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前進座の歩みindex
- 2001年1月刊『グラフ前進座──創立70周年記念』より引用 -
1931年~40年 | 昭和06年~昭和15年 | 創立と研究所建設、そして映画進出 |
1941年~50年 | 昭和16年~昭和25年 | 戦時体制下での苦闘、焼跡からの再出発、そして青年劇場へ |
1951年~60年 | 昭和26年~昭和35年 | 再び大劇場へ |
1961年~70年 | 昭和36年~昭和45年 | 創立の初一念にもどって |
1971年~80年 | 昭和46年~昭和55年 | より巾広く、そして次の世代への移行 |
1981年~90年 | 昭和56年~平成2年 | 五十周年と劇場建設 |
1991年~2000年 | 平成03年~平成12年 | 進め若く新たに |
2001年~2021年 | 平成13年~令和4年 | 前進座の歩み この20年 |
この創立に到るまでにつぎのような歩みがあった。二〇年代後半に起こった世界的な経済恐慌の波及によって、わが国でも企業倒産、首切り、減俸などが広がり、労働争議や小作争議が頻発し、労働組合、農民組合、無産政党が結成された。
その影響は、象牙の塔といわれた歌舞伎界にも及んだ。それは劇場従業員も含めた人員淘汰と減俸で、幹部俳優も例外ではなかったが、とくに下級幹部や大部屋俳優たちに不安と動揺を与えた。この事態に対処しようと俳優協会の有志たちにより「優志会」がうまれ、大部屋俳優の相互扶助の集まりである「共和会」と話しあいがもたれた。そこでは身分差別と低賃金の問題もとりあげられ、共同歩調をとることになった。中村翫右衛門、中村亀松(後の鶴蔵)らが中心となって発行した雑誌『劇戦』は、そうした動きを、幕内の人びとに訴えた。
いっぽう、旧来の歌舞伎劇の上演だけではあきたらず、革新的な新劇人たち(小野宮吉・村山知義・佐々木孝丸等)と共に新作を上演した河原崎長十郎らの心座や、翫右衛門らの大衆座の人達は、ともに力を合わせ、松竹を離れた市川猿之助を中心に春秋座を結成、『アジアの嵐』の旗揚げ公演に発展していった。
その後表裏の複雑な事情から、猿之助は会社に復帰、市川荒次郎、長十郎、翫右衛門、亀松らが中心となって前進座が誕生した。劇団名は「前進座」という村山知義の提案に全員が賛同して決まった。あたかも満州事変勃発の四ヶ月前であった。
創立参加者は三十二名、歌舞伎名題三名、大部屋出身十六名、女優二名、新劇から文芸演出陣五名、それに名題の弟子、男衆たちが加わった。旗揚げ公演は六月十二日~二十八日、市村座で、創立にいたる歌舞伎界と春秋座のできごとを題材にした『歌舞伎王国』長谷川伸作『飛びっちょ』光村進一(翫右衛門)作『白粉の跡』の三本立てだった。長谷川伸氏は脚本料をとらずに、その後も座に作品を提供してくださった。各新聞は華々しく取上げてくれ座員一同意気盛んであったが、予想外の不入りで、次の公演の仕込費も残らなかった。街頭宣伝から戸別訪問までして宣伝、資金繰りに苦労して第二回をあけたが前回に増す赤字で、約束した給料も出せなかった。宮戸座、小林一三社長の招きによる宝塚中劇場、岡山巡演と続いたがうまくいかず退座者も出る始末、浅草公園劇場での曾我廼家五九郎一座などとの共演は、年の暮れまで三ヶ月続き、やっと月三十円の給料を劇団員に支払えた。荒次郎が退座して、空席となっていた幹事長に長十郎が選ばれた。十二月には伊藤熹朔デザインによる座のシンボルマークが生まれた。
翌三二年正月、市村座との提携が実現、この時星野欽治専務から「いろは順の連名をやめスターシステムを取りあげよ、『仮名手本忠臣蔵』の通し上演をやるべし」との提案があり、大討論の末、スターシステムを取りいれ歌舞伎上演に踏み切ったが、新連名をみて紛糾し十名の退座者を出した。この公演は古典の再検討と批判的継承という創造理念を打ち立てる端緒となった。渥美清太郎氏の演出、中村吉之丞氏の指導は、その後も永く歌舞伎上演に大きな支えとなった。四月、市川笑也改め五代目河原崎国太郎が誕生したのだった。公演は成功したが五月二十一日創立記念日の前日に市村座は焼失、八月の新橋演舞場(川村徳太郎社長)の出演はまさに救いの神となった。各地に後援会も生まれた。JOAK(NHK)ラジオドラマにユニット出演し、以降恒例となっていった。はじめて規定どうりに給料が支払われた。暮れには機関紙月刊『前進座』が創刊された。
翌年の七月、毎日新聞、新妻莞学芸部長の援助により大阪松竹との提携が決まって道頓堀の浪花座に初出演、『安中草三』の立廻りで評判となった。九月から多摩川撮影所根岸寛一所長のすすめで日活映画『段七しぐれ』(サイレント)に出演した。板東妻三郎、稲垣浩の各氏の応援があった。
十一月、七回目の新橋演舞場公演では『勧進帳』に挑戦した。十八番物は市川宗家の認許がなければ上演できない慣例だったが、長十郎は九代目団十郎と姻戚関係にあり、亡父の十七回忌追善供養という趣旨で黙認された。また〝上演推薦発起人〟が組織され、多くの知名人の支援を得て大きな社会的反響を呼んだ。この公演で亀松改め四代目中村鶴蔵、菊次郎改め六代目瀬川菊之丞が誕生した。
翌十二月には日本劇場開場式に『式三番』で出演し、また大都市や全国各地に後援会が広がっていった。三四年二月には『沓手鳥孤城落月』で作者坪内逍遥氏最後の指導を受け、さらに鶴屋南北、近松門左衛門の作品にも挑戦、創立からの長谷川伸、村山知義、真船豊、三好十郎、久保栄等の新進劇作家の作品も上演。また三五年六月より日活第一回『清水次郎長』、第二回の山中貞雄監督による『街の入墨者』は、キネマ旬報ベストテン二位となり、写実な生活感のある時代劇として映画界に新風を送った。
三三年から三六年にかけて日本に滞在し日本文化の研究につとめ、日本美の再発見をしたことで知られる、ドイツの著名な建築家ブルーノ・タウトは、前進座の創立三周年記念新橋演舞場公演を観て、「私の知る限りでは、日本の伝統演劇と同時にすぐれた国外の舞台の根本的な研究から出発して、発展の道程を進まんとあらゆる努力と試みをしめしている唯一の劇団」であり、「この一座は砂漠におけるまことに数少ないオアシスのひとつ」である(日本文化私観)と述べている。
創立五周年の記念日には、北原白秋作詞、山田耕筰作曲の座歌が生まれた。
創立以来、劇団が強く望んでいたことは、稽古場と住宅の確保であった。
この時期、舞台の相次ぐ大入りにくわえて、年間四本の映画出演も決まり、『河内山宗俊』『股旅千一夜』、そして新たにPCL(後の東宝)との提携ができ、『戦国群盗伝』(第一部・第二部)の映画出演が続くなかで当時五万円の余剰金が生みだされ、稽古場と住宅をあわせもつ、「研究所」の建設が決定された。自由法曹団布施辰治氏の尽力により「劇団前進座住宅株式会社」を設立、創立六年目の三七年六月二十三日、吉祥寺に創造と生活の場を統合した世界でも珍しい「前進座演劇映画研究所」が完成した。開所式には、十五代目市村羽左衛門、六代目尾上菊五郎をはじめ、各界から五百名余の来賓があった。
舞台では新しい歴史劇『シーボルト夜話』がうまれ、また『助六由縁江戸桜』『勧進帳』『暫』『鳴神』と挑戦が続いた。映画は『人情紙風船』(山中貞雄氏遺作)『阿部一族』『逢魔の辻』と続き、日本映画監督協会より「集団演技賞」を受賞した。
この間三六年「二・二六」クーデター事件、三七年盧溝橋事件、日中戦争の拡大、そして遂に第二次世界大戦勃発となっていく。
