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南の風・末尾記事(ぶんじん日誌)
1350号(2004年10月6日)
◆<「気」の「やすめ」、「足やすめ」>
いま静養中ということもあって、五木寛之の文章が気になります。ほぼ同じ世代、その生き方とともに、自らの体調や健康法のことが率直に語られていて、触発されることが少なくありません。むかし彼の講演を聞いて帰ってきたある学生が、ぶんじんの「語り口と似ている」と言ったことを思い出したり。きっと、かすかな九州なまりがそんな感想になったのでしょう。
「みみずくの夜メール(110)」(朝日、10月4日)で「生活力」という言葉を面白く分析しています。「ふつう一般にいう生活能力」ではなく、「生」の「活力」が重要だというのです。いわば「生・活力」。生の活力がおちてくると、いろんな不都合が体に生じてくる。個別の対症療法ではなく、むしろその活力を回復することが大事だ。とりあえず眠ることだ。アルコールを飲まず、活字を読まず、すべてをやめて、ただごろんと横たわって、静かに息をしている。「一日中ずっと息をひそめて死んだふりをしていたら、少しずつ体調が回復していくような実感があった」と書いています。
そして五つの「やすめ」。まず「気やすめ」。といってもその場かぎりの適当な安心でなく、「気」をやすめること。つぎに「箸やすめ」、そして「骨やすめ」「目やすめ」「口やすめ」だと。
一つひとつ妙に共感するところがあります。「骨やすめ」にしても、仕事の合間に休憩することでなく、日々、過大な負担に耐え、重力に抗して体を支えている骨を横にしてやすめること。
いま「足やすめ」をしている当人として、まったく納得。あわせて、「知の活力」がまだ残っているだろうか、など考えながら、ごろんとしています。
1349号(2004年10月4日)
◆<大都市(横浜)の小さな地域づくり>
伊東秀明さんは横浜・磯子区役所の公務員(地域振興課、社会教育主事)です。市民の学びネットワークづくりに奮闘中。
その仕事ぶり、これぞ(公民館という施設はないけれど)ほんものの現代「公民館主事」ではないかと思われます。旧「公民館の風」をヒントに「メール・
マナビン」(“学ばんとほっす”人たちのためのメールマガジン)というネット通信を発行され、現在245号、ほとんど毎日?の配信、「南の風」も脱帽。
ご存知のように横浜市は公民館を設置してきませんでした。そういうなかで、市民の学習・文化活動をどのように拡げていくか、大都市のなかの小さな地域づくり、への挑戦、とも言えましょう。
伊東さんからは、2ヶ月ほど前に次のような一文が寄せられました。「横浜に公民館がない」ことについての誌上シンポと関連して、短文ながら興味深いものあり、そのうち伊東さんにお会いする折り、その構想を詳しく聞こうと大事に保存していたメール(Fri,
30 Jul 2004 08:28)です。
「…(略)磯子区内に学習活動の拠点を作ろうという話しを地域の人と始めました。少なくとも10〜12は必要なんじゃないかと思います。
既存の施設を活用するのか、空き店舗や住宅を活用するのか、そして何より大切なことは拠点に“伊東”のような人間がいることです!」と。 「空き店舗や住宅を活用」のくだりは、ドイツの自主管理的な社会文化センターづくりの発想を一部想起させるところがありますね。そして、そこに“人”が躍動する必要があるという。大都市のなかでの小さな地域づくりと拠点論、ほんらい公民館とはなにか、の原風景をみる思いです。他方で、立派な公民館の施設をもちながら、また職員も配置しながら、そういう地域へのまなざしをもたない場合も少なくありません。ただ、この磯子構想、どのように実現の道すじをつくっていけるか?
日本公民館学会・定例研究会では、11月8日に磯子区と伊東さんを訪ね、市民の皆さんとも交流する予定です。会場は区役所横の磯子地域ケアプラザ、13:30〜市民の学習グループ連絡会に参加、18:00〜伊東さんの報告と討論。案内はTOAFAECホームページにも掲載しています。参加歓迎!
1348号(2004年10月3日)
◆<TOAFAEC 研究会の移り変わり、私たちの歩む道>
研究会100回の歩みは、幸いに『東アジア社会教育研究』1号〜9号の末尾に掲載してきました。研究会(1995年6月発足)の歳月と、研究年報(1996年9月創刊)の歴史がほぼ重なるのです。
研究会の歩みは、活発なときもありましたが、とくに初期は低調な一時期もあり、小林・内田(当時の事務局長)を含めて参加者わずか数人というときなど、ひそかに「そろそろ閉幕か・・・」とつぶやいたこともありました。
たどたどしい研究会の道程も、毎号の『研究』に記録されることによって、(歳月のなかで風化・霧消するのでなく)かすかに歴史に足跡を残すことになります。「南の風」もそうですが、陽炎(かげろう)の如き動きが、それなりに実像化していくところがあります。継続が大事ですが、その記録化もまた大切なのでね。
虚像はそのまま虚ろに消えさる運命にありながら、実像化する可能性をもっている。それを“創造”というのかもしれない。私たちはもっと臆せずに“虚像”創りに努めるべきかもしれない、それを(記録化を含めて)かたちにしていく積み重ねが必要なのではないか、と思うのです。こうして研究会が100回を迎え、月並みの台詞ですが、まことに感慨新たなものがあります。
昨日(1日)の賑やかだった研究会を想い起こしながら、ほぼ10年の歳月の大きな変遷を実感しています。一つは、東京学芸大学社会教育研究室のゼミ集団からの脱皮、二つは、沖縄中心の研究会から東アジアの視野をもつ研究交流への拡がり、三つは、とくに各国・地域からの留学生を含む若い世代の参加、です。
私たちはお互いの出会いを楽しみながら、案外と面白い道を歩み始めているようです。
付記:100回研究会の写真は別のページにもアップ
(こちら)しました。もしお好きでない画像があればご一報を。すぐに別のものに差し替えます。
▼第100回研究会、永福・メープルハウス(20041001)
1347号(2004年10月1日)
◆<上海への返報>
上海で開かれる「学習型社区の創建に関する国際フォーラム」(11月4日〜7日、風1334号に既報)への参加については、小林文人、上野景三、内田純一、黄丹青の4人をエントリーしています(同組織委員会宛、風1336号)。日本から、どういう報告・問題提起をするか、そろそろ相談しなければならないな、と思っていたところで、上海からは正式の参加登録書提出を求める書状が来ています(上記・黄メール)。
小生の怪我の正式診断は、右下肢(ふくらはぎ)の「不全断裂」、全治2ヶ月とのことです。上海フォーラムの11月初旬にどんな状態になっているか(きっと治っているとは思いますが)いささか自信がありません。あと1〜2週間経てば見通しがつくでしょうが、いまの段階では、先方からの公式招待枠2人は、上野・内田のお二人で提出していただけませんか。その方が安全でしょう。もちろん小生も(10月中の完治を祈って)参加する方向でいますが、国内はともかく、国外の旅行はあまり無理ができませんので。
お二人でどういうプレゼンティションをするか、先方が提示してきたテーマにそいつつ、検討を始めて下さい。
ところで10月1日は私たちのTOAFAEC 研究会が歩み始めて(1995年6月2日、国立公民館)、ちょうど100回目の定例会。東京学芸大学・社会教育研究室時代の沖縄社会教育研究会など三つの研究会の歴史から通算すると…、もはや数えることが出来ない歳月となりました。皆さん、100回記念の研究会、奮ってご参加下さい。会場は井頭線の(いつもの高井戸ではなく)永福町から歩いて3分ほどの「永福和泉区民センター(第一集会室)」です。お間違いなく(ホームページに案内)。
1346号(2004年9月30日)
◆<和光大学・旧プロゼミ・なんでもゼミ>
近くの整形外科ドクターが「できればギブスに松葉杖を」とすすめたことが気になっています。怪我発生が旅行中、その後の八重山行きなど、あまり安静にしてこなかったことの反省あり。
小生には少年時代(旧制中学1年、60年前)に大腿骨骨折という大怪我があり、2ヶ月ほどギブスを巻いて入院していました。寝たきりの毎日とその後の松葉杖・リハビリのつらい思い出。(しかしそのお陰で、旧・陸軍幼年学校を受験する機会を逸し、当時は残念でしたが、今になって振り返れば結果的によかったのです。父が用意してくれた本をよく読みましたし。怪我の功名というべきか。)
ギブスだけはご免蒙りたい、松葉杖は棄ててしまいたい、少年の忘れがたい体験がまざまざと蘇ってきます。
28日夕より、和光大学の旧プロゼミ(1年生ゼミ)有志による「ぶんじん・なんでもゼミ」の予定あり。3年前の新入学生たちが今年は4年。就職や卒論に悩むもの少なからず、「ぶんじんゼミ」開講の要請を受けて、ときどき開いているのです。
いま安静治療中の身、事情を話して中止にしてもらおうか、とつおいつ、思案投首。しかし(日頃あまり大学に出てこない学生を含めて)せっかく若い諸君が自主ゼミを申し出てくる経過を考えると・・・やはり行くべきだろうと。知り合いの個人タクシーにお願いし、往復のタクシー代を奮発して出かけました。行き先は懐かしの大学前「のむぎ」。ビールは控えましたが、面白いゼミとなりました。(HPに写真アップ)
むかし、専任教授の身分ならば直ちに(これ幸いと)休講の掲示を出すはずなのに・・・おかしなものです。30日の朝倉書店関連の早稲田大学訪問は中止にしてもらいました。台風襲来のこともあり、新保さん、お許し下さい。
1345号(2004年9月28日)
◆
<「島クトゥバで語る戦世」>
前号・日誌の「島クトゥバで語る戦世(いくさゆ)」に関する記述のなかで、「1000人」の記録をめざし、と書きました。千人のオジーやオバーたちに、沖縄・シマの言葉で、戦争の記憶、さらに祭りや民俗や民話などを語ってもらおうという記録運動。これは、たいへんな構想です。
「琉球弧を記録する会」が、昨年秋に刊行した『島クトゥバで語る戦世』の副題は「100人の記憶」。千人より一桁少ない数ですが、すでに百人をこえる証言・聞き書きを収録。沖縄本島だけでなく、宮古、八重山、久米島、伊是名、渡嘉敷等の離島にも及び、容易な作業ではありません。大学・研究者のありきたりの調査活動とは比較にならない密度と深度、そして情熱です。
「琉球弧を記録する会」とは、読谷村楚辺区の比嘉豊光(写真家、代表)さん、村山友江さんたちの活動です。お二人は、私たちを圧倒した楚辺区の字誌(集落誌)『戦争編』(700頁、1992年)『民俗編』(900頁、1999年)等をまとめあげました。その作業を通して、視野を琉球弧にひろげ、「失われつつある言語文化(方言)」を、戦争、祭祀、民話、民俗・風景等から捉え、音声と映像で記録することを目的に1996年に設立されました。コンピューター・エンジニヤ、ビデオ・インストラクターなども加わり、本格的な活動へ(同書、村山友江)。上記・ビデオ「島クトゥバで語る戦世」はその成果の一つなのです。
東京に帰って、読谷「ゆめあーる」へ電話しました。幸いに比嘉・村山のお二人ともに在室、久しぶりに話しました。ビデオを佐喜真美術館で観たこと、島クトゥバは分からないが印象的な作品だ、1本ぜひ頒けてほしいとお願いしました。まずは「記録」することが目的、当面は頒布することは考えていないとのことでした。
10月1〜2日、東京・お茶の水のアテネ・フランセで「島クトゥバで語る戦世」上映会が行われるそうです。
1344号(2004年9月27日)
◆<杖ついて沖縄本島駆けめぐる>
9月24日の旅日誌。内田純一さん運転のレンタカーで、那覇より名護へ、実り多い1日となりました。もちろん小生は杖をついての移動です。当初は、名護まで運んでもらって、宿で静かにしていようかとも思ったのですが、沖縄に来れば、なにか心は動くものあり(少々無理しながら)終日車に乗っていました。以下簡単な記録を記しておきましょう。写真数枚をさきほどホームページにアップしました。
午前、まず沖縄国際大学、米軍ヘリ墜落現場跡へ。こんな住宅密集地帯に落ちたのかと慄然!
