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(2)社会教育政策・公民館関連レポート(1990年〜)
*公民館研究・諸報告一覧→■
*(1)公民館・関連レポート・年鑑(1973〜2006)→■
*(3)公民館・社会教育レポート・文献等(2006〜)→■
<目次>
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・学級・講座の自主編成〜1970年代、学習権運動の一つの系譜〜 (ドキュメント社会教育実践史18)
月刊社会教育
1992年10月号
・社会教育推進全国協議会編『社会教育・生涯学習ハンドブック』増補版(1992年)資料解説
(エイデル研究所)
・社会教育推進全国協議会編『社会教育・生涯学習ハンドブック』1995年版「まえがき」(エイデル)
・生涯学習計画の現段階−とくに自治体レベルにおける− 『教育と医学』1993年(41巻)4月号
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・市民活動支援の歩み、その歴史を語り継ごうー市民活動サービスコーナー三〇年ー
→■
*東京都立多摩社会教育会館市民活動サービスコーナー「市民活動のひろば」第36(最終)号(2002年)
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◆学級・講座の自主編成〜1970年代、学習権運動の一つの系譜〜
(ドキュメント社会教育実践史18)
*原文(縦書き)のまま
月刊社会教育 1992年10月号
はじめに──新しい動き
戦後の社会教育の歩みをふりかえってみると、一九七〇年代初頭が一つの重要な転換点になっていることを実感させられる。この時期に国の政策も社会教育について積極的な方向(たとえば一九七一年・社会教育審議会答申など)を打ち出し、また教育運動の側も「権利」論を主軸に新しい実践と課題を活発に提起する、という状況が生まれた。
住民の運動としても、公民館や図書館・文庫づくりなど社会教育を主要なテ─マとして生き生きと躍動する地域があらわれた。なかでも東京三多摩など大都市近郊部あるいは先進的な中小都市において、社会教育をめぐってこれまでにない新しい胎動が始まる。旧来の教化主義的な行政主導の社会教育を批判していた市民たちも、むしろ地域・自治体の社会教育の可能性を“発見”して、自分たちの要求や課題を積極的に発言しはじめるのである。それは、戦後二〇年余の自治体社会教育(行政・施設、そして職員の実践)の蓄積がようやく確かな意味を持ち始めた一つの証左ともいえよう。一九七〇年代は、少なくとも都市部では、そういう状況が動いていた。(筆者は、ちょうどこの時期に「月刊社会教育」編集長を務めた。苦しい思い出もあるが、幸せでもあった。)
一九七〇年代社会教育を特徴づけるものとして、行政への住民参加や施設づくりなどいわばハ─ドな側面での新しい動きだけでなく、事業や実践レベルのソフトな面での新しい胎動として、とくに「学級・講座の自主編成」の潮流が注目される。
たとえば、そのころ東京都教育庁(社会教育部)は、「学級・講座」の新しい動向について、三多摩など自治体での具体的な取り組みを背景として「資料作成委員会」をつくり、その実践事例を中心に二冊の報告書をまとめている(『新しい学級講座の創造をめざして』?? 一九七四・五年)。二冊目に、筆者は「まとめ」風に次のように書いている。
「…新しい動向を一言でいえば、“市民主体の学級講座づくり”ということができましょう。それはたとえば次のような動きとしてみることができます。
・学級講座を行政が企画編成して市民に与えるという従来の 方式とはちがって、学級講座づくりの
主体として市民が登場しはじめている。
・まず企画準備の段階に市民が参画している。
・内容の編成や実施にあたって運営委員会などの市民の組織 がつくられる。
・当然のことながら市民のなまの生活問題や学習要求が重視 されている。
・社会教育行政にかかわる職員のあり方や姿勢が問い直され る。
・学習の内容だけでなく、学習の施設や経費、資料などの貧 弱な条件を、少しでも改善していこう
とする取り組みが平行してすすめられる、などなど。─(中略)─
このような動向のなかには、共通して公的な社会教育にたいする市民の側の権利意識のたかまりが基底にあるといってよいでしょうし、それにたいして社会教育行政・職員の側でも、市民の権利意識や学習要求を積極的に尊重し学習を援助しようとするとする行政姿勢が顕著になってきているといえましょう。…」
以下、東京・首都圏を中心として“市民主体の学級・講座づくり”の実践史をたどってみることにしよう。
歴史の流れをさぐる
一九七〇年代「学級・講座」の新しい動きには、それに至るいくつかの歴史的な源流がある。
まず一つには、一九五〇年代の地域青年による自主的な共同学習運動があげられよう。日本青年団協議会による共同学習運動の提起は、文部省当局による青年学級法制化(一九五三年)と官製的な青年教育の動きにたいする対抗の学習論であった。そして、わが国社会教育史上はじめてといってもよいこの組織的かつ自覚的な学習運動の背景には、戦後初期からのいわば“上から”の啓蒙主義的な「承り学習」にたいする、“下から”の素朴な生活主義的な「話し合い」や「小集団・サ─クル」による学習、さらには生活記録・綴方の活動あるいは「うたごえ」運動などの胎動があった。いずれも学習・運動の自主性と共同性についての共通した強い志向・認識があったといえよう。
第二は、青年学級振興法にみられる自主的な学級づくりについての規定である。青年学級振興法も、地域青年運動の側から批判(日本青年団協議会は反対決議)をうけながらも、一面では戦後社会教育の「自己教育」理念に支えられて、他面では上述のような自主的・共同的な学習運動の主張をそれなりに反映するかたちで、たとえば第三条(青年学級の基本方針)における「自主性」尊重や、第六条の「申請」開設の規定等を用意したのである。
これをうけて法制化直後の「青年学級開設運営要綱」(文部事務次官通達、一九五三年八月二一日)では、次のような青年の自主性についての考え方が一つの基調になっていた。「二 ?青年学級の開設及び運営に当っては、勤労青年の自主性を尊重しなければならない。勤労青年の意志を尊重しできるだけその希望にそうようにすると共に勤労青年が自発的に勉学する意欲をそそるような運営をはかる必要がある。このため地域の実情に即応して「八」に掲げるような運営組織を設ける─(略)─
四 青年学級は、勤労青年一五人以上の申請によって開設される─(略)─ 青年学級は、青年の共同学習活
動を行なうことを本体とするのであるから、学習効果をあげるためには、一青年学級の学級生数をあまり多くすることは望ましくない─(略)─
