南の風・各号後記(ぶんじん日誌)
2900号【2012年6月14日】
◆<上海からの写真>
本号は,100号おきの区切り、2900号となりました。あらためて皆さまのご愛顧に感謝。TOAFAEC
の歩み17年、ぶんじん日誌14年余、の歳月。♪はるばる来たぜ〜♪ の心境です。あと100で3000号、どうぞよろしく。
いま、TOAFAEC の活動として動いているのは、主として年報第17号編集、それに毎月の定例研究会の取り組み。例年だと沖縄や中国等への訪問交流の企画がこれに加わりますが、今年は3月の訪沖以降は控えています。
かってこの時期「南の風」は、年報・編集通信として機能してきました。いまは編集委員会のMLあり、独自の委員会活動として動いている関係から、かえってその躍動が「風」に載りません。2892号「東アジア・第17号編集すすむ」(上野編集長)の続編をぜひ期待したいところ。総会も終わり、今年の特集・全体構成一覧など、可能な範囲でご紹介ください。みんなの声援を背に受けて、年報づくりを進めていきましょう。
今年は沖縄復帰40年(第17号・第2特集テーマ)。また日中国交正常化40年でもあります。中国研究フォーラム(黄丹青さん・上掲)による寄稿依頼に応えて、上海の呉遵民さんから早々と留学生活20年の回想が届いています(既報・風2885号、2888号)。
それとの関連で昨日、当時の写真をたくさん送って頂きました。ご本人だけでなく、神戸の末本さんや小生の若かりし頃の顔もあり。なかに日本社会教育学会参加の黄宗建(韓国)・横山宏(日本)両先達の“合撮”写真も。1990年代・前半の画像、有り難うございました。同じ1枚が当方のパソコン(スキャン済み)にありましたので、HP「古いアルバム」に紹介することにしました。一人だけお名前の分からない方あり、もしかすると黄宗建先生に同行された韓国学者かも。ご存知の方あれば教えて下さい。
→■
▼左より(2人目)黄宗建、呉遵民、小林文人、横山宏、上野景三の皆さん (社会教育学会−弘前大学、1994年10月2日)
2899号【2012年6月13日】
◆<“忘れられた子どもたち”への謝罪>
前号の韓国研究フォーラムや駒形どぜう屋の話で書きそびれましたが、8日(金)は術後1ヶ月の胃カメラの日でした。今年は当たり年、これで6本目を呑みました。おかげさまで順調に快癒中とのこと。7月に(2ヶ月を経過したところで)あと一回の胃カメラの予定。問題なければ、お酒もすべて解禁となるはず。今ようやく半分を耐えてきたことになります。
当日は軽い麻酔が残っていて、何もしたくない。空きっ腹なのに昼食も美味しくない。思いついて神田・神保町に出て、話題の映画「オレンジと太陽」(岩波ホール)を観ました。たまたまこの日が最終日。隣の席には群馬から観に来た人も。お互い深いため息をつきながらの2時間でした。
2010年のイギリス・オーストラリヤ合作映画(ジム・ローチ監督)。イギリスの植民地政策のなかで、1618年〜1970年の長きにわたって続けられた児童移民(約13万人)の歴史。宗教団体も関与し白人の子供を植民地(カナダ、オーストラリヤ、ニュージーランド等)へ送り出し、人道主義的な目的が掲げられながら、家族を引き裂き、児童虐待、過酷労働、性的虐待等の実態があったことを告発しています。児童移民たちの失われた人間性を取り戻そうとするマーガレット・ハンフリーズ(児童移民トラスト)の挌闘を記録した映画でもあります。
2009年にイギリス、2010年にはオーストラリヤの両首相が“忘れられた子どもたち”へ公式に謝罪するという経過をたどりました。イギリス・ブラウン首相が議会で行った謝罪の一部。
「…彼らは苦しんだ。彼らが最もか弱い年頃に国外へと送られていたことを我々は謝罪する。彼らを保護するかわりに、この国が彼らに背信的であったことを謝罪する。彼らの声に耳を傾けなかったこと、助けを求める叫びに気づかなかったことを謝罪する。…長い時間が費やされたことを我々は謝罪する。…」(映画「オレンジと太陽」パンフレット、15頁)
2898号【2012年6月11日】
◆<駒形どぜう屋へ>
私たちは2006年に『韓国の社会教育・平生学習』を出版しました。思い出深い1冊。
→■http://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/kankokuhonhensyuu.htm
これが契機となって韓国研究フォーラムが発足し、ソウルで『日本の社会教育・生涯学習』(学志社、2010年)刊行が実現。現在その国内版を出す作業が進行中。
→■http://www010.upp.so-net.ne.jp/mayu-k/kankokusyuppan2010.htm
この間、韓国は平生教育法の全面改正(2007年)を行ない、自治体「平生学習」は大きな躍動をみせつつあります。この動きを背景に、次の韓国本づくりに向けて論議を始めよう、というのが6月9日・韓国研究フォーラムの趣旨でした。川崎・小田切督剛さんの問題提起(上掲)は同フォーラム内部メールですが、貴重なので掲載させて頂きました。ご了承を。次号あたりに当日のレポートも届くことでしょう。
この日は土曜日、東京は梅雨入りの雨模様でした。会が終わって、一度ご案内したいと思っていた浅草・駒形「どぜう屋」へ。七輪にどぜう鍋をかけ、江戸っ子となってゆっくり庶民の味を楽しむ趣向。1階の畳の大広間に座りたかったのですが、大入り満員。2階の小部屋に押し込まれたのがやや残念。それでも4人の美女に囲まれ(まだ酒抜きの身ながら)幸せなひとときを過ごしました。10年ほど前、上海・華東師範大学の学長一行をここで持てなしたこと(きわめて好評!)など想い出していました。
ところで「南の風」は、あと2号で(3000号に向けての)最終ラウンドに入ります。前回の100号の区切りにアドレス帳整理を省略した関係もあり、最近は「風」が迷惑メールとなっている方もあるような…。この機会にアドレス帳整理をいたします。配信不要の場合はぜひ一報を。まったく読むだけの方で、最終ラウンド配信ご希望であれば、近況など一報をお寄せ下さい。できれば数日うちに…。風は双方向に吹くお約束をお忘れなく。
2897号【2012年6月8日】
◆<南の島の公民館>
八重山毎日新聞の6月7日版(上掲)は、南の島の二つの公民館ニュースを伝えています。一つは「町営住宅建設など」14項目の課題について竹富町長に要請した竹富島公民館の動き。あと一つも隣の島、小浜島の老朽化した公民館(かってアメリカ高等弁務官資金援助で建てた施設)の改築問題など。いずれも小さな島の切実な地域課題。南の島の公民館は、いわゆる公立公民館ではなく、離島の諸課題に挌闘する集落の自治公民館です。高齢化、過疎化にあえぐシマ共同体を背負って、自治体行政に要望する公民館長の真剣な表情が目に浮かぶようです。
竹富島については「風」で比較的多くとりあげてきた島。今年の大きなニュースは、6月に新しいリゾート施設「星のや竹富島」が開業したこと。「星野」HPには、こんなキャプションが出ています。
「…琉球列島はるか南、珊瑚の離島−石垣島から高速フェリーで10分、琉球赤瓦の屋根からシーサーが見守る集落が息づく竹富島。珊瑚の石垣に囲まれた特有の伝統建築を再現した50棟の集落を造り、島の風景となって開業しました」と。1泊3万円以上の高級志向。これまで5千円の民宿中心の竹富島が、今後どのように変貌していくか。島にとっては一つの転換点でもありましょう。いちど出かけたいと思っていますが、まだ酒も飲めず、前公民館長・上勢頭芳徳さんの労もねぎらいたいところですが、控えています。
八重山諸島の先の島は台湾。その対岸の福建省・福州からは今日、『終身教育』誌(2012年2)が届きました。感謝!ますます充実の方向です。明日(6月9日)は既報・韓国研究フォーラム(第35回)。お出かけ下さい。
→■http://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/kankokukenkyukai07.htm
2896号【2012年6月6日】
◆<総会終わり、2012年度始まる>
前号の続き…。3日のTOAFAEC 総会には、そういうわけで、黒い礼服で遅れて出席しました。「風」には早速、当夜の記録が届きました(前号収録)。有り難うございました。いくつか感想を書きます。
下掲写真の通り、せまい部屋にぎっしり。新しいご参加もあり、賑やかな総会で何よりでした。世代的には20代から80代(70代のみ欠ける?)の拡がり、総会の歩みの中でも、若い世代の比重が大きな総会でした。
最初から関わったものとして、明言できること。年を重ねるごとに活動は拡がり、年報『東アジア社会教育研究』発行に象徴されるように、並々ならぬ蓄積をもってきたこと。逆のマイナス方向ではないことは確か。まことにご同慶の至り!です。
それだけ海外を含めて、TOAFAEC への期待が大きくなっていることを実感します。しかし他方で、それに応える事務局体制や財政条件は必ずしも充分ではないことも事実。また学会六月集会に合わせての「総会」のもち方も一考を要する段階にきたのではないかと思いました。時間がなく単なる手続きに終わるのであれば、もったいない?ことです。大事なときだけに、一度ゆっくりと別の時間を用意し、当夜出たような財政問題、組織と活動の方向、年報編集への活発な議論等、しっかり語り合ってみたいと思いました。そのためには基本原案を提示する事務局会議の準備が不可欠でもありましょう。
学会などの組織と大きく違うところ。会員内の活動論ではなく、会員以外に向けての社会的な研究“運動”をめざしてきたこと。小さくとも大きな志を内に秘めてきた歳月、すでに20年近く、これから更にどのような道を歩んでいくことになるのか楽しみです。
▼2012年・TOAFAEC総会、宴もたけなわ (世田谷・桜新町駅前、20120603)
2895号【2012年6月4日】
◆<結婚は白い花>
久しぶりに卒業生(東京学芸大学)の結婚披露宴に出席しました。椿山荘(東京・目白)の本格的なパーティ。社会教育ゼミではなく、音楽科の声楽専攻の人ですが、社会教育の講義を聞いて(1990年前後)、研究室に遊びに来るようになった持田津希子さん。卒業からすでに20年余が経過し、しかも他学科の人、日程も学会六月集会と重なっています。初めは迷いましたが、ぜひ来てほしいとのメールに打たれ、こんなお招きこそ教師冥利につきる!と思うにいたりました。
しかし「出席」の返事を出したあと、入院する羽目に…。連絡の電話をもらったときは、ちょうど流動食でしたから、ほぼ出席は無理、祝いの酒ものめないよ、などと返事をした経過もありましたが、その後は元気になって、見事!出席という次第。
当時の音楽科や体育学科の同窓生が参席していました。ソプラノの歌い手、フルート、ピアノの専門家がトリオを組み、カップル入場では見事な演奏、終盤にはみな揃っての合唱となりました。その間に挨拶を求められ(昔、約束していたような記憶もあり)思い切って“ザ結婚”をうたいました。声もリズムも駄目ですから、お祝いの思いだけを込めて、語るように歌いました。♪結婚は白い花、これからどんな色の 夫婦になるか それは二人が染める色♪
(石塚克彦)と。案外と好評?だったような。
宴が終わって、礼服のまま、TOAFAEC 総会(上掲)へ。そこでも余韻が残り、韓国パンソリのお返しに、再び“ザ結婚”を歌いました。
▼左から二人目・持田津希子さん(椿山荘、20120603)
2894号【2012年6月3日】
◆<サビ抜きのにぎり>
毎日の棲み家のまわりに、小さな寿司屋と、味のよい飲み屋と、こじんまりしたワイン屋があれば暮らしが落ち着きます。加えて言えば、研究会場の近くには、10人ほどで貸し切り状態になる程度の、無理がきくレストランがあればいい。いま井之頭線・永福町(ぶんじんの棲み家)から高井戸(例会の会場)の駅ちかくには、そんな店が僕らを待っています。
