1150号(10月19日)
■<パソコン不調>
山口晃弘せんせい(パソコンの師匠)へ:
5月から使い始めた新VAIOは、購入当初よりいま一つ調子がよくなく、悩んできました。容量が大きいので、デジカメ画像、音声記録、ホームページ関係など、すべてこれに集積してきましたが、どうも失敗でした。
とくに(9月はじめに中国に持っていったのが良くなかったか?)この1ヶ月、しばしばフリーズ状態が襲い、エラー・メッセージが頻発して、突然「1分後にシステムをシャットダウンします」とサインが出るようになり使っておれなくなりました。何よりも入力が不安定、たとえば突然に10行上に跳ね上がって、文字入力が始まる、逆にパッドが重くて、なかなか動いてくれない・・・などなど。
ついに意を決して、集積してきたデータを取りだし、一昨日、ソニーの修理にもっていきました。いま旧VAIOに戻って、作業を再開しているところ。以上、経過報告です。
修理は10日ほどかかるとのこと。忙しいところに申しわけありませんが、修理が出来たところで、また一夜お出でいただき、パソコン立ち上げをお願いできませんか。チュウチュウマウスやAlmailなども入れていただきたい、というお願いです。どうぞよろしく。
1149号(10月17日)
■<黄先生の滞日スケジュール>
伊藤さんメールの件、電話で相談いたしました。細かなことはいずれ伊藤さんからの連絡をまって「風」でお知らせしますが、おおまかに次のようなスケジュールになりそうです。
10月30日・成田着 KAL701便 11:30着 川崎へ(ホテル投宿)
*小林・金子(上記)など迎えますので、江頭さんは無理をしないで下さい。
11月1日のこともありますので。
10月31日 午後4時?より韓国本・編集会議、6時頃より歓迎会
*30分弱の金子レポートをお願いしましょう。
11月1日 午後5時?(TOAFAEC)「黄先生歓迎会」(新宿)予定
*連絡その他、TOAFAEC事務局の準備をお願いします。
会場はどこにしましょうか。
*江頭さんの車をお願いできますか?
2日朝の出発が早いのでホテルを新宿駅周辺に移す必要あり。
11月2日 新宿早朝(成田エクスプレス)発→成田09:20発(KAL)
*新宿発は朝6時頃になりそう。早起きの方で送りましょう。
文孝淑さんも対応していただけると期待しています。11月1日夕刻「黄先生歓迎会」へのご参加歓迎!
1148号(10月16日)
■<公民館50年の企画>
15日は「杉並公民館50年」発刊のための最終編集会議。4月から半年を越える取り組みです。歴史を綴ろうという作業は何かある象徴的な意味をもっているようですね。これからの歩みへのエネルギーと相関しているんじゃないか、と思います。
杉並の場合はまったく市民の手づくり企画。協力してくれる職員はもちろんいますが、教育委員会としての取り組みではない。市民の側には、自分たちの活動の軌跡を記録しようという並々ならぬ意欲・情熱が湧きおこっているというのに・・・。11月10日に50年記念企画の集い「公民館を語ろうよ」と展示が準備されています。会場はセシオン杉並。この日に50年記録誌も刊行される予定です。
2ヶ月ほど前の日誌(風1115号、8月17日)にも記したように、沖縄も今年が公民館50年の年。沖縄独自の公民館の歩みに心を寄せる人たちで「沖縄公民館50年」集いなどの企画が湧き起こらないか、と期待をしましたが、なかなか・・・簡単ではないようですね。中村誠司さんが療養中でなければ、もっと挑発したいところ。
あと2号で1150号。50号おき恒例のアドレス帳整理をいたします。読むだけの方(また読んでいない?方)への「風」送信を控えさせていただきます。当方から風50回をお送りして一度も返信を頂けない方、もし引き続きの送信希望であれば、その旨をお寄せください。また(新しい参加もありますので)風の送信無用の方もご一報下さい。
1147号(10月15日)
■<黄宗建先生来日への対応>
風・先号に応えて、江頭晃子さんから折り返し「……黄先生をご案内できること嬉しいです。30日のお迎えはどなたが行かれる予定でしょうか?古い乗用車でしたら私も出せますので、必要でしたら教えてください。」との返事を頂きました。どうも有り難う。
30日のことはまだ決めていません。できればお願いできますか? しかし先生来日の飛行機はKAL701便、成田着11:30です。車で朝少し早くに東京を出る必要がありますが、大丈夫?
黄さんとの今日の電話では、久しぶりの日本が楽しみだとのこと。特段の希望はないが、今回はとくに川崎の社会教育への関心、それと日本の本屋を少しまわりたいとのことでした。いまは滞在中の中国からの電話、韓国を経由しての日本行き、帰りもソウルに降りて中国へ、ということのようです。ますますお元気、三つの国を股にかけて飛び回っておられる感じですね。
歓迎会等については、川崎・伊藤長和さんとも相談して、また「風」でご案内するようにいたしましょう。なお黄先生の略歴等については、「東アジア社会教育研究」第4号(1999)、第5号(2000)に収録した「黄宗建・自分史を語る」をご覧下さい。
本号は午前中に一度発信しましたが、新しく立ち上げたパソコンの故か、ノートン・チェックの関係でどうも届いていないようですね。いまゆっくりと再送しているところ。もし重複の「風」があったら申し訳ない。予めお詫びしておきます。
追記:渡部幹雄著『図書館を遊ぶ』(新評論・見本)届きました。
1146号(10月13日)
■<秋の話題、風にのって・・・>
やはり秋、いろんな話題が風にのってやってきます。一つは上記・渡部メールの通り「図書館を遊ぶ」の発刊。電話によればなかなかいい本に仕上がったそうです。まとめてTOAFAEC
に送っていただけるそうですから、著者特別割引(1600円?)を「風の部屋」に置きます。「東アジア社会教育研究」第8号(1200円)と一緒に普及・販売にご協力ください。
二つめは杉並社会教育を記録する会の活動。この4月からの取り組みが形となって、この秋、特別企画の連続講座、展示そして「杉並公民館の歩み」座談会など(上記)。すべて市民企画、手づくりの事業。この日(11月10日)までに「記録する会」記録誌が刊行される予定(区で印刷・製本、500円で頒布か?)。この杉並企画を「東京の社会教育の歩み」研究会(休会中?)の皆さんにまわして下さい。遠藤輝喜さんへ。
あと一つ。韓国の黄宗建先生・来日スケジュールが確定しました(昨日の電話)。10月30日昼(KAL701便)成田着。31日午後・韓国本の編集会議(川崎)、11月1日午後・夜はTOAFAEC
による囲む会・歓迎会の予定。11月2日午前・離日。ホテルは伊藤長和さんの手配で川崎。久しぶりの再会が楽しみです。31日〜1日の時間・場所など決まり次第「風」でご案内します。
江頭晃子さんメール(風・前号)に甘えて、1日(土)午前は先生をどこかご案内いただけませんか。囲む会には、岩本陽児さん、山添路子さん、文孝淑さん(いま「風」連絡が途絶えている)など旧知の皆さんも是非ご参加下さい。
この機会にお願い。小林平造さんなど鹿児島グループの訪韓(風1132号)、調査活動の記録をぜひ「風」に寄せてくださいませんか。連載でも可です。
1145号(10月12日)
■<久しぶりの江頭さんのメール>
「東アジア社会教育研究」第8号の送付や贈呈の作業、その後は一段落したでしょうか。小生の関係では、先日の訪沖の際に沖縄関係者に持参し(重かった!)、行けなかった名護の皆さんには送付しました。これまでの反省もあり、漏れがないか最終の確認をお願いします。かってカンパなどいただいた藤岡貞彦さんには送ったかな?
上記・久しぶりの江頭メール、「巻頭言が少し斜めになっている」ことのご発見、さすが!第8号の唯一?のミスですが、まぁしかし、これはご愛嬌の範囲でしょう。孤独な作業環境、劣悪な経費条件、のなかで、よくこれまで本になってきたと思います。内田くん、石倉くん、の労苦にあらためて感謝!
