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前進座の歩みindex


- 2001年1月刊『グラフ前進座──創立70周年記念』より引用 -

 

2001年、創立70周年を記念して「グラフ前進座」を刊行しました。その後の5年間を含めた年表を2006年に75周年記念として刊行しましたが、このたび新たに90周年の記念事業として、2001年以降の劇団の記録をまとめた「グラフ前進座」を刊行することといたしました。

八十周年までは、中村梅之助著「前進座80年」に詳しく記載されておりますが、2001年の70周年からの10年間を同書からちょっと抜粋して振り返ってみたいと思います。

70周年の祝賀会は、2001年に東京・大阪・名古屋・京都と、それぞれの地で長年にわたりご支援くださった方々、また、全国でお力添えくださった方々がお集まりくださり、各都市で盛大に執り行われました。

年間を通して最も座の力をご披露できる国立劇場公演も、2002年、鑑真和上東渡を描いた『天平の甍』、2003年、創立メンバーユニット出演の名作山中貞雄監督による映画「人情紙風船」の原作にあたる『梅雨小袖昔八丈―髪結新三』、2004年、先代河原崎国太郎の当たり役を当代が受けいだ鶴屋南北作『裙模様沖津白浪―奴の小万』、2006年にも南北作『謎帯一寸徳兵衛』に挑戦いたしました。

中でも『天平の甍』は、2003年、37年ぶりに3度目の訪中公演を行ない、感染症のSARSによって一時、時期を見合わせましたが、超党派のご支援をいただき、多くの困難を乗り越えて、鑑真和上の居られた揚州や北京・上海で、和上来日1250年記念、いわば“里帰り公演”となりました。

その他にも、この間『魚屋宗五郎』『俊寛』『五重塔』『出雲の阿国』『新門辰五郎』『佐倉義民伝』など財産演目の継承や、『たいこどんどん』『三人吉三巴白浪』、新作では五木寛之作『旅の終りに』、ジェームス三木脚本・演出の『お登勢』などを上演、実に多彩な演劇活動を行ってまいりました。

しかし、このころから劇団経営は、各部署の人員減少や力不足、演技者の技術低下や、そもそも演劇離れともいうべき傾向、諸事情があいまって、お客様や年間ステージ数が減少、厳しい状況になっておりました。

そのような中、2007年に長年多くの病気と闘いながら劇団を牽引してきた梅之助さんに、朝日舞台芸術賞・特別賞が授与され「かつて前進座は、新派、新国劇と並ぶ三大商業劇団。(中略)いまなお商業劇団としても矜持を持ちつづけて活動を展開しており、当世それは、想像を絶する困難なことだろうが、実に貴重な存在だ」と評され、審査委員を勤められた山田洋次監督からも功績を讃えられたことを「座を取り巻く厳しい状況、日々の重苦しい空気のなかで、嬉しい励まし」と「前進座80年」に記しています。

『法然と親鸞』を2007年初演。以来4年にわたって大都市公演、地方巡演、さらにはサンフランシスコ・ロサンゼルス・ハワイでの公演、そのアメリカで同時に上演した『茶壺』『鳴神』ともども、彼の地では大好評でした。この渡米公演も、劇場での募金を含めて、実に多くの方々からのご浄財をいただき、そのおかげで実現したものでした。

そして2011年、創立80周年記念祝賀会を東京會館で3月9日、京都ロイヤルホテルで9月30日に開催、どちらも大盛会でしたが、梅之助さんは「あの人数、あの盛り上がり、あのエネルギーを、その後の各都市公演に結び付けることができなかった弱さを、率直に認めないわけにはいきません」と振り返っています。

東日本大震災の影響も確かにありましたが、待ったなしの経営改善策に踏み切らざるを得ない状況でした。その年の劇団総会で、私、藤川矢之輔が幹事長をおおせつかりました

梅之助さんの「前進座80年」の結びです。「道というものは、行きつ戻りつしながらも続くもの、続けることはつねに困難がつきまとう。演劇人としてやりたいこともあるだろうが、現状からいえば「やりたい演劇ができないという悔しさ」をバネにして、今後も精進を怠らず、さらに100年、150年の大計を抱いて、座が発展してゆくことを、私は信じております」。