かって中央線沿いに大学・研究室があった頃、小金井・国分寺の駅前に、それぞれ行きつけの店がありました。和光大学の時代は、キャンパスが駅から遠く、むしろ大学正門すぐ前のレストラン(麦)をたまり場にしていました。待っているゼミ生などもいて、帰りにビールで疲れを癒す慣わし。ぶんじんが大学を辞めるまで店は頑張って営業してくれました。あのご夫婦、その後も元気かしら。こんな店は、夫婦で切り盛りする程度の営業がいちばん。
話を戻して、このたびのドクターストップで、寿司屋も飲み屋もワイン屋にも3週間ほどのご無沙汰。ところが昨夜(1日)、学会・六月集会の席から抜け出て来てくれた佐賀・仙台のお二人、永福町で第17号特集をどう書くかの議論をしたあと、久しぶりに駅前の寿司屋へ。術後はじめてでした。寿司屋の親方は先月、石垣島・平久保「ぶんじん歌碑」を見に行った人、そんな付き合いです。二人のビールを横に見ながら、こちらはお茶だけ、その上に寿司もサビ抜き。それでも楽しい夜でした。いまドクター指示を忠実に守り、闘病?生活を続けています。
2893号【2012年6月1日】
◆<ドイツ旅だより>
お見舞い(上掲)をいただき、有り難うございます。ある方には、ぶんじんが夢に出てきたとのこと、恐れ入りました。恋人でもないのに
… 夢見の悪い朝だったことでしょう。しかし、南の風・発行人の冥利につきるとはこのこと、皆さんからの便りに“お見舞い”“励まし”が書き添えられ、有り難く拝読しています。お見舞いにいちいちぎ返事を出す余裕なく、ここでまとめて御礼を申しあげる失礼をお許しください。
実は昨夜(夢には出ませんでしたが・・・)懐かしい顔を思い出しました。2009年夏の朝に急逝した故石倉裕志(TOAFAEC事務局長)の笑顔です。早いもので今年は3回忌。10年ほど前は谷和明さんに誘われて毎年のようにハンブルクに出かけていた人。前号で6月定例会企画に関連してドイツ社会文化運動のことを書きながら、彼を想い出していました。
前号にも記しましたが、HPには「ドイツ短信」日誌(2000〜2005年)のほか、石倉君にも2002年から2006年にかけて,「ドイツ旅だより」「アルトナ通信」など記録サイトがあります。しかし当方の作業が充分でなく、「工事中」マークをつけたまま、記録入力は中断、放置していたのです。
昨日ようやく,南の風バックナンバーより当時の石倉ドイツ便りを拾い出し,5年にわたるドイツ「旅だより」を復元することが出来ました。ご覧下さい。
→■ http://www010.upp.so-net.ne.jp/mayu-k/Ishikura.htm
あと一つ、2003年頃に谷和明さんの「ベルリンの風」を連載したことがあります。気軽な、しかし長文の力作です。これはご本人の了解をいただく必要があり、HP記録として収録するのはいま控えています。
2892号【2012年5月31日】
◆<ドイツ社会文化運動>
先日のTOAFAEC 5月定例会の折り、次回の6月定例会プログラムについて4っの案を(主宰者として)申し上げました。その第1候補・ドイツ社会文化運動(とくにハンブルク「アルトナーレ」市民祭)について、谷和明さん(東京外国語大学)のホットな報告をお願いしたところ、打てば響くようなご返事「謹んでお受けいたします」と快諾いただきました(上掲)。久しぶりにドイツのお話、楽しみです(6月22日・金曜日予定)。
今年のドイツ調査呼びかけ文は次のように始まっています。「ドイツでは、1970年代中期から社会文化センターという多機能的な地域センターを市民達が自力で開設し、自主管理運営する運動が発展してきました。この社会文化運動の経験は、日本の社会教育、福祉活動、地域市民NPO
活動のありかたを考える上で大きな刺激と示唆を与えてくれるでしょう。
このドイツにおける社会文化運動、市民地域活動、およびそれと結びついた生涯学習活動の広がりと力量を示してくれるのが、ハンブルク市の下町アルトナ区で1999年から毎年開催されてきた地域市民文化祭「アルトナーレdie
altonale」です。今回の調査旅行では、第14回アルトナーレに参加しつつ、それを担っている社会文化センター≪モッテ≫をはじめとした多様な市民NPO
団体・施設を見学し、職員や市民との経験交流をおこないます。…」詳細は日本公民館学会ホームページをご覧ください。
→■http://www1a.biglobe.ne.jp/kominkan/_userdata/germanyresearch2012.pdf
私たちは、東アジアの特質を深める上でも、欧米とくにドイツ社会文化運動に強い関心をもってきました。もちろん谷和明さんの熱意あふれる先導があってのこと。2000年〜2001年「ハンブルクたより」や、故石倉裕志・2002〜レポート、2005年の訪問記など、「風」に連載しHPにも収録してきました。
→■http://www010.upp.so-net.ne.jp/mayu-k/deutsch2000.htm
2891号【2012年5月30日】
◆<東アジア研究交流委員会、次回は第15回>
先日25日のTOAFAEC (5月定例)研究会は、東アジア研究交流委員会と合同での開催。午後の部と夜の会、ゲストはいずれも姜乃榮さん、会場も同じ杉並・高井戸の区民センターでした。ゆっくりと話が続き、終了後の懇親会も楽しい雰囲気。本号に当日の報告(上掲)が呉世蓮さんから寄せられました。日中韓・三国フォーラム(今年は韓国開催)の新しい情報についても、李正連さんの1週間前メールを収録。
ところで、TOAFAECはこの夜で通算184回の定例会。他方、東アジア委員会は何回目なのか、整理が出来ていませんでした。あらためて記録を読み直してみると…。2009年の学会六月集会での発足、ちょうど3年が経過したことになります。この間、韓国・中国からの訪問団受け入れや、上海の三国間・国際フォーラムへの参加、韓国向け出版の祝賀会開催その他、小さな委員会としては案外と大きな活動をこなしてきています。それら諸活動はあえてカウントしないで、会合、学習会や打合せ会等「委員会」にしぼって勘定してみたところ、25日は第14回目の委員会となるようです。HP記録(目次)にも書き入れておきました。関係諸氏、一度ご点検下さい。
→■ http://www010.upp.so-net.ne.jp/mayu-k/higasiasia0905.htm 関連して2010年から始まる三国間・国際フォーラムの記録も。
→■ http://www010.upp.so-net.ne.jp/mayu-k/3kokusinpo2010.htm
実は、昨年の3・11直前に東アジア委員会(第11回)が開かれましたが、その後は大震災の衝撃に打ちのめされてか、委員会としての実質的な会合は開くことができず。今年に入って、機を見て4月に開催することができ(風2861号「久しぶりの東アジア委員会を」)、さらに今回の5月開催へ。続いて7月「第15回」委員会も開催される運びとなりそう。拍手!
石の上にも3年とか。東アジアの友人たちとの交流を楽しみに、夢を抱いて、次なる歩みにつなげていきたいもの。追って「第15回」委員会・案内をお寄せください。
2890号【2012年5月28日】
◆<大都市社会教育を襲う嵐>
大阪教育大学・森実さんから、大阪市の社会教育をめぐる危機的な動きが寄せられました(上掲)。東京・社会教育の最近10年(石原都政下)の解体動向とも重なって、いま日本・大都市社会教育のこれまでの蓄積を吹き飛ばす酷い嵐!を思わせます。大阪では「識字・日本語学習の場」確保について緊急の署名活動が始まっているとのこと。同時に「…社会教育職員・研究者としても、憲法や法律、政策論や施設論の立場からこの状況を批判し、次を見通すプランを提案すべき」との提案も。この際、30年余の蓄積をもつ「大都市の社会教育・研究と交流のつどい」でも、何らかの発言ができないものでしょうか。
ぶんじん宛には、静養し落ち着いて過ごすようにとの見舞いも頂戴しました。あわせて「…でも一方で、あまり休みすぎるのも、先生にはあわないかもしれない…」とのお見通し。励ましを有り難うございました。
瀬川理恵さん「公州の風」5(上掲)でもお見舞い拝受。また前号の東京・研究会ニュースに関連して、パンソリ映画「西便制」のミュージカル上演(ソウル)の話題も。面白い留学生活のご様子、ご紹介します。
「…とても人気があり、チケットを取るのが大変だったのですが、運よく見ることができました。私は、映画を見ていたので、内容は理解できたのですが、パンソリの言葉が昔の言葉でした。その内容を理解できたら、どれほどよいだろうを思いました。そうすれば周りの人たちと一緒に、涙を流せたでしょうに…。それから、韓国人の“恨”ハンという思い。ちょっと私には難しいです。それでも大きな感動が押し寄せた作品でした。演者もよかったですが、舞台装置、照明すべて、うならせてくれました。」
2889号【2012年5月27日】
◆<定例会の声聞けば・・・>
25日午後から夜にかけて東アジア研究交流委員会とTOAFAEC 定例会(第184回)合同の研究会でした。メインゲストは久しぶりのソウル・姜乃栄(カンネヨン)さん。日韓の市民運動・自治体間交流の架け橋となって活躍中。豊富な取り組み事例(蓄積中)をもとに聞き応えあるお話でした。会うたびに一段と力をつけている感じ、頼もしいことです。
ぶんじんは病後の身、はたして「…自宅で安静にしているかどうか」と危ぶむ声(上野景三さん)も聞こえてきましたが、迷うことなく出席しました。恢復の途上にあることは明らか、「東アジア」とTOAFAEC
定例会の「…声聞けば、我が身さえこそ動(ゆる)がるれ」の心境、会場に一番乗りでした。ソウルの姜さんはもとより、仙台からは石井山さんもわざわざの上京、新しいご参加もあり。皆さま、お疲れさまでした。追って正式の研究会報告が届くと思います。
長い「イーストビレッジ」での交流会のなかでも、この日は“歴史的”な夜。ぶんじんが果たしてビールなしで過ごせるか、飲んだ気分になって歌えるか、まわりも遠慮しないで楽しめるか、など気にしながら乾杯。ぶんじんは日本茶で(食事は持参の蒸しパン)。アーレスグート!すべてうまくいきました。王国輝さん(遼寧師範大学)がそれとなく気をつかってくれるのが分かりました(有り難う!)。会が終わったのは11時近くか。
3月から金ボラムさんが参会するようになり、呉セヨンさんとのコンビができて「アリラン」や「鳳仙花」そして伝統芸能「パンソリ」も歌われ、圧倒されます。こちらも負けじと、王さんと一緒に「松花江上」を。病後の故か、やや拍子はずれなのが残念。帰宅したら、李正連さんから「色々なアリラン」資料(上掲)が寄せられ、しばし楽しみました。今日(26日)は安静につとめることにします。日本公民館学会・定例研究会(風2880号)はお休みです。お許しください。
▼前列・右二にカンネヨンさん、右三は石井山竜平さん (第184回定例研究会−東アジア研究交流委員会と合同、
高井戸、20120525) 撮影:呉世蓮さん
2888号【2012年5月25日】
◆<闘病生活>
前号を書いた雨の1日から一転して、その後は好いお天気、5月の風がやさしく吹いています(24日)。昨日は病院へ。術後12日が経過した時点での総括的な診断を伺いました。血液検査の結果を含め、いい状態で経過している、切除した胃部位の細胞検査についても(期待した通り)とくに問題はない、胃酸の分泌を抑える薬(タケプロンOD錠)をあと1週間余り服用する以外には、他に処置する必要なし。今後は、1ヶ月後と2ヶ月後に胃カメラで治癒状態をチェックしましょう、そんなお話でした。今年は胃カメラと、とくに仲良しになった年、まだ付き合いが残っているようです。
というわけで、お祝い!乾杯!といきたいところ。しかし、刺激物・アルコール類は2ヶ月ほど禁じられたことが痛い。これまで術後の苦痛はほとんどなく、2日も点滴につながれた不自由と流動食ぐらいがイヤな体験。ところが、ある程度予期していたとは言え、なんと2ヶ月も禁酒!とは苦痛です。ビールが美味しくなる季節なのに。これからが私の闘病生活!か。
頂戴したお見舞いの中に刺激的なメッセージがありました。「…お疲れがないように、お酒も少しは抑えて頂ければと思っております。お酒は先生の分まで私が飲みますので、私に渡してください。」
イヤハヤ!
