エジプト訪問・ナイル通信・記録 (1990年、 2000年) トップページ

*2000年・ドイツ短信



2000年9月・ギザ・ピラミッドの前。左より−敬称略− アーデル(カイロ大学)、末本やすみ(パリ)、黄新天(紹興)、
領家のり子(神奈川)、吉沢武(千葉)、伊藤長和(川崎)、小林文人(ベルリン)、梅原利夫(和光大学)、小林富美(東京)、
の皆さん。撮り手(ガイド)はカメラに不慣れ、ピラミッドが傾いている。(2000年9月10日)





1,1990年



(1) エジプトとの出会い−少し長めの前口上
       

  
東京学芸大学社会教育研究室・エジプト訪問団
  「ナイルは流れ続ける−エジプト旅行記録集 1990.3.21〜3.31」(1990年5月18日)所収


 思いおこせば、昨年(1989年)7月、カイロ大学卒のアーデルAdel Amin君(現在、一橋大学院生、社会言語学専攻)が私たちの研究室にやってきたことが、今回のエジプトの旅を計画するきっかけとなりました。あれは、東京特有のむし暑い夏の午後でした。アーデル君は真っ白のスーツを礼儀正しく着用して、汗をふきながら、「研究生にしてほしい」と言いました。法政大学の久山宗彦教授の紹介でした。
 10月に正式に東京学芸大学研究生となって、彼とのいろんな対話が始まりました。彼は快活かつ率直によくしゃべりました(すぐに「シャーベル」というあだ名がついた)。私たちの研究室の文化にあわせて歌もうたいました。一緒に沖縄に旅もしましたし、その帰途に九州・福岡の私の家に寄って、正月の雑煮を食べてくれました。
 どちらかといえば控え目な中国や韓国の留学生と比べると、エジプトからの留学生アーデルは実に明けっぴろげで、物おじしない人柄ででした。それはまさに「陽気なマスリー」(小杉泰)です。その陽気さで、エジプト七千年の歴史と文化を誇らしげに語ったものです。
 東京の私の自宅にも何度か遊びにきたことがありますが、本棚をみて、エジプトやイスラームについての本がまったく見あたらないと嘆きました。私はあわてて数冊の本を買い込み、にわか勉強を始めたものです。研究室で続けている週一度の中国語学習会にあわせて、彼は「アラビヤ語学習会」を始めようと提案もしました(これはまだ定例化していない)。アーデル君が私たちに与えた刺激は新鮮なものがあり、この半年、私たちのまわりには、アーデル旋風が吹き続けた、という実感です。
 
 研究室では、そのうちに「一度エジプトに行こう」「イスラームの社会に体でふれたい」という気運が拡がりました。熱心なアーデル君の誘いもあって、急ごしらえのアラビヤ語講座など準備が始まりました。そして遂に1990年3月22日早朝、カイロ空港に降り立ち、出迎えをうけて、十月六日橋からナイルの流れを見た時には、「あぁ、これがナイルだ!」といささか興奮気味でした。ここに至る準備と10日間にわたるスケジュールを、文字通り取り仕切ったアーデル君の努力にあらためて感謝いたします。

 ところで、私は“旅”についていくつか自戒していることがあります。一言でいえば、今はやりのいわゆる“観光ツアー”をやめよう、ということです。この話になると、J.J.ルソー「エミール」のまとめの部分(第5編)にある“旅について”を思い出します。ルソーはエミールに、単なる景観をみるだけの旅をいましめ、国家や社会(あるいはその歴史)を知ること、それを自ら調べること、を求めているように思われます。
 私たちの研究室では、この10年ほど、「沖縄」研究を重ねてきました。何十回となく沖縄へ旅しました。その際、沖縄の美しい自然や名所旧跡を見るだけの旅ではなく、沖縄固有の歴史、そこに生きてきた人たち、に出会うような旅をしよう、“人と歴史に出会う旅”、そこから研究が始まる、と言ってきました。
 こんどのエジプトの旅でも、同じ思いがありました。景観を単純に見るだけでなく、その背景にある国家と社会、それをつくりだしてきた人々の歴史と文化、に少しでもふれてみたい、という思いです。だから、エジプト旅行の計画がはじまった段階から、アーデル君にはいくつもの(無理な?)注文もしてきたわけです。たとえば、
(1) 古代エジプトだけでなく、現代エジプトにふれたい。
(2) 都市と観光地だけではなく、農村に行きたい。人々の暮らしにふれ、交流したい。
(3) 学校を訪問したい(小学校や中学校、そして大学も)。
(4) 社会教育・成人教育の施設や活動、また博物館だけでなく図書館との出会いを計画してほしい。日本の社会教育学会には、まだ一度もイスラーム社会の成人教育は紹介されていない。研究者もいないのだと。 などなどです。
 またアーデル君がよく自慢する本場のシシカバーブ、ほんもののベリーダンス、ナイルの魚、それに地中海の魚とも出会いたい、と付け加えることも忘れませんでした。
 アーデル君は与えられた時間・経費と格闘しつつ精一杯の努力をしてくれました。
 しかし、振り返ってみると、私たちの旅は(17人の団体行動という制約もあって)、やはり古代エジプトの歴史と文化、その重さに圧倒されたという感じです。その意味で、たとえば近現代の世界史とのかかわりでエジプトを知ること、農村の人たちの暮らし、あるいはエジプトの学校制度の実態、とくに本来の研究テーマであるエジプト成人教育の制度と活動、などを調べることは課題として残されました。次の再訪問(もし可能であれば)の機会に具体化したいものです。

