【沖縄訪問・交流記録(1)】
沖縄訪問・交流記録(2003年〜2005年、日誌)

*沖縄訪問・交流記録(2)(2006〜)■
    
      *「おきなわの社会教育」(エイデル)刊行■
       *沖縄の集落・字公民館研究資料(1)■
       *同・字公民館研究資料(2)−公民館憲章など■
        *沖縄研究サイト一覧へもどる■


<目次>
 1,2003年6〜7月:具志頭・読谷・今帰仁・名護 
 2,2003年8月:社会教育研究全国集会(岡山)「沖縄を囲む」
 3,2003年9〜10月:石垣・平久保(歌碑)・白保・勝連・与那原
 4,2004年1月:南風原・波平・名護・古宇利・源河・喜如嘉・奥・底仁屋
 5,2004年5〜6月:那覇・勝連・名護(島袋正敏氏お祝い)・今帰仁・伊芸
 6,2004年9月:石垣・平久保(歌碑1周年)・宜野湾・宜野座・名護
 7,2005年1月:那覇・屋嘉・名護(集落育英会活動調査)
 8,2005年3月:那覇(花粉症のがれ)パピリオン終幕
 9,2005年4月:名護そして台湾へ
10,2005年8月:福岡(第45回社会教育研究全国集会)
11,2005年11〜12月:那覇・名護・旧コザ(復帰前後・沖縄の青年団運動調査)


<古いアルバム>

名護・全国集会(第1日夜)50名参加のヒージャー屋交流がおわって(2002年8月28日)




(1)具志頭・読谷・今帰仁・名護
    −2003年6月29日(日)〜7月4日(金)−

■<スケジュール>

6月29日(日)
午前(羽田JAL905,11:10)発
  午後:NPOカタンニュークラブ(具志頭村、代表・上原文一)発足記念の集い
    15:00 名城ふじ子さんと待ち合わせ(沖縄青年会館)→具志頭へ
    16:00〜(挨拶、講演、三線・舞踊)
    19:00〜(交流会)
  会場:具志頭村環境改善センター(大ホール)
                  宿泊:那覇(沖縄青年会館0988-64-1780)
6月30日(月)那覇        宿泊:那覇(上に同じ)
  波平区公民館の歩みについて上地武雄さんに聞き取り、東武さんと
  夜・泉崎「がじゅう家」(囲む会)
7月 1日(火)
読谷を経て名護へ        
  波平・高志保など聞き取り調査(上地武昭さんに依頼)
  名護へ              宿泊:名護(山田荘0980-52-2272)
7月 2日(水)
  今帰仁・古宇利島、やんばる歩き  宿泊:名護(上に同じ)
  中村誠司・愛子さんと
  午前・古宇利島へ渡る
  午後・美ら海水族館
  今帰仁村歴史文化センター(古宇利史料)
7月 3日(木)           宿泊:名護(上に同じ)
  名護市立中央図書館・地域史・資料探索           
  夜・名護市中央公民館(囲む会)
7月 4日(金):午後(那覇JAL930,12:00)発、東京へ


「南の風」1087号〜1089号(ぶんじん日誌)

■2003年6月29日(1087号)
 <沖縄・新しいNPOの創立−日誌・1>
 6月29日・那覇、夏晴れ。
 上原文一さんの新しいNPO「カタンニュークラブ」発足記念の集い。名城ふじ子さん(那覇市役所)と落ち合って具志頭村環境改善センターへ。第1部は文一氏挨拶のあと、講演は沖縄県議会議長・伊良皆高吉氏。
 氏が八重山古典芸能(三線)師範だということは知らず。話の後半にはサンシンが響き、与那国ションカネなどの演奏あり、最後はトラバーマも。大工哲弘やビギンなどみな教え子だそうだ。
 またCD「上原文一作品集」(唄:津波皓瑛)が発売されていることも迂闊に知らず。
 会場の大ホールは後部に椅子を並べるほどの盛況。第二部に沖縄芝居の久高将吉、民謡の山里ユキ、嘉手苅林次など。沖縄の芸能に包まれての賑やかなNPO設立。会場の歌声や拍手を聞きながら、新しい活動を地域の文化が支えるという強い印象をもたせられた。
 第三部?の「交流の夕べ」は福地ひろ昭さん(元沖教組委員長)が乾杯の音頭をとり、親川盛一さん(前知事公室長)等が友情あふれる挨拶、私も文一との30年近い交友を語った。

■6月30日〜7月2日(1088号)
 <那覇・読谷・やんばるへ−日誌・2>
 6月30日:晴れ。蝉の声で目がさめる。前夜疲れて午前休養。
 午後は豊見城で上地武雄さんと会い波平区の歩みについて聞く。那覇に戻り、東武さんの職場を急襲。夜は泉崎「我自由(がぁじゅう)家」で名城、田場、棚原、佐久本、上原さんたちと飲み、NPOを論じあう。田場さんは復帰前後の沖縄青年団協議会の輝ける会長。しかし早いもので今年3月琉球大学を定年退職とのこと。私たちの烟台日本語学校の開校にいたく興味を示してくれた。 
 7月1日(今年の折り返し):晴れ。早起きして読谷村へ。波平区公民館で上地武昭さんと落ち合い、上地盛栄、知花治雄の両氏(いずれも元区長)から聞き取り。残波岬で昼食。午後、山内徳信さん宅を訪ねたがあいにく不在。奥さんに『残波の里』のお礼を申しあげる。高志保区公民館で松田光政氏(もと区長)の聞き取り。文書記録は期待に反してほとんど作成されていなかった。
 終日付き合ってくれた武昭さんと別れ、名護へ。早速「大国林道」1号店で“刺身の味噌あえ”でビール。3月訪沖の際、小林茂子さんと一緒に飲んだことを思い出す。
 7月2日:連日の晴れ。中村誠司さんに迎えられ、愛子さんの車で待望の古宇利島へ。故大竹康市(象グループ)が東京から沖縄に飛んだらその足で古宇利島に渡り、白い浜に寝そべるという話を想い出す。区長・小浜美千子さんに全国集会(岡山)参加の御礼。ここでも文書化された公民館規約等は作成されていないとのこと。解禁になったばかりの古宇利のウニを肴にビール。いい気分で島一周。
 午後は本島に戻り、新水族館でジンベエザメやマンタと語り?あいながら生ビール。昼日中からやや飲み過ぎだ。午後後半は今帰仁村歴史文化センター・仲原弘哲館長と。今帰仁の戦後稀少資料を見せて頂く。
 今晩はもう飲むのはよそう、と約して誠司さんと別れる。3日の夜はぶんじんを囲む会だそうだ。旅はまだ続く。

■7月3日(1089号)
 <名護ー日誌・3>
 7月3日:名護・晴れ
 午前、たまったメールの整理、返事の送信。旅気分だから少しうきうき、いろいろ書きすぎてよくない。午後は名護市中央図書館へ。島福善弘さんが係長(宮城満さんの後任)となっていた。3月に来たときと同じ畳の間に座り込んで、地域史(市町村史、字史)を読む。好意に甘えて、またコピーをお願いした。
 夜は中央公民館工作室(迎賓室)でぶんじんを囲む会。4ヶ月ぶり。島袋正敏さんと中村誠司さんが酔う前?に宮城与徳(名護市東江出身)・顕彰事業の構想を語っていた。小生は宮城満さんに烟台日本語学校の話をした。赤崎隆三郎さん(与論)が仕入れてきた鰹、照屋秀裕さん持参の牛刺、これはうまい!当方はまったくの手ぶらで申しわけない。初めての若いメンバーもいて、皆さん有り難うございました。
 宴も果てて、芝生に座りこみ星を見ながら、正敏さんと二人で少し話し込む。昨年の全国集会から1年、これからの社会教育運動のこと、沖縄の社会教育のことなど。夜の涼風がここちよい。12時の数分前に山田荘に帰着。
 4日夕、夏のやんばるから梅雨中休みの東京へ。




(2)社会教育研究全国集会(岡山、2003年8月)「沖縄を囲む」
    →南の風記事(第1119号、8月26日)→写真■


(3)石垣・平久保・白保・勝連・与那原
    −2003年9月28日〜10月3日−

                            

<スケジュール>
■八重山・沖縄調査
 9月28日(羽田06:35→石垣09:40) 宿泊:石垣グランドホテル
   白保へ、連絡先:渡慶次賢康氏090-4983-5698
                  
 9月29日 平久保へ 14:00〜歌碑・除幕式、18:00〜祝賀会(平久保「浜遊」)
 9月30日 白保へ(調査)、石垣市図書館(字誌調べ)
       夜・石垣市関係者による歓迎会
10月 1日(石垣12:10→那覇13:00)      ホテル:オーガストイン久茂地
       屋慶名へ(勝連)19:00〜聞き取り 連絡先:東武氏(090-2718-3779)
    *東氏宅へ宿泊
10月 2日 那覇 南部の字誌調べ 夜:交流会
    3日 東京へ(那覇12:55〜羽田15:55)

「南の風」記録・ぶんじん日誌
■9月19日(1131号)
 <南の島に歌碑が建つ>
 東京では緊迫した集会が計画されている(上記・荒井メール)その日、9月28日から沖縄調査(九大・松田武雄さんを代表とする科研費)。この日程に合わせて、八重山・平久保では「ぶんじん歌碑」の除幕式が開かれることになりました。思いがけない展開に驚いています。
 話は十数年前に遡ります。1991年11月中旬、当時の東京学芸大学研究室メンバーで竹富・西表島など八重山へ旅をしました。留学生を含めて10人前後。たしか東京遊学中の森山沾一氏も一緒でした。台湾からの許銘欽さん(台北の若手校長)も。渡慶次賢康さんの関係でいくつか歓迎会あり。石垣島の北端・平久保では、浜に舟を出し網を仕立て、夜はその魚で浜の飲み会。渡慶次さんの奥さん(音楽教師)が歌われたことを憶えています。空には十三夜の月。
 酔いの戯れ、手もとの紙切れに思わず歌一首。もちろん素人の拙い歌ながら、地元の人たちが書家に頼んで額に飾り、今回の歌碑騒動?と発展してしまったのです。昨年夏から計画が動き、すでに石に刻まれ歌碑は完成。29日午後2時から除幕式。当日も舟を用意し、夜の集いには牛一頭が供されるとのこと。東京からは数人が参加見込み。
 当時のノートには、メモがわりに毎日の戯れ歌を書きこんでいました。平久保の浜を詠んだ歌は数首あり。たとえば、
 ○十三夜のさやけき月に浜白く 人ら集いて毛遊び楽し(平久保にて)
など。歌碑になったのはこの歌ではありませんが・・・。
            *(「毛遊び」モーアシビは野原遊びのこと)
 後日談ですが、その3日後、那覇に帰った日がたまたま60歳の誕生日。その夜は「あんつく」で「おきなわ社会教育研究会」の皆さんに還暦の祝いをしていただきました。石垣から同じ飛行機に乗れなかった許銘欽さんが遅れて駆けつけた話、今でも台湾に行くと語り草です。
 冥利につきるとはこのことか。


歌碑除幕の日、西表信氏(意匠・作者)と−20030929−平久保
 *関連写真→ちら

■9月30日(1137号)
<歌碑の除幕式と『安良遊行』出版祝賀会>
 28日の早朝便で石垣に入りました。朝4時起き。羽田が6時半。石垣までの直行便、割安の席もあったので、この便にしたのですが、早すぎて失敗! 遅れてはならじと朝までほとんど眠らず。
 昨年7月の『おきなわの社会教育』出版祝賀と全国集会キャンペーンから1年余。久しぶりの八重山はまだ夏が続いていました。空港にはご存知・渡慶次賢康さん(もと県社会教育主事、市社会教育課長、石垣中学校長など)に迎えていただきました。 
 つもる話をかわしながら、午後には「白保」調査へ。20年前の石垣空港問題で白保の字公民館は二つに分裂し、10年後(1995年)にようやく再統合する経過を聞きました。もうかなり歳月が経過していますので、当時の緊迫した毎日のことも“回想”として語っていただくことが出来るのです。
 聞き取り調査中、同伴の富実は渡慶次先生ご用意のレディス・プログラム、有り難いことです。夜は遅れて石垣に着いた山口真理子さんを迎えて、鷲尾真由美さん、渡慶次夫妻、小林夫妻で夕食会。
 29日は平久保(石垣島・最北端の集落)へ。ぶんじん歌碑の除幕式と祝賀会(風1131号に既報)。思いのほか大きな石に驚きました。八重山を代表する美術家・西表信氏による意匠、歌碑の横に西表夫妻ご持参の椿の苗を記念植樹しました。2時から除幕式、6時からは祝賀会。市教育長や前教育長、市婦人会長(渡慶次美智子さん)、図書館長、八重山文化研究会長など、約80キロ離れた石垣市から大勢の方が出席されました。
 新しい食事処「浜遊」(米盛三千弘氏の経営)の前庭にテントを4張、安良山からの風、空には三日月、ガジュマルのささやき、実行委員会・地元の方々による心のこもった手づくりの宴です。平久保小学校・全生徒(8名)による獅子舞、胸にじんとくるものあり。白保の子どもたちの友情出演(獅子舞)もあり、スピーチの合間にサンシン・太鼓・踊り。
 司会は小林平造を師とする宮良操氏(石垣市議)。沖縄本島からは上原文一さんが駆けつけてくれました。
 今回の歌碑建立はすべて平久保・米盛三千弘氏の浄財によるもの。驚愕・感激の1日。あわせて、僻村・安良(太平洋側、いま廃村)の最後の神司・浜崎マントあっぱあ(かじまやを祝ったばかり)の記録を著した石澤正夫氏(もと平久保小学校長)の『安良遊行』(絵は米盛三千弘)出版記念会が行われました。翌朝30日の八重山毎日新聞では、この出版と歌碑建立の二つのニュースが写真入りで報じられています。

