★伊藤長和・烟台の風U(2010年9月〜 南の風・記事

                 *烟台の風V(2011年8月〜 172号・以降)→■
              *烟台の風T(2009年4月〜2010年7月)→■



韓国・慶州にて−20101009−
*中国・山東工商学院外国語学部



■烟台の風V(2011年8月〜 172号・以降)→■


■烟台の風171日本語劇と抗日統一民族戦線A(Wed, 08 Jun 2011 08:00)
 (前回に続く) 日本語劇は、1836年12月12日に起きた「西安事変」をそのまま劇の演目にしています。舞台は関東軍指令官「本庄繁」の部屋に集う軍人たちが司令官に満州侵略の決断を迫る場面から始まります。石原莞爾中将、多門二郎中将、板垣征四郎参謀、土肥原賢二大佐らが、「天皇の裁可を仰がねば」と躊躇する本庄繁に満州事変(柳条湖事件)を引き起こすよう迫るのです。普段おとなしい学生が大声をあげて軍人らしく振舞う演技は迫力がありました。石原莞爾に「司令官は責任を取るのが怖いのですか、死ぬのがそんなに恐ろしいのですか」と詰め寄られて、本庄繁は15年戦争の口火を切る命令を発するのです。
 第二幕は、西安に来た蒋介石に、張学良と楊虎城が面会する場面です。抗日戦争のために、国民党軍と共産党軍の内戦を停止して、挙国一致の抗日民族統一戦線を作るために「国共合作」を二人が蒋介石に迫る場面です。その後蒋介石は張学良に幽閉されますが、周恩来と宋美齢との間で国共合作が成立するという筋書きです。日本軍人に扮した学生も張学良役も皆上手でしたが、とりわけ蒋介石役の学生は見事な演技でした。
 舞台閉幕後、私は開演前に困惑の表情で私に説明に来た学生に握手を求め、「とても良かった、感動した」、と述べたのです。彼の顔が軍人から学生に戻った瞬間が忘れられない思い出となりました。
 最後は、「没有共産党就没有新中国」という合唱で幕が下りたのです。後で知ったのですが、日本軍人の日本語翻訳は3年生の曲黙恰さんが担当したそうです。彼女は私の部屋で食事会をしてくれた、若き友人です。陽龍君も李振華君も友達なのに、日本語劇のことは今まで何も教えてくれなかったのです。主催が「学生会党服務中心」だとは言え、少し寂しいですね。日本人の私への気遣いなのでしょう。
 まあ、いいか。私も登壇を求められて、出演者全員で撮った記念写真が欲しいなあ〜!(後日メールでいただきました)。*南の風2670号(2011年6月9日)

■烟台の風170−日本語劇と抗日統一民族戦線@ (Sun, 05 Jun 2011 09:55)
 5月28日(土)の夜は、外国語学院の学生会主催の外国語劇を鑑賞しました。韓国語劇、英語劇と日本語劇の3本です。看板には、「慶祝建党90周年活劇晩会ー中国共産党建党90周年」と書かれていました。開演に先立ち、ラップミュージックの激しいリズムに合わせた6人の女子学生のダンスで舞台は始まりました。
 開会には私までが、観衆に紹介され、万雷の拍手が送られました。幕開けは「誰是最可愛的人」と題した韓国語劇で、朝鮮戦争時に負傷した韓国兵士を中国人兵士と看護婦が手当てをして助ける話です。韓国兵士役の学生は熱演でした。次の英語劇までの幕間は中国語の詩、「光輝的歴程」の朗読でした。
 続く劇は1982年のケ小平主席と英国サッチャー首相との香港返還交渉を再現した「中英香港回帰談判」と題した英語劇です。私は流暢な英語の学生の演技に拍手を送りました。そして幕間は男子学生による「魔術(マジックショー)」です。
 いよいよ、日本語劇の始まりですが、その前に一言。実はこの日、観劇に私が赴くと事前に連絡していないために、開演時間前に私が会場に当と到着すると、多くの日本語学科の学生からは、歓声があがりましたが、劇に出演する学生からは困惑と緊張が走ったのです。その中の1人は私と一緒にビールを飲んだ陽龍君で、もう1人は私と一緒に山に登った李振華君ですが、2人の学生は舞台衣装を着たまま私に駆け寄って来ました。
 「私たちの劇は中国共産党の劇で、日本人をけなすことが有ります。大丈夫ですか」、と言います。私は「歴史の事実を学んで、その上で友好を作ることが大切です」、と答えると、少し安心した笑顔になり、「どうもすみません」と陽龍君は謝って、彼らは立ち去りました。なぜ、彼が私に謝る必要があるのでしょうか。(次回に続く) *南の風2668号(2011年6月6日)

■烟台の風169−曖昧さは日本文化の特質B (Tue, 31 May 2011 16:33) (前回に続く)
 血縁・地縁の小集落(ムラ社会)を形成して暮してきた日本人は、自然の脅威、他国(他領国)からの脅威に備え、お互いに助け合い、支えあって生きてきました。そこに「思いやり」の精神文化を育んだのです。相手の立場や思いを先取りして、「まあ、まあです」「いいですね」などの曖昧な言葉使いを生み出しました。
 直接断って相手を傷つけない配慮です。これは、日本人同士では、理解しあえても外国人には理解できないのです。「いいですね」は要らないとも要るとも受け取れるからです。
 国際的な経済活動や商行為の契約社会では、使用できませんが、日本人同士の曖昧な言葉は、長い歴史によって育まれた思いやりの心と、とことん突き詰めることの無い、「余白の文化」「間の文化」の象徴として誇るべき文化なのです。
 最後に、「間の文化」に触れます。間は空間、余白(あそび)という日本文化を理解する上で最も重要なキーワードです。「間合い」は、話芸の世界や歌舞伎、能など舞台芸の世界の特別な思想ではありません。スピーチの間合いは「沈黙の雄弁」が指摘できます。書や絵画も西洋とは違い日本では、余白を大切にします。画面全体を絵の具で塗りつぶしたりはしません。余白に、宇宙観、世界観を書き表しているのです。明治時代に横山大観らが起こした新日本画運動は「朦朧体(もうろうたい)」という美術運動ですが、まさに、曖昧文化の極致とも言える主張です。「霞たなびく里の山」「朧月」に感動する日本人の豊かな感性なのです。
 間の文化は華道や茶道の所作、そして生け花や盆栽の花木の世界にも重視されるのです。花木の背後にある空間・余白に美を探究するのです。そうした日本人の美意識は、煌びやかな世界と対置した「侘び・寂び」の世界を生み出したのです。白樺派の民芸運動も、この延長線上にあります。
 世界で一番短い詩である「和歌」「俳句」をご覧なさい。31文字、17文字で、全ての言葉を剥ぎ取り、必要最低な言葉と言葉の間に感情と思想を詠み込み、人間と自然を表現しているのです。空白の文芸ですね。間の文化は日本の自然と日本人の営みが作り出した、高度な精神文化なのだと言えるでしょう。曖昧さはその表現の一部なのです。「伊藤先生、私の作文の出来はいかがですか?」。「そうですね、まあまあの出来ですね」。*南の風2667号(2011年6月5日)

■烟台の風168−ー日本人の曖昧な態度A (前回に続く)
 前回、学生が書いた「私の嫌いな日本」の作文内容を紹介させていただきました。その中で多数を占めた「日本人の曖昧な態度と日本語の曖昧な表現」について、私は次のように学生たちに説明しています。それは「日本文化の特色なのだ」、とです。
 「日本文化は、自己主張を重視する狩猟民族と違い自己主張を押さえる農耕民族の特色が基底にある。一人が突出しては駄目で、皆で歩んでいく必要があるのだ。国土の広大な中国のように大声を上げずとも、狭隘な国土に暮す日本人は、小さな声と表情で十分に意思が通じるのだ。」、と語っています。
 そこで、日頃学生に話している日本の「曖昧な」文化について私の持論を紹介いたしましょう。日本の文化を語るとき、自然との関係は切り離しては考えられません。砂漠を抱える乾燥した大地の中国とは違い、大海に浮かぶ山岳の多い小さな島国の日本は湿潤な環境にあって、四季の変化に恵まれています。これは日本のウェットな文化の原点です。
 海辺の狭い平地に額を寄せ合うようにして暮す日本人は、おのずと自然の変化、恵み、恐怖、に敏感となり、自然神を崇め畏敬し、集落ごとに鎮守様を祀ってきたのです。これを日本人の「自然観」と言います。自然神はやがて渡来した仏教と結合して「熊野権現」に代表されるような融合した宗教文化をも生み出します。自宅には、自然を模倣して小さな坪庭を配し、日本間には自然を描いた襖を立て、玄関や床の間には生け花を飾り、自然とともに暮してきました。しかし、自然は恵みだけではありません。毎年繰り返す自然災害も日本の精神文化に大きな影響を与えました。諸行無常の「無常観」です。滅びの美学とでも言いましょうか。
 日本庭園も西洋の幾何学的紋様を基本とする人工的造園ではなく、あくまでも自然と一体化した造園が基本ですね。さらに日本庭園は「無の世界」「空の世界」を竜安寺の石庭のように、余白と空間の造園により宇宙観を表現するのです。(次回に続く)  *南の風2665号(2011年6月1日)

■烟台の風167好きな日本、嫌いな日本@、(Sat, 28 May 2011 06:53)
 私は、3年生の日本語作文指導を行っています。中国では「日語写作教程」と言います。2クラス80名ですから実際に作文の提出を受けてから、それぞれ添削し、意見を添えて個別指導をするのは大変な労力なのです。自室に持ち帰り、自分の自由な時間を犠牲にして作業をします。
 先々週は「私の好きな日本」、先週は「私の嫌いな日本」をテーマにして学生に文章を書いてもらいました。あらかじめ予想したとおりの結果でした。先ず文法から紹介します。主語が不明確な文章が多く見受けられます。助詞の間違い、形容詞を伴う過去形の間違いが非常に多いのです。彼らは、自分で書いた文章を少し時間をおいてから、大きな声で読めば間違いが発見できるのですが、6人部屋の寮での共同生活ですから、それが無理なのです。
 次に、「好きな日本」の内容を紹介します。圧倒的に多いのは、日本のアニメ、漫画、映画、歌、といったサブカルチャーです。次いで日本の景色や自然が多数を占め、桜や富士山にあこがれている学生が多いようです。
 反対に、「嫌いな日本」は、日本人の複雑な礼儀や敬語をあげているものが圧倒的です。それと日本人の曖昧な態度と日本語の曖昧な表現をあげています。次いで、日本女性の社会的地位の低さを指摘する学生が多いのです。結婚後、退社して家庭の専業主婦になることには納得できないとのことです。それから、食生活の刺身などに代表される生食には嫌悪感を抱いています。日本企業の残業や過労死、あるいは、子どもの「いじめ」を指摘する学生もいます。今回の地震災害をあげる者もいます。数は少なかったのですが、南京大虐殺などの侵略戦争の事実否定や釣魚島(尖閣諸島)の領土問題を掲げる学生もいました。多くの学生は、誰もが好き嫌いの両面を持っていて、その多くは中日両国の文化の違いなのだから、好きな日本を大切にして日本語の学習に励みたい、と結んでいます。
 作文を読む限り、そのステレオタイプの内容は中国人教師による「総合日本語」の指導に影響を受けているようです。それでは中国と日本の女性国会議員数の比較は、小・中学校の女性校長数の中日の比較は、と具体的な質問をぶつけても誰も知りません。(次回に続く) *南の風2663号(2011年5月30日)

■烟台の風166初夏の学園は行事が花盛り  (Fri, 20 May 2011 09:40)
 本格的な春の訪れとともに、「学園の行事」が目白押しです、と書き出そうとPCに向かいましたが、烟台の気温は25度を超え初夏の陽気です。中国を紹介した本に「中国の春と秋はとても短い」と書かれていたのを思い出します。北京に出かけた4月14日の烟台は、柳の芽吹きが始まったばかりで、他の樹木は梢まで丸裸で寒風に耐えていました。4月25日ごろからポプラや鈴カケ(プラタナス)が芽吹き、2、3日であっという間に新録が繁り、殺伐としたキャンパスに緑陰と潤いをもたらしました。
 そして、ちょうど1ヶ月(5月14日)で初夏をを迎えたのです。キャンパスは皆半袖シャツに衣替えです。陽射しが眩しい季節となり、緑陰を吹き抜ける風が爽快で心地良いのです。あんなに厳しかった北風が、今は池の畔の藤棚で抱きあう恋人の頬を軽く撫ぜ、ポプラの若葉が「お幸せに」と大合唱です。
 さて、山東工商学院の初夏の行事を紹介いたしましょう。
○5月8日:「外国語学院(学部)の学系(学科)別パフォーマンス」 日語系、韓語系、俄語系(ロシア語学科)、英語系の学生による実演、演技などです。日語系のテントでは、和服姿の女子学生が説明役で、巻寿司の作成と試食、歌舞伎の演技でした。
○5月13日:「各学院対抗バレーボール大会」 外国語学院チームは、私の応援が功を奏して日語系2年の女子が好成績でした。
○5月14日:「ミス学園・ミスター学園選出大会」 ファッションショーのモデルのように舞台に登場して各自ポーズをとります。学部毎に出場者への声援が円形劇場に響き渡ります。男女合わせて25人の参加ですが、女性たちは、皆美しい伝統的なチャイナドレスで美を競っていました。
○5月15日:「烟台市内大学の外国語学部の代表歌謡選手権」 私はなぜか学生に懇願され審査員です。魯東大学、烟台大学の他に、中国農業大学、山東商務職業学院、の5大学の参加、出場者は42名で、主に英語、韓国語、日本語の歌です。生バンドを背に歌う学生も2組。激しいリズムに合わせダンスをしながら歌うグループの女子学生は、一人ひとり色の違うカラフルなズボンで舞台を盛り上げていました。スペインの歌を歌った女性のバックでは本格的なクラッシクバレーが、観衆の目を楽しませてくれました。
○5月19〜20日:「山東工商学園大運動会」 学生たちは、6月の英語検定試験、7月の日本語検定試験、に向けて緊張していますが、束の間の心の開放を楽しんでいます。*南の風2659号(2011年5月23日)

■烟台の風165−私の作った料理を食べてください (Sun, 15 May 2011 17:27)
 「先生、土曜日のお昼はご都合はいかがですか」。これは、授業を終え2階の教室から出てくる私を一階の階段下で待ち構えていた3年生の庄書明(ツュアン シュミン)さんの質問でした。勿論、私は「空いていますよ」と答え、用件を尋ねたのです。すると彼女と2人のクラスメートで料理を作り、ご馳走してくれるというのです。クラスメートの2人は、甘粛省出身の仇雲麗(チョウ・ウェンリ)さんと貴州省出身の胡嘉莉(フ・チャリ)さんです。庄書明さんは遼寧省の出身です。3人は私のために胡嘉莉さんの宿舎で料理を作り食べさせてくれるのだそうです。12時20分前に電話を受け、正午に待ち合わせて、私は彼女の部屋を訪れたのです。
 3人が作った料理は、野菜と魚のすり身団子のスープ、骨付き豚肉の角煮、青唐辛子と豚肉の炒め物、中国野菜の炒め物、ポテトサラダ、の5品と御飯です。私には青島缶ビールが用意されていました。どれも美味しいので、箸を運んだときに「美味しいね」と私が声をあげると、子どものような満面の笑顔で「本当ですか」と聞き返します。料理はそれぞれ3人が分担したょうです。一品ごとにその味を褒めると、担当した者が目を輝かします。
 とても久し振りにポテトサラダを食した私は、「この味は特別美味しい、日本のポテトサラダの味だ」と褒めると、胡嘉莉さんは「母に習いました」と大はしゃぎです。すると、仇雲麗さんは「調子に乗るなよ」と大笑いしながら彼女をからかいます。
 私は、思わず「難しい日本語を知っているね」と更に褒めるのです。胡嘉莉さんのお母さんは貴州省で教師をしているそうです。ピリッと辛い青唐辛子と豚肉の炒め物は、ビールにあいます。これは仇雲麗さんが作りました。私の箸を見つめ、庄書明さんが「私が作った骨付き豚肉の角煮を先生召上がって下さい」と自分の箸で取ってくれます。「とても美味しい、ビールが進む」と言うと彼女も嬉しそうに笑ってくれました。
 そして、年頃の彼女たちは皆3杯の御飯をお替りしたのです。5品の料理が美味しいからでしょうか。食材の買出し、料理の準備と手間が大変だったからでしょうね。中国生活で慣れずに、嫌っていた「舐め箸のつっき合い」「取りわけ合い」にも、美少女とのお付き合いのお陰で最近ようやく私は慣れました。一人暮らしで寂しがりやの私は彼女たちのお陰で、元気を取り戻させてもらったのです。非常感謝(ヘイチャン・カンシェ)。  *南の風2655号(2011年5月17日)

■烟台の風164−敦煌の大きな夢の世界 (Fri, 13 May 2011 07:31)
 私は最近演劇に関心を持っています。昨晩も(5月10日)烟台市文化センターに出かけ、英国の劇団が公演するシェークスピアの喜劇「無事生非(空騒ぎ:Much Ado About Nothing)」を鑑賞しました。英語の台詞には電子掲示板に中国語が流れていました。
 先月は、韓国の無言音楽劇「乱打(ナンタ)」が海外公演を行うというので、朝鮮族の女子学生を招待して楽しんできました。この劇は、食器や調理器具を打楽器にして、厨房で繰り広げるドタバタ喜劇です。私は、韓国ソウル市の劇場で2度鑑賞したことがあります。
 当日は烟台在住の韓国人家族で超満員の劇場の大ホールは、最初から最後まで爆笑の渦に包れていました。また、先日は日本人留学生と彼女の友達を誘い、蘭州歌舞劇院の「大夢敦煌」という舞踊劇を鑑賞しました。この粗筋は、敦煌の町で放浪する画家の青年が将軍の娘に助けられ、やがて二人は相思相愛の恋仲になるのですが、父親の将軍の反対で娘は命を落とし、青年は莫嵩窟で娘の面影を描き続けるという筋書きです。
 舞踊は、京劇のような中国の伝統的な舞踊ではありません。西洋のバレーに新体操や雑技団(サーカス)の肉体技を組み合わせたような躍動かつ静寂で、壮麗な舞踊となっています。舞台いっぱいに、溢れ出るほど大勢で踊る集団舞踊の迫力と美しさは見事ですが、主演の男女の二人が愛の炎を燃やす場面は、耽美の世界に私たちを引き込みます。大舞台で二人だけの踊りが延々とつづきますが、時間を感じさせません。大跳躍、リフティング、連続大回転、巻付き抱きあい、と荘厳、華麗、絢爛の演技です。音楽が無ければ、しなやかな体操競技です。
 私は、今年の1月に敦煌莫嵩窟を訪れました。そこに描かれた飛天のような衣装をまとった美女の群れ、ベリーダンス風の衣装をまとった美女の群れに私はうっとりしました。軍人の隊列の舞踊も、雄雄しさ、猛々しさ、豪華さ、をぶつけてくれました。音楽、舞台美術、衣装、照明、舞踊、そして時代考証と脚本、と総合芸術の世界に私たちは楽しみ「敦煌の大きな夢の世界」に私は再び遊んだのです。
                                           *南の風2653号(2011年5月14日)

■烟台の風163−優しい教授は、名料理人ですD (Tue, 10 May 2011 17:29) (前回から続く) 
 李時載先生は、アメリカにはお子さんを伴って赴任されたそうです。奥様が仁川の大学で教えていらっしゃるからです。朝食を作り子どもたちに食べさせ、学校に見送ってから大学に通ったそうです。今回私がご馳走になった料理も大変美味しく、しかも私の宿舎よりも手狭なキッチンで素早く作る料理の技はプロの腕前です。イシモチの魚料理、豚肉や鶏肉を使った中国野菜の料理、麻婆豆腐、など多彩なメニューでした。毎食御飯を召上がるそうで、中国東北地方の無農薬米ともち米と黒米に生の落花生を炊き込んだ御飯で、環境学の大家の面目躍如といったところでした。
 それまで米が作れなかった中国東北地方(黒龍江省、吉林省、遼寧省)に米作りを伝えたのは朝鮮族だそうです。今、中国では東北地方産の米は他の産地の米に比べ高額です。味も格段に良いのです。
 ところで、皆さんは東北地方に約200万人の朝鮮族が中国の少数民族として暮していますが、その遠い原因は日本の朝鮮半島の侵略に逃れた人々だということをご存知ですね。
 ラマ教(チベット仏教)の寺院「雍和宮」を見学した時でした。数多くの伽藍の一番奥の建物に、李先生は私を案内して、穏やかで、優雅で、豊満で、慈悲に満ちた仏像の「緑度母」を指差し、「この仏様だけを観るために、私はこの寺に来るのだ」、とおっしゃったのです。李先生は敬虔なクリスチャンです。なるほど私の好きな敦煌莫嵩窟の阿難像にも似て、その優しいたたずまいは、拝観者の心を静めてくれます。待てよ、この仏様は韓国にいらっしゃる李先生の奥様にそっくりではありませんか。なるほど、納得。
 「大柵欄」の商店街で「天福茗茶」という有名なお茶屋をのぞいた時です。試飲を勧める若い店員に、「先日茉莉茶を買ったばかりだ」と李先生は断り続けましたが案内してくれる女性の笑顔に抗しきれず、「今日は絶対に買わないぞ」と彼女に宣言し、着席したのです。笑顔を絶やすことなく、御点前を披露する美しい彼女に、李先生は前言を翻し、喉に良いという「金木犀茶」を買ってしまったのです。
 偉大な学者は女性に優しいですね。私はその時、女性に優しい小林文人先生のお顔を思い浮かべたのです。*南の風2651号(2011年5月11日)

