南の風・各号後記(ぶんじん日誌)
2700号【2011年7月28日】
■<2700号・御礼>
先日本欄で、100号おきアドレス帳更新をお知らせしたところ、たくさんの方からお便りを頂戴しました。日頃から騒がしい「風」に付き合い下さり、久しぶりの懐かしいメール、お祝い?や励ましを頂戴して、発行人として嬉しい限りです。有り難うございます。
皆さんの便りを一つにまとめて、長文の「風」に編集・配信する案も考えられますが(作業としては楽!)、それぞれの思いを受けて、こちらも丁寧に、いつものリズムでお返しすることにします。頂いた順序を尊重しつつ(例外あり)、しかし数が多いので、掲載が少々遅れること、ご了承ください。
8月下旬(27日〜29日)「社会教育研究全国集会」(第51回、静岡)に向けて、韓国からヤンビョンチャン先生(公州大学教授、昨年出版の「日本の社会教育・生涯学習」共編者)が来日されます。1週間ほど早めのスケジュールをつくって「風の部屋」にお泊まりいただくとのこと。TOAFAECとして歓迎「囲む会」(第175回研究会)を企画しました(上掲・李正連さん案内)。皆さん、ふるってご参加ください。
この案内を予知されたかのように、南木曾町(妻籠)清水醇・元公民館長から、「南の風に帆を張って・・」メールを拝受しました。2007年夏「阪奈和・全国集会」(第47回)の折り、木曽の檜笠を「日本最初の公民館・妻籠から」の説明付きでヤン先生に差し上げたことがあります。実は清水館長(当時)から戴いた笠でした。この年、妻籠公民館の聞き取り調査で「妻籠宿」訪問。清水館長の笠をそのままかぶって、その足で貝塚の全国集会へ。ヤン先生と韓国本の編集会議をしたのでした。
▼左より伊藤長和さん、小林、梁炳賛さん- 妻籠の檜笠 (阪奈和・全国集会、20070826)
2699号【2011年7月27日】
■<福州行きの列車事故>
中国・温州の高速鉄道の事故(23日)。慄然としました。普通列車の事故でも怖いのに、「高速」鉄道の追突・脱線となると、想像の域を超えます。福建師範大学・李斗石さんから、早速の速報を頂き、有り難うございました。“高速”と“安全”の問題について予言されていたご様子(上掲)さすが! 日本では事故処理(衝突車両を壊し穴に埋め、その後の掘り返し)について報道が続いています。
昨年11月の紹興行き。上海・虹橋空港ちかくの新駅から乗った高速列車は「福州」行きでした。この線が紹興を通ったあと、おそらく温州を経由し、ターミナル・福州へ行くのでしょうね。次の機会にこの高速列車で福州に行ってみたいと思ったのでした。
私にとって、沖縄(琉球)との関係からも、福州は特別の地。2004年に福建省のお招きで、末本誠さん(神戸大学)、呉遵民さん(華東師範大学)と一緒に福州を訪問。このときは上海から飛行機でした。数日の福州滞在、それから廈門を経て、北京で開かれた中国「成人教育年次大会」講演の記録(南の風記事等)はホームページに入れています(写真も)。
→■http://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/2004fukkenbeijing2.htm
→■http://www007.upp.so-net.ne.jp/bunjin-k/yotei0412.htm
温州・列車事故ニュースから「福州」を想い起こしたという次第です。
李さんには、福建「終身学習」に関する日本語論文を送っていただいたこと、改めて御礼申し上げます。力作を有り難うございました。報告に関連する写真を1〜2枚、送っていただけませんか。
ところで(風2695号本欄に書いたように)、南の風は次号で2700号を迎えます。100号おき恒例のアドレス帳更新の予定。“読むだけ”の方はご注意を。引き続きの配信希望の場合は、その旨ご一報下さい。
2698号【2011年7月26日】
■<『ハンドブック』への思い>
古本市場にめったに顔を出さない『公民館史資料集成』(横山・小林編、エイデル研究所、1986年)が、いま杉原書店(東京・文京区)に出ています。価格は1万8千円。姉妹編の『社会教育法成立過程資料集成』はよく出ますので、さしてニュースになりませんが、『公民館』集成は、もちろん版元にない稀少本、大学や研究室にぜひ常備していただきたいもの。ちとお高い(個人では無理?)のが難、しかしお薦めです。編者として買い取っておきたい気持もないわけではありませんが・・。
既報(風2695号)のように、同じエイデル研究所から、『社会教育・生涯学習ハンドブック』の新版(第8版)がようやく出版されました。5年おきの新版。そして待つこと1年。届いた新本をいま抱くようにして毎晩あかず読んでいます。ずしりと重い1冊。約束の原稿もそっちのけ。
この本の構想を温めたのは1977〜78年。とくに熱心だったのは編者の一人・故奥田泰弘さんでした。最初の書名は『社会教育ハンドブック』、1979年に実現しました。「社会教育推進全国協議会」編として世に出ましたが、自分の本よりも愛着あり。朝日新聞も取り上げてくれて、初版本は、7〜8刷を重ねたように記憶しています。1995年、第5版まで編集を担当。初版以来、小林の講義は『ハンドブック』が毎年のテキスト。
それだけに新しい第8版がどんな出来映えか気になるところです。膨大なデータ満載で仕上がっています(約
850頁)。重量級の大作、担当の山添さん、ご苦労さま! お祝いの会などないのかしら?
これだけ厚くなると収録資料の活用が難しくなってくる・・・索引などの工夫がとりわけ必要、沖縄の収録がほとんどない?など感想いくつか。いずれそのうちに。
2697号【2011年7月24日】
■<名護・人形劇団かじまやあ>
上掲・大前さんのメールを名護へまわしました。名護「人形劇団かじまやあ」桑江純子さんからの返事。「…早速のメールありがとうございます。今回は県人会主催の初めての公演です。幼児から大人まで楽しめますので、ご案内ください。関西沖縄文庫で検索すると情報が詳しく分ると思います。宜しくお伝えくださいませ。」
会場:大阪沖縄会館 http://okinawabunko.com/ 。アクセスは、大阪市大正区千島3−19−3、地下鉄・JR環状線「大正」下車。市バス2番乗り場より10
分「大正区役所前」下車、徒歩3分、とのこと。
同じ名護より。アドレス帳整理に関連して、連絡前にいただいた比嘉ひとみさん(名護市教育委員会・市史編纂室)からのメール。(Wed,
20 Jul 2011 09:58)
「文人先生、いつも南の風を送っていただき、ありがとうございます。これまでこの時期にくると、なんだかんだと先生に言い訳して、アドレス帳の整理から逃れてきましたが、状況変わらずですね。勝手に読ませていただくだけで、南の風を吹かせず、すみませんでした。削除していただいて結構です。」
かえって恐縮しました。そのままお送りしますので、ぜひ留まってください。「南の風」の終息までお付き合いください。まだその時期は未定ですが、そう先のことではない(予感)ように思いますので。
中国・新幹線(高速鉄道)「和諧」に事故(23日夜)。昨年11月に黄丹青さんや岩本陽児さんと一緒に上海から紹興へ旅した同じ路線か。次の福州行きには、高速鉄道で・・・と思っていたのに。
本号は7月(174回)研究会の報告号。レポートの江頭さん、記録の岩本さん、有り難うございました。
▼右・江頭晃子さん(20110722)
2696号【2011年7月23日】
■<生者必滅の理>
昨日(22日)は、昼「東アジア社会教育研究」第16号編集委員会、夜はTOAFAEC(第174回)7月定例会でした。台風一過、涼しい風が戻ってきて過ごしやすい1日。それぞれに賑やかなご参加、充実した夏のひとときとなりました。皆さん、ご苦労さまでした。別途ご報告が寄せられると思います。
めずらしい人の来会。佐々木一郎さん(生活クラブ連合会)、折しも新盆から旧盆の季節もめぐってきて、2年前の夏に急逝した故石倉裕志(前事務局長、生活クラブ連合会)のことが想い出された夜でした。先日の七夕の会でも「ここに石倉さんがいてほしい」話が出て(遠藤輝喜、風2690号)、これからも亡霊?となってしばしば戻ってきてほしい、と思いました。
沖縄から訃報あり。山城千秋さんによれば、山田嗣功さん(元沖縄県青年団協議会事務局長、沖縄青年会館理事長)が亡くなられたとのこと。「東アジア社会教育研究」第13号(2008年)に「戦後沖縄青年運動史の証言」を収録しています。山田さんは1936年の生まれ、若さを誇っていた方でした(写真)。生者必滅の理(ことわり)。ご冥福を祈ります。
沖縄・名護(人形劇団かじまやぁ・桑江純子さん)からの元気な便りも付しておきます。「…(略)…来る8月6日、大阪で公演することになりました。知人、友人が大阪にいらっしゃいましたら、ご案内頂けたら幸いです。いま届きました。(Sat,
23 Jul 2011 11:32)
○8月6日(土)時間(昼)14:00〜、(夜)18:00〜。 場所:大阪沖縄会館(おとな1800円 こども700円。前売・割引あり。お問い合わせ:関西沖縄文庫文化企画部 電話:06-6552-6709
▼追悼!山田嗣功さん(沖縄県青年会館、20070112)
2695号【2011年7月21日】
■<アドレス帳の整理>
大型の強い台風、各地に被害。しかし妙なコース、向きを変えて南の海上へ離れていきました。東京はまだ台風一過の天候ではありません。
さて、風はあと5号で2700号の大台に乗ります。2600号が3月2日でしたから、ちょうど5ヶ月に100通の風を送信したことに。この間には生涯忘れない東日本大震災、フクシマ原発事故。皆さんからの来信相次ぎ、風も忙しい5ヶ月でした。1〜2日おきの風は明らかに吹き過ぎ。騒々しい送信をお許しください。
当方の編集箱に滞留メールが溜まりはじめると、あっという間に混乱がやってきます。長文の通信はあまり歓迎されないので、120行せめて150行以内に抑えての編集、どうしても回数が多くなるのです。ときに棄てられる風もあるだろう、しかし(皆さんに負けずに)吹き返すことが大事、と当方も張り切った5ヶ月でした。
「南の風」はいま(特別配信、ローカルネットは別にして)150通前後が出ています。とくに最近は、夜間中学の先生方や中国研究フォーラムの留学生の皆さんからご希望あり、10通ほど増えています。新参加は、もちろん歓迎ですが、あまり肥満体にならないように要注意というところ。昔は風メンバーのアドレス一覧をお届けしましたが、いまは控えています。ご了承を。