■10月1日(1138号)
 <白保公民館の分裂と再統合>
 歌碑・除幕式の翌30日は、(28日に続く)白保への聞き取り調査。
 白保は宮良と同じく、八重山でもいち早く公民館活動を立ち上げた集落です(1953年)。しかし石垣新空港問題をめぐって地域は賛否両論が激突し、公民館組織は激しく二つに分裂する(1985年)という苦しい歴史をたどっています。
 28日は空港賛成派が組織した「第1公民館」の聞き取り(金嶺功氏、もと小学校長、公民館長)でしたが、30日は分裂当時、空港反対の人たちが結集する「白保公民館」花城長助館長(当時、その後市議会議員、23対1の少数派)を訪ねました。膨大な資料が保存されているらしく、その一端を見せてもらいながら、当時の経過を苦渋にみちた表情で語っていただきました。
 白保公民館は二つに分裂したあと、1995年には再び一つに再統合します。分裂だけでなく再統合の経過が興味深い。花城長助さんは「白保という“地域”の歴史と文化が、一つの公民館活動に戻してくれたのです」という趣旨の説明をされました。印象深いひととき。
 夜は市教育委員会関係者との交流の一夜。かなり飲みました。渡慶次賢康さんはもっと飲みました。夜のふけるのも忘れて語りました。
 10月1日は昼の便で那覇へ。かって「金武湾を守る会」の運動で二つに分裂した屋慶名公民館の聞き取りです。

■========≪山口真理子、Tue, 30 Sep 2003 11:51≫========
 <白保の柳田国男の碑、平久保の小林文人の碑―その1>
「平久保の 十三夜の浜に人群れて ヤドカリさえも 吾と遊びぬ」
        歌碑(意匠・西表信、刻字・前津和平)
 9月29日(月)、沖縄県石垣島の平久保で、文人先生の歌碑の除幕式とそれに続いての祝賀会がありました。
 事の発端は、1991年11月18日、八重山に遊んだ小林ゼミ一行の平久保海岸での浜下り遊びです。当時、伊原間中学校長だった渡慶次先生の歓迎企画、やはり伊原間中学校職員だった米盛三千弘さんのお世話で、獲った魚をその場で食べ,歌い,語らい,楽しく半日を過ごしました。その時、文人先生の元に寄って来たやどかりを愛しく思った先生は、即座に冒頭の歌を詠まれ、紙の切れはしに書いて、米盛さんに渡されたのでした。米盛さんは、その歌を書家に書いてもらい、額に入れて大事に飾っておられたそうです。
 何年かして平久保を通りかかった美術家・西表さんが、これを見て、「この額は1人で楽しむものではない」と、碑にすることをすすめられ、米盛さんが退職後に開いた「浜遊」の前に石碑を建てるという、今回の経過になりました。
 午後2時に、除幕式がありました。「浜遊」前の広場に、平久保小学校の名前がはいったテントが張られ、100人は座れるような椅子が準備してあります。米盛さんの挨拶、渡慶次先生の経過説明の後、いよいよ除幕。白い手袋をはめ、碑に向かって右側に文人先生ご夫妻と鷲尾真由美さんと山口が、左側に米盛さんご夫妻,渡慶次先生ご夫妻が並んで、紅白の綱を持ち、引っ張りました。
 1度目は綱だけが落ちて失敗したのはご愛嬌。2度目に石碑を覆っていた白い布がはらりと落ち、高らかにファンファーレが鳴り響きました。その後、文人先生の挨拶があって、除幕式は終わりました。
 この後で、なんと本島・具志頭村から上原文一さんが現れたのにはびっくり。文一さんは、役場を辞め、村で最初のNPOを立ち上げたと思ったら、次にも期すものがあるようです。その話も、いずれ「南の風」に載るでしょう。
 さて、6時からは祝賀会です。来てみて初めて知ったのですが、この日は3っのお祝いを兼ねたものでした。濱崎マントさんのカジマヤーのお祝い(ただし、ご本人はいらっしゃらない)、そのマントおばあさんとの出会いがきっかけで出来た『安良(やっさ)遊行』出版祝い、そして文人先生の歌碑の除幕祝いです。
 除幕式の時には、当事者も入れてせいぜい20人、というところだったのですが、いつのまにか続々と人が集まり始めました。どうやら平久保の住民だけでなく石垣市の主だった教育関係者も大勢見えている様子。
 元石垣市の社会教育職員で今は市議会議員の宮良操さんが、司会です。この日のために牛1頭がつぶされ、4日間大鍋で煮込んだものが大どんぶり1杯と折り詰めが出されて、まず腹ごしらえ。
 それから『安良遊行』の著者である元平久保小学校校長・石澤雅男先生ご夫妻と文人先生ご夫妻が壇上に上がって式が始まりました。花束贈呈があって、この時もまた高らかにファンファーレ(除幕式の時のと違う曲)。そして、お二人のご挨拶,何人かの方のスピーチ,余興となっていきますが、それは次回。

■========≪山口真理子(2)、Sat, 04 Oct 2003 02:31≫========
 <白保の柳田国男の碑、平久保の小林文人の碑−その2>
 まず<その1>(1138号)の間違いのお詫び。
『安良遊行』の著者は石澤正夫さん。ご著書を前にして書きながら、漢字を間違えていました。すみません。それと、除幕式の後には植樹式もあったことを落としていました。鷲尾真由美さんの記事(1139号)にあるとおりです。碑の横に植えられました。花が咲くのが楽しみですね。
 このレポートの題にした<白保の柳田国男の碑、平久保の小林文人の碑>ですが、祝賀会のスピーチで、渡慶次先生ともうお一方が「白保には柳田国男の碑があるが、この平久保には小林先生の碑ができた」と盛んにおっしゃっていたことから、真由美さんと付けました。
 米盛さんは「平久保が石垣の端っこではなく、小さくとも文化の発信地となるように」と、この歌碑に寄せる期待を淡々と語られました。文人先生の沖縄に対する思いと学問的業績は、なるほど柳田国男と並んでも遜色はない?(しかし、歌碑、というところが意外だったなあ。あの歌碑には、全然いきさつが書かれていないので、100年後に見た人には先生のことがどう伝わるかしらん。)
 歌碑は、「ヤドカリ」という文字が中心になるようにデザインされています。「ヤドカリ」には大きな意味があったのです。
 私は石垣に着いた日に、真由美さんに連れられて、彼女が懇意にしている染色家に会ってきました。歌碑の話題になった時、その方は「ヤドカリ」に即座に反応されました。ヤドカリには伝説があるそうです。
 「昔アマンという神が、天の神の命令で天にかかっている七色の橋から土や石を海原になげて、それを槍でかきまぜて島をつくった。そのなかから最初にヤドカリが(この世に)あらわれ、その穴から男女の人間が生まれた。そして2人の結合によって八重山の子孫が栄えたという。」 *『沖縄の祭りにみられる始原的世界』村武精一著 より
 ・・・で、ヤドカリもアマンと呼んでいるそうなのです。先生は、小さいながらこの神とも人の祖先とも言うべき大きな存在の生き物を、はからずも歌に詠まれたのですね。
 先生の歌碑が平久保の方々に末永く愛されますよう、祈っております。



■========≪鷲尾真由美、Wed, 01 Oct 2003 11:31≫========
 <平久保の除幕式>
 平久保での「歌碑」建立除幕式に、ご一緒させて頂きまして、ありがとうございます。いつも先生のおかげで、思いもかけない貴重な体験をさせていただけます。除幕式の報告は真理子さんが詳しくレポートしてくれますので、私は感想を少し。
 米盛さんの食堂「浜遊」は、ガジュマルの丘に登れば海を見ることが出来ますが、店からは安良岳などの、なだらかな山に囲まれた山麓風景が見える高原のような所です。店の下の牧草地には、冬になるとイノシシの親子が遊びに来るとも。猟銃会の人が放したらしい「キジ」が繁殖して、平久保の芋は全滅したとも伺いました。食糧としては貴重なものだったでしょうに。
 平久保は日中の光が、宮良や白保などの太平洋側とは違い、影を帯びた深い感じに思えました。店の壁に飾ってある米盛さんの沢山の絵も、そんな陰影のある、透明感ある色使いの中にも、ある種の暗さというか奥深さを感じました。
 石垣の中でも僻地の暮らしが避けられています。長閑さだけでは済ませない厳しい自然と、社会的制約を受けながらも、米盛さん一族があの場所で、団結しながら生きていこうとする決意のようなものを感じました。その為に、先生の歌碑は必要だったのではないかとすら思いました。歌碑も米盛さん個人の浄財とのことですから、よほど1991年11月の浜遊びでの先生の「戯れ歌」が「平久保の画家」米盛さんの琴線に触れたのですね。
 平久保小学校の生徒8名の獅子舞の練習も見ることができました。指導する先生の奮闘振りには目を見はりました。子供たちも「このままでいて欲しい」(勝手な願いですが)と思うほど純真で、真剣に練習に励んでいました。この子たちは中学を出ると市内の高校か那覇の高校に進むため、この地を離れるのでしょう。この地を離れた時、この子供達にとってこうした郷土芸能が、心象風景としていつまでも記録されて行くのだろうと思いました。
 夜の祝賀会では、元平久保小学校長・石澤正夫さん(新潟県出身で現在は那覇市在住)の飄々とした中にも、平久保の人々に対する熱い思いが感じられるお話と、文人先生の12年前の平久保との出会いからはじまる、感謝を込めてのお話に、参加者が聞き入っていました。100席はあった席が、いつの間にか埋まっていたのには驚きました。小さな部落での大きな行事だったのですね。
 ところで、昼間の除幕式の後に、碑の題字を書かれた西表信さんのお庭から移植した2本のやぶ椿の花が咲く頃に、私は平久保を訪れて写真を撮ってこようと思っています。固い蕾でしたが、12月には咲きますよ、と西表さんがおっしゃっていました。

■10月3日(1139号)
 <勝連半島を歩く>
 10月1日、東武さん(元・沖青協会長)に迎えられて、屋慶名へ。那覇から1時間半の車、毎日この距離を通勤しているとのこと。
 夕食もとらずに、区事務所(公民館は別施設)で現区長、元区長、町議の皆さんから、いわゆるCTS闘争、金武湾を守る会、屋慶名公民館の分裂(区長が二人いた時期)などの話しを聞きました。思い出したくもない、ひどい時期だった、いまでも亀裂は残っている、などなど。当然のことながら、白保の状況とかなり様相は異なります。すぐに記録にまとめられるほど簡単な経過ではなさそうです。この夜は平安名の東邸に泊めていただきました。
 2日朝、勝連町の教育委員会へ。東邸から歩いていけるほどの距離です。上江洲教育長(平田大一を「きむたか」館長に位置づけた人)と会うことができましたが、平田大一はあいにく不在。東さんの案内で平敷屋の集落を歩き、公民館で「平敷屋字誌」を入手。ホワイトビーチ基地には米空母停泊中。
 さらに足をのばして、与那原町役場で(CTS不況による)財政難の話を聞き、海中道路に新しく出来た「海の駅」「海の文化資料館」へ。金武湾の自然を壊し、人びとの心を分裂させたCTS開発の末路はこういうものかと暗然たる思い。夜は那覇の皆さんと交流会。

■10月5日(1140号)
 <濱崎マント−石澤正夫『安良遊行』より>
 3日、東京に帰ってきました。沖縄から東京への飛行機で読みふけった『安良遊行』、主人公・マントあっぱぁ。
 「濱崎マント 明治40年(1907年)生まれ、96歳。
 石垣島最北端、平久保で90年前に廃村になった安良への祈りを続けている女性がいる。濱崎マントおばあさんだ。安良村はおよそ二百年続いた。よく知られている明和の大津波では482人のうち、生き残ったのは、21人だったと伝えられている。マラリヤ、それに毎年繰りかえされたであろう台風と旱魃。でも人々は大自然に祈り、海の幸などを享受し、ゆったりとした時を刻んでいたのであろう。
 マントおばあさんはこの安良で生まれた。7歳のとき平久保に移った。この濱崎家の平久保移住をもって安良の歴史は幕を閉じた。母であった先代の神司を引き継いだのは50歳過ぎてのことであった。
 “先代が代々務めてきた大底御嶽の四代目神司、廃村後も旧正月の祭、豊年祭などの祭事、願いをし、御嶽の香炉は煙が絶えることなく続いている。現在、八重山における数多い神司の中の最高齢者である”と紹介されている。」(68頁)

■新聞報道・八重山毎日新聞 2003年9月30日
 <小林氏の功績を顕彰・社会教育研究で歌碑建立(平久保)>
  *南の風1141号【おきなわ短信】(93) 収録、他に八重山日報にも記事あり
 「八重山や沖縄の社会教育研究に造けいの深い東京学芸大の小林文人・名誉教授(71)を顕彰する歌碑が石垣市平久保で建立され、その除幕式が29日午後、小林名誉教授らが出席して行われた。
 小林名誉教授は、戦後沖縄の社会教育を研究するため、同大教授だった76年に来県し、78年からは八重山でも調査・研究を行っている。
 当時発足させた戦後沖縄社会教育研究会は現在も「東京・沖縄・東アジア社会教育研究会」として活動を続けており、八重山・沖縄の社会教育関係者も参加しているという。
 今回の歌碑には、小林名誉教授が91年11月、平久保地区で地元の人たちとの交流会に参加したときに「平久保の/十三夜の浜に/人むれて/やどかりさえも/われと遊びぬ」と詠んだ作品が刻まれている。
 当時、伊原間中のスクールバス運転手を務め、交流会にも参加していた米盛三千弘さん(60)=石垣市平久保=がこの作品に感動し、「いつか地域の人たちにお披露目したい」と思い続け、今年5月に平久保地区で食堂を開業したのに合わせて、県道沿いに建立した。
 小林名誉教授は「私は、日記代わりにその日のことをたどたどしく歌にすることがある。歌碑にするという話には驚いた」と振り返り、当初は歌碑建立を断ったが、石垣の社会教育関係者らの熱心な働きかけがあり、応諾することにした。
 この日の除幕式では、渡慶次賢康・元伊原間中校長が「沖縄の社会教育については、小林先生をおいてほかにない」と述べたのに続いて、小林名誉教授が「(歌碑の建立を通じて)新たな友情が深まればと思う」とあいさつし、除幕を行った。
写真(略):自身の作品を彫り込んだ歌碑の隣に立つ東京学芸大・小林文人名誉教授(左端)。右端は米盛三千弘さん






(4)波平・名護・古宇利・源河・喜如嘉・奥・底仁屋
   −「沖縄の字公民館と地域づくりを訪ねる旅」2004年1月26日〜30日−
                        
                                        