■烟台の風162−活躍する二人の韓国人教師C (Wed, 04 May 2011 13:33) (前回から続く)
 ここで李時載先生と金炳徹先生をご紹介しましょう。金先生は中国人民大学で社会福祉学を教えている助教授です。李先生は私と同年輩ですが、金先生は若くてまだ30歳代半ばです。好青年の金先生には李先生のお部屋でお目にかかり、二晩ビールを飲み交わしました。彼は光州の朝鮮大学を卒業後、英国ノッティンガム大学に留学され、中国の社会福祉学を専攻されたそうです。流暢な中国語を話します。少し日本語も話しますが、6ヶ月の独学だとか。8月に日本に行き日本語と日本の福祉を勉強したいと言っていましたので、日本での再会を約束して乾杯したのです。李先生お手製の料理を美味しそうに頬張る少年のような顔が私の脳裏に焼きついています。
 彼は、韓国、英国、中国、そして日本へと関心の輪を広げています。国は違っても、同じ韓国出身の金侖貞(首都大学東京)先生、李正連(東京大学)先生と異国の地で活躍する韓国人のパワーに羨望と尊敬の念を抱いている私です。
 李時載先生は、今更紹介する必要が無いほど著名な国際派・市民派の学者ですね。ソウル大学を卒業後、東京大学に留学され、社会学を専攻されました。環境社会学を開拓され、国際的に活躍なさっています。勿論、韓国の環境市民団体のリーダーとして運動を展開されています。中国でも、公認・非公認の環境市民団体と交流を続けていらっしゃり、毎週土曜日、北京の河川の汚染ウォチングを「楽水会」という市民団体となさっています。
 これまでアメリカの「デラウェア大学」と日本の国際文化会館のフェローとして招聘されて研究活動をなさっています。先にご紹介したように2006年の「北京大学」に続いて今回の「中国人民大学」は2度目のサバティカルです。さて、李先生のお人柄をご紹介しましょう。(次回に続く) *南の風2647号(2011年5月5日)

■烟台の風161伝統芸術と前衛芸術の空間B (Sat, 30 Apr 2011 07:59) (前回から続く)
 二日目の午後は、清朝時代に作られたラマ教(チベット仏教)の寺院「雍和宮」を見学しました。ここは雍正帝が即位前に住んでいた宮殿を乾隆帝が寺院に変えたのです。大伽藍には沢山の仏像が祀られており、その前で青年男女が跪いて祈りを捧げていたのが心に残りました。
 次に向かった先は、北京空港の近くにある「798(チージューパ)」という芸術村です。ここはもともと、国営企業の軍事工場(798厰)でした。工場閉鎖後、工場主が家賃を求め廃屋を貸し出したところ、大勢のモダンアートを志す青年芸術家が集まりアトリエとギャラリーとなり、今では世界的にも有名なアートセンターになったのだそうです。それ故、家主も立ち退き閉鎖を主張できなくなったとか。今、国の内外から注目を浴びている文化施設なのです。
 ドイツのハンブルクのアルトナで閉鎖した工場を映画館や音楽館に活用している実際を私は見学したことがありますが、それの数百倍の広大な敷地に広がる多数の建物を工場時代のままに生かして、その内部を改造して活用しているのです。ドイツのバウハウス様式の建物の蒲鉾天井には「偉大的舵手毛主席万歳」と書かれた紅い文字のスローガンがかすれたまま消されずに室内装飾として残されていました。
 前日見学した「瑠璃厰」には、大きな近代建築の中に沢山のアーティストのギャラリーが収容されており、それは壮観でした。そこは伝統的な書画が中心ですが、「798芸術区」は若手の前衛芸術家の集まる中国のモンマルトルの丘なのです。でも丘ではなく平地です。私は、前日は伝統芸術に、そして翌日は現代芸術に李先生のお陰で至福の時を過ごす事が出来たのです。(次回に続く) *南の風2644号(2011年5月1日)

■烟台の風160−“ツアーメニュー”に無い北京観光A (Thu, 28 Apr 2011 09:24)
 (前回から続く) 今回の北京観光は、故宮博物院、万里の長城、明の十三陵、?和園、などのお決まりの観光コースではありません。これらには私は何度も訪れています。今回は李時載先生の教員宿舎に泊めていただき、李先生が手ずから作られた料理をご馳走になり、李先生のガイドで北京を観光する贅沢な旅行です。
 李先生はご自分で計画された観光スケジュールを「2回目の北京観光」と名付け、「ガイドブックにして出版したら売れるぞ」、とおっしゃいました。私は「旅行社のメニューに無い北京観光」と名付けたらど うですかと提案したのです。
 初日は、「北京魯迅博物館」「郭沫若記念館」「宋慶齢同志故居」、の博物館を見学し、そして「鼓楼」「鐘楼」を経て伝統的な住居の「胡同」を巡り、その後文具や書画・骨董品の街「瑠璃厰」を見て、前門の「大柵欄」の歴史的な建物の中で商う商店街を見物したのです。
 魯迅博物館の魯迅故居では、魯迅が植えたジャスミンの木が芳香な匂いをあたり一面に漂わせていて、また宋慶齢の住居では、海棠の花が満開だったのが印象的でした。
 二日目は、最初に「北京大学」と「北京大学歴史資料館」の見学です。北京大学は新中国建設時にそれまでの「燕京大学」を閉鎖して、この地に他から北京大学を移転させたのだそうです。構内には1860年に起きた第2次アヘン戦争で英仏連合軍によって徹底的に破壊された「円明園」の石造物が、略奪して燕京大学に移設されたその当時のままに残されています。
 また資料館には、抗日戦争、国共戦争から逃れるため、北京の清華大学、北京大学、天津の南開大学が連合して、最初は湖南省の長沙、その後雲南省の昆明に逃げ延びて学問を続けた、三大学の「西南連合大」(1938〜1946年)の歴史を物語る資料が展示されており、私は強烈な衝撃を受けたのでした。
 (次回に続く)  *南の風2643号(2011年4月29日)

■烟台の風159−初夏の北京は花園です@ (Sun, 24 Apr 2011 15:33)
 富川・川崎市民交流会からの東北地方太平洋沖地震に向けた「苦痛のトンネルが終わるその日は必ず来るでしょう」(南の風2613号)とのメッセージを寄せて下さった李時載(イ・シージェ)先生を訪ねて、私は北京に参りました。 韓国カトリック大学教授(社会学)の李先生は、2006年に「北京大学」に1年間、そして今回は2度目のサバティカルで「中国人民大学」に滞在されています。
 私は李先生には1991年以来親交を結んでいただいています。李先生は昨年5月に山東省を訪れて下さいました。今回は、先生が滞在中に「是非北京にいらっしゃい」とのお誘いを受けて4月14日(木)から3泊4日で訪問させていただいたものです。烟台はようやく遅い春がやって来ました。コブシに続いてレンギョ、木蓮、花桃が咲き出しました。柳の芽吹きが始まりましたが、ポプラやプラタナス(鈴かけ)は、まだ丸坊主です。プラタナスは沢山の鈴をぶら下げて寒風に耐えています。待ち遠しい春の到来に喜んだ私は、「烟台から春を運んで参ります」と李先生にメールを送ったのです。
 烟台は北京よりも南だからです。ところが北京は内陸部のため、烟台よりも一足先に春がやって来て、今はもう初夏の陽気です。木々は新緑に包まれ、あらゆる花木が咲き乱れていました。ヨーロッパの観光客は皆半ズボンに半袖のTシャツです。女性はタンクトップで歩いています。烟台はまだダウンコートが離せないというのに。地下鉄はエアコンが入っています。人民大学と北京大学の構内を散策しましたが、どちらの大学も広大な敷地に色々な花が咲いていて、樹木の若葉とのみごとなコントラストを描き出していました。ライラック、ジャスミン、花桃、梅、山吹、ユスラ梅、桐の花、コデマリ、海棠、ボケ、スミレ、レンギョ、紫大根、芍薬、藤の花、花ズオウ、雪柳、トサミズキ、エニシダ、などが競い合い、咲き誇っています。まさに学園は花園でした。(次回に続く) *南の風2642号(2011年4月27日)

■烟台の風158−3大学の日本語スピーチ・コンテストB (Fri, 22 Apr 2011 07:46)

 …(前回から続く)…
 魯東大学、烟台大学と山東工商学院の3大学スピーチ・コンテストが4月9日の夜に山東工商学院で開催されました。日本語スピーチ・コンテストは山東工商学院の学生会が主催ですが、他に、日本語演劇は烟台大学の学生会が、日本語の歌謡大会は魯東大学の学生会が主催して、3大学連携のコンテストを行っているのです。
 スピーチ・コンテストは、さすがに各大学の代表者だけに、いずれも甲乙つけがたく見事な出来栄えでした。表情も穏やかで、身振りも自然で、日本人によるスピーチかと見間違えるような流暢な日本語です。9人が登壇して発表したのですが、審査にあたったのは各校3人ずつの日本人教師でした。
 1人のスピーチが終わると、その都度審査員の一人が手をあげて発表者に質問をします。どうやら、その受け答えも審査の対象にしているようでした。そして出演者がステージをおりると、すぐに主催者の学生役員が各審査員を回り審査得点表を回収に来ます。次の出演者のスピーチと審査員による質疑応答が終わると当日の司会者が次の出演者を紹介しますが、その時に前々回の出演者の得点を発表するのです。
 最後のスピーチが終わると、なんと突然、私がベテランの日本人の諸先生を差し押さえて総講評をするよう学生から指名されたのです。「ええっ、魯東の吉成先生は6年目、我が校の大沼先生は5年目の大ベテランの先生方なのに、何故私が、私はまだほんの駆け出しなのに・・・」、と思っても、突然のアナウンスなのです。
 私は、スピーチの内容は誰もが申し分のない出来であった、と話した後感情移入の大切さと間の取り方の話をしました。そして9人の話の共通が「青春」であったことから、サミエル・ウルマンの詩「青春」を紹介したのです。
 今回も中国人教師は誰も参加していませんでしたが、聴衆の学生も少なかった気がします。とてももったいないですね。翌日私は主催者の学生役員8人に誘われ、烟台大学前のカラオケに行きました。久し振りに日本の歌謡曲を歌い、そして昼食をご馳走になったのです。男性2人と女性6人でしたが、ビール瓶が結構空になったのです。それから彼ら8人は私の部屋に来て、日本の煎餅とコーヒーで昨晩の余韻を楽しんだのです。*南の風2639号(2011年4月24日)

■烟台の風157−みごとな日本語スピーチ・コンテストA (Mon, 18 Apr 2011 22:02)
: (承前) 前回、スピーチ・コンテストの審査基準の4つの視点をご紹介しましたが、その内容は次の通りです。(1)発表内容は@スピーチの構成、A主張の明確性(何を伝えたいのか)、B独自性・独創性です 。(2)発表態度は@表情・感情・身振り・目配り、A声の音量・発音・イントネーションです。(3)日本語能力は@言語の正確性・文法、A明確性・分かり易さ、B速度・間合いです。(4)時間の正確性は.与えられた時間を守ったかどうかです。
 私の授業では、良く歌を歌います(小林文人先生の模倣です)。これは言語はリズムだとの信念の元に、学生に言葉の抑揚と間合いを身みに付けて、感情表現を豊かにしてもらうためです。しかし、今回の出場者は大勢の観客の前で緊張したのか、表情が硬く、目線が固まり、ボディーランゲージ(ゼスチャー)が不足していました。言葉は明瞭ですが早口で、間合いが取れません。それと、促音や長音の発音も授業ではしっかりできても、こうした緊張した場面ではまだ身についていないのです。
 とは言っても、わずか一年半の学習時間にもかかわらず、これだけ外国語で自分の考え方を発表できるのですから脅威的だとしか言えません。私にはとても無理です。皆さんはどうですか。発表作品は、恋人との別れ、教師の励まし、友達の友情、友人との死別、重なる親族の不幸、他人の親切、困難に打ち勝つ、などでした。どれも独創的でとても優れていました。
 上位入賞者の3人は、4月9日(土)に開催された魯東大学、烟台大学との3大学スピーチ・コンテストに山東工商学院代表として出場したのです。
 これは学生主催の自主事業ですが、私は前回も感じたことですが、学生の学習成果の到達点やレベルを把握するために、また教師自身の指導力を確認するために、こうした催しは絶好の機会なのですが、残念なことに教師の参加がほとんど無いのです。お国違えば....ですかね。(次回に続く)
*南の風26
37号(2011年4月20日)

■烟台の風156−地震と日本語スピーチ・コンテスト@ (Thu, 14 Apr 2011 10:36)
: 
4月9日の夜、烟台市内の3大学の代表によるスピーチ・コンテストが我が山東工商学院で開催されました。それに先だち代表を選出する大会が各校で開催されましたので、ご紹介いたします。
 先月の12日(土)に、2年生の学生会が主催する「日本語スピーチ・コンテストが夜7時から西校区の大教室で開かれました。テーマは「今まで最も忘れられない出来事」です。私は審査員に学生代表から頼まれての参加でした。審査は日本人教師2人と若い中国人教師の朴小甜先生の3人です。出場者は12名でした。日本人教師の大沼正子先生は仙台市の出身です。この日は、まだ仙台市に暮らす姉の安否の消息がつかめないままの参加でしたが、彼女は心痛の深い憂いを心の奥深くに仕舞い込み、笑顔で現れました。
 実はこの日の午後、彼女は自分の携帯電話では仙台との連絡がとれないため、国際交流センターの電話で肉親の兄に連絡をとっていました。私は何の力にもなれませんが、こんな時だからこそ一緒にそばにいて励ましてあげようとセンターに同行したのです。お姉さんの消息は依然として不明でした。その後、1週間後に彼女が日本帰国を決意した時にお姉さんの無事が判明したのです。
 スピーチ・コンテストに出場する学生は昨年の9月に2年生になって約半年で、日本語を学び始めてからまだ1年半の学生ですが、皆しっかりとした日本語を話します。全員に最優秀賞をあげたい出来ばえでした。ある学生は、発言の冒頭に「日本で地震にあわれた皆さまに心からお見舞い申し上げます」と発言して、私の心に熱いさざ波をたててくれました。
 私の審査基準は、第一印象を大切にしております。まず笑顔ですね。授業の時も「面接はファースト・インスピレーションで決まるのだ」、と教えています。今回私が作成した審査基準をご紹介します。(1)発表内容、(2)発表態度、(3)日本語能力、(4)時間の正確性、の4つの視点です。(次回に続く)
*南の風2635号(2011年4月17日)


■烟台の風155清明節の4連休ですA (Sun, 03 Apr 2011 21:44) (前回の続き)
 私の大学の北門の外はコリアンタウンが広がっています。大阪の鶴橋や川崎のコリアンタウンと違い、ハングルの看板が無ければ、そこが韓国人マウルだとは分からない高層ビルの高級住宅地です。
 4人娘の中に1人吉林省出身の朝鮮族の金春姫さんがいます。そして今日は、韓国の全南大学に留学している久保さんの歓迎会も兼ねているので、コリアンタウンの高級レストラン「門庭若市」で韓国料理のプルコギをたらふく食べる計画です。
 この店の従業員は全員中国人ですが、経営者の夫婦は韓国人です。学生は私が韓国語を話せることを知りません。店に到着すると、ご夫婦に韓国語で挨拶をした後、「予約はしていないが、全部で7人だが席はありますか」とハングル語で尋ねると、6人の学生は皆驚きの表情をしていました。勿論料理の注文も全部、錆付いたハングルです。
 早速「伊藤先生は、どこで韓国語を勉強しましたか」、との質問です。一通り説明した後、「君たちは中国語と英語と日本語が出来るのだから、もう一つ韓国語を学びなさい。東アジアの言語を学び合って、是非中韓日の交流をして下さい」と私は述べたのです。皆20代前半の歳なのですから、前途洋洋です。日本人の2人を除く5人の出身地は、黒竜江省、安徽省、吉林省が各1人で甘粛省が2人です。甘粛省の1人は、1月のシルクロード旅行で私が立ち寄った嘉峪関から来ている韓娜さんです。
 日頃から韓国人が集うお店ですから、私たちは本場の味を堪能したのです。「アージューマシッソヨー」「ヘーチャン、ハオチー」。この連休は、それぞれ学生たちは、思いおもいの友人と誘い合い、小旅行を計画しています。蓬莱、威海、青島、それと烟台市内の公園やお寺などです。久保さんは、青島に行くそうです。明日私は2年生に誘われて3回目の「牟氏庄園」にバス旅行をします。*南の風2629号(2011年4月7日)

■烟台の風154−清明節の4連休です@ (Sun, 03 Apr 2011 07:15)
 日本人の留学生が一人3月にやってきました。お隣りの魯東大学、烟台大学には日本人留学生がいますが、残念ながら歴史の浅い山東工商学院には今まで一人もいなかったのです。韓国人とロシア人留学生は沢山いるのですが。彼女は「久保なおみ」さんといい、英語学科の学生です。
 今日は清明節の4連休の初日です。そこで私は4人の日本語学科の女子学生と日本人留学生を夕食に招待したのです。4人の学生は先日私が元気が無いのを心配して、私の部屋で2種類の餃子を作ってくれた学生です。白菜と豚肉、それとニラとスクランブルエッグの2種類です。私の部屋の台所は狭くて、ガス台は無くて、パネルヒーターの電熱器ですし、まな板は洗濯板の代用品、包丁といったら2元ショップの安物で、料理をするには最悪の環境なのですが、4人は1時間ぐらいで、手際よく175個の餃子を作り、私に振舞ってくれたのです。
 私も生まれて初めて餃子の皮にあんを包むことを教えてもらいました。彼女たちは子どものころから家事を手伝っているのですね。本当に美味しかったですよ。中国の北部地方では春節には家族総出で餃子を作り年越しを祝うのだそうですが、その際一つだけ中にコインを入れるといいます。それを食べて見つけた者にはその年に幸運が舞い込むのだそうです。偶然にも幸運のコインは私の口の中で発見されたのです。5人で食べた175分の1の確率です。今日はそのお返しの宴です。
 4人は私の好きな鉢植えの花を持ってきてくれました。留学生は、秦野の出身で高校はオーストラリア、大学は韓国の全南大学の文化人類学専攻の4年生です。正確には留学生ではなく、大学間協定による短期の交換派遣学生です。国籍は日本でも派遣大学は韓国の大学なのです。中国の大学滞在はわずか4ヶ月だそうです。約束の時間に彼女は日本語学科の3年生の友人を1人連れてきました。私を含め総勢7名の大宴会となりました。(次回に続く) *南の風2627号(2011年4月4日)

■烟台の風153お別れの手紙です (Thu, 31 Mar 2011 07:47)  (前回の続き)
 一人で海岸をどこまでも歩いていると、私の携帯電話が突然鳴り出したのです。それは統計学科の学生の趨航君からでした。私に今日どうしても会いたいと言うのです。彼は2学期から私の授業を聴講しています。時々私の部屋にも遊びに来てくれました。彼の日本語学習の動機は愛の力です。(南の風2597号「烟台の風144号」)
 彼は約束した時間に私の部屋にやって来ました。部屋に招き入れようと促すと、これからアルバイトなので、すぐ失礼すると言って、手土産のCDと手紙の入った美しい封筒を私に渡すなり、「就職が決まりそうなので、重慶に帰ります。いろいろありがとうございました」、と言って立ち去りました。その目には薄っすらと涙が光っていました。
 CDは彼の大好きな「小松未歩」の歌です。私は初めて聞く歌です。カバーには「元気でね、大事にして〜、すうこう より」とマジックで書かれていました。手紙を紹介します。彼は日本語学科の学生ではありませんが、愛の力で日本語検定試験は2級です。今年7月には1級に挑むそうです。
 〜(封筒の表の文章)〜 伊藤先生: またあおう〜、もし重慶に遊びにきたら連絡をとって頂戴。
 〜(封筒の中の手紙)〜 伊藤先生へ
 今まで沢山お世話になりました。ありがとう、先生。私みたいな外国人の学生をそこまで助けてくださって感謝に堪えません。このご恩は一生忘れられません。でも、私はこれから先生の授業を聞きにいけなくなります。山積みの問題が目の前にあったり、就職先を見つけなければならなくなったりしています。忙しくて時間も無いし、たぶん授業に出る機会は無いと思っております。
 先生と出逢うのは楽しい。先生と過ごした時間は決して消せない思い出になると信じております。だって、これが私の「一期一会」ですから。ある人を追いかけるために勉強した日本語ですが、私は今後も勉強しつづけます。先生も体を大切にしてよね。いい人だからきっと健康はいつもそばに囲みつづけます。私はそう思っております。趨航より 2011.3.26〜〜〜〜
 伊藤は、歳をとったせいなのか、涙もろくなっております。 *南の風2626号(2011年4月3日)

