもの。(略)
 斉藤秋男さん(専修大学名誉教授、陶行知研究)と大田堯さんが切々と自らの戦争体験を語りました。あと一人予定の日高六郎氏はパリから帰れず、不参。
 斉藤さんの華中戦線、大田堯さんの海中漂流36時間、セレベス島「椰子林の中で」の話しは聞きしにまさるもの。司会の山住正巳さんなどの少年的な戦争体験世代(小生も同じ)とは違って、現実の「兵隊」世代の厳しい体験。この長老層の悲痛な、いまとなっては貴重な、歴史の証言。 
 斉藤さんが話の最後に紹介した歌(朝日歌壇選、1989/01/28)。
〇大正生まれをいたく死なしめ栄え来し昭和終りぬ終れば愛(いと)しも

■第27号【1998年4月29日】浜田陽太郎さん追悼
 連休、東京もいい天気になりました。しかし最近しきりと訃報が届きます。4,5日前は、九州大学名誉教授・・矢野峻先生など。
 今日、久しぶりに麻生誠さん(東京学芸大学→大阪大学→定年後に放送大学)から電話あり、浜田陽太郎さんが亡くなられたことを知りました。食道ガン。手術をせず、コバルトで照射しながら、延命の手当をされてきたそうですが、闘病のかいなく、ついに逝かれました。新聞も報じていました。いくつか想い出がよぎります。
 小生とのかかわりを書きたくなりました。→■(追悼欄27)

第28号【1998年5月 2日】HP追加、上海・華東師範大学・葉教授への書簡
 5月1日、渋谷のメーデー・デモ。これを横に見ながら、芝の日本聖公会教会、浜田陽太郎さんの「葬送・告別式」。立教大学の関係者はもちろんたくさん。学会関係ではさすがに教育社会学関係者が多い。告別式が終わってみんなで食事。潮木、松本、門脇、鐘江などの皆さん。麻生さんは若い奥さんと一緒。自慢の女性(ひと)らしい。小生も、しばし教育社会学者のような気分で過ごした。 
 やはりみんな浜田さんを回想し、「いい人と出会った」という感想。

■第29号【1998年5月 4日】新人紹介:山口真理子さん、鹿児島へ返信
 <ざれ歌コーナー>
〇おろおろとホームページの工事する「その歳、よくやる」と励まされつつ
                  (わが師:よわた先生はこういってからかう)
〇ホームページもたぬはホームレスだよと笑う友あり彼も宿なし

■第30号【1998年5月 7日】沖縄研究・科研費内定
 <連休の憂鬱>
〇世は緑なれど心たのしまず おだまき(苧環)一鉢せめて求めん
          (永福・大宮八幡のつつじ市にて、300円)
〇パソコンを閉じれば五感よみがえりさやけき紫蘭かそけき香り
 <連休あけ、科研費内定のしらせ>
〇緑もえ鶴見の流れに鯉ひそみ水鳥あそび吾呼ぶ声あり
     (川沿いの道、学生が遠くから声かけてくれる)

第31号【1998年5月10日】黄宗建先生のこと
 
黄先生との出会いは、前に書いたことがあります。
 *「韓国社会教育への旅」1992、学大社会教育研究室・訪韓報告集
 *「ある回想ー15年目の白馬江(扶余)」1994、日韓文化交流基金レポート
 *最近では沖縄との関わりで、和光大学『エスキス,97』の巻頭・小林「沖縄との出会い、そして移動大学」、
そのなかに、黄さんがうたう「花」(喜納昌吉)のことを紹介しています。

第32号【1998年5月18日】南の海から帰った風、占領文書の目録
 この1週間、黄宗建さんと連日一緒に弥次喜多の道中。黄さんが主として「識字」問題について話し、それをうけて小林も論じる、という毎日。たいへん光栄なことでした。休憩も、食事も、お酒も、すべて一緒。夜も同室(船中泊)あり。あらためて黄宗建さんのなんとも魅力的なお人柄を満喫。
〇瑠璃の海をめざしひたすらみんなみへ 草原のおのこ海原わたる (モンゴル・ボヤンバ―トル)
 潮の香と波のただよい夢にみし 南の海よいまぞ飛び込む(同)
 若きらと手つなぎ肩くみ「花」うたう 黄宗建の柔らか心(名護の夜、宴果てんとして)

右より2人目・黄先生 (名護市中央公民館工作室、1998年5月)            


第33号【1998年5月21日】沖縄研究をどう進めるか、吾若くあらねど
・「もはや若くあらじ道限りあり」と君は言う 七十路向かう吾なんと応えん
             (沖縄研究再開基調提案を聞きつつ)
・ここちよき疲れいやして星あおぐたまゆら香る甘きくちなし (沖縄から帰って)
・ゆくりなき出会いなれども二十年を 重ねて来たりあつき友誼を (黄宗建さんと)