三八年には大阪中座初出演、映画『我等の友』が企画されたが時局下好ましからずと不許可、三九年中座で農村困窮をえがこうとした『大日向村』は検閲により内容を変更されるなど、次第に非常時国家総動員体制に組みこまれていった。九月演舞場公演では当時の「歌舞伎滅亡論」の風潮に対し、研究会を開いた。その顔ぶれは、渥美清太郎、伊原青々園、本山荻舟、河竹繁俊、秋田雨雀、藤森成吉、鳥居清言(言人)、村山知義、服部之総、長谷川伸、伊藤熹朔、三好十郎、三宅周太郎という方々だった。そして『五大力恋緘』の原点にもどって再検討をくわえた上演は、歌舞伎再認識に好影響をもたらした。一方座の若手俳優には戦争の情況により召集と云う危機感があり、新劇をやりたいという希望を強く持つ者もあった。「歌舞伎組」と「新劇組」に分ける
意見も出され、根気よく討論が重ねられた。この新旧の芸術的な相剋は演劇文化全体の課題であり、前進座の理念と努力の目標でもある。のちに終戦後復員してそれぞれの方向に進んだ加東大介、河野秋武、石島房太郎、若宮太夫、原ひさ子なども活躍した。
浅草国際劇場初出演には、当時人気絶頂であった、広沢虎造口演により『追分三五郎』『荒神山』と浪曲劇を上演、大当たりをとる。四〇年には『乃木将軍』『父なきあと』『大地に祈る』等、より一層戦争色の作品が多くなるが、人間性を尊しとする線は貫こうと努力を続けた。そういうなかで、やっと作家からのお許しを得て『一本刀土俵入』(長谷川伸)が初演された。
この年には座員五十人制から七十人制にして十三名の新人を編入、研究所の庭に鶏を飼ったり、野菜畑を作って自給自足をはかった。すでに米を始め統制令が出ていた。
創立十周年までの一年間、演技修業の猛訓練として〝絶対修業〟が提唱された。スローガン「セリフの聞えぬ者、わからぬ者、扮装の不備な者、着こなしのつかぬ者、交流しない者を舞台から無くせ」というもので、目指すのは“落ちこぼれ”をなくすことだったが、同時に絶対というように軍国主義的風潮があったことは否めない。そして、力演を生むような複雑な面を残すことになった。 三八年九月十七日、山中貞雄監督が二十九歳の若さで『人情紙風船』を遺作にして、中国・開封で戦病死した。前進座映画の生みの親であり、座にとってはかけがえのない恩人であった。前年の〝皇紀二千六百年記念芸能祭〟参加作品、『陸奥宗光』が最優秀賞に選ばれ、脚本賞が藤森成吉、演出賞が岡倉士朗、装置賞が伊藤熹朔、翫右衛門には演技賞が贈られた。しかし、いっぽうで新築地・新協劇団などは弾圧され、築地小劇場は国民新劇場と改称された。そして四一年より『元禄忠臣蔵』の系統的上演が始められた。それは松竹大谷竹次郎氏の企画であり真山青果も「前進座の名誉とすべきこと」と喜ばれた。
創立十周年の記念の会には、座をささえてくれた進歩的な人たちの顔はなく、情報局、陸海軍の将校連が加わっていた。この頃には、劇界すべてが軍の統制下に組み込まれていた。七月、映画『元禄忠臣蔵』が松竹と提携、七ヶ月にわたる撮影の終わり近くの十二月八日、太平洋戦争が起こった。討ち入りの立廻りを取り入れなかったのは、溝口健二監督の抵抗の姿勢であったといわれる。四二年十一月三日、研究所の住宅三棟を全焼、約半数の二十七世帯六十五名が住居を失った。演舞場からこの日の公演中止の申し入れがあったが休まなかった。この頃から “徴用産業戦士”の慰安公演も増え、次々と若手俳優の召集が続いた。四三年十一月『元禄忠臣蔵』系統的上演が完結した。
十二月太平洋戦争二周年にあたり海軍省は『不沈艦撃沈』という芝居を松竹を通じて強要してきた。マレー沖海戦でイギリス戦艦二隻を沈めた秘密火薬を作った軍需工場の話であった。何とか断ろうと努力し、時局にふさわしくないと否定されることを期待して出した『助六』までが許可されてしまい、この二本立てで上演せざるをえなかった。この頃、アメリカの反撃は本格化しはじめ、「決戦非常措置要綱」により大劇場は閉鎖され、四四年三月東京劇場公演は中止された。
座は家族と約三十名の子供を長野県蓼科と豊科に疎開させた。戦争協力税として生まれた入場税はすでに二十割となっていた。いわゆる〝月月火水木金金〟の労働強化が始まり、情報局は「移動芸能動員本部」を設け、前進座はそのスケジュールにより、一隊は『不沈艦撃沈』『権三と助十』で八幡製鉄所や、大阪朝日会館、他の一隊は東京近郊を巡演した。月刊『前進座』は百二十九号で廃刊された。十一月新宿第一劇場公演は戦中大都市大劇場出演の最後となった。四五年から地方巡演に切り替え、東北、東海、北陸を廻った。一月には、国太郎、六月喜五郎、小三郎、更に宮川雅青も召集されていった。二班に分かれ長野県下を巡演、一九四五年八月十五日、一班は南安曇郡温(ゆたか)村で、一班は塩尻で終戦を迎えたのであった。
巷は敗戦による空襲の焼跡、飢餓、インフレ生活のなかだったが、座は、九月八日、JOAKからの『助六』の放送が戦後の活動の第一歩となった。十月には召集された十余名が復員、家族も疎開から帰り全員が顔を揃えた。一軒の家は一階と二階に分け、食堂も図書室も住居として全員が入居した。
この十一月、座は帝国劇場に出演、演目は朝日新聞の古垣鉄郎氏の推進によるフランスの抵抗劇『ツーロン港』(ジャン・リシャール・ブロック作)と『鳴神』であった。GHQ(連合軍司令部)の検閲では『鳴神』は邪教を否定し女性の勝利をうたうヒューマンな芝居であるとの評価であった。新しい出発のこの公演中に、創立者の一人中村鶴蔵は十二月二日、『鳴神』の白雲坊に出演中吐血、七日胃潰瘍のため不帰の人となった。創立以前から翫右衛門の相棒であり名脇役で、国太郎をはじめ座員や子どもたちの指南役、世話役でもあった。まだ四十七歳であった。座は大きな推進力の一人を失った。
敗戦の飢餓状況は翌年になっても変わらず、インフレはますます高じ、外地からは復員者、引揚者が続々と帰国し、失業者は増大していった。食糧を要求するメーデーに二十五万人が参加したのもそうした情況の証しであり、また労働者たちは次つぎと労働組合を結成、物価高に追いつく賃金値上げ要求の声をあげた。そして、戦争犯罪追求の国際軍事裁判が開かれるいっぽうに日本国新憲法が公布され、民主主義国家としての第一歩がふみだされた。
こうしたなかで第二回帝劇公演では、鈴木文史郎(朝日新聞編集局長)の推薦で『解放者リンカーン』をとりあげ、また同時上演の『初恋』は村山知義の八年ぶりの演出だった。しかし、初日の有料客はわずか五名という有りさまで、急遽招待客で埋めるという閑散ぶりだった。この当時入場税は、まだ戦時中の二十割りのままだった。そこで劇界こぞって「入場税撤廃期成同盟」をつくり、世間に減税を訴えたところ、三円五十銭以上の入場料に十割、以下は五割になるという一応の成果をえた。
その後、座は二班にわかれて巡演し、六月第三回の帝劇はリリアン・ヘルマンの『ラインの監視』で、CIE(民間情報教育部)演劇主任ハロルド・キースの推薦だった。ニューヨークで十五ヶ月のロングランをつづけ映画にもなった作品である。三階席を学生割引にしたところ、一万五千人を集め三階だけ満員という日もあった。つづく七月大阪歌舞伎座出演。かつての道頓堀の中座・浪花座・角座・文楽座はすべて戦災で焼失していた。全員楽屋泊りで食糧も乏しく、出番以外は楽屋で静かに横になって空腹に耐えた。
十一月、市川菊之助(後の中村歌門)の発案によって、大劇場公演を打ち切り、学生、一般勤労青年を対象に、全国の学校講堂、公会堂、工場に出かけていく公演を計画、学校主催は免税となり、入場料は一人五円でよかった。戦後二年目、創立十五周年にあたるこの年から、「青年劇場運動」と名づけて開始した。
第一回、ヴィクトル・ユーゴー作『レ・ミゼラブル(前編)』久米正雄脚色、今日出海演出。 伊藤熹朔の機動的な装置で、俳優が大道具、小道具、衣裳、かつら、照明等すべてを兼ねるやり方だった。十一月十九日東京立教高等女学校を初日に、翌四七年四月まで二五〇回、八百余校三十万人の生徒が観劇、第二回は『レ・ミゼラブル(後編)』を上演、三九〇校十五万人を動員した。また別に歌舞伎上演の組をつくり、三班が巡演した。第三回は『ベニスの商人』を上演、十一月には早稲田演劇博物館でページェント公演を行った。この青年劇場運動に対し、「民主的劇団運営」「戦後日本の劇団経営に一つの方向を与え」「演劇文化運動に対する貢献」により四八年度「朝日文化賞」が授与された。五月から第四回青年劇場『むだ騒ぎ』班を同時に出発させ、朝日文化賞記念公演として日比谷新音楽堂でページェントを行った。座はさらに小学生対象の少年劇場運動を起こし、第一回『アリババ物語』が出発し、翌四九年八月まで全国で四四二回上演した。