六 ?学習内容の決定にあたっては、勤労青年の希望に応じ、その地域の課題を解決するための内容をおりこむように考慮すべきであって、学校の教科の単なる模倣におわらぬよう留意しなければならない。
八 青年学級の運営委員会に関する事項は、別段法に明記されていないが、法第三条の精神は、青年学級の運営にあたっては、学級生の意志を十分反映させるために地域の実情に即応した運営委員会の如き運営組織を設けることを期待している─(略)─
九 青年学級の性格にかんがみ学級生から受講料その他これに類似のものを徴収することは避ける─(略)─」
やや引用が長くなったが、一九七〇年代の学級・講座の自主化運動との関連でみるとき、この時すでに文部省通達として「自主性」尊重の課題・方法がある程度原則的に示されていて興味深い。
第三には一九五〇年代後半、青年の共同学習運動の思想を共有するかたちで取り組まれた「婦人学級」(文部省委嘱)の実験がある。
たとえば一九五六年静岡県稲取町でいち早く取り組まれた婦人学級の事例をみると、
「一、主目標を“生活を見つめ、生活を高めよう”に集約する。
二、企画委員会は、全町村的支持をうけられるような規模にする。
三、運営委員会は学級生のみとし、(略)学級生の自主性を高めるため、今後の企画、運営、評価等
は学級生が行、従来の講師依存の学習形式をとらない。
四、学習は小集団討議により、全員が発言出来るよう、発言の機会を多くつくる。(略)」などとある。
当時まだ『ものいわぬ農民』(大牟羅良、一九五八年)あるいは「ものいわぬ婦人」の時代であるだけに、生活に根ざした学習とそのなかでの自主性、積極的な自己主張がつよく唱導されている。この段階ですでに学級運営における企画・運営にかかわる委員会の設置が、重要な方式として具体的に提起されている。
一九七〇年代・新しい動向の背景
しかし現実の「青年学級」「婦人学級」の実態はどうであったのだろう。その後一九六〇年代において、一方で青年学級は停滞傾向をしめし、他方で婦人学級や「家庭教育学級」(一九六五年以降)は各地でその数を増すが、残念ながら学級づくりの実態は、学習の自主性や共同性などの思想からはほど遠い、あいも変わらぬお仕着せの官製的な学級が少なくなかった。農村地域を中心に拡がりをみせた共同学習運動にしても、農村自体の変貌と青年集団の解体傾向とともに、その理念の重要性にもかかわらず、行き詰まりをみせていた。 六〇年代の文部省施策として打ち出された家庭教育学級については、その奨励のための「補助金交付要項」(一九六五年)が示されている。これによれば「補助条件」として「?家庭教育学級の企画・運営は市区町村教育員会が行なうものとする(略) ?学習内容は家庭教育に関するものとする」となっている。ここでは、五〇年代の学級づくりの原則として示された学級の自主性の尊重、学級の企画・運営は学習者自らがあたる、といった考え方は姿を消し、学習内容も「家庭教育に関するもの」とせまく限定している。
一九六〇年代の社会教育をめぐる全般的な特徴としては、五〇年代と比較して、社会教育行政の体制が相対的に拡充されてきた事実があげられよう。社会教育法「大改正」(一九五九年)を契機として、社会教育主事等の職員の(市町村)配置が一定すすみ、施設や事業もそれなりに拡大された時期にあたる。もちろん地域的な格差はある。しかしこのような社会教育行政の近代化、施設・職員等の条件の一定の整備により、学級や講座などの各種事業は、一面で拡大されたが、他方ではその別の側面として、「行政主導」による事業の編成・実施がすすむという動向も全般的に否定できない。社会教育(行政)の“近代化”をめぐる矛盾の問題である。
この時期あと一つの特徴として、青年あるいは住民・市民の学習運動の側では、前述した「話し合い」「共同学習」の停滞をきりひらく立場で、学習の構造化、学習における指導性、科学と生活との結合、系統的学習の組織化、などといった課題がさかんに提起されていった。「共同学習のゆきづまり」克服のために、たとえば「学習は“みとおし”と“ひろがり”と“系統性”をもたなくてはならない」(藤岡貞彦「共同学習論からの出発」本誌一九七四年七月、二〇〇号記念特集)のである。生活の諸問題の科学的認識や現代の思想・状況の構造的把握、そのための学習の系統性重視という観点から、地域の学習運動のなかで、あるいは公民館などの公的な事業において、いわゆる「系統学習」的な“講座”づくりが一つの新しい流れをつくるのである。
たとえば東京・三多摩の公民館のなかでは、当時の国立市公民館の「市民大学講座」(1963年)「市民大学セミナ−」(1965年以降)などの事業がその典型であろう(いわゆる「公民館三階建論」はこのような動きを背景としていた)。名称についても従来の「学級」よりも、たとえば「講座」「セミナ−」「大学」などがこの時期に積極的につかわれるようになる。なかには学習の系統性や科学性には関係なく、これら「大学」的な名称が流行り言葉のように乱用される風潮も始まった。
しかし、学習の構造化や系統性を強調する学級づくり・講座づくりの動向のなかには、共同学習の初期の精神として重視された学習の自主性や共同性の考え方が形式化し、あるいはほとんど忘れられてしまう傾向もみられたのである。
教科書裁判・杉本判決と社会教育における権利論
少し歴史的なふりかえりに紙数をつかいすぎたが、冒頭に述べた一九七〇年代「学級講座の自主編成」の運動が新しく展開していく背景はおよそ以上のようなものであった。官製型、行政主導、あるいは学習の系統化、といわれるような状況をつきやぶる動きとして提起され始めたのである。
一九七〇年代初頭、学級講座づくり自主化運動の直接的な引き金となるのは、やはり家永教科書裁判東京地裁判決(いわゆる杉本判決、原告勝訴、七〇年七月一七日)なのではないだろうか。ここに示された「国民の教育権」理念は、単に教科書検定の在り方だけの問題に止まらず、ひろく国民の公的な教育の在り方全体を問いなおす課題をしめし、それもせまく子どもの教育に限定されるのではなく、ひろくおとなの教育・学習・文化の問題、つまり国民の社会教育の在り方を含めて基本的な問いを発しているのではないか。社会教育の立場からも「国民の権利」としての社会教育の理論と実践を深めていく必要があるのではないか。このようなことを当時『月刊』編集会議(あるいは社全協常任委員会の席だったかもしれない)で、今は亡き田辺信一さんと激論したことなどを憶えている。
家永教科書裁判は、学会レベルの活動(たとえば日本教育法学会の設立、一九七〇年八月)にも、これを支援する市民運動にも広範な影響を与えた。社会教育への影響は、一言でいえば「権利としての社会教育」運動の刺激、契機、その始動、といえるだろう。
