石倉裕志・ドイツの旅だより・記録
  (2002〜2004〜2006年)

 *関連:小林「ドイツ短信」他(2000年〜2002年、2005年)→■



故石倉裕志さん(七夕の会、2008)


◆2002年−ドイツの旅だより

1,2002・ドイツ社会文化運動調査・旅程
    石倉祐志・生活クラブ生協(Tue, 28 May 2002 08:29) 公民館の風第296号(2001年5月29日)
  
 … 私は今はドイツのことで頭がいっぱいですが、いずれ中国には行かなければと思っています。
 今年のアルトナ祭をはじめとするドイツ社会文化運動調査旅行直前の土日が、思いがけなく空きましたので、貴重な時間として準備に当てたいと思います。
 とりあえず、谷先生からの「アルトナーレの薫風2002」に基づき、今年のアルトナ祭をはじめとするドイツ訪問の旅程をお知らせします。
 帰りにソウルへ1泊することになりました。じつは韓国に行ったことがなかったのでこちらも楽しみです。ドイツでの行動日程は変更する可能性があります。(公民館の風第288号、南の風第864号参照)

○旅程(谷先生発の「アルトナーレの薫風2002第1号」から抜粋)
6月 6日 成田0930(KE706)→仁川1155〔乗換え〕→フランクフルト空港1735→フランクフルト駅
       19:00(IC特急) →ハンブルク駅22:36 ホテルへ
6月 7日 午前 市内施設訪問   午後 アルトナーレ開会式ほか
6月 8日 終日アルトナーレ見学
6月 9日 アルトナーレ見学および社会文化関係者との懇談
6月10日 午前 カッセルへ   ドクメンタ11へ
6月11日 ドクメンタ11および市内社会文化センター
6月12日 ドクメンタ11および市内社会文化センター 夕刻 フランクフルトへ
6月13日 フランクフルト市内社会文化施設見学 帰国便 フランクフルト空港1945(KE906)→
6月14日 1315仁川着 ソウル市内へ 韓国文化運動関係者訪問
6月15日 ソウル 施設見学など 仁川1840(KE705)→成田2055

◆ドイツ・アルトナーレへの旅、昨年に引き続き参加したかったのですが、今年、残念ながら行くことができません。かねがね谷和明さんと、日本の公民館とドイツの社会文化センターとの研究的実践的交流を拡げよう、ドイツ社会文化運動の多彩な動きは、きっと日本の(いまひとつ元気がない)公民館に刺激を与えてくれるに違いない、そのうち両者を結ぶ本をつくろう、などと語りあってきました。
 昨年は、ハンブルグ・アルトナーレの祭りに合わせて、TOAFAECから5〜6人参加しましたが、今年は小人数とのこと、TOAFAECからは、石倉祐志さんただ一人の参加(上記)。忙しいのに“旅”を決断されてご立派、頑張って下さい、一路平安を祈ります。
 「ぶんじん」は一昨年も昨年も現地から「ドイツ短信」を送信しました。→■ 今年は、石倉くんにぜひパソコンを携帯してもらって、現地からの折々の通信を“風”に寄せてほしいもの。期待しています。(小林文人) 


2,ドイツへ出発します
   (Thu, 6 Jun 2002 04:34)
 【南の風】第885号:2002年6月7日
 風の皆様:
 まもなくドイツへ出発します。仕事の調整などに最後まで手間取り、徹夜明けの旅立ちとなりました。
 今回の調査に参加するに当たり、生活クラブ生協内部に職を得ている者としては、意外に生活クラブのことを見てこなかったということを強く感じています。そこで今回は、谷和明先生(東京外国語大学)が作成されたメニューに応じ、生活クラブ運動の実践的な課題とも照らし合わせて、以下のことを中心に調査・交流を深めて来たいと思います。
 ひとつは、地域に労働を創り出す営みがどのような構造を持っているか?これと関わって、地域づくりのためのファンドの源泉や運営のありかたがどうなっているのか。市民が自腹で出資することのありかた、またその意識。行政の補助金の問題と経済的自立などなど。
 それに、地域において芸術がどのような力を持ちうるか?(カッセルのドクメンタ11とカッセル市民の社会文化運動)などです。現代の美術が政治、社会、そして地域と関わってどんな可能性があるのか興味しんしんです。
 さて、今回はパソコンとデジカメを一応持参しますが、先生のようにうまく通信できるかどうか、はなはだ心もとないしだいです。後は運に任せるしかありません。
 それから、TOAFAEC総会に参加できませんが、今後の事務局体制については、なにほどかのことを担えればと思います。(江頭さんの会計を引き継ぐ、など)
 それでは行ってきます。次のメールはハンブルクから?(接続できればの話ですが・・・)


3,ドイツの旅だよりT・6月6日 (Tue, 11 Jun 2002 10:34)公民館の風第301号2002年6月12日
 …略…
 仁川での関空組との合流もでき、今回の旅のメンバー5人が無事揃いました。フランクフルトへ向かうKE905便の中でこれを書いています。今回のメンバーは谷和明さん(東京外語大教授)と石倉祐志(生活クラブ連合会)のほかに、成田組として桔川純子さん(大阪外大朝鮮語科卒、会社経営)、関空組として竹内真澄さん(桃山学院大学教授・社会学、哲学、とくにハーバマス研究)、小林清二さん(大阪外大助教授・環境社会学)の5人。石倉以外は社会文化学会の会員。昨年からの継続参加は谷和明、小林清二、石倉の3人です。
 フランクフルトまで11時間30分。狭い座席に座って食っちゃ寝のブロイラー状態です。フランクフルトからハンブルクまでは、いわゆるメルヒェン街道、エリカ街道沿いにICE特急で北上約4時間、宿につくのは23時を過ぎるでしょう。

 いま宿につきました。ICE特急は日本では考えられないほどゆったりしていて、しかも美しくデザインされていました。料金は5人グループ割引で往復383ユーロ。一人片道で38ユーロ(約4700円)と通常の半額です。フランクフルト−ハンブルク間の距離は300キロ以上ありますが、東京−名古屋間ほどでしょうか。さっそく食堂車でヴァイツェンビールで乾杯しました。
 明日はアルトナ区の社会文化担当者、「愛国者協会」等を訪問し、午後はアルトナ祭の開会式を見に行きます。添付写真(食堂車内の皆さん)略

ひとこと:ドイツの社会文化センターは、日本の公民館と(設置形態はもちろん異なりますが)きわめて類似した機能をもって、地域のなかで活発な展開をみせています。TOAFAEC(東京・沖縄・東アジア社会教育研究会)では、ここ数年来、社会文化学会(代表・谷和明氏)の活動に誘われて、ドイツとの交流を試みてきました。一昨年はハンブルグの市民活動メンバー来日に合わせてシンポジウムを開催したり、また沖縄に案内したり。昨年は、ぶんじんや川崎の伊藤長和さん、生活クラブ生協の石倉祐志さんなどが訪独、社会文化センターを訪問し、市民祭・アルトナーレに参加してきました。今年は、教え子の結婚式や沖縄の本づくりと重なって、ぶんじんは参加できませんが、石倉さんがただ一人参加、訪独「だより」が届き始めたという経過です。
 谷さんとぶんじんは、日本の公民館とドイツの社会文化センターなど地域施設をつなぐ一冊の本をつくろう、と語りあってきました。はたしてこの夢が実現するかどうか。(小林文人)

4,ハンブルグ・アルトナにて (Sat, 8 Jun 2002 16:03) 【南の風】第887号:2002年6月11日
 石倉です。(原文はローマ字綴り)
 ホテルの電話回線が適合しないので、別の方法で通信しています。みな元気にハンブルグに到着しました。こちらは曇り空で、時おり雨が降ったりやんだりです。
 昨日、6月7日は、ハンブルグ市の社会文化担当・Frömming氏、愛国者協会・Schwark氏、Eimsbutteel区の社会文化担当・Brettz氏に会いました。
 アルトナーレ(祭)の開会式では、WendtさんやGäthke?さんも元気でした。今日はアルトナーレを楽しんだあと、オペラを観に行きます。なんとか日本語で通信できるよう頑張ります。皆さん、お元気で。

◆同・第2信(Sun, 9 Jun 2002 17:24)
 <From Ishikura at Hnburg Altona 6/9>
 6月8日はアルトナーレを歩きました。相変わらず賑やかな祭りです。街のなかでU.トールマン氏にばったり出会いました。元気そうでした。今回はアルトナ芸術学校で写真展を開いているそうです。(日本の風景をスライドで見せているとのこと。)
 今日は、Wendtさんに会う予定です。明日はKasselに向かいます。通信できるホテルを選びます。

たまたま昨日(8日)、トールマン氏から「いまドイツ東部(ドレスデン)で素晴らしいときを過ごしている、いつぞや一緒に滞在したオキナワのことを想い出している」旨の絵はがきが舞い込みました。おや、アルトナーレの祭りには不在なのかと思っていたら、やはり・・写真展を出しているんですね。
 谷さんや同行の皆さんによろしくお伝え下さい。カッセルのヘラクレス像にもよろしく。2000年夏、ドイツ滞在中の夏に一人で、小雨にぬれながら、ヘラクレスが鎮座する丘に登った日のことを思い出しました。(小林文人)