めげずに、気を取り直して・・・。離れていた仕事に少しずつ復帰したいと思っています。幸いに「南の風」は、そう間隔が開くことなく送信できていますが、いくつか忘れていた原稿などあります。関係の方にご迷惑かけないよう、スケジュールなど、いま想い起こしているところです。
2887号【2012年5月23日】
◆<東京は終日の雨>
前号に紹介した上原信夫さん「証言」。TOAFAEC 研究会の記録は概要(
→■)ですが、さらに詳細な記録として『上原信夫オーラルヒストリー』(2005、政策研究大学院大学・COEオーラル政策研究プロジュエクト、A4版273頁)が公刊されています。市販されているものではりませんが、ご参考まで。前号に書き忘れたこと。
戦後初期、上原信夫さんたちの「沖縄民主同盟」と同年(1947年)に結成された「沖縄人民党」の瀬長亀次郎氏ニュースが、たまたま沖縄タイムスに掲載されました(5月20日
)。合わせて収録いたします。(上掲)
本号には久しぶりに鳥塚義和さんからのメール。「松花江上」作者(作詞・作曲)張寒暉の資料を送っていただきました。写真も含まれ、興味深く拝見しました。鳥塚さんには『世界近現代史−授業が楽しくなる「歌と演説」』(1996年、日本書籍)の名著があり、その中に「松花江上」をはじめ、私たちの研究会で(昔はよく)歌った「インターナショナル」「ビラーディ、ビラーディ」や「アチミスル(朝露)」あるいは「原爆を許すまじ」など多数の歌が紹介されています。沖縄の歌では宮古島の人頭税廃止運動と関わる「クイチャー」も。
琉球大学(院)で研究されたこともあり、竹富島・安里屋ユンタについての報告があります。いちど研究会に来ていただいて、私たちと共通する研究関心とその多彩なコレクションの話をお聞きしたい、ともに歌いあいたいと願っていますが、千葉と東京ではやや距離があります。
多田豊さんの「Cターン」への思い(上掲)、また興味深し。徳島に帰るに至った話、いちど聞きたいと思っていました。今日の東京は終日の雨。
2886号【2012年5月21日】
◆<88歳の自分史>
『人民の力』(同・編集委員会)という雑誌があります。月2回発行で5月15日号は964号(A4版23頁)。ぎっしり内容がつまった編集、ずいぶんと歴史を重ねてきた雑誌です。表紙写真は「5・5脱原爆−子どものために大行進♪
in 長野」デモの一枚。未来を象徴するような生き生きとした表情。キャプションには「すべての原発がとまった日」と題して、次の詩が掲げられています。“五月晴れにたなびく鯉のぼり/ともにひるがえる脱原発の旗/子どもたちに残そう原発のない社会を/声高らかに原発ゼロの祝声/二度と稼働はさせない/ここから新しい社会がはじまる/私たちの新しい生き方がはじまる”
この2月に、同誌編集部より突然に1冊をご恵贈いただきました。経過はすぐわかりました。同誌に上原信夫さん「88年の自分史を語る」連載が始まっていたのです。同
964号はその5.1950年に中国に密航し新中国の国づくりに参加、農業政策や人民公社あたりまで話が及んでいます。
上原信夫さんは1924年生まれ、沖縄・国頭村・奥のご出身。13歳で満蒙開拓青少年義勇軍として旧満州へ。反帝国主義・抗日思想の影響を受けつつ兵役へ。沖縄戦下・宮古島での従軍、日本軍より死刑宣告を受け、生きのびて敗戦、焦土の沖縄にたどりつく。戦後沖縄・最初の政党「沖縄民主同盟」結成に参加。その後は米占領軍に追われ大阪へ密航。1950年にストックホルム世界平和大会へ向けて再び密航。シンガポールで逮捕され香港を経て、建国直後の中国に入り、1974年に奇跡的に日本に帰国、という稀有の自分史を歩いてきた方です。
TOAFAEC 定例会では2004年から2006年にかけて5回ほどお話を伺ったことがあります。故石倉裕志の記録が残され、「風」に掲載。さらにホームページに収録しています。お話はいつまでも忘れることができません。
→■http://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/okinawauehara.htm
▼上原信夫さん(TOAFAEC第124回研究会、2006年12月22日)
2885号【2012年5月19日】
◆<事務局会議>
久しぶりに上海・呉遵民さんから近況の来信(上掲)。ご活躍のようですね。講演記録(中国語)が添付されてきましたので、中国研究フォーラムの黄丹青さん、上田孝典さんに転送いたしましょう。
今般の入院のこと、呉さんや多田さん等(上掲)だけでなく、多数の方よりお見舞いをいただき(風に載せていない)、恐縮しています。ほんらい私事は書かない主義ですが、「南の風」発行の立場や、TOAFAEC
年報編集との関連から、皆様に簡単な経過報告を書く羽目に。全くお騒がわせ!です。
さきほど着信した包聯群さんメールが率直で面白い。ご紹介しましょう。
「先生へ:こんばんは!包です。ご入院生活は大変だったでしょうね。ちょっと心配だったけど、先生なら大丈夫でしょうと思い、それほど心配していないです。しかし、私も何回か胃カメラをしたことがあって、大変つらかったことがあり、なんとなく心配してしまったのです。でも無事で何よりです。お元気で何より!万歳! それでは、あまりお疲れないように健康にご注意を。…」(Fri,
18 May 2012 22:55)。有り難う!
本号に今年度 TOAFAEC・総会案内が掲載されました。例年のように日本社会教育学会・六月集会終了後の日程。場所も最寄りの駅近くのようです。学会終了後はお疲れでしょうが、お誘いあわせの上、新しい方を含め、楽しくご参集ください。
18日夜、総会に向けて、近くで事務局会議が開かれたらしい。こちらは病後でもあり、どうせ飲めないので、あえて欠席。TOAFAEC
史で事務局会議を欠席したのは恐らく初めて。かって「風の部屋」等で内田純一や故石倉裕志などと(いつも!)飲みながらTOAFAEC
議論をしていた時代をひとり懐かしむ夜でした。あの頃は総会はなく、むしろ月例会と年報編集の進め方が中心のテーマ。天下をなで切りし、東アジアの海に果敢に船出する勢いを鼓舞していたような想い出。
2884号【2012年5月18日】
◆<美味しい?胃カメラ>
今日(18日)は手術からちょうど1週間。胃内視鏡(今年はすでに5回目)を再び呑み込んで、その後の経過をチェックする日でした。あわせて採血とか、回復期に向けて話を聞いたり・・・1日がかりの病院通い。
前号に(ぶ)欄「病院を抜け出して」を書いたところ「あきれた!」「辛抱して!」などの反響(当方の書き方も誤解を招くところあり)、若干の補足を書き添えることにします。
最初の入院計画では、1週間(つまり今日まで)病院ベッドに拘束される予定でした。今回の内視鏡検査を終わって退院と聞いていましたが、主治医の賢明な!判断で3日前の15日に退院許可が出たのでした。2日間の点滴も、外出許可を求めたところ、1袋だけ省略してもらって、管から6時間早く離れることができ、結果的に計3回の外出(2〜3時間程度、すべて自宅へ)が可能になったという経過です。前号「実質5日のうち3日は外へ抜け出て・・」は、正確には「3回」外出をしたと書くべきでした。すべて看護集団の許可を得た上で、ドクターOKも頂いての行動です。順良な入院患者であったことを強調しておきたいと思います。
点滴を短めにしてもらったとか、思いもかけず退院が早まったのは、80歳という年令の割には元気なことが評価された・・・と勝手に推測しています。今日の胃カメラは、慣れもあってか、あっという間に終わりました。これまで喉元に執拗に残った違和感もなく、拍子抜け。これまで嫌いだった内視鏡も妙に好き?になりました。これも一つの収穫なのでしょうか。
2883号【2012年5月16日】
◆<病院を抜け出して>
ご存知「2011年を忘れない!」カレンダー企画・プロデュ−サ−の堀尾正靱先生(龍谷大学)より6月6日「地域からエネルギーの未来を創る緊急シンポジウム」案内をいただき、それを本号冒頭に掲げるつもりのところ、那覇の鷲尾真由美さんから「5・15,雷雨のなかの抗議集会」レポートが届きました(上掲)。シンポご案内は次号に掲載させて頂きます。
テレビなどが報道する政府主催の復帰40年記念式典の一方で、激しい抗議集会が開かれている様子、写真(添付)もありがとうございました。
堀尾先生からのシンポ案内に添えられたぶんじんへの私信、親しさに甘えて、本欄でご紹介に及びます。
「…ご退院おめでとうございます。先生を見習って、私も病院に行ったときは、脱出したりしたいと思っています。実際、母の看病で結構病院通いをしましたが、あそこに居るだけで、脳は活力を失いますし、体も動かさず、病気になりますね。日曜日は先生のメール(風2881号)を拝読し、お留守で退屈されているのではないかと思いましたので富美様をお外にお連れしました。ご無理をなさらずに。またいろいろお話をお聞きしたいです。6月に行うシンポジウムの案内をお送りします。」(Tue,
15 May 2012 16:56)とのこと。
ご配慮有り難うございました。妻も喜んでいました。病院は、基本的に行動の自己決定が許されない空間。そこから逃れて、手術と点滴に繋がれていた日を除き、実質5日のうち3日は、外へ抜け出ていたことになります。もちろん(感謝しつつ)許可も得た上でのこと。入院を伝え聞いて、はるばる妹たちが見舞いに来たそうですが、これには失礼する結果となりましたが。いま神妙にも酒類は控えています。経過によりましょうが、どのあたりからチビリと可能なのか、先輩諸氏、一手ご教授ください。
2882号【2012年5月15日】
◆<沖縄の友人たち>
沖縄の日本復帰は1972年。この年にまだ私たちの沖縄研究は始まっていません。しかしこの年にこそ、沖縄問題への認識の弱さを恥じて、戦後日本社会教育史そのものを書き直そうと思い始めたのでした。本格的に「戦後沖縄社会教育研究会」がスタートするのは、それから4年後の1976年。そしてTOAFAEC
の発足(1995年)まで20年の取り組みがありました。
これまでの私たちの研究会同人だけではなく、その間に出会ってきた沖縄の友人たちの顔がさまざま浮かんできます。とくに印象深く想い出されるのは、沖縄の自立・アイデンティティを激しく問いかけたあの表情、ヤマトゥの知識人・学者への不信、琉球史からの文化・芸能の独自性を楽しむ誇らしげな顔などなど。
1977年から2001年まで、ぶんじんゼミでは(留学生を含めて)沖縄フィールドワークが必須でした。研究者には厳しい対応をする友人たちが、沖縄をまったく知らない若者たちには実に寛容、暖かく受け入れてくれた貴重な想い出があります。ちなみに稲嶺進・名護市長が社会教育主事だった頃、学生たちに名護でもっとも安い宿を探してくれたのがススムさんでした。
復帰40年の5・15、沖縄にとっては4・28に続く屈辱の日と言うべきかもしれません。これまでの苦闘、葛藤、奮闘の歴史を思い起こせば、復帰の日はお祝いの日ではありません。
この日、奇しくもぶんじんは退院の喜びの日となりました。あらためて現代医学の到達点に出会った(人生はじめての)入院生活でした。前号の「ベッドの上で」経過報告を読んでいただき、各位から、それぞれのお見舞い、励ましなどメッセージをいただき、恐縮し感謝しています。あとしばらく元気に生きようと、思いをあらたにしているところです。
2881号【2012年5月13日】
◆<本土による沖縄「差別」>
沖縄が本土に復帰して5月15日で40年。朝日新聞社と沖縄タイムスが合同の世論調査を行い、9日朝刊がその結果を報じています。調査では、今回とくに米軍基地押しつけを「差別」ととらえる意識について、初めての項目が設けられています。設問は次の通り。「沖縄には在日米軍の基地や施設の74%が集中しています。沖縄の基地が減らないのは本土による沖縄への差別だという意見がありますが、その通りだと思いますか。」