この四七年から四九年にかけてはまさに激動の時代だった。四七年には片山哲社会党内閣が成立したかと思うと翌年には芦田内閣となった。四月は東宝撮影所の争議が起り、こなかったのは軍艦だけという、警察、アメリカ占領軍の介入、弾圧が行われた。十月には第二次吉田内閣となりA級戦犯十九人が釈放された。四九年初頭の衆議員選挙では共産党が三十五名も当選した。その後、国鉄第一次整理に続き、下山総裁事件、三鷹駅電車暴走、松川列車転覆等、不可解な「事件」が相次いだ。そして国際的には中華人民共和国が成立し、翌年には朝鮮戦争が勃発した。
この頃の入場税は逆行して十五割に値上げ、この時の入場料四十円のうち二十四円が税金であった。当時、大劇場は二百円から三百円、小劇場でも五十円から六十円で勤労者には手の出ないものだった。東京では「勤労者演劇協同組合」が組織され、共同鑑賞会が始まった。これはのちの「労演」「演劇鑑賞会」の始まりである。戦後の文化の荒廃した各地では、心から歓迎され、観客と共に公演が組織されていった。四十八年から五十三年にかけての六年間、いくつかの班に分かれ全国津々浦々での公演がおこなわれた。しかしいっぽうで公演が入場税予納制のため、しばしば売上を差し押さえられたり、また警官が入場を拒み、刑事事件として逮捕される主催者もあった。座員たちは厳しい日常生活の現実を見、こうした支援者たちの活動に感動をおぼえた。
GHQと文部省、教育委員会からは早速「後援を拒絶したこと」「学校施設を貸してはいけない」等の通達を各学校長宛に出した。座員はますます団結をかため、溌剌として巡演活動を続けていった。『ベニスの商人』は六一二回の上演を記録、更に『真夏の夜の夢』『レ・ミゼラブル』の班、歌舞伎作品を演ずる「新文化組」、そして「創作班」「建設班」「新生班」と五班活動に入った。
また当時四十一名になっていた座員の子どもたちで「子供劇場」を発足、その後数年にわたり各地を公演した。そして、俳優養成のため「前進座夜間養成学校」を開設、百名近い応募者から男女二十九名入学、一日三時間週三日で短期三ヶ月制、卒業生から入座者を迎え、当時劇団員は百名に達していた。
五〇年五月、創立二十周年記念公演は神田共立講堂で『ロミオとジュリエット』『勧進帳』であった。多班活動は家族をふくめた全員の参加が必要であり、家族で歌えるもの、三味線を弾けるものは舞台へ、あるいは各地公演の先乗りとして参加、また飲食店や売店を開業して収入を上げる努力をした。研究所では食堂を三食制にし、保育園を創設して家事労働を助けた。そのうちに近所の子どものほうが多くなって、市の保育園開設に発展していった。
前進座の映画製作は、今井正の『歌舞伎王国』、山本薩夫の『首切り正月』と企画されたが陽の目をみないで終った。新星映画社は〝われらの映画制作委員会〟を提唱、前進座と共同で一口五十円の大衆的な出資を精力的に集め、三人一組の演芸隊を七班つくって呼びかけに動いた。その頃首切りが続き失業者が溢れ、日当二百四十円の日雇い労働者〝ニコヨン〟の物語『どっこい生きてる』が決まり三回の書き直しで「映画倫理規定委員会」の審査も通り、三月から撮影が開始された。撮影中、警察によって撮影用ワゴン車もろともスタッフ四名が拉致されたり、共産党幹部が潜伏しているとの口実で、前進座が家宅捜査され、未使用のフィルム三巻を使用不能にされたりした。完成後一ヶ月たってやっと封切館が決まり、六万人余の人々が集まった。資金のうち、大衆カンパは四百万円で、中にはニコヨンさんがガマ蛙を獲って大学の実験用に売り、寄付してくれたようなエピソードが数々あった。この作品は「独立映画運動」の第一作となった。巡演と募金活動を続けながら、第二作『箱根風雲録』の準備を進め、多くの演劇映画人の出演を得て十一月から撮影に入った。歌舞伎座出演中の松本幸四郎氏は、勘三郎、勘弥、訥升、又五郎、福助他、俳優諸氏の寄付を届けてくれた。劇団の中庭には、トンネルのオープンセットを作り、真冬の夜中に水中撮影が行なわれた。しかし前回よりも多額の赤字を背負こむことになり、座歴三年以上の座員は給料の何割かを座が借用するベースダウンをしなければならなかった。この間、大稽古場を改造拡張し(客席三百名位)、公演を行えるようにして、地域交流と意欲的な発表の場とした。
前年からの朝鮮戦争は、やっと休戦の会議が板門店で開かれ、九月にはサンフランシスコで講和条約が調印された。五二年には皇居前広場で血のメーデー事件があり、民主的組織への弾圧はいよいよ烈しくなっていった。北海道巡演中の第二班翫右衛門班は、モリエール『守銭奴』、近松『俊寛』、舞踊劇『どんつく』の演目であったが、公演日に会場使用を拒否され、広場で準備を始めると、消防演習と称して水びだしとされ、電源をも切られたりした。赤平豊里小学校講堂では、三日前のストリップの公演は許可したのに、座の公演は当日になって不許可となり、怒った観客が二千人程会場に入り、舞台の準備をしてくれて開演した。翌朝、若い座員五名ほか地元の青年を含め九名が不当にも逮捕状無しでつかまり、「住居不法侵入罪」で起訴され、のちに五名の座員が服役し、つづいて翫右衛門にも逮捕状が出た。翫右衛門は俳優のつとめとして各地、『俊寛』の舞台には出演したが、ついに中国に難をのがれざるをえなかった。その後翫右衛門は、北京で開かれた「アジア太平洋地域平和会議」に出席した。しかし、この北海道公演の出演料は入らず、映画の赤字一千万円と共に座の経済は大きな危機となった。座は巾広い観客の支持を得て、より発展させ大劇場公演再進出をかち取るための努力を積み重ねた。五三年名古屋新歌舞伎座出演を皮切りに、五四年『寺子屋』では嵐芳三郎が千代の役で芸術祭奨励賞を受賞、五五年には大阪歌舞伎座に十年ぶりに出演、さらに七月名古屋御園座十三年ぶりの出演を果たした。
また東映との映画『美女と怪竜』(鳴神の映画化)が製作された。子供達も活躍し、『蟹工船』『ひろしま』『にごりえ』『太陽のない街』『足摺岬』『ともしび』『ここに泉あり』など二六本の作品に出演した。ラジオでは十年ぶりで舞台中継があり、歌舞伎特集に前進座が登場しはじめる。『どっこい生きてる』『箱根風雲録』も中国に輸出され、製作から四年目に収支がつぐなわれた。
この年、大阪歌舞伎座松尾国三社長、社会党鈴木茂三郎委員長の努力で市川猿之助一座の国慶節歌舞伎使節団の中国公演が実現、久原房之助、北村徳太郎、馬島僴、松本治一郎、鈴木茂三郎、井谷正吉等、政財界の人々の骨折りによって身元引受人が組織され、十一月四日、翫右衛門は三年ぶりに帰国することができた。十二月には俳優座劇場の出演も実現した。
五六年二月大阪歌舞伎座興行は、翫右衛門四年ぶりの舞台復帰により、久しぶりの長十郎、翫右衛門他一座総出演となった。前年六月についで、戦後三回目のこの公演は、大阪の広汎な観客層の支持を得て、初日から千穐楽まで大入りをつづけ、霜枯れ二月不入りの常識をふきとばす好況で打上げた。引きつづき、十三年ぶりで出演した京都南座公演、五月東京俳優座劇場公演における、全員のアンサンブルによる迫力ある舞台と、長十郎、翫右衛門久々の顔合わせの好評のあとをうけて、この年二回目の、六月大阪歌舞伎座、七月京都南座、名古屋御園座の大劇場公演が実現した。