■第34号【1998年5月24日】贈られし文献資料、あわれかの幼き子の
 1998年5月22日・TOAFAEC第27回研究会、なかみ:伊藤長和さん「川崎と富川(ぷちょん)」−日韓自治体間交流の歩み」。韓国人3人、スイス人、モンゴル人も参加して、いい研究会。
 帰路に伊藤長さんから、碓井雅久『虚ニシテ往キー回想の先師・故旧』(歌集)をいただく。「一カ所だけ小林ぶんじんのことが書いてある」とのこと。帰ってみたら、碓井先生から直接の本がとどいていた。さっそくお礼の手紙を書く。1冊は誰かにお裾分けしますと。
 読んでみると、故古木弘造氏(もと名古屋大学教授、日本社会教育学会長)の回想のところで、碓井さんとご一緒に東海社会教育研究会に出席し、小川利夫さんの「別邸」に二人で泊めていただいたことが書いてある。こちらはまったく忘れていた。驚いた。日記をつづる人への尊敬、ますます!
 このように言葉つかいが厳密な方の文を読むと、「南の風」のような雑文、戯れ歌の類を乱発する愚行を恥じるのみ。

■第35号【1998年5月29日】字誌刊行しきり、おお「ブラス」よ
 24日夕、友人に誘われて、思いがけず、マーク・ハーマン監督「ブラス」(英、1996年)をみた。
英国の「追われゆく坑夫たち」はブラスバンドをもっていた。サッチャー政権下の憂鬱、炭坑閉鎖、スト、逮捕6,000人、多数の死傷者。「あの、ジョン・レノンを殺し、陰険なサッチャーを生かしている。」 そんな時代と社会のありようを問いながら、ブラスバンドは歩む。
 「いま、私たちは仕事を失い、communityを失い、仲間は去り、家族も離散し、生きる意欲さえも失おうとしている」と叫んで、優勝のトロフィーを拒否する。日本の炭坑労働者の過ぎし日の闘いを思った。「がんばろう」の歌をおもわず歌いたくなった。
〇突き上げる「炭掘る仲間」の拳(こぶし)あり そのどよめきもはるけく遠し

■第36号【1998年6月 1日】沖縄研究資料コレクション
 今帰仁村中央公民館、社会教育主事は玉城勝雄さん。赤い柱の公民館(象グループ制作)。
20年経過すると、かなり面白い写真もあるよ。今帰仁村中央公民館の紅い柱と緑の屋根のコンストラクト。
行くたびにシャッターを切ってきた。いわば定点観測的な記録フイルムだ。
はじめ玉城勝雄がいた頃は屋根は緑したたり、しだいに広がり・・・、 しかしタマカツが職場を追われ、その後
一時は完全に根っこを切られてしまった。そして最近また新しい緑を回復してきた
〇緑なす芝生に群像あいつどい ともにヒージャー食べしあの日よ
  (1980年正月、やんばる主事会、今帰仁村中央公民館ひろば)

第37号【1998年6月 2日】メール討論が始まったよ
 ・・・黄丹青さん(筑波大ー学芸大・院ー東大・院<教育社会学>ーいま子育て中)から、メール・アドレスがとどいた。「南の風」ネットに加えます。どこかいいポストないか。「なければ、将来は上海の中日文人学院で雇ってほしい」という。(略)

■第38号【1998年6月 5日】こんなことしてみたいー沖縄研究
 <故仲宗根政善先生を想いおこして>
〇耐えがたく厳しきときを何ごとも無かりしごとく
       (1978年2月12日、当間ふじ子が一緒だった。)
〇証言の重きページを推敲の いとま与えず嘆かれしとぞ
  (『沖縄社会教育史料』第3集の仲宗根証言。伝え聞いて
 東京から飛んでお詫びに行った。先生はやさしく笑って、「何もありましたか? 何もないよ」
 とおっしゃって、かえって励ましていただいた。忘れがたい首里の一日、1980年夏の回想。)


■第39号【1998年6月 8日】歴史的にみる視点、ふるさとの紅き夕焼け
 沖縄への旅を続け、研究再開を前にして思うこと、少なからず。
先号で仲宗根政善先生の思い出にひたって『沖縄社会教育史料』3集
(1979)を読みながら息をのんだ。この号の座談会など証言をいただいた
方々は、2,3の方を除いて大部分の方がすでに物故されている。
 かっての琉球社会教育の群像たち。20年というのはそういう歳月だ。
そして『民衆と社会教育』(1988)刊行からもすでに10年。
 <いくつかの回想>
〇われもまた自閉の日あり過ぎし日の ざらつく記憶かみしめている
〇あえぎつつ和光の坂にたどりつく 励ますごとき蛙(かわず)の合唱
〇おろおろと歩みつかれし道想う 吾がふるさとの紅き夕焼け