その通りだとする回答は、沖縄では50%、全国(本土)では29%、そうは思わない回答は、同じく沖41%、全58%。世代的傾向をみると、沖縄では年代があがるにつれ「差別だと思う」人が増え、60代以上では60%を超えています。一方、全国では30代男性で81%が「そうは思わない」と答え、「差別だ」との回答が最も多い70代以上でも34%にとどまっています。
沖縄の半数の人(世代によっては半数以上の人々)が、「差別」を訴えている重い事実。朝日解説は次のように書いています。「本土による差別、という場合、それは本土の一部政治家によるという意味ではない。本土メディアで働く私も、本土に暮らすあなたも含まれる。…」
ちなみに沖縄と本土との間に「さまざまな格差がある」と思う人は78%、普天間飛行場を名護辺野古に移設することへの反対は66%。
「沖縄では本土への不信が潮のように拡がり、被差別感となって共感しつつ、ある種の沖縄ナショナリズムが高まっている。…基地問題に対して不平等、不公平にとどまらない「差別」という指摘の重み。これは差別だという沖縄の声は、本土の「無関心」への反作用なのだ。」(朝日新聞・世論調査解説、5月9日)
◆<追記・ベッドの上で・・・東京・信濃町> *自分史メモ(2012年5月13日・風2881号)
→■
http://www007.upp.so-net.ne.jp/bunjin-k/jibunsi.htm
2880号【2012年5月9日】
◆<次の蕾をつけて>
前号本欄・TOAFAEC 創設期の「通信」は、正しくは「ニュース」でした。訂正します。手作りペーパー「ニュース」は今や貴重な歴史資料となりました。「南の風」発行が結果的に「ニュース」の役割を吸収・消滅させた経過、歴史の皮肉というべきか、複雑な思いです。
7日午後、1週間ぶりに東京へ帰ってきました。庭がないと“風かおる”実感がありませんね。永福の君子蘭は最初の鉢が満開の名残をとどめ、2番目の鉢が次の蕾をつけ、ほころび始めています。捨て育ちのたくましさ。(下の写真は2004年春の満開時。たまたま出てきましたので…。)
たまった新聞や郵便類を開いています。秋田県青年会館発行『あきた青年広論』は102号(3月発行)。韓国平澤市から高校生を招いて開かれた交流の記事・写真など(日韓青少年交流会:秋田県青少年交流センター主催による)。
昨年から準備を続けられてきた「原爆を視る 1945〜1970」(目黒区美術館)が「無念の開催断念」記事(朝日2日夕刊)。丸木夫妻「原爆の図」や渋谷駅壁画の岡本太郎「明日の神話」(原画)の写真が対照的にあざやか。区の財政悪化によるとか。こんご資料集出版をめざすそうです。
池澤夏樹「終わりと始まり」(同1日夕刊)から。「…福島第一の事故は2万人以上が住む国土を住めない土地にしてしまった。…そこは…たくさ
んの住民が暮らしていた愛しい地である。千年も前から耕して新しい作物を育て、家畜を養い、町や村を営んできた。それを我々は失ってしまった。今後何十年か、ひょっとしたら何百年、住めない地域をつくったということを、国家としての日本はどう受け止めるのか。…」
同じ頁に俵万智の新歌集『風が笑えば』出版のニュース。“風と草と光と春のかくれんぼ
探してごらんさわってごらん”など。
▼永福ベランダ・君子蘭(040326)
2879号【2012年5月7日】
◆<TOAFAEC の総会>
数号前の本欄、そして前号の遠藤輝喜(事務局長)メールのように、今年もTOAFAEC
総会日程を決める時期となりました。例年のように日本社会教育学会六月集会前後で調整が始まっています。6月3日?の線か。
TOAFAEC 創立(1995年)の頃は、総会など開いていませんでした。その必要もなく余裕もなし。小さいサークル活動の特権というべき、規約や編集委員会等の定めもとくになし。毎月の定例会活動を中心に会の意思決定は自然なかたちで共有されてきました。
フオーマルな組織が求められたのは、上海や広州の訪日団受け入れ招聘状や、華東師範大学との研究交流・協議書の締結にあたって、文書上の手続きからでした。2000年前後のこと。規約をつくって、会議や役職や会計を定めることになりました。総会の規定もそのとき。
TOAFAEC の初期には、通信(ぺーパー)を発行していました。第1号は「ひろば」と称し、2号目から
TOAFAEC「通信」と改名。発行人は内田純一さん(事務局長・当時)でした。しかし通信は1998年2月創刊の「南の風」にしだいに吸収されていきます。主要な経過をHPに。
→■http://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/Toafaec-Okinawa.htm
総会の記録は2001年からHPに掲載しています。
→■http://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/03soukai2.htm
当時を回想すると懐かしく、ずいぶんと年月が経ったような気分になりますが、ようやく10年あまり。まだ若い歴史です。これからどんな歳月を創り出していくのか。総会にぜひお越しを。近日中にご案内予定です。
恒例「七夕の会」の話も始まりました。7月中旬の日程になりそう。
2878号【2012年5月6日】
◆<風かおり月のぼる>
2日には久留米(生家)へ、5日には佐世保(義兄の一周忌)へ、いずれも農中茂徳さんに車を出してもらって、連休中の混雑の道をすいすいとかわしながら、お日さまと薫風と懐かしい顔との出会いを楽しんできました。日暮れて帰り着くと、その頃に満月のお月さまがゆらゆらと東の空に。
油山の遅い朝食は庭のエビネの横に、手作りベンチを持ち出して朝日をあびながらのひととき。いま太陽のリズムに合わせ体内時計を調整中。
さて、連休中も「風」来信多く、皆さんへの配信はあまり休む日がありません。その一方で、本欄に書きたいことがいくつか滞留しています。
NPOアンティ多摩「市民活動のひろば」がこの5月で100号を迎えました。一文を依頼され「市民自らが歴史を創ってきた“挌闘の10年”」を書きました。「…10年前のことを思い出しています。東京都立多摩社会教育会館『市民活動サービスコーナー』が閉じられ、旧「市民活動のひろば」最終号に
"挽歌"を綴ったこと」もありました。記念の節目に書く機会を与えられて光栄。10年前は悲しみの歌でしたが、いまは元気よく「ひろば」が拡がっている喜びの合唱。10年前の挽歌を含めて、当方のHPに入力しています。お暇の折りにご覧いただければ幸い。
→■ http://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/tokyokenkyu.htm
伊藤長和さん「烟台の風」が再開。国際労働節(メーデー)の連休に赤峰(内モンゴル)に一人旅、砂嵐にも巻き込まれた奮闘記です。旧知のトクタホさん、ダーフラさんなどに大歓迎を受けた由。数回に分けて掲載します。
2877号【2012年5月4日】
◆<2012憲法記念日に>
前号記事に関連してメールふたつご紹介。一つは、杉並の5月6日「祝!原発ゼロパレード」の集合場所「蚕糸の森公園」の最寄り駅訂正。丸ノ内線(新高円寺でなく)「東高円寺」駅だそうです。丸浜江里子さんからのメールの続き。「…蚕糸の森は、元蚕糸試験場のあったところ。蚕糸試験場は、58年前の杉並の原水禁署名運動の拠点の一つ!歴史的な場所にどうぞ、いらして下さい!」(03
May 2012) 6日・集会開始14:00〜。
福建師範大学・李闘石さんからのメール。「わたしの訪日レポートを東アジア社会教育研究・第17号に掲載していただければ幸いです。後でちょっと修正して締め切りまでにお送りします。」(Thu,
3 May 2012 17:14)
ご返事。有り難うございました。続けて「福建師範大学・福清分校より申し出た終身教育・専門課程は、中国教育部の許可に外れてしまいました。残念なことです。皆様からの応援、ありがとうございます。」
憲法記念日。博多の街はいつもドンタクの喧噪に包まれます。この日につくる「風」ですから、沖縄タイムス社説「沖縄で主権在民を問う」をお借りしました(上掲)。油山の隠れ家、東京から運んだ本の整理をしようと書庫へ。昔の本が微笑んでくれて・・・作業はほとんど進みません。山本作兵衛さん『筑豊炭坑絵巻』を開けば、横に森崎和江さん『まっくら−女坑夫からの聞書き』も並んでいて、懐かしい再会。森崎さんの印象的な「あとがき」(現代思潮社版、1970年)、こんなくだりがあります。
「…山本作兵衛さんがその記録画の中から二十数葉をこの書にそえてくださった。…私はこの聞書きにその絵をそえていただくことが痛い。山本さんにはさぞかし私の聞取り方のあわあわしさが邪魔になることだろう。」
森崎和江「まっくら」の聞書きには、あらためて圧倒されます。このような迫力で「やんばる対談」記録などを残したいもの。
2876号【2012年5月3日】
◆<福建へ−海をこえる風>
風2873号本欄末尾、福建の李斗石さんへお伺いした件、早速ご返事を頂戴しました。小さな記事を隅まで読んでいて下さって感謝!です。
「小林先生:メーデーの三連休があけて、今日から出勤です。今年の報告『大震災後1年の動き』(仮題)を福建側にお送りしようかとの案・・・、ぜひお願いいたします。」(Wed,
2 May 2012 10:43)
積極的に考えていただき、有り難うございます。東日本大震災から1年余を経て、いま、どのような状況が動いているのか。とくに社会教育・生涯学習の視点から何が問われているか。難しい局面のなかで、みんなで考えあってみよう。『東アジア社会教育研究』第17号(2012年秋・次号)編集にあたって「大震災後1年の動き」報告を掲載しようということに…。
原稿執筆(東北の社会教育研究者を予定)は、6月末まで1万字前後の字数で考えています。昨年の続きということもあり、できれば福建省『終身教育』誌に掲載いだけないか、中国語訳もお願いできれば有り難いのですが・・・、ご検討くだされば幸いです。
あと一つのお願い。昨年10月の「福建省日韓終身教育訪問団」について、李闘石さん執筆レポート(2011年11月5日)を拝受しています(HPに収録)。これを、『東アジア社会教育研究』第17号に掲載してよろしいでしょうか。もしその後の修正、あるいは別報告があれば、お送り頂ければ幸いです。
→■http://www010.upp.so-net.ne.jp/mayu-k/tyugoku200912.htm
福岡は今日から「博多ドンタク」の祭。天気はあまりよくありません。
2875号【2012年5月2日】
◆<エビネ咲く五月>
5月1日はメーデー、あの日の歌声が懐かしい。デモに疲れて、博多中洲のビヤホールで飲んだのが、ぶんじんのビール開眼でした。いま歌声は遠く「君はどこにいるのか姿も見せず」とは♪喜勢武原♪(海勢頭豊)の歌詞。
ベランダの捨て鉢の君子蘭。蕾がついていましたが、メーデーを祝うかのように、今朝あざやかに開きました。健気な花よ、と愛でる暇もなく福岡へ。油山の庭には、期待通り、エビネ蘭が楚々と咲いていました。いよいよ五月、山から吹いてくる風さわやか。薫風のいい季節となりました。
いくつかご報告したいこと。27日の定例会の夜、包聯群さん(東大・学術研究員)『言語接触と言語変異〜中国黒竜江省ドルブットモンゴル族コミュニティ言語を事例として』(現代図書)を頂きました。博士論文に数章を加えた大作。当夜のお祝い会で、あらためて本の刊行に乾杯しました。来日して独自のテーマに取り組み、苦節に耐えた15年の歩みに拍手!
