南の風・末尾記事(ぶんじん日誌)
1500号(7月21日)
■<1500号を迎えて>
南の風創刊は1998年2月。それから7年半をかけて1500回の風。平均すると1.8日に1号の頻度になります。少々吹き過ぎですね。
「風」はやはり動くイメージ、ある程度の速報性への期待に応えようとした結果でしょうか。この間、海を越えての旅もパソコンを持参する習性となり、先月のドイツなどは例外として、ホテルの夜も「風」編集のキーを打ってきました。これから少しのんびりといくことにしましょう。
普段あまり寄稿のない方を含めて、風・継続のメールが沢山とどいています。有り難うございました。上記のほか、載せきれないもの、いろいろ。一部を、いくつかご紹介します。
鳥塚義和さん(千葉県高校教員、Tue, 19 Jul 2005 21:37)。「近況報告。私の人事委員会でのたたかいは、口頭公開審理へと向かいます。現在その準備手続きを行なっています。校長、教頭を証人喚問することが決まりました。」
上地武昭さん(沖縄大学、Tue, 19 Jul 2005 22:54)。「台湾ではいろいろお世話になりました。レポート(泰山社区概要)は時間がかかりそうです。もう一度現地に行く必要があるのかも・・・。」
鄭任智さん(早稲田大学・院、Wed, 20 Jul 2005 13:31)。「台北・洪徳仁先生からの原稿が届きました。中国文のWordファイルで計31ページでした。タイトルは『臺灣的社区総体営造 2001〜2005年』。これから翻訳の作業に入りますが、分量もかなりありますので、28日までに完成したいと思います。私は29日の帰国をと予定しています。」
暑い夏の翻訳作業、ご苦労さま。どうぞよろしくお願いします。
新しいアドレス帳は整理でき次第、ご希望の方にお送りしたいと思っていますが、もしアドレスを伏せたいというご意向の方は、ご一報を。
1499号(7月19日)
■<ブッヘンバルト強制収容所跡へ>
ドイツから帰って早や3週間あまり。旅の印象や記憶も次第にうすれてきましたが、それだけに書き残しておきたいことはいろいろ。旅はたしかに疲れますが、心にはずむものが残り、余韻少なからず、旅の効用というものでしょうか。
今回は、連れの体調も考えて、やや慎重なスケジュール(珍しいことです)。駅前のタクシーで動くとしても、帰路の便があるか、どこで休むか、食事・トイレをどうするかなど。少しでも土地勘があるところを選ぶ結果になりました。
2000年夏、和光大学の在外研究の経費をもらってドイツに2カ月ほど滞在していたことがあります。この年はちょうど末本誠さん(神戸大学)もフランスに在外研究中。というわけで、ドイツとフランスを横断する旅の計画が浮上して、8月後半の約10日(うちドイツ滞在4日)、農中茂徳、上野景三(家族)、内田純一、萩原敬子ほかの皆さんが渡欧してきました。フランス日程には当時イギリスにいた岩本陽児さんも合流し、総勢10名あまりの、思えば面白い一行でした。
このときの案内経験が残っていて、今回もベルリンやヴァイマールなど同じところをいくつか動くことになりました。先号に書いたグリュネヴァルトもその一つ。あのホームに佇んで、2000年の一行のことを懐かしく想い出しておりました。
ヴァイマールはゲーテの家や国民劇場など観光スポットで有名ですが、駅に降りて、その反対側・北方にはブッヘンバルト強制収容所跡(記念館)があります。車で30分あまり。5年前にはみんなと一緒にバスで行ったところです。5年ぶりのヴァイマール、なんとかその慰霊碑の前に立ちたい思いで、今回はタクシーで往復。収容所跡は広大で、中に入って歩くことはできませんでしたが。
ノートの切れはしから、メモがわりの歌二つ。
<歌のコーナー> −ヴァイマール・ブッヘンバルトへ、6月21日−
◇ゲーテ・シラー並びし像にほど近くガス室備う収容所あり
◇囚われの人ら倒れしその道をタクシー飛ばす60年後の夏
1498号(7月17日)
■<神田の古書店めぐり>
11日夜の公民館学会理事会、終わっていつもの神田・三省堂(放心亭)への道すがら、横を歩いていた伊藤長和さんが、『公民館史資料集成』(横山・小林編)がある古書店の棚に並んでいましたよ、と言うのです。しかしどの店かがいま一つはっきりしない。おおよその場所を聞いて、翌日探しに出かけました。かなり時間をかけて店から店へ歩きましたが、犬も歩けば棒にあたるというわけにいかず、疲れて断念。一人で、やけビールを飲んで帰りました。
古本屋を歩くというのは久しぶり。昔は時間があれば神田や大塚などをよく歩いたものでした。とくに日本育英会時代は、面白くない職場を抜け出して、当時の同僚だった麻生誠さんと古本屋めぐり。疲れて横丁のカレー屋で一休み、古本談義をしたり、馬鹿話に興じたり。しかし最近は、蔵書をふやしたくない気持もあり、必要であればインターネットで安直に本を見つけだす方法もあり、古書店など忘れていました。
古本屋をまわれば、やはり買いたくなるものが目につきます。以前より安い値がついている、掘り出し物がある、しかし、じっと辛抱して買わない、というのはかなり努力を要することです。
いま自分がつくった本で、どうしても入手できないものが2冊だけあります。もちろん絶版、アマゾンや「日本の古本屋」で探しても「入手不可」。一つは上記の『公民館史資料集成』、あと一つは『民衆と社会教育−戦後沖縄社会教育史研究』(小林・平良編)、今や幻の本となりました。直接の問い合わせなどあり、そういうときに「ありますよ!」と応えて、手渡したい夢あり。
前にも書いたような記憶がありますが、名護市教育委員会の比嘉久さんから、上野英信著『眉屋私記』をいただいたことがあります。その厚意はいつまでも忘れられない。聞けば、自分の故郷(名護市屋部)が舞台になっている名著を古本屋で見つけては買い入れ、それを求める人あれば手渡す、そんな1冊だったのです。少しでも彼にあやかりたいと思いつつ、なかなかうまくいかないもの。
1497号(7月16日)
■<もうすぐ1500号>
あと3号で1500号、自分でも驚いています。2年半前まで発刊していた旧「公民館の風」395号を加えると、この7年あまりの間に、累計1900号の「風」を吹いてきたことになります。なかにはご迷惑の風もあったでしょうに、お付き合いいただき有り難うございます。
「南の風」がちょうど100号になったとき(1998年10月)、思い新たに“ご挨拶”し、またお祝いの言葉を頂いたことなど思い出して懐かしく、古いフロッピーを読み返してみました。案外と今と同じようなことを考えていたのだな、という感想。しかし当時はこんなに続くとは思わず、「あとすこし、吹いてみたい・・・」などと書いています。
あの頃に比べると、メンバーは大きく変化(拡大)しました。臨時送信は別にして、現在99名の方に配信中。当時はメールアドレスをもっている人の方が少なく、10名からようやく20名前後。当然「風」の誌面も変化してきました。しかし、初心は変わらないつもり。
いま当初の常連メンバーからはほとんど寄稿なく、どちらかと言えば(TOAFAEC
事務局関係を除き)新しく参加された方々から寄せられるメールの方が多い。拡がったことの喜びと、少しさびしい思いもあり。また当時ほぼ毎号に載せていた「戯れ歌コーナー」は、その後はあまりお目にかける機会がありませんね。
「南の風」はまた「あとすこし、吹き続けてみたい」と思っています。1500号を期に恒例のアドレス帳整理をいたします。“風は双方向に吹き合いたい”趣旨をご理解いただき、この間まったくレスポンスのない方(たとえばこの100号送信の間、返信をいただけなかった方など)へのお願い、風を継続するかどうかについて、ご意向をお示しくだされば幸いです。1501号から新しいアドレス帳での、おそらく「風」最終コーナーに向けての、送信にさせていただきます。
付記:今年4月のある夜、思い立ってHP(TOAFAEC)「掲示板」を設けました。しかし渡部メールご指摘のように、あまり利用なし。「風」が掲示板の役割を果たしているのでしょうか。風メンバー以外への「掲示」としてもご活用いただければ有り難い。
1496号(7月14日)
■<楊碧雲さん歓迎会>
ご案内を差し上げたように(風1491号)、13日夜は台北・楊碧雲さん歓迎会でした。わずか1週間前の呼びかけ、ご参加の皆さんはそれぞれに無理をされたのではないかと恐縮しています。今、帰宅したところ。
台湾の社会教育関係者との交流は、これまでほとんどない?といってもよいような細いもの。それだけに私たちの「東アジア」研究会そして研究年報の編集では、台湾のテーマが欠落しないように、と努力してきました。5月訪台の試みも、こちらから押しかけるようなかたちで、台湾の(あるいは両岸の)新しい“躍動的”な動きに触れ、そして年報第10号編集にも活かそう、という思いからでした。
約1週間にわたる私たちの日程について、楊さんは細心の受け入れをしていただきました。同行メンバーは沖縄や高知、今晩東京に集合していただくのは無理なので、在京のTOAFAEC
を主体とする今回の歓迎会となった次第です。沖縄の鷲尾さんからは会費を上回るカンパを寄せていただき、有り難うございました。鷲尾さんのお気持は楊さんにお伝えしておきました。
伊藤長和さん(川崎)、新保敦子さん(早稲田大学)、谷和明さん(東京外国語大学)なども参加いただき、また成田に着いたばかりの張林新さん(烟台)も加わって、楽しい会となりました。楊さんはこれから約2ヶ月、名古屋大学を拠点に日台交流の活動をされます。8月には台北・社区大学関係者20名近くの「日本社会教育調査団」が来日し、楊さんを中心に中部・関西各地をまわるとのこと。東京・関東であれば、案内など少しはお役に立つでしょうが、名古屋・関西の皆さんにお願いするほかありません。8月末の福岡・全国集会のこともお誘いしておきましたが、成都(四川省)行きと重なるそうです。いちど全国集会に参加いただき、台湾との新しい交流を期待したいもの。
谷さんの恢復を祝い、楊さんの実り多い滞在を祈って乾杯!