 私たち日本人は、これまで近代化のモデルとして欧米先進諸国の歴史と文化を吸収しようとし、その過程で植民地支配の側にも立ってきました。イスラーム文化の黄金時代は「わが国へ伝えられず」(蒲生礼一)、イスラーム文化を媒介としてヨーロッパ文化の繁栄があったことにも無知でした。私たちはもっと全世界史的規模で、もっと複眼的に歴史や文化をとらえ直す必要があることに気付きました。その点で今回のエジプトの旅は、私たちにこれまで見えなかった視野を開き、新しい問題意識をかきたててくれたことは確かなようです。
 私は、ルクソールの自由時間に、あるいはアスワンに泊まった朝に、またラマダーンの初日にオールドカイロで、できるだけ小さな路地に踏みこんで歩きまわりました。たくましく生きている人たちの活力に打たれながら、社会教育・成人教育との関連などについて深く考えさせられるところがありました。エジプトを旅して新しく得たもの、ひそかな“発見”は少なくなく、やはり「来てよかった!」としみじみ思っています。
 最後に、この旅で私たちに同道してくれたアーデル君の弟アッサム君、私たちのために夜の楽しいパーテイを開いてくださったガマール博士のご一家、同じくナビル夫妻と案内役もつとめてくれたヘバさんと弟ムハメド君のご一家、そのほかお世話になったカイロ大学文学部日本文学・日本語学科の皆さん、AKHBAR新聞社の社長及びスタッフ、児童図書館の司書と子どもたち、アスlワンでにっこり笑ってくれたヌビアの娘さんなど、すべての方々にお礼を申しあげます。
 アーデル君とともに旅の準備・運営にあたった森田はるみさん、ご苦労さまでした。






2,2000年
         

アーデル家からギザのピラミッド遠望、手前に流れるナイル川 (20091220)


(1) ナイル通信T(2000年9月9日)
   <カイロの朝>  南の風第546号(2000年9月15日)「ドイツ短信」続号

 「ナイルの水をいちど飲んだ人はかならずまたナイルにもどる」という言い伝えがある。かってアーデル君の後見人・故ガマール博士(もとエジプト国会議員)はこの言葉を紹介して、私たちにエジプト再訪を期待した。1990年3月のことである。
 それからちょうど10年が経過している。この間にガマールさんは亡くなられ、当時のエジプト訪問団(東京学芸大学社会教育研究室メンバーを中心に17名)の若者たちも、10年の歳月をきざんだことになる。この時期はベルリンの壁が崩壊した直後。森田はるみさん(現在・北海道置戸町図書館)がエジプトの帰途、皆と別れ、激動うずまく東欧諸国へ旅だったことを思い出した。
 いま各地の図書館づくり請負人の渡世稼業?をしている渡部幹雄がいたし、東京を捨てて八重山へ移住した鷲尾夫妻もいた。そして案内人アーデルの10年、それぞれの10年だ。そんなことを思いながら、いま再びナイルの岸辺に立っている。