1本の黒焦げの木が印象的(写真)。
すぐ近くの佐喜真美術館へ。佐喜真館長にお願いして、比嘉豊光・村山友江(楚辺区)のお二人によるビデオ映像「島クトバで語る戦世」を見せて頂きました(風1341号に関連記事)。聞けば「1000人」の記録を目ざし、そのなかの波平区2人の証言。ナチとユダヤ人悲劇の証言記録映画「ショアー」(クロード・ランズマン監督)を思い出しました。「ショアー」はたしか38人の証言でしたが、すでに「100人の記憶」(昨年秋の刊行)。ビデオの聞き手・知花昌一さんの歌・三線もなかなかの出来映え。字幕もあり、ビデオ1本を私たちの研究会にとお願いしておきました。
昼は宜野湾市役所前のレストランで久しぶり玉那覇正幸さん(同市役所児童課長、もと社会教育主事)と。いま注目されている伊波洋一市長の話題など。
午後は東海岸へ。金武町伊芸区の米軍基地内ゲリラ訓練・都市型施設反対闘争・監視台に立ち寄りました(写真)。並里区公民館へは寄らず、宜野座村へ。惣慶区公民館で短い調査活動(区の育英会活動について)。さらに隣の宜野座区公民館では城間盛春さん(宜野座村議会議長、もと区公民館長)と数年ぶりの再会。
そして名護へ。屋部区では「八月踊り」のワカリ(別れ、第3日)当日、まだ夜のプログラムは始まっていませんでした。お月さまが中天に輝く頃、山原島酒之会「カミムエー」(瓶模合い、津波木工店の中庭)で皆さんと歓談。この夜もお酒は控えましたよ。足の痛みを忘れる1日。
25日夕刻、無事に羽田着。1日遅れれば台風で飛べず、危ないところでした。皆さまにご心配かけ、お世話になり、まことに有り難うございました。
1343号(2004年9月24日)
◆<那覇からの「南の風」>
日本社会教育学会の懇親会(9月18日夜、同志社大学)の席上、北海道の千田忠さん(上記)から「南の風」配信の希望が寄せられました。本号からアドレス帳に登録いたしました。
まだ風メンバーが少なかった初期の頃は「南の風をどうぞ・・・」とキャンペーンをはった時期がありましたが、最近は100名近く、やや定員オーバーの感あり、呼びかけなど控えています。メンバー数が多くなると、送られるメールをすべて掲載できない(風発行の回数もふえる)からです。
いま静かに発行しています。しかし、門を閉ざしているわけではありません。ご希望があれば、できるだけご要望に応えたい。とくに孤独に頑張っている海外・留学生にとっての応援の風(広場)でありたい、と考えています。まわりにそんな留学生がいれば(風は双方向性に吹く原則を含めて)ご紹介下さい。
千田さんは「北の大地」の人、どこで「南の風」を知られたのでしょう?「南の風」の命名は、私たちの沖縄研究から由来しています。創刊号(1998年2月6日)は沖縄研究再開の呼びかけで始まりました。その後はさらに「東アジア」に視野を広げていますが・・・。どうぞよろしくお付き合い下さい。
ところで私たちの八重山の旅日誌。農中茂徳さんが滞在わずか1日で帰り、島袋正敏さんとも別れ、内田純一さんとともに23日に那覇へ到着しました。夜は久しぶりに新垣重雄さん(社大党・前書記長)と会い、歓談。沖縄と現代を論じあいました。ほんらいは「飲みました」と書くところですが、いまドクター・ストップ中、酒は(乾杯程度はお許し頂いて・・・)きちんと控えています。黄丹青さん、ご安心下さい。鷲尾真由美さんもご一緒でした。懐かしの「あんつく」(一銀通)にて。
1342号(2004年9月23日)
◆<八重山・平久保へ>
21日出発の八重山・平久保訪問(「ぶんじん歌碑」建立1周年)に出かけるかどうか、ずいぶん迷いました。大阪・大都市社会教育研究の「集い」へ行く途中に怪我(19日、風・前号)があったからです。
結局は行くことに。平久保の受け入れ準備が進んでいること、同行の皆さん(島袋正敏、農中茂徳、内田純一など各氏)にも申しわけないという思い、大阪から帰ってからの経過がそう悪くはない、など考えつつ、石垣市の渡慶次賢康さん(元八重山事務所社会教育主事・石垣中学校長)に事態をありのままお話しし「ご迷惑をかけるかも・・・」と恐縮しながら、杖をついて、予定の飛行機に乗りました。
那覇の乗継ぎの時間が慌ただしい。いま歩くのに不自由な身、空港で初めて車椅子をお願いしました。大事にしてもらっていい気分。
石垣空港に到着して、その足で昨年オープンしたばかりの徳州会病院へ。連休のため大阪でも東京でも病院に行けなかったのです。5時を過ぎていましたが、レントゲンはもちろん、MRI(磁気断層撮影)の検査も。付き添いは賢康先生。骨折はないが、下肢「肉離れ」という診断でした。やれやれ。
そういえば、大阪地下鉄での、あの瞬間の、電撃をうけたような異様な衝撃! 転倒をくいとめたわが足の「踏ん張り」、しかし踏ん張り過ぎたが故の筋肉の悲鳴。
「アルコール?もちろんダメ!」とドクター。しばらくは自重しなければなりません。実に・・・残念至極。
しかし、無理をおして来てよかった! 1年ぶりの平久保、しみじみと幸せを実感した1日でした。22日・平久保日誌、内田さんからでも風に寄せてください。
1341号(2004年9月21日)
◆<京都・大阪から帰って>
日本社会教育学会・同志社大学では皆さまにお世話になりました。とくに国生寿さん(同大教授)には、会議室の手配や(魯在化さんを含めて)ホテルのことなど面倒をかけてしまいました。親しさに甘えてのいろいろのお願い、少々反省しています。お許し下さい。
今回は久しぶりの京都、あと少し歩き回りたかったのですが、スケジュールがぎっしり。それなりに充実感あり、また残念な思いもあり・・・そのうち別の機会があるでしょう。
19日午後に、大阪(大都市社会教育研究と交流の集い、第27回)へ移動。この「集い」が発足して、もう25年を過ぎたのかと・・・感慨新たなものがありました。社会教育の研究者有志と自治体(大都市)教育労働組合関係者との間の友情のようなものが見事?定着したようです。今回とくにそんな印象をもちました。これからの継続も疑いなし!
ところが、ぶんじんに失敗あり。大阪の地下鉄の階段を急ぎ降りる際に転びそうになり、やっと踏みとどまったものの、蹈鞴(たたら)をふんで、ふくらはぎを痛めてしまいました。若い世代と一緒に階段を走るのは、もう諦めなければなりません。これからは、ゆっくりゆっくりを心がけよ、という天の声か。やや足早に、というのが好きなんですが。
夜の交流会では、アルコールを抑えて大いに欲求不満。予定を早めて20日早朝に帰京しました。杖を買いに走ってもらったり、とくに大阪市教育支部の皆さんにたいへんご迷惑をおかけしました。帰宅していま蟄居謹慎中。ご心配いただいた方々に御礼申し上げます。
付:関西滞在中の写真をいくつか選んで、さきほどHPにアップしました。国生寿さん、上野景三さんはじめ顔が出ている各位、もし控えるべきであれば折り返しご一報下さい。すぐ差し替えますので。
1340号(2004年9月19日)
◆<京都御所、蛤御門の近く>
沖縄タイムスの連載「潮騒のうた」シリーズ、今日(9/18)50回は日本最西端の与那国・久部良の港風景。カジキの写真も驚きですが、南の風は写真を添付しない原則、お許し下さい。かってこの岬に佇んで台湾の遠望をなんどか探したのですが、いまだその機会に接することなし。
さて京都滞在日誌。いま御所・蛤御門のすぐ前、同志社大学から歩いても10分たらずのホテルに滞在中です。京都の夜、御所の周辺を歩くと、なぜかいつも、もの悲しいのです。まちのど真ん中になんとも広大な御所、ちろちろなく虫の音も寂しげ。
17日、学会初日の昼、朝倉書店「辞典」づくり編集委員会が開かれました。思いのほか沢山の方々が集まり、短い時間ながら、まずまずのスタートです。スケジュール通り進んでも3年近く、苦しみ(楽しみ?)たいと思っています。
夕刻は韓国本の編集委員会。韓国から魯在化さんが馳せ参じ、思いがけなく笹川孝一さん(法政大学)も出席。伊藤長和さんを中心に原稿集約に向けて最終スケジュールを確定しました。国生さんが席をとってくれた同志社大学・高級レストラン(寒梅館)で交流会。東京からは金子満さん(7月より文部科学省)が遅れて参加、小林平造さんの飛び入りもあり、賑やかなひときとに。日韓双方からこれまでの歩みがこもごも語られ、10年ほど前の日韓社会教育交流セミナーの夜(大邱)を想い出して、「友よ」「アチミスル」を歌いあいました。
18日(大会第2日)は研究発表、そして総会、懇親会。おわって四条河原町あたりで2次会。そのあとまた・・・とやや疲れました。ご心配かけた魯在化さんの宿は、伊藤さんとの相部屋で切り抜けたかたち。
19日・学会最終日。終わって京都から大阪へ移動、「大都市社会教育研究と交流の集い」へ参加予定です。
『東アジア社会教育研究』第9号は1500円の会員頒布額となり、やや高いのかな?昨年のような売れ行きならず。内容的にはいい出来なのですが、すぐ売れ行きに結びつかない?
