南の風・各号後記(ぶんじん日誌)
2500号【2010年9月7日】
■<岡山にて>
5日夜から岡山に滞在しています。『市民が輝き、地域が輝く』(エイデル研究所、2002)公民館の、市長部局への移管問題が急浮上(2479号に既報)。市当局の方針が次第に露わになり、岡山では騒然と論議が高まっています。その渦中で、公民館関連の二つの集いに参加しました。緊張した状況での話は引き締まってくるもの。暑さもあり少々ばて気味でしたが、夜が深まるとともに元気が出てくるから不思議です。岡山の皆さんにお世話になり、有り難うございました。
いまから(7日9時)新幹線で博多に向かう予定です。折悪しく、台風9号が玄界灘上にあり、福岡市内は暴風雨圏内にある模様、うまく到着できるかどうか心配ですが、ホテルを出る前に記念の2500号は送信しておくことにします。
思えば2000号で休刊したのが2008年、再開し既に2年半が経過したことになります。遙けくも来つるものかな、の感慨。迷惑な「風」になってはならじと自戒しつつも、まだ読む人も多少おられるようで、あと少し風の道を歩いていきたいと思っています。
本号でお別れする方もあります。「目が悪くなったせいで、読むのが大変になってきたのです。」と配信辞退のメールも拝受。ひとことツイッターの時代に、長文が多い「風」、ご負担もあったような。これまでのお付き合いに感謝いたします。
アドレス帳整理の都合上あと数号は旧アドレス帳で配信いたしますが、2500号の到達感あり、改めてこれまでのご愛顧に御礼申しあげます。
2499号【2010年9月5日】
■<台風7号の急襲>
8月31日に沖縄・名護を通り、東シナ海を北上、黄海より9月2日に仁川に上陸、ソウル首都圏を通過し、江原道から東海上に抜けた台風7号は、思わぬ被害をもたらしたようです。
東亜日報によれば、「…雨よりは風が威力的だった。最大の瞬間風速が、史上6番目の
52.4メートル」「…出勤途中のソウル地下鉄1,2,4,号線が運行中止となった。また全国的に156
万あまりの世帯で停電被害が起きた」(Sep, 03, 2010)とのこと。韓国高速鉄道(KTX)などの鉄道は一時運行を見合わせ、国際線・国内線の航空便も相次いで欠航したらしい。松本市の社会教育・公民館を視察されていた始興(シフン)市長一行(風2497号)は、無事に帰国されたでしょうか。
その二日前(8月31日)の沖縄、やんばる通過の第7号は、午後から急激に暴風雨となり、名護市宮里では最大瞬間風速49.8メートルを記録、宮里といえば島袋正敏さんの住所。被害のないことを祈っています。
各地の名木にも被害があったそうです。琉球新報は「無残、蔡温松倒れる」という見出しで、次のように報じています。「…県指定史跡の今帰仁村仲原馬場の樹齢250年といわれる“蔡温松”の1本が、根元から約2・5メートルの部分で真横に折れて・・・」(9月2日記事)。
さらに次の台風(9号)が沖縄に接近中。4〜5日に予定されていた沖縄全島エイサーまつり(第55回)は1週間の順延になったそうです。
関係各地の皆様、お見舞い申しあげます。久しぶりの台風ニュースが、思いがけなく韓国と沖縄の記事を縦に並べることになりました。
2498号【2010年9月3日】
■<烟台の風・再開>
8月23日に中国・烟台に帰られた伊藤長和さんから、その後の便りが届かず、すこし心配していました。パソコン環境が整わなかったご様子。上掲「烟台の風」(94号)に添付された一文は次の通り。
「…ようやく昨晩からPCが立ち上がり、インターネットに接続できるようになりました。…烟台の風の再開をお願い申し上げます。今度の大学は規模も大きく美しい学校ですが、教員宿舎は無い物だらけで、全部自分で買い揃えなければならず、一苦労しております。…」
赴任先も移られたわけですから、「烟台の風」はパートUとしました。集録のホームページも新しい装いに。これまでのパートT(1〜93号)は、中国「研究交流」
→■のサイトへ、ついでに岩本陽児さん「レディング通信」も「アーカイブス」
→■にそれぞれ格納。ご確認ください。
通信のページには見出しに写真を飾る慣わし。壮行会(8月19日、神保町・放心亭)の中から探しましたが、(小生と同じく)酔いの顔ばかり。比較的に素面(しらふ)に近いものを1枚選んで載せました。もしお気に召さなければ、他に差し替えますので、ご遠慮なくお申し出を。
http://www010.upp.so-net.ne.jp/mayu-k/itouentai10.htm →
■
昨年から今年の「南の風」は、「烟台の風」を含めて、いわゆる“御三家”の勢いに背を押されて、ほぼ隔日(ときに連日の)発行のリズム。その一角の「烟台の風」再登場。お手柔らかに願います。
繰り返しになりますが、あと2号で風アドレス帳更新の予定です。読むだけの方で、引き続きの配信ご希望の場合はご一報を。
2497号【2010年9月1日】
■<花に嵐のたとえ>
樋口知子さんより第15号向けカットのご送付(上掲)、ありがとうございました。先日(22日)校正会議に披露し、編集担当・江頭さんにお渡ししてあります。
今年の「東アジア社会教育研究」第15号は、無理をしないで、出来上がり期日を1ヶ月延長し(風2486号・既報)、おかげさまで、比較的にゆったりと仕上げに向かっています。しゃかりきになって追い込み作業をする必要がなく、怪我の功名?みたいな感じ。本来ならばタイムアウトとなる原稿も今年は間に合うことになり、例年にまして
300頁をこえる厚い年報が出来あがる気配、それだけ製本印刷経費がオーバーし、1冊あたりの単価も当然高くなるようです。
それでも、遅れている誌上シンポ(座談会型式)の関係者には、編集長より「…一度目のバックを元にこちらで再編集したものを、あと一度、皆さまに確認していただく予定。ご多用のところ恐縮ですが・・・」とやんわり催促がきました。関係各位(小生を含めて)、どうぞよろしく。
しかし、花に嵐のたとえもあり、突発的なことはおこるもの。同座談会のメイン・スピーカー、韓国の姜乃栄さんは来日中に足を骨折、急遽帰国して入院・手術したらしい(李正連さんからの連絡)。全国集会29日に来る予定と聞いていましたが、姿が見えず。座談会原稿の修正作業は無理?かも。風には思いもかけぬ突風・乱気流はつきもの。他にも変事あり得る。皆さま、ご用心の上、9月日程をお迎え下さい。
2496号【2010年8月30日】
■<八・二九の夜>
全国集会二日目の夜、韓国からの訪問団を迎えて、私たちは盛大な歓迎会を開きました。韓国側は、平生教育総連合会々長、平生教育振興院企画室長、前平生教育学会々長、始興市長はじめ20名の皆さん。日本側は、社全協委員長、東アジア交流委員会、TOAFAEC、福岡社会教育研究会などのメンバー20数名。東京五反田の駅近くに予約した会場はあふれんばかりの熱気。ともに杯をかわし、肩を組み、歌いあいました。
100年前の八・二九は、韓国「併合」に関する条約(1910年)が公布された日と知りました。その当夜に両国の社会教育関係者が心かよわせ、お互いの友情を確かめあえたこと、胸にじんとくるものあり。いつまでも記憶にとどめたい夜。どなたか「風」に記録をお寄せください。
せまい部屋、真ん中に柱が数本、私のカメラで江頭晃子さんが60枚の写真を撮ってくれましたが、広角をもたないデジカメの悲しさ、全体を写しとることはできず、その中で人数がもっとも多い1枚を下に掲げます。
会がお開きになったあとも、立ち去りがたい人たち10人ほどで歓談が続きました。10月の韓国向け出版の祝賀会、11月予定の上海国際シンポについて、日韓双方で少し相談ができて、いい夜となりました。ご参加の皆さん、遅くまでお疲れさま。会を準備して下さった方々に感謝!
ところで、「南の風」はあと4号で2500号となります。恒例の百号おきアドレス帳整理をいたします。2490号でも書きましたが、日頃ほとんど無音の方で、引き続き「風」配信ご希望の場合、その旨ご一報ください。
▼肩を組み「アチミスル」(朝の露)を歌う (東京五反田、20100829)
2495号【2010年8月29日】
■<第50回全国集会、20人の韓国訪問団>
「月刊社会教育」読者の会として始まり(1961年)、そこから社会教育推進全国協議会(社全協、1963年)が胎動してきた半世紀の歩み、迎えて今年は第50回の記念集会が開幕しました(会場・立正大学、東京大崎、8月28日から3日間)。第一全体会では「音と映像で振り返る社会教育研究全国集会の歩み」が上映され、2002年の名護集会について島袋正敏さんが回想する場面も映し出されました。
リレートーク(4人)に入る前に、町田市公民館の青年学級とそこから育った人たちによる「とびたつ会」がステージに登場。初期の頃、これにボランティアとして参加し後ろの方でともに歌っていた和光大学プロゼミの諸君のことを想い起こしました。写真一枚を
TOAFAEC・HPの表紙に飾りました。町田とびたつ会の皆さん、ご了承お願いします。
韓国からの訪問団は今年20名の参加。チェ・ウンシルさん(韓国平生教育総連合会会長)が祝辞を述べられ、夜の全体交流会では皆さんでアリランなどの合唱。(写真)
二日目(29日)夜は、ラウンドテーブル「この指とまれ」の時間帯に韓国訪問団の歓迎交流会が開かれます。毎年ここに「沖縄を語る」のテーブルを用意してきたTOAFAEC
。おそらく1980年頃からだとすると、約30年ほど継続してきたことになりますが、今年は(韓国歓迎会を優先して)開かれません。名護市長選もあり辺野古問題への関心も高いだけに残念な思い。来年は「沖縄」の部屋を復活することができるでしょうか。
▼韓国訪問団の「アリラン」合唱(全体交流会、20100828)
2494号【2010年8月27日】
■<15年前の取材>
15年前の琉球新報の夕刊に、ぶんじんの記事が掲載されたことがあります(1995年6月3日・夕刊)。ちょうど和光大学に移った年、沖縄研究を志す思いを語ったもの。夕刊1面に大きな写真が出ました。取材は吉祥寺の馴染みの洋食屋、ビールを飲みながら、気持ちよくしゃべった記憶があります。この記事は、ある方が銅版にプリント(全国報道保存協会製)したものを送って頂き、今でも「風の部屋」に飾っています。
「沖縄に行くと元気が出るんです」という趣旨を語っただけのことでしたが、記事は「沖縄には燃えさかる民衆のエネルギーがある」などの表現で綴られていて、気恥ずかしい思い。ビールの酔いで口が動いたのでしょう。東京学芸大学の研究室で20年ほど続けた沖縄研究会が(退職のため)休止、新しく東アジア社会教育研究会(TOAFAEC
)を始動させようとした時期でした。「…慰霊の日の前後には、新しい形で再開したいと声が弾んだ。」と結ばれています。
そのときの琉球新報記者(東京支社)は、玻名城泰山さん。この取材が機縁となって、その後、高井戸の研究会に来ていただいたこともありました。先日、ご挨拶のハガキをいただき、6月末に取締役・編集局長に就任されたそうです。まことにお目出たいことです。
お父上は知る人ぞ知る玻名城泰雄氏(八重山博物館々長・当時)、高名な書家でもあります。南の風の「おきなわ短信」は、沖縄タイムスや八重山毎日新聞等とともに、琉球新報にずいぶんお世話になってきました。あらためて御礼を申しあげます。
2493号【2010年8月25日】
■<アーカイブ・ドイツ訪問記>
前々号の石倉裕志さんを偲ぶ一文のなかで、彼のドイツ訪問記がなかなか秀逸であること、あらためて1本にまとめてホームページに採録したいほど、と書きました。風バックナンバーを調べてみると、昨年の追悼集「石倉@ハンブルク・アルトナです」には載っていない文章(ドイツ社会文化運動調査・2002年「ドイツの旅だより」)が10本。そこでホームページづくりの作業開始。この頃、谷和明さん(東京外国語大学)との出会いがあり、ドイツの新しい動きにふれて、探求心あふれる石倉君の表情が想い出されます。
