千原 信彦 地域特産物マイスター審査委員
元日本農業新聞 論説委員
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無報酬で国産生薬振興に体当たり
薬用作物 福田眞三さん(奈良県桜井市)
「病気にならない体を作るには生薬が一番」という福田眞三さん(78)。奈良県桜井市で古くからの生薬問屋を営む。自宅の屋根の修築時に宝暦年間(1751−63)という文字が見つかったというほど古くからの薬種商だ。「本家の方はまだ古い。徳川時代以前の創業と聞いている。生産地の問屋が家業だが、栽培指導に忙しく問屋稼業の時間がない」ともらすほど、たくさんの産地育成を手がけてきた。
奈良県はもともと生薬の大産地だった。種類にして40種以上はあったと福田さんは推定する。麦作が主体の畑作が多く、戦前は見渡すかぎりの薬草だった。
ことに吉野地方は一大産地。コンニャク作りが主だった同地方では、1日かけてコンニャクを吉野材の集散地である五条市まで運び、米を買って帰るという生活だったが、薬草に代わってからずいぶん生活が楽になったといわれる。
若いころの福田さんは、代々伝わる豊富な薬草の知識を生かして京都大の専修科に難なく入学、このあと京都薬科大の助手を務める。家業は他人任せで学者の道が開けていた。
ミシマサイコ産地指導に市町村行脚
転機となったのが25,6年前に発足した特産農作物生薬部会の活動。昭和大、九州大、北大、それに東京、大阪の生薬問屋、ツムラ、カネボウなどが入って国産生薬振興の活動が展開された。このとき生産面を担当したのが福田さん。
何をやるか、議論したとき、地方からはたくさんの要望が寄せられた。その中から選んだのがミシマサイコ。「九州全域をミシマで埋めよう」が合言葉だったという。 当時、熊本県では特産課が設置されていたが、6年たっていたのに成果が上がらなかった。
そこへ招かれた福田さんは全市町村を巡回、ミシマサイコの栽培を説いて回った。福田さんは「日本一のミシマサイコ産地に。そのためには良いものを作る」をモットーに「ものは人が作る。その人を作るのは県の役目」と主張、実践した。それも一気に大産地に持っていくのではなく、体験しながら増殖していくやり方で徐々に拡大していくやり方。「当時は生産者も偉かった。これを作ったらいくらになる、と聞く人はいなかったもの」と振り返る。2〜3年で素晴らしいミシマサイコができた。普通7〜8aのものが40aもの大きさになったという。
こうして福田さんの指導人生ともいえる産地行脚が始まった。鹿児島、宮崎、さらには岐阜、北陸の富山、新潟県佐渡地方、また、地元の桜井市ではボタンで有名な長谷寺の奥の基盤整備後地にサイコ、トウキ、シャクヤクの産地を作った。ここは9月総会の会場として、今も毎年会場になっている。
「1つの特産地を作り出していく努力は、並じゃできない。足代=旅費はもらったが、後は手弁当で産地指導をやったのは私くらいのもの」。手が離れた以後、生産は落ち込んだ様子もある。「産地指導というのは自分が燃えないと産地は動かないものだ」福田さんが今までに学んだ実践哲学でもある。
産地を作っても、福田さんの手元には荷が来ない。集荷・販売は国産生薬(株)の白井義教社長(地域特産物マイスター)の役目と当時からきっちり分担し、それを固く守っているからだ。「でもありがたいことに、従来の産地か らの荷は毎年必ず届く。うちは10貫目のものは200〜300匁多く入れることを貫いている。相手に迷惑をかけちゃいけない。これが信条で、お陰で注文も先方から来る。営業に行ったことがない」。
良い品−−国産品増産へ情熱そそぐ
漢方薬、民間薬として売れっ子の薬草だが、「心配なのはエキスメーカーが増えたこと。それに韓国、中国からの輸入だ。国産生薬良品だけに高い。薬価基準がそうさせたので、2通りの基準を作って欲しいと要請しているが、なかなか実現しない」といらだちを見せる福田さん。