■烟台の風152−天使に出逢う (Tue, 29 Mar 2011 20:57)
 ここ数日、私の大切な友人が次々に急逝されました。私は起床と同時にPCを開きますが、最近はメールを見るのが恐ろしくなっています。26日・土曜日のことです。早朝に開いた衝撃的なメールの影響は大きく、何も手につかない私は気持ちを落ち着かせるべく散歩に出かけました。幸いにして当日は太陽の日差しが強く、前日までの北風も止まり烟台の美しい海岸を歩くには絶好の日和でした。
 大学の前の海岸には、久し振りの好天に凧揚げに興じる子どもたち、潮干狩りの家族連れ、そして何組もの新婚カップルの記念撮影と、沢山の人々で賑わっていました。
 大空は突き抜けるようなブルースカイで、水面はパステルカラーの淡いグリーンです。砂浜は銀色に光る雲母に敷き詰められていて、私のすさんだ気持ちを和らげてくれます。私は賑わう人々から離れ、誰も人気の無い砂浜をどこまでも歩き続け、他界した友人の顔を思い浮かべていたのです。4キロぐらい歩いたでしょうか。松林を背に遠く波打ち際をこちらに向かって歩いてくる一人の人影を私は見つけました。
 しばらくして、お互いの顔がわかる距離に近づいたのです。若い女性でした。一瞬双方とも顔を見合わせてしまいました。なんと彼女は私の教え子だったのです。こんな遠くまで一人で散歩だそうです。何か物思いにふけっていた様子です。簡単な会話をして別れたのですが、きっと彼女は、多くの友人の死に打ちひしがれている私を見て、天が授けてくれた天使だったのです。
 その後、足の向くまま気の向くまま、私は歩き続けたのです。すると、突然携帯電話が鳴り出しました。(次回に続く) *南の風2625号(2011年4月1日)

■烟台の風番外編ー諸行無常のはかなさ (Sat, 26 Mar 2011 08:36)
 パソコンを開くのが怖くなります。地震の被害のことではありません。ここ数日続く親しい知人の訃報のことです。一人暮らしの私の精神安定剤はパソコンのメールなのです。特に「南の風」に励まされ、孤独感を振り払っています。昨晩は、仙台市と石巻市の知人の消息が分かり、その安全が確認できて喜んでいたのですが、今朝(26日)は早朝の真っ赤な大きい太陽が昇るのを眺め、「今日は良いことがあるぞ」と、パソコンを開いたところ、涙があふれ出たのです。
 私が教育委員会に就任した当初から、私をズート可愛がってくれて、仕事を教えてくれた稲垣先輩の悲報に触れたからです。酒が弱かった私を酒豪に育てたのも稲垣さんの努力の賜物です。数日前も親しくしていただいた宮田先輩が他界され、私の心に大きな穴をあけたばかりでした。
 若いころ、稲垣さん、宮田さんのご家族がそろって鎌倉の狭い我が家に海水浴に泊りがけで来てくれたことを、つい昨日のことのように思い出します。
 東北大地震のあと、仙台の友人の安否を心配して他の友人に尋ねると、地震が起きた1週間前に大学時代の同級生の及川君が脳溢血で他界したこともメールで知らされたのです。彼とはロシア語専攻が同じで、私の中国赴任の際には、仙台から壮行会に駆けつけてくれたのでした。自然界の摂理とは言え、諸行無常のはかなさ、その哀れに打ちのめされている私です。
 「稲垣先輩、遅いじゃないですか」「宮田氏、若いからって私を追い抜いてはいけないよ」、と酒豪の二人は杯を酌み交わしているのでしょう。ご冥福をお祈り申し上げます。*南の風2622号(2011年3月27日)

■烟台の風151原発問題を考える映画会、(Fri, 25 Mar 2011 20:14)
 私が川崎市の国際室主幹か国際交流課長の時でしょうか、東京電力の招待で新潟県柏崎の刈羽原子力発電所の見学旅行に招待されたことがあります。1泊2日の旅館代から川崎市からの往復の観光バス1台の料金まで、全て東電持ちの大名旅行でした。当時の川崎市は革新市政で、原発に批判的な市政の幹部職員が招待されたわけです。つまり企業の懐柔作戦。原発の安全性を説明する現地の幹部職員に私は質問をしました。
 「地震大国の日本だが、耐震性はどうなっているのか?」と。すると「ご覧のとおり、岩盤まで掘り下げて基礎を作っており、関東大震災級の地震が起きても安全です」、と説明を受けたのです。
 しかし、その後中越沖地震(2007年7月)による火災事故でその説明が偽りだったことが証明されたのです。今回の福島原発の事故も、人間の知恵と技術を超える自然の力の前にはその安全性の神話はもろくも崩れ去る、ということが証明されたと言えるでしょう。
 私が客員研究員を務める川崎地方自治研究センターから送られた通信に「原発の映画」のお知らせが掲載されています。この機会に是非多くの皆様にご覧いただけると幸いです。
 (以下紹介文です)〜〜〜〜
 自治研センターでは、昨年3月原発の問題と自然エネルギーの可能性を考える映像「ぶんぶん通信1」の上映会を行いました。この映像をまとめた映画「ミツバチの羽音と地球の回転」が、4月2日?22日の期間、川崎市アートセンターにて上映されます。(小田急線・新百合ヶ丘駅前、西口下車)
http://kac-cinema.jp/theater/detail.php?id=000388 →■
 この映画は、原発に頼らずに暮らしていこうとする小さな島の人たちの強さと、原発に頼らない未来の可能性を示してくれるものです。今回の事故で、原発について多くの人が考え、さまざまな情報を求めたと思いますが、ではどうしたらいいのか?というヒントを、この映画は教えてくれると思います。 もう二度と同じことを繰り返さないために、まずはこの映画を観てみませんか。4月2日は、鎌仲監督のトークもあります。イラク、六ヶ所村等も撮影してきた監督の話は、必聴です。
映画公式サイト:http://888earth.net/index.html →■
上映時間等 4/2(土)〜4/8(金) 14:30 20:00  4/9(土)〜4/15(金) 15:30  4/16(土)〜4/22(金) 10:00 
        ※休映・・・4/3(日)20:00の回、4/4(月)、4/11(月)、4/18(月)
料金 一般1700円/大学・専門学生1400円/シニア・障がい者・付添・会員1000円/高校生以下800円
ゲストトーク ★4/2(土)14:30の回上映後3Fコラボレーションスペースにて、鎌仲ひとみ監督のトーク。
TEL:044-955-0107/FAX:044-959-2200/  メール:eizo@kawasaki-ac.jp  
*南の風2621号(2011年3月26日)

■烟台の風150−大地震と人類愛B、(Sat, 19 Mar 2011 22:25)
 (前回に続く)
○日本大地震災害に対する韓国市民団体の声明
 今回の日本の東北地域で発生した地震と津波により、想像を超える被害と苦痛を味わっている方々や被害者の方々に深い哀悼の気持ちを送ります。加えて、原子炉の爆発による放射能被害と、今なお続く各種災難や悲報に驚愕と悲しみを禁じることができません。一刻も早くこの災難が収拾されることを心から願っています。
 今回の東北地域の災害によって、日本の市民だけではなく、少なくない数の在日同胞と外国人も被害を受ける、もしくは今だに生死さえも確認できていない状態だと聞いています。宮城県に居住する日本軍「慰安婦」被害者・宋神道(ソン・シンド)さんもまた、連絡がとれない状態だということで大変心配しています。
 国境と民族を超え、この惨事を東アジアの痛みとしてすべての人々が立ち上がらなければならない時です。日韓過去問題と関連した韓国の市民団体もまた、日本のすべての人々がこのとてつもない惨事を乗り越えていけるよう、できる限りの努力を行うつもりです。日本市民と在日同胞を含めた外国人すべての安全のため、最善の努力と協力を行うことを韓国政府当局にも要請します。
 再度、深い哀悼の気持ちを伝えながら、口にするにも辛い悲しみと衝撃を乗り越えて、再び立ち上がることができるよう祈っています。そのために韓国の市民団体も積極的な協力を惜しまないことを約束します。  
                                     2011年3月15日
KIN(地球村同胞連帯)、(社)韓国原爆被害者協会、アジアの平和と歴史教育連帯、アヒムナ運動本部、
韓国挺身隊問題対策協議会、原爆被害者および原爆2世問題解決のための共同対策委員会、
世界NGO歴史フォーラム、全国歴史教師の会、太平洋戦争被害者補償推進協議会、大韓民国臨時政
府史跡地研究会、挺身隊ハルモニとともに行動する市民の会、独島守護隊、ナヌムの家、南北経協運
動本部、日本NPO法人、興士団、ASIA PEACE BUILDERS、平和統一市民連帯、平和博物館、民族問
題研究所、靖国反対共同行動韓国委員会、歴史問題研究所、林鐘国先生記念事業会、正しい韓民族
史運動本部、ウトロ国際対策会議、サハリン希望キャンペーン団、丹波マンガン記念館債権韓国実行
委員会。*南の風2618号(2011年3月22日)

■烟台の風149ー大地震と人類愛A  (Sat, 19 Mar 2011 22:24) (前回に続く)
 とても嬉しいことがありました。私の同僚の日本人教師のお姉さんが仙台にいらっしゃいます。今回の大地震で連絡がとれず、消息不明のまま安否が確認できなかったのですが、ようやく16日のメールで無事の一報が届いたそうです。多くの学生、日中の同僚教師が心配していたのですが、この朗報に全員が手をたたき合って喜びあったのです。
 外国語学部日本語学科の1階玄関ロビーには、「愛は限界が無い、心と心がつながる〜大愛無疆心系日本」と書かれた日本の地震見舞いの大きなたて看板が学生会の手で据えられ、そこに沢山学生たちがポストイットに書いたメッセージが貼り付けられています。その多くは、「日本頑張れ」といった激励文です。人類愛に満ちた立看です。
 私個人にも沢山の学生や外国人教師から、「日本のご家族はご無事ですか」というお見舞いの言葉や、電話が多数寄せられました。連日放映されているTVニュースの映像に誰もがショックを隠しきれず、私に声をかけてくれるのです。
 長年にわたる私の韓国の友人、李時載カトリック大学教授が、韓国の「ハンギョレ新聞」に日本の大地震に向けて痛みを分かち合う気持ちを投稿されています(南の風2613号)。李時載先生は現在2度目のサバティカルとして北京の大学に赴任していらっしゃり、北京から原稿を送られたのですね。彼は川崎市と富川(プチョン)市との姉妹友好都市の生みの親です。それ故、今回は富川・川崎市民交流委員会共同代表としてのメッセージも執筆なさっています(南の風2614号)。
 また、韓国の多くの市民団体からも「日本大地震災害に対する韓国市民団体の声明」と題して、「国境と民族を超え、この惨事を東アジアの痛みとしてすべての人々が立ち上がらなければならない時です。」と述べたメッセージ(姜恵禎氏紹介)が寄せられております。(次号へ)*南の風2617号(2011年3月21日)

■烟台の風148ー大地震と人類愛@ (Sat, 19 Mar 2011 22:04)
 未曾有の大地震から1週間が経ちました。昨日中国の胡錦濤主席が北京の日本大使館で地震の犠牲となった方々への弔意と哀悼の意を表していました。ここ中国では各地で義捐金の募集活動や子どもたちの激励文作成の動きが始まっています。実は日本で起きた大地震の前日(10日)には、雲南省の盈江(インジャン)市でも大地震に襲われ大きな被害が起きているのですが、TV報道は日本一色です。
 今日は土曜日ということもあって、日本の地震の特番が組まれました。とても嬉しくも悲しい出来事が紹介されていました。それは、「一人の日本人に助けられた20人の中国人研修生」というタイトルでした。宮城県女川市の水産加工会社の佐藤充さんが地震と同時にいち早く神社のある高台に中国人研修生を避難させて、津波から命を守ってくれたという報道でした。一人の中国人女性は佐藤さんがいなかったら私たちは全員命を落としていた、と涙ながらに感謝の言葉を述べていました。でも佐藤さんは未だに行方が分からず、生死が不明だそうです。
 外国に暮らす私はインターネットから目が話せません。悲惨な悲しいニュースの中に心温まる記事も沢山あります。宮城県名取町の閖上(ゆりあげ)公民館長が被災した高齢者を励まして、元気付けている話とか、岩手県大槌町の県立大槌高校の学生が被災者への炊き出しやトイレ清掃をしている話などです。また、日本支援の申し出が世界116カ国・地域、国際機関が28に上る(17日現在)といった話です。地獄を見た人は天使の心を持つのですね。(次回に続く) *南の風2616号(2011年3月20日)

■烟台の風147−私の学生はいまC古い歌と新しい歌(Thu, 10 Mar 2011 09:31)
 「天城峠で会うた日は、絵のようにあでやかな」、と口ずさんだ私は、その前後の歌詞がどうしても思い出せないのです。そう、これは先日私の部屋に遊びに来た二人の女子学生に聴かせてあげようと歌った三浦洸一の「踊子」の一節です。
 私は、家族旅行で伊豆へ河津桜を見に出かけた話をしました。すると、学生は「先生、伊豆はどこにありますか?」と質問しました。書斎から日本地図を取り出して説明すると、「先生、川端康成の『伊豆の踊り子」をご存知ですか?』と再質問です。彼女たちは伊豆の踊り子の映画を学校で見たことがあると話して、とても感動したと私に語りました。
 そこで私は、ビールの力を借りてその映画の主題歌を歌ってあげようと、歌いだそうとしたのです。ところがその歌詞の出だしから私の記憶が摩滅してしまっています。このままだと教師の沽券にかかわるので私はパソコンに向かったのです。するとなんと「伊豆の踊り子」の映画は6作もあるのですね。主演女優は、田中絹代(1933年)、美空ひばり(1954年)、鰐淵晴子(1960年)、吉永小百合(1963年)、内藤洋子(1967年)、山口百恵(1974年)です。
 二人の学生が鑑賞した映画は山口百恵主演映画ですから主題歌も違います。ようやく歌詞を見つけて私は気分良く「踊子」を歌ったのです。♪さよならも言えず、泣いていた、私の踊子よ...ああ船が出る。天城峠で会うた日は、絵のようにあでやかな、袖が雨に濡れていた、赤い袖に白い雨♪
 歌い終わると、私はまた質問を受けました。「先生、白い雨はおかしい表現ではないですか?」。そこで私は「真っ赤な嘘」「青い顔」「紫の雨」、と日本人の心理的自然観と色彩言語の話です。
 話は変わります。皆さんはご存知ですか、中国で今流行っている日本の歌を。実は2年生の男子学生から教えてもらったのです。私は恥ずかしながら知らないと答えると、彼は自分の携帯電話から配信した音楽を聞かせてくれたのです。それは植村花菜の「トイレの神様」とBAADの「君が好きだと叫びたい」、の2曲です。とても良い曲ですが、私には歌えません。古い歌は忘れ、新しい歌は歌えない私です。この時、私もそろそろ引退の潮時かな、とふと感じとったのです。 *南の風2612号(2011年3月16日)

■烟台の風146私の学生はいまB 優秀な学生たち (Tue, 08 Mar 2011 21:55)
 先日、私は烟台空港のロビーで2年生の女子学生に声をかけられました。彼女はこれから北京に4泊5日の観光旅行に出かけるところだと言って、同行の恋人を私に紹介してくれました。その後教室で再会した時、私は彼女から北京の土産をいただいたのです。
 冬休みに、敦煌を旅行した時の旅行社のガイドは、陳勇強さんと除軍さんでしたが、彼ら二人は蘭州の大学を卒業後、日本の三重大学に留学したそうですが、なんと二人とも蘭州の大学で恋人を見つけ、男女二組4人一緒に三重大学に留学したそうです。学生時代からカップルが誕生しているのですね。いつまでもお幸せに!
 私の3年生のクラスに李海龍君と王冬梅さんのカップルがいます。李君は黒竜江省の出身で背の高いハンサムボーイです。しかし学業はさっぱりで、よく3年に進級できたものだという成績です。私の授業も最低の力量なので、私は日頃から気にかけている学生なのです。逆に王さんはトップクラスの成績です。彼女は語彙が豊富で、小説家にしたいような文章表現の豊かな河南省出身の女性です。
 その彼女の恋人が駄目男なのですから、男と女の世界は摩訶不思議ですね。母性本能をかきたてているのでしょうか。いつも二人は手をつないで仲良くキャンパスを歩いています。でも、多くの学生は、真剣に専門教科の学習に力を注いでいます。教室では、教師が来室するまでの僅かな時間、全員が声を出して日本語の教科書を読んでいます。「えっ、これが大学生なの?」という感じです。教室に向かう路で会う女子学生は、ウォークマンを聴きながら大声で英語を暗唱して歩いています。
 全国の日本語弁論大会で優秀な成績を収める学生もいるのです。4年生の□(読めず)秋月さんは、今大学院入学を目指して頑張っていますが、彼女は源氏物語を全国弁論大会で取り上げ、惜しくも優勝は逃したものの、2位の表彰を受けています。彼女の卒論は村上春樹論で、古典文学、現代文学の両方に関心を持っている才媛なのです。*南の風2606号(2011年3月10日)

■烟台の風145私の学生はいまA 開放的な男女交際 (Sun, 27 Feb 2011 10:23)
 私の一日は、キャンパスの中を早足で行ったり来たりの毎日です。その時行き交う多くの学生に挨拶をされます。顔見知りもいれば、まだ私の記憶の引き出しに整理されていない学生もいます。目つきの悪い強面の私は、極力微笑みを持ってキャンパス内を歩くよう心掛けています。
 先日も、二人の女子学生に「先生こんにちは」と声をかけられました。全く覚えていない学生です。彼女たちは自分のかばんの中からこの季節には珍しい青い梨を2個取り出して私に差し出してくれました。1年生のクラス会に私が招かれた折に出会ったのだそうです。
 挨拶は、ニッコリ笑って「先生」と手を挙げる学生、「伊藤先生お早うございます」と丁寧に挨拶する学生とそれぞれまちまちです。学生食堂で軽食をとっている私に気付き、ミカンを持って来てくれた男子学生もいます。彼はモンスターの様に大柄な男性ですが、気が優しくて教科書を読ませると、蚊が鳴くような小さな声で聞き取れないのです。
 早朝、キャンパスの池の畔や立ち木の芝生の上では、何人かの学生が大声を上げて外国語の教科書を読んでいます。冷たい空気に吐き出す息が真っ白です。
 そこで一句、「吐く息や 負けぬ乙女の 読む声ぞ」。
 ところで、ところどころで教科書を読んでいる学生の間近で、恋人同士が抱擁をしています。あまり双方とも気にはならないらしいのです。
 夕方、大勢の学生がたむろす学生食堂の前で抱き合い、口づけを交わすカップルもいます。今まで一緒に楽しい晩餐の時間を過ごしていたのですが、これから男女別の学生寮に戻るので別れが辛いのでしょうか。男女交際でいえば、中国の学生は日本の学生より開放的ですね。*南の風2599号(2011年3月1日)

■烟台の風144私の学生はいま@ 女の力 (Thu, 24 Feb 2011 15:56)
 南の風が2600号を迎えます。驚愕すべき回数です。心からの感謝と敬意を表させていただきます。南の風は川崎市でも初代・山崎信喜さんが、二代目・中村高明さんがローカルキーステーションとして、多くの仲間に配信させていただいております。貴重な情報源として、貴重な論壇として、市民、研究者、職員の交流の場として、これからも長く発信していただきますよう、小林文人先生のご健康とご活躍をお祈り申し上げます。
 さて、2月21日から2学期の授業が始まりました。第一週目の2年生の授業で出席を確認すると、前学期に見かけなかった笑顔の男性が1人いました。名前を確認すると、たどたどしいけれど正確な日本語で、「今日の授業を聴講させて欲しい」と彼は言うのです。「勿論大歓迎です」と私は許可をしたのです。
 90分の授業が終わると、彼は「これからも伊藤先生の授業に出席させて欲しい」と言い、「先生の授業は面白いし、先生は学生に優しい。」とお世辞を付け加えました。彼の名前は鄒航君といい外国語学部の学生ではありません。私は宿舎に戻る道すがら、彼に尋ねました。「あなたの日本語は上手ですが、どこで勉強しましたか、高校ですか。」と。すると彼は、「これは長い話になりますが、独学です。」と答えました。続けて「私は重慶市の出身で、高校でクラスメートの女性を好きになりました。彼女が日本語を勉強していたので、私も日本語に興味を持ちました。彼女は現在、武漢師範大学で勉強しています。」と言います。
 私は、その後彼女との関係は?と質問したかったのですが、グッとこらえたのです。しかし、彼は続けました。「今では、彼女は私の恋人です、愛の力ですね。」と、嬉しそうに“惚気のたまわった”のです。女の力は偉大なり。愛の力は偉大なりですね。好きな女性により、青年の進路が、人生が左右されるのですから。青年に輝かしい未来あれ! *南の風2597号(2011年2月27日)