 9月8日、朝7時半にベルリン・ツオの駅を発ち、フランクフルトを経由して、ようやくカイロ空港に降り立ったのは夜7時半。やはり12時間かかった。ヨーロッパから近いとは言うものの、カイロは遠いよ。まったくパスポートチェックや税関審査がなかった独・仏から、久しぶりに厳重?な関門をくぐって入国。エジプト独特の喧噪が妙になつかしい。出口にアーデルくんが迎えてくれて、ほっと安心する。
 その4時間遅れで、日本からの一行(伊藤長和、梅原利夫、吉沢武、領家のり子、黄新天、小林富美の皆さん)が、さらに1時間後にパリから末本やすみさんが無事到着。しかしホテル(ヒルトン)のチェックインは深夜1時をまわっていた。
 アーデルくんがそれぞれ空港に迎えに行ってくれて、私はホテルでゆっくり休んでいた。ひとりで早速なつかしいビール「ステラ」を飲む。ドイツ・ビールとは比較にもならないが、これはこれでなかなかいけるぞ。皆さんが揃ったところで、さっそく(ドイツから持ち込んだワインで)深夜のバーを開店。皆さん元気だ。
 
 朝、ホテルの目の下にナイルが流れている。やはり堂々とした大河だ。その向こうにギザのピラミッドが見える、という話だったが、暑い大気の熱気か排気ガスかにかすんで、今朝は見えない。
 再びナイルに来たぞ、ガマールさんはもういないが、私なりには元気に約束を果たしたぞ、という思い。今回はアーデルくんの故郷で、彼が中心になって建設したクリニックや、いま工事中?の「マンダーラ」(「みんなの応接室」の意、エジプトの公民館的なもの、ODAの援助を得て、さらに拡大する構想を模索中)を実際に見るのが楽しみ。
 今日は午前中は休み。午後、エジプト考古博物館を見学(10年前には公開されていなかったラムセス2世・ミイラの特別室など)、それからナイル川に遊んだ。みんなで帆船に乗る。カイロの喧噪と雑踏を両岸に見ながら、夏の川風に吹かれる。なんともいい気持ち、これでもう帰ってもいいや、と思うほど。今日の暑さはそれほどでもないが、さて明日のピラミッドめぐりの1日はどうか。いまから夜の食事。

 ヒルトンからのメールは、大きなホテルだけにかえって苦しい感じ。数回に1回ほどつながるが、東京からのメールを受け取るのにやけに時間がかかる。誰か容量の大きい画像でも送ったのかしら。いま6通のメールがたまっているらしいが、受け取るのに時間がかかって、まだ1通も開けない。仕方がない、今晩でもアーデルくんの新居(砂漠に近く、プールつき?とのこと)に出かけて、そこでこのメールを出し、未見のメールを受け取ることにしよう。

スフィンンクスと語る 2000年9月10日)




(2) ナイル通信U(2000年9月12日)
 <ルクソール・アブシンベルへ>     南の風第547号(2000年9月16日)

 エジプト・ツアーの2日目は、ギザのピラミッド、スフインクス、そしてカイロ城やオールド・カイロのバザールなどをまわる。10年ぶりのカイロだ。しかし懐かしさの感慨にふける余裕もないほどの暑さ。やはり日中はまったく暑い! 世界中から来ている観光客も、それぞれの顔で、暑さにうんざりしている。夏のエジプト旅行はたしかに苛酷だ(先回は3月下旬、これは快適)。私たちの一行8人のなかには、早くも体調をこわしかけている人もいる。しかし、調整しながら、みなよく頑張る。

 前号は、ついにアーデルのオフィス予定の部屋(カイロ市内、改築中、これとは別の新築の自宅にはついに行けず)の電話からも発信できなかった。通信(1)を手元においたまま、この(2)を書いている。
 「ドイツ短信」は2ヶ月あまり継続できた、まぁ、うまくいったのだから、いいや、ここらあたりで、海外からの短信・通信はおしまいにしよう、と思いながらも、夜のひととき、記録にしておきたい気持ちもあって、われながら悲しい性分だ。のんびりステラでも飲んで疲れを癒せばいいのに・・。