5,ハンブルク市の社会文化運動
    (Tue, 11 Jun 2002 11:02)公民館の風第302号2002年6月15日

 6月7日・ハンブルク市社会文化担当・フレミング氏との対話の記録
               *Werner Froemming(バーナー・フレミング)  
 社会文化センター・ゴールドベッカハウスの館長を20年勤めた後、昨年5月に現職に就任した。ハンブルク市全体の社会文化施策のファイナンスとルールづくりの面を主に担当している。具体的な方針は7つの区がそれぞれ責任を持つが、彼は全体を調整する立場である。ハンブルクはSPD・緑の党政権だったが、昨年の選挙でCDU、FDB、プロ・パルタイ(極右)が連立で政権を取り、社会文化運動は危機感を持っている。
 各区レベルの政権では、SPD+緑のところと、CDU、FDB、プロ・パルタイ(極右)のところの両方がある。区長と区議会がねじれているところもある。市議会は立法権があるが、区は完全な自治とはいえない。
 新政権の行政改革で人員の削減と分散が進行している。
 ハンブルク市の社会文化施策は評議会(諮問委員会的)によって審議される。昨年度の恒常的経費だけで、予算は424万ユーロ(約5億2千万円)。社会文化センターの(行政に報告された財政数値における)補助金率は32%である。
 これらの予算外で、スポンサーを探していくつかの事業も行っている。「地域文化賞」事業はそのひとつで優れた社会文化的取り組みに援助金を出している。2001年はザンクトパウリ(風俗・繁華街)の社会文化センターKOLIBRI(昨年の調査で訪問した)での市民による屋外演劇活動が受賞した。選考委員はスポンサー代表で構成されている。スポンサーの一つは「愛国者協会」である。授賞式は愛国者協会の由緒ある建物で行われた。
 ウイルヘルムスブルグ地区は港湾地区で貧困者が多く課題を抱えているが、ここの「蜂蜜工場」という社会文化センターをを舞台にした地域再開発の取り組みは、注目すべきである。古くからある貴族趣味のホールを改築して、トルコ人たちが結婚式ができるような施設に改築した。
 「歴史工房」という団体がイニシアティブを取り、過去100年の歴史を回顧する展示を行った。また、ここでは、地域の各種団体や個人の参加で「ウイルヘルムスブルグ未来会議」という取り組みを行い、貧困、インテグレーション(民族共生)、等の課題を意識して、地域再開発の政策作りをしている。このエルベ川の中州地帯を中心にオリンピックを招致しようという動きもこれに含まれている。
 この「ウイルヘルムスブルグ未来会議」は行政と市民運動代表で構成される全体会議といくつかの分科会を持ち、開発方針の策定を進めてきた。(資料参照)
 政権交代の影響で、教育、文化の分野での予算は削減されている。が、社会文化関係の費用はまだ下がってはいない。しかし、政権のキャッチフレーズの一つに、乱れた法秩序の回復がうたわれており、社会問題に取り組み、社会的弱者の立場に立った社会文化運動への援助に削減が波及することは充分考えられる。すでに行政職員は削減されている。
 こうした状況下に、再度文化の政治化が起きつつあるようだ。つまり、公権力による活動への締め付けや、削減に対抗する文化的活動の動きが出てくることが予想される。このことは、若者の文化の発展ともからんでいる。
 ニューヨークのテロ事件の影響は、ないとはいえない。事件直後は文化的なコンサート等への参加者数の減少や開催取り止めがあった。しかし、逆に社会文化センターの中ではこの問題をきっかけに市民の意識を掘り下げようとする取り組みが出てきた。一例としては、社会文化センター「ゴールドベッカ・ハウス」での「アフガニスタンとその結末」という取り組みが2002年の2月から4月にかけ行われたことがあげられる。エスニシティやインテグレーションの問題は社会文化センターとしては避けて通れないテーマである。
 カッセルのドクメンタ11には、ハンブルクの社会的活動の中から、エルベ川の岸辺を公園にしようという、市民運動の経過を展示するブースが、会場に設けられることになっている。


6,ドイツの旅だよりV・6月10日 (Tue, 11 Jun 2002 11:27)
                   【南の風】第888号:2002年6月13日
 やっとメールが通じてほっとしています。
 日本の皆様、お元気ですか。このメールは小林文人先生と「風」の皆様、生活クラブ連合会の職場の皆様、友人知人の皆様に送信しています。
 ドイツ・カッセルのホテルにいます。今日はウィルヘルムスヘーエ公園の丘を登り、ヘラクレス像に会ってきました。ヘラクレスが小林先生によろしくとのことでした。
 明日は、ドクメンタ11を見に行きます。今は、午前4時。小鳥が鳴き始めています。この4日間の強行軍だったのでもう寝ます。*添付写真(カッセルのヘラクレス像)略


7,ドイツの旅だよりW<カッセル>(Wed, 12 Jun 2002 15:00) 
   
     【南の風】第889号:2002年6月14日
 日本の皆様お元気ですか。東京は29度だそうですね。こちらは、最高気温21度、晴れ間とにわか雨が交互に来るので、この人口20万の古い城下町カッセルの陰影と清明の表情を楽しみながら歩いています。
 10日はウィルヘルムスヘーエ公園で汗をかいた帰りに、クーアヘッセンテルメ(温泉)に入りました。男女混浴で広大な温泉プールと面白いサウナスペースがあり、後者は老若男女だれもが水着を着用しないで闊歩していました(もちろんわれわれも勇気を出してバスタオル一枚のみのすばらしい開放感を楽しみました)。
 昨日(11日)は朝から「ドクメンタ」めぐりをしました。ドクメンタは5年に一度の大規模な国際美術展で今年は11回目を数えます。主会場の5箇所を中心に町中がアートにあふれかえっています。100日間の会期中、展観めぐりの起点となるカッセル中央駅はKulturbahnhof(文化駅)と改称されます。
 ドクメンタを1日半で見ようというのは、時間泥棒に人生を盗まれた日本人の哀しさです。少なくとも1週間はかかるほどの多彩な展示の中で、ハンブルクのフレミング氏が教えてくれた、エルベ川の岸辺を公園にしようという市民運動の経過を展示するブースは、やはり注目に値するものでした。
 はじめに目に飛び込んできたのは、市民の憩う空き地(ただし私有地で土建行政的開発計画があった)のエルベ河畔(有名なフィッシュマルクト朝市の隣)を、公共のものにしようとして占拠した市民グループと、これを排除しようとする機動隊が棍棒を振り上げる激しい映像でした。
 もう時間がなくりました。続きはまた。今日はフランクフルトに向かいます。(石倉祐志・カッセル)

◆皆さんで温泉に行ったとのこと、それは、いい経験でした。案内役の谷さんの顔が目に浮かびます。私も2000年夏、ヴィースバーデン (ライン川沿い、ヘッセン州の州都)の温泉に谷さんに連れられて楽しみました。混浴、男も女もみな真っ裸。ほんとにこれには驚きました。(小林文人)

8,フランクフルトにて 
(Thu, 13 Jun 2002 22:35) *原文はローマ字綴り
 フランクフルトの宿には、公衆電話しかなく、わたしのパソコンが使えません。残念です。
 今日はÖkohaus?の社会文化センター・Ka Eins に行きました。いまザクセン・ハウゼンのインターネット・カフェから送信しています。どの店でもTVのサッカーで盛り上がっています。
 明日はソウルから通信できることを祈っています。皆さん、お元気で。


9,韓国からの通信 (Sat, 15 Jun 2002 03:40)
           【南の風】第890号:2002年6月16日
 今、ソウルの延世大学ゲストハウスにいます。
 今日はサッカーの韓国・ポーランド戦で、ここソウルの新村(学生が多い高田馬場みたいな町)でも町じゅうに「Be The Reds」と染め抜いた真っ赤なTシャツを着たサポーターであふれかえり、街頭のスクリーンまえには約3千人ほどの若者が集まって、同じ身振りで「テーハミンゴ(大韓民国)!」と連呼していました。案内してくれた釜山民主抗争記念館の李相録氏はかつての学生運動の闘士で、「6月抗争」の騒乱を思い出します」と言っていました。まったく天地がひっくり返ったような騒ぎです。
 このお祭り騒ぎの渦中の居酒屋で、うまいマッカリでチジミを食べながら、李相録氏とCuoung,Kap-Young氏(韓国文化政策研究所)を囲んで社会文化学会の面々が行なった対話は、韓国の「文化の家」の評価から始まって、両国の左翼におけるポストマルクス主義の可能性に及び、しまいには社会文化運動の展望を吼えまくるというエキサイティングなものでした。この旅の締めくくりにふさわしい総括的な内容でもあり、とても勉強になりました。
 明日15日は、夜遅く成田に着きます。戻ったら、今回手に入れたたくさんの情報、資料、デジカメ画像約1000点などを整理して皆さんにご報告する仕事が待っています。この10日間ハンブルク、カッセル、フランクフルト、ソウルとハードスケジュールで文字通り走り回ってきました。支えてくださった皆さんのおかげで、多くのことを学ぶことができました。改めて御礼申し上げます。
 6月15日午前4時・韓国延世大学キャンパス内サンナム経営学研究所ゲストハウスにて         


