セルフ・カウンセリング 自分の心に出会えるメルマガ |
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ セルフ・カウンセリング ♪ 自分の心に出会えるメルマガ ♪ ( ”イライラ””モヤモヤ”が解消できる!) ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ 第 83 号 2010年 9月 1日 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ みなさん、こんにちは。 「セルフ・カウンセリング ♪自分の心に出会えるメルマガ♪」をお読みいただきありがとうございます。 みなさんは、セルフ・カウンセリングという言葉を耳にしたことがおありですか? これは、渡辺康麿氏が創案した、書いて読む、一人で出来る自己発見法です。 私たちは、このセルフ・カウンセリングを学んでいるグル-プですが、みなさんにも、ぜひ、この方法をお伝えしたいと思い、 同氏の著書を連載することにいたしました。 楽しくお読みいただけたら幸いです。
連載になっております。興味のある方は、バックナンバーからお読みいただくとわかりやすいと思います。 1号〜 「自分の心に出会える本」より 23号〜 「自己形成学の創造」より 32号〜 「セルフ・カウンセリングの方法」より 62号〜 新連載「自分って何だろう‐現代日本人の自己形成‐」より
********************************* 人は、生まれてから今に至るまでの人生の中で、いろいろな経験をします。 そして、その経験を通して、「こうしなければならない」とか「こうあらねばならない」とかいうその人なりのモノサシを形作っていきます。 自分の生い立ちを振り返ることによって、無意識に取り込んできたそのようなモノサシに気づき、 そのとらわれから自由になっていく方法を自己形成史分析といいます。 セルフ・カウンセリングという方法は、このような、自己形成史分析という自己探求の方法が基礎になっています。 ☆★☆セルフ・カウンセリングとは?☆★☆ セルフ・カウンセリングでは、自分が経験した日常生活のある時の場面を書きます。 家庭や学校、職場での場面など、どのような場面でもかまいません。 テレビを見た時、本を読んだ時、一人で考えている時など、相手がいない場面も大切な題材になります。 もちろん文章の上手・下手はまったく問題ありません。 専門知識も必要ありません。 自分が見たこと、聞いたこと、思ったこと、言ったこと、したことを、時間の順にそのまま書くと、リポートになります。 まず、自分が何を悩んでいるのかわかります。 その悩みの奥に、どのような願いがあるのかわかります。 そして、相手の気持ちがわかります。 そうすると、自分と相手の気持ちを尊重しつつ、心を通わせてゆくための知恵が生まれます。 人間関係のすべてに共通する心のからくりを、自分の経験を通して学ぶことができます。 ***************************** 「自分って何だろう 〜現代日本人の自己形成〜」 渡辺康麿著 より抜粋 (vol . 23 ) 他人のモノサシ、 自分のモノサシ ー 西洋人と日本人の自己意識 ー □“みんな”と“私”の位置づけ□ 私は、西洋人の自己理解と日本人の自己理解の相違について、次のように述べました。 1 西洋人は、まずはじめに私があって、 それから後に、私以外のほかの第三者としての彼や彼女があると考えること。 2 そこから、私には私の世界があり、 彼には彼の世界があり、彼女には彼女の世界がある、という考え方が出てくること。 言いかえると、西洋人にとっては、私と彼や彼女とはおたがいに全く違う他者であるということが、すべての人間関係の前提になっています。 したがって、私が私の欲求を満たすために彼や彼女を利用するように、彼や彼女も、彼や彼女の欲求を満たすために私を利用するのは、当然であるということになります。 言いかえると、私と彼や彼女との間で利害が対立しあうのは、当然であるとはじめから予想されています。 そこから、彼や彼女をどのように説得するかという交渉術や、おたがいの利害の調節がつかない時にどのようにしたらよいかという裁判術が発達してきたと言ってよいでしょう。 ところが、日本人は、まずはじめに相手(彼や彼女ではない!)があって、それから私があるというように考えています。 私の世界と彼の世界や彼女の世界があるのではなく、はじめから、相手と私という世界があるのです。 言いかえると、相手がなくては、私もないのです。 したがって、私たち日本人としては、まず相手の欲求を満たすことなくして、自分の欲求を満たすことはできないということになります。 この相手というのは、必ずしも、単数とは限りません。 複数のこともあります。 それは、集団(みんな)と言いかえることができるでしょう。 そうすると、まず集団(みんな)があって、その集団(みんな)の中に私があるということになります。 とすると、集団(みんな)の欲求を満たすことなくして、自分の欲求を満たすことはできないということになります。 なお、一言つけ加えるならば、日本語の「自分」という言葉も、この消息を間接的に示しています。 自分の「分」は相手の分に対するみずからの分を意味しています。 自分はどこまでも、全体の中の一部分を示していると言ってよいでしょう。 それゆえ、私たちは「分をわきまえる」ことをみんなから期待されます。 私たち日本人は、おたがいの欲求をはっきりと対決させることを極力避けようとします。 現実には、自分の欲求を満たすために相手を上手に利用しているのですが、少なくとも建前の上では、そうすることはいけないことだと、どこかで考えているので、 自分中心にふるまっているという現実を認めたがりません。 ここから、タテマエとホンネ(公の立場と私の立場)を使い分けることが必要となってきます。 また、このようなことから、はっきり言わないで伝えようとする、腹芸のような、 日本人独特のコミュニケーションの方法が、生まれてきていると言ってよいでしょう。 また、意見がはっきりと表立って対立することを恐れるので、討論で物事を決めるのではなく、根回しというような仕方で物事を決めようとします。 いずれにせよ、日本人にとっては、相手とはっきり対立することは、とても恐ろしいことだと言ってよいでしょう。 相手の怒りをかうことは、同時に自分自身を失うことを意味しているからです。 言いかえると、「自分は自分であって、相手とは違うのだ」という自覚が、充分に成立していないと言ってもよいでしょう。 つづく・・・ 次回は「西洋人のエゴイズムと日本人のエゴイズム」をお送りいたします。 どうぞ、お楽しみに! ********************************** 【閉じる】 |
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