山口真理子さんから(いつものように)琉球新報の切り抜きを送っていただきました。同誌「屈辱の記憶」シリーズのなかに、3月末に訪問した中頭(なかがみ)青年団OBの中根章さん(元沖縄原水協理事長)、東武さん(元沖縄県青年団協議会々長)などが登場されています。やや読みにくいけれど、下に添付します。
福岡の圓入智仁さん(中村学園大学短期大学)より、戦前の日本とタイの交流を発掘した貴重な記録が届きました。1929年にシャム(当時)より「日本に渡ったルークスア」私家版。ルークスアとはタイ語でボーイスカウトのことだそうです。写真も挿入され、また日本側の訪日団旅行記「南国の若人を迎えて」(白井茂安)も。圓入さんの添え書きには「タイ語の翻訳に初挑戦しました」とのこと。いい日本文に仕上がっています。
2874号【2012年4月30日】
◆<山笑う季節>
日本は連休・ゴールデンウィークに入りました。日頃は仕事に追われている皆さんも心なしか安らぎの表情。山は笑い、花も咲き移ろい、ゆっくりと楽しい時間をもちたいもの。しかし今朝(30日)の朝日俳壇に「本年も東北の山笑わざり」(金子兜太選、岡田章)の一句、現実を思いました。「笑うべき山そのものの消えし春」(ぶ)というのが原発周辺・浜通りを追われた人たちの実感でしょう。
千葉悦子さん(福島大学)の岩波新書『飯舘村は負けない』に相次いで、石井山竜平さん(東北大学)編『東日本大震災と社会教育−3・11後の世界にむきあう学習を拓く』(国土社)が出版されたことは、風・本欄でもご紹介した通り(2863号)。いい本が出ました。
28日の東アジア交流委員会・中国研究フォーラムが終わって、茗荷谷の駅近くで開いたお疲れさん会。この本が世に出た労をねぎらい、石井山さんにとっては初めての編著出版を祝って、残った人たちで心からの乾杯をしました。いま山は豊かに笑う季節なのに、その花も香りも風も失った現実、その厳しさが新しい本を生むという複雑な喜び。この夜、石井山さんは、心なしか感傷的な一夜だったようです。
今回の2日間の集いは、それぞれに次回日程を積極的に決める流れとなりました。嬉しいことです。いずれ5月から6月にかけての予定ご案内が寄せられることでしょう。今日、日本社会教育学会・六月集会の日程一覧も送られて来ました。TOAFAEC
年次総会は、例年、六月集会に合わせて開く慣わし。日時・会場等の準備をよろしくお願いします。
▼東アジア研究会・中国研究フォーラム終わる。左より3人目・石井山さん 撮影・金宝藍さん(茗荷谷、20120428)
2873号【2012年4月29日】
◆<待望のパンソリ登場>
27日〜28日、予定通り5つの研究会・編集会議・フォーラムなど開かれました。。両日とも遅くまで楽しく飲んで、パソコンから離れていました。この間、いろいろと議論もできて充足感あり、また(当然のことながら)疲労感も。各会合の報告はそれぞれ寄せていただけるものと期待しています。まず本欄で書きたいこと、たくさん。順不同で、忘れないうちに…。
まず、4月定例会(27日夜)とお祝い懇親会。待望の金ボラムさんのパンソリが披露されました。太鼓はありませんでしたが、呉セヨンさんが拍子とり。いつもの山口真理子さんの歌がこれに加わって、歌姫トリオの熱演は見事なものでした(写真)。これほど歌が出た定例会はこれまでなかったような…。
九州から上野景三(佐賀大学)、仙台から石井山竜平(東北大学)のお二人、遠路はるばる有り難うございました。中国・韓国両フォーラムの主な顔ぶれも揃いました。ご参加の皆さん、たいへんご苦労さまでした。
東アジア交流委員会(28日)終了後、次の日程について、韓国から5月来日予定・カンネヨンさんの都合に合わせ、5月25日(金)午後〜夜に開く案になりました。当日は、TOAFAEC(第184回)定例会の予定日と重なります。両者合同で企画するかたちにしてはどうでしょうか(提案)。
TOAFAEC としては、沖縄(復帰40年)をテーマに5月プログラムを検討中でしたが、これは6月に延ばし、「東アジア・研究交流のこれから」について語りあう企画となりましょう。もし事務局各位に異論なければ、当日の午後(まずカンネヨンさんの話を聞く)・夜の会場、そして交流会の予約をお願いできませんか。
年報編集については協議(上野編集長・石井山両氏など)が進みました。大震災から1年を経過しての報告も確定(依頼済み)。昨年は、震災直後に福建『終身教育』誌に寄稿した経緯あり。今年の報告「大震災後1年の動き」(仮題)を福建側にお送りしようかとの案も出ましたが、福建の李斗石さん、如何でしょうか?ご意見いただければ幸い。
▼歌姫トリオの熱演、左より山口真理子、呉セヨン、金ボラムの皆さん (第183回研究会後、永福駅前、20120427)
2872号【2012年4月26日】
◆<ハナミズキの季節>
5月がすぐそこ。東京は一段と暖かくなり、ハナミズキが美しい季節となりました。風2868号で一括ご案内したように、27〜28日にかけて4つのプログラム。27日は年報(第17号)編集委員会と4月定例(第183回)研究会:会場・永福。そして翌28日は、東アジア交流委員会と中国研究フォーラム:会場・茗荷谷。関心ある方々(初めての方も歓迎!)のお出でをお待ちしています。*ご案内一覧
→■
烟台の伊藤長和さんから定期便のような風。前にも書いたように、添えられる前文(いつも省略)が面白い。前号に収録した「烟台の風」第232号は次の通りでした。ご紹介します。
「ようやく銀杏が芽吹き出しました。でも周りの景色は茶色一色。それでもタンポポ、スミレ、アンズ、コブシ、モクレン、レンギョ、桃の花が咲き始めています。昨日(22日)、烟台3大学・日本人教師の会を開きました。魯東大学に4月から赴任した真室先生は、なんと南の風から「烟台の風」を山形で読んでいた、とのことです。驚きの声をあげました。…」
おそらくTOAFAEC ホームページを読んでおられたのでしょう。最近はホームページへのアクセス・カウンターが勢いよく動いています。思わぬところに読者あり、それも次第に増えています。こわいような、嬉しいような…。顔の見える風ネットを心がけてきましたが、顔も知らない方が愛読者とは・・・まずは感謝!です。
松本市「地域づくり実行計画」、ご担当の矢久保さんから送っていただきました。これにも感謝!
2871号【2012年4月24日】
◆<今年のドイツ訪問調査・お誘い>
南の風は、沖縄や中国・韓国など東アジアに関わる通信を中心に編集してきました。ところが、2000年あたりから、ドイツの社会文化運動への関心があり、その訪問調査のお誘いや、訪問先ドイツからのレポートがたくさん舞い込むようになった一時期があります。あわせて、パリ便り(末本誠さん)、レディング通信(岩本陽児さん)が重なって、一時は「ヨーロッパの風」の看板を掲げたくなるほど。あの時期の研究会では、西と東を結ぶ視点をもって論議を重ねたことなど、懐かしく想い出されます。なかでも熱心にドイツ行きに参加した故石倉裕志(事務局長)の顔が浮かんできて、切なくもなります。
ドイツへの関心は、もちろん谷和明さん(東京外国語大学)のご指南によるもの。ハンブルク・アルトナ祭への参加を中心に、たくさんの記録が南の風に(同時発行していた小林「公民館の風」にも)残っています。一部はHPに収録しています。お暇の折り、ご覧いただければ幸い。
→■ http://www010.upp.so-net.ne.jp/mayu-k/deutsch2000.htm
今年のドイツ市民社会文化調査へのお誘いは、日本公民館学会(国際交流部)HPに掲載されています。社会文化学会(ドイツ交流委員会)と共催のかたちです。呼びかけの一文。
「…ドイツでは1970年代中期から社会文化センターという多機能的な地域センターを市民達が自力で開設し、自主管理運営する運動が発展してきました。この社会文化運動の経験は、日本の社会教育、福祉活動、地域市民 NPO活動のありかたを考える上で大きな刺激と示唆を与えてくれるでしょう。このドイツにおける社会文化運動、市民地域活動、およびそれと結びついた生涯学習活動の広がりと力量を示してくれるのが、ハンブルク市の下町アルトナ区、1999年から毎年開催されてきた地域市民文化祭・アルトナーレ die altonaleです。…」 日程、経費、申込みなど、詳しくは日本公民館学会HPをご覧下さい。申し込みは急ぐようです。
→■http://www1a.biglobe.ne.jp/kominkan/_userdata/germanyresearch2012.pdf
2870号【2012年4月23日】
◆<名護のティーダ(太陽)になれよ>
前号の続き。名護・東海岸関連のブログ「辺野古浜通信」や「二見以北10区の会」(前号に紹介)などそれそれの迫力。現実の問題に直面しているだけに、その発信に打たれるものがあります。そして賑やか、ときに楽しく、色とりどりの誌面づくり…。この数日、やんばるブログのネットに迷い込んで、次から次へとリンクがつながり、時間を忘れて読みふけりました。
ことのついでに、「二見以北10区の会」サイトのなかから印象的な記事ひとつ。2年前の、稲嶺進市長当選直後のインタービュー記事(2010年2月1日、抄録)です。タイトルは、「名護のティーダ(太陽)になれよ」。聞き手・浦島悦子さん(二見以北10区の会・共同代表)。
→■
http://kichi-iranai.jp/d_10kumovement/y_uttae/20100228/20100228.html
○聞き手−稲嶺さんの本心が基地反対であることは私も信じていましたが、率直に言って、当初は、みんなが納得するほど明確ではなかった。はっきり、「ノー」と打ち出すきっかけになったものは何ですか?