皆さん販売にご協力下さい。
川崎の小田切さんが、(第1338号の呼びかけに応えて早速に)特別維持会員になっていただいたそうで、感激しました。法政大学(笹川学部長)は2セット購入の申し出。会員の皆さん、大学研究室や図書館にぜひセット購入を検討いただけませんか。
1339号(2004年9月17日)
◆<京都の夜>
16日夜、京都に来ています。日本社会教育学会(同志社大学)です。大会前日から沖縄研究会を開いています。科研費(代表・松田武雄氏・九州大学)による研究プロジェクト。末本誠さん(神戸大学)、中村誠司さん(名桜大学)、小林平造さん(鹿児島大学)、上野景三さん(佐
賀大学)、山城千秋さん(九州大学、そのうち異動するらしい)など馴染みの皆さんと一緒です。同志社大学の会議室から「百万遍」の交差点近くの串カツ屋へ移動、さかんに飲みながら、文字通り歓談、いまホテルに帰ったところ。
ところが、伊藤長和さん(川崎)から韓国の魯在化さん(学会へ参加予定)のホテルの心配メールが届いていました。同志社大学の国生寿さん(教授)にもお願いして「海外からの参加、なんとかしてほしい」と無理強いしていますが、観光シーズンの京都の宿はなかなかとれない。
さて明日はどうなるか、綱渡りです。
同じ便で内田純一さんのメール。『東アジア社会教育研究』第9号が高知には届いたそうです。いい出来映えらしい。小生には、入れ違い?でまだ手にとっていません。明日が楽しみ。きっと同志社大学の学会大会事務局に到着していることでしょう。
やはり学会とはいいもの。年に一度、皆さんが集まって、昔の若さを取り戻しながら、楽しい一夜でした。
1338号(2004年9月16日)
◆<『東アジア社会教育研究』第9号の発刊御礼>
『研究』創刊は1996年、これまでの8冊のなかでもっとも厚い!総300ページ近くの大作。量だけでなく、質的にも読みごたえのある労作が並びました。とくに感慨深いのは、福建省の動き、上海の桃浦鎮、韓国の光明、富川などにみられる地方・自治体の資料を収録できたことです。東アジアの社会教育・生涯学習にもようやく自治・分権への潮流を感じています。
編集実務はあまり分散できず、どうしても孤独な作業になりがち。創刊号(1996年)から第6号までは内田純一さん(前事務局長)の奮闘。第7号の移行過程(内田・石倉の協同)を経て、第8号からは石倉祐志さん(現事務局長)が中心。第9号もこれまでと同じく、最終段階では暑い夜を寝ない作業が続いたはずです。ほんとにご苦労さまでした。
7月から8月、“風の部屋”での編集事務局会議、なんど集まったことでしょう。遠藤輝喜・山口真理子ほかの皆さんも参加、加えてぶんじん。皆さん、お疲れさま。ときには飲み過ぎた夜もありましたが。
第9号の話題は、何と言っても、前(第1323号)にも書いたように、呉遵民さんの中国語論文を千野陽一さんが日本語訳されたこと。長老の翻訳作業、しかも長文、これには驚きました。有り難うございました。あと一つは、印刷をアンティ多摩(江頭晃子さん)にお願いできたこと。どんな仕上がりになるか、楽しみです。
もちろんいくつもの課題も。編集実務の作業をなんとか孤独の体制から脱皮したい、編集事務局メンバーの拡充と実質的な参加の体制をつくりたい。そして、もちろん財政問題。特別維持会員(2万円、15冊送付)のご協力、また引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。新たに維持会員になってやろうという奇特な方、どこかにいらっしゃらないでしょうか?
1337号(2004年9月14日)
◆<夏も終わり、メール相次ぎ・・・>
昨日に引き続く毎日の風、お許し下さい。今日の東京、昼は残暑が続いていますが、夜の空気はさすがに涼しい。というわけでもないでしょうが、涼しい風に乗っていろいろメールや電話が届いています。
数ヶ月?もパソコンがうまく働かず、メールのやりとりが出来なかった山口真理子さんからニュー・パソコンの送信。
「 …略… 接続設定に来てくれるのは4時過ぎのはずだったのですが、うれしい予定変更で、早くなりました。このようにお便りできます。まずは“陸の孤島”状態から脱したことのみ、お知らせいたします」とのこと。一段落したら新しいパソコンで風を送って下さい。
ソウル・高麗大学(院)都築継雄さんからの電話。「(韓国本の)原稿は数日遅れます」と。真面目そのものの人柄がにじみでる会話。全体のスケジュールが大きく遅れていることをお詫びしておきました。
リュブリャーナ(スロヴェニア)の柳さんから第2信、しかし今度はなぜか激しい文字化け。再送をお願いいたします。この風は届いているかしら。
愛知川町の渡部幹雄さん、17日より京都で始まる日本社会教育学会に行けないというメール。「
…略… あいにく同志社大学へは行けそうにもありません。折角関西での学会なのですが・・」とのこと。相変わらず忙しそう。(お互いに?)そろそろ年だ、ご自愛下さい。
同志社大学の学会のあと、大阪で開かれる大都市社会教育研究と交流の集い(9月19日〜20日)、うっかりして申し込みを失念していました。幹事市の大阪(市職労教育支部、生駒さん)より催促のメールを頂き、恐縮してホテルなどお願いしました。
1336号(2004年9月13日)
◆<11月上海国際フォーラムへの参加>
1334号でご紹介した上海・社区創建(地域づくり)国際フォーラム(11月4〜7日)からの招待状について、関係の皆さんに早速ご検討いただき、感謝しています。9月10日までに参加の有無を返事することになっていましたので、同日朝に黄丹青さんを通して、4人参加の返事をいたしました。とりまとめにあたっていただいたのは上野景三さん(佐賀大学)、有り難うございました。
いまのところ参加者は上野、内田(純一)、黄、それに小林(文)の4人。日本からの報告をどう分担するか、内容をどうするかなど、追って相談いたしましょう。申し込み後に小林平造さんからも関心がある旨のメールが寄せられたそうです。招待枠2人と、それ以外の参加者について、ホテル等どのような扱いになるか、まだ分かりませんが、さらに同行希望の方が増えれば、ツアーを組むかたちで一緒に行きましょう。
ぶんじんは、11月下旬の別の訪中計画(既報)と接近していますので、随分迷いました。しかし、これまでの経過があり、皆さんの意見もあり、10日朝に参加を決断しました。この機会に久しぶりに閘北区行健職業学院や同「ぶんじん図書室」も訪問したいと思っています。
上海・国際フォーラムの準備、同組織委員会の連絡を含めて、上野さん、黄さん、どうぞよろしくお願いします。
付記;9月定例(第100回)研究会の日時および会場は(9月24日でなく)10月1日・永福和泉区民センターに変更いたしました。どうぞお間違いのないように。とくに横浜・伊東秀明さん、調布・山口真理子さんへ。
1335号(2004年9月11日)
◆<永福・マンション工事中>
いまの杉並区永福のマンションには1980年に引っ越してきました。もう25年近く住んでいることになります。その前の国立市には13年、その前の福岡・貝塚には3年、船橋にも3年・・・などと思い出していくと、永福がもっとも長く住んだ勘定になります。
このマンションは仮寓のつもりでした。福岡・油山に2階建の新居を構えたのが約30年前。どの時点で故郷に生活の本拠を移すか、時間の問題だったのです。しかしこの間の夫婦の論争?も含めて歳月は経過し、結局は東京にそのまま住み続けることに。福岡の親戚・知人はだんだんと少なくなり、東京の友人は毎年増えていく。とくに今回の富美の療養と病院の関係で、東京住まいはかなり決定的になった感じです。蔵書や所蔵資料の大部分を移してしまった文人としては、まだ、福岡に未練を残しているのですが・・・。
いま永福のマンションは大工事中。壁面タイルの総点検・補修、ベランダの防水や避難梯子の取り替え、鉄製手すりのアルミ化などなど。工期約2ヶ月。各戸かなりの負担もし、毎日の騒音、ベランダの植木鉢など一時どこかに移さねばならず、あまり楽しくない毎日です。
あらためて四半世紀近くの間に溜まった住居の澱のようなものを洗い捨てる必要があるようです。
小峯みずきさん、『日韓交流のさきがけ−浅川巧』(椙村彩、揺籃社、2004)届きました。これは面白そう。なにしろ中学2年生の夏休み自由研究ノートがもとになった本(椙村彩さんは高校1年)。有り難うございました。
1334号(2004年9月9日)
◆<上海からの誘い>
8月下旬に上海より社区活動に関する国際フォーラムの招待状が来ました。日程は11月4〜7日、2人の招待、これまでになく(初めて?)往復旅費も用意するとのこと。この国際フォーラム組織委員会は、上海市閘北区人民政府におかれていますが、私たちが1990年代より交流してきた同区社区大学(行健職業学院、旧業余大学)は、直接にタッチしていないようです。中国国内の社区教育実験都市(28)と外国からは欧米を含め5ヶ国前後へ招待状が出ているとのこと。
これとは別に、11月下旬に(呉遵民氏を介して)福建省「生涯教育条例」策定に向けての学術シンポジウムへの参加(あわせて福建師範大学の講義)を求められています。同じ月の上旬そして下旬に訪中というのは日程的にかなりハード。他方で、昨年末の上海教育出版社「現代社区教育の展望」刊行とのからみもあり、どう対応すべきか、いま迷っています。
関心ある方々の参加可能性(希望)、関連してご意見などお寄せいただければ幸い。もし参加希望の方が2人以上であれば、この機会にツアーを組む案もありうるでしょう。
この間、黄丹青さんから上海側の動きについてメール数回、積極的な意見もいただき、有り難うございました。
上海(成人教育・社区教育)と私たちの研究交流に関する最近数年の経過について、簡単なメモを以下に記しておきます。
<経過>
2001年11月 上海へ社区教育調査団(TOAFAEC)
2002年 7月 上海から訪日団・日本社会教育調査
(葉忠海団長より東アジア国際フォーラムの提案)
2002年11月 上海等「社区教育」調査報告書(佐賀大学)
2003年 9月 上海(華東師範大学等)訪問(小林、石倉、黄丹青)
2003年11月 上海教育出版社「現代社区教育の展望」刊行・祝賀会
(小林、末本、上野、伊藤、矢久保、美若など参加)
2004年 6月 葉忠海夫妻来日(歓迎会で上海国際フォーラムの具体案)
2004年 8月 上海・国際フォーラムへの招待状(今次)
1333号(2004年9月8日)
◆<激烈台風、被害はありませんか?>
相次ぐ台風の襲来。18号、まったく驚きました。沖縄では復帰後最大とのこと。古宇利島「区長日誌」ホームページが伝えるところでは、5日(日)・6日(月)が島のウンジャミ(海神祭)・豊年祭なのに18号直撃、すべて中止。強風下、神人(カミンチュ)の御願のみは行われたそうですが、「おまえは冷たいヤツだなぁ」「メッ!」とは小浜美千子さん(区長)の恨み節。
久留米の生家も古い家だけに心配。電話をすると「怖くて怖くて・・・ホテルに避難すべきだった」とのこと。すこし破損があり、馴染みの大工さんに連絡しても、大忙しで、すぐには来てくれない。近くの大木も無惨に倒れているそうです。
無人の福岡・油山の隠れ家もどうなっていることか。3本の白樺も生き残っているかしら。瓦が飛んだのではないか。すぐにでも行ってみたいところですが、抱え込んでいる原稿もあり・・・明日早朝、管理を頼んでいるNさんにお願いすることにしよう。
東京でもいま(8日午前零時)かなり吹き始めています。18号台風の目は、はるか日本海のかなただというのに・・・。恐るべき自然のエネルギー!