10,行動記録−帰国 (Sun, 16 Jun 2002 14:53)
                   【南の風】第891号:2002年6月17日
 風の皆様 関係者の皆様:
 昨夜(6月15日)遅く、ドイツ・韓国社会文化運動調査団の5人のメンバー全員元気に帰国しました。とりあえず、この間の行動記録のダイジェストを記しておきます。同行メンバーの皆様へ:内容の不足、間違い等お気づきのことを(Choung,kap-Young氏の名前の漢字表記なども含め)ご指摘ください。(6月16日 時差ぼけの石倉祐志)
【6月6日】日本→ハンブルク
 成田・関空→仁川空港→フランクフルト空港→ICE特急でハンブルク・アルトナ駅→ホテル着
 宿泊:シュタッドハウスホテルStadhaushotel登録団体jugend hilft jugend(青年が青年を助ける)
 が運営。知的障害者とそうでない者が協働するさわやかなホテル。
【6月7日】ハンブルク
 10:00 ワーナー・フレミング氏Werner Fromming ハンブルク市社会文化担当。ハンブルクの社会
 文化運動・行政について聞き取り。12:00 マシアス・シュバルク氏(Matthias Schwark 愛国協会
 事務局長、愛国協会Patriotische Geseiischaft von 1765はロンドンのロイヤル・ソサエティ・オブ・
 アーツと兄弟関係の歴史ある市民団体) 15:00 ブレッツ氏 Brettzハンブルク市エイムズブッテル
 区社会文化担当。社会文化センターの活動実態について聞き取り。16:30 アルトナ祭開会式 
 モッテ館長ベント(Michael Wendt)氏、広報担当ゲトケ(Griet Gathke)氏に挨拶
 20:00 市庁舎レストランでシュパーゲル(アスパラ料理)を食す。
【6月8日】ハンブルク
 9:30〜 アルトナ祭めぐり。建築家・写真家のトールマン氏に出会う。
 20:00 国立歌劇場の天井桟敷からボリス・ゴドノフを観劇。
【6月9日】ハンブルク
 6:30 フイッシュマルクト(朝市)、11:00〜17:00アルトナ祭のハイライト、スパッシュパレードの出
 発からゴールまでを見る。19:00 居酒屋でベント氏と対話
【6月10日】ハンブルク→カッセル
 9:00 jugend hilft jugendが運営する喫茶店Cafe maxB で元麻薬常習者で今はこの店の責任者
 のRui Oliveira氏にインタビュー。11:00 ハンブルクアルトナ駅からICE特急でカッセルへ
 15:00 ウィルヘルムスヘーエ公園の丘を登り、眺望を楽しむ。17:00 クーアヘッセンテルメ(温泉)
 に立ち寄り裸で泳ぐ。20:00 地元の居酒屋で地元のビール
【6月11日】カッセル
 10:00 ドクメンタめぐり Kulur Bahnhof(文化駅)、フデリチアヌム美術館、ドクメンタ・ハレ、オランジ
 ェリー(カールス公園)、20:00 社会文化センターWerkstatt KasselでCarnen Weidemann氏
 22:00 市庁舎食堂。鴨料理等が美味。
【6月12日】カッセル→フランクフルト
 10:00 ドクメンタ Bindingビール工場(の建物が会場)、14:00 社会文化センターschlachthofで
 Udo Kersting氏、16:10 ICEでフランクフルトへ、20:00 ザクセンハウゼンの居酒屋でりんご酒と
 ソーセージ
【6月13日】フランクフルト
 11:00 ユダヤ博物館、午後・自由行動、19:45 フランクフルト空港からソウルへ
【6月14日】ソウル
 13:30 仁川着。釜山民主抗争記念館の李相録氏が出迎え、15:30 延世大学キャンパス内サン
 ナム経営学研究所ゲストハウス、17:00 新村の街へ出て、居酒屋で李相録氏、と意見交換。
 19:00 Choung,kap-Young文化政策開発院主任研究員が加わる。20:30 ワールドカップに盛り
 上がる街の屋台でマッカリ、24:00 李相録氏の提案で喫茶店が閉店するまで討論を続ける
【6月15日】ソウル→日本
 10:30 独立公園(西大門刑務所歴史館・独立門)、13:00 韓国民族芸術人総連盟の安成培
 事務局長の案内で同連盟事務所へ。この間李相録氏同行。19:45 帰国便へ搭乗





◆2004年−ドイツ・アルトナ通信

1,アルトナ通信(1) (Sat, 19 Jun 2004 22:06) 南の風1287号(2004年6月20日)
 みなさま;16日から石倉はドイツに来ています。現在午後2時。ハンブルク・アルトナ駅前のホテルから発信しています。17、18と泊まったホテルは超安宿で部屋に電話がありませんでした。今日やっとホテルを変更し、通信に成功しました。
 今回のツアーは社会文化学会の主催する共同調査で、ハンブルク・アルトナ区を中心として、社会文化運動に取り組む人々へのインタビューと交流が目的です。メンバーは6人。皆さん元気でやっています。
 すでにこの2日間で沢山の人に会ってインタビューしました。たくさん書くことがありますが、今日はハンブルク最大の市民祭りであるアルトナーレの初日です。
 通信成功が確認できましたので、町へ出て祭りを見てきます。次の通信は9時間後になります。ではまた。


2,アルトナ通信(2)−6月16日〜17日 (Sun, 20 Jun 2004 10:10)
                        南の風1288号(2004年6月21日)

 みなさまこんにちは。石倉@ハンブルク・アルトナです。今はバンブルク時間2004年6月19日(土)午後11時です。今ごろやっと日が暮れてくるのは、北海道よりはるかに緯度が高いためです。今日は朝一番でハンブルク一の繁華街ザンクトパウリ(レパーバーン)の社会文化センター「コリブリ」を見に行きました。パークフィクションのイニシアティブで工事中の公園も見ることができました。その後、午前から午後3時ころまではホテルの変更と移動、会計として管理しているお金のユーロへの両替等を行ない午後5時に集合場所のレストラン・チンケンに到着。町は祭り一色です。

 さて、ハンブルク国際空港に着いたのは16日午後9時。桃山学院大の竹内真澄教授と大阪外大の小林清次助教授と3人です。宿泊はホテル・シュタット・アルトナ。35ユーロ(約5000円)の安宿です。部屋は狭いし、おんぼろで、部屋に電話がないので通信がすぐにできませんでした。この日は時差の関係で一日が31時間あり、着いたときはもうくたくたで、3人でビールで乾杯してすぐ寝ました。
 17日朝9時40分、今回の共同調査団長の東京外大・谷和明教授と社会人学生の小笠原さんが到着。荷物を置いてすぐ徒歩で出発。ここアルトナの社会文化運動の牽引車である社会文化センター“Motte”へ向かいました。ここの館長であり、アルトナ祭りの中心人物であるミヒャエル・ヴェント氏が待っていてくれました。
 これまでとの違いは、まずハンブルクの政治状況。2002年の保守・右翼連立から、この3月の選挙の結果右翼が市民の支持を失って連立から脱落しCDU単独政権になっていること。これにともないハンブルク州政府の文化大臣が超保守であったのが社会文化に理解のある中立の人に代わり、社会文化つぶしにストップがかかったことです。
 選挙期間中Motte、ハウス・ドライ、ザンクトパウリの3つの社会文化センターは共同して文化政策についてのイベントを行なって社会文化運動の振興を訴えたとのこと。
 二つ目は学校教育における教育危機が進行しており、学校外教育が注目される中、もともと半日制だった小中学校が全日制を志向するようになり、子どものための午後のプログラムとして学校と社会文化センターが提携した企画(授業扱い)が始まったこと。社会文化予算はこのところ削減が進んでいるが、これによって学校教育予算を使えるようになった。しかし学校にとりこまれることには非常に敏感に対応しているとのこと。ハンブルク大学との提携もあり、マルチメディア教育のノウハウをMotteに2つあるマルチメディア室でハンブルク大の学生や研究者とともに共同開発した。こうした教育方法の実験的開発は学校や公権力の機関では不可能で、Motteの特性をよく生かした取り組みといえる。
 三つ目はアルトナーレの変化で、今年から芸術アルトナーレと文芸アルトナーレとして二つの独立した企画群が設けられ、すでに始まっている。例えば街角の商店のショウウインドウには芸術アルトナーレの作品展示があちこちに見られるし、文芸アルトナ−レの朗読会はすでにいくつも開催され始めている。
 もっとも大きな変化は財政で、三大スポンサーのビール会社、電気会社、タバコ会社がグローバル化の一環で外資に買収され、地域への関心を失ったことで出資から撤退。財政危機を回避するため、ヴェント氏は「アルトナ友の会」を設立。年間1000ユーロ(14万円)払える個人、企業をつのることにした。本日予定されているガーラ(正餐会)と銘打ったイベントには我々も招待されているが、じつはこれは出資者を募るパーティであるとのこと。アルトナ区長とスウェーデン領事、それにヴェント氏が挨拶に立ち、ハクをつけて出資を募るということらしい。(実際に、由緒あるラートハウス(区役所)のホールでシャンパンで乾杯しピアノ演奏をバックにスウェーデン料理の立食パーティとなり、イブニングドレスを纏った女性も幾人か見かけた−と言っても気さくな感じの人が多かったけど)昼はチンケンレストランで食事。¥メニューと説明書きを谷さんがコピーして入手した。
 その後Haus Dreiに向かう。クレメンス氏にインタビュー。元はアルトナ病院で70年代に移転後の廃墟を運動家が占拠。1982年にHaus Drei設立。現在は土地建物は区の所有だが、活動としては社会文化センターや幼稚園などがある。眠くなってきたのでもう寝ます。つづきはまたこんどね。石倉祐志