2700号に向けて恒例100号おきアドレス帳の更新をいたします。風は双方向に吹きあいたい…の思い。“読むだけ”の方は「風」配信アドレス帳からお引き取り願う場合もあり。継続希望の場合はご一報ください。100回のラブレター(のつもり)に1通もご返書なしとはつれないかぎり。10日後をめどに新アドレス帳に切り替える予定です。
2694号【2011年7月19日】
■<「なでしこ」の快挙!>
大型の強い台風(6号)が日本列島に迫っています。空や海の便は欠航が相次ぎ、西日本・四国はすでに大荒れ。皆さんのまわりに被害のないことを祈っています。
サッカー女子W杯で日本が奇跡の優勝。今日(18日)早朝、PKを制した瞬間、今まで経験したことのない感動が走りました。今日はどこでもこの話題で持ちきり。本屋のお姉さんも寿司屋のオヤジさんも、皆にこにこ顔でいい日になりました。まだ余韻が残っています。いくつかメールがきました。たとえば上掲の伊藤長和さん「市民性の形成を考えた三連休」に添えられた前文(Mon,
18 Jul 2011 19:22)。
「先日(16日、公民館学会)は、飛田給駅までタクシーに同乗させていただきありがとうございました。お陰さまで江ノ電の最終電車にも間に合い帰宅することができました。今朝(18日)は早朝3時半から“なでしこジャパン”の決勝戦をTV視聴しました。暗いニュースの続く毎日ですが、久しぶりに明るいビックな出来事に私は心を躍らせたのです。小柄な日本女子チームが不屈の精神を見せて優勝したのですから。」
<古いアルバム・掘り出しものシリーズ・7>
10日おきに出してきた古い写真シリーズ。今回は「月刊社会教育」編集委員会の1枚(1980年)をアップ。編集長主導の編集体制から「編集小組」によるグループ作業を導入した横山宏さん(実質的な編集長)の慰労会ではなかったかと記憶しています。当時の編集委員会のほぼ全員が並んでいます。31年前の画像、もともとピントが甘い写真のスキャン、肩を組んだ賑やかな雰囲気は伝わりましょう。これだけ顔が揃うと各位の肖像権が気になりますが、故人の方を含めて、ご了承いただきますようお願いします。もし苦情が来たら、すぐ降ろすことにしましょう。
→■ http://www.bunjin-k.net/minami2651.htm
2693号【2011年7月17日】
■<七月集会−懐かしいひととき>
日本社会教育学会に(中間集会として)六月集会が開かれていますが、若い学会・日本公民館学会には「七月集会」が定着してきました。2006年7月、公民館設置60周年の記念集会としてスタート。今年で6回目を数え、昨日(7月16日)炎暑のなか東京外国語大学で開催されました。
テーマは「震災後・時代における公民館の課題と可能性」。とくに2人のゲストの話が刺激的でした。お一人は、環境建築家・日本大学教授(生物環境工学科建築・地域共生デザイン研究室)糸長浩司さん「飯舘村からの震災後の報告」、あとお一人は、同じく建築家・東海大学教授(工学部建築学科)杉本洋文さん「大船渡市三陸町における学生・住民による仮設公民館づくり」。
とくに糸長さんは九州大学(工学部建築学科)の出身。短い時間ながら九大・青木先生の話が出て、私も同じ貝塚団地に住んでいたこと、青木妙伊子さん(子ども劇場おやこ劇場運動の創設)のことなど(立ち話で)懐かしいひととき。飯舘村では「後方支援チーム」代表、20年来の持続可能な村づくりに関わってきた人、もっとゆっくり話を聞きたいと思いました。
当日の懐かしい顔、久しぶり韓国の姜乃榮さんの話も聞きました(学会終了後に開かれた韓国研究会、上掲)。懐かしい本も。『社会教育・生涯学習ハンドブック』新版(第8版)ようやく刊行。6年ぶりに再会した思いでした。エイデル研究所・山添路子さんから手渡された出来たてホヤホヤの1冊は姜乃榮に進呈する羽目に。
▼学会懇親会終了後、前列中央に杉本洋文さん、後列左から4人目に姜乃榮さん(東京外国語大学、20110716)
2692号【2011年7月16日】
■<博多山笠、平久保サガリバナ>
サッカーの女子W杯「なでしこ」の準決勝は深夜番組、というより未明の放送。それに今日(15日)は午前5時(NHK
BS)博多山笠の実況でした。太陽が照り始めてようやく床につきました。
ぶんじんは、博多山笠「大黒流」に縁があり、山笠の法被・ハチマキ姿の満一歳の写真が残っています。祖父母は博多・川端通(いま町並みが姿を消した)で呉服商を営み、初孫の出生を喜んで、山笠の装束で祝ったようです。赤松屋と称した呉服屋でした。1945年の博多大空襲で焼失しましたが、戦後は再建して下新川端の通り(いまの博多座のところ)で盛んな呉服商で賑わっていました。ぶんじんは正月も盆も博多で過ごす年が多く、学生時代は呉服屋の手伝いをしていました。自ら系譜をたどれば、博多商人の血をひき、また筑後農民の末裔でもある、とひそかに自負してきました。というわけで、山笠の実況放送ともなれば、寝るわけにはいかないのです。
「八重山の教科書問題」(丸浜江里子さん・上掲)が伝えられ、久しぶりに八重山毎日新聞を読み始めたところ、コラム「不連続線」で「サガリバナの群落」が話題となっていました。ところは石垣島の北端・平久保の集落。「平久保在住の米盛三千弘さん所有の畑周辺にサガリバナ、その数は 200本を下らない」という記事。自生の群落か。米盛さんは平久保の入口に、ぶんじんの歌碑
→■を建立(2003年)した人です。
真夏の夜、ほのかな香りを放ち、繊細な花が垂れ下がるようにして咲く夢のひととき。先日のやんばる底仁屋の「蔓草庵」もサガリバナが植えられ、楽しみしていましたが、当日あいにく花を見ることは出来ませんでした。この記事でようやく香り蘇る。今夜は満月。
▼やんばる底仁屋のサガリバナ。ぶんじん撮影(20080706)
2691号【2011年7月15日】
■<台北より双柿−御礼>
名護「じんぶん企画」(輿石正氏・監督)は、これまでも辺野古の基地問題などを取り上げたDVD
を制作してきました。今回は、フクシマの原発問題と沖縄の基地問題を串刺しにしたような作品(上掲記事)。東京でも上映会(16日18:00〜 国分寺労政会館)が企画されていますが、あいにく日本公民館学会(夜の懇親会)、併行して開かれる韓国生涯学習研究フォーラム(風2687号に案内)と重なります。ご都合つく方があれば、お出かけください。(参加費
800円)
DVD は、7月末に発売予定(定価3000円)とのこと。詳しくは、じんぶん企画
→■ まで。
和歌山大学の山本健慈学長より、10日の七夕の会へ飛び入り参加の気持ちがあった由、メールを頂きました(上掲)。結果的には実現せず残念でした。TOAFAEC
は毎月の定例研究会(原則として最終金曜日、終了後は必ず懇親会)はじめ、いろいろ歓迎・交流会など集いを企画しています(風やホームページに案内)。飛び入り大歓迎!です。
この機会に御礼二つ。山本学長より中村他編著『権力の仕掛けと仕掛け返し』(文理閣、2011−風2682号に紹介)を拝受。「職業としての学長」論を興味深く読みました。有り難うございました。
あと一つの頂き物。先日の中国生涯学習研究フォーラムで、李正連さん(東大)より、熟した二つの柿の置き物を頂戴しました。台北市政府教育局の楊碧雲さん(社会教育専員)が来日の折、持参されたものだそうです。重い陶製の見事な出来映え。中文では「柿」は「事」と同じ発音、双柿は「事事如意」に通じる祝詞。新版「臺北市学習型都市」パンフも同封されていました。東京の空白と対照的に、日々充実の臺北市の歩みを実感させられます。台北市・社区大学の躍動にあやかって、私たちも頑張りましょう。
2690号【2011年7月13日】
■<朝日連載・林えいだい>
朝日新聞の7月12日朝刊が、丸浜江里子さんと新著『原水禁署名運動の誕生−東京杉並の住民パワーと水脈』(凱風社)を大きくとりげています。驚きました。今朝(13日)の朝日社説は、見開きで「提言・原発ゼロ社会」「いまこそ政策の大転換を」(一面)と書いています。これも驚き、ようやく書き始めてくれたかという感慨。
朝日の夕刊にいま「ジャーナリズム列伝」シリーズがあり、永六輔に続いて、林えいだい氏を取り上げています。昨日の夕刊で10回目。しばらく連載(論説委員・大矢雅弘)が続きそう。楽しみです。
林えいだいは、本名・林栄代(しげのり)。私とは1963年頃の出会い、当時は旧戸畑市(北九州)の社会教育主事(補)、当方は九州大学助手から東京に移って、再び九州に帰った(1964年、九州産業大学)ころから深い付き合いが始まりました。北九州・大企業の公害問題を社会教育として取り上げ、婦人学級の学習から運動へ発展、「青空がほしい」記録、カラー映画の自主制作や、『八幡の公害』などが世に出ました。
当時、「月刊社会教育」にも書いてもらい、たしか湯河原の全国集会(第10回、1970年)で、公害問題と社会教育について感銘深い報告をしてくれました。その後の配転、ついに職場を去り、記録作家の道を歩き始めるという経歴。40年余りの挌闘、いま77歳か。
1970年代、彼が足尾の鉱害問題を調べていたころ、私の国立の団地に泊まりにきたことなど懐かしい。昨日、元気そうな電話がかかってきました。足が痛むとのこと。
2689号【2011年7月13日】
■<古酒カメから島酒を汲んで>
本号は予告通りに「七夕の会」(10日)報告特集となりました。高知からの内田<新>夫妻!はるばるとご苦労様。馬頭琴のセンジャーさんも有り難う。ご参加の皆様、とくに世話人の方々に御礼申しあげます。
先号にも書いたように、「七夕の会」は、もともと留学生の出会い・激励の会から始まったもの、静かな会でした。しかし近年は新年会と並ぶ盛況。とくに今年は慶事と重なり、賑やかな1日となりました。
会場「ハミングバード」のマスターは、皆さんのお好きの酒を持ち込んで結構です、と言ってくれます。この日は、差し入れのワインに加えて、風の部屋の秘蔵のカメから古酒を汲んで、大国林道のラベルが残っている焼き締めの小さいビンに詰めて持参しました。すでに17年を経た逸品。原則として当方からは勧めない、酒好きらしい人が寄ってくるかたち。ちびりちびりと注ぎました。香りがただよって、次の人が「私にも…」と所望する杯に、もったいぶって“美酒少量”を差し上げるのはいい気分でした。
