日韓両国は、隣国として長い歴史を通じて、互いに深く影響を与え合ってきた。玄界灘を挟んだ「近くて遠い」関係は社会教育・生涯学習の分野でも同様だったが、1990年代に始まった両国の交流は、研究者たちの出会いから実践家たちの出会いへと広がり、多面的なつながりが続いてきた。このつながりはさらに広がり、研究者や大学間の交流だけでなく、学会間で学術交流協定を結び、互いの国を行き来しながら共に議論するプラットフォームが生まれた。互いを紹介するという表面的な交流にとどまらず、共に同じ「言葉」を通じて社会教育の課題について話し合うことが、さらなる広がりを見せている。韓国は日本の公的社会教育の蓄積から多くのことを学ぼうとし、また日本は韓国の平生教育の活力から何らかの新たな力を見出そうとしており、まさに他の国や領域では見出しがたい重層的な交流となっている。
しかし、韓国のことを日本の人々が知り、日本のことを韓国の人々が知り、互いに刺激して示唆を得るという「知る」段階からさらにもう一歩進み、職員問題をはじめとするお互いの成果と課題を共有し、韓国の状況を自分の課題として見て韓国の人々と共に共通課題として論じ、可能性や展望を切り拓くという「共有する」段階に入ることが必要ではないだろうか。
こうした問題意識から、相手の国の実践と理論についてより深く理解できるよう、2冊の本がつくられた。一つは、2006年に日本で出版された黄宗建・小林文人・伊藤長和編『韓国の社会教育・生涯学習-市民社会の創造に向けて』であり、もう一つは、2010年に韓国で出版された小林文人・伊藤長和・梁炳贊編『日本の社会教育・生涯学習-草の根の住民自治と文化創造に向けて』である。日本における初めての研究書・解説本であった2006年の出版以来10年が過ぎ、韓国の平生教育の政策と現場に多くの変化が見られるため、その続編として本書を出版することになった。
こうした状況で誕生した本書は、前書に比べ、制度的なアプローチよりは実践の躍動的な変化を読み取ろうと努力したことが特徴である。韓国では、脱工業化社会への移行により日本と同じく多様な課題に直面する状況のもとで、平生教育の新たな方向性が定められてきたと言える。高齢化をはじめ、多文化、青年失業、教育格差や地域格差のような不平等の問題などと関連した平生教育実践が展開され始めている。韓国の平生教育の特徴を「躍動」とする小林文人の評価のように、現在、現場における草の根活動は、研究者や行政、住民など多様な主体によって展開されている。本書は、こうした変化の姿を生き生きととらえ、日本の研究者だけでなく、現場の実践家や市民など、広く市民社会に興味や関心を持つ皆さんに読んでいただけることを願って企画した。本書を通じて、平生学習に関わる両国の草の根住民のコミュニケーションが豊かになることを願っている。
日本と同じく、韓国も長い間「社会教育」という用語を使用してきた。解放直後、米軍政期にわずかの間「成人教育」を使用したことを除き、学校外教育を社会教育と規定し、夜学をはじめ社会団体などによる民間の社会教育活動に制限されていた。1982年に制定された社会教育法においても、制度に関する整備は十分でない状況だったが、1995年に全面的な教育改革の過程で「開かれた平生学習社会の実現」というビジョンが示されるとともに、1999年に平生教育法が制定され、行政用語としては社会教育から平生教育という用語に置き換えられた。前述のとおり、社会教育の概念が社会運動のレベルで限定的に使用されていたのに対し、公的な平生教育体制の概念が作られるとともに、労働分野や高等教育の領域との連携など多様な拡張性を持つ平生教育の概念が主に使用されることとなった。社会教育概念を使用する必要があるとの批判的議論が現在も続いているが、平生教育という用語が、政策はもちろん実践、研究領域で主に使用されている。