用意していた「ぶんじん日誌」を急遽差し替えて、沖縄・九州その他台風に吹かれた皆さまにお見舞いを申しあげます。
1332号(2004年9月6日)
◆<会津戦争の実相>
会津(社会教育研究全国集会)から帰って、遅れている原稿もあるのに、ひたすら会津近代史を読んでいます。薩長政権(官軍)に攻められた会津、戦争の顛末、あるいはその後の会津の自由民権(薩摩閥・三島通庸県令への抵抗)など。あらためて地域史、民衆史の視点から見る必要を痛感します。これほどまでに知らなかったのかという思い。
会津といへば、今まで白虎隊や娘子軍の壮絶な自刃や美談が語られてきました。しかし京都(新選組を含む)からの怨念うずまく「戦争」、その実相はまことに過酷そのものでした。その間の「奥羽越列藩同盟」の経過、藩の古い体制が(武力だけでなく)必須の情報をも確保できず、無惨に敗退していく悲劇、初めて知ることが少なくありませんでした。
慶応4年(明治元年、1868年、戊辰戦争の年)会津城下が占領されてどんなことが起こったのか。たとえば占領軍の略奪暴行。戦闘中から略奪品が買いあさられ、市場ができるほど。婦女子は捕らわれ、性の対象とされ監禁同様の暮らしを強いられた。拉致、監禁は各藩が競って行い、抵抗したものを全裸にし樹木に吊した例もあったそうです。(星亮一著『会津落城−戊辰戦争最大の悲劇』中公新書2003、p182)
薩長・占領軍は、会津藩兵を犯罪者とみなし、遺体の埋葬を禁じました。あちこちに放置された遺体は狐や狸や野犬に食いちぎられ、鳶や烏につつかれ、腐敗がすすみ、一部は白骨化し、城下は死臭ただよう地獄と化し、人々は鼻をふさいで歩いたとのこと。埋葬がかなったのはようやく半年後、3千人ほどの名前は確認、しかし詳細は把握できず・・・「死者数千人」と算定。凄まじい戦争だったのです。(同書、p192)
会津藩の下北・斗南への移住は明治3年、2800戸、約11万5千人の(陸路と海路の)苦しい旅。
1331号(2004年9月4日)
◆<海をこえる研究・交流の拡がり>
ボヤンバートルはいま北京にいるのか、フフホトにいるのか。今年3月のメールでは、北京中央民族大学(博士課程)でモンゴル学を深めている由でしたが、今日の便りでは内モンゴル師範大学(フフホト)からの呼びかけ。いずれにしても元気そうで何より。南の風メンバーで、どなたか研究提携を結ぶ方向を検討いただけないでしょうか。
いま海をこえて、新たな研究交流の動きが大きな潮流となってきたように思います。昨年の日中協力による「社区教育」の本づくり(上海教育出版社)がいい例です。おそらくこの本が契機となって、福建師範大学からの福建省「生涯教育条例」策定に向けた国際シンポジウム(11月下旬)呼びかけがあり、つい先日は、上海から「学習型社区の創建に関する国際フォーラム」(11月上旬)案内と招待状が届けられました。1998年当時からの上海「社区教育」研究グループには招待状を(上野景三さんを通して)別送します。ご意向をお寄せ下さい。
しかし同じ月に上旬・下旬と2回も中国を訪問するのは日程的に厳しいというのが正直のところ。呉遵民さん、経過をご存知ですか?どうしたものだろう?
黄丹青さんとも相談しながら対応していきたいと考えていますが、別の見方をすれば、むしろ嬉しい悲鳴?というべきか。
数日前に石倉祐志・編集長とともに、最終ゲラ読みを終え、やっと印刷にまわった「東アジア社会教育研究」第9号、ここにも海をこえて中国・台湾だけでなく、韓国からの報告や資料が盛り込まれました。予定通り9月18日(日本社会教育学会、於同志社大学)刊行の見込み。お楽しみに。
1330号(2004年9月2日)
◆<29日夜「沖縄を囲むつどい」>
全国集会の第二日夜「この指とまれ・沖縄の集い」はすっかり定着したようです。もう20年前後になりましょうか、当時の沖縄社会教育研究会(東京学芸大学・社会教育研究室)がよびかけて定番となってきました。
毎年の常連もあれば、初めての参加(松下拡さん、松岡伸也さん、伊東秀明さん等)、他のプログラムに出たあと?の参加や通りすがりの人などいろいろ。珍しいところでは、中村誠司さん(名桜大学)とのご縁もあり、北海道西興部(にしおこっぺ)鎌谷俊夫さんなどオホーツクの方々、東北大学・高橋満さんも最後までお付き合いいただきました。
今年の目玉は、なんといっても全国集会初参加の松田毅さん(この4月より名護市社会教育課長)の古武道演技と、秘蔵の古酒カメから汲んできた中村誠司さんの山原島酒2本。したたかに酔いました。
松田毅さんが空手の達人とは聞いていましたが、これほどの迫力とは知らず。2本の鎌やクサリ?などの武具を持参しての、裂帛の気合、迫真の演技。介添えは宮里幹成さん(名護市社会教育主事)。写真をホームページに数葉掲げておきました。全国集会も44回にして初めて琉球古武道に出会ったかたち。
私たちの研究会はいつも歌をうたう習わしです。名護「二見情話」は松田毅さんの名調子、文武両道とはこのことか。この名歌は、その昔いつも稲嶺進さん(もと社会教育主事、この7月に収入役より教育長に就任とのこと)に無理強いしてきた思い出もあり、懐かしい限り。
当夜の幹事役は邑楽町・石原照盛さん。海勢頭豊の歌詞を用意していました(月桃、喜瀬武原など)。さすが!
ところがいつもの歌姫がいない。年寄りのぶんじんが歌わせられる始末とあいなり、これは最悪の出来でした。
1329号(2004年8月31日)
◆<会津・全国集会>
今年の社会教育研究集会、会津は涼し過ぎる夜でした。集会第一日の恒例・交流集会はホテルの駐車場広場、半袖の夏姿ではやや寒く、売店で買った安物ジャンバーを着こんでの交流会となりました。そのあと福岡(来年度の全国集会)と北九州の会に乱入、沖縄からの中村誠司さんも来て、歌もうたいました。
そのあと誰か?と飲んで・・・部屋に帰ったのは午前1時近く。初日から少々飲み過ぎだ。
第2日、分科会(畳の部屋、終日座りっぱなし)の苦行。「自治公民館(集落、小地域活動)の可能性を考える」について約1時間の話を求められ、「自治公民館論争」にもふれるようにとのことで、少し肩に力が入ってしまいました。このレジメはさきほどホームページにアップ。
2002年・沖縄集会(字公民館)を起点とする集落・小地域活動を解明していこうとする分科会は今年で3年目。全国の多様な事例をあつめ、論議を重ねて、5年後を目標に1冊のまとめにつくろうと提案しているところ。
そして夜は「沖縄を囲む」集い。大勢の人が集まってきました。この夜の話はいろいろあって、簡単に書けない。次号まわしにしましょう。
第3日、全国集会最終日、長野県栄村の高橋彦芳村長の「小さくとも輝く」村での奮闘記。いいお話しでした。
午後、遠藤輝喜さんの車で会津若松へ。中村誠司さん、稲富和美さんなど同行5人。飯盛山・白虎隊自刃の碑のところでは、松本の皆さんとばったり!(手塚英男さん、矢久保学さん、小峰みずきさんなど)
いま遠藤家で飲みながら・・・夜の更けるのを忘れて、話は続いています。中村誠司さんも静かに飲んでいます。会津でもすこし風が出てきたようです。
1328号(2004年8月28日)
◆<全国集会・猪苗代へ>
今日(28日)から第44回社会教育研究全国集会(福島・猪苗代)。振り返ってみると、社会教育推進全国協議会(社全協)の結成総会となった第3回集会(神奈川・金沢文庫、1963年)からの参加です。もう40年をこえました。東京学芸大学・学生部長(当時)の公務でどうしても行けなかった年や、和光大学の在外研究でドイツに遊んでいた夏を除いて、あとはすべて出席。毎年、ぶんじんの夏は全国集会で終わり。自分ながら、よくぞ続いてきたものだ、と感心しています。
しかし、今年は巨大台風16号が太平洋上に。すでに西日本には影響が出はじめて、全国集会行きを見合わせる人もあるようです。沖縄から参加予定の中村誠司さん(名桜大学)や松田毅さん(名護市社会教育課長、空手の達人)、宮里幹成さん(名護市社会教育主事、42回名護集会を裏方で頑張った)など、うまく本土へ渡ったかしら。心配のしすぎかもしれないが、帰路の飛行機は飛ぶかな、などと気になります。
集会終了後には会津を歩く計画があります。沖縄の皆さんをお誘いしていますが・・・。会津はTOAFAEC
事務局・遠藤輝喜さん(渋谷区社会教育主事)の故郷、みんなで遠藤さんの生家に泊り、お酒を汲みかわそうという算段なのですが・・・。台風のことがいつも気になる全国集会。会津を歩く計画が実現するかどうか、心配しながらの旅立ちです。
1327号(2004年8月26日)
◆<戦後日本の社会教育経験>
今夏の台風の襲来、もうたくさんだ。大型の第17号は石垣・与那国をのろのろと通過してやっと台湾に去ったようですが、被害が心配されます。八重山毎日新聞によれば、24日の石垣島では瞬間風速56メートルを観測したそうです。そして、さらに巨大な第16号が週末には日本を襲うらしい。なんと910ヘクトパスカル!また全国集会を直撃するのか?2002年・沖縄集会の緊張を思い出しますね。
さて、ハノイからの津久井純くんの問いかけも(内容的に)巨大なテーマです。戦後日本の社会教育はどのように現代の発展途上国の「教育協力に役に立つ」のか。実は上記メールはもっと長く、刺激的(社会教育の分野は研究者が少ない、資料や方法論が集約されていない等)ですが、内部資料のようなので、掲載は控えました。社会教育研究者は決して少なくない!かなりの研究蓄積がある!しかし・・・。
思いつくままに、「戦後日本の社会教育経験」として注目されてよいテーマを10点ほど列挙してみます。
1,戦後初期の公民館活動と地域づくり
2,地域の文庫活動と公共図書館づくりへの胎動
3,青年のサークル(たまり場)活動と共同学習運動
4,初期「婦人学級」と女性の学習
5,異民族支配下の沖縄の字(集落)公民館活動
6,環境問題に取り組む住民活動と拠点としての公民館
7,青空子ども会、子どもを守る運動、子育てネットワークなど
8,地域博物館の思想と運動
9,障害者青年学級の潮流
10,識字実践としての被差別部落の識字学級や夜間中学運動
文献はいろいろあると思いますが、さしあたり横山宏・小林文人共編『公民館史資料集成』(エイデル研究所、1988年)をあげておきましょう。しかし、たしかに(高度識字社会を反映して)識字教育の実践は少なく、また職業訓練や技術教育の取り組みは、社会教育の領域からは分離されている。日本の社会教育はノン・ボケーショナルなのです。
1326号(2004年8月24日)
◆<第9号編集会議、いよいよ最終作業>
皆さん、如何お過ごしですか? 東京も涼しくなりました。夏の終わり、元気が出るような出ないような・・・。
23日夜は“風の部屋”で最終?の第9号編集事務局会議。石倉・遠藤・小林のいつものメンバーに、会計の山口真理子さんも駆けつけていただき、第9号刊行見通しのお祝い?ビールやワインを飲みながらの作業(いつも飲んでいる!)。今年から印刷は(きちんと見積りもとって)、江頭晃子さんたちの「アンティ多摩」にお願いすることになりました。どうぞよろしく。250頁をこえる大作、400部を印刷予定。
かねてお願いしていた松岡伸也さん(貝塚市、社全協副委員長)からは新しい表紙(案)やカットが石倉編集長あてにたくさん送られてきたそうです。深夜の石倉メール;
「いま帰宅しました。松岡先生から郵便到着。沖縄スケッチなどのすばらしいカット多数。そのうえ表紙デザインまであり。(略)カットはスキャンして、これからメール添付で・・」(Tue,
24 Aug 2004 00:24)
松岡さん、約束を忘れず、有り難うございました。予定原稿もほぼ完全に揃いました。あと1,2本の未着原稿は来年の楽しみに残しておくかたちか。
初期のころ内田純一さん(前編集長)と「第3号までもつかしら・・」など自嘲気味だった頃を思い出し、いささかの感慨にふけりました。
24日午前3時頃に第9号関連の仕事(日本語訳の手直しなど)は一応すべて終了。深夜便メールで送信。あとは石倉編集長の頑張りに期待するのみ、という段階に到達しました。ご協力いただいた皆さん、今年も有り難う!来年の10号への歩みを始めましょう。
1325号(2004年8月22日)
◆<八重山・平久保訪問のスケジュール、参加歓迎!>
昨年9月末、八重山・平久保に「ぶんじん歌碑」が建立されて早くも1年が経過しました。そこで、9月下旬に平久保を再訪しようという計画が浮上したのは既報の通り(1311号など)。その後、島袋正敏さんからは「日程調整を・・・」というメールが届き、9月21〜23日あたりの線でほぼ確定しそうです。関心をお持ちの方々、ご都合は如何でしょうか。
正敏さんからは「平久保行きは、内田さん提案の日程、20日〜23日がいいですね。24日はカーミムエー、10月5日から9日までは中国武漢での泡盛サミットですから…」(Fri,
30 Jul 2004 )とのこと。
先日、福岡で森山沾一さん(福岡県立大学、歌碑のきっかけとなった10数年前の平久保・浜遊びのメンバー)と会った折り、都合を聞いたところ、参加できる気配でした。また、石垣の渡慶次賢康さんにも電話で打診、OKです、という返事。歌碑守?の米盛三千弘さんにも早速連絡して、日が決まれば、再び舟を出し網をはり、浜遊びの計画をつくりましょう、皆さんお揃いでお出かけ下さい、など声がはずみました。
ご承知のように、私たちは9月17日から20日までは京都で日本社会教育学会、続いて大阪「大都市社会教育研究の集い」です。動けるのは21日から。内田純一さんから届いた今日のメール;
「(略)さて、HPにあります日程(21〜24日)で八重山訪問計画を立てております。学会・大都市研に続いて大阪から石垣に入り、帰りは高知便がないので、福岡経由になりそうです。宿・車も含め詳細はこれから詰めるとして、まずはご連絡申し上げます。」
9月24日はTOAFAEC 定例(100回記念)研究会を予定していましたが、数日前の(第9号編集)事務局会議で平久保訪問計画の経過を説明し、1週間延期(10月1日予定)してもらうことになりました。
これでほぼお膳立ては整いました。平久保訪問は9月22日として、前後にそれぞれ個別の計画をたてるようにしてはどうでしょうか。ぶんじんは21日に八重山入り、帰途は24日に本島に渡り、できれば名護(山原島酒之会)カーミムエーにも参加し、さらに日程がとれれば数日の字公民館調査を考えています。(予約はお早めに。23日の祝日をはさみますから、飛行機は案外と混む?今だとまだ早割の席がある?)
