【沖縄訪問・交流記録(2)】
沖縄訪問・交流記録2 (2006〜2008年〜)
       
*沖縄訪問・交流記録(1)(2002年〜2005年)
*沖縄訪問・交流記録(3)(2009年〜)→■
                  *「おきなわの社会教育」(エイデル)刊行
                       *沖縄・集落公民館研究・資料(1)−発表資料など
                       *沖縄・集落公民館研究・資料(2)−公民館憲章・共同店など
                       
*竹富島憲章
<目次>
 1,2006年3月16〜19日   沖縄・共同店サミットへの参加(奥)、名護、旧コザ
 2,2006年5月27〜6月2日 名護の海、伊集の花心、中頭青年運動史
 3,2006年9月〜12月     八重山の台風被害お見舞い、戦後青年運動史証言
 4,2007年2月〜        沖縄訪問、竹富島、戦後青年運動史聞き取り
 5,2007年4月〜        竹富・那覇、青年運動史聞き取り→竹富報告
 6,2007年6月〜7月      那覇・名護・竹富
 7,2007年10月〜12月    やんばるの島酒運動、古宇利島・ホテル建設計画
 8,2007年12月         那覇・名護訪問
 9,2008年3月          上海・華東師範大学の沖縄訪問記録→■
10,2008年7月
         名護との交流と竹富西塘大祭
11,2008年11月         妻籠と竹富島の交流



 「はまゆう」揺れて吾をなぐさむ(竹富島カイジl浜、20070418)




1,2006年3月16〜19日 沖縄・共同店サミットへの参加(奥)、名護、旧コザ


◆<那覇・やんばる・コザー3月の沖縄>
 3月16日夜、さきほど那覇に着いたところ。東京は春の嵐とか、こちらはさわやかな南の風が吹いています。(南の風1620号)
 3月16日夜・那覇。風前号を送信したあと、ホテルの前の小さな店で寝酒?を楽しんでいたところ、固いものを食ったわけでもないのに、前歯(義歯)2本がギクリとはずれてしまいました。老化です。こんどの沖縄の旅は第1夜からつまずいた。
 西青山で歯医者をしている旧制中学時代からの親しい友人がいて、いまでも「ぶんちゃん」と呼んでくれる仲。彼に歯の修理をしてもらうため、昨夜(19日)遅く、予定を変更して東京に帰ってきました。沖縄日程の後半は残念ながら中止。集まっていただく予定だった那覇や南部の皆様にはたいへん失礼してしまいました。連絡役の名城ふじ子さんにとくにご迷惑かけました。
 しかし毎日のスケジュールはまことに充実。歯の噛み合わせ悪く、いつもの調子でしゃべれない身としては残念の極み!
 今回の沖縄は、国頭村奥で開かれた「共同店サミット」(3月17日)への参加が第1の目的(風1613号)でした。あわせて旧コザ市で、仲宗根悟氏(当時の復帰協・事務局長)から「復帰運動と青年団運動」についての聞き取り第2段(19日)。その間をぬって名護の皆さんと旧交を温める夕べ(18日)・・・と、短い日程ながら、豪勢な毎日。
 奥サミット終了後の炉辺での交歓(沖縄でいろりの火を初めて楽しんだ)、翌日は山荘での昼食会。午後には西海岸の共同店をめぐりながら、舟でなく大橋を渡っての古宇利入り。当日の「古宇利区長日誌」(ふいの島日記、小浜美千子さん)には、
 「… 今日はナカムラ教授とブンジン先生が島にお見えだったようで、私はあいにくの不在でした<(_ _)>。。。時間差でしたネ(^○^)…」と。
 石倉祐志さん(TOAFAEC)も一緒でした。アサギのところで驟雨にあい、ぬれた石段をのぼって御嶽にも参りました。この神、古宇利の人だけの神だそうですが・・・。(南の風1621号、2006年3月20日)
 国頭村・奥共同店(20060317)


◆<名護交流会−3月の沖縄・続>
 末本誠さん(神戸大学)は、奥の共同店サミットでお会いしました。その後は並里へのスケジュールだったようですが、私たちは名護を経て読谷から旧コザへ。
 18日夜の名護「大国林道」交流会は、岸本力さん(2002全国集会事務局)のサンシンも一段と冴えて、それはそれは賑やかな一夜。小生のみ歯の調子悪く、すでに口内炎の症状あり、浮かぬ顔(写真をみればよくわかる)。中村誠司さん(名桜大学)も共同店サミットの疲れか、静かでした。当夜の話題をいくつか…。
 名護市教育長・稲嶺進さんは若い社会教育主事の頃(1982富士見全国集会に参加)、絶品の「二見情話」の歌い手。最近はリクエストしてもなかなか歌ってくれない。ところがこの夜、チカラ君のサンシンにのって、艶っぽく歌い始めました。続いて2番を松田毅さん(社会教育課長)、3番は島袋正敏さん。この豪華?な組み合わせ、久しぶりの名曲でした。
 正敏さんは秘蔵のカメから汲んできた古酒2瓶と、花粉症に効くという請福酒造(石垣島)「Fancy 30度」を持ってきていただきました。いまその効果を試さんものと、沖縄で直った花粉症の再発を待っているところ。24日の研究会にも持参して同病の皆さんにお裾分けする予定です。
 宴もたけなわ、同行の石倉祐志さんは「やんばる島酒之会」入会を申し出ました。しかし即決というわけにはいかず預かりに。この会は、原則として名護・やんばるの人々によるとのこと。
 与論島にいるはずの赤崎隆三郎夫妻が登場。名護に手づくりで新居を建てているという話。翌朝、新築中の豪邸を訪問してきました。
 イジュの花が咲く頃、カヤックで源河から古宇利島への海を渡ろうという、島福善弘さん(名護市教育委員会文化課)の再度の提案。今年は実現できるかどうか。イジュの花が咲く季節とは、ほぼ5月のどの週でしょうか。せめて予定を組む努力をしてみたい、と思っています。
 山城秀夫さん(大国林道オーナー)はじめ、皆さんに歓迎していただき、まことに有り難うございました。(南の風1622号、2006年3月22日)  *写真(060318nago1)移動

◆<文人先生とやんばるを走る〜古宇利島のウタキ>
         −3月・訪沖レポート(その1)−    
           石倉祐志(Thu, 23 Mar 2006 00:18)
 沖縄の北部を、小林文人先生と中村誠司先生の2人をレンタカーに乗せて回ってきました。18日は運転は私で、文人先生が地図を見ながらのナビゲーター、誠司先生が案内人という贅沢なツアー。いろんなところに行きましたが、古宇利島もよかった。
 最近、大橋が架かって沖縄本島から車で行けるようになり、地域の変容が注目されるところです。観光施設が出来てにぎわう一方、家に鍵をかけることを呼びかける看板などもありました。古宇利小の小学生6人が卒業制作で作った大きな島の地図があり、とてもよく出来ていました。私の地元・浅川で地域マップ作りを提案しているので、小学生が6人いればこれだけのものが作れるということに勇気付けられます。
 島を一周した後、ウタキ(御嶽)とアシャギ(祈りの場所)を見に行きました。いま、やんばるはニングワチカジマー(二月風巻)という強風が突然吹く天候不安定な季節で、いきなりスコールのようなにわか雨が降ってきました。アシャギの広場に建設された立派な芸能舞台で雨宿りしながら、両教授からウタキ、アシャギなどの祈りの場、公民館、共同店、等々を含む集落の構造や、シヌグやウンジャミといった集落の祭祀についての話を聞きました(何という贅沢)。
 鬱蒼とした木立の奥にあるウタキは、雨上がりに緑が冴えて、名も知らぬ植物から雫がしたたって、命あふれる光景。ああ来てよかった!と、おもわず感謝と祈りがわいてきます。しかし誠司先生によれば、祖霊を祭る場所であるウタキでよそ者が祈っても、祖霊たちは古宇利島の出身者にしか責任は取らないということでした。「かみさま」はやはり共同体のものなんですね。国家神道の対極にある祈りのありかたに最近関心を深めているので、なるほど!と思ったものでした。(八王子市・浅川地区社会教育推進委員) *(南の風1623号、2006年3月24日)

◆<この酒のめば・・・>
 TOAFAEC 定例研究会の(公式)記録は、いつも石倉祐志さんが書くならわし。それと重複するかもしれませんが、当夜(24日)の余韻がさめないうちに、いくつかのことを書きたくなりました。
 小林茂子さんのドクター論文発表は、さすがに内容の濃い報告でした。 沖縄「移民」教育についての鮮明な研究視角、課題設定のオリジナリティ、5年にわたる実証資料の探求など、これから論文を書こうとする同席の人たちにとっても、大いに参考になったのではないでしょうか。
 沖縄出身の長老・上原信夫さんがご出席。持ち帰ったばかりの奥「共同店サミット」資料をお渡ししました。同姓同名の上原信夫氏作詞「共同店口説」(奥)を興味深げにご覧になっていました。
 会が始まり、やや遅れて、珍しい人の登場。文科省の金子満さん。忙しい職場を抜けての出席、ご苦労さま。最終段階を迎えた韓国本執筆についての最後のツメも出来ました。
 終了後の小林茂子・博士「お祝いの会」では、TOAFAEC の(いつも飲むばかりの)会としては珍しく花束の贈呈(HPに写真)。そして名護・島袋正敏さんから頂いてきた泡盛「請福Fancy 」(35度)を皆で開けました。これはいい!さわやかな口当たり、シンのある島酒、静かに酔いがまわりました。
 花粉症に効くというのが正敏節。当夜のぶんじんは、沖縄行きのおかげで花粉症が再発しておらず・・・効能を確かめることはできませんでしたが、実に楽しくファンシーな気分で酔いました。さらに元気回復。これで花粉症の季節から脱却できたこと間違いなし。井の頭公園の桜も開花しはじめ、花と酒、やっと本格的な春の到来!
 モンゴル・タグタホさんが草原の歌を朗々とうたいました。ぶんじんも“やんばるの子守歌”にのせて、切々と、こう歌いました。
 ♪この酒のめば、やんばる思い出す やんばるの思い出は、祭りの笛太鼓♪
*(南の風1624号、2006年3月27日)