憲法理念に立脚して「社会教育は国民の権利である」ことを公的に表明したのは、いうまでもなく枚方市教育委員会である(枚方テ─ゼ、一九六三年)。しかし実践的・具体的な課題として「権利としての社会教育」運動が取り組まれ始めるのは、やはり一九七〇年代に入ってからであった。『月刊社会教育』は、国民の教育権運動を背景として、すでに一九七〇年五月号より小川利夫「権利としての社会教育・方法論序説」の連載を始めているし、同年一一月号では初めて「国民の教育権と社会教育」についての特集を組んだ。社会教育推進全国協議会では、この年に中間報告として出された中央教育審議会・社会教育審議会の両答申とそこに登場した生涯教育論を批判的に切る視点として社会教育の「権利」論の深化を課題としつつ、はじめて社会教育研究全国集会のテ─マとして「権利としての社会教育とはなにか」(第十一回集会東京・読売ランド)を掲げた。
七〇年代の学級講座自主化の努力が具体的に始まるのは、理論的というより、むしろ実践的運動的な取り組みによってであった。しかし、それ以前の青年学級・婦人学級での自主性尊重の学級づくりの事例と比較して、この段階での「自主化」運動は共通して自覚的な「権利としての社会教育」の意識に支えられていたことがあげられよう。行政によって学級の自主性が奨励される──与えられた自主性?──というに止まらず、学級の自主性を自ら要求し、それを具体的に創出しようとする学習主体としての市民が登場してきている、そしてそれを受けとめようとする行政側の姿勢・職員の専門的力量の役割、というのが新しい特徴である。まさに“市民主体の学級講座づくり”の胎動である。
学習主体としての市民の登場──五つの実践方式
まず先駆的な実践として当時注目されたのは東京都練馬区の家庭教育学級「PTAを考える」(一九七一年)の「三者事前学習方式」の試みであった。
練馬区の新しい学級(内容編成)づくりの模索は、これに先立って一九六八年「社会教育研究会」(婦人学級の助言者集団と行政側職員)から始まったという。かっての「共同学習」の技術的な停滞をのりこえる論議のなかから、市民代表(助言者)と行政担当者による事前学習を重ね、「@学習主体者は市民である。A行政は市民の学習要求を受けとめる条件整備の役割」をもつことが確認される。しかし「学習内容編成を市民として考えることが可能かどうか、もうひとつの担い手として専門家の力を必要とするのではないかと考えをすすめて」研究者(講師)の参加を求め、市民と職員と研究者によるいわゆる三者事前学習方式による内容編成が試みられたのである(野々村恵子「市民・行政・研究者による学習内容編成」本誌七一年六月号)。
研究者としてこの実践にかかわった藤田秀雄は、その特徴を次の六点に整理している。@教育権についての基本認識、A学習主体である住民、B住民と職員の話し合い(テ─マと専門家の選択)、C住民、職員、専門家集団の三者による事前学習と学習プログラムの作成、D住民=学習者の問題提起、発表と討議、E三者による講座の運営、であるという(藤田「婦人・家庭教育学級の自主化運動」日本社会教育学会年報『社会教育の方法』一九七三年)。
?その頃、東京都下各自治体の学級講座づくりに少なからず影響を及ぼした事業として、東京都教育庁がみずから実験的に開設した「市民講座」「市民交流集会」(一九七二年)があった。
東京は一九六七年に美濃部・革新都政が実現し、一九七〇年代に入ると、社会教育行政の姿勢も目に見えて変わってきたことが思い出される。地域では都市・環境問題、消費者問題あるいは教育・文化等にかかわるさまざまな住民運動が活発に動いていたし、それを背景として、都政全体の体質としても「住民参加」の考え方が重要な原則として位置付き始めていた。社会教育行政も当然この動向と無縁ではなく、たとえば都の社会教育委員の会議では、「市民運動と社会教育行政」の新たな関係を求めて「市民教育」という概念を提示し「政治的主権者としての自己を形成しようとする市民」の自主的な努力と、それを援助し条件整備する社会教育行政の役割について論議が沸騰していた。因みにこの会議は一九七三年に答申をまとめ、「都民は知りたいことを知る、都民は学びたいことを学ぶ、都民は集会し学習する自由な場をもつ」という「学習する権利」を基調とする内容が注目された(東京都社会教育委員の会議『東京都の自治体行政と都民の社会活動における市民教育のあり方について』答申)。
このような状況のなかで東京都社会教育部は「市民講座」「市民交流集会」を構想したのである。講座は「市民が、市民的教養を、主体的に身につける学習の場」であり、「市民みずからの企画・運営・評価ができるよう配慮」して開設された。予め、市民活動家や団体のなかから「企画委員」(女性、一五名)が委嘱された。そして三講座(環境、福祉、教育)のコ─スを設け、市民代表に学識経験者と行政担当者が加わって講座企画委員会(一五回)ならびに講座運営委員会(八回)を開き、積極的な住民参加の考え方で講座を運営していこうという構想であった。この間には講座・参加者相互の交流、市民サイド・行政サイドの課題提起と共通理解、発表と総括のための「市民交流集会」(三回)が開かれている(東京都「市民講座・ダイジェスト・企画と評価を中心として」一九七二年度)。
発足の経過や講座の構想はもちろん一様ではないが、丁度同じ時期にはなばなしい展開をみせていた目黒区「主婦大学講座」(本誌一月号、ドキュメント実践史、重田統子論文)の場合も、企画準備への住民参加、三講座の編成、交流と調査活動など、類似の取り組みがみられる。この時代に、学級講座づくりの歩みは新しい一歩を踏み出していたように思われる。いわば「参加・交流方式」とでもいうべき学級講座づくりである。
国分寺市公民館では、職員中心の講座編成の方式から、ある市民(青年)の公民館批判を契機に、これを誠実に受けとめて、市民参加の「準備会方式」によるプログラム編成を出発させた(一九七二・三年)。
ある青年の批判とは次のようなことであった。公民館が開設している青年教室を一定評価しつつ、「しかしこの企画は誰がおこなったのか?──企画する上で大切なのは、住民の意見をどのようにうけいれているかということではないかと思う──国分寺市公民館はもっともっと市民の中に入っていく、いや友人的になっていく必要があるのではないか」(一九七一年二月「公民館だより」掲載、社会教育推進全国協議会編「社会教育ハンドブック」初版、一九七九年)という問いかけだ。公民館側は、職員集団としてこの問題を検討し、理論的な学習や市民のアンケ─ト実施などを経て、翌年「主催講座(地方自治セミナ─)の学習内容を編成する段階で、市民有志によびかけた準備会をひらく」こととなった。しかし「市民有志」といっても「公民館が呼びかけた人だけの参加」(前年度講座参加者や学習グル─プなど七七人、反応があった人一六人)に止まるという批判もあり、翌一九七三年の講座準備では「公民館だより」(月一回発行、全戸配布)に掲載して、全市民に知らせる方式をとるようになったという。しかも七三年度の講座では前年度・地方自治セミナ─から生まれた学習グル─プとの共催で行なうこととなり、「国分寺市の教育予算を考える」講座がまさに住民参加と共催方式によって編成されたのである(前掲・東京都「新しい学級・講座の創造をめざして」? 一九七四年)。その後の国分寺市公民館では、主催講座の開設にあたってはまずこの「準備会」を呼びかける方式が定着して現在に至っている。 となりの小金井市では、公民館条例のなかに「企画実行委員」制度を明文化している。「第二一条 公民館に公民館の行なう各種事業の専門的な事項を調査研究ならびに企画実施に当るため青少年教育、成人教育、文化活動、視聴覚ライブラリ─の公民館企画実行委員を設ける」というものである。