*アルトナ通信2拝受。楽しんで読みました。この間の変化興味深し。貴パソコンの日時設定が5月
 になっています。せっかくの速報、修正して下さい。いま受信タイム(上記)を記しています。(ぶ)


3,アルトナ通信(3)−17日の社会文化センター訪問 (Mon, 21 Jun 2004 07:57)
                            南の風1289号(2004年6月22日)

 みなさま; この通信は小林文人先生をはじめ親しい数人の方へBCC で送信しています。これまでのことを日記風につづります。
 6月17日。この日午前中は、アルトナで最も中心的な社会文化センター「モッテ」で、館長のベント氏からアルトナ祭の最近の動きを聞きました(アルトナ通信第2号)。今号はその続きです。
 午後の日程はは以下のとおり。13時からHaus3(ハウス・ドライ=第3病棟)の Herr Otto Clemens(オットー・クレメンスさん)にインタビュー、14時半からWerkstatt 3(ワークシュタット・ドライ=第3工場)Frau Claudia Hug(クローディア・ハグさん)、Frau Liz Kistner(リーズ・キストナー)さん、Herr Antonio Borralho アントニオ・ボガリオさんにインタビュー。続いて16時半から、アルトナ区役所で区長の Hinnerk Fock さん臨席のもと、SPD区議会議員Hans Jurgen von Borstel(ハンス・ユルゲン・フォン・ブロステルさん)と同じく緑の党のMeier (マイヤー)さん にインタビュー。その後アルトナ祭「友の会」のGala(正餐の夕べ)に参加(ここで筑波大学の手打明敏先生が合流)。すごいハードスケジュールでくたくたでした。各訪問先についてのコメントを若干。

 Haus 3(第3病棟)は、元アルトナ病院の第3病棟だった建物を、病院が移転した跡、70年代に若い運動家たちが占拠して社会事業を行なったのが始まり。1982年に社会文化センターとして発足し、現在の重点は地域の子どもや親(母子・父子家庭が多い)向けの取り組みが中心です。地域住民のたまり場でもあります。昼時でハウス・ドライのカフェはちょうど親子でにぎわっていました。豊富なサラダバーがあり、到着してからあまり野菜を食べてないので羨ましかったです。
 2階では20人ほどの参加で、子どもへの本の読み聞かせの講習会をやっていました。職員は8人で給与が出る務時間は週22〜33時間。実際はもっと働く場合があるそうです。サービス残業?いえ地域の関係性の中で楽しそうに働いていらっしゃるようでした。補助金としてもらえる人件費を、多くの人が短時間労働することで分け合って(ワークシェアリングして)いるということです。年間の活動の総予算42万ユーロ(約5600万円)。土地建物はアルトナ区の所有。
 周辺はアルトナ・アルトシュタット(旧市)という地域でハンブルク市アルトナ区の中では、最近寂れてきており(モッテのあるオッテゼンの方に中心が移った)、商店の閉店が続いています。課題は町の再活性化で、商店会と街おこし市民グループとハウス・ドライが共同して街の活性化に取り組んでいるとのこと。アルトナ祭の大きな呼び物であるスパッシュ・パレード(楽しいパレード)とアルトシュタットの通りを使ったスポーツイベントは、その運営の一切をハウス・ドライが行なっています。ハウス・ドライの組織運営はフェアライン(NPOにあたる)が行なうことになっており、現在は100人ほどの会員がいる。
 しかし運営の実質はやはりクレメンス氏ら中心職員たちであり、会員といっても施設内にある木工工房の利用者が多くあまり運営には積極的ではないとのこと。(地下にあるこの木工工房はすごかった。工務店というか家が作れるんではないかと思われるさまざまな設備、専任のマイスターがいて、徒弟を教育する資格を持っているそうです。)
 一行はやさしく気さくなクレメンス氏に別れを告げ、急に来た土砂降りの雨の中、タクシーで次の訪問先「第3工場」に向かいました。
 Werkstatt 3(第3工場)はもと石鹸工場で1970年代に移転後、活動家が占拠して社会事業を開始。こちらの設立は1979年。現在はフェアライン(NPOにあたる)による運営で、土地建物はフェアラインが購入したとのこと。ハウス・ドライとは大きく違いエコロジー、人権、移民、不公正貿易などに取り組む15の団体がそれぞれの部屋に入っていて、さながら社会運動団体合同事務所のようでした。対応してくれたのは、ここのフェアラインの職員2人(財政担当ハグさんと企画担当ボガリオさん)と「オープンスクール」専任ワーカーキストナーさんの計3人でした。ここはハンブルクの第三世界センターとして知られており、名称も当然その語呂合せと思われます。attac hamburg(アタック・ハンブルク)もここで設立されたが、現在は別の場所に事務所を構えているとのこと。2階には核燃料輸送阻止で激烈に戦っているロビンウッドが堂々とした事務所を構えていました。
 ドイツの主要都市には多文化センターがあって「開発と発展」問題に取り組んでおり、ここもその一つという谷先生の指摘あり。これから始まるアルトナ祭ではラテンアメリカ音楽中心の舞台を受け持っているとのこと。主な事業は国際教育とそのための教師教育で、アジェンダ21の理念を若い世代に普及させるのが目的。第3世界とここハンブルクの生活現実を常に比較して何が正しいか判断できる力量をやしなうことである。多くのボランティア活動、ワークショップを実施しており、なかでも「オープンスクール」の事業は小中高校の正規授業をここが企画するものである。
 低学年向けの一例としては、ハンブルク港のバナナ倉庫を船で見学し、南米の農民が不等価交換によって、いかに搾取されているかを学習するプログラムがあるとのこと。高学年は世界貿易システムなどの講座もある。2003年は約5000人の児童・生徒が参加した。この企画には右傾化した市政府からは予算が出なかったが、ドイツ連邦政府経済協力省と北ドイツ環境開発財団(宝くじによる財団)から資金を獲得して実施している。フェアラインとしての財政は、市の文化局(ハンブルクはドイツ連邦のなかで州の資格を持つので局といっても権限は大きい。省と言ってもいいかも。)から、企画、財政、技術、簿記(0.5)の3.5人分の人件費として11万5千ユーロ(約1600万円)の補助があり、またEU、その他の財団・協会からも資金を獲得している。ただし市の援助に依存するリスクは常に感じており、「左翼の巣窟」と見られている(笑)ため市政権の右傾化とともに予算削減を心配しているとのこと。
 予定時刻を大幅に過ぎ、次の訪問先へ小走りで向かった。時差ぼけもあり、みんなつかれて無言。
 アルトナ区役所は神聖ローマ帝国の時代にデンマーク王が周辺のホルスタイン州を支配していたころ、ハンブルク(中央駅付近の旧市)に対抗する拠点として建設された重厚で由緒ある宮殿のような建物。いきなり区長執務室に通され、蝶ネクタイ姿のフォック区長(右派)とSPD のブロステル区議、緑のマイヤー議員の出迎えを受けました。
 3人とも政治家特有の快活なにこにこ笑顔。こちらは時刻に遅れた上にくたくたのよれよれで作り笑顔。話はいろいろ、それなりに面白かったけれど、コメントは一つだけ述べておきます。緑のマイヤー議員(区議会文化委員長)が何を言うか期待があったのですが、「区議会文化委員会には路線の対立はほとんどありません。雇用や経済政策と比べ文化政策は優先度が低いので、これを高めるのが党派を超えて共通する課題です。」などとまったく職業政治家的発言。態度と見た目の感じがイギリスのブレアに酷似していて可笑しかった。(石倉祐志@ハンブルク・アルトナ) −続く−


4,6月18日・三つの社会文化センター (Mon, 21 Jun 2004 11:24)
                                        南の風1290号(2004年6月23日)
 みなさま;昨日は建築家のトールマンさんを囲んで夕食しました。小林先生によろしくとのことでした。
 滋賀県愛知川町立図書館長の渡辺幹雄さんから、ドイツの図書館の実態についての質問がありました(風1288号)。「過日ある新聞社の主催するシンポで、日本とドイツの図書館整備状況を語りましたが、人口十万人に2.1館の日本に対してドイツは17.4館と喋りました。しかし、私はドイツの図書館の実態は知りません。そこで石倉さんが帰国されてその点がお伺いできれば幸いに思います。」
 今回は図書館へは一回も行ってませんが、この数日あちこち歩いてみても毎日2〜3館は見かけます。実感として17.4館くらいあってもふしぎでない感じがします。