1495号(7月12日)
■<公民館についての対話>
11日夜は日本公民館学会理事会。終わって、いつものように有志5人ほどで三省堂地下「放心亭」へ。ヴァイツェンビアを飲みながら、とりとめないのない語らい。前日に引き続き二日通ったことになります。
浅野平八さん(日本大学・建築学、学会副会長)とは、沖縄で出会って25年ほどになりましょうか。ともに沖縄の字公民館調査を手がけていたころ。那覇・久茂地あたりの飲み屋で声をかけあったのがきっかけ。その後あまり会う機会もなかったのですが、学会ができて理事会で毎月?会うようになりました。理事会が終わればいつもビールを飲みあう常連。これも学会の効用というべきでしょう。
お酒については好敵手・・・と言いたいところですが、浅野さんは酔って乱れず、いつも冷静。当方はわずかのビールで饒舌・乱雑になって落ち着かず。こちらの負けですが、遠慮のない話を交わしあう仲間とはなりました。
昨晩も、少々酔いながら、こんな話をしました。
「日本公民館制度もすでに60年の歳月、この蓄積をどうみるか。大局的にみて果たして成功したと言えるのだろうか。」(ぶ)
「 … ?」(浅野)
「ヨーロッパの社会文化センターや沖縄の字公民館などの住民管理・市民主導の活発な動きと対比して、住民から遊離した“公設公営”がもたらしたものを直視する必要がある。結果的に硬直した運営や活動の形式化ではないか。市民の参加を求めながら、基本的に市民のものにはなりきれない。この半世紀の歩みから見れば、公民館は必ずしも成功したとは言えない!」(ぶ−かなり酔っている)
「 … ?」(浅野)
「行政の体質と施策が後退すれば、公民館は停滞するという。そういう状況だけではなく、市民が元気であることによって、公民館が活性化していくという関係構図を創り出しえていない。公民館は行政的公共機関として固定し、市民的公共性とは別の空間に定着しているというのが現実だ!」(ぶ)
そろそろ論理も乱雑になってきたところで、浅野さん、静かな口調で、
「しかし、建築の世界からみれば、いろんな公共建築のなかで、公民館は“市民”的なものが大事な要素に位置づいている空間です」と。
「なるほど」(ぶ)。
このあと「公民館施設計画」「コミュニテイ施設工房」などに関わる研究所のようなものを創ろう、株式会社ではなくNPOで・・・そんな重要な話をしたような、かすかな記憶。しかし忘れてしまっている。
1494号(7月11日)
■<梅雨の合い間に>
毎夜の楽しい集い。8日夜は韓国・金泉の金永植さん創作展(外苑前「オリエ」)のオープニングパーティ。金さんは東京学芸大学・院修了後、現在は金泉大学助教授、いい作品を創り続けています。0がひとつ多いぐらいの価格がついていました。彼の教授であった広井力さん(彫刻家、凧の大家)と久しぶりに会いました。(HPに写真)
TOAFAEC 結成前後の韓国への旅(日韓文化交流基金助成による)、ソウルからプサンに南下する途中、大邱あたりで会ったり、そういえば姿を消した金平淑君を探しに昌原を訪ねたとき車を出して送り届けてくれたり、そんな昔話をしました。元気で何より。13日の台湾・楊碧雲さん歓迎会に誘いましたが、その前日に韓国へ帰るそうです。
9日午後は、川崎・高津区市民館(区民祭プレ企画)「スーホの白い馬・草原に愛の風コンサート」へ。約400人の大ホールはほぼ満席でした。塞音吉雅さんなどモンゴル留学生による久しぶりの本格的な馬頭琴演奏。終了後に“ご苦労さん”の会。フフ・モンゴル・オドム(モンゴルの子どもたち支援の運動)が動き始めてすでに4年あまり。伊藤長和・館長の総合企画によって、市民各位による実行委員会が取り組み、モンゴルの若者たちも元気に動き、コンサートは大成功、美味しいビールでした。いろいろ課題をかかえていても、悲観しないで、あらためて「楽天」(私の旧制中学の校訓)の姿勢を大事にしたい、と思いました。皆さん、お疲れさま。
10日午後、毎年恒例の七夕の会。例年のように永福ではなく、今年は江戸川・田中美奈子さん美邸が会場となりました。聞きしにまさる美しい庭、それを背景に写真1葉をHPへ。当日の模様についてはどなたかレポートをお願いします。
帰りの電車が一緒だった石倉、遠藤、徳江と一緒に神保町で下車。ヴァイツェン・ビアーを飲みに寄りましたが、これは余計でした。すこしふらふらしながら帰宅。
1493号(7月9日)
■<都市に刻まれた現代史>
富美さんは歩くのに不自由はありませんが、長い時間は無理、少し歩いてはしばし休む、階段は厳しいので昇降機をさがす、そんな工夫が必要でした。ハンブルク・アルトナーレを前夜祭だけで失礼したのも、祭の雑踏は歩けないし、パレード見学も無理だという判断からでした。
ベルリン・ツオの駅、10年前に初めて着いたときは重い荷物で苦労したものです。いまはエスカレーターが整備されていることを確認して、DB(ドイツ鉄道)の列車へ。乗ればこちらのもの。ユーレイル・パスを活用して目的地まで行き、タクシーを頼んで動きまわる、という計画。
ベルリンを起点によく動きました。まずポツダムへ。駅から1945年の会談が行われた旧宮殿(いまホテル、5年前に谷さんと泊まった)までタクシー。駅への帰路はバス。このレストランで食べたシュパーゲル(白アスパラガス)がなんとも美味でした。
次の日はドレスデン、その翌日はニュールンベルク、そしてハノーファー、ワイマールへ。この季節、レストランではまずシュパーゲルを注文し、ヴァイツェン・ビアーで一杯、という幸せな毎日。遠出の合間をぬってベルリンを(100番バスで)歩く、という日程でした。
ヨーロッパの都市は、街を歩くと(古い歴史だけでなく)現代史に出会う実感があります。とくにベルリンはそうです。ホテルのすぐ近く、ベルリン芸術大学前の小公園の一角に「1933−1945・犠牲者」慰霊碑、その横に「スターリニズム犠牲者」碑、新しい花が捧げられていました。散歩のひととき、粛然とさせられました。
ポツダムへのSバーンの途中に「グリュネヴァルト」という駅があります。美しい「緑の森」の小さな駅、その17番ホームは、戦時中にアウシュビッツなど強制収容所にユダヤ人を「積み出し」たところ。ホームの鉄板にその歴史が刻まれています。誰もいないホーム跡に二人でしばし佇みました。(HPに写真)
1492号(7月7日)
■<海を越える研究の潮流>
ドイツの旅報告はひと休み。
いま机の上には、この間届いたいろいろの報告や案内、通信や会報などが山積みになっています。10日間も留守をするとたいへん! 新聞やメールだけでなく、郵便物がたまって、整理が追いつかず、お礼を差し上げる余裕もないまま、失礼を重ねている始末。お許しください。本欄でそのうちの幾つかをご紹介して、送っていただいた各位への御礼にかえさせていただきます。
川崎市役所の野和田将太さん(政策課題特別研究チーム)から、『分権型社会における都市型コミュニテイ施策の構築に向けて』(平成16年度報告書、市総合企画局政策部)を送っていただきました。キーワードはソ−シャル・ガバナンス、社会資本、近隣自治、区民会議など。イギリス・フランス・ドイツの調査報告です。ドイツについては、ハンブルク市とアルトナ区、モッテやアルトナーレについてのレポート。報告書のまとめの部分には、区民会議の導入に向けた(川崎への)提言。自治体としてこれほどの専門的な調査報告を作成する時代になったのかと感嘆しました。*伊藤長和さん、この風を野和田さんに転送して下さい。
金子満さん(文部科学省調査企画課)からは『2004諸外国の教育の動き』(教育調査第133号)。アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、中国、韓国、その他(欧州、インドネシヤなど)、についての新しい教育動向(生涯学習を含む)がまとめられています。中国の執筆者は日暮トモ子さん、韓国はもちろん金子さん。執筆者のうちお二人が南の風メンバー(であった)ということになります。
中国・福建農林大学より新しい『終身教育』(2003年創刊)の最近号(2005年3月号)が届きました。黄富順さん(台湾・中正大学)の論稿を掲載し、今年9月には「両岸」成人教育・生涯教育学術シンポジウムが開催されるニュースも。呉遵民さん(上海・華東師範大学)は、日本社会教育学会を紹介し、「戦後日本社会教育の改革理念と法制」について寄稿されています。
海を越えて、グローバルな研究の潮流が(大学以外でも)大きく動いていることをしみじみ実感させられます。
1491号(7月6日)
■<ホロコースト記念碑 in ベルリン>
今年は、第二次世界大戦でベルリンが廃墟となって60年。ブランデンブルク門の東側広場には、門と平行して「ベルリン陥落」大パノラマ写真が展示されていて、驚きました。いまTOAFAEC
ホームページの表紙写真に掲げています。ぜひご覧ください。
ご承知のようにブランデンブルク門はかって東西を分かつ「ベルリンの壁」が走っていたところ。門のすぐ北側にはいま統一ドイツ連邦議会議事堂(最上階に高級レストランあり)が威容を誇っていますが、すぐ南側、歩いて5分ぐらいのところに、この5月「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」が新しくオープンしています。これにも驚きました。首都ベルリンの象徴的な中心部にかっての「ホロコースト」を忘れない広大な石碑空間が出現したのです。
すべて横約1m、縦2.5m、高さはいろいろ、灰色のコンクリート石碑が全部で2711基、約2万へーべの空間に並んでいる。ただそれだけ。私にはすべて犠牲になったユダヤ人の棺のように見えました。さまざまの虐殺の形を示すかのように、石碑の高さや傾斜角度が微妙に異なっている。文字ではとても表現できない、しばし立ちつくしました。HP「2005ドイツ訪問記録」に写真2葉をアップしています。
ジャーナリスのトレア・ロッシュによる「見過ごされることなき警告の記念碑」提唱(1989年)から始まり、1995年のコンペ、連邦議会による建設決定(1999年)、2003年建設開始、そして2005年5月12日に一般公開、という経過だったようです。
南東の一角には、地下に「記念館」がかくされていて、昼間は観光客や生徒たちの長い行列(350
人限りの入場制限)、出直して午後6時過ぎにやっと入れました。15人のユダヤ人家族の運命をテーマにした展示あり、充分に読めないけれど、興味深い空間。沖縄・摩文仁の沖縄県立平和祈念資料館のかっての戦争証言を読む部屋と共通するイメージを感じました。
首都・東京の靖国神社、首相の参拝問題が問われている日本の「戦後60年」と対比して、ホロコースト記念碑をつくった歴史認識の違いを、しばし白夜のベルリンで考えさせられたひとときでした。
1490号(7月4日)
■<ベルリンの六月>
毎号のこの日誌欄、いろいろ書きたいことがあって、訪独レポートになかなかたどりつけません。忘れないうちに少し書き留めておくことにします。
かねてよりドイツへの関心あり、10年前にようやく訪独。谷和明さんの道案内に恵まれて「社会文化運動」に出会ったのが5年前。「東アジア」を対象化してみていく上で、あるいは日本公民館制度の比較研究としても、フレッシュな視点を発見できた思いがあります。
社会文化学会にはドイツ交流委員会の活動があります。毎年のアルトナーレ(ハンブルク・アルトナ市民祭、毎年6月、今年7回目)訪問が重ねられてきました。今年は社会文化学会に伍して日本公民館学会も名を出し、日独市民シンポジウムの企画などが進められていましたが、谷さんの急病のため、組織的な取り組みとしては中断。それでも6,7名の参加あり。
今回の私たち夫婦の訪独は、アルトナーレ日程に合わせたものの、実は当初から遊びの計画をもっていました。谷さんに申しわけない。それに至る経過については前にも書きましたので、ここでは省略。同行の妻はドイツ訪問は初めてみたいなもの。ベルリンを中心に動きたい希望あり、ホテルもハンブルクでなく、ベルリン・ツオの駅近くに予約したのでした。
ドイツの六月は、実にいい季節です。初夏の風そよぎ、陽光さんさんとして、夜10時になってもまだ街は明るい。しかしいまベルリンは新しい中央駅建設をはじめとして各所で改造中。ウンター・デン・リンデンの通りも、フンボルト大学正門前の広場もまったく工事中で雰囲気なし。あの白い空洞のナチス焚書の穴の上にも何か別のテントが設営されていて違った風景でした。夜の空洞の光に接したくて、わざわざ暗くなって(100番バスに乗って)出かけたのに、まったく失望しました。
1489号(7月2日)
■<第10号の編集会議>
お気づきでしょうか、一昨日の1488号(風・前号)は、うっかり「1487号」と誤記して配信してしまいました。時差ぼけはもうとれているのに、やはり疲れは残っているのかも。本人は元気なつもりなのに、こんなかたちでミスが出るのですね。ご訂正をお願いします。
「南の風」はいま隔日発行のリズムに復調しました。あと10号あまりで、なんと1500号。そろそろ休刊・終刊の頃か・・・、ときどきそんな夢もみるのですが、TOAFAEC
の活動も拡がっているし、皆さんにご紹介したいメールが届いたりすると、また臆面もなく「風」誌面づくりに励むことになります。
1500号で、久しぶりに(百号おきの)アドレス帳整理を、と思っています。ご迷惑になっている「風」もありましょう。ゴミにお棄ていただくと同時に、“送信無用”のご連絡をいただくと助かります。
ところで上記・石倉メールのように、30日夜は『東アジア社会教育研究』第10号の編集会議(於・風の部屋)でした。集まったもの4名。よく飲み語り、議論も活発でした。7月31日原稿締切(厳守)を確認。皆さんのご協力を得て、いい記念号に仕上げたいもの。関係各位、どうぞよろしくお願いします。
この夜、胡興智さん(日中学院)は6月10日刊行したばかりの『中国語で短編小説を読もう!天下無賊−CD付き』(語研)を披露。編集会議を終えたあとの食事会(於・メープル)では、まずこの新本に乾杯。マスター夫妻も交えて、少々、ビール飲み過ぎの夜。
1488号(6月30日)
■<研究会の記録・10年の集積>
24日研究会報告についての赤崎隆三郎さんのメール。「学習会ではいろいろお世話になりました。ありがとうございます。早速ですが、紹介された内容に一部訂正箇所があります。小生の説明不足と反省しています。修正が可能でしたらお願いしたいと思います」とのこと。
これに応えて、記録者の石倉祐志さんより「赤崎隆三郎さま;いくつかの訂正、ご指摘ありがとうございました。正確を期したつもりでしたが、熱気に酔ったせいか間違いました。申し訳ありません」と修正文が届きました。修正点は上記の5箇所、全文を再録するのは省略させていただきました。
前事務局長の内田純一さん時代より、毎月の定例研究会記録は「通信」「南の風」に収録されてきました。石倉祐志・現事務局長に継承されて、すでに10年の集積。字数の関係もあり、この種の記録は必ずしも完璧ではありえませんが、赤崎さんには熱心にお話しいただいた上に、詳細な訂正記事までいただき、まことに有り難うございました。また石倉さんにも感謝。
先日来の訪独レポートをいくつか書きたいと思っているのですが、本号も長くなりましたので、この辺で。
1487号(6月28日)
■<ハンブルク・アルトナーレの印象>
ドイツから帰ってきて、アルトナーレ(市民祭)参加の皆さんへ出したお礼のメール(6月27日夜)。小さな印象に過ぎませんが、ご参考までに。肩書きのみカッコで追記しました。
「皆さま;私たち二人も先週、無事に帰国しました。今回ドイツへ出かけるかどうかについて、谷和明さん(東京外国語大学)などにご心配をおかけしましたが、なんとか彼女も頑張って、思いのほか快調・快適に旅することが出来ました。アルトナーレは、結局、16日の前夜祭のみの参加でした。久しぶりにヴェント氏(モッテ館長)にお会いしましたし、また森井久美子さん(社会文化学会)と再会し、畔柳千尋さん(ハンブルク音楽芸術大学、院生)にもお会いでき、お世話になり、有り難うございました。
楽しみしていたトールマン氏(2000年秋、彼の向島訪問のあと一緒に沖縄に旅して、水納島で泳いだり・・・)とは会えず、まことに残念!
