平安の末から
鎌倉時代初めにかけて――
永治元(1141)年、春の夜更け。美作(みまさか)(いまの岡山県北部)の豪族、漆間(うるまの)時国は、夜襲にあって討死。わが子、勢至丸(法然の幼名)に、「敵を怨むな、私の菩提(ぼだい)を弔いながら、人としてのまことの道を求めよ」と遺言し、九歳の少年は、母の指図で仏門に……。
承安五(1175)年、春の夕刻。長じて少年は、法然房源空を名乗る。此処は比叡山黒谷の一切経′ワ千巻余を納める報恩蔵。法然はすでに全巻を五度読み返し、今は善導大師(中国唐代の僧)の観経疏(かんぎょうのしょ)≠一心に読み耽(ふけ)っていた。
母を残して故郷を離れ、もう三十年。訪ねてきた旧家臣の栃之助から母の形見の和歌と遺書を渡された法然は、地に伏して号泣。やがて経蔵に戻り、夜を徹して観経疏≠読みつぐ。
「彼の仏の願(がん)に順ずるが故に(阿弥陀仏の御名を称えることが仏の願いにかなう)……」
何回も読み過ごしてきた文章の一節。法然は歓喜にふるえ、念仏を称える。
叡山を下りた法然は、西山の広谷へ、ついで東山の吉水に移って庵(いおり)を開き、一切の差別を排して、老若男女、僧俗貴賎を問わず、教えを説いた。
文治二(1186)年。南都北嶺の高僧たちは、法然の説く専修念仏≠フ教義を糾(ただ)そうと法論を挑む。所は大原の勝林院本堂。顕真法印(のちの天台座主)をはじめ、諸宗の碩学たちを向うにして、舌鋒鋭い問いに一歩も引かず、「一切の衆生を救う阿弥陀仏の心」を諄々と説く法然房源空……。
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この前年、平家滅亡。七年後、鎌倉幕府が開かれる――だが兵乱・災害・疫病は止まない。弟子の信空、在家の茂右衛門・お虎夫婦らと、賀茂の河原で難民に粥を施しながら、人びとと語りあう法然。米が尽きる。と、前関白、九条兼実に仕える筑前(のち恵信尼)が、侍女の小竹を従え、男たちに米俵をかつがせていた。歓声がわく。
いっぽう、範宴(のち親鸞)は、洛中の底冷えのする、聖徳太子に由縁の六角堂に百日の参籠をつづけ、煩悩に苛まれる己の生きるべき道を求めていた。あと五日で満願の夜更け、範宴を慕う筑前が堂外に佇んで合掌……。
東山の麓(ふもと)にある吉水の庵室。遊女の山吹や琴路ともわけ隔てなく語り合う法然。そこへ夢で太子のお告げ≠ェあったから、と、範宴が訪れる。「恋は罪悪でしょうか」の問いに、「念仏が申しよいなら妻をめとるもよし」と答え、乞われて綽空の名を、そののち綽空は法然より「選擇本願念仏集」を付属され、名を善信と改める。
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建永二(1207)年二月。
興福寺の衆徒の強訴で、専修念仏への迫害は激しくなる。上皇の寵愛の官女が尼になったことを理由に、根も葉もない破戒坊主の汚名を着せられ、安楽房は六条河原で打ち首に。都大路には僧兵がのし歩き、念仏者とみれば狼藉(ろうぜき)をはたらく。前関白のはからいで、法然らは、小松殿と呼ばれる洛東の九条家の館に難を避けていた。
そこへ法然は土佐へ流罪と決まった、という知らせ。念仏停止≠フ命に背いたと、僧侶の資格も法名もとりあげられ、ついで善信(親鸞)もまた、同じ罪名と同じ仕打ちで越後へ流刑と……。
「念仏を国のすみずみにまで広めるまたとなき機縁」。見送る一同の念仏の高唱に送られて、法然は旅立つ。ときに七十五歳。
老師との別れぎわに蓮生房(もと熊谷直実)は、師に代って美作の漆間の墓に念仏を手向けにゆくと告げる。
建永二(1207)年の晩秋。
越後の荒川は氾濫(はんらん)をくりかえす暴れ川。この地へ流された善信は、みずから愚(ぐ)禿(とく)親鸞と名乗り、弟子になったもと武士の覚善、その女房やよえ、村の男源太、おなじく女けさ、村人たちといっしょに土堤の普請をしている。
雪がやがて吹雪に。と、筑前の姿が……。噂を聞いて駆けつけたという。越後はその故郷。親鸞は彼女の法名を恵信とした。
建暦二(1212)年の冬。
越後・竹ヶ前の草庵。前の年に赦免された親鸞が恵信尼と暮らす住居。
布教から戻ってきた親鸞に恵信尼は夕餉(ゆうげ)の膳(ぜん)をととのえる。戸を叩く音。腹ぺこの男が雪まみれで転げ込む。膳のものを平らげ、恵信尼のすすめる薬酒を飲みほすと、やおら白刃を抜いて……。十年まえ、六角堂で出会った捨て子の五郎太だった。
国府の役人が駆けつける。親鸞夫妻は、五郎太をかばい、逃がしてやる。
覚善が、京からきた旅姿の横曽根の性信を案内してくる。この正月、法然上人は浄土へ逝かれたといい、遺戒として認められた「一枚起請文」の写しが示される。それは「只一向に念仏すべし」と結ばれていた。
夫妻は京へは戻らず、信濃から下総、下野、武蔵と東国の旅をつづけた。
元仁元(1224)年の初夏。
常陸・稲田草庵。二人のあいだには乳呑み児の王(おう)御前(ごぜ)がいた。小竹や漁師の女房まつ、村の女たちが、すべて恵信尼の指図で薬草を乾(ほ)している。
野良帰りの農夫、猟師、漁夫、商人などさまざまな生業の男女が、親鸞の法話を聞こうと集る。遅れてくるのは葛(つ)籠(づら)を背負った弥七。話がはじまる。突然、葛籠から半裸の女が、念仏を唱えながら飛び出す。弥七の女房のとよ。「着物がないんで、でもお話が聞きたくて我慢できずに」と……。「身を飾るより真実の心がたいせつ」と説く親鸞。
もの蔭から大刀を腰にした五郎太が現れ、平伏し、泣きだす。「あれから人殺しだけはしなかった」。「わたしは信じる」と親鸞。五郎太は恵信尼の懐にとび込む……。
三日後の夜――。
常陸の板敷山は修験道の聖地。此処に拠る播磨房弁円は、親鸞に法論を挑み、誤りあるときは破邪の戒刀を振るって生命を断つ、と……。
法螺(ほら)の響き。雷鳴。山伏の一団が現
れる。 弁円と親鸞の問答が始まる……。
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文暦元(1234)年の初夏の朝。
草庵の前の道。
教義の根本を述べる「教行信証」の初稿ができた親鸞は、都へ行ってさらに仏典を読み、稿を練って完成させるため、王御前を連れて恵信尼とともに――
(あらすじ・丸橋 恒夫)
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