写真を江頭晃子さんがたくさん撮ってくれました。ほぼ90枚。ところが古いカメラの保存容量がいっぱいになって、最後みんなで撮った記念写真は入っていませんでした。どなたか送っていただければ幸い。まずは内田さんカップルとお祝いの乾杯の場面2枚をアップしておきます。内田さん夫妻にはもちろん肖像権あり、もしお好みでなければ、折り返し一報を。すぐ下ろしますので。
*後記:集合写真を早速遠藤輝喜さんから頂きました。下掲、有り難うございました。
▼新しいカップル・内田純一さんと由佳さん(七夕の会、20110710) 撮影:江頭晃子
▼七夕の会・終了時の集合写真を遠藤輝喜さんから送っていただききました。有り難うございました。(20110710)
2688号【2011年7月11日】
■<暑さにめげず>
古いアルバムU−掘り出しものシリーズ(前号・本欄)は、案外と見ていただいている方があり、古い世代として期待に応えたいと思っています。沖縄研究の初期の頃の1枚(その6)も、あまり注目されない?の予感がはずれて、数人から早速の反応あり、(迷いながら)載せてよかった。たとえば、新保敦子さん(早稲田大学)から。
「…掘り出し物の写真が素晴らしいです。横山先生、懐かしです。沖縄での写真は、上野さんが若くて、どなただかよくわかりませんでした!ありがとうございました。」(Sun,
10 Jul 2011 18:06)
せめて10枚ほどは並べたいと思っています。写真はたくさん、あと数枚、どれにするか迷っています。リクエストがあれがご遠慮なくどうぞ。
さて、例年になく早い梅雨明け。猛暑もただごとではありません。梅雨明け宣言が本来もつスカッ!とした響きがないまま、今年は重くるしい夏が始まりました。
7月8日は久しぶりの中国研究フオーラム。本号はその報告特集となりました。東大院生を中心にたくさんの留学生が参加。丁建さんと伊藤さん、ご報告有り難うございました。「南の風」配信希望、数人あり。
昨日7月10日は恒例「七夕の会」でした。もともと平林一家+留学生の会として始まった集い。最近は留学生の比重はだんだんと少なくなりましたが、新年会と並ぶ賑わい、世話人の方々ご苦労さまでした。当日の記録をどなたか寄せてください。次号は七夕報告号にしましょう。
次の土曜日(16日)は韓国生涯学習研究フオーラム(第32回、前号に案内)の予定。暑さにめげず(ご自愛の上)頑張りましょう。
▼七夕の会・今年の合い言葉「までぃの力」。お祝いの乾杯−左から2人目・内田純一さん、由佳さん(20110710)
2687号【2011年7月9日】
■<琉球新報の掲載記事>
いくつかお断り。前号2686号は、一部の方にうっかり重複配信しました。蒸し暑さのせい。思わぬ手のすべり?もあったような…。ご寛恕ください。
福建省・李斗石さんから前号についての訂正記事(8 Jul 2011 17:00)。「昨日の原稿の冒頭に書いた執筆者は後日調整され、本文に署名された執筆者が正しい」とのこと。修正個所は「三、福建省社区教育実態」執筆者は「丁金霞」(李斗石・訳)
だそうです。
7月2日、やんばる・島袋正敏さん「蔓草庵」オープンの会(風2683号に既報)。私たちが43度泡盛(会費相当)を1石カメに注ぎ込む写真が琉球新報に大きく掲載されました。山口真理子さんからのメール。
「琉球新報(7月6日)を開いてびっくり!記者・金城潤さんが写真を撮っていたのは気がついていたけど、撮ったのは私たちだけではないし、まさか、と思っていました。…7月10日(七夕の会)に、現物をお持ちしますが、まずはスキャンしたものをどうぞ。」(8
Jul 2011 09:50)
せっかくの琉球新報の記事・写真ですから、添付します。
<古いアルバム・掘り出しものシリーズ・6>
先日の那覇「おきなわ社会教育研究会」で“古いアルバム”シリーズの話となりましたので、今回は、初期(1980年前後)沖縄研究グループの一枚を掲載することにします。先日、亡くなられた新城捷也さんのお元気な顔もあり、そろそろ四九日を迎える頃ですから、追悼の思いをこめて。玉城嗣久さん(琉球大学教授)や比嘉洋子さん(那覇市立図書館)の在りし日の姿も、また若き上野景三さんなど東京学芸大学沖縄ゼミの俊英たちも並んでいます。
→■http://www007.upp.so-net.ne.jp/bunjin-k/albumhoridasi.htm
▼琉球新報 2011年7月6日記事
新聞記事撤収
2686号【2011年7月8日】
■<ストレステスト>
「南の風」は、各地からの皆さんの「風」エネルギーに支えられています。この数年は、3人の常連(烟台、和光、愛知川−かって「御三家」と呼んだことあり)の力が大きかったのですが、それぞれのご事情で今は吹き止んでいます。替わって最近は、丸浜江里子さん(杉並区在住)の風が激しく吹いてきます。有り難うございます。本号にも1本収録して、まだ滞留分あり。加えて本日(7日)の九州・玄海原発関連のニュースを受けて、「初戦の大勝利」が来信。記録として本欄に収録します。
「玄海町長、原発再開容認撤回とのこと、本当によかったです。いろいろな所からの声、運動の勝利ですね!知恵と力が集まった勝利、本当にお疲れ様でした。」(Thu,
07 Jul 2011 22:42)
ここ数日の新しい動き。新聞は「エネルギー政策、大混迷」(朝日)の大見出し。突然に登場した全国・原発を対象とする「ストレステスト」(安全性評価)の提起、原発再開について新基準によるチェック、「国民が理解し納得する仕組み」を検討しようという首相方針に対して、海江田通産大臣「はしご外された」と辞意表明。方針が場当たり、「ころころ変わる」「延命に利用」など全マスコミこぞっての激しい首相批判。たしかに政治手法として拙劣なところがあるのでしょうが、内容的には当然の(むしろ遅すぎる)対応というべき。ステレオタイプな菅直人批判と罵詈雑言には耳をふさぎたくなります。
TOAFAEC には嬉しいニュースです。福建省・李斗石さんから第16号の原稿「福建省における生涯教育の現状と課題」が届きました(上掲)。多忙のなか日本語による執筆、しかも締切に間に合わせて頂き、有り難うございました。日本文表現については、編集委員会で(必要な場合)補正させて頂きます。ご執筆の各位にどうぞよろしくお伝え下さい。
2685号【2011年7月6日】
■<「ぎりぎりまで居座ればいい」>
昨日の風(前号)本欄で、菅首相の原発・エネルギー政策をめぐる言動について短く書きました。配信したあと一息ついて、夕刊(朝日)を開いたところ、池澤直樹さんが標記タイトルで要を得た一文を書いておられました。(「終わりと始まり」−政争でなく政策を−7月5日夕刊)。
前号の続きとして、終わりの部分のみ一部紹介させて頂きます。
「…首相の性格はどうでもいい。政策だけで政治を見よう。(中略)今、菅首相は「再生可能エネルギー特別措置法案」を通そうとしている。
この問題への彼の姿勢は一貫している。初当選した翌々年の1982年に、衆院科学技術委員会で再生可能エネルギーの普及を訴えた。
今回も5月6日には浜岡原発の停止を中部電力に申し入れ、10日には政府のエネルギー計画を白紙とした。送電事業を電力会社から独立させる「発送電分離」に言及し、26日のG8サミットでは1千万戸の家にソーラー・パネルを置くという構想を発表した。ぼくはどれにも賛成する。
その上で、あまり勘ぐりたくないと思いながら、この「政局の混乱」というのは要するに、電力政策の転換への抵抗が理由なのではないかと考える。主体は産業界、経済産業省、自民党、ならびに民主党の一部であるのだろう。…(中略)…
今、菅首相には罵詈雑言に耐えて電力政策の転換の基礎を作ってほしい。策謀が必要ならそれも使い、とんでもない人事も実行し、ぎりぎりまで居座り、改革を一歩進めてほしい。…」
2684号【2011年7月5日】
■<重い歳月>
1986年・チェルノブイリ爆発とその後についての番組(NHK/BA)が実に怖い話を伝えていました。ソビエト連邦崩壊後にこの事故処理を引き継いだウクライナ共和国はチェルノブイリに疲れ果てていること、膨大な経費を長期にわたって注ぎこまねばならぬ、しかし終息の確たる見通しが立っているわけではないこと。ウクライナの平均寿命は明らかに低下しつつあること、ある推定によれば20前後さがって平均寿命50数歳になるおそれあり、など陰鬱な表情で証言が続いていました。
これまで私たちはチェルノブイリを、遠く離れた距離で考えていました。しかしフクシマ原発災害を体験して、まさに私たち自身のこととして、これから重い歳月を耐えていかなければならぬ。暗然たる思いです。
菅内閣の命脈はすでに尽きたような報道が充満していますが、この間、注目させられた記事がありました。首相として浜岡原発の停止要請、自民党政権下のエネルギー基本政策を白紙へ、発電と送電の分離、再生可能エネルギーへの志向など。政策の体系的な動きではありませんが、首相のそんな言動が、菅内閣への急激な不信任案上程へ結びついたとする分析(東京新聞
6月3日記事、本多勝一「週刊金曜日」850号など)、興味深く読みました。
他方で経済産業省の「原発重視」はそのまま。海江田大臣の九州電力・玄海原発に対する地元町長への容認働きかけ。町長の同意発言。いったいフクシマの惨状をどう考えているのでしょうか。
丸浜江里子さん(杉並区)から「玄海原発再開を止めるために」のアピールが寄せられました(上掲)。「佐賀大学・九州大学・長崎大学など九州の先生方・学生の皆さまからも、ぜひ声をあげて下さい」と。人ごとではありません。私の隠れ家・油山は、玄海原発から40キロ余り。
2683号【2011年7月4日】
■<やんばるの風>
島袋正敏さん「黙々100年塾 蔓草庵」オープンのお祝い会(7月2日午後〜夜)は盛大な集いとなりました。東京で100名を超える会を開くとなると会場確保から集いの運営まで簡単ではありませんが、さすが!やんばるの大地。猪と山羊の数頭がわれわれをもてなし、張られたテントの下で自由な語らい、いつのまにか陽が落ちて、やんばるの夜風が酔いをさましてくれる、さんざめきに蛍も遠慮したような、そんな1日。
名護だけでなく、各地から古酒1升(会費)をさげての参会者。1石カメにそれぞれ自分で注ぎ込む趣向。毎年、7月第1週にこの催しを重ねていくそうです。名護とは30年を越すお付き合い、旧知の人も少なからず、この日の新しい出会いもありました。「やんばる島酒の会」や文化団体「みんたまぁ」、写真家、新報記者、大学や自治体関係者などにまじって、県議会・副議長や名護市議会の議長さんもいて、会も終わりを迎える頃には、稲嶺進・名護市長も現れ、久しぶりに乾杯しました。