→ http://www010.upp.so-net.ne.jp/mayu-k/Ishikura.htm
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ついでに、小生の2000〜01年のドイツ滞在(和光大学・在外研究)やエジプト訪問の記録も出てきましたので、書いた順に並べてみました。末本誠さん(神戸大学)に案内していただいたフランス記録も少し含まれています。早いものでもう8年、歳月が過ぎると懐かしいものです。
→ http://www010.upp.so-net.ne.jp/mayu-k/deutsch2000.htm
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「南の風」記事だけでなく、当時併行して発行していた「公民館の風」集録のものが少なくありません。そう言えば、社会文化センター関連のもの、やや理屈っぽい文章はむしろ「公民館の風」にまわしたような記憶。残念なことに2000〜01年の頃はまだデジカメではなく、添付する写真がありません。2005年ドイツ訪問記には画像をいろいろ入れました。→ http://www007.upp.so-net.ne.jp/bunjin-k/2005Deutsch.htm
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作業をしながらの発見。2002〜03年にかけて、「風」には、谷さんからドイツ社会文化運動について寄稿たくさん。2003年「ベルリンの風」シリーズが20本余、合計40本余り。ご了解をいただいて、記録にしておきたいもの。いずれも、天国の石倉君が取りもつ「風」記事の採集作業でした。宿題の「東アジア社会教育研究」第15号校正はそっちのけ、沖縄旧盆に合わせて戻った石倉君に再会した思いの3日間でした。
やんばる・島袋正敏さんから校正ゲラが届きました。「今日23日は旧盆ウークィ行事、エィサーの太鼓が鳴り響きます」とのこと。
2492号【2010年8月24日】
■<旧盆・ウンケー>
まずお詫び。前号本欄にミスあり。アルトナがアロトナとなっていました。最近は(加齢とともに)こんなミスが気になります。猛暑でもあり、ご寛恕のほど願います。
*本ページは修正済み
夏の高校野球・甲子園では沖縄・興南高校が圧勝、すさまじいエネルギーを見せてくれました。優勝旗が南の海を渡り、到着の那覇空港には約5000人が出迎えたとか。この日(22日)、沖縄は旧盆・ウンケー(先祖の霊のお迎え)の日でした。八重山では「アンガマ」(上掲)が始まり、各地で豊年祭やエイサーの演舞が繰り広げられています。
たとえば沖縄タイムス(8月23日)の記事。「旧暦13日で旧盆入りのウンケーにあたる22日、県内各地では先祖の霊を出迎えるためエイサーを踊りながら道を練り歩く道ジュネーが各地で行われた。長く沖縄の悲願だった夏の甲子園優勝を興南高校が果たした翌日だけに、ご先祖様に朗報を届けようと、例年よりも一層熱のこもった演舞が蒸し暑い夜空の下で繰り広げられた。…」
「道ジュネー」は、練り行列のこと。字(集落、シマ、ムラ)の中心を公民館の役員、祭りの出演者たちが正装して練り歩きます。八重山のアンガマや沖縄各地のエイサーの主役は青年たち。旧暦のお盆、ウンケーやウークイ(祖霊の送り)はそれぞれの家族の祈りの日、同時に集落としての祭りでは、公民館や青年団が躍動する季節ともいえましょう。
東京「風の部屋」では、沖縄ウンケーの日,「東アジア社会教育研究」15号の校正作業。高知からの内田編集長はじめ、ご参加の皆さん、猛暑のなかご苦労さまでした。たまたま当方では二番目の孫の誕生日、賑やかに祝っていただき、有り難うございました。
2491号【2010年8月22日】
■<あれから1年が過ぎて・・・>
昨年7月31日、石倉裕志さん(TOAFAEC 前事務局長)の訃報。早いもので1年余が経ちました。「南の風」2500号を前にして、風が運んだ記事や資料をすこし整理しようと思い立ち、読み返していくと、あらためて多様な「石倉」に再会し、懐かしくもあり、今更ながら悲しさもつのります。
とくに思い出すのは、2001年から2006年夏、5年にわたってTOAFAEC 事務局を担い、5冊の年報・編集長でした。彼がいなかったら、おそらく年報「東アジア」も命脈を保つことはできなかったのではないか。大学で一定の研究条件をもっている研究者ではないが、生協の運動家であり、それを通して在野の研究者でした。やさしい人柄で激しい議論をするタイプではありませんでしたが、深く物事を考えている人でした。
2006年9月のTOAFAEC 定例研究会(第121回)案内文を書いたあと、体調をこわし、事務局長を交代。その後は「ご無沙汰しています」「入院しました」「短縮勤務ながら職場復帰することに」などの短い便りだけ。七夕の会やお祝いの会などに、たまに顔を見せてくれるだけ。そして急逝の知らせが私たちを襲いました。30年の付き合い、しかし最後の3年はほとんど語りあう機会もありませんでした。
没後に「偲ぶ会」が開かれ、「石倉@ハンブルク・アルトナです」と題する追悼集(B5版、50頁)が編まれました。ドイツ、北欧、北京などの紀行文の豊かさ。しかし彼が遺した軌跡は、これに尽きるものではありません。「南の風」発行人として、時間があれば、あらためて彼の文章を再採集し、ホームページにでも記録しておきたいと思うほど。
*ページアップ、順次入力中→■
1周忌を過ぎましたが、彼を偲んで、「風」休刊(2000号、2008年3月)に際して寄せられた思い出の一文を掲げておきます。文中「あの夏…」とは、2000年の夏、私が在外研究で日本を離れていた2ヶ月、「南の風」を編集・発行してくれたときのことです。
▲故石倉裕志さん(七夕の会、2008)
■<南の風2000号に寄せて(故石倉祐志、Wed, 5 Mar 2008 23:43)>
小林先生 ご無沙汰しております。鳳仙花がぱちんとはじけて飛んだ種は、南の風に運ばれて広い世界に花開いているようです。
東京の西のはずれのちっぽけな、こんぴら山の陽だまりにも、寒さの冬を過ごした種子が、ささやかながら芽吹いております。
気力が萎えて3か月、背骨の圧迫骨折で3週間、心臓の動脈が細って9日間。病や怪我がもたらしたこの時間は、私の内部を少しずつ変えてきました。いま私は自分自身の時間をとりもどし、一刻一刻を踏みしめて歩む毎日。自ら根を張る土壌を得、命の伴走者にも巡り合えたようなのです。
水俣では「煩悩が深い」といいますが、「南の風」は私にとっても煩悩が深いのです。
あるとき、ほんのちょっぴり「南の風」を編集したことがありました。
あのときは誇らしかった。
あのときは苦しかった。
あのときは先生にとっても怒られました。
そして沢山学びました。
あの夏の日々を忘れません。
「南の風」の歩み来たったこの道に、おのずと重ねるこの思い。
道に迷って右往左往、思い悩んで歩いてきました。
「南の風」はその度ごとに、行く道筋をそよそよと示してくれた気がします。
もう2000号になってしまったのですね。
小林先生お疲れ様です。まだまだ終わらないんでしょうね。
でも悠々自適になさいませね。
2490号【2010年8月21日】
■<四つの会合>
8月19日は大忙し。東アジア交流委員会(上海国際シンポ打ち合わせ),午後は韓国生涯学習研究フォーラム、終わって夕刻より中国に帰任される「伊藤長和さんを囲む会」でした。久しぶりの顔ぶれ。猛暑の中、疲れましたが、会えば元気が出るものです。当日の様子は追って報告が寄せられると思います。
実は当夜、和光大学(旧)小林プロゼミ卒業生たちの、これも久しぶりの飲み会が予定されていました。ちょうど半世紀の年の差があるのに、卒業して離ればなれになるのが多いなか、声をかけてくれるだけでも嬉しいこと。出席を約していただけに困りました。事情を話して遅めの参加。神保町の会でかなり酩酊し、電車で渋谷に移動、道玄坂の繁華街をさまよい、汗だくになって若者たちが待っている店を探し回り、やっとたどりついたときはヨレヨレの状態でした。
若い諸君に負けてはならじ、まだ飲めるよ、と虚勢を張る“老師”の悲しき性(さが)。ぐったり疲れて一日が終わりました。しかし、若者と語れば、精神的には元気になるものです。
20日、少し暑さが和らぎました。つくつく法師が鳴き、夜の草むらに虫の音も。秋の気配を感じた散歩道。あとひと頑張り。明日22日と23日は、年報「東アジア」第15号の校正作業(上掲案内)、ご都合がつく方は(編集委員以外の方も)ぜひご参加ください。
ところで「南の風」は、あと10号で2500号となります。一つの節目、恒例の配信アドレス帳の整理をします。読むだけの方、ご用心。
▼和光プロゼミ・飲み会(渋谷・道玄坂にて、20100819)
2489号【2010年8月18日】
■<竹富町の婦人連合会>
「風」は、各号に南=沖縄の記事を載せるよう努力してきました。そして12年の歳月。しかし、最近は南のニュースが少なくなっていることはお気づきの通り。風の沖縄メンバーからも来信少なく、おそらく(祭りは別として)夏の沖縄は、休みの季節なのでしょう。
岩波『世界』は、さすがに毎号に沖縄関連の企画。いま出ている9月号には、リレーコラム「沖縄という窓」に“隔ての海を結びの海へ”と題して「結成40年の竹婦連」(山城紀子さん)のエッセイが載っています。竹富町婦人連合会に関する記事です。婦人会などは時代遅れと考える向きもあり、また八重山地区(郡)婦人会連合会はこの6月、52年の歴史を閉じたとのニュース(八重山毎日新聞
6月13日)も伝えられたばかり。しかし竹富町では、婦人会の皆さんが思いを寄せあって、海をこえて集まり、「私たちも学びたい、知りたい・・、隔ての海を結びの海にできないか」と交流を深めているレポート。「海に隔てられているから、島の文化が簡単に渡っていかなかった、海によって伝統の芸能が守られてきた…」との発言も。
日本の最南端の自治体・竹富町は、16の島から成り、9の有人島に4100人余が住んでいます。そこに(「風」でときどき取り上げる)竹富島を含む22の集落がり、そのすべてに自治公民館が活発に機能しています。小さな集落、海に隔てられている暮らし、島だからこそ公民館の自治と共同が必要であり、婦人会等の協同組織が大事になってくるのでしょう。ちなみに、ご存知?「ぶんじん歌碑」の平久保は、石垣市の北端、33世帯・81人の小さな集落です。
『世界』9月号のグラビヤは、比嘉豊光さん「骨の戦世」の強烈な写真(風2481号本欄)が招待作品として掲載されています。
2488号【2010年8月16日】
■<映画・祝の島>
沖縄の動き、手元に届いているニュースやハガキいろいろ。その一部の紹介を・・・と思ったのですが、急に「祝島」のことを書きたくなって、沖縄雑報は次号に回すことにします。
豊後自由人の便り「中高年団」(上掲)のなかに国東半島が出てきたからです。「祝島」は、豊後水道に位置する国東半島にもっとも近い瀬戸内の島。古来から海路の要衝です。一千年の前、国東半島に帰る八幡様の舟が祝島沖で難破し、島の人たちが命がけで助けた故事から、神様が海を渡って島に上陸し神楽を奉納する「神舞」(かんまい)という祭りが閏年に行われてきました。胸もおどる勇壮な海上の行進、陸の祭場と神楽の楽しい舞。40年ほど前に、山口県社会教育研究会の皆さんと一泊し、島人総出の祭りに感動し、いつまでも忘れられない祭り調査の思い出となっています。
祝島は瀬戸内海屈指の好漁場です。そこに1982年、中国電力による上関(かみのせき)原発計画が浮上。上関町当局は原発誘致、祝島漁協をのぞく他関係7漁協は漁業補償契約に調印して同意。しかし祝島は「海は宝」と考える島民の皆さんが、計画から28年を経た今でも原発反対の姿勢をくずさず。毎週月曜日の朝は「原発反対!エイエイオー!」のかけ声をあげながら、おじぃおばぁも島内デモ。中国電力による一方的な説明会に対する島民集会(今年3月)や、町議会への座り込みなど激しい抗議が続けられています。その記録映画が「祝い島」(はなぶさあや初監督、本橋成一プロデューサー、2010年)です。