第40号【1998年6月11日】20日駒沢であいましょう

 <ホームページ>
  内田くんのメールを読んで、TOAFAECホームページをのぞいてみたら、
 たしかに訪問者がことし 1,000名をこえたよ。
 技術的にはまったく拙劣な手づくりページ、いつも工事中なのに、
 まあ、物好きな人たちがよくも見たものだ。
  初期はわが師・山口よわた先生(旧麦笛)の指導だが、
 最近の追加記事はまったく自力だよ。
 よわた先生作の駒留中学校ホームページは桁ちがいに立派。彼は言う。
 都立教育研究所での旧知「内田先生」がそろそろホームページでしょうね、と。
 こんど「山口先生」が我が家にくるとき、一緒にいかが? 講習会をしよう。
 そろそろ東アジアの地図や『研究』表紙などのデジタル写真も入れたい。
 いまのところ、小生はホームページで内田を超える。
 若いやつを追い抜くのはいい気分だよ、乾杯だ!

■第41号【1998年6月14日】ミーテイング会場ご案内、八重山を恋うる夜
 <竹富島・平久保の思い出>
 1991年11月、竹富島種子取(たんどい)祭に出かけ、西表島を一周、そのあと一日「平久保」に
 遊んだゼミの旅旅があった。参加者:小林、森山(佐賀、当時)、内田、吉田、山口、小俣、伊藤、それに
 鷲尾夫妻、許銘欽(台湾)など。案内人:渡慶次賢康(県社会教育主事、当時は平久保小中学校長)
 平久保のあと、小林は那覇で「60歳を祝う会」(おきなわ社会教育研究会主催)を開いていただく。
 忘れがたい思い出の旅であった。「平久保」に別荘?を建てなさい、と勧められている。
・平久保の十三夜の浜に人群れてヤドカリも来て吾と遊びぬ(1991年11月20日)―TOAFAECニュース13参照
・十三夜の平久保偲びし歌一首 額に飾られ吾を迎うる(1998年1月10日)
・南(みんなみ)の冬風に冴えし美(ちゅら)ら月は 白保の海をしろしろと照らす(同上)

■第42号【1998年6月17日】六月集会時ミーテイング、NPO法その後
 <歌ふたつ>
・さつき風の出窓の土に思いこめ植えし山椒よいま枯れんとす
 (喧噪と排気ガスの水道道路に面していれば、さもありなん?)
・梅雨寒にかぼそきつぼみふくらみて今日ゆったりと百合花ひらく
  (二度咲きの百合、ようやく一輪、大きく、香りさわやか)

第43号【1998年6月19日】見城慶和さんからの「学校」

・見城さんの便り、絵葉書は「荒川九中夜間部卒業生」作の「学校」の詩、
 黄色の背景に版画、印象的な出来映え。ご紹介します。
   学校
 学校はおもしろいところです
 学校は何でも教えてもらえるところです
 学校はちょっぴりつかれるところです
 学校は先生が親切です
 学校は一番いいところです
 学校は夢があるところです
 学校は宝物があるところです
 学校は勇気をつけられるところです
 学校は私たちのふるさとになるところです

 <歌三つ>
・あわれ今日なにもなしえずベランダにひねもす座してじっとしている
・強いられし一日なればあでやかな紫陽花の花も重くうとまし
・梅雨来たり水面ひかりし道沿いの稲田よ今年は草のみ繁く (鶴川・和光への道)

■第45号【1998年6月23日】シーズのホームページを見る
 <沖縄研究ニュース> *このコーナーを今後充実していきたい。情報ください。 
 小林・内田の宮古・八重山(与那国)調査日程
 7月25日(土)JTA07:25 東京発→宮古(宮古調査)
    27日(月)JTA17:50 宮古発→石垣(山口真理子合流、はまゆう会)
    28日(火)JTA09:35 石垣発→与那国(与那国調査)
  7月31日(金)JTA10:35 与那国発→石垣
  ANK12:10 石垣→福岡(和光ゼミ・福岡合宿?)
 *もし同行希望者があれば歓迎。ご連絡ください。

■第44号【1998年6月22日】渋谷の夜、沖縄研究第3サイクルの開始だ

 この間、華東師範大学・葉教授からの返書がとどき、また江頭晃子からNPO法その後
 についてメールが来ている。次号以降に紹介することにして、取り急ぎ、駒沢と渋谷の
 夜の報告まで。
 <歌二つ>
・ブライダル・ベールの花はなぜかくも小さくかぼそく白く咲くのか
・けなげにも咲きつづけ来し一鉢をそえてパソコンの慰めとする