今回新しくお願いした村山氏「木蓮社」についての評価はどうだろう。ちかく本格的な合評会をしましょう。
最近は、NPOと子育てに奮闘中の江頭さん、いろいろお願いするのは控えてきましたが、黄宗建先生の来日に手伝っていただけるとのこと、有り難うございます。無理のない範囲でどうぞよろしく。そのうち「アンティ多摩」「市民活動のひろば」の動きについても、風に一文を寄せて下さい。送っていただく封書「ひろば」から記事を頂こうとと思うのですが、内容がギッシリつまり過ぎていて、やはり手にあまる。
1144号(10月11日)
■<東京に帰着、ホームページに写真をアップ>
10日夜、無事に東京へ帰りました。皆さんにお世話になりました。今回の旭川行きについては、内田和浩さんから、当初は置戸など「オホーツク研究会」を訪ねる計画を打診されましたが、なにしろ札幌も函館も初めての妻の希望もあり、日程も限られ、道央から道南へのルートとなりました。森田はるみさんには失礼してしまいました。
上記・山添さんのメールについては、きっと森田さんから返メールを頂けるのではないかと期待しています。
11日朝、カメラに入っている約100枚の写真を整理して3枚ほどホームページに載せました。もっと入れたいのですが、HPが重くなるのと、個人的な写真になりすぎるのはよくない(公民館訪問などの画像は逆にあまり面白くない)ので、控えました。
旭川の夜の懇親会のスナップ、もし掲載が不都合であれば、すぐに差し替えますので、その際はご一報をお願いします(>内田さん)。やはり個人の肖像を公開することになりますので、写真の選択はいつも悩むのです。これまでの掲載分についても、もしお気づきのことがあれば、ご指摘をお願いしておきます。
1143号(10月10日)
■<函館にて(ぶ)>
札幌から9日夕に函館着。夜の散歩。香港から一人旅で来ていた青年と一緒に坂を登って函館山へ。ここの夜景は、やはり“世界一”か。月も海に昇り、イカ漁の漁り火も遠くにまばたき、しばし堪能しました。
函館には15年?ほど前の全国自治研集会(自治労が分裂する前の集会)で4日ほど滞在したことがあり、店も街も懐かしい思い出があります。あのときは同じ助言者として浪江虔さんがお元気でしたし、また初めて置戸の沢田正春さんと会い、オケクラフトの話を聞きました。
自治労が二つに分かれたとたん、年齢を理由に、助言者は首に。日本の労働運動は、それに関わってきた研究者をいとも簡単に使い捨てにするものだな、という印象が残っています。久しぶりに函館の街を歩きながら、そんなことを思い出しました。
♪はるばる来たぜ〜函館〜〜♪という北島三郎の歌がありますが、夜のしじまに人通りが消えてしまった駅前。駅の横の朝市は今でも賑わうそうですが、夜はなぜにこうも寂しくなってしまったのでしょう。
1142号(10月9日)
■<大雪山系に雪白く、1年ぶりの北海道>
ここ数日、「風」は吹かず、ご無沙汰しました。いま北海道です。旭川・内田和浩さん(北海道教育大学・生涯学習教育研究センター)の招きで東京を離れています。南(亜熱帯)の八重山から北の大地へ、いささか体は驚いていますが、旭川のビールがなぜか美味しく元気回復。7日夜は皆さんと楽しく飲みました。夜の会には、東京学芸大学時代の同僚だった梅谷俊一郎氏(いま旭川大学、経済学)夫妻や、岩見沢の武田泉くん(北海道教育大学、交通地理学)も来ていただきました。
実は妻・富実は、旭川の生まれ。自分が生まれた町を歩いてみたいという積年の願いがあり、八重山に続いて、ここでも(珍しく)二人連れ。女は70年ぶり?の出生地訪問となりました。秋天は高く蒼く、大雪の山々はすでに白く冠雪、そして麓は紅葉。冷気もさほどでなく、いい季節です。
昨年の今ごろ、北海道大学で開かれた学会の最終日に発症したギックリ腰、悪夢の思い出。それからちょうど1年です。驚いたことに出発の7日朝、羽田発・旭川行きの予定便が機材故障のため飛ばず。初日から縁起がよくないぞ、と少々イヤな気分でしたが、別便で千歳に飛びJRで旭川へ。講演の時間を少し遅らせてもらって無事終了。旭川や名寄や歌登などの社会教育関係者との新しい出会いもあり、いい旅となりました。体調も良好!
内田夫妻にすっかりお世話になりました。有り難うございました。8日は旭川市丸山公民館など訪問したあと、札幌へ。
▼旭川駅前、小林夫妻(031007)
▼旭川・夜の集いー旭川・名寄・歌登の皆さんと(7日夜・懇親会)
1141号(10月6日)
■<ご注意!ぶんじんアドレスの再確認を!>
30日の八重山毎日新聞記事、ちょっと面映ゆいのですが、記録として本号に掲載。ご覧下さい。冥利に尽きるとはこのこと、感激の1日でした。
ところで、ぶんじんのメール・アドレスは Justnet から So-netへの統合によりすでに半年前から下記に変更しています。以前のJustnet
は、とっくに閉鎖し、ホームページも新しく更新(上記・URL)。ご確認下さい。
しかし、今なお古いアドレスで送信する人あり。たまたま古いパソコンを開いたときに(1ヶ月おくれで)目にする始末。結果的に連絡とれず、失礼してしまうことになります。
8月28日付、カイロのアーデル氏から「アマル・アーデルを風の部屋に泊めてほしい」という依頼メールも、実は今日、いまさき読みました。アドレス帳から小生の古いアドレスを削除して下さい。
この件、連絡は迂回して届き、アマル・アーデル嬢は東京に安着、無事に早稲田大学への手続きも済まし、数日は風の部屋に滞在しました。
あと一つ蛇足ながら催促。かねてお願いしていた、先日の大都市研究の集い、それから、TOAFAEC9月定例研究会(記念すべき第90回)の記録、お待ちしています。
1140号(10月5日)
■<濱崎マント−石澤正夫『安良遊行』より>
3日、東京に帰ってきました。沖縄から東京への飛行機で読みふけった『安良遊行』、主人公・マントあっぱぁ。
「濱崎マント 明治40年(1907年)生まれ、96歳。
石垣島最北端、平久保で90年前に廃村になった安良への祈りを続けている女性がいる。濱崎マントおばあさんだ。安良村はおよそ二百年続いた。よく知られている明和の大津波では482人のうち、生き残ったのは、21人だったと伝えられている。マラリヤ、それに毎年繰りかえされたであろう台風と旱魃。でも人々は大自然に祈り、海の幸などを享受し、ゆったりとした時を刻んでいたのであろう。
マントおばあさんはこの安良で生まれた。7歳のとき平久保に移った。この濱崎家の平久保移住をもって安良の歴史は幕を閉じた。母であった先代の神司を引き継いだのは50歳過ぎてのことであった。
“先代が代々務めてきた大底御嶽の四代目神司、廃村後も旧正月の祭、
豊年祭などの祭事、願いをし、御嶽の香炉は煙が絶えることなく続いている。現在、八重山における数多い神司の中の最高齢者である”と紹介されている。」(68頁)
▲勝連半島・ホワイトビーチに空母停泊中(20031002)
1139号(10月3日)
■<勝連半島を歩く>
10月1日、東武さん(元・沖青協会長)に迎えられて、屋慶名へ。那覇から1時間半の車、毎日この距離を通勤しているとのこと。
夕食もとらずに、区事務所(公民館は別施設)で現区長、元区長、町議の皆さんから、いわゆるCTS闘争、金武湾を守る会、屋慶名公民館の分裂(区長が二人いた時期)などの話しを聞きました。思い出したくもない、ひどい時期だった、いまでも亀裂は残っている、などなど。当然のことながら、白保の状況とかなり様相は異なります。すぐに記録にまとめられるほど簡単な経過ではなさそうです。この夜は平安名の東邸に泊めていただきました。
2日朝、勝連町の教育委員会へ。東邸から歩いていけるほどの距離です。上江洲教育長(平田大一を「きむたか」館長に位置づけた人)と会うことができましたが、平田大一はあいにく不在。東さんの案内で平敷屋の集落を歩き、公民館で「平敷屋字誌」を入手。ホワイトビーチ基地には米空母停泊中。
さらに足をのばして、与那原町役場で(CTS不況による)財政難の話を聞き、海中道路に新しく出来た「海の駅」「海の文化資料館」へ。金武湾の自然を壊し、人びとの心を分裂させたCTS開発の末路はこういうものかと暗然たる思い。夜は那覇の皆さんと交流会。
▲東武さん(屋慶名にて、20031001)
1138号(10月1日)
■<白保公民館の分裂と再統合>
歌碑・除幕式の翌30日は、(28日に続く)白保への聞き取り調査。
白保は宮良と同じく、八重山でもいち早く公民館活動を立ち上げた集落です(1953年)。しかし石垣新空港問題をめぐって地域は賛否両論が激突し、公民館組織は激しく二つに分裂する(1985年)という苦しい歴史をたどっています。
28日は空港賛成派が組織した「第1公民館」の聞き取り(金嶺功氏、もと小学校長、公民館長)でしたが、30日は分裂当時、空港反対の人たちが結集する「白保公民館」花城長助館長(当時、その後市議会議員、23対1の少数派)を訪ねました。膨大な資料が保存されているらしく、その一端を見せてもらいながら、当時の経過を苦渋にみちた表情で語っていただきました。
白保公民館は二つに分裂したあと、1995年には再び一つに再統合します。分裂だけでなく再統合の経過が興味深い。花城長助さんは「白保という“地域”の歴史と文化が、一つの公民館活動に戻してくれたのです」という趣旨の説明をされました。印象深いひととき。
夜は市教育委員会関係者との交流の一夜。かなり飲みました。渡慶次賢康さんはもっと飲みました。夜のふけるのも忘れて語りました。
10月1日は昼の便で那覇へ。かって「金武湾を守る会」の運動で二つに分裂した屋慶名公民館の聞き取りです。
1137号(9月30日)
■<歌碑の除幕式と『安良遊行』出版祝賀会、八重山>
28日の早朝便で石垣に入りました。朝4時起き。羽田が6時半。石垣までの直行便、割安の席もあったので、この便にしたのですが、早すぎて失敗!