浜には月、22日の夜、月は朔から望への巡り、上弦のようです。
1324号(2004年8月21日)
◆<人形劇サークル「麦笛」>
東京学芸大学時代、ぶんじんは児童文化系の人形劇サークル「麦笛」の“顧問”を20年あまりつとめました。部室の火事があったり、深夜の酒飲みの事故があったり、いろいろ苦労もしましたが、楽しい思い出がいっぱい。ぶんじん研究室には,麦笛がつくった9月恒例「月見の会」用のお月さんがいつも笑っていた。雲や雨で月がかくれても、月見の日は飲もうではないかという智恵。ぶんじんは人形劇は素人でしたが、サークルの激励役としては玄人?だったのかも。
4年おき、オリンピックの年に麦笛OB・OGが集まって人形劇フェスティバルが開かれます。ステージは新宿南口のプーク人形劇場。二日間とも昼と夜のプログラムを組む盛大な公演です。
ところが日程はいつも社会教育研究全国集会とダブってしまいます。8月最終の土曜と日曜。今年もそうなのです。全国集会をサボって人形たちに会いに行こうかとも思うのですが、そうはいかない。今年は分科会で報告する約束もあるし、「沖縄を囲む」集いもあり、会津をあるく企画もあります。
以下、今年12年目の「第4回麦笛人形劇フェスティバル」案内のちらしより。Hページ:http://mugibueob.nce.buttobi.net/index.html
「東京学芸大学児童文化活動サークル麦笛という長ったらしい名前のサークルがあったとさ(今もある!!) このサークルの人たちは人形劇が好きで、大学を卒業した後も人形劇をやめられず、仕事をしながら人形劇をしたり、なんと、人形劇を仕事にしてしまった人もいるそうな…
そんな麦笛のOB・OG・現役入り混じっての4年に一度のフェスティバルです。みなさま、お誘いあわせのうえ、どうぞおいでください。
2004年・8・28 Aプログラム 15:00〜
Bプログラム 18:30〜
8・29 Aプログラム 15:00〜
Bプログラム 18:30〜(以下略)」
ご存知「げきだんはてな」や「わけちゃん」なども出演予定。もし興味をおもちの方あれば、ぜひとも!
1323号(2004年8月19日)
◆<夜の編集事務局会議>
17日夜は“風の部屋”で「東アジア社会教育研究」第9号の編集事務局会議。石倉祐志=編集長、遠藤輝喜さんとぶんじんの3人。第8号までは、これに加えて内田純一さん(前編集長)がいましたが、いまは高知に離れて参加かなわず。事務局会議への内田メール、いつも少ない人数ですから、誰か1人でも、またメールの一つでも加わると、何よりの応援メッセージとなります。
まだ一部に原稿未着がありますが、第9号刊行へ向けての見通しはつきました。今回の編集作業のなかで、最大の話題はなんといっても長老・千野陽一さんによる呉遵民論文(上海本『現代社区教育の展望』)の日本語訳。かっての中国語の素養がいま再び発揮されたかたち。ここ1,2ヶ月で、パソコン関連も長足の進歩のようで、石倉編集長とはメールのやりとりが行われたそうです。TOAFAEC
のホームページも見ていただいたらしく、「所収の記事・資料から学ぶもの大でした」(千野)とお褒めのハガキをいただきました。かえって恐縮しているところ。
黄丹青さんは上海本の郭伯農氏「序」を日本語訳にしてくれました。いずれも第9号に収録いたします。これで上海本の主要部分は日本語になったことになります。あとは中国側「社区教育」に関する地域実践報告を残すのみ。もともと日本側の執筆は日本文ですから、日本語バージョンの出版も可能だ・・・、しかし、引きうけてくれるところは?
事務局会議を終わって、グランメールで遅い夕食。次回の日程を確認しないで別れましたが、編集作業の進捗状況をみながら、石倉さんからご提案下さい。8月23日、あるいは24日か。
1322号(2004年8月18日)
◆<韓国と台湾からの電話>
8月16日朝、ソウルの魯在化氏(聖潔大学校)から電話あり、「東アジア社会教育研究」第9号への原稿は1両日中に送るとのこと。あわせて韓国本の原稿執筆状況の報告をいただきました。
いま黄宗建さんもソウルに帰省されているそうです。8月末をめどに原稿を集約しようという計画。ハングル原稿は日本語訳をする必要がありますから、早めに頂くのは有り難い、しかし、スケジュールは全体として遅れがち、9月17日(同志社大学)の編集委員会に魯在化さんが出席できる、これをめどにしてはどうだろう、そんな話をしました。さてこれから日本語訳の体制をどうつくるか、日本側の原稿執筆は(ぶんじんを含めて)進んでいるのかどうか、今からが正念場です。
16日夜、台北の許銘欽さん(台北市永安国民小学校長)から電話あり。黄富順氏(中正大学)の「臺灣的終身學習」(福建師範大学『終身教育』所収)を「東アジア社会教育研究」第9号に収録することについて、7月初旬のメールにも黄氏から応答なく、直接の交渉を頼んでいたのです。台北市政府の楊碧雲さんを介して連絡をとったとのこと、「OKです」という返事でした。日本語訳を担当していただいた鄭任智さん(早大院)、それに楊武勲さん(風・前号)、ご心配をおかけしました。有り難うございました。
ソウルから、そして台北から、東アジアの海を越えて、こんな電話が飛びかう時代を実感した1日でした。その他にも懐かしい電話やメールの来信あり、かんじんの自分の原稿はまったく進捗なし。
1321号(2004年8月16日)
◆<59年目の8・15>
私たちは満州事変が始まった1931(昭和6)年生まれ。生まれた丁度その年から15年戦争、いわゆる“銃後”の青少年として育ち、子どもなりの戦争体験を経てきました。1945年は14才、旧制中学2年。この年の8月の出来事は生涯忘れることができません。
何よりも8月11日の故郷・久留米の大空襲、そして15日の天皇放送のあの日、その後の混乱と米軍の進駐。久留米は歩兵師団の軍都でしたから、いち早く米軍のジープがやってきたように記憶しています。前の日まで「日の丸」が掲げられていた師団司令部に突然「星条旗」が翻った日の衝撃。動員されていた勤労学徒隊(私もその一人)の解散、そして肩を落としたようにして兵隊の帰郷(みな大きな荷物をしょっていた)が始まりました。
焼けこげた臭いがただよう街には食べる物がない。配給組織は崩壊し、自転車ときにはリヤカーで、10キロほど離れた知り合いの農家へ買い出しに行くのが長男の役割でした。ようやく焼けのこった家には、焼け出された親戚が同居し、一時は17人の大家族でしたから、何より食料確保が大問題だったのです。少年たちはみな空腹、一時期は履く靴もなく裸足で歩いていました。友人たちもそうだったから、あまり気にもなりませんでしたが。
こんなことを書いていくと、きりがありません。そういえば、前にも同じようなことを書いた記憶あり、しかし、やはり書きたくなるのです。あれから早くも60年近くの歳月。なぜか、この日は1日中ボーっとして過ごす習わし。
1320号(2004年8月14日)
◆<公民館関連の英文資料は・・・>
ベトナムから待望の「風」が届きました。津久井純さんは、1265号に自己紹介を寄せてくれましたが、現在NGO(日本ユネスコ協会連盟)でベトナムプロジェク担当。この6月からハノイに駐在し「北部山岳地域の村々に地域共同学習センターをつくる」、いわばベトナムに「公民館をつくる」事業にたずさわっています。頑張ってほしい!
公民館に関する英語資料はないか、とのお尋ねです。たしかに文部省の古い「日本の教育」英語版などに
Citizens’Public Halls(Kominkan)として記載されていますが、内容的にはいいものがないようですね。どなたかご存知ありませんか。
ドイツ語版やフランス語版はありますか?中国語版としては、昨年の上海本(小林・末本・呉編『現代社区教育の展望』)が、三多摩・松本・川崎・那覇などの地域報告まで含めると、30頁ほどの公民館に関する記述を用意していることになります。しかし、ベトナムでは役に立たないでしょうね。この機会にどなたか「三多摩テーゼ」等を英訳していただけないものか。イギリス帰宅中の岩本陽児さんなど、如何でしょう?