もっともこの条文は一九五三年公民館創設時から規定されていたが、実際には各種団体が「職員の手伝い的存在」として機能する程度のもので、一時は「委員の選出もなく開店休業となって」いた。しかしその後、一九七二〜三年にかけて委員自身による試行錯誤と活性化の努力があり、「講座・学級のテ─マ、組み方、講師選びなどの企画、運営」に積極的に参加した。さらに七四年度には「委員は市民代表であるという原点」にたって、@企画実行委員会と職員による企画、A参加者による準備会、B委託学級(サ─クル、団体、PTAを対象)、の三本柱で実施されることとなった(前掲「続・新しい学級・講座の創造をめざして」? 一九七五年)。
これら国分寺や小金井の実践事例は「企画・準備会方式」とでも名づけることができよう。
申請・委託・奨励学級と講師派遣制度
市民主体の学級講座づくりの実践は、市民の学習権要求・運動の水準やこれに対する行政側の姿勢によって、いろいろな形態をとって展開された。学習主体としての市民の登場という点については共通するとしても、行政主催講座の自主化の実践として、職員の果たす役割ないし比重が大きい事例もあれば、市民の側の積極的な学習要求やプログラム編成力量によるところが大きい場合もあった。その前者???に続けて、その後者について二つの実践の流れに整理してみておこう。いずれもやはり一九七〇年代「権利としての社会教育」「学習権」運動としての側面をもった新しい動きであった。 ?文字通り市民が主体となって企画・編成した学級講座にたいして、行政の側は、市民の申請にこたえて公費援助をしようとする「申請学級」ないしは「委託学級」の形態があった。この制度の源流は、前述したように青年学級振興法である。その後この方式を婦人学級の援助に活用しようとした目黒区の先駆的実践(前掲、重田論文)をはじめとして、品川区、大田区など、あるいは小金井市、町田市、調布市、立川市など多様な展開がみられた。小平市では婦人学習サ─クル交流会などによる「学習サ─クルへの公費援助」の運動が取り組まれ、市民学習「奨励学級」として実施された(一九七五年、佐藤愛子「市民誕生」一九九二年、私家版)。
しかし他面これらの事例のなかには、申請学級・委託という名の裏側の問題点として、単なる安あがり行政、低度行政サ─ビスの合理化、あるいは行政の下請け化といった実態、またそのおそれも含まれていた。
申請・委託学級の方式が、市民主体・学級講座づくりのプログラムをある程度の継続性をもって公費援助しようとするのにたいして、同じく市民グル─プの学習を「講師派遣」というかたちで、どちらかといえば単発的に援助する自治体が一九七〇年代にふえた。三多摩地区ではとくに都立の立川社会教育会館市民活動サ─ビス・コ─ナ─が積極的な講師派遣制度を設けて、市民運動の学習活動を援助し注目を集めてきたことが刺激剤ともなった。市民の側の公費援助を求める運動も各自治体でさまざま取り組まれたのである。社会教育推進全国協議会三多摩支部の調査によれば、一九七七年度において三二市町村のうち二〇自治体がなんらかの形態(その内容は多様)で講師派遣制度を実施している(前掲「社会教育ハンドブック」初版、また佐藤進「三多摩における学習グル─プ援助の動向」本誌一九七五年六月号、参照)。
このような講師派遣制度ないしは「学習グル─プ援助」のさまざまな実践と運動を背景として、第一四回社会教育研究全国集会(一九七四年)では各地の事例(三多摩だけでなく相模原市、大宮市、枚方市、名古屋市などをふくめて)をあつめ集中的な論議がおこなわれた。そこで市民の学習グル─プにたいする公費援助について次のような原則が語りあわれた。@要求の原則、A公開の原則、B自由の原則、C自治と参加の原則、D自前の原則(本誌・一九七四年一一月臨時増刊号、全国集会・分科会報告)。
すでに紙数がつきてしまった。歴史的な経過に少しこだわりすぎたため、報告が「ドキュメント」風にならなかったことをお詫びしなければならない。しかしこのように書きすすめてきて、あらためて一九七〇年代の“市民主体の学級講座づくり”実践の潮流が、大きなうねりをもって、各自治体でいきいきと展開したことに注目したい。本報告に取りあげた実践事例のほかにも他の自治体で類似の活動があったであろうし、また東京以外の全国各地に目を向けるとまた数多くの「学習権」運動の努力がひろがってきている。もちろんこれらの新しい実践も時間の経過とともに固定化・形式化の問題を含み、つねに市民のあらたな要求の展開に即してリフレッシュしていく努力が忘れられてはなるまい。市民もたえざる要求と運動の積み重ね、学習権運動の“初心”をもち続ける必要があろう。とくに最近の「生涯学習」時代においては学級、講座、セミナ─、教室などが氾濫し、規格化されあるいは商品化されて企業的に販売され始めている状況がある。そこでは学習者としての市民は明らかに主体の座から退いて、今や客体、マ─ケットの「お客さん」である。あらためて一九七〇年代の市民主体の“学習権”の思想と運動の、いきいきとした展開を思い起こしてみる必要があるようだ。 (こばやしぶんじん 東京学芸大学・教授)
◆
◆社会教育推進全国協議会編『社会教育・生涯学習ハンドブック』増補版ー1992年
資料解説 (エイデル研究所)
「社会教育・生涯学習ハンドブック」初版(一九八九年八月)が刊行されてようやく二年半を経過したところであるが、この間の状況の変転は目をみはるものがある。世界史の激動だけでなく、この二年半は社会教育史としても大きな転換の時期であったと言えよう。
主要なものだけでも、生涯学習振興整備法の制定、子どもの権利条約をめぐる動き、学校五日制・週休二日制の導入、国際識字年、など国際的な動きを含めて新しい政策・行政そして運動がこれまでにない展開を見せつつある。この道は一体これからどのような歩みをたどるのか、私たちはどんな展望をえがきうるのか、見定めていく必要がある。
「ハンドブック」委員会としても、急ぎこれらの新しい動向の重要資料を精選・収録して増補版をつくることとした。そして近く予定している改訂版につなぎ、改訂作業のピッチも早めることになった。それだけ状況は激しく動いているのである。増補の紙数が限られているので、収録する資料も骨格の部分にしぼらざるを得ないが、以下主要資料について簡潔に解説を付しておくことにする。