翫右衛門の第一審公判が四月から始まり、各新聞も大々的に報じた。政界、労働界、文化人等有志による支援の会も開かれ、また裁判には弁護団が組織され、「中村翫右衛門を守る会」による多数の公正裁判要請がなされ、特別弁護人に鈴木茂三郎、千田是也、中島健蔵などの人々が出廷し、費用も「励ます会」の「現代名士百人展」などにより基金活動が進められ、全国からも資金が寄せられた。そして六年に及んだ裁判も「懲役六月、執行猶予二年」の判決となった。
またこの時期、中国の名優梅蘭芳氏を団長とする京劇団一行が来日し、六月十六日、大阪歌舞伎座出演中の前進座の舞台を観劇した。
さらに、五六年度「テアトロン賞」(東京演劇記者会賞)が『御浜御殿綱豊卿』(前年五月俳優座劇場)、『俊寛』(十一月俳優座劇場)の舞台成果に対し贈られ、この受賞に続いて念願の東京大劇場進出が五七年明治座と決定したが、四月の明治座火災のため、急遽、都内巡回公演に変更し、同座の再建を待たねばならなくなった。しかし、読売新聞社正力松太郎社長の好意により、この年の五月に竣工した近代的建築を誇る読売ホールへの十一月出演が決った。都心の大劇場出演は、戦争が激しくなり大劇場公演がもてなくなった四三年の新橋演舞場、東京劇場出演以来、実に十四年ぶりのことであった。『勧進帳』では檜の松羽目を作り能がかりの演出で、長十郎が芸術祭賞を受賞した。
翌五八年は、七月に十五年ぶりの新装明治座へ、大阪のアサヒフエステイバルホール、毎日ホール、名古屋の名鉄ホールと、今までにない新しい劇場へも進出し、一歩づつ確実な興行の成果を積み上げていくことができた。
このころ、テレビでドラマ番組の放送が本格化してきた。初めて中部日本テレビ(CBS)から『将監様の細道』に出演した。テレビによる舞台中継はすでに五五年のラジオ東京テレビの『太功記十段目』を皮切りに、五八年にはNHKがはじめて『め組の喧嘩』を中継した。五七年十二月NHKカラーテレビで内幸町のスタジオから『毛抜』を放映、続いて翌年『文七元結』が放映された。
創立三十周年のしめくくりの意義において、六〇年第一次訪中公演が実現し、東京をはじめ各都市で盛大に歓送会が行われ、二月六日訪中公演日本劇団前進座、総勢七十名が出発した。演目はAプログラム『佐倉宗五郎』『勧進帳』、Bプログラム『俊寛』『鳴神』で北京、西安、武漢、南京、上海、広州と公演、とくに北京では首都劇場公演終了後、中国文学芸術界連合会、中国人民対外文化協会、中国戯劇家協会主催で前進座創立三十周年慶祝招待宴を開いてくれるなど、建国十年目の新しい中国の文化にふれ、「百花斉放、推陳出新」の政策と各演劇の発展に感動した。その年九月、新劇の訪中公演があった。
帰国後明治座で創立三十周年記念公演が行われ、大変な大入りであった。各地で帰国歓迎や三十周年祝賀会が催された。十二月には十七年ぶりの新橋演舞場再進出が実現、演目には京劇『野猪林』から『水滸伝』を創作、中国戯劇家協会の招きで、平田兼三、梅之助、芳夫他四名を一ヶ月派遣し、京劇を研修、衣裳・小道具も中国から贈られた。それはさらに六一年には『猟虎記』を、『続水滸伝』に発展させ、若手が主役となり、京劇の立廻りをとり入れ上演した。
五三年以来の大都市商業劇場公演の失地回復は座の活動を大きく発展させ、芝居創りの創造的な力量が尤も充実した時期であったといえよう。
ちょうどこの時期、全国に新しい労演がつぎつぎに生まれ、若い人たちのあいだに「前進座の芝居がみたい」という声があった。しかし座の大都市大劇場進出にともない、これらの興行を成功させていくことは容易ならざる事業であったため、労演をはじめとする地方巡演の比重を軽くせざるをえない状況があった。この問題を解決するため座と労演の結びつきを深め、統一企画実現にむけて努力し、大都市公演と全国巡演の二本足の活動を押し進めていった。
新しい希望と理想にもえて、歌舞伎の門閥制度から独立して、わずか三十二名で出発した前進座も創立三十周年を迎え、俳優四十四名、制作局員十七名、営業局員三十八名、裏方十五名、家族、子供たちを加え二百十名の大世帯となっていた。この間、幾多の困難に耐えてくることができた基礎には、共同の精神による集団生活があったといえる。その存在が国際的にも注目され、日本で数少ない独立自営劇団としての特色を確立した。この時期、演劇界はプロデューサーシステムが導入され、混合顔合わせの演劇興行が盛んになりつつあった。このようなことから、座はますます理念に徹した努力と、外部の脚本、演出、美術、照明、音楽、効果、振付、演技指導などの協力を得て、あらたな充実の原動力とし、この数年間の演目は、創作、脚色を問わず、新しい書き下ろし作品を次々に生みだしていった。
六一年以降の新しい演目として、六月読売ホールほかで上演された吉川英治作『新平家物語』。十一月新橋演舞場では、井上靖原作の『風と雲と砦』、つづく十二月読売ホールでは、松本清張の処女戯曲『無宿人別帳―いびき』の野心的上演等である。六二年には、新橋演舞場出演が年二回になり、六月の新橋演舞場で上演された松本清張作『左の腕』は座の〝新しい世話狂言〟として、歌舞伎様式にもとづく演出が成功し、その年の『屈原』『左の腕』『御浜御殿綱豊卿』は、この年度の第八回テアトロン賞を受賞した。
さらに六三年四月読売ホールで井上靖原作、依田義賢脚色『天平の甍』、六月と十二月の新橋演舞場で津上忠作『黒田騒動』、安藤鶴夫原作『巷談本牧亭』などの初演があった。翌六四年の初演作は、五月読売ホールでの森鴎外原作、津上忠脚色、小沼一郎・津上忠共同演出『阿部一族』(第十回テアトロン賞)と六月新橋演舞場における、山本周五郎原作、八木隆一郎脚色『季節のない街』があり、六五年十二月新橋演舞場の幸田露伴原作、津上忠脚色『五重塔』とつづいた。この間、創作・脚色を問わず、新しい書きおろし作品が次ぎつぎに生みだされ、世話物、歴史劇、現代劇にわたって座の演目にいくつかの財産を加えた。また津上忠は『阿部一族』から『五重塔』にいたる作品の成果に第一回日本演劇協会賞を受賞した。また労音や労演の鑑賞団体の例会では『勧進帳』『鳴神』『毛抜』や『俊寛』など伝統演目がとりあげられた。
六三年一月、前進座の舞踊班として、公三郎、鶴蔵、太三郎、梅之助、芳夫の五名が新制作座と共にインドネシアを訪問し四月中旬帰国した。
六三年五月十四日には創立以前からの仲間であり、宣伝部長であった原友義が六十二歳で他界した。
六六年の八月から十月にかけて、第二次中国訪問公演がおこなわれた。六〇年二月の訪中のときからの下話がまとまったもので、第一次の演目は、歌舞伎から劇団の代表作を選んだのに対し、今回は創作劇の代表作としてAプログラム『五重塔』、Bプログラム舞踊劇『髭櫓』と『巷談本牧亭』であった。
この時期の中国はいわゆる〝文化大革命〟の真只中であり、国内での準備段階でも、演目の一つに予定されていた『坂本竜馬』を『巷談本牧亭』に変更するという経緯があり、このような中国側の事情を懸念し、「この状況の中で芝居をあけて問題は起こらないか」と念をおしたところ、「あなたがたの準備された芝居を、あなたがたの考えどおりやってください。もしも問題がおこれば、それはわたしたち中国側の責任で解決します」という回答であった。ところが、北京での『五重塔』舞台稽古終了後、十兵衛と源太の対立と葛藤の扱いにおいて、毛沢東理論に反するとの申し入れがあり改訂を迫られた。長十郎はそれに同意し、団長としての責任と先導のもとに、脚本をはじめ、演出、演技の大幅な変更が強行された。
帰国後の十二月新橋演舞場での『鳴神』出演中、長十郎は持病の糖尿病に肝炎を併発して入院し、舞台を休演した。この数年間、長十郎の独裁的な傾向は次第に強くなっていて、幹事長体制を強化するとともに、創造上の問題においても、自分中心の演目がふえ、それを自分の主観で理屈づけるきらいがあった。歌舞伎劇を否定、女形を不要とし、『魚屋宗五郎』『芝浜の革財布』『文七元結』などの大衆性ある作品をも否定するようになっていた。これらの考え方は、座の理念の上からも、到底うけいれられるものではなく、彼の病気の回復を待って話しあうことにしていた。