2,2006年5月27〜6月2日 名護の海と伊集の花心、中頭

★<伊集の花心、やんばるの海歩き>
 在日米軍再編、普天間基地の移設問題をめぐって、風雲ただならぬ名護の海と山。そのなかで、海のリーフを歩き、山のイジュの花と語りあう旅のお誘いです。1ヶ月ほど前の本欄(風1633号、4月14日付)で、この企画のことを書きました。その後、5月28日(日)のスケジュールが具体化しましたので、あらためて上記・島福メールをご紹介し、ご案内いたします。
 「シーカヤックは4艇は準備できそう」「もう少し呼びかけます…」とのこと。いま小生以外に参加希望も寄せられていますが、もし他にもご希望の方があれば、ご一報下さい。  
 沖縄はすでに梅雨入り。例年より入梅は遅れたそうですが、本土の梅雨と違って、シトシト一日中降り続くことはない。さきほどの島福さんの電話では「いま、晴れていますよ」と。ところが、イジュの花は例年より早く、もう満開だそうです。月末まで咲いているかどうか。聞いてみると、いつもの調子で「大丈夫でしょう」との返事でした。
 しかし、問題は風。今日のニュースでは、すでに台風1号が発生し香港を直撃とか。ま、この時期の沖縄は大丈夫でしょう。
 参加希望の方は、前夜(27日)までに名護に集合。宿はいつもの山田荘(0980-52-2272)、各自で予約して下さい(すでに参加希望を頂いた方は予約済み)。28日も泊まることになりましょう(名護2泊)。
 ぶんじんは、5月26日夜のTOAFAEC 定例(東京)研究会に参加して、27日午後(ANA129便 15:35羽田発)沖縄へ。当日夜はおそらく「大国林道」(山田荘からすぐ)あたりで飲んでいると思います。
 5月30〜31日の両日は、かっての中頭青年団運動についての聞き取りを予定します。いまからお願いの連絡。まだ虚像に近い「沖縄青年運動史研究会」を実像化していくための二日間、と考えています。*(南の風1651号、2006年5月16日)

★<名護にて>
 10日ほど前、中村誠司さん(名桜大学)から、宮城与徳生誕百年記念誌『君たちの時代』(同・記念する会刊、事務局・名護博物館)を一包み送っていただきました。有り難うございました(宮城与徳記念事業と本書のことは「風」1645号で紹介)。
 早速、26日(金)の定例研究会でご披露し、やんばる出身の長老・ゲスト上原信夫さんに(中村誠司さんの名代として)謹呈、希望の方に実費(2,000円)でお頒けしました。まだ残部あり、ご一報下さい。
 誠司さんからの連絡によれば、寄贈先名簿作成中とのこと。「本土の情報が少なくて困っています。図書館、美術館など社会教育機関には積極的に寄贈させていただきます。ここにはぜひ!というところがありましたら、ご紹介ください」と。ちなみに宮城与徳はもともと画家。本書には36点の作品がカラー版で収録されています。
 大学の研究室や図書館、また自治体の(公民館を含めて)図書館・博物館・美術館等の諸施設等で、“ぜひ!”というところがあれば、下記事務局まで寄贈を申し込まれては如何でしょう。貴重本です。
 「宮城与徳生誕百年を記念する会、事務局・〒905-0021 名護市東江1−8−11 名護市博物館、電話0980-53-1342 FAX 0980-53-1362」
 さて、同じ名護からのメール。島福善弘さんの「海は呼んでいる、山ではイジュの花が迎える」の誘い(経過は「風」1651号に既報)。
 「…略… 天気予報では28日当日、曇り時々雨となっています。今日(24日)のこちらの天気は、予報では曇りのち雨ですが、ほとんど晴れ上がっています。クバガサは準備しておきます。…略…
 少々の雨は大丈夫ですが、「風」は気になります。でも、たぶん大丈夫でしょう。(祈) 3時ごろからサザエをつまみに一杯といきましょう。それでは、お待ちしています。」(Wed, 24 May 2006 17:37)
 追っかけて、島袋正敏さんのメール。(Thu, 25 May 2006 18:35) 「天気は気になりますが決行しましょう。イジュやサンニンの花はやや峠を越えましたが、まだ楽しめます。文人先生をお迎えするためのリハーサルをと、23日(火)に島福さんと今帰仁の海でカヌーを漕ぎ(初体験)、釣りを楽しみました。…略… 何と言っても、一日海の上でゆっくり、というのが最高です。再会楽しみにしております。(瓶)」

 ここまで編集して、5月27日夜、名護へ。毎晩の楽しい集いに「風」送信の時間がなく、4日ぶりの本号となってしまいました。
 名護からのお誘いに、ぶんじん、手打明敏(筑波大学)、石倉祐志の3人が参加。28日当日はやはり小雨、しかし風は弱く、シーカヤック4艇、屋我地島1周に挑みました。東京から離れ、浮世を忘れ、やんばるの海に身を任せながら、外海から羽地内海も漕ぎきってゴール。合計18キロの海上の旅。そのあとのビールの美味しいこと。至福の1日を過ごしました。以下、次号へ。
*(南の風1656号、2006年5月29日)

★<やんばるの海>
 名護市教育委員会(文化財)島福善弘さんからのシーカヤックのお誘い、天候やコースなど予定(期待)通りにはいきませんでしたが、おそらく生涯忘れない体験となりました。当日われわれを迎えて一緒に海に出ていただいたのは「名護シーカヤック同好会」の皆さん、島袋正敏さんを含めて6人の方々、まずはお礼のメールをここに再録して、あらためての感謝を申しあげます。
 「…(略)… シーカヤック・海上の旅という豪勢な1日、生まれて初めての体験。ビールの席でも申しあげたように、いつまでも思い出に残る日となりました。有り難うございました。魚こそ釣れませんでしたが、雨もまた楽し。海からの古宇利島も屋我地島もことさらに美しく、あらためてやんばるの自然の豊かさを実感!
 翌日も今朝も疲れなく、さわやか。肩が軽くなっています。小生も若くはないけれど、まだなんとか海に出れる、18Kを漕ぎ続ける体力ものこっているなど、自ら確かめることができて、なによりの喜びです。
 いろいろのご配慮有り難うございました。皆様にどうぞよろしくお伝え下さい。ますますのご活躍を祈っています。」(Tue, 30 May 2006 08:45)
 イジュ(伊集)の花はほとんど咲き終わって、ナングスク(名護城)の山中にちらほらという感じでしたが、月桃(さんにん)の花はまだあちこちに艶やかな色を残していました。
 「やんばる」と言えば、まずは山野の自然の拡がり、その豊かさを思い浮かべますが、今回は雨にけぶる千変万化の海、その一端を知りました。釣りの用意もありましたが、ゴールにたどりつき、その後のビールの予定時間のこともあって、わずか20分程度の竿。しかも大物ねらいとあっては、いかに豊かなポイントでも、そう簡単にはいかない。次の機会に“また会いましょう”と、やんばるの魚たちがメッセージをおくっているようにも感じました。
*(南の風1657号、2006年5月31日)
梅雨空、屋我地島一周の旅、釣竿をたれる小林・島福艇より(060528)


★<沖縄青年運動を担った群像>
 今回の沖縄滞在の後半は、沖縄青年運動史の証言収集のため中頭(浦添・旧コザ市)を歩きました。沖縄はあいにくの梅雨、とくに今日(5月31日)は、台風襲来かと思うほどの風雨。幸いに田場盛順さんの車で送ってもらい、助かりました。田場・中根ご両人の証言を聞き書き。
 田場さんは沖縄の日本復帰(1972年)前後の沖縄県青年団協議会(沖青協)常任理事そして会長をつとめた人。地域(集落→村→郡)の活動をへて沖県協の運動を担い、職場(琉球大学)でも労働組合の役員、ほとんど休む日なしの連続。地域の青年活動にとどまらず、反基地闘争・平和運動・復帰運動という大きな政治課題に挑戦した沖縄ならではの証言、あらためて記録化の重要性を痛感しました。
 中根章さんは、1955年より沖青協の常任理事、日本青年団協議会(日青協)青研集会にも参加、1958年の原水爆禁止沖縄県協議会の結成に努力し、初代・理事長(当時26才)。平和行進や辺戸岬の焚火集会などの立て役者です。沖縄の原水協運動は世代的に青年たちが担ってきたのです。1960年の沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)にいたる激しい対米抗議行動や当局交渉に取り組み、日本の他地域の原水爆禁止運動には見られない展開。その後、中根さんは旧コザ市の市会議員、復帰時点からの沖縄県議会議員、のち副議長。いま74才、ラジオ番組をもち、比謝川を蘇生させる会を主宰し、実にお元気。
 事務所には、日本原水協(初代)理事長・安井郁の揮毫「平和はかちとらなければならない」の色紙が飾られていました。辺戸岬ではじめて焚火集会を企画したときには「安井先生と無線で相談した」とのこと。
 中頭地区を中心に、青年団運動を担った群像の証言収集を重ねていきたいとお話しておきました。山内徳信氏(もと読谷村長、沖縄県出納長など)もかっての青年団運動の活動家。しかし次期の沖縄県知事選の候補者の一人として名があがって、当分は忙しく無理のようですが、そのうちにぜひ!
 那覇への帰路、田場さんと宜野湾市民図書館へ。この4月に玉那覇正幸さん(1973年・沖青協常任理事、おきなわ社会教育研究会事務局長)が館長に就任。あいにく不在で残念。お祝いメッセージを残しておきました。*(南の風1658号、2006年6月1日)

中根章さん(左)、田場盛順さん(右)、沖縄市中の町・中根事務所にて(20060531)