遅れてはならじと朝までほとんど眠らず。
昨年7月の『おきなわの社会教育』出版祝賀と全国集会キャンペーンから1年余。久しぶりの八重山はまだ夏が続いていました。空港にはご存知・渡慶次賢康さん(もと県社会教育主事、市社会教育課長、石垣中学校長など)に迎えていただきました。
つもる話をかわしながら、午後には「白保」調査へ。20年前の石垣空港問題で白保の字公民館は二つに分裂し、10年後(1995年)にようやく再統合する経過を聞きました。もうかなり歳月が経過していますので、当時の緊迫した毎日のことも“回想”として語っていただくことが出来るのです。
聞き取り調査中、同伴の富実は渡慶次先生ご用意のレディス・プログラム、有り難いことです。夜は遅れて石垣に着いた山口真理子さんを迎えて、鷲尾真由美さん、渡慶次夫妻、小林夫妻で夕食会。
29日は平久保(石垣島・最北端の集落)へ。ぶんじん歌碑の除幕式と祝賀会(風1131号に既報)。思いのほか大きな石に驚きました。八重山を代表する美術家・西表信氏による意匠、歌碑の横に西表夫妻ご持参の椿の苗を記念植樹しました。2時から除幕式、6時からは祝賀会。市教育長や前教育長、市婦人会長(渡慶次美智子さん)、図書館長、八重山文化研究会長など、約80キロ離れた石垣市から大勢の方が出席されました。
新しい食事処「浜遊」(米盛三千弘氏の経営)の前庭にテントを4張、安良山からの風、空には三日月、ガジュマルのささやき、実行委員会・地元の方々による心のこもった手づくりの宴です。平久保小学校・全生徒(8名)による獅子舞、胸にじんとくるものあり。白保の子どもたちの友情出演(獅子舞)もあり、スピーチの合間にサンシン・太鼓・踊り。司会は小林平造を師とする宮良操氏(石垣市議)。沖縄本島からは上原文一さんが駆けつけてくれました。
今回の歌碑建立はすべて平久保・米盛三千弘氏の浄財によるもの。驚愕・感激の1日。あわせて、僻村・安良(太平洋側、いま廃村)の最後の神司・浜崎マントあっぱあ(かじまやを祝ったばかり)の記録を著した石澤正夫氏(もと平久保小学校長)の『安良遊行』(絵は米盛三千弘)出版記念会が行われました。翌朝30日の八重山毎日新聞は、この出版と歌碑建立の二つのニュースが写真入りで報じられています。
→■関連写真
▲八重山・平久保の小林歌碑(歌碑除幕式にて、2003-929)
1136号(9月28日)
■<黄宗建先生、来日の見込み>
昨日、韓国の黄宗建さん(9月より中国・山東省に滞在中。大学客員教授?)より電話あり、近く来日可能との連絡をいただきました。韓国本の編集打ち合わせです。思いがけなく再会できることになりました。当初はこちら(伊藤、小林)から訪韓したいと伝えたのですが、気さくに「私の方から行きますよ」とのこと。
電話の打ち合わせでは、10月30日(木)から11月2日(日)まで。編集会議が31日(金)予定とすれば、翌11月1日(土)に私たちの研究会で黄先生を囲むプログラムにしてはどうか、と昨日の9月定例会で話しあいました。当日、午後3時頃から(10月定例)研究会を開き、夕刻から歓迎会・・・という案です。会場をどうするか、いつもの高井戸か、あるいは新宿(「ととや」など)?ご検討ください。
今から八重山に出かけます。帰京は10月3日予定。
1135号(9月27日)
■<大沢敏郎「精神の荒れ野から」>
前号の続き。大沢敏郎さんの本『生きなおす、ことば』。「あとがき」には「精神の荒れ野から」と題して、次のように書かれています。
「横浜の寿町というドヤ街にたどりつくのにずいぶん時間がかかった。意志してたどりついたわけではなかった。…略… 偶然、寿町で十分な学校教育をうけることのできなかった人たちと人間の学びをはじめただけであった。三十四歳のときだった。…」
「それらの人たちのことばは、あるときは朴訥にあたたかくぼくをつつみ、またあるときは、するどく僕の肺腑をえぐった。足もとをすくわれたことは何度もあった。それは、人間がからだ全身でなにかを学ぼうとしたときの切迫感や迫真感であったのかもしれない。」
「それらの人たちのことばは、それぞれに精一杯、自分の生きてきた生活や体験のなかからつかみとってきたことばだった。だれにもゆずれない、一人ひとりその人だけが日々、何十年とあたためてきたことばだった。」
「それらの人たちのことばは、ぼくを救ってくれた。精神の荒れ野をさまよいつづけていたぼくを救ってくれた。その揺れをとめてくれた。人間の生きる義(ただ)しいことばだった。それまでもつことのできなかった他人にたいする信頼や尊敬を、素直にもつことができるようになった。ぼくの識字学習は、それでもう十分だと今も思いつづけている。」
「世の中に不必要な人間などひとりもいないのに、自分をそう思いつづけて生きてきたぼくを、必要な人間にしてもらったことも、ありがたいことだった。」 (…以下、略…)
すこし引用が長くなりました。
1134号(9月26日)
■<大沢敏郎さんの「識字学校」記録>
25日、大沢敏郎著『生きなおす、ことば−書くことのちから』(太郎次郎エディタス、9月18日刊)が送られてきました。大沢さんは25年ほど前から、横浜・寿町(日本三大ドヤ街)で「識字学校」に取り組んでこられました。その貴重な記録です。和光大学にもお招びしたことがあります。
私たちの『東アジア社会教育研究』第8号の序文にも書きましたが、韓国の主要な社会教育研究者のテーマの一つは識字問題。しかし日本では(夜間中学教師や大沢さんなど)識字実践者は頑張っているが、研究的蓄積はほとんどない?と言っても過言ではない。怠慢の誹りは免れないし、研究的鈍感!の批判を甘受せざるを得ない。恥ずかしいことです。
東京学芸大学・社会教育研究室では1990年・国際識字年に呼応して東京『識字マップ』調査(1992、1994)に取り組み、多少の問題提起をしてきたつもり。社会的な反応もあり、普通はほとんど読まれない大学紀要(識字調査報告)が拡がって、朝日新聞が記事に取り上げてくれたり、マップ資料をもとに横山文夫さんたちが東京・日本語ネットワークを立ち上げたり。和光大学に移って、「社会教育論」では一貫して“識字研究”を主題にしてきました。
しかし今、識字研究はどのように拡大し蓄積されているか。本の頁をめくりながら、ひとしきり鞭打たれる感あり。
1133号(9月24日)
■<海勢頭豊コンサートと『真振(MABUI)』出版>
秋彼岸の9月23日午後は「GAMA−月桃の花」上映と海勢頭豊コンサート(東京・千代田区公会堂)、夜は海勢頭『真振(MABUI)』出版祝賀会(市ヶ谷・私学会館)。
コンサートは約1時間「喜瀬武原」「山鳩」「トラジの花」「月桃」など名曲を選び、それを海勢頭の語りでつないでいくかたち。思えば、もう25年のつきあいです。最近は歌い手というだけでなく、骨太の社会評論、独自の現代哲学者、といった風格を感じさせますね。
新著『真振(MABUI)』(藤原書店、98頁)の一節から。
「MABUIというのは沖縄の方言で普通は“魂”と訳されていますけれど、沖縄独自の方言ではなく、本当は日本語なんだよ。誰もが私がそう言うまで考えようとしなかった。身振り、素振りというでしょう。まことのふるまいという「真振り」という美しい日本語を、日本人自体が戦前からずっと忘れている。これが沖縄の何もない清らな御嶽と同じように沖縄だけに残っている。この“真振り”の「り」が「い」になる。首里(しゅり)は「すい」と発音する。でも奄美ではまだ「真振り」と言いますね。…略…」
▲海勢頭豊コンサート、ヴァイオリンは愛さん(東京・千代田区公会堂、20030921)
1132号(9月22日)
■<モンゴル祭り<ナーダム> in 東京>
9月21日は在日のモンゴル留学生たちが東京で開くナーダム、今年で3回目でした。主催は「フフ・モンゴル・オドム」(トッグタホ代表、ぶんじんは顧問)、今年から板橋区教育委員会、同区大原社会教育会館、そしてNPO「ボランテイア・センターいたばし」が共催し、いい祭りになりました。
ただ台風15号の影響あり、あいにくの雨、近くの中学校体育館に会場を移しての屋内の集い。ご存知・セーンジャーなどの馬頭琴や歌、モンゴル料理、ゲルの組み立て、圧巻はモンゴル相撲大会。本格的な格闘技が披露され、青森や大阪などから駆けつけたプロ級力士を交えた熱戦に圧倒されるひとときでした。ぶんじんは開会にあたっての挨拶、終幕には、優勝力士にトロフィー・賞金を授与する光栄をいただきました。
会場では、私たちの研究会に参加したことがあるモンゴル留学生はもちろん、早朝から斉藤真哉さん(学大卒)など教育委員会関係者も準備にあたり、障害者を含めてのボランテイアの皆さんの献身的な参加・支援が印象的でした。川村浩達さんや思いがけず萩原敬子さんの顔も。
沖縄に一緒に旅したことがあるチンゲル君がモンゴル料理店「ゲル」を開いたとのこと。池袋西口、まだオープンして1週間あまり、そのうち連れだって一緒に行きましょう。
*「ゲル」東京都豊島区池袋2-19-2 電話03-3985-9860
▲第3回東京ナーダム(板橋区、20030921)
1131号(9月20日)
■<南の島に歌碑が建つ>
東京では緊迫した集会が計画されている(上記・荒井メール)その日、9月28日から沖縄調査(九大・松田武雄さんを代表とする科研費)。この日程に合わせて、八重山・平久保では「ぶんじん歌碑」の除幕式が開かれることになりました。思いがけない展開に驚いています。