17日は参加する余力なく、山本俊哉先生(明治大学理工学部建築学科)にも失礼してしまいした。
前夜祭だけの印象ですが、2001年アルトナーレとは少し違うところがありました。当夜ビールを飲みながら、畔柳さんにその感想を話した経過もありますので、ひとこと。2001年の際は、モッテの若者たちや外国籍の人々など多彩な参加があり、演し物もあり賑やかで(その意味で)活気があったようでした。今回はもちろん(ラットハウス中庭ぎっしりの)多数の参加、同じようにビールも美味しかったけれど、紳士淑女?が初夏の夕べにあい集うパーテイの感じ、市民祭の性格が少し変わったのかな、と思ったのでした。Altonale
のパンフをみても、芸術・文化プログラムの傾向が強くなっているような。もちろん肝心の街頭の祭りに参加していませんから、単なる印象にすぎませんが・・・。
その後、山本先生の17日ミニシンポについてのヴェント報告(アルトナーレは過去最大級の規模になったこと、今回初めて黒字に、党派を超えてのアルトナーレ評価、など)を拝読して、たいへん参考になりました。畔柳さんのベルリン(旧・東)社会文化施設レポートも興味深く、有り難うございました。7月、日本に帰られたら、またどこかでお会いしたいもの。日本公民館学会に興味をおもちとのお話もよく憶えています。気ままな参加でしたが、皆様に御礼申しあげます。」
1486号(6月26日)
■<時差ぼけのなかで>
6月24日夜の研究会には、初めて参加の方も多く、楽しいひとときでした。なんと鹿嶋から森下松寿さんがご参加。ドイツの緑野で採れたシュパーゲル(白アスパラ)料理、永福メープル(かえで)のマスターのおかげでまずまず成功。皆さん、ご苦労さまでした。
ゲスト・赤崎さんは東京を乗り継いで無事に帰り着いたかな、と心配していたら、深夜のお礼メールが届き安心しました。ところが、某氏からは「昨晩は3人(略)で飲んで夜明かししました。まもなく朝の8時、やっと帰宅しました」とのこと。驚きました。若い!
まだ時差ぼけで睡眠リズムは安定していませんが、ようやく日常にもどりつつあります。しかし、延ばしてきたいくつもの仕事がそれぞれに最終段階を迎えつつあり、あらためて仕事の割り振りを真剣に考えなければならず、いささかの緊張感、現実にもどると楽しくありません。
韓国本、上海本、「東アジア」第10号、学会「ハンドブック」などなど。留守中に関連してメールをいただいていますが、当方もまったく進捗していません。ご安心?を・・・いや、お互いに頑張りましょう。
今日は日曜日、手帳を見たら「安井家資料整理作業」の予定。正直言って少々つらい。のんびりゴロゴロしながら、体を休めたいところですが、事務局長の竹峰誠一郎君が訪米中でもあるし、いまから出かけることにします。
訪独中の写真いくつか、そして24日研究会の記録を数葉、HPに載せまました。ご覧下さい。
石倉さんへ。研究会の記録を待っています。「東アジア」第10号の編集会議は、ご提案の6月30日(木)夜で小生も、風の部屋も、大丈夫です。関係の皆さんにも呼びかけて下さい。
1485号(6月24日)
■<無事帰国>
さきほど(24日昼)予定通りドイツより無事帰国しました。ご心配かけた同行の妻・富美も10日間を頑張って、元気に日本にたどりつきました。皆さまのご声援によるものと深く感謝しています。(本人弁)
ベルリン・ツオ(Z00) の駅近くに投宿したホテルは、どこに出かけるにも至便のところ。しかしホテルの部屋からのメール送受信がうまくいきませんでした。すこしフロントなどへも動いてみたのですが、結果的には成果なし。というわけで、「ベルンの風」開局に至らず、まことに申し訳わけありません。ちょうど10日間のご無沙汰となりました。
10日の空白というのは、1998年に送信を開始した「南の風」としては初めてのことか。これまでだと意地になって、あれこれと動き回り、無理にでも風を吹かせたもの。しかし今回はすぐに断念。私的な旅でもありますので、ほとんど努力せず、怠慢というか、気楽というか。この間にいただいていたメールも拝見せず・・・、いい気分で旅を楽しんでおいりました。お許し下さい。
留守中の山のようなメール、いま開いたところです。選り分けて風の送信を再開いたします。まずは出発前に着信していた沖縄・島袋正敏さん、中村誠司さんのメールから。名護の二つの風は、できればベルリンから吹いておくべきものでしたが、10日遅れとなって、いつものように永福からの送信となります。
本日夜は、第109回(6月)定例研究会、与論の赤崎隆三郎さんを囲む会です。はるばる与論からのご出席だ、私もこれに間に合うように帰国した思いあり。実はドイツはちょうどいま白いアスパラ(シュパーゲル)の季節、毎日、一度は食べました。帰る前日(22日)に出かけたハノーファーの露店で買った採れたてシュパーゲル、そっと土産の袋にしのばせて、今晩の交流会のレストランで料理してもらおうと企んでいるのですが、うまくいくかどうか。まずは帰国ご挨拶の風をお送りいたします。
1484号(6月14日)
■<ドイツへの旅>
私たち夫婦は連れ添ってはや45年になりますが、二人揃っての旅行というのはほとんどありません。いつも別行動でした。昨年珍しく、谷和明さんが中心になって呼びかけてきたハンブルク・アルトナーレ(アルトナ市民祭)に、彼女も興味有りというので、同行の旅を計画しました。ところが彼女に直前の事故あり、骨折の診断が遅く(医療ミス?)、結果的に長期の入院を強いられて、二人揃って、ドイツ行きを断念した経過があります。
あれからちょうど1年。辛抱の甲斐あってほぼ恢復し、杖も手放して(用心しながら)1人前に動くようになりました。この間にお見舞いの言葉などかけていただき、有り難うございました。
というわけで、今年のアルトナーレに二人で参加しようということになりました。彼女はある種のリベンジ?の思いもあり、何よりも長距離の旅に挑戦して復調の証明を!と張り切っているところ。
5月の風1466号に書いたように、エコノミー席で大丈夫か、しかしビジネス席はもったいない、などと悩みながら(貧乏性の悲しさ)同じ便に一人だけビジネスを奮発して、15日から出かけます。あいにくリーダーの谷さんが休養しなければならなくなり、毎日一緒に飲むビールの楽しみは消えましたが、久しぶりのドイツの6月をのんびりと遊ぶことにしたいと思っています。
パソコンは持参しますが、「風」を吹くことになるかどうか。それは、“成り行き風まかせ”といったところです。先日のTOAFAEC
総会記録、石倉さんから送られてきました。記録として次号あたりに。HPにはさきほどアップしておきました。
1483号(6月13日)
■<「おたがいの共有のコトバを−『つまりの社会教育』郡市社会教育振興会・解散特集号>
1週間ほど前、6月6日夜は公民館学会の定例(6月)研究会。新潟県聖籠町の中学校づくりと地域交流ゾーンなど、この間注目を集めてきた聖籠町の動きについて、手打明敏さん(筑波大学)の報告があり、さかんな議論がおこなわれました。7月末には学会研究会として聖籠町への訪問調査計画あり、その事前学習会でした。
その席上、上田幸夫さん(日本体育大学)から、同じ新潟県の『つまりの社会教育』第55号−解散特集号(2005年3月、A4版、32頁)を頂きました。妻有(つまり)地区の社会教育は、かって母親たちの文集・生活記録をもとに『豪雪と過疎と』(未来社刊、1976年)を編み出して注目を集めたところです。今次の合併で、中魚沼郡・十日町市の「郡市社会教育振興会はその使命を終え、解散すること」になり、その解散特集号なのでした。
旧知の方を含め40名ほどの方々が印象的に書いておられます。また、これまで寄稿した各氏の文章も収録されていて・・・、めくっていくうちに、突然、ぶんじんの一文が目にとびこんできました。すっかり忘れていました。「おたがいの共有のコトバ」と題する生意気な内容、1975年4月15日の日付ですから、30年前の古証文です。
あの頃、十日町市の職員の方々が東京研修に見えて、たしか国立駅横の「うなちゃん」2階で三多摩関係者と交流会をもったときのこと。同じ社会教育でもお互いに共有できるコトバがない、それぞれの仕事をつみかさねながら、交流を深めつつ、「共通のコトバをつくっていきたい」と結んでいます。
30年目の亡霊に出会ったようで、あらためて読んでみて気恥ずかしい感じでしたが、いま、東アジアの海をこえて、まったく同じことを考えているようにも思いました。
1482号(6月11日)
■<育英会への恩義>
風・前号に書いたように、慶佐次育英会についての沖縄タイムス記事は宮城満さん(名護市)から送られたものです。慶佐次は戸数70,人口にしてわずか180人前後の、まことに小さなやんばるのムラ、しかし集落による育英会活動の歩みとしては、大きな志がありました。何よりも(貸費制ではなく)給費制による奨学制度に挑戦してきたこと。その給費制育英会の取り組みは、その後、名護市城(ぐすく)区に継承されてきたように思われます。
沖縄では、戦前はもちろん戦後も、子どもたちの教育・進学の問題はとりわけ切実でした。経済的困窮があり、離島苦の厳しさあり、加えてアメリカ占領下による本土高等機関との隔絶の問題あり。それだけにかっての琉球育英会や市町村・有志による育英奨学制度の大きな役割があったのです。
しかしそれだけではない。沖縄独自の集落の相扶の組織と活動、ゆいまーるの精神を基盤に、字(あざ)の「育英会」や「学事奨励会」の取り組みが広汎にみられました。この集落奨学活動については、今までとくに書かれたものがなく、この2月、数年の調査記録を<字誌等を通しての研究覚書>風にまとめてみました。(九州大学・松田武雄氏を代表とする『沖縄の字(集落)公民館研究』第3集、2005年、に収録)
育英会への思い、それはかって自分が育英奨学生として恩恵を受けたというに止まりません。40数年前、大学助手を追われたあとの3年間、日本育英会の職員として禄を食んだ恩義あり、いままた、育英会制度の“原風景”ともいうべき沖縄集落の育英奨学活動と出会うことができて、思い切なるものがあるのです。
1481号(6月9日)
■<懐かしい便り>
イギリスの自宅で休養中の岩本陽児さんから、楽しそうなメールが舞い込みました。すこし私信のようでもありますが、親しい仲、上記に掲載させていただきました。
名護の宮城満さんから、この間、2通の便り(写真と新聞切り抜き)が届きました。いずれも沖縄県東村慶佐次の集落育英会に関するものです。一つは丸く大きな石碑「大正十年三月三十一日創立・慶佐次育英会創立記念碑」(昭和四十九年建立)の写真。この4月にお送りした「沖縄の集落育英会」に関する調査報告(小林)を読んで、わざわざ撮影に出向かれたようです。感謝! あと一つは数日前の沖縄タイムス「慶佐次で育英会総会」記事(6月4日)、次号にでも紹介いたしましょう。
マブイ・シネコープの木村修さんからの便り。海勢頭豊・制作の映画「MABUI」(「GAMA−月桃の花」続編)のビデオ化について「今年以外の機会はないだろう」との決意で「…踏みきりました。関係の皆様にご紹介いただけますよう・・・」とのこと。沖縄戦60周年記念ビデオ化、6月23日完成発売(ライブラリー価格3万円)だそうです。
昨夜、日本と北朝鮮のサッカー試合を観ていたところ、ソウルから電話。都築継雄さんからでした。その後の韓国本の進捗状況はどうなっていますか、とのお尋ね。未着の原稿あり予定より遅れていること、など話したところで、「実はこの3月、就職が決まりました」「水原近くの長安大学校で教鞭」をとることになったそうです。おめでたい!