3,2006年9月〜12月 八重山の台風被害、お見舞い、青年運動史の証言など

★<八重山の台風被害> 南の風1723号【2006年10月2日】
 9月16日に八重山から北上し、17日夜に福岡を襲った台風13号。九州に近づいても950ヘクトパスカルの勢力を保ち、当夜は緊張しましたが、幸い福岡の自宅は被害がなかったことを「風」に書いて、その後は忘れていました。ところが、八重山への打撃は大きく、被害甚大であったことががだんだんと判明。驚いています。
 電柱が折れ、御嶽の神木や街路樹がなぎ倒され、家屋の倒壊も。停電、それに伴う断水、電話不通などライフラインへの影響も大変だった模様です。10日ほど経って、何人かの方にお見舞いの電話をしたところ「こんなに怖かった台風ははじめて!」という声もあり。なにしろ70メートルに近い風速、想像を絶します。烈風に巻き上げられた潮水が襲って、塩害のため樹木の緑は消えてしまっているとのこと。あらためて八重山の皆様にお見舞いを申しあげます。
 台風見舞いの電話で知ったこと。渡慶次賢康さん(元八重山教育事務所社会教育主事、石垣市教委・社会教育課長、石垣中学校長など)が昨年、脳内出血で倒れられ、その後リハビリに専念、しかし右側に後遺症が残ったそうです。言語障害はほとんど克服され、お元気な電話でしたが、あらためて八重山にご無沙汰してきたことを反省させられました。
 この30年近くの八重山研究・交流の際には、いつもお世話になってきました。与那国調査(1998〜2000年)や『おきなわの社会教育』出版記念会(2002年)、副産物のぶんじん歌碑建立(2003年)等も、渡慶次先生のお力があったればこそ。一段落したら(11月?)、お見舞いの八重山行きを計画したいと思っています。

★<八重山−平久保> 南の風1724号(2006年10月4日)
 前号本欄「八重山へのお見舞い」記事のあと、台風13号被害のレポートがいくつか寄せられました。
 たとえば、「… 30年ぶりという猛烈な台風13号は一夜にして島の風景を一変させてしまいました。コンクリート製の電柱が折れたり、プレハブが吹っ飛んだり、信号が壊されたり、街路樹が根こそぎ引き抜かれたり、台風一過の島の風景は津波に洗われたような惨憺たるものでした」とのこと(白保メール85、Mon, 02 Oct 2006 23:35)。あるいは、「私は今回の台風の時は那覇にいて、怖い目にあわずに済みました。私の家は、お蔭さまで本体は無事でしたが …」(Mon, 2 Oct 2006 17:17)、その後の修復は大変だったことなど。
 八重山毎日新聞(2006-10-02)記事に登場する平久保・米盛三千弘さんにもお見舞いの電話をしました。やはり猛烈な台風だったこと、プレハブ風の別荘は吹き飛んだ、停電したけれど幸いに水は大丈夫とか。平久保は石垣島の最北端、小学校児童数わずか6人の小さな集落。記事によれば、台風の被害にめげず、子どもたちのサンシンで古謡「安良越路節」が演奏されたそうです。情景が目に浮かびます。
 集落の入口に米盛さん一家経営の食堂「浜遊」があり、道路に面して、ぶんじん歌碑が建っています。2003年9月に歌碑の建立式。その翌年に足の怪我で杖をつきながら訪問して以来、この2年、ご無沙汰しています。「ほんとに歌碑?」と疑う人もありますので、渡慶次さんのお見舞いをかねて、平久保再訪のスケジュールも組んでみたい。竹富島「種子取祭」にも、と思って問い合わせたところ、10月28〜29日だそうです。この日程に合わせるのは無理ですね?

★<沖縄・八重山行きの日程 >  南の風1726号【2006年10月7日】
 …(略)…
 あわせて山口真理子さんから、沖縄・八重山訪問日程について、次のような提案が寄せられました。「…八重山行きはいつ頃になりそうですか。私も鷲尾真由美さんに台風13号の状況をお聞きしました。とにかくすごかったようですね、後も大変だったみたいだし。(お見舞いの訪問は)11月19日(日)〜21日(火)が休みなので、その頃だったら、私も行けるなあと思ったりしています。もちろん先生や皆さまのご都合が優先ですが、選択肢のひとつになるようでしたら、お願いいたします。」(6 Oct 2006 03:49)
 さて、どうしましょう。風1724号に「竹富島・種子取祭にも、と思って問い合わせたところ、10月28〜29日だそうです」と書きましたが、この日程を組み込むと、安い飛行機(「旅割」「特割」など)はとれない。真理子さん提案の日程だと半額近くの格安チケットが(今ならまだ)大丈夫。11月19日に那覇集合(泊)、20日に八重山(石垣)−渡慶次先生お見舞いとぶんじん歌碑−、21日以降さらに八重山に残るもよし、ぶんじんは本島−名護へ)という日程案を第1案にしてみましょうか。関心ある方々のご都合はいかがでしょうか。数日うちに決めましょう。

★<飛ぼうよ二人で > 南の風1727号【2006年10月9日】
 …(略)… 今日(8日)は、夕刻より「すばらしき沖縄コンサート」(風1721号にご案内)に出かけました。琉球センター・どぅたっち(島袋陽子さん)主催、会場は西池袋の自由学園「明日館」(重要文化財)。ホールの一角には故大嶺政敏画伯の作品展も。いくつか書きたいこともありますが、本号は長くなりましたので、佐渡山豊(沖縄フオーク村)が歌った「飛ぼうよ二人で」(金井喜久子・曲)の詩(矢野克子・作)を紹介するにとどめます。私たちの次の沖縄・八重山訪問も、二人ではなく数人で、11月19〜23日に飛ぶことになりました。(HPに記載、参加歓迎)
 ♪飛ぼうよ二人で♪
 くろしお どんとほゆる
 みんなみへ
   おきなわよいとこ
   そらは
   はれわたる
 とぼうよ
 ふたりで
 おきなわへ
   とぼうよふたりで
   おきなわへ

■<「共同」の叡智が見える> *関連→奥共同店100周年■
     南の風1728号(2006年10月10日)
 …(略)… 沖縄・奥「共同店100 周年」祝賀の報告(中村誠司さん)が寄せられました。
 今年3月、「共同店サミットin 奥2006」で訪沖した折、100周年の催し企画を聞き、手帳にも書き入れ。しかし残念ながら今回「奥」まで飛べませんでした。ひそかに日程調整を試みた経過もあったのですが、あと一つの跳躍力不足。
 7日祝賀会の興奮は、中村誠司さんのメールから伝わってきました。その前後には、沖縄タイムスも琉球新報も、写真入りで報道(タイムス記事は風・前号)。また両新聞ともに大きく社説にも取りあげています。百戸あまりの小集落の行事が、なぜこれほどまでにマスコミに注目されるのか。百年の歳月の歩みのなかに、現代に格闘してきた「共同」の叡智が見えるからでしょう。
 琉球新報社説のタイトルは、「奥共同店1世紀−“地域力”再生のモデルに」(10月9日)、沖縄タイムス社説は「つながることの大切さ」(10月6日)。長文の同社説のなかには、奥共同店に学んで胎動した宮城県丸森町大張の共同店「なんでもや」の事例も紹介されています。
 関連して、沖縄大学・宮城能彦さん(琉球新報)や名桜大学・中村誠司さん(沖縄タイムス)の論文も掲載されたそうです。
 この機会にあらためて稀少本『字誌・奥のあゆみ』(美装,B5版、590頁)を開いてみました。ちょうど20年前の刊行、「奥共同店80周年記念祝賀会」写真が飾られていました。

■<比嘉春潮顕彰碑>
 韓国本の出版記念会も終わって、この1週間、積んだままになっていた本を開く時間がもてるようになりました。読み始めると、急ぎの仕事を忘れてしまうから困ったもの。
 沖縄関係では、「ふるさとを愛した篤学・反骨の研究者−比嘉春潮顕彰−事業報告書」(同顕彰碑期成会、沖縄県西原町中央公民館内、2006年9月)。比嘉春潮氏は東京杉並区荻窪に住んでおられたのです。1977年没(94歳)。戦後直後は、空襲で焼け出された伊波普猷夫妻を自宅に迎え(その死を看取る)、廃墟の沖縄の復興救済のための「沖縄人連盟」創設と機関誌『自由沖縄』発行(1945年),「沖縄文化協会」結成、そして『沖縄文化』発刊(1948年)など。
 今年4月、西原町立図書館内に立派な顕彰碑が建立されたそうです。碑文の揮毫は豊平峰雲氏。同期成会副会長の新川明氏によれば、久米島の「仲原善仲先生」胸像等を見て、「わが郷里・西原が生んだ沖縄学の巨人・比嘉春潮先生の事績を伝えるものが一つもない」ことを思い知っての発議だったとか。故郷とは有り難きもの。
 私たちも親しくお付き合いした外間政彰さん(元那覇市立図書館長)を肝煎り役にして、東京遊学中の気鋭の若者たちが集った荻窪のお宅での沖縄研究会は毎月1回、80回を数えたそうです。由井晶子さん(元沖縄タイムス編集局長)などの回想が興味深い。
 あと一つ、我を忘れて読みふけったのは、外間守善著『私の沖縄戦記−前田高地・六十年目の証言』(2006年6月23日刊、角川書店)。この本は次号で。外間守善氏も「比嘉春潮顕彰報告書」に寄稿されています。 (南の風1736号 2006年10月24日)

■<「私の沖縄戦記」> 南の風1737号(2006年10月26日)
 前号に続き沖縄の本。今年の6・23(沖縄慰霊の日)に刊行された外間守善著『私の沖縄戦記』(角川書店)はまことに衝撃的な1冊でした。60年の歳月を経てはじめて語られる戦記。これほどまでに厳しい戦争体験だったのかと、読み終わった夜は、しばし眠れず。1945年4月末の所属大隊は約 800名の陣容。それが前田高地(浦添市)等の激戦を経て、9月3日(武装解除)まで生き延びた人数はわずか29名。その中のお一人だったのです。
 高名な外間守善先生を知る人は多いと思いますが、あえて略歴を記しておきますと、1925年那覇生れ、沖縄師範学校在学中に現地入隊(陸軍二等兵)、奇跡の生還ののち戦後は日本へ。國學院大学に学び、「おもろさうし」の研究などで沖縄学の第一人者。法政大学名誉教授、沖縄学研究所所長。
 先生の戦争体験については、学友の大田昌秀、安村昌享両氏との共著『沖縄健児隊』(1953年)があります。しかし当時、「戦後8年しか経ておらず、真実を語るには記憶はあまりにも生々しく、私はあまりに若すぎて、悪夢のような前田高地の死闘について具体的に触れることができなかった」と。
 戦後収容され、知花米軍病院で「私はやっと体中の破片を抜き取ってもらい、食糧を与えられ、身体は少しずつ回復していった。」体の中に入り込んだ鉄片や石片は無数、手術で抜き取ったり、自然に体内から抜け出たりしながら、完全に回復するまでに十年余りを要したそうです。