<呼びかけ(ホームページ掲載文)>
 2003年12月より計画をすすめてきた沖縄訪問計画がほぼ確定しましたので、おおよそのスケジュールを知らせします。出発まであまり余裕がありませんが、もし関心をおもちの方があれば、小林宛ご一報下さい。
 往復の航空券の確保は各自でお願いし、現地での移動や宿泊は当方で手配いたします。経費(1泊5000円前後、他にレンタカー代、交流懇親会費、手土産費などの共通経費)はできるだけおさえる方針です。
 部分参加のご希望にも対応する予定。事務局は、美若忠生氏(岡山)です。
○日程
1月26日(13:30前後・那覇空港・到着出口付近に集合)〜30日(昼前後、空港解散)
○移動:レンタカー
○スケジュール
1月26日(月)午後:那覇・南部を歩く(南風原町文化センターなど)
  夜:那覇・南部の社会教育関係者との交流、パピリオンなど
         (那覇泊・沖縄県青年会館・098-864-1780)
1月27日(火)中部を通って北部へ(名護泊)
         *名護の3泊は山田荘(0980-52-2272)
 午前:宜野湾(佐喜真美術館、普天間基地など)
 午後:読谷村へ、波平区公民館訪問、ガマ・残波岬など
 夜:名護へ、名護市関係者と交流会
1月28日(水)今帰仁村の字公民館をまわる(名護泊)
 午前:今帰仁の字公民館,古宇利島(区長・小浜美代子さん)へ
 午後:区長会(館長会)学習会
    テーマ:沖縄・山原・今帰仁の字公民館と地域づくり
       (小林文人・講話、小浜美代子・報告)懇談
    終了後、区長会と交流会
 夜:名護市(宿舎)へ
1月29日(木)やんばるの集落と字公民館を歩く(名護泊)
 午前:名護市源河公民館・アユセンター訪問、喜如嘉へ
 午後:辺戸岬(復帰記念碑)をへて、奥・底仁屋へ
 夜:名護へ、ウタイノーシー(疲れなおし)
1月30日(金)那覇へ移動、空港で解散
○参加者:昨年の社会教育研究全国集会(岡山)第21分科会世話人ほか
 希望者(鷲尾真由美さん・26日夜以降、山城千秋さん・29日〜30日など)
 小人数ですから、相談しながら柔軟なスケジュールで、てーげーの精神とゆんたくの交流を楽しみつつ、いい旅にしたいと考えています。

<南の風・ぶんじん日誌>
■1月27日(1207号)
 <寒気和らぐ?沖縄、那覇にて>
 26日午後、沖縄に着きました。美若さん(岡山)、松岡さん(貝塚)、竹沢さん(松本)、鷲尾さん(石垣)など。横浜の伊東さんは27日早朝の到着。夜は上記メンバーと那覇・宜野湾の皆さん8人ほど、久しぶりに「あんつく」に集まりました。総勢十数人、賑やかな夕食会でした。
 そのあと久茂地「苗」でまた1杯。明日からやんばる・今帰仁へ行く話をしていたら、「苗」のご夫婦が、象グループや故大竹康市氏の想い出を語り始め、ちょっと感傷的になって、お開きとなりました。少々の酔いもあり、本日の「ぶんんじん日誌」はこれにておしまい。

■1月29日(1208号)
 <名護にて>
 27日朝、空港に横浜の伊東秀明さんを迎えて一路北上。一行6名。宜野湾・佐喜真美術館を経て読谷・波平区へ。「経済門・文化門」に迎えられるかたちで知花治雄さん(もと区長、村議)よりの聞き取り。ぶんじん以外の方々は、沖縄字公民館の実像にふれるのは初めて、興味しんしんのご様子でした。沖縄の寒気はかなり和らいだものの、残念ながら雨模様の1日。
 夕刻に名護着。すぐに大国林道1号店での大歓迎会となりました。2002年・社会教育研究全国集会の沖縄側事務局は総揃いの感。懐かしい限り。とくに岸本チカラのサンシンが格段に上達していて感激でした。島酒之会・副会長でもある大国林道オーナー・山城秀夫さんからの古酒もまた格別。収入役・稲嶺進さんは弾き語りで「二見情話」。
 28日は、今帰仁村湧川区公民館、上運天公民館を経て、別記の古宇利島へ。取れたてのシマダコで昼食。午後、久しぶり赤い柱の今帰仁村中央公民館。同村区長会と古宇利島しまづくり実行委員会の共催による「沖縄・やんばる・今帰仁の字公民館と地域づくり」研修会、1時間あまり話をする機会をいただきました。そして区長(字公民館長)さんたちと交流会。日も落ちて崎山の「あしゃぎ」見学(昨年の葺きかえ)。
 中村誠司・愛子ご夫妻には、終日ご案内いただき、お疲れさまでした。有り難うございました。この日、今帰仁村中央公民館初期の職員・仲尾次吉澄さん(玉城勝雄さんと同僚)との27年ぶりの再会があと一つの収穫でした。現在は今帰仁村収入役。名護市も今帰仁村も、かって社会教育で活躍した人が収入役をつとめていることになります。
 山城千秋さん(九州大学)からのメール(Wed, 28 Jan 2004 13:52)。
 「…略… 今晩の便で沖縄に帰り、明日は名護で小林先生をはじめ、正敏さん・誠司さんとお会いする予定です。名護のさくら祭りがちょうど30日から始まるようで、一足先に花見が楽しめるかもしれません。
 …略… 私は沖縄で、凍えた心と体を溶かしてきます。」

★<赤い花、白い花・裁判速報(28日午前、平井メールに関連して)>
28日10時過ぎの船で、中村誠司・愛子夫妻のご案内により、沖縄・やんばるの古宇利島へ。島に着き、迎えの小浜美千子さん(区長)の車に乗ったその時、ケイタイの着信メロディ「島歌」が鳴りました。
 裁判を傍聴していた山口真理子さんから、「判決が出ました!」と。全面勝訴ではないけれど、被告(川越市役所)の責任を厳しく追求し、賠償支払いを求める内容とのこと。なんとも感動的な電話でした。原告の平井教子さんや傍聴席の皆さんたちも、胸にこみあげるものがあった由。情景が目に浮かぶよう。こういう判決が、海を越え南の風にのって、美しい古宇利島に伝えられる! あらためてケイタイの威力を実感した次第でした。いいニュースを有り難う!


 大橋の架橋工事(右端)すすむ古宇利島(20040128)

■1月30日(1209号)
 <那覇空港にて>
 29日(木)の行動記録。
 朝9時過ぎ屋部公民館へ、岸本区長と比嘉久さん。その後、源河のアユセンターで聞き取り。ここで伊東秀明さんと別れる(別記)。北上して大宜味村・喜如嘉公民館へ。平良宏・教育長(もと社会教育主事)と同区長さん。奥間・道の駅で昼食中、山城千秋さんが合流。
 午後は(予定の1時間遅れで)国頭村奥公民館へ。島田館長ほか。同区の民具資料館・共同店の見学。甘いタンカンをたくさん頂く。その後、東回りに南下。雨のやんばる路。各集落に残っている共同売店に興味をそそられながら、底仁屋へ。島袋区長は正敏さんの弟。その後、名護への道。予定の辺野古・ヘリ基地建設予定海岸は翌日まわし。
 名護では名護市史「民俗編」の沖縄タイムス出版文化特別賞受賞の祝賀会に同席させていただく。ビールうまし。中村誠司さんも交えて、再び大国林道(1号店)で遅い夕食。山城千秋さんは車を捨て「菊の露」。旅の終わりの語らい。松岡さん元気。中村愛子さんの顔も。
 30日(最終日)。前日の積み残しの辺野古を経て、宜野座より高速に上り一路那覇へ。皆さんと別れて、いま空港でビール飲みつつ、この記録を書いています。寒かった沖縄も、少し歩けば汗ばむほどの暖かさ。那覇公設市場へお土産のサーターアンダーギーを買いに寄ったときなど上着をぬいで春の気分でした。
 那覇、南風原、宜野湾、読谷、とくに名護・今帰仁・やんばるの各位、いろいろと有り難うございました。美若忠生さんはじめ同行の方々、お世話になりました。夏の全国集会・分科会の準備の議論もあり、有意義でした。再会を楽しみにしています。

■2月1日(1210号)
 <ホームページ更新>
 30日夕刻、羽田に着いて、その足で1月定例研究会へ。比嘉佑典さん(東洋大学)の久しぶりのお話。独特の佑典節はますます冴えて、面白い研究会となりました。さきほど石倉祐志さんからの「報告」が届きましたが、次号にまわします。ご了承を。
 31日朝、寒い東京のスケジュールが始まりました。風はさすがに厳冬の冷たさ。亡兄の49日法事で富美さんは九州に出かけて留守。冷え冷えした我が家。溜まった郵便物、聞くだけでうんざりする留守電。やはり沖縄訪問の疲れも。
 午後は別用をさぼって和光大学へ。お世話になった鈴木勁介さん(言語社会学・教授)の最終講義でした(一緒に岸田秀・教授も)。和光の大きな講義室は満杯。懐かしい顔も少なくありませんでしたが、パーティはパスして「のむぎ」へ。和光・旧プロゼミ有志との久しぶりのコンパでした。
 沖縄から毎日続くお酒。美ら酔い?の気分でホームページ更新。写真もいくつか入れました。ご覧ください。

             トップページへ.






(5) 勝連・名護(島袋正敏さんお祝いの会)今帰仁・伊芸・宜野座(2004年5〜6月)
                                  *南の風・記事より
                                  

2004年5月5日(南の風1255号)
★<島袋正敏さん退職を祝うモーアシビ・ご案内>
 沖縄調査の折々、昔のモーアシビ(野の遊び)の話を聞いたことがあります。そこから私がつくりだした情景は、ひっそりした浜、波もなく、空には十三夜の月、親しい(もちろん男女の)仲間たち、三線に合わせて踊り遊ぶ、風に誘われてゆらりと舟を浮かべる・・・月さやか、そんなぜいたくなひととき・・・というイメージ。今でも夢見ています。
 「南の風」1243号(4月1日)に書いた島袋正敏さん退職お祝いの会は「モーアシビをしよう」と語り合いました。昨年末の定例研究会で比嘉佑典さん(東洋大学、島酒之会々長)や中村保さん(同副会長)など。そのときの話では5月連休でという案でしたが、島福善弘さん・名護市立図書館から連絡あり、名護側でも検討した結果、次の日程になったそうです。
 日時:5月29日(土)
 場所:天仁屋小学校(東海岸、地図で調べて下さい)
 やはりモーアシビの思いが伝わっていて、(浜辺ではないが)小学校のグランドで豚を焼いて一夜をたのしもうという計画。比嘉佑典さんも名護在住中、おそらく島酒之会の方々など、いろんな人が集まる、校長さんも出る・・・などの動きだそうです。暦をみると、この夜の月は上弦をすぎて十一夜、きっと想い出に残る一夜になることでしょう。
 正敏さんの退職お祝いの会は、3月から4月にかけて名護各地で開かれたようですが、それがどうにか一段落したところで、本土からの旧知の人たちを迎えての会が実現することになりました。エイプリル・フールの呼びかけ(前記、南の風1243号)が本物になったわけです。
 皆さん、それぞれのご都合を調整の上、ふるってご参加下さい。今回は「ぶんじん」が幹事役になります。ご参加の方はご一報を。
 付記:この日程は日本教育法学会(神戸大学)と重なりますが、パスするとして、その前夜が東京のTOAFAEC 定例研究会。これを1週間早めて第3金曜日に変更していただけないでしょうか? 

2004年5月5日(1261号)
★<名護・天仁屋・モウアシビ>
 5月29日の名護・モウアシビ(島袋正敏さんを祝う会)、いまのところ東京・高知等から7〜8人の参加予定。当日は午後4時に宿舎予定の山田荘(名護市内)に集合、会場(東海岸・天仁屋小学校)への送迎をお願いしています。午後5時頃から夜にかけて、豚を焼いて楽しみます。会費3000円予定、どうぞよろしく。
 小生は5月27日から6月1日までの滞在。参加メンバーの希望により動く予定。桑原重美さんから「なちじんぬぶい」への関心が寄せられ、翌30日は今帰仁訪問になりそう。空いた時間は自分の調べもの? 
 29日夜の宿泊(山田荘、1泊4500円)予約の必要あり、希望の方はご一報を(人数確認)。移動はメンバーの顔ぶれによりレンタカーなど検討しますか?

2004年5月24日(1271号)
★<29日、名護へ>
 中村誠司さま:
 古宇利「島しまへの夢」「遊歩マップ」、有り難うございました。いいものが出来ました。仕事に疲れると、子どもたちの作文やマップを手にとって楽しんでいます。区長の小浜美千子さんはじめ、関係の皆さまによろしくお伝え下さい。
 風でなんどか書いたように、島袋正敏さんの退職お祝いの会と称して、5月29日に名護に参上します。東京や高知などから7〜8人、午後4時に山田荘に集合ということになっています。その夜の会場は天仁屋小学校、久しぶりにお会いできるだろうと楽しみです。
 29日は、同行予定の桑原重美さん(もとNHKカメラマン)が「なちじんぬぶい」をしたいというので、4〜5人で今帰仁へ行こうという計画。いま今泊の仲尾次吉澄さん(今帰仁村収入役)に連絡をとっているところですが、なかなか忙しい人でまだ直接に接触できていません。時間があれば、いつかご案内いただいた「美ら海水族館」のマンタやジンベエザメにも会いにいきたいところですが、日曜日だから混むでしょうね。同行の皆さんも日程に追われて、月曜日には帰京するようです。小生のみ数日は滞在の予定。
 その後、やんばるの字誌づくりの新しい動きはどうですか?
10年ほど前、名護の「ぐすく育英会史」をいただいた経過がありますが、研究室から誰かが借りていって行方不明になってしまいました。まだ頒けていただくものがあるでしょうか?
 かねて沖縄の集落自治による独自の育英事業を少し調べてみたい(そのむかし日本育英会で仕事をしていたこともあり)と思っています。お会いした折りにいろいろ教えて頂けませんか。先便の名護市・山本英康さんへの風、承知しました。まだ連絡がありませんが、アドレスなど届いたら直ちに送信を開始いたします。 