1480号(6月7日)
■<総会の余韻>
今年の総会については、まだ静かな余韻が残っています。10年歩いてきたという実感があるからでしょう。またこれから先の運営について、とくに次のような趣旨の発言をしたことによるのかもしれません。
「TOAFAEC 代表を誰かに交代してもらいたい、しかし準備・根回しが整わず、次の代表を誰にお願いするか、今回は具体的な提案ができません、あと一年は代表を続けます、来年総会までの宿題として皆さんで検討していただけないか」と。
代表だけでなく次の運営体制をどうしていくか、皆さんで考えてほしいという提案です。当の本人はとくに疲れているわけではありません。しかし10年はいかにも長すぎる。マンネリもあれば、組織や活動の疲労があります。「東アジア」という大事なテーマを発見し、独自の活動に取り組んでいるだけに、単にどう継続するかというだけでなく、これを新しく発展させ、次なるステップへの脱皮を重ねていく工夫が必要なのです。
「できれば“顧問”などに位置づけてもらえないか」とも付け加えました。誰か曰く「現行規約には顧問規定はない」と。となれば来年総会では、この点の規約改正も合わせてお願いしたい、などと余計なことにまで口がすべりました。
ところで、上記・赤崎隆三郎さんからの次回研究会々場のご提案について、どう対応しましょうか。6月24日当日は、参加者がどのくらいになるか分かりませんが、研究会メンバーはいずれも東京西方に住む人たち、あるいは南(鎌倉)からの参加。東京の東・松戸となると・・・かなり遠い感じですね。案内を出す石倉さん(事務局長)のご意見は?
小生はドイツにでかけていて、当日、なんとか研究会に間に合うように成田帰着の予定。できれば自宅(杉並)に荷物を置きに寄りたいです。
1479号(6月5日)
■<TOAFAEC 2005総会>
6月4日夕、総会々場(後楽園・日中学院)へ向かう道は篠突くような驟雨でした。雨に濡れながら集まって頂いた皆さん、ご苦労さまでした。短い時間でしたが、いろいろ論議ができて、懇親会も楽しく、有益な総会だったと思います。
胡興智さんの配慮により会場を提供いただいた日中学院、わざわざ吉田隆司院長からご挨拶をいただき、恐縮いたしました。会場には、先日の台湾訪問の際、高雄第一科技大学から贈られた歓迎幕をはりめぐらせました。あらためて同大学日本語学科主任の葉淑華さん、そして陳東園(国立空中大学)さんのご配意に御礼を申し上げます。まさに「東アジア」の雰囲気に包まれての総会となりました。(HP・写真)
今回の総会はTOAFAEC 10年目の記念総会。特別の重要事項があったわけではありませんが、これまでの歩みを振り返りつつ、これからの課題を考えあういい機会となったのではないでしょうか。いずれ記録がまとめられると思いますが、運営体制としては、常任委員に新しく手打明敏さん(筑波大学)に加わっていただき、また「東アジア社会教育研究」編集委員会に上記・陳東園さんが復活され、同事務局にモンゴル人留学生を代表するかたちでタグタホさん(東京都立大学・院博士課程)に参加していただくことになりました。どうぞよろしくお願いします。
16年前の5月から6月にかけて、私たち東京学芸大学社会教育研究室は緊張していました。5月20日は研究室メンバー打ち揃って、勝沼ワインの里で恒例(歓迎)合宿。刻々と入る北京天安門のニュースに聞き入っていたことを思い出します。星降る岡の上、はるかに走る中央線の列車の遠い響きが聞こえていました。あのとき胡興智は大学院生、多感な若者でした。いや、今でも多感、しかし、あれから15年余が経過したことになります。その後の東アジアをめぐる激動の歴史は、想像をこえるものがあったのではないでしょうか。
1478号(6月3日)
■<広州・7月は茘枝の季節>
久しぶりに広州の李偉成さんからメールを頂きました。有り難う。長文なので大半を割愛して上記に紹介しました。李偉成さんは東京学芸大学時代の最後の大学院生、私が和光大学へ移る年(1995年)に留学を終えて広州へ帰りました。彼は「閉門弟子」を自称しています。
学大最後の頃の私の「特講」には、専攻をこえて受講(単位取得)できることもあり、学内の大半の留学生が押しかけてきました。運営がたいへん!国立や国分寺の公民館見学を企画したり、音楽専攻の院生たちとは歌の交歓をしたり。李くんに幹事役をお願いしました。当時、彼は始まったばかりのNHK広東語講座の講師でもありました。
最初に広州へ行ったのは1992年。日本の社会教育について講演しました。ちょうどこの時期「社会主義市場経済」が新しく登場していて、華南は烈しい変貌のステップを刻みはじめていた頃。そのあと数年おきに広州へ、また広州からも訪問団が何回もやってきました。その架け橋となったのはもちろん李偉成です。
1993年・広州訪日団のある日のエピソード。たしか福岡での歓迎会の席で卓上に添えられた(茶色の)茘枝をみて、訪日団副団長の馬さんが叫ぶように「ほんものの茘枝はこんな色ではない!」「紅色の甘く香る茘枝を食べにいらっしゃい!」と誘ったのでした。
5年後の1997年7月に「ほんものの茘枝を食べる」旅は実現しました。その足で北京へ、さらにフフホトへ飛んで、その地の友人たちに茘枝の枝を届けました。この記録は「広州からモンゴルへ−茘枝の籠をさげて」(『東アジア社会教育研究』第2号、1997年)に書いたことがあります。
そして、今年7月また茘枝の季節がやってくるのです。追記:明日4日はTOAFAEC
総会(17:30〜、日中学院)、ふるってご参加下さい。終了後は飯田橋駅近く「秀蘭」で懇親会です。(詳細はHP)
1476号(5月31日)
■<メール・マナビンの挑戦>
横浜の伊東秀明さんから「メール・マナビン」を送っていただくようになった時のことをよく憶えています。2003年1月、かって旧「公民館の風」(ぶんじん発行)休止お知らせを送ったところ、「寝耳に水でビックリ」「ペリーの黒船のような風」「双方向に風を吹きあう発想をもらってメールマナビンを発行し始めたのに残念」などのメールを頂きました。「公民館の風」にそういう反響もあったのかと感激!