■烟台の風1432学期が始まりました (Mon, 21 Feb 2011 21:53)
 1月15日からの冬休みも、アッという間に過ぎ去り今日(2月21日)から2学期が始まりました。私は18日に烟台に戻りましたが、帰国の際は雪景色の烟台が、今回戻るとまったく雪は消え去っていました。空港から乗ったタクシーの運転手に尋ねると、「最近雪は降らない。今年の冬は暖かい」との返事でした。しかし雪が少なく、雨も降らないため、野菜の生産地のここ山東省は大旱魃の被害が出ているとの報道が連日なされています。
 出国の前日の夜(17日)は、川崎市教育委員会の初代生涯学習推進課の職員の集いが開かれ、私は日本での最後の楽しい一時を過ごしました。それまでの社会教育課が組織変更となり、私が初代生涯学習推進課長を務めたのですが、その時のメンバーが毎年1回集まっているのです。総勢15名の仲間の内13名が出席され、思い出話に花が咲きました。明日の夜は烟台だというのに、私は後ろ髪を引かれる思いで彼らと別れたのです。
 19、20日の土日は、中国各地の故郷から戻る学生たちが転がすキャリーバックの音がキャンパスに響きわたり、私に授業の準備を促していました。
 今朝の最初の授業で私は「私の体には二人の伊藤がいました。一人は、もう中国に戻りたくないという私です。もう一人は、早く学生の皆さんに会いたいという私でした。」と話しました。そして続けて「でも、教室に入ったとたん、皆さんの笑顔に接して、一人の伊藤は消え去り、皆さんと再会できた喜びで一杯です。」と私は話したのです。
 学生からも「先生、日本の冬は寒いですか?」「冬休みは旅行をしましたか?」「毎日お酒を飲んでいましたか?」、と質問の矢が飛んできました。「さあ。今日から半年頑張るぞ。」と心を新たにして、自身を鼓舞した私です。*南の風2594号(2011年2月22日)

■烟台の風142−厳寒のシルククロード・敦煌B (Sun, 13 Feb 2011 11:26)
 敦煌市内中央のロータリーには町のシンボルの飛天像が設置されていますが、これは莫高窟の壁画・天井画に描かれている飛天を模したものです。この飛天像は「反弾琵琶飛天」と名付けられ背中で琵琶を奏でています。飛天はインドやオリエントが起源と言われていますが、シルククロードを経由して日本に伝わり、法隆寺金堂や平等院鳳凰堂に描かれています。日本では羽衣伝説の天女をも生み出しています。
 それにしても、歴史上民族抗争が最も激しかったこの地で、異民族支配の時代も含めて、営々と石窟が造営され、破壊されることもなく修復し、守られてきたことに世界宗教としての仏教の普遍性を私は教えられたのです。
 敦煌から80キロ西方に「玉門関」「陽関」という漢の武帝の時代に設置された関所跡があります。ここは万里の長城の最西端です。ここに行く道路は、見渡す限り360度の地平線を走ります。地球の丸さを実感させてくれましたが、こんな荒地を求法の仏教僧たちは、あるいはラクダの隊商たちは星を頼りに歩いたのでしょうか。目標になるものが何も無い砂漠を、次のオアシスを目指してどのように歩いたのか、私は疾走する専用車の中で夢想していたのです。
 盛唐時代の王維の漢詩に「送元二使安西」という友人を送る詩が有ります。「勧君更尽一杯酒(君に勧める、もう一杯の酒)」「西出陽関無故人(西のかた陽関を出れば知る人はいない)」と詠っています。酷寒の寂漠たる荒野の玉門関に立って、私がこの漢詩を吟詠していると私の目の前を野生の鹿の群れが静寂を破る声をあげて飛び出してきました。まるで莫高窟の壁画から飛び出してきたかのように。その夜の敦煌は古に玄奘三蔵法師がここで眺めたかのような満月でした。
 「冬枯れの ゴビの砂漠に 野鹿飛び」「凍てついて ゴビの砂漠に 鹿の声」*南の風2591号(2011年2月17日)

■烟台の風141厳寒のシルククロード・敦煌A (Wed, 9 Feb 2011 10:57)
 かつてシルクロードの探検家たち、スタイン、ヘディン、ル・コック、ペリオや日本の橘瑞超などが訪れた聖地に私はついに立ったのです。子どもの頃からの夢が実現したのです。
 その昔、ソウルの景福宮にそびえ立っていた日本総督府跡を利用した韓国国立博物館で大谷探検隊の橘瑞超が剥がし取った大きな莫高窟の壁画を見て、私は愚かな行為を嘆いたことがありました。
 私たちは寒さを忘れ現地ガイド(敦煌研究院の向麗君女史)の説明を聞きながら、沢山の仏と壁画・天井画を拝観したのです。17窟は井上靖の「敦煌」で有名な5万点もの経文が隠されていた石窟です。ここから多くの文化財が外国に持ち去られ、その高度な文化が世に知られたのです。圧巻は唐、宋、清時代の基盤が明らかになっている130窟に入り、その基盤に立ち止まり、岩盤に刻まれた26メートルの大仏を仰ぎ見たことです。入り口の階段を一段下りるごとに時代が下がるのです。3メートル下が唐時代でした。
 時代は変わっても極楽浄土を願う人々の気持ちは変わること無く、こんなにも辺鄙な西域の地に、仏を刻み、彩色をほどこしたのでしょうね。時代とともに塑像造りの仏様のお顔も違います。正倉院宝物「鳥毛立女屏風」の女性のような下膨れのポッチャリ型のお顔は唐の時代です。その後は、だんだんお顔は細長くなるようですね
 私が好きな仏さまのお顔は、45窟の阿難像で軽くS型に体をひねり、手を前で組む伏目がちのお顔は、まるで生きている人間のようでした。阿難は釈迦の十大弟子の一人です。
 「飛天舞う 絹の道には 残り雪」「いと寒し 仏こわばる 千仏洞」 *南の風2588号(2011年2月13日)

■烟台の風140厳寒のシルククロード・敦煌@ (Mon, 7 Feb 2011 20:28)
 私は、中国からの帰途、シーズンオフでほとんど観光客が訪れることの無い厳寒のシルククロード「敦煌」に立ち寄りました。1月14日、天津駅前の「海河」は全面凍結していて、気温零下10度の寒風の中を市民がスーケートを楽しんでいました。翌日私は、「周恩来・ケ穎超記念館」と「天津市博物館」「古文化街」「鼓楼文化街」を見物して、16日に春節前の準備で混み合う天津駅で渤海大学の後藤仁先生と落ち合い、一緒に敦煌を目指したのです。
 天津空港から嘉峪関に飛び、そこから高速バスで4時間かけて、永年悲願の敦煌を訪れました。敦煌まではどこまでも直線の高速道路が延びていて、車窓の左右に広がるゴビの砂漠は生命の存在を感じさせることのない厳寒の荒野でした。ところどころに残雪がまだら模様になっていて、ラクダの好物の棘だらけの枯れたダンゴ草(蘇蘇草)が砂漠の荒涼感を誘い出していました。
 敦煌の気温は零下22度ですが、風が冷たかった天津の方が寒さを厳しく感じました。人間の体感温度は不思議ですね。私の暮らす烟台はこの時、最高気温が零下2度で最低気温が零下8度でした。この時西の果て敦煌の日の出は朝9時です。烟台は7時5分で日出国(ひいずるくに)の島国日本の東京は6時49分です。西域は夜明けが遅いのです。
 敦煌莫高窟の千仏洞は、観光シーズンから外れているので、ほとんど観光客はいません。私の「心の埃を払う」にはベストシーズンでした。まさにこの地は紀元366年に修行僧の楽?が三危山に精霊を霊感して石窟を掘ったことに始まるのですが、私にとっても莫高窟はパワースポット(霊地)でした。石窟には私の人生の節々で出会い、そして別れた人たちの霊が石窟の天井にも壁にも現れていて、私たちを歓迎してくれたのです。「最果ての 砂漠に化粧 まだら雪」「求法の 仏の道か 絹の道」 *南の風2587号(2011年2月10日)

■烟台の風139味わい深い日本酒「農民一喜」 (Mon, 31 Jan 2011 19:51)
 南の風の皆さまこんにちは。私伊藤は大学の冬休みを利用して、現在日本に一時帰国しております。1月14日に天津を経由して、シルクロードの敦煌に遊び、21日に鎌倉に戻りました。帰国してからは連日組まれたスケジュールを私は大いに楽しんできましたが、ついに昨日(30日)のお誘いは失礼させていただきました。体力の限界を感じたからです。
 旧友達と交わした友情酒、在日留学生との再会酒、研究会での学研酒と中国での一人暮らしの私は嬉しさのあまり、旨酒を鯨飲・痛飲してしまいました。研究会は「TOAFAEC」「韓国生涯学習研究」「東アジア生涯学習研究」です。和歌山大学の山本健慈学長から贈られた特注醸造の日本酒「農民一喜」は小林文人先生が研究会にご持参されて出席者に振舞われたのですが、実に淡麗で、まろやかで、キレの有る味わい深い酒で、久しぶりの日本の味に私は感激したのでした。ありがとうございました。
 そんな訳で私は昨日、鎌倉の稲村ガ崎温泉でゆっくりと五臓六腑を休め、夕焼けに輝く海原に浮かんだ富士の山を七里ガ浜の海岸から眺めたのです。入浴中は、ほんの少し初雪も舞い、鳶が高く輪をえがいて悲しい声をあげていました。
 「小雪舞う 露天の風呂で 道を訊く」、と私は残り少ない人生をこれからどう歩むのかを自問自答したのでした。昨年はあまりにも多くの知人が永眠したからです。竹馬の友にも先立たれました。敦煌で私は一人ひとりの彼らの霊と語らってきました。
 「極寒の 莫高窟で 君に会い」「良く来たと 友に似た顔 仏たち」。
 今月6日には小学校時代の級友に呼びかけ、神田三省堂の「放心亭」で友人を追悼する集いを開催するのです。*南の風2583号(2011年2月2日)

■烟台の風138中国人の大好きな料理 (Thu, 13 Jan 2011 12:15) (前回の続き) 
  「人民日報」の電子版に掲載された「グルメ特集・中国人の大好物」を今回は解説いたしましょう。
(1)南国の美食王、「上海蟹」〜江蘇省の陽澄湖産の淡水の蟹です。旧暦の9月に内子の美味しいメスを、10月に白子の美味しいオスを食べます。肉よりもカニ味噌を味わうのだとか。
(2)毛沢東の大好物、「豚の角煮」〜家庭や地方ごとに異なるおふくろの味です。豚のバラ肉を皮付きのまま煮込みます。とろけるような脂身がたまらない味です。
(3)全国的な人気、「魚香肉絲(ユーシャンロウスー)」〜四川省の家庭料理の名菜です。魚介類に恵まれないこの地方で、海の風味を作り出そうと考案された「魚香」という調理法を用いています。
(4)簡単な家庭料理、「蕃茄炒蛋(ファンチェチャオダン)」〜中国の家庭で一番人気があるトマトの卵炒めです。トマトの甘さと酸っぱさが絶妙の味で、伊藤が作れる得意料理の一つです。*蕃茄=西紅柿
(5)珍しい生食、「?醤黄瓜(ジャンジャンファングア)」〜「中華風もろきゅう」で東北地方の郷土料理です。中国料理としては珍しく食材を生で食べる前菜です。
(6)中国の国民食、「水餃子」〜餃子は北部では日常的に食べられています。形が清代の貨幣に似ているため縁起の良い食べ物として、年越し用の料理となりました。家族総出で作る一家団欒の料理です。
(7)家族の健康食、「チキンスープ」〜広東地方の人々は、その日の体調に合わせて具材のとりあわせを変えたスープを食べて健康を保っています。各家庭の母親は伝統的薬膳スープのレシピを無数に頭に叩きこんでいて、家族の健康維持に努めているそうです。
(8)西域から伝わる「蛋炒飯」〜卵チャーハンは一説には満州族が伝えたとも言われています。漢代にはその原型が出来ていたそうですが、具(おかず)と主食を一緒に食べるのは西域から伝わったのだとか。
(9)ビールの友達、「落花生の素揚げ」〜お酒のパートナーとしては最高です。素揚げしたピーナッツにパラリと塩を振ったもので、カリツと乾いた歯ざわりと、香ばしい風味があとを引きます。
(10)北国の美食王、「北京ダック」〜皮下脂肪たっぷりのアヒルを飴色に焼き上げ、甘めの味噌、きゅうりの千切りとともにクレープに包んで食べる、北京料理の代表です。
 南国の「上海蟹」から北国の「北京ダック」まで10品をご紹介させていただきました。あなたはどれを召し上がりたいですか。私は、全部いただきましたよ。 *南の風2576号(2011年1月21日)

■烟台の風137私の好きな中国料理A (Thu, 13 Jan 2011 12:08)
 (前回の続き) (5)米綫〜米の粉のうどんです。歯ごたえ、喉ごしのしっかりしたうどんで、あっさりとした味は私の大好物です。
(6)鯰の煮込み〜油がのったナマズをぶつ切りにして十分に煮込む魚版の角煮といった人気メニューです。ビールが進みます。
(7)雑粮煎餅〜小麦粉のクレープに卵を塗り付けて焼き、ソーセージや野菜の微塵切り、クラッカーをはさんでほうばります。
(8)ピーナツの素揚げ〜料理というより酒のおつまみです。塩茹でよりも触感がよく、芳しいのです。以前TOAFAECにわざわざこちらのレストランで注文して持参しましたが? 中国人は生のまま殻付きピーナツを漢方薬として食べます。私は青臭くてだめです。
(9)小豆粥〜胃のもたれる時など最高ですよ。甘さ控えめであっさり味は油条と豆漿(豆乳)の組み合わせより、油条と小豆粥の組み合わせの方が二日酔いには良く効きますよ。
(10)魚料理を紹介したいのですが、煮るか、揚げるかで、焼き魚はありません。私の大嫌いな香辛料の八角と野菜の香菜(シャンツァイ)の香りと味が素材の香りと味を殺してしまっているので、まだお勧めできる魚料理はありません。先日食べた「酸莱魚」という煮魚料理はなかなかいけましたが。10番目をしいて挙げるなら卵炒飯でしょうか。それとも、平打ち麺をトマト味と辛い汁で煮込んだうどんでしょうか。悩みますね。とりあえず卵炒飯にします。
 やはり、何と言っても日常生活の家庭料理は日本が品数、質量、価格と、ともに世界一ですね。天丼,カツ丼、鰻丼、親子丼が食いて〜えや。いや、盛蕎麦だ〜あ。
 私の好きな中国料理を二回にわたりご紹介しましたが、中国の「人民日報」の電子版でも「グルメ特集・中国人の大好物」を掲載していましたので紹介いたします。
 (1)「上海蟹」、(2)「豚の角煮」、(3)「魚香肉絲(ユーシアンロウスー)」〜四川風肉細切り炒め、(4)「蕃茄炒蛋(ファンチエチャオダン)」〜トマトの卵炒め、(5)「?醤黄瓜(ジャンジアンホアングア)」〜中華風もろきゅう、(6)「水餃子」、(7)「チキンスープ」、(8)「蛋炒飯」〜卵チャーハン、(9)「ピーナッツの素揚げ」、(10)「北京ダック」です。(次回に続く) *南の風2574号(2011年1月17日)

■烟台の風136私の好きな中国料理@ (Thu, 13 Jan 2011 11:59)
 中国中央電視台(CCTV)は、毎日早朝6時から10分間、家庭料理の番組を放映しています。中国各地の家庭料理をそれぞれ各地の料理人が手早く調理しています。書店にはこの料理番組ののレシピ本も販売されています。
 長い歴史を誇る広大な中国には、各地を代表する料理があります。日本人にもお馴染みの中国四大料理は、北京料理、上海料理、広東料理、四川料理ですね。北京料理の原型はここ山東料理だそうです。歴代皇帝の宮廷料理人は山東省出身者が登用されたのだそうです。
 贅を尽くした宮廷料理の流れをくむ各地の宴席料理は別として、日常的な庶民生活の家庭料理は意外と質素です。基本は饅頭(米飯)とおかずを1,2品です。そのおかずの特徴は油と塩です。先日も栄養学の大学の先生が、「中国人は油を摂り過ぎる」と、テレビで警鐘を鳴らしていました。そこで、私のお気に入りの中国の家庭料理を紹介(順不同)いたします。
(1)トマトの卵炒め〜絶品ですぞ。私が作れる美味しい料理です。西紅柿(トマト)と卵を別々に炒めて、その後混ぜ合わせるだけですが、甘さと酸っぱさが絶妙なのです。
(2)麻辣湯(マーラータン)〜お好みで野菜やミートボール、茸などをトッピングする、辛い麺です。
(3)江西瓦罐?湯〜焼き芋の壷をニ回り大きくしたような甕壷の中で温めた手の平サイズの小壷に入ったスープです。具はお好みで、牛、豚、羊、魚の肉に野菜を組み合わせて20種類あります。
(4)飛貝のスープ〜アサリより一回り大きめの二枚貝で、歯ごたえのしっかりした貝です。塩も何も入れず水で煮ても十分に濃い味が出ます。(次回に続く) *南の風2573号(2011年1月16日)

■烟台の風135−助けられた日本人二人の命A (Mon, 10 Jan 2011 13:19)
 (前回の続き)…結婚届けの日に死んだとばかり思っていた加代の母親の鈴木幸子が日本から離散家族調査団の一員として訪中して、残留孤児の娘の加代をやっと探しあてます。またもや涙の再開です。
 母親は中国で行き倒れていたところを貧しい老夫婦に救われ、自分たちの少ない食べ物を分け与えてもらい命を助けられたのです。その後、最後の帰国船で郷里の北海道に帰ったそうです。しかし帰国しても身寄りも絶えてしまっていて、今は一人暮らしで孤独な生活をおくっているとのことです。「結婚をあきらめ、自分と一緒に日本に帰ってくれ」と母は娘に泣き伏すのです。それから加代に内緒で婚約者の尚鉄龍に会い、彼に結婚を諦めてくれと涙の哀願をします。鉄龍は「それは加代の決めることだ」と応えるのです。二人は愛を貫こうと役所に結婚届に行きます。しかし会社の上司も役所も許可をしません。「日本人と結婚するなら、共産党員の党籍を離脱せよ」と迫られるのです。
 二人は白酒で別れの酒をあおります。別離の初夜を加代は決意し鉄龍に迫りますが、鉄龍はこれを固く強く拒みます。
 翌朝、加代は彼に見送られることもなく、彼女が設計した溶鉱炉の図面を置いて家を出て行きます。隣近所のおばさんたちが集まり食べ物を包んで彼女に渡し、悲しい涙の別れとなったのです。女性版の大地の子のような一場面でした。銃撃戦と残酷な殺戮が毎日繰り返されている中国のテレビドラマですが、それ以外にも人類愛に満ちたドラマが制作されています。*南の風2571号(2011年1月13日)

■烟台の風134−助けられた日本人二人の命@  (Mon, 10 Jan 2011 13:06)
 第3部「闖関東」のテレビドラマが放映されています。第1部(2008年)と第2部(2009年)は、圧倒的な国民的人気を得て高い視聴率を獲得していましたが、今回(2010〜11年)の出来はいかがでしょうか。
 山東省から東北地方に入植した人たちの人間愛と憎しみの歴史的なドラマです。今日は第18話です。
 関東はどこまでも続く地平線の美しい緑の大地の旧満州の東北地方です。この地の開拓農家の娘が、一人の日本人少年がまだ微かな息をしているのにもかかわらず森の中で日本人に火葬にふされようとしているところ、機転をきかせて叫び声を上げて日本人を追い払い、虫の息の少年を自宅に馬車で運び込むのです。
 しかし、自宅では伝染病の子どもを運んできたと、大変しかられ、作男に命じて少年を捨てさせます。娘はまたも少年を背負い隣家の夫人に助けを求めます。しかし、伝染病の日本人の子どもを看病している、ということから、村中の男たちがこの家に抗議に押し寄せます。気の優しい夫人は「中国人だろうと、日本人だろうと困っている人を助けるのは人の道だと」絶叫し、肉切り包丁を振り回し、村人を追い払い少年の命を助けるのです。少年の名は亀山一郎。少年の健康が快復した後、少年の両親が少年を探し求めて来て、涙の再会となるのです。
 さて、正月も相変らず抗日戦争と国共内戦のドラマが放映されています。上海を舞台とした「南湖兄弟」「鋼鉄時代」などです。今日(1月8日)の鋼鉄時代の放映は第16話です。鈴木加代という日本人残留孤児が製鉄会社の工場長に恋をする話しの展開です。謹厳実直の堅物で頑固者の工場長も日本人の娘に好意をいだきます。二人の愛は深まり結婚することになりました。工場の仲間が祝福してくれて、新居の清掃やお祝いの品を沢山届けてくれています。(次回に続く) *南の風2570号(2011年1月12日)

■烟台の風133−世の定め、出会いと別れ (Wed, 05 Jan 2011 12:22)
 喧騒なキャンパスも静かな正月を迎えました。外は白銀の世界です。暮れから正月にかけて一人暮らしの私を気遣い、学生たちが私の部屋に手土産を持って訪ねてくれます。私は、コーヒー、缶ビール、ワインで彼らをもてなします。先ほどまで私の部屋で談笑していた学生を送り出した後、浮かれた気分で鎌倉の妻に国際電話をしました。受けたのは正月気分が吹き飛ぶ連絡でした。しばし沈黙、静寂、悲嘆、そして....追憶です。
 なんと、とても親しくしていただいていた隣家のご主人が大晦日の夜に自宅の風呂場で逝去されたとの報でした。彼、高橋さんは昭和10年生まれの私より十歳年上の方ですが、私が鎌倉に引っ越した時と同じ頃隣人となられた方で、SAS(スカンジナビア航空)に勤める国際人でした。
 休日、家庭菜園を一緒にしたり、いろいろな出会いを作ってくれた恩人でした。私の妻君江とは、公園ボランティアとして、近所の公園の花と緑の整備を長年手がけ、その公園花壇が最優秀賞に輝き国から表彰されています。昨年夏休みの一時帰国の際には、坂本竜馬とジョン万次郎との関係をみる「ジョン万次郎学会」の講演会に私を誘って下さいました。再会の祝杯を交わした時は、とてもお元気な様子だったのに残念です。 ◇初春に 冥福祈る 異国の地。 
 昨年の暮れに私が受けた喪中のハガキは、事のほか多く心を痛めました。恩師の小川彰一先生、仲の良かった同級生の黒沢君、自治研センターでいつも笑顔で接してくれた末次君、国内交流事業で支援してくれた布目君、そして内蒙古の草原に咲く一輪の花のような笑顔の石原静子先生、アーデルさんのお父様、加えて一昨年に旅立たれた石倉祐志さんたちの顔が次々に現われ、私に語りかけています。
◇君は逝く 一人静かに 大晦日  ◇君一人 悲しい別れ 涙かれ  ◇旅立ちぬ 帰らぬ人の 初春を  
◇友が逝き 打ち消されたり 目出度さは。  ◇次は君 手招きしてる...
 アッ、また電話です。午後学生が来てくれるそうです。*南の風2567号(2011年1月7日)