2004年5月28日(1274号)
★<那覇への旅>
 4ヶ月ぶりの沖縄への旅。こんどは本島(やんばる)だけ。ところがいまのJAL機内誌・スカイワードは、西表島の「唄う、舞う、染める、出会い」のページを組んでいて、しばし西表の海の色と風の音に出会った思いでした。
 唄うのは石垣金星さん、舞うのは新城知子・音絵さん親子、染めるのは石垣昭子さん(いま金星さんと染織)。新城知子さんはご存知・東京学芸大学音楽科の出身。東京公演の折りに学芸大学社会教育研究室に来て舞っていただいたことがあります。もう10年前?のこと。白足袋が研究室の床で真っ黒くなったのを(恐縮しつつ)憶えています。石垣の自宅の小劇場でお二人の舞を観たこともあります。たしか群馬の石川敏さんや稲葉さんも一緒でした。
 とりわけ印象的な画像は、愛用の三線を抱き、沈む夕陽を見つめながら、祖内の浜で唄う金星さんの後ろ姿。リゾート問題で激しく闘っている実像を知っているだけに、島の自然と文化を守ろうという祈りを秘めながら唄っている静かな浜の風景が目にしみました。
 島の古い歌謡は次のような意味だそうです。「井戸端の蛙に羽が生えて飛ぶまで・・・家のまわりのトカゲが海に降りてジュゴンになるまで・・・屋戸の桟のヤモリが海に降りてフカになるまで・・・私たちの命も島とともにあらしてください。このような願いであります。神さま」
 静かな浜の風にのって、三線の音が聞こえてくるよう。

2004年5月29日(1275号)
★<海中道路を渡って−5月28日の日誌>
 恐縮したことに東武さん(あずまたけし、金武湾を守る会・復帰の頃の沖青協会長)は私のために休暇をとって車を出してくれました。昨夜のパピリオンでも12時過ぎまで付き合ってくれたのに・・・と申しわけない思い。この夜の上原文一さん、名城ふじ子などの皆さんも、私の沖縄研究初期からの出会い、もう30年近くになります。
 勝連への道中、東さんとの語らいは、どうしても当時の青年運動のことになります。そのうちに資料を前におきテープを回しながら、ゆっくりと話を聞く必要があります(約束しました)。
 70年代の終わりから80年代にかけて、沖縄研究との関連で、社会教育関係のいろんな人が訪沖しました。故・横山宏さんなど。あの当時、東大の可愛い学生だった新保敦子さんが、いま早稲田大学の教授になっていること、東さんは驚いていました。海ん人の血が流れる東武は、金武湾のスヌイ(もずく)をドラム缶で東京のマンションに送り、ぶんじん宅では「どうして塩を抜くか」など大騒ぎ、そんな想い出、いろいろ、話は尽きず。以下、28日の行動記録。
 まず勝連町の平敷屋公民館へ。1996年に刊行された字誌をもとに西新屋光男区長からの聞き取り。高等弁務官資金で建てた公民館が老朽化し、約3億2千万円で建て替え決定。いまプレハブ住まいでした。なにしろ、ホワイトビーチ関係の軍用地収入あり、字は超黒字財政。
 海中道路を駆け抜けて平安座区の自治会館(公民館)へ。安村和子・自治会々長(区長)、新垣一博・同会計の両氏。平安座自治会館の新築(1985)記念で字誌と写真集の刊行。大作(708頁)、知りませんでした。CTSからの企業撤退の影響で、字財政はかなり縮小。
 5時過ぎ、再び海中道路を渡って与勝半島へ。きむたかホールはあいにく平田大一館長不在。しかし大阪からの約200名の中学生が「あまわり浪漫の会」と熱烈交流中。唄い踊り、ホールいっぱいの若いエネルギー。松永太郎くん(事務局長)など若者だけで、しっかりと交流会を仕切っていました。「ひとこと感想」を求められましたが、圧倒されて、言葉にならず。
 西の海に日が落ち、東に月も出るころ、東さん親族お揃いのガーデンパーティに飛びこみ乱入。ご馳走になりました。
 那覇に着いたのは10時過ぎ。「苗」でカツオめし。この頃、石倉祐志も国際通りにいたらしい。

2004年5月31日(1276号)
★<名護東海岸・天仁屋は雷雨−29〜30日の日誌>
 29日夕の島袋正敏さんお祝いの会場・天仁屋小学校は、雷鳴とどろく豪雨となりました。名護市中心部はご機嫌の太陽が輝いていたのに、山を越えて、東海岸に入ったとたんに雨足激しく、屋外のモウアシビは実現せず。緑の木々に囲まれた小学校の校庭は、晴れていれば星が素晴らしく、天の川が運動場に流れる(仲地校長談)そうですが、これはまた次の機会の楽しみ。
 水不足のやんばるに東京・高知グループは、恵みの雨をもってきてくれたと歓迎していただきました。沖縄大学の上地武昭研究室からは、留学生(伊、バリ島、韓国など)6〜7人が登場。比嘉佑典、中村保、中村誠司、宮城満など旧知の皆さん、正敏さんの小学校の恩師も。丸焼きの豚くんも私たちを迎えてくれて、当然、学大研究室時代のアーデルの話がでました(豚論争)。お母さんと一緒に参加された近藤恵美子さん、また山口真理子さんなど、当夜の様子を風に寄せていただけませんか。
 30日午前は中村誠司・愛子ご夫妻のご案内で、まず「美ら海水族館」へ。1年ぶりにジンベエ鮫やマンタと語りつつ、ビールで至福の2時間。昼食は渡口のマース屋でビール。その後、今帰仁上り(なちじんぬぶい)。北山城は鳥居が取り払われ、城壁がかなり復元され、見違えるほどの風格を回復中。その後、待望の乙羽岳頂上でまたビール。夜は名護にもどり、正敏さんが再び現れ、こんどはビールを棄てて、島酒。朝10時から夜10時まで飲んでいたような1日でした。
 飲んだくれていただけではない!いい議論もしました。沖縄の(研究者だけでない)研究会をどうつくっていくか。10時過ぎから(さすがに疲れて)お酒抜きの語らいが続きました。余力があれば次号に。
 皆さん、お疲れさまでした。幹事役の中村保さん、準備の中心を担った島福善弘さん(源河)、司会役の比嘉久さん(屋部)など、有り難うございました。また松本から名酒を送っていただいた村田正幸さん、たしかに名護の皆さんに届けました。御礼申しあげます。

2004年6月2日(1277号)
★<金武町・伊芸区ヘ−おきなわ日誌>
 名護で同行の皆さんと別れ31日午後に那覇へ。一人になると、なぜかまた、むらむら?と、フィールドワークの血が騒ぐのです。
 まず県へ。生涯学習振興課は行くたびに新しい顔ぶれ。要覧など最近の県資料をお願いしました。公民館担当の棚田彰夫氏(社会教育主事)は2年目だそうですが、課長の上原勝晴氏は今年の4月に着任されたばかり。私たちの『おきなわの社会教育』(エイデル)もご存知ないようでしたので、お送りするつもり。
 同じ教育庁・県立学校教育課の奨学金担当、そして東町会館の沖縄県人材育成財団へ。日本育英会の関連や県の育英奨学事業については、これまで4冊の詳細な記録(「琉球育英史」「25年の歩み」「財団50年の歩み」等)が作成されています。しかし市町村の事業はわずかに触れられているが、沖縄独自の集落レベルの育英活動については、まったく把握されていないことが分かりました。その意味で、この間の字誌記録は貴重ですし、内容もそれぞれ興味深いものがあります。
 6月1日は金武町伊芸区公民館へ。同区の『村の記録』には伊芸区育英会の記述があり、その後の展開について聞き取りするためです。しかしキャンプ・ハンセン内の都市型戦闘訓練施設の阻止活動のため、池原政文区長はこの日から上京(並里区の嘉数氏なども同行)。館長補佐の宜野(よしの)憲一さんが対応していただきました。
 伊芸区は362戸。伊芸区育英会の「平成16年度歳入歳出予算」はなんと1048万円。区の総予算は約8000万円。区の財産保全会への軍用地収入は約2億3000万円・・・。
 そんな聞き取り中に、雨で土砂がながれ不発弾が発見されるという情報も飛び込み、反基地闘争に直面してきた字公民館の緊迫感まざまざ。基地問題を背景にして集落の育英事業の歩みも理解する必要を実感させられました。一晩中でも聞きたいところでしたが、慌ただしい雰囲気のなか、次の機会をお願いして退去。
 その後ふと思いついて宜野座区へ。だんだんと再び名護に近づく。この4月、字公民館は改築され、宜野座のあまりの変貌ぶりに驚いてしまいました。
 (ながくなりますので本号はこの辺で・・・)

2004年6月4日(1278号)
★<新しい宜野座の風景>
 前号の続き。6月1日午後の宜野座区への道は、昔よく通った同じところとは思えぬ新しい風景になっていました。あの懐かしい(これまでも立派な)区事務所・字公民館は見事に建て替えられ、車寄せもある真新しい建物へ(今年4月)。すぐ傍には、威容をほこる村立「がらまんホール」「文化センター」が昨年完成。国道をはさんで位置する役場や小学校はすでに最新の施設。まれにみる諸施設充実の地域空間。
 宜野座との出会いはたしか1980年、私たち本土からの訪問団と北部(やんばる)社会教育主事会との交流会でした。寒い日、赤い柱の今帰仁村中央公民館、みんなで輪になってヒージャー汁を食べたなかに宜野座の字公民館長・城間盛春さん(現在・村議会議長)がいました。教育委員会の長浜宗夫さん(のち村収入役)に誘われての参加、当時25歳、住民公選による若い館長さん。あの頃は私もまだ字公民館の実像をよく知らず、字公民館の公選館長と聞くだけで興味をそそられました。
 その後彼は宜野座区の若いリーダーとして活躍。地域活動に取り組み、郷土芸能「京太郎」(ちょんだら)を率いて、東京・国立小劇場の檜舞台に立ったことも。私たちはもちろん在京の応援団。東京からは宜野座調査に出かける(野村さんなど)院生もあり。宜野座区の盛大な豊年祭(八月遊び)に魅せられ、いろんな方を誘って何度行ったことか。
 研究室の沖縄訪問日程は、名護の次の日は宜野座と決まっていました。そう、盛春さんは(議員になる前)ランをつくっていた。また、宜野座村各区の区長が研修と称して揃って上京し、東京学芸大学の社会教育研究室を訪問、ぶんじんが何か短く話をして、そのあとひたすら国分寺で飲んだ年もありました。
 というわけで、この20数年、私たちにとって宜野座区は忘れがたいところなのです。この日あいにく長浜宗夫さんも城間盛春さんも、区長(公民館長)さんも不在。留守を守る区職員に育英会の話を聞いて辞しました。最終便で那覇へ。
 翌2日に帰京。今回もまた充実した沖縄の旅となりました。お世話になった皆さんに御礼を申しあげます。さきほどホームページへ写真10枚ほどアップ、桑原さんから送られた画像2枚(豚の丸焼きと水族館)も。どうぞご覧ください。
 5日夜、TOAFAEC 総会(調布市)でお会いしましょう。






(6) 石垣・平久保(歌碑1周年)・宜野座・名護(2004年9月)
                             *南の風・記事より
                             


1342号(2004年9月23日)
◆<八重山・平久保へ>
 21日出発の八重山・平久保訪問(「ぶんじん歌碑」建立1周年)に出かけるかどうか、ずいぶん迷いました。大阪・大都市社会教育研究の「集い」へ行く途中に怪我(19日、風・前号)があったからです。
 結局は行くことに。平久保の受け入れ準備が進んでいること、同行の皆さん(島袋正敏、農中茂徳、内田純一など各氏)にも申しわけないという思い、大阪から帰ってからの経過がそう悪くはない、など考えつつ、石垣市の渡慶次賢康さん(元八重山事務所社会教育主事・石垣中学校長)に事態をありのままお話しし「ご迷惑をかけるかも・・・」と恐縮しながら、杖をついて、予定の飛行機に乗りました。
 那覇の乗継ぎの時間が慌ただしい。いま歩くのに不自由な身、空港で初めて車椅子をお願いしました。大事にしてもらっていい気分。
 石垣空港に到着して、その足で昨年オープンしたばかりの徳州会病院へ。連休のため大阪でも東京でも病院に行けなかったのです。5時を過ぎていましたが、レントゲンはもちろん、MRI(磁気断層撮影)の検査も。付き添いは賢康先生。骨折はないが、下肢「肉離れ」という診断でした。やれやれ。
 そういえば、大阪地下鉄での、あの瞬間の、電撃をうけたような異様な衝撃! 転倒をくいとめたわが足の「踏ん張り」、しかし踏ん張り過ぎたが故の筋肉の悲鳴。
 「アルコール?もちろんダメ!」とドクター。しばらくは自重しなければなりません。実に・・・残念至極。
 しかし、無理をおして来てよかった! 1年ぶりの平久保、しみじみと幸せを実感した1日でした。22日・平久保日誌、内田さんからでも風に寄せてください。

1343号(2004年9月24日)
◆<那覇からの「南の風」>
 日本社会教育学会の懇親会(9月18日夜、同志社大学)の席上、北海道の千田忠さん(上記)から「南の風」配信の希望が寄せられました。本号からアドレス帳に登録いたしました。
 まだ風メンバーが少なかった初期の頃は「南の風をどうぞ・・・」とキャンペーンをはった時期がありましたが、最近は100名近く、やや定員オーバーの感あり、呼びかけなど控えています。メンバー数が多くなると、送られるメールをすべて掲載できない(風発行の回数もふえる)からです。
 いま静かに発行しています。しかし、門を閉ざしているわけではありません。ご希望があれば、できるだけご要望に応えたい。とくに孤独に頑張っている海外・留学生にとっての応援の風(広場)でありたい、と考えています。まわりにそんな留学生がいれば(風は双方向性に吹く原則を含めて)ご紹介下さい。
 千田さんは「北の大地」の人、どこで「南の風」を知られたのでしょう?「南の風」の命名は、私たちの沖縄研究から由来しています。創刊号(1998年2月6日)は沖縄研究再開の呼びかけで始まりました。その後はさらに「東アジア」に視野を広げていますが・・・。どうぞよろしくお付き合い下さい。

 ところで私たちの八重山の旅日誌。農中茂徳さんが滞在わずか1日で帰り、島袋正敏さんとも別れ、内田純一さんとともに23日に那覇へ到着しました。夜は久しぶりに新垣重雄さん(社大党・前書記長)と会い、歓談。沖縄と現代を論じあいました。ほんらいは「飲みました」と書くところですが、いまドクター・ストップ中、酒は(乾杯程度はお許し頂いて・・・)きちんと控えています。黄丹青さん、ご安心下さい。鷲尾真由美さんもご一緒でした。懐かしの「あんつく」(一銀通)にて。