コロナ禍で世界的に多くの方が大変な困難を抱えておられる現在、我々が前へ進む糧となる言葉だと思います。

2011年3月11日、80周年祝賀会2日後に東北地方での大震災、私はビルの5階にある京都の事務所で会議中でした。京都でも多少の揺れを感じましたがあまり気にもせず、夕方会議が終わってあの惨状を知りました。

東京では交通機関に大きな影響があり、前進座劇場の前の道路、都心から三多摩へ向かう井の頭通り、通称水道道路が帰宅難民の方で溢れており、劇場裏に増設した多目的トイレを開放したら大変喜ばれたとのこと。目の前の道路にそれほどの役割があったということを初めて認識しました。その後、この道路が緊急輸送道路に指定され、沿道建物は耐農基準を満たさなければならなくなりました。劇場の壁面はレンガを模したタイル張りのため、1枚でも剥がれ落ちて通行の方に当たったら大変なことになります。劇場を開場して30年、この間全国の皆さまから劇場の改修募金もいただき、照明や音響効果など舞台に関わる機器を整備・改修しましたが、建物自体の総合的な改修にはいたっておりませんでした。新たな耐震工事の上に、30年で劣化した内部壁面や座席などの改修も含めると、かなりの高額になり、自前の劇場の限界を突きつけられました。

劇場のお隣は、武蔵野市の東部で唯一の総合病院、農災時の対応も想定して拡張を計画しておられる由、誠に苦渋の決断ではあり、この先の公演会場や稽古場の確保などを考えると、相当な覚悟をしなければなりませんでしたが、劇場を手放し、跡地をこの病院へ譲渡することを2011年12月に劇団総会で決めました。

当初、稽古場と事務所を中庭部分に建設する予定でしたが、武蔵野市の許認可が下りず、しばらくはその病院に劇場地下事務所の家賃を払って活動しました。その後も敷地内の劇団員住宅で空いている号室を事務所などに活用していましたが、2013年、劇団前進座の本部と収益物件としての賃貸住宅は残し、劇場及びその奥の敷地を隣の病院に明け渡し、吉祥寺駅近くの6階建てのビルを買い取って、2階部分を稽古場に改装し、事務所・会議室を備えた新たな活動の場「劇団前進座ビル」といたしました。

また、劇団創立6年目、1937年以来の集団生活にも終止符を打ち、劇団員用の住宅を解体して新たな賃貸住宅を建設いたしました。この集団生活という形態も、ある時期までは劇団員のほぼ全員が敷地内に住んでおりましたが、この時点では、3分の2ほどの人々は他所に住んでおりました。あの敷地内で生まれ育った私などには、もちろん感傷的な気持ちもありましたが、致し方ありません。

劇場を手放したことは多くの方々から惜しまれましたが、芝居の興行だけでは劇団自体の経済が成り立ちませんし、創立以来の理念、「興行の収益によって劇団員の生活を保証する」ということも叶いません。

この頃までには、慰安会や願客招待での観劇会、各団体ごとの観劇助成制度などが徐々になくなり、さらにテレビや映画を超すスマホなどの普及によって、わざわざ劇場に足を運び、何時間も椅子に座って観劇することを避ける傾向になり、都市公演が難しくなりました。

全国各地の演劇鑑賞団体も、ひと頃はそのブロックの例会に毎年のように伺っておりましたが、劇団や例会作品の多様化もあってそれも叶わず、2~3年に一度例会にうかがう、というペースになりました。特別企画として全国的に展開する作品を創り、それを受けて各地で主催してくださる団体や実行委員会を立ち上げるということも、なかなか困難になってまいりました。創立80周年前後の実際の年間ステージ数は、最盛期の3分の1ほど、これは近年4分の1ほどに減少しております。