@生涯学習振興整備法に関連して。「生涯学習」に関する新法策定の動きは臨時教育審議会の「社会教育法令の総合的見直し」(第二次答申・一九八六)から始まり、臨教審の最終段階ではすでに案文が作られた(「ハンドブック」本文U-3「政策をめぐる動き」参照)。しかしリクル−ト問題や消費税
制度をめぐって国会は混迷をきわめ、この段階では法制定にいたらなかった。その後中央教育審議会(第一四期)が再開され「生涯学習に関する小委員会」による中間報告を経て最終答申「生涯学習の基盤整備について」(増補資料3−?)がまとめられ、それを基礎に新法制定にたどりつくのは、ようやく一九九〇年に入ってからであった。
「生涯学習の振興のための施策の推進体制等の整備に関する法律」(資料1−? 生涯学習振興整備法と略称)と中央教育審議会「答申」の内容は必ずしも一致しないところがある。例えば「答申」に盛られている「地域における生涯学習推進の中心機関」である「生涯学習推進センタ−」とその「専門的職員」配置や大学の「生涯学習センタ−」の構想などは(最終的には)新法からはずされた。「答申」に基礎をおく「法案」は各省庁間の調整で難航し曲折をたどったのである。法案では、とくに生涯学習の性格から考えて関連が強い筈の労働省・厚生省については「別に講じられる施策」(新法第2条)として距離をおく
こととなり、むしろ通産省とのパ−トナ−シップを主要な骨組みとして構成される結果となった。紆余曲折の末に、しかし「民間事業者」の参入による民間活力路線と國(通産省・文部省)及び都道府県主導による「生涯学習」推進体制の構築という当初からの政策意図は貫徹されたかたちで新法は成立した。
法案の国会審議はわずか一ヵ月たらず、最短のスピ−ド審議で可決された。なぜか主要新聞もほとんど報道せず、十分の国民的論議がないまま、問題点を多く抱えて(わが國はじめての)生涯学習の新法は誕生したわけである。
法の問題点については本文・基本法令「解説」に追記しているが、その後この法律の「施行令」(資料1−?)、文部次官通達(一九九一・九・二八)、法第四条に基づく「基準」(資料1−?)、同基準の「趣旨及び留意点」(資料1−?)などが相次いでだされている。またこの間には、生涯学習体制における「学校」(専修学校をふくむ)の役割、「生涯学習の成果の評価」等についての中央教育審議会答申(資料3−?)がまとめられた。
今後注目されるのは、生涯学習振興整備法の“目玉”である「地域生涯学習振興基本構想」(第五条)の「承認基準」(第六条)がどのような内容のものになるかだろう。「生涯学習審
議会」等の意見を聞いて文部大臣と通商産業大臣の共管により策定中と伝えられる。
A「公民館の整備・運営の在り方について」(生涯学習審議会社会教育分科審議会施設部会 資料4) 一九八〇年代に國の重要施策として強行された地方「行政改革」は公民館の委託
・合理化を唱道し、また臨教審答申にしめされる「生涯学習」政策も公民館制
度について全く軽視(無視?)してきた経過があった。それだけに新設された文部省・生涯学習審議会がまず第一に積極的に公民館の奨励策を打ち出したことは注目に値する。公民館は「市町村における生涯学習の中核的な施設」としての役割が期待され、地域配置や専門的職員の拡充など、概してこれまでの公民館関係者の主張が肯定的に盛り込まれている。もちろん中央公民館重視の傾向や、基幹部分は委託になじまないとしながらも「外部への委託」を奨励している点など、問題点も含まれている。
B学校五日制・週休二日制の導入(資料5−????) 学校五日制についてはすでに一九八六年臨教審第二次答申において「移行について検討」することが言及され、また同年の人事院勧告では公務員の「四週六休」試行が提案されていた。それから五年を経過した一九九一年、国際的な労働時間短縮の動向を背景に、人事院は「完全週休二日制」を、相次いで自民党学校五日制に関する小委員会は「学校五日制」実施を、いずれも「平成四年度」の早い時期に踏み出すよう勧告・提言をおこなった。文部省はこの間「青少年の学校外活動に関する調査研究協力者会議」(一九八八年)、「社会の変化に対応した新しい学校運
営に関する調査研究協力者会議」(一九八九年)を発足させ、また学校五日制の研究実験校を指
定するなど、実施にむけての準備がすすめられてきた。一九八九年経済企画庁・国民生活白書は「人生七〇万時間ゆたかさの創造」をうたい、週休二日・有給完全実現で余暇産業四兆一千億円増、雇用人口五五万人創出などの試算を出している。
しかしこの問題はまず「子ども」の立場にたって考える必要がある。一九九二年度からの急な実施が現実にどのような問題点を生みだすか、文部省におかれた両協力者会議が指摘する問題をどのように克服できるか、地域の環境整備や児童福祉そして社会教育施設・職員の拡充など公的条件整備の課題を忘れてはならない。今後の動向が注目される。
C子どもの権利条約をめぐる動き(資料6−???) 一九八九年第四四回国連総会で採択された「子どもの権利条約」(一九九二年三月までに一一一國が批准)については、日本政府の批准を求めて民間レベルの運動が活発に展開されてきた。日本教職員組合、日本子どもを守る会(社会教育推進全国協議会も加盟)などによる「子どもの人権連」(子どもの人権保障をすすめる各界連絡協議会)がそうであり、一人ひとりの市民による「子どもの権利条約ネットワ−ク」の運動もそうである。なお条約訳文は国際教育法研究会の訳を収録した。
D国際識字年の動向(資料7−??) 一九九〇年の国際識字年には、ユネスコなどによる国際的運動が活発におこなわれたが、なかでもタイ國で開催された「全ての人に教育を!世界会議」の教育宣言などがその代表的なものであろう。国内的にも日本の“内なる識字問題”にたいする取り組みがあり、そのなかで「かながわ識字宣言」の事例を収録した。なお国際識字年は二〇〇〇年までの一〇年行動計画が予定されている。(編者 文責・小林文人)
◆社会教育推進全国協議会編『社会教育・生涯学習ハンドブック』1995年版
「まえがき」 (エイデル研究所)
この本が誕生したのは一九七九年(初版「社会教育ハンドブック」)であった。その後に改訂版(一九八四年)、さらに新改訂版(書名に「生涯学習」を加える、一九八九年)、そして増補版(一九九二年)と版を重ねてきた。この間に多くの読者に愛され、社会教育関係者にとってなくてはならぬ座右の書として定着してきたと言うことができよう。有り難いことである。そしていま、さらに新しい資料を満載して、四冊目の新版・ハンドブックをお届けできる運びとなった。この新版をもってハンドブックもようやく二〇歳になる見通しがつき、まさに一人前の成人に達することになる。産声をあげ、よちよち歩きの子どもの段階から今日にいたるまで、暖かく見守り育てていただいた読者の皆様にまず心からの御礼を申し上げねばならない。
