2002年3月・上海訪問記録(続・上海の風8)
    −上海との研究交流2002(「南の風」846号〜851号所収)−



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<上海の風8−目次>
(1)上海からの訪日団受け入れ      「南の風」846号(2002年 4月4日)
(2)華東師範大学とTOAFAECの関係  「南の風」847号(4月6日)
(3)上海の本づくり               「南の風」849号(4月11日)
(4)中日文人図書室→「小林国際交流閲覧室」その後   「南の風」851号(4月12日)




(1)<上海からの訪日団受け入れ
(2002年3月22〜27日・上海訪問報告・その1)
 今回の訪中は、昨年10月の上海訪問(「社区教育」調査)の際に産声をあげた閘北区・行健職業学院(旧業余大学)の「小林国際交流閲覧室」にノート型パソコン(5台)を搬入し、その後の状況と今後のことを協議すること、同時に初めて同行した若い世代(日本側は和光大学生)による学生間交流を試行すること、が第一の目的でした。あわせて、五月来日予定の上海からの調査団受け入れの事務的な準備、急遽始まった「社区教育・社会教育」に関する本づくり(上海教育出版社)の打合せ、また呉遵民を介しての華東師範大学(王建盤学長)への訪問、そして教育系院生への講演、など盛り沢山。(その後、山東省・烟台、そして大連に足を延ばしましたが、これはまた別の機会に書きましょう。)
 華東師範大学・学長室への表敬訪問(3月27日)では、1999年11月、王学長や羅副学長など訪日のときの思い出話に花が咲きました。福岡の豆腐料理、東京のドジョウ鍋、関西の焼き鳥?など。(こちらは忘れていたのに)皆さん、実によく憶えている、それぞれに印象的だったのでしょう。
 夕食後、久しぶりの呉遵民の通訳で、教育系院生に「上下五〇年、日本教育改革与展望」と題して2時間余の講演をしました(ホームページに写真収録)。学長に「私は今年で70歳、大学を定年退職、今日は文字通りの最終講義ですよ」と話すと、杜・教育系主任(教育学部長)が「いや、新しい始まりです、再度また次の講演を・・」と応じてくれる、挨拶とは言え、なんとも嬉しいひとこと。
 聞けば、杜さんは学生時代に羅李争と同室の親しい友人だったそうで、小林の名も羅李争から聞いていたらしい。帰途に名酒「孔府家酒」をいただき、この白酒で学生たちと上海最後の夜の乾杯をしたことは、すでに「南の風」(842号)に書いた通りです。

 さて、まず簡単な報告から始めましょう。葉忠海氏らの訪日団のビザ申請のための必要書類を呉遵民から託されました。前にも連絡があったように、招聘理由書、身元保証書、滞在予定表、名簿の、4点です。招聘者はTOAFAEC(代表・小林)だとすれば、やはり(上野事務局長ではなく)東京で作成する必要がありそう。TOAFAECの規約や役員一覧等も添付しなければならず、当然のこと印鑑も捺さなければなりません。
 今回の訪日予定8名のうち、すでに葉氏ほか7名の名前は分かっていますが、あと一人が未確定らしい(どこかの組織の承認が未だ?)。8人目が分かり次第、早急に以上4点の書類作成に入るつもりです。
 日程・訪問地については、短い日数なのに福岡・大阪・東京とまわるのは無理ではないか、たとえば(いつぞやの上野メールのように)福岡を割愛してはどうか、と言ってみました。しかしみな初めての日本、時間的に可能ならば、できれば(小林平造を訪ねて)鹿児島にも行きたいほどだ、とのこと。
 いつぞやの呉遵民メールのように、まずは福岡、関西、東京とまわるのであれば、当方としてどういう体制をとるか。上野「秘書長」として実質的な日程を確定して、それぞれの地域分担で8人の宿泊の予約等の準備を始める必要がありましょうし、またお互いの経費負担についても合意しておきたいもの。上野「秘書長」、どうぞよろしく。
 公式の日程以上に、葉忠海夫妻は(娘さんが埼玉?在住)数日の延泊を希望されている模様。このことを含めて、ビザ申請の「日程」にはどう書くか、呉くんから最終的な(希望)日程案を寄せていただけませんか。皆さん、学期始めで忙しいでしょうが、この作業は早急に開始する段階に来たようです。(南の風846号)