そのような状況下では、先輩たちが心血を注いで取得し、劇団の総有の財産として受け継いできた土地・建物を、賃貸として活用していくこともやむを得ないと思い、劇場裏に残した賃貸住宅と、新規購入した前進座ビルの何室かを賃貸にして、それらの家賃収入を、劇団収益の一つの柱といたしました。

劇場閉館前の2012年には、「前進座劇場30年の感謝をこめて」と題し、4回にわたって劇場で朗読会を開催。他にも落語会など様々な企画で、ご愛顧頂いた皆様にお楽しみいただきました。

2013年1月、前進座劇場で「三人吉三巴白浪」を上演して、劇場閉館といたしました。千穐楽には皆で劇場に感謝し、別れを告げました。その公演中、若手が“前進座Next”を立ち上げ、声優で人気絶頂の関智一さんをお坊吉三に迎えて、若手の「三人吉三巴白浪」公演があり、劇団の第4世代が始動したのです。

2016年度、東北大農災復興支援の一環として、井上ひさし先生の「たいこどんどん」巡演を企画しました。楽しい笑いをお届けすることで、東北の方々に元気になっていただこうと、この作品を選びました。

若旦那と太鼓持ちが品川で遊んでいるうちに、薩摩の侍といさかいになり、逃げた先で船に助けられ、江戸から釜石に。それから7年の歳月、東北各地で様々な難に遭いながらも江戸へ帰ってみれば、明治の世、江戸が東京に変わっていた。世の中のことに無頓着でいると世情はどんどん変わって押し流されてしまう、という井上先生の句を込めた、楽しくて心に響く座の代表作です。

また一方で、富士山噴火による災害からの復興を描いた新田次郎原作『怒る富士』を、という意見がありました。宝永の噴火によって一帯が泥砂に覆われ、不毛の地と化した富士山麓のお百姓衆を励まし続け、命をかけて復興へと導いた関東郡代伊奈半左衛門を描いた、これも座の代表作です。人頭も作品の規模も大掛かりな作品ですが、大きな災害に見舞われながらも、幕府が集めた義援金は大奥の改修などに費やされ、幕府から見放されたお百姓が自身の力で復興、それには長い年月を要した、その理不尽さを描いた『怒る富士』も、今やはり上演する意義がある、とのことから、これも巡演することにいたしました。

しかしながら、やはり経済的には課題が残りました。各地に実行委員会を立ち上げて地元の諸団体のお力をいただき、あるいは主催をしていただく、演劇鑑賞団体の例会ではない巡演の設定というのは、その地の鑑賞人口増加に寄与し、ひいては鑑賞団体の会員増にもつながると思い、これまでもいろいろ企画してまいりましたが、公演が経済的に成功し、よって劇団の収益増にもつながるのは、近年とても難しくなってまいりました。

テレビ出演の減少などによる劇団の知名度の低下、という問題があります。劇団の組織力、つまりお客様を集める力が落ちてきている、これも否めません。従ってこれまでのような上演作品の規模の見直しも大変重要です。

前進座の芝居は、おおむね人頭が多く、歌舞伎や時代劇などでは、かつらや衣裳・大道具・小道具、さらには邦楽も含めて経費の上ではどうしてもコスト高になってしまいますし、大道具や照明機材が多いと、トラック1台では巡演しきれません。しかしそれが前進座に求められている道居を創るうえでは、久かせないのも事実です。

それらをクリアして興行していくには、多くの障害がありました。劇団経営の厳しさはますます加速し、興行による利益だけでは座の経済が成り立たない、という現状から脱却するために、総有の財産である劇場跡地の賃貸住宅と前進座ビルを守りつつ、それまでの劇団前進座株式会社の債務超過を解消することを目指して、興行部門を分離し、新たに公益を目的とする一般社団法人劇団前進座を独立させるという、会社再編について研究を重ね、2017年6月、劇団前進座株式会社と一般社団法人劇団前進座との分社化に踏み切りました。

