◆韓国研究交流-1980~1995~2017~2023◆
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<目次>
A,韓国研究交流(1) 1980~2009
1,韓国社会教育への旅-韓国・社会教育法10年(1980~1992)
     東京学芸大学社会教育研究室「韓国の社会教育をたずねて」1992
(本ページ)
2,1994~5 日韓文化交流基金レポート
  「韓国・社会教育及び青少年教育の研究と交流」訪韓事業・報告書
-1995・3・8-(本ページ)
3,韓国・講演記録(小林) 1999年~2009年

4,2006 黄宗建・小林文人・伊藤長和 編 「韓国の社会教育・生涯学習」

                            -まえがき・序章
5,黄宗建先生・自分史を聞く・そして追悼のページ→■
,日韓研究交流史とこれから(講演記録) 2009年夏・全国集会夜(本ページ)
                             -関連・テープ記録

7, 日韓交流 20 周年記念(日韓セミナー) ー社会教育と平生学習との交流、その課題 
                            (2013年8月3日)講演記録
→■

B,
韓国研究交流(2) 2010~2023 →■別ページ
8,「躍動する韓国の平生学習が示唆するもの」(『躍動する韓国の社会教育・生涯学習』
             エイデル研究所、2017) 特論

9, 『躍動する韓国の社会教育・生涯学習』中国語版王国輝・楊紅訳、清華大学出版社刊、2022
              「序」韓民
王国輝訳) 
10, 韓国・平生教育の歩みに刺激されて   (2023年1月23日記)




小林文人・梁炳賛・小田切督剛共編  翻訳:王国輝・楊紅  
『躍動する韓国の生涯教育』中国語版 (344頁、清華大学出版社、2022)■中国語版「序」(韓民)





1,韓国社会教育への旅- 韓国・社会教育法10年(1980~1992)
    
東京学芸大学社会教育研究室「韓国の社会教育をたずねて」(1992)

    *関連レポート「67, ある回想-15年目の白馬江(韓国・扶余)」(1995)→■

 1980年“春”

 初めて韓国へ渡ったのは、忘れもしない1980年の晩冬(2・23~27)であっ た。当時の韓国は、朴正熙前大統領が暗殺(1979・10・26)された後、そして全斗煥政権が登場(1980・8・27)するまでのいわゆる“ソウルの春”といわれた一時 期である。しかし当時まだ夜12時以降は外出禁止、真っ昼間に突然すべての道路を閉鎖して国防演習が行なわれるような時期でもあった。そしてその三ヵ月後には全土戒厳令と金大中連行(5・18)、それに抗議するいわゆる光州騒乱事件が起こり、多数の学生・市民(子どもを含む)が犠牲となるというような政治状況であった。
 訪韓のきっかけとなったのは、韓国・社会教育法策定の動きである。この年1月に、韓国社会教育協会のなかで指導的な役割を果たされている黄宗建氏(啓明大学教授)が、日本・社会教育法の研究調査のため来日された。聞けば、韓国内の社会教育法実現のために、欧米各国の成人教育関連法の研究調査と平行して、いくつかの研究グル-プをつくり、資料収集中とのこと、日本の社会教育法について詳細に知りたいということであった。当時の“ソウルの春”を好機として、積年の課題である社会教育立法を実現したいという韓国社会教育研究者の熱意をひしひしと感じた。少し資料を用意して、日本・社会教育法についていろいろと(弱点も含めて)お話したことを記憶している。黄宗建氏を紹介・同道されたのは同氏の永年の友人である諸岡和房氏(当時、九州大学教授)であった。
 話ははずんで、2月に韓国社会教育協会が開く「社会教育専門家大会」に出席して講演せよということになった。当日の私の話が不十分だったからだろう。いただいた招聘状をみると、主題は「社会教育制度の比較研究」、演題は「日本の社会教育制度について」となっている。まったく慌ただしいことだ。大学は学期末、しかも当時私は学内の選挙で学生部長に選ばれたばかりで、身辺整理に追われていた時期であった。黄さんは日本の諺を逆用されて、「迷惑だが、有難い」ことでしょうと言って、にっこり笑われた。いま振り返ってみて、全くその通りであった。
 韓国社会教育協会「専門家大会」は、1980年2月22~24日の三日間、忠清南道の百済の古都・扶余のユ-スホステルで開かれた。参加者は35名前後の「専門家」、そこには大学研究者だけでなく、政府(文教部)行政官や韓国赤十字・YMCAなどの団体の指導者も参加していた。私は韓国の冬は厳しいと聞いていたので、皮のコ-トを着込んで(緊張して)金浦空港に降り立ったものだが、迎えてくれたのは韓国赤十字の職員(染寅基さん)、私を扶余まで車で案内して頂いたのは著名な赤十字事務総長の徐英勲氏であった。日本の社会教育関係団体のカテゴリ-を超えるひろがりを実感させられた。
 「日本の社会教育法」についての講演は24日の午前中一杯をつかって行なわれた。通訳は啓明大学の文吉麟氏、まことに日本語の達者な方で、私は幸せであった。なによりも「社会教育法」がそのまま、ひらがなの部分をハングルに換えるだけで参加者に理解されたことが印象的であった。文法的にほとんど同じ言葉であるにもかかわらず、わたしは「アンニョンハシムニカ」「カンサハニダ」ぐらいしか言えないことを恥じた。(この専門家会議の詳細は、小林の講演をふくめて、一冊の記録にまとめられている。)
 この日、午後は申泰植氏(啓明大学名誉総長、 韓国社会教育協会々長)夫妻ならびに文吉麟氏夫妻とご一緒に、扶余を流れる白馬江(錦江)の舟遊びを楽しみ、その夜は車で俗離山(国立公園)に足をのばし一泊した。黄宗建、文吉麟両氏とうら若き尹福南さんと私という顔ぶれ、想い出深い一日であった。翌日は大邱・海印山へ、そして次の日からは一人になって慶州から釜山へと、韓国のゴ-ルデンコ-スを旅して、帰国したのだった。大邱で文さんと別れたあと、一人旅のエピソ-ドもいくつかあるが、それは次の機会にしょう。
 というわけで、扶余は私にとっての韓国の、忘れることができない第一の町になったのであるが、最初の夜の歓迎・交流のパ-テイで、私は次のような趣旨の挨拶をしたことを覚えている。「いま私は日本語でしかご挨拶できませんが、この次の機会には、きっとハングルで話ができるようになってお目にかかります。今度は済州島あたりでセミナ-が開けないでしょうか、---」など。
 これは失敗であった。カッコいいことはあまり言うべきではない。その後私のハングルは全く進歩せず、ついには落ちこぼれて、それから簡単には韓国にいくことが出来なくなったのである。黄・文両先生にもお目にかかることが出来なくなった。そして12年が経過したことになる。