■烟台の風1322010年(寅年)の十大ニュース *(Sat, 01 Jan 2011 13:4)
 皆さま、明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。昨年、小林文人先生が「今年は悪い年になる」とおっしゃった際、私は「名護市長選の勝利は良い年になる兆しでしょう」、と申し上げましたが、皆さまにとって、昨年はどんな歳でしたか。今年は卯年ですから、それぞれの目標に向かって、ホップ、ステップ、ジャンプ、と飛び跳ねて下さい。暮れに作成した私の昨年の十大ニュースです。激動の一年でした。*順不同です。
1.友人15人が韓国と日本から烟台を訪れ、ユネスコの世界遺産である泰山と孔子の故郷曲阜を訪れて
 くれました。「朋あり、遠方より来る」。
2.『日本の社会教育・生涯学習』が韓国で出版されました。10月7日に盛大な出版記念会が韓国大邱市
 で開催されました。
3.伊藤は赴任した「烟台本洲日本語学校」から国立「山東工商学院」の外国語学部に勤め先が変わりま
 した。
4.日本・中国・韓国の三国による初めての生涯学習国際フォーラムが上海外国語大学で開催され、私も
 参加させていただきました。
5.遣隋・遣唐使船の北航路を天津から神戸まで燕京号に乗船して、長年抱いていた夢を果たすことが
 できました。鑑真は偉大ですね。
6.日本の近代史の一頁を飾る、中国大陸侵略の拠点、大連・旅順を複雑な気持ちで訪れました。安重
 根が処刑された部屋を見ました。
7.夏休みに昨年度日本に留学した学生たちを鎌倉海岸の花火大会に招きました。久し振りの再会に私
 の心の奥でも花火が上がりました。その後、留学生から大学院合格の連絡をもらい嬉しく思っています。
8.烟台市のシンボルタワーである塔山の「三和塔」に登りました。烟台で一番高い400メートルの塔山の
 上に建立されている宋代の建築 様式の道教の七重の塔です。
9.二人の愛娘(まなむすめ)の話題二題です。長女の和江と二女ののみゆきが5月に烟台に来てくれ、
 一緒に徐福伝説と八仙人の説話で有名な蓬莱を訪れました。そして11月中旬には、長女が藤沢で経
 営するレストラン「耕」が移転改装して、あらたに開店しました。
10.家族揃って久し振りに熱海温泉の梅園を訪れました。私の冬休みの一時帰国に合わせて皆が調整
 してくれて実現したものです。熱海温泉より温かい家族の心でした。
 以上です。昨年も韓国に5月と10月に二度出かけ、青島では老舎の旧居を訪ねたりして、結構充実した私の一年でした。これも皆さまのお蔭です。有難うございました。皆さまにとって今年が良い年になりますよう中国の地でお祈り申し上げます。*南の風2564号(2011年1月2日)

2011年

■烟台の風131−初老の紳士と美女の涙 (Sun, 26 Dec 2010 19:49)
 皆さんは女性に泣かれたことがありますか。私は「イロ男」ですから何回か経験しています。誰ですか「エロ男」と言ったのは。前号でクリスマスプレゼントのチョコレートを持って突然現れた女子学生を紹介しましたね。彼女は黒龍江省の牡丹江出身の大柄な八頭身美人で、顔の表情が実に生き生きとしていて、中国人とは思えない(中国の皆さまごめんなさい!)美しい女性です。
 本人も、「私はよく外国人に間違われるの」、と言っています。彼女の夢はアメリカに留学して、将来中国、日本、アメリカの通訳の仕事に就くことです。我輩自慢のカレーを食べ終わる頃、突然彼女の携帯電話が鳴りました。故郷のお母さんからでした。大声で話していましたが、電話は切れました。すると間もなく今度はお父さんからの電話です。彼女の口調は,だんだん激しく、早口になっています。<おれの部屋は電話ルームじゃね〜ぞぉ〜!>
 更に今度は彼女の80歳になるお祖父さんからでした。30分を超える激しい電話でした。話の内容は「危険なアメリカへの留学は許さない」というものです。電話を切ったあと、彼女は私に「先生、どうしたらいいの、私の人生は私のものなのに」と泣き出したのです。私は、途方にくれました。
 「今は両方とも頭に血が昇っているので、時間を置いて冷静になってから、相談してご覧なさい」としか言えませんでした。そこへ、カレーをごちそうする約束をあらかじめしていた前任校の二人の女性が私の部屋に現れたのです。大きな目に大粒の涙をためた美女を慰める初老の紳士を(誰です、変態じじいと言ったのは)彼女たち二人はいったいどのように思ったのでしょうか。
 私は、チョコレートのお礼もそこそこに鎌倉名物の「鳩サブレ」を持たせて、来客を口実に彼女を戸口に送り出したのです。「こんな重要な話を電話一本ですべきではない。親の目を見て真剣にお願いしなければなりませんよ」と言葉を添えて。あんなにも優しい彼女が、あんなにもきつい、強い女性だったとは。彼女はまだ3年生です。時間はありますよ。*南の風2563号(2010年12月31日)

■烟台の風130烟台のホワイト・クリスマス (Sun, 26 Dec 2010 17:34)
: 烟台のクリスマスはホワイト・クリスマスです。23日から三日連続の降雪です。除雪車が雪かきをしていますが、積もった新雪だけしか除けず、氷ついた路面はスコップを持った1年生が早朝からカチン、カチンと音をたてて除雪をしています。気温は零下3度から零下7度です。
 23日の木曜日は1年生の授業が1クラスだけでした。教室に入ると、「先生に私たちの歌をプレゼントします」、とクラス代表に言われました。先週私が「四季の歌」を教えたのですが、そのお返しとばかりに、30人全員が立ち上がりました。最初の三小節は、最前列にいた女子学生一人が美しい声で独唱です。次に全員の合唱となりました。美しい曲です。曲名は「年経的戦場的歌詞」で張杰という歌手の歌でした。クラス全員のゴスペルの旋律はそれは見事だったのです。
 すばらしいクリスマスプレゼントです。教室を出る時、オレンジをいただきました。中国のクリスマスプレゼントは果物をあげるのだそうです。24日のクリスマスイブは四年生の女子学生が二名私の部屋に来てくれました。私は雪の降る中、得意のカレーライスを作って彼女たちにふるまうため、スーパーに買い物に出かけましたが、強靭な足腰が自慢の私ですが、帰路の坂道で足を滑らせ横転してしまいました。傘をさして手荷物を持っていたので往年の迷スキーヤーも形無しでした。そういえば中国の人は雪が降っていても傘をさしません。私一人がいつも傘を広げています。
 足腰痛みカレーは大好評でした。彼女たちはリンゴとオレンジとバナナをカラーセロハンにそれぞれ包み、きれいな花リボンで結び、カードを添えて「先生、メリークリスマス」と言って私に渡してくれたのです。
 翌日は、前任校の女性職員二人が訪ねてくれる約束です。ところが約束なしの3年生の女子学生が突然訪ねてきて、高価なチョコレートを2箱持って「先生、メリークリスマス」と言って現れたのです。という訳で彼女にも昨日大量に作った痛みカレーをごちそうしたのです。とても喜んでくれました。
 前任校の女性は、手を温める電熱器(電気湯たんぽ)と沢山の果物を携えてやってきました。プチトマト、龍眼、オレンジ、リンゴ、棗、コーヒーです。雪の中を本当に皆さんありがとう。思い出深い年末となりました。足腰は大丈夫です。(カラ元気です)。*南の風2562号(2010年12月29日)

■烟台の風129ー会話の試験からA  (Wed, 22 Dec 2010 21:30)
: (前号に続く) 会話の試験は一人ずつ行います。1クラス30人で1人5分かかります。一日2クラス行うと私も疲労困憊です。昨日の最後の順番の女子学生も将来の夢が崩れた学生の一人でした。彼女は会話試験が終わると、「先生は辛い物が好きですか」と私に質問をしたのです。「好きですよ、でもあまり辛いのは苦手です」と私は答えました。すると彼女は「友達とこれから四川料理を食べに行きますが、先生もご一緒にいかがですか」と私を美しい日本語で誘ってくれたのです。
 彼女は優秀な日本語教師になれるだろう、と私が思った学生の一人です。彼女が曇らした一瞬の顔を忘れることが出来にずいた私は、喜んでこの誘いを受けたのです。今夜の採点作業は「マアー良いか」と。「先生、烟台には沢山の四川料理店が有りますが、本場の味ではありません。これから行く店は小さくて汚いけれど、本物の四川省の味です」、と案内されたレストランは確かに外国人が一人では入りにくいような店でした。四川省出身の小柄な初老の夫婦が運んでくれた四皿の料理はどれも美味しくいただいたのです。何よりも嬉しいのは、夢破れた学生が明るく振舞い「お口にあいますか」と絶えず私を気遣ってくれたことです。
 ところで、会話の試験で「あなたの好きな中国料理は」と尋ねると、2年生と3年生の学生は、全員が判を押したように「私は四川料理が好きです、辛い物が大好きですから」と答えます。彼らは中国全国からやって来た学生で、「母の味が最高です」、と言っていた学生なのです。全員ですよ。飽食の時代に育った若者たちはどうやら、より刺激の強い食べ物を求めているようですね。この時代の学生は「90后(ジュウリンホ)」の世代と呼ばれ個性的な中国人と言われています。
 会話の試験は、事前に知らせた10領域から選びます。学生が私が用意した数字のカードを引き抜き決定します。@好きな花、A好きな色、B中国の好きな物、C好きな中国料理、D尊敬する人、E好きな男性・女性、F私の趣味、G好きな音楽、H好きな映画、I好きなスポーツ、の10領域です。
 カードを引く時は皆緊張していて滑稽です。準備していた話題を引き当てると相好が崩れますが、苦手の領域を引き当てた学生はがっかりしています。「10番ですね」。「私スポーツは苦手です」。「どうしてですか」。「小さい頃から体が弱かったからです」。「今も体が弱いですか?....散歩ぐらいは…」。それと日本では有名な中国の一人っ子政策ですが、家族構成を聞いた限りでは、複数の兄弟がいる学生が圧倒的多数だったことが私には驚きでした。
 挨拶がしっかり出来たか、質問が理解できたか、要領よくまとめて話せたか、助詞の使用や長音・促音の発音が適切か、目を見て話せたか、などの煩わしい期末試験も私は今結構楽しんで私の心に響かせているのです。*南の風2561号(2010年12月28日)

■烟台の風128会話の試験から@  (Wed, 22 Dec 2010 09:31)
 新学期の初めに、私は学生たち全員に自分の夢を書いていただきます。これは日本の國學院大學でも日本女子大学でも同じ書式を用いて提出してもらっていました。ここ中国でも同じ調書を用いています。これには出身地や卒業後の進路希望が記述されますのでとても役にたちます。会話の試験の時には、このファイルを机の右に開いて会話を進めます。書かれている出身地のお国自慢や気候、名所旧跡、特産物、名物料理、交通経路、などを家族構成とともに聞き出します。
 「延安は共産党の聖地ですから全国から観光客が来るでしょう、延安は省都の西安から近いですか」というふうに。すると「西安から更にバスに乗って3時間です」という答えが返ってきます。私は「烟台から列車で西安まで26時間、それからバスで3時間なの」と驚きの声をあげて、言葉のキャッチボールをするのです。故郷のことを話す学生は皆嬉しそうに話します。日本語の上手な者も今一な者も一生懸命話してくれます。「先生も是非私の故郷に来て下さい」と社交辞令を皆忘れません。
 さて、3年生の進路希望です。「貴女の夢を聞かせて下さい」という私の質問に答える何人かの学生の顔が一瞬曇りました。調書には、“日本に留学して通訳や翻訳者になりたい” “大学院に進み学位をとって大学の日本語教師になりたい”と書いていた成績優秀な学生たちです。
 「私は、子どものころから学校の先生になるのが夢でした。でも、弟がまだ高校生です。両親は貧しい農民です。だから、私が日系企業で働いて弟を大学に入れます。そして、私は両親を幸せにします」という答えです。私は笑顔で聞きながら心で泣きました。自分の夢と現実生活の厳しさを、まだあどけなさの残る女子学生から聞かされた私は言葉を失いました。
 「あなたの日本語はとてもすばらしい、もっと頑張って勉強して、良い給料の日系企業に就職して、両親を安心させてあげてください」、としか言えませんでした。彼女たちは一様にニッコリ笑い「先生ありがとう」と元気に言ってくれます。(つづく) *南の風2558号(2010年12月23日)

■烟台の風127−二つの話題の放映から (Sat, 18 Dec 2010 12:20)
 12月13日(月)のテレビでは二つの話題が放映されました。その一つは12月1日に102歳で逝去された日本人医師を紹介する山東省電視台(テレビ局)の特別番組でした。山東省の首都済南(チーナン)市で現役医師として70年間地域の医療奉仕活動をされた「山崎宏」さんを追悼するドキュメンタリー風の番組でした。
 三代続く医師の家に生まれた山崎さんは、満州事変の1937年に兵士として従軍し、日本軍の残虐行為に驚き脱走兵として逃亡をはかり、その後中国に残留して、医師として活動してきたのです。中国では「投降兵」と表現されていました。山崎さんは、済南市と和歌山市の友好都市締結にも尽力されたそうで、2009年には日本の内閣総理大臣賞を受賞されていますが、彼の一生は日本兵の行為の贖罪であったと紹介されていました。岩波書店の『世界』にも紹介されるそうですね。
 もう一つは、中国中央電視台(CCTV)のニュース番組です。南京市で南京大虐殺の受難者30万人を追悼する集会が12月13日に開催されたという報道でした。
 前日のテレビは広州市で開催された「パラリンピックアジア競技大会」の開会式を中継し、日本選手団にも温かい拍手がおくられている映像を見た次の日の二つの話題には、私はいささか目まいを感じさせられたのです。日本人会では、今年、中国各地で起きた日系自動車会社における従業員のストライキや烟台市内の各日系企業が「お宅の会社は電気を使い過ぎだ」と指摘されて、電力やガスが一時止められた話が披露されていました。こうした企業人の話などは、大学のキャンパス生活では知ることが出来ない情報だけに、私には興味深く感じられたのです。
 私の学生の圧倒的多数は、数日前から始まった会話の試験の中で「日本語を勉強して日系企業に就職したい」とその希望を述べています。こうして、ここ数日は日中間に横たわる複雑な現実を私は少し垣間見たのでした。        *南の風2556号(2010年12月21日)

■烟台の風126日本人会の不思議な出会い (Sat, 18 Dec 2010 11:03)
 12月17日の夜、市内のホテルを会場に烟台日本人会の忘年会が開催されました。日本人会の会員数は220人だそうです。当日の出席者は93名でした。ほとんどが日系企業の会社員です。先月までタイのバンコクに赴任していた青年が今月から烟台に駐在するといって美しいタイ人の奥さんを伴い二人で挨拶をしていたのが印象的でした。
 私の挨拶の前の青年は、藤沢市の出身だと言って自己紹介をしていました。若いのに頭髪がありません。そこで私の自己紹介の番には、「藤沢の隣り湘南の鎌倉からやってきました」、「湘南の風に吹かれて、今は二人とも髪の毛が薄くなりました」と自虐的な挨拶をしたのです。場内は大爆笑でした。
 烟台市内の3大学の日本人教師も全員が出席していました。魯東大学、烟台大学と山東工商学院から3名ずつです。学生数に比べ日本人教師が少ないと思っていたら、国家の補助金が3人分の配分だそうです。中国の大学経営も独立採算の方向に向かっているようです。
 魯東大学の外国語学院の日本語学科は1クラス30人のところ、10人の聴講生を加えて、40人で運営してるそうです。1人4000元の受講料だそうです。学校側は恵比須顔ですが、会話の担当教師は「とても授業がやり難い」とこぼしていました。対象は入学試験に落ちた学生だそうです。しかし、中には本科生より優秀な聴講生もいるというのですから、皮肉ですね。
 さて、私は不思議なめぐり合わせに出会いました。烟台大学の日本語教師の青木麗樹先生と、当日乾杯のご挨拶をなさった日本人会顧問の岩切宏次さんが私のテーブルに酒を携えご挨拶にみえました。岩切さんは80歳を超えた今でも現役の企業人として烟台で16年間暮らしているのだそうです。私が「昨年は烟台本洲日本語学校で教師をしていた」と話すと、彼ら二人は顔を見合わせてびっくりした表情になりました。なんと青木先生も岩切さんも最初(初代)の本洲日本語学校の教師として働いていたのだそうです。青木先生は校長とぶつかったとか。「中国は広く、世間は狭い!」ですね。
                                            *南の風2555号(2010年12月19日)


■烟台の風・番外編ー食パンに納豆  (Wed, 08 Dec 2010 12:5)
 小林文人先生ご夫妻は、九州のご出身でいらっしゃるので、納豆はあまりお好きではないでしょうね。私は大好物なのですが、異国の地では手に入らないだろう、と諦めていたところ、山東工商学院の近くにある日本資本の「佳世客(ジャスコ)」という大型の超市(スーパーマーケット)で納豆が売られていました。
 それは大連で製造された「城」と名付けられた、3パック12元の納豆です。私はいつも炊き立てのご飯にかけて「好吃(ハオチー:美味しい)」と言って頬張ります。少し時間がたったら「納豆炒飯」にします。絶品は食パンにぬって食べる納豆です。えっ、気持ち悪いですって。決してミスマッチではありませんよ。中国の食パンは少し甘いので、辛子のきいた醤油味の納豆が実に素敵なハーモニーを醸し出すのです。
 実は、日本語の教科書に納豆が出てきます。昨日1年生の学生から「先生、納豆って何ですか」と質問がありました。私は口頭では説明したものの、もう一つ学生には理解されていない様子でした。これぞまさしく「納豆を食う」ならぬ、納得していないのです。そこで、私は自宅でPCを開き納豆の画像を探しました。
 翌日納豆の絵を見せて理解させようと考えたのです。ところが、なんとPCでは「納豆をパンと一緒に食べる」ことへの賛否論が掲載されていたのです。私が工夫した、私の密かなる楽しみを奪われてしまったかのように、私はがっかりしてしまったのです。同好の士がこんなにも多くいたのですね。
 私の学生時代、関西以西の学生たちは納豆を嫌う学生が多く、美味そうに食べる私を好奇な眼差しで見ていました。この話しを学生にしながら、TOAFAECの皆さまは九州出身の方々が多いので、納豆を召し上がるのか聞いてみたいな〜あ、とふと板書をしながら考えたのです。今日ジャスコに寄ると大連産は消えていて青島産と北京産に変わっていました。昨年青島にヤクルトが進出し、ここ烟台のジャスコでも販売しています。企業間競争は激しいですね。あなたの納豆は大連産か青島産かもしれませんよ。
                                              *南の風2552号(2010年12月14日)  


■烟台の風125−インスタントラーメンと地下鉄A (Mon, 06 Dec 2010 07:32) (前回の続き)
 上海は浦東(プートン)と虹橋(ホンチャオ)の二つの飛机場(フェーチーチャン:空港)があります。私は国内線専用の虹橋空港に着くと地下鉄の2号航站(アールハオハンジャン:空港第2ターミナル駅)から市内へ出ました。上海市内は地下鉄が発達して、現在10路線が縦横無尽に走っているのでとても便利です。
 私は地下鉄の2号綫(2号線)と3号綫と10号綫を換車(ファンチョウ:乗り換え)して、目的地の虹梅路を訪れましたが、実に簡単でした。先ず售票処(ショウピァオチュ:チケット売り場)の自動販売機の画面で路線図を見て目的の駅を探します。あらかじめ路線が分っていれば、最終目的地の駅をパッチパネルの路線番号を押して、次に降車する駅名を押すと、金額が表示されますので、料金を入れて枚数をタッチすると磁気カードが出てくるのです。乗り換え路線も路線図を見れば分りやすく表示されていますので、全線通しのチケットで大丈夫です。
 改札の入口も磁気カードをタッチしてバーを回転させて入ります。乗り換えは一端改札を出なくても簡単にできます。出口も自動改札機にカードを挿入してバーを回転させて出ます。さすがに上海は国際都市ですね。外国人にも分り易く、路線も色分けされていて、とても利用しやすいです。
 私も現役時代(国際交流課長)に「多文化共生施策」に取り組み、外国人にも優しいまちづくりを推進いたしましたが、その点上海の地下鉄は外国人にはとても優しいのです。しかしその反面、ハンデキャップを持った弱い立場の人たちへのバリアフリー対策は町全体が遅れているようです。
 当日の烟台は肌寒く、ダウンコートと背広の下に全部で6枚の重ね着で出かけましたが、さすがに南方の上海は蒸し暑く、コートとカーデガンとマフラーをとりました。地下鉄の車内は3路線とも冷房が入っていました。地下鉄の料金は約1時間、3路線の乗り継ぎで5元です。足(上海の地下鉄)は5元で口(烟台空港の即席拉麺)は35元です。インスタントラーメンと地下鉄で中国の大都市と地方の格差を身を持って体験できた旅でした。それでも交流パーティーの上海のレストランで烟台産のワインが出された時は私は歓喜の声をあげたのです。まるで私が烟台人かのように。考え方を変えれば中国産即席ラーメンはレストランでも出せる程美味しいのです。「マアーいいか」。*南の風2550号(2010年12月10日)