「風」を送ってもあまり反応がないように思えて、疲れていた身に大きな励ましとなりました。
最初に頂いた「メールマナビン」は11号、「公民館の風」最終号を飾りました。それがいま回を重ねて347号に。このマナビン通信が横浜磯子の(はじめはお互い顔も知らなかった)市民の皆さんを横につないで、いろんなグループが生まれ、そして「学習グループ連絡会」へ。さらに発展して、今回「学び合いと仲間づくり協議会」へ脱皮したというニュースを印象深く読みました。これからさらにどんな拡がりになるのか、楽しみですね。一度参上する機会があり、お会いした皆さんの顔が目に浮かびます。
パソコンを通してのヴァーチャルなコミュニティも、虚構の関係のように見えて、実際に顔と顔を合わあうリアルな関係に支えられ重なりあうと、活力ある市民ネットが創り出されていく何よりの実証。一つのパソコン通信が面白い契機となり、横浜磯子の地域に、市民相互の新しい公共空間が生み出されていく歩みに注目していきたい。
1477号(6月2日)
■<ISBN・ISSN>
ご承知のように、すべての図書出版物にはISBN(国際標準図書番号、日本図書コード)のナンバーが付与され、本の奥付やカバーに記されています。昨年のISBN国際年次大会において基準改訂となり、来年1月からいまの10桁から13桁ナンバーに変更されることが決議されたそうです。これに関連して、「日本図書コード管理センター」から「ISBNの管理と運用について」等が出されています。
私たちの『東アジア社会教育研究』は、1996年・創刊号からISBNナンバーを付してきました。その関係で研究会代表者(小林)宛に、今でもISBN「お知らせ」「お願い」「基準」等の文書が舞い込みます。ところが、お気づきでしょうか、2003年・第8号からは(ISBNでなく)ISSNに変更してナンバーを取り、さらに第9号へ、そして今年の第10号刊行への準備をすすめているところです。
ISSNとは「国際標準逐次刊行物番号」、図書(book)ではなく定期刊行物(Serial)のインターナショナルなナンバーのこと。登録した最初のナンバーは毎号変わりません(ISBNは変わります)。
創刊号当時になぜISBNとしたのか。認識不足もあったのでしょうが、あえて強弁すれば、TOAFAEC
として図書出版の思いがあったとも言えましょう。いや、当時は『研究』が定期刊行物として定着する自信がなく、1号だけのブックで終わるかもしれないという心配もあったような。しかしTOAFAEC
のISBNが残っていることも確か、今から本を創ることも可能なのです。
1475号(5月29日)
■<岩淵英之メモリアル教育フオーラム>
5月28日(土)は、国際シンポ「東アジア共同体の成立に向けて」(日本華人教授会議創立二周年記念、風1469号に紹介)も「杉並・瑞草区民シンポジウム」(風前号)にも失礼して、川崎「岩淵英之メモリアル教育フオーラム」に参加しました。故岩淵英之さん(元川崎市教育長)が亡くなられて、早いもので1年が経過したのです。
3月下旬に開かれた川崎のお祝いの会(ぺ重度さん、星野修美さん)に、福岡地震の後片づけで欠席してしまった経過あり、お詫びの気持ちも含めて、参上させて頂きました。久しぶりに旧知の方々にお会いできました。「重度さん、星野修美さんはもちろん、岩淵綾子さんや4月に川崎市教育長になられた北条秀衛さんにも。高橋清・前市長はじめ大勢の方々のご出席があり、盛会でした。
「岩淵英之さんが川崎に遺したもの」がこもごも語られ、あらためて 岩淵さんのお人柄と多くの方々をつないできた独自の業績を実感。私はとくに岩淵さんの論文(『世界の社会教育施設と公民館』(小林・佐藤共編、エイデル研究所、2001年、に寄せられた川崎市教育史)について触れ、川崎への愛着と誇り、柔らかな目配りのきいた論述のなかに鋭い課題提起が秘められていること、などを発言させて頂きました。私たちの本に書かれたこともあり、この川崎「市民館」史は、私たちへの岩淵さんの“絶筆”のような感じがしているのです。
「岩淵英之メモリアル教育フオーラム」は、これからもテーマを設定して、毎年開催されていくそうです。亡くなられたあとも、心ある方々のなかに岩淵さんは生きていくことになります。「岩淵さんはお幸せですね」と綾子さんとお話ししました。HPに写真2葉をアップ、ご了承ください。
杉並とソウル瑞草区との市民シンポには参加できませんでしたが、丸浜さんからでもレポートを「風」に寄せていただければ幸いです。
1474号(5月27日)
■<杉並と川崎と>
さきほど(1時間ほど前)、杉並の丸浜江里子さんより上記の杉並・瑞草(ソチョ)区民シンポジウムの案内が届きました。明日28日のことなので、引き続き連日の「風」送信となりますが、急ぎ編集してお届けすることにいたします。
ベトナムから津久井純さん、名護より島袋正敏さんより、興味深いメールが届いていて、本号掲載予定でしたが、次号にまわします。
ソウル・瑞草と東京・杉並両区の市民による合同シンポジウム企画は初めてのこと。しかも一昨日、朝日新聞(東京版)が報じた通り、「つくる会」教科書問題ともからんで、行政側からの妨害があり、それを乗り越えてのソウルからの参加、予定通りの開催です。
同じ時間帯で、川崎では(「風」には載せませんでしたが)元教育長・岩淵英之さん記念の集いがあり、いま、どちらに出席するか迷っているところ。ことのついでに、ホームページ予定表からご紹介しておきます。
○岩淵メモリアル教育フォーラム(川崎)主催:フォーラム実行委員会
日時:5月28日(土)15:00〜19・:00
会場:エポック中原(JR南武線・武蔵中原駅前 Tel-044-722-0185)7階大会議室
内容:第1部 シンポジウム「岩淵さんが川崎に遺したもの」
第2部 交流/懇親会
参加費:7000円
ところで本日(27日)夜はTOAFAEC 5月定例研究会。テーマは先日の台湾訪問の報告会。いつもの高井戸でなく永福の会場です。お間違いのないようご確認の上、ご参加ください。
忙しい毎日、しかし、こういう忙しさは嬉しいことですね。
1473号【 5月26日】
■<30年の歳月>
今年のTOAFAEC総会は、台湾訪問その他いろんな事情が重なって準備が遅れ、本号でようやく開催通知を掲載するという経過になりました。お詫びするとともに、会員諸氏(ならびに関心ある方々)多数の、万障繰り合わせての、ご出席をお願いする次第です。
ご案内は慌ただしいものになりましたが、心では早くから6月「総会」を楽しみにしてきました。TOAFAECはちょうど10年前の6月2日に発足、よちよち歩きの幼児から10歳までの歩みを刻んできました。10年記念の総会なのです。
“十年一昔”よくぞ続いてきました。日本では「失われた10年」とも言われる沈んだ時代、しかし、この間の東アジア各国・各地域の10年は、まさに躍動の10年というにふさわしい。政治・経済の発展というだけでなく、社会教育・生涯学習あるいは社区教育の動きに新しい活力を実感します。とかく元気を失いがちの日本の現状に埋没するのでなく、私たちは、東アジア各地の激動と躍動の潮流にふれることが出来て幸せでした。
TOAFAECの前身は、1976年9月発足の「戦後沖縄社会教育研究会」(東京学芸大学社会教育研究室)。実質20年の歳月のなかで取り組んできた研究会は128回、沖縄訪問調査53回、「沖縄社会教育史料」刊行全7集等を数えます。これに留学生特別ゼミとしての「アジアフォーラム」と、研究室0B・Gの「社会教育理論研究会」の三つが合体するかたちで「東京・沖縄・東アジア社会教育研究会」は誕生しました。10年の歩みには、その前の20年の歳月が重なります。詳細はホームページ「歩み」をご覧下さい。
今年の総会は、この10年(そして30年)の道程を検証する総会でもあり、また同時に、これからの10年(さらにその先)の歩みと方向をさぐる機会でもありましょう。
総会ご案内を早くお届けしたいという思いで、連日の「風」送信となりました。ご了承ください。
1472号(5月25日)
■<台湾へのお礼状>
私にとって台湾からの最初の留学生は陳東園さんでした。たしか1985年頃か。当時は中国テレビ(台北)記者、帰国した後は空中(放送)大学の仕事に就き、毎週、台北と高雄あるいは台東などを駆け回っている忙しい毎日。日本留学中に出会った葉淑華さん(当時、東京外国語大学院生、現在は高雄第一科技大学日本語学科主任)と結婚し、二人のお子さんも大きくなったそうです。いま高雄に新居を定めて建築中とか。
先日、台湾訪問でお世話になった礼状をメールで送りました。
「陳 東園 様、 葉 淑華 様
台湾から帰って、もう2週間が過ぎました。御礼が遅くなり、たいへ失礼しました。お許しください。
このたびは陳さん、葉さんはじめ皆様にたいへんお世話になりました。久しぶり(5年ぶり)の訪台でしたが、おかげさまで、5年の空白を感じることなく、旧知の方々、新しい友人と会うことが出来て、6日間まことに充実した毎日、有り難うございました。
葉さんは新しい大学に就任、また陳さんは博士号を取得され、張り切って仕事をされている様子、お二人にあらためてお祝いを申しあげます。
高雄第一科技大学の皆様、とくに許教授や王珠恵女史によろしく御礼をお伝え下さい。歓迎の赤い横断幕を頂き、東京に持ち帰りました。写真を一枚、小生たちのホームページの表紙に掲載しています。ご覧いただければ幸いです。→ http://www007.upp.so-net.ne.jp/bunjin-k/
添付の一文は、訪問した機関・団体へのお礼状です。小生の拙文を早稲田大学に留学している鄭任智さんに訳してもらいました。意を尽くせませんが、御礼とさせていただきます。(中国文・礼状−略)
葉清勇さんはじめご家族の皆様にどうぞよろしくお伝え下さい。またの再会を楽しみにしています。草々」(Sat,
May 21, 2005 14:32 )
昨日届いた葉淑華さんからのメール。(Tue, 24 May 2005 09:15)
「先生ますますご活躍のこととお喜び申し上げます。久しぶりに再会できまして、うれしく思っております。十分なご接待ができないところがございましたが、ぜひご諒承くださいますよう、よろしくお願い申し上げます。これからも何とぞよろしくお願い申しあげます。では、失礼いたします。愚生 陳東園 葉淑華」
TOAFAEC HP表紙の写真、右から二人目が葉淑華さん。台湾訪問記録サイトの写真数枚のうち、一番背が高い(いつも)吊りズボンの人が陳東園さんです。
高雄第一科技大学からいただいた『歓迎!東京・沖縄・東アジア社会教育研究会』の真っ赤な横断幕は、昨夜(24日)の第10号編集会議で、初めて“風の部屋”いっぱいに張りめぐらしました。
1471号(5月24日)
■<「回想法」事業への関心>
愛知県師勝町にはまだ行ったことがありません。それなのに、この1年、あちこちで師勝町「回想法」のことを話題にしてきました。入間の講演会で、公民館学会の雑談で、西永福“風の部屋”で。いま企画・編集中の新上海本のなかにも、日本の地域からの実践事例の一つとして師勝町・市橋芳則さん(学芸員)に執筆をお願いしました。いち早く原稿を寄せていただいたところです。
師勝町HP(→http://www.town.shikatsu.aichi.jp/index.html)を開くと、町の公式事業の第一に「回想法」が登場します。次のような書き出し、なかなか面白い。
「昔懐かしい生活用具などを用いて、かつて自分が体験したことを語り合ったり、過去のことに思いをめぐらしたりすることにより、脳を活性化させ、活き活きとした自分を取り戻そうとする療法が回想法です。
回想法は、欧米諸国より始まり、既にわが国でも臨床に応用されたり、施設で取り入れられたりしていますが、師勝町では、この回想法を地域ケアの中に取り入れ“思い出ふれあい事業”として実施しています」と。
今回の朝日新聞【社説】では、「認知症(痴呆症)の予防に効果」をあげている心理療法の事例として紹介されていますが、読めば読むほど、この取り組みは、すぐれて社会教育の事業であり、生涯学習に関わる典型的な実践だと思われます。
これまでの社会教育の歩みのなかでも、自分史や生活史の学習が注目されてきましたが、師勝町において「回想法」事業として方式化されることによって、さらに一段と方法的に構築され、理論的に拡充され、参加者・対象者も、知的に活発な学習者だけではなく、「認知症」を含む高齢者の治療・予防に広く拡充されています。
しかし、ここにどうして公民館という施設や、公民館主事や社会教育主事という専門的な人たちが登場しないのだろう、生涯学習に関わる行政はこれにどう関わっているのだろう、などと気になってきました。その意味でも、師勝町を一度訪問してみたい、と思っているのです。
1470号(5月23日)
■<原告団長・小橋川共男さん>
南の風前号の【おきなわ短信】(228)に紹介した「乱開発は必要ない」泡瀬干潟提訴、沖合埋め立て事業中止を求める沖縄初「自然の権利訴訟」。原告団の団長は小橋川共男さん(写真家)です。那覇地裁へ入る原告団
の写真には共男さんたちが泡瀬干潟に生きる動物をイメージしたプラカードを掲げていました。写真を見ながら、心からの声援をおくりました。
小橋川共男さんは、私たちの沖縄研究にとって忘れることができない人です。いま幻の(なかなか手に入らない)本となった『民衆と社会教育−戦後沖縄社会教育史研究』(小林・平良編、1988)の口絵の写真は、共男さん提供のものが大半。当時は東村山に住んでおられ、お願いして、写真を頂きました。お礼もしなかったように思います。読みにくい諸論文の冒頭に、沖縄エイサーを踊る「みやらび」の笑顔があり、それに励まされて、本のページをめくった人は少なくありません。エイサーの写真は、小橋川(写真集)『御万人の心』から拝借しました。
共男さんとの出会いをつくったのは、もちろん島袋正敏さん(名護)。その頃、二人で小金井(東京学芸大学)の研究室に現れ、ほとんど夜が明けるまで飲んで「今から北海道に行こう!」と叫んでいたこともありました。元気だったのです。
学生を連れて、やんばるの祭りに出かけると、よく共男さんと出会ったものです。独特のスタイルでカメラをもって・・・。多良間『八月踊り』の写真に魅せられて、和光大ゼミでは多良間をテーマに卒論を書いた学生が何人も現れました。ふっと記憶が甦り、最後のプロゼミを連れて糸満・真栄里の大綱引きに行ったとき、二人のツーショットで撮った写真を想い出し、さきほど探し出して、本文の証としてホームページに掲げておきました。
共男さん、泡瀬干潟訴訟、チバリヨー!