 1982年の冬

 帰国してからの私(東京学芸大学・学生部長)は、大学内の仕事に忙殺されて、社会教育研究者としての看板はしばし棚上げにせざるを得ない状態が続いた。(心身を休めるために沖縄だけは通い続けた。) その後、韓国では全斗煥政権が“ソウルの春”を押し潰し、社会教育法立法の試みは立ち消えになったのだろうと思っていた。
 そして2年あまりが経過して、1982年末(あるいは翌83年の初頭か)のある日、突然に「大韓民国社会教育法」(1982年12月制定)を目にしたのだ。この年、私たちの研究室は初めて韓国からの留学生(大学院生)を迎えていた。梨花女子大学卒の才媛・朴英淑さん、実にきれいな声で「鳳仙花」の歌をうたってくれた人である。この朴さんがある日の社会教育ゼミに「大韓民国社会教育法」をもってきてくれた。それは、失踪した女性が突然に姿を現したような感じであった。私はわが目を疑いつつ(ハングルが読めないまま)条文中の漢字を追っかけていた。そこには日本の社会教育法とかなり類似した構成と、ほとんど同種の用語が並んでいたのである。
 ゼミでは、早速に韓国社会教育法の日本語訳がつくられた。朴さんや魯在化くん(教育哲学専攻、卒業後に一橋大学院生)が骨折ってくれた。当時、研究室では戦後沖縄社会教育史研究の真っ最中で、「琉球政府社会教育法」の全貌がほぼ明らかになってきた段階でもあった。日本と琉球と、これに加えて台湾(中華民國)社会教育法(1953年制定、1980年修正)および韓国の社会教育立法という、いわばアジアの「四つの社会教育法」についての研究課題がにわかに具体性をもち、自覚的に意識され始めたのだ。
 しかし私たちには、日本に最も近いはずの隣国・韓国の社会教育の実態がまずよく分からない。研究的にも実践的にも韓国社会教育についてのインフォメ-ションが無いに等しいのである。私も手紙を書くことを怠っていたが、黄宗建さんからも社会教育法制定についての特段の便りもなかった。(後で分かったことであるが、黄さんはこの年はカナダに研究滞在中であった。)
 海外比較研究がかなり活発な日本社会教育学会でも、韓国についての研究報告は殆どなく、当時としては、諸岡和房氏(九大)による「韓国の社会教育」(九大教育学部付属比較教育文化研究施設紀要28号、1978)論文などが目につく程度であった。その後では、倉内史郎氏(東洋大学教授)が韓国・社会教育法の存在に気付かれて、調査を開始されていたことが注目される(同「韓国社会教育法の性格について」東洋大学アジア・アフリカ文化研究所「研究年報」23号、1989)。私たちの研究室では、調査などの具体的な取り組みはできないまま、しか し研究関心はもち続けつつ、毎年の大学院ゼミでは韓国からの留学生を見付けては韓国社会教育法の報告を求めたり、文化院などについてのレポ-トを依頼してきた。
 その一つの反映として、金慶淑さん(卒業後「釜山留学院」等の経営)の修士論文「日韓の社会教育法比較」(東京学芸大学大学院修士課程、1989年度)として結実し、なかなかの力作がまとめられたのである。

 1992年冬(1月)日韓社会教育セミナ-

 社会教育研究室には、その後韓国からの留学生(研究生)として1990年に文孝淑さん(仁川出身、現在一橋大学院生)が、1991年には金平淑くん(南海出身、現在学大院生)が在籍した。その頃の研究室では、中国大陸と台湾の研究生(あるいはその候補、つまり“もぐり研究生”)を中心にいつも10名前後の学徒たちが在室するようになってきたので、日本語による討論の訓練も兼ねて「アジア・フ-ラム」→■ を発足させていた。週一回のこのフオ-ラムでは文さんや金くんのレポ-トはもちろんのこと、教育史専攻の孔乗鎬くん(孔子さまの末裔、現在名古屋大学院生)が「米軍政期韓国教育政策研究」(修士論文)について内容豊かな報告をしてくれたこともあった。これらの若い留学生たちとの交流(彼らはいつも礼儀正しい)によって、私の韓国社会教育についての知見も少しずつふえていく感じであった。
 黄宗建さんとの再会が実現したのは、1992年1月28日~30日に大阪で開催された「識字問題と平和教育」に関する「日韓社会教育合同セミナ-」においてであった。私はもともとこのセミナ-にはあまり積極的ではなかった。1月末というのは私の大学ではもっとも忙しい時期である。無理にスケジュ-ルを押しつけられるようなところがあって、最後まで気がすすまなかった。その私を大阪に引っ張りだしたのは、このセミナ-の準備に当たってきた笹川孝一氏(法政大学)である。黄宗建さんも来日する予定だと聞いて、どうしても参加しなければ、と思った。日程を調整してようやく最終日だけでも参加することとした。
 実は1991年刊行の日本社会教育学会年報(第35集)「国際識字10年と日本の識字問題」には笹川氏を通して「韓国識字教育学会会長 黄宗建」氏に原稿を寄せていただいた。タイトルは「民族の独立と文解教育運動」というものであった。この年報の編集委員会の責任者としてもお礼も申し上げる必要があったのだ。腰の重い私を大阪まで連れ出してくれた笹川氏にこの場をかりて感謝したい。カムサハニダ!
 12年ぶりの黄宗建氏は全くかわらず若々しく元気だった。そこに尹福南さんの顔もあった。同じく扶余セミナ-の重要なメンバ-であった金宗西氏(ソウル大学名誉教授・韓国社会教育学会会長)も参加されていた。公開シンポジウムでの黄宗建氏「国連識字10年をめぐる日韓の課題」講演は格調高く、教えられるところが多かった。(なおこの大阪セミナ-については「『識字』に関する日韓合同セミナ-報告書」同実行委員会編、1992年、がまとめられている。)
 最終日夜の懇親会で、私は黄さんの真正面に座った。そして12年ぶりに杯をかわした。扶余の夜からの私のこだわりを話しておく必要があったのだ。その後私のハングルは全く進歩していないこと、ハングルでは今なお挨拶が出来ないこと、こうして再会できて救われた思いであること、などと挨拶した。南相瓔女史(都立大学院生、現在金沢大学助教授)が通訳してくれた。みな酒をのみながら笑った。黄さんは扶余の夜のことなど、全然記憶にもないようであった。
 こうして12年ぶりの黄さんとの再会が済んだ。私のこだわりを解消するためにこの夜のひとときは貴重であった。この翌日から私はしきりにまた韓国に行きたくなったのである。
 