12日・編集会議の翌朝は二日酔い。ゲラもパソコンも放り棄て、東中野駅「ポレポレ」に観に行きました。「神舞」(原発問題で一時中断)の映像が懐かしい。はなぶさ監督にも会いました。全国各地で「祝の島」(ほうりのしま)の自主上映会も始まっているそうです。
15日の終戦の日。突然の珍客一家の来訪あり。久しぶりの歓談、「これから戦いを始める」旨の話を聞きました。
2487号【2010年8月14日】
■<アジアの先達たち>
手打明敏さん(筑波大学)たちがベトナム調査から帰国されたとの便り(上掲)。暑い夏、ご苦労さまでした。「ベトナム公民館の母」とも噂されるダオー女史(国立ノンフォーマル教育研究センター長)と会ってきたそうで羨ましいかぎり。もし写真があれば、ご披露ください。
ダオー女史の論文は日本公民館学会年報第3号や、TOAFAEC『東アジア社会教育研究』第12号に掲載(訳者・津久井純さん)されています。ベトナムで「地域共同学習センター」(CLC)
が発足するのは1998年。日本の公民館を一つの制度モデルとして、10館前後からスタートし、現在は約10,000館前後にまで普及していることは本欄(風2437号)に書いたことがあります。その発展史には、どんな奮闘努力があったのか。社会主義国だから出来た?側面と、それなりの葛藤の道程もあったに違いない。機会があれば、その苦労話を聞いてみたいと思っています。
『東アジア社会教育研究』では、アジア各国の社会教育・生涯学習の歴史を創ってきた「先達たちの自分史」を聞く企画がありました。まず韓国は黄宗建氏について2回の収録(『東アジア』第4号、第5号)。ソウルに出かけて2年にわたる聞き取りでした。日本については、横山宏氏にお願いしようと企画した矢先、病に倒れられ、残念ながら追悼のかたちで間接的な「この人」証言の記録となりました(同・第7号)。
その後、中国の「先達」はどなただろう、また台湾では・・・と検討しつつ、『東アジア』は現実の動きを追っかけるのが精一杯、歴史の証言については中断中。ぜひ企画として再開したいものです。その際、ベトナムの「先達」については、間違いなくダオー女史が第一候補です。
2486号【2010年8月13日】
■<談論風発>
台風4号が日本海を通り抜けていきました。残暑、旧盆、帰省、それぞれの夏。この間、TOAFAEC
第15号編集会議(上掲)の関係もあり、いろんなメールが到来し、さわがしい数日です。半ば私信的なものもあり
ますが、本欄でいくつか紹介させていただきます。
○にいはお!明日から2週間ほど天津へ帰省することになり、編集会議に参加できず本当に申し訳ありま
せん。(胡興智・日中学院、12 Aug)
○所用ができてしまい、編集委員会にはどうしても参加できないことを申し訳なく思います。お許しください。
(トクタホ、12 Aug)
○小林先生、お久しぶりですが、…「南の風」を読ませていただくかぎりはお元気そうなご様子。嬉しく思っ
ております。実は、この秋、結婚することとなりました。10月には式を挙げます。唐突ではありますが、11
月21日(日)に同窓会のようなことができたらと…考えておりあます。…(稲富和美・奈良市春日公民館、
Wed, 11 Aug 2010)
○猛暑といいつつ、ここ数日は風が涼しくなった気がします。先日の七夕の会では、お世話になりまし
た。… 1週間ほど前にメールアドレスを変更しました。お手数ですが新しいアドレスに「南の風」の配
信を…。8月末の全国集会は、同時期に開催されるNWECフォーラムという主催事業のため、参加で
きそうにありません。せっかく東京であるのに残念です。このフォーラムは、全国の女性団体など1000
人あまり参加するそうです。どのような会なのか楽しみにしております。(野依智子・国立女性教育会館、
Tue, 10 Aug 2010)
8月12日の編集会議、ご参加の皆さん、終日お疲れさまでした。賑やかな議論となり、終わりちかくには樋口・白井夫妻が参加したこともあり、盛り上がりました。思い出に残る編集会議の一つ。午後2時からの会議開始、午後4時頃からは飲みものをいれての談論風発。終わったのはよく覚えていない。多分11時頃か。いつもの飲み物に加えて、久しぶりのスコッチが曲者、翌朝(今日)は少々2日酔い気分でした。
豊後自由人からのメールが先着していますが(まずは編集会議関連と急ぎの案内を掲載し)、次号におくります。お許しください。
2485号【2010年8月11日】
■<少年Bの1945年>
8月の盛りを迎えると、どうしても1945年のことを思い出します。65年も前のことが、音や匂いや色つきで鮮明に蘇るのです。はるか上空の米機(B29)の爆音と銀色の煌めき、空襲の炎煙と焼け跡の匂い(8月11日は久留米大空襲)、8月15日の終戦放送のとき蝉が鳴いていたこと。9日の長崎原爆の衝撃音も、遠く離れている久留米まで及んだような…。あれは錯覚だったのか。たしか11時過ぎに、ドウゥ〜ンという響きを感じたような記憶もあるのです。
いま甲子園の高校野球。プレイボールのサイレンは「空襲警報」と同じ。サイレンは今でも不気味、一瞬緊張し、気持ちも滅入ります。
1945年に少年Bは14才、旧制中学2年でした。3月に「国民勤労動員令」が公布され、学校には行けず、陸軍「需品廠」の勤労奉仕、ゲートル巻いて通う毎日。久大線の駅から耳納山中へ陸軍需品を担ぐ同じ道を、朝鮮の人たちと一緒に歩きました。「アリラン」「トラジ」の歌を彼らのバラック宿舎で初めて聞いた思い出もあります。
沖縄戦が終息した6月以降は、九州もはや制空権なく、米艦載機グラマンや双胴のロッキードの跳梁するところとなり、「敵機!」と叫んでは近くの防空壕に逃げ込む。ある日のグラマン急襲で、プスプスと土につきさす機銃掃射、共に伏せた陸軍伍長が撃たれて戦死したのです。
大きな打撃は、この年、生家が(某軍需工場を守るための)強制疎開で引き倒されたこと。そのときの倒壊音と、もうもうたる埃が耳目に焼き付いています。住む家がなくなった悲嘆と(老祖父の)精神的ショック。少年Bが生まれた場所は今は道路、車の下です。それだけに、ようやく残った赤レンガ蔵に執着があり、九州新幹線の関連道路に潰されそうになった折、意地になって赤レンガを守ったのでした。
2484号【2010年8月9日】
■<8月日程へのお誘い>
すでに8月上旬が過ぎようとしています。立秋(7日)といえども秋の気配なし。暑い毎日を頑張っている皆さんの動静はいろいろ伝わってきて、心強いかぎり。
おそらく次号あたりに掲載できるだろうと期待している石井山メール(未着信)を含めて、社会教育研究全国集会(8月28-29-30日)前のスケジュールが確定しました。個別の日程は別にして、「南の風」関連のものは大きく二つ。これまでの風・記事との重複を厭わず、確定日程を以下にまとめて記します。皆さんのご参加をお待ちしています。
一つは、「東アジア社会教育研究」第15集の編集・校正作業。場所は例年の通り、西永福「風の部屋」。(1) 8月12日(木)14:00〜夜、(2) 同 22日14:00〜夜、23日10:00〜16:00。都合3日間の計画。これで作業終了、そして乾杯!となることを期待。(風2479号に掲載)
二つ目は、東アジア研究交流委員会の関連。8月19日(木)、場所は秋葉原ダイビル12階・首都大学東京秋葉原サテライト会議室C。まず、(1)
中国・上海国際シンポ(11月26〜28日予定)についての情報交換・打合わせ会:11:00〜13:00。引き続き、(2)
同会場において、久しぶりの韓国生涯学習研究フォーラム(第26回)13:30〜17:00。内容は盛り沢山(風2480号に掲載)。終了後は近くで交流会の予定。
ご関係の皆さん、また(初めての方を含めて)関心をお持ちの皆さん、都合のつく時間帯を見つけて、ぜひともご参加を。お一人の参加が作業・論議を前進させるだけでなく、まわりを励ますことになります。
2483号【2010年8月8日】
■<グローバル・ゼロ(核なき世界)へ>
風2480号「韓国生涯学習研究フォーラム」案内(8月19日午後、金侖貞さんメール)について、瀬川理恵さんからのお問い合わせ(上掲)。二次会「伊藤長和さんを囲む会」の会場は、おそらく未定だと思います。どこか近くで・・・の案。先回の二次会は、秋葉原から神保町の三省堂地下「放心亭」まで移動しましたが、5時頃にでも小林ケイタイに電話ください。金さんの方で予約されているところがあれば一報を。
あと一つのご質問。TOAFAEC 年報「維持会員」について。偉い先生?は一人もいません。大学関係者だけでなく、三分の一は自治体職員や市民です。ぜひ年報発行の支援の輪に加わって下さい。風・前号のアピールに早速応えていただいたことに感謝します。会計・山口さんより、別途ご連絡がいくと思います。
ところで、6日〜7日の新聞各紙は、広島被爆65年の慰霊・平和祈念式の様子を伝えていて、涼風一陣、さわやかな思い。今年の秋葉忠利・広島市長「平和宣言」は、広島弁で「ああ、やれんのう、こがあな辛い目に、なんで逢わにゃあ、いけんのかいのう」「こがあな、いびせえ(怖い)こたあ、ほかの誰にもあっちゃあいけん」と語り始め、「今こそ日本国政府の出番
… 選択肢は無限です」と胸を打つメッセージ。
国連事務総長として初めて平和祈念式に出席した潘基文(パン・ギムン)氏の「今がその時だ」と題する講演(広島国際会議場)は、「グラウンド・ゼロ(爆心地)からグローバル・ゼロ(核なき世界)へ」、そして「核兵器全廃しかない」と訴え、大きな感銘を与えたとのこと。
しかし菅首相は、日本こそが「核廃絶の先頭に立って行動する道義的責任」と“あいさつ”しながら、その後の記者会見では「核抑止力は引き続き必要だ」と述べ、「首相の二枚舌、情けない」「自民党政権と何が違うのか」(朝日記事)と、被爆地は大いに失望・落胆。怒りの人も。
2482号【2010年8月7日】
■<ぜひ!維持会員へ>
暑い夏ですね。夏休み・・・とは言葉だけ。いつも8月は忙しい。私の8月もほとんど休みではなかったような…。1968年頃から、社全協の調査研究部(当時)と全国集会、あるいは月刊や学会や、溜まっている報告書作成などさまざま。思い出すだけで汗が吹き出るような暑い夏を過ごしてきました。ようやく今、少し休みの気分ですが・・・。
これまで、かなりの文章を書きながら、そのほとんどが収入とは結びつかない労働。原稿料のない文章執筆、無償の仕事ほど大事なことはないのだ!と自ら言い聞かせ、まわりにも喧伝して、景気をつけたものです。おれたちの心意気!という言葉もよく使ってきました。そして、最近15年の夏はTOAFAEC
研究年報づくり。
私たちの研究会「東京・沖縄・東アジア社会教育研究会」も15年の歳月をもちこたえ、今年は第15号の刊行作業が進行しています。編集・事務局の皆さん、ご苦労さまです。
年報「東アジア社会教育研究」は、発刊(1996年)当初から、自主独立の編集を貫き、それだけに財政的には苦労してきました。個人の寄金、各号売上金、若干の寄付金等でやりくりしてきましたが、2002年度より「維持会員」制がスタート。心ある方々の援助に支えられ、ほぼ順調な刊行が維持されてきました。現在の維持会員数は21名(感謝!)。
TOAFAEC 規約は、会費年額として「一般会員2000円、留学生会員1000円、維持会員20,000円」「維持会員の会費は、研究年報・東アジア社会教育研究の発行にあてる」(第8条)と定めています。維持会員には会費相当の冊数(11冊前後)をお送りする決まり。この機会に、維持会員になってやろう、という奇特な御仁はいらっしゃいませんか!