話は十数年前に遡ります。1991年11月中旬、当時の東京学芸大学研究室メンバーで竹富・西表島など八重山へ旅をしました。留学生を含めて10人前後。たしか東京遊学中の森山沾一氏も一緒でした。台湾からの許銘欽さん(台北の若手校長)も。渡慶次賢康さんの関係でいくつか歓迎会あり。石垣島の北端・平久保では、浜に舟を出し網を仕立て、夜はその魚で浜の飲み会。渡慶次さんの奥さん(音楽教師)が歌われたことを憶えています。空には十三夜の月。
酔いの戯れ、手もとの紙切れに思わず歌一首。もちろん素人の拙い歌ながら、地元の人たちが書家に頼んで額に飾り、今回の歌碑騒動?と発展してしまったのです。昨年夏から計画が動き、すでに石に刻まれ歌碑は完成。29日午後2時から除幕式。当日も舟を用意し、夜の集いには牛一頭が供されるとのこと。東京からは数人が参加見込み。
当時のノートには、メモがわりに毎日の戯れ歌を書きこんでいました。平久保の浜を詠んだ歌は数首あり。たとえば、
○十三夜のさやけき月に浜白く 人ら集いて毛遊び楽し(平久保にて)など。歌碑になったのはこの歌ではありませんが・・・。
*(「毛遊び」モーアシビは野原遊びの意)
後日談ですが、その3日後、那覇に帰った日がたまたま60歳の誕生日。その夜は「あんつく」で「おきなわ社会教育研究会」の皆さんに還暦の祝いをしていただきました。石垣から同じ飛行機に乗れなかった許銘欽さんが遅れて駆けつけた話、今でも台湾に行くと語り草です。
冥利につきるとはこのことか。
1130号(9月18日)
■<日本社会教育学会『50年のあゆみ』>
かって学会は『20年の歩み』(1974年、小冊子)を刊行していますが、こんどの50回大会に合わせて『50年のあゆみ』(B5版、154頁)が新しくまとめられました。元会長も一文を求められ、寄稿しています。
倉内史郎氏(1986〜89年・元会長)が次のように書いています。「…1988年の第35回大会でシンポジウム“アジアの成人教育を考える”が韓国、中国、シンガポールからの報告者を招いて催された」ことが忘れられないと。会場校(九州大学)の故諸岡和房(準備委員長)氏の発意による企画。15年を経過して、いま学会50周年記念・国際シンポが「アジア地域」をテーマとして開催されることと思い合わせて、「感慨なきを得ない」と。
そういえば、このとき上海からのゲスト・郭伯農(くぱのん)氏との出会いがあり、その後の親交につながっています。また5年後には、第40回大会で同じく会場校(東京都立大学・小沢有作氏)の招きにより、韓国・黄宗建さんが「韓国の社会教育の誕生と歩み」について講演されています。
こんどの国際シンポの取り組みは、学会として「はじめて」の試みであると強調されていますが、実質的にはこういう前史を受けていること、また個別に(たとえばTOAFAEC
も)中国や韓国そして台湾との共同シンポ等の試みに参加してきたことを想い出しています。
ところで、学会・レセプション・国際シンポ(13〜14日)の写真をいくつかHPにアップしています。いずれも風メンバーの画像、いちいちご了承を得ないままの掲載。もしご許可いただけないものがあれば折り返しご一報を。直ちに差し替えますので。
▲学会・50回記念レセプション終わる、中国・韓民を囲んで(早稲田大学、030913)
1129号(9月16日)
■<よくしゃべり、よく飲み・・・学会スケジュール終わる>
この4日間、時間きざみで学会等スケジュールが続きました。そして毎晩遅くまで飲んでいました。昨晩(15日)の韓国本編集会議、そのあとの談論風発の飲み会が終わって、家にたどりついたのは深夜12時ちかく。これで一段落しましたが、正直のところ、どっと疲れも。
毎晩、懐かしい顔や新しい出会いがあり、やはり学会はいいもの。酒量も当然限度をこえ、数日は体を休める必要があるようです。
まず11日夜:日本公民館学会理事会。9月初頭にドイツより帰国した谷和明さんの顔。いつものメンバー、谷さんを囲むかたちでヴァイチェン・ビヤ(放心亭)痛飲。
日本のヴァイチェンはちと高い。
12日夜:日本社会教育学会初日、蒸し暑い夜。若い人たちにつかまってちょっと一杯。しかし翌日に備えて、この夜は疲れなし。
13日:学会50回記念・国際シンポにゲストとして来日した金信一氏(ソウル大学)、そして韓民(北京・中国国家教育発展研究センター・教授)との再会(レセプション)。おわって高田馬場駅前の飲み屋へ。第8号発行で頑張った石倉くんの慰労などたくさんの乾杯(HPに写真)。
14日:「社会教育と持続可能な発展−グローバル化するアジア地域における課題と可能性」をテーマとする国際シンポ。(どなたか感想など「風」に送っていただけませんか?)
終わったその足で、大都市社会教育研究と交流の集い(第26回、横浜いせやま会館)へ。着いたときには懇親会が始まっていて、すぐに飲み始めました。旧知の顔あり、新しい参加の方あり。
そして昨15日は終日の論議に疲れた体を引きずるようにして、武蔵小杉の上記・韓国本づくりの会議。金子満(九大・院)や初めて参加の李正連さん(名大・院)の顔も。川崎メンバー、長沢成次さん、文孝淑さんもよくしゃべり、よく飲みました。
「酒は控えなさい!」と注意する人(中国旅、田中美奈子さんや黄丹青さん)はなく、連日のびのびと。
1128号(9月13日)
■<岡山で痛め、中国で直して・・・>
12日から日本社会教育学会が始まりました(早稲田大学)。「東アジア社会教育研究」第8号が見事間に合いました。
久しぶりに会った人から「元気ですね」と言われて、悪い気はしないのですが、実はそう元気でもないのです。
8月末の岡山・全国集会「この指とまれ」の夜、名護の皆さんと飲んで、その帰途、なにかを踏みはずして左足の踵あたりを痛めました。翌日、左足は爪先立ち。九大の松田さんから1枚もらった膏薬(鎮痛消炎)を貼って東京に帰りました。中国出発まで1日を残すだけ。
その日「風の部屋」で石倉君と第8号の最終点検。夕方には中国へ同行の宮城満さんが到着。近くの「グランメール」に飲みに出たときは充分に歩けない。中国行きを中止したい思い。
懐かしい(1年前のギックリ腰の)杖を持参しての旅立ちとなりました。中国では初めの5日間、烟台での観光的なプログラムはすべて敬遠し、部屋で自重。皆さんが老人扱いをしてくれて助かりました。
おかげさまで、上海へ到着したときにはかなり回復、帰国までにほとんど直りました。結局のところ、杖は使わなくて済みました。10日間の中国滞在で直したことになります。それでも只今やや自重中。口だけは元気、少ししゃべり過ぎ?の毎日です。
1127号(9月11日)
■<「東アジア社会教育研究」第8号・完成!>
9日昼、待望の第8号が届きました。午後予定の「杉並の社会教育を記録する会」に出かけるのも忘れて、表紙を何度も撫でさすりながら、ひととき頁をめくりました。大きなミスはないか、目次と本文の不整合はないか、とくに名前の間違いは?などなど。苦労して新しい本が出来たときは、いつもこうです。
今年、編集実務の中心を担ったのは石倉祐志。ほんとにご苦労さんでした。本号からは木蓮社(村山道宣、『伊豆長八の世界』著者)の出版になります。なかなかいい仕上がりだと思います。
ところが、追っかけるように村山君から電話。「実は、この頁が・・」という。そう言われてみれば、確かにそうですが、最初の頁めくりではまったく気がつかないほどのミス。(どこか当てて下さい。)
本号から英文だけではなく、中文とハングルの目次がつきました。そうざらにはない、民間研究サークルの独自の研究年報づくり。いままだ多くの注目を集めてはいませんが、継続し蓄積していくうちに、そのうちきっと・・・と思っています。こういう難しいテーマで、よくぞ第8号まで続いてきたものだ、と自画自賛。苦労した編集事務局メンバーで今晩ほんとは一杯やりたい思いです。
12日から始まる日本社会教育学会(早稲田大学)に持ち込みます。皆さん、どうぞ手にとって見てやって下さい。執筆者・訳者の方は声をかけて下さい。湯気が出ている新8号をお渡しできます。
そしてまた、次なる第9号へ向けての歩みを踏み出すことになります。どこまで続くか、ご声援・ご支援を。関心ある方々のご参加を。
▲TOAFAEC年報第8号(B%版、232頁)発行
1126号(9月9日)
■<呉遵民さんへ、9月6日>
このたびの上海訪問は、いろいろとお世話になりました。5日夜、無事に帰宅しました。いつもに変わらぬ精力的な対応をいただき、短い時間でしたが、充実した毎日、まことに有り難うございました。さきほど、ホームページに写真をアップしました。ご覧いただき、“肖像権”問題があれば、ご指摘下さい。すぐに下ろしますので。たとえば、華東師範大学関係者など。
上海教育出版社の袁彬さんの写真は魅力的な画像ですので、掲載しましたが、ご本人の了承をとる必要があれば、呉さんからお願いします。愛弟子(第4世代)の課長のお名前が正確にわかりません。教えて下さい。また彼に、どうぞよろしくお伝え下さい。御礼とお願いまで。
<小林先生へ:>
ご無事でお帰りになりましたこと、なによりも安心でき、有難うございました。今度は一年半ぶり、且つ短い時間で、いろいろな古い、新しい友人と出会って、また現場の社区教育施設の見学にも走りまわり、先生のお元気な様子に感激いたしました。お疲れさまでした。