本書は、韓国の黄宗建先生と日本の伊藤長和先生のお二人の意志と信念を引き継いでいる。両国において研究と実践に大きく貢献しただけでなく、両国の交流や東アジアにおける社会教育・生涯学習の発展のためにも先頭に立ってくださったお二人を思い出しながら、本書を完成させた。本書の編集委員たちは、2006年に韓国生涯学習研究フォーラムを結成し、毎月集まって韓国の平生教育について学んでいる。こうした活動の中心には、前書の編者のお一人である伊藤先生の存在があった。伊藤先生は、川崎市職員でありながら研究活動にも力を入れ、韓国との交流に高い関心を持ち、早くから日韓交流に関わっていた。定年退職されてからは、中国の若者たちに日本語と日本文化を教えることを通じて、新たな「東アジア」の視点を築いてこられた。しかし、本書についての議論の真っ只中だった2014年2月16日、完成を見ることなくお亡くなりになった。社会教育・生涯学習の可能性、そして市民の可能性を信じておられた伊藤先生の御遺志を、しっかりと引き継いでいきたい。
あらためて、厳しい出版事情の中で本書の出版を快く引き受けてくださったエイデル研究所(代表・大塚智孝氏)、特に編集担当の山添路子さんに厚くお礼申し上げる。また、海を越えての30名余の執筆陣との連絡調整や資料収集、翻訳など多くの方々の力がなければ完成できなかったであろう。御尽力いただいた皆さんに心から感謝申し上げる。
(2017年4月19日 編者を代表して 梁 炳贊)
まえがき 編者(梁 炳贊)
序 章 韓国の社会教育・平生教育をどう理解するか
― 市民・地域・学びに注目して 梁 炳贊・金 侖貞
コラム1 東アジア社会教育への複眼的まなざしの期待 上野景三
第1章 市民社会を育む学習共同体
第1節 地域運動と市民性学習 金 民浩
コラム2 国益を問い直す学習連帯を 石井山竜平
第2節 マウルづくり事業と草の根住民の主体形成 梁 炳贊
コラム3 社会教育と平生教育と生涯学習と― 日韓研究交流の経験 鈴木敏正
第3節 NPOは平生学習の地平を広げることができるか 鄭 盛元
コラム4 韓国平生教育の「躍動」と民主主義 高橋 満
第2章 格差社会を乗り越える平生学習
第1節 地域教育ネットワークが紡ぎ出す教育福祉 李 正連
第2節 韓国「的」多文化教育は創られるか
― 多様な文化や差異が共存する社会を目指して 金 侖貞
コラム5 富川の小さな図書館との交流で思ったこと 堀川万記子
第3節 高齢期における平生学習 崔 一先
第3章 働く希望を創る平生学習
第1節 労働と平生学習 盧 京蘭
第2節 社会的経済と平生教育学 姜 大仲
第3節 青年と失業― 課題の共有と学習から社会参加へ 姜 乃榮
第4章 平生学習の多面的展開―すべての人々に教育を
第1節 成人文解教育支援政策の現況 李 智惠
コラム6 学習のエンジン 藤田美佳
第2節 学校と地域の絆をつなぐ平生学習 肥後耕生・瀬川理恵
第3節 大学における平生教育 権 仁鐸
第4節 学歴を補完する高等教育制度
― 単位銀行制を中心に 郭 珍榮・呉 世蓮・金 宝藍
第5章 未来を開く平生学習政策
第1節 平生教育法の改正と自治体の変化 李 煕洙
第2節 平生教育行政の体系と専門組織・施設 卞 種任
コラム7 東アジアから見る韓国の平生教育 上田孝典
第3節 平生教育士の現況と発展課題 金 鎭華
コラム8 韓国平生教育関係者との交流から学んだこと 手打明敏
第6章 今、韓国の平生学習の躍動を語る(座談会)
政治・行政― 研究― 実践・運動のダイナミズム
梁 炳贊、長澤成次、小林文人(司会) 小田切督剛・李 正連・金 侖貞
特 論 韓国・平生教育の“躍動”が示唆するもの
― 平生教育・立法運動に関連して 小林文人
終 章 日本と韓国の社会教育・平生教育はどう学びあうか 小田切督剛
特別編 韓国の平生学習の歩みが紡ぎ出す10の宣言・条例
1 光明市平生学習都市宣言文(1999)
2 利川市平生学習条例(2004)
3 富川・本を読む都市宣言文(2005)
4 安山市外国人住民及び多文化家族支援条例(2007)
5 安養市成人文解教育支援に関する条例(2009)
6 教育共同体への夢(蘆原青少年支援センター「ナウ」キム・ジソン、2011)
7 水原市「誰でも学校」宣言文(水原市平生学習院、2012)