1344号(2004年9月27日)
◆<杖ついて沖縄本島駆けめぐる>
 9月24日の旅日誌。内田純一さん運転のレンタカーで、那覇より名護へ、実り多い1日となりました。もちろん小生は杖をついての移動です。当初は、名護まで運んでもらって、宿で静かにしていようかとも思ったのですが、沖縄に来れば、なにか心は動くものあり(少々無理しながら)終日車に乗っていました。以下簡単な記録を記しておきましょう。写真数枚をさきほどホームページにアップしました。
 午前、まず沖縄国際大学、米軍ヘリ墜落現場跡へ。こんな住宅密集地帯に落ちたのかと慄然!1本の黒焦げの木が印象的(写真)。
 すぐ近くの佐喜真美術館へ。佐喜真館長にお願いして、比嘉豊光・村山友江(楚辺区)のお二人によるビデオ映像「島クトバで語る戦世」を見せて頂きました(風1341号に関連記事)。聞けば「1000人」の記録を目ざし、そのなかの波平区2人の証言。ナチとユダヤ人悲劇の証言記録映画「ショアー」(クロード・ランズマン監督)を思い出しました。「ショアー」はたしか38人の証言でしたが、すでに「100人の記憶」(昨年秋の刊行)。ビデオの聞き手・知花昌一さんの歌・三線もなかなかの出来映え。字幕もあり、ビデオ1本を私たちの研究会にとお願いしておきました。
 昼は宜野湾市役所前のレストランで久しぶり玉那覇正幸さん(同市役所児童課長、もと社会教育主事)と。いま注目されている伊波洋一市長の話題など。
 午後は東海岸へ。金武町伊芸区の米軍基地内ゲリラ訓練・都市型施設反対闘争・監視台に立ち寄りました(写真)。並里区公民館へは寄らず、宜野座村へ。惣慶区公民館で短い調査活動(区の育英会活動について)。さらに隣の宜野座区公民館では城間盛春さん(宜野座村議会議長、もと区公民館長)と数年ぶりの再会。
 そして名護へ。屋部区では「八月踊り」のワカリ(別れ、第3日)当日、まだ夜のプログラムは始まっていませんでした。お月さまが中天に輝く頃、山原島酒之会「カミムエー」(瓶模合い、津波木工店の中庭)で皆さんと歓談。この夜もお酒は控えましたよ。足の痛みを忘れる1日。
 25日夕刻、無事に羽田着。1日遅れれば台風で飛べず、危ないところでした。皆さまにご心配かけ、お世話になり、まことに有り難うございました。

1345号(2004年9月28日)
<「島クトゥバで語る戦世」>
 前号・日誌の「島クトゥバで語る戦世(いくさゆ)」に関する記述のなかで、「1000人」の記録をめざし、と書きました。千人のオジーやオバーたちに、沖縄・シマの言葉で、戦争の記憶、さらに祭りや民俗や民話などを語ってもらおうという記録運動。これは、たいへんな構想です。
 「琉球弧を記録する会」が、昨年秋に刊行した『島クトゥバで語る戦世』の副題は「100人の記憶」。千人より一桁少ない数ですが、すでに百人をこえる証言・聞き書きを収録。沖縄本島だけでなく、宮古、八重山、久米島、伊是名、渡嘉敷等の離島にも及び、容易な作業ではありません。大学・研究者のありきたりの調査活動とは比較にならない密度と深度、そして情熱です。
 「琉球弧を記録する会」とは、読谷村楚辺区の比嘉豊光(写真家、代表)さん、村山友江さんたちの活動です。お二人は、私たちを圧倒した楚辺区の字誌(集落誌)『戦争編』(700頁、1992年)『民俗編』(900頁、1999年)等をまとめあげました。その作業を通して、視野を琉球弧にひろげ、「失われつつある言語文化(方言)」を、戦争、祭祀、民話、民俗・風景等から捉え、音声と映像で記録することを目的に1996年に設立されました。コンピューター・エンジニヤ、ビデオ・インストラクターなども加わり、本格的な活動へ(同書、村山友江)。上記・ビデオ「島クトゥバで語る戦世」はその成果の一つなのです。
 東京に帰って、読谷「ゆめあーる」へ電話しました。幸いに比嘉・村山のお二人ともに在室、久しぶりに話しました。ビデオを佐喜真美術館で観たこと、島クトゥバは分からないが印象的な作品だ、1本ぜひ頒けてほしいとお願いしました。まずは「記録」することが目的、当面は頒布することは考えていないとのことでした。
 10月1〜2日、東京・お茶の水のアテネ・フランセで「島クトゥバで語る戦世」上映会が行われるそうです。






(7) 那覇・名護(集落育英会活動調査)−2005年1月
                         *南の風・日誌より  

1388号(2004年12月20日)
★<1月、沖縄行き計画>
 2005年1月の沖縄行き計画について。この9月下旬、肉離れの足を引きずっての訪沖から早くも3ヶ月が経過しました。あのときは移動が不自由なのに、よくぞ5日間も頑張ったものです。空港移動は車椅子、松葉杖をすすめられたのに、杖で通しました。完全治癒が多少遅くなったのかもしれませんが、行ってよかった!今回の中国行きでもまったく支障なく、自信を回復したところです。晴れて普通の体調で沖縄を歩くことが出来ます。
 沖縄行きは1月3日〜8日の予定。本島のみ。例によって南部から北部へいくつか集落をまわりながら、旧知の方々に新年のご挨拶を、と言っても、杯を汲み交わそう、という計画です。
 今回の集落まわりでは、沖縄独自の「集落の育英会活動」調査を予定しています。琉球育英会の歴史や、市町村の育英会事業については、記録等によりほぼ全貌が明らかにされていますが、集落レベルは足で歩かないと分かりません。字誌に貴重な記録が収録されている場合があります。すでに5月の訪沖の際、いくつかの予備調査をしましたが、(字と個人の)プライバシィに関係する部分があり、聞き取りはそう簡単には進行しませんでした。
 しかし、かって日本育英会の専門員として禄を食んでいた自分史の思いもあり、また集落の教育機能としてみた場合、育英会活動は見過ごせない意味を含んでいると思われます。(調査の部分は、九州大学・松田武雄さんを代表とする科学研究費・沖縄共同研究の一環。)
 名護の島袋正敏さんや中村誠司さんなど、1月初旬の日程は如何でしょうか。名護市城(ぐしく)区の聞き取り調査をお願いしたいのですが、日程等については、またご連絡します。また他の集落で育英会活動の歩みをもっているところがあれば、教えて頂けませんか。
 沖縄訪問の際は、誘ってほしいという方もあり、ご都合がつけば、ご一緒いたしましょう。ご希望の方はご一報下さい。1月初旬のこの時期、今帰仁城では、きっと桜が咲き初めている頃でしょう。

1390号(12月24日)
★<沖縄からの烈風二つ>
 昨日、沖縄から激しい風が二つ吹いてきました。一つは鷲尾真由美さんの「沖縄大学・辺野古倶楽部のことなど」と題する長い、なが〜いメール。あと一つは、比嘉佑典さん(東洋大学・アジア地域研究センター長)の新著『ゆいまーる福祉リゾート革命』です。
 「うちなぁんちゅよ 自立健忘症になっていないか?
 補助金もらって 大きな建物造って 借金つくって どうするの。
 うちなぁはビリでいいじゃない。
 よんなぁ よんなぁ 歩こうよ。
 “ゆいまーる”の手作りのリゾートを創ってみないか。
 意外と簡単なんだよ。この本読めば分かるよ。
 山原の空き屋敷、遊休地をリゾートに変えていこう。
 大企業に頼らないで、大学・市民・役場が一緒に出来る仕事だ。」 
      (2004年11月30日刊、ゆい出版、本体1000円)
佑典先生の添え書きには「とうとう大風呂敷をひろげました」とあります。現職のまま(国内留学)この1年は故郷の屋我地島「やんばる島宇宙博物館」で優雅に暮らしながら、一気に書き上げたそうです。
 沖縄・やんばるへの熱い思い、地域へのやさしいまなざし、同時に未来をみつめる大きな視点、“ゆいまーる”をキーワードに、市民・自治体論あり、大学論あり。面白い本です。追われている仕事を放り出して、いま一気に読んでいます。
 鷲尾真由美さんのなが〜いメールは、どうも書きためておられたらしい。有り難うございます。数回に分けて掲載します。本号は、ほんの書き出しです。

1395号(2005年1月2日)
★<2005年・沖縄・平和カレンダー>
 明けましておめでとうございます。
 戦争と災害の厳しい年から、本年は少しでも平安と繁栄の年になってほしいもの。新しい年、みんなで平和の問題を考えましょう。お互いそれぞれの健康と幸せを大事にしましょう。
 上記の1フィート運動の会の正式名称は「子どもたちにフィルムを通して沖縄戦を伝える会」です。平和カレンダーを早速送っていただきましたが、同封されていた年賀状には次のような一文と歌一首。
 「新春を迎えましたが、沖縄はきびしい現実でございます。(略)平和の世紀をめざして歩み続けます。ともに頑張りましょう!(略)
 沖縄戦六〇年を迎えたり たぐり寄せなん海も山も」
 私たちの沖縄研究は、ちょうど三〇年ほど前に始まりました。振り返ってみると、アメリカ支配から脱し本土復帰が実現ししてまもなくの頃でした。「沖縄戦六〇年」の歳月からすれば、まさに折り返し点だったわけですね。しかし、それから三〇年の間に、いったいどんな変化があったというのでしょう。少なくとも基地問題から考えても、アメリカ占領下から事態はひとつも変わっていない。いまだ「きびしい現実」にあるのです。環境問題など明らかに悪化している!
 平和カレンダーは10部ほど送っていただきました。16日の新年会にでもご希望の方におわけいたしましょう。

1396号(1月4日)
★<那覇にて>
 3日夜、那覇に着きました。東京(羽田)では強風のため搭乗機が1時間あまり動けず待機、かなり遅れての到着でした。山城千秋さんと夕食の約束をしないでよかった。
 沖縄も案外と寒いです。こんなはずじゃないのに。私たちは沖縄研究の初期から(東京や福岡で正月をすまして)1月初旬、毎年のように沖縄に飛んだものでした。いつも暖かい夜でした。たしか1980年の1月には海勢頭豊さんと喜瀬武原に出かけ、字公民館で“喜瀬武原”を歌いましたよ。昭和天皇が亡くなった1989年は、沖縄でそのニュースを聞きました。それにまつわる強烈な記憶が残っています。東京学芸大学を辞めた1995年の1月初めも、ゼミの皆さんを誘って、やんばるを歩いていました。思い出はつきず。
 この時期、寒い日本から飛んでくると、沖縄の1月はいつも春でした。私の心では、沖縄は1月こそが“春宵値一刻千金”なのです。路地を歩くと、どこからか夜来香らしいかすかな花の香がただよい、入り交じって、お餅をつつむサンニン(月桃)の匂いもしてくる。イチャリバチョデイ(出会う人みな兄弟)の精神で、古い友人たちはもちろん初めての出会いでもウチナンチュの心はみな温かい。それらに励まされ、元気を取り戻して、寒い東京での1年の仕事に取りかかったものでした。
 この天気だと、今帰仁城の桜も、まだ咲いていないかもしれませんね。 

1397号(1月5日)
★<金武町・屋嘉区へ>
 今回の訪沖日程を決めたのは旧12月20日前後。慌ただしいスケジュール、連絡も遅くなり、皆さんにご迷惑をおかけしました。勝手気まな一人旅です。
 4日は、朝一番で沖縄県立図書館へ。名護の図書館で見られない字誌を探索するつもりでしたが、まだ開いていませんでした。4日からは御用始めのはず、この日に合わせて3日夜に那覇入りしたのに、とぼやくと、タクシー運転手の同情しきり。そのあと浦添市立図書館へまわる計画でしたが、これも中止。そのまま金武町・屋嘉区へ向かいました。東武さん(那覇・入管、元沖青協会長)を通してお願いしてあったのです。
 公民館の皆さんが待っていてくれました。屋嘉区(現在554戸)は1959年から集落として育英会を創設したとのこと。1200万円の基金、現在10名(県内7名に毎月2万円、県外3名に各3万)に給付中・・・と聞き取りが進むうち、この3月に字誌が刊行されることが分かりました。20年来の課題実現なのだそうです。
 この情報で、もう調査は進みませんでした。集落の全般的な理解を含め、字誌を読んだ上で聞き取りした方がはるかに精度が高まるからです。新刊字誌の送付をお願いし、4月以降に再訪の約束をして辞しました。
 屋嘉区公民館「公民館主事」の伊芸君に隣の伊芸区公民館(ややこしい!)まで送ってもらいました。激しい反基地闘争(都市型ゲリラ訓練施設反対)の先頭に立って闘っている伊芸区公民館長(池原政文さん)と会ってきました。これからが正念場とのこと。
 5日は名護へ向かいます。

1398号(1月7日)
★<名護の夜>
 ご存知の方も多い名護「大国林道」(1号店、山田荘の近く)は、隣に店を拡張して、大きな構えに発展していました。古酒瓶が並ぶ新装部分は本格的な古酒コーナーとなるらしく、白い壁に島袋正敏さんが(おそらく「古酒」と)墨筆大書する予定とか。次回が楽しみです。
 5日夜は、真新しいこの部屋で賑やかな集い。中村誠司(名桜大学)さんを幹事役に、稲嶺進(教育長)、松田毅(社会教育課長)、赤崎隆三郎(与論島)などの皆さん約10人。もちろん正敏さんも。そして岸本力の三線。チカラくんはすでに師匠格だそうです。新春のさかんな議論がはずみました。こちらも酔って、東アジア・フォーラムの話を。
 皆さん、きわめて元気。夏の全国集会(福岡)には、スリサーサー!揃って参加し、油山のぶんじん宅に合宿しよう、という話に及びました。泊まれない場合は、白樺の庭にテントを張るそうです。そんな広い庭でもないのに。
 6日夜、別用があって前夜来れなかった宮城満さんが山田荘に現れました。これは逃げるわけにはいかない。旧映画館を改装?した行きつけの店へ。ながい付き合いなのに、この店は初めてだ。昨年秋の島酒の会でお会いした方など馴染みの客がゆっくり飲んでいて、ひととき昔のバーの雰囲気を思い出し、つい飲み過ぎの感。
 昼のことを書き忘れました。6日午前、喜瀬の集落育英会についての聞き取り。午後は、孝喜と許田への調査。案内役は市史編纂室の比嘉ひとみさん。今回は調べる余裕がありませんが、「ふるさとの顔」記事では限られていた事例が、案外といろんな集落(宇茂佐、宮里、大西区等)で動いている(いた)ことを知りました。
 7日午前、名護市城区の調査。午後は那覇へ。宮城満さんは那覇の夜の会(旧おきなわ社会教育研究会)に興味あるらしく、同行の模様です。 

1399号(1月10日)
★<7日・那覇の夜>
7日夜の旧おきなわ社会教育研究会との交流会(会場「あんつく」)は、久しぶりの平良研一、上原文一、喜納勝代、佐久本全、玉那覇正孝、名城ふじ子等の皆さんと。終わりの頃に鷲尾真由美さん、上地武昭さんやその研究室メンバー3人の若者も加わり、賑やかなひととき。学生の一人は名護出身、烟台(山東省)日本語学校への関心あり、地ビール店の看板まで少し話しをしました。(名護より同行希望の宮城満さんは事情あり、結局、来れなくなりました。)
8日午前、10?年ぶりに新川右好さん(ベッテルハイム研究、『琉球と琉球の人々』2003年・沖縄タイムス刊、東京学芸大学・院卒)と会いました。車でぐるぐる買い物、2時間の車中歓談。空港まで送ってもらって、無事に東京へ帰りました。
今回もまたいろんな方にお世話になりました。とくに字の聞き取り調査に関して、東武さん(那覇入管)、比嘉ひとみさん(名護市史編纂室)、もちろん中村誠司さん、調査に協力頂いた方々、まことに有り難うございました。新春気分も楽しみながら、充実した5日間を過ごすことができました。
 名護(5日)の夜、岸本力さん(2年前の全国集会事務局)がサンシンを弾きつつ、たくさんの写真を撮ってくれました。その一部をHPへ。ご覧ください。もし不都合な写真があればご一報下さい。ただし、那覇の夜はカメラを失念、久しぶりのメンバーなのに記録が残らず、残念!