1469号(5月20日)
■<2005TOAFAEC 総会>
久しぶりの呉遵民さん(上海)からのメール。有り難うございました。この間、新上海本の構想が具体化して、執筆も始まっていますが、みな忙しく、原稿は予定通りには進んでいないようです。小林担当分については、日本からの5事例のうち3事例が入稿、これから中国語訳をどうお願いするかという段階に。残りの2事例も近く入るだろうと期待しています。肝心の本文の部分は4人(上野、内田、黄、小林)で分担執筆中。しかしその後の執筆状況の報告なく、また中国語訳の時間も必要ですから、予定より遅れそうです。末本さんもフランス行きなどあるそうで、忙しそうですね。
先号に書いたように、今年はTOAFAEC 10年。総会は例年、日本社会教育学会六月集会に合わせて開く習わし。となると、会期6月4〜5日(東大)のうち、4日夕(学会終了後)案ということになります。日程がせまっています。この間、ぶんじんは台湾、石倉さんは北欧へ、と出かけていて、準備が遅れています。
昨日、石倉事務局長に送ったメールの一部。「…(略)… TOAFAEC 総会の準備を急ぎたい。今年の6月集会は6月4日〜5日(東大)です。場所をどこにするか、日中学院が近いので、またお願いするか。あるいは別の案か。本郷にちかいところで考えていただく。議題のほかとくに会計報告を用意する必要あり。山口真理子さん(会計)とも連絡とってください。地方から上京する人のために、日時(6月4日午後5時半〜)と場所を早く“南の風”に載せたい。…」
胡興智さん、日中学院の一室を当日2〜3時間、お借りできるでしょうか。またその後の懇親会の場所を設定していただけますか? 2003年6月の総会では、たしか飯田橋「秀蘭」とかいう中華料理店だったと記憶しています。
私たちのこの10年を振り返り、さらに次の10年に向けて、どのようなステップを刻むことが出来るか、総会で賑やかに論議できればと期待しています。皆さんのご参加、どうぞよろしく。
1468号(5月18日)
■<台湾の動き−大まかなスケッチ>
今なぜ「台湾の社会教育」なのか。その歩みや現状をほとんど知らなかったことへの反省、すぐ隣りなのに! 政治的な「一つの中国」論に左右されて台湾研究の視点を失うようなことがあってはならない、研究交流のつながりをどう創っていくか、友人たちとの語らいをどう拡げていくか。この10年、こんなことを考えてきました。
台湾には「社会教育法」が制定(1953年)されていますが、国民党の厳しい政治的統制のなかで機能してきました。日本の社会教育法(1949年)が教育改革と民主化の志向のなかで定着してきたのと対照的なところがあるようです。台湾で戒厳令が解除されたのは、ようやく1987年のこと。日本にみられない統制的な政治的背景がありました。
しかし、そういう政治構造のなかから「台湾的なもの」への社会的文化的な潮流が動いてきたのです。たとえば1960年代からの郷土文学の運動、言語や教育問題への取り組み、1980年代に盛んになる「文史工作室」(少人数での地域の歴史や文化についてのアトリエ的な活動)、1990年代以降の地域づくりや市民の運動など。台湾の「主体性再建」「本土化運動」と呼ばれる動き、いわば台湾のアイデンティティに関わる画期的な歴史潮流に注目しておく必要がありましょう。
この間には、新しい政党・民進党の結成(1986年)があり、初の民選総統・李登輝の登場(1996年)もあります。行政側で、「文化建設委員会」(文建会、行政院の一部局)による「社区総体営造」施策が打ち出されるのが1994年。これが大きな契機となって各地のさまざまの地域づくり運動が独自の展開をみせてきました。
この時期に胎動していく台湾の「学習社会」創建や「終身学習」(生涯学習)そして「社区大学」への取り組みは、このような台湾の新しい時代への潮流をバックグラウンドにもっているのではないか、というのが私の大まかなスケッチです。そして本格的に「終身学習法」が制定されるのが2002年。
というのも、市民運動や地域づくり運動とは別の次元で、いわば上から降りてきた日本の生涯学習の流れとは、対照的に異なるところがあるのではないか、と思われるのです。
1467号(5月17日)
■<南の島・与論島>
沖縄本島の北に浮かぶ与論島(鹿児島県)。沖縄復帰前には日本最南端の島。当時の政治的分離線(沖の27度線)をはさんで、夜にはかがり火が焚かれ、双方から舟を出し「沖縄を返せ」海上デモが行われてきた島です。韓国の黄宗建先生やモンゴルのボヤンバートル(案内はもちろん小林平造氏)などと訪問した日を忘れません。たとえようもなく美しい珊瑚礁の海に魅了されたものです。
この島の高校・美術教師として活躍してきた赤崎隆三郎さん。名護の名桜大学・院を終了し、4月からは千葉県松戸の聖徳大学・生涯学習研究所のポストを得て就任。月の大半を東京・首都圏で生活されているとのこと(南の風1452号)。
「一度、TOAFAEC 研究会として与論からの赤崎報告をお願いしたい。合わせて歓迎会も。月の終わりの金曜日に東京周辺滞在の機会を早めに教えておいて下さい、楽しみしています」「5月研究会はすで台湾報告の予定が決まりました」というメールを送っておいたところ、次のような返信(Mon,
16 May 2005 09:39)が届きました。
「・・(略)・・にもお会いすることができました。学生の現地研修を受け入れた経緯がありその報告会的なものでした。社全協ネットに感謝!ところでTOAFAEC
研究会の件ですが、6月案(6月24日)というのはどうでしょうか? ご検討ください」と。6月には、おそらくTOAFAEC
2005(創立10周年記念)総会が日本社会教育学会六月集会の夜(6月4日・土)に開かれます。そして月末の金曜日が24日。歓迎会はいつものイーストビレッジで。事務局のご都合は如何でしょうか。
ついでに7月予定。7日前後に七夕の会(今年は田中美奈子さん宅)、月末・金曜29日に研究会(内容未定)。8月は、福岡で第45回社会教育研究全国集会「沖縄を囲む」会(おそらく27日夜)、今年は油山ぶんじん宅で開催か。名護の皆さんは庭にテントを張るという。庭にはそんなスペースもありません。この頃はちょうど『東アジア社会教育研究』第10号編集作業の大詰め。
10周年そして10号の年、意義ある年にしたいもの。皆さんのご参加・ご協力をお願いいたします。
1466号(5月15日)
■<ドイツ訪問計画>
谷和明さん(東京外国語大学)がハンブルク市「アルトナ祭を中心にしたドイツの市民社会文化活動の調査」旅行の呼びかけをされたのは3月末(風1441号)。もう締め切りは過ぎていますが、ドイツ行きを決断するかどうか。悩んできました。
今年の調査団の呼びかけには社会文化学会だけでなく、はじめて日本公民館学会(国際交流部)も加わっています。プログラムもアルトナーレ(市民祭、6月17日〜19日)参加や社会文化施設見学などとともに、今回とくに「街づくりと文化芸術の役割をめぐる日独市民シンポジウム」(6月17日)も行われる予定。
まだ和光大学につとめていた2000年に、2ヶ月ほどドイツに滞在。その翌年にハンブルク「アルトナーレ」に参加しました。その後アルトナーレがどんな展開をとげているのか、興味も有り。また日本の公民館のあり方を考える上で、ドイツの社会文化運動の示唆するところは多く、迷うのであれば、思い切って久しぶりに行ってみようか、という気持ちなのですが・・・。
実は去年は航空券・ホテルすべてを用意していたところに思いもかけぬ妻の事故、そして入院、出発直前にハンブルク行きを断念した経過があります。それからちょうど1年。行くとすれば一人でなく二人でという約束めいたこともあって、エコノミー席で大丈夫かな?といってビジネスでは出費がかさむし、などなかなか決断に至りませんでした。しかし台湾に一人で出かけた批判?もなくはない。
というわけで、数日前からドイツ行き航空券の準備をはじめたところです。まだ充分に空席はあるようです。妙な迷いの一文になりました。
1465号(5月12日)
■<台湾訪問の記録・写真>
鄭任智さん(早稲田大学・院)からの依頼、高雄・新興社区大学資料については、量は少ないけれど内容はなかなかのものと思われます。内田さんから送ってきたパワーポイント・ファイル(CD)と一緒に送ります。コピーして今度会う機会に返して下さい。
台北市には各区に社区大学が始動していますが、高雄市(台湾第二の都市、人口は台北の半分、約130万人前後)では新興社区大学(HSIN-HSING
Community University)の1例のみ。高雄でこれからどのような展開をみせることになるのか、興味あるところです。
新興社区大学の主任(学長)は李賢華氏、海洋科学(工学)を専攻される大学教授です。陽気な人柄、今回が初見ですが、夜の歓迎宴に続くカラオケなどで、すっかり老朋友になった感じ。歓迎宴にかけつけていただいた同大学理事は、高雄市教師会理事長(中学教師)や文化出版事業の編集長など。一夜だけの同席で残念でした。時間があればもっともっと交流を深めたい人たち。次回は、高雄を中心に台湾南部をまわるスケジュールなど計画したいもの、と思いました。
台湾の夜はカラオケが盛んです。今回は、5日の高雄だけでなく、その前日4日の泰山郷(町)歓迎夕食会のあともカラオケでした。町長さんが、まず「骨まで愛して」を熱唱したのには驚きました。日本側も上地武昭さん、内田純一さんなど次々とマイクへ。林振春さん(台北師範大学教授)も相当の歌い手、楊碧雲さん(台北市政府)も一緒にデュエット。これらの写真を10枚ほどホームページ(5月台湾訪問記録)の文中に順不同で挿入しました。ご覧ください。もし掲載を控えるべきものがあれば、ご一報を。すぐに差し替えます。
上地武昭さんからは、今回の台湾訪問・写真記録を約500枚(CD)送っていただきました。いい出来映えです。しかしそれぞれに容量が大きく、ホームページに蓄えるには少々つらいところ。ご了承ください。
1464号(5月10日)
■<山みれば青葉うるわし>
台湾から帰った翌朝早く、3年ほど病臥していた(母方の)叔母の訃報が届きました。その足で九州へ。この2週間あまり、なかなか落ち着きません。わずか二日の滞在で9日午後には帰京、同夜の日本公民館学会理事会出席のためです。
実は福岡ではその後に烈しい余震(震度5強)があり、主なき家の新しい被害が気になっていました。でも行く余裕がないまま経過。今回の九州行きで、僅かの時間をみつけて、ようやく油山にも行ってきました。本や置物の散乱はありましたが、幸い大事なものの破損はなく、安心しました。
庭にはいまエビネ蘭が盛り(HPに写真1葉アップ)。しばらく滞在して体を休め、ゆっくり本や資料の整理などしたいところ。しかし東京を離れてすでに半月、学会理事会だけでなく他に仕事もあり、なかば企業戦士?のような心境で、帰りの飛行機に飛び乗った次第。この間、皆さんからの、もっと体をいとうべし、自重・自愛を、などのご忠告を反芻しつつも、やはり・・・悲しいことです。
いま九州は若葉の季節、とくに樟(くすのき)のあざやかな緑は、いつも心にしみて励まされてきたものです。故郷・久留米のツツジも燃え立つように咲いていました。亡き叔母の葬儀、悲しいけれど、そこに集まった従兄弟たちの集まりもして、心なごむ二日間でもありました。
<久しぶりに戯れ歌二つ>
−久留米へ(高速バス、筑紫野あたり)5月8日−
◇山みれば青葉うるわし里みれば大気なごみて亡き友偲ばゆ
−幼き日、遊んだ神社の境内の−
◇樟の若き緑は産土(うぶすな)の神の賜いし故郷の色
1463号(5月9日)
■<台湾訪問による授受収集資料>
前号にも書いた通り、今回の台湾訪問では、とくに鄭任智さん(早稲田大・院)が台北まで同行してくれて、各訪問先で通訳の労をとって頂きました。ご苦労さまでした。各氏へのお礼状、繁体中国語への訳(ちかく案文を送ります)もお言葉に甘えます。どうぞよろしく。
また5月27日の定例研究会への報告も期待しています。「台湾の社区営造、社区大學等をめぐる最近の動き−台湾訪問報告」というタイトルで如何でしょうか。もし別のタイトル案があればご提案下さい。鄭任智メインレポーター、ほんらいは他の5人も報告すべきところですが、高知・沖縄と離れていて参加は無理、ぶんじんが副報告をします。
内田純一さんからは、早速に今回の台湾訪問で授受・収集した資料の一覧リスト(上記)。私たちの沖縄・東アジア社会教育研究では、これまで調査の記録や収集資料の一覧等を(私的資料にとどめるのでなく)できるだけ公開・共有する努力を重ねてきました。旧沖縄社会教育研究から(さらに遡れば故横山宏さんと取り組んだ社会教育法制研究から)の私たちの基本姿勢です。
台湾側の各訪問先では、心のこもった歓迎の張り紙や横幕に感激しました。ぞれの主報告はすべてパワーポイントが用意され詳細なもの、そして抱えきれないほどの資料も。パソコンを駆使しながら、若いメンバーが熱心に報告する姿に接して、大きな時代の流れを実感した毎日。
いただいた資料はついに持ちきれず、台北から別送するほど。内田さんは頑張って高知まで運び込び早々の諸資料一覧リスト作成という次第。ありがとう!