名護では2002年に第42回社会教育研究全国集会が開かれたことはご存知の通り。この集会で結ばれたカップル(名護人と福島大学学生・当時)が、一粒種を抱いていました。嬉しい再会。岸本(旧姓・たしか鈴木)久美子さんは、浅野ゼミの卒業生か。この4月から名護市教育委員会で社会教育の仕事に就いたそうです。
名護の街に帰ったあと「大国林道」へ。皆さんに歓迎していただき有り難うございました。正敏さんご一家、終日お疲れさまでした。
▼左・島袋正敏さん、右・山口真理子さん、間に1石カメ(蔓草庵・古酒蔵、20110702) *関連写真→■
2682号【2011年7月1日】
■<那覇にて>
6月最終日。この日までに仕上げようと思った仕事は半分も出来ませんでした。猛暑でもあり、無理はしないで、すぐに諦めることに…。原稿が仕上がらなかったお詫びのメールを二つほど出して、沖縄行きの支度に切り替え。東京・雷雨のなか、2時間遅れの飛行機に乗って、いま那覇のホテルで本号を書いています。
今回は、名護・島袋正敏さんの山学校「黙々100年塾 蔓草庵」オープンへの参加(7月2日、風2671号・既報)が主ですが、あと一つ、リュウキュウアユを取り戻す運動(1985年〜、「蘇生する会」1991年〜)のその後の話を聞くのが楽しみ。島福善弘さん(名護博物館長)にお願いしています(7月3日午前)。“やんばる対談”の一部として、年報第16号に収録する予定です。今年は「リュウキュウアユを蘇生する会」からちょうど20年。名護では記念シンポジウムも開催されたそうです。(琉球新報6月30日記事)
<古いアルバム−掘り出しもの・5>
船橋の社会教育・公民館の畑を一すじに耕してきた佐久間章さん(クマさん)が亡くなって1年あまり。船橋の皆さんで追悼集の企画が進んでいます。クマさんを偲ぶ一文は(なんとか書いて)事務局にお送りできました。いつぞや本欄に書いたことがありますが、ぶんじんは1960年代に船橋の団地に住んでいた一時期(新婚時代)があり、そのときの出会い、なんと半世紀が過ぎたことになります。
今回の「古いアルバム−掘り出しもの」シリーズ、第5弾として、クマさんが(珍しく)写っている一枚にしました。1971年・第11回社会教育研究全国集会(会場:東京・読売ランド)の一コマ。当時の社全協委員長・吉田昇(お茶の水大学)、横山宏(国立教育研究所)、初代事務局長・野呂隆(東京都文京区)などの皆さん一緒の写真。40年前の若々しい顔が印象的です。このときクマさんは社全協・常任委員(のち副委員長)でした。
→■http://www007.upp.so-net.ne.jp/bunjin-k/albumhoridasi.htm
2681号【2011年6月29日】
■<原発に働いて・・・>
前号「夜間中学と教育を語る会」の続き。当日、夜間中学(荒川九中)卒業生の自分史(3冊目)や、写真家・小林チヒロさんの作品集(わらしこ保育園の記録など)2冊、AJALT(国際日本語普及協会)34「文花中学夜間学級訪問記」などを頂戴しました。有り難うございました。この雑誌の巻頭には、たまたま森実さん(大阪教育大学)「生涯教育論の発展と課題」が寄稿されていて、思わぬ出会い。
いくつかチラシも。「都立高外国人枠の拡大署名」呼びかけ(上掲)や原発問題をめぐる学習会案内など。そのなかに「日本熊森協会」通信67号・同封資料として、元原発建設現場監督・故平井憲夫氏(「原発被爆労働者救済センター」代表、1997年死去、享年58歳)が書き遺された「原発がどんなものか知ってほしい」(A4、10枚)が含まれていました。「原発の中のことはほとんど知っています」という立場からの告発。衝撃的な証言!運悪く夜遅く読んだものですから、当夜眠れませんでした。
「…原発には被爆の問題があり後継者を育てることが出来ない職場なのです。…腕のいい人ほど年間の許容線量を先に使って中に入れなくなります。…95%
以上まるっきりの素人、言葉は悪いのですが、いわゆる出稼ぎの人です。…私の体もぼろぼろ、内部被爆を百回以上もして癌になってしまいました。…ロボットでもという人もいますが、研究はしているのですが、放射能で狂って使えないのです。…」
「…原発は事故だけでなく、人の心まで壊しているのです。…原発は確かに電気を作っている。…しかし、原発は働く人を被爆させなければ動かないものだということです。…電気を作っているように見えて、何万年も管理しなければならない核のゴミに膨大なエネルギーが要るのは間違いないんですよ。その上に核のゴミや閉鎖した原発を管理するのは、私たちの子孫なのです。…原発は絶対に核の平和利用ではありません。」 この証言は、なんと!1996年の記録、驚きが重なります。
2680号【2011年6月27日】
■<東京「夜間中学と教育を語る会」>
今年の夏至(22日)前後、関東は猛烈な真夏日でしたが、その後は一段落、しかし蒸し暑い毎日が続いています。26日(日曜日)は、東京・夜間中学と教育を語る会(風2668号に既報)に参加しました。
5月に入って夜間中学関係の先生方より「風」配信希望が寄せられましたが、澤井留里(今年・文花中学を退職)、木下秀明(大田区糀谷中学)、須田登美雄(世田谷区三宿中学)、加えて、上掲・庄司匠の各位(風・新メンバー)にお会いできました。もちろん関本保孝、そして見城慶和の両先生(風・常連メンバー)にも。日曜日の午後、ゆっくりと時間をとって、心をかよわせての「語る会」、いいひとときでした。
終わって近くでビールの会。歓迎していただき、ご馳走になってしまいました。町屋駅前の名物・今川焼も土産に頂戴しました。見城先生の心くばり、有り難うございました。
この日のニュース。2003年に墨田区立文花中学校夜間学級を舞台に見城慶和先生の姿を追った映画「こんばんは」の監督・森康行さん。このたび大田堯先生(東京大学名誉教授、元都留文科大学長、元子どもを守る会長など)の映画「かすかな光へ」を完成させたそうです。題名は谷川俊太郎の詩から。副題には「93歳の教育研究者・大田堯の挑戦」とあります。完成披露有料試写会が、7月16日午後(14:00〜)早稲田大学・戸山キャンパス38号館(2F)AV教室、で催されるそうです。
この日は、残念ながら日本公民館学会七月集会(風・前号に案内)と重なっています。劇場公開は、7月30日(土)より「ポレポレ東中野」にて夏休みロードショーとのこと。
2679号【2011年6月25日】
■<173回目の定例研究会>
昨日(24日)は173回目のTOAFAEC定例研究会でした。1995年6月の第1回研究会から足かけ17年、毎年ほぼ10回の研究会を重ねてきたことになります。取り上げてきたテーマは、沖縄から東アジアの拡がり、さまざま。事務局など中心メンバーを別にすれば、多くの参加者がこの研究会を通り過ぎていきました。ホームページに第1回以降の研究会の案内、記録そして写真を掲載。
→■
これまでの研究会の“群像”を想いおこしています。研究会17年の歳月は、ぶんじんにとってこの17年の歴史そのものとなりました。
この日の研究会の主役は、前日(23日)に帰国されたばかりの伊藤長和さん、お元気の様子。日本留学の教え子も二人同行して、賑やかな会となりました。歓迎の会では久しぶりに歌もたくさん。いずれ次号あたり報告が寄せられる予定です。
しかし、最近は沖縄のテーマが(相対的に)少なくなりましたね。前身の「沖縄社会教育研究会」(1976年以降、通算128回の開催)では、一貫して沖縄だけを取り上げてきたこと、今となっては驚き・・・。
今月末から沖縄行きです。風2671号(6月10日)島袋正敏さんからのお誘い(「黙々100年塾
蔓草庵」オープンのお祝い、7月2日午後)に馳せ参じる予定。その前日(1日19:00〜)は那覇「おきなわ社会教育研究会」の皆さんと。翌日(3日午前)は、源河「琉球アユを呼び戻す運動その後」を島福善弘さん(博物館長)に聞く予定。いま沖縄は台風5号が八重山を直撃し久米島あたりを北上中か。月末は台風一過、夏真っ盛りの沖縄でしょう。
▼第173回研究会のあと・伊藤長和さん(左端)を囲む会(高井戸、110624)
2678号【2011年6月23日】
■<摩文仁の丘>
本日は6月23日。誰かさんの誕生日と聞いていますが、沖縄では沖縄戦(1945年・組織的な戦争)集結の日、戦没者の慰霊の日です。多くの方々が摩文仁の丘に足を運び、「平和の礎(いしじ)」に刻まれた親や兄弟、親族の名前に手をあてて、涙を流されていることでしょう。
私たちが沖縄研究を始めたころ、まだ「平和の礎」はなく、県の平和祈念資料館も小さな規模で(今の場所ではなく)摩文仁丘への登り口近くにポツリと建っていました。ゼミの学生や沖縄に関心をもつ市民グループなどを案内をして、数えきれないほど「摩文仁の丘」へ行きました。
まず平和祈念資料館に入ってもらって、そのあと丘の入口の「島守の塔」の前で短めのレクチャーをするのが常。一般論としての沖縄戦でなく、東京学芸大学との関係を固有名詞でつなぐ話も交えながら…。「あの時の話、よく憶えています」という回想を聞いたこともあります。
丘の頂上に旧陸軍司令官が自決した「黎明の塔」。その手前の展望台で一行を待つうち、眼下の海から轟いてくる潮騒に身をゆだねながら昼寝をした思い出も。そこから急峻の崖を降りると、旧師範学校(男)の犠牲者(鉄血勤皇隊など)を悼む「健児の塔」。思い出は尽きません。
ところで明日(24日)夜は、6月定例研究会(会場・高井戸区民センター)です。今日23日に帰国されたはずの伊藤長和さんを囲む会(案内・上掲)です。パソコン不調で、最近は「烟台の風」が届かず、すこし心配していますが、お元気な顔と声に再会できることを楽しみにしています。
2677号【2011年6月21日】
■<“Y字港のあるまち”−鹿嶋市訪問>
日曜日(19日)は、鹿嶋市からのお誘いをうけて、久しぶりの鹿嶋詣で。今回の大震災では、倒壊や瓦礫こそ見えませんでしたが、鹿嶋も激甚の被害いろいろあった様子。あらためてお見舞い申しあげます。旧知の皆さんに歓迎していただき、有り難うございました。まちづくり市民センター・森下松寿さんのご配慮(美味しい蕎麦など)により、充実した一日となりました。