早速、先生掲載の写真を拝見しました。いい表情が撮れましたね。肖像権の問題など全くありません。ご使用ください。
私の弟子の名前は馬衛東という、区の教育局職業・成人教育課長を勤めております。まずは以上お返事とお礼まで。呉 遵民
(9月6日)
1125号(9月6日)
■<9月5日、上海から東京へ>
前号は急いで送信してしまい、あとで本欄(上海・9月2日〜3日)を読み返してみると、雑な文章、脱字もあり、失礼しました。HPへのアップ記事(後記)は修正しておきましたが、一度吹いた風はそうはいかず、お許し下さい。
上海の最終日(4日)は、華東師範大学の杜成憲氏(学部長)や呉遵民さんのご案内による気楽なエクスカーション。杜さんの友人・羅李争さん(大学時代の4年間、同室)も一緒でした。呉さんの愛弟子(馬衛東さん、徐区教育局職業・成人教育課課長)が用意した車を走らせて上海西北部・嘉定区の孔子廟へ。科挙制度の資料が興味深く、茶室での一服の語らいもまた楽しいものでした。
茶葉は緑の龍井(ろんちん)茶。杜さんの説?によると、女性にたとえれば、最初の一杯目はまだ幼く15歳、二杯目は18歳あたり、三杯目は熟して25歳以上、なのだそうです。私は二杯目で(量的に)充分、三杯目を所望しなかったところ、「18歳の女性がお好みですね」と。男性の年には例えないのか、と聞きましたが、男にはそんな味はない?と。
午後3時過ぎには市内へ帰り、上海教育出版社へ。大規模な出版社。総編集長や旧知の袁正守さん(副編集長、党書記)や私たちの本を担当した若い袁彬さんと再会(ポートレートをHPにアップ)。もうすぐ世に出る新本・表紙デザインを見せてもらいました。上製のなかなかいい本になりそうです。
夕食は華東師範大学・教育学系主任ほか関係者による招待宴。こんどの旅の最後の夜、ホテルに帰っても余韻さめやらず。黄丹青さんのお子さんたちも紹興から戻ってきて賑やか。宮城満さんはかなり酔ってまた新しい酒やビールを仕入れてきました。ほとんどは飲めず、そのまま部屋に残して、5日朝に上海を離れ、夕刻には予定通り元気に帰宅しました。
烟台の張林新、上海の袁允偉、もちろん呉遵民、羅李争ほか多くの皆さんにお世話になりました。有り難うございました。老朋友との再会あり、また新しい友人との出会いあり、いい旅になりました。御礼を申しあげます。
これで今回の中国訪問・速報を終わります。詳しい報告はいずれ別の機会に。ホームページの写真もご覧いただければ幸いです。
1124号(9月4日)
■<9月3日、華東師範大学へ>
この日早朝、田中美奈子さんと石倉祐志さんが帰国。
お昼は出張中だった閘北区行建職業学院(旧業余大学、新社区大学)学長ほか、党書記、図書館長(ぶんじんは名誉図書館長)、人文系主任(呉季令氏、新任)など総揃いでの歓迎会。もう10年を越える(“老朋友”と呼び合う)おつきあい。
午後、華東師範大(教育学系)へ。渋滞にまきこまれ遅刻。最初は院生に向けての講演会が予定されたのですが、懇談会に変えていただきました。杜学部長とこれまでの経過をふまえて、今後の研究提携について大きな方向を語りあいました。杜さんは実に静かな語り口。冷静かつ沈着(とはこの人のことをいうのでしょう)。いい話が出来ました。たいへん意欲的な内容でした。通訳は黄丹青さん。そのメモをいずれ報告することにしましょう。黄さん、お願いできますか?
終わって、学長室へ。王建盤学長と羅国振副学長に“熱烈”に迎えていただきました。話は1999年訪日の際の「駒形どぜう」や「今半」のスキヤキから始まりました。学長は相変わらずの元気。終わっての夕食会には呉遵民さんの夫人・黄欣さんが駆けつけていただきました。電話で話したことがありましたが、会うのは初めて。
日程はあと1日を残すのみ。4日予定は杜さんと呉さんの案内で上海郊外の嘉定区(孔子廟など)。そして上海教育出版社の訪問。
■<上海の夏の日射しまだ強く・・・>
烟台では秋のきざしあり、少し涼しくなっていましたが、上海はまだ夏、一時の40度に近い猛暑は過ぎたものの、カッと照りつける日射しは暑く、沖縄から来た宮城満さんも驚いていました。
前号に続き、2日〜3日の動きを簡単に記しておきます。詳しい報告は参加メンバーからいずれ寄稿していただけるのではないかと期待?しています。
9月2日 ホテルに葉忠海夫妻の迎えで、普陀区曹楊新村社区センターへ。上海でも労働者集合住宅の第1号の曹楊「新村」街道。50周年記念の立派な写真集をいただきました。最先端と言ってもよい本格的な社区センター施設が見事。小学校の跡地(少子化による)に去年建てられたばかりです。約4,000ヘーベ。
社区センターは社区学校と文化センターの複合、つまり教育と文化の両者の機能をもち、施設的には日本の現代的な公民館をしのぐものあり。たとえば健康に関わる「健身房」、あるいは「舞踏房」「影刷場」「声楽室」など。「工作(活動)室」の一つは葉先生の研究室。「羨ましい」と言ったら、研究交流の実があがるのであれば「いつでも研究室を用意します」という趣旨の返事、これには恐縮しました。
上記石倉メールにもある通り、私たちの「東アジア社会教育研究室」第9号への執筆を依頼しました。建物の前面で記念撮影。
午後は同区桃浦鎮へ。まず(副)鎮長による歓迎昼食会、これがほんとの(在来の)上海料理かと思わせる美味。強い白酒の「乾杯!」が続き、昼から少々盛り上がり過ぎでした。
ここの社区学校は候全宝さん(昨年訪日団の大蔵大臣?)が永年創りあげてきたもの。校長室の机にはぶんじんとのツーショット(昨年の成田空港へ見送る上野京成駅)の写真あり、歌舞団による歓迎もあり、また美術グループ制作の作品をそれぞれに贈呈をいただき、感激の午後となりました。いくつか写真をホームページへ掲載。
午後第2部は、宝山区行知学院(旧業余大学)の訪問。ここの党書記も昨年訪問団の一人・汪月妹さん。夜の宴会は大学前の壮大なレストランで。昨年日本での受け入れに対するお礼を、いま私たちだけで受けているようで申しわけないです。
夜遅く、ホテルの一室で、葉忠海・呉遵民両氏とこれからの東アジア研究ネットワークについて協議しました。これは別途関係者に報告します。
▲華東師範大学・王建盤学長(右)−同学長室 (20030903)
1123号(9月2日)
■<9月1日午前、烟台を離れ、上海にて>
烟台からの飛行機は上海市内から遠く離れた浦東空港に着きます。閘北区・行建職業学院(社区大学)の袁允偉さん(副学長)が車をもって迎えてくれ、助かりました。閘北区の格安のホテル(上海鏡泊湖大酒店、1泊160元)に投宿。
ホテルでは、久しぶりの羅李争さんが「好久不見!1年半!」と出迎え。ここで鹿児島大学院生・陳蓉さん(武漢出身)とも合流。
学院の「小林国際交流閲覧室」へ。周静(院長弁公室秘書)、呉佳諺(日本語教師、新任)や学生の皆さんが待っていてくれました。「閲覧室」でしばし歓談、新しく制作された学校案内のビデオも見ました。
初めての上海訪問のメンバーもあり、浦東新区へ。テレビ塔近くで夕食。ここに朱榴芳さんがかけつけてくれました。あたかも学芸大学旧小林研究室の同窓会の雰囲気。
夜、ホテルでは、すぐ横のスーパーで宮城満さんが仕入れた白酒を傾けながら「小林国際交流閲覧室」のこれからについて、熱き語らいでした。(久しぶりの上海に目が冴え、眠られず、9月2日未明。)
■<烟台日本語学校の開校式、そして上海へ>
8月31日9時よりめでたく開校式。烟台市、蓬莱市等の(副)市長や地元区など政府関係者、烟台の日本(企業)人、北京・大連や日本からの友人等で、会場の新景賓館ホールはいっぱいになりました。日本人は30人前後。うしろの方には、新入生の若々しい顔。概要次のような挨拶をしました。
「新しい学校の出発を来賓各位、新入生、ご父兄とともにお祝いします。いまから7年前、和光大学で張林新校長との出会いがあり、2年ほど前から烟台を訪問するようになりました。烟台は、日本と一衣帯水、古い歴史をもつと同時に現代的に大きく発展している都市。近年は日本企業が増加している(約120社)にもかかわらず、本格的な日本語学校がなく、ここに新しい学校を創ろうという新校長のひたむきな努力と若々しい情熱に打たれ、出来る限りの協力をしようと考えています。
今日から新しい歴史が始まります。学校の校舎やキャンパスの建設も1年後には完成する計画です。学校当局だけでなく教員と学生の皆さんで力を合わせて、いい学校を創っていきましょう。
施設・設備も大事ですが、何よりも学校の内容、その質が問われます。着実に、一歩ずつ、高い水準の評価を築いていきたい。それを通して新しい学校が、中国と日本の相互の、ほんものの友好と信頼の拠点となるよう期待しています。」
黄丹青さんの通訳がよく、好評。取材は、地元の烟台テレビ(当日夜のニュースで放映)、北京放送(ラジオ)日本語部。近く日本へ放送されるそうです。開校式の様子は2枚ほどHPに掲載。ご覧いただければ幸いです。
▲烟台日本語学校・開校式、小林名誉校長の挨拶(烟台、20030831)
1122号(8月31日)
■<竜口市・南山大仏の里、山東省のムラヤ>
8月29日。烟台の隣り竜口市へ。中国で最近はやり?の大仏(南山)観光の予定をパスして、山の麓、南山職業技術学院を訪問。実に面白いひとときでした。案内は、烟台市政策研究所科長の姜連強氏(テーマは「経済発展」)、新しい烟台日本語学校の後援会理事でもあります。