1400号(1月12日)
★<調査仮説のいくつかの修正>
 今回の沖縄調査で収集し得た資料整理をしなければなりません。他の仕事とも錯綜して、これがなかなか大変。忘れないうちに、いくつかのことを書いておくことにします。
 この間、沖縄独自の歴史として集落の育英会活動にテーマをしぼって歩いてきました。集落のもつ(形成的機能とともに)典型的な教育的機能として着目しているつもり。これまでもってきた仮説的な理解は、今回の地域調査によって、いくつか大きく修正を迫られているように思います。以下、思いつくままの覚え書きとして。
 1,集落育英会活動は、中村誠司さんや山城千秋さん提供による「ふるさとの顔」記事(風1396号)等で指摘されたように、限られた事例という認識であったが、現実には、かなり広範に展開されてきている。いまのところ25集落ほど。名護では(学事奨励会による「貸付金」制度まで加えると)むしろ育英会「的」活動の取り組みをもたない(もたなかった)集落の方が少ない?
 2,集落を基盤に組織を整備し財政基礎をもつ(その意味でフォーマルな)「育英会」活動と、集落行事としての「学事奨励会」とは峻別されるべきと考えてきたが、実際には、歴史的にも両者は連動している。
 3,東海岸(宜野座村、金武町、勝連町等)にみられるアメリカ軍用地収入を基盤とする現代的事例は重要であるが、集落の伝統的なユイマールの意識や模合(モアイ)の慣行に根ざしている側面を無視できない。
 4,育英会活動の形態は、集落ごとに一様ではないが、集落間の情報交換や相互刺激があった。共同体としてのシマの自尊とシマ相互の響きあいが興味深い。
 5,集落の社会的機能としての育英会活動は、その活動を展開することを通して、集落の社会的結合に大きく寄与してきた事実。
 6,背景に農家の経営規模や生活基盤の経済的格差が要因として介在するが、育英会活動を組織するリーダーの役割とそれに呼応するシマンチュ(集落住民)の連帯感、共同意識のありようが重要であった。財政的に豊かな集落だから育英会活動が取り組まれてきたというわけではない。むしろその逆の関係を見逃すべきではない。
 7,集落育英会の胎動は、歴史的にみて、(1)大正・昭和初期の農村恐慌期、(2)1950年代の戦後復興期、そして(3)復帰後の軍用地代収入を基盤とする1980年代、の三つの系譜を指摘できるのではなかろうか。いま素朴な地図・年表を作成中。
 中村誠司、山城千秋、そして島袋正敏、(本号から風を送り始めている)比嘉ひとみ、などの皆さま、いろいろ教えて下さい。





(8) 那覇(花粉症のがれ、パピリオン終幕)−2005年3月
                         *南の風・日誌より 
1442号(3月27日)
■<路地売りの蘭の小鉢、香りあり>
 昨日の那覇のホテル、琉球新報夕刊を開いて驚きました。1枚めくって3面「沖縄戦60年」記事として大きな写真入りで加藤健君の和光大学・卒業論文「沖縄戦を生きぬいたろう者」が紹介されていました。加藤君は和光大学時代の最後のプロゼミ学生、沖縄をテーマに取り上げたグループの一人として初めて沖縄に渡りました(2001年秋)。一同10名余り、名護では島袋正敏さんたちに歓迎していただき、さかんに飲んだときのメンバーです。
 自ら聴覚障害をもっているタケシは、沖縄戦下に障害者たちがどのように生き抜いたかをテーマに卒業論文を完成。私の「風の部屋」最終ぶんじんゼミにも来てくれました。この18日無事卒業式。「…先生には本当に感謝しております。先生と沖縄に出会わなかったら、今の私はありません」「たぶん、一生携わっていくことと思います」などというメール(Fri, 25 Mar 2005 14:21)をもらったばかり。
 障害をもった学生のひたむきな歩みを大きな記事として取り上げた琉球新報にあらためて敬意を抱いています。本土の新聞では考えられない。
 早速「小生いま那覇、琉球新報の夕刊で、君の写真を見たよ。おめでとう!」とメール。ビックリした返事がかえってきたところ。
 ところで福岡から東京へ帰らず、那覇行きの飛行機に乗ったのは花粉症治療のためです。東京よりも福岡の方がましかな、と期待していたのですが、たいして変わらず。地震後のハウスダストの故か、かえって悪化した感じ。再び東京で花粉にまみれるのが嫌になって、やや衝動的に、エイ!と南に飛んだのです。やはり来てよかった。この2日間で傷んでいた眼や鼻の粘膜もほとんど治りました。
 沖縄に通いつめて30年余。いつも学生や研究室メンバーと一緒、沖縄に着けば寸時を惜しんでウチナンチュに会ってきました。今回はまったく一人旅、どなたにも連絡せず、なんらの予定もなく、のんびりと春休みの実感を味わっています。
 何日に、どの便で帰京しようか、などまだ考えていません。今にしてようやく自由人になった喜びを楽しんでいます。さきほどの散歩で市場の路地に座っていたオバアから、小さな香蘭の鉢を買いました。ホテルの机上で、かすかに香っています。

1443号(3月29日)
■<那覇にて>
 「名護まで足を伸ばしませんか」との島袋正敏さんのお誘い、有り難うございます。鷲尾真由美さんからも別にメールを頂き、恐縮しています。今回はまったく衝動的に訪沖しましたので、ご迷惑になってはいけないと思いつつ、無計画・無スケジュールの旅というのも滅多にないこと、妙に時間・空間の自由を楽しむ気持ちもあり、面白い数日、また4月下旬には沖縄に参上する予定もありますので、このまま失礼することをお許し下さい。
 旧おきなわ社会教育研究会(那覇など)の皆さんにも全くの連絡なし、いつもだと押しつけがましい日程で集まりをお願いしてきたのに、あとできっと叱られることでしょう。しかし幸いに「南の風」は届いていませんので、そっと退散することにいたします。そろそろ東京の仕事も気になってきました。
 そうは言っても、新しい古宇利大橋を渡りたいな、名護・大国林道の魚の味噌和えで一杯やりたい、久しぶりに美ら海水族館のジンベエ鮫とも乾杯したい、などの思い、内なる誘惑も少なからず。いずれ次回に。
 また(2月末にまとめた調査報告「沖縄の集落育英会」で詳しく書けなかった)東村慶佐次の聞き書きをしたい、という宿題も思い出しました。これは折りをみて山城千秋さん(どなたかご縁があるらしい)を誘ってぜひ実現したい・・・という勝手な計画?をもっています。(後略)

1445号(4月2日)
■<エル・パピリオンお別れの夜>
 このニュース、エイプリル・フールではありません。3月31日はパピリオン最後の夜でした。この日の沖縄タイムスの記事(上記)をみて駆けつけた人もありました。パピリオンを支えてきた親しい人たちが別れを惜しんで、ありったけ持ち歌をうたいあい、海勢頭豊さんは4時間近くギターを弾きづめ、最後に海勢頭節「トバラーマ」、いつまでも忘れることが出来ない夜となりました。
 花粉症逃れでたまたま沖縄に滞在していたぶんじん、「パピリオン閉店」情報はショックでした。虫の知らせか。最終日が31日と聞いて帰京できなくなりました。
 待ちきれず、その前夜(30日)もパピリオンへ。いろんな人が来ていました。久しぶりに安里英子さんと会って、久茂地文庫のこと、象グループ・大竹康市の思い出など話はつきず。そういえば最初にパピリオンに連れていってくれたのは英子さんでした。1977年、まだ店は国道58号線沿い、はじめて海勢頭「喜瀬武原」を聞いたのでした。すでに30年近く経ったことになります。小林一行の那覇の夜は、必ずといっていいほど、パピリオンでした。はじめての学生たちもパピリオンを通して沖縄に出会ったところ少なからず。なんど「喜瀬武原」や「月桃」を歌ったことでしょう。
 31日夜のヤマトゥンチュは、ぶんじんだけだったかも。昔の話(次号に書きます)を紹介され、ソバ屋のオヤジさんに助けられて「喜瀬武原」を歌いました(ホームページに写真)。
 奥さんから「長いお付き合いでしたね」と、毎日使われてきた「からから」(泡盛用酒器)を頂きました。白い釉薬で「パピリオン」。これで風の部屋の古酒を飲みましょう。「喜瀬武原」を思い出しながら。
 4月1日午後、ようやく東京へ帰着しました。

1446号(4月4日)
■<海勢頭豊「喜瀬武原」>
 前号(沖縄タイムス記事、パピリオンお別れの夜)の続き。琉球新報は3月31日夜の模様を「常連客と最後の熱唱 エル・パピリオンが閉店」と次のように報じていました(4月2日11:53)。
 「…この日は最後を見届けたいと多くの常連客が訪れ、店との別れを惜しんでいた。…(略)… エル・パピリオンは癒やしの場、情報の交差点、それぞれの思い入れを話しながら酒を交わし、店の雰囲気に酔いしれていた。…(略)… 交互に舞台に上がり、海勢頭さんのギターに合わせ「喜瀬武原」など代表曲を歌った。娘の愛さんも楽器を持って参加し、1曲ごとに大きな拍手がわいた。…」
 この「喜瀬武原」を歌った客は、ぶんじんです。この曲を歌えない学生には単位を出さなかったそうだ、と海勢頭豊さんはみんなに紹介して爆笑となりましたが、もちろんこれは俗説。ただ、歌えない学生は研究室の居心地が悪かっただけのこと。
 「喜瀬武原」という曲は、ご存知の通り、県道越え実弾演習の真下にある喜瀬武原の集落から平和への願いをうたった歌です。20年あまり前の朝日新聞のコラム「大学散歩」記事(1983年1月4日)の一部。
 「東京学芸大の小林文人教授(社会教育学)の研究室には“ゼミ歌?”がある。沖縄の歌手・海勢頭豊さんの喜瀬武原。米軍基地への闘争から生まれた反戦歌である。 …(略)… それに刺激されてか、沖縄研究を続ける同教授の研究室に出入りする学生たちは喜瀬武原に魅せられてしまった。年に数回、沖縄に出かけるが、行くたびに必ず寄るのが海勢頭さんのパピリオン。
 ♪喜瀬武原 陽は落ちて 月がのぼるころ 君はどこにいるのか 姿も見せず 風が泣いている 山が泣いている みんなが泣いている 母が泣いている♪ っていうんです。いい歌ですよ、と同教授。… 」






(9) 那覇・名護へ−2005年4月
           *南の風・日誌より 

1459号(2005年4月27日)
■<那覇へ>
 (前略)
 いま那覇へ着いたところです。27日の「杉並の市民活動と社会教育を記録する会」4月定例会、それと30日の「原水禁運動(安井家)資料研究会・訪問調査」、いずれも欠席となります。お許し下さい。
 3月の花粉症逃れの訪沖と違って、今回ははれて皆さんとお会いできます。29日は名護にも行きますし、旧おきなわ社会教育研究会の名城ふじ子さん(那覇市役所)にも連絡して、30日夜は集まろうということになりました。午後7時頃より、場所は未定(「あんつく」ではなく、また「パピリオン」もなくなったし・・・)、ぶんじんのケイタイにご連絡を。台湾訪問団の結団式をいたしましょう。この日にはたしか山城千秋さん(熊本大学)も帰郷の予定だとか。会いましょうね。
 さきほど鄭任智さん(早大・院)より、メールあり。「私は一日早く台北に着いてしまうので、皆さんとの合流について、許銘欽校長先生に連絡したところ、直接に電話するようにと決まりました。日曜日に合流できると思います。宜しくお願い致します。」とのこと。
 沖縄はいま少雨。しかし“うりずん”に向かっていい季節。デイゴの花もちらほら、といったところ。

1460号(2005年4月29日)
■<あの年の4・28>
 いまの学生たちは「4・28」といっても、ほとんど知るものもいないようです。1960年代、この日は大学にとっても、もちろん学生運動にとっても、忘れることができない日でした。「ヨン・ニーハチ」あるいは「オキナワ・デー」、さらには「屈辱の日」と呼ばれてきました。
 1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効した日。同第3条によって、沖縄・奄美は日本本土から切り離され、アメリカの占領下に放置されました(奄美は翌年復帰)。
 1960年に沖縄の祖国復帰協議会が結成されますが、その日は4月28日。スローガンの第1は「第3条の撤廃」。それから72年の復帰に向けて、毎年の4・28には復帰運動のデモがうねり、「沖縄をかえせ!」の歌声が響いたものです。
 その当時、4月に入学してきた新入生たちがはじめて体験するデモが「オキナワ・デー」でした。入学式が終わり、新歓コンパなどが一段落する頃に4月28日はやってくるのです。受験戦争から解放されて、ちょうどピクニックに出かけるような気分で、デモに繰り出す女子学生たちの歓声が今でも耳に残っています。
 そして当局の激しいデモ規制も体験するのでした。年によっては逮捕される例も。若い大学教師としては4・28は緊張の日でした。この日を境にして顔つきが変わる学生たちの表情を想い出します。
 この日を転換点として、本土と沖縄は「異なる記憶」(沖縄タイムス・社説、4月28日)を体験してきました。戦後60年のいま、世代的にも「異なる記憶」。その裂け目をどう乗り越えるか。