鹿嶋は1960年代の経済高度成長下、Y字型の人工港を軸に大規模な地域開発(いわゆる鹿島方式による「鹿島開発」)をとげた典型的な自治体です。1970年代に入ると、当時としては画期的な大型の中央公民館が竣工(1972年)、その後の町村合併の経過を含めて、10館の地区公民館体制も整備されました。当時、社会教育主事資格をもった元気あふれる職員集団が形成され、活発な社会教育・地域活動が繰りひろげられた話題の自治体でもありました。
私たちのゼミ(東京学芸大学社会教育研究室)のフイールドワーク実習をかねて、鹿島調査をしたことがあります。公民館に寝泊まりし「地域開発と社会教育」をテーマに本格的な取り組み。その報告書が標題の「Y字港のあるまち」(1)(2)(1985年)です。公民館長に蒲団のお世話をお願いしたことなど、当時の思い出話も出て、懐かしい限り。
その後「自治体改革」の動きの中で、地域管理型公民館として公民館主事が嘱託化される動きがあり、「月刊社会教育」に森下さんの報告が載りました(2003年7月号)。自治体当局はこのことを問題視する経過があり、森下さんにつらい思いを強いたことがありました。これは苦い思い出。一時は辞める気持ちを固めたとか。ちょうど8年前のことです。
2676号【2011年6月20日】
■<時には流血を伴う厳しい反原発闘争>
思いがけなく谷和明さん(東京外国語大学)からハンブルク・アルトナーレ(市民祭)のレポートが届きました。旅先から長文のメール、感謝!です。アルトナ区役所の前夜祭パーティ、ヴェントさんの顔、社会文化センター・モッテの中庭など、目に鮮やかに浮かんできます。先日の公民館学会からドイツ・ハンブルクへのフットワーク、お見事です。
トールマンからの伝言も拝読しました。有り難うございました。心のこもったメッセージ。彼との沖縄への旅(2001年)は当方にとっても懐かしい思い出となっています。ドレスデンへのお誘いは、前にも受けましたが、ちょうどその年に家人の骨折事故あり、訪独できず。せっかくの好意に応えることができませんでした。
たまたま地震揺れの置き土産。トールマン・ぶんじんの、南の海で泳ぐ裸の写真が出てきたことは、風2665号本欄で書いたとおりです。撮影は同行の名護・島袋正敏氏。男二人の裸像が数枚、そのうちの1枚を上品?にトリミングして「2000年・ドイツ訪問」記録の隅に載せています。青い海を背景に、なかなかの出来映えだと勝手に自薦していますが。
→■http://www010.upp.so-net.ne.jp/mayu-k/deutsch2000.htm
反原発闘争について。「自分たちはチェルノブイリの後、時には流血を伴う厳しい反原発闘争を行ってきた。日本人も今回の事件を教訓に闘いを始めるだろう。そうでなければ、破滅だ。」(トールマン)。「このような意見は、トールマンだけでなく、ここアルトナの市民活動家たちに共通しています。」(谷和明)
2675号【2011年6月18日】
■<『道程−ことばを紡いで二十年』>
このほど林貞樹さん(1964年〜福岡市公民館主事、社会教育主事、旧公民館職員協議会や市職員労働組合等で活躍)より、新著『川柳エッセイ集・道程−ことばを紡いで二十年』(2011年5月刊、新葉館出版)が送られてきました。林さんには、すでに自分史『福岡の公民館と歩いて三十年』(1994年、私家版)があり、ぶんじんもお祝いの一文「社会教育運動の歴史を担って」を寄せています(HP「アーカイブス」<24>にも再録)。その終わりの部分の一節。
「…これまでいつも元気でたくましく、病気などしたことがないような林貞樹さんが、最近体調をこわし、療養しているという。ながい道のりには無理もあったのだろう。しかし、林さんは必ずやこれを克服して、また一諸に元気に歩き始めるだろう。この自分史に脈うっているエネルギーがそのことを私たちに語りかけている。道はなおつづく。ともに歩いていけば、そこにきっと新しい風景が開けてくるに違いない。」
→■ http://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/archives.htm
1990年に膠原病を発症されたのでした。病と付き合いながら始めた川柳の道、それから二十年の歩み。新著『道程』を開いて、見事な“新しい風景”が見えてきました。元気な作句活動、川柳を通してのボランティア。本には大震災の犠牲者を悼む一章・20句も加えられています。
3年前の喜寿の祝いにわざわざ福岡から出席され、そのとき頂いた杉の短冊一つ。「共白髪一つの貌でこと足りる さだき」。あらためての御礼と、30年に20年を加えた半世紀の『道程』にお祝いを申しあげます。
今回の
「古いアルバム−掘り出しもの・4」の1枚は、林さんが中心に写っている42年前の画像。社会教育推進全国協議会(社全協)全国運営委員会(多分?1969年、蒲郡)を掲げることにしましょう。徳永功さんや故野呂隆さん、よく見れば、ぶんじんも隅っこに。
→■
http://www007.upp.so-net.ne.jp/bunjin-k/albumhoridasi.htm
2674号【2011年6月16日】
■<映画「亡命」−いつの日に故郷に帰れるか>
いま渋谷で映画「亡命」(翰光・監督)が上映されています(シアター・イメージフォーラム)。中国の文化大革命後から天安門事件(1989年)に至る時期に海外へ亡命を余儀なくされた知識人たち(作家、劇作家、牧師、詩人、画家、彫刻家、歴史学者など)約20人の現在を追ったドキュメンタリー作品。2008年から2年をかけて世界各地で試みられたインタービューの記録です。
バックに「インターナショナル」の歌声が流れてきました。そういえば、私たちの研究室でも、あの頃はよく歌ったものでした。中国留学生が中国語で、こちらは日本語でうたい、最後の歌詞「ああ、インターナショナル〜」というところで、合体するのを楽しんだものでした。
夜9時からのナイトショー。次から次へと続く証言に疲れて(実は夕食にビールを飲んでいた)、うとうとしたところで、叱咤するように突然「松花江上」の絶唱が始まりました。「わが家は松花江のほとり、そこに森あり、鉱山あり、大豆・コウリャンみのる、九一八、あの日から故郷を追われ、流浪、いつの日に故郷に帰ることができるだろうか」の歌詞は、いま亡命知識人たちにとっての愛唱歌となっているようです。
「 … みんな孤独を怖れていた。土曜の夜は皆で食事を作り、おしゃべりをした。最後は必ず“松花江上”を歌った。故郷に帰れるのはいつの日かと。」(張伯笠・牧師、映画パンフレットより)
ノーベル賞作家・高行健(在パリ)の独白。「知識人は個の立場からものを言うべきだ。個の声こそが真実の声であり、権力の拡声器にならずにすむ。」(同パンフレット)
渋谷からの帰り道は雨となりました。
2673号【2011年6月14日】
■<韓国研究フォーラム>
6月12日(日)は久しぶりの韓国生涯学習研究フォーラム。前回は大震災直前の3月8日でしたから、3ヶ月余りが経過したことになります。この間に日本を襲った大激震。さまざまの悲しみ、驚愕、怒り、無力感など、これまでにない経験の3ヶ月。涙もろくもなったような…。被災地は1945年敗戦期の惨状にも似て、しかしあのときの解放感などない! 原発問題は3ヶ月で終わったわけではない。あらたな挌闘をこれから強いられることになりました。そんなことも考えた1日でした。
研究フォーラムでは、小人数ながら、大事な話が出来ましたね。とくに昨年韓国に向けて出版した『日本の社会教育・生涯学習』の日本国内版の企画。関係の皆様に近く新しい「お願い」が届くと思います。小さくとも新しい研究の歩みを刻みたい思い。どうぞよろしくお願いします。
当日の参加者から。呉世蓮さん「私の研究についての貴重なアドバイスなど、ありがとうございました。…話を伺いました夜間中学校に一度、お邪魔させて頂いてもよろしいでしょうか。多文化教育が行われている様々な現場にもできるだけ足を運びたいと思っております。…」
金侖貞さん「研究会ではありがとうございます。懇親会は参加できず失礼致しました。…TOAFAEC
研究会の案内を書いてみました(上掲)。伊藤先生にタイトル確認しました。2〜3日前にパソコンが壊れてメールの確認ができない、皆さんにも伝えて下さいとのこと。」
研究会が終わって、李正連さんの研究室を初めて訪問しました。窓外は見事な緑が揺れていました。このあと本郷三丁目駅横で盛大な懇親会。
▼東大・李研究室訪問(川野佐一郎さん撮影、20110612)
2672号【2011年6月12日】
■<福建省の意欲>
福建の李斗石さんより、福建師範大学「終身教育本科学科」設置の構想があり、それをめぐるインターネット・テレビ会議の企画ご案内をいただきました(上掲)。突然のことで、具体的な内容はまだ分かりませんが、何よりその意欲と積極的な取り組みに驚きます。大学としてこの種の新学科(コース?)構想は中国で最初の試みとか、成功を祈ります。テレビ会議についても、出来る限りの協力・参加をしていきましょう。
中国研究フォーラムの黄丹青さん(目白大学)、上田孝典さん(筑波大学)による早速の意見交換が始まっています。一つは、日本から数人のテレビ会議への出席者が求められている件。上田さんから、「牧野先生にお願いしてみてはどうか」の意見。賛成!です。牧野さんにも「南の風」が配信されていますが、上田さんから打診してください。もちろん日程にもよりますが・・・。また日本側の会議場を「風の部屋」でというご提案。残念ながら(お酒の用意は万端遺漏ありませんが)ネットにつながりません。場所についてもご検討を。
テレビ会議については韓国にも依頼されている由。三国間トライアングル会議の新しい実験。今後の相互交流にとって興味深い試みですね。
TOAFAEC 第16号編集委員会として、福建省の「躍動的な動き」について原稿執筆の依頼をしていましたが、ご快諾いただき、しかも「日本語で書くよう頑張ります」との添え書き、有り難うございます。どうぞよろしくお願いいたします。
2671号【2011年6月10日】
■<“やんばる”へのお誘い>
沖縄は例年より早く梅雨明け宣言のニュース。さきほど島袋正敏さんから待望の“やんばる”「黙々100年塾・蔓草庵」オープンの集い、ご案内(上掲)が届きました。ハタケに4年越しの手づくり作業、古酒運動やものづくり塾の拠点完成間近か。おめでとうございます!