賃貸物件の家賃を株式会社が管理して借入金返済にあて、興行は一般社団法人が責任を持って収益を上げることで、劇団員ほぼ全員の生活を保証する、という考えです。私が設立時の代表理事に推され、演技部長の河原崎國太郎・制作部長の楠脇厚子両名が副理事長、これまでの幹事会は理事会と改称しました。

この時、一般社団法人劇団前進座は、1931年の劇団創立の目的である「座員の生活を保証しつつ、広範な民衆の進歩的要求に適合する演劇の創造」を、より明確にするためにも、一日も早く、法人法が認める「文化および芸術の振興を目的とする」公益社団法人としての認定が受けられるよう努力する覚悟で、負質はゼロ、という状態からスタートいたしました。

この間、功労座員・津上忠さんが2014年に亡くなられました。『五重塔』はじめ今なお、お客様のご要望の多い作品を創り上げただけではなく、前進座の株式会社化を確立するのに先頭に立たれた方でした。

また、梅之助さんが翌々年、亡くなられました。生まれた時から前進座とともに歩まれ、長い間劇団を牽引してこられました。生涯すべてが「前進座」であったと思います。

創立世代から我々第3世代へのコネクターと自称され、梅之助さんからは実に多くのことを学びました。

お2人の「功労座員」を失ったことは、大変大きな痛手でした。

劇団経営の上では茨の道が続きますが、創造の上では第四世代も成長し、毎年意欲的に挑戦、2016年、この年の5月国立劇場公演は、長年懸案の『東海道四谷怪談』を上演、他では滅多に上演されない“深川三角屋敷の場”を含めて現代の上演時間に見合う改訂をし、分かりやすさと流れの良さで、改訂脚本も高評価を得ましたし、宣伝用の広告のデザインも第73回読売映画・演劇広告賞演劇部門最優秀賞をいただきました。その後、2022年まで、大道具・大仕掛けのこの大作が、若干の場面カットはしましたが、各地の演劇鑑賞団体例会に迎えられています。

前進座創立の年に誕生され、戦後すぐの独立プロ映画で前進座総出演の「箱根風雲録」に、大学のお仲間たちと応援に来られ、エキストラとして出演もされた山田洋次監督が、「前進座には心から笑える喜劇を創ってほしい」とおっしゃって、2017年5月国立劇場公演に、『裏長屋騒動記』を監修・脚本として書き下ろしてくださり、実質的に演出も手掛けてくださいました。監督の眼差しは実に緻密で、独特の「山田ワールド」に彩られたこの作品は、前進座ならではの仕上がりとなり、これも各地の鑑賞団体例会に迎えられ、ご好評をいただきました。

2年後の2019年、京都初春公演では会場を例年の南座から京都駅ビル内の京都劇場に移して、『裏長屋騒動記』を上演、2017年初演からの上演積み重ねの上にさらに山田監督のアイデアが上積みされ、練り上げられた作品となりました。公演中監督がわざわざ京都へ来られてご観劇、またまた新たなご指摘やアイデアをいただき、芝居が生き物であることを実感した次第です。

稽古中、長屋の生活実感が足らないので、先輩たちの戦前の出演映画「人情紙風船」を見てごらん、とのご指摘をいただきました。

実に長屋で自然に暮らす人々が描かれており、その凄さに一同驚嘆しました。ほぼ全員が吉祥寺の本拠地で共同生活をしていた私の幼少期には、確かに長屋の生活感があり、それが舞台でもかもし出されていました。2021年には山田監督作品第2弾として『一万石の恋」を書き下ろされ(朱海青共同脚本)、この作品も前作『裏長屋騒動記」同様に、実に精力的に創りあげてくださり、劇団創立90周年記念作品として、ただいま上演中です。