「私は良い国産品をなくしたくない。幸い、日本東洋医学会が協力姿勢を見せてくれているので安心。重点保存品目としてゴシュユ、シャクヤク、ボタンなど21種類を指定し、残す運動を展開してくれている」と笑顔を見せる。「どこでできたものでも日本国民に効くとは限らないのが生薬。自分の住む周囲にある薬草が自分を治してくれるミネラルも十分役割を果たしてくれる。そのミネラルはの土地の土が持つ成分だ」と福田さんは年齢を忘れてまだまだ産地育成に駆け回るつもりだ。
<写真:集荷されたトウキの乾燥根を手にする福田さん>
ミズナ、九条葱の産地づくりに駆け回る
京野菜 今林長夫さん(京都府八木町)
賀茂なす、堀川ごぼう、九条葱、聖護院だいこん、伏見とうがらし……数ある京野菜の中で、京都府船井郡八木町はミズナと九条葱の産地だ。その振興に体当たりしたのがJA京都八木支店生産課長の今林長夫さん(53)。現在8.5fの雨よけハウスでミズナ、ネギが栽培されているが、「他産地がたくさんでき競争が激しくなった。今後を考えると今が正念場」と危機感を募らせながら、おいしい京都産野菜の売り込みに熱を入れている。
今林さんと京野菜の出会いは平成3年のこと。当時、八木町農協の中川泰宏組合長(現JA京都府中央会長)が、その3年前に結成された京都ブランド産品協議会(市町村、JAで組織)の活動に熱心で、地元でも産地化しようと、今林さんに産地化の指導が命じられた。
不安の中、生産者説得に日参
ミズナは冬場の漬物用は栽培経験があったが、夏にも出荷する周年栽培となると全くの未経験で不安の中でのスタートだった。幸い、近くの和知町でハウス栽培が始まっており、それを見学しながらの試行錯誤が続いた。「JAも軟弱ものは扱ったことはないし、作る生産者はもっと不安だったと思う。最初は誰も私のいうことは聞いてくれなかった」。そんな中、最初に取り組んでくれたのが同い年の松崎忠嗣さん=京都府指導農業士。中川組合長とも同年だが、町や普及センターの職員と毎日、松崎さん方に通ったと当時を振り返る。
「杉丸太の産地だった八木町だが、国産材の不振で名産の丸太が売れず、米も振るわず、加えて高齢化が進んでいた状態で、何か良いものはないか、と考えていた矢先に今林さんらに勧められた」と松崎さんもいう。
もともと年中食べる野菜じゃなく、漬け物や鍋物に使うくらいだったから、作り始めたころは、まず生産者自らが食べる工夫をしようと、普及センターの協力を得ながら女性部の料理講習会では食べ方の研究をし、JAの催しや展示会で試食販売など販売には苦労が続いた。作りながら、売りながらの工夫が続いた。
ところが見よう見まねで取り組んだミズナが、都会の若者にサラダ用に受け、需要がどんどん伸びた。女性や高齢者にもできる軽作業が多いことも、ミズナ栽培に好都合だった。順調に栽培者も増え、現在は65人がJAのリースハウスを導入して、8.5fの雨よけ栽培に従事している。このリースハウスも産地化には大いに貢献した。1棟500万円はするハウスだが、リース事業により農家が初期投資にあまり負担に思わないで取り組めたからだ。
九条葱は、ミズナの連作で土が弱ったころに、1〜2作入れる輪作が定着している。というのは、ミズナ自体は強い野菜だが、雨が当たると軟腐病が出がちで、夏場は作りにくい。生産者も休養を取りたいと思った時に、九条葱を間に挟むのが効果的。年間5〜6作のミズナがこのネギを挟むことで、土も生産者も一息つけるのだと今林さん。
次の作物選定に準備始まる
「栽培が始まって14年たつが、これからが正念場」……松崎さんとも一致した意見だ。ミズナの消費は伸びているとはいえ、関東中心に大産地が続々できてきており、競合産地の相次ぐ出現に販売環境は厳しさを増すばかり。これからが注目される産地育成だが、「JA京都の生産計画では、今の面積を倍増したいと考えている。京野菜にはいろんな品目があり、ヤマイモや紫頭巾(黒豆の枝豆)、伏見とうがらしなど有望。中でも紫頭巾は丹波黒より7〜10日早い枝豆で評判はいい」と今林さん。「京都は1200年の歴史がある。この中で京野菜は良いものだけを選抜して生き残ってきた。あとは生産者の意欲と販売努力」と言い切る今林さんだ。今後も栽培指導、販売促進に走り回るつもりでいる。
<写真:収穫中のミズナを前に話し合う松崎さん(右)と小林さん>
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