○稲嶺進−最初にそれを言葉や文字にして約束したのは、辺野古のおじぃ、おばぁたちの前でした。子や孫たちのために、老体に鞭打って2000日以上も座り込んでいる姿を目の当たりにして決断を迫られ、「辺野古、大浦湾の海に基地は造らせません」と色紙に書いたとき、私の心がしっかり定まった。嘉陽のおじぃ(辺野古の嘉陽宗義氏)から、「ススム、ティーダヤ マーカラアガイガ(太陽はどこから上がるか)?」と聞かれて、「アガリカラ ヤイビーン(東からです)」と答え、「名護のティーダになれよ」と激励されたことは、私の大きな支えになりました。(注・辺野古も稲嶺進氏の出身地も名護市東海岸に位置する。)
この記事は、2010年2.月19日付「週間金曜日」に掲載されています。
2869号【2012年4月22日】
◆<名護・地域づくりコーディネーター>
先日(3月28日)の名護・市民フォーラムのひとこま。川崎の武田拡明さんが稲嶺進市長の話を書いています(風2857号)。その市長の構想の具体的な人事(4月から名護東海岸に「地域づくりコーディネーター」を配置)についての沖縄タイムス記事を上掲しました。住民主体の地域力再生を目指す動きです。辺野古問題を抱える一方で、名護市独自の地域づくりが今後どのように展開していくか注目されるところです。
この記事に出てくる「二見以北10区」。「ヘリ基地いらない・二見以北10区の会」の取り組みもあり、同HPは読み応え充分。一節をご紹介しておきます。書き手は浦島悦子さん。先日の名護市民フォーラムでお会いした方。「週間金曜日」名護レポートや、『名護の選択』(2010年)の著者でもあります。
「…沖縄戦の直後、民間人収容所が置かれた大浦崎(辺野古崎)に米軍キャンプ・シュワブが建設された1950年代半ば以降、久志13区(集落)のうち基地を挟んで南側の久辺3区(久志・豊原・辺野古)と、北側の二見以北10区に岐路が訪れます。基地の被害も受けるけれど、「恩恵」も受けて基地経済で潤い、それを目当てに流入する人々で人口も増えた久辺3区に比べ、「恩恵」から取り残された二見以北は、いっそうひっそりと過疎化が進み…」。いま10集落を合わせても人口は2000人足らず。過疎化・高齢化に悩み、若者たちを引き留める仕事が欲しいというのが地域の悲願でもあります。
「こんな地域に生きる私たちは、ここをこよなく愛しています。人殺しの基地ではなく、豊かな自然を活かし、海と山の恵みに依拠して、地域の未来を造っていきたいと願っています。10の集落は、小さくてもそれぞれの顔と味を持ち、そこでは個性豊かな人たちが、悪戦苦闘しながらもそれぞれの夢に向かって努力を重ねています。」
→■http://kichi-iranai.jp/ 島袋正敏さん「黙々百年塾・蔓草庵」(2867号)も10区の一つ「底仁屋」(てにや)集落です。
2868号【2012年4月20日】
◆<済州島・反基地闘争と沖縄>
韓国・済州島の海軍基地建設反対闘争について、松川町の米山義盛さんから突然のニュース来信(風・前号)。ハングル記事を早速に日本語訳していただき(呉世蓮さん感謝!)上掲しました。済州島・江汀(ガンジョン)村(マウル)の反基地闘争については、最近、海を越えて国際的な注目が集まり、連帯・支援の動きがさまざま拡がっています。韓国の多くの宗教団体もこの海軍基地建設に反対を表明していると伝えられます。
象徴的なことに、沖縄・普天間米軍基地の移設に反対する「辺野古浜通信」は『済州海軍基地建設の中断と東アジア平和を求める世界市民の声明』等を掲載。ガンジョン・マウルの写真も多数、現地の緊迫した情勢が目に飛び込んできます。
→■ http://henoko.ti-da.net/e3891421.html
ご存知の音楽家・海勢頭豊さんは今月初旬、市民団体の会長として済州島に渡り、入国を拒否されたとの報道。済州島の住民虐殺「4・3事件」慰霊祭や基地建設の抗議に参加する予定のところ、一行34人のうち1人だけ入国できず、空港に8時間以上も足どめ、日本にとんぼ返りだったそうです(沖縄タイムス4月5日記事)。米軍基地に反対し「沖縄と韓国民衆の連帯をめざす会」代表など平和運動家2人も入国を拒否された由(同4月10日記事)。これに対して、江汀村会は「韓国政府の沖縄反戦平和活動家の入国禁止措置に抗議する声明」(4月7日)を出し、韓国政府に「謝罪・補償、再発防止」を強く求める抗議。反基地闘争を通しての沖縄と済州島マウルとの連帯の動きが注目されます。
「風」は騒がしく連日配信、恐縮しています。月末の定例研究会や東アジア・中国研究フォーラムの会場が確定しましたので一覧にしてご案内(上掲・一部は再掲)に及びました。韓国研究フォーラム案内は次号へ。
2867号【2012年4月19日】
◆<韓国フォーラムへのお誘い>
4月14日・韓国研究フォーラムの余韻が(残っている、というより)拡がっています。早くも次の予定日(6月9日)案内が着信しました(金侖貞さん、次号掲載予定)。前号ぶ欄の挑発にのって、「…今度、金ボラムさんのパンソリにあわせて、舞踊や太鼓打ちもしたいと思います。これからの研究会が楽しみ…」(呉世蓮さん、Wed,
18 Apr 2012 11:37)など。岩本陽児さんは当日を忘れていたそうです。前回(2月22日)の参加が機縁となって、新会員!と期待されていたのですが・・。次回はぜひ!
韓国研究フオーラムは、HP記録
→■としては2007年初頭に呼びかけが始まり、同年2月21日に第1回(この4月で第34回)。契機は『韓国の社会教育・生涯学習』(エイデル、2006年)刊行でした。その意味で、韓国フォーラムの実質的な取り組みは、本の編集作業が始まる2003年にまで遡ることが出来ましょう。この年、編者の一人である黄宗建先生を(赴任先の中国から)迎えて編集会議を開いたときの写真が懐かしい(下掲)。あれからほぼ10年が経過したことになります。この間に、日本に向け、また韓国に向けて、2冊の本を世に出したことになります。
振り返ると、韓国・富川と交流を重ねてきた川崎市の役割が大、私たちに大きな刺激を与えてきました。そしてこの10年、学会や研究者間の研究交流は大きく前進してきましたが、自治体間の交流はどうか。韓国側には、たとえば始興(シフン)市など、積極的な動きです。しかし日本側には目立った動きがありません。自治体職員のなかにも、韓国に関心をもつ人がきっといるはず…。韓国研究フォーラムとして、自治体や職員・市民へのお誘いを強めていこう、そんな話が出ています。まわりに心当たりの方があれば、韓国研究フォーラムのこと、ぜひご紹介ください。
▼『日本の社会教育・生涯学習』編集会議、前列右から2人目・故黄宗建先生(最後の来日)−2003年10月31日
2866号【2012年4月18日】
◆<全羅道のパンソリ>
風・誌面でお気づきのように、春の訪れとともに、中国・韓国それぞれの研究フォーラムが活発に動き始めています。ご同慶のいたり!です。
14日午後に開かれた韓国研究フォーラム(第34回)について、呉世蓮さんの報告が寄せられました(上掲)。有り難うございました。「添削など宜しくお願いします」とありましたので、少し短く補正したところあり、ご了承ください。かえって間違っていれば目もあてられませんが…ご検証を。ミスがあれば(乞ご一報)修正します。
金ボラムさんの報告のなかで、とくに興味深かったのは、2−C全羅北道・全州市「全州市民の一歌学び」の事例です。全州では伝統文化・パンソリの教育資料CDが配布され、専門講座・名唱大会など開かれ、パンソリ紀行も開催されるなど、この6年間に8,000人の市民が参加してきたとのこと(配布レジメ)。沖縄では伝統芸能が社会教育で大事にされていることと通じるものがありそうです。
パンソリについては、20年ほど前に「風の丘を越えて〜西便制」という映画を見て心打たれるものがありました。歌唱そのものが、人間の感情の底からえぐり出すような響き。太鼓だけの伴奏に歌い手一人での表現力に驚きました。「独りオペラ」とも。たしか川崎の故黄宗建先生追悼(あわせて出版記念)の会では、「重度さんのご息女が演じられたような記憶も。
当夜の神田「放心亭」では、ぶんじんは小さな声で「西武門哀歌」、小田切さんは「イムジン河」、金ボランさんはパンソリの一節を歌いました。次の楽しみが増えました。どなたか太鼓を打つ人はいませんか。
2865号【2012年4月16日】
◆<笑い転げた>
今年の沖縄デー(4月28日)。中頭青年団OB会の皆さんから、辺戸岬・復帰闘争碑の前に立ち、あらためて沖縄復帰40年を“検証”する企画の案内(上掲)が届きました。朝9時に沖縄市を出発して辺戸岬へ、復路は高江(ヘリパッド)と辺野古(普天間飛行場の代替地)をまわる1日バスツアーの計画です。ご案内有り難うございました。
あいにく東京では当日、TOAFAEC 関連で東アジア交流委員会(午前)、中国研究フォーラム(午後)が予定され、別の企画とも重なって、今回の訪沖は無理のようです。そのうち中頭OB定例会に参上する機会をつくりたいと思っています。皆様に先日の御礼を含め、よろしくお伝えください。
先月末(28日夜)の名護博物館中庭・市民フォーラムの様子、琉球新報は4月12日に報じたそうです(山口真理子さんから切り抜き。上掲)。もう2週間余が経過していますが、沖縄タイムス(2856号・既報)と違った(岩本陽児さんスピーチなどの)内容なので、記録として収録。
あと一つご紹介。伊藤長和さんの「烟台の風」にはいつも前文があります。229
号に添えられていたのは、前々号の金宝藍さん文章についてのコメント。「…素直で飾りのない良い文章」、そして特に引用あり、「…名護市から那覇市まで帰ってくる車中は、夕焼けの空を見ながら色んな歌が思い出されて歌いたかったんですが、小林先生がずっと歌いまして、とても止めて自分が歌うのはできませんでした。」 伊藤さん「…私は笑い転げました…」とのこと。14日の韓国研究フォーラムのあと神田「放心亭」で、ボラムさんが第一級の歌い手であることを発見。次回にぜひお願いしましょう。韓国研究フォーラムの記録もさきほど届きましたが、本号も長くなりましたので、次号おくりとします。
2864号【2012年4月15日】
◆<春の祝いを>
馬麗華さんより、中国への帰国にあたって丁重な「お礼」(上掲)を頂戴しました。有り難うございました。一路平安!ご活躍を祈ります!
前号に続いて、この間の皆さんからのメール、春のお知らせをいくつかご紹介します。まず福岡の横山孝雄さん(福岡・社会教育研究会)から。「…連絡せず失礼しました。私は3月31日で退職し、現在は城南区役所生涯推進課で人権教育推進員(嘱託)で働いています。南の風を前職場・南区にメールされても届いていないのだと思います。…もうしばらくしたら、自宅でメールできるようにしようと考えています。失礼しました。今後ともご指導ご鞭撻ください。」(Fri,
13 Apr 2012 10:16)
町田市・松田泰幸さんから「とびたつ会ニュース」送付の添え書きとして。「
… 町田市情報では、私ごとですが、昨日辞令があり、生涯学習センター(公民館+市民大学+α)の事業係(市民大学担当)ということになりました。5日から勤務につきます。
…」(Tue, 3 Apr 2012 07:08)
包聯群さん(東京大学学術研究員)から。「…さて、話が変わりますが、一つは、やっと自分の本を先生に差し上げることができるようになりました。本来はもっと早く昨年中にと・・…。今月の研究会にできれば顔を出したいと思っております。」(Tue,
10 Apr 2012 16:40)
次回の定例研究会(4月27日夜)は、めでたく大学教員の職を得た石川敬史さんの話を聞き、お祝い会をします。ご都合がつけば、ぜひお出かけください。ご一緒に、春の乾杯をいたしましょう。どなたも参加歓迎!