南山は1980年代前半まで戸数わずか100戸の寒村でした。ここに郷鎮企業が「起業」し(1986年前後)、九つの村(郷)と三つの町(鎮)が一緒になって、「南山集団」(企業団地)が発展し、これを基盤に学校づくりが進んだという経過です。ケ小平の改革開放政策を絵にしたような展開。聞き取りの簡単なメモをそのまま載せておきます(上記)。
烟台への帰路、大通りをちょっと入ったところの集落に立ち寄りました。姜連強さんの親戚があるとのこと。ついでに古い村を散策。大店村、戸数250戸、人口680人。中心部に村の「村民委員会」事務室があり、広場に売店や倉庫など。「活動中心」(ホール)ではおじさん、おばさんがテーブルをかこみ大きな牌で麻雀を楽しんでいました。沖縄の字公民館(ムラヤ)の雰囲気と共通するものあり。ただ、ホールはホコリが溜まっていましたが。
8月30日夜、石倉祐志(TOAFAEC)が北京経由で烟台に到着。8月31日9:00〜より、新学校の開校式。いい学校に育ってほしい。
1121号(8月29日)
■<山東省・青島から烟台へ>
8月27日、予定通りのスケジュールで成田から青島へ。空港に張林新(新設・烟台日本語学校・校長)と黄丹青さんが迎えてくれました。青島は旧制中学校時代の友人・中村八大がピアノに出会ったところ。海岸通りにしばし佇みながら、すでに世を去った旧友をはるかに偲びました。年々歳々、人は移りかわり、しかし緑も海も街も残っている。
一路ひたすら車を飛ばして烟台へ。新景飯店(張林新・経営)に着いたときはとっぷりと日も暮れて・・・旅愁を感じさせる夜。8月初めに赴任した工藤千佳良くんも交えて豪勢な夕食、沖縄から参加の宮城満さんがご機嫌でした。
28日、朝からテレビの取材(打ち合わせ)、烟台人民政府(教育局)へ表敬、局長さんなどと昼食の後、私立・清泉学校(幼稚園から高校まで)訪問、そして区政府(女性の副区長)へ挨拶、そんな一日でした。久しぶりの中国への旅、いよいよ始まりです。
烟台市の中心部、文化公園の一角、目抜き通りに面して新設・日本語学校の大きな広告看板が建てられていました。ぶんじんの顔写真もあり、夜はライトアップとか。これには少々参りした。
1120号(8月27日)
■<渡部幹雄著『図書館を拓く』の出版!>
かねて本づくりに励んでいるとは聞いていましたが、先日、『図書館を拓く』(仮題、新評論、刊行99%?決定)のゲラ刷りが送られてきました。本のオビに一文を寄せてほしいという電話。修正自由ということで、こちらからのメッセージ送信しました。一足先にこの欄に載せておくことにしましょう(下記)。
自分の本が世に出る、やはりなんともお目出度い。ご存知、渡部幹雄さんは滋賀県愛知川町図書館々長。風の常連、「愛知川便り」の筆者。
「いま日本の図書館は大きな転機に立たされている。著者・渡部幹雄氏は、そういう中で小さな町の図書館づくりに元気に挑戦してきた。実際に二つの自治体で水準の高い図書館づくりに成功した。この本を読むと元気がでる。こんな本が欲しかった。
図書館づくりの最終ゴールは地域づくりだという。地域へのまなざし、そこに生きる人々への愛着、(知識・技術だけでない)みずみずしい感性、そして創りだそうとするロマン、チャレンジの精神。この本から伝わってくる。
著者はかって地域の青年団長の経験あり、さらに社会教育主事、博物館学芸員、地域活動家、イギリスを含めての各地への旅、そして社会教育研究者。こんな多彩な経験が、いま新しく豊かな“図書館を拓く”道を語ってくれる。多くの人に読んでほしい。」
1119号(8月26日)
■<岡山から帰って>
夏の終わりの年中行事、社会教育研究全国集会(第43回)で岡山に出かけておりました。パソコンは持参していましたが、ホテルからの送受信がどうもうまくいかず、結果的に4日間のご無沙汰となりました。
最近の風としては珍しいこと。ホテルの言い訳は、XPに対応できないのです、とのこと。そんなことってあるのかしら?
それでもあと一歩の努力をすれば、送受信は可能だったのでしょうが、島袋正敏さんをはじめとする昨年度全国集会(名護)の事務局メンバーが打ち揃っての参加でしたから、毎晩一緒に飲んでいました。さきほど写真10枚ほどホームページに収録、ご覧下さい。お許しを得ないままのアップですから、これは困るという画像があったらご一報を。すぐ差し替えます。
全国集会で年に一度会う人たちも少なからず。久留米(郷里)近くからの初参加(かなり年配の)女性グループもあり、驚きました。故郷での再会を約しました。今年は初参加の人が多く、なぜでしょう?
二日目の分科会(自治公民館など小地域の取り組み、久しぶりに終日これに付き合った)もなかなか面白く、いい意味で、あとを引きそうな気配。この論議の内容もまた書きましょう。
▲第43回全国集会(岡山)第2日夜「この指とまれ」終了後、右端・島袋正瓶氏 (20030824)
1118号(8月22日)
■<韓国・黄宗建さんからの電話>
韓国本準備の編集会議が毎月1回のペースで進んでいますが、かねて「編者としてご参加いただきたい」とお願いしていた黄先生から、さきほど返事の電話をいただきました(22日朝)。お元気な声でした。
「いい企画だ、声をかけてもらって光栄だ、第1案はよく出来ていると思う、韓国側からの執筆者についても今後考えていきましょう、私は第1部(歴史と制度の推移)のところでお役に立てそうだ」、そういう趣旨のお返事でした。
「金子君が1週間後?に訪韓する予定です、彼からこの間の経過をお聞き下さい、私と伊藤長和さんなども、一度、韓国に渡って、ソウルででも編集会議をいたしましょう」と答えておきました。いよいよ出版社との関係など具体化する段階に入ったようです。
黄先生のこれからのスケジュールは、9月5日から中国だそうです。山東省の□□市(青島から3時間ほど)の職業系の大学、1年間だそうです。私も思わず烟台の学校づくりの話をしておきました。案外と中国で編集会議かも。取り急ぎのご報告。
*ホームページ表紙を飾る紅花一輪、そろそろ仲間を増やしたくて、昨日 「三輪の紅花」に変えました。最初の「一羽の鳥」画像も数羽の鳥にしたいのですが、なかなか撮れません(カラスのみ)。
せめて一人でもHPへの訪問客を増やす苦肉の作業。“ほんまにご苦労はん”なこと(自嘲の笑い)。覗いてやって下さい。
1117号(8月21日)
■<毎日の編集会議>
8月18日は、杉並の社会教育を記録する会の「杉並の公民館50年(仮題)」編集会議、19日は「東アジア社会教育研究」第8号編集会議(ゲラ読み)、20日は川崎で「韓国本」編集会議。そして終わって、毎日美味しく飲んでいます。すべて仕事には、楽しい時間がないとやってられません。
つらい仕事は、長い目でみて、必ずや幸せな結果につながるんだとまわりに言いふらし、自分に言い聞かせて、なんとか元気を維持しつつ・・・。「東アジア」第8号は石倉・内田の両君が頑張り、川崎には福岡からはるばると金子君がかけつけてくれて、それぞれに充実した1日となりました。きっといい結果につながるでしょう。
1116号(8月19日)
■<ソウル・都築継雄氏からの暑中見舞い> (2003年8月5日、ハガキ)
暑中お見舞い申しあげます。
いかがお過ごしでしょうか。ソウルは先月の下旬に梅雨が明けて以来、ぐずついた日が続いておりましたが、今日は夏らしい一日になりそうです。東京の方はいかがでしょうか。
元気でやっております。博士論文の提出は来年10月になりそうです。本、文献などを読んだり、外国語(韓国語、中国語、フランス語)の勉強をしたりしています。そして、いろいろな面での“ぜい肉”を取ることを心がけています。この“ぜい肉”が文を書く際に、現れてしまうのではないかという心配があるからです。お元気でお過ごし下さい。
1115号(8月17日)
■<沖縄の公民館・50年>
1953年の杉並公民館開館から50年とこの頁で書きましたが、沖縄の公民館にとっても今年は50年の記念の年ではないか、と思っています。やはり同じ1953年に歴史が始まるとみていいのではないか。
公民館という名称は公的に戦後の文部省次官通牒に始まりますが、沖縄へどう伝わっていくのか、どの時点で実質的に沖縄のシマに登場するのか。戦後初期にも全く公民館という言葉が沖縄になかったわけではありません。たとえば、民政府の資料や群島政府の条例等に出てきますが、地域の人々のくらしのなかには、まだ存在していない。
1953年というのは、もちろん本土の次官通牒にあたる「公民館の設置奨励について」(中央教育委員会決議)の年だということです。しかし、それだけではありません。字誌(地域史)を見ていくと、やはり53年から集落の記録の中にはっきりと公民館は顔を出すのです。たとえば、「じゃな誌」や「崎山誌」。いずれも今帰仁村ですが、読谷村でも「波平の歩み」など、実質的な活動は53年からとみていいだろうと思います。琉球政府の「優良公民館」表彰も53年から始まる。そして、今年は丁度50年。
沖縄で、公民館「50年の集い」のような企画は考えられませんか。
追記:中村誠司さんからの糸満・真栄里の大綱引きの映像、どうも有り 難うございました。東と西のいい記録。遅ればせの御礼まで。
1114号(8月15日)