(2)<華東師範大学とTOAFAECとの関係(報告・その2)>
 先回報告(1)の、華東師範大学・学長への表敬訪問のところで書き忘れたことがありました。私たちと同大学・継続教育学院との共同研究・相互訪問に関する協定(意向書1998年、協議書2000年、TOAFAECホームページに掲載)については、昨年秋の私たちの訪中計画の延期を求める(継続教育学院長)書簡により、形式上は中断したかたちになっています。
 (形式上と書いたのは、葉忠海さんや呉遵民の努力により、昨年10月に調査団として訪中しましたから、大学の受け入れではないかたちで実質的に継続している、このことは関係者ご承知の通り。)
 今回の学長への表敬訪問の際、この経過について私たちの不満を表明するか(1999年秋の学長一行の招聘以降、そのままになっている)、あるいは今年度はどうなっているか?と督促するか、など何らかの表現で言及して然るべき、という気持ちがありました。
 しかし、結果的に当方からは何も言いませんでした。久しぶりに会ってお互いに懐かしく「好久不見!」と握手をして、そのすぐ後に学長から「私たちの大学とあなたたちの研究会との共同研究の関係は基本的に変わりません」という趣旨の表明があったからです。そこには学長なりの複雑な気持ち、なにかをにじませた表現、むしろ今後に向けての期待、を感じ取りました。この挨拶に、私はうなずいただけにしました。ご了解ください。
 昨年から今年にかけて、華東師範大学内の機構改革、継続教育学院の(研究機関から行政機関への)性格変化、私たちが最初に「意向書」をかわした「成人教育研究所」の移管(継続教育学院から分離し職業技術学院と合作?)等の経過がこの間にあったようです。今後また、新しいかたちでの関係が求められるようにも思われます。このあたりの正確な情報は呉遵民から補っていただけると有り難い。(南の風847号)

(3)<上海の本づくり(報告・その3)>
 本づくりの話しは、どこかで、ふとしたきっかけで、動きはじめるようです。今回の「上海の本づくり」もまったくそうでした。
 昨年10月の「社区教育」調査団・上海滞在中のある夜、有名な上海教育出版社の総編集長・袁正守女史がホテルに来訪されました。なんでも、大事なお嬢さんが東京に留学されたばかり、どうぞよろしく、というご挨拶だったと思います。
 ところが調査団一行との話ははずんで、中国と日本をつなぐ面白い本をつくりましょうという話に発展し、その夜だけで3冊ほどの出版構想が話題になったように記憶しています。話しの架け橋はもちろん呉遵民、愉快な夜でした。(そういえば、呉遵民著『現代国際生涯教育論』1999年、が上海教育出版社から刊行されています。)

 その後この数ヶ月の間に、呉遵民を介して、中国の社区教育と日本の社会教育を結ぶ本づくりの企画が具体化してきました。そして今回の上海訪問の際に、再び上海教育出版社(袁正守・編集長、担当の袁彬さん)とお会いし、来年春・刊行に向けての原稿依頼を正式に受けたのです。
 書名はこれから協議して決定していくとして、ねらいは「社区教育」を国際的視野から位置づけ、日本の「社会教育」の制度や実践を紹介しつつ、これからの課題や展望を明らかにする、編者は、小林、末本、呉の3人(三世代)とするが、中国「社区教育」に関心をもつ研究者、自治体関係者にも執筆に参加してもらう、などなど、話しあいました。
 あるレストランの午後、袁・編集長はこの本への熱い期待を披瀝し、当方もざっくばらんに意見を出しあって、面白い本になりそうな予感がしています。
 内容・構成案については、すでに出版社あて末本案が出されていますが(三月初旬)、これを基礎にして、当日、以下のような諸点が話し合われ、ほぼ合意されたように思います。
(1)読者の主な層は、研究者というより現場実践家・行政関係者を想定、
(2)理論だけでなく、むしろ実践的具体的に元気が出るような本にする、
(3)日本の社会教育や地域おこし等の、実践事例、地域事例を紹介する、
(4)写真もいれて、心がおどるような、これまでにない本にしたい、
(5)編者3人を中心としつつ若い研究者や自治体関係者の執筆も求める、
(6)上からの啓蒙・宣伝的なものでなく、市民の自由と主体的な活動について書く、
(7)国際的な流れについても、当然、書いてほしい、
(8)日本の社会教育と中国の「社区教育」の基本的な違い、何が課題かを明らかにしてほしい、など。
 当日、同席された呉さん、上記メモについて、補足や修正などあればお願いします。またこれから黄丹青さんのご助力が必須、どうぞよろしくお願いします。
 最終的な構成案、執筆分担案については、これまでの経過をふまえて末本さんに再提起をお願いし(四月下旬)、関心ある方々のご協力をお願いして、いい本に仕上げていきたい。私たちにとって初めての中国向けの本づくり、ぜひとも成功させたいもの。  (南の風849号)