■烟台の風・124−インスタントラーメンと地下鉄@ (Sun, 05 Dec 2010 18:57)
 和光大学の岩本陽児先生は一人暮らしの私を気遣い、お会いするといろいろなものを土産に持ってきて下さいます。今回も上海にこまごました食料品をご用意していただきましたが、中でも日本の週刊誌『アエラ』『週間朝日』『おとなの週末・銀座』『NHKテレビテキスト・きょうの料理〜正月料理』の4冊は、学生たちに大人気です。私の講義などそっちのけで、奪い合って眺めています。
 岩本陽児先生には上海でお会いしました。私は上海には何度も訪れているのですが、今回初めて、全く一人で行動したのです。上海外国語大学を会場に初めて開催された日本・中国・韓国の社会教育・生涯学習の国際フォーラムに参加するための旅行でした。
 11月25日(木)の朝1限の授業(100分)を終らせて、タクシーで烟台空港に駆けつけました。30分間で40元の料金です。カウンター業務が始まるまで、私はロビーの喫茶店でくつろぐためにコーヒーを注文しました。なんと前金で55元です。そんなに美味しくないんですよ。
 勿論水のサービスもありません。正午になり、私はウェートレスを呼びメニューを持ってくるように頼んだのです。分厚い黒い皮の表紙の豪華なメニューには高額な食事が中国語で書かれています。機内食が出るかもしれないので、私は軽く腹に納まる辛口ラーメンを頼みました。前金35元です。しばらくすると銀色の金属製の大きなどんぶりのラーメンが運ばれてきました。驚愕、唖然、消沈、がっかりです。なんと、インスタントラーメンではありませんか。しかも、野菜はおろか、具は何も加えられていません。35元ですぞ。街中の牛肉ラーメンでも4元、自宅で食べる即席ラーメンは2元なのに。
 「これが中国なんだ、マアー、いいか」。(続く) *南の風2548号(2010年12月6日)

■烟台の風123−学生生活の経費負担はA (Sat, 20 Nov 2010 07:33)  (前回に続く)
 Bさんの帰省は、長沙まで学割で片道100元だそうですが、実に不思議なのは、その後の懐化市までの列車は学割無しで片道55元だとか。郷里に帰るにも大変な時間と経費がかかるのですね。
 参考までに、現在中国の大企業の大卒の初任給が千元から千2百元なので、この帰省費用は彼らにとっては高額負担なのですね。山東工商学院は国立大学ですが、授業料は年間4800元で、他の学部よりも高額だそうです。その理由は外国人教師を多く採用しているからだ、(冗談じゃね〜、俺はそんなに貰ってね〜や)とか。教科書や参考書等は年間700元ぐらいかかるそうです。
 英語、日本語、電子計算機、などの検定試験や大学院入学試験などが4年間で総額23,530元かかります。勿論検定試験は1回で合格できたとしてです。仮に日本語1級の検定試験に数回落ちると、1回352元ですから負担が増えます。教育費は年間約5,900元ぐらい必要になるのです。
 それから、生活費です。全員が4年間6人部屋の寮での共同生活をおくりますが、寮費は年間800元。光熱水費は無料ですが決められた数量を超えると自己負担となり、年間360元を支払っているそうです。毎朝学生寮の入口の傍に大型魔法瓶が並びます。飲み水かと思っていたら、髪の毛や足を洗うのだそうです。1瓶2角(毛)で毎日使用し、年間72元です。洗濯機の使用料は1回3元、シャワーは1回4元です。
 学生食堂の食券は、年間2,520元、携帯電話は年間600元です。女子学生特有のヘアーカットや化粧品等は年間300元、健康保険は年間40元で、その他、衣服、靴、文具、菓子や果物などの諸雑費は、月に150元で、年間1,800元がかかります。
 従って、Aさんは年間13,799元、Bさんは年間13,619元を実家から仕送りを受けているのです。二人ともこの経費を毎月分けて銀行振り込みで受け取っているのだそうです。参考までに、公共バスは1元、牛肉ラーメン、卵炒飯は5元です。*南の風2542号(2010年11月23日)

■烟台の風122学生生活の経費負担は@ (Fri, 19 Nov 2010 16:21)
 山東工商学院の学生は、中国全土から集まっていると以前ご紹介(烟台の風103号)いたしましたね。そこで私は、遠方から子どもに仕送りをする親は大変だろうなと思い、私が親しくしている4年生二人の女子学生にインタビュー調査をいたしました。
 「学生生活にはいったいどのくらいの経費が必要なのか」をです。中国臨海部の経済発展地域の子弟ならともかく、収入格差の拡がっている内陸部の地方から烟台にやってきた学生の家庭の負担は筆舌に尽くしがたいだろうなと私は考えたからです。
 二人の家庭は中流家庭です。Aさんは、山東省の省都の済南(チーナン)市出身で両親と弟の4人家族です。Bさんは湖南省の省都の長沙市近郊の懐化(フアイファ)市の出身で両親と姉2人の5人家族です。Aさんの母は専業主婦で父は最近失業したそうです。弟はまだ小学校6年生だそうで、Aさんはこれから大学院に進み、早く大学の日本語教師になって家族を助けたいと言います。Bさんの両親は家具店を経営していて、二人の姉の長女は高卒で結婚しており、次女は大卒で先月広州で就職したそうです。Bさんも大学院進学を目指していて、将来は手工芸品を扱う企業の経営者になりたいそうです。
 郷里が近いAさんは年間、5月(国際労働節)の連休、10月(国慶節)の連休、冬休みと夏休みの4回帰省するのだそうです。烟台から高速バスで5時間(学割無し、片道100元)です。鉄道学割で片道30元ですが7時間だとか。郷里が遠いBさんは大変です。年間、冬休みと夏休みの2回しか帰省できないそうです。烟台から列車に揺られて30時間で長沙へ、そこで列車を乗り換えて更に6時間かけてやっと懐化市に到着するのだとか。なんと乗車時間だけで36時間ですぞ。(次回へ続く) *南の風2541号(2010年11月21日)

■烟台の風121授業とアルバイトの清掃活動 (Sun, 14 Nov 2010 17:57)
 冬支度を急ぐ構内の木々がいっせいに葉を落としています。毎日黄色い地にオレンジの横縞のベストを着た清掃員の人たちが清掃をしています。でも彼らだけでなく、沢山の学生が枯れ葉を掃除しています。
 私の宿泊棟の裏にグランドカバーの「龍のひげ」を植え込んだ空き地があります。そこでプラタナスの葉を掃除していた何人かの学生が、私の存在に気づき「先生おはようございます」と挨拶してくれました。私の担当しているクラスの女学生でした。そこで「ここで何をしているの」と私は尋ねたのです。すると、「社会実践活動」の一環で「労働課」の体験授業をしているのだと彼女たちは教えてくれました。2週間授業の無い時間帯に行っているのだとか。
 広大なキャンパスはいつもきれいです。それは職業としての清掃員の他に何人かの学内清掃の学生アルバイトがいるからです。彼らは学校に申請して清掃を担当します。毎月120元が支給されます。朝7時から30分、午後1時から30分清掃を行います。
 さて、授業の一環として行う清掃、学生アルバイトとして行う清掃を経験した彼らは、決してゴミを散らかさないと思われるでしょう。ところがどうして、どうして、植え込みや花壇には、ペットボトルやビニールのゴミが山のように捨てられていて、清掃員の仕事を確保しているのです。路地や空き地の草むらに、ゴミを投げ捨てる学生は後を絶ちません。これは家庭教育が不在だからです。
 2階に住む私は、教員宿舎の階段を下っている時、1階の真ん中の部屋のドアーが開きました。挨拶をしようとしたとたん、玄関から紙ゴミを階段にその部屋のご婦人が投げ捨てたのです。大学関係者の家族がですよ。私は眼を合わせましたが、彼女は何の臆することもなく会釈をしてドアーを閉じたのです。部屋の中はさぞかしきれいなのでしょうね。
 ところでこの話を魯東大学の卒業生にしたところ、魯東大学では1週間授業を休んで朝7時半から17時まで労働課があり、草むしりをしたそうです。知識と実践が結びつかないのですね。*南の風2538号(2010年11月15日)

■烟台の風120−寂しさや 言葉遊びか 戯れで (Tue, 09 Nov 2010 13:51)
 学園生活に何とか慣れてきた今日この頃です。9月の新学期からまだ2ヶ月しかたっていないのに、半年ぐらい過ぎたような気がします。1日がアッと言う間に過ぎ去り、この2ヶ月がとても長く私は感じているのです。この間に詠んだ自由俳句(ざれ句)は76句ですが、私の心に残った作品を紹介させていただきます。
(1)「緑陰に 新入生の 声響き」〜9月6日の構内は新入生の笑顔で溢れかえっていました。
  「澄み渡る 若人の声 空高く」。
(2)「野の花も 我を迎えて 初講義」〜宿舎から外国語学部の教室までの路傍に咲く花に感激しました。
  「遅咲きの 朝顔一輪 野の小道」。
(3)「かささぎ(鵲)は 今日も気取って タキシード」〜鵲も野の花も名も知らぬ小鳥も私を歓迎してくれてい
  ました。「勝ち勝ちと 祝う雄叫び かささぎか」。
(4)「草叢の 虫の音優る ロックより」〜新入生歓迎会の電子音より帰路の虫の音に心を奪われました。
  「行く夏を 惜しんで鳴くか 虫の声」。
(5)「仲麻呂も 愛でたこの地で 満月を」〜今年の中秋節の名月は、午前中の荒天が一変して最高の月
  見となりました。「名月や 眺めて寂し 異国の地」。
(6)「山里の 野菊に悟り 尋ねたり」〜山寺に詣でて心が洗われました。「岩肌に ただ一輪の 野菊かな」。
(7)「金木犀 匂い漂う 我家にも」〜海辺の公園の金木犀の匂いに鎌倉の自宅に咲く金木犀を懐かしく思
  うのです。「里心 生み出す匂い 金木犀」。
(8)「流れ雲 突き刺すポプラ 天高く」〜構内のポプラが走り去る雲をひきとめ、冬のおとずれを聞いていま
  す。「冬間近 告げるポプラの ざわめきに」。
(9)「プラタナス 朽ち葉落として 冬支度」〜もう各地から雪の便りが届きます。
  「山里の 柿の実一つ 下弦の月」。
(10)「秋の夜は 一人暮らしを 思想家に」〜熱燗と鱈ちりが恋しいな。
   「一人寝の 窓辺に忍ぶ 秋の月」。
お恥ずかしい戯れ句です。日記の端に書き留めたものです。お笑い下さい。*南の風2537号(2010年11月13日)

■烟台の風119−騎士三銃士とダルタニァンです (Sun, 07 Nov 2010 19:57)
 カリフォルニアから来たエリザベスは元気です。180センチぐらいの長身で金髪娘です。年齢は30歳なかばで夫婦で英語の教師をしています。ヤンキー娘らしく、いつも賑やかに振舞っています。彼らは私と同じ宿舎の建物の5階に住んでいます。私は2階です。
 先日こんなことがありました。夜中の2時過ぎです。遠く夢の中でベルが鳴っています。私の部屋の電話は壊れています。ですから夢なのです。ところがベルは鳴り続けています。ようやくそのベルはインターフォンのベルだと気が付き、私は眠気まなこのままベットから立ち上がり玄関まで出て、インターフォンを取りました。
 すると女性の悲痛な叫び声です。「イトー、助けて」と英語です。私は騎士三銃士とダルタニァンです。まだ夢の中です。すると「ドアーを開けてくれ」との哀願の声です。夢と現実の区別がつかない私は「あなたの部屋の鍵は私は持っていない」と答えると、彼女は1階の入口のドアーだと叫んでいます。階段を下りると、ドアー越しの小窓から彼ら夫婦が寒空に震えて立ちすくんでいたのです。
 普段開いているドアーが閉められていて内側からしか開けられないのです。顔を会わせると挨拶をする私を思い出して、藁をもつかむつもりで、インターフォンを鳴らし続けたのですね。ドアーを開けてあげると、百万ドルの笑顔で礼を述べていましたが、なぜか私は中国語で「不謝、不謝」といってベットに逃げ込んだのです。
 翌日は深夜の出来事をすっかり忘れていると、彼らは大きなアップルパイを土産に昨晩の礼に来てくれたのです。そんな遅くに彼らは何をしてたのでしょうか。私は彼らの部屋番号を知りませんので、早く戻らないと。*南の風2536号(2010年11月12日)

■烟台の風118−外国人教師の紹介ですA (Wed, 03 Nov 2010 15:54)
 (前回に続く) 日本人、韓国人、マレーシア人は全員単身赴任で、アメリカ人は皆夫婦で滞在していて、夫婦で教師をしています。東洋人と西洋人の文化の違いなのですね。生後6ヶ月の赤ちゃんと2歳の女の子を連れてくるアメリカ人のヨリンダ夫妻は香港と台湾で英語の教師をしていたそうで、中国語が話せます。彼は2メートルぐらいの身長があり、とてもおしゃれです。他の先生方がGパンにTシャツでも彼だけはいつもネクタイに背広姿で中折れ帽をかぶっています。韓国語の教師は韓国人女性の金福順先生が一人です。彼女は毎回参加をしています。
 上品で知性に満ちた女性は、ベルギー人のファマー・ケイト先生で、アメリカの青年エリックと結婚してこの大学にやってきたそうです。私の教師宿舎の5階に住んでいるカリフォルニアからやって来た青年のエリザベス夫妻は、寒空なのにいつまでも短パンにTシャツ姿です。私が「若イナー」とからかうと、「カリフォルニア育ちだ」と威張ります。
 極寒の地、バイカル湖の畔からやって来たロシア人留学生たちがダウンジャケットの厚着をしているのに、温暖なカリフォルニア出身の青年が薄着姿という矛盾に寒がりの私は混乱しているのです。このカリフォルニア出身の夫妻には後日談がありますのでお楽しみに。
 外国人教師たちは、9月に大学のバスで留学生も一緒に「張裕ワイナリー」と「牟氏荘園」に日帰り旅行をしました。私は牟氏荘園を訪れるのは2度目(烟台の風73・74・76号)ですが、最初に訪れた時にお名前を書き落とした、当主の「牟衍慶」(mou yan qing)さんとも今回挨拶が出来て、とても賑やかで楽しい旅行となったのです。*南の風2533号(2010年11月7日)

■烟台の風117−外国人教師の紹介です@ (Wed, 03 Nov 2010 15:43)
 外国人教師をご紹介しましょう。新学期が始まった9月から今まで、5回外国人教師の昼食会が開かれました。毎回、月曜日の正午に開催されています。いつも国際交流センターの魏平(ウェイピン)先生がインターネットのメールで案内を届けてくれます。自由参加ですが、いつも参加者は固定されているようです。日本人教師は3人いるのですが、1人は一度も参加しません。私とキャンパスで会釈を交わす外国人教師も何人かいるのですが、彼らは一度も参加しません。今まで最大16名が参加いたしました。
 最初から最後まで全て英語で会話をします。中国語は誰も話さないのです。アメリカ人が多く皆夫婦で英語の教師をしています。映画「ベンハー」の主役チャールスヘストンに似ている初老の男性のキャメロン先生ご夫婦を除くと皆30代の若者です。変り種は、マレーシア人のタイ・ウェビー先生です。彼はこの大学で私が最初に言葉を交わした外国人でした。烟台生活は6年目だそうです。大きな声で流暢な英語を話します。ロンドンに留学していたとか、家族はロンドンとカナダとアメリカにいるそうで、本人は単身赴任で英語を教えているのです。
 もう一人はベトナム系アメリカ人のルアン・リー先生です。外見は完全なベトナムの小柄な女性ですが、アメリカ生まれのアメリカ育ちで、ご主人のジェフもアメリカの青年です。彼女はとても明るくおしゃべりですが、アメリカ人特有の大げさなゼスチャーを交えた会話には、何か異様な感じを私は受け、東洋人の派手なゼスチャーには偏見を持ってしまうのです。(次回に続く) *南の風2532号(2010年11月5日)

■烟台の風116−好奇心が言語能力を高めます(Sun, 31 Oct 2010 11:35)
 毎朝6時にベットを出ると、大きな号令とともに大勢の規則正しい靴音が響きます。私は1年生の軍事訓練がまだ続いているのかと思い、高学年の学生に聞いたところ、体育の授業だそうです。早朝の寒空の中、隊列を組んで走る何組もの若者の姿を部屋の窓越しに眺める私は、中国式集団教育の実際に少し恐ろしさを感じたのです。
 さて、先日この1年生の1組の学生から、クラス会を開くので出席して欲しいと私は依頼されました。私はまだ彼らを担当していないのですけれど。11月15日から1年生の3クラス担当する予定です。
 日曜日の夜7時に学校の日本語コーナーの会場に行くと、沢山の学生が集まっていました。開会前の時間に到着したところ、大勢の学生に私は取り囲まれてしまいました。どうやら教師は私だけの参加のようです。いろいろな学生がとっかえひっかえ私に質問を浴びせかけるのです。それもたどたどしい日本語でつっかえつっかえ、英語も交えて真剣にせまってきます。
 まだ日本語を学びはじめて1ヶ月程度なのに、どうしてこんなに話せるのかと疑問に思った私は、大学に入る前どこかで日本語を学んだのか、と中国語で質問してみました。しかし、全員が2週間の軍事訓練を終えた9月20日から学び始めたのだそうです。
 開会は、「幸せなら手をたたこう」を皆で大合唱してから、代表の挨拶、そして私の挨拶、続いて、ゲームや歌、などが繰り広げられました。ゲームが行われている時でも、ゲームに参加者しない者たちの中には私の傍にやってきて、話しかけてきます。なるほど、この積極性、好奇心が、言語上達の基本だと私は納得したのです。
 そういえば、大学の国際交流センターのロシア人留学生を訪ねてきた私の教え子の3年の女学生は、流暢な英語を話し、チョッピリ、ロシア語もできて、日本語は1級をめざしていますが、やはりとても積極的で好奇心の塊のような若者です。私が韓国人留学生と韓国語で話しをしていたら、彼女はいつの間にか私たちの話しに割り込んできて、その韓国人留学生とも友達になってしまいました。たぶん彼女は韓国語もマスターしてしまうでしょうね。*南の風2530号(2010年112日)

■烟台の風115−未来は若者たちのもの A (Tue, 26 Oct 2010 21:26)
 
(前回から続く) 司会者の進行により会長のご挨拶、我々来賓二人の紹介と続き、二人のスピーチが始まりました。最初は女性教師です。彼女は北京に1年間留学した経験があるそうで、流暢な中国語を話します。いよいよ私の番です。私の欠点は目つきがきついのと、早口ですから、笑顔でゆっくり話すことに心がけました。
 最初に、君たちはすごい。わずかな期間でこんなに上手に日本語が話せるようになるのだから、と褒め称えたあと「グローバリーゼーション」と「シンク・グローバリー、アクト・ローカリー」について話をして、「君たち若者が未来を創っていくのだ」と激励してスピーチを終えたのです。理解できたか分りませんが、万雷の拍手をいただき、教壇を下りたのです。
 2部のプログラムは、日本のアニメ「サマー・ウォーズ」の映写会です。私は始めて見ましたが、中国の学生の多くに何故日本語を学ぶのかを質問すると、「日本のアニメが好きだから」という答えが多くの学生から返ってきますので、私は興味津々でした。
 コンピュータ社会を風刺した映画で昨年数々の映画賞を獲得したアニメだったことが後で調べて分りました。長野県上田市の旧家で繰り広げられる人間模様と架空の世界とが入り混じり、なかなか良い作品でした。2時間があっという間に過ぎ、会場は笑いの渦に包まれていました。
 外の世界では、領土問題への反日運動、そして内の世界では日本のサブカルチャーへの憧れ、と何とも複雑な人たちですね。そして未来は彼らが創り出すのです。役員の一人の男子学生は、玄関で私が礼を言って別れようとすると、夜道が暗いので、宿舎まで送って行くと言って聞かないのです。熱いものが込上げてきました。良い週末でした。*南の風2529号(2010年10月31日)