もと底仁屋小学校(華東師範大学メンバーと訪問したこともあり)の前、御神松の下、ぐるりと清流がながれ、やんばるの風吹きわたる一隅に、古酒カメ(50個)ボトル(700本)が並ぶとのこと。収集30年の蓄積、あたかも私設博物館・準備室の賑わいにも似て…、当日が楽しみです。
「…来る7月2日(土)4時半ごろから8時半ごろまで仮オープンの会をもちますので、都合の付く時間にお越しください。ヤギ汁と刺身、猪汁と焼肉、泡盛古酒とオリオンビールを準備します。会費は43度以上の泡盛(一升瓶)をご持参ください。ご持参いただいた泡盛は各自で大きな甕へ詰めていただいて、毎年7月の第一土曜には古酒を楽しむ会をもちます。」(島袋)とのこと。
南の風では、これまでチラチラと載せていましたが、案内掲載としては初めて。ご関心おありの方はご一緒いたしましょう。その前夜、那覇で「おきなわ社会教育研究会」の旧知の方々が集まっていただくそうです。7月1日午後7時(沖縄県青年会館近く)ホテルサンワのロビーに集合。また翌日(3日午前)は、「やんばる対談」として“琉球アユを呼び戻す運動”とその後について、源河の島福善弘さん(現・名護博物館長)にお話を聞く予定です。この3日間の折りをみて、新「沖縄研究フォーラム」のこれから、あるいは本づくり構想など、話し合うことができれば幸い。
ANA・JALの早割チケットはすでに入手できませんが、スカイマークを利用できれば、割安の便がとれそう。主要スケジュールは7月1〜3日。参加ご希望(問い合わせ)の方はご一報ください。ホテルなど一緒に予約できます。遅ればせのご案内まで。
▼2008年7月・名護訪問 市の花「さがりばな」(底仁屋・正敏ハタケ、20080706)→2692号へ移動
2670号【2011年6月9日】
■<音容日に遠し>
4月下旬の本欄で故横山宏さんの本を引用したことがあります。「小女子(コウナゴ)の悲しみ」(2638号)と題して、食べ物の話を書きました。再び横山著『社会教育雑記』から一文をお借りします。故吉田昇先生を偲ぶ一文です。
「…雑柿(ぞうし)会という、その名を聞いただけではなんのことだか分からない会がある。大学における社会教育職員の養成、という共同研究に参加したメンバーが中心となって、なんとなく集まった会である。
毎年最低一回、熱海にある早稲田大学の所有する坪内逍遙の別墅『双柿舎』(庭に大きな柿二本があり、逍遙は生前ここで多くの日を過ごしたという)を借りて会合していたことから、『双柿』をもじって『雑柿会』と名づけ、やや落ち着いた雰囲気で社会教育をめぐっての暢談をしてきた会である。吉田さんはその会の主要なメンバーであり、またよきリーダーであった。…」と続きます。(『吉田昇著作集』月報、1982年)
10日前の本欄「古いアルバム−掘り出しもの・2」では、この雑柿会の囲碁勝負の一コマを掲げました。
掘り出しもの・3としては、翌朝の『双柿舎』の庭、ご一同の記念写真をアップしました。みなさんの丹前姿を見ると、やや寒い季節、1978年の初冬か翌早春と思われます。
http://www007.upp.so-net.ne.jp/bunjin-k/albumhoridasi.htm
→■
まさに「音容日に遠し」(横山)です。亡くなられた方が大半ですから、キャプションに−若い世代の要望もあり−お名前を記すこととします。この会には、寺中作雄さんも来ていただき、公民館創設の頃の思い出話を聞いたことがあり、画家・寺中さんが即興で小川利夫さんの似顔絵を書かれたことも想い出されます。
2669号【2011年6月7日】
■<ゆるやかな組織論>
本号は、私たち「東京・沖縄・東アジア社会教育研究会」(TOAFAEC)の特集号−総会記録、年報編集報告−となりました。南の風、同ホームページは、もともとTOAFAEC
の公式機関誌・HPではありませんが(小林の私的な発行)、発会以来、この15年間ほど、自発的にその広報機能を担ってきましたので、研究会案内・記録等を含めて、本号のような特集号となる場合もあるのですね。最近の「風」参加の皆さんは、分かりにくいところもあると思いますので、この機会にTOAFAEC
組織について、ちょっと書いておきます。
もともとTOAFAEC (1995年創設)は、沖縄社会教育研究会(1976年〜)を前身とする普通の小さな学習サークル。総会も規約もさしたる役割分担などありませんでした。最初は中国(上海、広州)からの訪日団の文書上の引き受け団体となる経緯から、日本領事館より規約・役員などを求められ、2000年頃から一応の公式の体制を整えるようになりました。総会を開くようになり、北京に頼んで、四角の印鑑を用意したり。
→ http://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/toafaec.htm
→■
TOAFAEC 規約には、会員・留学生会員・維持会員制を設け、それぞれ会費を明記してきました。しかし実際には(むしろ?)会員以外の方々の自由な参加を歓迎してきました。組織限定的な活動というより、留学生を含め組織外の多くの関心あるメンバーに活動をひろげていく姿勢。サークルとしての初心を大事にして、開かれた広場論、ゆるやかな組織論、の考え方による運営です。それだけに活動の中心を担う事務局の役割が(負担も)重いということになります。よく頑張ってきました。
もちろん、正式に会員(会費2000円)あるいは維持会員(年報10冊の負担20,000円)への参加歓迎!
カンパ・寄付などもちろん大歓迎!
2668号【2011年6月6日】
■<総会おわり今年度はじまる>
6月5日は年に一度の総会、今年も学会六月集会の終了後、(大学内の会場がとれず)お茶の水駅そばの居酒屋(個室)で開かれました。末本誠代表(神戸大学)はじめ、韓国からは肥後耕生さん(公州大学)が出席、他にも初めて参加の方が数人、にぎやかな総会となりました。総会記録→■
終わって、皆で神田駿河台を下り、神保町の三省堂へ。放心亭で久しぶりのドイツ・ビアを楽しみました。夕刻から夜へ、ひたすらビールを飲み続けたような総会。皆さま、お疲れさまでした。記録は、ちかく事務局長から送られてくる手はず。
これで今年度の新しい歩みが始まります。早速、6月の定例研究会について。総会や7月七夕の会(10日予定)のスケジュールあり、6月末24日(金)定例日をどうするか、検討中でした。さきほど新着「烟台の風」(170号、上掲)に附された伊藤長和さんの元気な前文、次の通り。
「今日6日は旧暦の5月5日・端午節です。2週間前からスーパーでは色々な具の入った粽が売られていました。今朝のテレビでは、屈原の故事に因んで始まった「龍船」の競争が、各地から放映されていました。沖縄のハーリー競争や長崎、天草のべーロン競争、高知県須崎市や
…。.6日は端午節の休日。7日から10日まで期末試験を行い、そのご採点と成績表の作成で、今年度は終了となります。私は6月23日に帰国できそうです。…」(06
Jun 2011 10:21) とのこと。
帰国早々でお疲れでしょうが、24日夜は「伊藤長和さんを囲む」かたちで、研究会(第173回)を企画してはいかがでしょうか。
▲居酒屋での総会(お茶の水、20110605) 写真→■
2667号【2011年6月5日】
■<「津波に向かって走った記者たち」>
いま出ている『週刊金曜日』(6月3日号)に、標題の記事(長沼節夫)が載っています。心揺さぶられるものがありました。リアス式海岸が入り組む三陸沿岸地方は、かねてから地方新聞が発達し、きめ細かな地元のニュースが報じられてきました。
地元紙の記者たちが、3・11の当日、「津波だ!」の声にどう動いたか。カメラを手に海に向かって駆けていった姿(その後、遺体発見)、海岸近くにカメラを構えて濁流に囲まれ、沖合に流されていく映像(同記者は奇跡的に助かった、岩手東海新聞・釜石)、カメラを車に積んで海に向かったまま行方不明、後になって車だけが見つかり、中に残されたカメラには迫りくる津波が写っていた(東海新報)などのレポート。
「…もちろんこれほどの巨大津波とは思わなかったろうし、スクープ精神も大きい。しかし筆者は“記者魂”だと思う。」(長沼)
震災当日から、油性ペンで手書きの新聞を出し続けた話題の「石巻日日新聞」でも、津波取材の記者がそのまま海に流され、一晩漂流し、自衛隊機が救出、病院に収容され、6日目に社に生還したとき、社員は狂喜したそうです。石巻日日新聞の手書き壁新聞は、ワシントン・ポストで紹介され、現物がニュース・ジャーナリズム博物館に永久保存された話も報じられました。同社長は「私たちが褒められるのは間違い。2年前から自家発電を用意し停電の中でもいち早く印刷を再開した『東海新報』さんこそ賞讃されるべき…」との談話。いい話です。
いつも南の八重山毎日新聞から読んできましたが、上掲の東北の地方紙もそれぞれWeb
サイトあり、圧倒的な震災情報(身元不明遺体情報など)に驚かされます。岩手東海新聞は再建の見通しがたたず、元記者による「復興釜石新聞」が発刊されるそうです。(日本経済新聞6月4日)
2666号【2011年6月2日】
■<「わが友の死」前後>
私の大学院時代の友人・川崎隆夫君が1978年春、桜の花が散るように急逝しました。当時、福岡県教育庁社会教育課長に就任したばかり。まだ45歳の若さでした。多くの人が突然の死を悲しみ涙にくれました。
「月刊社会教育」1978年10月号「ろばた」欄に、表記のタイトルで追悼の一文を書いています。今回のアルバム整理のなかで、彼が写っている珍しい画像が出てきましたので、この「わが友の死」記事にあわせてHPに挿入しました。「追悼アーカイブス」の冒頭部分。ご覧ください。
→■
30余年前の写真は、原版劣化により不鮮明なものですが、私たちの沖縄研究の歩みにとっては重要な1枚。沖縄側との初めての合同研究会の記録です。
「わが友の死」の半年前、1977年の夏に福岡で社会教育研究全国集会(第17回)が開かれました。復帰後の沖縄が初めて参加した大会。沖縄資料は船で博多港に運ばれ、会場の一角で「沖縄コーナー」がオープンし注目を集めました。沖縄側の宿泊は当時新築したばかりの油山の寓居。
大会の翌日、私たちの沖縄社会教育研究会(東京、1976年発足)と沖縄からの参加メンバー(玉城嗣久、上原文一、喜納勝代、当間ふじ子ほかの皆さん)に加えて、横山宏、小川利夫、諸岡和房、猪山勝利などの各氏が出席されました。そこに川崎隆夫君も参加していたのです。彼は琉球「文化」の視点を忘れてはならないことを発言していました。
東京では、その翌月に『沖縄社会教育史料』創刊号が発刊され、那覇では2ヶ月後に「おきなわ社会教育研究会」が発足した年。TOAFAEC
の今につながる沖縄研究、その道が確かな足どりで始まった合同研究会でした。
2665号【2011年6月1日】
■<南の島で泳ぐ・裸の付き合い>
8年ぶりに公民館に戻られた飯田市公民館・木下巨一さん(副館長)より、思いのこもった公民館レポート(上掲)。有り難うございました。木下さんは、早くからの風メンバー。2005年の福岡全国集会の折りには、油山の夜の集いにも参加されました。8年前の異動で「風」は中断していましたが、先日(29日)の公民館学会で久しぶりに再会し、懐かしい“木下節”を聞きました。杯を交わす時間がなく残念。風・配信の“再開”を約束して別れたのでした。長文のレポートは2回に分け、後半は次号に。風に追々と飯田市の話題が出て、賑やかになることでしょう。
ところで「古いアルバム」“掘り出しもの”シリーズについては、ご存知の通り。いま本欄で2弾目を紹介したところ(風2657号、2663号)。実はこれ以外にも、いくつか古い写真を探し出してHP文中に掲げています。読んでもらえぬHP記事に、多少でも変化をつけようとの思い。
たとえば1974年の吉田昇先生の温顔、1995年の“解放”された顔のぶんじん・最終講義、2000年ピラミッド前の写真等。なかでも勇気を奮ってアップしたのは、ヌードの一枚。2001年に沖縄・水納(みんな)島で泳いだ思い出の写真です。ドイツ・ハンブルクの建築家ウーリッヒ・トールマン氏を案内したときのツーショット、撮影は島袋正敏さん。少しトリミングし上半身のみ。海の青、空の碧を背景に見応えある?1枚。
これも大地震がもたらした思わぬ拾いものです。埋もれていた古い写真が散乱の中に顔を出し、拾い集め作業で蘇りました。また、画像をスキャンして簡便にデジタル化できるプリンターの効用も。さて、HPのどこに隠れているか・・・お探しあれ! *ヒント
→ ヌードについては、「追悼・アーカイブス」一覧から「ドイツ訪問」関連(
→■)の末尾へ。
2664号【2011年5月30日】
■<シマ共同体の活気>
昨年から今年、ぶんじんの周りに楽しくない話があり。その上に大震災・放射線の問題が襲ってきて、ウツの気分で過ごす時間が多くなっています。それと関係ありそうな人には議論をふっかけるような、落ちつかない心情が続いて、迷惑を被った人もいます。ご容赦ください。(最近は、思わず激して、反省して、謝ってばかりの生活?)
