セルフ・カウンセリング 自分の心に出会えるメルマガ |
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ セルフ・カウンセリング ♪ 自分の心に出会えるメルマガ ♪ ( ”イライラ””モヤモヤ”が解消できる!) ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ 第 28 号 2008年 5月 1日 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ |
みなさん、こんにちは。 「セルフ・カウンセリング ♪自分の心に出会えるメルマガ♪」をお読みいただきありがとうございます。 みなさんは、セルフ・カウンセリングという言葉を耳にしたことがおありですか? これは、渡辺康麿氏が創案した、書いて読む、一人で出来る自己発見法です。 私たちは、このセルフ・カウンセリングを学んでいるグル-プですが、みなさんにも、ぜひ、この方法をお伝えしたいと思い、 同氏の著書を連載することにいたしました。 楽しくお読みいただけたら幸いです。 連載になっております。興味のある方は、バックナンバーからお読みいただくとわかりやすいと思います。 1〜22号 「自分の心に出会える本」より 23号〜 新連載「自己形成学の創造」より |
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人は、生まれてから今に至るまでの人生の中で、いろいろな経験をします。 そして、その経験を通して、「こうしなければならない」とか「こうあらねばならない」とかいうその人なりのモノサシを形作っていきます。 自分の生い立ちを振り返ることによって、無意識に取り込んできたそのようなモノサシに気づき、 そのとらわれから自由になっていく方法を自己形成史分析といいます。 セルフ・カウンセリングという方法は、このような、自己形成史分析という自己探求の方法が基礎になっています。 メルマガ 第23号より、セルフカウンセリング創設者である渡辺康麿氏ご自身の自己形成史を紹介していきたいと思います。 |
********************************** 古希記念論文集 「自己形成学の創造」 渡辺康麿著 より抜粋 ( vol. 6 ) ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ ほんとうの自己を求めて ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ |
6.学問的批判能力にもとづく自己評価の時代 □ 科学への疑問 私のいた高校は、私立大学の付属高校でした。 そのまま、私はその大学の経済学部に進みました。 父がそのことを強く望んだからです。 今から振り返ってみると、きっと、父は自分の事業の後を継がせるために私に経済学を学ばせたかったのだろうと思います。 経済学を学んだからといって、事業経営が上手になるわけではないのですが――。 しかし、父はそう信じ込んでいたようです。 大学へ入ってまもなく、私は一つの問いにぶつかりました。 ある先生が講義の中で、机の上のコップを取り上げて見せながら、「モノのネウチというものは、結局そのものが持っている効用によって決まります。 言い換えれば、そのモノがどれだけ、私たちの欲求を満たすことに役立つかによって、決まります」と説明しました。 その先生は、近代経済学の流れをくんでいる先生でした。 ところが、その次の時間の授業で別の先生が、「モノの本当のネウチは、効用によって決まるのではなく労働によって決まるのです。 言い換えれば、そのモノが作り出されるのに、どれだけの労働がなされたかによって決まるのです」と説明しました。 その先生は、マルクス経済学の流れをくむ先生でした。 前の先生は、モノのネウチを消費者の立場から捉えており、後の先生は、モノのネウチを生産者の立場からとらえていると言ってよいでしょう。 この二人の先生の講義を聞いていくうちに、私には、この二つの見方は、決して交わることがないように思えました。 はじめの前提が違うと、その終わりの帰結も全く違ってくるからです。 いわゆる、科学と呼ばれているものが、どの程度にリアリティーをとらえているのかという疑問が、私のうちに生まれてきました。 その問題を解決するために、私は、科学が歴史的にどのようにして成立し、どのように展開し、変化してきたかを検討してみようと思い立ちました。 そのためには、とにかく語学と数学が出来なくてはならないと思い、一年間ほど語学と数学の基礎を自習しました。 高校時代にほとんど勉強していませんでしたので――。 それからは、授業にはほとんど出ないで、毎日大学の構内にある図書館に通って、科学史の本を読みあさりました。 科学の歴史を調べていくうちに、私は、ある一つの奇妙な事実に気づきました。 その事実は、私のうちに当惑を引き起こしました。 なぜなら、それまで私がぼんやりと持っていた科学のイメージと実際の科学の歴史とが、必ずしも一致しなかったからです。 私は、科学者の探究活動を次のように理解していました。 