■<沖縄の小さな文化祭> 南の風1742号(2006年11月3日)
 昨日につづいて本号は連日の「風」となりました。今や日刊新聞?並み、吹きすぎはよくない、読むのに追いつかない、などの苦情も重々承知の上ですが・・・、恐縮して、言い訳を書きます。
 一つは、丸浜江里子さん(東京・杉並)から送信していただいた「三池と夕張から日本を掘る」(緊急シンポジウム、ポレポレ東中野)の日程が11月4日(土)なのです。丸浜メールは、昨日の風・前号と入れ違いに届いて、掲載することができませんでした。急なご案内になってしまいますが、せめて前日の風に載せて、お許しいただこうという次第。
 あと一つは、今日の文化の日に、琉球新報「小さな文化祭」記事(上記)をご紹介したかったからです。「南城」とは聞きなれぬ自治体。今年正月に誕生した新市(佐敷、知念、玉城、大里の4町村が合併)。旧佐敷村・津波古は、たしか馬天港がある比較的に大きな集落(山城千秋さん調査によると、2003年現在939戸、3011人)。
 そこに16回を数える集落文化祭が盛り上がっているとのこと。棒術保存会、山学校、ゆし豆腐、指笛、ゆんたく場、などを伝える記事に励まされるものがあります。こんな風景こそ、ほんものの文化でしょう。
 この風の「南」はもともと「沖縄」の意。小さな記事でも「南の風」として沖縄を載せようと奮闘してきました。最近あまり風を吹いてくれない山城千秋さん、「山学校」などを解説していただけませんか?
 名桜大学の中村誠司さんからは、奥共同店100周年記念式典のパンフと、沖縄大学地域研究所が編集した稀少資料「奥共同店関係資料集1」を送っていただきました。有り難うございました。 

■<山学校と山の会> 山城千秋 (Mon, 6 Nov 2006 11:49):
 …(承前・南の風1742号)…
 しばらくご無沙汰してました。10月は、世界のウチナーンチュ大会で帰省し、また奥の共同店 100周年にも参加し、誠司さんや正敏さんにもお会いしました。盛大な式典を支えた郷友会の実際に触れ、故郷への想いを強く感じました。
 故郷と言えば、我がシマ・津波古で「小さな文化祭」が開かれたとの記事を「南の風」に掲載くださり、ありがとうございました。琉球新報は本当に情報が早いですね。沖縄タイムスにはまだ掲載されてなく「南の風」を拝読して知った次第です。
 その「山学校」とは、文字通り学校に行かないで「山」で「学校」するの意味で、大人の遊び場として、そして棒術の継承と地域づくりを考える会です。30〜50代の人たち約15名が、たまり場である「カヤブチヤー」(茅葺き屋)で集まっては、酒の場で知恵を出し合い、地域づくりを実践されています。共同農園もされているとは知りませんでした。この小さな文化祭も、そのたまり場で行われています。
 もう一つ、津波古には「山の会」という会があり、ここは40〜50代の方が中心で、会員も30名ほどいる大きな組織です。また、建設業に従事する人が多く、ここも立派な山小屋をもっています。「山の会」は、旧盆と正月に、津波古の山に灯りで文字をつくります。津波古の別称である馬天の「天」が真っ暗な山に浮かび上がります。ちなみに字新里では、青年会が「里」の文字をつくり、どちらも佐敷の山を照らし、とても幻想的です。
 私の父は、山の会にちょくちょく行っては、山小屋で遊んで帰ってきます。どちらの会も、会員の遊び(ゴルフや酒盛りなど)を中心にしながら、地域づくりについても夜な夜な語り明かしているようです。残念ながら私は連れて行ってもらったことがありませんが、おそらく私の同級生も加わっているかもしれません。
 公民館で集まって飲むことも多いのですが、このような秘密基地ならぬ、たまり場をもつことも、大人の楽しみ方としては、魅力的です。山小屋から見える佐敷全体の夜景は、本当にすばらしいですよ。考えてみると豊年祭にも長らく帰っていません。今回の記事で、津波古の良さを改めて発見しました。(南の風1744号 2006年11月7日)

★<八重山から山原へ> 南の風1751号(2006年11月23日)
 …(略)…
 今日(11月19日)は京都の会に出て、関西空港から夜のフライトで那覇へ。いまホテルに旅装を解いたところです。この数日、かなり厳しい日程で疲れましたが、南の島の暖かさに癒されて、ゆっくり寝ます。(南の風1750号 2006年11月20日)

 那覇に着いた夜(11月19日)は、沖縄県知事選挙・開票の真っ最中でした。出口調査で若干の優勢が伝えられていた糸数慶子候補、その勝利を期待していた支持者たちは、「仲井真当確」のテレビ報道に悲痛な思い。かっての国分寺市長選挙で、進藤文夫さんが(優勢、一部の新聞では「進藤当選」記事も)逆転で破れたあの夜、あの一瞬を思い起こしていました。
 今回の沖縄県知事選では、自民・公明の陣営に対して、いわゆる野党連立が成り、本土各地ではなかなか実現できない「革新統一」候補を思わせる布陣でした。それだけ大きな期待が・・・。
 しかし、野党連立は当然それなりの矛盾を内包。それぞれの党派の路線やしがらみあり。野党間の結束は充分でなかったのです。
 翌日(20日)は石垣へ。闘病・リハビリ中の渡慶次賢康さんとお会いし一安心。平久保で久しぶりの歌碑と「浜遊」へ。夜は市中心部にもどって「島そば一番地」の新垣重雄さん(社会大衆党もと書記長)と再会。
 21日に竹富島に渡り、上勢頭芳徳さん(喜宝院蒐集館)や前本多美子さん(学大小林ゼミ卒)と会いしました。短い時間でしたが、その後の竹富島の現況を垣間見たひととき。離島の「過疎」を乗り越え、大勢の観光客を迎えるようになり、「まちなみ保存運動」の成果は明らか。あらためて「竹富島憲章」への取り組みと「竹富公民館」の役割を思いました。
 そして名護へ。「大国林道」で昨年の福岡・油山訪問の皆さんと乾杯。22日は中村誠司さん夫妻ご案内で「美ら海水族館」(同行の沖縄初訪問メンバーの強い希望)。那覇への道は、雷鳴と豪雨(警報も出た!)のなか、怖い数時間でした。
 ぶんじんの突風(台風という人もあり)のような沖縄訪問。またしても皆様をお騒がせしました。有り難うございました。一行は沖縄を離れ、ぶんじんのみまだ那覇に残って、この「風」を吹いています。
                 ▼竹富島・喜宝院蒐集館・上勢頭芳徳さん(20061121)



★<沖縄青年運動史調査> 南の風1764号(2006年12月21日)
 中国から帰ってすぐだというのに、沖縄行き(12月23日〜26日)を予定しています。昨年に続いて、戦後沖縄の青年団運動史についての証言を収集する計画。
 ちょうど1年前、仲宗根悟さん(もと沖縄青年団協議会事務局長、その後、祖国復帰協議会事務局長)の貴重なお話を聞くことが出来ました。山城千秋さんの努力ですでにテープ起こしが済んでいます。「東アジア社会教育研究」第11号に収録する予定でしたが、残念ながら締切に間に合わず。今年もそれに引き続く企画として、東武さん(復帰当時の沖青協会長)等にも相談、復帰前の関係者にお会いして、証言記録を残していこうというわけです。
 しかし、この時期は忘年会の季節、1年納めの諸行事もあって、皆さんなかなかお忙しい様子です。すでに飛行機もホテルも予約していますし、ささやかな調査活動を継続していきたいという多少の意地もあって、(中止するのでなく)23日からの訪沖スケジュールを予定通り、と思っています。沖縄青年会館の沖青協・書庫をのぞいてみるのも楽しみ。帰路は福岡に寄って、油山へ。
 今晩の伊藤長和さんメール(上記)によれば、同じ時期にやはり沖縄訪問とのこと。まったく偶然、ご一緒に那覇ででも飲めるかな?と嬉しくなりましたが、よく読むと、ご同伴で離島への楽しい旅らしい。お邪魔虫になってはならじ。今回の沖縄行きは、山城千秋さんにお任せすることにしましょう。

★<那覇の年の瀬> 南の風1767号(2006年12月26日
 今年も残り少なくなりました。那覇の年の瀬を楽しんでいます。ホテルに帰ってパソコンをのぞいてみると、南の島にいながらにして、北からも、いろんなメールが飛び込んできます。モンゴルの旅につながる話や馬頭琴の忘年会のことなども。
 一つは8月下旬、内モンゴル旅行にご一緒にした井上孝代先生(明治学院大学)の「信濃毎日新聞」コラム記事。伊藤武彦さん(和光大学)から送っていただきました。追っかけるようにご本人からも。「内モンゴルの見渡す限りの草原」によせる印象的な一文。
 あと一つは、22日の今年最後のTOAFAEC 定例研究会の報告。モンゴルの草原で聞いた馬頭琴の響きが、私たちの研究会・忘年会でよみがえりました。広い草原を、どこまでも吹きわたる風のささやきにも似て、むせぶような旋律が脳裏から離れません。セーンジャーはじめ、トクタホなどモンゴルの皆さん、ありがとう!
 12月24日のクリスマス・イブ、外間知明さん(前沖縄青年会館理事長)からの聞き書きを終えた夜、那覇・久茂地で、山城千秋さんとゆっくり飲みました。ご存知の方も多い「苗」が日曜であいにく休み、やむなく近くの店で。妙齢の「みやらび」と二人で飲むビール、宮古島のシマ酒「菊の露」も、ことさらの味わい。
 25日は(東武さんからお誘いの電話もかかってきましたが)まったくの休日にしました。那覇の市場の横丁をぶらぶら一人歩き。まだあたたかいサンターアンダギーを頬張りながら、今年の仕事はこれで終わりにしよう、とつぶやいて・・・充実感と開放感。26日は福岡へ。
*いま那覇のNHK・TV(総合)では、沖縄在来の黒豚と島袋正敏さんが登場しています。
外間知明さん(20061224)