世界各地の公民館的施設については、小林・佐藤共編『世界の社会教育施設と公民館』(エイデル研究所、2001)が役にたつと思いますが、残念ながら日本語です。
この機会に、津久井さんから送られていた「ベトナム教育法」(1998)をTOAFAEC
ホームページに載せました。貴重な日本語版(津久井純・坪井未来子訳)です。「学校教育は家族教育と社会教育と結合させる」(第3条)という規定はありますが、とくに社会教育・生涯学習についての法制は用意されていません。それだけにベトナムでいま進行中の教育法制改訂作業で、公民館的施設を盛り込む改正案が検討されているのでしょう。丸秘情報ながら、「KOMINKAN」がその論議のなかに登場する経過もあったようです。
1319号(2004年8月12日)
◆<全国集会、夏の終わりに>
8月末恒例の社会教育研究全国集会、私にとっては毎年の最大年中行事でした。いつもこの大会で夏はおしまいとなる習わし、盛大に終わると9月からの秋学期がさわやか、逆に失敗やトラブルがあると大きな疲労感、いささかの後遺症がありました。
振り返ってみて私が全国集会の(1参加者としてでなく)運営にたずさわるようになるのは1968年からです。そのころ九州から東京に移っていました。まずは運営委員として、あるいは調査研究部の責任者として、ときに担当常任委員として、さらには副委員長そして委員長として。1995年以降は再び1参加者に。2002年の沖縄・名護集会も1参加者でした。
全国集会を通して実に多くの出会いがありました。社全協・初代事務局長をつとめた野呂隆さん(もと東京都文京区社会教育主事)の元気な姿が今も瞼に残っています。あの頃は、激しく議論しあったことも少なくありませんが、活発な取り組みがあり、さわやかな思い出が少なくありません。当時の集会は小さな規模、いまは大きな集会、しかしあの頃の活気は生きているだろうか。そのうち暇ができたら、記録にしておきたいことも少なくありませんが、その前にこちらがくたばるかも?
沖縄研究にたずさわるようになって、集会のなかで沖縄からの参加者を迎え、語り、飲む機会を大事にしてきました。はじめて喜納勝代、上原文一、田場盛順、玉那覇正幸などがやってきたのが1977年(福岡)、稲嶺進など名護の皆さんの初参加は1982年(富士見)でした。そして今年も上記・中村誠司さんなどが参加されます。楽しみです。
集会後の会津めぐりのこと、名護からご参加のお二人にも、よろしくお伝え下さい。他の方々でも、ご希望の方はご連絡下さい。
<会津・案内役の遠藤輝喜さんへ>
会津の宿(8月30日):遠藤家は何人まで宿泊可能でしょうか。また、全国集会・最終日のプログラム終了後、翌日の昼前後までのおおよそのスケジュール(午後4時頃には東京着の計画)案を、「風」に提示いただけませんか。
1318号(2004年8月10日)
◆<旧盆、そして全国集会>
いよいよ旧盆。この季節になると8・15のつらい思い出とともに、幼き日の盆行事の懐かしい風景がよみがえります。故郷(久留米)では「盆・正月」はしっかりと休んだものです。祖霊を迎えて、仏壇を飾り、提灯をつるし、久しぶりに親戚が集まり、子どもたちは輪になって遊びました。はるかに“遊ぶ子どもの声”が聞こえてくるようです。
ところが、社会教育の世界では案外とこの時期が忙しい。全国集会の準備、それに間に合わせる(かっての社全協・調査研究部)報告集の作成、あるいは秋の学会発表の用意などなど。
盆行事にあまり熱心ではなかった長男に失望して、亡母がよく言ったものです。「盆には閻魔さまもお休み!地獄の釜も開く。そんなときにご祖先さまを忘れて、仕事とか、学会とか、現世のしがらみに追われているものは、そのうち、きっと地獄に堕ちる!」と。
今は、全国集会や学会の仕事からは解放?されましたが、TOAFAEC 研究年報(第9号)編集や企画中の本づくりなどにやはり追われる毎日。パソコンを開いては、亡母の顔や言葉がちらついて、どうもいけません。1週間前の福岡行きの折り、ちゃんと墓参りはすませたぞ、とぶつぶつ言い訳をしながら・・・。
ところで(現世にかえって)全国集会の申し込み、皆さんお済みでしょうか? 第2日(8月29日)夜「この指とまれ」の「沖縄を囲む」(TOAFAEC
主催)をお忘れなく。
また最終日のプログラムが終わって、遠藤輝喜さん(TOAFAEC 事務局、渋谷区社会教育主事、会津出身)案内による会津紀行の1日計画があります。30日の宿は遠藤家で大丈夫とのこと。島袋正敏さんが来れなくなり、この計画は沙汰止みになりかけましたが、中村誠司さんが全国集会に参加とのこと。誠司さんのスケジュールは如何でしょう?
そのご都合を聞いて最終的には決めようということになっています。小生の山東省・烟台日本語学校・入学式(9月1日)に向けての訪中は諸般の事情により断念。一応は会津紀行に参加可能の体制ではあります。
追記:9月20日過ぎの八重山・平久保(ぶんじん歌碑)行きは計画進行中。森山沾一さんの都合では9月21,22日とのこと。大都市研究の集い直後で少し苦しいが・・・。
1317号(2004年8月8日)
◆<夏の盛り、むくげ一輪>
この5月、TOAFAEC ホームページに「川崎と韓国・富川」をアップしました。彩りに花一輪を・・・と画像を探しましたが、そのときは適当なものがなく、まずは手元のベランダ・スナップ(君子蘭)を掲げておきました。だけど、どうも落ち着かない。
福岡・油山の寓居に白樺3本、その横に「むくげ」を植えています。そうだ、ちょうど今は、白い花が咲きこぼれているころだ、それを一葉デジカメにおさめて「川崎と韓国・富川」の目次に飾ろう、というのが今回の福岡行きの思いの一つ。そして見事に成功!
ご承知のように「むくげ」(ムグンファ)は韓国の国花とたたえられ、実に素朴な、地味に息長く咲きつづける名花。たしか「むくげ、むくげ、私たちの国の花」と歌いつがれている「ウリナラコッ」の歌も。HP富川(プチョン)の頁は、これで落ち着きました。川崎の小田切督剛さん、伊藤長和さんのご協力を得て、いま9点の新着資料を掲載中。ぜひご覧下さい。8月スケジュールにも、ムグンファを一輪。
福岡から帰って、「東アジア社会教育研究」第9号編集会議(風の部屋、5日夜)、韓国本編集の日程打合わせなど(川崎・高津市民館、6日夜)、そしてようやく妻・富美の退院(7日昼)。
事故から2ヶ月半、誤診を経て50日余りの入院生活でした。アーデルはじめ皆さんにいろいろとご心配をおかけしました。これから杖をついて自宅でのリハビリが始まります。この間、お見舞い、お励ましの言葉をかけていただいた皆さま、どうも有り難うございました、と本人が申しております。
1316号(2004年8月6日)
◆<35年ぶり、“未完”の卒業論文>
知る人も多い農中茂徳さん(福岡県立筑後学校教諭)から「第8回・大牟田市人権・同和教育研究交流実践交流会」(8月4日)の案内が届いていました。当日の特別発表(模擬授業)レジメ「三池炭鉱を教材化するこころみ」にはこんな添え書きが・・・。
「大学を卒業して35年、未完の卒論を完成に導く一歩だと思っています。“三池”は地元の教師にとっては危険教材でした。中途半端に手を出せばヤケドをするようなもの。今回、飛び込んでみることにしました・・・・」と。元指導教授として、これは見過ごせない、行かずばなるまい!と思いたって、当日久しぶりの大牟田へ。
農中茂徳さんは私の東京学芸大学の最初の学生でした。卒業論文を書いたのは1970年か。「三池争議と主婦会活動」をテーマとした意欲的な取り組みでしたが、課題が大きく体験的証言・資料も膨大で、卒論自体は「序文」で終わってしまったうらみ?が残りました。
もちろん課題の現代性、大きな問題構図、テーマにかける思い、など卒論・最終試験は見事に合格しましたが、指導教授としては、ひとこと「本論文は未完である!」とコメントした経過があります。
卒業以来、彼はそのことをず〜と忘れないできたのです。当日の発表は上野英信、城台巌(記録写真家、「この子らと生きて」「1960・三池」等の写真集あり)、ベルリン郊外グリューネバルト(ユダヤ人積み出し駅)などにも及び、久しぶりに知的躍動、そして課題「教材化」に挑戦する実践的興奮をおぼえました。
討論の終わりに感想を求められました。卒業論文は完成したかどうか?と。彼自身が「本日は中間発表です」と言ったのを受けて、「最終報告にしないでほしい」「中間報告を続けてほしい」とコメント。
いい夏の1日。終わって農中親子に福岡空港まで送ってもらい、深夜便まで飲みました。かけつけていただいた山城千秋さんへお祝いの乾杯(そのうち風へ一文を)。永田香織さんや森山沾一さんも。森山さんとは9月の八重山・平久保行きの相談もしました。
1315号(2004年8月4日)
◆<「草の実」終刊>
このほど雑誌「草の実」の終刊号(通巻474号)が送られてきました。朝日新聞「ひととき」欄を契機として「草の実会」が歩み始めたのが1955年6月。それから50年、半世紀の歴史をきざんだことになります。表紙を飾ってきたのは朝倉摂の絵、自立した女性の顔、自己主張の目。
4月に草の実会の最終(第50回)総会が開かれました。石崎あつ子さん(「草の実」発行責任者、杉並の社会教育を記録する会代表)が次のように挨拶されています。
「第50回総会、これをもって半世紀続けてきました草の実会の幕を閉じることになりました。会の創設に苦労された先輩諸姉、その後を引き継いだ歴史の一コマ一コマが走馬燈のように駆けめぐります。
“いつまでも「草の実」を続けていきたい”そういう希いの一方で、半世紀の間に、否応なく会員の高齢化は進み、会員の減少、介護の問題で、財政、運営、機関誌編集等に、さまざまな障害が生じました。・・」
ここ数年来、毎月開かれる連絡会でも、たびたびその対策が論議され、広く会員への訴えも重ねられたとのこと。しかし最終的には活動を停止するという判断に至ったのです。現存の地域グループや研究グループの中には独立して活動を続けていく動きもあるそうです。またこの間、予想以上のカンパが寄せられ、30年史、40年史に引き続く「50年史」編集・刊行が計画されています。
福岡・油山文庫の「草の実」バックナンバーも貴重なものになりました。ただし欠号はありますが・・・。
1314号(2004年8月2日)
◆<はや8月、あらためて暑中お見舞い>
早いもので暦は8月となりました。今年の夏、皆さん如何お過ごしですか? 東京は7月早々から例年にない酷暑、あらためて暑中お見舞い申しあげます。
今年の夏は、私の人生にとってはじめて?珍しく東京に蟄居しております。暑いだけです。いつものように“夏”の解放感を味あえないまま8月となりました。5月下旬の妻の突発的な怪我、経過思わしくなく6月中旬に入院、そのまま8月をを迎えてしまいました。
ある程度一段落しましたので、数日だけ久しぶりに福岡・油山に行く計画をたてたところで、のろのろ台風10号。四国・中国に上陸したとのこと、被害のないことを祈っています。私の福岡行きも台風の影響を心配(杞憂でよかった)してスケジュールを延期、2日の便にしました。
上記の渡部メール、筑波大学・手打明敏さんの愛知川訪問に関連して。
6月に私が断念したハンブルクへ旅した手打さん、7月には金沢?そして愛知川へ。見事なフットワーク。ぜひ「風」に愛知川町の図書館や長野西の感想などお寄せください。風メンバーの多くはまだ手打さんのことを知りません。軽めの自己紹介を含めてお願いできれば幸い。お待ちしています。
1313号(2004年7月31日)
◆<「東アジア社会教育研究」第9号の編集>
いよいよ7月末、第9号の原稿締切りです。暑い夏で申しわけありませんが、ご予定の方、送稿を急いでいただくよう、よろしくお願いいたします。編集事務局としては、今年も秋の日本社会教育学会(同志社大学)までに、スケジュール通りの刊行を実現したいと張り切っています。
鄭任智さん(早稲田大学・院)からは昨日『台湾の生涯教育』翻訳が送られてきました。ありがとうございました。筆者の黄富順氏(台湾・国立中正大学)からはまだ返事がきませんが・・・。
編集長・石倉祐志さんのところに高佳芳さん(天理大学)の原稿(「台湾に在住する東南アジアからの花嫁」)が届いたとのこと。また千野陽一さんからは、上海本・呉遵民執筆分の日本語訳をフロッピーで送って頂けることになりました。これで一安心。
石倉さんより、さらに次のような状況の報告がありました。
「…(略)… 平井(園田)さんから7月末には遅れるとの連絡あり。8月10日厳守で確認しました。内田純一さんに鳥山淳さんへの催促をお願いしました。黄丹青さんから候全宝・楊少鳴『居民参与的社区組織建設−桃浦鎮社区学校史』が郵送されてきました。中国語ワープロで作成したもの(紙原稿)で、約7000字あります。(以下、略)」
上海・桃浦鎮(昨年9月訪問)レポートについては、鹿児島大学・院の陳蓉さんが報告をまとめ、TOAFAEC
に送稿(今年4月)してきた経緯があります。内容的にそれと重複するところも予想されますので、両者の調整を小林平造さんにお願いしたいと(さきほど)電話しました。送られた中国語原稿を日本訳にしていただき、陳蓉さんのコメントを付すかたちで第9号に掲載できれば落ち着くのですが・・、ご検討の程どうぞよろしくお願いします。
「次回の編集事務局会議日程をどうしましょうか」(石倉)については、小生が福岡(8月2日〜4日)から帰っあと、6日夜はいかがでしょうか。場所は「風の部屋」。ご都合がつく方はご参集下さい。今回はあまり飲まないで(すこし飲んで)、第9号編集に集中しましょう。
1312号(2004年7月29日)
◆<酷暑を吹き飛ばす朗報!>
多摩社会教育会館・社会教育資料の移管問題について、和光大学図書館が受け入れの方向であるというニュースは、この夏の酷さ、厳しさを吹き飛ばす朗報、一陣の涼風とはまことこのことか。「会館にいる資料たちも、喜んでいるように思います」(アンティ多摩・江頭晃子さんメール)とのこと。さすが和光大学!フレーフレー・イワモト!