■<58年目の8月15日>
この日が来ると、なぜか落ち着きません。少年の日、旧盆の久留米では「地獄の釜の蓋も開く、閻魔さまもお休み、こんな日まで遊び呆けて先祖さまのご供養を怠るようじゃ地獄に堕ちるぞ!」と脅かされて、仏壇の前に座らされ、送り火を焚いた日でした。
沖縄では旧暦のウンケー(お迎え)、ウークィ(送り)の行事を家庭・親族でしっかり残しているようで、すこし羨ましい。最近は青年エイサーも盛んだし、八重山では青年会のアンガマも訪れて楽しいらしい。東京にいると、お盆は半世紀前の想い出だけとなりました。
もちろん、この日は1945年、昭和天皇「玉音放送」の日。58年前のこの日は暑い正午でした。昨夜はどこかのチャンネルの深夜放送が「日本のいちばん長い日」(岡本喜八監督)をやっていて、思わず最後まで見てしまい、今朝は寝不足。
この日のそれぞれに長い1日を記憶の底に沈めている世代はもう少なくなった。少なくとも60歳以上だけ。それだけに戦争の時代を多少でもくぐった世代として、あえて記憶を蘇らせ語りついでいく責務のようなものを最近は感じるようになりました。
・・・と思って書きはじめたところで、昨年の「風」で「少年Bの8・15」を少し長く書いたことを想い出し・・・繰り返しは避けましょう。今年の夏は広島平和宣言も長崎も心に響くものがあり、きな臭い動き
があるだけに、救われるものがありました。お互い自らの「宣言」をしてみたい日。
1113号(8月12日)
■<飯田の人形フェスタ>
木下さんのメールは、新・公民館の風が紹介していますので、重複をさけて南の風では掲載を控えてきました。久しぶりに人形フェスタの話題が懐かしく、重複を厭わず?以下に・・・。
実は(昨年は沖縄・全国集会との関係で行けず)今年、2年前のように小峰みずき(松本)を誘って、松本経由で飯田に参上しようと一時思ったのですが(とくに香川に行った和気ちゃんにも会いたくて)、仕事が錯綜し、結局は失礼してしまいました。みずきさん、来年は一緒に行きたいな。松本の皆さんにも失礼している、お詫びしておいて下さい。
1112号(8月10日)
■<ジブンヲカンジョウニイレズニ・・・>
原爆忌。1110号の続きです。
杉並の公民館から始まった原水爆禁止運動(1954年)は、国民的規模の運動に広がった反面、政党の路線問題の対立にまきこまれ、安井郁氏は日本原水協理事長を辞任することになります。1963年のこと。
「いかなる国の原水爆にも反対する」問題について、政党や関係団体間の対立は根深いものがあり、担当常任理事全員が涙をのんで全会一致の辞任を決定するのです。
安井郁氏はこう書き記しています。「原水爆禁止運動について政党の系列化を進めることは、国民運動を破壊するものである。それは分裂工作をおこなっている勢力を喜ばせることになる。」
「九年前に原水爆禁止運動が発足した当時、まだ大きな組織はなく、専従の事務局員もいなかったが、仮事務所にあてられた杉並公民館長室に毎日奉仕した杉並の主婦や母親たちは、その壁に掲げられた宮沢賢治の“雨ニモマケズ”の詩、とくにそのなかの“アラユルコトヲ、ジブンヲカンジョウニイレズニ、ヨクミキキシワカリ、ソシテワスレズ”という一節を深く心にとめて、献身的にはたらいた。」(「日本原水協理事長辞任についての声明」1963年、『道−安井郁
生の軌跡』所収)
“雨ニモマケズ”の額、杉並公民館の閉館(1989年)後は、南荻窪の安井家の玄関に掲げられています。
1111号(8月8日)
■<台風お見舞い>
本号も長くなってしまいました。原爆忌にかかわって、かっての原水禁運動について一文を書いたのですが、次号にまわします。沖縄・南日本への大型台風10号の襲来、被害のないよう祈っています。いまテレビの台風予想進路図をみていたら、名護の島袋正敏さんのお宅の真上を通り、与論の赤崎隆三郎さんの屋根をかすめ、奄美をまきこみ、これから真っ直ぐ鹿児島の小林平造くん新居の近くまで訪問する感じ。屋根瓦の盗難にご用心を。以上、ぞろ目ぞろ目の1111号でした。
1110号(8月7日)
■<安井資料の掘り起こし>
先号の続き。どなたか安井郁・田鶴子夫妻・所蔵資料の探索と復元に協力していただけませんか。あるいは大学院レベルで、そんな関心を抱く若い人を紹介していただけませんか。自分の論文テーマにもなり、杉並社会教育を記録する会の活動にも結びつき、貴重な安井資料を世に復元することにもなる・・・。
杉並の公民館は、安井郁(国際法学者)館長を擁することによって公民運館活動が国際的なテーマと響きあい、また地域の母親たちの小さな読書会(杉の子会、安井田鶴子さんの資料保存が見事!)が、日本の原水禁運動の契機を創る、という独自の歴史を刻んできました。ご夫妻は支え合ってともに歩んでこられました。
かって園田(現・平井)教子さんはその一端の資料を駆使して浩瀚な修士論文を作成。その過程で“公民館を存続する会”により「歴史の大河は流れつづける」(1〜4号、1980〜1984)が刊行されました。第2の教子さんが現れないかしら、というわけです。いま安井家では、信頼できる関係をもって書斎等に眠っている所蔵資料を整理・公開していこうという姿勢です。稀有の公民館史というだけでなく、日本の反核運動、社会運動史にとっても第一級の資料の山といえましょう。
また長くなりそうなので本号はこのあたりで・・・。 次号は1111号、さてどんな誌面になるか、皆さんの寄稿次第。
*安井田鶴子さんを囲む、旧杉並区立公民館、原水禁運動関連記録ページ
→■ http://www010.upp.so-net.ne.jp/mayu-k/oldalbumsugi.htm
1109号(8月6日)
■<杉並の社会教育を記録する会>
杉並の公民館が発展的に継承されている・・・と考えれば、今年は丁度50年の記念の年。11月1日にはお祝いの会をやろうという話になり、「記録する会」も活動を始めました。
5日は安井家を数人で訪問。安井郁(かおる、元杉並公民館々長、原水爆禁止日本協議会理事長、法政大学名誉教授)田鶴子夫妻の所蔵資料の袋やダンボール箱を開いて頂きました。もちろん第一級の資料、宝の山、これをどのようにリスト化するか、など相談をしているところに雷鳴あり、夕立となり、帰るに帰れず・・・。
頂いた歌集より、安井夫妻の歌をいくつか。
安井田鶴子歌集『白き風船』(1986年)より。
○真実を求めて我ら集いたり二十四年前の霜月はじめ
○「杉の子」と名づけて共にはげみつつ原水爆禁止の署名集めぬ
○誰やらに似ているごとき五位鷺の高き枝よりわれを見おろす
安井郁歌集『永劫の断片』(1978年)より。
○どろどろのこの世に為すべきこと多し枯淡の境地をわれは求めず
○残年をわれは数えじ為すべきをただ為しゆかん心もはらに
○胸ぬちに溢るる思いさまざまを言葉にはせじ今日も生きつぐ
▲安井郁氏遺影(安井家書斎、20020805)
1108号(8月5日)
■<第8号編集会議に思うこと>
3日午後は「東アジア社会教育研究」第8号の編集会議でした。依頼原稿の集約、未着原稿の最終催促、今後のスケジュールなど。見通しがついたような、つかないような。あと1週間ほどが勝負です。
今年は日本社会教育学会(第50回大会、9月12〜15日・早稲田大学)当日までに必ず!完成させたい。しかも15日に開催される学会50回記念国際シンポジウム(日本青年館)のテーマは「アジア地域」の社会教育の可能性、についてです。南の風メンバーでは、北京の韓民(国家教育発展研究センター、原稿依頼中)も登壇します。この当日に私たちの第8号を発行したい。(皆さん、どうぞよろしく!)
思えば「東アジア社会教育研究」を1996年に創刊して以来、ようやくここまで歩いてきたな、というある感慨を抱いています。しかし同時に、あと一つ、何か複雑な、別の感想もないわけではありません。8年を経過して、当初から期待し努力してきたあと一つの“拡がり”を実感できないのです。昨年は正直のところ失速寸前でした。ぶんじんがギックリ腰、初めから編集・実務を一人で担ってきた内田純一も疲労困憊。どうなることかと心配した数ヶ月。
しかし神はやはりわれわれを見捨てなかった。実務体制の中に石倉祐志が積極的に加わってくれましたし、岩本陽児の英文目次が登場、胡興智や黄丹青などの会議参加があり、よみがえるような思いでした。
これに更なる“拡がり”を期待したいところ。第8号、きっと間に合うでしょう。
最近、この編集後記(日誌のつもり)、どうも長くなりますね。
1107号(8月4日)
■<古宇利島の区長日誌>
昨年の社会教育研究全国集会は沖縄、今年は岡山。早いものです、もう1年がめぐってきました。昨年の集会で発信された沖縄からのメッセージが、今年、どのように岡山に継承され、発展されていくのか。また新しく岡山からどんな課題が提起されるのか、注目されるところ。
岡山の全国集会には、沖縄から古宇利島の区長(小浜美千子)さんが参加されます。昨年に続く「集落・自治公民館」分科会。古宇利らしいレポートが用意され、各地(岡山や松本など)とどのような対話が交わされるか楽しみです。
毎日パソコンを開くと、小浜さんの「古宇利区長日誌」(HP)を読みます。1日の「組踊・肝高の阿麻和利」の若者たちに元気づけられましたが、この区長日誌にも読むたびに励まされます。はるか南の島では、少雨・酷暑のなか、皆さん、精一杯の頑張りだ!