追記:新潟堀之内の森山丈順さんから夏の花が届き、お礼の電話をしたら星野修美さんの元気な声も聞こえてきました。そして今日は8月6日。 ◇原爆忌「風」送る筆に花薫る ◇蝉鳴きて65年目の原爆忌
▼原爆慰霊の日に (堀之内より、20100806)
2481号【2010年8月5日】
■<65年目の沖縄戦−骨からの戦世>
東京に帰ってきました。福岡に出かけた丁度同じ時期に、上海・呉遵民さんが日本に家族旅行。猛暑の中、お疲れさま、無事に帰国されたでしょうか。滞在の最終日にでも・・・と思いましたが、結果的に会えず、失礼しました。呉さんは、別便の包聯群さん「教えてください」メール(略)にも早速対応していただき、有り難うございました。
ニューヨークからの魯在化さんメール(上掲)には、別のご依頼があり(略)、小生の方で連絡をとることにします。日本留学から帰国して20年。「…私の職場の後半の研究年として、来年のSabbatical
Yearを利用し、もう一度の日本研究…」の計画、うまくいくことを祈っています。
ところで、最近は昔のように「暑中見舞い」は来なくなりました。それでも夏ならではのお便りいろいろ。中でも、ハッと眼を奪われたのは、沖縄普天間基地横の佐喜真美術館企画「骨からの戦世(いくさゆ)−65年目の沖縄戦・比嘉豊光写真展」(8月11〜23日)の案内。土中から掘りだされた頭蓋骨が、私たちをジッと見つめている写真。
遺骨収集の現場では、今年3月、頭蓋骨の中にミイラ化して残っていた脳ミソが発見されたそうです。「その脳は、明らかに沖縄戦をめぐる様々な事柄が、未解決であることを訴えています。…」
「そこではかって地上戦があり、沖縄人が死に、日本人が死に、アメリカ兵が死んだ。そこにはいまなお、戦争のための基地があり、いまを生きる人がいて、地中に眠る骨がある。」と(同写真展チラシより)。
8月15日午後には、意欲的なシンポジウム「骨をめぐる思考」が同美術館で開かれるそうです。
2480号【2010年8月3日】
■<二つの名前>
今回の福岡行きは割引の航空券がなく、久しぶりに新幹線でした。約5時間、1冊の本を読むのにちょうど頃合い。姜尚中氏『母−オモニ』(集英社、2010年)を読みながらの旅でした。2年前に出版された同氏『在日』が底本となり、重い歴史を背景にした母(オモニ)の物語。戦後史の舞台となっている熊本は、私の故郷・久留米から近く、親しい友人もいて、本のなかに登場する地名も懐かしいところ少なからず。
単なる家族史・自分史ではありません。「在日」家族が生きてきた時代史、厳しい格闘の記録です。痛切に心に響いてくるものがありました。
とくに「永野鉄雄」から「姜尚中」へ、「変わろう、変わるんだ」と煩悶するくだり(228頁)。「オモニ、今日から…姜尚中て名前にするばってん、よかね」と語りかけ、「…母は目を細め、しかし不安の色も隠さなかった」と。二つの名前にゆれる「自分探し」の旅。
黄宗建先生の聞き取り記録(1999年3月1日)のことを思い出しました。私たちの遠慮のない問いかけに、黄先生は「三つの名前」について語られたのでした。
「…わたしが国民学校に通っている間に、わたしの名前は三つの呼び名がありました。ひとつは黄宗建の朝鮮語発音“ファンジョンゴン”と言う名前でありました。しかし、小学校ではこの名前を日本式に“こうそうけん”と発音しなければなりませんでした。それがまた、1941年以後から創氏改名を強制され、そのとき名前を、“神岡成宗”と改名しました。創氏改名に対しては、韓国人は回想したくない気持ちで、そのことを話す人は一人もいません。」(TOAFAEC
『東アジア社会教育研究』第4号、黄宗建「自分史を語る」、1999年、182頁) 7月20日は黄先生の命日でした。今年お墓参りに行けませんでした。
▲黄宗建氏(右端)自分史を語る、中央は金済泰氏(ソウル・世宗ホテル、19990301)
写真移動→■追悼ページ「自分史を語る」
2479号【2010年8月1日】
■<阿蘇の麓へ>
石井山竜平さんから、「長くて申し訳ございません」との断り書きで、「新潟の公民館改革も緊張感ある動向の渦中なのですが、このたびは緊迫度の高い岡山についてご報告します」とレポート(上掲)を送って頂きました。「公民館の風」が失速中だけに、このような公民館の緊急なニュースは貴重。そのうち折りを見て、さらに「新潟の…緊張感ある動向」についても、、一文を頂戴できれば望外の幸せ。
今日から8月。7月末日の段階で、これまで懸案となっていたいくつかの日程調整が進みました。「東アジア」第15号の編集・校正作業は、12日、22〜23日(上掲、会場:風の部屋)。11月上海で開かれる(日中韓)国際シンポの打ち合わ(第1回)は、19日午後の韓国研究フォーラムに合わせて、同日の午前か昼に。ただし会場については検討中。確定次第、お知らせします。ご関心ある方はご遠慮なくお出かけください。関係の皆さん、ご苦労さまです。
昨日(31日)は、農中茂徳さんの車で九州を遊ぼう、ということになり、熊本に出かけました。なにしろ当日朝の、その場の気分まかせの計画。福岡に来ている岩本陽児さんは急な誘いに都合がつかず。熊本の皆さんは迷惑きわまりない呼び出しにも拘わらず、顔が揃いました。阿蘇・外輪山の麓、肥後の林の中で京料理、という取り合わせ、思いがけない楽しい夕べとなりました。
▼左より宮里六郎、山城千秋、農中茂徳、岩永久次、市来努の各氏(俵山麓、20100731)
2478号【2010年7月30日】
■<自由人のたしなみ>
猛暑の夏休み、皆さん、それぞれにお元気の様子、各方面から「風」が舞いこみ、やむなく?連日の「南の風」です。ご容赦ください。
車中泊で全国を(欧州を含めて)まわってきた渡部幹雄さんからも連日の風。「九州の急襲」など例の駄洒落を織り交ぜた活発なメール(上掲)を有り難うございます。当方で「豊後自由人」と勝手に命名していますが、その名はもともと「やんばる自由人」(島袋正敏さん)からの流れ。とくに異議はなさそうだけど、もし他にお好みのいい肩書きがあれば、ご紹介を。
その伝でいけば、ぶんじんは「筑後自由人」。筑紫次郎で産湯をつかい、筑前博多に青春を遊び、お江戸を急襲し関八州をさまよい、ときに琉球に渡り島酒をたしなみ、いま盛んに東アジアの海を泳いで、ようやく油山に旅衣を脱ぎすてんと・・・思いつつ、人生ままならぬ身、まだ漂泊の暮らしは続きそう。しかし、豊後自由人のように、車中泊だけはしたことがない。
メールによれば、豊後自由人の車は、長崎街道を辿り、神埼宿から佐賀へ入ったそう。同じ日、筑後自由人も神埼を過ぎて佐賀へ(JRで)。市内目抜きの高級割烹で有明の魚を楽しんでいました。上野景三学部長は忙しい身。豊後人のように「急襲」でなく、きちんとアポをとっての待ち合わせです。久しぶりに積もる話、楽しい話ばかりではないのが残念ですが、しかしムツゴローくんをはじめクッゾコ(舌鮃)からウナギめしまでの有明フルコース。佐賀の縄張りをおかすことは失礼の極み、支払いは、もち!上野さん(たいへんご馳走さまでした)。
豊後自由人は車中泊でいったい何を食っていることやら…。自由人のたしなみは何よりも美酒美食にあり。佐賀の夜は惜しいことをしました。
2477号【2010年7月29日】
■<斉藤峻さんのこと>
先夜の研究会(第165回、7月23日)で、「斉藤峻資料」について紹介しました。出席者の中で、「しゅんさん」(親しみをこめてそう呼ばれてきた)の風貌を知る人は誰もいませんでした。ともに杯を交わした最後の世代かも知れません。
斉藤峻さんは1903年生まれ、戦時中に東京都教育局社会教育課に勤務、1951年・社会教育主事制度創設当初からの社会教育主事、1960年・東京都退職後、「月刊社会教育」編集長(1963年まで)。1968年12月に肺ガンにより没、享年65才。戦後東京の貴重な社会教育資料が「斉藤峻資料」として保存されてきましたが、都立多摩社会教育会館閉館時に“処分”された経過があり、それを惜しむ(憤る)話をしました。資料リスト一覧は、小林他編集「三多摩社会教育のあゆみ」第3号(1990)、同第5号(1992)に収録されているのが、せめてもの救いです。
斉藤峻さんは詩人、3冊の詩集が遺されています。油山の書庫に『夢にみた明日』(1963年)、『窓枠の朝』(1968年)の2冊がありました。前書の出版記念会(1964年)に出席した折、本の裏表紙に「きてしまった明日に/とまどった老人です」とサインがあります。オビには、宮原誠一氏が「斉藤峻は、不言行動の生活者たることにおいて、わが国に稀有の知識人だ。…とくに戦後は社会教育の官庁にあり、苦渋の日々にそのペースをくずさなかった」と、「斉藤峻の独自の道」を評しています。
井の頭線渋谷駅すぐ横の狭いヤキトリ屋で、月刊か学会の会合の帰り、吉田昇、斉藤峻、横山宏、小川利夫などの先輩諸氏(故人)と楽しく飲んだ夜は、たしか1967年、いまや遙か遠い想い出となりました。
小川利夫さんが、ときに酔って斉藤“しゅんさん”を語るときがありました。今も耳に残っている詩の1節。「1メートル半以下のひとも少ないけれど/2メートル以上のひとも少ない/地上2メートル程度の空気を吸って生きている」(『窓枠の朝』、68頁)など。
▼第165回研究会、斉藤しゅんさんを語る(高井戸、20100723)
→写真撤収
2476号【2010年7月28日】
■<一雨あり、涼しい朝>
今朝(28日)、油山には久しぶりに雨が降り、涼しい朝を迎えています。日頃のコンクリート部屋暮らしでは忘れていた軒先の雨だれ、カラスの幼鳥らしき鳴き声、雨があがって白樺の葉のさやぎ、にわかに元気を出したセミの合唱、そして山の緑の夏のにおい、などに包まれて目覚め。生活のリズムも自然のなかで動いていくようです。今日で3日目。
上記「風」に載せきれなかったメール紹介。私信のようでもあり、ご容赦を。先日の研究会に顔が見えなかった和光の岩本陽児さん。「…昨晩、このあたりはトンデモナイ落雷であったと今日になって知りました。和光大学バスの運転手さんによると、60本からの落雷で目がくらみ、この世の終わりのような眺めであったとか。その時間、私は川崎社会教育委員の会議に、オブザーバー参加していて、惜しいものを見損ないました。
… 」(Tue, 27 Jul 2010 18:34)。
8月になると今年も「東アジア社会教育研究」第15号の校正作業が始まります。日時について近くご案内があるはず。そういえば目次英訳のお願いも。ついでに、黄丹青さん(中国語訳)、金侖貞さん(ハングル訳)も、どうぞよろしく。
松本の矢久保学さんから。「…札幌市との観光文化交流都市協定の締結に向け、本日札幌市への出張から戻りました。始興(シフン)市長一行の受け入れにつきましては、ご承知のとおり、永田幸彦さん(中央公民館)に進めていただいております。…」(Tue,