私たちの「ハンドブック」の歩みをふりかえると、その背景はまさに激動の歴史であった。とくに八〇年代から九〇年代への世界史的な政治・経済の変動、あるいは地球規模での環境や人権の問題、また他方では国内政治の混迷、さらにそれに対抗する地域と市民の新しい動きなど、これらを反映して社会教育・生涯学習をめぐる状況はいま大きな激変と転換の真っ只中にある。五年ごとのサイクルで刊行してきたハンドブックも、九〇年代に入ると、この激しい動きに対応できず、一九八九年版から三年目に中間の増補版を出し、そして二年にしてこの「新版」を世におくるという経過になった。
「ハンドブック」編集の基本方針は、別掲・初版「はしがき」の通り、不変である。私たちは、創刊の“初心”を継承しつつ、しかしこの間の激変・転換のなかで生成されてきた新しい資料を、政策側だけでなく実践や運動の動きを、国内だけでなく国際的な潮流も含めて、積極的に収集・精選して、本書の編集はすすめられた。これまでの蓄積があったとは言え、ちょうど一年間を要した苦しい作業であった。
この新版に盛り込まれた新しい資料の特徴は、主要な項目のみあげれば、次のようなことであろう。
・生涯学習振興整備法施行(一九九〇年)以降の国の生涯学習政策・行政の新しい動向 ?自治体の
社会教育・生涯学習をめぐる行政の展開、生涯学習計画づくり、生涯学習関 連施設の動きなど
・学校週五日制、週休二日制の試行・実施(一九九二年)とその後の経過
・子どもの権利条約の批准・発効(一九九四年)に関連する動き
・ユネスコや国際識字年(一九九〇年)をはじめとする国際的な成人教育・生涯教育の潮流と、それに
ともなう国内的な識字・人権・平和などの実践と運動
・自治体の新しい社会教育・生涯学習事業の取組み、市民・ボランティア・ネットワークの学習運動、協
同運動など
新しい資料の収録はもちろんこれに尽きるわけではない。ハンドブック旧版の編集の経験からしても、今回ほど資料の拡がりと発展を実感したことはない。それだけ国内的にもまた国際的にも、社会教育・生涯学習についての政策や計画が多彩に動いていること、またこれに対応しつつ実践や運動が激しく噴出していること、の証左であろう。その意味では、いま「社会教育・生涯学習」をめぐる動きはこれまでになく躍動し活発に展開している時代と言える。もちろんその方向や内容はつねに厳しく問われなければならない。しかし、この動きを消極的ないしは否定的にのみ見るのではなく、転換の動きのなかから新しい発展の可能性を積極的につかみとる視点が必要であろう。いま私たちは案外と面白い時代に生きているのではないだろうか。そしてなによりも本書が、この時代を反映しつつ、地平を切り拓くべき新しい方向を示唆している筈である。
しかしわずか一冊のハンドブックのなかに、新しく躍動する資料を多面的にもりこむというのは容易ではない。当然のことながら思いきった精選が必要である。したがって、本書の資料収録にあたっては次のような方針によってすすめた。?基本的に最近の新しい資料を重点的に収録する、?旧ハンドブック収録の資料は、重要なもの(例、法律、答申、綱領、テーゼなど)を除いて原則として割愛する、?それを補うため各章の「解説」及び各節の「解題」を充実し、また資料相互の関連や文献などを付記する、?全体の章の構成は、継続性をもたして旧版のかたちを維持する(ただし見出しの表現や節の構成は必要に応じて修正)、などである。この新版とともに、割愛せざるをえなかった資料については、旧版ハンドブックを引き続きご愛用いただきたい。
本書を世におくりだすにあたっての心残りは、紙数の関係で収録できなかった貴重資料や、抄録のかたちで省略せざるを得なかった部分が多く残されたことである。また資料の地域的な偏りや見落としもあろう。読者諸氏の忌憚のない批判助言をお願いして、今後さらに充実した「ハンドブック」を創っていきたい。
最後になったが、本書編集にあたって資料収集・提供など、自治体・機関・団体をはじめとして多くの方々からご協力、ご援助をいただいた。ここにお名前を記さないが、そのすべての方々に厚く御礼を申しあげる。
今回の編集作業は早めの計画で始まったにもかかわらず、刊行にいたるスケデュールは大幅に遅延してしまった。いつものことながら大塚智孝氏を代表とするエイデル研究所のスタッフ、とくに私たちを励まし続けてくれた担当の入沢充氏(季刊教育法・編集長)の誠意と労苦にたいして感謝の意を表したい。
一九九四年七月 社会教育推進全国協議会 (編集委員)小林文人<文責> 島田修一、奥田泰弘
◆生涯学習計画の現段階−とくに自治体レベルにおける−
『教育と医学』1993年(41巻)4月号
1 この間の動き−国のレベル
生涯学習計画といってもいろいろある。企業が自ら雇用する労働力開発のための「生涯学習」計画もあれば、あるいは民間の生涯学習・市場戦略としての「計画」もあろう。いまこれら企業・民間レベルの生涯学習の動きは急速なものがある。1990年に制定された「生涯学習振興整備法」(略称)は、生涯学習の振興を「民間事業者の能力を活用しつつ行う」(第5条)ことを前提とする立法であって、企業戦略としての生涯学習を加速する方向をもっている。
これにたいして公共サイドの生涯学習計画はどのような動向にあるのだろうか。わが国がユネスコなどの国際的な潮流からの刺激をうけて「生涯教育」(当初の公的用語、民間活力路線と連動して1980年代後半より「生涯学習」というようになった)についての公的な対応をとりはじめて20年あまりが経過しているが、この間にいくつかの生涯学習政策・計画のいわば日本的な体質・特徴、その問題点が明らかになってきている。
それは次のようなことであろう。
?戦後教育改革以降の公的社会教育を見直そうという方向(その蓄積の軽視、社会教育から「生涯学習」への転換路線、たとえば文部省社会教育局の廃止と「生涯学習局」発足に象徴される。)
?公的条件整備=行政任務の後退(民間活力導入路線の登場、この間に国家予算に占める文教予算の比率は急減〈1980→10.0%、1989→7.68%〉し、そのうち生涯学習局関係予算
の文教予算にしめる割合はわずか1%にも達しない。)
?公共職業訓練・職業能力開発施策(労働行政)、社会福祉施策(厚生行政)と「生涯学習」体制との分離(たとえば前掲「生涯学習振興整備法」は労働および福祉に関する施策を含まない。)
?学校教育を含めての公教育全体の制度改革=教育改革の視点の弱さ(たとえばヨ−ロッパ諸国では大きな潮流となっているリカレント教育(0ECD,1973)、あるいは有給教育休
暇制度(ILO,1974)の導入などの、積極的な制度改革の動きは微弱である。)