1461号(2005年5月1日)
■<名護の結婚披露宴>
 沖縄大学を卒業して烟台日本語学校に赴任する上記・伊波葉月さんは名護市宇茂佐の出身と聞いています。中国では、反日騒動のあとだけに中国行きの気持が揺らいでいるのではないか、と思っていたところ、元気にチャレンジするとのこと、拍手!
 ところで4月29日は島袋正敏さんの長男・一平さんの結婚披露宴でした。ご招待をいただき、この日を楽しみに名護へ。沖縄との長い付き合のなか、長寿のお祝いには何度か出たことはありますが、実は結婚披露宴は初めて。どんな雰囲気なのか、ひそかな興味がありました。一平君は東京・永福の“風の部屋”に来ていただいたこともあります。
 名護のホテルの大ホールは満席、おそらく300人をこえる大祝宴でした。そう珍しいことではないそうです。幕開けは新郎・新婦のお母さん二人による「かぎやで風」から始まり、親戚、友人、職場などからの踊り、歌、余興、空手演舞などが続き、終わりのところではカチャーシー。門出を祝う乾杯の音頭や来賓代表(名護市長)の祝辞はありましたが、東京のホテルのように型通りの挨拶がえんえんと続くようなことはなく、まことに楽しく賑やか。黒い礼服を着ていきましたが、ご親戚以外はほぼ平服、いつもよりネクタイ姿が多いなという感じ。なかには半袖のカリユシ・スタイルもあり、少々場違いの礼服だったかも。
 「かぎやで風」の地謡は社会教育課長・松田猛さんや2002全国集会で活躍した岸本力さんなど。まわりの席はいつも私たちを歓迎してくれる名護の社会教育や島酒之会の面々。わいわいと語りあり、拍手をしたり、指笛をならしたり。ホテル披露宴の制約はあるにしても、あらためて沖縄の文化と活力のようなものを実感した夜でした。
 那覇に帰って、4月30日は旧おきなわ社会教育研究会の皆さんと久しぶりの一席。明けて5月1日、いまから台北です。





(10)第45回社会教育研究全国集会(福岡)
        ー油山「沖縄を囲む」集いー 
           
南の風1552号(2005年8月30日)
<油山「沖縄を囲む」集い>
 前号(略)に続き全国集会関連。本号の日誌は少し長くなります。お許しを。
 第2日(8月27日)は、例年のように午前・午後ともに分科会(19)「自治公民館・小地域での学習活動と地域づくり」。今年はとくに松本市「町内公民館活動の手びき」と同実践記録集「自治の力ここにあり・学びと“ずく”のまちづくり」(大作!)の刊行があり、これを軸にして論議は充実した展開に。いつもダレる時間があるのに、終日飽きるところがありませんでした。
 自治公民館と地域づくり分科会がスタートしたのは2002年・沖縄の全国集会です。今年ですでに4年目、この間の報告・論議をさらに発展させて、まとめを作ろう、メッセージを発信しようというのがかねてよりの懸案。果たして実現するかどうか、来年に向けての取り組みを期待したいもの。分科会を担ってきた世話人集団の心意気、次への一歩が刻まれるのではないでしょうか。
 さて、夜はお待ちかね「沖縄を囲む」集い。この指とまれの会場では飲めませんので、後半はタクシーに分乗して油山の小林宅(第2会場)へ。着いたのは7時半頃か。農中茂徳一家の全面的な協力を得て用意万端整い、庭に生ビールもセットし、楽しい夜の始まりとなりました。
 皆さんが帰ったのは何時だろう(ぶんじんも酔っていた)、12時近くか?そのあとも酒盛りは続きました。中村誠司さん持参の古酒はなぜか酔いがまわる。いつの間にか知らない場所に寝ていました。それぞれの部屋にイビキ響き、ソファにも誰かが寝転がって・・。当夜の同宿者は(家人まで含めれば)11人。
 翌28日・大会最終日の速報「玄海の風」第5号に掲載された一文。
 「沖縄を囲む集いは、一次会・ももちパレス、ノン・アルコールで自己紹介と懇親を深めた後、ナント!小林文人邸@油山にて、二次会を開催!沖縄参加者5名を含む総勢30名が集まった。泡盛はもちろんのこと、名護のテラジャー(ヒザラ貝)、チラガー、ミミガー、スクなどなど。生ビール片手にあり乾杯! 夜はまだまだ続く。」
 差し入れやお土産を頂いた方々、山(の麓)までお出で下さった皆様、お泊まりの沖縄5人衆、有り難うございました。いつも主のいない隠れ家も、飛びっきり賑やかな一夜に、涙を流して喜んだと思います。
 付記;この間の写真を8枚ほどHPにアップ。なお集会の総括報告によれば、集会の参加者は801名を数えたそうです。







(11) 那覇・名護そして沖縄市へ−2005年11〜12月
           

【南の風】記事
1553号(2005年11月1日)
◆<沖縄研究、次の一歩を>
 今年も残すところ、あと2ヶ月。振り返ってみて沖縄研究の作業が中断された1年となった反省あり。昨年までの松田(九州大学)科研費グループによる沖縄共同研究が一段落したこと。一方で、研究ネットワークが途切れがちであった台湾への修復?研究究旅行(5月)、続いて6月のドイツ行きをはさんで、韓国(9月)と中国(10月)への訪問、と忙しすぎるスケジュールに追われたこと・・・などなど、い訳ですが。
 しかし沖縄のテーマは熱く私たちを待っているように思われます。研究費がなくても(これまでもそうだった)、少しづつ地道に沖縄研究を 継続し、せっかくの蓄積を一歩進めていく姿勢を持ち続けたい。
 当面いま考えていることは二つ。一つは宝の山「字誌」を研究的視点から読み解くこと。何が見えてくるか。中村誠司さんによる貴重な字誌「目録情報」データーベースもあり。一昨年と昨年に、字公民館法制と集落育英会についての字誌記録をまとめた経験からいっても、これまでにない地域史料が字誌として発掘され資料化されていることを実感してきました。字誌を横断的に分析するテーマはいろいろあります。
 あと一つは、かねて懸案になっている本土復帰前後の沖縄の民衆運動、とくに沖縄県青年運動(いま資料的に空白)の聞き書きと資料復元に取り組むこと。この時期は他に類を見ない貴重な運動史。東武さんとも相談し、11月26日〜27日あたりを第一候補として、いま日程調整中です。関係の方々に集まっていただき、ゆっくり回想をお願いし、史料を読み合うという計画。山城千秋さんも積極的に参加いただけるとのこと。関心ある方、ご都合がつく方々、ぜひお知らせ下さい。
 その前後の数日は八重山に遊んで、1年ぶりに平久保の歌碑の前で旧交を暖める旅をしよう・・・という案も浮上しつつあり。

1558号(2005年11月10日)
◆<沖縄訪問日程>
 山原島酒之会(会長・島袋正敏さん)から「泡盛サミット in 名護・山原2005」(風1553号)当日のパンフと資料(「考古学からみた泡盛」など)が届きました。有り難うございました。パンフ表紙の写真が見事!どなたの作品でしょうか。
 カメから掬い出される古酒の一滴。ページをめくっていくと、垂涎の古酒蔵。協賛広告の扉に添えられている静かなカメの風格。こういう画像に・・・基地の風景はまったく似合わない!
 永福「風の部屋」の古酒カメ三つ。正月に少し飲んだまま仕次ぎの機会なく、どなたか山原の方が上京する折りにでも、また一手ご指南いただけないものか、など考えています。福岡・油山には山城秀夫さん(大国林道)ご持参の壺一つ。これも大事に開けないでいます。何年ものなのでしょうか?こんど会うときに聞く楽しみ。
 11月の沖縄訪問(風1553号)の日程が決まりました。9日の午後、東武さんと相談し、山城千秋さんの沖縄滞在とも合わせて、26日午後から夜にかけて、ゆっくりと話を聞くことにしました。次の通りです。
11月25日(金)那覇着
   26日(土)「復帰前後・沖縄青年団運動の軌跡」
     証言:田場盛順・東武の両氏(いずれも元沖青協会長)ほか
     聞き手:山城千秋・小林文人など
   27日(日)名護へ(予定)
   28日(月)那覇へ(予定)
   29日(火)東京へ
 今年から来年にかけて、何度か機会を設けたいと考えています。関心ある方々の参加歓迎。時間・会場など詳細は新ホームページで。なお石垣・平久保への計画は次回に延ばすことにしました。

1567号(2005年11月27日)
◆<半年ぶりの沖縄−沖縄青年運動史研究会の試み>
 11月25日夜、那覇に到着。南の風1553号・1558号に書いたように、私なりに思いを新たにしての沖縄。半年ぶりです。
 今回、東京からは一人。石倉祐志さん、山口真理子さんなどの心も動いたようですが、具体的な日程となると、簡単に調整できず、断念のメールが届きました。
 那覇では、先に帰っていた山城千秋さん(熊本大学)と合流しました。26日午後、浦添・当山の田場盛順さん(1972年復帰当時、沖縄県青年団協議会々長)のお宅、「復帰前後・沖縄県青年団運動の軌跡」について興味深い話を伺いました。同席は、東(あずま)武さん(1975年〜1976年、キセンバル闘争当時の同・会長)。
 戦後日本のどの地域にも類を見ない沖縄の(復帰運動の激動を闘った)地域青年団運動の歴史。この機会に「沖縄青年運動史研究会」(仮)といった取り組みを立ち上げ、証言聞き書きと資料収集の継続的な作業を始めてはどうか、山城さんに事務局をお願いをしよう、そんな協議をしました。早速、この12月に青年団OB諸氏に呼びかけて、忘年会をかねた顔会わせの集いの企画も。この日の集いが、いいきっかけになればと期待しています。
 ビールと泡盛を飲みながら約5時間。土曜日だからか、普天間基地に乱舞するヘリの爆音もなく、庭からは浦添ヨードレを望む田場さん宅に静かなときが過ぎていきました。東さんが勝連の浜で釣ってきたグルクンやエーガァの皿が卓上に並んで、海人(うみんちゅ)の手料理、とくにエーガァマース(塩)煮が美味しく、思わぬ馳走に舌鼓。

1568号(2005年11月29日)               *11月26〜27日・写真→こちら
◆<中頭からやんばるへ−名護「大国林道」>
 26日の余韻さめやらぬ中、27日は沖縄市中ノ町・中根章さんのお宅を訪ねました。中根さんは1932年生まれ、沖縄県青年団協議会がいち早く復帰問題を提起した当時の常任理事(1955年〜)、1958年には(仲宗根悟氏を継いで)事務局長、その前後より沖縄原水禁運動に参加、環境問題(川を蘇生させる運動)にも取り組んできた典型的な沖縄青年団運動のOBです。東武さんと照屋雄健さん(東会長時代の事務局長)が一緒でした。
 短い時間ながら、アメリカ占領の厳しい圧政下、勢いよく活動された当時の雰囲気、とくに中頭青年団の独特の活気、を語っていただきました。12月中旬過ぎにOB諸氏に呼びかけ、まず忘年会の集いを計画しよう、そのときにまたお会いしましょう、と約して別れました。忘年会の日程は、12月17日(土)あたりが第1候補。この日は、戦後初めて沖縄青年連合会(沖青連)が結成(1948年)された記念日だそうです。
 この日、名護には遅れて午後5時過ぎ着。博物館の中庭に「ものづくり塾」の皆さん。もちろん塾長(島袋正敏さん)、そしてメンバーには島福善弘さん(源河リュウキュウアユを呼び戻す運動)など。一緒に閉会のビールをいただきました。そして中村誠司さんや宮城満さんの顔も。
 そのあとの名護十字路「大国林道」3階は、実に楽しい会となりました。与論島の赤崎隆三郎さん(9月、ともに参加した韓国・光明市・生涯学習フェスティバルでは会えなかった!)や、照屋秀裕さん(名護市役所)、そして駆けつけた岸本力さん(2002全国集会事務局)など。若々しいサンシンで座は一段と盛り上がり。
 夏の福岡・油山の集いからちょうど3ヶ月です。オーナー・山城秀夫さんはこの夜も賑やか。あらためて油山パーティで大奮闘した農中茂徳さん一家への感謝(「大国林道」秘蔵の古酒瓶を託される)。庭の3本の白樺の話もあり、酔っぱらいの、おおげさな賛辞で、油山のせまい寓居はいつの間にか架空の大邸宅?に早がわり。いい気分でした。
 来年1月20日、名護・ヒンプンガジュマル前の徳田球一碑のそばに、同じ名護出身の「宮城与徳」をしのぶ新しい碑が建立されることになり、その除幕式が行われるそうです。その頃には、やんばるの桜も満開か。
 翌28日は那覇へ。夜「おきなわ社会教育研究会」メンバーと。長くなりますから、また別の機会に書くことにしまよう。

1569号【12月1日】
◆<沖縄県青年団運動との出会い>

 名護で見失っていたカメラは、名桜大学・中村誠司さんから東京へ送っていただきました。有り難うございました。充分すぎるほどの柔らかな包装、機能も画像もすべて無事でした。早速、カメラから4枚ほどを取り出し、さきほど編集してホームページに掲載。ご覧下さい。
 相次いで、赤崎隆三郎さんからも写真が。重い容量(高画質)なので1枚だけアップ。なにしろ10倍近い容量です、お許しを。
 ここ数号は沖縄に関する記事が多くなっています。本号はとくにすべてが沖縄のテーマ。もともと“南”の風は“沖縄”研究・交流のために吹き始めたもの、その意味では初心にかえった気持ち・・・しかし、沖縄に関心ない方々(留学生を含めての配信先)には申しわけない思いが複雑に交錯します。「風」編集としては、東アジアを含めて、毎号できるだけ多様な内容となるように心がけているつもりではありますが・・・。
 ところで、風1567号に書いたように、今度の訪沖でやや唐突に「沖縄青年運動史研究会」(仮)が登場しつつあります。この機会に、その経過を少し書いておきます。
 私たちの沖縄研究の開始(1976年〜)当時、沖縄県青年団協議会関係者との印象深い出会いがありました。復帰後の厳しい時代に会長をつとめた田場盛順・東武、事務局長の照屋雄健、あるいは常任理事の玉那覇正幸、棚原正和などの皆さんです。中頭郡の関係者が多い。
 媒介のキーパースンは宮城英次・新城捷也の両氏(沖縄県教育委員会社会教育主事・青年担当)。さらに松田政弘、安谷屋幸勇、仲里千代子他の次の世代の会長・事務局長等の皆さん。懐かしい顔ぶれです。
 田場さんは、沖青協からはじめて社会教育研究全国集会に参加した人(第17回、福岡集会)。東さんたちは、私たちをはじめて南部戦跡へ案内、復帰後の基地問題や金武湾・CTS問題、そして海勢頭豊「喜瀬武原」等に出会わせてくれた・・・と書きはじめると長くなりそう。