4,2007年2月〜 沖縄訪問、竹富島、戦後青年運動史聞き取り(南の風・記事)   

★<2月の沖縄調査計画 > 1787号(2007年2月5日
 風1776号(1月14日号)に書いた通り、2月8日から14日まで沖縄調査を計画しています。日程が近づいて、この数日は訪問先の竹富島関連の文献を調べたり、最近入手した写真集(「うつぐみの心・竹富島」大塚勝久)や DVD(「沖縄・竹富島の豊年祭と御嶽」益田兼房)などを楽しんだりしています。
 風1769号(2006年12月30日、昨年の最終号)「風の積み残し」で、新年早々にも・・と予告した「竹富島憲章」等のご紹介は、1月の「風」記事が案外と忙しく、まだ掲載できていません。「竹富島憲章」そのものは、すでに全文をHPにアップしておきました。「憲章」への関心は、昨年11月の千葉県公民館研究大会の際に出されたもの。あらためて、沖縄公民館研究として、少し詳細な記録を調べておきたいと思ったのです。このことはいずれ書くことにいたします。予告ばかり?と言われそうですが、お許し下さい。
 沖縄行きのあと一つの目的は、一昨年から山城千秋さんなどと動いている「沖縄青年運動史研究」としての証言聞き書き活動です。中頭を中心に、復帰運動等に関わった当時の活動家層に会ってきました。すでに年齢的には長老なのに、皆さん忙しく、当方の訪問日程となかなか合致しません。さきほど山城さんからメール来信(有り難う!)、平田嗣功さん(沖縄県青年館理事長)が会ってくださるとのこと、どうぞよろしくお願いして下さい。2月12日(月)ご指定の時間(午後2時あたり)に参上しますと。当日は休日ですが、会館は大丈夫でしょうか。念のため、平田嗣功さんのケイタイを教えておいて下さい。
 なお、13日(火)は夕刻から夜にかけて、山内徳信さん(元読谷村長、県収入役)にお会いできそうです。

★<那覇の港にザトウクジラ>1789号【2007年2月9日】
 …(略)…
 今日(8日)那覇に着きました。琉球新報 の記事(2007 2/7 16:00)に驚きました。「ザトウクジラ 那覇港沖でのんびり!」と。
 「6日午後、那覇港沖に親子とみられるザトウクジラ2頭が現れ、交互にジャンプする仲むつまじい様子が目撃された。同港沖防波堤近くまで接近し、しぶきを上げる姿が同市天久の琉球新報社からも確認された。漁師の赤嶺政広さん(46)は、これほど近づくのはまれ。自分は初めて見た、と話した。ザトウクジラは5日も同港沖で、4日は空港沖でも目撃された。(後略)」
 以前からこの時期に那覇沖で目にし「3月いっぱいは姿が見られるだろう」とのこと。天気もよいし、港の高台に行ってみようかと誘惑にかられましたが、辛抱して、沖縄県立図書書館へ。竹富島の文献探索に。明日(9日)、竹富島に渡ります。竹富調査記録→こちら■

★<沖縄青年運動を担った群像>1791号【2007年2月15日】
 今回の沖縄調査行の第2のテーマは、戦後の地域青年運動を担った方々の証言収集。2月12日〜13日は、那覇市と沖縄市を歩き、次の3人の方から、興味深いお話を聞きました。戦後復興期から復帰運動にかけての燃えるような時期の群像たち。皆さん今なお若々しく、それぞれの貴重な証言から教えられるところがありました。
 お一人は、平田嗣功さん(1962〜63年当時の沖縄県青年団協議会事務局長、現沖縄県青年会館理事長)、そして富田哲さん(1950年代前半の竹富島青年会→竹富町連合青年会の結成、教師、元那覇市教職員組合委員長)、最終日は山内徳信さん(1958年より読谷村青年会活動、その後読谷村長、沖縄県出納長)。このような“群像”の証言を集めていけば、貴重な歴史を再生し復元させていく作業につながりましょう。2月欄に写真を数枚アップ、ご覧下さい。 
 山内徳信さんは、ご存知のように次の参議院選挙への出馬を決意。13日夜、沖縄市内で「山内徳信さんを励ます中頭OBの集い」が開かれ、インタビューは、その直前の忙しい時間を割いていただき行われたものです。新垣重雄さん(元社会大衆党書記長)と石垣で会ってきた話もしておきました。
 集いは参会者150名をこえる盛大な激励会となり、中頭青年活動のかっての主要メンバーがみな集まっていたような感じ。東武さん(1975年当時の沖青協会長)に紹介してもらって、ぶんじんも(候補者のように)名刺を配って歩きました。会場では伊波洋一さん(宜野湾市長)や久しぶりに福地昿昭さん(沖縄戦記録フイルム1フィート運動の会代表)の顔も。ぶんじんは「神出鬼没、幽霊のようだ」と福地さん。
 おわって大嶺自吉さん(元具志川市教育長、『おきなわの社会教育』共同執筆者)や田場盛順さん(復帰当時の沖青協会長)、玉那覇正幸さん(宜野湾市立図書館長)たちに“拉致”されて、具志川の酒場へ。そこに宮城英次さん(もと沖縄県教委社会教育主事・青年担当、現うるま市史編さん委員会委員長)も自宅から顔を出され、30年前の回想など。ぶんじんにとっては沖縄研究の同窓会のような一夜となりました。

平田嗣功氏(沖縄県青年会館理事長)安谷屋孝勇氏(常務理事)12日


山内徳信さんを励ます中頭OBの集い(沖縄市「かりゆし園」20070213)



5,2007年4月〜 竹富・那覇へ

★<『沖縄社会教育史料』(ぶ)> 南の風1802号(2007年3月6日
 かって東京学芸大学・社会教育研究室を拠点に活動してきた沖縄社会教育研究会では、戦後アメリカ占領下の社会教育・文化についての稀少資料や証言を収集・編集して、7冊の『沖縄社会教育史料」を刊行してきました(1977年〜1987年)。第1集から数えると、すでに30年が経過。証言集に登場されている方々も大半は物故者となられ、いまや貴重な『史料』となりました。
 その後(1995年以降)、この沖縄・研究会は、東アジア社会教育研究会となり、沖縄『史料』が基礎となって『東アジア社会教育研究』の編集・刊行(今年・第12号予定)へと発展してきたのです。
 『沖縄社会教育史料』の第1集(特集・戦後沖縄社会法制、1977年)と第3集(戦後社会教育史・証言集、1979年)はいま保存分のみ、他の5冊はまだ在庫あり(各1200円)。HPにも「頒布資料」ページに写真入りで掲げています。ところが、ぶんじん“風の部屋”には今まったく在庫がありません。
 実は先月の沖縄訪問中、具志川の宮城英次さん(現うるま市史編さん委員会委員長、同市社会教育委員会議長)にお会いした折り、1セット揃えて送ってほしい、と依頼されました。宮城英次さんは、『沖縄社会教育史料』発刊当時の沖縄県教育庁・社会教育主事、史料収集にあたっての恩人。旧「おきなわ社会教育研究会」(那覇)からお手元に届いているものとばかり思っていましたので、恐縮してしまいました。事務局で対応をお願いできるでしょうか。

★<那覇から東京へ>  南の風1825号(2007年4月22日)
 竹富から那覇に戻って、20日には長嶺徳助氏(沖縄県青年団協議会第18代会長、糸満市在住)を訪問。青年団リーダーとして激烈な復帰闘争を担った当時の興味深いお話を聞きました。ご案内は、安谷屋孝勇さん(沖縄青年会館・常務理事)。往復の車中は、いろいろ積もる話も。(以下、略)
 長嶺徳助さん(糸満市武富の自宅)



6,2007年6月−那覇・名護・竹富

★<名護そして竹富への旅計画> 南の風1842号(2007年5月22日)
 2002年夏の社会教育研究全国集会(名護集会)から早いもので5年が経ちます。あのとき名護実行委員会事務局で奮闘した岸本力さんが晴れて結婚の慶事。彼はその後、沖縄伝統の三線の道に精進し、私たちの名護訪問の折には、いつも駆けつけてサンシンを弾いてくれる仲となりました。お祝いの会(6月30日夜、名護)に出席する予定にしています。
 昨日、島袋正敏さんと久しぶりの電話。その翌日(7月1日)に、新博物館長(島福善弘さん)を囲みつつ名護の皆さんと旧交を温める会を開こうということになりました。先日の風に島福さんが書いているように(1834号「アカショウビンがさえずるヤンバル」)、とりたてのウニと古酒で、歓迎して頂けるとのこと。
 島福さんは名護・源河の人、「源河川に琉球アユを呼び戻す運動」の中心人物の一人です。最近の動きを含めて「琉球アユ」の話をじっくり聞きたいとお願いしていますが、辺野古(文化財調査)問題その他で多忙、今回は見送ることになりました。
 かねて沖縄訪問に関心をもっておられる方々、もしご都合がつけば、この機会にご一緒しませんか?今だとまだ比較的に安い航空券が入手できるようです。小生の分は、上記の日程が確定しましたので、先ほど予約しました。ご参考までに今HPにアップしたところ(→)。
 なお7月2日からは八重山に飛んで、竹富に二日ほど滞在します。これも楽しい旅になりそう。帰京は5日の予定です。もし竹富島にも同行のご希望があれば、もちろん歓迎です。