 10年前の旅行は10日間の日程。今回は実質5日しかない。3日目と4日目は飛行機を乗り継いでの南部の観光とあいなった。3日目(11日)は暗いうちからホテルを出て、アスワン、そしてアブシンベルへ飛び、夕刻にルクソールへ降り立った。4日目はバスを飛ばして、午前はルクソール・ナイル西岸の王家の谷や、例の惨劇があった葬祭殿を、午後は東岸の両宮殿(カルナック、ルクソール)を急ぎ足でまわる。
 11日の午後、アスワンのオベリスク石切場跡をたずねたときなど、気温は、なんと44度に達したそうだ。警備のポリスに「なんと暑いエジプト!」と言ったら、笑いながら、そう言った。文字通りの熱風、息もできないほど。こういう環境のなかでエジプトの人たちは生きている。私たちは疲れ果て、ホテルにようやくたどりつき、恒例の夜のバーを開く元気もない。
 8月下旬・フランス行きの希望が実現せず、日程を調整して今回の旅にやっと同行した小林富美。「東京のママ」と呼んでくれるアーデルの期待に応えて、元気にカイロ入りしたが、3日目の早朝に体調をこわしダウン、この南部観光2日間には参加できなかった。カイロのホテルで休んでいたが、無理を押して同行したら、本格的に倒れただろう。

 10年前の訪問から比べて、エジプト(とくにカイロ)は大きく変わった。そんな感じがする。印象的なこと、いくつか。
1,アラブ社会の政治・経済・文化のなかで主要な位置を占めている関係あり、カイロ自体は活況そのもの、とにかく自動車が多くなり、驚いた。
2,農村社会(10年前はカイロの主要道路にも馬車がゆっくり走っていた)から自動車渦巻く現代都市への転換・脱皮がいま混迷のなかで進行中。いや、うまくいっていない! 混乱と葛藤の真っ最中?その後の人口集中で東京 なみの1,200万。道路はかなり整備されたが、車線等のルールがないなか、 車が疾走してくる。人がわたる横断歩道がない。こわくてカイロは一人でのんびり歩けなくなった。
3,暮らしのなかのイスラーム信仰はずいぶん変わったのではないか。たとえばバス停でも人びとは祈っていたが、町なかではそんな風景に1度も出合わない。
4,ルクソール事件(観光客の無差別射撃)以降、主要な施設(博物館、ホテルなど)、観光施設にはどこにいってもポリスがいる。すべてチェックの連続。これは楽しくない。かたことの英語を話すルクソール神殿のポリスは、「24時間立っている、座ってはならない」とぼやき、日陰に座っていた。
5,博物館がまた楽しくない。そして高い。偉大な古代エジプト5千年の遺物にあぐらをかいて「見せてやるぞ」式、かなり管理的。すべて観光客中心。エジプトの子どもなど1人もいない。こちらに来る前にベルリンのペルガモン博物館(まことに観客にやさしい、しかも専門的解説のテープコーダーを無料で貸してくれる)で1日楽しんだだけに、まことに対照的!
 などなど。早く Dr.アーデルが出世して、文化大臣にでもなって改革してほしい、と冗談を言い合ったが、彼は案外と真顔で聞いていた。


(3) ナイル通信V(2000年9月14日)
   <エジプトの公民館など、旅おわる>     南の風第548号(2000年9月17日)

 いま日本に向かうルフトハンザ機上。おそらくモスクワ北方あたり、まだ明るい空に満月の月がぽっかりと中天に輝いている。空はあくまで青く、下方にはロシヤの大地がはてしなく広がっている。
 いま文字通り「旅のおわり」。あぁこれで終わったよ。2ヶ月半、事故なく元気に帰国の途につける喜び。それだけにルフトハンザの白ワインもとりわけうまく、いい気分。
 昨夜のカイロ最終日、寝たのは午前2時すぎ。しかし4時には起きて、6時半のフライトに間にあわなければならぬ。空港まで送ってくれるというアーデルくんは、大事をとって、とうとうホテルの床に仮眠した。申しわけない。

 書き始めた「ナイル通信」(通算3号)は、ついにカイロからは発信できなかった。こうして(時間たっぷりの)機上で書いて、日本に帰って送信することになる。ちょいと残念ながら(画竜点晴を欠く、なんとかカイロから発信したかったのだ!)止むをえない。
 1号に書いたように、ある人(小学校時代の旧友)が「ふるさとの画像」(2通)を送ってくれたが、容量が大きく、カイロでどうしても受けることが出来なかった。受信がすまなければ、かんじんの送信ができない。3度トライして「受信中」でおしまい。1通もとれない。結果的に長時間の電話代! ヒルトン・ホテルのチェックアウトでは、電話代だけで3万円ちかく請求された。実は、帰国したら「風」に画像を入れることに挑戦しようと思っていたが、止めることにしよう。いい迷惑だ。