27 Jul 2010 18:12)
韓国・始興市長一行の日本視察(風2467号)は、松本市に引き受けていただくことになりました。川崎の小田切督剛さん、横浜の瀬川理恵さん、ともにご検討いただき、ありがとうございました。
2475号(2010年7月27日)
■<人生ままならぬ−福岡>
大学を辞めたあとは、福岡を主な生活の拠点にしたいと思っていました。幸い主を待つ隠れ家あり、そこに書庫を増築、研究室(東京学芸大学)の本をトラックで運び込みました。その頃、ちょうど社全協委員長の仕事も終わり、これで一区切り、というより大きな開放感。
ところがその後の職場が、予定していた福岡の某大学でなく、東京に続くことになり(和光大学)、その年に学会会長のお鉢もまわってきたり、TOAFAEC
の実務もあり、福岡への拠点移しがなかなか出来ないまま、15年が経過したことになります。人生ままならぬ。
幸いに本づくりの作業も継続、新しい企画も始まったりして、この間に7冊(沖縄、韓国、中国など)刊行。毎年出してきたTOAFAEC
年報や、学会の特別出版(現代公民館の創造、公民館ハンドブック)は別にしても、老年になってからの方が本づくりは忙しい。まだ3本の宿題をかかえています。これは有り難い天が与えた使命!と受け止めています。
しかし東京の狭い部屋から残りの本を福岡へ移せない。仕事の場に置いておきたいからです。本たちも合流できないまま、別離の15年。
今年こそは!と意を決する思いで、いま福岡に来ています。一部まだ解いていていない段ボールもあり、作業に精出すつもり。ながく会わなかった愛蔵本と再会する喜びも。
しかし、今年は猛暑、なにしろ暑い。書庫は冷房なく、わずか二日を経過したばかりで、諦めの気分。庭に出てビールで慰め、明日は旧盆前倒しの墓参りだ、書庫整理は無理をしない!と決断。ままならぬ人生。
2474号【2010年7月25日】
■<8月猛暑のなかで>
東京は猛暑。すでに35度以上の猛暑日が4日も連続し、まだ続くそうです。皆さん体調ご留意を。最高30度とかの沖縄の夏が羨ましい。
世界各地の異常気象、日本各地でも豪雨しきり、被害も出ました。沖縄本島も雨が多いと聞いていたところ、南の八重山では6月の梅雨明け以降、ほとんど雨が降らなかったそうです。
時あたかも、八重山・石垣(四ヵ字)では真夏の豊年祭の季節。八重山毎日新聞コラム「不連続線」(上掲)によれば、カンカン照りが続く毎日、祭事のなかで神司の方々もひたすら「慈雨」を祈ったそうです。天はそれに応えるかのように、島に久々の雨。情景が目に浮かぶようです。
石垣市「島そば一番地」の新垣重雄さん(もと社会大衆党・書記長)と久しぶりに電話で話しました。最近は八重山にご無沙汰しているだけに懐かしい声。9月に行われる石垣市議会の議員選挙に立候補を考えているとのこと。意気盛んな様子、なにより!
新垣重雄さんは早くからの「南の風」メンバー。東京・小金井時代には八重山文化研究会を担い、学芸大学研究室にもサンシンをかかえてよく来ていただきました。当時の研究室にはサンシンのお弟子さんも。笛の名手、流麗な歌、市議選勝利後に久しぶりに聞きたいものです。
23日はTOAFAEC (7月定例)研究会、ぶんじんも副報告。どなたか研究会報告を寄せていただけるでしょうか。当日、うかつにもカメラを忘れました。画像も送っていただければ幸い。
24日の日本公民館学会七月集会は、急な別用のため大幅に遅れ、暑さにも打たれ(ビールも飲んでいた)、失礼してしまいました。
2473号【2010年7月22日】
■<賑やかな夏を!>
4号前の本欄で「少し気になるところがあります。この夏、例年より妙に静かなのです…」と書きました。「東アジア社会教育研究」第15号編集に関すること。しかし杞憂に過ぎなかったようで、「続々と玉稿が事務局に届いている」(上掲・江頭メール)とのこと。安心しました。予定原稿を集約し、みごと刊行(9月18日発行)につなげてほしい。これから1ヶ月が文字通りの書入れ時、賑やかに頑張って下さい。
当方担当の沖縄関連の2本の原稿については、山城千秋さんを中心に原稿化が終わり、いま最終的なチェック作業中。あと数日でお届けできると思います。その1本、戦後初期・沖縄県青年連合会の女子リーダー聞き取りについては、「戦後沖縄・青年団運動の証言8」として2464号本欄に「眠ることが出来ないほど」の迫力を記しました。
あと1本は「やんばる対談」。第1弾として今年1月の名護市長選の記録、そこに至る名護の地域史について、島袋正敏さんと小林の対談が原稿になりました。名護といえば、普天間移設の候補地にあげられて以来13年の苦悩、呻吟してきた辺野古の基地問題、それを最大の争点とした1月の市長選−稲嶺進市長の誕生、が大きな話題となってきました。
これらを政治・基地・選挙のテーマだけで語るのでなく、どんな地域史に位置づくのか、そこでの地域活動や社会教育の関わりはどうか、そして(基地問題にとどまらない)地域づくり総体の課題は何か、いわば重層的な視点から「対談」が企画されたのです。かなりのページ・オーバー、うまく収まるかどうか気になるところ。編集長どうぞよろしく。
2472号【2010年7月20日】
■<映画「同胞」>
渋谷のビデオ・レンタルの店に、必要があって「母べえ」(山田洋次・監督、野上照代・原作、2007年)を借りに行きました。まだ見ていなかったのです。同監督の棚に、珍しく「同胞」(はらから)が、その隣には「学校」シリーズのDVDも並んでいて、懐かしくなって一緒に借り出してきました。
映画「同胞」は、山田洋次監督の1975年作品(松竹)。岩手県の過疎の村・松尾村が舞台。東京の劇団「統一劇場」(当時)の地方公演を地域の青年会が取り組み、さまざまの展開を経てみごと成功させるストーリーです。劇団の制作(組織)部に倍賞千恵子、青年会長に寺尾聰が扮し、青年会の悲喜こもごもの奮闘、消防団(渥美清)や公民館や社会教育主事なども登場します。日本の経済高度成長後の農村を画きつつ、当時の地域社会教育そして青年団活動の実像を活写していて、あらためて山田作品に感銘を受けました。
当時の統一劇場は、東京・小金井に本部があり、大学のすぐそば。その後「ふるさときゃらばん」として新しい歴史を歩みますが、役者たちの懐かしい顔ぶれが映画にも登場します。研究室ゼミで、古いビデオテープの作品を何度も観た想い出がありますが、DVDとなってさらに色鮮やか。ドラマ仕立てながら、社会教育の歴史教材としても、すぐれた価値をもつことをあらためて実感しました。
「同胞」の主題歌は、ご存知「ふるさと」(石塚克彦作詞、岡田京子作曲)。♪…欅のこずえと四十雀、庭の日だまり、水たまり、帰ってこない渡り鳥、ふるさと〜ふるさと〜♪
とよく歌ったものでした。
2471号【2010年7月18日】
■<胃カメラの季節>
梅雨明け宣言。朝の空、雲の色も空気も、昨日までと違ってさわやか。先日の土砂降りには異常を感じましたが、梅雨明けは正常な季節のめぐり。子どもたちも夏休みに向けて、いい顔をしている。なぜか教師たちだけが忙しそう。
人間ドックがわりに、いつも5月頃に胃カメラを呑んできましたが、今年はドクターとの予約が7月となり、先日、半日だけ病院にいました。血液データは悪くなく、胃カメラの診断もまずは上々。日頃の摂生はあまり充全ではないのに、まずまずの結果でした。
胃カメラのことは数年前に本欄で書いたことがあります。かってまだ学生運動の尻尾が残っていたころ、「学生部長」とかのイヤな仕事を4年間も続けさせられたことがあります。思い出したくもない「団交」や「学寮」問題への対応、その間には新入生の死亡事故あり、加えて日常的に学内30近くの委員会に関わっての管理業務、激しいストレス。その間に1年ごとに着実?に健康データは低下していきました。
健康診断で毎年の「再検査」が重なり、ついに「胃ガンの疑い」と特筆される始末。東洋医学に救いを求め、手術からは逃げましたが、毎年必ず胃カメラでチェックする約束?をさせられました。
加齢とともに、だんだんと血液諸データも胃カメラの所見も改善され、今はほとんど問題なし。お酒の赤信号・肝臓のガンマーGTPも、今は正常値に戻りました。しかし知力・体力は明らかに低下の兆しです。これも甘受しつ、今年の夏が始まります。
2470号【2010年7月16日】
■<ともに歌いあって15年>
前号に紹介された韓国・朴仁周氏(パク・インジュ、平生教育振興院長)の「社会統合」首席のニュース(上掲)には驚きました。東亜日報は、「大統領府と市民団体の間の意思疎通を円滑に導き、場合によっては大統領に苦言を呈することもできる適任者として、宗教、市民団体の長老をはじめ各界から積極的な推薦があった」(7月14日記事)と報じています。日本流に言えば、社会教育や市民団体についての政策的な重視という側面もありそうです。
日本の政治が、政権交代後も、社会教育や生涯学習の政策価値についてほどんど鈍感なのに比べて、興味深い人事。いずれにしても、私たちの親しい友人が政府要人に抜擢されたことは、国を越えて嬉しいニュースです。
朴仁周さんとは、たしか1994年の韓国社会教育協会(当時)年次大会で初めてお会いしました。日本社全協・委員長としてお招きを受け、記録をみると、「日本社会教育における地方自治と学習権−その思想と運動」について講演する機会をいただきました。15年余のお付き合いです。
その後、朴さんは私たちの社会教育研究全国集会に最も頻繁に参加くださった方です。同年の雲仙集会をはじめとして、最近では、箱根(06年)、貝塚(07年)、札幌(08年)、信州阿智(09年)などへ、団長格で毎年連続の参加。初日の全体交流会では韓国の方々が歌う「ありらん」の輪に飛び入りし、懇親会では肩を組んで「アチミスル」等を歌い合ってきました。
▼2年前の全国集会夜、中央・朴仁周氏= 平生教育振興院長・当時 (札幌ススキの、20080823)
2469号【2010年7月14日】
■<静かな?7月>
ニュースによれば、西日本各地とくに北部九州では、この数日、激しく降っているようですね。皆さんのまわりに被害はありませんか。お見舞い申しあげます。
福岡・油山の主なき寓居も山沿いの家ですから、こんなニュースを聞くと心配です。怠け者の主は、いくつか仕事を抱えて、まだ東京を動けません。7月23日のTOAFAEC(第165回)研究会、その翌日の日本公民館学会七月集会が済んだら、福岡行きの予定。風の便りでは、ちょうどその頃に上海・呉遵民さんが東京滞在(私的旅行)の計画らしい。お互いの都合が合えば、一日(夜)会いましょう、と問い合わせのメールを出したところです。