◆<那覇にて> 南の風1865号【2007年6月30日】
 2ヶ月ぶりの那覇。今回は、那覇→名護→竹富のゴールデンコースです。妻の怪我がなければ、“二人づれ”のはずでしたが、残念ながら1席をキャンセルし、結果としては自由気ままな一人旅。名護あたりで誰かと合流することになるのかも? まだ詳細分からず。
 最近いつも那覇は素通りの感じでしたが、今晩(29日夜)はかっての「おきなわ社会教育研究会」メンバーとゆっくり語りあいました。皆さんが東京の病室にこもごもお見舞いの電話をしていただきました。有り難うございました。上原美智子さんからパッション・フルーツを拝受。
 指を折って数えると、今年は那覇の研究会発足からちょうど30年の年。懐かしの「久茂地文庫」誕生から31年目(東京の研究会と同じ)。昔みんな若かった(あたり前!)、東京−那覇と協力しあって『沖縄社会教育史料』(全7冊)をよく刊行したものだ、今年なにか記念の企画をしてはどうか、などなど。
 いくつもの新しいニュースがありました。当時の「沖縄調査」現地事務局長格だった名城(旧姓・当間)ふじ子さんがこの3月で那覇市役所を退職。玉那覇正幸さん(宜野湾市立図書館長)は別にして、あの頃の主要メンバーはすべて現職を退いたことになります。平良研一さん(沖縄大学)も今や名誉教授、しかしまだ週2回ほど講義をもっているそうです。それぞれに皆さんお元気。今年の秋にでも、上海と烟台日本語学校を訪ねる「中国の旅」構想も。新城捷也さん(もと沖縄県教委・社会教育主事)や佐久本全さん(もと那覇市中央図書館長)も乗り気です。
 喜納勝代さん(歌人、久茂地文庫主宰)たちが編集された話題の「子どもにおくる本ー沖縄は戦場だった」(らくだ社、今年5月出版)をいただきました。執筆者は約180人。新城捷也さんは首里の自宅から米軍の不発弾が出てきたこと、喜納勝代さんは「闇夜を歩く」などを書いておられます。喜納さんの“いのち”と題する歌一首。
◇道端に死体が並ぶ沖縄戦 いのちは軽し降る雨よりも
       左より喜納勝代、佐久本全、小林、玉那覇正幸(後列)、平良研一、新城捷也、
               名城ふじ子、上原美智子の皆さん(那覇市久米にて、20070629)



◆<名護との出会い> 南の風1866号【2007年7月2日】
 梅雨の東京から、2時間飛んだだけで天地は一転、いま沖縄は紺碧の空、湧きのぼる白雲。もちろん暑い暑い夏の日射しですが、風吹き通る木陰の涼しさはまた格別、よみがえる思いです。
 2002年に開かれた名護・社会教育研究全国集会で事務局として頑張った岸本力くん、6月30日にめでたく結婚披露宴。盛大で楽しいひとときでした。交流を重ねてきた(ほぼ四半世紀余りの)名護の友人の皆さんがみんな集まったような大ホールの賑わい。あらためて名護との出会いをしみじみと想いおこしています。
 7月1日は島袋正敏さん(名護“ものづくり塾”塾長、TOAFAEC 副代表)の車で、やんばるを駆けめぐり。夜は博物館の中庭で、稲嶺進さん(教育長)はじめ、社会教育・文化財そして博物館担当の諸氏に囲まれての歓迎会。宴も終わりの頃には待ちかねた月も昇って、さやかに輝きわたりました。久しぶりの宮城満さん(もと社会教育課、市立図書館)、そしてもちろん中村誠司さん(名桜大学)も。
 この夜、社会教育研究全国集会の話題がいくつも出ました。ぶんじんと稲嶺進さんとの出会いは、埼玉県富士見市で開催された第22回集会(1982年)だったこと。いま名護市教育委員会(文化財担当)で働いている岸本卓巳くんは、名護・全国集会に参加した福島大学々生(旧姓・鈴木久美子さん)と紆余曲折を経て結ばれたこと。その経過は満座の喝采をあびました。終了間際に久美子さん本人も登場。聞けば浅野かおる先生の学生だったそうです。
 ぶんじんのカジマヤ(風車、97才の祝い)を名護でやろう、という途方もない話が酒の座のつまみに出ました。あと20数年先のこと。話だけで酔いがまわりましたが、「毎年、予行練習の宴をしよう!」と応じておきました。
 いま2日朝、これから竹富島へ。名護の皆様、お世話になりました。有り難うございました。
 ▼月ものぼる、名護博物館・中庭にて(20070701)



◆<島にパソコン  南の風1867号【2007年7月3日】
 2日午後、竹富島に到着。はじめてパソコンを持参しました。これまではメール送受信の見通しがなく、またせっかくの島フィールド・サーベイにパソコンを扱う時間などもったいない!と思って、那覇のホテルに残してきたものです。
 しかし今回日程は、ちょうど編集中の「東アジア社会教育研究」12号・原稿締め切り期限と重なっています。前本多美子さん(竹富島)からの連絡(パソコンは「…民宿では無理かもしれません、いらしてから考えましょう、何とかなると思います」)に力を得て、海を渡ってきたのです。
 6月30日締め切りまでに原稿を送っていただいた鷲尾真由美さんや山城千秋さん、中村誠司さん(定広由起さん原稿)、鄭任智さん、またこの間に連絡いただいた呉迪さん、黄丹青さん(呉遵民氏関連)、呉遵民さんご本人、内田純一さん、上野景三さん、そして“韓国小特集”を担当していただいている小田切督剛さん、ご協力とご配慮、皆さん有り難うございます。
 年報編集局は、いま海を渡って、竹富島の一角で機能中。こちらに来たのも「竹富島憲章と公民館」対談記録を最終調整するため。眼前の八重山の海を見ながら、はるか遠く東アジアの動きに思いをはせつつ、「研究」誌を編集できる時代の面白さを実感しています。
 と言っても、この「風」を今から発信し、いただいているメール・原稿を受信しなければなりません。うまくいくかどうか。まずは港の横のNPO法人「たきどぅん」に駆け込んで、協力をお願いするつもりです。この風がお手元にとどいたら、ひそかに南の潮の香りを味わってやって下さい。

◆<石垣から那覇へ> 南の風1868号【2007年7月5日】
 2日間の竹富島日程を終え、石垣を経て那覇に無事たどり着きました。晴天の暑い毎日、しかし島にはいつも風があり、とくに陽が落ちれば涼しく、体もなれて、そう苦にはならず。上勢頭芳徳さん(蒐集館長)や前本多美子さん、それに阿佐伊孫良さんはじめNPOの皆さんにたいへんお世話になりました。感謝!
 昨日(4日)の日誌。石垣への船に乗る前に「ゆがふ館」に寄り、前夜の「島だて学校」(終了後のビールの)席上、皆さんから強く勧められたNPO“たきどぅん”への入会手続き。「ゆがふ館」はいい施設です。環境庁制作のDVDが10本近くあり、なかなかの出来映え。とくに「うつぐみの島」(約1時間)は秀作、「竹富公民館活動の活動」は約10分の短編。思わず見入って、船に乗るのが予定より1時間近く遅れてしまいました。
 石垣では渡慶次賢康さんから連絡していただいた大浜中学校へ。宮良純一郎校長と5年ぶり?の再会でした。お父上の宮良保全翁「遺稿集−与那国島の民謡とくらし」(今年1月刊)を頂きました。この本が八重山毎日新聞社説に取り上げられたことは「風」1854号(6月13日)本欄でご紹介した通り。
 そのあとは、石垣市役所前の「島そば一番地」へ。新垣重雄さんの店。そばの味が一段と美味しい。いま石垣島をめぐる乱開発の動き、「緊急、島の未来シンポジウム」(6月24日)等の話を聞きました。盛大な会だったようです。当日パンフには本格的な「基調報告」「宣言」なども。石垣市「憲法九条の碑」「マラリヤ受難碑」等を案内して頂きました。
 同じそば屋2階に宮良操さん(石垣市議)も来てくれました。白保の「ゆらてぃく憲章」(4月)づくりの詳しい資料を持参いただき、「白保村づくり七箇条」を初めて読みました。興味深い。これらの石垣の動き、「緊急、島の未来シンポ」や「ゆらてぃく憲章」など、できれば風に紹介させてほしいとお願いしてきました。
 5日ぶりの那覇の夜。街にたちこめる昼間の熱気、夜になってもあまり風がない。竹富島で風に吹かれて飲んだビール(芳徳さんにご馳走になった)を想いおこしています。
石垣市「九条の碑」ー平和の鳩(前)を憲法九条の碑(後ろ)が支えている。
 石は9トン。背景の赤瓦は石垣市立図書館(石垣市新栄公園、20070703)



7,南の風・沖縄関連記事

◆<やんばるの島酒運動> 南の風1926号【2007年10月6日】
 今年の日本社会教育学会(第54回、東京)では、山城千秋さん(熊本大学)の「ブラジルにおける沖縄移民社会の形成と文化伝承の構図」発表が注目されました。大会二日目夜の懇親会、ビールの席(酒のつまみ?)で話題となり、乾杯しようと会場で本人をさがしましたが、惜しくも不在。本号にはサンパウロの現地から「ブラジル移民青年隊50周年」に参加した山城さんからのメール。遠いブラジルからの風、有り難う! そのうちまた話を聞かせて下さい。沖縄青年運動証言調査の相談もしましょう。 
 相次いで、久しぶりに名護から「島酒通信」21号が届きました。島袋正敏さんたちが「山原(やんばる)島酒之会」を始めたのは、多分1998年か。「山原のすべての家庭の床の間に古酒(甕)を!」のメッセージが秀逸でした。単なる飲ん兵衛の会と思いきや、むしろ子孫に古酒を残していこうとする地域文化運動の取り組み。ぶんじんも(住所不定の故をもって)特別に会員の末席に名をつらねる光栄に。風の部屋に古酒のカメを三つを備えて、「仕次ぎ」(新しい島酒を古いカメに仕込む)の妙味もおぼえました。こんど正敏さんなど「山原島酒之会」の誰かが上京する折りに、風の部屋で「仕次ぎ」をしようと待ち構えています。
 「南の風」発行が千号の大台にのったとき(2003年2月)、お祝いのようなかたちで、「島酒通信」を送っていただくようになりました。当時の正敏さんは、名護市図書館長から市教委・教育次長に移られた頃か。想い出せば、2002年には名護・全国集会が開催され、私たちの輝く名著(自画自賛!)「おきなわの社会教育」(小林・島袋共編、エイデル研究所)が出版されたのでした。もう5年が経過したことになります。久しぶりの「島酒通信」、またこれからが楽しみ。ときに島酒文化の香りを送って下さい。
 南の風には最近ご参加の新しいメンバーもあり、回想を含めてご紹介に及びました。
島袋正敏さん・「仕次ぎ」(風の部屋、20040713)