2日の日誌では、名桜大学の中村誠司さんたち一行(7名)が「仮杭打ち」に来島されたとのこと。小さなシマながら一つの宇宙、そのアイデンティティを“杭(標柱)”を打つことによって確かめようとの試みでしょう。「島人が自分のシマの何が大事かに気付いていくことを願っています」と。それに続く日誌の一節。
「私はこの島の大事さは、この島だけのものではないと思っています。こうした自然や祭祀が残る島はみんなに助けてもらって、“沖縄の原風景”を保つのが、この島の主張であっていいと思っています。開発の進んでいる島ではない。だからこそ、残されたものを“幸”と考える施策が欲しい。」
さきほど(3日昼)名護からご恵送いただいた中村誠司さんの資料とお手紙が届きました。有り難うございました。
1106号(8月2日)
■
<平田大一、この5年の躍動>
「肝高の阿麻和利」公演、8月1日夜は埼玉会館(浦和)でした。開場前の(久しぶりの)行列に加わりました。大ホール1200席、立ち見や通路に座っている人も。会場の熱気に驚きました。(経過については風1102号・岡メール)。
総合演出の平田大一は和光大学出身。彼が南島詩人を名のり、独自の活動を始めたころ、和光大学30周年記念プログラムに招き(一人芝居)、その後も沖縄大学と合同で開いた和光移動大学にも登壇してもらったことあり。当時はまだ“生まり島”の小浜に住んでいて、内田純一や山口真理子たちと島に渡って彼の観光ガイドに接したこともあります。
それからの5年余。舞台・ホールに躍動する中高生たち(約70人)の熱演に打たれながら、若者たちをこれほどまでに育てあげた情熱と力量、なによりも彼自身のこの5年の躍動、に思いをはせました。
平敷屋のエイサー、宜野座の京太郎(ちょうんだら)などが盛り込まれています。彼らを沖縄の歴史と文化・芸能が厚く、熱く、支えていることも実感。
さいたま市公演実行委員会の埼玉大学・岡研究室の果敢な挑戦に拍手!大成功、おめでとう!
皆さんたちの顔は輝いていました。
余韻さめやらず、10人ほどで浦和駅ちかくの居酒屋へ。あと数日で故郷へ帰るダーフラ先生送別の乾杯。最後の歌がことさら心に沁みました。帰りは最終電車ちかく、皆さん、無事に帰りついたかしら。
▲「肝高の阿麻和利」公演、中高生たちの熱演 平田大一の挨拶(埼玉会館、20030801)
1105号(8月1日)
■
<ホームページの手直し>
昨日は新しく引っ越したホームページの手直し。一つは表紙の画像を更新しました。HPのいわば看板ですから、2週間も経過すると、飽きる人もいるに違いないと。そんなに見てもらってはいないこと、重々承知していますが、せっかくの訪問客に多少は歓迎の気持ちを表したいというわけです。
これまでの「沖縄美ら海水族館」のスナップをおろすにあたって、表紙を飾った画像のアルバム・ページをつくることにしました。すでに4枚。この頁、HPのどこかに隠れていますので、そのうちに探し出していただければ幸い。
あと一つは、在庫資料の整理・棚卸し(頒布)の計画。次のような一文を添えて、新しいページを作りました。
「TOAFAEC資料棚(和光大学・岩本研究室)、ぶんじん文庫など所蔵の古本や資料を整理し、自治体や市民運動等の残部資料を含めて、貴重・稀少文献資料のリストをつくり、“風のせり市”(ホームページ誌上)を試みたい。
関心ある方々に盛大に競っていただき、収入はTOAFAEC運営費に投入できないか?と“捕らぬ狸”の皮算用。」 でも風は気ままに吹くならわし、実現するかどうか。
1104号(7月31日)
■
<今帰仁の崎山>
今帰仁(なきじん)の崎山、上記沖縄タイムス記事のように「神ハサギ」が新しく葺きかえられたそうです。こういうニュースを読むと、四半世紀前の想い出がよぎります。
私たちが今帰仁村の玉城勝雄(当時、社会教育主事)と出会ったのが1977年。象グループの助力(そこに中村誠司さんもいた)を得て作成された同村「総合開発計画基本構想」(1974年)。「集落公民館」概念が目にとびこんできました。その実像を見ようと中央公民館の自転車を借りて、今帰仁の各集落をまわったものです。そのなかで典型的な「やんばる型」集落を実感したのが一つは崎山でした。
ムラの中央部、道が交差するところに広場があり、共同売店、字公民館、組合出荷部、旧幼児園など、そこに象徴的にハサギ(アサギ)が建っています。学生たちを連れてのやんばるを歩く旅では出来るだけここに寄るようにしました。広場の日陰に座りこんで、ひとときの憩い、やんばるの集落について、こもごも語りあい、いつも蝉がないていたような幻想?が残っています。共同売店では研究室へのお土産にやんばるのお茶を買うのが慣わしでした。戸数にしてわずか90、人口350前後のこじんまりした集落、しかし典型的なやんばる・なきじんのムラ、それを象徴するかのような萱葺き「神ハサギ」が印象的でした。
字誌『崎山誌』(1989年)もなかなか面白い。また今回の「ハサギ」葺きかえの経過については、今帰仁村歴史文化センター・HP・館長の頁に、仲原弘哲さんが画像入りで詳しいレポートをされています。
→■ http://rekibun.jp/201201tyousa.html
ここ4,5日、風はやや吹き過ぎ。申しわけありません。長すぎる梅雨を吹きとばしたいものだから。これでようやく梅雨明けか。
1103号(7月30日)
■<「風の歌」>
前号に引き続き上野朱著「蕨の家」から風の歌の一節。
“一隅にいつもさびしき風の吹くおのが心をはかりかねつつ”
「母晴子、六十歳を少し前にしての歌である。母の心に一生吹き続けた寂しい風はどこからきていたのか。夫英信との隙間から吹いていたのか、遙か昔から吹いてくる風だったのか。誰にも笑顔で丁寧に接していた母の、目に見えない風穴を探し出し、塞げるものなら塞いでやりたい。でなければ母は灰になっても永遠に寒いままだ。」 (上野朱(あかし)「蕨(わらび)の家」2000年、海鳥社、p71)
上野晴子さんは1997年死去、享年70歳。夫英信が亡くなって(1987年、享年64歳)ちょうど10年後のことでした。「風の歌」の頁を飾っている晴子さんの写真が実に美しい。
上野英信の没後に世に出た記録(たとえば「上野英信と沖縄」「上野英信の肖像」など)には、晴子さんのことが静かに語られています。そして「蕨の家」も息子から母への鎮魂の書というべきもの。
1102号(7月29日)
■<歌を詠むということ>
「南の風」にときに戯れ歌を載せたことがありますが、最近は歌とはご無沙汰です。身辺につらいことが少ないせいなのか(去年のギックリ腰のときは少し詠みました)、あるいは沈潜する想い・歌ごころを忘れたのか、よく分かりません。もともと拙い歌づくり、人さまの目にさらすにはかなりの勇気が要るのもの。その心も失せたのかもしれません。
上野晴子「キジバトの記」によれば、上野英信は妻の短歌を「やめてしまいなさい!」と禁じたという。結婚するまでは短歌会の同人だった人、それなのに「キジバト」には歌の1首も紹介されていません。
6月の福岡滞在中に農中茂徳(かって筑豊に住み筑豊文庫にも出入りしていた)が、上野朱「蕨の家」を持ってきてくれました。昨日、電車の中で読んでいたら、その中に母・晴子の歌が数首紹介されていました。
筑豊文庫へのすさまじい来客をすべて受け入れ、「毎年、クリスマスから正月にかけては母の最も疲れる時期だった」と回想した一節。「母が死の前に処分を一任した短歌ノート」を開くと、正月4日にこんな歌があるという。
○あらたまの日々もおなじき酒の支度かくしつつわが一生は果てむ
○この夫の心うるおすいっぱいの酒にも如かぬわがいのちかな
しかし別の頁には、「頭を上げる」かのように、
○或る朝は心きほひて厨に立つわれの名誉の戦場ここは
○きげんよきときは童子のごとくみゆこの夫の胸の憂いや深き
と記されているとのこと。「夫への憐れみと、記録文学者・上野英信に対するゆるぎなき尊敬と、そのどちらか一方でも欠けていたなら、母はとうの昔に妻の座など放り出していただろう」と息子は記しています。
1101号(7月28日)
■<この1週間・・・>
博多から帰ってからの1週間、毎日それぞれに忙しい思いでした。本来は夏休みのはずなのに、よう頑張るわ・・・などと自嘲しつつ、日は過ぎていく。それでも「自由でいい、羨ましい」という人もあり。それはそうだ、たしかに以前のように強いられたスケジュールではない、余裕はありますね。
杉並の社会教育を記録する会(22日)、韓国本の編集会議(23日)、ある(まだ公ではない?)会議(24日)、公民館学会理事会(25日)、TOAFAEC定例研究会(25日夜)など。
しかし週末には突然の訃報(26日)。長名洋次さん(釧路公立大学教授)、東京学芸大学・院のはじめての院生(専攻・教育社会学)でした。まだようやく60才になったばかり。元気な毎日だったのに文字通りの急逝です。27日午前の告別式、急な知らせに行くことも出来ず。
学大・院を出たあとの苦労、釧路の大学に招かれて講演した折、車で根釧原野などを案内し置戸まで送りとどけてくれた日のこと、いろいろ想い出して・・・“涙そうそう”。
いまアドレス整理中。本号は従来のアドレス帳で送っています。
*1051号へのリンク
TOP