■烟台の風114
未来は若者たちのもの @ (Tue, 26 Oct 2010 23:12)
 「伊藤先生、明日の土曜日の夜お時間がありますか?」、と2年生の授業の休み時間に男子学生から私は尋ねられました。「ラッキー」、飲み会の誘いかと早合点した私は「勿論」と答えたのです。
 すると、飲み会ではありませんでした。日本語学科の学生たちで組織した「山東工商学院桜花日本語協会」というクラブ活動で1年生の歓迎会を行うので、出席してスピーチをして欲しいと言うのです。私は当てがはずれましたが、毎週土曜日の夜7時から開催している日本語の自主サークルに興味があるので、喜んで快諾したのです。当日は何を話そうか、部員の日本語の聴力はどの程度か、と迷いながらもスピーチのテーマは、「未来は若者たちのもの」と題しました。
 階段式の大きな教室の会場に10分前に到着すると、なんと和服姿の女学生が笑顔で出迎えてくれたのです。会場は70人ぐらいの学生で満員です。最前列に私と、もう一人の日本人の女性の先生の席が用意されており、プラスチックケースの名札が置かれ、ミネラルウォーターのボトルが準備されていました。他の先生方は出席されないのかを役員に聞くと、3人いる日本人教師は1人は欠席、十数人の中国人教師は全員忙しいとのことで欠席されたそうです。土曜日は家族サービス優先ですね。私の受け持ちの女学生がサンザシのクッキーと乾し葡萄をおすそ分けしてくれました。(次回に続く) *南の風2528号(2010年10月29日)

■烟台の風113テレビの話題2題です (Sun, 24 Oct 2010 19:09)
 今日はテレビの話題をお届けしましょう。前の学校のマンションは、ケーブルテレビで92チャンネルの放送が視聴できたのですが、この大学の教員宿舎の私の部屋のテレビは3チャンネルしか映らないのです。ですが、相変らずどの局もゴールデンタイムには、戦争ドラマを放映しています。昨年は抗日戦争が圧倒的でしたが、今年は蒋介石の国民党との戦争ドラマが多いように思います。中国人同士なのに、拷問のシーンは残酷極まりなく目を背けたくなります。
 面白いのは、出演している軍服の似合う俳優を私は、「あれ、この俳優はどこかで見たぞ、そうだ張国強だ」、と気付く程、同じ俳優が他の戦争物のドラマに出ていることです。
 さて、一昨日(10月21日)からCCTV(中国中央電視台)で、「毛岸英」というドラマが始まりました。皆さまご存知のように、毛沢東の長男で毛沢東の最初の奥さんの楊開慧との間に生まれた子どもです。毛沢東が長征している時に母の楊開慧さんは国民党によって拷問で殺され、残された毛岸英と次男の毛岸青は上海で浮浪児になります。その後、見つけ出されモスクワに留学しますが、朝鮮戦争で戦死してしまいます。このドラマで毛沢東がどのように描かれるのか、毛沢東の第4夫人の江青女史は出てくるのでしょうか、私は楽しみにしています。
 もう一つCCTVの話題です。ニュース番組の後に「時の話題」を毎晩放映しています。夜7時から30分間のニュースの後、8時までの30分です。10月12日の話題は「社会建設」と題して、「社区服務站」について、北京の朝陽区を紹介していました。映像で区内各地の社区服務站を見ると玄関の看板の施設名には英語表記がなされていました。「コミュニーティ・サービスセンター」とか「コミュニーティ・サービスステーション」などと漢字表記の文字盤の下に併記されています。
 社区服務站の主要な事業は教育、医療、衛生、だと説明した上でお年寄りへのサービスとして、買い物、銀行、理髪、自転車修理、などを行っています。映像では、最初に中高年の男女が舞う社交ダンスが放映されていましたが、社区大学や社区学校といった成人教育事業は紹介されませんでした。番組の主題は高齢者の生活支援だったのです。
 私が暮らす、ここ烟台では社区の医療、衛生事業は目に付きますが、教育はほとんど目にすることはありません。これから先進都市の動向に刺激を受けて取り組まれるのでしょうね。社区教育先進都市上海の訪問が楽しみです。*南の風2527号(2010年10月27日)

■烟台の風112王維と重陽節に思う (Sat, 23 Oct 2010 08:51)
 昨年の農暦(陰暦・旧暦)の9月9日の重陽節は10月26日でしたが、私は、今年の重陽節については、すっかり忘れていました。数日前から「祝老年朋友節日快楽」のポスターが構内の掲示板に貼られてましたが、私は気にも留めていなかったのです。
 今年の重陽節は10月16日(土)でした。重陽節は菊花節、茱萸(しゅゆ)節とも言いますが、現在では、「老人節」(敬老の日)と言っているようです。
 テレビのニュースで、中国各地のお年寄りの行事の映像を見て、ようやくこの日が重陽節だったことを私は思い出したのでした。「尊老敬老」と書かれた紅い横断幕を見てようやく今日の日がどんな日なのかに気がついたのです。市井の民としての暮らしと、学校の構内での暮らしでは、やっぱり情報の受け止め方に私は差があるようです。
 確か昨年の烟台の風39号でも紹介させていただいたのですが、私は本棚から私の好きな唐の詩人の王維の詩を『唐詩鑑賞辞典』(昆明・雲南教育出版)から引き出して声を出して詠んだのです。原文と翻訳を再度紹介させていただきます。王維は15歳の時山東省から長安に旅立ち、17歳の時に故郷を想い、重陽節に詠んだ詩です。1300年前の17歳の青年の詩が65歳の老人の私の気持ちを表現してくれています。原文:「九月九日憶山東兄弟」:独在異郷為異客、毎逢佳節倍思親、遥知兄弟登高処、遍挿茱萸少一人。翻訳:「重陽節に山東の兄弟を憶う」:私は異郷の地で独り暮らしだ、祝日のたびに親のことを倍思う、遥か遠くの兄弟たちは高い山に登っているだろう、家族みんなは山椒の枝を挿しているが そこに私一人だけが欠けて少ないのだ。
 王維は玄宗皇帝の時代の官僚ですが、友人には日本人の阿倍仲麻呂や詩人の李白がいました。阿倍仲麻呂が官職を辞して帰国をする時、王維は「送秘書晁監還日本国」(秘書監の阿倍仲麻呂が日本に還るのを送る)という送別の詩を贈っています。音信も出来ないような大海の孤島に向かう友との別れを嘆いてる詩です。李白も仲麻呂が乗った船の難破の報を受けて、死を悼む詩を献じています。しかし仲麻呂はベトナムに漂着し、再度長安に戻り、二度と日本の土を踏むことは無かったのですね。王維の「送元二使安西」の詩を胸に日本を発った私ですが、王維の詩に里心が生まれてしまいました。
                                           *南の風2526号(2010年10月25日)

■烟台の風111出版記念会と平生学習フェスティバルC (Sat, 16 Oct 2010 08:01)
 (前回に続く) 韓国の平生学習フェスティバルは、政府によって指定を受けた全国の「平生学習都市」の紹介と平生学習団体やグループサークルの紹介とその活動成果の発表が行われ、そして「平生教育振興院」「平生教育学会」「平生教育総連合会」「平生教育実践協議会」「文解教育協会」など学術団体の研究集会が開かれるのが特徴となっています。一般市民向けには、生涯学習の理念の理解と普及のために、芸能人を特設舞台に登場させたりします。
 韓国は1987年、長く続いた軍事独裁の政権からの民主化を経て、91年に地方議会の選挙、95年に首長の選挙を実施して、ようやく地方自治が復活したのです。まだ20年の歳月しかたっていないのです。その為、地方自治体のまちづくりとその主体である市民の形成に向けて生涯学習政策を導入し、平生学習都市の指定やフェスティバルを実施しています。いわば中央政府主導の国家戦略のための生涯学習なのです。     
 しかし、歴史の浅い地方自治体では地域性や独自性を発揮するだけの経験が乏しいため、苦労をしているようです。9年目を迎えた今年の平生学習都市(現在76都市)のブースを覗いても、みな「手工芸品の手作り体験コーナー」を開設しており、どこかの物真似をしていて、政府が狙うまちづくりに向けた都市間競争は、平生学習都市の指定に焦点が当てられ、その内実が伴っていないのが現実のようです。
 しかし、今回大邱市に滞在中に、水原(スーウォン)市では、自治体の予算編成に市民が参加する条例制定の運動が生まれたとか、京畿道では「学生権利条例」が制定された、という大きなニュースが飛び込み、韓国の市民社会の創造に新たな動きが生まれているこを私は知らされたのでした。
 また、学会関係の役員を務める研究者の世代も着実に若返りが図られてきていることを知らされたのも今回の大邱集会だったのです。*南の風2524号(2010年10月20日)

■烟台の風
110−出版記念会と平生学習フェスティバルB (Fri, 15 Oct 2010 22:16)
 (前回に続く) 皆さんは小林文人先生が運営なさっているTOAFAEC ホームページの表紙の画像をご覧になりましたか。旧HPの最終画像は光明市で開催された第4回の平生学習フェスティバルの開会式の写真で、新しいHPの最新画像は今回の大邱市で開催された第9回平生学習フェスティバルの開会式の写真です。素晴らしい小林先生の作品です。
 韓国は平生学習政策を推進するために、2002年から「全国平生学習フェスティバル」を毎年各都市持ち回りで開催しています。今年の開催は大邱市を会場に第9回目を迎えています。
 川崎市と富川市は友好都市(姉妹都市)を締結しています。私の知人が富川市の市民運動のリーダーの一人で、隣接する光明市の平生学習院を当時受託運営していた聖公会大学の関係者でした。彼は第4回のフェスティバルを光明市で開催するので、国際シンポジウムに登壇するシンポジストとして日本の研究者を紹介して欲しいと、私に依頼をしたのでした。
 この時、韓国の社会教育法の制定に大きな貢献をなさり、「日韓社会教育セミナー」にも深く関わられてこられ、研究調査に何度も韓国に足を運んでいらっしゃる小林文人先生を除いては他にはいないと私は確信をしたのでした。小林先生は、私の依頼に対して「もっと若い人が良い」と丁寧にお断りになったのです。そこで私はなおも執拗に食い下がり「韓国の地方自治はまだ始まったばかりで、生涯教育はその要なので、日本の全国的情報をお持ちの小林先生に是非引き受けて欲しい」とお願いしました。それでも小林先生は年齢にこだわっていらっしゃいました。そこで私は「若い人では、まだ韓国では相手にされません。韓国は日本や中国よりも儒教社会ですから、ここは日本の大御所にお出ましを」と説得させていただいたのでした。
 小林先生のおかげで、国際シンポジウムは大成功だったのです。今回の出版記念会にも、この時に来てくださった人たちが参加なさっていました。これは今回雨の中での開会式に臨んだ時に私の脳裏をかすめた5年前の懐かしい思い出です。(次回に続く) *南の風2523号(2010年10月18日)

■烟台の風109−出版記念会と平生学習フェスティバルA (Thu, 14 Oct 2010 20:05)
 (前回の続き)出版記念会の会場の舞台にはお祝いに贈られた4基の大きなフラワースタンドが飾られ、色とりどりの生花が祝賀の華やいだ雰囲気を醸し出していました。
 祝辞をいただいた来賓は、金信一(元教育人的資源部長官・副首相)氏をはじめ各界のそうそうたる重鎮が続きました。(詳細は南の風2519、2520号に記述され、写真はTOAFAECホームページに掲載されています。)勿論日本側の出席者も司会を担当した人以外は全員が挨拶をなさったのです。
 出版記念会の圧巻は、出席者全員が手をつなぎ輪になって、「アッチミスル(朝の露)」の大合唱を行ったことです。歌が終ると金信一氏が「友よ」を歌おう、と提案され再度の大合唱となったことです。この光景には、舞台前に飾られていた「黄宗建」先生の遺影も笑顔を浮かべられて、「私が築いた日韓の友情の架け橋が強固なものになった」とおっしゃっていました。
 「アッチミスル」を最初に私が覚えたのは、1992年12月に開催された「第3回日韓社会教育セミナー」に小林文人先生にお誘いをいただいて参加した時です。奇しくも会場は今回訪れた大邱市だったのです。ちょうど18年ぶりの再訪となったわけです。出版記念会の来賓の顔ぶれの中には、この時のせミナーで最初にお目にかかった方々も何人か出席なさっていました。
 日本の社会教育・生涯学習を紹介したこの本を通じて、日本への理解が一層深まり、そして日本と韓国との友情と交流がさらに深まり、ひいては東アジアの発展に資することを心から祈りたいと思います。
                                (次回に続く)  *南の風2522号(2010年10月16日)
卓上に故黄宗建先生の遺影、前列右より5人目に金信一先生(元副総理、教育人的資源部長官)−20101007-


■烟台の風108出版記念会と平生学習フェスティバル@ (Thu, 14 Oct 2010 14:19)
 ここ烟台市の国際空港から韓国の仁川国際空港までは、飛行機で1時間の距離です。国内旅行のような近距離なのです。私は、国慶節の連休を利用して、韓国の大邱(テグ)市で開催された「第9回全国平生(生涯)学習フェスティバル」に参加しました。5年前に第4回が光明(クァンミョン)市で開催された折に訪れてから久し振りの参加となりました。今回の主目的は、私たちが作成した本が韓国で出版されたことを記念して、フェスティバルの前日(10月7日)に開かれる「出版記念会」に出席するためでした。
 この本は、小林文人・梁炳贊(公州大学)・伊藤長和が編者になり30名以上の執筆者・訳者によって書かれた日本の社会教育・生涯学習を総合的に紹介した本として韓国で初めて出版されたのです。2006年に日本で出版した『韓国の社会教育・生涯学習』のいわば姉妹編と言えます。
 『日本の社会教育・生涯学習〜草の根の住民自治と文化創造に向けて〜』と題したこの本は、総頁数450頁にも及ぶ豪華な本です。日本の市民社会と社会教育の実像が詳しく紹介されており、さらには今日の日本が抱える社会教育をめぐる諸問題も詳細に紹介されていて、日本研究には欠かせない本となっています。
 出版記念会はフェスティバルの会場に近い「GSプラザホテル」で開催されました。韓国を代表する生涯教育の関係者や文解教育の関係者が多数会場に駆けつけて下さり、9卓の丸テーブルは来賓の皆さまで溢れかえっていました。70名ぐらいの出席だったのでしょうか。(次回へ) *南の風2521号(2010年10月15日)

■烟台の風107下町の人情は生きている (Mon, 04 Oct 2010 15:52)
 先日久し振りに学校を出て、以前に暮らしていた街「福来里」を訪ねてみました。日曜日の街は相変らず、青空骨董市(ガラクタ市)が賑わっていました。変わった事といえば、出店が歩道の片側だけだったものが両側にまで広がり、出店が増えたことと、毎回二胡を弾いて笑顔を見せていたチロリアンハットのおじさんの顔が見えなかったことです。
 私のマンションの隣りに住んでいたおやじさんに偶然その歩道で会いました。「しばらく顔を見なかったが、今どこにいるのだ」と質問を受けました。彼は私が「ニーハオ!」と挨拶すると、必ず「ニーハオ、ニーハオ、ニーハオ」と3回早口で挨拶するので、私は彼を「3回おやじ」と呼んでいました。
 古本屋で東京日日新聞社刊行の「上海事変グラフ」を見つけましたが、折からの尖閣諸島問題の真っ只中だったため値段を聞くの止めました。
 自慢の鼻ひげをそった床屋のおばさんも元気な笑顔で迎えてくれました。薬屋とパン屋のおばさんもスーパーマーケットのレジのおばさんも心のこもった挨拶をしてくれました。レジのおばさんは当初はぶっきらぼうな大女でしたが、私が構わず挨拶をし続けると、彼女の方から毎回笑顔で言葉をかけてくれるようになったのです。
 行きつけの果物屋に立ち寄ると、ご夫婦が喜んで近づき私にいろいろ質問を浴びせます。私にはほとんど聞き取れませんが、「山東工商学院」にいると答えると、おやじさんは我がことのように喜んで、自分がつけ込んだ大切な人参酒をペットボトルに入れて私にくれたのです。おかみさんは、烟台名産の林檎を私に持たせてくれました。下町の人情は生きています。
 帰途に蘭州のイスラム食堂によると、誰も知った顔がいません。ここの麺も料理も私の口に合っていたので、毎週利用していたのです。白い回教徒の帽子をかぶった背の高い青年といつも片言の話をしたのですが、今はいないのです。店員に聞きましたが誰も分りません。大変流行っていた店なのに不思議です。店の者全員が入れ替わっていたのです。店員に質問していると、店内の客が私を取り囲み変な外国人がいると見物されました。諸行無常が世の常とは言え寂しいですね。
 わずか2ヶ月で知り合いが突然いなくなるのですから。5月にも私は「金秋餐館」というレストランで同じ経験(烟台の風88号)をしたのです。*南の風2518号(2010年10月7日)

■烟台の風106−生涯学習の生きた見本A (Fri, 01 Oct 2010 17:01) (前回のつづき)
 内山先生が知人の紹介で中国に招聘された時、どうするか悩まれて占い師の門を叩いたそうです。占い師は「前に進めば花が咲く」と回答したとか。その言葉で中国行きを決心なさったのだそうです。彼女は今その花を求めて活躍しています。
 内山先生の日本語は、美しい標準語ですが、私とお会いすると青森訛りの「〜なんだよー!」を連発なさり、心地よい響きとなって私を包みこみます。先生が感動なさると、「美味しいね!」「きれいだね!」「よかった!」、と率直な言葉が次から次へと飛び出します。この連休の4日間は、そんな喜びを表す先生の表現で満ち溢れていました。
 内山先生と学生と一緒に烟台の郊外の山麓に建立された古刹の禅寺「竹林寺」をハイキングしましたが、先生が山里の野菊に喜びの声をあげられていらっしゃったのが印象的でした。その翌日は国際博覧センターで開催されている「国際ワイン祭りと食品展」、そして地元文化団体が主催する「景徳鎮の陶磁器展」を見学しました。景徳鎮の焼き物にも先生は歓喜の声をあげていらっしゃったのです。大型スーパーの「ジャスコ」や烟台大学周辺の烟台市場などにもご一緒させていただき、連休の最終日は、烟台の地名の由来となった烟台山公園を訪れたのです。どこをご案内しても、先生は感嘆の声をあげられ「来て良かった」と、おっしゃって下さいます。
 こんな生き方をなさる日本の女性を私は誇りに思います。先生は先日ゴミを捨てた学生にゴミを拾うよう注意をなさったそうです。教えあい、学びあう、生涯学習を実践するスーパーレディーの出現に、そろそろ現役勇退を考えていた私は再考をせまられているのです。*南の風2517号(2010年10月4日)

■烟台の風105−生涯学習の生きた見本@ (Thu, 30 Sep 2010 13:40)
 私の「中秋節」の連休は、掃除と洗濯と教案づくりで終るはずでした。ところが、私と同じように9月から山東工商学院に赴任なさった日本語の先生が烟台は初めてだということで、私は学生とともに4日間をご一
緒させていただくことになったのです。
 彼女は生涯学習の生きた見本(失礼!)のような人です。私よりも7歳も年上で現在72歳でいらっしゃいます。60歳の定年を迎えるまで郷里の青森で中学校の国語の教師として働いていらっしゃいました。定年後はいろいろな学習サークルに籍を置かれて、登山や社交ダンスなどもなさったそうです。音楽ネットや八甲田山のガイドボランティアもなさったとか。
 紹介者のつてで、2年前に黒龍江省のハルピン市の大学で1年間、そして昨年は山東省の青島市で1年間日本語を教えられたそうです。現在は主に日本の古典文学を担当されて吉田兼好の「従然草」を教えていらしゃるそうです。こんなにもご高齢なのに、受け持ちの講義の合間に大学の国際交流センターで中国語を留学生にまじって学習なさっています。さらに「せっかく中国にいるのだから墨絵(国画)を習いたい」とおっしゃっているのですから私は全く頭がさがります。
 しかも青森にご主人を置いての単身赴任なんだそうです。お会いしてお話をしていても、少しも年齢を感じさせないほど情熱的で、好奇心溢れる上品な先生でいらっしゃいます。小さな体のどこに、こんなチャレンジ精神を生み出すエネルギーが蓄えられているのかと実に不思議に思われるのです。尖閣諸島問題では随分心を痛めていらっしゃいました。まるで「青春の詩(サミエル・ウルマン)」の主人公のような方ですね。先生のお名前は、内山啓子(仮名)さんです。(次回につづく)*南の風2516号(2010年10月2日)

■烟台の風104学生たちの出身地と将来の夢A (Sun, 26 Sep 2010 07:13) (前回のつづき)
 卒業後の将来の夢(希望)を自由記述方式で全員に書いてもらいました。その結果は、私の予想どおりでしたが、かなりしっかりと職業を決めている学生がたくさんいることに驚いています。先ず、「お金持ちになりたい」、「素敵な人とめぐりあい結婚して幸せになりたい」、「世界各国へ旅行をしたい」、といった情緒的な回答は30%でしたが、残りの70%は具体的な進路希望を持っています。
 日本語学科ですから当然といえば当然ですが、「日本語を生かす仕事をしたい」18%、「日本企業で働きたい」16%で両方合わせると34%となります。日本企業の優れた福利厚生制度や給与水準の高さが人気の的なのでしょうが、具体的には、翻訳者、通訳、ガイドや自動車会社などが書かれています。「教師」の希望者も多く18%です。内訳は大学の教師、日本語の教師、日本で中国語の教師を、と具体的な回答がなされています。「日本の大学や大学院に留学したい」は6%で、漠然と「日本に行きたい」と「日本でデザイナーや漫画の仕事がしたい」とを合わせて6%です。その動機は日本のアニメに憧れて日本語を専攻したのだそうです。
 その他の具体的な職業も6%ですが、中でも公務員の希望者が目立っています。日本の大学生の2・3年生はこうした具体的な進路希望を持って大学生活をおくっているのでしょうか。中国の全国各地域から夢と希望を抱いて学んでいるこの若者たちの将来の夢が実現することを祈らずにはおれません。そして、これからの日中の、東アジアの架け橋になって活躍して欲しいと私は心から願うのです。
*南の風2514号(2010年9月29日)