 さて、つづきです。6月18日。一行のメンバーは昨日夕方到着した手打先生(筑波大学)を含め6人となりました。ハンブルク公共交通(鉄道・バス)一日乗り放題券5人用7.75ユーロ(1050円)と一人用5ユーロ(670円)。今日の6人分の交通費はこれで全部です。石倉はこのグループの会計係です。今日は下記の3つの社会文化センターで見学とインタビューをしました。
 10時 Kulturladen St. Georg(ザンクトゲオルグ・文化の店) Frau Renee Steenbock (レニ・ステーンボックさん)、13時 Zinnschmelze(チンシュメルツ=錫メッキ?)Frau Dorothee Puschmann(ドロシー・プッシュマンさん)、16時Kunstlerhaus Frise(芸術家の家・理容師学校)Frau Sabine Mohr(サビーネ・ムーアさん)。
 ザンクトゲオルグ文化の店はハンブルク中央駅から歩いて5分ほど。都心に位置し、住民は家族持ちの比率が少なく老人と若者の単身者が多いところで、麻薬や売春の問題も抱える地域。麻薬中毒者のための施設が近所に2箇所ある。これらはもちろん麻薬を止めるための援助もするが、むしろ街頭や子どもの目に触れるところでヤミで麻薬を売買したり使うのではなく、施設内で安全に使わせるための場所であり、地域の住民団体はこれらの施設を積極的に受け入れているという。
 「店」というだけあってとても入りやすい入り口。まず、居心地ちよさそうなカフェがあり常連らしき男女が3人ばかりだべっている。部屋は通りから一段低くなっており、窓から中で何をやっているかのぞける仕掛け。ソファーでくつろげるコーナー、席数6くらいの小さな学習室が3つばかり(ドイツ語講習などの時間割が貼ってある)と小さなホールが一つ、写真と映像作品製作の工房が一つづつ。ここは青少年施設が近くにあるので子ども・青年対象の企画にはあまり力を入れていないが、それでも週に2回は子供向けになにかやっている。むしろ周りの地域の都市再開発でこの地域が低所得者居住地の孤島のようになっていることから、彼らをサポートすることの重要性を強く感じているそうだ。
 対応してくれたレニさんはここに勤めて14年。アーヘン大学で政治学と教育学を学び、修士で卒業。市の職業相談所の職員をへてメキシコにわたり、大学でドイツ語を教え、ニカラグアでも大学の講師、そして14年前ハンブルクにきて、ここでドイツ語と写真を教えていたら、たまたま職員に空きができたので今の仕事をしている。職員3人は女性だが、ここでジェンダー問題を意識して追求しているわけではない。「ほかの社会文化センターみたいな(男が中心の)ところから、ジェンダーに取り組んでるのかってよく聞かれるんですけどね」。
 3人には週 29.6時間分(所定の4分の3)の給料が支払われている。これは一人年額2万5千ユーロ(約350万円)の補助でまかなっている。カフェには一日あたり150人くらい来店。講座は15人ほどのいろんな講師が自分で企画運営している。近くにゾッチアル・ペダゴギークの専門学校があり実習生を4人受け入れている。ボランティアは沢山いて常に流動しているから正確にはわからない。今カフェでコーヒー入れてる人もボランティアだし、趣味で法律相談を定期的にやってる人もいる。カフェのマネジャーと掃除人は謝礼を払ってやってもらっている。
 とてもフレンドリーで、ずっとここに居たい雰囲気だったが、予定を30分以上超過したので別れを告げて次へ。

 チンシュメルツは昔ゴム工場だった跡地を70年代に占拠したのが始まりで、現在は同じ敷地に「労働博物館」とともに建っている。事務局のドロシー・プッシュマンさんと演劇教育専門家のキータ氏が対応してくれた。キータ氏がここのフェアラインの中心理事で当初は住宅兼アトリエを志向したが、2年間市当局と戦って1989年正式にスタートすることができた。土地はハンブルク市の物だが、隣の労働博物館(こちらも別のフェアラインが運営)が管理している。チンシュメルツの所有はこの建物一軒だけである。ここはほかの社会文化センターに多い社会事業的な活動はあまりしていない。若者向けの演劇教育を熱心に取り組んでいる。1階はカフェ。コンサートなどもよくやる。2階は80席の劇場。小さいが照明なども含め設備は充実している。映写機でもなんでもそろっている。ここで演劇教育を受けた俳優や監督は多数いて、最近演劇教育賞を受けた。現在やっている劇は各人の体験を語り合うことから始めてストーリーや演出・配役を考え上演するというワークショップで、一言で言うと性的虐待から立ち直るというテーマだそう。これは一種のテラピーでもある。アルトナのあちこちでこの劇の宣伝ポスターやチラシを見た。
 この施設の人件費は公費から2人分出ているがそれを3人でシェアしている。そのほか若干の謝礼が出る「手伝いAushilfe」が劇場の技術職2人を含め12人。実習生2人。ボランティアは祭りのときは 150人くらい集まるが人数不定。ボランティアには楽しんで働いてもらえる仕事してもらい、つらい仕事は職員が担っている。コーヒーをサービスしてくれた少年は、市の失業対策事業で斡旋されてきた人。学校に行かなかったり、知的障害や精神障害そのたなんらかの理由で社会生活が正常に営めない人々が働きながら社会への適応を学ぶプログラムとして、「第二の労働市場」という考え方があり、市の社会事業課が所管し外郭団体の雇用促進事業体が運営するあっせんで、彼はここで働いている。にこやかで丁寧な青年だった。
 この隣の「労働博物館」も,100年ほど前からの職人技術博物館みたいなところで、実物での実演も含め非常に本格的で充実した展示に目を見張ったが見学時間は20分しかなかった。
 (嗚呼、哀しくも忙しい日本人よ!)
 最後はKunstlerhaus Frise(キュンスラーハウス・フライゼ 芸術家の家・理容師学校)のFrau Sabine Mohr(サビーネ・ムーアさん)。モッテのベント館長が直接案内。芸術関係が弱いモッテの活動内容をここと提携することで補強しようと言うことらしい。この施設は昔、理容師学校だったビルを自力で改装して35人の芸術家のアトリエ兼住宅と展示スペースにしたもので、運営は月1回の集会で直接決定する、いわば芸術家共同体といったところ。サビーネさんは造形と絵画の作家で、ここの古株。生活費はアクセサリーを作って作家物としていくつかの店に出している。「きれいに作るのは簡単ですよ。しかしそれは私の芸術とは関係のないことです。」
 アルトナの街なかにあって、建物は市の所有であるが家賃は広いアトリエ兼住居で1000ユーロ(14万円)。今年5月には北京で個展を開いたとのこと。彼女は「自己組織化する芸術」という論文を書いていて、谷先生はぺらぺらとめくり、これはすごい、コピーして持って帰る、といってました。哲学者の竹内先生や社会学の小林清二先生が、芸術の定義を訊くと「目的合理性に陥らないこと」が大切だと彼女は言っていました。ここの共同体の原則は製作・交流・発表だそうで、自分の世界に閉じこもる人は入れないとのこと。フェアラインとしての規約などはあるけど、探さないと出てこないそうです。ほかのアトリエもいくつか見せてもらいました。写真家と絵画作家のでした。各部屋は個性的でしたが、いずれも広いアトリエに続くコーナーに台所や小さなテーブルがあって、寝床は床にマットを置いただけみたいな、シンプルな部屋ですが、沢山の作品や仲間に囲まれた暮らしは面白そうでした。モッテの芸術企画にこれから多くの芸術家がかかわることになることが期待されています。
 その後アルトナ駅前の舞台でアルトナ祭開会式を見た後、ハンブルク市庁舎地下の由緒あるレストラン、ラーツ・バインケラーでご馳走を食べました。子羊のステーキやうなぎのスープ、白アスパラガス・シュパーゲルなど。高いワインを飲んだので、一人40ユーロ(5000円ほど)になってしまいました。−続く− (石倉祐志@ハンブルク・アルトナ)

★<ドイツの図書館事情(ぶんじん) 風1288号の渡部メール、上記の石倉メールに関連して、ドイツの公共図書館についていくつか。統計的データが手もとにあるわけではありませんが、単純な構図ではないようです。一つは、東西ドイツの統一にともなう問題(西ドイツ図書館の枠組みを統一ドイツに継承した)、二つは16州の独立性が強く、各州によって多様な展開があること、三つに人口比率の図書館平均数は相対的に多いとしても、その実体は複雑であること、など。
 数年前に山口真理子さんがコピーしてくれた「ドイツの公共図書館」(三浦太郎、図書館雑誌2001年5月号・海外図書館事情)には次のように記されています。 「ドイツ全土に公共図書館はおよそ1万3500館を数える。ドイツ図書館統計(1999年)によれば、このうち専任職員をおく図書館は3,786 館と3割に満たない。またドイツ国内に約1万6000の市町村があるが、その中で公共図書館に専任職員を配置する自治体数は1,972である。人口10万人以上の大都市に限れば、すべての都市の公共図書館に専任の図書館員が置かれるが、人口2万人以下の都市ではその割合は半分以下となる。」
 図書館利用は無料を原則とするが、ここ2,3年の傾向として利用料金を課す公共図書館が増えているとのこと。
 ところが・・・。『事典・現代のドイツ』(1998年、大修館)はとくに図書館についての章を設けていませんが、博物館・美術館ガイドと並んで図書館の記述(p710)があり、「手写本、古文書、書物、原稿、草案などを所蔵している一種の博物館は図書館である」とした上で、これらは「ドイツ全国に約2万5,000ある市町村や教会運営の市民図書館」とは異なる学術研究的図書館という説明も。
 それにしても概数の水準が違いすぎますね。図書館に関わる「公共」あるいは「市民」の範囲・概念をどう考えるかによって、数字も変わってくるのでしょうか。もっと正確に調べる必要がありますね。


