オルガノイド研究 〜培養・作製、活用、臨床応用〜
はじめに
 20 世紀初頭,極めて画期的な生命科学の解析手法が開発された。それが,「細胞培養」である。19世紀末から試みられてきた器官培養や組織培養の困難性を克服するために,個体の最小単位である「細胞」を単離し,それを利用することにより,生体外における生命現象の人為的再現系を手にすることに成功したのである。

 この個体の最小単位である「細胞」を活用するという新概念は,臨床外科医であったアレクシス・カレルにより無菌操作という異分野概念が導入されたことにより,長期培養が実現化し飛躍的に発展を遂げる素地が形成された。そして,その後,細胞株の樹立による継代培養や合成培地の開発などにより,今日,生命科学研究に広く利用される基本的な実験手法となったことは周知の通りである。

 20 世紀末までにはマウスやラットなどの実験動物を対象とした研究が,そのまま人間(ヒト)に適応できる訳ではないことが広く認識されるようになったことから,特に医学・薬学領域においてヒト細胞の培養技術の必要性が劇的に希求されるようになった。そして,20 世紀末にはヒト個体を構成するすべての細胞を創出することが可能なヒト胚性幹細胞(embryonic stem cell:EScell)が初期胚より樹立され,21 世紀初頭には生命倫理的な問題が極めて軽微なヒト人工多能性幹細胞( induced pluripotent stem cell:iPS cell)という新技術が開発された。すなわち,どこでも誰でも,ヒト個体を構成するすべての細胞を自由自在に使うことのできる画期的な時代が到来したのである。

 このように,「細胞培養」の技術は飛躍的に進歩し,受精卵に匹敵する極めて高い多能性を有するヒト幹細胞を扱えるようになった。これは,個体を最小単位である「細胞」にまで分解して操作するという,還元的概念に基づく方法論の成果である。一方,培養プレートに張り付いたシート状の細胞や,浮遊している個々の単細胞のみで高度な生命現象のすべてを再現することは極めて困難であることは,気の利いた小学生ならわかるレベルで自明である。

 21 世紀初頭より,「細胞培養」に還元的概念だけでなく,構成的概念に基づく方法論が漸く本格的に導入されるようになった。すなわち,個体の最小単位である「細胞」から,複数の「細胞」により構成される「組織」を人為的に再構成しようとする試みが,非常に高い熱意を持って実施されてきた。これが,所謂,オルガノイド(organoid)研究である。したがって,古くから行われてきた単一種の細胞から構成される凝集体にすぎないスフェロイド(spheroid)と,新たに研究されている細胞間相互作用に基づく組織構造を再現したオルガノイドは,概念上も実際上も似て非なるものであることをしっかりと認識することが極めて重要である。

 本書では,現在,活況を呈している「組織」の人為的な再構成技術であるオルガノイドに関して,我が国における研究状況を可能な限り網羅的に紹介することに努めた。ヒト多能性幹細胞を用いたものだけでなく,初代ヒトがん細胞やヒト細胞株を用いた新技術もピックアップしている。研究領域についても,基礎科学・再生医療・創薬研究・工学研究・がん研究など多岐にわたるシーズ集積に努めている。現況を俯瞰するために役立てていただければ言外の喜びである。

 一方,「細胞培養」における構成的概念に基づく将来展開という極めて重要な議論については,まさにオルガノイド研究の最前線であり,本書において十分に紹介することは困難であった。「細胞」から「組織(organoid)」へという展開は,「組織(organoid)」から「臓器(organ)」へ,さらには「臓器間相互作用」の再構成へと発展的に進歩していくことは当然の科学潮流であることを最後に明示しておきたい。

2024年5月
東京大学 谷口 英樹
 
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