?生涯学習における“学習権”思想の欠落、市民主体の自主的な生涯学習を創造するボランタリ−な運動の未発(たとえばユネスコ「学習権」宣言(1985)と同時期に審議された臨時教育審議会の答申には“人権としての生涯学習”の思想は明らかではない。)
このように問題点をみてくると、楽観的な評価は禁物である。とくに生涯学習に関する国家レベルの動向が気になる。その本格的ともいえるな公的計画の策定(臨時教育審議会答申、1985〜7、など)とわが国はじめての法制(生涯学習振興整備法)が、1980年以降の「行政改革」政策、公共財見直し、民間活力路線と連動して展開されたことはまことに残念な組み合せ、不幸な出発というべきであろう。
これまでの教育体制(学校教育と社会教育)を改革・発展させ、真の意味での「すべての国民」(教育基本法)の生涯学習の体制を新しく創造していくという立場から言えば、本来ならば、それを保障するための公共的条件整備が積極的に推進されるべきである。残念ながら、実際の計画・施策はそのようには進んではいない。
2 住民の教育意識・要求としての生涯学習
しかし、他方で最近の生涯学習政策は、これまでにない新しい展開をもたらしつつあることも事実であろう。企業や市場だけでなく、地域・自治体レベルで、また住民の意識のなかに広範な関心と期待を呼び起こした。
「生涯教育」や「生涯学習」という言葉は何か魅力的な響きをもっているようだ。たとえば、これまでの硬直的で閉鎖的な学校・教育制度を「生涯教育」によって開放・解放していくことができるのではないか、学歴主義と受験戦争のなかで呻吟している子どもたちを「生涯学習」という名の改革によって救うことができるのではないか、あるいは社会教育施設・図書館・博物館などの貧しい状況を充実し拡大することが可能なのではないか、などといった国民・住民そして親たちの、切ないまでの公教育改革への期待がそこにこめられているように思われる。
「生涯学習」はこれらの期待や要求を広く包みこみ、それに一定程度応えることができそうな意味あいをもっている。これまでの教育体制への疑問と悩みが、そして素朴な公教育・改革への期待が、この言葉を切り口として表出してきているともいえよう。
たとえば「生涯学習振興整備法」が成立したときに、人々はこの法律の名称だけで「ああ、これはいい法律だ」という受けとめ方をする人が少なくなかった。マスコミもむしろ好意的な取り上げ方であったように記憶している。そこには「生涯学習」という新しい言葉への期待が示されているように思われる。しかし実際にはどうか。この法の性格はむしろいわゆる「リゾ−ト法」の構造に似て、生涯学習関連「企業」振興整備法?の性格が強いのである。
もともと生涯教育とか生涯学習といった考え方は、いまとくに新しく発明されたわけではない。それは人間と社会の発達・持続のためには教育・学習が不可欠のことだ、という考え方そものの中に内在してきたといってもよかろう。民衆レベルのごく素朴な教えとして、あるいは人びとの生きる知恵として、「生涯学習」的な発想は存在してきた。たとえば「六十の手習い」「負うた子に教えられる」などという言い伝えは見事にこのことを示している。
人間らしく豊かに生きることと学ぶことの重要な結びつきについて、ユネスコ・パリ会議「学習権」宣言(第4回国際成人教育会議、1985)が次のように言っている。「学習権とは、読み書きの権利であり、問い続け深く考える権利であり、想像し創造する権利であり、自分自身の世界を読みとり歴史をつづる権利であり、あらゆる教育の手だてを得る権利であり、個人的・集団的力量を発達させる権利である。」「それは−−文化的なぜいたく品ではない。学習権は、人間の生存にとって不可欠の手段である。」
このような理念に立脚して生涯学習のあり方を考えるとすれば、どのような公共的な体制なり計画を組み立てる必要があるのだろうか。
3 自治体の生涯学習計画づくり
国の生涯学習政策の動向は、必然的に自治体の動きを拘束する。しかしここ数年の経過をみると、自治体の側でこれまでになく面白い独自の動きがあらわれている。
文部省の調べ(1992年11月現在)によれば、全市町村(3233)のなかで「生涯学習推進組織」を設置している自治体はすでに42.5%(1374)にのぼる。これを含めて生涯学習に関連する方針や宣言や調査など、何らかの動きをみせている自治体は全体の6割前後に達するものと推定される。しかもこれらは、せまく社会教育・教育行政の枠内にとどまらず、一般・首長行政部局をまきこんだ総合行政的な性格をもって動いている場合が少なくない。この点については教育行政の独自性がゆがめられているという批判もあるが、大半の自治体において、その総合的な政策・計画の課題として社会教育(生涯学習)のテ−マを掲げているというのは、これまでになかった歴史である。
この間、自治体のなかでもとくに中核的な地方都市を中心として、意欲的な「生涯学習計画」づくりが具体化している。これは先述の「生涯学習振興整備法」(1990)を直接的な契機としたものではない。周知のようにこの法はむしろ「都道府県」による「広範囲の地域」の「生涯学習振興基本構想」を、しかも「民間事業者の能力を活用」して進めようとするものである(同第5条)。「市町村」については、付け足しのように「連携協力体制の整備に努めるものとする」(同第12条)と規定しているに過ぎない。
市町村レベルの生涯学習計画づくりの動きは、この法の制定より前に始まっていた。1970年代の「生涯教育」の段階から先駆的な試みがあり、80年代に入ると、行政改革の打撃を受けつつも、臨時教育審議会の答申を経て、たとえば文部省「生涯学習モデル市町村」施策(1988)などが刺激になって、単位自治体としての市町村が、自治体としてまさに自治的に地域独自の「計画」を創ろうという動きがはっきりしてきたのである。いまそれは一つの潮流となってきたと言ってもよい。
この潮流はいくつかの要因をもっている。一つには言うまでもなく「生涯学習」にたいする時代的かつ客観的な要請である。二つには先述した住民の側のこれにたいする意識・期待の表出である。そして第三には自治体側の(国や都道府県に従属するだけではない)自治的な政策・計画編成の力量である。
筆者は2年ほど前に、1980年代後半の段階から単位自治体レベルで地域・生涯学習計画の策定努力を重ねてきたいくつかの−先進的な?−地方中核都市(立川市、尼崎市、常滑市、川崎市など)の計画書を比較・分析したことがある。これらの都市には類似の注目すべき生涯学習計画の理念なり策定の視点が含まれている。自治体によって強弱の違いはあるが、それらにある程度共通する計画の“思想”がみられた。これをかりに「10の視点」として課題を提起したことがある。(『季刊教育法』1991、84号)