TOAFAEC の7月〜8月は、毎年、年報「東アジア社会教育研究」編集に向けての繁忙期。この15年を頑張ってきました。今年の第15集も、例年のように9月18日付の発行計画。ぶんじんは、いま担当の沖縄関連原稿「やんばる対談」などの最終作業中。難渋しています。あと一両日で終わりたい。
少し気になるところがあります。この7月、例年より妙に静かなのです。この時期の「南の風」は、かって「東アジア社会教育研究」編集についての論議、催促や調整、事務局会議の日程設定などで賑やかでした。いま独自のMLがあるせいか、また積み重ね・熟達の余裕からか、騒ぐ必要がないのかも知れません(南の風に第15号関連の記事はほとんどない)。大丈夫かしら、と心配しています。特集座談会・韓国研究・中国研究グループの原稿作成はうまく進んでいるでしょうか。取り越し苦労であれば幸い。
2468号【2010年7月12日】
■<千里を走る駿馬のごとく>
昨日(7月11日)は参議院選挙の投票日。「七夕の会」より帰って投票所へ。一休みして、開票速報を聞きながら本欄を書き始めました。民主党が改選議席の維持ができないだけでなく、予想以上に大きく議席を減らしました。昨年の政権交代でふくらんだ期待が大きな失望へ、とくに沖縄基地問題では「怒り」へ、その結果の表れでしょう。さらに政治混迷の様相が拡がることは確か。あまり筆は進まず。
そして未明に、スペイン−オランダのW杯決勝戦へ。延長戦が終わったときは、すっかり夜が明けていました。
七夕の会では、伊藤長和さんのお土産・中国白酒、「ボルグ」の店が出してくれた強いモンゴル酒、それに倉敷あたりから持参された珍しいマスカット・ワインもあり・・・、少々酔いました。やっと落ち着いたところで、W杯決勝戦ともなれば、こちらもまた愛用の杯を横においての観戦。というわけで終日酔っていたような一日。
七夕の会にご参加の皆さん、お疲れさまでした。「ボルグ」店主はじめスタッフご一同、トクタホのご一家、馬頭琴と歌姫たち、今年も楽しい会となりました。案内・運営にあたっていただいた世話人の皆さんもご苦労さまでした。御礼を申しあげます。
今年はとくに新しい顔ぶれが多く賑やか。酔いがまわって騒然たるひとときもあり、せっかくのホーミー(喉歌)の、草原をわたる静かな響きが聞き取れず、これは残念。トクタホさん同郷の書家が健筆をふるってくれました。座右の一語をもとめられ、酔いながら「千里を走る駿馬のごとく、我が道を行く」と返し、モンゴル文字で「駿馬」の一軸、いま書斎の小さな床の間に飾っています。
▼七夕の会はじまる (東京・西池袋「ボルグ」 20100711)
▼右壁面に「駿馬」の軸、前列右端に書家・リンチン氏 (ボルグ、20100711)
2467号【2010年7月10日】
■<海峡をこえて−市長の来日案>
中国と台湾の経済協力枠組み協定が結ばれたニュース(上掲)。政治的軍事的に緊張してきた台湾海峡の歴史から考えると画期的なことに思われます。この協定がこれからどのように進展していくか。
台湾の立法部(国会)で早速審議が始まり、与野党は激突だそうです。「大乱闘の台湾議会」の写真が9日の新聞一面に。ケガ人も出たとのこと。与党・国民党は速やかな承認をめざし、野党・民進党は条文ごとの審議や修正を求めての対立。しかし大局的にみれば、台湾海峡の両岸友好の流れは確かでしょう。沖縄の基地問題を考える上でも、中台の経済協力の動きは見逃せないニュース。
一方で韓国哨戒艦の沈没事件もある中で、東アジアの海は確実に平和と友好の方向に動いている、いや、そうあってほしいと願わずにはいられません。
ところで日本と韓国の間は、「近くて遠い国」と言われてきましたが、この10年、社会教育・生涯学習の領域では新しい研究交流の輪が拡がってきたことはご承知の通り。8月中旬には、韓国始興市の市長さんが、日本の社会教育や市民活動の「先進的な地域を細密に見学・学習」するため来日したいとのこと(上掲「イ・ギュソンさんからのお願い」)。
始興(シフン)市は、ソウル特別市に接する人口45万の都市。2006年に平生学習都市に選定され、意欲的な生涯学習づくりに邁進中。私たちもヤンビョンチャン先生(公州大学)やイギュソンさん(平生教育実践協議会長)の案内で、2009年7月に始興市を訪問・交流しました。「東アジア社会教育研究」第14集(2009年)に記録を収録しています。
社会教育をテーマに、市長自らの来日とはビッグニュース! 日本の自治体との新しい出会いが始まる予感あり、これからの動きに期待したいものです。
▼「平生学習都市−シフン市−2006」 同市生涯学習センター壁面 (20090727)
2466号【2010年7月7日】
■<七夕の会、名護の日のサプライズ!>
今年も七夕の季節となりました。ちょうど1年前の本欄にも七夕の懐旧談を書いた記憶があります。梅雨空で天の川こそ見えませんが、年に一度は会いましょうとの思い。上記に案内(7月11日午後)を再掲。
→■ 皆さん、お出かけください。
トクタホさんたちが企画して、モンゴルの馬頭琴演奏や歌などミニコンサートの企画が進んでいるらしい。14:30
頃スタートし、約1時間弱の予定だそうです。「七夕の会」のきっかけとなった平林正夫さんとお父上も(昨年に引き続き)見えるそうです。
七夕の会、もともとは小林の私宅で開いていたもの。留学生を励ます飲み会として定着し、1月新年会とならぶ年中行事になりました。しかし十数年前から近所のレストランで。一昨年からチャガンボルグ(もと和光大学留学生)の店「ボルグ」(モンゴル家庭料理、池袋)が会場となってきました。今年は、心なしかまわりに元気のない、調子があまりよくない話もあり、それだけ賑やかな会にしたいもの。当日、珍しい顔が突然に現れることを期待しています。
4年前(多分?)の七夕の会に沖縄から現れた赤崎隆三郎さんから昨日とどいたメール。
「… 7月5日、名護の日のサプライズ! 北海道(滝川市)出張から戻ったばかりの稲嶺ススム名護市長が、「名護の日」を祝うために飛び入り参加。集まったメンバーもびっくり! さすが我らが市民の代表・ススム市長。会場に来ていた若い女性の観光客の一人が市長に近づき、基地はぜったいに増やさないでくださいね、と握手を求めてくる・・・など、ハプニングが続く中、オリオンビールと泡盛で、ハイ!乾杯!」(Tue,
6 Jul 2010 11:53)。
▼左・稲嶺進さん、右・赤崎隆三郎さん(名護の日、20100705)
2465号【2010年7月6日】
■<竹富島のデイゴを救おう!>
沖縄の新聞各紙は、沖縄県花・デイゴの花が最近咲かなくなったこと、台湾で大量発生した「ヒメコバチ」が原因、またたく間に南西諸島に拡がり、その駆除剤に1本2万円余の経費がかかること、各地で支援の募金活動が始まっていること、などを報じています。「南の風」2449号でも【おきなわ短信】(528)として竹富島の動きを伝えたばかり。一昨日(7月3日)の朝日新聞・夕刊は、一面トップで「デイゴの花が咲かない」の大きな見出し、この問題を取りあげています。次の通り(抄)。
…竹富島では、市民団体「竹富島のデイゴを救おう!実行委員会」が発足。210万円を借り入れ、約120本に薬剤を投与した。事務局員の亀井保信さん(59)は、「1年前は『近ごろ咲かんで寂しい』と軽く考えていた」と反省する。今年、友人と島中を回ると、全百数十本にヒメコバチがついており、島の長老に協力を呼びかけた。東京や大阪にも支援を呼びかけ募金活動を展開。7月4日、竹富島ではチャリティー音楽祭も開く…と。
今日(5日)の八重山毎日新聞によると、デイゴ救う音楽祭は大盛況だったそうです。人口わずか350人の小さな島、会場・竹富小中学校グラウンドに1000人を超える人々が集まったそうです。音楽祭実行委員長・上勢頭芳徳さん(公民館長)の挨拶。「…皆さんの協力のおかげで竹富島のデイゴ再生は全国的に盛り上がっている。来年は花祭りを開けるようにデイゴにエールを送ろう」とのこと。
「竹富島のデイゴを救おう!実行委員会」ホームページに、支援の募金箱設置や送金の銀行振替口座などの案内があります。真紅のデイゴの花(大塚勝久さん撮影)も。→
■
http://www.save-deigo.com/donation.html
2464号【2010年7月4日】
■<戦後沖縄・青年団運動の証言>
私たちの「東アジア社会教育研究」(TOAFAEC 年報)には、毎号に貴重な“証言”を収録しています。沖縄の日本復帰運動、竹富島の住民憲章、青年団運動などについて、当事者から生(なま)の事実を聞き書きする、その細部を含めて記録していく。「東アジア」の前身「沖縄社会教育史料」(東京学芸大学・社会教育研究室発行)から受け継いできた手法です。学会や大学の研究紀要、諸教育雑誌などでは、出来そうで出来ない作業。“証言”は歳月が経てば経つほど、その価値がくっきりと見えてくるのです。
戦後沖縄の青年団運動についての証言は、今年の「東アジア社会教育研究」15集で、第8回となります。昨年の秋に聞き書きした戦後初期の女性リーダーたち(84〜79才)の体験と活動の証言を、山城千秋さんがテープ起こし、解説や注記を付して原稿化。この一両日、その校正作業をしています。お話を聞いたときには気づかなかった証言の価値と迫力。読みながら、圧倒されて、昨夜は眠ることが出来ないほど。たとえば、
「 … 戦後の青年団では、遺骨収集をしていました。方言でカマジイってご存知ですか、袋です。これを一つずつ渡されて・・・遺骨を見て、当時は涙も何も出ません。今は、骸骨を見せられたら、“アキサミヨー、恐い”ってするんですけど、あの時はカマジイを開けて、そこに遺骨の足から入れて、たくさん積めて、一番上に骨のチブル、頭ですよ、それをたくさん重ねて、袋の紐をもって、もう睨みつけるようにして、一歩一歩、南部をを歩いてきました。…」(伊狩典子さん、1951〜53年・沖縄青年連合会・副会長)の証言・一部抜粋。
▼右・伊狩典子さん 左は諸田キク子さん・沖青連初代副会長 (沖縄県青年会館、20091021)
2463号【2010年7月2日】
■<「公民館で地域がよみがえる」>
暦は新しい月を迎えました。今年の前半が終わったのですね。この日に、新しい職場に着任のご挨拶(野依さん・上掲)あり、他方で、懐かしの烟台に別れを告げる伊藤さんの感傷(同)も伝わってきました。7月もまた一つの節目なのですね。
昨日は久しぶりに韓国・カンネヨンさんから電話あり。デトロイトに出かけ、ソウルへの帰路、成田に寄ったそうです。デトロイトの街がひどく荒廃している・・・などの深刻な話。次回の来日の機会に、研究会で話してほしい、と頼んでおきました。ソウルからのカンさんのメール。