 1992年・再会の夜(大阪)、左・黄宗建さん、右・小沢有作さん。お二人とも故人(19920130)

                     
 そして1992年の春・韓国へ

 大阪セミナ-から2ヵ月たって私たちの韓国行きが実現した。研究室で数回、まさにつけ焼刃のハングル学習会を開いた。講師は金平淑くん、過ぎし日の記憶を少し回復した程度で、ほとんど“非識字者”のまま金浦空港に降りたった(3月30日)。 今度の旅では金平淑くんが、私たちの杖であり、柱であった。私たちは、すべて彼の助けで動き、実に充実した一週間をもつことができた。
 金浦空港には黄宗建さんと文解(識字)教育学会の方々が迎えてくださった。12年ぶりのソウル、「朋遠方より来る-」といって黄さんが注いでくれたビ-ルがことさらに美味しかった。
 翌日から、黄さんの助言も得て、私の12年の空白を埋めるセンチメンタル・ジャ-ニイがはじまった。まず大邱(3月31日)へ、そこで文吉麟氏と再会した。高速バスのタ-ミナルに出迎えていただいた懐かしい文さんの姿を見たときは感激であった。そこには大阪で会った尹福南さんもきていた。学芸大学院生であった金永植くん(美術・デザイン専攻、現在釜山大学講師)も駆け付けてくれたし、夜には同じ金泉市出身の留学生であった崔俊鎬くん(教育心理学専攻)とも再会した。崔俊鎬くんは東京の私の寓居に新妻と一緒に遊びにきてくれたことも何度かあるし、また沖縄調査にも同行したことがある懐かしい留学生だ。翌4月1日は慶州泊り。一人で自転車を借りて市内を駆けめぐり、夕陽の半月城にしばし寝転び、思わず懐旧のつたない歌(略)など詠んだ。
 釜山(4月2日)では、あの朴仁求・金慶淑夫妻が私たちを出迎え、歓待してくれた。1989年3月彼女の卒業以来の再会である。釜山の夜は、これに加えてあと一つのおまけの出会い、上野景三くん(佐賀大学講師)が学生40人を連れて隣りのホテルに滞在していた。皆で散歩した竜頭山公園の夜桜は、ほぼ満開であった。しかし韓国の桜は心なしかなにか物悲しい。
 翌日の南海(4月3日)は、金平淑くんの故郷である。慶州金氏の流れをくむという金家のご一統から歓迎の宴をはっていただいた。はじめて農村の小学校やセマウル会館、そのまわりの集落の風景(たとえば共同売店など)に触れることが出来た。沖縄の集落との類似性を“発見”したように思った。
 ソウルへの帰路は光州(4月4日)にまわり、1980年騒乱事件の犠牲者の墓に詣でた。当日たくさんの学生たちが、粛然として追悼の墓参におとずれていた。また1929年民族独立運動に立ち上がった学生たちの記念碑(第一高等学校の一角にあり)にも車を走らせて、日本統治下の韓国の若者たちの独立への心に想いを馳せた。
 4月5日は再びソウル。朝から黄宗建さんに景福宮など案内していただき、又来屋でプルコギをご馳走になった上で、午後はたっぷりと「韓国社会教育法10年」についての深みのある話を聞いた。日は文さんの故郷・仁川へ、マッカアサ-の銅像が印象的であった。(詳細なスケジュ-ルおよび記録は別掲・参照) 最終日・4月6日は朝食前の散歩にパゴダ公園に行き、「独立宣言書」の碑の前にしばしたたずんだ。朝の鳩がクククと鳴いていた。

 韓国・社会教育法の10年

 今度の旅では、1982年制定の韓国社会教育法から10年の現在、いまどのような展開があるのか、その地域への蓄積はどうか、その実態ををみてみよう、というのが主要な研究テ-マであった。1980年当時の社会教育立法研究に、多少なりとも参加させていただいたものとして無関心ではいられなかった。
 しかしあらためて私たちの韓国社会教育についての知識や研究がきわめて不十分であることを痛感させられた。韓国・社会教育立法過程の歴史についても、変転著しい韓国の政治状況との関連をもって深く把握する必要があるし、決して簡単なプロセスではないことを理解しておかなければならないようだ。その点で今回の旅にしても、わずか1週間の短い日程であり、所詮はトラベリング・サ-ベイの域をでるものではないが、今後の研究課題として覚書風に、以下いくつかの所見を記しておくことにしょう。
 (1) 韓国社会教育法の構成ないし内容が、日本の社会教育法とかなり類似したものになったのは何故であろうか。1950年代からの草案づくりの経過によるものなのか、1980年当時の論議はどのように反映されたのだろうか、80年から82年法制定にいたる立法経過はいかなるプロセスだったのであろうか、このような点についてさらに黄氏など関係者の証言を詳しく聞いてみる必要がある。法制定前の韓国社会教育の実情は、「社会教育」という名称は別にして、たとえば啓明大学のエクステンション活動や各種有志団体の民間自主活動にみられるように、日本的というより、むしろアメリカ的な特徴をもっているのではないかという印象が強かった。また文化院の活動スタイルも、一面ではたしかに公民館と類似している側面を持っているにしても、個人奉仕的・民間有志的な特徴は公民館と大きくその性格を異にすると言わざるを得ない。このような現実の社会教育の実態にたいして、いわば日本的な社会教育法はどのような機能を果たしてきているのであろうか。その矛盾構造のようなものをも明らかにする必要があるのではないだろうか。
 (2) 社会教育法が制定されて、行政(職員制度を含めて)や財政などの面で、実際にどのような効果や波及を生みだしたのであろうか。もちろん調査は不十分であるが、法制化に基づく公共的な社会教育の体制や条件整備などの具体的な「法の地域定着」はあまり定かには見えてこなかったように思われる。今後その実相をさらに実証的に調査分析していく必要があろう。
 (3) 社会教育に関する行政機構と実際の機能はどのようになっているのであろうか。國のレベル(教育部)での社会教育(行政)位置づけは必ずしも重くないようであるし、また地方行政レベルでも充実した機構にはなっていないのではないだろうか。他方で、行政による施設の運営や事業の内容は、かなり愛国主義ないし(北朝鮮との対抗関係との必要上)イデオロギ-的性格をもたされていると思われる。ある公的な文化会館の状況などから受けた印象はそうであった。
 (4) 今回の韓国訪問でもっとも印象的かつ感動的であったのは、民間有志によるボランタリ-な奉仕的活動としての社会教育の実践に出会ったことである。例えば、大学の教師が自ら資金を提供して地下室で開設している識字学級(大邱)、カソリック教会が経営している労働者教育センタ-(同)、20年間の報酬をすべて返上して文化院の充実をめざす院長さん(浦項)、ビルの一角に間借りしながら社会教育(識字教育を含む)事業を拡大しようとする平生(生涯)教育センタ-(釜山)、それに積極的に協力している退職中学校長などの集団(同)、そして識字と平和の教育実践を全国的に推進しようと格闘している韓国文解教育協会(ソウル)の活動などはその一端である。これらの実践・運動からは、いずれも日本の社会教育活動に見られない独自のエネルギ-と文字通り自主的な奉仕、そして正義の精神を感じた。それらの活動の中心にはいずれも情熱的なリ-ダ-が躍動していたし、また研究者の役割も小さくないように思われる。
 (5) かっての朴大統領時代のセマウル運動をどう評価するか。農村地区のセマウル会館などの集落レベルの施設や協同活動の実態について、今回は充分に調査する機会をもち得なかったが、おそらく(矛盾を含みつつ)伝統的文化の基盤と新しい住民自治的な活動の相克のなかで地域の社会教育も動いているのではないだろうか。日本の近代化過程と地域(集落)の協同活動の問題とも共通して、今後調査してみたい課題である。