翌六七年八月二十四日、退院後も自宅静養をつづけていた長十郎が一新聞社に共産党を離党した旨を通知したことにより、その頃社会的な大きな話題になっていた中国文化大革命と関連して報道され、座の興行は各地で混乱した。この混乱を収拾するための拡大幹事会が開かれたが、長十郎との意見は大きく食いちがい対立した。そして九月三日に臨時総会を開くことで彼も同意し決定された。
ところが、臨時総会を準備する過程で彼は、前言をひるがえし、幹事長の承認しない総会は成立しないと伝えてきたため、止むを得ず座規約にもとづく座員の三分の一以上の要求で総会が開かれた。総会では「規約改正」と、「総有財産保全」の特別決議を行った。その主旨は今後、誰が幹事長になろうが家父長的なやり方は許さないということにあった。
その後九月二十七日、長十郎は単独で記者会見をおこない、この総会について座を誹謗する談話を発表し、翌日、劇団への一方的な通告をしただけで中国へ渡った。これを受け九月二十九日、座員五十名が出席して、長十郎の問題についての「事実の経過と座としての態度」を説明する記者会見をおこなった。
その後も彼は、座の内部の問題を対社会的に一方的に表明し、世論に誤解をひろげようとする行為をつづけた。座は、翌年七月の臨時総会で正座員六十三名中長十郎を除く六十二名が出席し、全員一致で長十郎除名を決定した。そして翫右衛門を幹事長に選任した。
第二次訪中のしばらく前から、座の興行成績は下降線をたどっており、長十郎事件はそこに加えられた大きな打撃であり、創立以来の最大の危機であった。座員は総力を結集して、販売活動に力を尽くすとともに逸脱しかけていた劇団のありかたを、〝創立の初心〟にかえることを決意し、第二の創立期であるとの自覚を高め積極的に再建にとりくんだ。また、前進座を危機から守ろうという全国からの多大なご支援が寄せられた。
六八年四月、これまで個人経営の形態にあった劇団を法人化し、座員の〝総有の財産〟を守るため株式会社前進座を設立した。それは同時に経理事務の近代化をはかり、長年の懸案であった各種社会保険(健康保健・厚生年金・失業保険・労災保険)を取得し、厚生年金を活用して人件費の軽減と高齢者の老後の生活安定をはかることにあった。あわせて「定年制」が導入された。
海音寺潮五郎、大佛次郎、井上靖、松本清張、水上勉ら五人の作家が発起人となり「前進座を応援し次代を育てる会」の呼びかけに、劇界をはじめ各文化芸術界百数十名の賛同を得、この年の創立記念日に「矢の会」と命名されて、発会式がおこなわれた。
さらに、これまでの〝閉鎖主義〟で数年の間途絶えていたテレビ・映画の出演を復活させ、六八年三月新橋演舞場で翫右衛門が新派公演に参加『巷談本牧亭』を上演、八月には名古屋御園座市川猿之助公演『四谷怪談』に直助役で梅之助が参加出演など、外部との交流を広げていった。テレビ出演は、二年後の七〇年に映画放送部を新設して、その年七月、NET『遠山の金さん捕物帳』に梅之助が主演し、その後足かけ四年にわったって百六十九話を続けたことからようやく本格化していった。この活動は、その後の劇団経営の改善にも大きく寄与していく。外部出演もかつてない規模となり、座の公演に外からの俳優や演出家を招くことも増えて、これらの交流は座員が視野をひろげ、座外の演劇人から学び、腕を磨く機会を多くした。六九年、劇団民芸の飯沢匡作・演出『もう一人のヒト』では滝沢修、宇野重吉、細川ちか子ら新劇のベテランと、翫右衛門との競演が、大きな話題となった。
この年の二月に開かれた劇団総会で、七〇年代の動きを展望し、座の将来への発展をめざす土台づくりのため「三ヶ年計画」をうちだした。その初年度の六月新橋演舞場公演は、新しい体制が作り上げた最初の興行だった。『ながい坂』は、宇野重吉を演出に迎え、配役も梅之助、杣、村田、千代子等の中堅を配し、「若手を盛りたてる舞台」と好評だった。そして、三年目にあたる七〇年十二月演舞場は、再進出いらいはじめての二部制興行をおこない、昼の部が『阿部一族』と『一本刀土俵入』、夜の部は『雨あがる』と『勧進帳』であった。『勧進帳』は翫右衛門の富樫で、梅之助、芳夫が初役で弁慶と義経をつとめ、歌舞伎十八番ものを次代が継承する成果をあげた。
またこの年の七月御園座で初演した吉川英治原作、大垣肇劇化『親鸞』の上演は、『天平の甍』につづく〝名僧伝〟を歴史劇の系列でとらえる、〝特別企画〟の端緒となった。
さらに次代を育成することを目的に、創立四十周年記念劇団前進座付属養成所が四月に開校した。
前年二月の劇団総会で決定された「三ヶ年計画」の第一年度の収穫は、努力すれば計画は達成できるという見とおしと確信をもてたことであった。
一、中堅層の創造力量の充実を社会的に実証できたこと、
二、経営活動の改善と生活の向上を前進させたこと、
三、多面的な活動が定着して他者との交流と座の大衆化に成果があがりはじめたこと、
四、座の民主的運営が基本的に確立されたことであった。
これらの成果は、歴史的な〝節目〟―創立、研究所の建設、戦後の全国活動、大劇場進出などにつづく座の壮年期の活動に新しい頁をひらいたものといえよう。五月総会では従来からあった退職金制度を改正し、「功労座員」制度を新設した。これは創立初期から座に尽くしてきた座員が一線を離れるようになっても、身分と生活を保障するというものだった。
また、従来からの医療補助の借金制度をあらため、劇団員の生活の相互扶助のため、「互助会」の設立をきめ八月に発足した。
四十周年記念公演以後、七五年までの話題になった初演作品、世代交替などの上演作品には次のようなものがあった。
七五年七月御園座、十月読売ホールほかで上演した『一本刀土俵入』は、梅之助が茂兵衛を初演。翌年十二月演舞場では『魚屋宗五郎』の翫右衛門、梅之助が交互に出演し、七四年十二月の演舞場は、『俊寛』をとりあげ、はじめての文楽との共演で、千鳥の役を芳夫といづみの女形と女優の交互出演という前進座ならではの上演であった。同じく『助六』は梅之助が初役の助六、揚巻は初演いらいの国太郎、意休は菊之丞に、芳夫の白酒売、福山かつぎに圭史、白玉に新派から英太郎をむかえ三浦屋から水入りまでの上演であった。さらに七五年創立四十五周年前年祭の十二月新橋演舞場公演では、十三年ぶりの『御浜御殿綱豊卿』で、梅之助が初役の綱豊、翫右衛門の富森、江島と喜世を国太郎と芳夫が交互につとめた。また近松門左衛門の作を小池章太郎が脚色した『女殺油地獄』につづき、『おさん茂兵衛(大経師昔暦)』、再演ではあるが『堀川波の鼓』と、女優の出演による近松劇上演の基盤を確立した。
これにさきがけ、初出演の東横劇場で初演した水上勉作、村山知義演出『天正戦暦姥架橋』では、いまむらいづみが初主演。つづいて、有吉佐和子原作、津上忠脚色・演出『出雲の阿国』はいづみを中心に女優が活躍し、「男性チームといわれた前進座が女性路線をうちだした」と注目された。
創立四十周年記念公演掉尾の、飯沢匡作・演出『天保の戯れ絵―歌川国芳』には二十八年ぶりに加東大介が客演した。翌七二年には松竹との提携で中村梅之助奮闘公演が企画され、『遠山の金さん捕物帳』が舞台化、翫右衛門、曾我廼家五郎八、和泉雅子らによる『あたしゃ一代』の二本立中座特別公演があり、以後奮闘公演は八〇年までつづいた。七三年は大垣肇作『続・親鸞』、七四年は八木隆一郎作、阿木翁助演出による『熊の唄』、そして七五年は水上勉原作『弥陀の舞』など有馬稲子、十朱幸代らの特別出演もあり舞台に華を添えた。
全国巡演では七五年六月、山本周五郎原作、田島栄脚色、十島英明演出『さぶ』が秋田で初日の幕を開け、以後この作品は、今日まで八百回をこえるロングランを続け、代表作の一つとなった。