詳しくは
→■http://www010.upp.so-net.ne.jp/mayu-k/136kenkyukai2.htm
今晩(14日夜)は韓国生涯学習研究フォーラムでした。金ボラムさんを迎えて歓迎の乾杯も。いま酔いをさまして、本号を送信しています。
2863号【2012年4月13日】
◆<力作を一気に読む>
前号と本号に分けて、金ボラムさんの東京・沖縄レポートを掲載しました。長文の報告、あらためて感謝。いくつか反響がありました。たとえば山口真理子さんから別件メールに添えられた感想。「
… 金宝藍さんのご挨拶・報告は感動です。感じる力と行動する力と、それを表現できる力がある方ですね。韓国からの皆さん…人柄が良くて、おまけに美人でスタイルもいい…。すばらしい方々が集まりましたねえ。」(Fri,
13 Apr 2012)
あわせて、石井山竜平さんからの連絡メールには、次の出版お知らせがありました。大震災と社会教育についての新しい本です。
「…ところで、『東日本大震災と社会教育 3・11後の世界にむきあう学習を拓く』が国土社より刊行されます。震災にむきあう専門書を出すのは時期尚早という思いもあり、また、これだけ事態が流動的すぎるなかでの発信が実践に与える影響への懸念もあり、僕としては、本書の刊行には躊躇が大きく、また、復興の現場にむきあう日々の厳しさと並行しての編集プロセスの過酷さ筆舌に尽くしがたい日々でしたが、…・・の並々ならぬお支えのもと、刊行に至りました。震災関係の文献が多彩に現れてはいますが、そのなかにあって他にはない内容に仕上がったと思います。」(Mon,
9 Apr 2012 23:01)
また3月下旬には、千葉悦子さん(福島大学)の『飯舘村は負けない−土と人の未来のために』(岩波新書)が刊行されました。送っていただいた迫力の一冊、一気に読みました。
2862号【2012年4月12日】
◆<春の宵 花はちらほら 月おぼろ>
韓国・公州と東京は、最近とくに近い関係となりました。2月に瀬川理恵さんが公州に渡り(「公州の風」が吹き始めている)、3月には入れ違いに公州の金宝藍(キム・ボラム)さんが東京にやってきました。
到着早々、私たちの研究会に姿を現し、先日の沖縄フィールドワークにも全日程参加。驚くべき行動力は端倪すべからざるものあり。風2851号本欄に「あざやかなフットワーク」として紹介済み。東京生活はパソコン環境など、まだ落ち着かない様子ですが、長文のご挨拶と沖縄レポートが届きました(上掲)。2回に分け、後半は次号まわしとなります。ご了承を。引っ越し、新学期など多忙のなか、ご苦労さまでした。
ところで1週間ほど前、『東アジア社会教育研究』への“自由投稿”呼びかけを掲載しました(風2858号)。応募の締切は今月の編集委員会の前日(26日)、厳守です。執筆希望題目、その概要(400字前後)をそえ編集委員会(編集長・上野景三氏:uenok@cc.saga-u.ac.jp)あて申し込むこと。
昨日「風」あてにも1通の申し込みあり、編集委員会へまわしました。皆さん、関心ある人たちに、この自由投稿をご喧伝ください。詳細はHPの次のサイトを。
→■http://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/11gou.htm
東京は冷気も残りながら、春の陽気がやってきました。さきほどまで春の雨。柔らかに降り、花は残ったようです。月も顔を出しました。春宵一刻価千金、花有清香月有陰。花にさやかな香りあり、月はおぼろ。
▼金ボラムさん、その右・田場盛順、東武の両氏(いずれも元沖青協会長)−コザ・中根章氏事務所、20120327−
2861号【2012年4月10日】
◆<東アジア研究交流委員会の提案>
日中韓・三国間の研究・交流が一つの飛躍をみせたのは2009年でした。この年のTOAFAEC 年報(第14号−東アジア法制特集)編集が契機となって、東アジア研究交流委員会が動き始めたのです。その後、上海からの訪日訪韓団、大邱での「日本社会教育・生涯学習」出版記念会、第1回三国国際フオーラム(上海)、福建の日本韓国訪問団、三国国際フオーラム連絡会(大邱)開催などが相次ぎ、加えて国内の東アジア委員会による新しい研究活動が胎動してきました(ただし、3・11の痛打あり、最近は開店休業?の感)。この間の経過は、主要な記録を次のサイトに掲載しています。
→■http://www010.upp.so-net.ne.jp/mayu-k/higasiasia0905.htm
ところで、今年もTOAFAEC 年報(第17号)の準備が始まっています。4月の編集会議は27日午後を予定(当日夜に第183回定例研究会・上掲)。その翌日・28日午前に、第17号特集(テーマ:東アジアの社会教育・生涯学習を担う専門職員と市民)準備のため、佐賀から編集長・上野景三さん、仙台から石井山竜平さん(委員会代表)が上京、ぶんじんを含めて4〜5人集まることになりました(同午後は中国研究フォーラム予定)。
この際、特集論議に重ねて、東アジア研究交流委員会として開催してはどうか、両氏と上田孝典さん(事務局長)に相談しました。各氏異論なし。
石井山さんからきた返事。「…27日は(略)上京できず、申し訳ありません。それを終え、高速バスに乗り込めば、翌朝から東京のどこでも大丈夫です。東アジア交流委員会が当日であるなら、僕としてはありがたい限りです。…」 瓢箪から駒のような感じで、久しぶりの東アジア研究交流委員会。上記以外の方には相談なしの慌ただしい提案ですが、場所などを設定の上、正式の案内を出していただければ幸いです。
2860号【2012年4月9日】
◆<桜に恵まれて>
何人もの方から、メールの枕に花粉症へのお見舞いを頂戴しました。いつもこの季節に花粉症の恨みを書き、沖縄への逃避行も知れわたり、お心遣いいただく結果となったようです。おかげさまで今年はたいへん楽でした。発症して初めて、といってもいいぐらい。寒気が続いたことや、強風や雨がいい具合に重なって、花粉もそろそろおしまいだと喜んでいます。
それでも2月から3月は、いつも運動不足、体重微増となる慣わし。足腰を鍛え直す必要があります。幸い今日(日曜日)は快晴、花にも誘われて、長い時間を歩きました。“花疲れ”とはこのことか。
東京の桜はいまちょうど満開(寸前)です。散歩道の神田川は、永福から高井戸方面に向けて桜並木が続き、見事な季節。流れにはまだ散る花びらは見えません。満開の手前の桜が陽に映えて、「息が詰まるほどに光って」(天声人語、4月7日)いました。
桜の想い出はいろいろ。戦時疎開で壊された旧生家(久留米)の庭には桜の老木がありました。切り倒されたときの悲しみ。それを忘れないために横の赤レンガ倉を今に残したようなもの。青春を過ごした福岡・西公園の満山の桜。東京に移って、小金井も桜の名所。東京学芸大学時代はキャンパス・図書館横での盛大な花見の会が毎年のゼミ行事。同じ小金井に本拠を構えていたフルサト・キャラバンの名優たちがギターを抱えて参加してくれた思い出など懐かしい。
国立に暮らすこと13年。一橋大学通りの桜はあまりにも有名。杉並に越してきて早くも30年余。神田川だけでなく、善福寺川沿いも桜が実に美しい。この人生、桜に恵まれてきたような…、そんなことを思いながら今日の春爛漫を歩いていました。
2859号【2012年4月7日】
◆<今年の「やんばる対談」>
三月末の沖縄フィールドワークの余韻が残っています。今年の「やんばる対談」(年報第17号予定)は、名護博物館の比嘉久さんを囲んで話を聞きました(3月28日)。場所は島袋正敏さんのハタケ、“自力建設”により昨年7月にオープンした「黙々100年塾・蔓草庵」(写真・下掲)。やんばるの風がさわやかに吹き渡る午後のひととき。正敏さん秘蔵の古酒をちょっぴり頂きながら、ヒージャーのつまみ付き、ほろ酔い気分で、いろんな話がはずみました。
比嘉久さんの出身地は名護市屋部。屋部の八月踊り、字誌づくり、故上野英信さんや「眉屋私記」のこと。あわせて沖縄全域にわたる民話の採集・保存運動。さらに名護市津嘉山酒造所の保存、「やんばる学研究会」など。小林・島袋共編『おきなわの社会教育』(2002年、エイデル研究所)では、「地域で祭りを継承すること、社会教育と地域おこし(屋部・八月踊りの場合)」を執筆している人。
→■
今回の話では、とくにNPO 沖縄伝承話資料センター(2002年設立、法人化2006年)の話が注目されました。久さんは同センターの伝承話データベース作成委員会の委員長らしい。同センターのパンフによると、日本全域での昔話は約6万と言われていますが、沖縄では故遠藤庄治氏(沖縄国際大学教授)を中心に、この30年間に収集された民話は約7万3千(話者の延べ数は約1万5千)とのこと。驚きました。沖縄伝承話資料センターの合い言葉は「昔ばなしは心の母乳、伝え話は地域の宝〜みんなで伝えよう、沖縄の伝承話の輝きと心を〜」。
→■http://www.denshouwa.jp/
比嘉久さんは、「4月から名護市教育委員会・社会教育課長の重責を担うことになります。今後とも、よろしくお願いします。」とのこと。ご活躍を祈ります。
▼やんばる対談 左端・比嘉久氏、右端・島袋正敏氏 (底仁屋、黙々100年塾・蔓草庵、20120328) 撮影・鷲尾真由美
2858号【2012年4月5日】
◆<年報・自由闊達な編集を>
TOAFAEC は発足以来、海を越えて編集委員会を組織し、東アジアの社会教育・生涯学習・地域教育等に関する研究年報を発行してきました。毎年秋の日本社会教育学会時に刊行する慣わし。今年も編集委員会が活発に動き始め、特集構成、座談会・対談の企画など進んでいます。本号には今年も“自由投稿呼びかけ”を掲載する運びとなりました(上掲)。皆様ふるっての応募をお待ちします。まわりの関心ある方にも拡げてください。あらためて、「東アジア社会教育研究」編集方針をHPから再録しておきます。
(1)東アジア(沖縄・東京等を含む)の社会教育・成人教育・生涯学習等に関する研究、調査、情報交流の「ひろば」を創る。
(2)実証的精神・手法を重視し、新しい政策・研究動向の積極的な収録。
(3)一定の研究水準を堅持しつつ、東アジアからの留学生、若い研究者に研究発表の場を提供する。
(4)TOAFAEC研究会の活動記録。
(5)民間非営利、不偏不党、自由闊達、の編集。
→■ http://www004.upp.so-net.ne.jp/fumi-k/1-10kenkyu.htm
1996年の創刊当時、どのような道程を歩むことになるか、未知の世界への挑戦でした。手探り状態が続きましたが、石の上にも3年のたとえ、次第に軌道にのってきたという経過。大学の研究紀要や学会の刊行物とは一味違った編集を心がけ、一定の評価もでてきたようです。年々ページ数が増えて、昨年の16号は約300頁(A4版)。今年の第17号も、いい年報に仕上げたいもの。編集委員会!がんばりましょう。維持会員各位、本年もよろしくご支援を。南の風の皆様もご声援ください。
2857号【2012年4月4日】
◆<風の音に耳を傾けよ>
いま(3日夕)日本列島は大荒れ、東京も嵐です。発達した低気圧が移動中。空も陸も交通機関に大きな影響あり、新宿や渋谷の駅は右往左往の人の波。無事の帰宅を祈っています。
先日の沖縄フィールドワークに参加した川崎の武田拡明さんから、長文のレポートが届きました。全文収録はあきらめて(別に発表の場を検討する)、初めの部分と終わりの一部を抄録しました(上掲)。ご了承下さい。
今回の沖縄の旅は、私たちの年報(第17号)小特集「沖縄復帰40年」についての取材・原稿依頼が大きな目的でした。これまでの諸報告でお分かりのように、まずまずの成果。なかでも復帰運動を青年団として取り組み、また1960年以降「沖縄県祖国復帰協議会」に積極的に参加してきた中頭郡青年団OBの皆さんに証言して頂きました(27日午後)。本音の語り合い、あらためて復帰の歳月を思い、多くのことを考えた1日でした。
座談会では「復帰40年」を安易に取り上げることについて、強い異議が出されました。たとえば有銘政夫さん(もと青年会長、教職員会専従、中部地区労議長)の発言。「現在も(基地問題など)復帰前が続いているし、復帰しても癒されないものがある。琉球への薩摩侵略、明治の琉球処分そして戦後の軍事占領と4・28(1952年)以降へとアメリカ支配が続いてきた。1972年復帰はワンステップに過ぎない。復帰問題を40年で帳消しにしては話せない。僕らの青年期を帳消しにするようなものだ」など。
いま中頭郡青年団OBでは、「…屈辱的な米国支配の鉄鎖に繋がれた」4月28日(いわゆる沖縄デー)に向けて、この日に辺戸岬「祖国復帰闘争碑」前に立つ企画が進行中です。そのうちにご案内があるでしょう。
本号には同「闘争碑」の碑文をあえて収録しました(上掲)。全国そして世界の友人へのメッセージとして、「吹き渡る風の音に耳を傾けよ…」と始まり、この碑が「…喜びを表明するためにあるのでもなく、ましてや勝利を記念するためにあるのでもない」ことが強調されています。
私たちの沖縄日程の4日目、辺戸岬の闘争碑に正座して<碑文>「吹き渡る風の音に耳を傾け・・打ち寄せる波濤の響きを聞」く岩本陽児さん(写真)。
▼辺戸岬「祖国復帰闘争碑」 (20120329)
2856号【2012年4月3日】
◆<沖縄タイムス記事>
3月24日の定例研究会(182 回)報告が長文で届きました。あわせて沖縄フィールドワークの会計報告も。山口真理子さん、ご苦労さまでした。
山城千秋さんからは沖縄タイムス記事(4月1日)。新名護博物館(仮称)市民フィーラムでのミニ講演(3月28日夜)。自分の話が記事になるのは、もともと内容が不充分でもあり、まして写真入りとなると、気がすすみませんが、せっかく送っていただいたもの、添付で皆様にご紹介します。
この間「南の風」が文字通り「沖縄の風」となって吹いていること、いろいろ反響があります。それぞれの“沖縄”関連の記憶を刺激するところがあるのでしょう。たとえば、伊藤武彦さん(和光大学)から「今回は、南の風の沖縄記事に触発されてメールしました」と。沖縄県内に建立されている各都道府県別の慰霊塔・碑について平和学的な分析をされたようです。拝読して興味深いものがありました。摩文仁の丘に林立している各都道府県の慰霊塔群について、実感的にもっていた違和感につながるところあり。なるほど、そうか、そうだ、とつぶやきながら読みました。
相次いで、2月に上梓されたばかりの『コミュニティ援助への展望』いとうたけひこ編(角川学芸出版)が届きました。開いてみると、和光大学の旧知の方々の執筆。和光大学総合文化研究所・研究費援助をうけた共同研究のまとめです。ご出版、おめでとうございます。ご恵送に感謝!