韓国社会教育協会(第19回・1994年、京畿道・利川)出席、金宗西・金信一など各氏と(1994年7月8日)

1994年・韓国社会教育協会年次大会にて、右・黄宗建さんと (利川、19940708)




2,「韓国・社会教育及び青少年教育の研究と交流」に関する訪韓事業・報告書
                          -1995・3・8-
        

  東京学芸大学・社会教育研究室・教授 (韓国社会教育研究会・代表)         
  小林 文人 (住所・東京都小金井市貫井北町4-1-1  ℡ 0423-25-2111(2470)


 はじめに

 今般、財団法人日韓文化交流基金の助成を受け、1994年12月4日(日)より10日(土) 6泊7日の日程により、韓国を訪問することができた。
 その目的は、韓国の社会教育(文解=識字教育、図書館・博物館等を含む)及び青少年教育の施設を訪問し、関係者と交流することによって、見聞を広め、この分野における両国相互の理解と信頼を深めることにあった。
 韓国は隣国であるにもかかわらず、社会教育ならびに青少年教育関係者との研究交流は少ない。東京学芸大学社会教育研究室では、かねてより自主ゼミ「アジア・フォ-ラム」あるいは「韓国社会教育研究会」を発足させ、研究活動の一環として『東アジアの社会教育・成人教育法制』(1993年)を編集・刊行するなどの努力を試みてきた。今回の訪韓事業は、これまでの研究・学習活動を基礎にして、実際に韓国の社会教育・青少年教育の施設の実態にふれ、知見を豊かにして、今後さらに日韓社会教育の比較研究を拡大し、両国関係者の友好と親善の発展に若干でも寄与したいと考えたからである。
 韓国側の受け入れについては、韓国国際教育文化交流協会(金済泰会長、ソウル特別市永登浦区汝矣洞46-1・℡783-4511)に依頼した。私たちの要請に快く応じ、協力を惜しまれなかった金済泰会長、魯在化理事ほか関係者の皆様に御礼を申し上げる。
 参加者は、上記・小林文人を代表として10人、訪問先などの日程(行動記録・参照)については、参加者の大部分が初めての訪韓であるため、広く韓国各地の諸施設にわたるよう編成した。あらかじめ次のような課題を設定し、できる範囲での解明を試みた。

 1,韓国「社会教育法」成立(1982)以降12年の経過
 2,社会教育(図書館・博物館を含む)ならびに青少年教育施設の実状
 3,識字(文解)教育活動の状況
 4,関係者との交流親善

 これらの課題については、それぞれ一応の成果はあがったと考えられるが、日程的な事情により、公共図書館の訪問を実現することができず、また青少年教育施設についても充分な実状把握にいたらなかった。しかし図書館については、今後の課題解明のために事前の収集資料と訪韓後の補充調査資料を整理し、以下の報告のなかに収録することとした。

  参加者    
  小林文人 (上記、代表)
  進藤文夫 (東京学芸大学講師、副代表)
  山口真理子(調布市立図書館司書、東京学芸大学卒)
  遠藤輝喜 (東京都渋谷区教育委員会社会教育主事、東京学芸大学大学院卒)
  韓 昌恵 (慶応義塾大学法学部講師、通訳)
  江頭晃子 (東京学芸大学大学院2年)                
  山添路子 (東京学芸大学大学院2年、事務局・会計)
  末田祥之 (東京学芸大学4年)
  藤山友紀 (東京学芸大学3年)
  木下奈美子(東京学芸大学3年)

  全体報告-総論と課題

 本訪韓事業の代表者・小林は、これまでにも韓国・社会教育法の立法過程において、その中心にあった黄宗建氏(当時・啓明大学校教授)等に日本・社会教育法についての資料を提供し、また要請をうけて実際に韓国・社会教育法案の検討会議(社会教育専門家ワ-クショップ、扶余、1980年2月)に参加し講演したことがある。その後、韓国社会教育法 は成立し(1982年12月)、それからすでに12年が経過している。またこの間には、ようやく始まった日本と韓国の社会教育についての研究交流活動に積極的に参加してきた。たとえば日本社会教育学会関係者と韓国社会教育協会による合同開催「日韓社会教育セミナ-」(1992・大阪、1993・大邱、1994・川崎)や、韓国社会教育協会の年次大会(1994・利川)に出席し講演した経過もある。
 このような動きをうけて、東京学芸大学社会教育研究室では、有志による「韓国社会教育研究会」を発足させ、韓国からの留学生を中心に少しづつ資料収集や報告会などを重ねてきた。しかし日本・韓国双方ともに社会教育に関する比較研究資料は乏しく、今後お互いに着実な努力を重ねていく必要が痛感されてきた。そのような時期に日韓文化交流基金の助成を受けることになり、研究室の院生・学生を含めて訪韓が実現したわけである。あらためて日韓文化交流基金に感謝の意を表したい。
 以下の項目に見るとおり、訪韓した10人の参加者で課題を分担し、報告をまとめることとした。まずここでは、総論的にその要点を簡潔に記しておく。