 エジプトの旅では、古代エジプトの観光に圧倒されて、いま世界が注目している中東和平問題や現代エジプトにはまったく関心をもつことなく、その意味では鈍感に旅は終わる。
 10年前の訪問では、エジプト農村の訪問をプログラムに加えてもらった。しかし、このときは予定の村(アーデルの故郷)にご不幸があり、私たち一行は、アレキサンドリヤへ地中海(紅海にたいして白海)の魚を食べに行った。だから今回のモロヘイヤ県の二つの村とアーデルの生家の訪問は10年ごしの恋がみのるようなもの。最終日(9月13日)のエクスカーションは期待に胸はずむものがあった。カイロから北(ナイル川下流方面)へ65キロの車の旅だ。
 期待にたがわぬ文字通りのエジプト農村。作物はトウモロコシ、馬鈴薯、小麦、サトウキビ、野菜(もちろんモロヘイヤも)、果物(葡萄がうまい!)など。もともと一毛作の地域だったが、アスワンダム完成後は三毛作となった。地下水がこんこんと汲み上げられている。牛の糞が屋根上にだいじに日干しされ貴重な燃料として積み上げられているのが印象的。子どもたちが群れて、私たちの訪問を取りまく。課題はいろいろあろうが、活気あふれる、豊かな農村の印象がつよい。
 
 アーデルは、彼の故郷のいわばスターだ。私たちを村の長老たちが手厚く迎えてくれる。ナイル通信第1号に書いたように、隣の村(人口1万人)の「マンダラ」(地域の公民館、その2・3階に女性自立センターを増築し、識字教室や職業教育の施設を増築する計画)と、自分の村(人口1万7千人)のクリニック(遠くの大病院では出来ない地域の小病院、すでに稼動中)の二つが現在の主要な「地域開発」「地域づくり」の目玉だ。
 これらがどのように具体化されていくか、他の地域にどう広がるか、今後が注目される。まさにエジプトの「公民館」、しかも単に「学習」だけでなく、医療、福祉、職業・技術教育、識字、農村開発、など生活と生産の全般にかかわって、どんな役割を果たすことになるか。「マンダラ」はこれからほぼ3年がかりの計画。日本のJICAとODA援助の活用が大きく期待されている。
 この間、アーデルは(見かけによらず、案外と大胆・細心に努力して)自ら資金も提供し、長老たちにも働きかけ、ボランティヤを組織し、とくに日本のJICAや大使館と交渉し、あるいはエジプト社会問題省とも連携をつくってきた。成功を祈らずにはいられない。
 彼の生家では、病身のお父さん(初めて会った)も出てこられて、村の長老たちといっしょに心づくし、手づくりの盛大な料理をいただいた。ウサギ、鳩、モロヘイヤ、ミルク・ライス、トウモロコシ、それに葡萄、グワバなど、いろいろ(いろいろあって説明できない)。
 きっと同行者のどなたかが、それぞれに感想を書いてくれるだろう。そういえば伊藤長和さん(川崎)が詳細な記録をとっていたので、ぜひお願いしたい。
 夜は、カイロに帰って、ナイル川のクルーズ、船上のベリーダンスを見る。なかなか面白く、印象的な最後の夜。

 沖縄にこんな言葉がある。「ほまりそしらりや世の中のならい 沙汰んねん者がぬやく立ちゆが」(毀誉褒貶は世の習い、世間の噂にもならないような者がどうして役に立つ仕事をできようか)。おそらくアーデルくんは、積極的に動くタイプだけにいろいろと貶されたり、誹られたりしているだろう。しかし自らの信ずる道を歩め、きっと道は開ける、新しいエジプトの「マンダラ」を創ってほしい、と空港への道で励ましの言葉を贈った。またその後の経過を見にきてほしい、と言っていた。

 機外では、もうとっぷり日が落ちた。月だけが輝いている。機内のライトも消えた。まわりはみんな仮眠に入ったらしい。こちらはなぜか眠れない。もっと書きたいところだが迷惑になってはいけない。このへんで終わることにしよう。
 この2ヶ月半、その場かぎりの、身勝手な感想、ドイツ短信・ナイル通信につきあっていただき、有り難うございました。御礼申し上げます。


2000年「ドイツ短信」■




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