上記の沖縄タイムス記事、ぶんじんの肩書きは和光大学(元)教授、いい気分です。
2855号【2012年4月1日】
◆<四月を迎えて>
今日は4月1日。まずは訂正。2号前(2853号)の渡部幹雄さん「一路平安!」記事4行目は「一次資料と二次資料の主客が逆転」が正解。うっかり、沖縄行きに取り紛れて、修正の連絡を見逃していました。
南の風はこの数号、ほとんど沖縄に関する記事で埋められています。とくに本号には、懐かしい鳥塚義和さん(千葉高校教員)からの便りが届き嬉しくなりました。風が読み継がれていることを実感。私たちと同じ日程で沖縄訪問だった由。一度は沖縄の地で杯を交わしたいものです。鳥塚先生と出会った当時のテーマは「松花江上」など中国現代史でした。その後は本格的な沖縄研究、竹富島との交流も深められた様子ですね。那覇「竜宮通り」の「みの家」(上掲)は、次回訪沖の際の楽しみにしましょう。
大前哲彦さんのリクエスト《文一と文人が並んでいる》集合写真を、のご希望については、新保敦子さん(早大)から早速「喜んで・・」との返事が来ました。新保さんメールは次の通り(抄)。
「…写真の件ですが、こちらこそ、ありがたく思っています。… 私を中央に据えて、小林文人先生と上原文一さんという両巨頭を左右に配した、私に取りましても大変に贅沢で貴重な写真です。」(31
Mar 2012 20:32) 写真は本号・日誌欄に(下掲)。
3月24日開催の第182 回(3月定例)研究会の記録が、この間の沖縄訪問との関連でまだ掲載できていません。次号あたりの予定。なお4月研究会は、最終金曜日(4月27日)定例日で計画が進んでいます。
▼前列・左より小林、新保敦子・上原文一の両氏、後列は早稲田大学・大学院の皆さん(120330)
2854号【2012年3月31日】
◆<名護の心>
3月最終日、東京は強風(春一番)と横なぐりの雨、交通機関もかなり乱れています。車のろのろ。道行く人よろよろ。桜の開花前でよかった。
昨日、沖縄から帰って、その足で早稲田大学へ。新保敦子ゼミが企画した「上原文一さんを囲む会」に参加しました。最近は沖縄で文一さんと会う機会がなく、久しぶりの再会。会には中国・韓国・ドイツなどからの留学生を含め、熱心な顔が並んでいました。懇親会では皆さんにご馳走になり感謝!
送っていただいた当夜の珍しい(文一と文人が並んでいる)集合写真を、HPにアップしたいと思いますが、よろしいでしょうか。もし控えるべきであれば、ご一報を。
昨日から今日にかけて、たくさんのメールが届いています。すべて載せることが難しそう。各位の文面も抄録のかたちになること、お許し下さい。
鷲尾真由美さんからは名護訪問(28日)の際の写真を15枚ほど送って頂きました。これも掲載を割愛(一人だけで楽しむ!すみません)。ただ、それに添えられたキャプションが面白く、当日の情景が活写されていますので、記録として(一部を)編集し上掲しました。ご了承ください。
鷲尾メールにもあるように、28日夜の名護博物館中庭での市民フォーラム懇親の集いがたいへん印象的でした。50〜60人の参加者へのもてなしは、すべて博物館スタッフによる手づくり料理。島福善弘さん(館長)のパパイヤや、職員の皆さんが採ってきた浜ホウレンソウ(ツルナ)など。その心も頂いて、体調は一夜にして蘇ったのでした。比嘉久さんから「…博物館は社会教育施設である!ということを改めて認識するたいへんいい機会になりました。…」
とのお礼メール来信。
2853号【2012年3月30日】
◆<沖縄フィールドワーク>
3月26日〜30日にかけての沖縄の旅。沖縄本島を南から北へ、那覇−中頭−名護−辺戸岬へとかけめぐってきました。最終日程を終えて、29日夜ようやく那覇に戻ってきたところです。ご参加の皆さん(8名)お疲れさまでした。最後に残ったメンバーで、この日に来沖した末本誠さん(神戸大学、TOAFAEC
代表)とも一緒に、打ち上げ・解団式のような夕食会。沖縄研究を始めた当時の想い出話も飛びだして楽しいひととき、疲れを癒しました。
今回フィールドワークは、年報第17号に向けての証言収集、座談会、対談、加えて(名護)市民フォーラムへの参加など、かなり過密なプログラム。これから証言記録おこしや原稿化の作業が待っていますが、まずは一仕事終わった充実感を味わっています。かっての沖縄ゼミ調査の気分にもなって、帰路の車では西に落ちる夕陽を浴びつつ、ゼミ愛唱歌(喜瀬武原、海の子守歌など)をいくつか唄いました。
今回とくに「おきなわ社会教育研究会」、中頭青年団OBの方々、名護市博物館関係の皆様に歓迎していただき、いつもながら感謝のほかありません。28日夜・名護博物館中庭での市民フォーラムでは、稲嶺進市長から30年にわたる私たちの名護交流について過分の評価をいただき、忘れられない夜となりました。
中頭の仲宗根悟氏(もと沖縄祖国復帰協・事務局長)から辺戸岬「沖縄復帰闘争碑」への思いを聞いた経過もあり、29日はあらためて北端・辺戸岬の碑文を読みに行きました。そこから27度線の海、与論島を望見。そして久しぶりに奥の集落へ。終日の運転と案内をいただいた島袋正敏・山城秀夫お二人に、厚く熱く御礼申しあげます。ご参加の皆さんから今回の沖縄フィールドワークの感想や記録などをいただければ幸い。
▼3月27日(火) 沖縄・中頭青年団OBの皆さんと。左より3人目・仲宗根悟さん。(中の町、中根章事務所、120327)
2852号【2012年3月26日】
◆<那覇にて>
さきほど(26日夕)那覇に着きました。すでに汗ばむ季節。冬衣装を脱ぎ捨て、夏ものに着替えて心も軽やか。この風をつくっています。今日から4日間の沖縄フイールドワーク。一行まずは7人。御三家の一人、岩本陽児さん(上掲)は、すでに25日から那覇入り、「一足先に・・」と次の速報が来信していました。
「…那覇に入りました。お土産にと、純米の一升瓶を二本、運びました。割れなかったのでご報告。他にはありません。(三本あると好都合だったのですが)。明日からの日程、どうぞよろしくお願いいたします。」
見事なフットワーク(前号・本欄)の金ボラムさんも同行予定です。そろそろあの笑顔が見えるはず。今晩は「おきなわ社会教育研究会」の皆さんとの“ゆんたく”、それぞれの復帰運動(今年は沖縄復帰40年)を語っていただく予定です。
「風」メンバーではないけれど、名護博物館の比嘉久さんより、28日に私たちを迎えて企画された「新名護博物館(仮称)づくり市民フォーラム」の案内が、これも速報の勢いで舞い込みました(上掲)。
比嘉久さんによれば、「島福善弘館長の考えで、講師も参加者も気軽に発言できるフォーラムにしたい」ということで、博物館中庭を会場、おぼろ月の下での集いとのこと。参加費1000円は、おそらく懇親のビール代だろうと推測しています。楽しい会になりそう。雨が多い今年の沖縄・やんばるも、この夜はきっと晴れることでしょう。
2851号【2012年3月25日】
◆<あざやかなフットワーク>
久しぶりに福建省・李斗石さんのブログ紹介メール(上掲)。中国のブログは初めて。早速にアクセス、「博客中国」へ。日本語の辛口コメントを面白く読みました。Facebook
風に言えば“いいね!” 以下の動きもあるだけに、中国ブログに興味しんしん。
23日の報道によれば、中国では「重慶駆け込み事件」「同市書記の解任」問題を受けて、当局は「検閲・盗聴強める」との気になるニュース。
「…中国共産党が、指導部への忠誠を求める6項目の内部通知を党内各部門に出したことが分かった。重慶市副市長の米総領事館駆け込み事件で同市書記の薄熙来氏を解任したことを受け、党内で広がる動揺や反発を抑え込むための異例の指示。検閲や盗聴などの監視活動を強めることも盛り込まれている。通知は、薄氏が解任された15日付で、胡錦濤・総書記直属の秘書室に相当する党中央弁公庁から、政府や軍、大学などの党組織に出された。…」 朝日新聞(23日)朝刊の一面記事です。
韓国・公州からは、瀬川理恵さんの「風」が吹いてきました(上掲)。金ボラムさん「日本に旅立ち」記事。24日は5階で本号の編集・収録作業をして、風の部屋(3階)におりたところ、当のボラムさんの笑顔。驚きました。あざやかなフットワーク。
当日はTOAFAEC 年報の編集会議(すでにほろ酔い)、その後は高井戸、3月定例研究会へ。この夜、博士論文を二つ(王国輝さん、馬麗華さん)も短時間でエッセンスを聞くぜいたくなプログラム。有り難うございました。どなたか定例会の記録を送ってくださいませんか(依頼忘れ)。
*南の風・日誌・2801〜2850号→■
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