5,今年の「アルトナーレ」 (Thu, 24 Jun 2004 00:40)   
                       南の風1292号(2004年6月23日)
承前(1290号)
 みなさま; 23日、無事に帰ってきました。24日から日常の仕事に戻ります。この号(6/19・20)はアルトナで半分、残りは高尾の自宅で書いています。6/21 以降の分は発表のペースが落ちるかもしれません。
 6月19日の予定は終日アルトナ祭(アルトナーレ)を見ることでした。この日、石倉は午前中を使ってホテル探しと移動を行ないました。実を言うと、たった一人でホテル探しや値段交渉など初めて。いい経験になりました。
 アルトナーレは町全体が会場で、広場や交差点に舞台を設営し終日催し物を行なう他、さまざまな市民団体、個人がテントを連ねています。「ハンブルク女性の家を救え」という団体では募金と署名をやっていましたし、地域通貨の団体では「私たちは時間を交換し合っています」という説明でした。「戦う猫」は女性の護身術として空手の講習をしているとのこと。「教育は商品ではない」という団体もありました。カンボジアの写真を展示しているブース、子ども会、自然保護団体、チェ・ゲバラのポスターが貼ってある左翼政党、イラン人の屋台、などなどきりがありません。
 午後5時、モッテのレストラン・チンケンに集合。神戸大学4回生の安達明孝君がいました。現在フランスのニース大学で学んでおり、まもなく帰国するとのこと。この日と翌日はしばらくいっしょに行動。

 6月20日午前中はアルトナ祭、12時からアルトナ祭実行会社の社長・Herrn Dieter Meine(ディーター・マイネさん)と社長代行のPaul Pauksch(パウル・パウクシュさん)へのインタビュー。場所は、アルトナ駅前最大のショッピングセンター「メルカド」の中央事務所。
 今日は日曜日。通常日曜日はハンブルク市の制度で商店は営業してはならないことになっているが、夏の祭りシーズンということで、今年から年4回の営業が許可されるようになった。メルカドも12時から営業している。
 アルトナ祭の運営はアルトナ祭実行会社が担っており、去年まではモッテ館長のヴェント氏だった。今年はヴェント氏が「友の会(Freundeskreise.V.)」に回ったため、ディーター・マイネ(職業は街の印刷屋)さんが引き継いだ。パウル・パウクシュさんは昔から関わっている都市開発コンサルタント。この会社はGBR(ゲゼルシャフト・ビュルガーリヒト・なんとか)という最も簡易な形式。19の理事(社員)ポストのうち企業8、団体11という構成である。
 以下マイネ氏の説明。今年のアルトナ祭の特徴はその多様性にある。企業、非営利団体がともに取り組み、文芸アルトナ祭、芸術アルトナ祭、スパッシュパレード、市民運動団体の出店など多彩。この一年大変だったことは、第1に財政。大きなスポンサーが撤退し資金集めに苦労した。飲食の売上で文芸アルトナ祭、芸術アルトナ祭、スパッシュパレードを支えるという構造になっている。
 第2に多様な団体間のコミュニケーション。このことは利害調整など困難なことがあるが、また重要なことでもある。ある人通りの多い交差点で出店場所のダブルブッキングが起きてトラブルになったけれど、出店者を含め良く話し合って解決した。その過程で互いのことが良く理解し合えたのが良かった。
 第3にグロスバーグ通り(最近さびれている)の企画について3つの団体(ハウス・ドライ、商店会、地域づくり市民団体)による協力関係をつくるのが大変だった。この3つの団体間には競合したり反発しあう要素があったが、この企画をつくることで地域作りで共同していくきっかけを作ることができた。
 メルカド(ショッピングセンター)自体は建設時に市民の反対運動があったが、今は受容されてきている。地域内のいろんな団体は互いに没交渉だったが、アルトナ祭はこれらのコミュニケーションに大変に役立っている。個々のイデオロギーはあるが、交流や、酒飲んだりして相互理解が進むようになってきた。
 行政とのかかわりは、むしろ1996年の行政主導の祭りが不評だったことが、その後始まるこの市民主導の祭りのきっかけになっているので、ひかえめである。アルトナ祭実行会社の19の構成委員の1つであって交通整理、広報、借地料の減免などで貢献しており、区長も積極的に協力している。区は、アルトナ祭の計画には関わらず随伴すると言う立場をとっている。
 理事会における市民のイニシアティブは、企業と非営利の比率が半々になるようにしている。現在の実態は非営利団体が少し多い。会議はここメルカドで月1回開かれ19の代表者が集まって決定をおこなっている。ただ諸企画は枠組みを決めたらあとは担当者に全てを任せている。信頼できる担当者をつけているし自由にさせることが大切だ。

Q:祭りの記録をどうつくろうとしているのか?
A:ボランタリーな組織なので、現在はそれを中心になって行おうという人がいなくてうまくいって
 いない。最近の会議でも広報政策をどうするかという議論の中で記録の問題が出た。現在は
 個々の参加団体が個々に記録しており、アルトナ祭としてのアルキーフ(アーカイブ)はない。新
 しいことに次々に取り組んでいるので記録を残そうという感覚がまだないとも言える。
Q:「Leben-Arbeiten-Lernen(暮らし・働き・学ぶ)」というスローガンが4回から後のポスターから
 消えているのは?
A:もちろんこの3つが現在も原則である。ただ4回目から芸術企画が別に組まれ2週間ほどのプ
 ログラムになったし、5回目からは文芸企画が同様に別企画として独立した。そのため4回から
 後はこれらの変化を反映している。
Q:市民からの意見集約はどうしているか?
A:毎回アンケートをとっている。90%以上が「よい」か「とてもよい」。出店者も儲けているし、行
 政からの評価も高い。このアンケートは簡単なもので、仮説を立てて設問を練るようなことはし
 ていない。問題点は月例の会議で各人から出すようにしている。
Q:2つのサッカーチーム(ハンブルガーSVとザンクトパウリ)が今年から加わっているがどのよう
 なかかわりか?
A: 彼らはアルトナ祭に参加することをあまり活かせていないようだ。スポーツ企画では、グロス
 バーグ通りのサンドバレーリーグの方が成功していて、これは発展していくだろう。
Q: 今後のビジョンは?
A:地域の関係性を作り出す条件となるコミュニケーションを目的としていきたい。財政が好転す
 れば市民活動に資金提供していきたい。こうした交流の実現が、街を超える発展にもつながり、
 社会問題や経済問題、政治のあり方を変えていくと思うが、自分たちでやることが大事で政治
 には何も期待していない。(ハンブルク・アルトナから帰宅した石倉)


6,アルトナ通信(6ー1−2004・市民祭の総括 (Sun, 27 Jun 2004 22:54)   
                                        南の風1295号(2004年6月29日)
…承前(1292号)…
 時差のせいか夜型人間に変わってしまい、朝が起きられなくなってしまった石倉です。
 さてアルトナ通信の最終回(第6号)をお届けします。6月21日のインタビュー=ミヒャエル・ベント氏/於グローニンガー・ブロイケラー、今回の共同調査も最終のプログラムとなった。
 前回と同じく、アルトナ祭(6/18(金)〜20(日)。以下アルトナーレ)が終わった直後に、キーパーソンであるベント氏にインタビューするというものである。会場はオスト・ヴェスト通りのグローニンガー・ブロイケラー。自家醸造のビールを飲ませる地下の酒蔵である。18時近くになってベント氏が現れる。この3日間ほとんど寝ていないという。谷和明先生がインタビュアーと翻訳をつとめられました。まずベント氏に話していただいた今回のアルトナーレの総括についての概要です。
●自由な参加形態が活力
 今回の参加者は50万人。雨とサッカーの試合で土曜日の参加がそれほど多くなかった。売上げはまだ集計が出ていない。総括としては大成功である。プレス、ジャーナリズム、行政、政界でも認められるようになった。アムステルダムに本部がある国際フェスティバル協会の会長が今回の祭りを見にきた。この祭りは自由な参加形態が多く実行委員会は枠組みをつくるだけで、その中で各々は自由にそれぞれやっている。それが祭りの活力を産み創造性を高めている点を会長は高く評価した。
●多様性を認め合う祭り
 もう一つの特徴的な反響は、警察署長がこの祭りには暴力、酔っ払い、スリなどの犯罪がほとんどないと評価していることだ。我々は暴力の防止、都市開発、インテグレーションといった課題を持っている。祭りを行なう前は、祭りに喧嘩や暴力はつき物だ、と言って否定的な意見の人がいたが、この祭りがこれを克服していることが警察署長の言葉で照明された。一般に多くの人が集まった時、ある傾向にまとまろうとすると、その傾向から外れる人に暴力が振るわれたりする。サッカーの試合で観客同士が暴力沙汰になるのはその一例である。多様な価値観を認め合うこのアルトナーレでは暴力は起こらないと考えている。
 アルトナーレのビールの消費量は他の祭りに比べ三分の一だと言われている。その理由は飲食店が多い分、祭りの屋台で飲む量が少ないのと、もう一つは盛り上がってガンガン飲む祭りではないからだ。
●社会・文化・経済の組合せ
 ガーラ(祭り前夜の正餐会)にドレスデン市長が来ていた。彼に対して、シティマネジメントは政財界に支配されいているが、社会と文化と経済の組み合わせによる発展の重要性を強調したら、感心されて、こんどドレスデンに行って話しすることになった。社会学的視点から見ると、カルチャーシーンの細分化・階層化が進行している。世代間の接点を意図的に作ろうとしているし、階級、貧富、その他の違いを乗り越える取り組みを行なっている。
●やることが大事
 マルチカルチャー・インターカルチャーの取り組みはただ見るだけでなく、やることが大事。パレードや音楽、舞台への出演など、みんな自らやることを目指した取り組みである。今年は舞台の設置数が増えたが、その中には子どもが企画運営する子どもの舞台もあった。団体の出店数は160を超えたが詳しくはプレスを見てほしい。(プレス発表資料は谷先生が持ち帰りました。)
●アルトナの地域のアイデンティティ
 石倉:回数を重ねる中で住民の中に形成してきた地域のアイデンティティはどう変化してきたか。
 ベント:アルトナ駅近くの住民は町に愛着があって暮らしている人が多い。最初は祭りが静かな暮らしを乱すとみなして迷惑がっていた住民も多かった。アルトナーレは生活を撹乱する要因だった。祭りが終わると夜もゆっくる寝れるし、ほっとしていたというのが実際だったろう。しかし苦情は毎回減ってきている。住民は参加することで祭りに誇りを持つようになってきた。今回はさらにスウェーデン国との共催が新たなアルトナのアイデンティティを切り開いた。
※その他参加者から多数の質問・意見と応答がありましたが、正確に記録していないので割愛させ
 ていただきます。 …つづく(次号・アルトナ通信6−(2)最後に)…