 1,韓国「社会教育法」成立(1982)以降12年の経過について。
 韓国では、1952年以降「社会教育法草案」が作成されてきたが、実現にいたらず、ようやく1980年代に入って法制定に向けての具体的な作業がすすむことになった。1980年にはいわゆる第5共和国の発足にともない新憲法が公布施行されるが、そのなかには「平生教育」(生涯教育)を振興することは国家の責務であることが明記されている(第29条)。これをうけるかたちで、当時の文教部(文部省)は社会教育法体制の整備をすすめることになり、社会教育専門学者の協力も得て法案研究がおこなわた。そしてさまざまの経過をへて1982年12月、正式に社会教育法が成立する運びとなった。1952年から数えれば30年の立法運動が経過したことになる。
 さらに翌83年には社会教育法施行令が、85年には同法施行規則が公布されている。これらの日本語訳については、中国、台湾等を含めて、前述の東京学芸大学社会教育研究室編『東アジアの社会教育・成人教育法制』(1993年)に収録している。
 韓国社会教育にとっての1980年代は、80年憲法「平生教育・振興」条項といい、82年以降の社会教育法制の整備といい、これまでにない新しい展開の時期ということができるかも知れない。しかし実態はどんな状況であったのだろうか。
 第一に、ようやく制定された社会教育法そのものが、必ずしも社会教育関係者、専門学者が期待した内容とはならなかった。たとえば日本の公共的社会教育施設の規定(公民館の制度)にあたる「社会教育館」構想は実現しなかった。第二には、法制定にもかかわらず、国の社会教育行政組織は拡充されず、また必要な予算の計上も進展しなかった(黄宗建「韓国社会教育の誕生と足跡」日本社会教育学会紀要№30、1994)。「社会教育は名目上の華やかさにもかかわらず、社会教育法の実態は死文化の状態」(黄博士の証言)であった。第三には、社会教育法の地域定着・普及に重要な要因となる地方自治体の制度がいまだ充分に機能せず、「自治体」の自治制度は、長い軍事政権下をくぐってようやく1995年において実質的に再出発しはじめるという状況である。(1995年6月、自治体首長選挙 と地方議会議員選挙が予定されている。なおこの問題については、孫永培「韓国の地方自治の現状と課題」、『月刊自治研』1995年2月号、などに詳しい。)
 韓国では、この社会教育法の“活性化”のために新しい法案(あるいは改正案)の検討が始まっていると伝えられる。その基本構想に関する資料集も作成された(1994年)模様であるが、未だ内部資料の段階であり、今回の訪韓では見ることができなかった。今後の動向に注目していきたい。

 2,社会教育施設の状況
 社会教育法に基づく固有の社会教育施設は、すくなくとも公的施設(たとえば日本の公民館制度)としては未発の状況である。公共的施設としての性格はやや異なるが、公民館の機能に類似した施設として韓国各地に「文化院」が設置されている。韓国文化院連合会によれば、登録されている文化院数は1987年現在で152館という。行政上は社会教育施設 というよりむしろ「文化」施設であり、文化部の行政系列に属し、「地方文化院振興法」(1994年)に法的根拠をもっている。今回はとくに慶尚南道・金海市の「金海文化院」を訪問し、あわせて浦項市文化院の資料も収集し、その実態にふれてみた。残念ながら、金海文化院は現在改築中であり、仮施設での活動ではあるが、一つの典型的な文化院ということはできよう。これと浦項市の文化院にかんする資料を含めて、別稿で報告する。
 また先述したように韓国の図書館については今回の訪問は実現しなかったが、その文献資料を、さらに韓国の代表的な博物館ついての調査・訪問記録を後掲する。

 ①韓国の文化院について-金海・浦項文化院について(各論報告?参照)
 ②韓国の図書館について-1981年以降の文献より(各論報告?参照)
 ③韓国の博物館について(各論報告??参照)

 総じて韓国の社会教育施設は、国家レベルまたは中央レベルの施設(たとえば国立博物館)にたいして自治体レベルあるいは地方レベルの比重は小さく、他方、日本の公民館のような公的施設は少なく、それに比して文化院のような(公共的な性格をもちつつ)民間有志的な運営による施設、あるいは次項の文解教育の実践にみられるような純粋に民間運動による施設がいきいきと活動している点が印象深い。

 3,韓国の文解(識字)教育運動について  
 「大日本帝国」の植民地支配下にあった韓国・朝鮮では、政治や経済上の支配に止まらず、教育と文化の面においても日本「皇民化」政策が大きな影響を残した。1945年8月植民地支配からの解放直後は、民衆の80%が非識字者であったという。当時の韓国各地の学生、教師、地方有志などによる自主的なハングル普及運動や、行政施策としての「公民学校」「国文普及班」設置の努力により、1949年には非識字率は40%までに激減した。しかしその後の「朝鮮戦争」による打撃もあり、また一連の近代化、産業化、経済成長政策の下での教育機会の拡大にもかかわらず、1990年現在においても、15才以上人口の15%が初等教育未就学ないし中退者であり、また8%以上が非識字者であるといわれている(韓国教育開発院調査、1990)。
 韓国の社会教育ないし「平生教育」(生涯教育)の歴史をふりかえってみると、大きな課題として常に「文解教育」(識字教育)が取り組まれてきたことが注目される。この点は日本の社会教育ないし「生涯学習」との特徴的な違いであろう。日本では非識字者の比率はきわめて少ないとしても、社会教育関係者による識字教育の実践は(在日外国人の増加を背景とする識字実践、被差別部落の識字教室は別として)ほとんど見るべきものがない。
 韓国社会教育関係者は、Literacyを「文解」と訳した。「文解」とは、単に文字の理解や文章の解読に止まらず、文字を通しての人間の解放=文化的な解放を含意しているという(黄宗建氏の証言)。傾聴に値する考え方である。そしてとくに「国際識字年」(1990年)を契機として、「文解教育」運動は韓国の社会教育関係者(たとえば韓国社会教育協会、あるいは平生教育・文解教育関連の組織・施設)の努力により、韓国全土への拡がりを見せつつある。
 今回の韓国訪問の旅では、次の二つの施設において、文解教育の実践を学ぶことができた。いずれも民間の専門学校、私設の平生教育機関の事例である。