ところがこの数日、嬉しいニュース。あまり音信のなかった人より突然の便り、いい話が動いている模様。あるいは日中学院・胡興智さんは、歌づくりの努力を続け、十本の歌を披露(上掲)したあと、追伸あり。“私信”あつかいながら、いいニュースの到来。10月からNHKラジオ・中国語入門講座のゲスト出演をすることになるらしい。これまでも放送用教材の手伝いもしている人。初めてのチャレンジ、成功!を祈っています。
そして昨日(29日)は、皆さんにもお誘いした竹富郷友会の総会・懇親会(2660号)。あいにくの雨でしたが、言いようのない「シマ共同体」の溌剌たる活気にひたり、打たれるものがありました。
同行した山口真理子さんから未明のメール。「…昨日は、竹富島郷友会へのお誘い、ありがとうございました。おかげさまで、VIP席で堪能することができました。…それにしても、いつも思うことながら、あのエネルギーはすごい!」(Mon,
30 May 2011 04:31)
島の芸能は、シマ共同体の自治と活力に支えられてきましたが、同時に芸能(祈り、歌、踊り)が、シマを横につなぎ、相互の連帯感と誇りを生み出してきているのです。
▼総会第2部・懇親会、中央の渋い着物姿が上勢頭芳徳・公民館長(國學院大學にて、20110529)
2663号【2011年5月29日】
■<古いアルバム・掘り出しもの・2>
東京竹富郷友会に、竹富島から上勢頭芳徳さん(公民館長)が上京され、久しぶりに“風の部屋”にお泊まり。手みやげに島のサーターアンダ−ギー(油揚げ菓子)をいただきました。一人住まい(いま家人は九州行き)には多すぎるので、昨日(28日)の日本公民館学会(スプリングフォーラム)へ持参、受付などでご苦労の筑波大学グループへ差し入れました。竹富から海を渡ってきた手作り菓子の説明を失念、味はどうだったかしら。
学会では、つい発言し、年甲斐もない。終わっての懇親会でもビールが入って、またしゃべり過ぎ。帰宅の道で反省しきりです。
さて、風2657号・本欄で、
古いアルバム“掘り出しもの”について書きました。思いがけない反響あり、リクェストも頂きました。図に乗って、散乱したアルバムから−第2弾の写真をHPに入れました。
→■
少し長めのキャプションを…。日本社会教育学会・共同研究(科研費)「社会教育職員(養成)研究」を契機として、1977年から数年、熱海「双柿舎」で宿泊・研究会が開かれたことがあります。名付けて「雑柿会」。宿題研究の主要メンバーが参加し面白い論議が交わされました。同研究会は4冊の調査報告等を刊行し、さらに学会年報第23集『社会教育職員の養成と研修』(1979年)へと結実しました。
1978年「雑柿会」の夜の一コマ。碁盤をかこむ小川利夫・横山宏のお二人、横には碓井正久先生、傍目八目(おかめはちもく)の小林。
2662号【2011年5月28日】
■<想い出つきず−新城捷也さん>
24日の那覇からの訃報(新城捷也さん、23日に狭心症により急逝)。在りし日を偲びつつ写真を探していると、いろんな想い出がめぐってきます。とくに印象的なことが幾つかあります。
私たちの沖縄研究(1976年)、当初は那覇や読谷などで戦後初期の社会教育関係者の証言収集が中心でした。はじめて“やんばる”に入ったのは(1977年)、新城さんの車でした。安里英子さんが案内役。東海岸から名護市役所、今帰仁村へ。若い建築家集団「象グループ」の仕事(両自治体の基本構想づくり)と出会う旅でもありました。あのころ新城さんは沖縄県教育庁・社会教育主事。宮城英次さんとご一緒に青年担当として息のあったコンビ。青年たちとの豊かな信頼関係を想い出します。
やんばる行きでは、今帰仁村与那嶺の母上の(叔父・仲宗根政善先生の)生家にも寄りました。今でも今帰仁村を通ると当日を思い出します。
首里の仲宗根政善先生のお宅に初めてお邪魔して(1978年)、貴重な話を伺うことが出来たのも、もちろん甥・捷也さんのお引き合わせ。喜納勝代さん、当間(現・名城)ふじ子さんがご一緒でした。この日の証言は私たちの『沖縄社会教育史料』第3号に収録。これにまつわるエピソード(失敗談)は、「南の風」177号(1999年2月)に書き、また「仲宗根政善先生を偲ぶ−『追悼・仲宗根政善』に寄せて」(18)としてホームページにも再録しています。http://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/archives.htm
→■
東京の沖縄社会教育研究会(東京学芸大学)と並んで、1年おくれで創設された那覇「おきなわ社会教育研究会」(1977年〜)の中心メンバーでした。社会教育ひとすじの道。晩年はなんどか体調をこわされ闘病生活でしたが、悠々たる人生を歩まれた方だと思います。2008年3月、上海・華東師範大学及び韓国からの一行が初めて沖縄を訪問したとき、「おきなわ社会教育研究会」を代表してお元気な挨拶をされた姿を思い起こしています。
▼新城捷也さんのご挨拶、左側は呉遵民教授(通訳)−20080326、沖縄青年会館ー
写真移動
2661号【2011年5月25日】
■<TOAFAEC 総会の会場>
風2657号に今年度「総会」の案内を掲載しました。しかし会場が未定のまま。事務局長・遠藤さんが明治大学(学会六月集会)に依頼していましたが、適当な(無料の)部屋がないそうです。最寄り駅(JRお茶の水駅)近くを探して、次の会場となりまりました。昨年と同じく居酒屋。個室だそうですから、疲れを癒しながら談論風発の総会となりましょう。ただし飲食代の負担が必要、ご容赦を。ふるってご参加をお願いします。
○TOAFAEC 2011年度・総会
日時:2010年6月5日(日)16:30〜18:30(学会プログラム終了後)
議題:2010年度活動報告・会計報告、2011年年度活動について、『東アジア社会教育研究』第16号
の編集・出版について、2011年度予算・活動について、その他
会場:魚盛(うおもり)〜海鮮酒場(個室) 千代田区神田駿河台2-4-1
TEL 0120-58-7030 03-5217-1007 http://r.gnavi.co.jp/g068278/
アクセス:JR中央線御茶ノ水駅 お茶の水橋出口 徒歩1分、明治大学(学会六月集会会場)から徒歩3分
総会案内
→■http://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/03soukai2.htm
○福建省・李斗石さんへ。『終身教育』2011年第2号(「3・11東日本震災と社会教育」収録)が届きました。有り難うございました。翻訳を含め、短い日数であざやかな編集・発行のお手並み、感じ入りました。「南の風」についても言及あり、恐縮いたしました。関係の皆様にどうぞよろしく御礼をお伝えください。
2660号【2011年5月24日】
■<東京竹富郷友会>
風2656号本欄にご紹介した「東京竹富郷友会」総会・親睦会は、次のような日程です。日時:2011年5月29日(日)総会12時30分? 親睦会13:00〜 場所:國學院大学たまプラーザキャンパス「若木21、6階レストラン」最寄駅 東急田園都市線 たまプラーザ駅 徒歩9分。(http://tk.taketomi.org
/ )
竹富島(親島)からは公民館長・上勢頭芳徳さんが上京されます。今年の総会は、なんと!第86回。当方は、もちろん郷友会の会員ではありませんが、「…どなたでも参加できます。…友人・知人をお誘い頂き多くの皆様のご出席を賜りたく…」の言葉に甘えて、ひととき竹富島に遊ぶ気分にひたります。親睦会の芸能プログラムからは、竹富・種子取祭(国の重要無形民俗文化財)の片鱗を味わい、あわせて自治組織・竹富公民館の共同・連隊(「うつぐみ」の取り組み)の蓄積に思いをはせてきました。もし参加希望の方があれば、ご一報ください。ご一緒いたしましょう。
竹富島については、TOAFAEC ホームページに対談・交流記録・論文等を載せています。「竹富島憲章」(1986年)も。あわせてご覧下さい。
→■
ここまで書いたところで那覇から訃報。「おきなわ社会教育研究会」の中心的メンバーであった新城捷也さん(もと沖縄県教育庁・社会教育主事)が昨日未明、亡くなられたそうです。名城ふじ子さんや鷲尾真由美さん(上掲)から報せていただきました。1977年以来のお付き合いでした。心からご冥福をお祈りします。
2659号【2011年5月23日】
■<ピラミッドの前で−古い写真>
烟台の伊藤長和さんが元気です。上掲「烟台の風」に附されている前文(いつも省略)だけでなく、さきほど届いた別の便りでは連日の深酒。
「…先ほど、威海の旅行から帰宅し、別の飲み会で今酩酊しております。19〜20日と運動会のため。4連休です。そのため連日学生に誘われ、遠出をして深酒をしています。今日は、威海の旅行の後、魯東大学、烟台大学、山東工商学院の日本人教師の会を立ち上げ、ドイツビールの店で初めての交流会をしました。もちろん私伊藤が幹事です。お節介役の性格は、いつまで経っても直りません。
明日は、郊外の岩山の昆崙山に登ります。烟台で一番高い山です。深酒でちょっぴり心配ですが、学生に元気を貰おうと考えています。…」(Sat,
21 May 2011 22:37、伊藤長さん、私信?を載せてすみません。)
風2657号・本欄で「古いアルバム」のことを書きました。先月、地震で散乱した書類・写真の山、整理中にたまたま伊藤さんが作成した丹念なエジプト旅行の記録・アルバムを発見。2000年9月にカイロ・アーデルさんを案内役に企画した楽しい旅でした。日本や、ドイツ、パリなど、各地からカイロに集合した9人組。このときも伊藤さんが元気。その中のピラミッドの写真1枚をデジタルにうつして「ナイル通信」(2000年、当時「南の風」に連載)のページに載せました。1990年に初めてエジプトを訪問した記録も含まれています。あれからすでに20年余り。http://www010.upp.so-net.ne.jp/mayu-k/egypt.htm
→■
2658号【2011年5月21日】
■<20日の日誌>
昨日(20日)昼はTOAFAEC 年報(16号)編集委員会、夜は第172 回研究会でした。高知から内田編集長わざわざの上京、ご苦労さまでした。
第16号については、大震災にもかかわらず、順調に進行し、編集骨格ほぼ確定、ご同慶のいたりです。年を追って内容充実の感じ。今年もさらに一歩前進の歩みにしたいものです。編集・執筆・翻訳、そして維持会員の皆様、どうぞよろしくお願いします。
この間、定例研究会は3月「ゆんたくの会」に切りかえ、4月は李正蓮さん歓迎会など。報告者をたてての研究会は数ヶ月ぶりか。肩の力を抜いた自由な研究会、やはりいいものですね。「…昨日の研究会は、とても刺激を受けました。私もなにかお手伝いできるようになりたい…」(Sat,
21 May 2011 07:08)などの感想も。どなたか記録を送ってください。お願いするのを忘れていました。
編集委員会の息抜きに、前号本欄の末尾に記した「古いアルバム」の話題がでました。当方のパソコンに秘蔵し始めた古い写真を数枚ご披露したところ、思いのほか好評! そのうち次の1枚を載せるようにしましょう。お楽しみに。
福建省の李斗石さんに第16号向けの原稿を依頼したところ、折り返し返信メール。「…忙しい毎日です。雑誌『終身教育』2011年第二号はすでに郵送したはずです。原稿の依頼、ありがとうございます。なるべく早めに完成するように頑張ります。」(Fri,
20 May 2011 09:47) 快諾いただき、有り難うございました。
▲TOAFAEC・172研究会後の交流会(永福 20110520)
2957号【2011年5月19日】
■<古いアルバム>
符帳をあわせたように本号は、今年度TOAFAEC 総会はじめ、20日の研究会の再掲など、諸「案内」の特集号となりました。韓国研究フォーラムの案内(上掲)も加わりましたが、さらに中国研究フォーラムも5月29日(日)午後あたりの線で企画が進んでいる模様です。正式の案内はまだ届かず、残念!