「… 先ほど韓国に戻りました。少しは電話で報告しましたので、アメリカの旅の話は省略します。また伺ってちゃんと報告したいと思います。今日電話で話した8月の日本訪問の件は、8月25日〜30日までの日程ですが、残念ながら、8月29日(日)しか時間がないです。私だけなら、30日と31日に時間があります。…
以下・略」(Thu, 1 Jul 2010 14:14)
ちょうど日程は、社会教育研究全国集会と重なりますね。急がないで、次に会う機会を待ちましょう。
ところで、本欄には前号「松本での再会」の続きを書くつもり、しかし余白がなくなってしまいました。松本の懇親会には、松本大学・白戸洋さんが出来たばかりの本をもって登場。題して『公民館で地域がよみがえる』(松本大学出版会、2010年、1500円)。一昨年刊行の『まちがかわる−若者が育ち人が元気になる』(風2288号で紹介)に続く公民館の本。ユネスコ・アジア太平洋CLCワークショップの記録もあり、興味深し。松本から東京までの帰路、あかずページをめくり、楽しみました。
▼懇親会終わる、後列・右から6人目に白戸洋さん (松本、20100629)
2462号【2010年6月30日】
■<松本での再会>
先週金曜日の第164回(6月定例)研究会について、平井教子さんから長文のレポート。有り難うございました。前号と本号の2回に分けました。研究会「記録」はホームページにも載せる慣わし。ご了承下さい。これまでHPには、毎回の「記録」だけでなく、研究会「案内」もほぼ復元して掲載しています。大事な歴史ですから…。
→■ http://www010.upp.so-net.ne.jp/mayu-k/kenkyukai.htm
いま(30日)松本の宿で書いています。韓国から公州大学校ヤンビョンチャン研究室一行が来日し、名古屋大学社会教育研究室・松本調査に合流、松本市城北公民館を拠点に熱心な聞き取り・調査実習が行われています(3日間、風2460号
松田メールに既報)。両研究室合わせて総勢30人ちかく、賑やかです。ぶんじんも1日だけ飛び入り参加し、歓迎していただきました。松本の皆さんにもお世話になりました。感謝! 久しぶりに農中至さん(名大院・博士後期課程)とも再会。
公州の院生諸氏はみな女性、ヤン先生は「みやらび」に囲まれ終始ご機嫌の様子。懇親会では皆さんの合唱あり(写真)、なかなかのハーモニーでした。席上、名画を頂戴し、ますます酔いがまわりました。
酔うだけでなく、今後のことでいくつか事務的な相談も。一つは、近く刊行予定の『日本の社会教育・生涯学習』(ソウル・学志社)出版記念会について。今年の韓国平生学習フェスティバル日程に合わせて、フェスティバル前日・10月7日(木)が第一候補となりました。沖縄「やんばる対談」「東アジア交流委員会」計画と重なりますが、「韓国生涯学習フォーラム」(編集委員会)とも相談し、調整いたしましょう。
あと一つは、黄丹青さんから送っていただいた日中韓「上海国際シンポ」スケジュール(11月26〜28日、風2448号に既報)。ヤン先生にお伝えしました。日・韓それぞれ15名参加への期待があり、韓国側はすでに名簿を上海へ送付済みとのこと。日本側も早急に相談しましょう。「中国生涯学習研究フォーラム」の皆さん、どうぞよろしくお願いします。
▼公州大学校一行の合唱・中央の男性がヤン先生 (松本・懇親会、20100629夜)
▼懇親会あと、ヤン研究室一行と二次会 (松本、20100629)
2461号【2010年6月28日】
■<光州 五・一八>
「五・一八民主化運動」いわゆる光州事件について、昨夜(26日)のNHKハイビジョンが「五月の語り部たち」(「韓国光州事件、軍と市民、騒乱の記録」、90分番組)を放映しました。この事件の当事者たち、かっての学生、教師、市民、運動家など、それに鎮圧側の兵士も加えての「語り部」の証言。30年前の出来事が生々しく再現されました。そこに生きた人々の情念、勇気と誇り、苦悩や挫折、軍事政権下での拷問の後遺症など、その後のさまざまな歳月も知りました。
南の風では、2年ほど前に日本で公開された韓国映画「光州5・18」をめぐって、何人かの方から寄稿いただいた経過あり(2028〜2029号)。また本欄でも「光州5・18」として回想を書いています(風2033号)。読み返して記事に訂正すべきこともあり、この機会に再回想を…。
私たちが初めて光州に行ったのは1992年4月でした。2033号に記した「たしか1996年3月」は、2度目の光州訪問。1992年は韓国社会教育法が制定されてちょうど10年目。研究室メンバーで法制10年の定着過程を調べようという目的で韓国をまわり、光州では犠牲者が眠る市民墓地に詣でました。案内役はいま連絡がとれなくなった南海生れ・留学生の金平淑、それに台湾の許銘欽や、板橋文夫、内田純一の皆さんが一緒でした。当時のアルバムを繰ってみると、韓国滞在の最後の日、黄宗建さんにお会いした日の1枚には、佐賀・上野景三さんの顔もあります。
昨晩のテレビが映し出す光州「5・18記念墓地」は立派な霊園となっていましたが、20年前は小さな墳墓が並ぶ素朴な丘。そこに各地からの学生団体が泣きながら参拝していた姿を想い出します。
2460号【2010年6月26日】
■<梅雨の晴れ間の研究会>
25日夜の研究会は、久しぶりの谷和明さん(東京外国語大学)がゲスト。ロンドンやハンブルクについてのご報告は、何回かに分けて、日本の社会教育や公民館を視野に入れながら、ゆっくり吸収したいほどの内容。未消化のところもあり、新しい言葉もあり。東アジアの諸問題について、このような(1世紀ほど前を歩いてきた)ヨーロッパの成人教育や社会文化運動の動きとの対比で考えていきたいものだ、とあらためて思いました。
常連メンバーが風邪や別用でお休み。岩本陽児さん「…本日の研究会、谷先生のご報告を楽しみにしていましたが、急なことでいま、九州に来ています。11日(七夕の会)にお目にかかります。盛会でありますように…」(Fri,
25 Jun 2010 19:08)の連絡など。
しかし珍しい参加者が多く、賑やかな一夜でした。「いちど、谷先生の話を聞いてみたい」「案内で久しぶりに谷先生のお名前を見たので…」など、HPの案内効用も満更捨てたものではない。研究会を毎月定例化してきた15年の歳月、やはり「継続は力」です。
終了後の懇親会はことさらに話がはずみました。谷さんと何度かハンブルクを訪問した故石倉裕志さんの思い出も。この夜、谷さんはいくつか歌をうたいました。名残り尽きず、店をでたのはかなり遅く、埼玉や千葉に帰る人たちは最終便に間に合ったかしら…と心配。
研究会の記録は別に「風」に送られてくるはずです。7月の定例研究会は、東京「23区の社会教育・生涯学習の動き」について、23区関係者と合同で開くことになりました。7月23日(金)を予定。
▼谷和明さん(第164回研究会、100625)
2459号【2010年6月25日】
■<人は愛するに足り…>
南の風メンバーには、最近「自由人」が増えました。やんばる・自由人(島袋正敏さん)に加えて、豊後・自由人(渡部幹雄さん)や山東省烟台から帰国予定の伊藤長和さん(上掲)も晴れて自由人。ぶんじんももちろん自由人。
自由な時間をどう遊ぶか。この1,2ヶ月、気が向けば映画をいろいろ観ました。ポレポレ東中野「こつなぎ−山を巡る百年物語」(岩手県・小繋の入会問題を闘った農民の記録)、渋谷・イメージフォーラム「ビルマVJ−消された革命」(紅い僧衣のデモが圧巻、ビデオ・ジャーナリストの記録)、神保町・岩波ホール「パリ20区、僕たちのクラス」(移民の子どもが多い中学校、教師の格闘の記録)などです。ときどき本欄で映画を取り上げてきましたが、最近は観るだけです(書く余力がなく残念!)。自由人になったせいでしょうか。
あらためて映像「記録」の凄さ、のようなものを実感しています。映像だけではありません。映画のついでに横の本屋で買った本。前々号で紹介した後藤乾一『沖縄核密約を背負って−若泉敬の生涯』(2010年)や、中村哲・澤地久枝(聞き手)『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る』(2010年)−いずれも岩波−の記録。中村哲氏は、戦乱と干魃の地・アフガンで“命の水路”を切り拓く医師。九州・福岡で育ち、九州大学医学部卒、大牟田労災病院勤務医を経て、1984年からパキスタン・ペシャワールに赴任。いま水路づくりの先頭にたち、農民の自立定着村をめざして、「われわれが預かっている命は約60万人です」(p159)などの記録に圧倒されました。
2458号【2010年6月23日】
■<松本へ>
梅雨の大雨、とくに南日本では激しく降っている模様。心配しています。毎年この季節は、愉快に飲んで騒ぐという機会が少なく、心もはずみません。前号に恒例「七夕の会」ご案内(7月11日午後)、まずはこれを楽しみに、皆さん体調留意の上、梅雨明け宣言まで頑張りましょう。
7月は、昨年も一昨年も、韓国を訪問しました。故黄宗建先生の命日前後に、先生が眠る山に詣でる旅。今年はどんな計画ですか?と公州大学・ヤンビョンチャン先生から問い合わせ頂いたこと、いつぞや本欄に書いた通り。(風2442号 5月25日)
せっかくのお誘いですが、今年は7月訪韓を見合わせ、近くソウルで刊行予定『日本の社会教育・生涯学習』(ハングル版)の「出版祝いの会」に合わせて韓国訪問を計画しようということになりました。
折しも、名古屋大学の松本調査に、公州大学・ヤンビョンチャン研究室一行(院生等8人)が来日・同行されるニュースが伝わってきました。6月29日〜7月1日の予定(風2443号 5月27日、に既報)。初日に松本側からの報告があり、夜に懇親会の予定とのこと。ヤン先生一行歓迎の気持もあり、この日に当方も参加しようと思っています。
烟台から帰国予定(と聞いています)の伊藤長和さん(同書・編者の一人)が間に合えば、松本で編集委員会を開催するかたちになりますが、そううまくいくはずはない?でしょうね。
もし松本に同行希望の方がいらっしゃれば、ご一報ください。日帰りでも可か。6月29日(午後)の会場は、城北公民館だそうです(松本市開智2-3-39、0263-38-0120、松本城の北、開智小学校の近く)。李正連さん(名古屋大学)へ。当日のスケジュール詳細が分かれば、ご連絡いただければ幸いです。
2457号【2010年6月22日】
■<沖縄「慰霊の日」>
明日は沖縄「慰霊の日」(6・23)です。戦後65年。今年はとくに普天間移設・辺野古合意の日米共同声明(5・28、稲嶺進名護市長は「屈辱の日」と呼んだ)のあとだけに、特別な思い。沖縄の戦後はいまだ終わらず、20万余の戦没者の霊も今年はとくに安らかではない?