 ①ソウル・高麗学院(各論報告?「韓国の文解教育」参照)
 ②大邱・福明平生教育センタ-(同上)

 前者はいわゆる営利的な各種・専門学校による非営利的な教育事業であり、後者は二人の大学教師による文字通りボランティアとしての文解=識字実践である。日本の社会教育研究者としては実に啓発されるところが多い訪問であった。

 4,社会教育・平生教育関係者との出会いと交流

 今回の訪韓日程のなかでは、時間的に可能なかぎり社会教育施設を訪問することが重要な課題であったが、同時にさまざまの活動に献身されている社会教育ないし青少年教育の関係者と出会い、交流と親善に努めることがあと一つの大きな課題であった。上記ならびに下記の施設訪問記録と一部重複するかも知れないが、主要な「出会いと交流」の一覧を列記する。(敬称略、順不同、ほぼ日程順)

 ・金済泰会長、魯在化理事ほか(韓国国際教育文化交流協会)
 ・黄宗建博士(平生教育研究所長、前明知大学校教授、文解教育協会名誉会長長) 
 ・李瑞之(風俗画家)
 ・梁徳教務課長ほか(ソウル・高麗学院)
 ・魯在化講師、明知大学校社会教育大学院生10名(明知大学校)
 ・崔俊鎬 (金泉市高等学校教諭)
 ・金永植(金泉専門大学産業デザイン科・専任講師)
 ・尹福南(啓明専門大学幼児教育学科長)、啓明大学校大学院生2名(啓明大学校)
 ・下相範(宇星外国語学院理事、亜細亜留学国際センタ-代表)
 ・金鐘淳(浦項文化院・院長)
 ・金鐘(金海新聞・代表、金海文化院理事)
 ・李康植ほか(金海文化院・事務局長)
 ・金慶淑(東莢女子専門大学観光科・助教授)
 ・朴仁求(海外教育コンサルタント事業団代表理事、釜山留学院長)
 ・金平淑(ベスト外国語学校日本語科主任)
 以上の各位をはじめ、今回の私たちの旅で豊かな「出会いと交流」をつくって下さったその他の多くの方々に心からの御礼を申しあげる。




3,韓国・講演記録(小林) 1999年~2009年→■





4,2006 黄宗建・小林文人・伊藤長和 編「韓国の社会教育・生涯学習」

                              まえがき・序章(小林)→■





5,黄宗建先生・自分史を聞く・そして追悼のページ→■





6,日韓研究交流史とこれから
    第49回社会教育全国伊那・飯田集会の夜(講演・小林)  記録:江頭晃子


 第154回定例研究会(TOAFAEC)は、第49回社会教育全国伊那・飯田集会の2日目「この指とまれ」で、社全協、韓国生涯学習フォーラム、東アジア交流研究委員会と共催で行われました(2009年8月23日夜)。参加者は韓国から15人(平生教育連合会チェ・ウンシル会長や平生教育振興院パク・インジュ院長、ヤン・ビョンチャン先生など研究者やイ・ギュソンさんなど平生教育士の皆さん)、日本からは社全協の上田幸夫委員長や長澤成次さん、韓国生涯学習フォーラムの李正連さんや浅野かおるさん、東アジア交流委員会の石井山竜平さんや、福岡・社会教育研究会の横山孝雄さん、社会教育研究者、市民、留学生など、日韓合計40人近い参加がありました。
 第一部「日韓研究交流史とこれから」では、小林先生が1980年代に黄宗建先生と出会って韓国の社会教育法制定論議から参加したこと。そして現在の平生教育法制定・改正や自治体における平生教育の発展までを、人との出会いや新たな交流の広がり、さまざまな思い出を交えながら語られました。最後に日本が韓国の平生教育から学ぶものとして、基礎
教育研究の重要性、「生涯学習」をどうダイナミックに捉えていくか、専門の職能集団の必要性などをあげられました。黄先生と小林先生とのつながりを聞きながら、研究交流の基本は出会いをどう大切にできるかだと感じました(司会:浅野かおるさん、通訳:李正連さん)。
 第二部では、チェ・ウンシル会長による乾杯の後、発足したばかりの「東アジア交流委員会」について石井山さんから報告がありました。そして、参加者それぞれから日本や韓国との出会いや生涯学習への思いが語られました。韓国の皆さんからは、全国集会に参加しての感想や、専門性を高めていきたいこと、日本に学びながら法案を出していきたいこと、どう若い世代で交流を継続していけるか、肥後さんが黄宗建研究をしたように韓国の人が小林研究をする必要がある、などなど話は尽きませんでした。最後に皆で記念撮影をして終了しました(司会:横山孝雄さん、通訳:肥後耕生さん)。

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TOAFAEC第154回定例研究会(社会教育全国集会「この指とまれ」)
参加者:チェ・ウンシル(韓国平生教育総連合会会長)、パク・ソンギョン(同連合会事務次長)、パク・ヨンジュ(同連合会)、パク・インジュ(平生教育振興院院長)、パク・インジョン(同院)、チェ・イルソン(同院)、イ・ファヨン(同院)、ヤン・ビョンチャン(公州大学校)、イ・ジェシル(亜洲大学校)、キム・チョンホ(ソウル特別市江南区庁)、イ・ギュソン(平生教育実践協議会)、イム・ジョンヨン(ソウル特別市江南区女性能力開発センター)、ホン・ミギョン(同)、チョン・エニ(同)、ヤン・チャンヨン(ソウルベンチャー情報大学院大学校)、キム・ジョンエ(京畿道始興市庁)、浅野かおる、姉崎洋一、李正連、李相燁、石井山竜平、上田幸夫、上原裕介、内田純一、江頭晃子、小林文人、瀬川理恵、添田祥史、孫冬梅、竹中かおる、高橋正教、西恵美子、長谷裕之、樋口正、肥後耕生、藤田秀雄、横山孝雄ほか(敬称略、日本人は五十音順)お名前が不明な方2-3人います。