新しい動きとして、七二年に青年劇場、七四年には児童劇場が、いづれも戦後初期の、少年劇場、青年劇場運動を発展させたかたちで発足した。青年劇場の第一回演目は『俊寛』ほかで、沖縄の本土復帰記念事業として初の沖縄公演をふくめ二年にわたり学生を中心に全国を巡演した。 翌年は大垣肇作『高野長英―水沢の一夜』ほか、さらに七四年は、ふじたあさや作、香川良成演出『さんしょう太夫―説経節より』と、あたらしい演目を加えていった。
児童劇場の儀間比呂志原作、ふじたあさや脚本『笛吹きカナシーー赤いソテツの実』は、翌年中央児童福祉審議会の特別推薦作品に選ばれ、東京都児童演劇優秀賞を授賞した。これらの作品は、養成所第一期生など若手が主役をつとめた。
このように他座、テレビ、映画などの出演で、その活動はかつてなく多岐にわたるようになった。組織的には、年一回の定期と臨時の総会が、この活動の中では困難になってきたため「座員会議」を総会に準ずる機関とすることを決めた。また七四年五月、二年前から座員の中から選出した連名委員会により、新俳優基本連名が発表された。大きな変化は、翫右衛門をはじめ第一世代(功労座員)を連名の中間に置き、第二世代を前面に押しだしたのであった。これは創立二年目の市村座時代にスターシステムをとりいれて以来の二度目の新俳優連名であった。
七六年、創立四十五周年の当年をむかえ、いよいよ〝第二の創立期〟の看板をはずし、後継者が座を背負って第一線をすすむ時代が到来した。あらたに「前進修行」という目標をたて、より充実した劇団づくりをめざした。そのひとつとして、大稽古場の照明、音響電源などの設備を整え、小公演・試演会をもてる定員三百名の小劇場として使えるように改修し、こけら落としは一月『操三番叟』であった。
この年の六月東横劇場では、全国百余の都市をまわってきた『さぶ』、梅之助と芳夫が初役で鳴神上人と絶間姫にいどんだ『鳴神』、座初演の『東海道四谷怪談』があった。創立四十周年をしめくくる十二月演舞場は『伝七捕物帳―捕縄慕情』と『出雲の阿国』に、中村翫右衛門舞台生活七十年記念を謳った、松本清張作『紅刷り江戸噂・たいこもち侍』と『新門辰五郎』の二部制で、曾我廼家明蝶の特別出演があった。
またこの年の八月から九月にかけて翫右衛門、岩五郎、公三郎、梅之助らが東京の五劇場に出演し、テレビ出演ではTBS『絹の家』に圭史、ほかにも連続ドラマのレギュラー出演があった。 またNTVの『伝七捕物帳』は四年間の放映を終了し、つづいて翌七七年のNHK大河ドラマ『花神』大村益次郎に梅之助が主演した。また、翫右衛門が出演したNHKの松本清張原作『天城越え』は一九七八年度の芸術大賞を受賞した。
創立五十周年の前年までの主な大劇場公演は、南北作、小池章太郎補綴改訂、高瀬精一郎演出『お六と願哲―杜若艶色紫』、『絵本合法衢』があり、この公演で嵐芳夫は六代目嵐芳三郎を襲名した。
『レ・ミゼラブル』の自由翻案『哀より愛へー開化無情』、チャップリンの『ライムライト』による筋立ての『舞扇慕情』や、長谷川伸が座の初期、翫右衛門に書きおろした『百太郎騒ぎ』を梅之助の百太郎、特別出演の有馬稲子がお米・お時二役で上演した。また、七八年は一月京都南座での第一回松竹前進座提携公演が実現、『花神』を上演し、小沢栄太郎、十朱幸代が客演した。また、新橋演舞場が、七九年から二ヶ年の予定で新築工事にとりかかることになったが、さいわいこの年の十二月公演は東宝の好意で帝劇出演がきまり、演目は池波正太郎原作、小野田勇脚本『大石内蔵助―おれの足音』で三木のり平、草笛光子、三浦布美子が客演した。
全国巡演の作品では、『さぶ』につづく山本周五郎原作『柳橋物語』、『心中天網島』さらに〝日蓮上人七百年遠忌〟記念事業のひとつとして、『日蓮』第一部が幕を開けた。青年劇場・児童劇場は、呼称を青少年劇場と統一し、『オバケちゃん』『星は歌っている』などの新作に加え、『さんしょう太夫』は劇界および児童演劇分野の代表的な四賞を重ね、一九七七年七月国立小劇場で受賞記念公演をおこなった。七九年二月前進座制作による〝都民芸術フェスティバル参加〟新劇合同公演が読売ホールであり、文学座、民芸、文化座、銅鑼、青年座、民衆舞台、新国劇などの俳優とともに座の代表的歴史劇『阿部一族』を上演した。
一方、四月には山本安英の会制作、木下順二『子午線の祀り』国立小劇場公演に圭史、吉次郎、竜之介が参加、宇野重吉他の演出、山本安英、滝沢修、観世栄夫、野村万作等の出演で社会的話題となった。
そして八〇年、三年目の正月の松竹・前進座提携による南座公演は『五重塔』を再演、第六回前進座小劇場公演では、水上勉作・演出『釈迦内柩唄』と『神霊矢口渡』を上演した。六月の恒例の東横劇場は真山青果作『お夏清十郎』の初演と『人情噺・文七元結』の二本立てだった。つづいて新田次郎原作、田島栄脚色、十島英明演出『怒る富士』が第一次全国巡演に出発、七月には『切られお富―処女翫浮名横櫛』の国立小劇場でのアンコール公演があり、その後の国立大劇場進出へむけての足がかりとなった。
そして十二月東京公演は、座の半世紀を記念する公演にもっともふさわしい歌舞伎座に決まった。これは松竹、永山武臣会長、大川橋蔵氏はじめ、各方面のご好意によって実現した。演目は、昼の部、舞踊『雪祭五人三番叟』、『平家女護島・俊寛』『口上』、宇野信夫改訂・演出『遠山桜江戸白浪』。夜の部、山本周五郎原作、『日本婦道記―梅咲きぬ』、『口上』、真山美保演出『御浜御殿綱豊卿』、『芝浜の革財布』。また歌舞伎から片岡孝夫(現・仁左衛門)、新派からは水谷良重(現・八重子)の賛助出演があった。
しかしこの十年間には座の活動をささえ、次代の育成に格別の熱意をもやしていた芳三郎、五世菊之丞、武左衛門(八蔵)、平田兼三と初代の先輩たちをうしなった。
創立五十周年を記念しての大事業は、前進座劇場の建設であった。創立六年目に、前進座演劇映画研究所を建設してから、四十四年がたち、その老朽化のため新しく建て替える必要があった。創立の理念を発展させ、第二世代にふさわしい、伝統継承、新しい創造の本拠地としての五百人劇場を建設し、座活動の増大による各事務部門の部室の確保と、地域との結びつきを強めていくことにあった。
この地域は第一種住宅専用地域としての法的な制約があった。そこで都の特別認可を得るために、三多摩地域をはじめ、全国三万余の署名をいただき請願した。あわせて東京都、武蔵野市、武蔵野市議会、武蔵野商工会議所等、これら関係者の強い後押しもあった。
また、松本清張氏を代表とする前進座劇場建設募金委員会が組織され、全国的に“一億円募金”の訴えをお願いした。また武蔵野、三多摩などにも募金委員会が設置され、全国の各地後援会、労演・市民劇場、おやこ劇場等諸団体の支持と協力を合わせ、わずか一年の間に当初目標の一億円を大きく上回る一億九千四百八十三万円が全国から寄せられ、全国中小企業家同友会(有志)からは、千数百万円の募金によって緞帳が贈られた。
これらの大きな力添えで、廻り舞台と本花道をもつ近代的設備を誇る五百名の中劇場が八二年十月二十九日完成し、前進座劇場開場記念公演の幕を開けた。演目はAプログラム『寿矢の根三番叟』『口上』『鳴神』『芝浜の革財布』、Bプログラム『海をみる女』、Cプログラム『サーカス』であった。
この間特筆すべきこととして、八一年四月から六月にかけて全国子供劇場・おやこ劇場連絡会と共同して企画された、翫右衛門、国太郎参加によるー親と子のための歌舞伎公演―『文七元結』全国縦断公演は、多くの子供たちに感動をあたえ、想像以上の成果であった。
また、創立五十周年記念八月公演は、国立大劇場への初出演となった。十二月日生劇場も初出演で、翫右衛門の俳優生活七十五周年を祝い、永井路子原作『乱世にかける虹』は、芦田伸介、草笛光子、中野良子の特別参加により記念公演の掉尾を飾るにふさわしい公演となった。