頑張れ頑張れ・エトウ!
次の課題は、私たち(東京・三多摩の社会教育の歩み研究グループ、1988〜1998年にかけて13冊の報告書を刊行)が営々と収集・蓄積してきた戦後社会教育史料の廃棄問題。このなかには旧都立教育研究所が保存してきた故斉藤俊氏(戦後初期からの都社会教育主事、月刊社会教育編集長)史料も含まれています。
この種の資料は本来、言うまでもなく私的なものでなく公共的なもの。しかし実際には個人的な努力で保存され記録されてきたものが少なくありません。歳月とともに風化しがちな戦後社会教育の歩み、その貴重な歴史を復元しようという研究グループの調査活動のなかで、これらの資史料が収集・蓄積されてきました。私たち研究グループの努力に呼応するかたちで提供され寄贈されたものや、10数年のフィールドワークと個人的な負担によって収集されたものも含まれています。
量的にはたいしたことはありません。フアィル・書架1本あまりか。しかしこの戦後資料棚が契機となって、散逸しがちな諸資料がだんだんと拡がり、増加してくるに違いないという夢をえがいてきました。市民活動サービスコーナー資料室への収蔵にもなじまない原資料、別室の研究室に保存されてきたのです。資料リストは、1989年段階で一覧になっていますが(「東京三多摩における社会教育のあゆみ」3、斉藤峻資料を含む)、その後の収蔵資料をリスト化する余裕がなく、今となっては惜しまれます。
個人的保存では散逸するおそれあり、それ故に、多摩社会教育会館に資料棚を用意し公共的保存の努力をしてきたというのに・・・、しかし、それ故に、知らぬ間に廃棄されてしまった怒りと悲しみ。その追跡と奪還(社会的共有・復権)の取組みが次の課題です。
これから、どのように動いたらいいのか、各位のお知恵を拝借したい。いまどこに運ばれ、どのように所蔵?されているのか、まずは知りたい。どなたに聞けばいいのでしょうか?
1311号(2004年7月27日)
◆<高知・内田純一さんへ>
はじめての高知の夏、はじての本格的な?夏休みですね。
新しい土地、きっといろいろ発見もあることでしょう。もう大学の講義も終わって、東京に帰ってくるのではないかと心待ちしていますが、どんなスケジュールですか。
お願いがいくつかあります。
1,社会教育研究全国集会(猪苗代)の第2日夜「この指とまれ」「沖縄を囲む」企画をエントリーしていただきましたか?
2,今年もいよいよ「東アジア社会教育研究」第9号出版(9月中旬の日本社会教育学会までに刊行する予定)の季節。編集長・石倉さんが頑張っていますが、どうしても負担が一人に集中します。編集長サポートの体制づくりをお願いしたいのです。編集長の前任者としての顧問的役割、精神的にも、実務的にも、応援をお願いします。三三七拍手でもかけ声でも。
3,島袋正敏さんが上京した折り、9月に平久保に行こう、という提案がありました。都合がつきますか?どのあたりの日程だと動けますか?歌碑の経過もあり、10年ほど前の一緒に平久保の浜で遊んだ人たちに連絡もしたいと思いますが、如何でしょう?
4,今朝、台北のカンさん(女性)から電話あり、9月から東大に4ヶ月ほど国費留学だそうです。何度も内田くんに電話したらしい。高知への異動のことは話しておきましたが、できればそちらから台北に連絡をとってみて下さい。9月来日の折りには、研究会としての歓迎会も企画したいと思います。いつぞや寒い台北(国際シンポ)でコートをお借りした恩義もあり。台北市政府の楊碧雲さんも許銘欽校長も皆さんお元気だそうです。
1310号(2004年7月26日)
◆<「上海家族」を観る>
この間、NHK・BSが張芸謀(チャン・イモウ)監督作品を放映しています。一度観た作品もつい引き込まれ(深夜プログラムもあり)寝不足となってしまいました。中国の現代史とそのなかで生きる民衆の哀歓をえがいて、痛切に胸にひびくところがあります。(ただし25日夜は秦・始皇帝にまつわる時代物「HERO」。)
どちらかと言えば“重い”作風の張芸謀監督、それと対照的な感じの軽やかな彭小蓮(ポン・シャオレン)監督「上海家族」がいま岩波ホール(神田神保町)で上映中。やっと時間をみつけて観てきました。原題は「假装没感覚」(気がつかないふり?)ですが、この直訳では足を運ぶ気にはならなかったでしょう。「上海家族」とはよくぞ名付けたもの。
祖母・母・娘の三世代がそれぞれ懸命に生きる姿がテーマ。等身大の上海家族。上海で生まれ育った監督は、彼女たちを暖かく見守るような眼差しでえがいています。2003トリノ国際女性映画賞最優秀賞、同監督賞、助演女優賞など受賞。
物語の背景には、上海の住宅問題があります。母と娘の自立を妨げる狭いせまい(権力をもたない人たちの)居住空間。世界でいまもっとも激しく発展している現代都市のなかの、普通の人たちの暮らしの現実。
上海では、それでもこの5年、私の友人など(なかでも恵まれた人たち、たとえば閘北区社区大学の学長や党書記など)の住宅問題は急速に改善されました。招待されて訪問すると都心部に想像をこえる豪華マンションだったり。住宅問題も新たな格差が始まっているのかもしれません。上海家族は、これからまた、どんな変貌をとげていくのか、いろんなことを考えさせてくれたひとときでした。
ちなみに岩波ホールは7月31日より「父と暮らせば」(宮沢りえ等)のロードショウ。黒木和雄(「美しい夏・キリシマ」など)監督の戦争レクイエム三部作の完結編。
1309号(2004年7月23日)
◆<今日の電話三題>
この数日、東京は異常な酷暑、最高39度5、最低で30度1、一日中30度を超えていました。ようやく22日の午後あたりから温度が下がり、普通の夏の日に戻ったようです。厳しい夏、元気に乗り切りましょう。今日いくつか電話あり。酷暑など吹きとんで、楽しい気分になりました。
1,山東省滞在の黄宗建さんより。「韓国社会教育に関する論文はほぼ書きました。夏休みでソウルに帰ります。細かなところを書き足して完成させます。福岡の金子満さん、この夏、ソウルに来る計画はないだろうか。どうぞ皆さんによろしくお伝え下さい。」
金子満さんが東京に移ったこと、お役所だから、きっと時間的拘束があり、おそらく韓国訪問は無理?と話しておきました。
2,早稲田大学で博士号を取得、7月28日に台湾に帰る楊武勲さんより。「23日の定例研究会に出席するようにします。妻も鄭任智さん(早大院)も都合がつきません。私だけの参加です。」
23日研究会ではいつもの恒例の交流会、今月はそれに加えて当然の暑気払いの予定。さらに楊武勲さんの帰国と就職を祝って盛大な乾杯をしましょう。
3,石垣・平久保の米盛三千弘さん(ぶんじん歌碑の創建者)より。「その後は皆さんお元気でしょうか。90才の叔母さんが来られたのには感激しました。八重山の果物が美味しく熟しましたので、送りました。金曜日には着くと思います。皆さんで召し上がって下さい。」
ダンボールの宅配便、研究会にうまく間に合うかどうか。着いたらもちろん持参します。
1308号(2004年7月22日)
◆<2004・TOAFAEC総会記録>
「風」の編集ボックスには、送って頂いたまま掲載していない滞留メールがいくつかあります。少し長いもの、速報の必要が弱いものなど。上記「前夜宣言」はその一つ、もう1ヶ月以上を経過しています。一部<中略>としてご紹介しました。せっかく送稿していただいたのに申しわけない思い。急ぎの、短め目のものを優先しているうちに、ついこんな結果になりました。
石倉祐志さん(新事務局長)から送ってもらったものにあと一つ。今年度TOAFAEC総会(6月5日)記録。やや慎重を期して、「若干補筆した方がいいかな」など考えているうち、南の風にも載せず、そのままに。関係の皆さまにたいへん失礼しました。
今年の総会では大きな決定(変更)事項はなく、事務局長の交代(内田→石倉)とそれに伴う会計などの役割分担変更の追認。主にこれまでの報告とこれからの課題をあれこれ話しあいました。
定例研究会をはじめ研究年報「東アジア社会教育研究」編集など、どうしても東京中心になりがちの活動をどう拡げていくか(たとえば内田前事務局長による高知分局活動:KOAFAECなど)、形式にとどまりがちの「常任委員」の体制を規約的にも一工夫してはどうか、などなど。特別維持会員のご協力により、財政的にはなんとか動いていますが、東京の事務局関係個別負担も少なからず。これを改善できないか。
こんな記録を(風への掲載は割愛して)直接ホームページにアップしています。ついでのときにご覧いただければ幸い。ことし10年目を迎えたTOAFAEC、研究年報も第9号、さてこれからどのような展開になるのか、あらためてのご協力をお願いします。
暑い暑、ご自愛ください。7月23日(金)定例研究会は盛大に暑気払い!と参りましょう。もし楊武勲さん(7月末、台湾に帰国予定)の都合がつけば、前途を祝っての歓送会もあわせて、乾杯しましょう。
1307号(2004年7月20日)
◆<松田良孝氏「どぅなんの人たち」「八重山の台湾人」>
戦後日本社会教育のなかの沖縄研究の欠落を悲しんで、沖縄への旅を始めてもう30年近く。沖縄本島から宮古・八重山への渡海、さらに奄美の調査へ。ぶんじんの40台後半の盛春?の軌跡。その記録はすべて私たちの『沖縄社会教育史料』(全7集)に収められています。
あるとき南西諸島の有人島すべてに渡ろうと誓いをたてたことがあります。もしそれが実現したら、沖縄への旅は終わりになる。しかしそれも残念だ、端っこの島には渡らないで残しておこう・・・というわけで、最南端の波照間島、(感覚的に)最西端の久米島、最東端の大東島にはまだ行ったことがありません。国境の島・与那国もその一つでした。
60才代の後半になると、さすがにそろそろ終わりのプログラムを考えるとき、日本最西端の与那国の調査を開始しよう、と思い立ちました。1998年の夏。内田純一くんや山口真理子さんが同道してくれました。与那国の歴史と社会教育に関する研究覚書を『東アジア社会教育研究』に載せています。(同第4号・1998年、第7号・2002年)