科学者は、まず、ある現象に疑問を感じると、その疑問を解くための仮説を立てる、 次に、その仮説が本当かどうかを確かめるために、実験を試みる、そして、最後にその実験で、予想通りのことが起こった場合には、 その仮説は真理だとされる、というようにです。 そして、もし、その反対に実験で予想通りことが起こらなかった場合には、科学者は、もとの仮説を捨てて、新しい仮説を立て直さなくてはならないのだというようにです。 ところが、実際の科学の歴史においては、科学者は、実験によって自分が予想したとおりのことが起こらなかった場合でも、 自分の立てた仮説を部分的に手直しすることはあっても、決して、その仮説が依りどころとしている根本的な前提までを 捨てるということはないということに気づきました。 言い換えれば、もとの前提は変えないままで、何とか説明しているということです。 それだけではありません。 実際の科学の歴史は、こんなふうに進展します。 ある仮説が一人の科学者によって立てられます。 すると、その仮説を証明するための新しい実験方法が考え出され、その仮説が証明されるのです。 二つの異なった前提に立った仮説が、それぞれ、実験によって証明されると言い換えても良いでしょう。 新しい理論(仮説の体系)が新しい経験の仕方を可能にするのです。 新しい見方が生まれて初めて、新しい気づきが生まれるのです。 裏返して言えば、新しい見方が思いつかなければ、そもそも新しい気づきも起こらないということになります。 このことをまとめて言うと、理論は経験によって検証されることも、 反証されることもなく、かえって、理論が経験を生み出すのだということになります。 後から振り返って、古い理論と新しい理論の間に関連をつけることはできます。 しかし、古い理論と新しい理論の間に共通性は、そもそもないのだということになります。 それぞれの理論は異なった枠組で現実の異なった側面をそれぞれ切り取ろうとしているからです。 とすると、科学の歴史には、進歩するということも、退歩するということもないということになります。 つきつめて言うと、科学も結局は、芸術と同じように科学者自身の創作であるということになります。 私は、科学史を学ぶことによって、科学の中立性という神話から解放されました。 そして、私の関心は、どのようにして科学者が自分の理論を作り出すようになったかという過程に注がれるようになりました。 そして、私が発見したことは、ある科学者の科学的理論は、その科学者自身の自己形成史と深くつながっているということです。 無論、社会科学や人文科学の方が自然科学よりも科学者自身の自己形成史に依存する度合いは大きいと言えますが――。 たとえば、現代人にも今も大きな影響を与え続けているマルクスとフロイトを取り上げてみましょう。 二人とも、ユダヤ人で、ともに青年時代に、大学教授の職について、研究者として生きることを強く望みました。 しかし、二人ともユダヤ人であるがゆえに、その望みを達することができませんでした。 そのことで、彼らはともに、社会的自己評価の危機に陥ったといっても良いでしょう。 しかし、後年二人とも大学の研究者としてではなく、在野の研究者として、新しい問題を発見しました。 いや、ただ単に新しい問題を発見したというだけではなく、その問題の克服策をも示しました。 その二人の創り出した理論は、それまで私たちが気づかなかった現象の側面を、否応なく私たちの目の前に明らかにしました。 まさに新しい理論が新しい経験を可能にしたのです。 二人の理論は、人々の悩みを克服することを目指しているだけではありません。 更に一歩進めて言えば、彼らの理論は、彼らの自己評価の危機を救うものでもあったと言ってよいでしょう。 いずれにせよ、マルクスの理論もフロイトの理論も、ユダヤ人としての自己形成史のうちから創り出されてきたものだと言ってよいでしょう。 □ 全存在をかけて実践したい 結局、私が科学史の研究から得た結論は、科学というものは、科学者が生きていた社会的条件や科学者自身の 個人的条件に強く制約されているのだということです。 ということは、私たちが今日ほんとうだと信じている理論も、明日乗り越えられる可能性が常に潜んでいるということを意味しています。 また、どんな科学的な理論もつきつめていくと、科学者自身の価値観に行きついてしまうということにも気づきました。 そして、どの理論をとるかは、結局、私たちがどの価値観をとるかという私たち自身の決断の問題なのだということに気づいたのです。 こういう科学に対する見方は、今では、決して特別な見方ではなくなりましたが、当時は、斬新で、大胆な見方だったといってよいでしょう。 私のゼミナールの教授は、私の研究に関心を示し、大学院に進んで、研究者になることを勧めてくれました。 しかし、私は自分が求めているものは、やっぱり違うと感じていましたので、その誘いを断わりました。 その当時、私の心の奥には、芸術にしても学問にしても、結局は現実を眺めているだけなのではないかという思いがありました。 そして、ほんとうの真理は、自分の全存在をかけて実践していかない限り、わからないのではないかという思いを強く持つようになっていました。 |
つづく ・・・ |
次回は、ほんとうの自己を求めて より 7 政治的指導力に基づく自己評価の時代をお送りいたします。 |
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