◆<古宇利島・ホテル建設計画に反対-12月16日・ふいの島日誌
                   
南の風1959号【2007年12月17日】

 本欄のライバルに沖縄(今帰仁村)古宇利島(ふいの島)の「区長日誌」があります。小浜美千子さんが古宇利島区長として連日の書き込み。自由闊達でいつも元気をもらいます・・・と中村誠司さん(名桜大学)に紹介され愛読してきました。当方は毎日とはいきません、せめて隔日の「ぶんじん日誌」送信で、これに“対抗”してきたつもり。
 古宇利島は今帰仁村の沖にぽっかり浮かぶ円い美しい島です。島の人は「人類発祥の地、神の島」と称えるほど。人口わずか350人。そこに大きな橋がかかって、にわかにリゾート化の波が押し寄せました。小さな平らな島に約6万坪・500席の高層ホテル建設計画が持ち込まれたのです。
 小浜さんの日誌は、ここ数日、緊迫していました。14日(金)の日誌「…今日、ホテル側は賃借料の坪単価@を倍にあげて提示してきた。‥本当はそういうことではない、と思うんだよね。自分が戸主の時に、島を売るような恥ずかしさを子や孫に示したくない、そんな気持ちの人が大半なのではないか、と私は思っている。」「総会で、開けてびっくり、ホテル賛成!だったら、私はハンコは押したくないから、即、区長は辞任したいよ(^。^)。札束で人のホッペタをたたく、それは人として恥ずかしいことだと思うのだが、それにあやかる行政にとっても、人にとってもお金の力はとてつもなく大きいようだ^_^;。」。
 そして昨日16日の区総会で、「
ホテル建設計画は全会一致で建設反対、区有地は貸さないことに決まりました」と。17日「琉球新報」朝刊の通り。この夜の小浜さんの日誌書き込みを読んで、胸にジンとくるものがありました。さすが「神の島」の皆さん、人の世の賢さも教えてくれた!
 昨夜の書き込み、すこし最後の部分を引用させていただきます。ちなみに小浜美千子さんは佐渡のご出身、つまりヤマトンチュなのです。
 「…“あの大きなホテルはネ、ヤマトウの区長の時にOKしたんだよ”なーんてサ、後々まで言われたら、息子たちに対して自分がいかにも恥ずかしいじゃあないの。私は総会で賛成と出ても、区長印を押す気はなかった。貧しても、ドンしたら、いけない。お金で寝返ってはいけない。何らかのトップにある人は、ことにそうだよ。自分に恥ずかしいことをしてはいけない。
 区総会が終わり,…どこかで海人たちは万歳三唱\(^o^)/だったようだ。私は今からの村の締め付けが無ければいいなぁ、と先が恐ろしい気分なのにネ。アハハ(-_-;)。…
 ご心配いただいた古宇利島ファンのみなさまへ、
総会は“現時点で”賢明な選択をしてくれたこと、ご報告まで。先のことは、子や孫に託す、という島人の総意です。」(16日・ふいの島日誌)
古宇利島、右側に架橋中の大橋(20040128)
 



8,2007年12月 那覇・名護訪問

<おきなわ社会教育研究会 南の風1963号【2007年12月25日】

 東京(学芸大学)で「沖縄社会教育研究会」を立ち上げたのは1976年でした。もちろん戦後初めてのこと。“南方作戦”(小川利夫さん)などと命名?されて、注目していただいた向きも。研究会の名称には、当初「戦後・・・」がくっついていたのが、そのうちにとれてしまいました。研究会発行『沖縄社会教育史料』全7巻の図書館受け入れやデータベース作成等の際、二つの名前が混同して迷惑をかけています。申し訳ない。
 さて本題。東京に伍して、翌1977年に那覇で「おきなわ社会教育研究会」が誕生。ひらがなの「おきなわ・・・研究会」というところがミソ。東京の研究会とは違うぞ、というメッセージです。今年でちょうど30年が経過したことになります。
 「おきなわ社会教育研究会」に集う面々は、当時はもちろん若者。その後それぞれに年輪を重ねて、ある人は図書館長に、あるいは大学教員、また社会教育から離れて福祉など他部局へ。いまも変わらず女流歌人もあり。そして多くは定年退職を迎える時代となりました。病に倒れた方もありますが、恢復されてきわめて元気。24日夜、那覇の沖縄県青年会館に集まって一同会食し、そこから流れて、二次会で皆さんと賑やかに飲みました。高知の内田純一さんも一緒でした。
 別れぎわ、やや酔って「おきなわ社会教育研究会は、いま生きているのですか?」と失礼な質問をぶっつけてみました。「風」では「旧」研究会と書いたこともあるからです。その答えは「もちろん!生きているさ!」とのこと。ただし「休」研究会かも、という笑い話に。
 3月に上海・華東師範大学・教授グループ(8人)による沖縄訪問の動きもあり、「おきなわ社会教育研究会」再生に向けての話も出て、嬉しい一夜となりました。
 おきなわ社会教育研究会(20071224、沖縄県青年会館)



<名護そして那覇へ 沖縄の怒り南の風1964号【2007年12月27日】

 12月25日の記録。内田純一さん運転のレンタカーに久しぶりに乗せてもらって、小林夫妻は名護へ北上しました。その途中に何カ所かの懐かしの場所へ。かって小林ゼミの沖縄フィールドワークではよく訪れたところです。
 まず宜野湾の佐喜真美術館へ。あいにくの休館日。館主に会えないまま、勝手に屋上にのぼって、普天間基地と遠く東シナ海を望んだひととき。車は読谷村へ。残波岬から波平を通って「象のオリ」跡地。驚くほどの空き地になっていました。「…跡地茫漠なよなよと稚なきサトウキビ…」と詠まれた情景(12/24、朝日歌壇)。そして大添(字)公民館へ。快活な館長さんが「久しぶり・・・ブンゾウ先生!」と迎えてくれました。「文人」と小林「平造」がごっちゃになっていて、複雑な思い。
 夜の名護は「大国林道」での歓迎会。卓上に並んでいたのは「クリスマスケーキ」ならぬ採れたての島タコ。司会は久しぶり宮城満さんの独壇場。3月下旬・訪沖予定の華東師範大学(上海)教授グループの受け入れのお願い(小林)、内田さん教授昇進の乾杯、来年夏にシーカヤックで再び海に出る計画、正敏さん旧宅跡での沢藤まつり案、名護から足摺岬への船旅計画などなど。酔いがさめてみると、かなり混乱気味の話が並びますが、念のため記録しておくことにします。
 26日(朝早く名護を発った内田さんと別れて)、ゆっくり那覇へ。驚いたことに那覇の街頭では、沖縄タイムス・琉球新報の両新聞「号外」が舞っていました(上記)。高校歴史教科書の沖縄戦「集団自決」の記述問題で、「検定意見の撤回」決議(沖縄県民大会、9月29日)が実現せず。「軍が強制」記述は認められない、検定意見「今後も有効」との記事。本土側報道との落差は大きく、沖縄ジャーナリズムの怒りを実感しました。

島袋正敏さん(左)と山城秀夫さん(大国林道) 20071225



「ギャラリーみんたまあ」−新しいカレンダー
              南の風
1965号【2007年12月29日】


 名護博物館(もと市役所)の真向かいに「ギャラリーみんたまあ」が活動を始めています。“みんたまあ”は沖縄方言で「目玉」のこと。やんばるの文化創造の拠点をつくろうと島袋正敏さん(もと博物館長)たちが始めた新しい仲間(もと高校教師、写真家、グラフイックデザイナー、鍛金作家など)による民間の文化公共空間。那覇へ帰る道、わずかの時間ながら寄ってみたところ、すでに本格的なギャラリーの風格でした。ギャラリー・オープンの洒落たちらし。その“みんたまあ宣言”が、当方の「めんたま」(九州方言)飛び込んできました。
 
 四季に彩られるヤンバルの時の流れは、
 多くの個性的な生き物たちを育み、
 さまざまなドラマを生んできました。
 その中で豊かな文化を育み、
 残してきたヤンバルの先人たち。
 しかし、現在。
 利便性が強調された都市化への流れは、
 このヤンバルを無機質なものにしようとしています。
 『ギャラリーみんたまあ』は、
 母なるヤンバルの地から生み出される
 人・モノ・文化を掘り起こし、
 活動を展開、発信し続けていく場所です。
 “みんたまあ”を大きく据え、
 新たな可能性を求めて、今、歩み始めます。

 正敏さんは不在でした。前田勇憲さん(グラフイックデザイナー)がいて、彼のデザインになる小橋川共男・写真2008カレンダー「ニライカナイの海」を入手できました。1部2000円。いい出来映え。帰って早速、書斎のヤンバル地図の横に、このカレンダーを飾りました。新しい年を迎えるために。



9,2008年3月 上海・華東師範大学・沖縄訪問記録→■



102008年7月 名護との交流と竹富
西塘大祭

■<塀を乗り越えて、沖縄訪問へ> 南の風2057号【2008年7月5日】 
 3日夜から4日朝、合宿て韓国向け出版の編集会議。翌朝5時までの熱のこもった論議・検討。ぶんじんは4日朝からの先約があり、申しわけないのですが、3日夜遅く失礼しました。
 合宿の川崎市「青少年の家」(宿泊施設)、伊藤長和さんが送りに出ていただきました。ところがすでに閉門。管理の方に入り口は開けてもらったものの、その先の門扉は閉まったまま。「越えましょう」と伊藤さん、ひらりと塀の外へ。そのあと・・・後期高齢者は、ひらり、というわけにはいかず、四苦八苦、思わず足腰の衰えを実感する機会に。
 しかし、なんとか抜け出すことができて、まだ大丈夫だ、と妙な自信をもちました。若い世代には負けるけれど、塀をまたぎ、壁を越えながら、まだ人生は続くのだ、などと大げさに納得した次第。
 5日から沖縄です。山城千秋さん(熊本大学)の橋わたしがあり、沖縄県青年会館常務理事・安谷屋幸勇さんと電話で相談。復帰運動下・青年団運動を担った人たちに連絡をとっていただき、3人の方の証言を聞くことが出来そうです。
 少し余白?がありますので、スケジュールを記しておきます。どなたか突然に現れそうな予感もあり、ご参考までに。
 7月5日(土)東京→那覇
   6日(日)那覇→名護(底仁屋・御神松の下で交流会、16:00〜)
   7日(月)沖縄青年団運動史・聞き取り(渡具知祐徳氏予定)
   8日(火)名護→那覇、同(午後・比嘉正儀氏予定)
   9日(水)同(午前・伊礼清助氏予定)
  10日(木)那覇→石垣→竹富島へ
  11日(金)竹富島・公民館資料調査、西塘大祭・夜ごもり
  12日(土)午前・西塘大祭、午後・石垣へ→那覇
  13日(日)那覇→東京へ