風・前号に書いたように、1994年「慰霊の日」に、沖縄返還「密約」に関わった若泉敬は、自らの「結果責任」をとり「武士道の精神に則って、国立沖縄戦没者墓苑において自裁します」(嘆願状・上掲)と書いています。いま若泉が存命であれば、さらにどう詫びるのでしょうか。
前号の本欄記述に一つだけ修正すべき点がありました。NHKテレビの映像をみて、若泉について「
… 自裁の決意をしたためて沖縄関係者に送付、自ら死を選び … 」と記しました。しかし「嘆願状」は“送付”されたのではなかったようです。後藤乾一著『沖縄核密約を背負って−若泉敬の生涯』によれば、「嘆願状」は、福井・鯖江の自宅に収められたまま。国立沖縄戦没者墓苑に額ずき、「英霊と対話するなかで自殺を思いとどまった」(p355)のだそうです。
そして2年後、自著『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』英訳本刊行の契約を終えた日(1996年7月27日)、「これで思いのこすことはない」と静かに一礼し、コップの水を口に運び、何かの薬を飲んだように見えて、「その直後に激しく嘔吐し、テーブルに倒れ伏し意識を失った」(同書、p378)とのこと。若泉敬の死は、青酸カリによる「自裁」であったと報じられています。(『週刊朝日』2009年5月22日号)
2456号【2010年6月20日】
■<沖縄核密約を背負って−若泉敬>
FIFA ワールドカップ−日本・オランダ戦が実況された19 日夜。同じ時間帯でNHKテレビは、沖縄返還の“密約”に関するスペシャル番組(密使・若泉敬、日米外交戦の舞台裏)を放映しました。ブブゼラとかいう南アフリカ民族楽器、騒がしい「ブ〜ブ〜」響きに幻惑されて、サッカー中継からのチャンネル切り替えを失念。番組前半20分を見逃してしまいました(残念!)が、貴重な映像もあり見応えのある番組でした。
若泉敬は福井県出身(1930年生れ)、東京大学法学部卒、知米派・保守派の国際政治学者。佐藤首相の密使として沖縄返還交渉にあたり、有事の核持ち込みを認める「密約」に関わる。その記録は、畢生の書『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文芸春秋、1994年)に遺されています。
しかし日本の「愚者の楽園」(若泉)は、沖縄の基地問題にきちんと向き合わず、秘密交渉・密約の暴露は無視されたのも同然。「米国は随所から核を発射出来る技術をもち、沖縄は必要ないはずだった。若泉は基地は減ると信じた。しかし米国はしたたかで、アジアへの軍事展開のため、“無制限に”普天間などを確保する。」(朝日、19日番組紹介)
番組は、沖縄返還後も、嘉手納・普天間など米軍基地の使用期限は無制限(indefinite)であることを示す日米合意文書も映し出し、アメリカ外交の勝利談話が収録されています。いまいましい限り。
若泉敬は、政治・外交の「結果責任」を自ら問い、故郷に隠遁して沖縄墓参の晩年を送りました。沖縄関係者宛に「自裁」の決意をしたためた「嘆願状」(1994年)、その後、病も重く自ら死を選びました(1996年)。享年66歳。
本年1月、若泉敬の生涯『沖縄核密約を背負って』(後藤乾一著、岩波書店)が刊行されています。
2455号【2010年6月18日】
■<ポールさんのカメ>
日本列島は(北海道を除いて)梅雨入り、蒸し暑い雨の季節が始まりました。沖縄は各地でハーリー(爬龍船の競漕行事)の鉦(かね)が鳴り響き、そろそろ梅雨明けか。
先日の名護訪問の最終日(5月31日)、思いがけず待望の人と会うことができました。「やんばるのホタル」(2445号)に続いて本欄に書くつもりでした(写真も用意していた)が、鳩山退陣やTOAFAEC総会などの記事を追っかけているうち、書きそびれていました。
その人は、ポール・ロリマー(Paul Lorimer)さん。ニュージーランド・オークランド生まれ。岡山の備前焼を学び、現在は沖縄・南城市(佐敷)在住の陶芸家。「泡盛の古酒をこよなく愛し、旨い古酒を育てる酒カメ作りに励む」毎日。那覇リュウボウの美術サロンで「ポール・ロリマー陶展」が開かれていて、島袋正敏さんの車で案内してもらいました。
実は、永福「風の部屋」の宝物・古酒カメは、三つともポール窯から誕生したもの。非常な高温で焼締められた「これこそ古酒カメ」というにふさわしい素朴な作品。その作者と一度会いたかったのです。噂に聞いていましたが、まさに長身の大男。登り窯にもぐりこんで窯焼きしている姿が想像できないほど。那覇・大阪など各地で毎年の個展。
この日、同行していた山口真理子さんは、ポールさん展示のなかから逸品一つを仕入れて、古酒同好の仲間入り。また正敏さんの話では、太田政男さんが一斗カメ(風の部屋は5升カメ)を蓄え始めたらしい。その後どんな展開なのか、一度お聞きしたいものです。
▼左・ポール・ロリマーさん、右・島袋正敏さん (那覇・リュウボウ7F「陶展」 20100531)
2454号【2010年6月16日】
■<公民館初期史料について・回想>
風2451号「公民館史料」に触発されて、回想一つ。戦後初期の公民館史料など稀少の社会教育資料を全国的な視野で渉猟・収集して「文庫」づくり、あるいはデータベース・ネットの試みを考えた一時期がありました。本欄で「鈴木健次郎」を取り上げ、旧「公民館史研究会」の再生や各地「文庫」の連携、あるいは新しい発想での公民館史料調査への取り組みなどできないか、秋田「鈴木文庫」にも一度出かけてみたいなどと書いた記憶があります。(風1748号
2006/11/15 など)
1年余が経過して、ホームページ「伝言板」に<公民館初期史料の収集>と題する次のような呼びかけも。「かねがね、戦後初期・社会教育と公民館に関する稀少資料(各地の文庫など)のデーターベース化・全国ネットづくりの構想を温めてきました。日本公民館学会の作業課題とされた経過もあり、踏み出しを控えてきましたが、『公民館の風』再刊の動きを契機に作業を開始したいと考えています。関心おもちの方々のご参加・ご助言をいただきたく・・・」(2008/4/6)と。
日本公民館学会の頃は、理事会が終わったあと、公民館初期史料について故奥田泰弘さんとビールを飲みながら気勢をあげたことを思い出します。彼はナショナルセンターの構想、当方はデータベース化への挑戦が持論。案として全国50余地点余を設定し一部に依頼も始めた頃です。
しかし学会の仕事も交代し、他方、中国・韓国など「東アジア」交流や本づくりの課題にも追われ、また「年寄りの冷や水」への自戒もあって・・・、そのまま歳月が過ぎてきたのでした。
それから数年、調査地点(予定)50余地点の社会教育・公民館を担った長老のなかには物故された方もあり、公民館学会としても特に動きはなさそう。『公民館の風』もいつの間にか姿が消えてしまったようです。
2453号【2010年6月15日】
■<二見情話・行政委員会>
沖縄の代表的な民謡に「二見情話」があります。私たちの研究会でも愛唱歌(愛聴歌?)でした。最初に歌ってくれたのは、1983年頃の研究会、歌い手は若き稲嶺進さん(現・名護市長、当時・社会教育主事)でした。
二見の乙女の心の清らかさ、海山の眺めの美しさ、辺野古の坂の上り下り。二人が出会ったのは久志、語りあったのは辺野古、恋して通った花の二見。「戦場ぬ哀れ
何時が忘りゆら 忘りがたなさや 花の二見よ」(作・照屋朝敏)。男女の掛け合いでも切々と歌いあげられます。
最近は、二見情話にまつわる優雅な地名も、普天間移設先として辺野古案があげられて以来、基地問題との関連で新聞等で報じられるようになりました。残念なことです。
名護市東海岸・旧久志村のこれらの「行政区」は、いずれも小さな集落です。辺野古区はその中で大きな規模(1400人前後)ですが、二見はたしか100人たらずの小集落。久志区は600人前後か。小さな集落はいま基地移設という大問題と格闘していることになります。
島袋正敏さんから久志区ハーリー大会に出かけたとの便りが届きました。久志区行政委員会は「普天間移設に反対する決議」をあげたとのこと。それを報じる沖縄タイムス記事も掲げました(上掲)。
「行政委員会」とは、いわゆる自治体行政に関わる委員会ではなく、沖縄独自の集落(公民館)自治の合議決定組織。集落によっては運営委員会(名護市東江区)、代議員会(国頭村奥区)、あるいは公民館「議会」(竹富島)などという場合もあり。沖縄では集落自治に関わって「行政」「議会」の名称が機能していることになります。拙稿「沖縄の集落自治と字公民館をめぐる法制」も、ご参考までに。
→■
http://www007.upp.so-net.ne.jp/bunjin-k/okinawaazakouminkan.htm
2452号【2010年6月13日】
■<「県民よ、市民よ、立ち上がれ」>
立ち上がれ!の呼びかけは、山内徳信さんが雑誌『世界』7月号に寄稿したアピール・タイトルです。山内さんは、元読谷村長、沖縄県出納長をへて参議院議員。私たちの「東アジア社会教育研究」第14号には青年団運動について証言あり。思わず手にとって読みました。1935年の生まれ、長老の世代なのに、学生のように若々しい発言。
今回の日米合意・辺野古回帰について、「…首相は追いつめられ、沖縄に刃を向けてきたのだ。…もしこのような日米合意を強引に押しつけてくるのであれば、沖縄県民は次なる闘いに突き進んでいくことになるだろう。…それは県民ぐるみの、戦後沖縄最大のレジスタンスともいえる闘いになるだろう。…普天間の反基地闘争は、
壮大な、夢溢れるまちづくり闘争である。…」(山内)と。
そう言えば今回の普天間基地移設、つまり日米安保に関わる政治問題に(かって日米安保を闘った)学生の姿はまったく見えませんね。
山内徳信さんのアピールと並んで、「辺野古回帰という泥舟に乗った鳩山政権−蘇る根回し、アメとムチ」が掲載されています。興味深く読みました。筆者は渡辺豪氏(沖縄タイムス中部支社編集部長)。その様相の一端について、風2450号本欄でも「分断・切り崩しの策動−名護の動き」として触れたところ。
同じく7月号、山内論文のすぐ前には、寺島実郎氏の連載「脳力のレッスン−咸臨丸150周年に想う−日米関係の位相の変化」が、普天間問題に触れて、辺野古回帰のシナリオを主導した外務省・防衛省の責任を痛烈に批判しています。
従来の日米「過剰依存・過剰負担」の関係に埋没し、固定観念に凍り付いて、日米安保を既得権益とする人たちに押され、惰性の中で「これまでどうりでいいのだ」という状況に自らを置く日本に未来はあるであろうかと。当面は8月末(辺野古施設の位置・配置・工法等の決定期限)にどう対応するのか。
管内閣は一体どのような道を歩むのでしょうか。
2451号【2010年6月11日】
■<福岡県初期公民館史料>
3月の年度末、そして4〜5月にかけて、いろんな方から貴重な研究報告、大学紀要、編著書など恵送いただきました。「風」に紹介する余力なく残念です。頂いてすぐに礼状を書けばよいものを、少しでも読んで感想の一端でも(言い訳!)・・・と思うのがよくない。御礼が延び延びとなり・・・、まことに申しわけありません。この場をかりてお詫び申しあげます。
数日前、5月28日に刊行された『福岡県初期公民館史料集』(正平辰男編集・発行、B5版、260頁)を拝受しました。有り難うございました。福岡県は戦後いち早く公民館を創設・奨励し、しかも旧青年学校教官給与を活用し県費補助による専任公民館主事の配置策をとり、全国平均よりずば抜けて公民館設置率・専任主事率が高かったところ。文部省より鈴木健次郎が県社会教育課長として赴任、7年にわたって公民館の普及定着の指導にもあたりました。農村部では水縄村公民館あり、都市型公民館として八幡市の先駆的な公民館建設あり、それだけに福岡県「初期公民館史料」は貴重です。
正平辰男氏(県社会教育主事を経て純真短期大学特認教授)は、2005年に『庄内村公民館史資料集T』(自費出版)を発行。南の風1431号本欄に紹介したことがあります。今回はその続編ともいうべき労作。1951年の福岡県社会教育史料も一緒に収録されています。ちなみに「庄内村公民館」は新憲法実施一周年記念として表彰された優良公民館(1947年)の一つ。『世界の社会教育施設と公民館』(小林・佐藤共編、2001年)でも、公民館地域史の典型事例(15例)として取りあげたところです。
「はじめに」を読むと「もちろん庄内公民館の資料はまだ多く残っている」(正平氏)とのこと。さらに「史料集」続編が期待されます。
ところで、本号には全国漂泊中の渡部幹雄さん(豊後自由人と命名)から便りが届き、昨年度の風「ご三家」が久しぶりに揃いました。皆さんお元気で何よりです。
*南の風・2401〜2450号■
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