明日(20日)の研究会は、いつもの高井戸が休館日。同じ井の頭線で三つ手前の駅「永福」区民センターが会場となります。お間違いのないように。したがって終了後の交流会も永福町で。駅前の中華料理店「きさら」(03-3323-5580)の予定です。研究会は意欲的なテーマ「東アジア社会教育における研究と交流の新しい地平」。皆さま、お誘い合わせの上、お出かけ下さい。
なお当初の案内(風2645号・5月3日)では、韓国から筑波大学へ在外研究中の魯在化さん歓迎会を予定していましたが、その後一時帰国され(放射能からの避難?)、現在はニューヨーク(家族)に滞在中。したがって当夜はいつもの交流会となります。ご了承を。
古いアルバムがたくさん。歳月の経過のなかでモノクロ・プリント版の劣化がいちじるしく、整理して、主なところをスキャン、デジタルで保存する作業をしてきました。そのなかに、当人も忘れていた“掘り出しもの”級の写真があり、
HP「古いアルバム」ページに連載して、ご覧に供することにしました。連載の一回目は、1960年「小川利夫さんとぶんじん」。半世紀が経っていますから、画像はすこし傷んでいますが、息抜きになれば幸い。 http://www010.upp.so-net.ne.jp/mayu-k/album.htm
→■
2656号【2011年5月18日】
■<竹富島の郷友会>
数日前、竹富島の上勢頭芳徳さんから電話をいただきました。久しぶりの懐かしい声。今年の東京竹富島郷友会・総会が5月29日(日)午後に開かれるとのこと。公民館長として上京されるそうです。沖縄の郷友会のなかでも、首都圏ではもっとも歴史が古く(と聞いています)今年で第86回を数える歴史。『たけとみ』と題する2冊の郷友会記念誌(60年誌・80年誌)など、読み応えある内容です。
4年前、島の上勢頭家で「竹富島憲章と竹富公民館」をテーマに芳徳さんの話を(小林が聞き手となって)記録し、TOAFAEC
年報第12号に収録しています(2007年)。テープ起こしは前本多美子さん。その後の島の動きについて、公民館長上京の機会にお話を伺いたいところですが、折悪しく集まる企画ができそうにありません。すでに5月20日に研究会(第172回)を予定し、6月5日にはTOAFAEC
総会(近く案内予定)を、また日本公民館学会フォーラム(緊急特別報告・東日本大震災と公民館の動向など、5月28日、筑波大学東京キャンパス)と日程がつまっています。もし“風の部屋”にお泊まりであれば、その夜にお話しが聞けるだろうと期待しています。
東京竹富島郷友会・総会には、毎年にぎやかな竹富島の芸能が披露されます。数人程度であれば、席を用意していただける様子。もしご希望の方があれば、ご一報ください(先着順)。ぶんじんは去年も行きましたが、もちろん今年も参加の予定。
2655号(2011年5月17日)
■<奄美から東京へ−ある回想>
平井・上野お二人の同級生から相次いでメール来信。「奄美調査を思い出しながら」のタイトル、こちらも懐かしい。私信的なメールながら、あえて掲載させていただきました(上掲)。奄美調査はおそらく1980年。あの頃、南の島を飛び石づたによく歩いたものです。研究室として見事な?フットワークだったと思います。成果は『沖縄社会教育史料(第W集)−戦後奄美の社会教育』(1982年)の力作となりました。
あわせて想い出すのは、お二人と(たしか三鷹の故小川正美さんも)一緒に鎌倉に龍野定一氏を訪ねたこと。龍野さんは(旧)東京都北区公民館長、そして4年にわたる全公連会長(第2代)をつとめられました。すでに高齢で詳しい証言を聞くことはできませんでしたが、龍野さんも奄美の人。戦後アメリカ占領下に本土教育資料入手のため密航した教師たちを受けとめた奄美人の典型。あの鎌倉も忘れ難い一日でした。
この頃から、東京の社会教育史研究が始まりました。沖縄の歩みは調べているのに、東京の社会教育史としては、ほとんど見るべきものがないことを恥じてのことでした。「東京社会教育史研究会」のことは、書く場がなく、驚くなかれ!『沖縄社会教育史料(第Y集)−宮古・八重山の社会教育』(1986年)の末尾に掲載しています。そして『戦後三多摩における社会教育の歩み』研究・全13冊(1988年〜1999年)
→■へと続きます。東京の社会教育が崩壊しつつある今、風化・消滅しがちな資料・証言に光をあてて、これらを世に残す作業となりました。TOAFAEC ホームページ「東京サイト」を一度ご訪問ください。
→■
2654号【2011年5月15日】
■<共同セミナーの話題も>
この欄に、訂正やお詫び記事を頻発・・・まことに面目ない。前号では、せっかくの“春蘭咲く”を「欄」と誤記しました。古酒の酔い?だけではなく、もはや使用期限切れの身、目がうすくなってきました。
鶴ヶ島の平井教子(旧姓・園田)さんから、埼玉・入間地区の学習会に上野景三さん(佐賀大学)が講演するニュース(風2651号)。園田さんから当日の写真を添付して、次のコメントが寄せられました。
「上野君の講義は素晴らしかったです。元同級生として合格でした!(笑い) 取り急ぎ再会のツーショットのみ。」(Sat,
14 May 2011 06:26)。
お二人の写真を下に。この二人が同級生とは・・・とても思えない。人生、男の方が苦労多きか。
面白い話が続きます。韓国・公州大学の肥後耕生さんから「平生教育学会の動き」について、久しぶりのメール来信(上掲)。私たちが編集・発行した『日本の社会教育・生涯学習』(学志社、2010年)を平生教育学会として取り上げていただいている様子。さらに「東京・沖縄・東アジア社会教育研究会」(TOAFAEC)との共同セミナーや共同研究などについての話題も出ているそうです。
折しも次の定例研究会(第172回、5月20日)は、「東アジア社会教育における研究と交流の新しい地平」がテーマ。韓国側の動きも視野に入れて、今後の方向を議論しましょう。
▼入間地区公民館連絡協議会・総会にて (20110512)
2653号【2011年5月14日】
■<
原水禁署名運動の誕生−東京・杉並の住民パワー>
いま13日も終わろうとしている時間、TOAFAEC 事務局議@風の部屋、を終えたところです。ご参会の皆さま、夜遅くまでお疲れさま。本年度の総会に向けて、いろんな話ができました。
岩本陽児さんの大学からのメール(上掲)“春蘭咲く”は羨ましい研究室だより。「濃厚な香り」がこちらまで届かないのが残念です。今晩は紹興出身の黄丹青さんの顔を見えて、あらためて昨年晩秋の紹興への旅を思い出しました。春蘭の本場・紹興で「この季節、どんなにいい香りに包まれているのだろうか」(岩本)の思い、当方も桃源郷の夢をみることにしましょう。カメを汲んだ古酒の酔いも静かに残っています。
本号は、久しぶりに「風・御三家」(渡部、伊藤、岩本)の揃い踏みとなりました、それぞれにお元気の様子、なによりです。
昨日、丸浜江里子さんの新著『原水禁署名運動の誕生−東京・杉並の住民パワーと水脈』(凱風社、5月刊)を拝受しました。カバーに「放射性物質の拡散による“恐怖”と“生活破壊”は3・11の福島原発人災事故と同様に、半世紀以上前にも起こった。原子力の平和利用(原発導入)を推し進める吉田政権(当時)の下、3000万人の住民が原水禁反対署名に立ち上がったが、その教訓は今、私たちに受け継がれているか!」 5年余の取り組み、文字通りの労作の出版、おめでとうございます。ぜひ「風」に“自著を語る”一文をお寄せ下さい。
2652号【2011年5月13日】
■<韓国コラムの日本語訳>
「韓国・慶熙大学校の市民教育」記事(上掲)を横浜の瀬川理恵さんから送って頂きました。有り難うございました。同じメールに次の申し出をいただきました。当方も忘れていたこと。
「…さて、お願いがあります。TOAFAEC のホームページで、『日本の社会教育・生涯学習』のコラムのなかで、いまだ翻訳文がのっていないAチョンヒョンギョン先生の部分を、もしよろしければ、翻訳させていただけませんか? すでに、翻訳なさったものがあれば、そちらを掲載していたければと思いますが、もし翻訳が終わっていないようであれば、私にトライさせてください。」
ぜひ!お願いします。この本はもともと日本語で書かれたもの。韓国側からの特別コラム7本はハングル原稿のみ。そこで日本の読者のために、目次一覧、はじめに、あとがき、と合わせて、コラム7本を日本語に訳し、ホームページに掲載しているものです。
→■
出版直後、公州大学の肥後耕生さんに日本語訳をお願いしました。その際、「鄭賢卿先生執筆分はご本人に直接訳していただきましょう」ということになり、そのまま未訳で残ったという経過です。他に福島大学・浅野かおるさんが訳されたコラムもあります。この機会に瀬川さんにお願いできれば幸いです。
▼『日本の社会教育・生涯学習』(ハングル版・表紙)2010年10月
2651号【2011年5月11日】
■<大震災と社会教育>
地震(なゐ)つづく花もゆらゆら五月雨。地がゆらゆらすると、天もゆらゆら、ものみな落ち着かず。五月の緑もなぜか目に映えません。そして南からはすでに台風のニュース。不順な毎日です。
福岡・油山の書庫を整理していたら、1995年・阪神大震災の際の資料が2袋、姿を現しました。今回の東日本大震災についても、社会教育との関わりで学会プログラムが企画されている様子(日本公民館学会スプリングフォーラム、5月28日午後、筑波大学東京キャンパス・小日向)。
→ http://www1a.biglobe.ne.jp/kominkan/→■
1995年では、日本社会教育学会が秋の大会に特別シンポ「阪神・淡路大震災と社会教育」(第42回大会,1995/9/24)を取り上げています。末本誠さんなどの報告資料が出てきました。また大都市社会教育「研究と交流の集い」(第18回、川崎)関連資料も。15年ぶりの再会でした。
ご参考までに、袋の中の主な資料を掲げておきます。(年次略・順不同)
・神戸大学・社会教育研究室「社会教育ができること−調査報告」
・神戸市教育委員会「阪神・淡路大震災と神戸の学校教育」他
・西宮市災害対策本部「兵庫県南部地震 被害の概況及び対策」他
・芦屋市立公民館「市民センター(公民館)避難所の記録」
・兵庫県社会教育委員の会議「復興と社会教育の果たす役割」報告
・杉並区社会教育委員会議「震災時における社会教育のあり方」意見
・大阪市職労教育支部「広域圏での震災の影響と支援活動」
・呉遵民「恐怖の瞬間−阪神大震災目撃」(留学生たちの体験談)など。
(手元メモより。文献一覧など本欄に不似合いですが、埋め草として。)
*南の風・日誌・2601
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