■<やんばるの夜> 南の風2059号【2008年7月8日】
 本号はじめて農中さん親子のメールを並べることが出来ました。画期的!というべき。まず上野英信の軌跡を綴った「闇こそ砦」(川原一之)の紹介文が着信(至くん・上掲)。かって筑豊で上野英信さん家族や川原さんと交流があった頃の回想(茂徳さん)をリクエストしたのです。
 至くんへ「 … 川原一之さんのこと、お父さんから何度も聞きました。ちょっと回想を書いて(10行でも20行でも)南の風に送ってくれないかなぁ・・・、無理だろうね・・・」と。そして、折り返しの返信が来たという次第。
 名護・屋部(「眉屋私記」の舞台)の比嘉久さん(名護市教育委員会)に早速「闇こそ砦」のこと、話しておきました。川原一之氏のことはよく知っている人のようでした。
 比嘉久さんたちと会ったのは、6日午後から夜にかけて、名護・底仁屋・島袋正敏さん「サガリバナ(澤藤)」の敷地での交流会。有名な御神松(ウカミマチ)の下、新しく建築予定の別邸は「松風庵」と名付けるそうです。集まった人、およそ60人。8日に退任が予定されている稲嶺進教育長をはじめ、博物館、島酒之会、ぎゃらりー「みんたまあ」、大国林道等のメンバ−。それに近所の方たち、遠くからは読谷(比嘉豊光さん)、沖縄市(小橋川共男さん)、それに東京(ぶんじん)など。中村誠司さん・正敏さんも並んで5人の写真(下掲)。
 日が入る頃から咲き始めるサガリバナ(名護市花)の幽玄さ、その甘い芳香を初めて知りました(上掲・写真)。空に三日月(星もきれいだった!)、この日に合わせて完成した等身大のシーサー2体(小さい方をHP表紙へ)、横に流れるせせらぎ、点滅する蛍たち、鍋には山羊、そしてオリオンビールと島酒。

左より、小橋川共男、小林、島袋正敏、中村誠司、比嘉豊光の皆さん(名護・底仁屋、20090706)
 
写真こちら■

■<楽しい午後のお裾分け> 南の風2060号【2008年7月10日】
 6日夜の名護の交流会、参加メンバーの皆さんは3月下旬・上海訪沖団を歓迎していただいた方々です。博物館中庭での盛大な集い、一緒に舞ったカチャシーなど思い出し、あらためての御礼を申しあげました。「心はひとつ」と日・中・韓で肩を組み合った大国林道の宴席も懐かしく、思い出話いろいろ。
 7日午後は、山城秀夫さん(大国林道)夫妻の車で、まず古我知焼の窯元へ。3月には上海の皆さんに差し上げた小さな記念の皿を、今回は7月22日(予定)黄宗建先生追悼・献杯用の杯10ヶを、特別の値段で頒けていただきました。下旬の韓国行きに持っていきます。小品ながらいい作品。お楽しみに。
 そのあとが楽しいエクスカーションでした。まず屋我地島・運天原の船だまりに繋留されている山城所有「シーマン2号」とはじめて対面。遠く太平洋にも出漁する大きな船です。そのうち乗せてもらいたいもの。山城別邸(予定地)で一やすみ。古宇利大橋をのぞむ海辺の一角、巨岩も含んでかなりの面積。聞けば別に製材工場や(自慢の琉球松等の)貯木池を所有し、蛍も乱舞しているとか。山城夫妻は大きな夢を楽しんでいる様子、5年後?が期待されます。
 さらに古宇利島に足をのばして、解禁されたウニのどんぶりに舌鼓をうちました。ご馳走さま。帰路は多野岳(383m)に登り、古宇利島を遠望(写真)。夜は大国林道でなが〜い島酒。正敏さんの迫真のハブの話など聞き、時を忘れ、山田荘に帰ったのは12時をまわっていました。以上、やんばるの楽しい1日をお裾分けしたつもり。

▼名護・多野岳(383m)より古宇利島を望む、遠くに伊是名・伊平屋の島々(080707)・・写真移動
 
 
■<竹富島から帰って> 南の風2061号【2008年7月13日】
 いま那覇にたどりついて、3日ぶりのパソコンを開き、この日誌を書いています。毎日の暑さ、しかし心地よい(とくに竹富の)海からの風。猛暑の日本各地よりも、夏は沖縄の方が過ごし安く、快適?と思うほど。
 前号までの本欄記録は、7日の名護で終わっていました。その後、毎日お一人のリズムで、沖縄青年団運動の“長老”たちとお会いしてきました。お一人は渡具知祐徳氏(沖縄県青年団協議会・第8代会長、のち名護市長4期)、そして伊礼清助氏(同第11代会長、佐敷町議長など)、比嘉正儀氏(同第16〜17代会長、北中城村議会議長など)。案内役は安谷屋幸勇さん(沖縄県青年会館・常務理事)。それぞれの静かな語り口のなか、かってのアメリカ占領下の激しい状況、地域と取り組んできた情熱がにじんできて、貴重な証言収集のひととき。
 これらを本欄に書く余裕もないまま、10日より竹富島に渡っていました。4ヶ月半ぶり。ちょうど西塘大祭(西塘ばんはじり)に合わせての訪問です。阿佐伊拓さん(NPO たきどぅん)の誘いによるもの。神司の方々の「ゆんぐもり(夜籠もり)」、公民館執行部と集落長老による各御嶽(おん)での礼拝。翌早朝(6時)からの行事にも、ぶんじんとしては珍しく早起き、見学させていただきました。
 あわせて、はじめて公民館所蔵の歴史資料を拝見、また「公民館議会」についての聞き取りなど、収穫の多い旅。宇根勝末・公民館長をはじめ、阿佐伊孫良、上勢頭芳徳、前本多美子などの皆さん、泊まった内盛荘の方々にもお世話になりました。
 竹富島には、予感?通り、桑原重美さん(元NHKカメラマン)が登場。軽いフットワークは、今やぶんじんのライバルです。帰路は二人で石垣「島そば一番地」(新垣重雄さん経営)で美味しいソバとビール。皆さま、今回もまたお世話になりました。有り難うございました。
▼真知御嶽(まーちおん、20080712)写真・略
 

■<島に沈む落日> 南の風2062号【2008年7月15日】
 まず訂正。前号本欄で三つの間違いあり、申しわけありません。一つは「西塘大祭」、西「糖」と誤記していました。二つめは「渡具知裕徳氏」、渡具「地」と、また「御嶽」は御「獄」と、漢字一文字を間違っていました。読み直して恐縮しています。那覇のホテルで急いで書いて(出発に追われ)そのまま送信、こんなミスが出たのです。(上掲・2061号日誌は訂正すみ)
 …(略)
 今回の沖縄調査では、ご紹介したいこと、お裾分けしたい資料などがたくさんあります。風には案外とスペースがなく、HPに収録するようにいたしましょう。それでも入力がたいへんですが・・・。
 HPにはまず写真を5枚ほど掲載しています。なかでも竹富島で7月11日夕に撮った「西表島に沈む落日」(表紙写真)。たまたま上勢頭芳徳さんたちと偶然に浜に出たときのものです。日の入りの、太陽という神のもつ言い知れぬメッセージ。あくせくと仕事に追われ、人とメールに疲れたときなど、HPを開いて、心を洗ってみたいと思いました。


102008年11月 妻籠宿と竹富島 
          南の風2126号【2008年11月15日】

 小田切督剛さん(川崎市高津区市民館)が、韓国富川の市民賞・特別賞を受賞されたそうです(上掲・浅野メール)。海を越えて舞い込んだビッグニュース。(中略)
 昨日はまた信州・妻籠からのニュースも。南木曾町の公民館長・清水醇さんからメールをいただきました。「11月23日(日)妻籠宿・文化文政風俗絵巻之行列」に竹富島の皆さんがお出でになるそうです。これを迎えて前日22日に歓迎・懇親会の予定。「…竹富島からの参加者の中に先生のお知り合いがいるのではないかと密かに期待しています。」
 ご承知のように、妻籠宿と竹富島は、山と海の違いはあれ、町並み保存運動や住民憲章づくりの取り組みを通しての深い仲。どちらにもその背後に公民館活動が独自の役割を果たしてきました。これまでにも相互訪問のお付き合いが重ねられてきています。竹富島から頂いたたFAXによれば、上勢頭芳徳さん(蒐集館長)はじめ十人もの皆さんが妻籠宿訪問とか。一緒に行ってみたいところですが、残念ながら別用あり、双方のさらなる交流を祈っております。

★妻籠に来られた竹富島のお客様   清水 醇(信州木曽谷・南木曽町公民館(館長)
                              南の風2136号【2008年12月8日】

 こんばんは。清水@南木曽町です。喜寿のお祝い申しあげます。11月22日から、はや12月。ちょっと油断している間に師走となって、木曽は今朝から雪が降っています(今は、小休止ですが)。
 南木曽町のPCで、11月22日の「竹富島の方との交流会」写真を送りましたが、写真の容量が大きすぎたのか、2回とも失敗に終わり、今日まで、連絡が遅くなりました。いろいろ仕事と行事が重なり、やっと今日こうして自宅で転送モードにこぎつけました。申し訳ありません。
 以下の写真はその時のものです。添付写真はいくつかありますが、小林先生のPC環境が不明なのでとりあえず1枚送ってみます。うまくいったら、他の写真もお送りします。

*送っていただいた写真5葉、すべて拝受しました。木曽の檜笠で踊る皆さん、楽しそう。残念ながらご一同の集合写真が少しぼやけていますので(残念!)、竹富島・蒐集館長(上勢頭芳徳さん)と南木曽町(妻籠)公民館長のお二人を当方のHP関連記事のところに掲載させていただきます。ありがとうございました。一度ご一緒に竹富島に行きましょう。楽しみが増えました。(小林)


*沖縄訪問・交流記録3 (2009年)〜■


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