2019年の5月国立劇場公演は『佐倉義民伝』の通し上演に挑戦、“堀田家江戸屋敷前の門訴の場”“甚兵衛渡しの場”“宗五郎宅子別れの場”という通常の場面の後に、寛永寺での将軍直訴、通称「通天橋の場”と、2人の子まで処刑されたと聞いた叔父光然の怒りの“仏光寺の場”を久々に上演し、さらに今日のお客様に希望を持ってお帰りいただきたいと、”“印旛沼の場”を新たに創作、宗五郎・おさん夫婦を勤めた芳三郎・國太郎が、江戸から流れてきた芸人夫婦に扮し、題目踊りでお百姓衆を励ます桜満開の終幕、お客様に大変お喜びいただきました。先輩たちもこれまで、『佐倉義民伝』の通し上演についてはいろいろと試みておりましたが、昨今、時間的に“子別れ”までの上演に他の作品との2本立て、というのが通例になっておりました。しかし、宗五郎のみならず、女房おさん、2人の子供までも理不尽に処刑されたことを描き、おしまいにはお百姓が希望を持って宗五郎の遺志を引き継ぐ姿勢が描けたことは、お客様に評価いただいたと思います。

2017年より巡演を重ねてきた山本周五郎原作『柳橋物語』は、ほぼ全国の鑑賞団体の皆さんにご覧いただきました。戦中の災禍をもとに書かれた周五郎先生の作品が、現在、大地震や津波被害、集中豪雨に見舞われていまだに完全復旧しない生活をされている方々もおられる中、こんにちの問題としてとらえられたのでしょう。この作品も、大きな共感をよび、感銘を与える力があったと思います。2019年12月巡演がすべて終わった後、主演を勤めていた今村文美くんが、残念ながら急逝いたしました。

同じ周五郎原作の『ひとごろし』の公演の中で、10月に行われた瀬戸内海の塩飽本島公演は、ご当地出身の音響家・田村恵さんが企画されて実現、江戸時代の芝居小屋で客席は野天、趣のある公演となりました。他にも、十年以上にわたるロングラン作品「くず~い屑屋でござい」、2018年には脚本家朱海青デビュー作、鵜山仁演出『ちひろ―私、絵と結婚するの―』など、意欲的な作品が生み出されました。

この間、好評の朗読劇からの発想で始めた「大人のための朗読教室」も、参加された皆さまのご評判が良く、定着して来ました。

2011年以降、津上さん、梅之助さんの他に、亡くなられた方々、主に触れると、女優の大先輩戸田千代子さん、男優では市川祥之助さん、中村鶴蔵さん、中村靖之介さん、桐山里昇さん、津田伸さん、みなさん私が生まれる前から大変なご苦労の中で座の活動に参加され、九十年の礎を築いてこられました。また、小佐川源次郎さん、志村智雄さんも私の少し先輩、第二の創立期を歩んで来られた方々です。そして長年宜伝部を担当され、月刊前進座の編集のみならず、生き字引として活躍された丸橋恒夫さん、山本周五郎作品をはじめ数々の脚本を書かれた田島栄さん、その他亡くなられた数多くの方々が、そして全国の、数多くのお客様方が、こんにちの前進座、90年の歴史を刻んでこられたのです。

2020年初春は、改修された南座に久々の復帰、お客様も大変喜んでくださいました。南座の耐震強化工事は2016年初春公演『夢千代日記』終了後スタートし、翌々年十月に完了しましたが、新装開場の1年間は松竹主催の公演が行われました。しかし松竹株式会社・南座さんは、これまでの座とのつながりを重視してくださり、この年の初春公演をゆかりの深い南座で行うことができたことは、誠にありがたいことでした。演目は河竹黙阿弥作の散切り喜劇『人間万事金世中』、2018年初演の国立劇場公演から若干の改訂と、主人公林之助の性根を見直し、お客様にもご好評をいただき、四年ぶりの南座、復帰公演を飾ることができました。

しかしながら、近年の興行の低迷から資金繰りの上では大変苦しい状況となり、給与制の見直しをせざるを得ないと判断、その研究に入りました。

折りも折り、新型コロナウイルスの世界的な蔓延・拡大により、主催に自治体が参加している2月末の『牛若丸』公演以降、公演中止や延期が相次ぎました。他劇場の動向を見ながら五月東京国立劇場公演の開催について討議を重ねましたが、政府・自治体からの緊急事態宣言発令の直前、やむなく中止の決断を余儀なくされました。