8 社会的協同組合「働く人々」定款(清州市、2014)
9 平生教育士 価値宣言文(京畿道平生教育士協会、2015)
10 草の根マウル共同体の「復権」のための2015年全国マウル宣言(草案)
(第8回マウルづくり全国大会、2015)
資料編
1 平生教育法(2007年全部改正)
2 年 表
3 統 計
(1)平生教育・職業教育支援予算
(2)自治体
(3)平生教育士、平生学習都市
(4)幸福学習センター、平生学習館、平生教育振興院、住民自治センター
(5)大学付設平生教育院、小さな図書館、社会福祉館、地域児童センター
4 基本的な用語と訳語
あとがき (編者、小田切督剛)
執筆者一覧
索 引(事項索引、地図索引)
― 平生教育・立法運動に関連して
●あとがき 小田切督剛(編者、韓国生涯学習研究フォーラム)
「人が死んでも本は残る。急ぐよりは、皆できちんと目を通すことが大切である」とは、小林文人先生の言葉である。2006年の黄宗建・小林文人・伊藤長和編『韓国の社会教育・生涯学習』から10年余り。編者のうち唯一御存命の小林先生からは、さまざまなバトンをいただいた。実績づくりに汲々とするあまり、粗製乱造に陥りがちな昨今に対する戒めも、大切なバトンの一つである。本書の第一の特徴は、前書に若手として関わったメンバーを中心としつつ、小林先生から大学院生まで多世代による談論風発から生まれたことである。2012年6月の企画から刊行まで、5年をかけた。
本書の第二の特徴は、韓国平生教育学会の中核を担う方々が、執筆者として結集してくださったことである。執筆者の方々との議論を通じて、さらに充実した内容となったことに感謝を申し上げたい。例えば、英語のLifelong Educationの訳語である韓国語の「平生教育」について、当初本書は「生涯教育」と表記したが、ある執筆者から「『平生』を『生涯』と訳すことなどは、韓国にそのような名称の機関や組織、政府の部署などが存在すると、日本の読者に誤解させることになる。これは大きな問題である」と問題提起があった。「生涯」は、日本語で「①生きている間。一生。②ある事に関係した特定の時期。③生命」を意味するが、韓国語では「①生きている一平生の期間。 ②生計」を意味する。「生涯教育」は、日本でいう「キャリア教育」のようなニュアンスで韓国では使われているのである。こうした問題提起と議論が、翻訳の統一的な基準(資料編4)に結実した。
また、韓国の方々と実践・研究の交流を積み重ねてきた日本の方々に、コラムを執筆していただいた。こうした地道な交流と議論の積み重ねが、本書の土台となっている。執筆者の方々に感謝を申し上げたい。
本書の第三の特徴は、研究者と実践家の共同作業から生まれたことである。前書の編者だった小林先生は別格として、その他の編集委員10人は、研究者4人に実践家と大学院生が3人ずつである。いわば「平等と多様性」を大切にしながら進める中で、実践的研究者や研究的実践家という視点を育ててきた。さらに、編集委員のうち7人は、「韓国についてまったく知らない読者にもわかりやすく」をモットーに、膨大な原稿翻訳や資料調査を担った。日韓双方の状況に精通しているからこそできる、訳注を含めた丁寧な翻訳に感謝したい。
最後に、エイデル研究所の山添路子氏に格別のお礼を申し上げたい。前書に続き、これほど納得のいく本づくりができたのは山添氏のおかげである。そもそも、1993年に東京学芸大学社会教育研究室で初代韓国担当を務めた山添氏がいなければ、本書は生まれなかっただろう。
本書は、多くの方々との出会いに支えられて生まれた。特に、東京・沖縄・東アジア社会教育研究会(TOAFAEC)では、東京、沖縄、中国、韓国などの自主的な研究会(フォーラム)が切磋琢磨しながら活動しており、本書にはその蓄積が生かされている。多くの出会いに感謝するとともに、本書に若手として関わったメンバーが中心となり、今後また新たな本が生み出されるよう、世代を超えた談論風発と継承の場を、大切にしていきたい。(2017年4月19日、民主化開始30周年の4・19の日に 小田切督剛)