■報告:「日韓研究交流史とこれから」小林文人

〇1980年代・黄先生との出会いから
 今回のテーマは学会のテーマでもあり、きちんと話せば3時間かかるものです。ヤン先生と浅野さんが相談して考えてくださいました。できるだけ短く私からは話題提供だけにして、その後、いろいろな方からのそれぞれ話題を出して欲しいと思っています。
 私が韓国とどう出会って、韓国の平生静教育をどう見ているかを中心に話したいと思います。
 初めて韓国に行ったのは1980年の2月でした。その前の年に朴正煕大統領が亡くなりました。次の大統領が誕生するまでの数ヶ月、ソウルの春と呼ばれ、民主主義とは何かを考える時期でした。黄先生が突然東京に来たのが1980年1月。九州大学で一緒だった諸岡先生が黄先生を連れてこられました。黄先生と師岡先生はマンチェスターで留学しているときの仲間でした。黄先生は韓国で社会教育法を実現したい、という話でいらっしゃった。当時、日本で社会教育法が成立して25年。上田幸夫さんや、小林平造さんなどと社会教育法のグループをつくって、横山宏先生と一緒に法についてまとめようとしていた時で、上田さんも若かった。たくさんの資料を集めており、日本の社会教育法のことを話した。黄先生は光り輝く学会を創設し、事務局長をしていた。黄先生はせっかちなところがあり、私の話をさえぎって、日本語が分かる方で、2月に扶余で社会教育法を立法するための会があるので、来てほしいと招聘されました。

〇忘れられない言葉
 私は当時、東京学芸大学の教授であり、また学生部長という学生運動との関係で一番難しい立場に就任したばかりで、大学側には断りなさいと言われました。でも黄先生とのやりとりで、結果的に扶余に2月24日~25日まで行くことになるのです。その時、黄先生は忘れられない言葉を私に言いました。日本語には「ありがた迷惑」という言葉があるが、今回の招聘は「迷惑ありがた」だと。「これは迷惑だと思われるが、ありがたい仕事なのだ。韓国で社会教育法をつくっていく、とっても重要な仕事で、大事なありがたい仕事なのだ」と。私にとって、黄先生の忘れられない言葉はいくつかありますが、第一はこの「迷惑ありがた」です。私の研究室で、学生の皆さんに迷惑なことをする時、黄先生の話をして強制してきました(笑)。結果的に黄先生の言ったとおり、私は韓国と出会うことができた。韓国の関心を30年間持ち続けることができて、本当にありがたいと思っています。

〇社会教育法づくりに集う多様な人との出会い
 初めて韓国に言って、飛行機の上から漢江が゙凍っているのが見えました。金浦空港空港に着いた時のことは忘れられません。金浦空港では、激しいボディチェックを受けました。訪韓する前の年につくった、『社会教育ハンドブック』を1冊持っていました。その中には、「民主化運動、市民運動、民衆大学創造」などと言うチャプターがあるが、私の顔を見ながらそれをチェックされました。韓国社会教育協会からの招聘状を見せるのが遅かったのですが、それで何とか開放されました。韓国赤十字社の事務総長だった徐英勳氏が私をソウルから扶余まで送っていただきました。日本の社会教育は赤十字社まで広がらないので、まずそういった団体が迎えてくれたことに驚きました。共和国との関係で一番難しい活動をしている韓国赤十字、それから日本の文部省にあたる教育部、牧師、教育者、YWCAなど多様な人がいました。若き金信一先生もおり、3日間の会が行われました。当時、韓国では社会教育学会はなく、名刺を交換すると、「教育社会学」と書かれている人が多かった。私も教育社会学出身ですから、仲間に会ったという感じでした。日本では、社会教育学会と教育社会学会は仲がよくないので、韓国では教育社会学会から社会教育がうまれてきているというのは興味深いことでした。
 この時の強い印象の一つは、新しい社会教育法をつくっていくために、広い広がりの人が集まってきているということ。それから二つ目は、新しいことをつくるという創造の雰囲気があったこと。日本では、社会教育法を戦後新しく作ったとき、ほとんどの研究者は参加しておらず、文部省とごく一部の研究者のみで作った。韓国では社会教育法を、文部省の人や赤十字の人や研究者など、あらゆる立場の人が参加してつくっていくということを目の当たりにした、ありがたい経験だったと思っています。

〇社会教育における国家の役割
 このとき、私の報告の後に議論がされる中で、社会教育の中の国家の問題がありました。「国家」をどう考えるか。日本の社会教育法は国家の役割を抑えました。これは戦前の反省があるからです。そして地方自治体の役割を尊重するようになっています。
 韓国では、日帝支配下の歴史経験があり、国家というものがどんなに大事なものであるのか。共和国との関係で、国家がどう規定されるのか、とても重要で厳しく考えるべきことでした。当時は軍事政権下で、市町村の自治体が無い状況もありました。私が日本の社会教育法第三条の概念を説明する時に、「国民の自己教育」を言い、「国家の役割は限定的である」ことを話しました。しかし、その会合では、国民の自己教育ということでは頷かれなかった。それは、当時はのんびりしすぎたものであったのでしょう。もっと積極的に国家の責任を書くべきだという議論がされたのをよく覚えています。