高雄第一科技大學では「東京・沖縄・東アジア社会教育研究会歓迎」の真っ赤な横断幕が登場しました。記念に頂戴してきましたので、次回(5月27日)研究会に飾ることにします。当日の記念写真はいまTOAFAEC
ホームページ表紙にアップしています。ご覧下さい。台湾訪問記録は随時HPに掲載していきます。
1462号(2005年5月7日)
■<台湾訪問から帰る>
6日昼過ぎ、東京学芸大学・院卒の陳東園くんや李暁青さんなどに見送られて台湾・高雄空港を出発。台北で乗り継ぎして那覇へ。さらに深夜便で東京へ帰ってきました。
台湾も沖縄もすでに梅雨、同夜の那覇空港はしばし雷鳴轟き豪雨あり、出発便が大きく遅れて、羽田についたのはほとんど12時近く。10日間の旅、さすがに疲れました。那覇で別れた同行の皆さんもお疲れさまでした。おかげさまで、いい旅となりました。
今回の旅ではパソコンを持参しましたが、連日の訪問調査、また夜の歓迎会等の台湾スケジュール、風を吹く余裕なく、結果的に「南の風」は1週間のご無沙汰となりました。おそらく昨年12月の福州・北京の旅以来のことか。パソコンからまったく解放され、楽しく自由に過ごす毎夜のゆとり。この機会に、ふっと風を休止してしまいたくなる誘惑にもかられながら・・・、いつもの悲しき習性に戻って、いま気を取り直して、風本号の編集・送信を始めたところです。
台湾は5年ぶりでした。この間の台湾(主に台北、高雄)の新しい動きに目をみはる思いでした。かっての東京学芸大学・研究室を巣立った人たちの心温まる歓迎、楊碧雲さん(台北市政府・専員)による詳細な訪問計画、新しく出会った社区営造(地域づくり)や社区大學関係者との交流、盛り沢山のスケジュールを存分に楽しんで帰ってきました。早稲田大学(院)の鄭任智さんは台北に飛んで通訳の任にあたってくれましたし、同院卒「東アジア社会教育研究」編集委員の楊武勲さんとも久しぶりに再会。第10号へ向けての原稿依頼は活発に進みました。予定原稿は5本ほど。これからその日本語訳(うち2本)を鄭さんにお願いしなければなりません。どうぞよろしく。
次号から何号かにわけて、台湾訪問メンバーによるレポートを予定しています。お楽しみに。
1461号(2005年5月1日)
■<名護の結婚披露宴>
沖縄大学を卒業して烟台日本語学校に赴任する上記・伊波葉月さんは名護市宇茂佐の出身と聞いています。中国では、反日騒動のあとだけに中国行きの気持が揺らいでいるのではないか、と思っていたところ、元気にチャレンジするとのこと、拍手!
ところで4月29日は島袋正敏さんの長男・一平さんの結婚披露宴でした。ご招待をいただき、この日を楽しみに名護へ。沖縄との長い付き合のなか、長寿のお祝いには何度か出たことはありますが、実は結婚披露宴は初めて。どんな雰囲気なのか、ひそかな興味がありました。一平君は東京・永福の“風の部屋”に来ていただいたこともあります。
名護のホテルの大ホールは満席、おそらく300人をこえる大祝宴でした。そう珍しいことではないそうです。幕開けは新郎・新婦のお母さん二人による「かぎやで風」から始まり、親戚、友人、職場などからの踊り、歌、余興、空手演舞などが続き、終わりのところではカチャーシー。門出を祝う乾杯の音頭や来賓代表(名護市長)の祝辞はありましたが、東京のホテルのように型通りの挨拶がえんえんと続くようなことはなく、まことに楽しく賑やか。黒い礼服を着ていきましたが、ご親戚以外はほぼ平服、いつもよりネクタイ姿が多いなという感じ。なかには半袖のカリユシ・スタイルもあり、少々場違いの礼服だったかも。
「かぎやで風」の地謡は社会教育課長・松田猛さんや2002全国集会で活躍した岸本力さんなど。まわりの席はいつも私たちを歓迎してくれる名護の社会教育や島酒之会の面々。わいわいと語りあり、拍手をしたり、指笛をならしたり。ホテル披露宴の制約はあるにしても、あらためて沖縄の文化と活力のようなものを実感した夜でした。
那覇に帰って、4月30日は旧おきなわ社会教育研究会の皆さんと久しぶりの一席。明けて5月1日、いまから台北です。
1460号(2005年4月29日)
■<あの年の4・28>
いまの学生たちは「4・28」といっても、ほとんど知るものもいないようです。1960年代、この日は大学にとっても、もちろん学生運動にとっても、忘れることができない日でした。「ヨン・ニーハチ」あるいは「オキナワ・デー」、さらには「屈辱の日」と呼ばれてきました。
1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効した日。同第3条によって、沖縄・奄美は日本本土から切り離され、アメリカの占領下に放置されました(奄美は翌年復帰)。
1960年に沖縄の祖国復帰協議会が結成されますが、その日は4月28日。スローガンの第1は「第3条の撤廃」。それから72年の復帰に向けて、毎年の4・28には復帰運動のデモがうねり、「沖縄をかえせ!」の歌声が響いたものです。
その当時、4月に入学してきた新入生たちがはじめて体験するデモが「オキナワ・デー」でした。入学式が終わり、新歓コンパなどが一段落する頃に4月28日はやってくるのです。受験戦争から解放されて、ちょうどピクニックに出かけるような気分で、デモに繰り出す女子学生たちの歓声が今でも耳に残っています。
そして当局の激しいデモ規制も体験するのでした。年によっては逮捕される例も。若い大学教師としては4・28は緊張の日でした。この日を境にして顔つきが変わる学生たちの表情を想い出します。
この日を転換点として、本土と沖縄は「異なる記憶」(沖縄タイムス・社説、4月28日)を体験してきました。戦後60年のいま、世代的にも「異なる記憶」。その裂け目をどう乗り越えるか。
1459号(2005年4月27日)
■<ようやく花見の気分>
今年の花粉症はひどいものでした。4月になっても花見の気分になれず、鬱うつとした毎日。いまようやく落ちついて普段の生活に戻り、不機嫌も多少直ったところです。
昨年亡くした叔母の納骨に、24日は奥多摩霊園へ。山にのぼると天国に近づいた感じあり、桜も見事に満開、山々に開く花も格別です。今年やっと花見の気分になりました。
4月のHP表紙写真に掲げていた「那覇・福州園」、(自分では)捨て難い1枚でしたが、桜には勝てず、さきほど東京を発つ前に「奥多摩霊園」に差し替えました。4月「スケジュール」の頁にも別の桜を1枚。世話になった叔母への鎮魂の思い。
いま那覇へ着いたところです。27日の「杉並の市民活動と社会教育を記録する会」4月定例会、それと30日の「原水禁運動(安井家)資料研究会・訪問調査」、いずれも欠席となります。お許し下さい。
3月の花粉症逃れの訪沖と違って、今回ははれて皆さんとお会いできます。29日は名護にも行きますし、旧おきなわ社会教育研究会の名城ふじ子さん(那覇市役所)にも連絡して、30日夜は集まろうということになりました。午後7時頃より、場所は未定(「あんつく」ではなく、また「パピリオン」もなくなったし・・・)、ぶんじんのケイタイにご連絡を。台湾訪問団の結団式をいたしましょう。この日にはたしか山城千秋さん(熊本大学)も帰郷の予定だとか。会いましょうね。
さきほど鄭任智さん(早大・院)より、メールあり。「私は一日早く台北に着いてしまうので、皆さんとの合流について、許銘欽校長先生に連絡したところ、直接に電話するようにと決まりました。日曜日に合流できると思います。宜しくお願い致します。」とのこと。
沖縄はいま少雨。しかし“うりずん”(若夏)に向かっていい季節。デイゴの花もちらほら、といったところ。
1458号(2005年4月25日)
■<いくつかメール紹介>
南の風では、皆さんから寄せられるメールが頼り、(私信の指示がある場合をのぞいて)原則すべて掲載していく方針。しかし、ときにはその一部を勝手に…中略…などしている場合もあり・・・と同時に、風に紹介しないメールもあり、申しわけありません。
やや私信とおぼしきものや、個別の連絡などは、割愛しています。また「風」の方もあまり長くなっては“読む方もたいへん”(との声あり)と思ってのこと、ご了承下さい。この機会に、ここ1両日の別メールをご紹介(抄)しておきます。
○トクタホさん(都立大学・院、Sat, 23 Apr 2005 11:23);
…(略)… 昨日(22日)野元ゼミの飲み会がありましたせいで、研究会参加することが出来ませんでした。次回には是非・・・博士課程に進学し発表などで忙しくなりつつあり、ゼミ生も昨年より人数が増えいろいろと面白いところです。…以下、略…
○白メイさん(中央大学・院、Sat, 23 Apr 2005 06:55);
…(略)… 『東アジア社会教育研究』第十号への投稿ですが、確か先生から去年の継続の形でとおっしゃいました。現実的に考えて見たんですが、今のところ無理があります。もし修論とかかわる厦門の社区教育でしたら、何とかできると思っています。…以下、略…
○江頭晃子さん(アンティ多摩、Sun, 24 Apr 2005 01:54);
…(略) … 小林先生のご心配通り、22日(研究会)は久しぶりに飲みすぎ、帰りの電車の揺れが苦痛でした。…以下、略…
1457号(2005年4月23日)
■<黒竜江からの美酒>
昨夜(22日)の定例研究会は、原水禁運動(安井家)資料のデーターベース化に挑戦しているメンバーと合同の研究会。いつもにない顔ぶれで面白い一夜でした。詳しいことは別に送られてくる(であろう)石倉報告にゆずるとして、印象的なことを二つ。
一つは、朝日新聞記者・本田雅和さんの来会。NHK−自民党問題の報道に関わる渦中の記者です。20年ほど前に群馬の公民館(憲法講座問題)で出会い、その後は浦安の市民企画・平和講座などでも同席したことがあります。久しぶりの再会、意気軒昂たるものあり、心強く感じました。「安井郁先生が生きておられれば、憲法9条等をめぐる現代の動きについて、何と言われるだろう・・・」などの質問も。
あと一つは、中国黒竜江省モンゴル族小学校の再建に奮闘してきた包聯群さん(東大院)が帰国し、研究会へのお土産に強烈な白酒を持ってきて頂いたこと。私たち研究会有志による日本側の支援が大いに力となって、現地の行政当局を動かすことができた(風1448号既報)ことへのあらためての謝意が表され、みんなで銘酒を酌み交わして乾杯しました。香り高い酒でした。山口真理子さん、内田純一さんはじめカンパに協力された皆さんが不在で申しわけないのですが、同席したもので美味しく頂きました。
ぶんじんは少々飲み過ぎ、帰宅しても強い酔いが残り、そのまま眠りこける始末。一緒にかなり飲んでいた江頭晃子さんは大丈夫だったかしら?と心配しています。
包聯群さんと王暁華さんなどで「モンゴル族小学校の再建」問題を中心に“中国少数民族の言語問題と教育機会”(仮題)などについて「東アジア社会教育研究」第10号に執筆できないでしょうか。
1456号(2005年4月21日)
■<韓国「平生教育法」日本語訳>