■第46号【1998年6月24日】もう一人の内田くんからのメール
 <6月23日、沖縄・祈りの日。川崎で沖縄の話、それから、六本木・俳優座へ>
 嶋津与志(大城将保)作「めんそーれ沖縄」を観た。大城将保も来ていた。かわったおばぁを
 演じる平良とみの演技が絶品あの「島口説」の北島角子と共通する役まわり。
〇「めんそーれ沖縄」のパンフのなかからー「やんばる旅情―海とロマンス」:
  ‐‐できることなら
    こんな夜は
    あなたの瞳の
    涙の海で
    ひと晩中でも泳いでいたい
    朝がくるまで‐‐

第47号【1998年6月26日】華東師範大学との研究交流
 <あとがき> 
 まことに稚拙な戯れ歌、ときに末尾に記して、皆さまをお騒がせ、申し訳なし。実は、[南の風]はながい! 
末尾の歌だけ、ま、読んでみるだけのことさ、という声を聞いて、「しょうがないなあ」「いや、有り難いことだ」
など複雑な思い、とりあえず戯れ歌でもあれば、「末尾まで目を通してくれる」ことも知り、[南の風]編集子の
切なる想い、恥じらいもなく、歌コーナーに及んでいる次第、お許しあれ。
 それでも、これまで、「月刊」に何首か、ひっそり、掲載されている、「読み人知らず」もあるよ、
ご存知あるめえ。本号はその1首ご紹介。
〇(嘉手納基地内の一角、ガジュマルの老樹あり、その昔、ムラの広場に
     大きな木陰をつくって、こどもや年寄りたちが遊んだにちがいない)
・むらむらの童らつどいしガジュマルよ いまひとり佇つ緑も映えず (「月刊社会教育」1993年1月号)
〇さんざめく祭りは消えてガジュマルをつつむ静寂そして爆音
〇戦世(いくさ4ゆ)をくぐりて耐えし老人のすべて知るものの重き風格

第48号【1998年6月30日】最近の市町村史・字誌を
 1994年までの沖縄「市町村史」は学大でほぼすべて(に近い?)購入したつもり。
だから1995年以降に刊行されたものを、この機会にまずは全部入手したい。ただし
集落史、字誌などは、球陽書房では集まらない。
 やはり足を使って集めるほかない。今夏「宮古・八重山の旅」でも、とくに集落史を確保したい。
<お願い>みなさん、これから沖縄各地をまわる際に集落史に出会ったら、 ぜひ東京の分の
一冊も入手してください。
 (なかなかいい歌だ、という人もあり)
〇戦世(いくさゆ)を生きし老樹の自分史を幹ゆすってみて聞き書きしたし

■第49号【1998年7月 2日】沖縄の新聞がおもしろい
 *49号外【1998年7月 1日】科研費・沖縄研究の進め方
 <回想の戯れ歌>

 「月刊」が載せた「読み人知らず」。(学大・図書館長時代、1990年夏、招聘されて台湾を訪問。
1週間の日程をこなし、ようやく解放され、そのまま福岡へ飛んだ。その翌日、九大で開かれる日本
教育学会のシンポに報告を求められていた。準備不足で機内で発表原稿を書いた、ドロナワで
月刊論文を読む、暑い夏の思い出。)
〇旅了えてけだるき身をば空港のしじまに沈め「月刊」を読む
            ―台北空港にて―(読み人知らず)
*月刊社会教育1990年10月号、当時の編集長(佐藤進)は「後記」にこう記している。
 「先日いただいた歌一首、月刊への期待を感じつつ…」

〇あと二つ、別のうたを……
・安逸をむさぼる奴に矢を放ちその夜のワイン自らの安逸
・あの夜の仰天の悲報あわれ自死のニュースを知らず進藤さんうめく
 (6月26日、三多摩全国実行委員会の後、飲み会にて、
        ・・・・進藤文夫さん、はじめて故福原のことを知る)

第50号【1998年7月 3日】第50号記念、勝手に風は吹く
◆[南の風]が50回となりました。吹きはじめが2月6日、それからちょうど五ヶ月、一月平均10回です。
少し役にたったところもある?しかし他面まさに情報押売りの実態もあり、なかには辟易、顰蹙、困惑
など感じられた向きも少なからず、この機会にお詫びしておきます。
◆しかし、発行元としてはこの五ヶ月、かなり楽しんだことも事実。パーソナルに勝手に吹きたいという
心情、だから、[南の風]同人のネットが多少拡がるにつれて、後半はかなり冷静?になって、逆にあまり
面白くない?
 ときにふざけて、あけすけに心も開いてやっていきたい、など思って、あろうことか、拙劣きわまる戯れ
歌などご披露する始末、正直なところ、誰かが「恥ずかしいからやめろ」と言ってくれるのを待つ心境。はい。



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