■烟台の風・103−学生たちの出身地と将来の夢@ (Sat, 25 Sep 2010 08:45)
 今年の「中秋の名月」は前日2日間の降雨の後でしたので諦めていたところ、22日の当日の午後、にわかに雲ひとつない晴天に烟台の天候は急変して、私は名月を鑑賞することが出来ました。天帝の粋なはからいに私は阿倍仲麻呂の心境に浸り、青島ビールで乾杯したのです。
 さて明日からの授業の再開に合わせて、私が担当する日本語学科の2年生と3年生の出身地と卒業後の希望を調査しましたので、ここでご紹介させていただきます。私は、2年生が3クラスで総勢で85人(女性71人、男性14人)と、3年生が4クラスで総勢で80人(女性61人、男性19人)を担当しています。双方とも圧倒的に女性が多いのです。現在、合計で165人の学生を月曜日から金曜日にかけて、週14コースの授業を私は行っています。
 1年生と4年生を除いた学生の出身地を見ますと、ほとんど中国の全土からやって来ていることが分りました。中国は台湾を除いて22省です。特別市が北京、上海、天津、重慶の4市で、少数民族の自治区が5区有ります。この大学に学生が来ていない地域は、省では海南島の海南省が1省だけです。特別市は北京と上海市の2市です。自治区は内蒙古、寧夏、西蔵(チベット)、新彊、広西、の中で内蒙古と新彊から学生が山東工商学院で学んでいます。勿論、山東省出身者は一番多くて44人(27%)ですが、東北3省の黒龍江、吉林、遼寧省からは20人(12%)が学んでいます。
 遠く、雲南、青海、新彊、四川省などから来た学生は、汽車で3日もかけて帰郷するそうです。内蒙古からも4人が在籍しています。仕送りをする親は大変ですね。省都の済南(チーナン)や有名な青島なら解らないこともないのですが、ここ烟台はそれほど有名な都市でもないのに、どうして全国から学生が集まってくるのでしょうか。まだ、国家による大学生の計画配分がなされているのでしょうか。(次回につづく)
*南の風2513号(2010年9月27日)

■烟台の風102−大型連休がはじまります(Wed, 22 Sep 2010 12:42)
 さあ、いよいよ大型連休がはじまります。9月22日(水)は中国の祝日「中秋節」です。この日は「月餅」を食べてお祝いをします。昔から、親しい人に月餅を贈る習慣があるのです。そのため、この日(十五夜の日)に他の日をつなげて連休として、帰郷する人々に配慮をしています。1ヶ月も前から各商店には中秋節の贈り物をうず高く積み上げ、この日の来るのを心待ちにしています。最近では、月餅だけでなく、紅い立派な箱に入れて何でもお土産にできるように取り扱っています。お酒類が幅を利かしているようです。大きな箱をいくつも提げて、郷里へのお土産を買い込んでいる人々がたくさんいます。
 山東工商学院でも、教師たち(外国人だけか?)に大きな箱入りの月餅が先週配られました。一人暮らしの私にこんな大きな箱に入った月餅をどうするのか、と思い部屋に戻って箱を開けると、なんと上げ底ならぬ二重底で、月餅入りの小箱を囲んで仕切った内枠がしっかり収まっていたのです。月餅の小箱が8個、私を見つめて「早く食べて欲しい」と催促していました。中国の贈り物は箱が大切だとは聞いていたのですが、このことだったのですね。大変美しい紅い化粧箱で、内側は金色ですぞ。金文字でチャイニーズ・ムーンケーキと英文も添えられていました。
 22日(水)から25日(土)まで4日間の連休なのですが、実は23日(木)の分は19日(日)に振り替え授業をしました。24日(金)の分は26日(日)に振り替え授業をすることになるのです。こんな情報も直前なるまで発表されません。参考までに10月1日(金)の「国慶節」の連休は、1日(金)から7日(木)までの7日間です。この期間は国中の交通機関が混みあうので、なかなかチケットは手に入り難いのです。私は後半に韓国に出かけます。*南の風2512号(2010年9月24日)

■烟台の風101−この国は若い国なんだ (Mon, 20 Sep 2010 19:30) (前回につづく)
 ここ烟台だけでなく、中国はどこへ行ってもメインストリートはそれはとても美しいのです。公園や空き地の植え込みや花壇、道路の植え込みや街路樹などの手入れは行き届いていて、思わず感嘆の声をあげたくなるほど美しいのです。
 ところが、一歩路地裏に足を伸ばして御覧なさい。悪臭とゴミと薄汚れた環境に裏と表の大変な格差に驚かされるのです。これは、旅行者にはわかりません。そこに暮らして足を運ばねば気がつかないのです。中国は「面子を重んじる国」で見栄の文化ですから、見えなければ関係ないのですね。
 さて、前回に記述いたしました訪問国の「盲目的礼賛者」か、「極端な自国愛国者」については、私の仲間にも両者がたくさんいます。外に出て自国の良い面、悪い面に気付くことは良いことなのですが、何かにつけ批判の目をぶつけて、外国嫌いになってしまう人は困りものですね。
 中国の例を紹介しますと、前述の裏と表の問題をはじめ、こんなことが指摘されています。中国人は並ばないで横入りをする。全く公衆道徳がなっていない。衛生観念が育っていない。全てが不衛生である。痰や唾を平気で路上に吐き出す。交通マナーがひどすぎる。買い物客を睨みつけ、品物やつり銭を投げつけるなどです。
 これらは日常茶飯事の出来事ですが、これを初めて経験して私が文章に書いたとしたら「中国嫌い」を煽る誤解を読者に与えてしまう恐れがありますね。ですからたとえ事実ではあっても文章は慎重に書く必要があったのです。ベテランの日本語の先生がおっしゃいました。「中国で暮らすには、腹を立てたら駄目ですよ!」と。その通りですね。もう少し包容力を持って、5千年の歴史を一先ず頭の隅に置いて、「この国は若い国なんだ、ようやく国際化の仲間入りをはじめたばかりなんだ」と、そう思うことに私はしています。
 すると、自然に優しい目に私は戻るのです。また、良いこともたくさん有ります。今日も混んだバスに乗ると若い男性が私に席を譲ってくれました。敬老の精神は今もこの国では生き続けているのです。こんな気持ちで私は何とか100号まで書き続けてきたのです。この間、読者の皆さんからもいろいろご質問などもいただきました。ありがとうございます。中国はもう直ぐ大型連休を迎えます。*南の風2511号(2011年9月22日)

■烟台の風100冷静な第三者の目をもって(Sun, 19 Sep 2010 18:45)
 100号を迎えました。これも「南の風」管理人の小林文人先生のおかげだと感謝いたしております。毎回長文になってしまい、申し訳ない気持ちで一杯です。中国見たまま、聞いたままを記述して、私を心配して下さる方や励まして下さる方々に、実際の生の情報をお届けしようと書きはじめたものです。
 もしも当初から学校の教師用宿舎で暮らしていたら、とても100号は迎えられなかったでしょうね。なぜなら、学校という閉ざされた特殊な環境からは、普通の市民生活はわからないからです。旅行者と同じで表面的なことしか見ることが出来ないのです。仕事に精通した日本商社マンなども、外国人専用住宅で暮らしていると、現地の人々とは隔絶した生活をおくるため意外とその国の一般の人々の暮らしぶりを知りません。その点では、私は幸せにも、旧市街地の中心部のマンションで一年間暮らして、市民生活に直に触れ、たくさんのことを見聞きする事が出来ました。良いことも悪いこともです。
 さて、外国に滞在すると二つの種類の人間にわかれます。一つは訪問国の「盲目的礼賛者」です。二つは「極端な自国愛国者」です。私はこの二者にはならないように、常に自分を戒めてきました。それは「冷静な第三者の目での批判的な分析による評価と意見に心掛ける」ことです。
 でも、感情に走りやすい激情型の私には、それはとても難しい注文でした。今、100号を読み返す時間はありませんが、その点が気がかりです。かつて盲目的礼賛者は「文化大革命」を褒めちぎりましたが、その本質を見抜くことはできませんでした。一方自分が育った環境とは異質の環境に置かれると、違いを理解せず、何もかもが嫌いになり、反動で自国の良さを痛感し、俄か愛国者に変貌する者も多くいるのです。そしてその国の批判を繰り返すことになります。(次回に続く) *南の風2510号(2010年9月21日)

■烟台の風99−新入生歓迎会はつづくA n(Tue, 14 Sep 2010 21:36)
 (前回のつづき) 新入生を歓迎する舞台は高らかなリズムとともに、七色の水玉の打上げ花火により開幕しました。男女二組の司会者が開会を宣言して、来賓を紹介します。今年の新入生は5140人です。彼らは7時の開幕の1時間も前から、クラス毎に隊列を組み床几を持って入場して待機しています。
 それを囲んで在校生たちが立ち見をしていますが、階段や花壇の縁に座り込んで鑑賞している者も多くいます(本当は、会場の広さから上級生は招待されてはいないのですが)。
 街角や公園でお年寄りたちが、日本の武将たちが座った床几を、おもいおもい手に持ち寄って集い、麻雀や将棋、トランプなどに興じている姿をいつも見ていた私は、床机がこのような使われ方を学生たちにされているとは、この日まで知らなかったのです。5千人が床几を手にしているんですぞ!。
 舞台はまさに青春謳歌、青春一色で、若き青年男女の歌、男性グループの歌いながらのダンス、舞踊、合唱、伝統楽器の演奏、総勢20人を超える集団創作ダンス、吊り人形振りダンス、コミカルなダンスと盛りだくさんです。出演者は皆お揃いのとても美しい衣装を誇らしげに着飾っています。ステップやダンスは新体操の選手のように体も手足も宙を舞います。その表現も豊かで、熱唱と熱演はプロも顔負けのステージで、大観衆は事前に配られたカラフルなライトペンを振って大声援を送り拍手喝采です。時々舞台正面から花火が吹き上がり、舞台背景の上からは水玉の打上げ花火が上がり、会場は興奮のるつぼと化します。サーチライトやスポットライトはさらに音響効果を高め、私の隣の男子学生は体を振動させて出演者と一緒に歌い出していました。
 最初から最後まで、激しいロック調のリズムと動き、そして電子音の大音響が私の世代にはギャップがありますが、それでも十分に私を楽しませてくれました。土日も無く、早朝から一日中構内を集団で大声を出して駆け巡り、一糸乱れぬ行進訓練をしている新入生の軍事訓練の没個性と、独創性に満ちた個性溢れる中国の若者のパフォーマンスとの格差に私は目まいを覚えたのでした。*南の風2508号(2010年9月17日)

■烟台の風98−新入生歓迎会はつづく@ (Tue, 14 Sep 2010 00:37)
 電子音がキャンパスに鳴り響いています。轟音の響きが足を誘います。そうです、これは日曜日の昨晩開催された共青団・山東工商学院委員会催の「新入生歓迎会」の野外ステージの出来事です。
 この大学の各学院での学生会主催による新入生歓迎会は、それぞれで行われていたようです。先日私が授業を終えて教室を退室しようとすると、二人の女子学生に引き止められました。質問でもあるのかと振り向くと、彼女たちは私に中国語で書かれた紙片を手渡しました。そこには、外国語学院の新入生歓迎会の進行次第と司会者の台詞が書かれていたのです。彼女たち二人は日語系代表でその夜開かれる歓迎会の司会者だそうです。そこで立ったまま私は日本語訳を付けて大きな声で、ゆっくり、はっきり、読み上げてあげたのです。「・・・・・それでは、最初に外国語学院の院長の高兆金先生から歓迎のご挨拶をいただきます。・・・次に、新入生を代表して・・・」とです。蛇足ですが、この「大きな声で、ゆっくり、はっきり」は、いつも私が黒板に書いて言い続けている会話力向上の基本的な考え方のひとつです。中国の学生は、この小さな「っ」の促音の発音が苦手なんですね。
 さて、二人の司会進行はうまくいったのでしょうか? 我不知道(私は知りません)。冒頭の巨大な野外ステージは、大理石で敷き詰められた構内の芸術センター前広場に設けらた特設舞台です。主催は先に紹介した学内党の組織です。出演は山東工商学大学生芸術団の学生で、協力団体は私が日頃愛飲している「蒙牛」という内蒙古の牛乳会社と、他2社です。大がかりな舞台はプロの芸能人が使う舞台で、背景には4枚の巨大な長方形の電子映像のパネルが掲げられ、鮮やかな美しい色の抽象模様を音響に合わせて投影しています。たくさんのストロボライトが点滅し、カラフルなライトが舞台を彩っています。
 さあー、舞台は開幕です。(次回につづく) *南の風2507号(2010年9月15日)

■烟台の風97−教師節の贈り物 (Sat, 11 Sep 2010 08:19)
 9月10日は中国の「教師節」です。数日前から新聞紙上で賛否両論の記事が掲載されていました。私は金曜日は1・2限(7:50〜9:30)の1クラスだけの授業です。
 チャイムとともに教室に入ると、30人の学生が一斉に立ち上がり「先生、教師節おめでとうございます。」と挨拶してくれました。教卓には、「好老師証」と印刷された手帳がハートのマークの置物にはさまれ、置いてありました。そばには京劇の面を吊るした紅い紐が垂れ下がっている壁掛けが。こんなささやかなプレゼントも外国人教師にとっては、その優しい心遣いに喜びを覚えるものです。
 授業は1コマ45分で、途中10分休憩して残り45分を1コマ行います。8時35分の休憩に入った時でした。私の携帯電話が突然鳴り響きました。他のクラスの学生からで、今教室の外に居るとのことです。出てみると大きな花束を抱えた男女3人の学生がそこに立っていたのです。「先生いつもありがとうございます。これは私たちのクラスの伊藤先生への感謝の気持ちです。」と花束をいただいたのです。花は私の好きなオレンジ色のガーベラでした。
 花束にはカードが添えられ、そこには「敬愛的老師・節日快楽」書かれています。今日は昨日からの豪雨で、傘をさしてこの大きな花束を持って、広い構内を歩いてきたのかと思うと胸が熱くなりました。
 授業を終えて構内を歩く私は、恥ずかしさと誇らしさとで、大きな花束を抱え足早に帰室したのです。構内には、花束を持った教師なぞ誰も居ないのです。部屋に戻ると、昔いただいた花瓶を取り出しフラワーアレンジメントを行い、写真を撮りました。
 今年で26回を数える「教師節」ですが、いき過ぎたプレゼントは問題にしても、学生が小遣いを出し合い感謝の気持ちを教師に表す行為は、私は儒教の精神文化がまだ生き続けているのだなあと思うのです。*南の風2505号(2010年9月12日)

■烟台の風96−大学を紹介します(A新入生歓迎) (Wed, 08 Sep 2010 20:43)
 (前号につづく) 皆さんは、次の標語が読めますか。これは、新入生を迎える大学のキャンパスに掲げられた、横断幕のほんの一部です。「山東工商学院歓迎新同学」、「祝新同学:生活愉快、学習進歩!」、「辛苦父母送兒千里異地求学 望子成龍有為兒女 読書万巻奮発成才寸草春暉」、「今朝山商学子 明日祖国棟梁」、「願知識泉、経書籍而奔流、流進?的心田!」。これは歩道の街路樹の木と木を結んで横に張られていて、沢山の標語が大きな紅い布に白抜きの文字で書かれています。校舎の建物に紅い懸垂幕が吊るされています。 
 私の授業は8月30日が初日でしたが、新入生の入学式は9月6日(月)でした。そのため4日(土)、5日(日)は、全国各地から大きな荷物を両親と一緒に持って学校にやってくる新入生で、校内はそれは賑やかでした。学生は全寮制です。そのため、寮生活に必要な生活必需品をはじめ、携帯電話、旅行、書籍、衣料品、履物、などありとあらゆる品物を売るカラフルなテント張りの出店が構内の歩道に競い合いひしめきあって、新入生たちに声を投げかけていました。開店祝いや結婚祝いなど、祝い事に付きものの、中に空気を入れた巨大な半円形の紅いチューブ状のアーチが校門近くの道路にいくつも掲げられて新入生を歓迎しています。
 1週間前に教師用宿舎に入室した私は、日常生活用品を買い求めて、市内を駆け巡ったのに、この日まで待てば何でもここで手に入ったのです。日本の大学では、サークルの部員募集が活発ですが、この学校では、勧誘活動はありませんでした。
 各学院(学部)もそれぞれテントを張り、先輩たち上級生が案内をしていました。私も物珍しげに各テントを覗いたり、懸垂幕や横断幕の文字を読んだりしていたら、「外国語学院」のテント前の女学生に声をかけられ呼び止められたのです。私の担当するクラスの女学生4人が朝5時から準備して、お手伝いをしているのだそうです。
 今日も新入生の軍事訓練の掛け声が響き渡っています。ここ中国では、新入生は軍事訓練を受けます。9月17日までの2週間毎日迷彩服を着た集団が構内を駈けずりまわっているのです。もちろん女学生も一緒です。クラスの学生に聞いたら、中学、高校でも行ったそうです。*南の風2503号(2010年9月10日)

■烟台の風95−大学を紹介します@ (Tue, 07 Sep 2010 13:46)
 今年8月30日より私がお世話になっている、「山東工商学院」の紹介をさせていただきます。学院という名称から単科大学を思い浮かべられる方がいらっしゃると思いますが、3万人の学生が在籍する4年制の総合大学です。創立25年という歴史の浅い国立大学です。
 私は、外国語学院の日語系外国籍教師です。この場合の「学院」は日本の大学の学部で系は学科に相当します。
 山東工商学院の学院(学部)は、@工商管理学院、A管理科学・工程学院、B会計学院、C経済学院、D政法学院、E信息・電子工程学院、F数学・信息科学学院、G統計学院、H外国語学院、I中加高等応用技術学院、J国際商学院、K公共管理学院、L計算機科学・技術学院、M体育部の14組織があります。
 外国語学院には、ア.英語学科、イ.日本語学科、ウ.朝鮮語学科、エ.商業英語学科が設置されています。外郭機関としては、国際交流学院が設置されており、中国語の講座を留学生や私たち外国籍教師に提供しています。外国籍教師は受講料無料です。
 大学のキャンパスは広大で、後ろに山を背負い、前に海岸を望む自然に恵まれた環境です。構内はプラタナスやヒマラヤ杉の大木の並木道が緑陰のトンネルをつくっています。そこかしこに池が配置されていて、水辺のベンチで恋人同士が肩を寄せ合っています。花壇の草花と同時に、空き地には野花が咲き誇り、野鳥の合唱が響き渡っています。学生は中国全国各地からやってきています。私の担当するクラスには、遠く青海省や雲南省から来た学生もいます。留学生はロシア人、韓国人が多く、日本人はいません。日本語担当の日本人教師は3人で、中国人教師は8人です。(次回に続く)*南の風2502号(2010年9月9日)

■烟台の風94号−新学期が始まりました (Wed, 1 Sep 2010 23:12)
 夏休みを利用しての日本一時帰国は、あっという間に過ぎ去り、再度私は中国は山東省の烟台に舞い戻りました。今回新しく赴任した大学は8月30日(月)から新学期が始まるので、23日に成田から大連まで飛行機を使い、25日にフェリーで大連から烟台に戻ったのです。大連で2泊して、大連市内の観光と旅順の観光をしました。大連はロシア人の造った街を日露戦争後に日本人が整備した街で、現在でも当時のままの建物が数多く保存されていて、そのまま利用されています。「満州鉄道」のビルも残されていて再利用されていました。
 私の宿泊したホテルは「大連賓館」といいますが、旧「大和旅館」の建物で、日中の政府首脳が会談をもった部屋なども残されています。満州皇帝溥儀の利用した部屋などもそのまま保存されていました。実は大連と旅順は、國學院大学時代の私の教え子の後藤仁さんが案内してくれました。彼が大連近くの錦州「渤海大学」で日本語教師をしている縁でお誘いを受けたのです。旅順は昨年6に外国人にも開放された軍港の街です。「旅順開城約なりて、敵の将軍ステッセル、乃木大将との会見は、所は何処水師営」という軍歌でお馴染みの「水師営」と無能な乃木将軍に強いられた肉弾戦により多大な犠牲を生んだ日露戦争の激戦地「203高地」を訪れました。「203高地」からは一望の下に旅順港が眼下に開がって見えます。
 この観光のハイライトは、「旅順監獄」の見学でした。ハルピン駅頭で伊藤博文を暗殺した「安重根」が収監されて死刑の執行を受けた刑務所です。安重根が絞首刑に処せられた絞首部屋もそのまま保存されています。韓国ソウルの南山に設立された「安重根義士記念館」を訪れたことのある私は、しばらくはとても言葉には言い表せない感情に包まれて、そこにたたずんだのです。
 さて、私は23日から愛用のPCを持参してきましたが、29日の夜までインターネットに接続できず、日本の情報は何も持っていませんが、日本はまだ暑いようですね。こちら烟台は夏の暑さは峠を越えて最高気温も23度で、朝晩は肌寒い気候です。
 私が今日就任した烟台の大学は、国立の「山東工商学院外国語学院」です。後ろに山を背負い海岸沿いに建てられたそれは美しい環境の学校です。今日から新学期が始まりました。初日の今朝は、日本から持参したインスタント味噌汁で私は一人で乾杯をして授業にのぞみました。
 「頑張るぞ!」と心で叫んで。「野の花も 心躍るか 初講義」    *南の風2498号(2010年9月3日)


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