翌八十二年一月の南座で翫右衛門は『左の腕』の卯助を主演、千穐楽まで勤めおえて倒れ、ただちに入院した。二月中座公演は、梅之助が代役でつとめた。翫右衛門は七月にいったん退院して、完成間近の前進座劇場を見ることはできたが、病状悪化して再入院し九月二十一日、ついに不帰の人となった。座の創立者であり、不屈の闘志と努力によって、数々の名演技を残し、献身的に座の発展のためにつくしてきた中村翫右衛門は、八十一年の幕を閉じた。代表的な舞台は『勧進帳』富樫左衛門『平家女護嶋』俊寛『助六由縁江戸桜』意休『佐倉義民伝』宗五郎『魚屋宗五郎』宗五郎『一本刀土俵入』駒形茂兵衛『文七元結』左官長兵衛『新門辰五郎』辰五郎『御浜御殿綱豊卿』富森助右衛門『新平家物語』藤原頼長『左の腕』卯助『本牧亭』桃川燕雄、映画では『人情紙風船』髪結新三『戦国群盗伝』甲斐六郎『河内山宗俊』金子市之丞『怪談』武士関内、などがある。座は特別功労座員の称号を贈った。そして、幹事長に国太郎を選任した。この二月十九日には、名脇役であった功労座員坂東調右衛門が八五歳で他界した。座は続けて創立者の先輩を失った。
座は国太郎を中心に、つぎの半世紀への新たな出発をした。さらに、創造と経営の「三ヶ年計画」をスタートさせ、世代交替のいっそうの充実を目指し、意欲的なレパートリーを打ち出していった。新装の新橋演舞場への初出演となった十二月公演『勧進帳』は、梅之助、圭史、芳三郎の新三幅対による舞台となった。また南北の『解脱衣楓累』は当代による創造意欲を示して大きな成果をおさめ、記念碑的歌舞伎作品となった。一七二年ぶりの復活上演と話題をよんだ。創作劇では『ママちゃまーエリザベス・サンダースホーム物語』『釈迦内柩唄』『百合若』『尻啖え孫市』『おうどかもん茂平次』『柳橋物語』等、特別企画として『法然』は二〇四回、二五万人の観客を動員、『空海』へと続き、八五年六月『風から聞いた話』のヨーロッパ公演は、座が日本の児童劇を代表して、三つの国際演劇祭に参加し、大きな成果を得た。
座はこのように多彩で旺盛な活動を行ってきたにもかかわらず、三年目にステージ数の減少をきたし、経済面では苦戦を強いられた。この困難を乗り越え、大きな責任を果たすため、八五年座総会において梅之助を幹事長に選任し、第二世代が中心になって進める体制をとった。そして、国太郎を名誉役員とした。
また、嵐圭史をはじめとする努力により、生活協同組合の文化的要求と一致して、コープ組合員さんとの協同による新しい公演の場が開拓された。
創立五十五周年の幕あけは、国太郎の日本舞台芸術家組合による第一回「舞台芸術における永年従事顕彰」の授賞につづき、嵐圭史が山本安英の会『子午線の祀り』知盛役で、第二十回紀伊國屋演劇賞、また『巷談小夜きぬた』で新吉役に抜擢した山村邦次郎が、第四十回文化庁芸術祭賞と、三代に及んでの授賞があった。
初春京都南座公演での『魚屋宗五郎』、五月国立大劇場公演の『本町糸屋の娘』『一本刀土俵入』は、国太郎の健在、梅之助・芳三郎の成熟、圭史らの進出により、三代が競う活気ある舞台となった。また『解脱衣楓累』の再演は、八月前進座劇場から巡演へとつづき、全国の若い観客層に〝南北再発見〟の新鮮な共感を呼びおこした。
『羅生門』『柳橋物語』『エリザベス・サンダースホーム物語』『出雲の阿国』等で、大都市公演から全国巡演まで、女優陣もいづみを中心に座の養成所出身者の抜擢をふくめ、新旧配役で活躍した。
新作では、飯沢匡が『面倒なお客』を国太郎のために書き下し、国太郎が現代劇に女性として出演するなど話題を提供した。そして、開場一周年の〝こどもの城〟青山劇場に初出演し、最新の舞台機構を活かした吉川英治原作、大薮郁子脚色『新・平家物語―義仲と巴』を上演し、草笛光子の客演を得て創立五十五周年の掉尾を飾った。
翌八七年は、吉祥寺に前進座演劇映画研究所が生まれて五十年、前進座劇場開場五周年と座の歴史にとって画期的なでき事の記念日が重なる年となった。
前進座劇場では、梅之助の『俊寛』の初演、青少年劇場・宮沢賢治原作『セロ弾きのゴーシュ』『よだかの星』新作初演などの収穫があり、十二月は松山政路特別出演による『さぶ』の再々演が話題をよんだ。
八八年五月国立大劇場は、河原崎国太郎舞台生活六十年記念、宇野信夫作・演出『後家おまさ』を上演、翌八九年は、文里・一重の件りを復活した河竹黙阿弥作『三人吉三廓初買』、九〇年は同じく『天衣紛上野初花‐河内山と直侍』で近年途絶えていた〝寺田閑居の場〟を復活して通し上演となつた。
八七年三月前進座劇場で井上ひさし作『たいこどんどん』を初演、翌八十八年の大阪中座、名古屋中日劇場での再演が成功し、その成果にたいして十三夜会賞、梅之助の桃八の演技に名古屋ペンクラブ賞が授与された。『五重塔』は十二月青山劇場、翌年二月の大阪国立文楽劇場から全国巡演へとひろがり、八九年度の八戸、倉敷、金沢の各市民劇場賞受賞へとつながっていった。
この間、座の次代育成を目的に発足した「矢の会」が二十周年を迎え、これを機に東と西が呼応して翌八九年、関西在住の演劇・文化人による「関西矢の会」が発足した。
また、舞台生活六十年を記念した「国太郎六十年展」(西武百貨店池袋店)は、一週間の開催期間中、三万数千名の参観があった。
創立六十周年を眼前にした、九〇年十月十一日、河原崎国太郎が八十歳の生涯を閉じた。南北物や悪婆物に独特の魅力や芸の味をみせ、翫右衛門のよき女房役として、ともに歩みつづけてきた創立メンバー最後の大先輩であり、かけがえのない大きな損失であった。代表的な舞台は『お染の七役』土手のお六『助六由縁江戸桜』揚巻『鳴神』絶間姫『五大力恋緘』小万『佐倉義民伝』おさん『一本刀土俵入』お蔦『新平家物語』祇園女御『魚屋宗五郎』おはま『切られお富』お富『左の腕』おあさ、などがある。座は特別功労座員の称号を贈った。
創立六十周年をむかえた一九九一年の総会において、これまで座は「前進座住宅株式会社」と、「株式会社前進座」の二つの会社によって運営されてきたが、これを一本化して九二年「劇団前進座株式会社」とした。芸術面では、前進座歌舞伎の確立、新作の創造、さらには女優活躍の場の拡大など積極的な劇団活動を展開していった。
こうして、創造面、運営面における座の事業を第二世代が確実に引きつぎ、第三世代と力を合わせて新しい歴史を歩みはじめた。この五年間の成果はおよそ次のようなものであった。
恒例の五月国立大劇場公演では、創立者たちの念願であった近松の『平家女護嶋』の通し上演を初演いらい二百七十一年ぶりに復活上演、黙阿弥没後百年を記念し『四千両小判梅葉』、近松の『博多小女郎浪枕』、黙阿弥の散切狂言の代表作、『島千鳥―島鵆月白浪』を第三世代の邦次郎、梅雀がつとめ、梅之助、芳三郎、圭史がささえた。そして『隅田川続俤―法界坊』と五作の通し上演があり、国立劇場初出演いらい通し狂言は十三作をかぞえ、また宇野信夫三回忌追善公演として初演された『巷談宵宮雨』をはじめ、『鳴神』『一本刀土俵入』ほか三本の再演があった。
創作劇の初演では、知覧の特攻基地を描いた、神坂次郎原作『今日われ生きてあり』、座と初顔合わのジェームス三木作・演出『煙が目にしみる』、小林多喜二を新しい面でとらえた三浦綾子原作、いまむらいづみ主演『母』、座のために書き下ろされた、五木寛之の処女戯曲『蓮如―われ深き淵より』、アイヌ神話の叙事詩、鈴木龍男作『風のユーカラ』、〝子どものための創作歌舞伎〟『牛若丸』、宮沢賢治原作、如月小春脚本『月夜のサンタマリア』、児童絵本作家いわむらかずお原作・脚本・美術による『トガリ山のぼうけん―生きものたちの森』の青少年劇場など十作であった。
さらに、大垣肇作『遠来の客』『素襖落』『三社祭』『釣女』などの舞踊の初演もあった。これに村山知義作『初恋』、など、再演を加えると、この五年間にとりくんだ演目は五十五作品におよんだ。『怒る富士』の第三次全国巡演は、ICA(国際協同組合同盟)東京大会プレ文化企画として実に一八四ステージのロングラン公演となり、その舞台内容が世相と重なり各地に大きな共感と反響をもたらした。そして真船豊作『鼬』、木庭久美子作『父が帰る家』、女優による『雪祭五人三番叟』などの上演があり、日頃の女優陣の意欲と精進が実った。