7,アルトナ通信(6ー2−いくつかの印象 (Sun, 27 Jun 2004 22:54)   
                     南の風1296号(2004年6月30日)
…承前(1295号)…
 …(承前・1295号)…
●いくつかの印象
 アルトナーレに接して思ったのは日本との地域社会の違いである。アルトナには日本のような悉皆住民組織としての町内会的組織はない。アルトナーレという地域の名を冠した祭りではあるが、アソシエーションの集合体なのだ。ここは大きく違う。予測していたのは「わが町アルトナ」という意識のもとに誰も彼も相集うという均質性だったけれど、これはみごとに外れた。かれらは個の力に基づく能動的な人々で、一人一人が違うことを前提としている。祭りの理念自体が多様性なのだ。個々人が自由にできる枠組みをつくったことが、その成功の要因ではないか。アルトナにおけるこの間の記録のあり方を幾人かに聞いてみたが、それは個々の団体や個人でやっていることという返事だった。
●社会文化センター
 社会文化センターは、つねに、移民、貧困者、子ども、女性、単身者、麻薬中毒者、無職者など社会的弱者に焦点を当ててきた。いわば社会事業、社会福祉事業としての系譜にあるものである。その運営はNPOに近いフェアラインによるのだが、実質的には職員など数人がリーダーシップを持っている。こうした団体に公費で財政支援する政策は日本とはちがう。財政は行政当局からの人件費支援と独自の事業収入、最近は学校教育予算の活用が始まっている。
 それぞれの社会文化センターがもつ違い・多様性はそれを担う数人の職員の個性によるところが非常に大きい。それを反映してセンターによって事業内容は多様である。職員やリーダーたちはみな独自の見識を持っている。それは独りよがりでもなく、よく勉強していて知的である。ベント氏は、「もっと時間があれば、アルトナの経験をもとに博士論文を書きたい」などと漏らしたものだ。インタビューした社会文化センターの「職員」はやりたい人が好きでやっているように見え、その仕事を皆楽しんでいる。それが社会への貢献と認められれば公権力も財政支援を行なう。弱者に焦点を当てることによって誰もが関わりやすい施設となっていて居ごごちがよい。そうした温かみのある個性が居心地のよさを作り出していて、そこには人間を信頼しているというメッセージがある。それが、あなたもそこに居ていいんだと感じさせているような気がした。
●最後に・・・ 
 今回の旅は忙しかった。ハンブルクでは週20〜30時間労働で年収350万〜500万円の人々に多く出合った。彼らはゆったりと暮らし、週2〜4日間は賃労働をせず、年に3週間はバカンスを楽しんでいる。けっして高いと思ってはいない私の年収のほうが多いが、この旅の前も後も旅の最中も私はとても忙しかった。いろんなインタビューに立ち会ったし、いろいろなものを見聞きしたけれど、本当の自分の「心の声」に共鳴させることができただろうか。「目的合理性に陥らないように」という芸術家サビーネ・ムーアさんの言葉が思い起こされる。それは意識の深部から人間の本質に立ち返るということではなかったか。そのために「時間」の質と量をどう確保するかは重要である。
 自分を忙しさのなかに追い込んでしまって、足を棒にして駆けずり回り、財布をはたいてお土産を大量に買い込んで、空港では重量オーバーでてんてこ舞いするし、デジカメはどこかでなくてしまうし、帰ってきてちょっぴり悔いが残る。けれど、3回目のアルトナはとても身近に感じることができたのがよかったと思っている。
 最後になりましたが、この「共同調査」を企画され、私に暖かい誘いの手を差し伸べくださり、くたくたに疲れつつも全てのインタビューと翻訳の労をいとわず奮闘された谷和明先生に大きな感謝と深い尊敬とをささげるものであります。谷先生、そしてみなさま、7月23日(金)TOAFAEC 研究会でまたお会いできますことを楽しみにしております。


◆2005年−ドイツ訪問・記録(小林ぶんじん)→■





◆2006年−ドイツ通信

1,2006ドイツ通信1−ベルリン (Fri, 23 Jun 2006 15:59) 南の風1670号 2006年6月24日

 お元気でいらっしゃいますか。真夏のベルリンからお便りいたします。今、夜9時25分。といってもここベルリンではやっと日が暮れはじめたところです。ホテルの部屋で書いていますが、テレビがサッカー・ワールドカップの日本ーブラジル戦を中継しています。行く先々でサッカーを見に来たのか?ときかれるので、そのたびにサッカーには関心はないと答えています。
 今回の旅のこれまでの概要を報告しておきます。ハンブルクでは市民祭りアルトナーレを見学、ハノーファーでは、社会文化センター“ファウスト”や“パヴィリオン”を見学しました。昨日夜ICE 特急でベルリンに着き、きょうは社会文化全国連合を訪問し、谷さんの有意義なインタヴューに立ち会いました。明日、明後日はベルリンを回ります。
○6/17−23時、ハンブルクのザンクトパウリにあるEtapホテルに到着。
○6/18−ハンブルク朝市を楽しんだ後、アルトナーレのスパッシュパレード見学。同行者;谷和明・東京外大教授、石井山竜平・東北大助教授、小林清治・大阪外大助教授、山本俊哉・明大教授、藤野一夫・神戸大教授、丸浜江里子・明大院、秋野有紀・東外大院、畔柳千尋・神戸大院、府中の活動家である小笠原氏、杉本氏など。今年は質は高かったが量的には前ほどではない印象。午後はアルトナーレを一人で見学。日本文化のブースがあり、蒲原明佳(大阪外大院)さん、Aoshima Marikoさんらと会う。夜はホテルの前のちょっとおしゃれなレストランで会食。
○6/19−藤野さんの案内でハンブルク大学へ。学食、といってもとても豪華なところで昼食後、港地区の新開発区を見学。夜、アルトナーレの中心人物ミヒャエルヴェントさん、ディーターマイネさん、ステファニーさん、クリツシャーヴェーバーさんなどと会食。
○6/20、ハノーファーへ。見学1=フライツァイト・ハイム(余暇センター)は、公設公営で日本の都市型公民館に図書館併設といった雰囲気。見学2=クルトアトレフ・バーレンハイデは市民運動が設置させた公設民営の面白い施設で、職員のハイケ・バクスマンさんはとても魅力的な人。地域づくりを意図的に取り組んでいる。
○6/21−見学1=社会文化センター“ファウスト”は90年代に工場跡地を占拠して設立したところ。社会文化センターとしては後発。25の団体がここを支えている。ペルシャ語の図書館がすごかった。1万5千冊あるとのこと。同様のペルシャ語図書館はドイツに全部で3つあるらしい。私の住んでいる八王子には韓国語や中国語、ポルトガル語の図書館はない。アーティスト・イン・レジデンスもあり、展覧会場もあるいい施設。しかし経営がずさんで昨年破産宣告を受けた。今は再建中とのことで、あと半年で借金を返せるとのことだが、とても居心地のよさそうな施設だ。
 次に、ニーダーザクセン州社会文化連盟を訪問。農村の社会文化運動というテーマがありえることがわかった。
 ベルリンへの列車時刻を気にしながら、駅前の“パヴィリオン”も見学。こちらは60年代終わりからの社会文化センター。靴やボールやウエアなど、サッカーの用具が第3世界の搾取の上に立って生産されているという展示が興味深かった。
 夜ベルリンに到着。旧東ベルリンのプレンツ・ラウアー・ベルグにあるSchall unt Rauchという面白いホテル。ベルリンの中庭のある普通の住宅のいくつかを客室に改装したホテルで、参加者はみんな違った部屋に泊まっている。私の部屋は中庭が見える2階で、広々とした民家の一室。中庭にはお隣さんの家族がテーブル出して食事してたりするので、ベルリンの友達の家に泊まっている雰囲気。この宿お勧めです。今日はここまで。またメールできますように。ではでは。石倉でした。
○6/23−昨日6/22の調査の概要。社会文化センター全国連盟のチラー事務局長を訪問。事務所は新しくできた巨大なベルリン中央駅の北口からすぐの住宅地で、壁のあったところから50メートルほどの位置にある。東西問題と社会文化運動、社会文化運動における官民関係、とくに財政の動向、社会文化運動のクオリティ把握について説明してもらった。チラーさんは東の出身で、政権を批判する市民運動の活動家だったが、統一後は緑の党の代議士秘書になり、ボンに6年住んだ。その後2年間大学で学んだあとNGO、NPOのマネジメントの仕事をしたという経歴。運動と政治とマネジメントの3つは今の仕事に総合されているように見える。現在のドイツで、地方財政の切り詰めにより、市民参加が安易に広がって専門職が増えないことには批判的で、社会文化センター固有の
職員体制を充実させることを目指している。
 旧西ドイツ地域で発展してきた社会文化運動についての東出身者の観点からの批判的評価が興味深かった。東では、社会的活動と文化的活動は当たり前のように統合されていたので、西のように社会文化として統合することは課題にならなかった。資本主義の病理に対抗する運動なので東にはその必要はなかった。東での反体制活動家は政権には批判的だったが、マルクスやエンゲルスに批判的だったわけではなく、むしろ真の共産主義を目指していたという。(以下次号)
 石井山さんのパソコンで通信できました。感謝!!