お客様へ払い戻しについてご連絡したところ、多くの方が代金分の寄付を申し出られ、実際にもキャンセル料などとても賄い切れませんので、「国立劇場公演中止に伴う緊急募金」をお願いしましたところ、全国津々浦々のお客様、いつも取り組んでくださる諸団体から身に余る多額のご浄財と励ましのお言葉を頂戴いたしました。

全国の演劇鑑賞団体の方々からもお寄せいただき、前進座に対する皆さんの思いの深さ、ご期待くださるお気持ちが痛いほど身にしみました。この劇団をみんなで守り通し、そのお気持ちに応える芝居を創り、お届けしなくては、と改めて思い定めた次第です。

しかし、感染防止のためには劇団員が集まっての稽古や会議など行えず、お客様のもとへも伺えず、長期にわたって自宅待機、リモートでの作業のみ。身体を動かし大きな声を出して日々鍛錬を重ねなければならない我々の仕事には大変過酷な状況で、しかも劇団の経済は逼迫、存続そのものが危ぶまれる事態でした。

やっと8月の中頃から『東海道四谷怪談』の近畿ブロック鑑賞団体例会が始まり、秋に予定していた大阪国立文楽劇場での『東海道四谷怪談』公演は中止しましたが、その後の中国ブロック、九州ブロック、中部北陸ブロックでの例会、さらに、2021年初頭の東京から静岡県下の『文七元結』例会と、すべて無事、鑑賞された会員の皆さまからも感染者を出すことなく終わりました。各地で迎えてくださった会員の皆さまの感染防止対策の徹底と、なんとしてもこの鑑賞運動を守るというお気持ちがひしひしと伝わってきました。

秋の東京での朝井まかて原作・朱海青脚本、鵜山仁演出『残り者』の公演や、当初の『佐倉義民伝』を『息子』と『茶壺』に差し替えて上演時間を短縮した2021年初春南座での公演、さらに5月国立劇場公演と、いずれもお客様の安全・安心を第一に、客席数を半数以下に設定して開催しました。この5月の国立劇場公演は創立90周年と銘打ち、昨年中止となった演目『操り三番叟』『俊寛』『たが屋の金太』に『茶壷』を加えた4演目を2番組にわけての交互上演としました。これら、どの公演も収益には大きく影響しますが致し方ありません。

国立劇場公演前の4月には『前進座九十年のタベー温故創新』と題し、90周年祝賀会に代わる企画として、1957年の『勧進帳』以来数々の名作を上演してきた有楽町駅前のよみうりホールで開催、90年間の代表作を振り返り、葛西聖司さんとのやり取りもご好評いただきました。

1月からの緊急事態宣言が3月まで延長され、感染拡大防止の様々な規制がかけられ、4月からは3度目となる緊急事態宜言が発令された中での5月、創立90周年記念公演、7日初日から11日までは「無観客上演」が要講され、やむなくその間の公演を取りやめ、13日初日に向けて準備し、18日の千龍楽まで奇跡的に無事公演することができました。

中止した前半の日程で観劇予定の方の多くが後半に振り替えてくださいましたが、しかし結果的には大きなマイナスを生むことになり、この状況下で「緊急募金」を「前進座創立90周年支援募金」に切り替え、また、9月から2ヶ月限定の「クラウドファンディング」と、さらにご支援をお願いさせていただいた次第でございます。

運営面では、これまで長年続けてきた「全員給与制」ですが、事務部門を除く演技部・文芸演出部のメンバーを、やむなくステージ契約と業務委託契約に変更しました。劇団の経済を考え、前進座を守るために、おおむね了解してくれましたが、まさに断腸の思いです。それぞれの生活を個人事業主として自ら支えながら、劇団の要請に応えての舞台出演やスタッフ、さらにはお客様への普及と、自分たちの創造活動の拠点である劇団前進座を守り、100周年に向かって前進する、新たな一歩を踏み出しました。

 

 


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