これらの活動の中に、九一年『煙が目にしみる』の梅雀の演技、九二年『怒る富士』の圭史の演技、九三年『一本刀土俵入』の舞台成果など、文化庁芸術祭賞連続の授賞があった。『四千両小判梅葉』の富蔵、『魚屋宗五郎』の宗五郎の梅之助の演技に第十四回松尾芸能賞演劇優秀賞、『蛍』お登勢のいづみの演技に九四年度名古屋ペンクラブ賞が贈られた。
また、他座出演では、九四年四月大阪新歌舞伎座公演『風花の峠』に梅之助、いづみ他九名が出演し、テレビでは九五年のNHK大河ドラマ『八代将軍吉宗』で家重役の梅雀が、一躍茶の間の人気を獲得した。映画でも、にっかつの大作『落陽』に梅之助、圭史、鶴蔵、志村、松浦、梅雀らが主要な役で出演した。
前進座劇場は開場十周年をむかえ、九二年二月その祝賀会が同劇場で開かれた。また、この年の十二月新橋演舞場岡副昭吾社長のご好意により、水谷良重、西村晃、金田龍之介、松山政路、長谷川稀世らの特別参加と新派の皆さんの助演を得て、〝翫右衛門を偲ぶ特別公演〟が新橋演舞場で実現し、『巷談本牧亭』で梅之助が桃川燕雄をつとめた。
創立六十五周年記念公演は京都南座で開幕した。九〇年三月からの南座大改装工事にともない、座は六年間、舞台を祇園甲部歌舞練場に移していた。この公演が新装南座の復帰第一回となった。
また、五月国立劇場公演は、いづみほか女優陣が活躍する異色の逍遥作品『大いに笑ふ淀君』、そして久びさの『勧進帳』を弁慶・富樫・義経・四天王・番卒の各役を、矢之輔、梅雀、市太郎他が初役で挑み、二番目は梅之助の『左の腕』に芳三郎、圭史、邦次郎、文美らが初役にとりくんだ。
秋の中座、中日劇場公演は『左の腕』に、神坂次郎原作の新作喜劇『花咲ける武士道』と芳三郎構成・振付による舞踊『夕涼空住吉―かっぽれ』であった。その公演の直前八月二十二日、芳三郎は『左の腕』の読みあわせ稽古の後、自宅で倒れ直ちに病院にはこばれたが、ついに不帰の人となった。奇しくも六十一歳の誕生日当日のことであった。国太郎亡きあと、女形の中心であった芳三郎を失ったことは大きな衝撃であった。座は芳三郎の功績にたいし功労座員に列した。
『左の腕』の松葉屋女主人おあさの役は急遽山村邦次郎が勤めた。
九七年の座総会で「現在を第三の創立期と認識し、来たるべき二十一世紀の幕開きの年にあたる創立七〇周年にむけて一層の団結と努力を結集する」ことを目標にした。前進座劇場開場十五周年記念公演は、山本周五郎『地蔵―イカサマ地蔵騒動譚』、ジェームス三木『戦国武士の有給休暇』の新作二本を上演、五月国立大劇場公演では『鳴神』と五十年ぶりの『ベニスの商人』、 全国巡演では、四十年ぶりの再演『二十二夜待ち』『鳴神』、『勧進帳』『芝浜の革財布』に『操三番叟』『雪祭五人三番叟』などの舞踊演目をくわえ、どれも新しい配役での上演であった。
『ベニスの商人』は坪内博士の功績を記念する、第四回坪内逍遥大賞、またNHK『いのちの事件簿』出演で梅雀がギャラクシー賞を受賞した。
翌九八年の総会では「第三世代は今や当代である」という自覚のもとに次代の荷い手たちが〝創立の初心〟を自らのものとし創造的力量を高め、座外との交流、協力も得ながら、ひろく前進座を世に知らしめ、劇団員の生活をまもり向上させていくことを確認した。
二十一世紀にむけて、座の発展のためにという深いご理解のもとに、河原崎長一郎、故河原崎権十郎、市川宗家團十郎、松竹永山会長方々の、お力により嵐市太郎の六代目河原崎國太郎襲名が実現した。創立者の名前が復活することは座にとって大きな喜びであった。襲名披露狂言の『お染めの七役―お染久松色読販』では、先代国太郎から教えをうけた坂東玉三郎氏、また中村 福助氏がよろこんで指導にあたってくれた。
また『たいこどんどん』『三人吉三巴白浪』と当代中心の舞台の成功など、十指をこえる作品での活躍、ひきつづく梅雀のテレビと他劇場出演での奮闘などの実りがあった。さらに、九八年度都民芸術フェスティバル参加、日本劇団協議会主催、前進座制作による加藤周一書きおろし初戯曲『消えた版木―富永仲基異聞』は各劇団の参加による多彩な顔ぶれで話題をよんだ。また〝子供のための創作歌舞伎〟第二弾として『土蜘蛛退治』、女優による舞踊『晒三番叟』の新作三本を生み、『蓮如』は三年がかりの全国縦断を打ちあげた。
この年の十月「矢の会三十周年の集い」が開かれ、会の三十年の歩みをふり返るとともに、さらに会を発展させますます劇団を応援していただくことになった。
九九年は、十四の演目にとりくみ、そのうち十二作品に当代が主演・準主演するなど成長をみせた。「梅之助舞台生活六十年」を記念した五月国立劇場での座の代表演目に、綱豊の圭史、富森の梅雀に、矢之輔、邦次郎、國太郎らが初役に挑んだ『御浜御殿綱豊卿』『魚屋宗五郎』の成果は特筆すべきものがあった。また、演出をあらたにした『女殺油地獄』『赤ひげ』の再創造は、今日の世相と通じるテーマをもった作品として好感をもって各地で迎えられ、ロングラン公演への可能性をうみだした。八月には女優のなかからの自主的な発案で、有志による《花みづきの会》公演が実現し、第一回公演は岸田國士作『葉桜』、三好十郎作『噛みついた娘』の二本立てだった。この作品は翌年九月公演でとりあげられ、花みづきの会第二回公演は、松本清張原作、新人鈴木幹二の処女作『或る小倉日記伝』が上演された。
創立七十周年を翌年にひかえた二〇〇〇年は、木下順二作『狐山伏』、舞踊『うかれ坊主』の二本の初演に、二十一年ぶりの『おれの足音』を梅雀、矢之輔を中心に、また歌舞伎再検討で話題を呼んだ『五大力恋緘』を四十一年ぶりに上演した。さらに『一本刀土俵入』は五月国立劇場、大阪は十一年ぶりの出演となった国立文楽劇場、つづいての巡演の間に、邦次郎、國太郎、二人の〝お蔦〟をうみ出すなど、俳優、スタッフともに着実な前進をみせた。
十月十六日、山村邦次郎が七世瀬川菊之丞を襲名することになった。名跡領り人、岩井紫若氏の是非座の俳優に継いで欲しいとのありがたい御意志で、二四年ぶりに再び座に生きることになった。本人は勿論座にとっても大きな激励であり喜びである。七〇周年国立劇場公演で披露される。十一月前進座劇場『おれの足音』、そして『赤ひげ』と二班が巡演し、二〇〇〇年を締めくくられた。
テレビでは、NHK大河ドラマ『葵―徳川三代』の水戸光國で梅雀が出演、映画では『釣りバカ日誌』で梅之助、梅雀、『すずらん』では梅之助、舞台では地人会公演『藪原検校』に広也が主演、十一月御園座『三味線やくざ』に河原崎國太郎ほかが出演するなど外部出演はさらに広がっていく。
この年の三月、「古典劇と現代劇を演じうる俳優・演出家の養成、演技術の開発をめざして、七〇年設立以来二十一期まで活動をつづけてきた前進座附属養成所の功績に対し」第八回 <山本安英の会>記念基金を戴いたことは創立七十周年を機に養生所再開にむけて大きな励みとなった。
この十年は、宮川雅青、岩五郎、公三郎、島二郎の創立以来の先輩が全て他界され、坂東太三郎、今村京路、津金実、松本隆と第二世代の人々も亡くなっている。
いよいよ二〇〇一年創立七〇周年である、初春南座公演から開幕である『御浜御殿綱豊卿』『口上』『魚屋宗五郎』前進座劇場いわむらかずお作『かんがえるカエルくん』三月神坂次郎作『およどん盛衰記』(南方熊楠と女中たち)五月国立劇場藤沢周平作『臍曲り新左』『口上』『菅原伝授手習鑑・寺子屋』六月大阪松竹座初出演『おれの足音』。
九月名古屋中日劇場、十月前進座劇場、そして全国巡演と、創立以来の理念と民主的運営、全国の皆様の御支援に確信を持って、代表作と創作に意欲的に取組み、新しい歴史を積み重ねて前進が始まるのである。
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