(4)<中日文人図書室→「小林国際交流閲覧室」その後(報告・その4)>
 昨年10月の上海閘北区新社区大学(上海行健職業学院)「小林国際交流閲覧室」の出発は、ホームページにも掲載したように、正直びっくりした出来事でした。それからもう半年ちかくが経過しています。あの小さな空間がその後どのように動いているのか、どんな可能性をもっているか、こんどは少しゆっくりと落ち着いてこの目で確かめてみたい、というのが今回の上海訪問の最大関心事でした。
 和光大学の最後の年、「上海に行こう」という呼びかけに応じてくれた5人の学生たち。3月下旬の訪問日程を決め、羅李争を通して、先方の都合を確かめたところ、「まったく問題ない、歓迎です」とのこと。すぐに中古(ノート型)パソコンの搬入計画が始まりました。文人図書室に配置して、インターネットで日本とつなごう、というものです。この計画の立案・推進役はすべて羅李争、たいしたものです!
 5人がそれぞれ1台づつ手にもって上海に運んでくれました。空港には、出迎えの袁允偉、羅李争のお二人。学校づくりの話しが始まって7年、何度この二人に迎えられたことでしょう。しかも今回は若い学生たちと一緒。この日の上海・虹橋空港の春宵のひととき、まさに値千金、いつまでも忘れないでしょう。パソコン5台は空港の出迎えのその場で袁さんに手渡しました。もちろんその後も皆で学院まで運びましたが、思いは袁・副学長への手渡し・・・でした。
 学院・図書館の「小林国際交流閲覧室」は、昨年秋に産声をあげたときそのまま、まったく変わらないたたずまいで私たちを迎えてくれました。図書館自体はまだ本格的に動き始めていない様子、この日、入口のブザーのゲートの工事がようやく行われているような状態で、学生の利用は一部の閲覧室だけ可能、あと図書館全体としてはいまだ工事中。それだけに昨年秋の「文人図書室」の開幕式は特例的なものだったんだとあらためて思いました。
 「文人図書室」のこれからの進め方について、小さなメモを用意していきました。
大要、次のようなものです。
A,文献・資料類の収集・整備:「社会教育」「生涯学習」を中心とする
  *一般図書にはひろげない、「社区教育」との関連
  *5カ年前後の計画
 1,自治体の社会教育資料:主として大都市の新しい社会教育・生涯学習に関する資料(計画、統計、要覧、諸報告等)を収集・整備、あわせて地域づくり、市民活動、ボランテイア等の資料も
 2,国(文部科学省)、研究所、大学等の刊行物、研究報告書、など
 3,社会教育・生涯学習に関する研究文献、雑誌類
 4,辞典、統計、ハンドブック類
 5,ビデオ、CD,フイルム類
 6,その他(写真、地図など)
B, コンピューターの整備
C,管理・運営の組織をどうする?

 上海最後の夜おそく、ホテルの1室で、このメモを袁、羅のお二人に説明しました。昼の時間は、学生間の交流活動が中心で、ほとんど時間がなかったのです。「ぶんじん」がどんなイメージをもっているか、今後への問題提起として聞いてもらうかたちになりました。袁さんがいくつか意見をいって(窮屈な組織はつくらない、日本語を読める人はあまりいない、ビジュアルな資料、たとえばビデオあるいはポスター等を含めて、新しい動きがわかる資料を、など)、こちらも、率直な見解(かたちばかりの「閲覧室」はよくない、5年間ぐらいをめどに努力していこう)を述べて、羅くんが低い声で通訳して・・・、夜は更けていきました。
 さて、これからどんな方向で動いていくことになるか。すべては今後の課題として別れたかたち。あまり無理をしないで、しかしせっかくの機会、これを活かして、日中双方の関係者に少しでも役立つものになればと考えています。
 “風”の皆さんのご意見、ご提言をお待ちしています。若い世代の交流だけでなく、次回は、日本の社会教育関係者による軽やかな旅を企画し、実際に「文人図書室」を見ていただき、中国の社区教育関係者との交流を重ねていければいいな、などと夢見ています。(南の風851号)

2013年・中日国際文化交流閲覧室・小林館 (20131125、上田孝典氏提供)




      
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