3月の年度末、そして4月を迎え、大学も自治体諸機関もそれぞれに多忙のご様子。同時にまた年々歳々の人の動きあり、新しい旅立ちや決断もあり、風へのメールを拝見して、寄せられる新たな思いを実感させて頂く季節でもあります。その道の平安かつ充実した歩みを祈るのみ。
この時期には、大学の研究紀要や科研費等の研究報告、あるいは社会教育関連の諸記録がいろいろと世に出ます。恵送いただく刊行物もまた思いさまざま、「南の風」でも紹介したいところですが、とても余力がありません。まずは目次なりとも、というわけでパラパラ頁をめくっていきますと、ここにも社会教育の歩みの躍動?あり、あるいは屈折した歳月の記録にも出会います。
切なかったのは、東京都『青年の家紀要』18号。1965年「あゆみ」から通算すれば40年近くにわたって都「青年の家」の記録が刊行されてきたわけですが、今年は「閉所資料集」(『ふちゅう』青年の家)の刊行。「多くの人に利用され、愛された青年の家」「長い間本当にありがとうございました」の一文。添えられた手紙も一つの記録です。
いろいろの研究報告のなかで目を引いたのは、北海道大学「生涯学習研究年報」第10号。韓国「平生教育法」日本語訳が掲載されています。5年前の『東アジア社会教育研究』第5号(2000年)に収録(HPにもアップ)されている鹿児島大学グループによる同日本語訳とほとんど同文。「教育部長官」が「教育人的資源部長官」と変わっている部分はありますが、<注>の箇所やナンバーも同じ。しかも注の説明なし。「解説」のなかにでも、先行研究・参照文献等についてのなんらかの言及があってしかるべきでは、と思ったことでした。
ところで昨夜、TOAFAEC/HPに試みに「掲示版」を開設してみました。どんな反応が現れるか、興味あるところ。のぞいて見て下さい。
1455号(2005年4月19日)
■<『東アジア社会教育研究』第10号へむけて>
すでに「南の風」第1431号(2005年3月8日)で呼びかけ、またホームページにも掲載してきましたので、繰り返しになるのは本意ではありませんが、第10号への投稿申し込みは4月20日が締め切り。
その後に編集会議を開いて、第10号(9月刊行予定)の骨格を確定したいと考えています。いまのところ23日(土)夜に編集会議(風の部屋)を予定。執筆ご希望の方はは、それまでに執筆題目、希望枚数をそえて、ご一報下さい。
TOAFAEC 10年の歩みを一つの区切りとして、第10号はいつまでも記憶されるような力作?にしたいというのが夢。編集委員各位にも別便で、ぜひ書いて頂きたい、できれば少し総括的な視点から執筆していただけないか、とお願いしています。編集会議で投稿論文のテーマ・状況を見ながら、あらためて個別に依頼をしたいと考えています。その際は、ぜひともよろしくご協力ください。
はたして第10号が、どんな構成になるか、楽しみでもあり、不安でもあり。振り返ってみると、これまでの9号にいたる歩みもまた期待と不安の交錯、その連続でした。
5月初旬の台湾訪問も、主な目的は第10号編集に向けての資料収集。台湾との研究交流は学会レベルではほとんどなく、それだけに私たちの『研究』編集では、台湾を忘れないようにしよう、と語り合ってきました。とくに第10号では、台湾の「社区総体営造」(地域づくり)施策の動きについて報告を掲載したいというのが一つのポイント。このテーマはまだ一度も『研究』に取りあげていないのです。
関連して日本では、小泉内閣の構造改革特区や地域再生の施策があり、4月から「地域再生法」の施行、内閣府におかれれている地域再生本部は早々に「NPO支援」を打ち出しています(朝日4月17日記事)。これらをどう評価していくか、台湾との比較ではどうか、地域の社会教育や公民館との関わりは?など検討すべき課題でしょう。
台湾スケジュールは、その後さらに具体化し、台北だけでなく高雄にも飛ぶことになりました。ホームページをご覧下さい。
1454号(2005年4月18日)
■<魯武鉉大統領の訴え>
4月週末、中国の主要都市では反日デモの思いがけない拡がり。新しい事態、いろんな影響が心配されます。中国だけではない、韓国でも。
雑誌『世界』5月号に韓国大統領の「三・一節記念演説」が収録されています。付されたタイトルは“日本の知性に訴える”。この演説は新聞等でも報じられましたが、全文(約3200字)を読んでみて、心に響くものがありました。
「三・一運動は、実に誇らしい歴史です。人間の自由と平等、国の自主と独立の権利を明らかにした三・一精神は、現在も人類社会と国際秩序の普遍的原理として尊重されています」という冒頭の一節。「国民の皆さん」への呼びかけ、「北東アジアの未来を共に開くべき運命共同体」としての韓国と日本、法的政治的関係の進展だけでなく「実質的な和解と協力」をどう重ねるかの呼びかけ。そして「日本の知性にもう一度訴えます」のくだり。次のように続きます。
「…真実なる自己反省の土台の上に韓日間の感情的なしこりを取りのけ、傷口が癒えるようにするため、先立ってくれなければなりません。それこそが、先進国であると自負する日本の知性的な姿です。そうしなければ、過去の束縛から抜け出すことはできません。いくら経済力が強く、軍備を強化したとしても、隣人の信頼を得て国際社会の指導的国家となるのは難しいことです。ドイツはそれをしました…」と。
同じ号に「ある大学の死−都立大学教員はいかに敗れていったか」のレポート(初見基)。切なくて、しばし眠れませんでした。
1453号(2005年4月15日)
■<空を飛ぶ魂>
前那覇市長の親泊康晴さんは、那覇の革新市政4期を担ってこられました。11日朝急逝、享年78歳。沖縄の両新聞は連日の追悼記事を載せています。
最初は東京でお会いしました。私たちはまだ沖縄研究をはじめたばかり。親泊さんもまだ市長ではなく、たしか琉球政府時代のお話を聞いたように記憶しています。そして那覇で、何度かお会いしてきました。ゆったりした体躯で、やさしくていねいに話をされる方でした。沖縄の革新勢力を代表されるお一人、惜しい方をなくしました。
この訃報と前後して、沖縄から安里英子さんの本2冊が届きました。『ハベルの詩』(2001、お茶の水書房)と『沖縄・共同体の夢』(2002、榕樹書林)。既報のパピリオン最後の夜に再会したご縁(風1445号)で送っていただいたのでしょう。安里さんには『揺れる聖域』(沖縄タイムス社)や『琉球弧の精神世界』(お茶の水書房)などの話題作がありますが、今回の『ハベルの詩』(ハベルとは蝶のこと)で、この人は詩人でもあることを再発見。たとえば、その一節。
「まどろみの中で 夢を見る
さなぎのように何度も体をくねらし
繭から脱皮すると
いつの間にか 悪夢が
銀河のようにサラサラ流れ 湖となる」(9頁)。
さらに続けて「すると 体が湖の底に沈み 私の 魂だけが 宙に舞い どこまでも 高く 空を飛ぶ」と続きます。なにか“神女”を思わせる世界。「空飛ぶケーテ・コルビッツ」(北ドイツ・ギュウストロウの教会に吊されているブロンズ彫刻)などに触発されて書いたそうですが、幽体離脱の現象というだけでなく、この現代の、思想や魂の自由を希求してうたっているように思えます。
あわてて(詩も歌もありませんが)『おきなわの社会教育』と『沖縄の字公民館研究』3,を送りました。27年前、彼女に、中頭・やんばるの字公民館を案内してもらった日を想い起こしながら。
1452号(2005年4月13日)
■
<台湾滞在のスケジュール変更>
5月1日〜6日までの訪台日程は、当初案では台北から高雄に動く案でしたが、楊碧雲さん(台北市政府)などからの連絡では、台北だけにしたい(中央研究院の外国人宿舎を手配)という相談があり、「お任せします」と返事しました。この間、許銘欽さんや陳東園さん(いずれも東京学芸大学・院卒)などを含めて、台湾とのメールが飛び交い(ときどき文字化けで読めず)、嬉しい毎日です。楊碧雲さんからは「東アジア社会教育研究」全9冊をもってきてほしいと。これこそ、“嬉しい悲鳴”というべき。
さきほど同行予定の鄭任智さん(早稲田大・院)からのメール(Wed, 13 Apr
05 12:03)。「…私は東京発着の飛行機に乗りますので、ご一行が台湾に到着する前日、4月30日に台北に着きます。帰りの便のため同行できるのは5月1日〜4日(当日午後離脱予定)です。…泊まりについて今朝台北の楊碧雲さんに連絡を取り…中央研究院のほうに聞いてみないと分からないそうです。この宿舎が無理ならば、台北の友人のところに泊まる予定(以下略)」とのこと。
先日の電話では、山城千秋さんは迷っている様子。疑わしきは罰せず、迷いあれば動く、ともいいます。行きましょうよ! 沖縄からは、東京より台北へ出る方が近いし安いし(那覇−台北往復、4万円)、昔のようにビザを用意する必要もないし・・・、これからも気軽に台北と往来する道を拓いていただきたいもの。
今回は、とくに楊碧雲さんから「東アジア」9冊を持ってきてほしいとリクエストされたのが何より嬉しい。創刊号はもう在庫なし。なけなしの保存分から持参したいと思っています。石倉事務局長、ご了承を。
1451号(2005年4月12日)
■
<春の雨>
花粉症避難の沖縄から帰って、10日が経過しました。完全に直っていた症状は、2日間で見事?にもとに戻りました。安井家資料のデーターベース化作業(3日)や公民館学会の定例研究会(4日)までは、なんとかもちましたが、その後は外出がつらい。お酒もおいしくない。
昨年12月の福建省・生涯教育フォーラムに提出した発表レジメ、その中国語訳を急ぎお願いしてそのままになっていた胡興智さん(日中学院)と、日本が心配?で英国から帰国したばかりの古市直子さん(岩本陽児氏つれあい)の二人を誘って夕食をしました(5日夜)。場所は上野だ、桜は満開だというわけで、食後に不忍池のほとりを少し散策。しかし帰宅したあとの夜はまったくつらい症状!
花見どころではない!
例年だと四月はじめの桜の季節は、杉花粉症状は一段落して、花を楽しむ散歩などしてきたものですが、ことしはダメ。しかも東京は連日の晴天、はるかに霞む春景色・・・はすべて花粉に汚染された風景そのもの。とくに風の強い日などは怖い。ひたすら外出を控え、お酒も断って、つらい四月の初旬を過ごしてきました。
信州では、山から白煙が立ちのぼって「すわ!山火事だ!」と消防車が出動。ところが杉林から飛散する花粉の煙だったそうです。そのTVニュースをみただけで、鼻がむずむず、精神的な花粉症状になりました。いやな四月になったもの。土筆とりに行ったり、花見や潮干狩りを楽しんだり、あの幼き日の華やぐ春の季節を奪ってしまったのは誰か!と憤慨しても詮無きことか。
今日11日、東京にはようやく雨が降ってきました。雨よ降れ、大気を洗い清めよ、桜は散っても構わない、花はいずれ散る定めだ、わが心をひととき春の気分に戻してほしい。いま安らぎの春の雨。
*南の風・ぶんじん日誌(1401号〜1450号)
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