与那国研究はいろいろと文献があるようで、実際に作業を始めてみるとなかなか難しい島でした。東アジアの研究視点から期待をもっていただけに大きな失望もありました。台湾との関係など見るべき事実が歴史に封印されているようなところがあって、国境の島・与那国は私の東アジア研究の跳躍台になってくれませんでした。
さてようやく本題。与那国研究で大きな刺激を受けたのが八重山毎日新聞「どぅなんの人たち」の連載記事でした。地域新聞だけが果たし得る詳細な聞書きと資料収集。執筆は松田良孝記者。その松田さんから昨夜おそく突然のメールあり、『八重山の台湾人』刊行(上記)の朗報でした。今朝、電話で久しぶりに話しました。「どぅなん」(与那国)のことはあまり収録していないそうですが、待望の出版! 送料はご本人負担とのこと。数冊を風の部屋に備えたいと思っています。
1306号(2004年7月18日)
◆<東京杉並区商店街の沖縄タウン化計画>
私が住んでいる東京杉並と沖縄をつなぐ話題。杉並区の和泉明店街が、街全体を「沖縄タウン」化し商店街を再生させようとする計画が始まりました。沖縄でも杉並でも大きな話題になっています。
7月16日の琉球新報によると、「沖縄タウン化計画」の具体化へ向けての説明会が那覇小禄の沖縄産業支援センターで開かれ、約120人が参加したとか。活発なやりとりがあり、空洞化の進む地元商店街をなんとか再生したいという関係者の意欲と、それに呼応する沖縄側の関心の高さがうかがわれます。
杉並側は「沖縄の力を貸してほしい」と空き店舗への出店を呼び掛け。会場は沖縄県内の健康食品メーカーや服飾・飲食店経営者など、用意された席を大幅に上回る人たちであふれたそうです。
当面6つの空き店舗へ飲食や物販事業者に出店してもらい、周辺の店舗でも沖縄産品を販売するなどして沖縄の雰囲気を醸し出す計画。来年3月のスタートを目指すとのこと。計画の責任者であるブティック経営の野口秀利さん(50)は「家賃を抑えるなどできる限りの協力体制を整える」と表明、商店街で沖縄物産などの勉強会を開催していくことや、県産品の発注や発送を一手に担う新会社の設立計画も報告されたそうです。
それぞれの地域への愛着を大事にした地域主導「街おこし」の興味深い試み。文化的にも面白い展開を期待したいものです。「沖縄タウン」が出現したら、まずはお祝いの乾杯に出かけましょう。私たちの研究会定例会場(高井戸)からすぐの駅です。
1305号(2004年7月16日)
◆<アラブからみたニッポン>
いま話題のアーデル氏。滋賀県愛知川町から次のような講演会ニュースが届きました。渡部幹雄さんの図書館主催。これとは別に同町の(集落広報縮刷版を刊行した)長野西でも平和のテーマを全面に出して独自のアーデル講演会が企画されているとのこと。地域の人たちとゆっくり語りあってほしい、期待しています。
「テーマ:アラブからみたニッポン
講 師:サーレ・アーデル・アミン(カイロ大学助教授)
日 時:8月1日(日)15:00〜16:30終了予定
9・11以降、日本は中東のニュースにあふれかえっています。でも、メディアに流れる情報は「テロ」や「戦争」「報復」「流血」ばかりで、中東のイメージは「恐くて」「理解できない」社会となってしまいました。でも、中東って本当にそんなところ?そこでくらす人びとはどんなくらしをしているのだろう?そして、中東の人たちは、遠い島国のニッポンをどう見ているのだろう?講師のアーデルさんにエジプトを中心にした中東の人びとのくらしと社会にについて話していただきます。講演は日本語です。」(講演会・ちらし・囲み記事)
1304号(2004年7月15日)
◆<島酒・古酒講座>
13日の島袋正敏さんの上京(泊・風の部屋)。この好機に天下の名酒を飲みつつ、やんばる島酒・古酒の話しを聞き、「仕次ぎ」の技法を実際に習おう、という豪勢な企画。
この種の集まりには、あらかじめ飲む酒の量と会の終わりの時間を決めておく必要がある、というのが当夜の反省です。宴も果てる頃にはかなりの酔いあり、ついに帰れなくなった者あり、正敏さんと一緒に寝た人もいたそうです。
風の部屋にとっては、三つの古酒カメが揃ったお祝いの夕べでもありました。初めての古酒カメのチェック、何よりもカメからカメへの仕次ぎの技法伝授、そして第1のカメより汲み取った純粋の古酒(12年)。当夜、ビール(小麦の高原ビール)→ワイン(オーストラリヤ)→焼酎(百年の孤独、伊藤長和さんから頂いた)→日本酒(純米吟醸袋吊り)と飲み継いで、最後のプログラムがカメから器に移された古酒でした。口に含み味わいながら陶然として、その後は何も飲みたくありませんでした。
「仕次ぎ」は年に1度が原則。器に移して飲む量はカメ全量の1割を超えてはならず。この戒律を守れるかどうか。来年の七夕の会は2度目の「仕次ぎ」会をかねることになりそうです。
酔った気分で、8月末の全国集会・会津(遠藤輝喜の生家)行き、9月の八重山・平久保(ぶんじん歌碑)訪問、等の夏・秋の企画が提案されました。当事者もすっかり酔っていて、あまり覚えていない?
1303号(2004年7月13日)
◆<「波瀾万丈のアーデル君」久山宗彦氏>
11日のアーデルさん結婚お祝いの会(新宿・中村屋)はご苦労さまでした。親しい人たちが50名近く集まり、盛大で楽しい会となりましたね。当日朝、アーデル君から私へ来たメールには「・・・素晴らしい形で結婚祝いのパーティを開いてくださること一生忘れません。有難う、有難う、そして有難う!」とありました。
とくに準備や当日の司会を担当した遠藤輝喜、江頭晃子のお二人、ほんとにお疲れさまでした。経費的にもうまくいったようで、よかった!愛知川からの渡部幹雄さんや「ふるきゃら」八朔友二夫妻、馬頭琴の套図格たち、黄丹青、張林新など中国の友人たち、みなさんご苦労さま。小林富美も病院から抜け出してひととき参加できました。
アーデル君を東京学芸大学・小林研究室へ橋渡しされたのは、久山宗彦教授(当時・法政大学、カイロ大学客員教授、現在はカリタス女子短期大学長)。当日、久しぶりにお会いしました。ご挨拶のなかで、アフリカ関係誌に書かれたエッセイ「波瀾万丈のアーデル君」を紹介されました。15年くらい前のアーデルからの聞き書き。その頃の私たち研究室のエジプト訪問(案内役はもちろんアーデル)についても触れていただいています。何度も生死の境をこえた話、志を抱いて故郷の農村からカイロへ、そして日本への道、興味深い一文。残部数部、風の部屋にあります。ご希望の方があればご一報を。
江頭さんからパーテイの写真を送っていただきました。有り難うございました。しかし容量がすこし重く、結局は私のカメラの低容量のものから選んで、ホームページに入れました。ご覧下さい。
1302号(2004年7月11日)
◆
<社会教育研究全国集会・自治公民館分科会>
社会教育研究全国集会は今年で第44回、8月28日〜30日の3日間、福島県猪苗代町で開催されます。主催は、社会教育推進全国協議会(社全協、1963年結成)、今回は40周年記念集会となります。社全協については初めて聞く方もあるかと思いますが、日本で最大の民間社会教育研究団体、全国集会には毎年1000名前後が全国から集まります。
すでに開催要項(パンフ)が出来ていますが、第1〜2全体会をはじめ、5つの課題別学習会、そして19の分科会。また二日目の夜は「この指とまれ」の一つとして「沖縄をかこむ」集い(TOAFAEC企画)も予定されています。
2年前の第42回全国集会は沖縄・名護で開かれました。沖縄の公民館の実情や運動を反映して、自治(字)公民館や地域史(字誌)の分科会が設けられました。昨年の第43回岡山集会では、それを受け継ぐかたちで「自治公民館、コミセン、町内会館等における小地域での学習活動と地域づくり」という分科会、さらに今年の第44回(猪苗代)集会でも「自治(的)公民館」分科会の準備が進められています。世話人の中心は美若忠生さん(岡山)。公立公民館を主題とする「語りあう公民館〜」分科会(松田世話人)と並んで、小地域における住民自治の公民館や地域活動を語りあう分科会です。昨年来より意欲的な取り組みがあり、きっと充実した内容になること請合い。いまから楽しみです。
これまでの分科会の記録や関連資料をホームページにアップしたことは、「南の風」(1270号、1282号など)でご紹介した通り。ご覧いただければ幸いです。
1301号(2004年7月9日)
◆
<やんばる島酒講座>
名護・島袋正敏さんの上京日程が決まりました。風の部屋に1泊されます。いただいたFAXは次の通り。
「・・・・南の風拝読しています。
この2,3日間のこちらからのメール届いていると思いますが、小生、12日〜14日に東京行き決定しました。12日〜13日午後2時までは写真関係者と調整の仕事あり、13日午後3時からはあきますので、先生の古酒カメのチェックをと思っております。ご都合いかがでしょうか。セロハンなど用意していきます。昨日、古酒7升入りカメを送りました。9日(金)に届くようです。」(7月8日10:06)
こんど送っていただく(三番目の)古酒カメはどんな色あいでしょうか、楽しみです。古酒カメのチェックをしていただくとのこと。漏れはないか、蓋の具合はどうか・・・など。カメが三つ揃うお祝いでもあるし、なにしろその道の達人の上京だ、あらためて「仕次ぎ」の技法も伝授していただきたい、と次のような企画を考えました。題して“やんばる島酒講座”の開講。なんのことはない、この機会にほんものの古酒を少し味あおう、という呼びかけです。(ホームページ記載記事)
日時:7月13日18:30〜 風の部屋
20:30〜 グランメール(西永福)食事
講師:島袋正敏氏(山原島酒之会)
主催:小林ぶんじん(同 会員)
関心をおもちの方はどうぞお出かけ下さい。参加歓迎!
*京王井頭線「西永福」下車、徒歩5分。
ぶんじんケイタイにお電話を。駅に迎えに行きます。
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