1570号【12月3日】
◆<沖縄青年運動史研究への思い>

 前号の続き;
 そういえば、11月28日夜(那覇)旧「おきなわ社会教育研究会」との久しぶりの交流会には、病後リハビリ中の新城捷也さん(元・県教委社会教育主事)が見えました。痩せておられましたがお元気です。2002年・名護の全国集会以来のこと。この席でも、かっての中頭・青年団の話題になりました。
 玉那覇正幸さん(宜野湾市役所)は「おきなわ社会教育研究会」事務局長でしたし、東武さんともこの30年近く、間断なく会う機会がありました。中頭「ひろば」活動に関連して、また金武湾問題その後、あるいは平敷屋エイサー、パピリオン、などなど。上京の折り、国立や“風の部屋”に泊まってもらったり、また勝連の東さんのお宅に転がりこんだこともある仲。
 最近では、2003年10月の屋慶名(金武湾闘争をめぐる公民館分裂)調査、2004年5月の平敷屋(集落育英会)調査など、東さんは休暇をとって車で案内の労をとっていただきました。その折々に、復帰後・沖縄青年団運動のいろんな話、問わず語り。たとえば、「南の風」1275号(2004年5月29日)本欄には、次のように書いています。
 「…勝連への道中、東さんとの語らいは、どうしても当時の青年運動のことになります。そのうちに資料を前におきテープを回しながら、ゆっくりと話を聞く必要があります(約束しました)。」
 沖縄の青年団運動は、祖国復帰運動の大きな潮の流れのなかで大きな役割を担ってきました。また地域のなかでは集落の青年会活動。本土のどの地域にも見られない独自の歴史を刻んできました。運動それ自体に、また関わった青年たちにも、多くのドラマがありました。しかし初期の『沖縄県青年団史』(沖青協編、1961年)を除いて、歴史・資料がきちんと残されて(公開されて)いません。私たちの『おきなわの社会教育』(小林・島袋編、2002年)の記述も青年運動史については充分ではない。資料の散逸・風化も進んでいる。青年団OBの元気にも励まされながら、私たちにどんな取り組みが可能なのだろう、そんな話がこの間に重ねられてきました。
 「沖縄青年団運動史研究会」(仮)を立ち上げようではないかという思いは、こんな経過から具体化し始めたのです。

1576号【12月15日】
◆<年末の沖縄行き>
 沖縄青年団運動の歩みについての証言・資料収集へ向けて、一歩動き始めた感があります。年内に関係者(とくに中頭地区)にお会いする機会が話し合われ、ポンと“跳躍”して中頭青年団OB諸氏の忘年会企画へ。いまのところ12月24日夜、沖縄市・クラウンホテルを会場に開かれることが確定したそうです。
 この動きのなかで、沖縄青年運動史研究会も登場。事務局の山城千秋さん(熊本大学)からの連絡に応えて、小林平造さん(鹿児島大学)から次のようなメール(Wed, 14 Dec 2005 11:37)を頂きました。
 「…公民館学会、内容が充実していた様子。公務で出席できなかったのが残念です。
 …沖縄青年運動史研究会の件ですが、24日は無理すれば出席できます。その際は23日に出発して、25日に帰宅かというところです。以上は、航空券が取れればという条件付。25日は、午後に院生の結婚を祝う集いがあり、帰宅しておく必要があります。」
 山城千秋さんは24日に向けての帰沖は無理とのこと。ぶんじんはこれまでの経過から出席する責任があると考え、すでに東京−沖縄の航空券も確保済みですが、当初の日程案が変更されたこともあり、いま年末・東京の先約との調整に難航中。昨日の電話で、東武さんにもこの事情を話しておきました。
 あと数日お待ち下さい。もし行ける場合は、忘年会だけでなく、その前後に1両日のスケジュールをつくって(少なくとも12月21日には沖縄入り、22日〜23日の両日等)都合のつく時間帯で、中頭青年団OBたとえば仲宗根悟氏や中根章氏等の証言聞き取り、資料閲覧の機会をお願いしたいと考えています。東武さんにも、その際は、時間の調整等についてご相談したいと伝えてあります。せっかくの訪沖ですし、忘年会出席の機会を活用したいのです。


1577号【12月17日】
◆<“時を惜しむな”>
 奥共同店100年企画については、中村誠司さんのメール(風1573号、12月10日)等を興味深く拝見していました。上記・沖縄タイムスの記事(12月11日)によれば、戦前から奥区は隔絶した集落であるにもかかわらず上級学校進学者が多く「共同店の奨学金制度が人材育成に果たした役割は大きい」ことが指摘された(宮城悦生氏)とのこと。ぶんじんはこの数年来、沖縄各地の字誌を通覧しながら、沖縄独自の「集落育英会」活動の歩みを調べ、小さな報告にまとめました(HPに収録→)。しかし、奥の共同店(そして奨学金制度)については、気になりながら、まったく触れていません。
 今回の共同店100年企画に関連して、奥の育英奨学金制度についての記録等があれば、ぜひ拝見する機会を得たいもの。いずれ名護・やんばるを訪れる機会にでも(誠司さんを通して)お願いできないものでしょうか。
 ところで、12月24日夜・沖縄(中頭郡)青年団運動OBの集まりに向けて訪沖できないものかと、この一週間、東京の年末日程との調整に苦しんできました。しかし成功せず、一時はほぼ諦めましたが、あえて二つほどの不義理をお許しいただいて、21日から25日までの沖縄行きを決断。前に予定していたフライトに加えホテルの予約も完了。
 「時を惜しむな、金を惜しむな・・・」の言葉(上野英信)あり。これまでも、「行くか行かないか」「どうしよう?」と迷ったときは(自閉しないで)動いた方がいい、ダブルスケジュールで困ったときは、近くより(少し無理しても)遠いところへジャンプしてみる、その方が後悔はない、これまでひそかに考えてきたことです。無理をしても動けば、必ずや報われるところがある。さて、今回はどんな旅になるのか。
 こんな独白の背景として、人形劇人“うそまこと”からのハガキ(略)をご覧下さい。まことに申しわけない!

1580号【12月23日】

◆<沖縄県立図書館・郷土資料室>
 12月20日夜から那覇に滞在中です。着いた翌朝、久茂地の「1フィート」運動事務局へ。新しい『沖縄戦の証言』(DVD版、風1578号に紹介)を求めました。早速、ホテルに帰って観てみました。子どもたちに向けた新版、いい出来あがりです。研究会でも一度機会をつくって感想など出し合ってはどうでしょうか。
 今回の訪沖は、戦後沖縄の青年団運動についての証言収集。とくに中頭の青年団OB・長老の皆さんにお会いするのが主な目的。24日夜に計画されている忘年会にも出席する予定です。
 準備のため、22日は終日、沖縄県立図書館にこもって、仲宗根悟さん(元沖縄県青年団協議会々長、沖縄県祖国復帰協議会事務局長)や中根章さん(同・沖青協事務局長、初代原水爆禁止協議会理事長)に関わる資料を読んでいました。決定版『沖縄県祖国復帰闘争史』(資料編1430頁、写真編 205頁、1982年刊)は、仲宗根悟さんが編集責任者。あらためて祖国復帰運動のなかで果たした「沖青協」の組織的な役割を実感させられます。
 沖縄県立図書館の郷土資料室に座って、ゆっくりゆっくり、収蔵資料を読むひとときは至福の境地。まったく知らない沖縄出版物も多く、沖縄独自の地域史資料の豊かさに圧倒されます。しかし、沖青協関連の資料はほとんどない。
 私たちの『沖縄社会教育史料』(全7集)は、第3集を除いてすべて収蔵されています。第1集は4冊も。しかしなぜか第3集は、いまは亡き関係者の貴重な証言集なのに、欠本になっています。
 『東アジア社会教育研究』(全10号)は1冊も入っていないことを発見。郷土資料室/奉仕担当の方にTOAFAEC・HPを開いてもらって確認をお願いし、在庫がある旨お伝えしておきました。手弁当で刊行してきた経由もお話して、できれば購入していただけないか、と“営業”もしておきました

1581号【12月25日】
◆<コザ(沖縄市)の夜−クラウンホテル>
 本欄で数回書いた「沖縄青年運動史研究会」のこと。中頭青年団OB忘年会は、12月24日夜・嘉手納l基地ゲート前・クラウンホテルで開かれ、印象的なひとときとなりました。25人ほどの皆さん、もちろん旧知の顔もありましたが、大半は初めての方。青年団運動史料の収集と語り継ぎ(杉並・安井資料データーベース化の例も出して)を訴えることが出来てよかった。再会を約して別れました。
 夜の会に先立って、この日午後、仲宗根悟さんを中心に青年団運動と復帰運動“自分史”とも言うべき証言を聞きました。いままで活字で読んできたことを、その当事者から直接に話していただくと、また格別に歴史が蘇ります。 *写真(12月24日)■
 本号は、とくに思いをこめて、復帰運動に関わる次の碑文を収録しておきます。「全世界の友人に贈る」詩は、復帰の年(1972年)の復帰協・会長(故)桃原用行さんの作、石に刻まれた碑文は、同事務局長・仲宗根悟さんの書になるもの。桃原さんは1週間ほど辺戸岬に通って、「打ち寄せる波濤の響き」の中で、イメージを練られたそうです。

○祖国復帰闘争碑(沖縄県国頭村辺戸岬、1976年・建立)
  “全国のそして全世界の友人へ贈る”
 吹き渡る風の音に 耳を傾けよ
 権力に抗し復帰をなし遂げた大衆の乾杯の声だ
 打ち寄せる 波濤の響きを聞け
 戦争を拒み平和と人間解放を闘う大衆の雄叫びだ
   鉄の暴風やみ 平和のおとずれを信じた沖縄県民は
   米軍占領に引き続き 一九五二年四月二十八日
   サンフランシスコ「平和」条約第三条により
   屈辱的な米国支配の鉄鎖に繋がれた
 祖国日本は海の彼方に遠く 沖縄県民の声は空しく消える
 われわれの闘いは蟷螂の斧に擬された  
   しかし独立と平和を闘う世界の人々との連帯であることを信じ
   全国民に呼びかけ 全世界の人々に訴えた
 見よ 平和にたたずまう宜名真の里から
 二七度線を断つ小舟は船出し
 舷々相寄り勝利を誓う大海上大会に発展したのだ
   今踏まえている土こそ
   辺戸区民の真心によって成る沖天の大焚火の大地なのだ
 一九七二年五月十五日 沖縄の祖国復帰は実現した
 しかし県民の平和への願いは叶えられず
 日米国家権力の恣意のまま 軍事強化に逆用された
   しかるが故に この碑は
   喜びを表明するためにあるのでもなく
   ましてや勝利を記念するためにあるのでもない
 闘いをふり返り 大衆が信じ合い
 自らの力を確かめ合い決意を新たにし合うためにこそあり
   人類が 永遠に生存し 
   生きとし 生けるものが 自然の摂理の下に
   生きながらえ得るために警鐘を鳴らさんとしてある
                     (沖縄県祖国復帰協議会)

和光大2001プロゼミ沖縄旅行・闘争記念碑の前・吉松朋子さん(011001)



1582号【12月28日】
◆<青年団運動が刻んできた独自の歴史>
 沖縄は思いのほか寒い毎日。ところが帰りついた東京も、26日はとくに冷たい風が終日吹きすさんで、疲れもあったのか、少し風邪気味です。
 昔の沖縄行きは、学生を連れていくときなど責任もあり、ぐったり疲れたものですが、いまは気楽なもの。思い通りにスケジュールを組んで自由に歩きまわり、その点で疲れは全くありません。しかし体力はたしかに劣ってきているのでしょう。
 私はもともと農村社会学のなかでフィールドワークの訓練を受けてきました。調査というものは集団的な共同研究が多く、お互いの信頼を築きあって、収集してきた証言や資料を共有し、ときには激しい議論もして、そのなかで鍛えられてきた、疲れるのは当り前。そんな調査活動を懐かしく思い出しています。
 今回の調査ではどんな収穫があったのか。簡単ではありませんが、要点だけ少し書いておくと・・・。
 沖縄の祖国復帰運動は、日米安保体制・アメリカ極東戦略を背景とする現代史の激動のドラマ。そこに沖縄の青年団運動が(沖縄教職員会とともに)果たしてきた大きな役割。1950年代の復帰への先駆的な活動が注目されてきましたが、1960年(沖縄県祖国復帰協議会の結成)以降の本格的な展開のなかでも、政党や労働組合に伍して、青年団運動が並々ならぬ比重をもったこと。沖縄県青年団協議会は類をみない独自の歴史を刻んできたのです。
 ところが、その運動的な展開や具体的な事実は、あまり“記録”されていない。沖青協から復帰協に入って、復帰(1972年)まで事務局長として運動を中心的に担ってきた仲宗根悟さんはその象徴的な存在。復帰後も『復帰闘争史』の編集責任者。貴重な証言を聞くことが出来ました。たいへんお元気ながら78才。中根章さん(原水協・初代理事長)はじめ当時の若者たちもいま70代、復帰時点の沖青協関係者もすでに60才前後。その証言や資料をどのように記録していくことが出来るか。若い世代へどう語り継いでいくか。これからの課題がはっきり見えてきたように思いました。
 ところで、仲宗根悟さんにお願いして『沖縄県祖国復帰運動史』(資料編・写真編−2セット,特価8,500円)を2部ほど頒けていただくことが出来ました。復帰運動資料の決定版、ご希望の方はご一報を。

仲宗根悟氏(1953〜1958年・沖縄県青年団協議会(沖青協)事務局長、
 1966〜1975年・沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)事務局長等を歴任。
 復帰後10年『沖縄県祖国復帰闘争史』1982年・編集責任者、1927年生れ)





*沖縄訪問・交流記録(2)(2006〜)■

               トップ ページへ