念の為それを再録しておこう。すなわち、?生涯学習にかかわる権利の思想、?教育基本法・社会教育法の理念−とくに行政の条件整備任務、?地域施設(公民館・図書館・博物館等)の重要性、?職員体制の整備、職員の専門的力量への期待、?学校教育の改革・開放、それとの連携、?社会福祉、職業能力開発、健康・環境づくりとの結合、関連行政との連携、?被差別少数者、不利な立場にある人びとの学習権の保障、?出会いと交流、人と人とのネットワ−ク、?地域課題に根ざす計画、地域づくりの視点、?計画策定・実施における住民参加、である。
都道府県のレベルでは、「生涯学習振興整備法」に基づいて生涯学習審議会が設置される割合が増えたが(設置済19、本年度予定11、計30、1993年1月現在)、バブル経
済の崩壊も影響して、法5条にいう「地域生涯学習振興基本構想」策定の動きは未だ混迷の中にあるというのが実態である。いまむしろ市町村の自治的な生涯学習計画づくりの動きの方が現実的で面白いのである。
4 市民の参加と職員の力量
考えてみると国や都道府県と違って、単位自治体としての市町村・行政は、目の前に地域の現実があり、日常的に住民の期待や要求と向きあっている。単純に国の政策のコピ−を作るだけではすまされない。上(国)からの下(地方)への施策として、これまでの社会教育の見直しとか施設の委託・民営化などが示されても、たとえば戦後四〇年を越えて営々と蓄積してきた自治体の公民館制度をそう簡単に“見直し”できるわけではない。
もちろん地域・自治体の状況も必ずしも一様ではなく、一面では行政改革と民間委託的な生涯学習の体制に流されはじめた事例も現われている。あるいは硬直化した受益者負担の発想から公民館など公的施設の有料化が提案されたり(東京都八王子市、しかし市民の反対運動により市議会はこれを否決した−1993年2月)、また職員体制の削減などの動き
も一部に深刻である(福岡市公民館主事の嘱託化など)。他方で公務員の週休二日制や学校週五日制の導入などの状況もあり、その意味では、自治体における社会教育ないし生涯学習の公共的制度・施設をどのように維持・確立していくか、いま一つの大きな転換点にあるといえるかも知れない。
しかし自治体の生涯学習計画づくりや実際の施策の主要な流れは、やはりその公共的な制度の骨格を地域的にしっかりと構築し充実していく、という課題を追求しているのではないだろうか。主権者たる住民の多数もまたそのことを求めているのではないか。これらのことが、むしろ1990年代に入って、各地の自治体が模索しつつ構想している生涯学習計画づくりの過程において、逆照射的に明らかになってきている。
皮肉なことに「生涯学習振興整備法」(1990)以降の段階で、この法が予定していないような方向で、市町村による自治的な計画づくりが活発に展開し、その新たな特徴が発展的に現われているのである。東京都下三多摩や川崎市、あるいは大阪府下の地方都市などにおいて、いま自治体の生涯学習計画づくりに果敢に挑戦している地域を想起しながら、いくつかの特徴をあげてみよう。
(1)自治体のこれまでの公的な社会教育の蓄積を重視し、それをさらに拡充・発展させていこうとする視点、地域の社会教育の拡充なくして生涯学習の発展はない、とする考え方の再確認。
(2)社会教育行政の主体性を堅持しつつ、首長部局の関連行政と積極的な連携を求める。たとえば生涯学習審議(推進)委員会的な組織がつくられる場合、そこにおける社会教育委員会議の積極的な役割を位置付ける。社会教育行政と一般関連行政の総合的有機的な連携と協力。
(3)市民運動としての生涯学習計画づくりの取り組み。市民が主体的に発言し、問題を提起し、課題を学習・調査し、計画づくりに関する自治体行政側の事業や委員会活動に積極的に参加していく動き。たとえば東京都東大和市や大阪府岸和田市の市民の積極果敢な活動にみられる。この場合、市民の学習・調査活動はきわめて活発で、計画化のプロセス自体が社会教育実践であり、文字通り市民主体の「生涯学習」としての価値をもつ。
(4)しかし同時に、市民の生涯学習計画づくりは、社会教育職員集団の集団的かつ専門的な力量によって支えられ、織り合わされ、形づくられていく。この両者のエネルギ−の結合が−もちろん矛盾をふくみつつ−着実な歩みを可能にするのである。その事例として、川崎市、大阪府貝塚市などの計画づくりが注目される。
5 いくつかの課題
しかしながら生涯学習計画づくりは、これまでの日本の公的社会教育の単純な継承ないし蓄積にとどまっていいのだろうか。ユネスコなどによる生涯教育・生涯学習はもともと積極的な意味における「教育改革」の発想を含んでいた。いまあらためて「日本の社会教育」の歴史的体質、その狭さと弱点を点検しつつ、生涯学習時代としてそれを克服していく「改革」の視点をもつべきではないだろうか。
一つには、むしろ国家レベルの制度改革の課題であるが、国際的動向に学んで、有給教育休暇条約(ILO)の批准とその国内的な制度化への踏み出し、あるいはリカレント教育(OECD)の視点等による日本の学校教育制度の抜本的な改革への取り組み、など総じて全般的な公教育の制度改革に着手することが必要であろう。教育制度改革と連動しなければ体系的な生涯学習制度の創造は実現しないだろう。あわせて国家予算としての公教育費の大規模な増額が求められる。これらの課題について、地域レベルからも「自治体としてなにができるか」を追求していく必要があろう。
あと一つは、自治体の生涯学習計画づくりにおいて、日本のこれまでの社会教育の固定的な枠組み、その内容的な狭さから脱皮していく課題がある。日本の社会教育は、第二次大戦後の教育改革の経過のなかで、教養主義とレク・趣味的な領域に押し込められてきたといっても過言ではない。そのため、たとえば生産と労働、あるいは職業にかかわる教育や訓練の領域は(労働行政や農林行政の系列に)分離されてきた。あるいは地域の産業・環境・保健・福祉あるいは都市計画の問題など、さまざまな生活(暮らし)の切実な課題と切り結ぶことがすくなかった。
その意味で例示すれば、生産教育としての生涯学習、地場産業のなかの生涯学習、暮らしを拓く生涯学習、生活協同と生涯学習、地域づくりと生涯学習、さらに健康づくり・障害者福祉・地域福祉などと切り結ぶ生涯学習など、生活の多様な領域に課題を設定し、積極的に挑戦していく必要があろう。古い枠組みから出て、人びとの暮らしそのものにかかわる生涯学習が追求されなければならない。
自治体・生涯学習計画の新たな可能性に期待したい。
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市民活動支援の歩み、その歴史を語り継ごうー市民活動サービスコーナー三〇年ー →■
東京都立多摩社会教育会館市民活動サービスコーナー「市民活動のひろば」第36(最終)号 (2002年)
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