〇多様な交流がすすむ。90年代
 さて、今の話が1980年代のことです。その後、黄先生からの話はなく、法案はどうなったのだろうと思っていましたが、韓国研究者がいないので分からずにいました。そして、1992年に来た韓国からの留学生である、パク・ウンスクさんが社会教育法を持ってきて、とてもびっくりしました。「できたのだ!」と。韓国からの留学生の魯在化さんに訳してもらって、初めて社会教育法を読みました。黄先生は、その頃カナダに留学していたのです。私も大学の管理職となり韓国にいけず、大学に幽閉されていたつらい8年の時期でもありました。1980年代は盧泰愚政権になって、民主化宣言があるなど大きな激動がありました。
 1990年から93年まで韓日社会教育セミナーがあった大事な時期です。その中心が黄先生、金宗西先生、金信一先生。日本側は笹川孝一さんが重要な役割をしました。一回目はソウル、二回目は大阪、三回目が大邱、四回目は川崎でした。二回目以降は私も参加しました。今日いらっしゃる方にも川崎に参加された方がいると思います。元木健先生など、当時のことは笹川さんが詳しく『韓国の社会教育・生涯学習』に書いています。この本は黄先生と伊藤長和さんと小林が編集した韓国の社会教育について紹介した初めての本です。
 また、「韓国社会教育法10年」の調査で、訪韓しました。黄先生に迎えていただき、この10年の動きについて伺いました。法は出来たけれども、進んでいるわけではないと、苦渋の表情で話されました。つまり、日本の社会教育主事にあたる、専門要員、公民館にあたる施設などは、法には明記されているけれど、地域の実態として動いている状況ではなかったわけです。
 それから90年代は、1993年の社会教育全国集会で初めて韓国からの参加が実現しました。当時、私は社会教育推進全国協議会の委員長で、若い長澤先生が事務局長をしていた時、金信一先生、イ・ジョンマン先生などが来て下さいました。翌94年は雲仙で、噴火した時で、パク・インジュ先生がいらっしゃり、毎年韓国から3~4名参加が続きました。その間にも交流があり、いろいろな思い出があります。金日成が死んだ時、ソウルにいました。金宗西さんに「金日成が死んだことをどう思うのか?」と聞かれ、私は「悲しい」と言うと、それは間違いではないかという顔つきをしていました(笑)。それから、黄先生が日本社会教育学会の講演に来てくださったり、佐賀大学に招聘されたり、一緒に沖縄に行ったり、ほとんど毎年、日本に来られた。それから、1995年に、TOAFAECを立ち上げました。毎年、研究誌を出し、韓国からの論文を日本語で出してきた。日本ではあまり注目されていませんが、中国では注目されています。肥後耕生さん、李正連さんなど若い人が書いてくれて、しっかりこれを残していきたいと思っています。

〇韓国研究の推進・自治体における発展
 2000年前後になってからの日韓社会教育研究の飛躍的な発展について強調したいと思います。一つは韓国からの留学生、そして日本の若い韓国研究者の登場。日本社会教育学会で、充実した若々しい韓国の発表が聞こえてくるようになりました。私たちは若い世代の登場に力を得て、研究をすすめるようになりました。それまで日本の教育学会では一人も韓国研究者がいませんでしたが、研究者がではじめたということに一つの新しい時代を感じました。
 また、こういった研究交流を開くのは研究者の役割ですが、韓国との交流について水路を開いたのは川崎と富川の自治体です。大学研究者はその後を追いかけただけです。川崎は毎年、富川に、富川からは川崎に職員が派遣されてきます。そのお陰で富川を訪れるようにもなり、光明で行われた平生静学習フェスティバルにも参加しました。
 そして2008、2009年は私にとって画期的な年になりました。編者の一人である黄先生が本ができる1ヶ月前になくなりました。大急ぎで追悼文を書きました。「編者・黄宗建博士は、本書出版を目前にして、2006年7月20日、ソウルにて急逝されました(享年・77歳)。まことに痛恨の極みです。韓国はいうまでもなく、アジア各地の社会教育・生涯学習の研究と運動に大きな足跡を残されました。その業績を称え、在りし日を偲び、深く頭を垂れて、本書をご霊前に捧げます。」と。
 しかし、すぐにご霊前に持って行くことは出来ずに去年やっと案内してもらいました。その際、各地を訪問して韓国における自治体平生教育が実現したという思いを強くしました。

〇韓国の平生教育から学ぶもの
 時間もなく、通訳の李正連さんも疲れたと思いますので、残りは細かなことを省略してレジュメに沿って項目だけ紹介していきます。日本の社会教育を研究した者が、韓国の平生学習に出会って何を考えているかということを話したいと思います。
 一つは、リテラシーの研究について。主要な先生が識字の研究について書いています。1995年に『東アジア社会教育研究』をつくったとき、韓国の識字教育の実際を金宗西先生が書いてくれた。とてもいい論文でした。当時、黄先生は識字教育協会の初代会長でした。黄先生は、日本の「識字」はよくない。「文字を理解するだけでなく、文章を解読し、文化を理解し、人間を解放」する「文解」なのだと話されました。これも私が忘れられない言葉です。でも、中国の「掃盲」よりはいいだろうと言っていました。日本では識字研究をやっている人は少ないし、日本の教育学における、基礎教育研究は大変少ない。そういう意味では韓国の文解教育研究から学ぶことはたくさんありました。
 二つ目は、平生教育学習について日本の捉え方と大きく異なります。日本はユネスコなどの影響を受けるし、行政的に下りてきた上から「生涯学習」という言葉に反発する人もいます。その点では、韓国の平生教育の具体的な展開に接することができました。基本的には市民の活動。それを行政がどうするかという非常によい出発をしていると思います。
 三つ目は平生教育士です。日本で言えば社会教育主事ですが、韓国における平生教育士の新しい歴史が始まっています。ここ数年で、若い平生教育士に出会ってきました。ここにもいらっしゃいますが、われわれは何をやるか。その志、ミッション、新しい仕事にとりくもうとする面白い仕事を始められているという感じを受けました。かつて、日本でも社会教育主事や公民館主事がたくさんいたことを知っていますが、今、日本ではみんな疲れていて、条件が悪い中で苦労している人が少なくありません。韓国も5年で雇用止めという現実があるが、志があることを感じます。また、韓国では平生教育士協会がつくられて、そのことについて今回の訪韓の車のなかでイ・ギュソン先生に話を伺うことができました。2002年の創設で、最初は10人が今では5000人の専門的職能集団。60年代に日本でも社会教育主事の職能集団をつくろうという話がありましたが、実現しませんでした。図書館界では日本図書館協会は成功しましたが、日本では社会教育指導員も成功しなかった。日本には学会もある、社会教育推進全国協議会、社養協もある。公民館もある。でも、専門職員集団はない。なんとかその動きを始めたいと、相談を始めたところです。
※この後、パソコンがフリーズしてしまい、データ残っておらず(江頭晃子)



7, 日韓交流 20 周年記念(日韓セミナー) ー社会教育と平生学習との交流、その課題 
                     (2013年8月3日)講演記録 →■別ページ



B,韓国研究交流(2) 2010~2023 →■別ページ


8,「躍動する韓国の平生学習が示唆するもの」(『躍動する韓国の社会教育・生涯学習』
             エイデル研究所、2017) 特論 (小林)



9,
『躍動する韓国の社会教育・生涯学習』中国語版
   
王国輝・楊紅訳、清華大学出版社刊、2022) 「序」韓民王国輝訳) 


10, 韓国・平生教育の歩みに刺激されて (2023年1月23日 小林)
                            →■別ページ







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