ドイツからの通信(ぶんじん) 南の風1670号 2006年6月24日
 石倉さんの旅先からの2006「ドイツ通信」が届きました。おそらく時差ぼけ、昼間の活動、そのなかの夜のホテルで記録づくり、なかなかエネルギーを要する作業のはず。ご苦労さま!
 「南の風」は、これまで案外と海外からの通信を掲載することが出来ました。長期シリーズとしては英国「レディング通信」(2000〜01年、岩本陽児さん)、「パリ通信」(2000年、末本誠さん)、「ベルリンの風」(2003年、谷和明さん)など。短いものでは上海(ぶんじん)や台湾(内田純一さん)その他。
 とくにドイツからの通信は、2000年6月以降、ほぼ毎年の「風」の定番となった感じです。関係の皆様、有り難うございます。ぶんじんも「ドイツ短信」(2000年7〜8月)を20号ほど頑張って送信した経験あり。→■ 当時はすべて電話回線を利用してのメール、ホテル(交換)によっては通じないことも多く、たいへんでした。チェックインして、まず最初の仕事はパソコンを電話につなぐ、それからしばし格闘することが多かったのです。それだけにメール送受信が出来たときの喜びは格別。
 とくに古い格式あるホテルほど簡単ではありません。谷和明さんと一緒に泊まったポツダム会談の宮殿(ツェツィーリエンホーフ、2000年8月)でも一苦労して、やっとの思いで「風」を日本に送った記憶があります。あらためて石倉「ドイツ通信」に感謝します。次号も楽しみ。


2,2006ドイツ通信2ベルリン (Sat, 24 Jun 2006 15:43) 南の風1671号 2006年6月26日
 こんにちは。石倉@ベルリンです。今日は6/24。皆様への通信は2回目ですが、実質的に今日が旅の最終日となりました。明日6/25朝飛行機に乗り6/26には成田に着く予定です。
○6/22の社会文化センター全国連盟のチラー事務局長の話の続き。
 旧西独地域の社会文化運動は個人主義的自己実現に関心が強いが、旧東独地域ではコミュニティーをどうするかという発想が強い。旧東独地域の「文化の家」はあらゆる人民に文化を保障したが、党のイデオロギー機関でもあった。統合後「文化の家」は大きく分けて次の3つの運命をたどっている。
 1 財政が途絶えてつぶれた。
 2 市町村が公立化して継続。
 3 市民の主体的な活動団体が運営を担って継続
 最後のくくりが、社会文化センター的な動きとなっている。統合後分かったことは、東の人々のほうが大きな変化を体験しているので柔軟性があるということだ。西の社会文化運動の活動家は未だに60年代の発想を引きずっていて、補助金が減ったといっては頭を抱えているが、東出身の活動家はしたたかにもっと別の財源を掴もうとする柔軟性を持っている。ハンブルクのベントさんは西の人にしては柔軟性があり、とても評価している。アルトナーレはその継続性も評価できるし、社会文化センターにとどまらずに地域に出て行く活動姿勢はすばらしい。(東出身者の視点で社会文化運動を見ているのでとても興味深い話でした。日本の状況はむしろ東の「文化の家」の方に近いような気もします。)
 6/22は昼食後(略)
○6/23 ベルリン東駅近くのベターニエンという施設。プロイセン時代の巨大な病院だったが、現在はアーティストインレジデンス、音楽学校、幼稚園、いくつかの市民団体がある。その一角に建物を「占拠」している人々がいて、幼稚園の2階には集会施設、3階に数家族が居住している。谷和明流でそこを直撃訪問。撮影は断られたが集会施設を見せてくれた。社会文化運動のミニマルなかたちを見た気がする。
 午後は、ハッケッシャー・マルクト近辺の中庭のある建物群であるホーフを二つ見学。ガイドブックでおなじみのハッケッシャーホーフはよかったが、その隣にある少し小さな、きたないホーフの中にあるポップカルチャー作品の専門店が最高だった。そのあと、東独地域のアパートに芸術家が住み着いているタヘレスというところ、ビール工場の後に入り込んだ社会事業団体の施設などを見学。いずれも社会文化センターではないが、「占拠」による活動ということでした。今日はこれから自由行動です。ではまた。


3,2006ドイツ通信3−日本に帰って(Wed, 28 Jun 2006 02:03) 南の風1672号 6月28日
 石倉です。昨日26日、日本に帰ってきました。北ドイツは時折にわか雨が降る天気でしたが、さわやかな夏でした。日本は梅雨真っ只中ですね。空気そのものが濡れている感じがします。でも、やっぱり私の住んでいる高尾・浅川のこんぴら山が一番。家に帰ってとっても気持ちが落ち着きました。
 今回のドイツ社会文化運動に触れる旅は私の活動に役立つアイデアをいくつか貰った旅でした。アーティスト・イン・レジデンスをあちこちで見かけたので、自宅近辺の類似施設を訪ねてみようと思います。近くの神奈川県藤野町にもあったと思いますし、高尾でも以前そんなことをしてたようです。ハンブルク大学の学生掲示板には、大きな家に数人で共同居住する形式の住み方である「ボーン・ゲマインシャフト」の張り紙がいっぱいありました。学生たちの多くはそんな暮らしをしているようです。
 私の家は古い4LDKで一人で住んでいるわけですが、共同居住にはちょっと関心があります。ハンブルクの下町アルトナの市民祭りアルトナーレでは、「Die Musik der altonale 8」というタイトルのCDを販売(たしか5ユーロ=約750円だったか)していました。18のグループ(たぶんプロかセミプロ)が1曲づつ入れているコンピレーション・アルバムで、帰ってから聞いたらなかなかかっこいい音楽が多くて気に入りました。私の地元の高尾山に関連するミュージシャンが1曲づつ提供してCDを製作したら結構すごいものができるんじゃないかな…。
 アルトナーレのイメージは規模的に言うと八王子市役所脇の河川敷で5月に催された「みんなちがってみんないい」というお祭りを、八王子北口の市街地街地全部の通りを使ってやったような感じ、あるいは世田谷の羽根木公園で毎年やっている「雑居祭り」を一回り大きくして町の通りでやっているようなイメージに近いかもしれません。
 以上は使えそうなアイデアの羅列、または単なる例えにすぎませんが、今回の旅では「社会文化」という考え方を自分の住む地域の具体的なイメージに照らしながら見ることができたのが最大の収穫だったかもしれません。私の住む高尾駅南口のこんぴら山は市民運動が「占拠」する形で開発を拒否してきたわけですが、今こんぴら山では、圏央道高尾山トンネルをやめさせる動きに連帯しながら、いくつかの運動的文化的活動を生み出そうとする動きが進行していて、今年は「こんぴら大学」を計画中ですし、長年続いてきた毎月第一日曜日の多文化ピクニックは今後も担っていこうと思います。社会文化運動に触れてみて感じる私の課題は白人と日本人が比較的多いこのピクニックに東アジア出身者を増やしてよりインターナショナルな集いにすることです。
 山のてっぺんにある浅川金刀比羅神社の月例祭ももちろん続いていきますし、ここを拠点にした社会文化的な可能性はいろいろあると思われます。アルトナーレの中心人物ミヒャエル・ヴェントさんに、宗教団体との関係を質問したところ、アルトナーレは宗教団体へも参加をよびかけたことがあるし拒否しないけれど、宗教間の対立といった問題もあってあまりうまくいっていないとのことでした。実際はキリスト教関連団体のテントや、中国で始まった「法輪功」、日本の創価学会のチラシを配っている人なども目にしました。今回はアルトナーレにおける宗教の位置付けについてもちょっぴり手がかりを得たのは収穫だったように思います。
 いずれにせよ、社会文化センター全国連盟のチラー事務局長も評価していたように、社会文化センターにとどまらずに地域に出て行くアルトナーレの活動姿勢は、60−70年代とはまたちがった社会文化運動の現代的な展開として重要であるとみることができるでしょうし、私自身の住む地域で社会文化的なものの可能性を考えるうえでも今後も注目していきたいと考えています。
 ということで、まだまだ時差ぼけで夜中に目覚める石倉でした。 …(後略)…





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